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Between You and I

 12月30日、AA社の壁一面を覆う窓から振り仰ぐ空は、東京では珍しい、透徹した青だ。冬のどこまでも澄んだ大気が大都会を覆っている。
 世間一般では年末年始の大型休暇が始まっているにもかかわらず、AA社のフロアは、夕闇が落ちても灯りがともっていた。
 AA社も仕事納めは多くの民間企業と同じ28日ということになっている。だが、御堂と克哉に限っては今日、30日が仕事納めだった。30日まで業務を行っている金融機関に合わせているという理由もあるが、業務が押しており、休んでいられないというのが正直なところだ。
 年末年始の休暇を使って、克哉一人で溜まった仕事を片付けようと算段をしていたが、それを察した御堂が自分も出勤すると言い張り、二人で仕事をすることになったのだ。責任感が強く、生真面目な性分の御堂らしく、残っている仕事をきっかり二等分すると、分刻みのスケジュールを立てて猛然とタスクをこなし始めた。
 30日、銀行巡りを御堂に任して、克哉は社内に残って電話番と積み上がった仕事を崩していた。二人で作業を手分けしただけあって、このままだと今日中に仕事はあらかた片付いてしまうだろう。となると、克哉の年末年始の暇つぶしがなくなってしまう。かと言って、仕事をわざと残すと、御堂に休みを取らせようにも首を縦に振らないだろう。
 思い直して残りの仕事を一息で片付けようとパソコンに向かい合った。
 その日の夜遅く、外回りから戻ってきた御堂は酷く機嫌が悪かった。年の瀬で金融機関が混みあっていたのだろうか。「お疲れ様」と挨拶するも、御堂は素っ気ない声で挨拶を返し、克哉に一瞥もくれずに自分のデスクに着席した。
 しばらく様子を見ていたが、克哉の方を見ようともしない。何かに怒っていることが見て取れた。そして、それはきっと克哉に関することだろう。だが、生憎と身に覚えがない。
 しばらくの間、黙りこくったままパソコン画面を眺めていたが、部屋に落ちる沈黙の重さに耐えかねて、克哉は口を開いた。

「御堂さん、何かあったのか?」

 素知らぬ風に気遣う克哉に、溜まったメールを片付けるべくキーボードを甲高く叩いていた御堂の手が止まった。
 眉間に皺を寄せた顔が克哉に向いて、硬い声が返ってきた。

「今日、君の元同僚にあった」
「元同僚?」
「あの、キクチ8課の大柄な……」
「ああ、本多ですか」
「その彼だ」

 御堂が本多の名前を忘れるはずはない。敢えて名前を出さないところに含みを感じた。
 キクチは既に年末年始の休暇に入っている。
 本多はただでさえ目立つ図体をしているのだ。人口が密集する東京から離れて、さっさと田舎に帰って、新鮮な空気を思う存分浪費してれば良いものを。よりによって御堂の視界に入り込むとは性質が悪い。

「本多が何か?」

 また、本多が無遠慮な一言で御堂を怒らせたのだろうか。

「先日、君はキクチの皆と忘年会をしたな」
「ええ。それが?」

 数日前に行われたキクチ8課の忘年会だ。出席する気は毛頭なかったが、本多に強引に誘われたのだ。
 仕方なしに、オフィシャルな会には出席できないが二次会からなら、と渋々承諾した。もちろん御堂に事前に了承も取ってある。
 なぜ、それでこんなに機嫌が悪いのか理解できない。

「もしかして、御堂さん、キクチのやつらに挨拶したかったんですか。キクチの新年会に顔を出します?」
「そうではない!」

 話を勝手に解釈しようとする克哉に御堂が声を荒げた。

「君の誕生祝いも兼ねていたそうではないか」

 忌々しげに吐き捨てられて、思い出した。確か、本多に「お前の誕生会も兼ねているから来い」としつこく誘われたのだ。とはいえ、参加してみたら普通の飲み会だったし、本多に皆の前で持ち上げられて誕生日おめでとう、と言われた気もするが既に忘却の彼方だ。

「そういえば、そうだったかもしれません」
「君の誕生日は12月31日で間違いないか」
「ええ」

 御堂が柳眉を吊り上げた。

「何故、私が、君の元同僚から君の個人情報を知らされなければならないのだ。私は君の口から誕生日なんて聞いたことなかったぞ」
「そうでしたか?」
「ああ。以前訊いたが、近くなったら教えるとか言ってはぐらかされた」

