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ambivalent -side M-

 目の前で朝食をとっている眼鏡をかけた男を眺めた。
 眼鏡をかけた端正な顔立ちのこの男は、私の部下で、私の恋人だった、らしい。
 らしいというのは、私の記憶が欠落していてこの男の記憶が一切ないからだ。
 ある日、気が付いたら自宅のソファに座っていた。そして目の前にこの男がいた。
 この男が言うに、私は数か月間意識を失っていた、らしい。
 そして更に、私の記憶の欠落はおよそ一年に及ぶ。
 その間に、私は仕事で体調を崩し意識を失うに至った、らしい。
 らしい、ばかりなのは、そう言われても何も思い出せなかったし、それを証言するのはこの男だけなのだ。
 意識が戻った私の身体は筋肉が削げ落ち、立つことさえままならなかった。長い間意識がなかったのは本当なのだろう。
 そして、この男は私の家に同居し、私の面倒をずっと看ていたようだ。
 確かに、彼が私を介助する手つきは慣れているし、私の家のどこに何があるかをよく把握している。
 ただ、何か違和感を覚える。
 それは今の自分の状況に対してもそうであったし、目の前のこの男、佐伯に対してもそうだ。
「何か?」
 私の視線に気付いたのか、顔を向けられた。反射的に視線を逸らしかけたが、目を見返した。
「いや……ところで、君はいつからMGNにいるんだ?」
「…中途入社なので、半年程度です」
「中途?珍しいな。前はどこにいた?」
 どうりでこの男の記憶がないわけだ。それにしても、MGNに中途入社とは珍しい。ヘッドハンティングされるには彼はまだ若いだろう。よっぽど彼が優秀だったか、特別な事情があったのだろうか。
「MGN系列の社です」
 それだけ言って、佐伯は立ち上がり自分の食器を片づけだした。
 聞かれたくない事情だったのだろうか。それ以上の詮索は諦めた。
 この男がMGNの社員であることは確かだ。社章もつけているし、身分証も見たことがある。
 ただ、どうも腑に落ちない。
 この男は私の部下だったというが、私は部下と関係を持ったりしたのだろうか。
 自分自身の性格を考えても、ありえなかった。
 社外ならともかく、社内で、しかも男性と関係を持つのはスキャンダルになりうる。
 MGNが外資系でいくらプライベートに寛容であろうといえども、出世に響くであろうことは明白だ。当時の私は冷静さを失っていたのだろうか。それともよっぽどこの男に惚れこんだのだろうか。
 そもそも、私はこの男のどこに惹かれたのだろう。
 学生時代に遊びで男性と関係を持ったことはある。ただ、恋人関係まで至ったことはない。
 この男は顔立ちこそ端正で美形といえるし、甲斐甲斐しく私の世話を焼く献身さも持っている。ただ、隠し切れない陰がある。私はこういうタイプが好みだったのだろうか。
「ごちそうさま」
 私はテーブルに手を突いて立ち上がった。
「どちらへ?」
 佐伯がこちらを振り向く。
「…顔を洗ってくる」
 私の行動を逐一報告せざる得ない状況に、多少苛立ちを感じながら答えた。
 台に手を突いて思い通りにならない身体を支えつつ、廊下に向かった。
 佐伯は数歩離れて黙ってついてくる。正直、鬱陶しかったが、先日、一人で十分だと宣言した矢先に派手に転倒したので信用されていない。
 それでも、私の機嫌を損ねないように控えめに、但し必ずついてくる姿は、よく躾けられた忠実な飼い犬を思わせる。
 いや、その本質は猟犬に近いかもしれない。
 彼は私に対しては常に労りを見せるが、眼鏡のレンズの奥の双眸は鋭い。
 間近で彼の言動を見ていると、機転の速さ、洞察の鋭さは感心するものがある。敵に回したら厄介だろう。
 そこまで思い至って苦笑した。むしろ、飼われているのは私かもしれない。
 現在の私の生活はほぼ彼に依存しているし、今の体力では外に出ることもかなわない。
 彼以外の誰とも顔を合わせることのない生活を送っている。
 その閉塞感に時に苛立ちを覚えるが、かといって知人に今の情けない姿をさらすのも受け入れがたかった。
 洗面台で歯を磨き顔を洗う。タオルを取ろうとすると、顔の横に新しいタオルが差し出された。佐伯だ。私にタオルを渡すと、すっと後ろに下がる。ここまで気遣われる筋合いはないが、彼の親切を否定できるほどの立場でもなかった。
 タオルで顔を拭きながら、さりげなく鏡に映る佐伯を伺った。
 …まただ。
 彼は時々、私を見ながら苦しそうな表情をする。何か思い詰めているような。それが彼の陰の部分でもある。その理由がどこにあるのか、私には分からない。
 そろそろ佐伯が出社する時間だ。
 心配性の彼をさっさと送り出すために、ソファに戻って大人しくした方がよいだろう。
 佐伯の方を振り返った。
「リビングに戻りたいから手を貸してくれ」
 さっと彼が近寄って手を差しだす。腕をつかんで、彼の介助を受け入れた。
 少しずつだが、段々と動けるようになってきている。彼の手助けなしで動けるようになる日も近いだろう。

