
All I Need Is You
『All You Need Is Survive』の書き下ろし長編『All I Need Is You』のサンプルです。
第一章をサンプル公開いたします。本編を読んでいないと話の筋が分かりません。
『All You Need Is Survive 第7章 正しい選択』の克哉視点のお話です。
書き下ろし長編になります。
ーあらすじー
御堂によって、恋人同士になったという事実を消され、過去を改変された克哉。そうと気付かず一人きりで生きていた。
だが、時折、御堂と二人で過ごす甘い記憶がよみがえる。御堂とは他人同士のはずなのに、この記憶はなんなのか。
強い既視感に苛まされる日常、ふとした瞬間に紛れ込んでくる存在しないはずの記憶。
自分に何か起きたのか、それとも起きなかったのか。真実はどこにあるのか。
存在しない何かを追い求める日々を過ごす克哉。だが、桜が舞い散る公園で、事態は急転した。
第一章 アクワイヤ・アソシエーション
重たい灰色の雲が低く垂れこめる冬の日、道行く人々は吹き付ける凍えたビル風を耐え忍ぶように首を竦めていた。
この日、佐伯克哉は一年ぶりに御堂と再会した。
ビルのエントランスから出た克哉は、足を止めて振り返った。目の前にそびえ立つオフィスビルは一面のガラス窓に空を映しとって暗い灰色に染まっている。そこに御堂はいた。
どれくらいの間、ビルを眺めていたのだろう。白いものがちらつき始めて、克哉はようやく我に返った。
未練の塊を振り払うようにして、踵を返した。アスファルトは寒々しく、靴底を通して冷気が這い上ってくる。
独りきりの帰路は侘しく、見慣れた景色なのにどこか違って見えた。克哉は立ち止まり、あたりを見渡した。色彩のない空疎な世界が克哉を取り囲んでいる。今まで通りの代わり映えしない世界だ。それなのに何か大切なものを置き忘れてきたような、たとえようもない不安に包み込まれた。
こんなにも落ち着かないのは、御堂に出会ってしまったからだ。
克哉は心のざわつきにそう説明をつけて納得しようとしたが、途方もない喪失感に包まれた。
自分は何か大切なものを失ってしまった。
それは一体何だったのか。
いくら考えても、克哉はそれを思い出せなかった。
朝の光に誘われて、揺蕩う意識が次第に形を成してくる。四肢の隅々まで神経が行きわたり、感覚が研ぎ澄まされていくこの時間。眠りから覚め、瞼を開くまでの空白。その意識の間隙に克哉は存在しないはずの光景を視る。
目の前に男がいた。克哉に何事か話しかけてくる。克哉を見詰める黒い眸に宿しているのは憎しみでも怒りでもなく純粋な愛おしさで、克哉に向けられる柔らかな微笑みからも、この男は克哉を愛していることが分かる。
『佐伯、吸い過ぎではないか?』
長い指が、克哉が咥えていたタバコを摘まみ、灰皿へと放った。克哉はその指の優雅な動きを目で追いながら、言う。
『口が寂しいんですよ』
『タバコの吸い過ぎは健康によくないぞ』
嗜(たしな)める声に、挑発する目つきを返す。
『そうですね。キスしてくれたらタバコを控えてもいい』
男は克哉の言葉に目を瞠った。怒り出すのかと待ち構えていたが、そうはならなかった。男の顔が寄せられ、克哉の唇に唇が強く押し付けられる。相手の体温をもっと味わおうとしたところで、唇が離された。
『これでいいか?』
『これだけじゃ、全然足りない』
『強欲な奴だな』
『そんなこと、とっくに知っているでしょう? 御堂さん』
御堂孝典は、克哉の言葉に呆れたように笑い出した。そんな御堂を克哉はレンズ越しに見つめ続ける。不意に御堂の双眸がいたずらっぽく眇められた。微笑みの形の唇が押し付けられる。克哉は目を瞑り、柔らかな唇をたっぷりと堪能した。
「――ッ」
克哉は重い瞼を押し開いて、部屋の中に満ちる眩い陽射しから顔を背けた。
――まただ。
また、あの夢を見た。
御堂との甘やかな時間。二人で過ごす日常。
夢と一言で片づけるには妙にリアルで、感情が揺さぶられる。
克哉はマットに手を突いて上半身を起こすと、夢の余韻を振り払うように頭を振った。睡眠時間は必要なだけ取っている。だから寝起きは悪くないはずなのに、思考はすっきり晴れず、身体も重い。まるで幸福な夢を見た分、現実世界に馴染むことを心身が拒否しているかのようだ。
御堂が出てきて、まるで克哉の恋人のように振舞う夢。
有り得ない出来事だと分かっているのに、覚醒直前の意識の間隙に入り込んでくるこの夢は、克哉の心を激しくかき乱すのだ。
こんなことが起きだしたのは、あの日からだった。L&B社で御堂に再会した日からだ。
克哉はまだ重たい瞼を手の甲で擦りながらベッドから起き上がり、ベッドサイドに置いていた眼鏡をかける。そして、胸の中を一掃するほどの大きなため息を吐いた。
――俺も未練がましい。
あの冬の日、克哉は御堂に再会したことで、どれほど自分が御堂を想い焦がれていたか再認識させられた。
MGN社が企画したショッピングモールのコンペ、そこにL&B社は応募してきた。その提案書を書いたのは御堂だった。その事実を、克哉は、契約のためにL&B社に訪れるまで知らなかった。
L&B社で出会った御堂の姿を思い出した。克哉と初対面を装うよそよそしい態度。「初めまして」と口火を切ったのは克哉だ。だが、自分で突き放しながらも、御堂もまた克哉に対して他人行儀な態度であったことに少なからず衝撃を受けた。
しかし、思い返せばそれも道理だ。御堂にとっての克哉は災厄以外の何者でもなく、一切関係を持ちたくない相手だろう。相手の社長も交えて、淡々と契約の確認をしている最中、何度か御堂の視線を感じた。克哉が当時のことを変に持ち出さないか気にしていたに違いない。だから、御堂を安心させるために、克哉は無視を貫き通した。そして、最後まで御堂と克哉は全くの他人同士の関係のまま面談を終えた。
契約を終え、克哉がL&B社が入るオフィスビルを出た時には、あたりはすでに暗くなり、冬の冷たい夜が降りてこようとしていた。克哉は、歩みを止め、振り返ってビルを見上げた。フロアの階数を数え、先ほどまで自分が居た応接室があるフロアに視線を止めた。電気が点いている部屋がある。あそこだろうか。
――御堂……。
克哉はこのプロジェクトの契約を最後にして、MGN社を辞めるつもりだった。だから、もう御堂と一切関わることはない。そう一言、話のついでにでも教えてやれば、安堵しただろう。
しかし、疑問は残る。
――そんなに俺が嫌なら、どうして、あのコンペに関わったんだ。
社長の要請であればコンペに出ざるを得ないのは分かる。しかし、一切表に出ないまま企画書を作り上げることも可能だっただろう。そうすれば、最初から最後まで克哉と御堂は顔を合わすことさえなかったはずだ。御堂は自らの意思で克哉の前に現れたとしか思えない。そこに何らかの意図はなかったのだろうか。
そう思惟を巡らせようとして、克哉は小さく笑った。
御堂の一挙一動にさえ、何かしら深い意味があるのではないかと勘繰ってしまう。
何もかも、過ぎたことだ。
これ以上御堂に関わるべきではない。克哉と御堂は他人同士に戻ったのだ。
そう自分に言い聞かせようにも、足が縫い付けられたようにL&B社の前から動けなかった。もしかしたら、最後にひと目御堂を見ることが出来るかもしれない。そうこうしているうちに、視線の先にある部屋の電気が消えた。それでも、一縷の望みをかけて、窓を見つめ続けた。だが、日も落ちて、暗い室内は地上から眺めても判然としなかった。
不意に、頬に冷たい感触を感じた。
周囲を見渡せば白いものがふわりふわりと舞い落ちてきている。雪が降りだしたのだ。これ以上、ここに居ても仕方ない。克哉はひとつ息を吐いて自分自身を笑い飛ばすと、ようやくその場を立ち去った。
その日、自宅へと帰った克哉はまったく眠れなかった。自分が想像していた以上に、御堂との再会に衝撃を受けたらしい。動揺する心を落ち着けてようやく意識が沈みかけたところで、克哉が見た夢は淫夢としかいいようのないものだった。それも、御堂と激しく愛し合っている夢だ。
夢の中で克哉と御堂は気持ちを通じ合わせ、互いの愛を確かめていた。L&B社から帰ろうとしたときに、御堂に引き留められ、告白されたのだ。本格的に降り出した雪の冷たさを感じながら、熱いキスを交わした。
その夢があまりにもリアルで色鮮やかで、目を覚ました時に、どうして隣に御堂がいないのか、そして、どうしてここがホテルの部屋でないのか、不思議に思ったほどだった。
こうやって夢の内容を一つ一つ思い返すたびに、克哉はいたたまれなさに自分を殴りつけたくなる。あれほどの酷い状態で放り出した御堂が自分を追いかけてくるなんて、どれほどご都合主義な展開を望んでいるのか。自分自身にあきれ果てる。
「所詮、夢は夢だ」
自分に言い聞かせるように呟いた。単なる夢、それ以上でもそれ以下でもない。現実にはあり得ない、克哉には無縁の世界。だが頭の中ではどんなことさえ自由だ。
こうして、御堂との再会を自分なりにケリを付けようとした克哉だったが、そんな決意を嘲笑うかのように、それからも、御堂と二人で過ごす夢は、事あるごとに克哉の前に現れた。
それは何も寝ているときだけではない。起きているときでさえ、ふとした弾みで現実以上の鮮明さで脳裏に展開される。現実を踏みしめていたはずの意識が、気付いた瞬間にはその夢に囚われている。
夢の中では常に、克哉と御堂は恋人同士だった。なおかつ、仕事上のパートナーでもあった。夢は必ずその前提で話が進む。まるで、別の世界に生きている自分たちをのぞき見している気分になる。
そんな心の奥底に押し込めた願望が克哉の頭の中には無数に眠っているらしい。そうした夢が現れるたびに克哉はひどく心をかき乱されて、夢と現実の落差に落胆させられる。
夢の中の自分は、たとえようもなく幸せだった。まさしく、夢見心地の気分だった。それが、目が覚めた瞬間に、現実に引き戻される。克哉はたった独りで生きていて、腕の中にあるはずの温もりは幻だったと思い知る。現実に戻るたびに、高いところから突き落とされる感覚に呆然とした。
思えば、御堂を解放したときから、克哉は黒とも白ともつかない世界に生きていた。少しでも気を抜けば暗い世界へと滑り落ちていただろう。だが、辛うじてこの地上に踏みとどまっている。
胸躍らせるような喜びもなければ、打ちのめされるような落胆もない。仕事は簡単すぎて、やりがいなどなかった。だから刺激を求めてMGN社を辞め、コンサルティング会社を起ち上げた。一人で起ち上げた会社だ。日々の忙しさは想像以上で休む間もない。だが、それを辛いと感じたことはなかった。逆に、仕事の中に身を置くことによって感覚を麻痺させてきた。それなのに、御堂の夢が現れるようになってから克哉の日常は一変した。
濃淡も明暗もない単調な灰色の世界に生きることが決して不幸せなのではない。色彩溢れる世界を見せびらかされ、そして、それが決して自分の手の届かぬところにあると思い知らされることが辛いのだ。
決して叶うことのない夢。最初から自分の手の中になかったし、期待などもしていなかった。それでも人は失うことが出来るらしい。あの夢はざらついたような喪失感を克哉の心に残していく。
しかし、あの夢が及ぼす影響はそれだけではなかった。繰り返される御堂との夢は、克哉が生きるこの現実世界に少しずつ、侵食してきていた。
克哉が社長を務めるコンサルティング会社の社名はAcquire Association(アクワイヤ・アソシエーション)という。その社名を決めたきっかけは御堂が出てくる夢だった。
年の瀬も押し迫ったその日、会社を起ち上げるための登記の書類を前に、克哉は自室のデスクで悩んでいた。社名が決まらないのだ。いくつか候補は考えていたが、どれもしっくりこない。大事な社名だ。適当に決めて後から変えるということは出来ない。
「どうするか……」
そう呟いた時だった。
『どうした、佐伯?』
背後から声がかかった。振り向くと、御堂がいた。肩越しに克哉の前に置いてある書類を覗き込んでくる。間近に御堂の顔がある。真っ直ぐな鼻梁に切れ長の双眸。鋭い美貌は華やかでありながら、人を寄せ付けない冷たさを併せ持つ。
驚きに鼓動が早鐘を打ち出す。だが、克哉は御堂の存在をさも当然のように受け容れ、言った。
『社名が考えつかないんだ』
虹彩まで塗りつぶされた黒一色の眸が克哉へと向けられた。
『それなら……私が考えようか』
『何か良い案でもあるか?』
御堂はほんの少しの間考え込み、そして口を開いた。深みのある声が克哉の鼓膜に心地よく響く。
『……そうだな。アクワイヤ・アソシエーションなんてどうだ?』
『Acquire(アクワイヤ)……勝ち取るか』
『世界を手に入れる君にふさわしい名前だろう?』
御堂の口元が挑発的な笑みを刷いた。途端に、孤高の美貌が艶やかさを纏う。
その顔に思わず見とれてしまいそうになるが、克哉はアクワイヤ・アソシエーションと呟き、口の中で転がしてみた。良い響きだった。英語の綴りも、頭文字のAがふたつ並ぶのは洒落ている。アルファベットの最初の文字が立ち並ぶ姿は、まるで自分たち二人のようだ。
『気に入った、それを社名にしよう』
『そんなにあっさり決めてしまっていいのか?』
『悩んで決めても同じ結論になるさ、きっと』
克哉はペンを手に取ると、ささっと『アクワイヤ・アソシエーション』と社名を書き込んだ。そうして立ち上がり、御堂の身体を抱き寄せる。腕の中で御堂が窮屈そうに身じろぎをした。だが、それは克哉への拒絶ではなく、反射的な筋肉の緊張だ。その証拠に御堂の手が克哉の背にそろそろと回され、身体がさらに密着した。服の布地越しに御堂の体温を感じる。その熱を逃さぬよう、克哉は腕の輪をさらに狭めた。互いの視線が絡みあい、唇に吐息がかかる。
……そこで克哉は我に返った。
目の前には白紙のままの書類。念のために部屋の中を見渡す。当たり前のことだが、御堂の気配はどこにもなかった。
ペンを握る手がじっとりと汗をかいている。それは、あまりにも生々しかった。かけられた声も、向けられた眼差しも、抱き締めた身体のしなやかな筋肉も。すべてが、いましがたの出来事のようにリアルな感覚で記憶に残っている。
今のは、白昼夢だったのだ。
そう、自分に言い聞かせる。そして、動揺している自分を落ち着けるためにペンを置き、デスクの上に置いてあったタバコを手に取ると、火を点けた。
胸いっぱいにタバコを吸いこむ。きついニコチンが血管を締めて思考を冴えわたらせた。
「アクワイヤ・アソシエーションか……」
呟いた声は掠れていた。だが、夢の中同様に、その社名はしっくりと馴染んで聞こえた。まるで、最初からそう名付けられることが決まっていたかのようだ。
書類の空欄に視線を落とした。夢の中の自分は、そこに『アクワイヤ・アソシエーション』と迷うことなく書き込んでいた。
夢で社名を決めるなんて馬鹿げている。
そう、一歩離れたところから冷静に俯瞰する自分もいた。
だが、古来より夢は閃きの元となり、神の啓示とも思われてきた。分子生物学者のジェームズ・ワトソンは二匹の蛇が絡み合う夢を見て、DNAの二重らせん構造を着想した。また、Googleの創業者の一人であり元最高経営責任者(CEO)のラリー・ペイジは夢でGoogleの検索エンジンの元となるアイデアを閃いた。
――これは、何かの啓示なのだろうか。
夢を分析することで、何か分かることがあるかもしれない。そう考えて先ほどの夢を詳細に思い返そうとして、克哉はあまりの馬鹿馬鹿しさに苦笑した。