 近くなったら教える、この約束が不履行であることに怒っているのなら、「そう言えば、明日、俺の誕生日なんです」と今から言えばまだ許されるのではないか、と誘惑にかられたが余計に怒られそうだったので口をつぐんでおく。
 御堂は、本多から克哉の誕生日を知らされたことに怒っているのだ。
 克哉は深く反省した。どうして、キクチの忘年会の時点で本多の口封じを(出来ることなら永遠に口がきけないように)しておかなかったのだろう。
 責める眼差しを注がれて、居心地の悪さに、すいと御堂から視線を外した。

「別に、大した情報ではありませんし」
「大した情報かどうかは私が判断する」

 即座に言い返されて内心で舌打ちをした。
 本多め。
 どうしてあいつはいつもタイミングが悪いのか。
 あいつのSNSを全て炎上させて、この年末年始を記憶に刻み付けてやろうか。
 不用意な発言が招く災厄を、身を持って体験させてやりたい。

「言っておくが、本多君が悪いのではないからな」
「……」

 克哉の思考を読んで御堂が先制した。
 本多が悪いのではないのなら、誰が悪いというのだろう。

「誕生日の一つも教えない君に問題がある」

 またもや思考を読まれて、咎める声音で言い切られた。

「君は私の誕生日は知っているだろう。誕生祝いまで貰った」
「ええ」
「それなのに、何故私が君の誕生日を知らないのだ」

 克哉の不誠実を詰る声に、どうやったら御堂を懐柔できるのか、素早く思考を巡らせる。

「いや、でも大晦日ですよ」
「そんな年末の忙しい日を誕生日に選んだのは、いかにも人騒がせな君らしいが、君の責任ではない」

 一応、フォローしているつもりらしい。あまり伝わってこないが。
 御堂はさらに酷い言葉を続けた。

「大晦日が誕生日ということは、毎年、誕生日はクリスマスと年末年始の行事に紛れて、今まで、ちゃんと祝ってもらえなかったのだろうな。しかも、大型休暇の最中だ。友人と顔を合わす機会もなかっただろうし。誕生日を気にかけてもらえず、さぞかし寂しい思いしかしてこなかったのだろう。だから、言いたくない気持ちも分からなくない」

 共感する素振りを見せつつ貶めているように聞こえるのは気のせいだろうか。いや、きっと気のせいではない。
 それでも神妙な面持ちを保つ克哉に、「だが」と御堂は言葉に力を籠めた。

「誕生日は誕生日だ。他の行事と重なったとしても、きちんと誕生日は祝うべきだ」
「ですが、御堂さん、年末年始は実家に帰っているでしょう」

 克哉は一人で過ごす年末年始を見越して、仕事をこなす予定だったのだ。その仕事も予想外にあっさりと片付いてしまったのだが。

「君は実家に帰るのか?」
「いいや。俺は帰りません」
「それなら、なぜ私が帰ると思うのだ。いい歳をした自立した男がわざわざ年末年始を実家で迎える道理などない。年始に顔を出せば十分だ」

 御堂は大きく息を吐いて、眼差しを伏せると、そっと言葉を添えた。

「君は私との間にいつも線を引こうとする。それが気に食わない」
「線?」
「私は君とは違う、君はそう思い込んで勝手な線引きをする」

 御堂が顔を克哉へと向けた。強い眼差しが克哉を射る。

「私は確かに、君とは生まれも育ちも違う。だが、君が私の誕生日を祝ってくれたように、私も君の誕生日を祝いたい。どうしてそんな単純なことが分からないんだ、君は」

 そうはっきりと言われて、言葉を失った。

「君は普段は強引なくせに、肝心なところでは変に遠慮する」

 一言も言い返せなかった。
 御堂は自分とは違う。自分にないものを持っていた。だからこそ、克哉は御堂に鮮烈なまでに惹かれたのだ。そして、少しでも追いついて肩を並べようと、今まで頑張ってきた。
 共に会社を興して一年近く経った。それでも感じる御堂との間の埋められない隔たりは、自分が線を引いて、勝手に遠慮していたせいなのだろうか。
 他人と自分と違うのは当然だ。しかし、相手との間に差を作り出すのは自分自身なのだ。
 誕生日を教えなかったことに大した意図があったわけではない。誕生日を告げれば御堂が何らかの行動を起こすだろうとは予測できた。一方で、大晦日に気遣わせたくなかったのも事実だ。
 克哉は御堂の言う通り、今まで誕生日という誕生日を祝われたという記憶が乏しく、自分にとっての特別な日であるという認識はなかった。
 だが、違うのだ。誕生日は、祝われる側だけでなくて、祝う側にとっても特別な日なのだ。だからこそ、克哉は御堂の誕生日を心から祝福した。
 御堂の指摘に、克哉は小さく自嘲した。
 互いへの気遣いが、色んなところでちょっとずつ空回りしている。
 相手に対する想いはこんなにもはっきりしているのに。
 御堂に向けて頭を下げた。

