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深淵に眠る月2

 すっかり日が暮れるのは早くなった。

 定時に仕事を終えても、外はすでに真っ暗だった。風は冷たく、陰鬱な闇が街を覆っている。寒々とした空気から逃れるように、人々はコートの襟を高くして駅へとまっすぐに向かっていた。

 MGN社のビルを出た克哉は、帰宅ラッシュの人の流れに巻き込まれるようにして駅へと足を向けた。そこに、馴染みのある、よく通る声が克哉を呼び止めた。

「克哉! おーい、克哉!」

 誰の声かは明らかで、克哉は一瞬足を止めたものの、振り向くこともせずに歩き出した。だが、すぐに大股の足音が背後まで迫ってきて、肩を掴まれた。

「無視すんなよ!」

 ぐいと力強く肩を引かれてよろめきそうになる。

「馬鹿力で掴むな、本多」

 克哉は露骨に嫌な顔をして、本多の手を乱暴に払いのけた。

 本多は自分の手をまじまじと見つめ、そして、克哉に視線を戻した。

「お前、痩せたな」

「そうか?」

「ああ。どうしたんだ、一体」

「お前みたいに馬鹿食いしてないからな」

 冷淡に返す克哉に、本多は太い眉を大げさにひそめた。

「なあ、克哉。付き合いも悪くなったし、毎日定時に帰っているし、お前一体どうしたんだ?」

「飲み会に参加するのも個人の自由だろ。仕事はしっかりこなしているんだ。定時に帰って何が悪い」

「悪いと言っているんじゃない、何かあったんじゃないかと聞いているんだ」

「そんな大声で怒鳴るな。聞こえている」

 本多のよく通る低い声に、二人の傍らを通る人々がちらちらと視線を向ける。この会話も本多との間で何度も繰り返されたものだ。本多の嘘に騙(だま)されて、無理やり飲みに連れていかれたこともある。何度言い含めても、突き放しても、本多は懲(こ)りずに克哉を気にかけてくる。

 こんな人通りの多い道で言い合いをしていれば人目を引く。さっさと本多を振り切って帰りたかったが、本多は克哉を離す気はないらしい。仕方なしに、「ついてこい」とすぐ近くの公園に場所を移した。

 道路沿いにある公園は申し訳程度の光しかなかったが、それでも満月の月明りが闇を薄めていた。人混みで賑わう歩道とは打って変わって人の気配はなく、都会の真ん中にありながらも静けささえ漂う。もちろん、こんなところに長居する気もなかったので、公園に入るなり、克哉は本多に向かい合うときっぱり言った。