 佐伯が出社すると自分一人の時間になる。気兼ねなく自由にできる貴重な時間だ。
 単調なリハビリをしつつ好きなことをして過ごす。クラシックを流し、新聞を読む。
 仕事がないと退屈するかと思いきや、積みっぱなしだった本を片っ端から読み漁って、意外と飽きずに過ごせていた。佐伯が私用にノートパソコンを用意していったが、仕事で使う必要がないとあまり開くこともなかった。
 夕方、佐伯はいつもほぼ時間通りに帰ってくる。定時で帰宅しているのだろう。
 当初はそんなに早く仕事が終わるのだろうか、と訝しがったが、私のために早く帰っていることに気付いて、何ともやりきれない気持ちになった。
 彼はなぜそこまで私に尽くすのだろう。
 
 夜、寝苦しくて目が覚めた。喉が渇く。
 ベッドから起き上がり、キッチンに水を飲みに行こうかと思ったが、躊躇した。
 リビングのソファでは佐伯が寝ている。私が行けば起きるだろうし、私を気遣うだろう。
 我慢しようか、とも思ったが、考えればここは私の家だ。なぜ彼に遠慮しなくてはいけない。ベッドから起き上がった。
 とはいえ、彼に気付かれないよう静かに寝室のドアを開ける。シャワーの音が浴室から聞こえてきた。佐伯はシャワーを浴びているのか。彼はいつも私が寝付いてから自分の身支度を行っている。
 壁伝いに、ゆっくりと歩く。まだ足が自由にならず重い。キッチンまでのわずかな道のりが途方もなく遠く感じる。立ち止まって一息ついた。
「御堂さん」
 後ろから声をかけられた。驚いて振り向く。
 佐伯が立っていた。浴室から急いで出てきたようで、腰にバスタオルを巻いた半裸の状態で、首にもう一枚タオルをかけて髪から滴る水滴を防いでいる。目のやり場に困り、思わず目を逸らした。
「どちらへ?」
「水を飲みに」
「寝室まで持っていきます。そのまま待っていて下さい」
 そう言ってキッチンに向かおうとする。
「やめてくれっ!」
 思わず叫んだ。佐伯がびくりと動きを止めた。
「自分でやる」
 言った直後に、他人に八つ当たりをする自分自身に対して嫌気がさし、空しい笑いを浮かべた。
「…すまない。君に当たってもしょうがないのにな」
「……いえ」
 小さく消えそうな佐伯の声だった。思わず佐伯の方を見た。その顔には再び苦しげな表情が浮かんでいた。なぜそんなに苦しそうなのだろう。
 改めて佐伯を眺めた。骨ばった痩せた身体だ。意識不明だった私の方が、筋肉はないものの栄養状態が良いのではないかと思わせる。
 彼の食生活が乱れていたものだったことは見て取れた。
 今でこそ一緒に朝夕の食事をとっているが、それまでの彼は夕食をとる習慣がなかったようだった。自炊能力もほとんどない。朝もパンだけで済ましている事が多いので、まともに食べているのは昼位だろう。
 なぜそんな食生活なのか。理由は明白だった。私の世話のために、彼にとって自由な時間はほとんどなかったのだ。彼はまだ若い。同じ世代の若者はもっと私生活を謳歌しているはずだ。何の得にもならない私の面倒を見るために、彼は二度と戻らない貴重な時間を費やしていたのだ。それを考えると胸が締め付けられた。
 私は彼を解放しなければならない。彼がここにいるのは、恋人だったからという理由だけではないだろう。私の今の状況に対して何らかの責任を感じているのは見て取れた。どんな責任を感じているのかまでは分からなかったが、もう十分すぎるほど代償は払っているはずだ。
