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【サンプル】あの夜に沈む果実

    プロローグ


 佐伯克哉(さえきかつや)がいるその部屋は重苦しいほどの静けさが凝(こご)っていた。
 東京の一等地にある高層マンションの上層階。高くとられた天井に、アウトフレームの構造のリビングは二十畳近くあるのだろう。広々とした空間は整然と片付けられ、壁を覆う窓は東京のきらびやかな夜景を一幅の絵画のように映し出していた。
 置かれている家具は少ないが厳選されていて、モデルルームかホテルのスイートルームのようだ。大型の液晶テレビにガラスのローテーブル、黒い革のソファは高級なものだとひと目でわかる。空調は完璧に管理され、秋から冬へと季節が進みゆくのをまったく感じさせない。
 だが、克哉にとってこの部屋は、誰もがうらやむ天上の住まいというよりは、ダムの底深くに沈み誰からも忘れ去られたままゆっくりと朽(く)ちていく廃墟のように思えた。
 静寂に浸ったリビングのソファには部屋の主である御堂孝典(みどうたかのり)が座っている。いや、座っていると言うよりは、置かれていると表現したほうが正確だろう。まるで家具のように、御堂はソファに置かれていた。背もたれに背中を預けて深く腰を掛けるような体勢だが、それはあたかもそう座っているような体勢を取らされただけであって、そこに御堂の意思は一切介在していなかった。かといって、御堂が不満を漏らすことも、居心地の悪さから体勢を変えることもなかった。ただ、そこに在るだけだ。
 実際、こうしてソファに座らせるのもひと苦労だった。ふとした弾みで御堂の身体はいとも容易く崩れ落ちる。クッションで身体を支え、体重を分散させ、危ういバランスの上に御堂の姿勢は成り立っていた。
 着せられている服は御堂の私物だが、サイズはぶかぶかになっている。落ちくぼんだ眼窩(がんか)にそげ落ちた頬。青白い顔色は明らかに病人のそれで、痩せ細った手足を見ればとても一人で動けるようには見えないし、かすかに動く胸を目にしなければ死体そのものといっても過言ではない様相だ。
 ぼんやりと開かれた目は不規則な瞬きを繰り返している。一切の表情が削げ落ちた御堂の顔は、苦しみや痛みから遠いところにあるように思えた。かといって、安寧や平穏も御堂の顔からは感じ取れなかった。
「御堂さん、食事にしましょうか」
 克哉がキッチンから呼びかける声が部屋に満ちる静寂を寸断した。だが、返ってくる反応はなく、すぐさま濃い静寂が戻る。耳をすませば空調の音がかすかに響くが、上空から吹きつける強い風もこの部屋の中には一切届かない。御堂の部屋はさざ波ひとつ立たない静謐な湖面のように時間が止まり、いかなる雑音をも受けつけなかった。
 克哉はキッチンから食事を乗せたトレーを持って、御堂の元へと歩みを寄せた。慣れた仕草で御堂の首元にタオルをかけて、食事を開始する。薄く開いた御堂の口にひと匙ひと匙、ペースト状の食事を根気よく含ませていく。御堂は生理的な反射で飲み込んでくれてはいるが、一食分を食べさせるのにかかる時間は日に日に増えている。途中で嚥下をやめてしまうこともざらだ。口の端から零(こぼ)れ落ちる食事をタオルで拭いながらどうにか食事を再開させようとするが、その努力も徒労に終わることが多い。
 この日の食事もそうだった。噛まずに飲めるよう柔らかくとろみのついた食事を、御堂は数口呑み込んで動きを止めた。
「御堂さん、もう少し食べませんか?」
 優しく声をかけるが御堂はピクリとも動かない。宙を彷徨(さまよ)う虚ろな視線は克哉に焦点を結ぶこともない。
 克哉は少し時間をおいてふたたび匙を口元に持っていくが、御堂の口の中に流し込んだ食事は嚥下されることなく口の端から零れ落ちた。
 諦めて御堂の口の中に溜まった食事をタオルで拭う。そっと吐いた自身のため息も、この部屋では大きく響いた。いまの御堂は、呼びかけはもちろん、痛みにもなにも反応しない。一切動くこともない。意識も感情もなく、ただそこに人の形をした肉体があるだけだ。
 この御堂は生殺与奪(せいさつよだつ)のすべてを克哉にゆだねながらも、克哉の意のままになることは決してなかった。克哉がどれほど心を砕いて世話を焼いても、御堂に届くことはない。御堂の暗渠(あんきょ)のようになってしまった心はなにも受けつけず、ただ闇を湛(たた)えるばかりだ。
