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​【サンプル】セイレーンの唄

2019年8月9日 Comic Market 96で頒布予定のサンプルです。

A5・ページ・表紙フルカラー/本文モノクロ、予価500円

メガミドハピエン後、同棲後のお話です。ホラーテイストです。

【あらすじ】

「呪いのCD?」
 AA社を起業し、忙しく働く克哉の元に相談事を持ち掛けてきた太一。聞いた人間に次々と死をもたらすというCDの謎を解いてくれ、と頼まれる。
 半信半疑だったが、そのCDの曲の冒頭を流した途端、遠ざけ封印していた忌むべき記憶を生々しく幻視する。このCDには何かある、そう確信し、太一の頼みを引き受けた克哉だが、そのCDを御堂が聞いてしまった。”呪い”がかかってしまった御堂。着々と死が迫る。呪いを解くべく奔走する克哉だが……。

 その瞬間、視界が桜色に塗りつぶされた。
 淡い紅を乗せた無数の花びらが視界一面を埋め尽くす。圧倒的な光景に克哉は息を呑んだ。
 否応なく意識が幼いあの日へと引き戻されていく。
―― どうして?
 幼い自分の声が頭の中に響いた。目の前には親友だと思っていた彼が、嫌な笑みを浮かべている。残酷な現実が受け入れられず、思考は散らばったままだ。
 どうして。
 どうして、俺にこんな酷いことをするのか。
 そう聞きたいのに、声が出せなかった。聞けばきっと理由を教えてくれるだろう。手加減などない残酷な言葉でもって。だから聞くことは出来なかった。
 蔑む眼差しとナイフのような言葉に、幼く脆い心を容赦なく抉られて、苦しくて辛くてどうすればいいのか分からない。
 この世界も、こんな自分も、どうしようもなく嫌いだ。消せるものなら世界を消してしまいたい。
 ぎゅっと目を瞑った。
 世界が暗転する。
 桜の花びらも、自分を嘲笑する声も、何もかもが急激に遠のいていった。
 そして静寂。
 恐る恐る目を開いた。そして、目にした光景に再び息を呑んだ。桜の光景はどこかに消え去り、薄暗い部屋の中に克哉は呆然と立ち尽くしていた。
―― どうして?
 自問自答する。
 どうして、俺はこんな酷いことをしたのか。
 目の前では裸同然の男が繋がれている。怯える男は克哉を見ると恐怖に身を強張らせた。わななく唇からは「たすけて」と、かさついた声が漏れた。
 愕然とした。
 俺がやったんだ。
 俺がこの男を壊したんだ。
 自らが犯した行為の凄惨な結果が、情け容赦なく克哉に突きつけられる。
 自分はこんな結末を望んでいたのか?
「御堂……」
 男の名前を呼んで、よろめきながら一歩近づいた。途端に、その男、御堂孝典は「ヒッ」と身体を竦めてぶるぶると震えだす。
 そこに、求めていたものはなかった。自分が粉々に壊した。砕け散ってしまったものを前に、克哉の心は絶望に暗く染まっていく。

 


 手にしていたグラスの中の氷がカランと涼し気な音を立てた。ハッと佐伯克哉は我に返った。
 夏の日の喫茶店。窓の外では真夏の濃密な光が溢れ、鮮烈な陽射しがアスファルトをじりじりと焼いている。喫茶店の前の道を行き交う車や人のざわめきが克哉を現実世界に引き戻した。
 テーブルを挟んで正面に座る若い男が心配そうに克哉の顔を覗き込んできた。
「克哉さん、大丈夫?」
 冷房がしっかりと効いた室内であるにもかかわらず、克哉は全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。
 開ききった瞳孔はまだ焦点を結べない。「大丈夫だ」と条件反射で答えようとしたが、喉が干上がって上手く声が出ない。手に持っていたグラスの水を飲もうとしても、手は細かく痙攣したままだ。グラスの中の氷が揺れて、ふたたびカランと音を立てた。
「克哉さんは『これ』がダメな人なんだね」
 目の前の若い男、五十嵐太一は克哉の震える手からグラスを奪うと、テーブルに置き直した。グラスの表面に浮いた雫が、光る線を引いて伝い落ちた。それが、頬を伝う涙のように見える。それが、先ほど視た幻影の御堂の涙に重なった。
 どうにか声を絞り出した。
「一体何なんだ、これは……」
「これでオレの話信じる気になった?」
 喫茶店のスピーカーは太一が操作したらしく、最早何の音も聞こえない。太一が克哉の異変に気付き、すぐさま停止ボタンを押したのだ。
 少しずつ動悸と震えが治まってくる。自分を落ち着けようとグラスを掴むと水をひと息に飲み干した。キンキンに冷えた液体が乾ききった喉に沁みた。みぞおちがひんやりと冷たくなる。
 喫茶店の外でセミがけたたましく鳴き始めた。

