top of page
おやすみなさい、あいしてる。

C92&通販で配布した特典小冊子の公開です。

御堂が記憶を失っていく病にかかったら?のIFストーリー。
出会いから十年、私生活でも仕事でもパートナーとして暮らす二人。ある日突然、御堂に異変が起こる。

切ない純愛の物語。

​表紙イラストはふひと様。

おやすみなさい、あいしてる。(1)
(1)

「あんたの案は検討に値しない。リジェクトだ」

「ふざけるな! 君はAA社の社員や顧客を背負っている身なんだ。その責任をないがしろにするなっ!」

 

 咎める声を無視して背を向ける。そのまま玄関に向かって靴を履いた。御堂が慌てた気配で追いかけてくる。

 扉を開けた瞬間、夏の始まりの蒸し暑い空気が克哉の肌を包んだ。

 

「待て! 佐伯っ!」

 

 御堂の言葉を遮断するかのように、黙ったまま乱暴に扉を閉めた。エレベーターホールに向かう。

 流石に、部屋の外で見苦しい様を晒すわけにはいかないのだろう。御堂はそれ以上追いかけてくることはなかった。エレベーターに乗って建物の外に出ると、流しのタクシーを捕まえて、繁華街へと向かった。

 アルコールでささくれだった気持ちを宥めないとやっていられそうにない。

 目についたバーに入って、タバコを咥えつつ強めの酒を頼む。

 御堂とAA(アクワイヤ・アソシエーション)社を起業してから、もう八年以上経った。御堂と初めて出会ってから、ちょうど十年になる。事業は順調に拡大し、部下も育って、多くの仕事を任せられるようになった。

 ビジネスでもプライベートでもパートナーである御堂とは同棲にしていて、その仲はうまくいっている……はずだ。

 だが、時々、今夜のように息が詰まるのだ。

 あまりにもふたりの距離が近すぎるのかもしれない。AA社を立ち上げてからずっと、二十四時間一緒にいると言っても過言ではないほど同じ時間と空間を共有している。

 こうして今に至るまで、語り尽くせぬほど色々なことがあった。だが、恋人関係になってからも倦怠期というものとは無縁にあると思う。

 仕事上のパートナーとして、御堂の見識の深さや根性の据わりは何物にも代えがたいし、恋人としても心から愛していると言い切れる。外では澄ました顔をしていても、克哉の前でだけ、隙のある蕩けた表情を見せる御堂を奪いつくしたいという欲求は未だに一グラムもすり減っていない。

 部屋に帰った瞬間から、仕事から離れてふたりで愛を深めたいのに、御堂は、納得がいかないことはとことん話し合わないと気が済まない性質で、今みたいに、どこまでも克哉を追いかけてくる。それで何度衝突して激しい喧嘩をしても、お互いに妥協するということを知らないのは困ったものだ。

 克哉から焦がれに焦がれて求めた御堂だ。何があっても手放す気は一切ない。

 背中に投げかけられた御堂の「佐伯」と呼ぶ鋭い声が、まだ張り付いている。

 今夜は久々の大きな喧嘩だった。

 御堂に向き合うことなく一方的に拒絶した先ほどの克哉の態度は酷かった。後悔の念がふつりと沸き起こるが、それを酒と一緒に胃の中に流し込む。

 赤の他人同士が恋人として生活を共にするのだ。諍いは当然起こるだろう。今となっては、相手の癖や譲れないところも分かっている。それでも、同じような諍いを繰り返してしまうのは、もう、どうにもならないのかもしれない。

 

――だが、一晩経てば、また、元通りだ。

 

 長く付き合っている。だから、先のことも予想できる。なんだかんだで、有耶無耶にして元の鞘に収まるのだ。

 そのためには、お互いに冷静になる時間が必要だろう。

 克哉は、携帯を取り出すと、慣れた操作で今夜一晩の宿を近くのホテルに確保した。

 

 

 

 

 翌朝、まだ陽も昇りきらない早朝に、克哉は部屋に戻った。

 音を立てぬように扉を開けて、中を密やかに窺う。

 何度経験して、もこの瞬間は気まずい。顔を合わす御堂にとってもそうだろう。だが、会社で居心地の悪い再会を果たすよりは、先に部屋でやり過ごした方がいい。

 耳を澄ませばシャワーの水音が聞こえてくる。どうやら御堂はシャワー中のようだ。

 詰めていた息を吐いて、克哉は部屋に入った。自室に戻り、クローゼットを開けて、手早く着替える。

 御堂と顔を突き合わせたときの最初の一言をどうするか、そんなことを考えながら、ネクタイを締めつつ部屋を出た。

 そして、驚きに全ての動きを止めた。

 目の前にシャワーから出た御堂がバスローブ姿で立っていた。

 御堂が克哉を認めて向き直る。重苦しい空気が立ち込める前に何かを言おうと唇を動かしかけたところで、御堂が先に口を開いた。

 

「佐伯、朝からどこに行っていたんだ? 起きたら姿が見えなかったから心配したぞ」

「え……?」

 

 何事もない、いつも通りの口調。その口元には微笑を浮かべる。愛おしさを籠めた眼差しを向けられて、克哉は言葉を失した。

 まるで昨夜の出来事が、なかったかのようだ。御堂は優しい表情を保ったまま、克哉の返答を待っている。

 御堂の中で、あの事は水に流すことにしたのだろうか。

 しかし、気まずい関係を避けたい御堂の行動にしては、変だ。こんな誤魔化し方をするような男だっただろうか。

 違和感を覚えながらも、御堂に合わせた。

 

「タバコが切れたから、買いに行っていた」

「朝からタバコを買いに行くとはな。不摂生にもほどがある。いい加減、禁煙したらどうだ」

 

 軽い口調で返し、御堂は克哉に背を向けると、洗面台に戻った。髪を整え、朝の支度を始める。

 普段ならば、一言二言きつい嫌味を言われて、それでも始業時間には、社員の目もありお互いに何事もなかったかのように仕事を始め、終わる頃には多少打ち解けているはずだった。

 いささか腑に落ちなかったが、御堂がそういう態度なら自分からわざわざ蒸し返すこともないだろう。

 そう、思い切ると、安堵から心は軽くなる。克哉も昨夜の出来事は早々に忘れたことにして、共ににこやかに朝食を取って、出勤する。

 エレベーターにふたりして乗って、目の前に立つ御堂の髪を、さりげなく触れた。

 たまたま見つけた跳ねた髪を撫でつける体で触れると、御堂はくすぐったそうに目を細めたが、じっと静かにしている。もちろん、御堂の髪は癖の強い克哉の髪と違って、一筋の乱れもなく整えられている。