 いまの御堂は生きながらにして死んでいる。だから克哉を罵倒(ばとう)することも責めることもない。ただ朽ちていくだけだ。この御堂は克哉が知る御堂ではなかった。御堂の魂はとうに喪(うしな)われてしまった。なにも肉体の死のみが人の死ではないのだ。御堂を殺したのは克哉だ。克哉が与えた救いようのない絶望が御堂を殺した。
 この御堂と同じ空間で息を吸うたびに、やるせない感情が克哉の胸の中で膨れ上がる。自分の幼稚な愚かさが取り返しのつかない罪を犯してしまった。そして、日に日に痩せ細っていく御堂を目の前にして、なにもできない自分の無力さに打ちのめされている。
「あなたはどこに消えてしまったのだろうな」
 呟いた声は部屋の静寂にかき消されていく。
 克哉が御堂と初めて出会ったのはMGN社の執務室だった。そこで対峙したときの御堂の姿を頭の中で思い浮かべたが、御堂の顔はすぐさまぽつぽつと虫食いみたいに闇に侵食されて、目の前の生気を失った青白い顔に取って代わられる。
 魂を喪って壊れた御堂は、かつての輝きを取り戻すことは二度とないだろう。
 取り返しのつかない結果を前にどれほど慚愧(ざんき)の念に駆られただろうか。克哉はすべてを擲(なげう)って御堂に尽くしていたが、いくら御堂に尽くそうとも御堂は戻ってこないという予感は、克哉の中で折り重なって影を濃くしている。それでも御堂を手放せないのには、理由があった。
 ほとんど量の減っていない食事を乗せたプレートを下げようと、克哉が立ち上がったときだった。
「……け、て…」
 かすかな声が、部屋に充満した重い空気を乱した。
 ハッと克哉は動きを止めて、御堂を振り返った。息を詰めて御堂を見詰める。克哉の視線の先で御堂の虚ろに開かれた目の縁に涙の粒が膨れ上がった。みるみるうちに表面張力を超えたそれは、一筋の尾を引いて静かに頬に伝い落ちていく。
「御堂……」
 克哉はプレートをその場に置いて、御堂の肩を掴んだ。
「どうした、御堂? なにを言いたい?」
 骨ばった肩は肉が削げ落ち、強く掴めばぽっきりと折れてしまいそうだ。だが、それでも克哉はわずかでも御堂の反応を引き出そうと声を上げた。しかし、もはや御堂はなんの反応もしなかった。ぐらぐらと揺れる頭ががくりと落ちて、バランスを崩した上体が前に倒れそうになるのを克哉は咄嗟に抱きとめた。
 か細くなだらかな吐息が克哉の首筋にかかる。その呼吸のリズムに一切の乱れはなく、先ほどの声も涙も克哉の渇望が見せた幻覚だったのかとさえ思う。しかし、御堂の目許がかすかに濡れて光っていて、確かにそこに涙が存在したのだとわかる。
 こうして御堂は時折、情緒の片鱗のようなものを見せる。だが、それを感情の発露というにはあまりにも空虚なものだった。御堂の口から漏れたのは声のように思えたが、たまたま吐息が声帯を無意味に震わせた音にも聞こえたし、目から溢れ出る涙もまた、心の動きとは無関係の生理的な涙かもしれない。
 腕の中にある御堂の頼りない身体をそろそろと離して、克哉は御堂の顔を覗き込んだ。
 夜の闇に塗り潰された虹彩の中心にぽっかりと開く瞳孔。それは暗い穴のようで、奥には虚無の闇が広がっている。
 この身体の中に『御堂孝典』はすでにいない。御堂は途方もなく遠い場所にいる。身体だけを置き去りにして。あるのは躯(むくろ)に限りなく近い物体だけだ。それならば、この御堂から零れ落ちる感情のようなものは何なのだろうか。
 置き去りにされた身体に刻まれた単なる言葉の記録なのだろうか。それはまるで壊れた玩具がふとした弾みにいびつに動くようなもので、そこになにかしらの意味を求めることは間違っているのだろう。
 それでも、克哉にはそれが御堂の切実な叫びに聞こえてならない。御堂の魂の残滓が克哉に助けを求めようとしているのではないか。
 なにから助ければ良いのか。どうすれば助けられるのか。
 こうして、御堂の声を聞くたびに克哉はあの夜のことを思い出す。
 それは、御堂を監禁してしばらく経ったときだった。MGN社は御堂を見限る判断をし、代わりに克哉がMGN社に招かれた。