 

 ことの発端は太一から受けた相談だった。
「呪いのCD?」
 太一が口にした言葉に、克哉は微かに顔をしかめた。
 栗色の髪をしたその青年は中途半端に伸びた髪を後ろで束ねている。太一は克哉が以前住んでいたアパート近くの喫茶店『ロイド』のウエイターだ。Tシャツに濃いめのジーンズ、そしてウエイターであることを示すエプロンを付けていて、その軽い見た目どおり、大学生だ。束ねた髪が仔犬の尻尾みたいだな、と見るたびに思う。実際、仔犬のように人懐っこい性格で、初めてこの喫茶店を利用したときも、無防備とも思える気安さで克哉に話しかけてきた。馴れ馴れしいのは好きではない。だが、ロイドのモーニングセットが美味しかったこともあり、そのまま馴染み客になってしまった。あれからもう二年以上経つが、太一はずっとこの店のウエイターを続けているし、この店の味も雰囲気も変わっていない。いつ来ても、落ち着いた雰囲気が漂っていて居心地がいい。
 そんな太一に「克哉さんに相談したいことがある」と連絡を受けたのは、つい数日前のことだった。克哉は今では小さいながらもコンサルティング会社『アクワイヤ・アソシエーション』の社長で、朝から晩まで分刻みのスケジュールが詰まっていたが、顔馴染みの太一の頼みを無下に断るのも気が引けた。だから、スケジュールをどうにか調整し、外回りの合間にロイドを訪ねたのだ。
 他に客がいない時間帯だったのもあり、太一は『営業中』の札をくるっとひっくり返して『準備中』にして店を閉めると、克哉を窓際の席に案内した。「いいのか?」と聞くと「オーナーがいないから大丈夫だって!」と明るい返事が返ってきた。バイトの身分で勝手に店を閉めるのはどうかと思うが、オーナーが趣味でやっている店だといつだったか聞いたことがある。太一以外のバイトも見かけないし、流行っているところも見たことがない。儲けを考えない、気ままな営業をしているのだろう。
 店内には香ばしいコーヒーの香りが立ち込めている。太一は水が入ったグラスと、濃い目に入れたアイスコーヒーを克哉の前に置くと、そのまま正面に腰をかけた。そうして、口を開いた。
「うん、仲間内ではそう呼ばれている」
「それは物騒なCDだな」
「実際、そのCDを聞いた奴が死んでるんだ」
「ふうん」
「克哉さん、信じてないでしょう」
 返事代わりに肩を竦めた。
「いきなりそんな話を信じろと言われてもな。そもそも、それがお前の相談事なのか?」
「うん、そうだよ」
「……オカルトは専門外だ。俺の会社は経営コンサルティングだぞ?」
 呪いのCDだか呪いのビデオだか知らないが、その手の都市伝説はどこにでも転がっている。ほんの少しの間だけ話題になって、そしてあぶくのように跡形もなく消え去る、そんな無責任な噂話だ。関わるだけ時間の無駄だ。来て損した。
 だが、太一はそんな克哉の反応まで見越していたのか、間髪入れずに大仰な仕草で、頭をテーブルに着くほど深く下げて両手を合わせた。
「克哉さん、そこをなんとか、お願い! その曲を今度のライブで演奏したいんだ」
「ライブで演奏?」
「ああ。そのCDに収録されている曲は、オレの友達が作詞作曲した曲なんだ」
 話が具体味を帯びたことに克哉は少し興味を持った。浮かせかけた腰を下ろす。
「そのCDをお前は聞いたのか?」
「聞いた」
「だが、生きている」
「オレはね。だけど、このCDを聞いたと思われる奴が三人死んでいる」
「三人も?」
 それが本当だとしたら、随分と物騒な話だ。
「それだったらそのCDを作った友人を問いただせばいいだろう。俺なんかに頼らずに」
「それは出来ない」
「出来ない?」
「そいつ、死んだんだ。……自殺で」
「……」
 グラスを傾けていた手が止まった。太一が言葉を続ける。
「一年とちょっと前に。彼女、大学の後輩で、同じ軽音部の仲間だったんだ」
「女なのか」
「ああ。かわいい子だったよ」
 津原由紀、という名前だそうだ。太一はアマチュアながらバンド活動を熱心にしていて、大学の軽音部にも所属していた。部活を通じて太一は彼女と知り合ったという。
 無人の喫茶店であるにもかかわらず、太一は周囲をはばかるように声を潜めた。
「どうやら、学部のクラスメイトの男たちに乱暴されたらしくて、それを苦にして自殺したらしい」
 あくまでも噂なんだけど、と前置きして語られた話では、クラスの懇親会で泥酔した津原由紀はクラスメイトの男のマンションに連れ込まれ、そのまま三人の男たちに乱暴されたという。由紀はそのまま大学を休学した。