 これは、御堂と共に過ごす歳月の中で培った、互いに許している仕草だ。

 御堂の反応は、完全に克哉に心許しているそれで、御堂と克哉の距離は愛し合う恋人同士の距離に戻っていることを確認する。

 今夜は、昨夜の詫びも兼ねて、夕食を誘って二人で外で食べようか、そんなことを考えながら、頭の中で落ち着いた雰囲気で食事も旨い店をピックアップする。

 エレベーターはすぐに社があるフロアに到着した。AA社の扉を開く。社員から挨拶の声がかかる。ここは二人の城だ。

 克哉と御堂は、社員たちに挨拶を交わしながら執務室のデスクについた。いつもと変わらない日常が始まる。

 だが、少しのちに、事件は起きた。

 

「佐伯、今日は何曜日だ?」

 

 不意打ちで突飛なことを聞かれて、デスクの前に立った御堂をまじまじと見つめ返した。

 御堂は冗談でそんなことを言ったわけではないようだ。顔は幾分青褪めて、血の気が引いている。

 

「今日は、木曜日です」

「やはり、そうか……」

 

 その顔から更に血の気が引いた。何が起きたのか理解できずに、御堂の表情を見守っていると、御堂が唇を戦慄かせた。

 

「私の中では、今日は水曜日なんだ」

「なんだって?」

「昨日の記憶が全くない……」

 

 言葉尻が不安で消え入りそうだ。事態を理解するのに数秒要し、大きく目を見開いて御堂を見つめた。

 

「どういう、ことですか?」

「分からない……」

 

 困惑した顔は取り繕う余裕もない。

 昨日行った打ち合わせや、仕上げた報告書の内容をいくつか聞いてみるが、御堂は全く覚えがないようだ。御堂の記憶が一昨日の夜で途切れているのだ。

 そして、克哉と御堂の不和のきっかけとなったプロジェクトの方針についても、一応、確認をしてみた。御堂は喧嘩したことさえ覚えていないにも関わらず、克哉が示した方針に眉をひそめた。

 

「君の方針は納得いかないな。これはリスクを負いすぎる」

「昨日、御堂さんはこれで了承しましたよ」

「信じられない。とても許容できない」

 

 さらりと嘘を吐いたが、御堂の中身は間違いなく御堂のようで、昨日と全く同じ反応をする。御堂は克哉が示した資料を手に取り食い入るように確認し始めて、険しい顔をした。

 これから怒涛の如く、克哉のプランに対する反論が噴出するだろう。このままでは、昨夜の二の舞だ。御堂の手からさっと資料を取り上げた。

 

「何をする!」

「御堂さん、こんなことよりも、先に病院に行きましょう」

 

 仕事モードに切り替わりかけた御堂の手を無理やり掴んで、執務室から出た。

 藤田に一言声をかけて、近くの大病院へと向かった。御堂の友人である医師の四柳に取次ぎを頼むと、予約外であるにも関わらずすぐに診察の順番が回ってきた。

 診察室に入る御堂に続いて、克哉も中に入った。デスクに着席していた四柳が立って、二人を迎え入れる。

 御堂と学生時代からの友人である四柳との付き合いもかれこれ十年近くになる。四柳も今や、この大病院の部長となり、名医としてメディアに顔を出す機会も多い。だが、気取らない態度は変わることなく、御堂の親友であり続けている。

 四柳は、ふたりの関係を知っている。だから、克哉が診察室に同席しても、訝しげな顔をすることはない。

 何が起きたか、御堂が話をするのを隣で見守った。足りないところがあれば、横から口を挟むつもりでいたが、御堂は筋道を立てて分かりやすく説明している。頭の回転の速さは今まで通りで、特に変わったところはないように思える。

 四柳にいくつか問診を取られて、念のため、といろいろな検査を追加される。御堂は、一日分の記憶がどこかに消えてしまったことを除けば、いつもの御堂だ。四柳は検査データを見ながら首を傾げた。

 

「佐伯君、昨夜、御堂が頭を打ったりとか、頭痛が起きたりとか、何か変なことはなかったか?」

「いいや、そんな覚えはない」

「御堂、お前じゃない。佐伯君に聞いているんだ」

 

 すぐさま横から口を挟んだ御堂を低くたしなめて、克哉に視線を向けた。

 そう問われて言葉に詰まった。克哉が知っている御堂は、喧嘩をする直前までだ。その後に何か起きていたとしても克哉は知る由もない。そして、御堂は、克哉と喧嘩したことさえ覚えていない。

 御堂と四柳から問う視線を向けられて、居心地悪く口を開いた。

 

「いえ……。昨夜は一緒にいなかったので」

 

 ふうん、と四柳は口の中で呟いた。克哉の表情と口調から、昨晩のふたりの間に起きた不和を、敏感に嗅ぎ取ったようだ。そして、当然ながら御堂もそれに勘付いた様だった。咎める視線を克哉に向けてくる。四柳と御堂、二人の視線に責められているようで、自然とうつむき加減になる。

 四柳は、悪くなりそうな診察室の空気を振り払うよう、努めて明るい口調で言った。

 

「明日まで結果が分からない検査もあるが、現在のところ異常なところはない。まあ、ストレスによる一過性の健忘かもしれない。症状が酷くならなければ、このまま経過観察でいいだろう」

「ストレスだと?」

「精神的にストレスがかかりすぎると、原因となった出来事を脳が封じ込めてしまう。そういうことだってある」

「私はそんな軟弱ではない」

「疲労がたまっていたんだろう。ゆっくりと休めばよくなる」

「健康管理はきっちりしている」

「お前は昔から溜め込む性質だからな」

「いつの話だ、それは」

「――御堂さん、そこら辺で」

 

 憤然とした顔で四柳に言い返す御堂を慌てて止めた。大学の同期で友人同士である気安さからか、お互いに遠慮はない。言いたいことをズケズケ言い合う仲であるのは羨ましいが、ここで喧嘩を始めても誰も得しない。

 二人の間に割って入り、四柳に礼を言いがてら、納得がいかない、といった体の御堂を診察室から連れ出した。

 四柳が言う通り、ストレスが原因だとしたらその原因の一端は克哉が担っているのだろう。

 昨夜御堂を放って、出て行ってしまった自分の行動が悔やまれるが、今、克哉の隣を歩く御堂はそんなことは忘れているし、四柳とやり合う姿は元の御堂だ。

 忘れてしまったということは、存在しなかったということと同義だ。

 昨夜の喧嘩が原因かもしれない、とは自覚しつつも、それを追及されることはないという事実に不謹慎な安堵を覚えた。

 

――きっと、明日からは元通りだ。

 