分析するまでもない。この夢は、自分の願望の現れだ。御堂と恋仲になり、さらに、仕事でもパートナーになるという、強欲極まりない願望だ。そんな途方もない願いを自分は心の奥底に抑え込んでいたのだろうか。
こんな夢を見ている事実を御堂に知られないことが唯一の救いだ。もし知られたら、軽蔑されるか、それとも怯えさせるかのどちらかだろう。
頭を振って気持ちを切り替えると、克哉はペンを手に取った。登記の書類の社名の欄をじっと見つめ続ける。
改めて社名を考え直そうとするも、夢で御堂が告げた『アクワイヤ・アソシエーション』がずっと脳裏にちらついている。そのせいで、それ以外の社名がしっくりこない。
克哉は一つ息を吐いて心を決めると、登記の書類に『アクワイヤ・アソシエーション』と記入した。
こうして克哉はAA社を起業した。そして、克哉が自社の社名を目にする度に、頭の中では御堂の深みのある涼やかな声で『アクワイヤ・アソシエーション』と再生されるのだった。
第二章 デジャブ
既視感(デジャヴ)は記憶異常に起因する感覚らしい。短期記憶と長期記憶の重なり合いが原因だとも言う。
それなら、自分が抱くこの感覚も合理的な説明を付けることが出来るのだろうか。存在しないはずの記憶が現実に混ざり合ってくるのは、一体どこに問題があるのだろうか。
克哉が起業したアクワイヤ・アソシエーションは都内の一等地、それも誰もが知るオフィスビルに社を構えていた。たった一人で始めた事業だったが、すぐに人手が足りなくなり、MGN社でかつての部下だった藤田を引き抜いた。それでも間に合わず、事務員も含めて数名新たに社員を雇っている。
仕事は驚くほど順調だった。起ち上げてまだ数カ月、それもたった一人で一から始めたコンサルティング会社であるのに、快進撃と言っていいほどの業績を積み重ねている。何もかもが上手くいった。だが、安堵や喜びが湧くよりも困惑が先立った。あまりにも手ごたえがないのだ。どうすれば最高の結果が得られるのか、顧客を満足させられるのか、克哉は最初から知っていた。まるで、解答を見ながら問題を解いているような感覚だ。自分の能力の高さに疑問を抱いたことはない。だが、それだけでは説明がつかないことが多々あった。
たとえば、AA社は今、老舗の和菓子屋である月天庵のコンサルティングを引き受けている。その和菓子屋の経営陣の多くは職人あがりの頑固気質で、外部のコンサルティング会社が介入することに強い拒否反応を示していた。
それを、克哉は最初のミーティングで、反対派も含め軒並み自分のプランを認めさせることに成功したのだ。もちろん、説得力のあるプランニングや自分の巧みな話術が功を奏したのだろう。だが、プランの立案からプレゼンテーションの見せ方、構成まで、なぜかすべての完成形が頭の中にあった。それも、自分が作ったものではないものが、だ。
それは、克哉が月天庵とのミーティング用のプレゼンテーションを準備しているときのことだった。
社のデスクで作業をしていると、不意に耳元で声が響く。
『佐伯、プレゼンスライドを確認してくれるか』
振り向くと御堂がUSBメモリを手に立っていた。
『ああ』
まただ。また、あの幻覚だ。
そうは思ったが、幻覚の中の克哉はごく自然に返事をして、御堂からUSBメモリを受け取った。それをパソコンに差して、御堂が作ったプレゼンテーションファイルをディスプレイに展開する。一回ざっと流して構成を頭に入れると、ふたたび最初から再生して細かい点を確認していく。御堂は克哉の肩越しにディスプレイを覗き込んできた。
『どうだ?』
最後までスライドを確認したものの反応しない克哉を気にしてか、ほんのわずかに不安を滲ませた口調で、プレゼンの出来を聞いてくる。
『すばらしくて、見惚れていました』
感嘆のため息と共に言った。
『内容も、構成も、そしてビジュアルまで無駄がなくて美しいプレゼンだ。まるで、あなたそのものだ』
『まったく、君は。これくらいで大袈裟だな』
そう呆れつつも、御堂は手放しで褒められたことにまんざらでもないようだった。
実際、その通りだった。御堂は、伝わるプレゼンを熟知している。伝わるプレゼンとはすなわち、美しいプレゼンのことだ。スライド一枚一枚がすっきりしていて、極限まで無駄を省いている。視覚に訴えかける配色を始めとしたビジュアルも、派手過ぎず地味すぎず、洗練されていた。彼の能力の高さは、このプレゼン一つを取っても明らかだった。
御堂が克哉の肩に淡く手を置いた。
『あとは君の説得次第だ』
『それは問題ない』
『そうだな、期待しているぞ、社長』
彼にしては珍しく、茶化した声で『社長』と強調される。
克哉は御堂に社長呼ばわりされるのは好きではなかった。確かに克哉はAA社の社長で、御堂は副社長だ。だが、御堂とはプライベートでもオフィシャルでも対等な立場であると思っていたし、そう接してきたつもりだ。
だから『社長』と呼ばれると、いくら肩書上はその通りであっても居心地悪く感じる。しかし、今求められるのは呼び方の訂正を要求することではなく、御堂を満足させる一言だろう。
克哉は不敵な笑みを浮かべて返した。
『俺を誰だと思っているんですか、御堂さん?』
『ほう?』
蠱惑(こわく)の笑みが克哉に挑んでくる。それを心地よく感じながら御堂の耳元で囁いた。
『あなたの、唯一無二のパートナーですよ』
『知ってる』
顔を向ければ、目と鼻の先に御堂の顔がある。その目が可笑しげに細められた。相手の体温を感じるほどの接近した距離。
ここが社内でなければ、そして、他に社員がいなければ、この場で御堂を押し倒していただろう。御堂もそれを分かっている。だから、視線で克哉を煽ってくる。このプレゼンを終えたら、どんなご褒美を貰おうか。そんなことを考えながら、克哉は御堂に微笑み返した。
「くそッ」
克哉はデスクのパソコンを前にして頭を抱えた。知らぬ間に、甘ったるい幻覚に浸っていたのだ。仕事の最中にまで何を考えているのか。自分自身を叱咤したい。
パソコンのディスプレイには白いままのスライドがある。プレゼン用のスライドの構成を考えようとして、突如と沸いた白昼夢に呑み込まれたのだ。
だが……。
御堂が持ってきたプレゼンの内容はすべて記憶に残っている。克哉は急いでその流れをスライドに書き込んでいった。みるみるうちに御堂が作ったスライドが再現されていく。
夢にしては、完璧な構成、説得力のあるグラフ。そして、プランニング。こうして再現したスライドを改めて見てみても、非の打ち所がないプレゼンテーションだ。
自分が無意識のうちに考えていたものが、夢の形で出てきたのだろうか。だが、そうは思えなかった。なぜなら、自分が知らないはずのデータまで出てきていたのだ。
克哉は執務室のデスクから顔を上げると、オフィススペースに向けて声を上げた。
「藤田!」
「はい」
呼べば藤田がすぐにやってくる。時間が惜しく、矢継ぎ早に指示を出した。
「月天庵の店舗でインショップとアウトショップ別の売上高の推移を集計してくれ。至急だ」
「分かりました」
デパートやショッピングモール内の店舗であるインショップと路面店であるアウトショップ、御堂はその形態別の売上高から残すべき店舗と畳む店舗を分けていた。克哉は店舗別の売上高しか気にしていなかったが、集客力に注目した御堂の視点は鋭かった。
一時間後、藤田から送られたデータを集計し、グラフにしたところで、克哉は息を詰めた。夢の中で見たそれとまったく同じグラフが出来上がっていたのだ。
―― 何故だ?
冷や汗が背筋を伝い落ちた。夢の中のグラフが現実に出現している。空恐ろしささえ感じた。夢の中の御堂は、何者なのだろうか。いや、そもそもこうして、ふとした拍子に克哉を絡めとっていく夢はいったい何なのだろうか。
この御堂が出てくる夢はいわゆる普通の夢ではなかった。
この夢が他の夢と明らかに違うのは、あり得ないはずなのに、その夢の中では筋がしっかりと通っていることだった。記憶の中の克哉は、御堂と恋人同士であるのが当然のように、御堂と接している。そして、御堂もまた、克哉を恋人として笑いかけ、そして、触れてくる。挙句、夢の世界はこの現実世界ともどこかしらリンクしているようで、夢の中の自分たちも、今の克哉と同じように月天庵のコンサルティングを抱えていた。
そしてまた不思議なことに、この夢の中では克哉は自由には動けなかった。夢の中の克哉は自分の意思とは関係なく、御堂と喋り、御堂に触れる。自分はただそれを傍観しているだけだ。
ハッと気が付いた。克哉が繰り返し見る夢は、夢ではなく記憶なのではないか。架空の出来事、存在しえない記憶。もしかしたら、この世界とは別の並行世界の記憶が克哉の頭の中に混ざり込んでいるのではないか。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。奇想天外も極まる仮説だ。
だが、夢でなくて記憶が蘇っているという考えは、自分の違和感にしっくりと収まった。夢にしては妙に鮮明なのも、理屈が通っているのも、記憶だと思えば納得できる。
それに、克哉が心の奥底に押し込めた願望が甘ったるい夢として具現化したと考えるよりも、どこかの世界で幸せに結ばれた自分たちの光景を垣間見ていると考えた方が、まだ救いようがある気がする。どちらが荒唐無稽かは脇に置いておいて。
―― 御堂と俺が恋人同士の世界があるのか?
それを想像した途端、克哉の喉元に言い知れぬ感情がこみ上げてきた。
そんな世界が、果たして存在するのだろうか。
もし、あるとしたら、どうしてそれがこの世界ではないのだろうか。
知らぬ間に克哉は手をきつく握りしめていた。手のひらに爪が食い込み、その痛みが克哉に現実を教えてくれる。
―― そんな世界、あり得ないだろう。
克哉は一人だ。御堂とは赤の他人同士でそれ以上でも以下でもない。これが現実なのだ。
出来上がったスライドを前にして、克哉は小さくため息を吐いた。自分が作ったとは思えないスライド。だが、克哉が作ったのは間違いない。現実を見ろ、と自分に言い聞かせる。
こうして克哉が用意したプレゼンテーションは予想通り、月天庵の経営陣を感嘆させた。そして、月天庵のコンサルティングは驚くほどうまくいっている。だが、克哉の気持ちは複雑だった。この経過も結果も何もかも、すでに知っていた気がしてならないのだ。
視界に光がちらつく。パソコン画面の見過ぎだろう。克哉は目を瞑ると、眉間を押さえてパソコン画面から顔を上げた。
目を休ませようと、背後の窓へと顔を向けた。AA社の執務室の窓から広がる風景は闇に覆われている。視線を地上に落とせば、眠らない街が色とりどりに輝きだしていた。
月天庵のプロジェクトは順調な滑り出しだった。経営改善もすぐに数字となって現れている。だが、業務量は減るどころか益々増えていた。克哉は分刻みのスケジュールで動き、休憩も取る暇がない状態だ。今日も、一人残って仕事をこなしていた。
克哉は腕時計にちらりと視線を留めた。もう、随分と遅い時間だ。冬が終わり、随分と陽が落ちるのも遅くなった。だから、もうこんな遅い時間になっていたとは気づかなかった。
仕事もちょうど一段落したところで、翌日の業務を考えると、もう帰った方が良いだろう。しっかりと身体を休ませるのも仕事の内だ。克哉はパソコンをシャットダウンすると、AA社のフロアを出た。
克哉の自宅はAA社の上の階の居住フロアにある。AA社を起ち上げるときに、オフィスと一緒に借り上げた部屋だ。通勤はエレベーター一本で済むが、家賃は驚くほど高い。都内の一等地で、それも高層ビルの眺めの良いフロアに位置しているのだ。当然と言えば当然の金額だろう。
自室のリビングの壁一面を覆う窓は東京の景色が一望できる。目の前に広がる景色はさながら巨大な一幅の絵のようだ。克哉の部屋は物自体が少なく、シンプルで品のいい調度品が置かれていて、一見、ホテルかモデルルームのように洗練されている。しかし、生活感に欠け、どこか空々しい部屋は、まるで自分のようだと思う。見栄えだけ良くて、中身は空虚だ。
ここは、睡眠をとるだけのための部屋だった。克哉はこの部屋に誰も入れたことがないし、誰も入れたいとは思わなかった。だが、架空の記憶の中の自分は違った。
この静寂に満ちた空っぽの部屋には、存在しないはずの思い出が数え切れないほど詰まっていて、ことあるごとにこの部屋を色鮮やかに彩るのだ。
帰宅した克哉はリビングのライトのスイッチを入れた。
すると、照明が煌々と照らし出すのと同時に、テレビが点き音声が流れだす。人の気配を感じて目を向ければ、リビングのソファでは御堂がテレビを見ていた。
克哉は目の前に広がる光景に、眼鏡のブリッジを押し上げつつ目を眇めた。また、予期せぬ白昼夢に巻き込まれてしまったらしい。長時間、仕事に気を張りつめて疲れてはいたが、御堂の姿を目にすると途端に疲れが吹き飛んだ。
そう、この日、克哉は仕事終わりに御堂を部屋に誘ったのだ。
せっかく恋人の部屋に来たというのに、御堂はジャケットを脱ぐと、色気もなく経済ニュースをチェックし始めた。テレビは経済ニュース専門チャンネルを流していて、御堂は眉間に皺を寄せながら、画面を埋める細かい数字まで熱心に読み取っている。
真剣な顔つきに、克哉も黙ったまま御堂の隣に腰掛けた。ソファの座面が沈み、御堂はちらりと横目で克哉を確認すると、そのまま視線をテレビに戻した。
克哉は身長百八十センチ近くあるが、御堂の身長は克哉より高い。長い四肢と締まった体躯。すらりと通った鼻梁(びりょう)。深く折りたたまれた二重の切れ長の眸は、意思の強さを感じさせる視線と相まって、会う人すべてに御堂という存在を深く印象付ける。だが、この凛とした厳しさを見せる顔つきが、克哉と二人きりの時は甘く解けることを知っている。
早くこの部屋に引っ越してくればいいのに、と克哉は思う。
御堂と二人で住むつもりでこの部屋を選んだのだ。鍵も渡しているが、御堂は未だに他人行儀にインターフォンを鳴らして克哉がドアを開けるまで入ってこようとしない。
克哉はしばらく御堂の横顔を眺めていたが、御堂は一向に克哉に注意を向けようとしなかった。致し方なく腕を伸ばして御堂を抱き込んだ。途端に、御堂が身体を強張らせる。
御堂から香るフレグランスのラストノートが汗と混じり官能の香りを立ちくゆらせる。その香りに浸るようにうなじに顔を埋めた。御堂がくすぐったそうに身を竦める。克哉は御堂のうなじに歯を立てた。軽く噛みついてみせる。
『やめろ、佐伯』
身体を捩って逃げようとする御堂を逃がすまいと、さらにきつく抱き留めた。そして、なだめるように御堂の首筋に甘いキスを落とす。その一方で素早く御堂のシャツの裾をズボンから引っ張り出して、その中へと手を潜り込ませた。滑らかなわき腹を撫であげる。無駄のない筋肉が乗った締まった身体だ。その感触を楽しみながら、ベルトのバックルを外し、スラックスの前を乱し、御堂の性器をアンダーの布地の上から撫で摩ったところで、御堂は咎める声を上げた。
『いい加減にしろ。私はニュースを見ているんだ』
『そのままで良いですよ。あなたはただ気持ちよくなっていればいい』
『馬鹿、情報が取れないだろう。後にしろ、佐伯』
『この部屋で俺を呼ぶなら、名前で呼んで欲しいですね……孝典さん』
御堂が動きを止めた。耳朶がほんのりと赤く染まる。その反応に気をよくして、アンダーの合わせから、まだ柔らかい性器を引きずり出した。
『佐伯……』
『呼び方が違うでしょう、孝典さん?』
孝典さん、と甘く囁きながら、御堂の髪に、頬に、うなじに唇を落とした。耳朶を優しく食(は)みながら御堂のペニスに指を絡めた。そうして、根元から優しく擦り上げる。
『ぁっ、よせ……っ、ん……っ』