「お節介なんだよ、お前は」

 突き放す言葉に本多は明らかに気分を害したようだったが、それでも、負けずに言い返してきた。

「ああそうだよ、お節介だよ。俺は。お前、自分の顔を見たことあるか? 顔色も悪くて今にも死にそうだぞ。何があったんだよ、俺にも言えないことなのか?」

「……お前は俺の保護者か何かか?」

 低い声を出した。本多がほんの一瞬、怯(ひる)むのを見て、唇をゆがめて薄く笑った。

「いい加減、迷惑なんだ。俺のことは放っておいてくれ」

 それだけ言って、踵(きびす)を返したところで、ぐっと右手を引かれた。

「放せっ!」

「嫌だ、お前を放っておけない」

 振りほどこうにも本多の力は強く、ぎりぎりと手首に本多の指ががっしりと食い込む。痛みに顔をしかめた。だが、痛み以上にひんやりとしたものが背筋を流れる。

「俺は、心配なんだよ。お前がどんどん悪い方向に向かっていくようで……!」

 勢い込む本多が、シャツごと襟元を掴んでくる。シャツの布地が克哉の胸を擦り上げた。両乳首に付けられたピアスが強く揺さぶられる。

「――ッ!」

 淫らな電流が身体を走り、克哉は身体をびくんと強張らせた。身体の芯を炙(あぶ)る感覚を、意志の力でどうにか抑え込みながら声を絞り出す。

「本多、放せ……」

「わ、悪い……」

 急に抵抗が弱まった克哉に、本多が戸惑ったように手を放した。

 ゆっくりと息を吐いて、燃え上がりそうになる身体を鎮(しず)める。この身体の秘密は決して知られてはいけない。誰であろうとも。

「おい、大丈夫か?」

 克哉の様子がおかしいことに気付いたのだろう。本多が恐る恐る克哉に手を伸ばす。その手を避けるようにして、克哉は一歩身体を退いた。

「問題ない……。もう俺に構うな」

「お前、勝手すぎるだろ!」

 よろめくように本多に背を向けて歩き出した克哉に本多が声を上げた。足を止め、肩越しに振り向いた。

「俺が勝手だと? お前こそ俺を気遣う振りして、本当は俺を支配下に置きたいだけなんじゃないか?」

「な……」

 本多はそのまま唇を噛みしめるようにして押し黙った。身体の横に降ろした本多の拳が細かく震える。込み上がる怒りを必死に抑えているのだろう。

 自分に対する本多の気遣いは痛いほど身に染みている。だが、本多の親切を受ける資格など克哉にはないのだ。むしろ、克哉の数少ない友人と言える存在だからこそ、これ以上自分に近づけさせることはできなかった。克哉が抱えている秘密を知れば、向けられる眼差しは侮蔑と嫌悪に反転するだろう。

 にらみ合いが続く。緊迫した沈黙はどれだけ続いただろうか。

「じゃあな、本多」

 克哉はそう一言告げて、本多に背を向けると歩き出した。本多は、今度は、追いかけてこなかった。ただ、悲痛に満ちたため息が一つ、克哉の背後の静寂を乱した。

 

 

 

「ただいま、戻りました」

 カードキーで御堂の部屋の玄関を開ける。防音が聞いた静かな暗い部屋。耳を澄ましたが物音一つしなかった。克哉はまっすぐとリビングへ向かった。リビングへのドアを開けて、ライトのスイッチを入れる。

 御堂の姿はすぐに見つかった。リビングのソファでくたりと横になっていた。ソファからだらりと垂れ下がった手の先に、本が一冊開いた状態で落ちている。周囲の床には何冊もの本が散らばっていた。読んでは放り出して、を繰り返しているうちに力尽きたのだろう。

 この御堂はかつての御堂とは違う。一度壊れているのだ。起きたいときに起きて、力尽きたらその場で眠りに落ちる。生活リズムは破綻(はたん)して、食事も克哉に促されなければ食べようともしない。食の好みも変わったのか、何を食べてもおいしいともまずいとも言わない。ただ、出されたものを口にするだけだ。それでも、かつて好きだったワインは今でも好んで飲む。その一方で、あれほどこだわっていたワインのヴィンテージには全く興味を失ってしまっていた。単純に、酔っ払う感覚だけを好んでいるのかもしれない。

 今の御堂は、普通の人間としての箍(たが)が外れてしまっているのだと思う。そうでもなければ、自分を監禁し壊した男と共に暮らすなど許すはずもない。

 意識を取り戻した御堂は、目の前にいた克哉を当然のように受け入れた。しかし、御堂は克哉を『佐伯克哉』と認識したのではなく、備え付けの家具かなにかと勘違いしていただけなのかもしれない。それくらい、当初は克哉の存在に無関心だった。

 それが、今では克哉に対するある種の執着を見せる。

 御堂が生き生きと血の通った人間としての表情を見せるのは、克哉を嬲(なぶ)るときだ。それでいて、克哉を壊す寸前で手を止める判断力は、冷徹さと有能さを併せ持つかつての御堂部長を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 こちらの世界に戻ってきた御堂と暮らして半年以上になる。克哉は、御堂から奪い取ったMGN社の部長職を務める傍ら、御堂の身の回りの世話をし続けている。二人の生活は今のところ、大きな問題も起きずにうまくいっていると思う。ただ、それはすべて克哉の努力にかかっていた。克哉の服の下に隠された身体は傷だらけで、意識のない御堂を世話していた時よりも、克哉への負荷は重くなっている。それでも、克哉はこの生活に不満を持つことなどなかった。この悲劇の主人公は、自分ではなく、御堂なのだ。それを決して忘れてはならない。

「御堂?」

 ソファに横になる御堂に控えめに声をかけたが反応はなかった。良く寝ているようだ。

 克哉は御堂の身体に毛布をかけると、床に散らかった本を一冊一冊拾い集めた。

 本はどれも御堂の書斎にあった本だ。マーケティングや経営学の名著に混じって、海外ミステリや古典文学も混じっている。御堂という男の見識の広さと奥行きをそのまま表すラインナップだ。だが、御堂が目を覚ましてから、こうした本を手に取るところは見たことがなかった。