 病院に来た時よりも軽い足取りで、御堂とAA社への帰路を急いだ。

 

 

 

 

 翌朝、克哉の希望的観測は裏切られた。

 事態は更に悪化しているという事実を目の前に突き付けられた。

 御堂の記憶は回復するどころか、さらにここ一週間分の出来事を全て失っていた。

 一週間前の御堂が、タイムスリップして現れたかのようだ。

 御堂は、今朝の新聞の日付を確認して、訳も分からずに茫然としている。

 御堂からすれば、昨日、一日分の記憶を失っていたことも、そして病院を受診したことも記憶にないのだ。

 自分の記憶にある日付と周囲の日付が一週間ずれていることに混乱に陥る御堂を説き伏せ、再び病院の四柳の診察室へと向かった。

 幸い、昨日、病院から戻った後、御堂の仕事を減らそうと、AA社の業務を他の社員へ割り振っていた。それが功を奏して、克哉は自分の分の予定だけ藤田に引き継いで、AA社を後にした。

 診察室で四柳を前にして、御堂の記憶がさらに失われていることを報告すると、四柳は表情を厳しく引き締めた。昨日御堂が行った様々な検査データを引っ張り出して、御堂と克哉の前に並べて見せた。そして、重い口を開いた。

 

「御堂、お前は若年性アルツハイマー型認知症の特殊なタイプだ」

 

 克哉を前にして、白衣を着た四柳は真剣な面持ちで御堂に告げた。

 言葉一つ一つの意味は頭では理解できる。だが、その病名が何を意味するのか分からず、克哉は脇から聞き返した。

 

「アルツハイマー?」

「ああ。聞いたことくらいあるだろう。認知症の一種だ。認知症とは一度得た記憶や知識を失っていく病気だ。普通ならある程度年齢を重ねてから発症するが、御堂は若くして発症した」

「どうすれば、治るんですか?」

 

 四柳は静かに首を振った。

 

「現代の医療技術では、直すことも病状を止めることも出来ない」

「何だって?」

 

 驚いて聞き返す。

 

「一昨日は一晩で一日分、そして、昨夜は一晩で記憶を一週間分失くしている。この病気は病状が次第に進行していくことが特徴だ。来週には一か月分、数か月後には一晩で一年分の記憶を失うかもしれない。記憶だけはどんどん若返り、そしていずれ全てを忘れる。言葉も感情も、何もかも失う。最後には、呼吸することを忘れて、死ぬ」

「やめろっ!」

 

 冷淡な医師の口調で言う四柳の言葉に被せるように声を上げた。椅子から立ち上がり、四柳に歩みを寄せる。怒りに任せて白衣の襟をつかんでぐいと引き寄せた。四柳から椅子からよろめいて立ち上がる。

 

「あんた、本当に医者か?」

 

 言葉を選んでいる余裕などなかった。頭に血が上りすぎて沸騰する。怒りに戦慄く唇を動かした。

 

「どうして、そんなことを本人の前で平然とした顔をして言えるんだ」

 

 四柳の告げた内容は、まさしく死亡宣告だ。だが、“この”御堂は何も知らないのだ。自分が記憶を失ったことさえ、周りと自分とのずれをすり合わせなければ気付かなかったであろう。

 ある朝起きたら、周りは自分より一週間進んでいた。御堂からしたら、それだけの事だ。

 判断力は正常であるし、記憶以外に身体の不調はない。こんな重大な宣告、心の準備もない本人の前で行うべきことではない。克哉ひとりが聞けばよかった話だ。

 四柳に対する激しい憤怒と、告知された未来への絶望と戸惑い、様々な感情が縒り合わさって境目をなくす。四柳の白衣の襟を握る拳が震える。

 だが、克哉の激昂を目の当たりにしても、四柳は表情を変えなかった。怒りを叩きつけてくる克哉に四柳も強い視線で弾き返してくる。お互いの研ぎ澄まされた視線がぶつかり、見えない火花が散る。

 ぴんと張り詰めた緊張。部屋の空気の密度が増し、息が苦しくなってくる。その均衡を御堂の静かな声が砕いた。

 

「やめろ、佐伯。四柳を放せ」

「御堂……」

 

 どこまでも落ち着いた御堂の声に強張っていた拳が緩む。四柳が克哉の手から逃れ、白衣の襟の乱れを整えつつ椅子に座り直した。窺う視線を御堂に向けると、御堂は驚くほど落ち着いた口調で口を開いた。

 

「四柳は私のことを考えて、全て包み隠さず教えてくれたのだろう」

「だが……!」

「私には、時間がない。そう言いたいのだろう、四柳?」

 

 御堂は四柳に視線を向けた。四柳が小さく頷く。

 

「ああ……、その通りだ。記憶とは経験だ。記憶を失っていくということは、経験に基づく判断力も失っていくということだ。今日出来ることが明日には出来なくなる時が来る。思い残すことがないようにするんだ、御堂」

「私の寿命はあとどれくらいだ?」

 

 直球で投げかけられた問いに、四柳の表情に苦渋が入り混じった。

 

「……それは精神的な寿命の話か? それとも肉体的な寿命か?」

「精神の死が早く来るというわけか……」

 

 四柳が言いよどむ先を読んで御堂が理解していく。その冷徹なまでの聡明さは全く変わりがない。

 そしてまた、動揺する克哉とは対照的に、御堂はどこまでも冷静だった。

 四柳の言葉のひとつひとつが克哉の胸を突き刺していく。だが、当の本人である御堂が受ける衝撃は克哉の比ではないだろう。隣に座る御堂の顔を見ることが出来ないまま、膝に置いた拳に視線を留め続けた。

 御堂は四柳に聞きたいことを全て聞いて、診察室の椅子から立ち上がった。克哉にちらりと視線を送る。その顔色は青ざめているが、その目には紛れもない意思の光が灯っている。

 

「佐伯、私のことは気にするな。どんなに絶望しようとも、明日には全て忘れるんだ」

「あんたはそれでいいのか」

 

 御堂は克哉には答えず、診察室を後にした。その後ろ姿を追う。

 これで、良いわけがない。

 当たり前のことを聞いてしまった自分の無神経さを呪う。

 重苦しい沈黙に沈む中、淡々と会計を済ませて、克哉の車に二人して乗り込んだ。

(2)
おやすみなさい、あいしてる。(2)

 一言も口を利かずに車を運転する。二人の部屋へと向けて首都高を走る。

 御堂が窓の外の流れる景色に視線を流しながらぼそりと呟いた。

 

「私が記憶を失っていくということは、頭の中だけどんどんと若返っていくということか」

「……」

 