 これでまたひとつ御堂を貶(おとし)めるネタが増えた。今夜はどうやって御堂をいたぶろうか、それを想像してほくそ笑む克哉が夜遅く部屋に戻ると、御堂の様子がいつもと違った。克哉に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせ暴れていた御堂は、ぼうっと虚ろな視線を彷徨わせ、克哉が帰ってきたことにさえ気が付いていないようだった。
 声をかけても反応しない御堂に苛立ち、克哉は肩を掴み乱暴に揺さぶった。すると、御堂はガタガタと震えだし、涙を流した。そして、掠れた声を出した。
「助けて……くれ……許して…」
 焦点の合わない眸(ひとみ)をなにもない空間に向けながら、御堂は言った。
 こうまでしても、御堂は誰に助けを求めようとしているのか。
 目の前にいる克哉を無視し続ける御堂に苛立った。どうしてこの男は自分を認めようとしないのか。これほどまで痛めつけたのに、いまだに克哉がいないところに逃げようとしている。
 克哉の苛立ちは、みるみるうちに胸を焼き尽くすような激しい感情に取って代わられた。
 まだ手ぬるかったのだ。すべての希望を踏み躙り、もっと痛めつければ、御堂は克哉を無視できなくなるはずだ。克哉を認め、克哉に縋(すが)りつくはずだ。
 克哉は震える御堂の枷を外し、その場に這わせると背後から御堂を犯した。言葉で嬲(なぶ)り、乱暴に犯しぬき、御堂の反応が薄いとみるや鞭や拘束具で痛みを与えた。御堂の悲鳴が途切れるたびに痛めつけたが、反応は次第に乏しくなってきた。
 御堂はすぐに意識を飛ばし、時折思い出したように暴れ、そしてまた、うわ言のように助けを求めて許しを乞うていた。それでも克哉は一切の容赦をしなかった。そうして、エスカレートした仕打ちの先にあるのがいまの御堂の有様だ。
 助けを求めていた御堂。あれは誰に向けての懇願だったのだろうか。あの場には御堂と克哉しかいなかった。だが、御堂は空疎な視線の先に一体なにを視ていたのだろう。御堂の切実な叫びはその相手に届いたのだろうか。その結果がこの魂を喪った御堂の姿なのだろうか。
 御堂がすべての反応をなくし、意識と呼べるものすら失ったとき、克哉は自分の大いなる敗北と罪を知った。これ以上なく打ちのめされる一方で、御堂にとっての惨劇は幕を下ろしたのかどうかが気になった。果たして、御堂は救われたのだろうか。御堂の助けを求める声は届いたのだろうか。そしてまた、御堂は誰に助けを求めていたのか。
 御堂に信仰があったかどうかはわからない。だが、大部分の日本人同様に御堂には確たる信仰は持ち合わせていなかったように思える。実際、御堂の部屋の中にはなにかしら信仰の存在を窺(うかが)わせるものはなかった。
 克哉も同様だ。自分以外を信じてはいない。死ぬことはすなわち無になることで、死後に他の世界が存在するとは信じていないし、信じたくもない。だが、こうして空っぽになった御堂を前にすると魂の行方に思いを巡らせてしまう。
 御堂がなにかを信仰していたとしたら、御堂は救われただろうか。すなわち、御堂の魂は天国に召されたのだろうか。そうであってほしいと願う。
 しかし、それならばなぜ、御堂はいまでも涙を流し、助けを求めるのだろうか。
 もしや、御堂の魂はいまでも激しい苦痛に苛(さいな)まされているのではないか。
 救済を切に祈り続けた結果がこの耐えがたい現実だとしたら、御堂は神にまで裏切られたことになる。御堂が受ける絶望はどこまでも深く暗いものになるだろう。
 いま、御堂を苦しめる者はいない。だが、痛みや苦しみは、なにも肉体からもたらされるものばかりではないのだ。
 克哉が大学時代に聴いた講義を思い出す。民俗学の講義だった。日本のおとぎ話や民話に出てくる邪悪な存在である鬼の話で、当時、鬼は死んだ人間が変化(へんげ)したものだと信じられていた。
 この世に深い恨みを持ったまま亡くなった者の魂はあの世に行くことができず、現世に留まるのだという。強い憎しみや哀しみに支配された魂はこの世界を永劫に彷徨(さまよ)い、苦しみ続ける。そんな堕ちた魂がなにかのきっかけで肉体を得ると化け物となり、それを人は『鬼』と呼んだ。