 この本から御堂は何を読み取ろうとしたのだろうか。

 こうしてみると、御堂もまたかつての自分を取り戻そうと、もがいているのかもしれない。それは好ましい変化なのか、克哉には判断がつかなかった。ただ一つ言えることは、御堂が過去の御堂を取り戻したときは、克哉と御堂の関係は今とは決定的に違ったものになるだろう。それはたぶん、克哉にとって好ましくない方向に舵が切られる。

 だが、すべての物事は流転する。ひとつとして同じであり続けるものはない。結局、なるようにしかならないのだ。それでも、足掻き続けるしかない。自分にできることはただ一つ、どうにか今の二人の生活を守るように努めることだけだ。

 克哉は拾い集めた本を一か所にまとめて片付けると、キッチンへと向かった。

 御堂がいつ起きるのかも分からないが、起きたときにすぐに食べられるように食事は用意しておいた方が良いだろう。

 ジャケットを脱いでネクタイを外し、シャツとスラックスの姿になると、克哉はキッチンに立った。冷蔵庫の中を確かめ、シャツの袖口のボタンを外しながら、作れそうなメニューを頭の中で組み立てる。

 食材を取り出し、まな板と包丁を準備したその時だった。背後の気配に驚いて振り向いた。

「御堂……」

 克哉の真後ろに御堂が厳しい顔つきで立っていた。御堂の方に身体を向けながら、さりげなく背後の包丁を御堂の視界から隠すように遠ざける。幸い御堂は克哉の行動に気付くことなく、その視線は克哉の腕まくりをした右手首に固定されている。そこには本多に掴まれた痕が赤くうっ血していた。御堂が口を開く。

「その痕はどうした?」

「痕? さあ、記憶にない」

 素知らぬふりをしてやり過ごそうとしたが、そうはいかなかった。

「嘘を吐くな。誰に付けられた」

「――ッ」

 御堂が克哉の右手を掴んだ。ぎりぎりと爪を食い込ませるほどに強く握り込む。その痛みに克哉はかすかに眉をひそめた。

「言え、誰がつけた?」

「……本多だ。本多に掴まれた」

「本多?」

「本多(ほんだ)憲二(けんじ)、キクチ八課の元同僚だ。馬鹿力な奴だから、ちょっと手を掴まれただけでこれだ」

「私と面識がある人間か?」

「……ああ」

 御堂は考え込むように首をわずかに傾けた。本多憲二、という人物をまだらに欠けた記憶の中から探り当てようとしているのだろう。だが、御堂は本多を思い出すことが出来なかったようだった。苛立ったように舌打ちする。

「佐伯、その本多という男を連れてこい」

「本多を?」

 突然の言葉に驚いて、御堂を見返した。御堂は闇よりも昏(くら)い眸でじっと克哉を見つめていた。ぞくりとした寒気が背筋を這いあがる。御堂の唇が動いた。

「顔を見れば思い出すかもしれない」

「……思い出すほどあんたと本多は関わっていない」

「君とはどうなんだ?」

「俺と……?」

 突然の切り返しに思考が足踏みした。

「本多は君の元同僚に過ぎないのに、どうして君をそんな力で掴んだ? 君と個人的な関係があるからではないのか」

 驚くほど冴えた思考だった。かつての部長時代の御堂の姿と彷彿とさせるほどに。克哉は殊更、平静を装って言葉を返した。

「大学時代、同じ部活だった。それに、キクチの同期入社だ」

「それで、君に付きまとっているというわけか」

「お節介な奴だからな。なんでも頭を突っ込みたがる。あんたが会うほどの価値はない」

 御堂の機嫌を損ねないように、慎重に答えた。御堂が何に対して怒っているのか、その原因を見誤ると手ひどい仕打ちを受ける。

 今自分が取るべき行動は何か。克哉は夕食の準備をあきらめた。御堂に掴まれた手の力を抜き、抵抗の意思がないことを示す。

「遅くなって悪かった。仕事が片付かなかった。あんたの言うことを聞く。だから、この手を離してくれないか?」

 克哉が帰ってきた時間はいつもと変わらない。それでも、御堂の苛立ちをなだめるように謝り、それでいて、御堂の興味の矛先を自分に向けるように御堂に掴まれた右手を軽く振って挑発してみせる。