リズムよく上下に扱くたびにペニスは質量を増していく。身を固くして与えられる刺激に耐える御堂は、すでにテレビのニュースは上の空だ。そうこうしているうちに、ペニスの頂がきらりと光り、雫がにじみ出る。
克哉はちらりと舌を出して自分の上唇を舐めると、御堂の股座(またぐら)に頭を埋めた。大きく育ったそれを口内いっぱいに頬張る。音を立ててしゃぶり、先端の潮気のある蜜を吸い、尖らせた舌を竿に這わせる。
ペニスのあらゆるところから快楽を煽ると、御堂の手が克哉の頭に置かれた。癖の強い髪の毛に指が絡む。その指先に込められる力から御堂が感じる快楽が伝わってくる。御堂を咥えたまま、黒目を動かして上目遣いに見上げると、濡れそぼる眸と視線が重なった。御堂の男らしい尖った喉仏がごくりと上下する。
『佐伯……』
御堂の形の良い唇から、熱い吐息と共に掠れた声が零れる。御堂がリモコンに手を伸ばしてテレビを消した。そして、克哉に言った。
『……私にもさせろ』
『ニュースはもういいのか?』
『意地が悪い奴め』
『今更だろう?』
にやりと笑って顔を上げると、二人は立ち上がった。互いに服を脱がせ合うと、克哉はソファの上に仰向けに横たわり、御堂に顔を跨がせる。御堂は四つん這いで、形を持ち出した克哉のペニスに長い指を絡めた。そうして、ぬるりと熱い舌で舐め上げていく。
ぺちゃぺちゃと熱心に舐めしゃぶる音が響いてくる。少しの間、御堂から与えられる快感に浸っていたが、克哉も目の前に剥き出しになった御堂の性器を口の中に導いた。同時にその奥にある窄まりへと指を延ばす。刺激を与えるほどに、御堂が熱っぽい吐息を漏らす。
『もう、いいだろう……ッ』
堪えられなくなった素振りで御堂が顔を上げた。そして、身体の向きを変えて、克哉の腰の上に跨った。克哉のペニスに手を添えて、自分の脚の間に導いてくる。克哉の先端が窮屈な窄まりに触れる。そこにぐっと圧力がかかり、熱い体内へとめり込んでいく。
『く――ぅっ』
茎の半ばまで呑み込まれたところで、抵抗が強くなった。身体が強張っているせいで、深く咥えこめないのだ。懸命に克哉を咥えこもうとする御堂の腰を手で留めた。動きを邪魔された御堂が克哉に顔を向ける。訝しげな視線に視線を重ねて言った。
『孝典さん、あいしてます』
『な……、こんな時に言うな』
今まさに克哉と深くつながろうとしたところで不意を突かれ、御堂は顔を赤くして慌てふためく。その様子がおかしくて、くすりと笑った。
『それなら、いつ言えばいいんですか』
『私にそんなことを聞くな、馬鹿』
御堂がすねたようにそっぽを向く。七歳年上の、自他ともに認める有能なビジネスマンだ。私生活では恋愛経験も派手だったと聞く。それなのに、克哉の前ではこんな初々しい姿さえ見せる。そんな御堂が愛おしくてたまらない。
『じゃあ、続きをしますか』
克哉は腰を掴んでいた手を離した。御堂の身体が克哉の硬い杭の上に落ちる。克哉との会話で身体の力が抜けたのか、どこまでも深く克哉を咥えこんだ。
『ぁ、――あああっ』
御堂が白い喉を反らし、四肢を突っ張らせた。御堂のペニスから白い粘液が噴き出し、克哉の胸から腹へと散らされた。
絶頂の余韻に身を震わせる御堂の腰を揺さぶるように突き上げる。御堂が、悲鳴のような喘ぎを上げた。
『ぁ、さえ……っ、も、ああっ』
中を擦るたびに、御堂のペニスの先端からとぷりと白濁が溢れ、結合部へと滴り落ちる。苛烈な刺激から逃げようと御堂が腰を浮かせたところで、克哉は御堂の腰を掴みなおし、弱いところを狙って抉り込んだ。
『ぁ、ああああっ』
御堂の声が止まらなくなる。御堂の身体を自分の形に拓いていけば、従順な粘膜は克哉を受け容れ、うねり、絡みついてくる。快楽を堪えるように苦しげに眉根を寄せ、目を瞑っていた御堂が、克哉の動きに合わせてそろそろと腰を動かし始めた。二人の呼吸と動きが重なり、悦楽が乗算し、大きな波となって克哉と御堂を呑み込んでいった。
ぐらりと倒れ込んでくる御堂の身体を克哉は上体を起こして抱きとめた。
何度も達したせいで疲労感は極致なのに、なぜか心地よい。乱れる息を整えながら、御堂の汗で額に張り付いた前髪を指で払った。その感触がくすぐったいのか、御堂が吐息だけで笑う。
『孝典さん』
そう呼びかければ御堂が顔を上げる。その顎をすくい、何か言いかけた唇と言葉をふさいだ。柔らかく熱っぽい唇をたっぷりと堪能し、名残惜しく顔を離すと、御堂の唇が震えた。
『かつや……』
御堂が口にした自分の名前は、とても特別な意味を帯びて聞こえた。自分の名前なのに、御堂にそう呼ばれるだけで、ぞくりと背筋がたわむような疼きが身体を駆け抜けていく。
そう、特別なのだ。御堂が『克哉』と呼ぶのは、恋人関係になってからだ。それも、今みたいに、克哉を求めるときにしか呼んでくれない。
だから、何度も自分の名を呼ばせたかった。
『孝典さん、あいしています』
克哉の言葉に、御堂が微笑んだ。優美な弧を描く唇がふたたび重なってくる。体温が触れる直前、その唇が震えて言った。
『私もだ、克哉……あいしてる』
夢から覚めると、克哉はソファに独りだった。周囲には密度の高い静寂が立ち込めている。
「孝典さん」
そう、呟いてみれば、部屋の静けさが微かに乱れて、すぐにまた静かな空間が戻ってくる。
こうして実際に声に出してみると、克哉は驚くほど滑らかにその名を呼べた。まるで、何度もその名を口にしてきたかのように。
その響きは懐かしささえ感じさせた。はるか昔、克哉は御堂のことを「孝典さん」と呼んでいたかと勘違いするくらいに。
だが、惑わされてはいけない。まやかしの記憶だ。
こうも存在しない記憶に振り回されるのはきっと、克哉は思い出というものに乏しいからだろう。克哉は、人生の半分ほどの記憶は断片的にしか持っていない。それも、俺ではないオレの記憶だ。克哉はかつて自分を捨てた。それはすなわち、この世界を見限ったともいえる。
そして、今になってようやく自分を取り戻した。しかし、失った過去までは取り戻せず、戻ってきたはずの世界はどこかよそよそしかった。自ら捨てた世界だ。歓迎されるとは思っていなかったが、いまだにこの世界に歩み寄ることが出来ない自分がいる。疎外感は常に克哉の傍らにあった。
そのせいだろうか。御堂との記憶は現実ではないと頭で分かっていても、自分の中の空虚さを埋めるようにすっと馴染み、懐かしさまで覚えてしまう。
しかし、現実よりも幸せな架空の記憶など要らない。でないと、この世界を生きる自分があまりにも惨めではないか。
かといって、この記憶が跡形もなく消え去ることを本心から望んでいないことも自覚していた。
この夢にどうしようもなく囚われている。克哉と御堂が恋人同士として過ごす記憶は、あまりにも魅惑的だった。
幸福の余韻を引きずりながら、克哉は重たい身体を奮い立たせて、シャワーを浴びて服を着替えた。そして、寝室へと向かった。
その夜、ベッドで眠りについた克哉は、ふたたび御堂の夢を見た。
とても、静かな夜だった。
肌に触れる清潔で乾いたシーツ。ベッドで克哉は上体を起こし、隣で眠る御堂の顔を眺めていた。ベッドサイドのランプが御堂の寝顔に深い陰影を刻んでいる。
しんと静まり返る部屋は、耳を澄ましても微かな空調の音しか聞こえない。
この世界はとっくに滅びて克哉と御堂しか生き残っていないのではないか。そんな風にさえ思える夜だった。
唐突に、御堂が息をしているのか心配になり、克哉は目を凝らした。そして、御堂の裸の胸が静かに上下するのを見て、ほっと安堵の息を吐く。
もし、御堂がいなくなったとしたら、克哉はこの世界にただ一人取り残されてしまうのだろう。
だから、何が何でも守らなくてはいけない。この手の中にある平穏と幸せを。どんな手段を用いたとしても。
克哉はそう胸に誓い、ベッドサイドの照明を消した。闇が部屋に満ちる。
静謐と安寧に包まれた二人は身を寄せ合い、柔らかな夜の底にゆっくりと沈んでいった。
第三章 幸福な夢の終わり
吹きつける強い風に土の匂いが混ざる。克哉は空を見上げた。青空に白い絵の具をうっすらと溶かしたような霞がかった空。陽射しは煌めき、吹きつける風は鋭さが和らいでいる。
今日は久々の休日だった。春めいた陽気に誘われ、克哉は珍しく散歩をしていた。
自宅もオフィスも同じビル内にある克哉は、平日は外回りの仕事がなければ、ビルの中を上下しているだけだ。もともと、アクティブな方ではない。だが、久々の休日まで部屋の中に閉じこもっているのは精神衛生上良くないだろうと、気分転換も兼ねて外に出てきたのだ。
少し遠くまで歩いてみるかと、普段足を向けない道へと踏み入れていく。
だが、この世界のアスファルトを踏みしめながらも、心は、御堂と過ごす幻の世界に漂わせていた。
御堂との記憶は何かをきっかけにして発作のように蘇った。
どちらの克哉が幸せかというと比べるまでもなく、偽の記憶の自分で、この分だと今際(いまわ)の際(きわ)の走馬灯は本物の記憶よりも、御堂と過ごす架空の記憶の方が蘇ってくれた方が安らかに死ねるだろう。
幸福な並行世界の記憶。それはあまりにもリアルで、本当にそういう世界があったのではないかと錯覚させる。今の自分は、どこかで選択肢を間違えたせいで、バッドエンドとしてのこの世界に行きついてしまったのではないか、そんな想像さえしてしまう。
今の克哉だって、世間一般から見れば『勝ち組』に分類されるだろう。なんといっても、東京の一等地に構える新進気鋭のコンサルティング会社の青年社長なのだ。
だがその実は違う。痛みもなく、喜びもなく、表面だけ取り繕って周囲の世界に合わせて生きている。思い出す価値もない無味乾燥な毎日を積み重ねる一方で、そんな自分から目を逸らすように仕事に打ち込んでいる。
そんな克哉の日常にたびたび挟まってくる情景の断片。それがあまりにも眩しくて暖かかくて、一瞬にして心奪われてしまっていた。伸ばした手の先からすり抜けようとする記憶を必死に握りしめ、何度も反芻(はんすう)し、余韻に浸っている。
気付けば、ここ最近はずっと御堂との記憶を追い求めていた。克哉が生きるこの現実ではなく、垣間見る虚構の世界を渇望している。ありもしない記憶を思い返しては、幸福に頬が緩みそうになり、その度に我に返っては、そんな自分にあきれ果てた。
「そんなもの、最初から手に入らないと分かっていたのにな」
克哉は独り言ちて自嘲の笑みを浮かべた。
御堂は自分の手の届かないところに在る。それが分からなかったから、克哉は暴走した。御堂を貶めて汚せば、自分のところまで堕ちてくると信じていた。それが途方もない過ちであったと気付いたからこそ、御堂を解放した。もう二度と御堂に触れることは止めよう、そう決意したのだ。
絶対手にすることが出来ないと分かっているものを切望する苦しみ。それから逃れるためには、この幻想から一刻も早く離れるべきだろう。
存在しない記憶に振り回される中で、現実の御堂に会いに行こうかと考えたこともあった。御堂はちゃんとこの世界に存在している。だから、現実の御堂を実際に目にすれば、妄想じみた記憶から解放されるかもしれない。
しかし、結局のところ、行動に移すことはなかった。克哉は御堂の連絡先も住所も知らない。勤務先はもちろん知っていたが、御堂に堂々と会いに行けるような理由もなかった。それでも偶然を装って会うことは可能だろう。しかし、出会ったその先の御堂の反応を想像すると躊躇してしまう。
記憶の中の御堂とは真逆の、冷淡な眼差しを向けられると分かって、のこのこ会いに行くほどの度胸もなかった。結局のところ、救いようのない過酷な現実を思い知らされるより、幸福な夢に浸っている方がマシだという判断に落ち着いてしまうのだ。
ぼんやりと歩いているうちに、随分と遠くまで来てしまったようだった。いつの間にか克哉は大勢の人の流れに巻き込まれていた。見慣れぬ風景に周囲を見渡し、目に飛び込んできた光景に、克哉は外に出たことを心底後悔した。人の流れは公園に向かう人々で作られ、その先には満開の桜が克哉を待ち受けていたのだ。
ふわり、と一枚の花弁(はなびら)が克哉の肩に舞い降りた。
「忌々しい……」
克哉は吐き捨てるように言い、肩を払うと、足元に落ちた花弁を踏みつけた。
だだっ広い公園には多くの桜の樹が植えられ、見事なまでに咲き誇っている。今がちょうど桜が見ごろの時期だということをすっかり失念していた。
桜を目にすると、癒えない古い傷の存在を思い出す。
気分転換どころか暗鬱たる気持ちになって、一刻も早く帰ろうと踵を返した時だった。
『佐伯、どうした?』
不意に、耳元で御堂の声が響いた。
いつもの発作だった。脳裏に鮮やかな光景が展開される。
心臓が高鳴りだす。
落ち着け、ただの幻だ、と自分に言い聞かせた。だが、克哉の自制心を無視して、架空の記憶は展開されていった。
『君がぼうっとしているなんて珍しいな』
御堂が笑う。その柔らかな表情に目が引き付けられた。
これが夢なら、自分は好きに動けるはずだ。だが、克哉は決められた通りにしか動けない。なぜなら、これは記憶だからだ。
克哉は架空の思い出に浸っている状態で、微笑んでくる御堂に「どうして、俺相手にそんな顔が出来るんだ?」と問いただしたいが、記憶の中の自分は思い通りには動いてくれない。
記憶の中の克哉は軽口を叩きつつ、人混みの真ん中で甘い言葉をささやき、御堂が慌てふためく様を楽しんでいる。存在しない世界の自分たち二人の距離感は、まさしく恋人のそれで、甘やかな関係を見せつけられる。
桜が咲き乱れる公園、そこに御堂と克哉は並んで歩いていた。要は花見がてらのデートだろう。桜を見に行くなんて、決して自分からは言い出さないはずだ。ということは、御堂に誘われたに違いない。
あれほど忌み嫌っている桜でさえも、御堂と一緒なら嫌がりもせずに花見に赴くのか、と記憶の中の自分にあきれると同時に嫉妬を覚える。
そんな架空の記憶の波間を漂っているうちに、克哉はいつの間にか公園の中に深く入り込んでいた。青い空を背景に一面の桜が咲き誇る。忌々しさしか感じない光景。だが、ありもしない記憶では、克哉はこの公園を御堂と二人で歩いていた。
なるべく桜が目に入らないように視線を足元に下ろしながら歩く。周りの人間は連れ立って歩き、笑い声があちらこちらで沸き立つ。誰も彼もが幸せそうだ。
現実では独りで歩きながら、記憶の中では御堂と肩を並べる。
その時だった。克哉は弾かれたような衝撃を受けた。
「……っ」
公園の人混みの中から、克哉はその姿を一瞬で見つけ出していた。急激に意識が現実に引き戻される。
―― 御堂……!?
咄嗟に、桜の樹の影に隠れた。
まさか、こんなところで御堂を見かけるとは想像さえしなかったから、不意打ちの衝撃にうろたえてしまう。
こんな風に隠れたりせずに、堂々とすれ違えばよいのだ。御堂は克哉を無視するだろうし、克哉も素知らぬふりをすればいい。
それでも、ついさっきまでは御堂との甘い記憶に耽っていただけに、御堂を前にして平静を保てる自信などなかった。桜の樹の影から出ることもできずに、こっそりと黒目だけを動かして御堂の様子を窺う。
御堂はそうとは気づかずに、克哉の方に向かってくる。御堂は一人ではなかった。男たち数人のグループで花見を楽しんでいた。顔はにこやかで、談笑する笑い声がここまで響いてくるかのようだ。
グループの男の一人が笑いながら御堂の肩に手を回した。御堂はそれを嫌がるようでもなく、相手に笑い返している。
「――ッ」
その姿を目にして、知らず知らずに克哉は自らのシャツの胸元を掴んでいた。いきなり胸にナイフを突き立てられたような気分だ。御堂のあの楽しげな表情。本当なら自分に向けられていた表情のはずだ。
本当なら?