 印象の薄い講師の単調な講義だった。それに、その講義に興味があったわけではなく、教養課程の単位数合わせと履修スケジュールの都合で取ったクラスに過ぎなかった。そもそも、俺が聞いたのではなくオレが聴いた講義だ。それでもこうしてありありと思い出せるのは、その内容がイドの深淵に眠る克哉に響いたからだろう。
 深い恨みや哀しみを持った魂が肉体を得たものを『鬼』と呼ぶ。
 それはまさしく、この身体に自我を取り戻した克哉自身のことではなかったのか。かつて克哉は激しい絶望に襲われ、この世界を捨てた。それはいまから思い返せば、信じていた親友に手ひどく裏切られたという陳腐(ちんぷ)な悲劇だったが、当時の克哉の無垢な魂には十分すぎるほどの絶望だった。克哉の魂は怨嗟(えんさ)や悲嘆(ひたん)とともに封印され、Mr.Rによってこの世界に呼び戻された。克哉に肉体が与えられたのだ。
 邪悪な鬼は禍(わざわい)をもたらす。
 そのとおりだ。克哉は御堂のすべてを奪い、壊してしまった。その一方で、御堂の魂を代償として、自分の魂を取り戻した。御堂が自分にとってどれほど大切な存在であったか気付き、自分が犯した取り返しのつかない過ちを知った。
 だが、鬼は鬼を生む。克哉は新しい鬼を生み出そうとしている。いまの御堂の魂はまさしくかつての克哉と同じように深い憎しみと哀(かな)しみに染まっているのではないか。そして、天に召されることもなく永劫(えいごう)の苦しみに囚われている。だから、御堂は必死に助けを求めている。絶望という魂の牢獄から救い出してほしいのではないか。御堂の魂の叫びが、空っぽになった身体を通じて訴えかけているのではないか。
 こうして克哉から解放されてもなお苦しみ続ける御堂を思うと、胸が張り裂けそうになる。あれほどつらい思いをしてもまだ、御堂は安らぎを許されないのだ。
 御堂の魂はどこにいるのか。どうなっているのか。
 そんなことを憑(つ)かれたように考えていると克哉の胸の奥がひどくざわめく。
「御堂。あなたは自分の恨みを晴らしてほしいのか?」
 問う声に返事はない。御堂の顔は虚(うつ)ろに凪(な)いだまま波立つことはない。
 だが、御堂が深い恨みを抱いているのは間違いないはずだ。もし、その恨みを晴らせば御堂は救われるのだろうか。苦しみから解き放つことができるのだろうか。
 死後の世界があるとしたら、克哉が地獄に堕ちるのは間違いない。だが、その前に御堂の無念や怒り、その怨念を消してやらなくてはならない。御堂の魂だけは救わなければいけない。そして、御堂を救えるのは、もはや克哉だけしかいないのだ。それが克哉にできる唯一の贖罪(しょくざい)なのではないか。
 だが、その一方で御堂の恨みを晴らすとしたら、その憎き相手もまた克哉なのだ。

 

 夜の公園は人気(ひとけ)がなく、静かだった。日中の気温は高くても、吹きつける風は秋そのものだ。疎(まばら)らに配置された街灯の光がかろうじて克哉の足元を照らしているが、ところどころに点在する濃い闇の中に、無数のなにかが密やかにうごめいているような気配がする。
 首筋に張り付く怖気(おぞけ)を無視して克哉はその男を呼んだ。
「Mr.R」
 Mr.Rが克哉の前に姿を現さなくなってから一年近く経つ。この克哉に、もはやなんの期待も希望も抱いていないのだろう。そんな相手が果たして克哉の呼びかけに応えてくれるのか確信はなかったが、克哉は夜の公園の真ん中でじっと佇(たたず)んだ。
 どれほどの時間が経っただろうか。周囲から音が消えたことに気が付いた。風の音も木々のざわめきもなくなり、克哉にまとわりつく夜の空気の粘度がとろりと濃さを増した。
「こんばんは、佐伯克哉さん」
 唐突に克哉の背後から声がかかる。ぎくりと身を強張らせて、克哉は肩越しに振り返った。闇が人の形に切り取られたかのようにMr.Rが立っていた。波打つ金の髪を闇に溶かし、髪と同じ輝く金色の眸(ひとみ)を克哉に向けている。人目を引く美貌だが、見惚(みと)れるというよりは人知を超えるものに対する畏(おそ)れが先立つ。この男こそ、佐伯克哉に眼鏡を渡したことで、克哉をこの世界に引き戻した張本人だ。
 Mr.Rは嫣然(えんぜん)とした笑みを浮かべた。
「お久しぶりですね。あなたから私に会いに来るとは、いかがいたしましたでしょうか」
「頼みがある」
 Mr.Rはレンズの奥の眸を眇めた。輝く金の眸が克哉を見詰める。意識の奥を探られるかのような深遠な眼差しだ。その視線をまっすぐに見返すと、Mr.Rは口を開いた。