 続く沈黙を紛らわせようとハンドルを切った。

 御堂は克哉の返答を期待していないようで、さらに続けた。

 

「AA社の記憶をなくして、君と再会したことも忘れて……」

 

 かすかに震える声音に、御堂が抑え込んでいた底知れぬ恐怖と絶望を感じ取った。

 

「いずれ、君の存在も忘れてしまって、君に出会う前の自分に戻るんだ」

「……」

 

 かける言葉が見つからず、代わりにアクセルを踏み込んだ。

 混み合う高速の車の間を縫うように走る。乱暴な運転にクラクションが飛んだ。

 重い沈黙を抱え込んだまま、部屋の扉の鍵を開けた。

 先に部屋に入ると、続いて御堂も入ってくる。玄関先で靴を脱ごうとして、背後の御堂が動かずに突っ立っていることに気付いた。

 

「御堂……?」

 

 振り返れば、御堂の眸がこの上なく暗く沈んでいて、その顔から目が離せなくなった。

 

「佐伯」

 

 低い声とともに、気配が迫る。無意識に足を一歩退いたら、御堂の手にジャケットを掴まれて、逆に引き寄せられた。

 じんわりと唇に圧がかかり、押し開かれた唇の隙間に御堂の舌が入り込む。静かな部屋に、くちゅり、と唾液がかき回される音が響いた。

 御堂の手が克哉のジャケットの中をまさぐり、もどかしい仕草でシャツをたくし上げて、ベルトを外す。先を急く御堂の手を押さえた。

 

「ここで、する気か?」

「我慢できない……」

 

 返す御堂の言葉に紛れもない情欲が滲むのを感じ取る。その眸が妖しい光を宿して克哉に向けられる。ぞくりと背筋に甘い痺れが走った。

 

「後悔するなよ」

 

 御堂の身体を返して、背後から腰に片腕を回してぐいと引き寄せる。自分のズボンの前の昂りを御堂の尻に押し付けた。不安定な体勢に御堂が扉に両手を突く。

 御堂のベルトを片手で器用に外して、下着ごとスラックスをずり下ろした。

 尻の狭間に、唾液で濡らした指を伸ばして窄まりをなぞれば、乾いた皺が期待にヒクつく。

 ポケットの財布からゴムを取り出して自分のペニスに装着する。先端を御堂のアヌスに擦り付けて、ゴムに付いている潤滑剤のジェルをぬちゃりと塗すと、先端を浅くめり込ませては引いて、狭い入り口に自分を馴染ませていく。そのじれったい感触に御堂が呻いた。

 

「もう……、挿れろ……っ」

 

 熱い吐息を零す御堂の声がきわどく響く。

 ペニスからゴムを外した。尻肉を掴んで割り拓き、亀頭をじりじりと捻じ込ませていく。窮屈な場所を無理やりこじ開いていく圧迫感に御堂が喉を反る。だが、その後に続く快楽を教え込まれている身体は、しっとりと熱く火照り、ペニスは腹につくほど反っている。そのペニスに指を絡みつかせて、底のない独占欲に支配されるまま腰を進めた。

 

「っ、……ぅ、は……ッ、あ、ああっ」

 

 根元まで力づくで押し込んで、大きな動作で引き戻す。それを繰り返しているうちに、御堂の内壁が狂おしく蠢き克哉を貪っていく。それに自らを持っていかれないように、歯を食いしばり、御堂の身体を味わい尽くす。

 

「あ、ぁあ……っ、ふ……、あ、ああ」

 

 不安定な声が漏れる。玄関先であることに羞恥を覚えたのか、御堂が口に手の甲を当てて喘ぎを押し殺した。

 御堂の腰をがっちりと掴んで引き寄せる。扉を伝う手が身体を支えようと彷徨う。

 薄い尻肉を潰すようにぴったりと身体を密着させて、深く深く入り込んでいく。

 御堂の脚がガクガクと震えて、力が入らなくなる。倒れそうになる身体を奥まで穿つことで、支えて立たせた。

 

「や……っ、あ、っ……ハッ、ぁ、ぁ……ああっ」

 

 突き上げるたびに漏れる声が、次第に艶めいて長く伸びていく。

 小刻みに動きながら角度を変えて、いいところを探りつつ抉りこんでいく。絡みつく粘膜にぎゅっと締め付けられて、身体を熱くする快感に夢中になる。

 つながりを深めたくて、御堂の身体を抱き込むように腰を密着させた。ぐうっと深く突いて、そこから更に、もう一段階奥へと突き入れた。

 

「く……ぅっ、あ、ああっ!」

 

 御堂が短く呻いて、欲情を克哉の手の中に放った。そのどろりとした熱を感じながら、自らも御堂の最奥に粘液を撃ち込んだ。小刻みに腰を震わせて、最後の一滴まで御堂の潤んだ粘膜で搾り取ってから、つながりを解いた。

 体勢を支えていた克哉のモノが抜かれて、御堂は身体を弛緩させて、ズルズルと倒れこむように膝をついて前に伏せた。

 静寂が戻った玄関に、二人分の乱れた呼吸が重なり合った。

 御堂が手を突いて上体を起こす。御堂に手を貸そうとしたところで、御堂は顔を背けたまま、掠れた声で言った。

 

「……君を憎んだころの自分に戻りたくない。君を殺してしまうかもしれない」

「御堂……っ」

 

 切羽詰まった声音に胸がかきむしられた。

 無意識に御堂を背中から強く抱きしめていた。肩口に顔を埋めて強い口調で言った。

 

「あんたの記憶をこれ以上失わせはしない。俺がなんとかして見せる」

 

 克哉と御堂の始まりは尋常ではなかった。今だからこそ、あの時のことは、幾分かは冷静に向き合うことが出来る。だが、御堂が記憶を失くして過去に戻っていけば克哉を激しく憎んでいたころの自分自身に戻ってしまうだろう。

 スーツのジャケットがしわになるのも厭わず、御堂を固く抱きしめ続けていると、身体を強張らせたままの御堂が一言返した。

 

「佐伯、少し、独りにしてくれ」

 

 そう言って、御堂は克哉の手を振りほどくと、のろのろと立ち上がり、振り向くことなくシャワールームへと向かっていった。

 それを追いかけることも出来ずに、克哉もまた重い足取りで自分の部屋に戻った。

 パソコンを立ち上げて、告げられた病名を入力する。探せば、何かしらの治療法があるかもしれない。世界中のこの病気に詳しい権威を探して問い合わせようと、サイトを検索しつつ英文のメールを送り付ける。

 御堂が宣告された病気についての知識や、まだ実用化されていない治療法まで調べていたら、いつの間にか窓からオレンジ色の光が差し込み始めていた。

 どれほどの時間が経ってしまったのだろう。

 

――御堂は?