違う。すべて、自分の妄想だ。
それなのに、御堂を奪われたような怒りと悔しさが込み上がってくる。
人の波が克哉と御堂を遮る。あっという間に御堂は人混みに呑み込まれ、姿が見えなくなった。
その時、強い風が吹きつけた。風にあおられた枝が大きく上下に揺れる。途端に、夥(おびただ)しい数の花弁が空に舞い上がり、陽の光を浴びて白く輝いた。
御堂を追いかけなければと思った。
だが、動けなかった。花見のにぎやかな公園のはずなのに、喧噪が急激に遠ざかり、御堂を除いたすべてが色彩を消し去っていく。
視界一面を花弁が埋め尽くし、ハレーションを起こしたかのように真っ白に灼けた。
記憶が奔流し、克哉を攫(さら)っていく。知らないはずなのに知っている偽の記憶。自分がどこにいるのか足場を見失う。
その中で、遠くから、一人の男が近付いてきた。真っ白な視界の中で、その男だけが鮮やかに際立っている。視界に男の姿が広がっていく。
―― これは、現実ではない。
そう思うのに克哉は固まってしまっていた。
すれ違う男が克哉に向けて唇の端を吊り上げた。
『へえ……、今度はそいつに頼って生きてるんだ』
―― こいつは……。
幻だと分かっているのに、瞬き一つさえ出来なかった。自分でも驚くくらいの衝撃を受けていた。
『どうした? 大丈夫か、佐伯?』
肩に手がかかる。その感触も耳に響く声もリアルだが、これも幻だ。なぜなら、この声は、さっき克哉の目の前を通り過ぎっていった男の声だからだ。
―― 御堂。
ここにいるはずがない男の名前を呼ぶ。
幻覚の渦に呑み込まれる。ふ、と意識が遠のいた。
「佐伯さん……、佐伯さん」
呼びかけられる声に意識が浮上する。重い瞼を押し開けば、ゆっくりと視界が輪郭を結んでいった。そして、ようやく我を取り戻す。
克哉は気付けば公園のベンチに座り込んでいた。目の前に立つ男が克哉の顔を覗き込むように上体を屈めていた。闇に染め上げられたような黒いコートに黒いボルサリーノ帽。帽子から零れた濃い金色の長い髪は緩く編みこまれて、闇の中で光の粒子を放っているかのように仄かに輝いていた。
「Mr.R……」
「大丈夫ですか?」
「ここは……」
周囲を見渡せば、花見の公園は闇に閉ざされてもはや人影はない。
いつの間にか夜になってしまっていたようだ。自分は意識を失っていたのだろうか。
「随分と顔色が悪いようですが」
Rが口元に薄い笑みを浮かべながら、ゆったりとした口調で言った。
「まるで酷い悪夢を見たような……」
克哉が何を視たのか知っているような素振りで、Rは声をかけてくる。
「酷い悪夢か……」
まだ頭の中は靄(もや)がかかっているようだ。克哉はこめかみを手で押さえながらひとつひとつ、記憶を手繰り寄せていく。混ざり合う現実の記憶と、架空の記憶。自分に一体何が起きたのか。
徐々に記憶がよみがえり、一つ一つの点がつながっていく。最初は幸せな夢に浸っていたのだ。だが、夢がいつの間にか現実に繋がり、悪夢へと急展開した。
御堂は、克哉ではなく、別の誰かと親しげに歩いていた。いかにも楽しそうな表情で。
それが自失するほどの衝撃だったのだろうか。
いや、違う。
その後に、別の男と遭遇したのだ。
――澤村(さわむら)、紀次(のりつぐ)……。
澤村紀次は克哉の小学校時代の同級生だ。その男の最後の記憶は小学生で途切れていたのに、それでもひと目で判別できた。にこやかな顔の裏に隠された悪辣さ。
もう十年以上昔のことだ。そんな子供時代の出来事など、とうに克服したつもりだった。それでも、澤村に遭遇した自分はひどく動揺していた。その事実に衝撃を受ける。
あれは、現実だったのだろうか、それとも幻想だったのだろうか。もはや定かではない。
クスッとRが吐息だけで笑った。
「どうやら随分と混乱されているようですね」
「……」
自分の弱さを嘲笑されているようで、克哉はレンズ越しにRを睨み付けた。だが、Rは動じる風もない。
どうして今更、澤村の幻を視たのだろうか。それも大人になった澤村の姿を。その姿形はまるで本人を見知っているかのように鮮烈だった。
実際に自分は澤村と会っていたのだろうか。そして、その記憶を潜在意識に押し込めていたのだろうかとさえ錯覚させる。いや、あれはありもしない幻覚であるはずだ。その後にかけられた声は間違えようもなく、御堂の声だったからだ。
単なる夢のはずなのに、それは現実よりも生々しく克哉に襲い掛かってきた。
ようやく乱れた鼓動が落ち着いてくる。克哉は大きく息を吐いて立ち上がると、改めてRを観察した。目の前に立つRは紛れもなく現実に存在していた。
「それで、お前は何をしに来た」
「あなたにこれを渡しに参りました」
Rはニコリと笑って、克哉の前に右手を差し出した。優美な動きで差し出される、革の手袋に包まれた手。長い指が一本一本、ゆっくりと開かれていく。そこにあったのは、紛れもない、あの眼鏡だった。
「ッ!」
頭の中を一閃の電撃が貫いたかのように眩暈がした。この光景さえ、強烈な既視感(デジャヴ)を覚える。
「どういたしましたか?」
「いや……。前にもこんなことがあった気がする」
克哉はまじまじと眼鏡を見詰めた。銀のフレームが鈍く光る。なぜか、この眼鏡を何度もこの男から受け取ったような錯覚に襲われる。Rはうっすらと微笑んだ。
「私はあなたの忠実な下僕(しもべ)。必要とあれば何度でもあなたにこの眼鏡を届けに参じましょう。そう、何十回でも、何百回でも」
またもや克哉の思考を読んだかのような返事。それでいて、克哉の疑問を煙に巻こうとしている。反射的に眼鏡を受け取ろうとする自分を押しとどめた。
Rに眼鏡を渡されるのはこれで二度目だ。一度目はふがいないオレだったとき。この眼鏡によって克哉は自分を取り戻した。
だが、どうして今更、Rは克哉にこの眼鏡を渡そうとするのだろうか。
「何故、これを俺に?」
「今のあなたに必要なものだからです」
「俺にこれが必要だと?」
「ええ」
この得体の知れない男が克哉に関わってくるのは、何も親切心からではない。この眼鏡を克哉がかけたことによって、克哉の運命は大きく舵(かじ)を切った。そして、克哉に関わった人間もまた、克哉の運命の歯車に巻き込まれたのだ。それを考えると、安易に眼鏡を手にすることは躊躇(ためら)われた。
そんな克哉にRは笑みを深めた。その金の眸が妖しい光を宿す。
「何を迷っていらっしゃるのです?」
「俺にこんなものは必要ない」
「そうでしょうか」
Rは一拍置いて、克哉の眸をまっすぐに射抜いた。そして、宣告する。
「あなたは、まやかしの記憶に惑わされている」
「……っ」
克哉は息を呑んだ。自分でそう思っていても、第三者にそう指摘されるのは重みが違う。
「まやかし、なのか……?」
「ありもしない出来事、それがまやかしでなくて、何なのでしょう?」
御堂との記憶はあまりにもリアルで、単なるまやかしと片付けることは出来なかった。克哉の逡巡を見透かしながら、Rは諭す口調で言った。
「この眼鏡は、あなたの真の姿を示してくれます。それはよくご存じのはず。あなたの迷いを晴らしてくれるでしょう。あなたの中に、すべての答えはあるのです」
黙ったまま克哉は眼鏡に視線を落とした。
Rの言う通り、克哉はこの眼鏡のおかげでこの肉体へと呼び戻された。
だが……。
本来の自分を取り戻し、そうして自分は何を手に入れたのだろうか。
不意に胸の奥が疼いた。全身の細胞がざわめき、脳の深いところで光がちらついた。克哉は何を得て、何を失ったのか。大事なことを忘れてはいないだろうか。
今の自分がこの眼鏡をかけることは、予期せぬ結果を招くことにはならないだろうか。
ふふ……、とRは小さく笑った。
「この眼鏡をかけることがそんなに怖いのですか?」
「戯言を」
挑発するかのような物言いに、克哉は強い視線でRを睨み付けた。
「俺はお前の思い通りになどならない」
「もちろんでございます。私はあなたの選択を阻むつもりなど毛頭もございません」
「どうだか」
克哉はRの手から眼鏡を奪い取るようにして掴んだ。金属のひんやりとした感触が、手に馴染む。そのまま眼鏡をかけ直したくなる衝動を抑えて、克哉はその眼鏡をジャケットの内ポケットにしまった。
「この眼鏡は預かる。だが、使うかどうかは俺が決める」
「どうぞ、あなたのお心のままに」
そう言って、Rは慇懃に頭を下げる。克哉は「ふん」と鼻を鳴らすとRに背を向けた。
足元には桜の花びらが無数に散らばっていた。それを踏みつけながら克哉はその場から立ち去った。
「今度こそ、私が望む道を選ばれますように……」
Rが克哉の背後から何事かを呟いた。だがその言葉はすぐに公園の闇にかき消されていった。
その夜、克哉はまっすぐに自宅に戻った。名状しがたい不快感を流し去るように、強めのアルコールを呷(あお)ると眠りについた。何の夢も見たくない。そう願ったのに、そうはならなかった。
『よせ、佐伯……っ』
克哉の身体の下から喘ぐ声が上がる。その声に克哉は酔いしれたようにさらに腰を強く打ち込んだ。
目の前には苦痛に歪んだ御堂の顔がある。頭の芯が熱く痺れる。この男が悲鳴を上げ、泣いて許しを乞う姿を眺めるのはさぞかし愉しいだろう。
『さえ…き、―― 佐伯っ!』
御堂は必死に克哉の名前を呼ぶ。まるで、どこか遠くに行ってしまった克哉を呼び戻そうとしているかのようだ。だが、克哉は耳障りな声に眉を顰(しか)めた。
『うるさい、黙れ』
聞きたいのは甘美な悲鳴だ。そうでないのなら黙っていろ。
克哉は近くに落ちていたハンカチを掴むと御堂の口の中に突っ込んだ。御堂の目が見開かれ、その眦から涙が零れ落ちた。
だが、克哉の胸は少しも痛まなかった。この男は甚振(いたぶ)れば甚振(いたぶ)るほど官能が燃え上がることを知っている。そう仕込んだのは克哉だ。だから、遠慮など要らない。乱暴なくらいがちょうど良いのだ。
ほら、その証拠に御堂のペニスは破裂しそうなほど張りつめているではないか。
克哉は唇の片端を吊り上げると、御堂のペニスに指を絡めた。透明な雫を滲ませる頂に爪を喰い込ませる。
『――ッ!!』
鮮烈な痛みに御堂はくぐもった悲鳴を上げて、身体を跳ねさせた。中がきつく引き絞られる。そこを押し拓くようにきつく突き上げた。克哉の手の中で御堂のペニスがひくひくと痙攣し、精液を吐き出していく。悦楽に屈した御堂をせせら笑いながら、克哉もまた御堂の中に放った。
目が覚めたとき、克哉は痛いほどに勃起していた。
寝起きなのに、この気分の悪さはどういうことだろう。
アルコールを飲み過ぎたせいで、頭はガンガンと痛む。だが気分の不快さはアルコールのせいだけではなかった。罪悪感と、それを上塗りするほどの激しい欲情。
夢の中で、克哉に蹂躙される御堂を目にして、言い訳のしようもなく克哉は興奮していたのだ。あの記憶の克哉は嗜虐に満ちた表情をしていた。
自分の中に、御堂を凌辱しつくしたいという願望が未だ眠っている。もう、御堂に酷いことはしない。そう誓ったはずなのに、自分はいとも簡単に誓いを破り御堂を凌辱した。
架空の記憶の世界の自分はあれほど幸せそうだったのに、どうしてそんなことをしてしまったのか。
「一体どうしたんだ、俺は」
胸を一掃するほどの大きな息を吐いて、克哉は思考を切り替えようとした。
ありもしない世界に存在する架空の自分の心理を推し量っても無駄だ。
だが、明らかに今までの夢とは様相が違った。甘さも平穏も、そこにはなかった。かつて御堂をなぶりものにした時のような、昏い興奮と甚振(いたぶ)る快感に支配されていた。
御堂が克哉に向けた眼差しを思い返すと、胸が苦しくなる。御堂は驚愕し、そして絶望していた。恋人を信頼しきっていた御堂を、克哉は手酷く裏切ったのだ。
あの記憶の自分は、自分ではない。そう思おうにも、あの御堂の顔がかつての自分に重なった。
澤村に裏切られた自分も、あんな顔をしていたのだろうか。そんな克哉を、澤村は薄ら笑いを浮かべながら、無惨に蹂躙していった。
夢の中の克哉は、澤村と同じことをしていたのではないか。記憶にある澤村と同じ、嫌な笑みを自身の顔に浮かべていた。それが、自分の選んだ生き方だったのか。
考えれば考えるほど、泥沼に足を取られたかのようにあの夢に囚われてしまう。
一体全体、この幻の記憶は何なのか。
存在しないはずの記憶に押し潰されてしまいそうだ。
克哉は二日酔いを覚まそうとシャワーを浴びた。
Rから渡された眼鏡を使えば、きっとこの妄想から解き放たれるのだろう。だが、克哉はその眼鏡を使うつもりはなかった。まだあの記憶を手放したくない。絵空事だと分かっていても、御堂を傍に置いておきたかった。夢の中では御堂は克哉の恋人として実在しているのだ。Rは克哉にこの眼鏡を使わせたがっているのは分かっている。だが、Rは克哉への誘惑の仕方を間違っていた。この眼鏡はまやかしを取り除くのではなく、まやかしを現実にすると言われればその誘いは抗いがたいものだったろう。
今朝がたの悪夢は悪酔いのせいで引き起こされた幻に違いない。またすぐに甘やかな記憶がよみがえるはずだ。
そう自分に言い聞かせて勢いある熱い水滴を頭からかぶる。身体に残ったアルコールも不快な気分も何もかも洗い流してしまいたい。そう願うが、鉛のような重苦しさが胸を塞いだままだった。
それから数日して、克哉が抱えている月天庵のコンサルティングは大詰めを迎えていた。アルテア飲料とのコラボレーション企画が走り出したのだ。これが軌道に乗れば一息つくはずだった。
AA社が取り扱っているコンサルティングは何も月天庵のものだけではない。他にいくつもの案件を同時進行で引き受けている。藤田は即戦力として大いに役立ってくれているが、それでも捌ききれないほどの業務量を抱えていた。
明らかに仕事を欲張り過ぎている。だが、仕事をセーブする気はなかった。
それもこれも、架空の記憶のせいだった。
あちらの世界の自分たちも、同じように月天庵のコンサルティングを引き受けていた。そして、アルテア飲料とのコラボレーション企画も進行している。もはや、夢の中の克哉がこの企画を思いついたのが先か、この克哉が先なのか分からなくなっているくらいだ。
そして、なんといってもあちらでは御堂も加わってコンサルティングを進めているのだ。御堂は言うまでもなくAA社の強力な戦力となっていた。
だから克哉は、半ば意地になってコンサルティングの仕事をこなしていった。幻の世界と張り合ったところで意味はないとはいえ、あの世界のAA社の業績に決して見劣りしないように。限界を超えて働いていた。
しかし、克哉は向こうの世界の自分たちが月天庵のコンサルティングに躓いたことを、よみがえった記憶から知った。
あの、桜を見た日を境にして、架空の記憶の様相は一変した。
澤村が現れたのだ。桜の公園で遭遇した澤村は、あちらの夢の世界の住人だったらしい。その事実に安堵する反面、架空の記憶は次第に不穏さを増していった。
あちらの世界の自分は、どんどんと孤立を深めていた。
気遣ってくる御堂から心を閉ざし、澤村への憎しみを募らせていく。記憶の中の克哉は常に何かに苛立ち、ちょっとしたことで機嫌を損なうことも多くなった。周囲は腫れ物に触るように克哉に接してくる。御堂と克哉の間に以前のような甘い雰囲気は消え失せ、息が詰まるような緊張感が漂い出した。
御堂が今までにないほどの険のある顔つきで克哉の前に立っていたこともあった。荒げた声で克哉を怒鳴りつける。怒気も露わにした御堂の様子に、克哉は反省するどころか、ますます態度を硬化させた。
そしてまた、記憶自体にも変化があった。今まであれほど鮮明に現れていた記憶は断片化して、脈絡のない光景が細切れのように克哉の前にフラッシュバックしては霧散した。
オフィスにいた次の瞬間に街中の歩道に突っ立っているときもあった。克哉も戸惑ったが、記憶の中の克哉も困惑していた。混沌とした記憶はいたるところで曖昧だった。
その理由を克哉は直感した。あの世界の克哉の自我が揺らいでいるのではないだろうか。
あちらの世界にはあちらの世界の物語がある。だが、裁断された記憶のおかげで、克哉は向こうの自分たちの情報を得るのも難しくなっていた。
それでも何もかもが上手くいかず、悪い方向に向かっていることは分かった。幸福に満ちた世界に亀裂が入り、終末が近いことを予感させた。
もう一つの記憶の自分たちの異変は気になったが、存在しない世界にばかりかまけてはいられない。幸い、この世界には澤村の影も形もなかった。あちらの世界とこちらの世界は似ているようでまったく違う世界なのだと思い知る。
当初は、蘇る夢の幸福さから、自分の願望を思い描いた世界だと思っていた。だが、今はそうは思わない。自分の夢の世界なら、澤村の登場など絶対に許しはしない。
それならば、あの世界はなんなのだろうか。克哉の前に繰り返し現れる記憶はいったい誰の記憶なのか。そこに真実は含有されているのだろうか。
自分の知らないところで重大な運命の歯車が回り始めているのではないか。崩壊はすでに始まっているのではないか。そんな不吉な予感が頭にこびりついて離れない。
そんな不安を克哉は心の片隅に抱えながら、日々を過ごしていた。
クライアント先に出向いた帰り、克哉はタクシーの中でビルの合間に植えられた桜を目にした。陽の光を浴びる桜は満開を過ぎて花が散り、茶色の枝が見え始めている。ようやく桜の季節が終わろうとしている。桜から目を逸らしたところで、克哉は車内に備え付けられた液晶テレビが流した速報に目を奪われた。
「クリスタルトラスト……?」
外資系ファンドであるクリスタルトラスト社が強制捜査を受けたという。画面から一瞬で流れ去ったニュースの詳しい情報を調べようと、克哉は自分の携帯電話を取り出して検索した。すぐに目的の情報は見つかった。クリスタルトラスト社はインサイダー取引の疑いで、同社や取引を主導した社員に対して金融庁が強制的な調査を行ったという。
強引な取引を行うファンドだと克哉も耳にしたことがあった。だが、その単語を視た途端、心臓が不穏に跳ねた。克哉とは何ら関係がない外資系ファンドだ。だが、なぜか引っかかる。手元の携帯を使って速報ニュースをいくつか読み漁り、気が付いた。クリスタルトラストが株価の不正操作を行った相手がスローコーポレーション社だったのだ。そこは確か、MGN社の系列会社だ。だから、引っかかったのだろうか。しかし、クリスタルトラストの名前を目にした瞬間に感じた衝撃は、それだけでは説明できないように思えた。
どこがどう気になるのか、言葉にはできない。他のメディアのニュースも漁ってみたが、どこも速報の内容は一緒で、それ以上の情報は得られなかった。どうも腑に落ちなかったが、これ以上調べても無駄だろう。
あきらめて、スマートフォンの画面を消したその時だった。ふっ、とあたりが暗くなった。
夜の公園に克哉は立っていた。
その公園を克哉は知っていた。AA社の近くにある公園だ。だが、なぜここに自分が立っているのか、克哉は見当がつかない。そして、この公園にいるのは克哉だけではなかった。
目の前には澤村がいた。だが、克哉は澤村に対して、怒りも、憎しみも感じなかった。それどころか、克哉の胸に満ちるのはこの男を完膚なきまでに蹂躙してやったという征服感と万能感だ。澤村が何かを言っている。だが話の内容など興味はなかった。この男の無様で惨めな姿を目にして愉悦に浸っているだけだ。
と、その時だった。
澤村が克哉に向けて差し出した手が空気を鋭く切り裂いた。
ざくり、と鈍い衝撃を首に受けた。筋肉の線維がぶつぶつと切り裂かれる。ナイフの刃が鈍く光るのを視界の端に見た。
信じられない気持ちで澤村に視線を戻した。澤村は可笑しくてしかたないといった顔で、唇を嫌な感じに吊り上げながらナイフを握っている手を引いた。
ナイフが抜け、傷口からどっと血が噴き出す。
狂ったような哄笑が夜の公園に響き渡った。崩れ落ちていく克哉にさらにナイフが突き刺さる。
拍動する出血とともに、克哉の身体から力という力が零れ落ちていく。それを取り戻すことも留めることもできない。すうっと体温が下がっていくと同時に、死が目前まで忍び寄ってくるのが分かった。
その時、携帯の着信音と画面の光が闇を明滅させた。刺された弾みに転がり落ちた克哉の携帯電話。けたたましく鳴り出して着信を告げる。その電話を取りたかった。だが、伸ばした手は届かず、空(くう)を掴んで力なく地に落ちた。
冷たい地面の上に克哉は仰向けに倒れ込んだ。流れ落ちる血の代わりに冷気が身体に入り込んでくる。ぼんやりと見上げた空には、大きくて白い月が煌々と輝いていた。
―― 俺は死ぬのか。
逃れられない死が身体を蹂躙していくのに、克哉は成す術もなかった。
「――ッ!!」
タクシーのブレーキの振動に、克哉は意識を引き戻された。
途端に視界に光が溢れ、都会の喧騒が押し寄せる。
肌が粟立っていた。顔面に冷たい汗が流れ落ちる。激しい汗がどっと全身に噴き出していた。
「お客さん、着きましたよ?」
タクシーの運転手が不審そうに振り返る。
気付けば、AA社が入るビルのエントランス前だった。
「どうしました? 随分と顔色が悪いですが」
「いや……大丈夫だ」
辛うじて声を絞り出し、震えだしそうになる手を抑えながらタクシーの支払いをした。
―― 今のは、なんだ?