「あなたご自身が決着を付けるべきでしょう」
「当然、そのつもりだ。だからこそ、お前に会いに来た。……面白いものを見たくはないか?」
「ほう……」
 Mr.Rは考え込むように小首を傾げた。克哉の意図をすべて見透かした上で、克哉の誘いに乗るべきか吟味しているのだ。ややあって、Mr.Rは笑みを深めた。
「良いでしょう。あなたにその手段を与えましょう」
 Mr.Rは克哉に向けて手を差し出した。どこから取り出したのか、そこには茶色いいびつな球体が乗っていた。
「柘榴?」
 硬い果皮の裂け目から真っ赤な果実が覗いている。Mr.Rはその果実に向けて、ふ、と息を吐いた。途端に、柘榴は燦然(さんぜん)と輝く銀のバングルへと姿を変える。
 奇術のようなめくるめく変化に目を奪われていると、Mr.Rはそのバングルを克哉に手渡した。ひんやりとした金属の感触。それはかつてMr.Rから渡された眼鏡の感触によく似ていた。よく見れば、バングルには柘榴の果実のような赤い宝石が七個輝いている。
「これは?」
「あなたを過去に連れて行くアイテムです。お好きな時点に戻ることができますが、過去に存在できるのはひとつの宝石につき特定の過去の一日間だけ。すなわち最大七日間あなたは過去に滞在できる。どうぞ賢くお使いください」
 克哉は魅入られたように銀のバングルを見詰める。
 過去に戻れば、過(あやま)ちを正せるのだろうか。そうすれば、いまとは違う現実に辿り着くことができるのだろうか。
「残念ながら、それは無理というものです」
 Mr.Rは克哉の心中を読んだかのように言い、吐息で笑う。
「あなたは歴史を改変することができる。ですが、その行為は新たな世界を別に創るだけ。この世界にはなんの影響も及ぼすことはありません」
 体温を感じさせない冷ややかな声が、克哉の中に生まれたほんのわずかばかりの希望を打ち砕いた。
 心が重たく沈んでいく。
 そう、わかっていたことなのだ。克哉がなにをしようとも、この現状を変えることはできない。
 Mr.Rは言葉を重ねる。
「あなたがどのような世界を創り出すのか興味があります。もちろん、それを使わないという選択肢もある。選ぶのはあなたです。どうぞうまく立ち回られますように」
 完璧な微笑を添えた甘美な声でMr.Rは克哉に告げると、軽やかに身を翻す。すぐに闇に紛れて見えなくなった。
 それと同時に、克哉に強い風が吹きつけた。枝が擦り合う音が静寂を乱し、時が動き出す。まるで夢を見ていたかのような心地だったが、手の中にあるバングルが先ほどの出来事が夢でないことを示していた。
 Mr.Rの言葉を頭の中で反芻(はんすう)した。
 現実を変えるなどという都合の良い魔法はない。それならば、自分がいまからやろうとしていることにどれほどの意味があるのか。
 あれほど懊悩して出した結論でありながらも、どこかしら踏み切れない部分があるのだろう。いざ手段を与えられると本当にこれでよいのかと逡巡する心が顔を覗かせる。
 冷たく整えられたアスファルトの道を歩きながら、克哉は御堂のマンションに戻った。先ほどの公園と同じように、時間が止まった空間がそこにある。
「ただいま戻りました」
 静まり返った部屋に向けて告げる。もちろん返事はなく、克哉もまた期待していない。
 靴を脱いでリビングへと向かうと、克哉が部屋を出てきたときとまったく同じ姿で御堂がくたりとソファにもたれかかっていた。この御堂を目にするたびに、首筋を凍えた手で触れられたかのような寒気(さむけ)が克哉を襲う。御堂は克哉の罪そのものだ。克哉に罪を突きつけながらも、克哉の贖罪を受け入れることも、克哉を赦すこともない。
「御堂、俺は、どうすれば良いのだろうな」
 虚ろに呟いたときだった。
「たす、けて……」
 か細い声が部屋に満ちた静謐に波紋を立てた。ハッと克哉は御堂を見詰める。涙に濡れる御堂の眸。ほんの一瞬、御堂と視線が重なったように思えた。
「御堂……」
 克哉は覚悟を決める。御堂の魂を絶望から救うためには、このバングルを使うしかないのだ。
「待っていろ、御堂。俺が、あなたの恨みを晴らす」
 どこかで苦しむ御堂の魂を救うために。克哉はバングルを右手首に嵌める。
 手首に巻き付いたバングルがぶるりと震えた。