 御堂が怒っているのは、克哉に自分が付けたものではない傷がついているからだろう。それは、克哉が傷つけられたことに対する憤慨というよりは、自分の玩具に他人が触れたことに対する怒りだ。子どもじみた独占欲と癇癪(かんしゃく)に過ぎない。だから、それ以上の傷を克哉に付けさせてやればいい。克哉が心身ともに御堂に服従していることを示せば満足するはずだ。

「……」

 しかし、御堂は克哉の思惑通りには動かなかった。掴んでいた克哉の右手を離すと克哉に向けた目を眇めた。

「私は、本多を呼べ、と言ったんだ」

「っ……」

 話が予想外の方向に向かっていく。克哉はこくりと唾を呑み込んだ。

「だから、あいつは……」

 克哉の言葉が言い終わらぬうちに、御堂が有無を言わさぬ口調で言葉を被せてきた。

「私が会いたいのだ。呼べ。それとも、私が呼ぶか?」

「……」

 こうなると、御堂は梃子(てこ)でも動かない。徹底的に自分の意思を貫こうとするだろう。克哉が断れば、御堂は自分でする。克哉は頭の中で瞬時に計算をし、覚悟を決め、口を開いた。

「分かった」

 携帯を取り出すと、本多に電話した。出るな、と心の内で祈るが、願いは空しく、コールは数回で途切れ、本多が出る気配がした。

『克哉?』

「本多……」

 肌に御堂の突き刺さるような視線を感じた。乾く口をゆっくりと動かす。

「今、どうしている?」

『家に帰ったとこだが、どうした?』

「暇なら、こっちに来るか?」

『いきなりじゃないか。なんかあったのか?』

「いや、忙しいならいいんだ」

 本多が断ってくることに一縷の望みに賭けたが、本多は克哉の期待をあっさりと裏切った。

『いいや、大丈夫だ。今からそっち行くぜ。お前のアパートだろう?』

「そっちじゃない……」

 本多に御堂のマンションの場所を告げた。引っ越したとでも思ったのだろう、本多は疑問を挟むこともなく『すぐ行く』と言って電話を切った。

 ほのかに熱を持つ携帯を耳から離した。そして、御堂へと視線を向ける。

「本多がここに来る」

「そうか」

 御堂は満足げに笑った。その笑みはいつも克哉をいたぶるときに顔に張り付かせている笑みとまったく同質のもので、首筋に冷たい蛇が這うような悪寒を克哉は覚えた。

 

 

 それから一時間もせずにインターフォンが鳴った。インターフォン画面を見れば、一階の正面エントランス前で本多が物珍しそうに周囲を見渡していた。

 エントランスのセキュリティを解除する。少しのちに玄関のベルが鳴った。ひとつ息を吐いて玄関のドアを開ける。そこには、ジャージ姿の本多が立っていた。

 本多は玄関の中を見回しながら言う。

「克哉、お前、いつの間にこんな高級マンションに引っ越したんだ?」

「俺の家じゃない」

「俺のじゃないって、じゃあ、誰のだよ」

 首をかしげる本多の声に被せるようにして、克哉の背後から御堂の声が響いた。

「……本多君、よく来たな。そこではなんだから上がりたまえ」

「――御堂さん!?」

 部屋の奥から現れた御堂を見て、本多が驚きにあんぐりと口を開けた。本多は克哉にちらりと目配せをして、どういうことだと聞いてくる。克哉は本多には答えず、目線で部屋に上がるように促した。

 御堂は先にリビングへと戻り、ソファでくつろいでいる。

「失礼します」

 リビングに入ってきた本多は戸惑いながらも御堂に向かって頭を下げた。

 御堂と本多は親会社の元上司と子会社の部下の関係だった。だが、それも、御堂が克哉に監禁されるまでの話で、御堂はそのまま会社に復帰することはなく、克哉が代わりに御堂のポジションについた。本多は御堂が病気で退職したものと思っている。