殺される夢、にしてはあまりにも真に迫っていた。そう、殺された記憶というのが一番正しい。皮膚を切り裂かれる鮮烈な痛み、噴き上げる血しぶき。
最後に見た光景が網膜に焼き付いている。夜空の真ん中に佇む蒼白な月。暗い水面に浮かぶ月のように、揺れて、霞み、そして闇の中に消えていった。正確に言えば、消えたのは月ではない、克哉の命の灯だ。
あまりの衝撃にまだ、心臓が乱れ打っている。
「俺は死んだのか……?」
無意識に首に手がいく。澤村に刺されたはずのところは、当然肌は滑らかで、血の一滴も流れていない。
もう一人の自分の死。間違いなく死を覚悟したのに、今の克哉は傷一つなくぴんぴんしている。
つまり、あの夢の中の自分と、この自分は全くの無関係だ。だから、気にすることなんて何一つない。
それでも、幻の世界の自分が死んだという事実はあまりにも大きな衝撃を克哉に刻んでいった。
それから数日経った。終業時間を過ぎて執務室のデスクで仕事をしていると藤田が遠慮がちに声をかけてきた。
「佐伯さん、顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「そうか?」
「過労なんじゃないですか。早く帰った方が」
「大丈夫だ。問題ない」
心配を声に滲ませる藤田に、無理して作った笑みと共に断言した。だが、藤田は引き下がらなかった。
「少し休んだ方がいいですって。俺がその分頑張りますから」
「しかし……」
「俺を信用してください!」
そう力強く言われると藤田の気持ちを無下にすることは出来なかった。二人のやりとりを窺(うかが)う他の社員の視線も感じる。よっぽど、克哉は心配されているらしい。
原因は分かっていた。
澤村に殺される幻覚に何度も襲われているのだ。そのおかげで、ここ数日は寝不足だった。目の下のクマや顔色の悪さは隠しようがなく、藤田を始めとしたAA社の社員にも、克哉の不調は見た目に明らかだった。順調に進んでいるコンサルティングも、克哉のパフォーマンスが落ちているせいで滞り始めた。
自分が殺される場面は何度視ても慣れるということはない。タクシーの中で突如現れた殺された記憶は、あれから何度も克哉の前に蘇っていた。殺される状況は様々だった。時に場所を変え、状況を変えながらも、克哉は必ず澤村に殺された。なぜかこの記憶は繰り返されるたびに、細部が少しずつ違ったりしたが、澤村に殺されるという事実は変わらなかった。御堂の目の前で殺されたこともあった。自宅の前で殺されることもあった。
克哉にナイフを突き立てる澤村の目は血走り、顔は狂気に染め上げられていた。執拗に克哉を殺す姿からは、底知れぬ殺意さえ感じる。
何故そこまで憎まれるのか見当がつかない。克哉こそ、澤村のおかげで自分を捨て去る決断にまで至ったのだ。それなのに、どうして平穏で幸福な夢の世界を乱すのか。
それを考えれば考えるほど、澤村とのかつての思い出が頭の中に思い浮かびそうになり、克哉は慌てて思考を振り払った。もう、あれから十年以上経ったのだ。
不意に思い出した。克哉を憎んでいたのはなにも澤村だけではない。御堂にも克哉は激しく憎まれていた。御堂に関しては、原因はすべて克哉にあったが、御堂にだって殺されてもおかしくないくらいの憎悪を向けられていた。それが、あの架空の世界では、片や克哉の恋人になり、片や克哉を殺しに来る。憎悪と愛情は紙一重の違いなのだろう。相手に対する激しい執着という点では変わりはない。
澤村にしろ御堂にしろ、どちらにしても、克哉が深く関わった人間には、ことごとく嫌われる運命にあるらしい。
となると、この世界では、克哉は澤村ではなく御堂に殺される運命にあるのだろうか。だが、それならそれでいいかもしれない。御堂に殺されるなら本望だ。
「佐伯さん……?」
藤田の声に我に返った。藤田が心配そうに克哉の顔を覗き込んでいた。会話の最中にまでぼうっとするとはどうかしている。だから、
「分かった。今日はこれで上がらせてもらう。あとは藤田、頼んだぞ」
と言って、デスクから立ち上がり、藤田の方をポンと叩く。すると、
「任せてください!」
と快活な返事が返ってきた。ふ、と小さく笑ってカバンを持つと、他の社員にも挨拶して自分の部屋へと帰った。
心身ともに重い。
だが、部屋に戻ったところで休息が取れるとは思えなかった。殺される記憶はしつこく克哉の前に現れている。きっと今夜も眠れないだろう。
部屋の電気を付ける気力もない。広いリビングはぼんやりとした淡い光に照らされていた。輝くような街の光が窓から入り込んでいるのだ。克哉は壁一面を覆う窓まで歩みを寄せた。
窓ガラスに自分の顔が映り込む。感情を窺わせない冷淡な顔つきが今までにないほどに、自信を失っているように見えた。薄い唇が動く。
「無様だな、佐伯克哉」
力なく笑った。
このままこの悪夢が続くなら、病院への受診も真剣に考えなくてはいけないだろう。自身の体調管理さえままならない。情けなさにため息が零れる。
その時、ジャケットの内ポケットが震えた気がした。そこには、Rに渡された眼鏡が収まっている。自分を使えと克哉に囁きかけてくるのだ。
今かけている眼鏡を外し、Rから受け取った眼鏡をかける。
たったそれだけで、すべての悩みは解決されるだろう。それは分かっている。だが、その誘惑を寸でのところで克哉は踏みとどまっていた。もう一つの世界で殺される自分。その自分がかけている眼鏡がRから受け取った眼鏡のように思えるのだ。
克哉はジャケットの上から眼鏡に触れた。ひんやりとした感触が布地越しに伝わってくる。
かつて、克哉はこの眼鏡をかけて自分を取り戻した。だが、克哉は眼鏡がもたらす衝動を抑えきれず、御堂を蹂躙し壊そうとした。他人を踏みにじり、支配する快感に酔いしれていた。この眼鏡をかけることによって、また自分は大切なものを壊してしまうのではないか。そんな恐れが克哉に眼鏡を使うことを躊躇わせている。
「―― 大切なものなんて、もうないのにな」
今更自分は何を守ろうとしているのだろう。悪夢に悩まされる自分自身だろうか。この世界から克哉が消えたところで、何ら変わりはなく毎日は続いていくだろう。悲嘆にくれる者もいない。そんなちっぽけな自分を守ってどうするのだろうか。
幻の世界の記憶がなぜ克哉の前に現れたのかは分からない。だが、あの世界は終焉を迎えようとしている。もう一人の克哉の死と共に。もしかしたら、この克哉を道連れに滅びようとしているのかもしれない。
―― それならそれで、いいじゃないか。
克哉は自嘲して、ジャケットに触れていた手を離した。
目の前には煌びやかな東京の夜景が広がっている。
克哉の眼下に広がるこの世界、そのどこかに御堂はいる。だが、御堂の姿を克哉は見つけ出すことは出来ない。
もう一つの世界では御堂は克哉の隣に立っていた。
ふと、あちらの世界の御堂が気になった。あの世界の自分は殺された。残された御堂はどうなったのだろう。
殺される寸前、二人の仲は冷え切っていた。その原因も、克哉は断片的な記憶から把握していた。克哉が澤村を御堂の目の前で強姦したのだ。澤村が御堂を拉致し、その報復目的の強姦だった。それを御堂は本気で怒っていた。その時の自身の心情は脳裏に焼き付いている。激しい憎しみと怒り。それは残虐な衝動に反転し、澤村を強姦した。澤村のプライドと身体をもっとも屈辱的な手段で踏みにじることに、自分は興奮さえ感じていた。御堂が克哉に向けて「やめてくれ!」と悲痛な声で叫んでいた。だが、克哉は御堂を一顧だにしなかった。
だから克哉が殺されても、御堂はそれほど悲しまなかったかもしれない。克哉の自業自得なのだ。
むしろ、そうであってほしいと願っていた。
御堂がこれ以上、心痛めることのないように。どうか、死んだ男のことなど忘れて、自分の道を歩めるように。
御堂は、克哉に関わらない方が幸せなのだ。
だから、克哉は決して御堂に近づいてはいけない。身の丈を超えた夢を期待してはいけない。
「御堂、安心しろ。俺はあんたの前からちゃんと消えるさ」
そう、克哉が消えて悲しむ者はいなくとも、安心する者はいるのだ。
窓ガラスにはひどく傷ついたような弱々しい自分の顔が映っていた。その顔は、かつて澤村に傷つけられた自分と重なって見えた。
―― あの頃から、俺は何一つ変わっていないんだな。
克哉は、力なく笑った。ガラスに映る自分が笑顔に見えるよう無理やり表情を作ってみせる。
―― こんな弱気でどうする。
そう自分自身を叱咤する。
今や、克哉は小さいながらも会社の経営者で、社員もいるのだ。藤田もMGN社から引き抜いた。それを放り出して消えるなんて無責任なことが出来るはずがない。自分が踏ん張らなければ誰が踏ん張るのだ。
その時だった。不意に、後ろから抱き締められる感触と、あたたかな体温が克哉を包み込んだ。
御堂だ。
御堂が克哉の背後に立っていた。
今にも壊れそうなものに触れるかのような優しい抱き方、そして、気遣う声が克哉の耳元で囁かれる。
『大丈夫……なのか?』
その一言に泣きたくなるような切なさが胸に溢れかえった。大丈夫などではなかった。誰かに縋りつきたかった。
克哉に触れる指先から克哉への想いが伝わってくる。一見冷徹に見える御堂が、その実、愛情深いことを克哉は架空の記憶から知っていた。そんな御堂だ。いくら険悪になっていたとはいえ、克哉が死んだとならば、心を痛めているだろう。自分自身を責めているかもしれない。
御堂は克哉に寄り添うように背後から体温を重ねてきた。言葉はなくてもその想いは克哉の胸に深く突き刺さる。
心が大きく揺らぐ。
きっと、御堂は助けてくれるはずだ。克哉が御堂に心を開きさえすれば。
だが、克哉はそんな感情を抑え込み、冷淡に言った。
『何でもない。あなたが気にするようなことじゃない』
そんなことを言えば御堂が傷つくことは分かっている。今まで何度、御堂に酷い仕打ちをしてきたのだ。
御堂の愛を乞いながら、御堂を傷つけたいと思っている自分がいる。
克哉を抱き締める御堂の腕に力が籠った。
『君は決して他人に頼るような人間でないことも知っている。だが、……たまには私に頼れ』
御堂を拒絶して一人ですべてを抱え込もうとする自分の姿は、強さなどなく、痛々しささえ感じる。
そんな自分の惨めさを自覚しているから、克哉はRから受け取った眼鏡をかけてしまうのだ。弱く、浅ましい自身の姿から目を逸らすため。
自分は何と戦おうとしているのだ。そして、何を守ろうとしているのだ。
『あんたがいてくれて、よかった……』
そう告げる自分の声はどこか白々しく響いた。
第四章 レンズ越しの真実
翌日、克哉は何事もなかったかのように出社した。状況はなんら改善していなかったが、これ以上社員に心配はかけられない。殊更平気な振りをして出社し、周囲を安心させるよう、いつも通りに振舞った。
仕事に没頭し、気付いたら終業時間間際になっていた。今日中にこなしたい仕事はまだ山積みだ。遅くまで残業が必要だろう。だが、克哉が残ると藤田を始めとした他の社員は帰りにくいだろうし、また克哉の体調を心配されてしまう。今のうちに藤田や他の社員には仕事の区切りを指示し、適当なところで切り上げるよう伝えた方がいい。
克哉はデスクから立ち上がり、藤田のデスクへと向かった。藤田はデスクの上に多くの資料を広げ、一心不乱に報告書の作成に取り組んでいる。
藤田、と声を掛けようとしたその時だった。藤田が分厚い資料ファイルを開く。その瞬間、デスクの端に追いやられていたコーヒーのマグが傾いた。それがデスクから落ちる寸前、克哉は咄嗟に手を伸ばしてマグを掴んだ。
「藤田、危ないぞ」
何が起きたのか全く気付いてない藤田の前にマグを置いた。マグが置かれた振動で、藤田はようやく事態に気付き、慌てた様子で謝る。
「あっ! ありがとうございます、御堂さん……、――あっ!」
「御堂だと?」
「あれ、なんで俺……」
あまりにも自然な口調で「御堂」と呼ばれ困惑したが、そう口にした藤田も克哉以上にひどく混乱していた。今まで、藤田に御堂と間違えられたことなどなかった。藤田が克哉に向かって額がデスクにつきそうなほど頭を下げた。
「すみません、佐伯さん!」
「いや……。藤田、前に御堂さんとこんなやりとりがあったのか?」
「ええ、そうなんです……いや、違う。えっと……」
藤田は何かを言いかけて黙り込んだ。胸の内を正直に言うべきかどうか逡巡しているような表情だった。そうして、言葉を探しながらためらいがちに口を開いた。
「なんで……でしょうね。自分でも変だと思うんですけど、どうしてか、御堂さんの気配をたまに感じるんです」
「御堂さんの気配?」
「ええ……」
藤田のその一言に背筋に寒気が走った。
「御堂さんの幽霊でもいるのか。いや、死んでいないから、生霊か」
場の雰囲気を和らげようと軽く茶化して言ったが、藤田は大まじめな顔をして首を振った。
「違うんです! そんなんじゃなくて、本当だったら、ここで御堂さんが働いているような……。そんな気がするんです」
そう言って、藤田は執務室にある空席のデスクに視線を向けた。
「佐伯さん、あのデスク、なんであるんですか?」
「あれは……」
そう問われて、克哉は答えられなかった。執務室には二つ、デスクが置かれている。一つは、克哉が使う社長用のデスク。それと同じものがもう一つ。起業時から空席のまま置かれている。置いたのは紛れもなく克哉だ。だが、なぜ使う予定がないデスクをもう一つ用意したのかと訊かれると、明確な答えはなかった。ただ、そこにこのデスクがあるべきだと思ったのだ。なぜなら、架空の記憶の中では、そこが御堂のデスクだったからだ。
この現実世界をいくら夢の世界に似せたところで、御堂が克哉の元にやってくるわけがない。それは分かっているのに、存在しない御堂のためのデスクを置いた。そして、その結果、克哉はそのデスクに座って作業する御堂の幻をよく視た。現実に幻が引き寄せられたのだ。
藤田がそのデスクに真っ直ぐ顔を向けた。遠くのものを見極めようとするかのように眉間に皺を寄せて、目を眇めた。
「あのデスクに、御堂さんがいる気がするんです。……ふとした瞬間にそう思っちゃうんです」
ゾッとした。
全身の毛がそそけ立つような衝撃が走る。
藤田も、同じだ。
程度の差はあれ、克哉と同じ幻覚を視ているのだ。
「まったく。馬鹿なことを言うな。……藤田は、よっぽど御堂さんのことが好きなんだな」
そう、呆れた口調で返して、克哉は自分のデスクへと戻った。だが、鳥肌は立ちっぱなしのままだ。
自分の頭の中だけの幻覚だと思っていた。それを、他の人間も同じ光景を視ていたとしたらどうだろう。それはもう、幻覚ではない。
何かしら、あるのだ。
だが、何がある?
御堂はL&B社での勤務を続けている。それは確かだ。
御堂に直接会って確かめる?
そう思い立った自分に苦笑した。克哉は蛇蝎の如く嫌われているのだ。御堂に会って、何を聞こうとするのだ。
『俺はずっとあんたの幻覚を視ているし、どうやら藤田もそうらしい。ということは、俺たちの間に何かあったのだろうか?』
と訊いたところで、克哉の気が狂ったと思われるだけだ。
しかし、この現象をどう説明すればよいのか。
狂気が感染するのでなければ、同じ幻覚を藤田が共有するはずがない。何かがおかしい。
克哉の周りは至って平穏だ。あの悪夢以外は何もかもが上手くいっているのに、どうしてこれほどまで不安めいた気持ちになるのだろう。
何かが引っかかる。何かが起きているのだ。その何かはなんなのだ?
それが何であるのか。あともう少しで捕まえることが出来そうなのに、輪郭が見える寸前に指先からすり抜けていってしまう。そんな漠然な思考だ。克哉はそのじれったさに舌打ちした。
考えても、考えても、思考は袋小路に入ってしまったかのようにまとまらない。思考をリセットした方がいいだろう。
克哉は頭を空っぽにして、目を閉じた。無意識に心の内で呟く。
―― こんな時に、御堂がいたら……。
その瞬間、頭の中で小さな火花が散った。
―― 御堂? 御堂がいたら、なんなのだ?
自分は何に頼ろうとしたのだ。
終業時間を過ぎて社員が次々と帰りだした。そして、AA社に一人取り残されても、克哉は自分のデスクから立つことが出来なかった。同じ執務室にあるもう一つのデスクに視線がいってしまう。そこに御堂はいないかと確認してしまうのだ。
はあ、と克哉は深く嘆息した。
これでは全く仕事にならない。ここにいても仕方がない。
一回部屋に戻ろうか。そう思った時だった。
唐突に携帯が鳴りだして、克哉はびくりと動きを止めた。
デスクの上に置いていた携帯が着信を告げて光っている。画面の表示は非通知だった。
夜遅くにかかってきた非通知の着信。そんな電話をかけてくる心当たりはない。クライアントからの連絡ならナンバーを通知するはずだ。
克哉は警戒しながら電話を取った。
「もしもし……」
返事はない。耳を澄ましたが静かだ。いや、何か聞こえる。風で葉が擦れるような音、木々のざわめき。通話の相手は室内ではなく、どこか外にいるのだろうか。
少しの間、相手の返事を待った。だが、携帯は沈黙を保ったままだった。
「誰だ? いたずらか? ……切るぞ」
それだけ言って、電話を切った。通話終了の表示が出て、画面の光が消えるのを見届けた。通話時間が表示される。一分にも満たない通話だった。
なんだったのだろう。
少しの間、手にした携帯を注視していたが、それ以降、電話がかかってくることはなかった。
意識を切り替えようとしたが、どうしてか、心が不穏にざわめきだした。
とらえどころのない不吉な予感が背筋を這いまわる。
携帯を握りしめながら何か縋るものを探すように、克哉は窓へと視線を向けた。
壁一面を覆うガラス窓。そこに視線を向ければ圧倒的な光が視界を煌めかせる。東京という街が持つ、比類なき強さと美しさ。このきらびやかな輝きの一つ一つに人の営みが息づく一方で、どこまでも冷酷に人間を呑み込んでいく。それが、この大都市の姿だ。
あまりの眩さに克哉は顔を上げた。都会の光に照らされた鈍色の空を見上げる。星のない夜空の真ん中に大きな丸い月が浮かんでいた。冷たく輝く月、そこに視線が縫い付けられた。
この月をどこかで見たことがある気がした。目を凝らしたその瞬間、背筋が凍り付く。
―― もしかして、今日はあの日か……?