​本編


 遮光カーテンで陽の光を遮(さえぎ)られた部屋は常に暗く、いまが朝なのか夜なのかも判然としなかった。
 御堂の両手は拘束されて壁に吊り上げられ、両脚は大きく開かされた状態で固定されていた。かろうじてシャツ一枚羽織っているか、裸の肌は鞭や拘束具の痕(あと)がつき、涎(よだれ)や精液で常に汚れていた。
 とうに時間の感覚は失われていて、佐伯に監禁されてからどれくらいの時間が経過したのか、それさえもよくわからなくなっていた。睡眠と呼べる休息はなく、失神しては痛みで無理やり覚醒させられる状態を繰り返している。いまも、頬をはたかれて強制的に意識を呼び戻された。
 頭上では克哉がなにかを言っている。
「いい子でお留守番していろよ」
 意識の輪郭はぼんやりとした状態で、かけられた声に反応できないでいると、佐伯は舌打ちをして御堂の剥き出しのペニスを踏みつけた。
「ひ、ぁっ」
 鋭い痛みに身体を突っ張らせ悲鳴を上げる。
「あんた、やっぱりマゾだな。ひどくしてほしいからそんな態度を取っているんだろう」
 嘲笑する口調で言って、佐伯は屈みこんだ。御堂の顎を掬(すく)い、顔を上げさせる。ぼやけた視界に佐伯が映り込む。
「留守番中、退屈だろうから、あんたが好きなものをくれてやるよ」
 そう言って、ピンク色のバイブを取り出した。
「やめ……、たす、け………ひ、い、あ、あああっ!」
 哀訴の声は途中で悲鳴に取って代わられた。
 バイブは容赦なく御堂の中を抉り、強制的に快楽を呼び起こす。御堂のペニスが頭をもたげ出すと、佐伯はその根元を細いベルトで締めて射精を封じる。ペニスをいたぶられる苦しさに呻き声を漏らせば、開いた口にボールギャグを噛まされた。
「御堂、勝手にイったらお仕置きだからな」
 そう言って佐伯はにやりと唇の端を吊り上げると、爪先でバイブの柄を無造作に押し込んだ。ぐりっと中を強く穿たれ、御堂は両手足を突っ張らせて不自由な身体をのたうたせる。
 佐伯は楽しそうに喉を鳴らし短く笑うと、御堂にアイマスクを着けた。視界が更なる暗闇に包まれる。
「じゃあ、お留守番をよろしくお願いしますよ、御堂さん」
 丁寧で粘ついた口調で言い置いて、佐伯は部屋を出て行った。しばらくして、玄関の扉が開き、続いて鍵がかけられる音がした。また、つらく苦しい時間が始まるのだ。


 佐伯が御堂に使ったバイブは、佐伯が出かけてしばらくして動きを止めた。だが、電池が切れたというわけではない。遠隔から操作されているのだ。佐伯の気まぐれで動き出して御堂を激しく苛む。佐伯は部屋に設置した監視カメラで御堂の様子を監視しながら、勤務中でも御堂を責め続けるのだ。
「――――ッ、ふ……ぁっ!」
 バイブが止まっている間、どうやら意識を失っていたらしい。唐突にバイブが動き出して御堂は声にならない声を上げた。みっちりと嵌まり込んだバイブがうねり、御堂の中をかき混ぜ続ける。予告なく動き出したバイブは中々動きを止めなかった。煽られたペニスは張り詰め、あっという間に出さないと収まらない地点まで追い上げられた。それなのに戒められているのが苦しくて、腰をくねらせて快楽を逃そうとするがどうにもならない。
「ふ、は……っ、ぁ、はっ」
 喘ぐ声とともに、ギャグの隙間から唾液がポタポタと落ちた。
 ―― もう…いやだ………。たすけて……ゆるして…。
 胸の中で繰り返し助けを求める。誰でもいいから、この地獄のような時間を終わらせてほしい。
 快楽は苦痛に反転し、零れた涙が唾液と混じり合って剥き出しの身体に滴(したた)り落ちる。
 そのときだった。
 混濁した意識の中でガチャリ、と玄関のドアの鍵が解錠される音がした。条件反射でびくりと御堂は身体を強張らせる。玄関のドアが開き、誰かが入ってくる。その迷いない仕草、足音、伝わってくる気配すべてが、部屋に入ってきた男が佐伯克哉だと示していた。
 途端に身体が細かく震え出す。全身から冷や汗が噴き出した。
 佐伯が御堂に行う仕打ちは日に日に激しさを増していた。御堂の体力も精神もすでに限界を超えていた。意識はすぐに闇へと滑り落ちる。だが、佐伯はそんな御堂が気に食わないらしい。より激しい痛みと快楽で御堂をこの世界に呼び戻す。