 

 ハッと気づいた。先ほどから部屋は静まりかえって、御堂の気配を全く感じない。

 慌てて自室を飛び出して、御堂の部屋の扉をノックした。

 

「御堂、いるのか?」

 

 強めにドアを叩くが返事はない。心臓が早鐘を打ち出す。

 

「開けるぞ」

 

 乱暴な所作でドアを開けた。

 だが、部屋の中は無人だった。急いでリビングやバスルームを確認するが、この家に御堂の姿はない。玄関先を確認すると、御堂の靴が一足無くなっていた。

 どこに行ったのだろう。

 嫌な予感に突き動かされて、震える指で携帯を取り出し、御堂に連絡を取る。しかし、呼び出し音が鳴ることもなく、すぐさま留守番電話サービスへと転送された。

 

「御堂、どこにいる!」

 

 もう一度御堂の部屋に戻って、部屋の中を見渡した。

 そして、デスクの上、そこに一枚の小さなメモ用紙を見つけた。デスクの天板の真ん中に置かれたそれは、明らかに克哉に向けたメッセージだった。

 ふらふらと歩みを寄せる。メモに書かれた内容を一目で読み取ったが、もう一度、メモを手に取り、顔の前に持ち上げた。

 万年筆を使い艶やかなインクで書かれた文字が、脳内で御堂の声音で再生される。

 

《落ち着いたら連絡する。だから、探さないでほしい。会社を頼む。君を心から愛している。》

 

 走り書きされた文字。サインはないが、明らかに御堂の筆跡だ。

 鼓動が皮膚を突き破りそうなほど、乱れ打ち出す。

 

「どういう、ことだ……」

 

 余裕のない手つきでクローゼットを片っ端から開けていく。だが、荷物はそのままだ。

 克哉が目を離した隙に、御堂は取るものもとりあえずこの家から出ていったのだ。

 こんな状況で、御堂はどこへ向かったのか。どうする気なのか。焦りと不安が胸に逆巻く。

 

――まさか……。

 

 絶望に陥った御堂が何をしようとするのか、最悪の可能性が脳の奥底でチラついた。

 だが、すぐにそんなはずはないと、思い直した。御堂の強靭さは克哉が太刀打ちできないほどだ。あんなどん底から這い上がってきた御堂が、これしきの事で打ちのめされるわけがない。

 無理やり自分を説得して、御堂の行先に思惟を巡らせた。

 そして、思い当たった。

 一日しか記憶が持たない御堂が自分で何かが出来るわけがない。御堂が頼るとしたら、自分か、そうでなければ、家族だ。

 御堂の部屋に入り、デスクの引き出しやチェストを漁る。そして、すぐに目当てのものを見つけた。アドレス帳だ。そこから、御堂と同じ名字を探してすぐに見つけた。

 そこに書かれた数字を携帯に写し取っていく。操作する指が震える。通話ボタンを押すと、少しして通話がつながった。

 年齢を感じさせる低く深みのある声が「もしもし」と応答した。

 

「突然の連絡で失礼します。佐伯と申します。孝典さんのことでお聞きしたいことが」

 

 御堂の名を出した瞬間、電話口の向こうで、微かに息を詰める気配がした。その態度で確信した。御堂は、間違いなく、この人物の元にいる。克哉の電話の相手は、御堂の父親だ。

 畳みかけるように、早口で言った。

 

「孝典さんはどこですか?」

『教えられない』

 

 考える時間もなく即答された。ぎりっと、奥歯を噛みしめた。

 

「どうしても知りたいんです。今そこにいるんですか? もしそうなら、本人と代わってください」

『悪いが、それは出来ない』

「少しだけでいいんです。本人と話がしたい」

『無理だ』

 

 取り付く島もない返答に、腹を据えた。深く息を吸う。

 自分の身の丈を知っているからこそ、正直に御堂との関係を打ち明けて情に縋ろうとした。

 

「俺は、孝典さんの恋人です」

『君のことは、孝典から聞いて知っている。君は孝典と同居しているのだろう?』

 

 被せるように言い切られた内容に、言葉を失した。いつの間に、御堂は克哉との関係を親に伝えたのだろう。もしかしたら、今回の件で、自らの病気だけでなく克哉との全てを親に打ち明けたのかもしれない。

 

「それなら、何故……っ!」

 

 克哉の抗議の声に、沈鬱な声が応えた。

 

『佐伯君、君の希望を叶えられずに申し訳ない。だが、これは、私の判断ではなく、孝典の希望なのだ。君が大切な人間だからこそ、孝典は自分の無様な姿を見せたくなかったのだろう』

「……俺は孝典さんがどうなっても、支え続けます」

『君はその言葉を孝典に伝えたか?』

「それは……」

 

 切り返された問いに言葉を詰まらせた。

 自分の気持ちを言葉にして御堂に伝えたのだろうか。いや、伝えなかった。当然伝わっているだろうと思っていた。

 だが、あえて言葉にすることが必要な気持ちもある。この言葉こそ、必要な一言ではなかったのか。

 なぜ、自分のありのままの想いを、真正面から伝えることが出来なかったのだろう。

 御堂は自分が克哉を憎む過去の自分に戻ってしまうことを恐れていた。御堂に必要だったのは、その場しのぎの慰めなどではなく、無条件に支える克哉の気持ちだ。

 自分は、そんな御堂を放り出して、何をしていたのだろう。

 自分たちが言葉の足りない二人であることは自覚してきた。だからこそ、少しずつ少しずつ、距離を詰めて互いを分かり合おうと努力してきた。

 それなのに。

 十年近い付き合いが、二人の間から言葉を失わせてしまったのだろうか。

 昔だったら、不満も愛も、もっと言葉にして言い合っていたのではないだろうか。

 それが、互いを理解するにつれて、ちょっとした仕草から相手の感情を読み取れるようになり、機転を利かせることで表面上の距離を縮めることが出来た。そのせいで、必要な言葉を伝え合うことを忘れてしまっていたのだ。

 結果、一番大切なものを克哉は失ってしまった。

 胸がどこまでも締め付けられて、息が苦しくなってくる。

 いくばくかの沈黙ののち、電話口の向こうで重苦しいため息が聞こえた。

 

『君の気持ちはよく分かった。だが、これは孝典の判断で、孝典に残された、精一杯の矜持なのだ。理解してやってくれ』

「分かりました……。せめて、俺から連絡があったことを本人に伝えてもらえますか?」

『ああ。だが、返事は期待しないでくれ』

「はい」

 