夜の公園の光景が脳裏に思い浮かぶ。AA社があるこのビルから近いところに在る公園。近くを通ったことも、中を通り抜けたことも何度もある。
克哉の前にあぶくのように沸いては弾ける、存在しないはずの記憶。
最初に蘇った澤村に殺された記憶は、その公園で殺されたものだった。
携帯を握る手のひらがじっとりと汗をかく。あの時の自分は、瀕死になりながらも落ちた携帯を手に取ろうとした。なぜなら、着信があったのだ。携帯電話の画面に大きく表示されたのは御堂孝典の名前。だが、その携帯に手は届かなかった。着信が途切れ、画面が暗くなる。真っ暗になった画面に映り込んだ大きな月。
意識に狂気が忍び込んでくるような感覚に携帯を持つ手が震えた。
幻が現実に邂逅する。
窓の外に煌々と輝く月。記憶とまったく同じ月が、濁った夜の空に浮かんでいた。
とるものもとりあえず、克哉はAA社を飛び出していた。
あの公園に何かがあるのかもしれない。
幻の世界で、澤村の凶刃に倒れた公園だ。
もしかしたら、そこに澤村がいるのかもしれない。強い殺意を胸に潜ませ克哉を待ち構えている可能性も否定できない。あの夢が万一、予知夢だとしたら、自分はそこで澤村に襲われることになる。それこそ、殺されるかもしれない。だが、それ以上に、真実を求める気持ちの方が強かった。この夜を逃してしまえば、何もかも見失ってしまう。そんな焦りがこみ上げてくる。
AA社からほど近いところにある公園は、コンクリートに覆われ、所々にベンチがあるだけのシンプルな公園だ。夜も更け、人気もなく静けさが漂う公園。公園の木々の枝が街灯に照らされて不気味な影を映し出している。
こんなところに来たところで、何かがあるわけでもない。そう思いつつも、公園の中を慎重に見渡した克哉は、そこに一人の人影を見つけた。澤村かと身構えたが、違った。黒いコートとボルサリーノ帽、克哉に対して背中を向けているものの、あの長い金髪は見間違いようもない。Mr.Rだ。克哉に背を向けて、ただ突っ立っているように見える。それとも、何かを見ているのだろうか。Rの視線のその先に目を凝らしてみたが、濁った闇ばかりで何も見えない。克哉はRの元へと静かに歩みを寄せ、背中越しに声をかけた。
「……Mr.R」
Rが振り返る。克哉を認めて、Rの瞳孔が微かに開かれた。だがそれもほんの一瞬で、Rは嫣然と微笑んだ。
「これはこれは、佐伯さんではないですか」
「ここで何をしている?」
Rは返事代わりに、ゆったりと夜空を見上げた。
「……今宵は月がきれいですね」
「白々しい。ここで、誰かと会っていたのか?」
「どうして、そう思われるのです?」
Rは克哉の言葉を否定せず、視線を克哉に戻した。
「お前が、この場にいたからだ」
「私がこの場にいることはおかしいですか」
「ああ。お前は常に俺の前に突然現れる。だが、今回は俺がお前を見つけた。ということは、今のお前は誰かの前に現れたあとだったんじゃないか」
「面白いことをおっしゃいますね」
Rは克哉に向ける笑みを深めた。途端に、Rの周囲の闇が濃くなったように感じた。
「私は常にあなたのことだけを気にかけておりますよ」
「俺はお前に露程も興味はない」
「おや、それは誠に残念ですね。私はあなたとなら無限の時を過ごしたいと心の底から願っておりますのに」
と口先だけで残念がってみせる。先ほどからRは克哉の問いにまともに答えようとしない。人を喰ったような返事に、克哉は露骨に苛立った口調で言った。
「お前は俺に何を隠している?」
だが、問い詰める声にもRは悠然としたままだった。
「私があなたに何を隠しているというのでしょうか。それとも、何かお疑いのことでも?」
そう聞き返されて、克哉は言葉に詰まった。
ここにくれば真実が分かると思った。
だが、改めて問われれば、自分は何を求めてこの場に来たのか答えられなかった。
ふう、と一つ息を吐く。そして、克哉は一番聞きたかった問いをぶつけた。
「俺には、御堂と二人で過ごしている記憶がある。これはいったい何なんだ?」
「それが何であろうとも、今のあなたには何ら関係ない幻に過ぎないのではないでしょうか」
Rは克哉の疑問を当然予期していたのだろう。口元に薄い笑みを張り付かせて、流れるような口調で答える。この男は克哉が知りたい真実を握っている。だが、それを答えさせる術(すべ)が克哉にはなかった。それでも、粘った。
「俺には単なる幻とは思えない」
「そうでしょうか。もし、それが幻でないのなら、この場に立つあなたはいったいどなたなのでしょうか」
「……」
その通りだ。
記憶の中の自分は本当に自分なのだろうか。あれが本当に克哉自身だとしたら、今のこの自分は誰なのか。今の自分を肯定するなら、幻の記憶は必然的に否定される。克哉の過去に、御堂と恋人同士になったという事実は存在しない。
たっぷりとした沈黙が充満したところで、Rはおもむろに口を開いた。
「ところで……」
Rは視線を克哉の胸元へと下ろす。
「その眼鏡はお使いにならないのでしょうか?」
Rの言葉に呼応するかのように、克哉のジャケットの内側で眼鏡が微かに震えた。
「俺には必要ない」
「そうでしょうか。その眼鏡はあなたの迷いを晴らし、あなたの求めるものへの道を拓く道具。もしかしたら、あなたが探しているものを見つけることが出来るかもしれません」
やはり、この男はどうすれば克哉の心を揺さぶることが出来るのか、知っている。克哉の不安をあおり、欲するものをちらつかせる。
「お前の言葉をそのまま信用できない」
「それは、残念です」
さも傷ついたかのような素振りでRは大仰に肩を竦めてみせた。そんなRを冷たく、鋭く、睨み付ける。だが、Rはまったく動じなかった。克哉に向けて、ひとつ微笑む。
「では、失礼いたします。どうぞ、あなたも賢い選択を。……願わくば、王たる道を」
「王だと?」
「ええ、あなたの正しい選択の先にある道」
「悪い冗談だな」
「ふふ……私はあなたの行く先を見守っております」
そう言い残して、Rは克哉に背を向けた。そして、闇の中に溶け込んでいく。足音も立てず、静寂だけをその場に残して。
克哉はただ一人、夜の公園に取り残された。
この場で何かあったのか、それとも何もなかったのか。
何かしら答えがあるのではないかと期待してここまで来た。しかし、何も見つからなかった。
それはまるで一面の闇の中で微かな光を探すようなものだ。その光は人の営みが息づいている灯りかもしれないし、はるか遠く、手の届かないところにある星の瞬きかもしれない。克哉はそれを求め、あてどなく彷徨(さまよ)い、出口のない迷路に迷い込んでいる。
そもそも、克哉は何を探し求めようとしていたのだろう。
今ではない過去、もしくは、未来。もはや存在すらしない何か。
自分が求めているのは何なのか、それさえも見当がつかなかった。
それでも諦めることも出来ずに、途方に暮れている。誰かに救いを求めることも出来ない。
「……あいつ、あなたもと言ったな」
Rが口にした言葉。あなたも、とは誰を指すのか。克哉と……誰だ? Rは他の誰かにも選択を迫ったのだろうか。
「食えないやつだ」
単に克哉をかく乱しようと口にしたのかもしれない。R(あの男)ならやりかねない。言葉の一つ一つに反応するだけ無駄だ。
克哉は煙草を取り出すと火を点けた。ふ、と白い息を吐く。黒い夜空が、吐き出した煙によって少しだけ白く濁った。頭上では煌々と輝く月が、冷たく克哉を睥睨している。
瞼を通して朝の柔らかな陽射しが差し込んでくる。意識が浮上し、四肢の隅々まで神経が行きわたっていく。眠りと目覚めの狭間、克哉は意識を揺蕩(たゆた)わせながら、存在しない御堂の記憶を手繰(たぐ)り寄せる。意識の間隙に潜む、御堂の幻。つかの間の御堂との逢瀬を期待する。
しかし……。
克哉は異変に気が付いた。
今日に限って、どこにも御堂は現れなかった。御堂だけではない、澤村に殺される夢もみなかった。ここ最近はずっとその悪夢に悩まされていたのに、何の余韻もない。
克哉は重い瞼を押し上げた。途端に、カーテンに遮られてもなお、眩いばかりの朝の光が視界に溢れかえる。
「御堂?」
誰もいない空間に声をかけてみる。だが、もちろん答える声はない。普段なら、望もうが拒もうが、自分の意思におかまいなく溢れ出す架空の記憶がどこにもない。痕跡すらない。
一晩にして何もかも消え去ってしまったかのようだ。そして、克哉の身体は熟睡後のように活力がみなぎっている。
―― どういうことだ?
AA社に出勤するまでの間も、もう一度あの世界を視ることは出来ないかと何度も架空の記憶を思い起こそうとした。だが、あれほど色鮮やかに展開された記憶は色あせ、本物の夢のように思い出すことさえ困難になっていた。
ふとした瞬間に蘇る御堂との記憶だが、冬から春の間の記憶はあっても、夏を想起させるような光景は不思議となかった。どうしてだろうか。
考えられる原因は二つだ。一つは、架空の記憶は現実世界と同時並行で作られている。だから、この世界が夏を迎えない限り、夏の記憶は蘇らない。もう一つは、そもそも、架空の記憶は春までの分しかない。
前者であれば、また何かしらをきっかけに思い起こされるのかもしれない。だが、後者であればどうだろう。もう、二人の記憶は尽きてしまったのだろうか。
その刹那、克哉の胸の中で、コトリと何かが動いた。
なぜ、記憶が蘇らないのか。克哉は直感で理由を悟っていた。
あの幻の世界がついに終焉を迎えたのだ。
克哉が殺されることによって。
ひんやりとした感触が頭の中をよぎる。
所詮は架空の記憶だ。その世界の自分が死のうとも、今の自分には全く関係のない話だ。
もうあの架空の記憶に悩まされることがなくなるとしたら、それは願ったり叶ったりのことではないか。この現実世界に足が付いた生き方が出来るのだ。
今まで克哉を悩ませ続けていた幻。唐突に幻覚から解放されて、嬉しさよりも戸惑いの方が先立った。久々に熟眠できて身体の疲れは取れているのに、自分の半身を失ったように、感情が抜け落ちている。この場に立つだけで精一杯だ。
熱いシャワーを浴びて着替え、AA社に出勤しても、克哉は上の空だった。どこかに新しい架空の記憶が潜んでいないかと、思考の隅々まで意識を張り巡らす。
あの存在しない記憶の数々は何だったのだろうか。あの架空の世界で、自分は本当に殺されたのだろうか。そもそもそんな世界が存在するのかどうかさえ、定かではないのだ。
この世界とあちらの世界、どちらの自分が幸せなのだろうか。
最初は当然、御堂と恋人同士に過ごす自分を羨望していた。だが、今や事態は逆転した。あの世界の中の自分は、非業の死を迎える運命にあった。それを知ってしまった今、平穏に過ごすこの世界の自分こそ、幸せといえるのかもしれない。
しかし、御堂は克哉の隣にはいない。今までも、そして、これからも。限られた時間でも御堂と一緒に過ごせた自分は幸せだったのだろうか。だが、それはあくまでも克哉側の見方で、克哉にひどい裏切りを受けたあちらの世界の御堂はきっと悲嘆にくれているだろう。
いつの間にか物思いに耽っていたらしい。克哉は電話の着信音でようやく我に返った。
デスクの電話が着信を告げ、内線を示すランプが光る。受話器を取ると、事務の女性社員の声が響いた。
『佐伯社長、MGN社、総務部の佐藤様からお電話です。退職関係のことだそうです』
「分かった、つなげてくれ」
ピッ、という電子音と共に通話が切り替わった。今更MGN社が何の用だろう。退職時の手続きに何か問題でもあったのだろうか。そんなことを考えながら、電話に出る。
「はい、佐伯です」
名乗る声に、受話器の向こうで微かに気配が動いた。黙ったまま、相手の反応を待つ。だが、何の応答もない。
「……もしもし?」
訝しんで聞き返した。しかし、やはり相手は黙ったままだった。声量を大きくして、再度口を開いた。
「すまない、電話が遠いようだが……もしもし?」
今度は言い終わるか言い終わらないかの内に、プーッという不通音が受話器から響いた。どうやら、電話を切られたらしい。一度受話器を置き、再度受話器を取ると、克哉は即座に先ほど電話を取った事務員を内線で呼び出した。
「今の電話、発信元の電話番号は分かるか?」
『いえ、ナンバー非通知です』
「相手の性別は?」
『ええと、男性の声でした』
「そうか、ありがとう」
礼を言って電話を切ると、MGN社の代表番号に電話を掛け直した。総務部につなげてもらい、『佐藤』という人物を呼び出すが総務部に佐藤という人物はいないという。それなら、自分宛に電話をかけた人はいないか、と訊いてみたが、それもいなかった。
間違いない。明らかないたずら電話だろう。タイミングからして、昨晩かかってきた無言電話と同じ人物からではないだろうか。
しかし、何のために?
どうにも落ち着かない気持ちになる。
このいたずら電話の主は、克哉の携帯電話のみならず、克哉がAA社にいること、そして、前職がMGN社であったことまで知っている。しかも、時間を置いての二回の無言電話。
この電話の目的はなんだろうか。
単なる嫌がらせとは思えない。この通話には何か意味があるはずだ。先ほどの電話も、昨夜の電話も、克哉が電話に出てすぐに通話が切れている。
ほんの短時間の通話に何の意味があったのか。
ついさっきまでの無気力さはどこかに消え失せ、頭が目まぐるしく回転し始めた。
そして、頭の中で火花が爆ぜる。
―― まさか……。
これは、克哉が電話に出ることを確認するための通話だったのではないか。だから、夜は克哉の携帯、昼間はAA社に連絡をした。確実に克哉に電話がつながるように。
この通話をしてきた人物の目的は、克哉が電話の向こうにいることを直に確認したかったのだ。それはすなわち、克哉が存在していること、つまり、無事に生きていることを知りたかったのではないか。
誰かが、克哉の生存を確かめようと、連絡をしてきた。だから、克哉が応答した瞬間に切れた。
そしてなぜ、昨夜から今朝のこのタイミングで克哉に連絡を取ったのか。
その答えを自分は知っている。
―― なぜなら、俺は昨夜、殺されるはずだったから……?