 いろいろな理由が積み重なって、その事実は表沙汰にされなかった。本当にレイプ事件があったのかどうかも定かではなかったし、由紀が男たちに抱えられ連れていかれる場面を多くの人間が目撃したものの、関わり合いを嫌がって誰もが口を閉ざした。そして、少しして、由紀は首を吊って自殺したという。遺書はなかったそうで真相は分からずじまいだが、誰もがあの事件が原因だと信じて疑わなかった。しかし、由紀をレイプしたというクラスメイトたちはそのまま在学し続け、津原由紀の存在が消えただけで大学にはいつも通りの日常が戻ってきた。
 そうした中、由紀の一周忌を迎えた。それと前後して、三人の死人が出たというのだ。
「その三人はもしかして、その彼女をレイプした奴らか?」
「どうやらそうみたい」
「死因は?」
「自殺か、事故かはっきりしない。でも、事件性はないと警察は判断している」
 一人は、見通しのいい道路で車でガードレールに突っ込んで死んだ。一人は、大学の研究室で夜通し実験をしていて、朝、実験台に突っ伏した状態で冷たくなっているところを発見された。最後の一人は、マンションの非常階段の下で血を流して倒れていた。いずれも遺書はなかったが、事件性も見当たらず、呼ばれた警察は一通り調べると早々に引き揚げたらしい。
「それとそのCDがどう関係しているんだ?」
「どうやら、三人とも死ぬ前にそのCDを聞いていたみたいなんだ」
 実験室で死んだ一人は私物を研究室に残したままだった。太一はその研究室の教授と顔見知りだったこともあり、私物の整理を頼まれた。遺族へ送るためだ。そこで、一枚のCDを彼のデスクの引き出しから見つけたという。
 市場に出回るものではない、個人製作のCDだとはひと目でわかった。そして、そこに津原由紀の名前を見つけて驚いた。
 CDにプリントされたタイトルは太一も聞き覚えのある曲だった。『Ordinary Days』というその曲は、アコースティックギターの弾き語りで、生前の彼女が最後に作詞作曲した曲だった。
 太一はそのCDを見つけても最初は何とも思わなかった。ただ、あんなことがあったのに、自分が原因で自殺したかもしれない由紀のCDを持っていることを訝しく思っただけだった。太一はそのCDをこっそりともらった。このまま彼の実家に送ってもアマチュアの作ったCDだ。捨てられるだけだろう。それなら、由紀と交遊があった自分が持っていた方がいいと思ったのだ。
 しかし、運命の糸は二枚目のCDを太一にもたらした。太一の大学の軽音部の仲間から同じCDを渡されたのだ。どうやら、交通事故で死んだ男の遺族が処分に困ってクラスメイトに渡し、そのクラスメイトも取扱いに困って彼女が軽音部に所属していたことを思い出し、軽音部まで持ってきたらしい。
「三人目は?」
「三人目のCDは見つかっていない。もしかしたら、もう捨てられちゃったかもしれない。だけど、彼が死ぬ前に『CDが送られてきた』と言ってたのを聞いた奴がいる」
「そのCDが例のCDだと?」
「たぶんね」
 太一の言葉に引っかかりを感じた。
「送られてきた、と言ったな。このCDは誰かがその三人に送ったのか? 他に受け取ったやつはいるのか?」
「その三人以外に受け取ったやつの話は聞いてない。それに、送られてきたといっても、封筒とかは見つからなくて誰が送ってきたかも分からない」
「彼女が死んで、彼女が最後に作った曲が呪われたってわけか?」
「そして、その曲を聞いた奴らを死に追い込んだってわけ」
「……セイレーンみたいだな」
「セイレーン?」
「ギリシャ神話に出てくる魔物だ」
 セイレーンは上半身が美しい女性の姿で下半身が鳥の海の魔物と言われる。美しい歌声で船乗りを惑わし、海へ引きずり込んだという。
 死を招く曲、呪われたCD。
 それだけ聞くと、いかにも都市伝説的な胡散臭い話だ。この話を友人の友人が、という人伝えのレベルで聞いたなら馬鹿馬鹿しい、と歯牙にもかけなかっただろう。だが、実際に太一の周りで死人が出て、さらに太一はその問題のCDを持っているという。俄然興味が湧いてきた。
 克哉の態度の変化を敏感に察知した太一がテーブルの上に身を乗り出した。
「で、彼女の追悼に今度のライブでその曲を演奏したいんだけど、万一その曲で死人が出たらヤバいからってメンバーが首を縦に振らないんだ」
「呪いねえ」