「御堂さん、ご無沙汰しております。お加減はもう大丈夫なんですか?」

 本多の言葉に御堂は肩を震わせて笑った。

「大丈夫そうに見えるか?」

「え……?」

「まあ、いい。君はそこに座りなさい」

 緊張に身体を固くしながら、本多は御堂に勧められたソファに座った。まったく事情が分からず困惑している表情だ。

 本多に続いてリビングに入ってきた克哉に、御堂が顔を向けた。

「佐伯、ワインを用意しろ」

「はい」

 打って変わって冷たい命令口調だった。だが、克哉はすぐさまキッチンへと向かう。棚からワイングラスを用意すると、ワインセラーから赤ワインを選びだす。

 どうにもいびつな場の空気に耐えられなくなったのか、本多が腰を浮かせた。キッチンへと顔を向ける。

「俺も手伝うぜ、克哉」

「君は客人だ。くつろいでくれたまえ」

「え、いやでも……」

「本多、御堂さんもそう言っている。お前は座っていろ」

 克哉がワインとワイングラスを持って戻ってくる。二人の間のセンターテーブルに二人分のグラスを並べて、ワインを注いだ。その克哉をさりげなく手伝う素振りで、本多が克哉に耳打ちした。

「おい、一体何がどうなっているんだ?」

「……本多、御堂さんがお前に会いたがったんだ。俺に構うな」

 低い声で本多を咎める。ここまで来て本多が克哉に親密な素振りを見せれば、御堂の機嫌が悪くなることは火を見るよりも明らかだ。何か言いたげな本多を残して、克哉はキッチンへと戻った。

 二客のワイングラス。その片方を持って御堂が目の高さに掲げる。

「本多君、久々の再会を祝して、乾杯をしようか」

「え、……ええ」

 なぜ自分がこの場にいるのか分からないまま本多は、御堂に合わせてグラスを掲げて乾杯する。克哉を無視して始められた宴で御堂は上機嫌だった。

 本多はそんな御堂の勢いにのまれるように、あいまいな相槌を打って場をどうにかつなげている。助けを求めるように、克哉にちらちらと視線を向けてくるが、克哉はそんな本多を控えめに無視し続けた。

 克哉は二人の様子に気を配りながらも、慣れた手つきでチーズを切り、クラッカーを添えてセンターテーブルに置いた。このまま何事もなく御堂が満足し、本多が帰ってくれればいい。そう、切に願う。

 御堂がワインで喉を潤して口を開いた。

「君は今、どんな仕事をしているんだ?」

「俺ですか、ええっと、相変わらずドリンク類メインですけど。……あ、ビオレードも扱ってますよ」

「ビオレード?」

「知らないんですか? MGN社の新製品で克哉が開発したやつですよ」

「ほう、佐伯が……」

 御堂の口調、その温度がすっと下がる。冷ややかになった御堂とは裏腹に、本多は前のめりになって熱く語り始めた。

「プロトファイバーの時も売れ行きがすごかったですけど、ビオレードもすごいんですよ。克哉の販売戦略が冴えていて、もう、発売前から話題沸騰ですよ」

 自分が手掛けている商品について興奮しながら語る本多はアルコールが回ってきているのだろう。つまらなそうにグラスを揺らす御堂の様子に全く気付く気配がない。部屋には白けた空気が充満している。

 克哉は少し離れたところで、邪魔にならぬよう静かに様子をうかがっていたが、悪くなりつつある場の雰囲気を断ち切るように御堂と本多の間に割って入った。

「本多、飲み過ぎだ。もう帰れ」

「ん? 克哉?」

 とろんとしたアルコールで潤んだ目が克哉に向けられる。御堂と二人でしゃべる緊張から、ワインを飲みすぎたようだ。本多の手からグラスを奪う。

「下まで送るから。帰るぞ」

「ん、そうだな……」

 本多がのっそりと重い腰を上げたときだった。唐突に、御堂が克哉に向けて一言、言った。

「佐伯、私に奉仕しろ」

「――ッ」

 御堂が何を要求しているのか一瞬で理解した。だが、すぐには動けず、御堂を見返した。

 御堂は口元には薄い笑みを浮かべているが、その双眸は凍り付いた視線を克哉に向けている。喉が急激に干上がる。

「御堂、それは……」

「さっさとしろ」

「何だ……?」

 二人のやりとりが呑み込めない本多が、浮かしかけた腰を下ろして胡乱(うろん)な視線を克哉と御堂の間に行き来させる。張り詰めた緊張が重(おも)しとなって克哉に伸し掛かった。無駄だとは思いつつも、掠れた声で御堂に乞うように言う。