全身の産毛が総毛立ち、鳥肌が立った。
あの記憶の中で克哉は死んでいた。何度も何度も殺された。
その日時が昨夜だったからこそ、克哉は今朝からあの世界を覗き見ることが出来なくなったのだろう。向こうの世界の覗き窓である自分が死んでしまったからだ。
空調はしっかり効いているはずなのに、じっとりと汗が滲んでくる。
克哉が昨夜殺されることを知っているのは、あの幻の世界の住人だけだ。
だが、もし、克哉と同じようにあの世界の記憶を持っている人物が他にもいたとしたらどうだろう。たとえば、藤田もその一人ではないか。
しかし藤田なら匿名で電話をしなくても、克哉の生存は確認できる。だから、この仮定で考えるなら、今現在、克哉の傍にいない人物だ。
架空の記憶に出てくる人物で、現実世界で克哉の周囲にいない人物は二人。御堂と澤村だ。
あの世界で、澤村はAA社の業務を妨害しようとしていた。挙句、御堂を拉致までした。
克哉を殺すはずだったのは澤村だ。それならば、克哉の無事を確認しようとしたのは克哉と恋人同士であった御堂ではないのか。
点と点がつながっていき、一つの意味のある輪郭を描いていく。
にわかに心臓が早鐘を打ち出す。
幻の記憶の中の御堂と、現実世界の御堂は違う。もし、二つの世界の御堂が同一人物であるならば、今頃克哉と御堂は恋人関係のはずだ。あの世界の御堂ならいざ知らず、この現実世界では克哉と御堂は他人同士だ。御堂が克哉を心配するなんてことはあるはずがない。
だが、この世界の御堂もまた、克哉同様、幻の記憶を持っていると考えたらどうだろう。そして、克哉の生死を気にかけていたとしたら。
馬鹿な妄想をするな、と自分を諫(いさ)めてみても、御堂がこの克哉を気にかけているのではないかという想像はひどく心を乱した。
このままだと自身の不埒(ふらち)な願望が冷静な判断を狂わせてしまう。
だから、別の側面からこの仮説を検討してみることにした。
この世界において克哉の周囲に存在しないもう一人、すなわち澤村だ。
「澤村か……」
克哉はここで初めて、澤村の存在を気にかけた。
この世界の澤村は、今、どこで何をしているのだろうか。
試しに澤村紀次の名前をインターネットで検索してみた。だが、案の定、有力な手掛かりは得られなかった。
それならば、とアプローチ法を変えてみる。自分の架空の記憶を必死に掘り返す。澤村が出てきた記憶は、即座に意識の外に追いやろうとしていたので曖昧のままだ。だが、あの世界では、澤村はAA社の業務を妨害しに来ていたのはぼんやりと覚えている。それは、何の目的だっただろうか。不意に一つの単語が頭に浮かんだ。
「……汀堂(みぎわどう)?」
確か、そんなことを澤村は口にしていなかっただろうか。汀堂は克哉も知っている。月天庵同様、老舗の和菓子屋だ。半信半疑ながらも汀堂の情報を検索し、経営状態や財務情報を調べてみる。その結果は決して芳しいものではなかった。AA社が介入する前の月天庵と良い勝負だ。澤村は汀堂の関係者だったのだろうか。それで、競合する月天庵のコンサルティングを邪魔しに来たのか。
しかし、潰れかけた和菓子屋の汀堂がそんな強引なことをするのだろうか。ましてや、克哉たちコンサルティングの情報を先回りして、月天庵のプロジェクトを潰しに来るような乱暴なやり方だ。
経営が傾きかけた企業、同業者への妨害、手段を選ばない荒っぽい手法。
ここまで考えて、このキーワードを最近どこかで目にしたような気がした。それが、どこであったか、思い出すまで時間がかからなかった。
「クリスタルトラストか……!」
頭の中でパズルのピースがカチッとはまった感触がした。
一週間くらい前にクリスタルトラストの強制捜査が行われた。そのときに、目にした記事でクリスタルトラスト社の強引な取引が特集されていた。経営が悪化した企業を買収し、犯罪行為スレスレの同業者への妨害を行い、利益を回収する。そんな手法ではなかったか。それは、まるで克哉の記憶にある澤村のやり方だ。澤村がクリスタルトラストの人間で、経営不振の汀堂への投資を行い、同業者である月天庵、そして月天庵をバックアップするAA社の妨害を行ったと考えたらどうだろう。
克哉はニュースサイトにアクセスすると、クリスタルトラストの記事を新聞だけでなく、雑誌記事、ネットニュース、SNSの噂話も含めて横断的に調べてみた。膨大な数のクリスタルトラスト関連の話題を取捨選択し並び替え、一つずつ確認していく。
業界紙からゴシップ紙まで片っ端からスクラップしていくなかで、克哉は週刊誌の一つの記事に目を奪われた。口さがないことで有名な週刊誌だ。クリスタルトラストの話題にもいち早く食いつき、信ぴょう性が疑わしいことまで書き立てている。だが、その記事に載せられた写真、それを見た瞬間、克哉の瞳孔が開ききった。
モノクロの写真は一人のスーツ姿の男を写したものだった。遠目から隠し撮りしたのだろうか。撮られている本人はそうと気付いていない雰囲気だ。顔は目隠しがされておりはっきりと判別できない。だが、身体にフィットした細身のスーツ、ジャケットの袖からちらりと覗く腕時計は高級品で、洒落た装いはいかにも外資系のビジネスマン風だ。写真には、インサイダー取引を主導したクリスタルトラストの社員S氏と但し書きが付いていた。
「澤村……」
衝撃に喉が干上がり、呟く声が掠れた。とても人物が同定できるとは言えない写真だ。それでも、ひと目で分かった。架空の中の記憶と、写真にある澤村の姿は間違いなく同一人物だった。紙面越しであるのに、澤村と面と向かったかのように鼓動が跳ね上がる。
逸る心を抑えつけながら、事件を時系列順に丁寧に追っていく。第一報はスローコーポレーション社の株価の不正操作の疑いで強制捜査が入ったことが速報で流れていた。克哉は記事のタイトル一覧を眺めながら、違和感を覚えた。
「どうも不自然だな」
業界では悪名高い外資系ファンドだったが、一般的には馴染みがない会社だろう。それがいまや、テレビをつければ毎日クリスタルトラストの特集ニュースが流れているし、SNSでもトレンドニュースとして話題の上位にランキングされている。気付けば世論は完全にアンチクリスタルトラストとなっていた。
澤村は、世間を沸き立たせる事件、その渦中の人物となっていたのだ。
となれば当然、克哉の前に現れる余裕などなかっただろう。克哉が調べる限り、あちらの世界で澤村が関わっていた汀堂についても、この現実世界においてはクリスタルトラストとの接点はない。
―― クリスタルトラストへの強制捜査が、澤村を俺から遠ざけたのか?
そして結果的に自分は澤村と遭遇することもなければ、殺されることはなかった。
これは偶然なのだろうか、それとも必然なのだろうか。
なるべく感情を遠ざけて、客観的にこの一連のクリスタルトラストの事件を俯瞰(ふかん)してみても、引っかかるものがあった。世論が上手く誘導されているような作為的なものを感じるのだ。
克哉はおびただしい量の記事の中から起点となったものを辿っていく、そしてひとつの記事に目を留めた。
強制捜査の数日後に発売された有名ニュース誌の特集記事。クリスタルトラストの話題の先駆けとなった記事だ。卑劣な手口や被害者に焦点を当てて、その被害の深刻さを詳細に掘り下げている。まるで強制捜査とのタイミングを合わせたかのような内容だ。そして、この記事が多くの人の目に触れることによって、クリスタルトラストに対する世論の流れを決定づけたと言っても過言ではない。
この記事が出た後、SNSではクリスタルトラストの話題が爆発的に増え、その巨大な世論に呑み込まれるように、他のクリスタルトラスト関連の取引まで捜査の手が伸び、政治家たちは外資系ファンドを規制する法律を作ろうとしている。こうして振り返ってみると、このニュース誌の記事はタイミングといい、内容といい、明らかに世論の操作を目的とした記事ではないだろうか。
インターネットでそのニュース誌の情報を検索する。ニュース誌の編集長の堀口は、克哉でさえも名前を見たことがある著名なジャーナリストだ。三十代という若さながらスクープを連発する辣腕ぶりを買われて編集長になったという。
この男が一連のクリスタルトラスト潰しの立役者なのだろうか。少なくとも、極秘事項であるはずの強制捜査の日程や詳細を知っていたからこそ、事前にあの記事を周到に準備することが出来たはずだ。
金融庁と大手ニュース誌、何かしら情報を融通する伝手はあるのかもしれない。そうでなければ、誰かがクリスタルトラストを排除する目的で意図的に堀口に情報を流したのだろう。この一連のクリスタルトラストの事件の裏で、何者かが巧緻(こうち)な計画を立てている気がしてならない。だが、何をどうやって調べれば良いのか。そして、それを調べたところで、何か判明するのだろうか。分からないことだらけだ。
無意識に、インターネットで編集長の堀口の名を検索した克哉は驚きに目を瞠った。
「こいつは……」
著名人である堀口は多くの講演会やイベントにゲストとして呼ばれていた。そのサイトの一つに顔写真と経歴が掲載されている。堀口は、あの桜が咲き乱れる公園で御堂の肩に手を回し、親しげにしていた男だった。そして、経歴を確認すると、東慶大学法学部卒となっている。卒業年度も記載されていた。
「御堂の同期だったのか」
それなら、御堂に対するあの気安さは理解できる。
それにしても……。
澤村の情報を調べても、御堂に行きついてしまう。
克哉の周りに見え隠れする御堂の影。これはどういうことなのだろうか。
大きく深呼吸をして、自分を無理やり落ち着ける。
こんなときにこそ冷静にならなければならない。自分の未練が、単なる偶然を何か意味があるように見せかけているだけかもしれないのだ。
「……堀口に聞いてみるしかないか」
克哉は編集部の連絡先を確認し、堀口へと電話をかけた。取次の人間に用件を聞かれたが、クリスタルトラストの件で、とそれとなく情報提供を匂わせたところ、すぐに堀口へと電話がつながった。電話口から芯のある精力的な声が響く。
『編集長の堀口です』
「初めまして。アクワイヤ・アソシエーションの佐伯克哉と申します」
『アクワイヤ・アソシエーション?』
「経営コンサルティング会社です」
『ほう……。それで、何の御用件ですか?』
電話に出た堀口に所属と名前を正直に口にしたが、堀口の反応は乏しかった。ただ、コンサルティング会社の人間が何故自分に連絡してきたのか訝しんでいるようだ。編集長ともなれば、こんな怪しげな電話にかまけている時間はないだろう。だから、すぐさま本題を切り出した。
「あなたのクリスタルトラストの記事を拝見しました。強制捜査を事前に予期していたかのようなタイミングと内容、あなたの記事は世論を動かすきっかけになった。私は、この記事には、何かしらの意図があるのではないかと思っています。あなたは、誰かにこの記事を書くように頼まれた。違いますか?」
『佐伯さん、でしたか。私たちはジャーナリストとしての仕事をしたに過ぎません。ジャーナリストとは事実に基づく報道を通じて……』
堀口は滑らかな口調で滔々(とうとう)と語りだす。このまま建前のジャーナリズム論を聞く気はない。だから、堀口の語り口調を遮って、不意打ちで被せかけた。
「その誰かというのは、御堂孝典さんではないですか?」
『誰ですか、それは。知りませんね』
即座ににべもない答えが返ってきた。だが、その声色は克哉に対する露骨な警戒心が滲んだ。
「あなたの東慶大学法学部時代の同期のはずです。覚えていらっしゃいませんか?」
『……そういえば、いたかもしれないが』
「では、御堂孝典さんと最近会ったことは?」
『申し訳ないが、記憶にないな』
先ほどと全く同じ口調で否定される。これ以上は何を聞いても無駄だろう。失礼を詫びて、克哉は電話を切った。
やはり、この一連の件に御堂が関係しているのではないか、そんな確信を深める。
自分の知らないところで、一体何が起きているのか。
御堂が暗躍し、何かを引き起こそうとしているのではないか。
しかし、克哉の推測には何の根拠もない。そして、克哉にはこれ以上詳細を調べる手立ても調べるべき理由もない。それでも、このまま見過ごしてはいけない気がした。
悶々と考え続け、終業時間も過ぎたころ、克哉はようやく決断した。
意を決して、L&B社の代表番号に電話をかけた。御堂を呼び出してもらう。直接御堂に訊ねるしかないと考えたのだ。
呼び出し中の単調なメロディを聞きながら、受話器を握る手がじっとりと汗をかく。御堂が出たら、どう言えばいいのか。その前に、「AA社の佐伯」と名乗っていることで、この電話が克哉からであることが分かるだろう。となれば、取り次ぎを拒否されるかもしれない。
唐突に呼び出し音が途切れる。緊張が走った。だが、聞こえてきたのは、知らない女性の声だった。懇切丁寧な口調で、御堂はもう退社したことを告げられる。明日折り返し連絡すると言われたが、それを断り電話を切った。
克哉は椅子の背もたれに深く体重をかけて、天井をぼんやりと見つめた。
MGN社時代はワーカーホリックのごとく働いていた御堂だ。退社時間早々に帰るとは思わかった。もしかしたら、何かしら用事があったのかもしれない。
克哉は御堂の住所はおろか携帯番号さえ知らない。L&B社から一度出てしまえば、克哉は御堂に連絡を取る手段はないのだ。
真相究明のチャンスは明日までお預けになってしまった。いや、明日になったところで真実が分かるとは限らない。御堂にしらを切られたらそこまでだ。それに、克哉の頭の中にある仮説は克哉の単なる妄想に過ぎない可能性も十分にある。
―― どうすればいい?
御堂以外に、事の真相を知っているであろう人物の心当たりはあった。
Mr.Rだ。だが、Rは御堂以上に手強いだろう。何を聞こうともとらえどころのない返事しか返ってこない。それに、これがRの仕組んだ計画だとしたら、Rに頼ることはむしろRの手の内で踊らされるだけだろう。
そもそも、存在しない架空の記憶をどうやって確かめることが出来るのだ。克哉に残されているのは虫食い状態の幻の記憶と、突拍子もない仮説だけだ。
何もできないまま、一刻一刻、時が過ぎていく。窓の外に夜の帳が降りて、社内に克哉一人取り残された。
デスクのチェアの背もたれに体重をかけながら、思惟を巡らせる。そして、ふと思い出した。
―― これを使えば、もしや。
ジャケットの内ポケットから眼鏡を出した。銀のフレームが輝き、克哉を誘っているように見える。
この眼鏡は単なる道具ではない。克哉はこの眼鏡によってこの世界に引き戻された。この眼鏡は克哉側の世界ではなく、Rの世界に属する物だろう。記憶の中の自分は、迷いが生じるたびに何度もこの眼鏡をかけていた。その度に、頭の中の靄(もや)が晴れて、思考が冴えわたり、自分を取り戻した気になっていた。すなわち、この眼鏡はすべてを目撃しているはずだ。この眼鏡をかければ、この眼鏡が目撃した事の真相を引き出すことが出来るに違いない。
しかし、そうすれば同時に、殺されたという事実も詳(つまび)らかに蘇るだろう。断片的な記憶でさえ相当な衝撃だったのだ。深い闇の淵に引きずり込まれる恐怖。死という、生物にとって根源的かつ圧倒的な恐怖が待ち構えている。
それだけではない。この眼鏡を使う一番のリスクは、この眼鏡に自分が乗っ取られることだ。あの世界の自分も、この眼鏡に頼った結果、支配されてしまった。御堂を凌辱し、他人を蹂躙することを悦び、残虐な衝動を解き放った。つまり、この眼鏡が破滅をもたらしたと言っても過言ではない。
それを考えると怯みそうになるが、それでも、揺れ惑う心が定まるまで、時間はかからなかった。
克哉はすべてを忘れ、今の生活に埋没することもできた。仕事は順調で、金にも困っていない。成功が約束された人生を送ることが出来るだろう。もう、あの架空の記憶は蘇る気配はない。忘れることは思い出すことよりも容易だろう。
それでも、克哉はそうと思いきることは出来なかった。
この眼鏡によって真相を暴くことが、自分に何をもたらすか想像がつかない。だが、このままあの幻の記憶を忘れて、安穏とした生活を送れば、今度こそあの世界の二人、御堂と自分を跡形もなく葬り去ってしまう。あの世界の自分たちを突き詰めることは、結局のところ、今の自分を突き詰めることに他ならない。決着をつけるべきなのだ。そうでないと、満たされていながらもそれに満足することが出来ず、一生、存在しないはずの何かを追い求めるだけの人生になってしまうだろう。
克哉は目を瞑り、胸を一掃するほどの大きな息を吐いた。
眼鏡のつるをゆっくりと開く。そして、今かけている眼鏡を外した。
視界がほんのわずかにクリアになる。
自分に、そして、手の内にある眼鏡に言い聞かせるように、宣言した。
「俺は、お前に俺を明け渡さない」
この眼鏡に頼るわけではない。この眼鏡を利用するのだ。
「俺に包み隠さず教えろ。お前が目撃したすべてを」
金属のフレームの冷たさが指先に伝わってくる。克哉は神経を研ぎ澄ませながら、眼鏡をかけた。
その刹那、電撃に打たれたように身体が硬直した。克哉が欲した、ありとあらゆる情報が巨大な渦となって克哉の中へ流れ込んでくる。
全身に悪寒が走った。
頭がガンガンと痛み、身体がまったく言うことを聞かなくなった。
走馬灯のように目の前に様々な光景が展開された。忘れてしまっていたすべての記憶がよみがえる。溢れかえる記憶の大波に呑み込まれていく。その中で一番強烈なのはもちろん、自分が殺される場面だ。
澤村がナイフを振りかぶる。ひゅんと空気を切り裂いて襲い来るナイフは寸分の狂いもなく克哉の喉を切り裂くことを知っていた。
俺はこのナイフで刺し殺されるのだ。
首に強烈な衝撃と痛みが走る。だが、ナイフは致命傷を与えずに引き抜かれる。澤村は克哉をすぐに殺すつもりはない。克哉を甚振りつくし、克哉が痛みと苦痛に悶える様を愉しむ気なのだ。
「うぐ……っ」
狭まった気道からくぐもった悲鳴が漏れる。激痛に呻いたところでまたナイフが肉を切り裂く。次々と倍加される苦痛。いっそ早く死なせてくれとさえ願う。
そうして、やっと死んだところでまた歴史は繰り返される。克哉はふたたび殺される。目の前に迫る死を直視させられる恐怖、絶望が繰り返し克哉を苛む。苦しみを癒すほんのわずかな猶予さえ与えてくれない。
眼鏡が甘く囁く。この眼鏡に頼れと。すべての迷いも苦しみも一瞬で消し去ってあげよう、と。
こんな苦しい思いをするなら、いっそ、この眼鏡に自分を明け渡してしまおう。
そう、気持ちがぐらついたときだった。声が聞こえた
『私が認めた佐伯克哉という男はそんな男ではなかったはずだ』
耳に心地の良い、深みのある声。この声の主が誰だか知っていた。
―― 買い被りすぎだ。
克哉は自嘲の笑みを浮かべようとして、引き攣った笑みになる。
『私は君と歩むと決めた。だから、君も責任を果たせ』
―― 嘘だ。
心の中で言い返した。
―― あんたは傍にいないじゃないか。俺にどんな責任を果たせと言うのだ。
子供じみた反論だと自覚していた。だが、言わざるを得なかった。ふわりと優しく背中から包み込まれる。布地越しに感じる、硬く締まった男の身体。
『今更逃げるなんて許さない』
言葉とは裏腹に、自分を捕まえる腕はひどく優しかった。そして、一言、耳元で告げられる。
『らしくないぞ、佐伯克哉』
―― そうだ。俺は佐伯克哉だ。
「御堂……」
無意識に呟いた言葉が克哉を現実に引き戻した。
執務室の見慣れた景色が広がる。克哉は詰めていた息を吐いて、眼鏡を外した。
ぐらりと視界が揺れ、克哉はこめかみを抑えた。心臓は早鐘を打ち続け、全力疾走したあとのように、強い疲労が全身に染みわたっている。だが、克哉は真実を手にしていた。
「そういう、ことだったのか……」
にわかには信じられなかったが、克哉が生きていた時間は、もう何度も繰り返されたものだった。
どうして強い既視感に苛まされるのか、それも、この現実とは異なる記憶がよみがえるのか。それは、克哉はこの時間軸を何周もしているからだ。
そして、最後は必ず、澤村に殺されるところでぷつりと途切れる。
そうなるとまた、過去へと遡ってやり直されるのだ。
その回数は十を超えていた。
時間を遡行させたのは御堂だ。同じ出来事が繰り返される中で、御堂だけが行動を変えていた。そこから明らかだった。
御堂は必死で克哉の運命を覆そうと戦っていた。克哉はそんな御堂の努力に全く気付くことなく、残酷な運命を自ら選び続けた。
そして今、克哉はこの無限とも思えるループから抜け出して、新しい未来へと足を踏み入れている。大切なものを代償として。
何もかも、御堂が仕組んだことだったのだ。あの再会の日、克哉を追いかけることを止めた御堂は、クリスタルトラストと澤村の動きを封じるために陰で動いた。そして、克哉にそうと悟られることなく、すべてを葬り去った。だから、克哉は生きている。何も知らぬままに。
克哉がこの時間軸に巻き戻される直前の最後の記憶。AA社で御堂は退社間際に克哉に言った。
『さよなら、佐伯』
聞こえるか聞こえないほどの声。添えられた眼差しは、言葉に言い表せない感情を含んでいた。今なら分かる。あれは、別離の言葉だ。もう、二度と取り戻すことのできない克哉との時間に、御堂は別れを告げた。
―― 御堂、どうして、そんなことをした?