 アイマスクで塞がれた視界の中でみるみるうちに恐怖が増幅された。佐伯が帰ってきたということは、いまよりもひどい仕打ちが待ち構えているのだ。
 しかし、怯える御堂の元に佐伯は中々来なかった。
 普段なら佐伯はまっすぐにこの部屋に来るはずだった。しかし、このときばかりは違った。佐伯は御堂の部屋には向かわず、バスルームのほうに向かったようだった。少しして聞き慣れない物音と、カチリとなにかのスイッチが押された音が響いた。同時に、御堂に咥え込まされたバイブが動きを止めた。御堂は詰めていた息を吐く。
 その数秒後、部屋のドアが開いた。御堂はびくりと身体を強張らせたが、このときもいつもとは違った。部屋に入ってきた瞬間に漂ってくる佐伯のフレグランスとタバコが混ざり合ったような香りがない。そして、佐伯は御堂のところではなく、部屋の隅へと向かったようだった。そこから音が聞こえ、なにやら作業をしているようだ。確か、そこには御堂を監視するためのカメラが置かれていたはずだった。
 そしてついに佐伯の注意が御堂に向いた。
 佐伯の気配が濃く迫り、御堂のアイマスクを外される。視界にぼんやりと光が沁(し)みた。部屋は明るかった。人工の照明の明るさではなく、窓から射し込む光の明るさだった。常に閉めっぱなしだった遮光カーテンが開かれていた。眩(まぶ)しさに滲む視界が次第に輪郭を結ぶ。目の前に立つのはやはり佐伯だった。だが、最後に見たスーツ姿ではなく、フード付のパーカーを羽織る私服姿だった。
 佐伯の手が伸びて口に咥えさせられたギャグを外される。喘ぐように大きく息を吐いた。開きっぱなしだった顎は痺れて、口の中に溜まっていた涎がダラダラと溢れ落ちた。
「は、うぅ……」
 御堂は苦しげに呻いた。いつもなら佐伯はそんな御堂を「犬のように涎を垂らして、恥ずかしくないのか?」と貶める言葉を口にし、嘲(あざけ)るのだ。だが、今日は違った。涙と涎にまみれた顔をタオルで拭われる。
 次に、佐伯は手早く御堂の両脚(りょうあし)の拘束をはずし、ずるりとバイブを抜き取った。粘膜をめくられる感触に「……ぅ」と呻くが、佐伯はかまわず御堂の両手の拘束を外した。途端に支えがなくなって前に倒れ込んだところで、佐伯に抱き留められた。
「ひ……っ」
 恐怖に身体が固まる。恐ろしさに指一本も動かすことができない。これから一体どんなひどい目に遭わされるのか。
 いつだって、逃げ出したいということしか御堂の頭にはなかった。だが、どうすれば逃げられるのか思考は袋小路を彷徨うばかりだ。「助けてくれ」「許してくれ」と何度も繰り返したが、懇願の言葉では佐伯を満足させることはできなかったし、挙げ句、佐伯を苛立たせ激高(げっこう)させてばかりだ。だが、佐伯の過酷な仕打ちは御堂から正常な思考を奪い去り、御堂は恐怖に混乱したまま、うわ言のように同じフレーズを繰り返し続ける。
「たすけて……くれ………」
 掠れた声に佐伯の動きが止まった。じっとこちらを窺(うかが)う気配がする。
 ゼイゼイと呼吸を荒らげ、必死に酸素を取り込みながら許しを乞う。ガクガクと震える身体は佐伯に怯えていることが一目瞭然(いちもくりょうぜん)だろう。
「御堂」
 佐伯が声をかけた。だが、その声に鞭打たれたように御堂は目の端から涙を溢れさせた。恐怖に歯の根が合わなくなり、ガチガチと音が鳴る。ぼやけた視界、ドロドロに溶けた意識。繰り返し覚え込まされた恐怖は御堂の身体の隅々まで染みこみ、思考を停止させる。
「御堂、大丈夫か?」
 佐伯がなんと言ったのかも理解できなかった。佐伯は怒っているのかもしれない。これ以上なにを言っても許されることはなく、余計に嗜虐心(しぎゃくしん)を煽るだけだ。そんなことはわかっているのに、逃れられない恐怖におののきながら必死に助けを求めた。
「やめ、て……ゆる、して…くれ………たすけ…」
 自分がもうなにを口にしているのかもわからない。誰に助けを求めようとしているのか。
 佐伯を直視しないよう目を伏せ、途切れ途切れに震える声を漏らす。ただただ、これ以上苦痛を長引かせないでくれと祈り続ける。
 そのときだった。ぐっと身体を引き寄せられて佐伯の腕の環に閉じ込められた。
 強く抱き締められているのだと理解するのにしばしの時間がかかった。
 耳元で告げられる。
「俺があなたを助ける」
 ―― なにを、言っている……?