「そうですね。俺が至りませんでした」
「……分かればいい」

 いつになく殊勝に謝って見せる克哉に、今度は御堂が気まずそうに言葉を継いだ。
 デスクから立ち上がり、静かに御堂の方に歩み寄る。
 御堂のデスクに手をついて、上体を屈めて顔を寄せると、御堂がぎょっとした目を克哉に向けた。

「御堂さんと俺が同じだとすると、今の俺たちの気持ちも一緒ということですよね」
「何を……ん、ふ……んんッ」

 言葉を発しかけた唇に押し被せるように唇を重ねる。
 頭に手を回し、項にかかる少し冷たい髪に指を絡めて、逃げようとした顔を捕まえる。
 唇に馴染んだしっとりと柔らかい感触。押し付けていた唇を少しずらして、下唇を唇で喰む。唇の隙間を熱のこもった吐息が駆け抜けていく。
 形の良い唇の輪郭を辿るように、舌先で舐め上げていく。
 御堂の纏うフレグランスの微かなラストノートが湿り気を帯びて、誘惑の香りを立ち上らせた。
 少し戸惑ったように唇を合わせていた御堂が、抵抗を諦めて軽く目を閉じた。薄っすらと開いた口に舌を差し入れて、弱い口蓋をなぞると、びくっと身体が震える。
 キーボードの上に所在なく置かれていた手が、克哉の首筋に回されて、身体を引き寄せられる。
 噛み合わせる唇の角度をずらしては、唇の中と外で舌先同士をくすぐりあう。
 二人きりの社内で、理性を溶かすほどの甘いキスに溺れる。
 職場で愛を交わし合う背徳感が、官能を深くした。
 たっぷりとキスを堪能して、舌を抜いた。御堂の口の端から唾液が細く滴り落ちるのを指で拭う。
 その感触に御堂がハッと我に返ったように、克哉から腕を放して身体を退いた。
 赤く染まった目元を克哉から逸らして、コホン、と一つ軽く咳払いをする。

「キスでごまかそうとは……」
「まだ、足りませんか?」

 耳元に寄せた唇で声を深めて囁けば、「馬鹿」と一言返される。

「君のお陰で、入念な準備する時間がなかったが、ホテルを手配した。そこで年越しだ」

 御堂が宣言する。感心して呟いた。

「よく手配できましたね」

 年末年始をラグジュアリーホテルで過ごそうとする客は多い。ホテルも、それに合わせて年末年始の特別なイベントや食事を用意している。だからこそ、直前の予約は至難の業だ。
 御堂は克哉に一瞥をくれると、ふん、と鼻を鳴らした。

「カード会社のコンシェルジュに全て任せた。高い年会費を払っているんだ。これ位の仕事はしてもらわないと困る」

 流石、招待制のブラックカードを所持しているだけのことはある。
 しかし、カード会社のコンシェルジュに任せたとはいえ、ホテルの手配に相当の時間がかかったからこそ御堂の帰りが遅くなったのだろう。
 御堂が自分の腕時計にちらりと視線を落とした。克哉も釣られて文字盤を見遣れば、12時を過ぎている。
 御堂が立ちあがって克哉に向きあった。
 鋭さと甘さ、清廉と淫蕩が絡まる眸でじっと見詰められる。

「佐伯、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」

 今しがたのキスで濡れている唇が言祝ぐ。
 愛しい男からの祝福の言葉と気持ちが、真っすぐと胸を衝いた。

「それにしても、改めて祝われるのも気恥ずかしいものですね」

 火照りかけた頬を隠すように、ぷいと顔を背けて口を尖らせて言えば、御堂の端正な顔立ちが悪戯っぽい笑みに崩れた。

「今日一日、たっぷり祝って、もっと恥ずかしい思いをさせてやる。来年も再来年も、これからずっと大晦日は私のために取っておけ」
「ええ。楽しみにしています」

 御堂に視線を戻せば、甘やかな表情で受け止められる。
 ぞくりとした熱い痺れが背筋を走る。それを見透かしたかのように御堂の顔が近づいた。濡れた肉感的な唇が克哉を誘う。
 御堂の唇が届く前に、自分から唇を押し当てた。

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