 太一が学業の傍らに行っているバンド活動、誘われてライブに顔を出したことがあるが、ギターの腕前は玄人はだしだ。どうやら本気でメジャーデビューを目指しているらしい。
「復讐は果たされたんだし、もう呪いは解けたんじゃないか?」
「それだといいんだけど……。なんというか、本当にこの曲には何かありそうなんだ」
 太一は歯切れが悪く答えた。まだ何か隠していることがあるらしい。
「それで、実際どんな曲なんだ?」
「それなら聞いてみた方が早いって、克哉さん」
 そう言って太一は携帯用の小型スピーカーを取り出して、喫茶店のテーブルに置いた。こんなところで、と面食らったが、今、ここには太一と克哉の二人きり。そしてまた用意周到に扉には『準備中』の札がかけられている。
 太一の言葉を頭から信じているわけではないし、現に例のモノを聞いた本人が目の前でぴんぴんしている。それでも、世の中には理屈では説明のつかないモノが存在しているということは克哉が誰よりもよく知っている。だから、いわくつきの曲を聴くのはほんの少しためらった。
「本気か?」
「もちろん。CDから曲を抜いてきた」
「俺は音楽の専門家ではないし、オカルトの専門家でもないぞ」
「それはさっき聞いた」
 にやりと笑う太一は無邪気に悪戯を愉しむかのように、克哉の渋い表情を見守っている。このまま太一のペースに乗るのは癪にさわったが、その曲への興味も捨てきれなかった。
「いいだろう。再生してみろ」
「オッケー!」
 太一はスピーカーに自分のスマホを接続するとスマホを操作して再生しだした。
 流れてきたのは太一が言った通りのギターの弾き語りだった。情緒豊かでゆったりとしたバラードだ。ちゃんとしたレコーディングルームで収録された曲のようで、余計な雑音は入っていない。
 慎重に耳を澄ました。てっきり、陰鬱な曲かと思いきや違った。由紀の歌声はみずみずしくのびやかな曲調で、粗削りだが聞いていて心地よい。曲のタイトル『Ordinary Days』は、訳すと『ありふれた日々』だろうか。彼女の柔らかな声が歌う。歌詞の内容はまとめればこうだ。
……何気なく過ごしていた毎日が、あなたと過ごすことで特別な日々になった。それが当たり前となった今、あなたがいなくなったとしたら、以前の通りに戻っても、もうそれはありふれた日々にはならないのでしょうね。
 そんな恋の楽しさや、それを失う切なさを情緒豊かに歌っている。曲を最後まで流して、太一は停止ボタンを押した。身構えて聞いたが、とても呪いがかかっている曲には思えない。拍子抜けした。
「普通の曲だな。それに、悪くない」
「オレもそう思う」
「呪いがかかっているとは思えないな」
 克哉の言葉に太一は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「確かに、この曲自体はオレや仲間は何度も聞いてたんだ。それも生演奏でね。生前の彼女がよく部内で演奏していたから。で、この曲はCDからリッピングしているんだけど、問題はこっちのCDの方にあるのかも」
 リッピングとはCDに記録されたデータをパソコンに取り込むことだ。そうすることで、音楽ファイルを圧縮して携帯用のプレーヤーに転送することができる。
 太一は持ってきた鞄の中からCDケースを取り出した。ケースを開いて中に収められているCDを克哉に見せた。CDの表面は『津原由紀』の名前と『Ordinary Days』の曲名がプリントされている。
「これは……」
「そう。死んだ男のCD。どうやら、ヤバイのはこっち」
「ヤバイ?」
「オレ的にはさっき流した曲とまったく同じに聞こえるんだけど、人によっては嫌な気分になるっぽい」
「嫌な気分、ねえ」
 この時はまだ太一の話を頭から信じてはいなかった。
 だが、太一が口にした『嫌な気分』というのは、控えめすぎるほどの婉曲表現だったことに、この後、気付かされることになる。
「じゃあ、こっちも再生してみる?」
「ああ」
「本当にいい?」
「いいから、早く流せ」
 念を押してくる太一を急かすと、太一は店の奥にCDをもっていった。どうやら、店のオーディオシステムのCDプレーヤーを使って店内に流す気らしい。BGMとして控えめに流されていたジャズが消えて、静寂が満ちる。「流すよ」という言葉と共に、控えめなボリュームのギターの前奏が響いてきた。そして、次の瞬間、克哉の視界一面に桜が舞った。
 