「本多を帰してから……」

「聞こえなかったのか? 私はさっさとしろと言ったんだ」

「……」

 御堂は、一度決めたことは何が何でも貫く。その頑固さは嫌というほどわかっている。克哉が抗うほど、御堂は嬉々として残酷な仕打ちをするだろう。

 ぎこちなく身体を動かして、ソファでくつろぐ御堂の前に跪(ひざまず)いた。何も言われずとも御堂のベルトに手をかけて外し、ファスナーを下ろす。グレイのアンダーの布地をずり降ろして、まだ柔らかいペニスを引き出すと、御堂の股座(またぐら)に頭を埋めた。

「お、おい、克哉!?」

 本多が困惑しきった声をあげた。御堂がくすりと吐息で笑い、手で克哉の髪を掴む。本多がごくりと唾を呑み込む音が響いた。

 本多を意識から消して、御堂のペニスに舌を絡め、口をすぼめて喉の奥まで含む。苦しさを我慢し、舌も喉も使って御堂のペニスを根元から先端までしゃぶり、ひたむきに奉仕をする。

「相変わらずしゃぶるのがうまいな」

 愉悦を滲ませた声が振ってきた。 克哉が御堂に奉仕するところを本多に見せつけて、克哉に屈辱を味わわせるのを愉しんでいるのだろう。

 御堂を見上げれば、底なしに冷たい眸と視線が交わった。頭を強く掴まれて乱暴に前後に振られる。喉の奥を突かれて吐き気を催(もよお)すがそれを必死に堪(こら)えた。まるで道具のように扱われて息苦しさに呻く。その粘膜の戦慄(わななき)きさえ御堂の官能を刺激するようだ。

「っ……」

 御堂が低く唸り、ペニスが口の中で跳ねた。熱く重たい粘液が口内に注ぎ込まれていく。それを零さないように受け止め、口の中にため込んだ精液を御堂に見せるように大きく口を開いた。

「克哉……」

 唖然とした声が本多から漏れた。

「いいぞ、呑め」

 許可を得たので、ごくりと呑み込む。粘っこい精液を何回かに分けて嚥下する。その喉の動きにさえ、御堂の視線がねっとりとまとわりつくようだ。

 もう一度、口を開けて、全部呑み込んだことを御堂に確認させる。そして、御堂の下着に手をかけ、服の乱れを元通りに直した。よく躾けられた犬のように、迷いなく一連の動作をこなしてみせる。少し離れたところで、本多の気配が動いた。

「克哉……お前、御堂さんと付き合っているのか?」

 目の前で何が起きたのか理解できずに思考がフリーズしていた本多は、ようやく口を開いたかと思うと、とぼけたような声を出した。

 克哉は手の甲で唇をぬぐった。取り繕う言葉も何も思い浮かばなかった。ただ、いたたまれなさに視線を床に落とす。本多の言葉を聞いた御堂が、おかしくて仕方ないといった風に肩を震わせて笑い出した。

「それは恋人関係という意味か?」

「違うんですか?」

「恋人か、それはいいな」

 あざけるような物言いに、本多は気分を害したように御堂を睨みつける。だが、御堂は笑い続け、どこか空疎な笑い声がリビングに響き渡った。ひとしきり笑うと、御堂は克哉に向かって一言、命じた。

「佐伯、脱げ。お前の身体を見せてやれ」

「……」

 本多の目の前で克哉に奉仕させても、御堂の気は済まないらしい。どんどんと状況は悪い方向に転がっている。もう、この流れを止めることはできないだろう。その中で、自分が出来ることは何なのだろうか。二人の生活を守ることは出来るのだろうか。だが、克哉の思考はなんら打開策を打ち出すことは出来なかった。

「佐伯」

 苛立ちを含んだ御堂の声に鞭打たれるかのように、克哉は固まっていた手をのろのろと動かしだした。自分のシャツのボタンを上から一つずつ外していく。

「克哉!?」

 すべてのボタンを外し終えてもなお、シャツを脱ぐことをためらう。しびれを切らした御堂が立ち上がり、克哉の背後に回ると、乱暴にシャツをはぎ取った。

「――ッ」

 たまらず本多から顔を背けた。両乳首を貫通する淫らなリングが本多の目に晒される。

「おい、克哉。それ……」

 本多の顔をまともに直視できない。視線を床に落としたまま唇を血が出るほど噛みしめる。見られたのは、乳首を飾るピアスだけではない。拘束具の傷痕もだ。いくら鈍い本多でも、ここで何が行われているのか悟ったことだろう。