御堂は克哉を生かすために、克哉とのつながりを断ち切った。
克哉に何一つ告げず、非情な選択を行った御堂。それは克哉を生かすための御堂の決断だと頭で分かっていても、裏切られた気持ちになる。
しかし、それは傲慢な感情だ。
御堂が克哉を捨てたのではない。その前に、克哉が御堂を捨てていたのだ。
克哉はすべてを自分一人で抱え込んで、御堂を突き放し、二人の間に大きな壁を築いた。御堂の言葉に何一つ耳を貸さなかった。何も信じず、二人の世界を見限ったのは克哉だ。
目の奥が痛くなる。目から何かが零れ落ちそうになり、克哉は目をきつく閉じた。
あの記憶の中で、御堂と過ごす自分は幸せだった。何をしても、何もしなくても。
御堂がただ傍にいるだけで、それまで意識することのなかった何もかもを新鮮に感じた。様々な感情が色鮮やかに呼び起こされた。克哉の世界に御堂は色彩を与えてくれた。だが、自分はそれを踏みにじった。
自分が何を失って、何を得たのか、それをまざまざと思い知らされる。
克哉は自分の知らないところで何かが進行しているのではないかと疑っていた。違うのだ。もうとっくに済んだことだった。
克哉が気付かぬ間に、すべてが終わっていた。過酷な運命は克哉の前から取り除かれ、新しい人生が用意された。それを自分は当然な顔をして享受していた。どんな犠牲の上に成り立っているのか、知ろうともせずに。自身の愚鈍さに吐き気さえこみ上げる。
運命とは目に見えない巨大な潮流のようだ。気付かぬ間に巻き込まれて流されていく。
失って初めてその大切さに気付くなんて、自分はあの頃から何も成長してなかった。御堂を解放した時に心に誓った決意はどこに消えたのか。
自分がどうしようもなく情けなく思えた。御堂一人にすべてを背負わせて、克哉は好き勝手に振舞っていただけだ。
克哉が生きて迎えた今日は御堂によって与えられた今日だ。
今すぐにでも御堂に会いに行きたかった。
だが、それよりも何よりも、克哉は決着を付けなくてはいけない相手がいた。
このすべての黒幕の男だ。
第五章 もう一度、あなたと
克哉はAA社を出ると、ビル近くの公園へと向かった。
夜も更け、人気のない公園、街灯が作り出す影に何かが潜んでいるような不気味さがある。それでも克哉は公園の真ん中まで迷わず進むと、声を上げた。
「R! いるんだろう!」
急に闇が翳(かげ)り、すうっと冷たい風が公園の陰から忍び寄る気配がした。
「こんばんは。佐伯さん」
背後から掛けられた声に振り向けば、闇が浮き出て男の形を成した。Rは帽子を取り克哉に頭を下げた。濃い金色の髪が闇の中で艶やかに輝く。
「まさか、あなたにお呼びいただけるとは。光栄の至り……」
大仰な口調でそう口にするRの言葉を遮って言った。
「すべて、分かった」
「ほう?」
克哉に向けられたRの金の眸が、丸眼鏡の奥で眇められる。
「俺は、本来なら殺される運命だった。それを御堂が覆(くつがえ)した。俺との過去を改変することによって」
Rは表情を変えず、黙ったまま克哉を見ている。
射るような視線でRを見据えた。
「お前は御堂に何をした?」
逃げることを許さぬ気迫で問いただすと、Rは観念したのか小さく息を吐いて言った。
「……時の果実を渡しました」
「時の果実?」
「自らが願う時間まで遡ることが出来る果実」
「それを使って、御堂は俺の前から去ったのか」
すべてが腑に落ちる。R(この男)が御堂を唆したのだ。禁断の果実を渡して。
Rに対して強い口調で言った。
「俺にも同じ果実を寄越せ」
「それをどうなさるのです?」
「決まっているだろう。時間を遡って、御堂を取り戻す」
そう宣言する克哉にRは冷ややかに笑った。
「とても賢い選択とは思えませんね」
「なんだと?」
「やり直せば、自分の望む未来が手に入るとでも?」
「……」
「あなたは、あの方が犠牲を払ってまで与えた命をないがしろにしようとしている」
「俺は、誰かにお膳立てされた未来を生きるのは真っ平だ」
克哉の言葉にRはやれやれといった風に肩を竦めた。
「あの方が何度やり直されたかご存じですか? あなたは自分が何度殺されたのかご存じないのでしょうか。だから、そのように軽々しくやり直すなどと口にできるのです」
Rの言葉は鋭く克哉を抉った。克哉を見据える金の眸は冷ややかで、体温のすべてを奪っていくかのようだ。
Rは一拍置いて、静かに言った。
「あの方が何故、この選択をしたのか、その意味を考えたことは?」
その理由を身に染みて分かっているだけに、克哉は答えられなかった。
取り繕うことさえできないほど、情けなさに打ちのめされている。
御堂が取った選択は残酷なまでに正しい。御堂が正しい選択をしたからこそ、克哉は生き残ってこの場に立っている。御堂がその結論に至るまでにたどった苦悩はどれ程のものだったのだろう。自分は、何度御堂を失望させたのだろうか。そんな克哉を前にして、Rは口元を歪めた。
「……何かを選ぶことは、何かを捨てることと同義だ、そうです」
「何……?」
「そう、あの方はおっしゃいました」
その一言から御堂のゆるぎない決意が垣間見える。御堂はすべて納得ずくで選択をしたのだ。克哉との未来を捨てることで、克哉が生き延びる未来を選んだ。
「そんなの……俺は認めない」
辛うじてそう言い返すのが精いっぱいだった。
「ですが、後悔などしなくて良いのです。あなたはこの世界で生きればいい」
Rはにっこり笑って克哉を言い含めようとする。
「あなたを地上に繋ぎ止めるくびきはもうありません。今度こそ、あなたに最もふさわしい道、王となるべき選択をすべき時なのです」
Rの金の眸が爛々と光る。ジャケットに入れた眼鏡が震え、訴えかけてくる。今こそ、眼鏡をかける時なのだと。その眼鏡を取り出し、強く握りこんだ。手のなかで眼鏡のフレームが軋む。
「お前はそれが目的だったんだな。俺から御堂を取り上げることが」
「取り上げるなど、滅相もございません。私はあの方の選択を見守っただけ。その結果、お互いの利害が一致したのです。あの方はあなたを助けたかった。そのために、自らあなたの人生から消える選択をした。その結果、あなたは死ぬ運命を免れた。あなたは生きて、あの方もあなたに傷つけられることなく過ごされている。ここは、あなたにとってもあの方にとっても最適解ともいえる世界。それぞれが幸福な未来を迎えることが出来るのです。あなたは過ぎ去った過去に囚われるよりも、輝かしき未来へと目を向けるべきなのです」
もっともらしく、Rは言う。だが、克哉はRが与えようとする免罪符をそのまま受け取ることは出来なかった。感情がそれを拒否した。
「以前の俺はこの眼鏡に頼り過ぎた。だから、俺は自分を見失ったんだ」
「この眼鏡のせいですか」
Rは密やかに笑った。Rの笑いに同調するように周囲の闇がざわめく。
「あなたの言う『自分』とは一体どなたのことなのでしょうか。『自分』を持たない者が、自分を見失うなど出来るのでしょうか」
「俺は……」
俺は誰なのか。そう問われて、言葉に詰まった。Rが笑みを深める。
「本当のあなたは、その眼鏡をかければ明らかになるでしょう」
「……黙れ」
克哉は低く唸ったが、Rは黙らなかった。
「自分にとって不都合な『自分』など消し去ればよいのです。殺されたあなたも、眼鏡をかける前の弱く脆かったあなたも。その眼鏡があなたから不純物を取り除いてくれます」
手の中に握り込んだ眼鏡が熱を持つ。
克哉の内心の逡巡を見透かすように、Rは強い視線で射貫いてくる。克哉はその眼差しを、瞼を閉じることによって遮った。
自分自身に問いかける。
俺とは、誰なのか。
佐伯克哉であるのは間違いない。だが、佐伯克哉とは誰を指すのか。俺なのか、オレなのか。
今の自分を認めるなら、眼鏡をかける前の弱く脆かったオレは俺ではないのか。御堂と共に在りながら御堂を裏切った俺も、俺なのだろうか。一体どれが俺の本当の姿なのだろうか。Rが口にする、王としての自分こそ、本当の俺なのだろうか。
思い返せば、克哉はずっとその答えを探していた。
かつての時間軸で、克哉は過去の自分を否定した。だから、眼鏡に頼って自分を見つけようとした。しかし、その結果がどうなったのか、今の克哉は分かっている。
過去を消すことは出来ない。自分にとって不都合な過去を黙殺するのか、受け入れるのか、それは自分自身の選択次第だ。
すべての答えは自分の中にある。
そして、克哉はもうその答えを知っている。御堂の視線の先にいる自分、それが佐伯克哉だ。
心が一点へと研ぎ澄まされる。克哉はゆっくりと瞼を押し上げた。強い意志を宿した眼差しでRを見据える。
「俺は、俺だ」
「……」
「殺された俺も、俺だ。弱かったオレも、御堂をなぶり者にした俺も、御堂を愛した俺も、すべての俺が俺だ」
乱れた感情で狭まっていた視野が急速に広がり、心が凪いでいく。一本の強い芯が克哉を貫いたかのように、自分という軸が定まっていった。
「過去はなかったことには出来ない。いくら時間を巻き戻して過ちをなかったことにしても、俺が過ちを犯したという事実は俺の中に残されている。俺はかつての俺を否定しない。俺はお前が望むような俺にはなれないし、なる気もない。今の俺のままあがき続ける」
一拍おいて、Rは静かに口を開いた。
「それが、あなたの答えですか」
「ああ、思い通りにならなくて残念だったな」
克哉は手に握りしめていた眼鏡をRに差し出した。強く握り過ぎて、指が痺れている。
「この眼鏡を返す。もう、俺には必要ない」
「そうですか……」
残念そうに返すRに眼鏡を無理やり握らせた。革手袋に包まれた手はぞっとするほど冷たく、体温を感じさせない。Rは名残惜しそうに手にした眼鏡を数秒眺めると、それをポケットにしまった。
「Mr.R、俺に時の果実を寄越せ」
「……この世界は、在るべき運命を断ち切って辿り着いた世界。いわば、理想郷でもあります。それをあなたは捨てようとしている。本当によろしいのでしょうか」
「……ああ」
Rが何を言わんとしているか分かった。
克哉がこの果実を使って過去へと時を引き戻せば、御堂が成し遂げた何もかもを否定することになる。自分にその覚悟があるのだろうか。思い通りにならないことに対する苛立ちとわがままだけで、果実を使うならきっと同じ歴史が繰り返されるだろう。
それならば、やり直すとしたら、この時点からやり直すべきなのか。だが、この世界を肯定することは御堂の選択の正しさを認めることになる。一度認めてしまえば、御堂は決して克哉の元へは戻らないだろう。悲惨な歴史を繰り返さぬために。
一度、克哉と別れるという決断をした御堂を取り戻すには、強引さだけでは不可能だ。克哉はそれを嫌と言うほど学んでいる。それならば、どうすればよいのか。御堂を納得させるだけの何かを示さなければ、御堂はきっと克哉を受け容れない。御堂はすでに正しい解を導き出している。克哉がここに存在していることが何よりも御堂の正しさを証明している。克哉に求められるのは、正しい解を超える解だ。だが、いくら考えてもそんな解は見えてこなかった。
それでも、御堂を諦めることなどできなかった。自分に必要なのは御堂だ。そして、二人の未来だ。その二つを手に入れるための解は自分で探さなければならない。御堂が克哉を生かすための解を一人で解き明かしたように。
眼鏡に頼ることなく、自分にそれが出来るのだろうか。だが、問題は出来るか出来ないかではないのだ。克哉はそれを成し遂げる必要がある。
今までの自分が出来なかったこと、到達しえなかったゴール。
すべての俺が俺だからこそ、今までの自分を乗り越えなければいけないのだ。そうしなければたどり着けない。自分の弱さを認めて、向き合わなければいけない。
だが、脆弱な自分が、どうやって巨大な運命に立ち向かえばよいのか。自分にそれが出来るのか。身の丈を思い知らされたからこそ、自信が揺らぎそうになる。
その時だった。
『……たまには私に頼れ』
御堂の声が頭に響いた。心の中に小さな火が灯る。その小さな火はみるみるうちに克哉を照らす大きな輝きとなった。
そうか、そうだった。
どうして、こんな簡単なことに気付かなかったのか。眼鏡ではなく、頼るべき人間が傍にいたではないか。
そう、結局のところ、この自分を信じるしかないのだ。どれほどの悔恨に塗れていても、自分と自分の生き方を信じるしかない。御堂を愛したこの俺を信じるのだ。そして、この俺が愛した御堂を信じるのだ。
御堂との未来を取り戻すためには、自分を信じ、御堂を信じるしかない。
御堂はきっと克哉を助けてくれる。そして、導いてくれるだろう。今までそうだったように。
自分には御堂がいる。御堂になら背中を預けられる。一人でなら無理な未来も二人でならきっと辿り着くことが出来る。
自分自身に誓うように言う。
「俺の未来も、世界も、あいつがいないと意味がない。俺は、この世界を捨てるんじゃない。前の世界に忘れてきた大切なものを取りに行くだけだ。この世界も前の世界もみんな一緒に連れていく」
「あなたにそれが出来ますか。それだけの覚悟があるのですか」
疑る声に、緊迫した沈黙が籠る。だが、克哉は毅然とした眼差しでRを射た。
同じ時間軸を何度もやり直した御堂。だが、繰り返すたびに克哉は殺された。自分の無力感を味わわされるのはとても辛く、苦しいことだろう。だが、それでも、御堂は時を遡った。
なぜなら、御堂にとっては克哉を失うことの方が何よりも辛いことだからだ。だから、御堂はあきらめなかった。あきらめたらその時点で克哉の死が確定するからだ。
自分自身のためだけに時を戻そうとしては駄目なのだ。そうなれば、自分がもういいやとあきらめた瞬間にあがくことを止めてしまう。自分のためだけに発揮できる力には限界がある。だが、大切な人のためなら、限界を超えて踏ん張ることが出来る。自身の未来と引き換えにすることも厭わずに相手に尽くすことが出来る。
そして、御堂は克哉のために運命の呪縛を断ち切ってみせた。二人で過ごす未来を代償として。それは御堂が背負った覚悟の強さだ。自分に同じだけの覚悟はあるのか。
答えはすぐに降りてきた。
「俺たちなら出来るさ」
しばしの沈黙を挟んで、克哉は言った。その沈黙は逡巡というよりも、自分の覚悟を再確認するための沈黙だ。
克哉の断固たる決意に触れて、Rはゆったりとかぶりを振った。
「どうやら、あなたは私の見込み違いでした。……残念です」
そう告げながら、Rは芝居がかったような仕草で帽子のつばに手を掛けて、深く被りなおした。そして、コートのポケットからごく自然な仕草で柘榴を取り出すと、克哉に渡す。
「これが……」
「時の果実です」
ずしりとした果実の重み。茶色く枯れた果皮の間から、蠱惑的な紅い実が覗く。甘酸っぱい香りが夜の公園に漂う一方で、克哉を取り巻く空気が禍々しい気配を帯びた。
「ひとつ、注意事項がございます」
Rが静かに言葉を添える。
「この果実について、一切他人に話してはいけません」
「同じことを、御堂にも言ったのか?」
「ええ、もちろんです」
「なるほどな」
それはとても重要な情報だった。うまく使えば、自分と御堂の退路を断つことが可能だろう。
「今度こそ、私の望む道を歩んでいただけると思っていたのですが」
「生憎だったな」
Rの金の眸が、すうと細められた。その眸が熱を失う。もはやそこには何の感情も見えず、無機質な冷淡さだけが漂った。
最後にRにしっかり釘を刺しておく。
「これ以上、俺にも御堂にも関わるな」
「ええ。もう形の決まってしまったあなたには興味はございません」
一呼吸置いて、Rは言った。
「では、さようなら、佐伯克哉さん。……またいつか、別の未来でお会いしましょう」
Rは克哉に向けて微かに会釈をすると、踵を返して公園の濁った闇の中に消えていった。
克哉と、そしてその手の中にある柘榴だけが取り残される。
克哉は硬い果皮を剥いで、果実に歯を立てた。果実が口の中で弾けて、甘酸っぱい果汁が飛び散る。
そう。まだ、終わっていないのだ。
むしろ、クライマックスはこれからだ。最大の難敵にして最も愛しい人が待っている。
―― 待っていろよ、御堂。
ふわり、と柘榴の香りが漂った。