「佐伯」
 彼の方に向き直った
「なぜ、そこまで私に尽くす?」
 佐伯は私から視線を外し、目を伏せた。
「…あなたに元に戻って欲しい」
「元? 君と一緒にいた頃か?」
「いえ、…俺と出会う前の頃のあなたです」
 佐伯と出会う前? 佐伯の言っている意味は分からなかった。だが、彼もそれ以上話す気はないようで、押し黙る。
「…君が私のために色々世話を焼いてくれるのは助かっているし、君の好意に感謝している。だが、君はそろそろ自分の生活に戻るべきだ」
 佐伯が顔を上げてこちらを見た。眼鏡のレンズが反射し、その奥にある表情は読み取れなかった。私は言葉を続けた。
「君はまだ若い。もっと自分の時間を楽しみなさい」
「…俺が今の生活を楽しんでいないと思っているんですか?」
 意外な言葉に耳を疑った。ふっと佐伯が微かな笑みを浮かべた。
「御堂さん。俺は今の生活を楽しんでいますよ」
「楽しい?」
「ええ。あなたを見ているのは楽しいです」
「は?」
 彼は何を言っているのだ?思わず聞き返した。
「もう、あなたは目を覚まさないと覚悟していた。だからあなたの意識が戻った時は、言葉に表せないほど嬉しかった。今だって自分の意志で動き話すあなたを見るのは楽しい」
 そこまで話して、佐伯は私にまっすぐな視線を向けた。
「俺の我儘だってことは分かっている。でも、もう少しここに置いてほしい」
 その言葉は真剣だった。彼は本気でそう思っているのだ。
 この男は闇を抱えていることに気付いた。彼は、絶望の深淵を一度覗いたのかもしれない。もしそうだとしたら、それは私が意識を失ったことを指しているのだろう。そして、それが私の意識が戻った後も、今の今まで何らかの呪縛となって彼の陰となっている。
 この男が今でも抱える苦悩の理由は、記憶のない私には分からなかった。しかし、これ以上聞いても無駄だろう。彼は肝心なところは話そうとしない。
 ただ、私の傍に居続けたいということは分かった。そして私はその佐伯の希望を無下に断る理由はなかった。
 諦めてため息をついた。
「…君は、職場でもそうなのか?」
「何が?」
「表情が乏しすぎて、楽しそうには見えない」
「…あなたに言われたくない」
 思わぬ反撃に佐伯の顔をまじまじと見つめた。
「あなただって、職場ではいつも眉間にしわを寄せていて、笑った顔を見たことがない」
「私はそんなだったか?」
「ええ。高慢で不遜で、いつも他人を見下していましたよ」
 過去に思いを馳せたのか、佐伯の眼差しが微かに優しくなった。
「…酷い言われようだな。…だが、私の記憶にある私自身と一致している」
 この男は私のどこを好きになったのだ?
 遠慮のない佐伯の言葉に可笑しさがこみ上げて、思わず声を上げて笑った。
 佐伯は一瞬私の笑い声に驚いたようだが、つられて目元が緩み笑い出す。

 その顔に思わず目を奪われた。
 佐伯の笑顔は照れているようでもあり、少し拗ねているようでもあった。
 こんな顔をすることもあるのか。
 もしかしたら、私はこの男のこの顔が好きになったのかもしれない。

 肩をわずかに震わせて笑う佐伯を見ながら、ぼんやりと思った。

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