 本多が憤(いきどお)りに満ちた声を上げる。その怒りは御堂へと向けられた。

「御堂さん! あんた、こんなことして許されると思ってるのか!?」

「私が無理やりしているとでも?」

「当たり前だ! そうでもなければ、克哉がこんな……」

「やめろ、本多!」

 憤懣(ふんまん)やるかたないといった風に御堂に突っかかろうとする本多に、克哉は声を上げた。本多の動きが止まり、意思の強そうな双眸が克哉へと向けられる。顔を上げて本多の目をまっすぐに見返し、言った。

「……本多。これは俺が望んでやっているんだ」

「ということだ、本多君。この男はひどくされると悦ぶのだ」

 御堂が克哉の言葉に満足げに頷く。

「嘘だろ、おい」

「もう分かっただろう? 本多、帰れ」

 一刻も早く帰ってくれ、そんな祈る思いで本多に告げる。だが、本多は動かなかった。正確には動けなかったのだろう。克哉の背後で御堂がにたりと微笑む。そして、克哉に告げた。

「佐伯、服を全部脱げ。そして、私に尻を出すんだ」

 パタンとリビングのドアが乾いた音を立てて閉まった。本多と二人、取り残される。ひんやりとした床板がむき出しの尻から熱を奪っていき、内腿を伝う粘液がさらに不快感をひどくした。

「克哉……すまない」

 絞り出したような声が聞こえた。ちらりと黒目だけ向ければ、本多は苦渋に満ちた顔で俯いていた。成り行きとはいえ、御堂に唆されるままに克哉に口淫させてしまったことを後悔しているのだろう。

 ふ、と克哉は吐息で笑った。本多が訝しげに顔を上げて克哉を見遣る。克哉は、口元を拭いながら努めて平然とした口調で言った。

「謝る必要はない。お前も俺も楽しんだ。それでいいじゃないか」

 克哉の言葉に本多は目を瞠ると、唸るように言った。

「馬鹿言ってるんじゃねえ! 俺にはお前が楽しんでいるようには見えなかった」

 そう、声を荒げて断言する。克哉は無造作に髪をかき上げた。

「じゃあ、お前は楽しまなかったのか?」

 克哉の言葉に本多が呆気にとられたような顔をした。

「そんな訳はないよなあ、本多」

 克哉は共犯者に向けるような小さな笑みを浮かべた。

「お前の、濃かったぜ。溜めてたのか?」

「――ッ」

 二人がかりで克哉を犯した、背徳的な快楽の感触を生々しく思い出したのだろう。本多がごくりと生唾を呑み込んだ。

 本多が克哉に対して申し訳なく思っているなら、それはとんだ勘違いだ。利用されたのは本多なのだ。だが、本多は大きな体を縮こまらせて、

「悪かった……」

 と土下座しかねない勢いで言うので、克哉はふう、と聞えよがしにため息を吐いた。

「だから、謝る必要はないと言っただろ」

「そんなこと言ったって……」

 本多は苛ついたように頭を掻きむしった。自分自身、どうすれば良いのか分からないのだろう。そして、目の前の克哉にどう接するべきか考えあぐねている。

 今はただ、放っておいてほしい。

 そう克哉は願うが、そんな克哉の心を推し量ることなく、本多は言った。

「――なあ、克哉。お前、どうして御堂の良いようにされているんだ。こんな好き勝手されて、踏みにじられて、お前は良いのか?」

「俺が、踏みにじられているって?」

 本多の言葉に克哉は笑いだした。本多がポカンと呆気にとられて言葉を失う。笑いをかみ殺しながら、言った。

「まったく違うぞ、本多。見当違いもいいところだ」

「何だって?」

「踏みにじったのは、俺だ」

「どういうことだ?」

「俺が、あの人の何もかもを奪って、壊した」

 詳しく説明する気など毛頭なかった。だが、本多の根本的な勘違いだけは訂正しておく必要があった。吐き捨てるように言う。

「本多、御堂をひどい男だと思ったか? 違う。俺の方がずっと最低な男なんだよ」

 本多は言い返すことはせず、黙り込んだのち、のっそりと立ち上がった。そのまま部屋を出て行くのかと思ったら、そうではなかった。床に脱ぎ捨てられた克哉のシャツを拾うと、無言のまま克哉の元に歩みを寄せた。そして、シャツを克哉の身体にふわりと掛けた。