 殴りつけられたような衝撃に、その一言を言うのが精一杯だった。

 至らなかったのは自分だ。誰を責めることも出来ない。

 電話を切られ、不通音が流れる携帯をきつく握りしめた。

 これが、御堂につながるたった一つの端緒だったのだ。

 コールバックがないかと真っ暗な携帯画面を眺め続ける。だが、携帯は何も反応しない。

 無為に時間だけが過ぎていく。

 御堂が先々を見越して、克哉ではなく両親を頼ったのだとしたら、克哉に連絡を取る気はないのだろう。

 

――そうだとしても、このまま引き下がることなんて出来ない。

 

 御堂の父親の断固とした態度を見れば、両親のルートから御堂の行方を辿ることは難しいのかもしれない。

 それでも、御堂の居場所を知るためにありとあらゆる手段を講じた。

 しかし、予想以上に御堂の両親のガードは固く、何の手がかりを得ることもなかった。

 一縷の望みをかけて四柳に連絡を取ったものの、隠しているのか本当に知らないのか、御堂の行き先を教えてくれることはなかった。

 こうしている間にも、御堂は記憶を失い、克哉と過ごした時間を忘れていっているのだ。御堂の中に深く刻み付けたはずの克哉の存在が一刻一刻と薄れていっている。

 焦りが胸に去来し、居ても立っても居られない。だが、今の克哉が出来ることは皆無だ。自分の無力さに唇を噛みしめる。

 

――御堂、どこにいるんだ。

 

 自室のソファで強い酒を煽りながら、御堂が残した一枚のメモを御堂の部屋で何度も読み返した。そこに御堂の居場所を示すヒントが書き込まれていないか、舐めるように視線を這わせた。だが、残されたメモは沈黙を保ったままだ。

 自暴自棄になりかけた自分の不甲斐なさを、酒の力を借りてなにもかも忘れてしまいたい。

 極度の疲労と睡眠不足に加えて、アルコールが意識を霞ませた。

 

「御堂……」

 

 自分が呟いた声に胸がずくりと疼いた。

 初めて御堂と会ったのは、MGN社の執務室だった。あの時は、まさか御堂とこんな関係になるとは思いもよらなかった。

 御堂と克哉の十年の月日。そのひとつひとつの思い出が浮かび上がって、視界を滲ませる。

 不覚にも涙がこぼれそうになって、克哉は顔を上げた。

 御堂がいなくなってしまったこの部屋は妙に寒々しく感じる。

 ここは、ふたりの家。

 心地良い居場所だった。

 それは、この部屋だから、ということではない。御堂がいる場所だったら、どこでも良いのだ。そこが、克哉にとっての居場所になるのだ。

 それなのに、突然、たったひとり取り残されて、心細さが募る。

 

――そういえば、御堂を置き去りにしたことがあったな。

 

 不意に思い出した。自分が御堂を解放したときに、汚れた部屋に、御堂ひとり残して立ち去ってしまった時のことを。

 あの時の苦しさと後悔。

 それが色褪せることなく脳裏に蘇った。

 今、克哉が同じ目に遭っているのは、あの時の因果応報なのだろうか。

 感情だけが上滑りして、冷静な判断が出来なくなっている。

 

――俺は、何もできないのか。

 

 自嘲の笑みが浮かぶ中、もう一度、メモに視線を留めた。

 気持ちをまっさらにして一文字一文字目で追っていく。

 ハッと気づいた。

 自分が何をすべきか、御堂は明確に指示してくれているではないか。

 御堂が克哉に頼んだことは二つ。自分を探さないこと、そしてAA社のことだ。

 落ち着いたら連絡をする、と書いてある。記憶を失いつつある御堂はどうやって克哉に連絡を取る気でいるのだろう。

 それでも、御堂を信じろ、そう自分に言い聞かせる。

 御堂は、克哉を信頼して会社を託したのだ。それなら克哉は、御堂を信じて連絡を待つしかない。

 愛することは信じることだ。

 御堂の指示に従おう。

 それで間違ったことなど一度もなかった。

 濃い霧に包まれた中で、周囲を視ようとするから、迷うのだ。目を瞑って、自分を導く手をひたむきに信じればいい。

 今度こそ、覚悟を決めた。御堂を探すことはいったん保留にして、猛然と仕事に向かい合う。

 御堂からの連絡を信じて、今できることに全力を傾ける。

 社員には御堂が急病で長期休暇を取ることを伝え、仕事を片っ端から部下に振り分けた。自分がいつ仕事から離れてもいいように、先の先までスケジュールを細かく組んで、見通しと方針をひとつひとつ部下と確認していく。

 それでも、御堂のいない日が積み重なってくると、胸に巣食った空洞が心を蝕んでいくようで、少しでも気を抜くと足元から崩れ落ちてしまいそうだ。

 誰もいない温もりの欠けた部屋に帰る。そこが、妙によそよそしい見知らぬ部屋のように感じてしまう。

 余計なことを考えずに済むように、仕事の忙しさの中に身を置くようにした。寂寥感に襲われるたびに、じっと目を瞑り、瞼の裏に御堂の姿を思い描き、その声を頭に再生した。

 そうして、一か月近くの月日が流れたある日のことだった。

 その日、AA社から帰ると克哉の元に一枚の封書が届いていた。

 何の変哲もない白い封書。だが、手に取った瞬間、心臓が跳ねた。

 宛名の『佐伯克哉様』と万年筆で記された筆跡には見覚えがある。そして、使われているインクはスカビオサ。古典インクにしては珍しいパープルブラックの深みがある色は、御堂が好んで使っている色だ。

 震える手つきで、ペーパーナイフを入れる。中から一枚の絵葉書が出てきた。

 森を背景とした美しい高原の写真。そして、宛名面には封筒と同じ筆跡で『佐伯克哉様』と記されているだけだ。文面はなく、どこかの住所と『御堂孝典』のサインがあった。

 長野県軽井沢町で始まる住所。それを見るや否や、取るものもとりあえず、車に飛び乗り、長野に向けて走らせた。

 軽井沢に辿り着いたときには、既に夜も更けていた。

 住所を調べれば、そこは療養施設で、電話をかけて訪問を申し出たが、当然の如く明日出直すように断られてしまった。

 じりじりとした焦燥に焼かれながら軽井沢の宿で一晩を過ごし、朝一番にその施設に出向いた。

 避暑地として名高い軽井沢は、清涼な気候と美しい自然に囲まれているリゾート地だ。真夏でありながらも、早朝には霧が街を包み込んで、蒸すような暑さを緩和してくれる。

 軽井沢の街中からすこし外れたところにあるその施設は、周囲を豊かな森に囲まれ、風光明媚な高原の中に佇む建物だった。混じりけのない透明な空気が心地よい。

 門から中に入って辺りを見渡した。平屋の建物は、ひとつひとつの部屋が独立してテラスと庭を持ち、その部屋の住人が周囲を散策したりして思い思いに過ごしている。まるで全室が離れのラグジュアリーリゾートのようだ。