*******

御堂は、克哉に背を向けたまま、とても静かに立っていた。バスローブを羽織った姿はシャワーを浴びたのだろう。髪は黒々と濡れたままだ。乱れた毛先から一滴、水の粒が滴って首筋に伝う。だが、御堂はそんなことさえ気付かぬようだ。
 御堂は微動だにせず突っ立っている。
 リビングに設えたオーディオ機器のスピーカーの前で。
 そのスピーカーは決して大きなものではなく、棚の上に置けるサイズではあったが、クラシック音楽をたしなむ御堂らしいこだわりで選び抜かれたハイレゾ対応のスピーカーだった。
 御堂までほんの数歩の距離まで近づいて、もう一度、声をかけた。
「御堂」
 かける声に御堂はぴくりとも反応しない。どこかをじっと凝視しているかのようだ。
 視線を御堂の立つ、その先に向けた。
 オーディオの電源は入れられている。そして、スピーカーの前に無造作に置かれていたCDケース、見覚えのあるそれを目にして、瞠目した。開かれたままのケースの中身は空だ。
 あのCDを書斎のパソコンから取り出して、ケースにしまったところまでは覚えている。そのまま自分はCDを片付け忘れたのだろうか。シャワーを浴びた御堂が克哉を探して書斎に入り、そのCDを見つけたのだろう。そして、何かに引き寄せられるようにリビングのオーディオプレーヤーで再生した。
―― まさか……。
 ぞわぞわとした悪寒に、寒くもないのに鳥肌が立つ。
「御堂、そのCDを聞いたのか?」
 冷静に問いかけようにも声が震えた。ようやく克哉に気が付いたのか、御堂がゆっくりと振り返った。その御堂の顔を見て、背筋が凍えた。能面のような無表情がこちらを見ている。いや、星のない夜空を映しとったかのような漆黒の眸は克哉を見ていなかった。焦点の合わない双眸は視力を失ったかのように不安定に彷徨っている。
「それを聞いたのか?」
 重ねて聞いたが、放心状態といった態の御堂は克哉に答えることもなく、弱々しい瞬きばかりを繰り返している。
 反応に乏しい御堂に焦燥感と混乱が急激にこみあげてきた。思わず声を荒げた。
「そのCDを聞いたのかって聞いてるんだ!」
「―― ッ!」
 怒鳴りつけるかのような声に、御堂がびくりと身体を竦ませた。しまった、と思ったが手遅れだった。御堂の身体が細かく震えだす。揺れ惑う御堂の視線が、克哉の視線とひたりと重なった。
 御堂の、その顔に、その表情に、見覚えがあった。克哉に向けられた虚ろな眸から、透明な雫が溢れて、頬に伝った。血の気を失った唇がわななく。
「たすけて……」
 全身から冷や汗が噴き出る。凍えた手で心臓を鷲掴みされたような衝撃に襲われた。
 何かがぐにゃりと歪む。世界が暗転し、足元がぐらりと沈み込んだ。
 ありふれた日々が音を立てて崩れ落ちていく。
―― どうして?
 どうして、あの時の御堂がここにいるのか。
 何が起きたのか。
 自分たちは、どこにいるのか。
 あの日の、あの光景が、みるみるうちに現実へと呼び戻されていく。
 御堂がバスローブのポケットの中に潜ませていた右手をすうっと上げた。その手にはハサミが握られていた。
 ハサミの刃が鈍く光る。御堂は、それを迷うことなく、自らの首の薄い皮膚へと突き立てようとした。
「御堂!!」
 首筋に向かうハサミのなめらかな軌道がスローモーションのように目に焼き付いていく。

​To Be Continued......

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