 溢れた涙が次々と零れて頬を濡らした。佐伯が御堂に言う。
「この部屋のブレーカーを落とした。俺は会議中だから気付かれることはないが、万一のこともある。時間の猶予はない」
 そう言って、佐伯は御堂から身体を離すと、御堂の汚れたシャツを肩から抜いて脱がせた。たったシャツ一枚であったが、身にまとうものを失った心細さに襲われる。佐伯は手早く手元のバックパックからなにかを取り出すと御堂の頭から被せた。
「悪いがこの服で我慢してくれ」
 視界が覆われて真っ暗になったと思った次の瞬間にはふたたび視界が広がる。どうやらそれは伸縮性のあるスウェットのような上着で、佐伯は慣れた手つきで左右の袖口から御堂の手を引っ張り出す。同じような素材のズボンも穿かせられた。
「立てるか?」
 問いかけられる言葉に答えられないでいると、佐伯は御堂を担(かつ)ぐようにして玄関まで運んだ。そこでいったん降ろし、シューズボックスから取り出した御堂の靴を履かされる。
「悪目立(わるめだ)ちしたくないから、ここから下までは自分の足で歩いてもらう」
 そう言うと、佐伯はいったん部屋に戻ってなにかを操作し、すぐに御堂の元まで戻ってきた。部屋のあちこちでなにかが動作し始める音がする。ブレーカーを戻したのだとあとから気が付いた。
 手を取られて佐伯の肩に手を回し、身体を支えられて立たされる。まともに立つことすら久々で、ぐらりと視界が揺れて目眩(めまい)がする。吐き気がこみあげて嘔吐(えず)くが、佐伯はお構いなしに御堂を引きずるようにして一歩踏み出した。
 ドアが開いて内廊下へと歩き出す。部屋の外に出るのはどれくらいぶりだろうか。
 佐伯はドアの鍵はかけずにそのままエレベーターホールへと向かった。真っ青な顔色で立つことさえままならない御堂を支えるようにして、どうにか歩かせている。まともに歩けない酔っ払いを手助けしているようにも見えるが、住人の誰かに見られたら不審に思われるだろう。だが、幸か不幸か一階に下りるまで誰にも遭遇することはなかった。平日の昼間だったからだろうか。エレベーターの扉が開き一階のフロアに辿り着く。
 御堂は、気持ち悪さを堪(こら)えながらも顔を上げて周囲に視線を巡らせた。
 視界の先にある正面エントランス、その脇にある管理人室には、日中、管理人が常駐しているはずだ。御堂の萎えた筋肉では佐伯を振り切って逃げることは叶わないが、ここで悲鳴を上げれば気付いてもらえるだろう。そして、佐伯から逃げ出せるかもしれない。
 だが、失敗したら……?
「――――ッ」
 御堂は息を深く吸って口を開いた。だが、声が出てこない。
 恐怖は骨の髄まで染みこんでいる。この男は御堂をいたぶることを愉しんでいる。そして容赦はしない。どんな些細な理由でも、それをあげつらって御堂を責め立てる。御堂は監禁中に一度、逃亡を企てたこともあった。そのときの佐伯の怒りはすさまじかった。そして、御堂が受けたお仕置きという非道な仕打ちも。
 そのときのことを思い出して、ぶるぶると身体が震えた。膝から崩れ落ちそうになる。だが、佐伯は身体が落ちそうになる御堂を自分に抱き寄せるように腕の力を込めると、歩き出した。御堂は抗うこともできずに、佐伯に連れて行かれる。佐伯は正面エントランスへ向かうのかと思ったが、違った。
 佐伯は一階フロアの陰にある目立たないドアへと向かい、慣れた手つきで御堂の鍵を使ってそのドアを開ける。そこは住民用のゴミ捨て場だ。今日の分はもう回収されたあとのようで、がらんとした薄暗い空間がある。佐伯はその中に御堂を支えながら入ると、ゴミ収集車用のドアを使いマンションの外へ出た。駐車場へと抜ける裏口とも違う、マンションの住人は使うことがないゴミ収集のためのルートだ。ドアは道路に隣接しており、すぐ傍に車が一台停められていた。
 澄んだ冷たい空気が御堂に吹きつけた。久しぶりの外の世界だった。御堂は重たい頭を持ち上げて空を見上げた。透明で柔らかな陽射しが御堂に降り注ぐ。周囲の銀杏の木から舞い落ちた葉が景色を美しく彩っている。季節は秋を迎えていたのだ。
 もっとこの世界に浸っていたかったが、それは許されなかった。
「車に乗る」
 そう告げて、佐伯は停まっていた車の助手席に御堂を押し込み、シートベルトを着用させた。そして、自分は運転席へと乗り込んだ。エンジンがかかる。
 車が発進してしまえば、もう誰かに助けを求めることは無理だろう。
 このままどこに連れて行かれるのか。行き着く先はいまよりマシということはないはずだ。むしろ、御堂の家から離れる分、御堂が助け出される確率が減る。
 御堂の扱いに困った佐伯が、どこか遠い山の中に御堂を埋めて口封じをすることだって考えられる。むしろ、その可能性が一番高いのではないか。
 フロントガラスの向こうにある世界にぼんやりと眼差しを向けた。ガラスの向こうには平穏な世界が広がっている。御堂が暮らしていた世界だ。御堂が閉じ込められて苦痛に苛(さいな)まされていても、世界は御堂に無関心のまま新しい季節を迎え、先に進んでいる。誰も御堂を気にかけることはない。それは救いようのない事実だった。
 車が発進した。窓の外の景色が流れ始める。御堂のマンションが視界から遠ざかる。
 ―― いまさらだ……。
 死ぬことが生きることよりつらいとは限らない。現に御堂の日々は地獄と言っても過言ではなかった。この時間が終わるならそれでもいいではないか。ようやく解放されるのだ。この地獄から。
 フロントガラスから射し込んでくる光はどこまでも眩しく、御堂は目を閉じた。視界に馴染んだ闇が広がる。いまの御堂にとっては意識を長時間保つことすら難しいのだ。瞼の裏に広がる暗がりに吸い込まれるように御堂は意識を手放した。

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