 ここは富裕層のための、特別な療養施設なのだということに気付いた。そして、この敷地の中のどこかに御堂はいるのだ。

 御堂の姿を探そうと、周囲に忙しない視線を向けながら、「来客者はこちらへ」という看板に従って、中央の施設に向かった。

 美しく整えられた玄関口はホテルのようで、一見して療養施設だとは思えない。

 正面の受付に声をかけて名を名乗り、御堂の名前を出すと、少しして四十台くらいの女性の職員が現れた。

 カーディガンを羽織った品のある私服姿のため、一見してそうとは分からなかったが、手にしていたファイルはまさしくカルテで、彼女がこの施設の看護師であることが分かった。

 

「佐伯さん、ですか?」

 

 訝しげ問われて、御堂から届いた封書を出して見せた。それを手に取り、彼女は目を細めた。ちらりと確認して、すぐに克哉に封書を返した。

 

「この封書をポストに投函したのは私です」

「あなたが……?」

「御堂さんより、自分の記憶が三十二歳まで戻ったらこの封書を投函してくれ、と頼まれました」

「御堂さんは、今、ここに?」

「こちらにいらっしゃいます。あなたが来たらご案内するように仰せつかっております」

 

 その言葉に胸が高鳴り出す。彼女は克哉に背を向けて、施設の奥へと克哉を導いた。

 歩きながら施設の説明をする。克哉が予想した通り、ここは主に認知症の患者の特別な入院施設で、記憶以外、心身に問題のない患者が安心して過ごせるように、一見して入院施設であることが分からないように設計されている。

 平屋建ての建物の一部屋一部屋は、ほぼ独立した造りになっており、部屋も広く、家族が一緒に滞在することも可能だそうだ。患者が普段通りの生活が出来るようにプライバシーが配慮されているらしい。

 看護師の女性は施設について一通り説明すると、言いにくそうに付け足した。

 

「御堂さんは、既にあなたのことを覚えておりません。封書の投函も、あなたをご案内することも、こちらの施設に来られたときに私に依頼されたことです。今の御堂さんはそれを私に頼んだことさえ覚えておりません」

「そうですか」

 

 告げられた言葉に心が沈んだ。

 そうであろうとは思っていた。御堂が、自分の記憶が三十二歳に戻ったら克哉に居場所を教えるように指示したのは、御堂の中から克哉の記憶がすべて拭われるための時間が必要だったのだ。

 それまでの間、御堂は克哉から離れようとした。だからこそ、御堂は自分の両親を頼った。

 御堂は自らの意思で、克哉のいないところで、克哉との記憶を何もかも捨ててしまったのだ。

 看護師は克哉を先導して広い敷地の中を歩いていく。その後を期待と不安に苛まされながら落ち着かない足取りでついていく。自分の知らない間の御堂の様子を少しでも把握しようと質問した。

 

「御堂さんは、こちらではどのように過ごしていましたか?」

「最近は落ち着かれましたよ」

「落ち着いた?」

「ええ、一時期は不安定で叫んだり暴れたりしていましたね。自分の置かれた状況に混乱されていたようです。何か良くない記憶を思い出されたようで」

「……そうでしたか」

「ここに来られる患者さんには、良くあることです。ですが、今が一番落ち着かれていると思います」

 

 心臓が引き絞られるような胸の痛みを感じた。

 記憶をひとつひとつ失って、過去へと戻る中で、御堂は過去の克哉との邂逅を果たした。

 それは、辛い記憶であっただろう。

 克哉から解放されて、克哉と再会し、恋人になるという未来を、御堂は忘れてしまっているのだ。

 忘れてしまったということは、存在しなかったということと同義だ。

 あの頃の体験を再び突き付けられた御堂の心を思うといたたまれなくなる。そして、御堂はそうなることを知っていたからこそ、克哉から離れた。自分一人で過去と対峙することを選択したのだ。そして、御堂は今、たった一人で暗いトンネルを抜けた。

 冷静に考えれば、その時代に戻った御堂の傍に克哉がいたところで、憎しみと恐怖を煽るこそすれ、御堂の力になれたとは思えない。悔しいが、御堂の判断通りだ。とはいえ、心では割り切れないその事実にやるせなさに包まれる。

 看護師はひとつの扉の前で立ち止まった。克哉に振り返る。

 ライトブラウンの美しい木目の扉の横には表札代わりに部屋番号が金文字で記されているだけだ。患者の名前が一見して分からないように配慮されている。

 

「御堂さんには、交通事故で記憶をなくして療養中である、と説明しています。話を合わせてください」

「分かりました」

 

 看護師に確認されて、頷いた。御堂は自分がどんな病気であるのかも、一晩寝れば忘れてしまうのだ。毎朝、看護師や医者にそう告げられて、なぜ、自分がここにいるのか、そして、自分が失った年月のことを無理やり納得しようとしているのだろう。そんな御堂に、正しい病名や辛い現実を告げて、毎日絶望を味合わせる必要はない。交通事故というのは御堂のための方便だ。

 

「御堂さん」

 

 看護師はチャイムを鳴らすと、扉をノックして呼びかけた。返事を待ったものの反応はなく、彼女は鍵を取り出して扉を開けた。「失礼します」と声をかけて中に入り、克哉も入るように促す。

 部屋の中は、ホテルか別荘の部屋のようで、1LDKの広々とした空間には、落ち着いた壁紙に、洗練された造りの家具が一式設えてある。とても病室とは思えない。

 部屋の中を見渡しても御堂の姿は見えなかったが、看護師は迷うことなくリビングを突っ切ってテラスへと向かった。

(3)
おやすみなさい、あいしてる。(3)

 燦々と明るい陽射しが降り注ぐ庭。シェードが作る柔らかな日陰のテラスに、真っ白なテーブルと椅子のセットがあり、御堂はそこで克哉たちから背を向けて腰を掛けていた。

 手には本を持っていて、テーブルには飲みかけのマグが置かれている。コーヒーを啜りながら本を読んでいた御堂は、看護師の存在に気づき、振り返った。

 くっきりとした二重が映える切れ長の目元、まっすぐですっと高い鼻梁。感情を窺わせないその顔は、冷たいながらも人の目を惹きつける華やかさがある。きれいに撫でつけられた髪やシャツにジャケットという服装も相まって、とても患者には思えない。