「……俺はお前と御堂さんの間に何があったか知らない。だけど、だからと言って、お前をここに置いていくわけにはいかない」

 何かを決意したかのような声だった。見上げれば、本多が強い眼差しを自分に向けていた。本多の大きな手が克哉に向かって伸ばされる。

「こんなの絶対普通じゃねえ! この部屋から出よう。俺と一緒に来い、克哉」

 その声には迷いはなく、その眸には強い意志が灯っている。

 そんな本多を眩く感じた。

 そうだった。本多はこういう男だった。闇雲に情け心を振りまき、周囲を助ける。端から見返りなんてものは求めていないから、感謝されなくとも落胆することもない。自分自身を頑なに信じ、また、自分の信念は何が何でも貫き通す。それがこの男の強さであり、厄介なところでもある。

 本多に説得なんてものは土台無理なのだ。

 くく……、と克哉は低く笑った。本多は胡乱げに克哉の顔を覗き込んでくる。その本多ににやりと笑いかけた。

「克哉……?」

「お前と一緒だと? まだヤり足りないのか? 御堂はいなくなったし、ここでもう一発俺とヤるか?」

「馬鹿を言うな! こんなところ一秒だっていてたまるか! 帰るぞ、克哉!」

 動こうとしない克哉にじれったさを感じたのか、本多は克哉の手を掴んだ。その手を克哉は鋭く振り払った。

「ッ……」

「余計なおせっかいなんだよ、本多」

 冷たく言い放つと、唇の片端を吊り上げた。

「素直に言えよ。本当は、お前も俺に欲情したんだろう? 俺を抱きたいんだろう? 付き合ってやるぜ」

「お前、何言ってるんだっ!」

 声を荒げる本多に向けて、克哉は大きく脚を開いた。陰嚢を持ち上げ、御堂に凌辱された生々しい痕を見せつける。本多の目が見開かれ、克哉から慌てて顔を背けた。

 誘うような、あざけるような口ぶりで言う。

「御堂が言ってたろ? 俺はひどくされるのが好きなんだ。このまま突っ込んでいいぞ」

「克哉、やめろっ!」

 悲鳴のような声が上がる。目をきつく瞑り、背けられた本多の横顔は苦痛を堪えるように歪んでいる。

 胸の奥底が鋭い針を突きさされたように痛んだ。だが、その痛みを無視して、克哉はさらに追い打ちをかけた。

「自分に正直になれよ。お前がそういう目で俺を見ていたの、知っているぜ……――ッ!」

 言葉が終わる寸前、バシンと乾いた音と共に、左の頬に痛みがさく裂した。顔がぶんと右を向き、視界が歪む。

 一瞬、何が起きたか分からなかったが、グラグラした視界が安定し、ようやく本多に殴られたのだと理解した。

 目の前に本多の顔がある。その顔は激しい憤怒の色に染まっていた。

「お前、一体どうしちまったんだよ!」

 打たれた頬がじん、と熱を持つ。克哉は眼鏡のブリッジを指で押し上げて元の位置へと戻した。地を這うような声を出す。

「……うんざりなんだよ」

「な……」

 本多は何かを言おうと口を開いたが、何の言葉も出なかった。克哉のレンズの奥にある眸、そこに宿る冷たい拒絶の光を見て取ったのだろう。

「帰れ。俺の居場所はここだ。俺の邪魔をするな」

「克哉……」

 本多らしくない、弱弱しい声音だった。すがるような響きだった。だが、克哉はそれを冷淡に無視し、口を引き結んだ。

 色濃い沈黙が部屋に充満する。どれほどの時間が経っただろうか。本多がようやくのろのろと動き出した。克哉の方を見もせず、何の言葉も発することもない。一人、リビングから出て行く。すこしして、玄関のドアが開く鈍い音が響いた。

 去っていく本多の大きな背中。その背は怒りと悲しみに満ちていて、本多が負った傷の深さがうかがい知れた。

 克哉は一人、空っぽの部屋に取り残される。だが、その孤独も空虚さも、今更、何も響くことはなかった。絶望が染み渡った克哉の心はとっくに鈍麻しているのだ。それでも、とうの昔に失ったと思った感情の残骸が胸の奥底でことりと動いた。

 かけられたシャツがいつの間にかぬくもりを持つ。その一方で、胸の中を占める寒々しさが強くなる。この感情はかつて何と呼んだのだろうか。

「御堂……」

 呟いた声は、誰に届くこともなく部屋に忍び込む夜気にかき消されていった。

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