 久々に目にした御堂に言葉を失った。見た目は元気そうだ。変わりのない姿に胸の内に熱いものが込み上げた。

 

「御堂さん、お客さんですよ」

 

 看護師の声に御堂の視線が克哉へと移った。

 その表情は固く整ったままだ。すっと眸が細められる。

 

「どなたですか?」

「……佐伯、克哉です」

 

 感情のこもらない淡泊な口調で聞かれ、返す声が掠れてしまう。

 御堂は克哉に不躾な視線を浴びせ小首を傾げた。克哉の存在を自分の記憶から探し出すことは出来なかったようだ。

 見知らぬ人間に対する警戒を帯びた目つきを向けられて、失望と悲哀が胸の内でせめぎ合うが、それを悟られないように、柔らかな笑みを保ち続けた。

 

「それでは、何かあったらお呼びください」

 

 看護師が一言告げて、踵を返す。

 御堂は、じっと克哉を見上げていたが、持っていた本をテーブルに置いて椅子を引き、克哉へと体を向けた。アポイントなしに現れた客と、向き合う気はあるらしい。

 どう声をかければいいのか、会話の取っ掛かりを見つけられず、気まずい沈黙に視線が彷徨う。

 本の表紙の上に置かれた左手、その手首に付けられた時計に見覚えがあった。そこに視線を留めて言った。

 

「その時計、俺があなたにプレゼントしたものです」

「これを……君が?」

 

 御堂が克哉の視線を辿り自分の左手首の時計を確認して、克哉に視線を戻した。

 問う声に「ええ」と頷く。

 

「そして、これは、あなたがお返しに、と俺にプレゼントしてくれたものです」

 

 自分の左手を御堂の前に出して、御堂の視線を肌に感じつつ、手首から時計を外して渡した。

 御堂が克哉から時計を手に取って、磨かれたクリスタルを指で辿りながら文字盤を確認し、裏面のムーブメントを確認する。

 御堂に贈ったものと同じブランドの同じラインのトゥールビヨンの時計で、克哉のそれは御堂のそれより新しい型だ。

 同じ趣を有する兄弟のような時計を前にして、御堂は瞳孔を開いた。

 希少価値の高い腕時計、同ラインのものを御堂と克哉が腕に付けている。それが指し示す事実に御堂は軽く目を閉じて、そして、ゆっくりと瞼を押し上げた。全てを見透かすような深い色合いの眸が克哉に向けられる。

 

「君は、私と特別な関係にあったようだな」

「そうです」

 

 御堂が出した答えに、にっこりと笑った。

 御堂の眼差しが克哉を検分するように頭から足元に振られる。それを身じろぎせずに受け止めた。

 

「君、とねえ」

 

 いささか納得いかないような口ぶりだったが、腕時計を克哉に返した。それを受け取り、左腕に嵌める。

 御堂が目線で克哉に正面に座るように促した。椅子を引いて腰をかけると、入れ替わりで御堂が立ち上がった。

 

「何か飲み物を出そう。何がいい?」

「いえ、自分で用意します。御堂さんの分も」

 

 浅く腰掛けた椅子から即座に立ち上がって、御堂の前に置いてあったマグカップを先に手に取る。すでに中身はほとんど残っていない。

 御堂を椅子に座らせて、部屋のキッチンへと向かった。棚に置かれていた挽かれたコーヒー豆をドリップする。

 キッチンに置かれているものを見れば、御堂が好んだコーヒー豆が置かれているし、揃えられている食器のブランドも御堂が愛用しているものだ。部屋を見渡せば、持ち込んだと思われる家具や小物まで、御堂が普段好んで使う種類のものが用意されていた。

 御堂の両親がどれほど、御堂の周囲の環境に気を配っているか手に取るようにわかる。親子の絆は、血という特別で強いつながりがあるのだ。今の御堂は克哉のことを忘れても、両親のことは変わらぬままに覚えているのだろう。

 克哉が決して敵うことの出来ないつながりを見せつけられているようで、唇を噛みしめた。

 恋人の絆は親子のそれとは、まったく質の違うものだ。

 克哉と御堂は男同士であるから公的な結婚できない。だから、二人の関係は、お互いの気持ちだけで成り立っているものだ。だからといって、絆が弱いとは思わないが、片方が他方の存在を忘れてしまえば、ふたりをつなぎ止めるものは全くないのは事実だった。

 ジャケットのポケットから手紙を取り出して眺めた。

 御堂から送られた手紙には、会いたい、とも何も書かれていなかった。御堂は分かっていたのだ。克哉がこの手紙を受け取った時点で、ふたりの関係は、少なくとも御堂にとっては、縁もゆかりもない他人同士まで後退してしまったことに。

 だから、会う、会わない、の選択を克哉に委ねた。

 克哉が御堂に会わない選択をしたとしても、この手紙を書いたときの御堂はそれで納得したのだろうか。今となっては聞くことも出来ない。

 せめて、一言、会いたいと綴ってくれれば、克哉はその言葉を支えにして御堂の元に駆け付けただろう。

 何も書かれなかったハガキが伝えたかった言葉が、やけに切なく胸に届く。

 もしや、自分は御堂に必要とされてなかったのだろうか。

 不意に胸に立ち込めたモヤモヤとした疑念を慌てて否定した。

 いいや、御堂のことだ。克哉に負担をかけたくなかったに違いない。

 だが、そんな気遣いなんて要らなかった。もっと自分を頼って欲しかった。自分を求めて欲しかった。

 御堂に対する口惜しさと怒り、胸に巣食う感情はどろどろとして、それが理不尽なものだと分かっていても、口を開けば、何も知らないこの御堂にきついことを言ってしまいそうだ。

 キッチン台に置いた手、握りしめた爪が手のひらに食い込んだ。その痛みが克哉に自制をかける。

 熱いコーヒーを二人分淹れて、再びテラスへと戻った。

 御堂の前にひとつ置いた。御堂がそれを手に取って克哉に礼を言う。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 御堂の向かいに座り、黙ったまま、コーヒーを一口含んだ。苦みのある液体が舌を浸し、深い芳香が鼻に抜ける。

 目の前の御堂は克哉が知っている御堂でありながら、克哉を知らない御堂なのだ。他人とも恋人ともつかない関係になってしまって、何をどう話せばいいのか、会話が続かない。

 続く気まずさを紛らわせようと、御堂が口を開いた。

 

「知っていると思うが、私は交通事故で、ここ十年ほどの記憶をなくしてしまってね。君のことを覚えていないんだ。もちろん、そんな関係の人間がいたことさえ」

「存じています。今のいままで見舞いに来ることが出来ず、申し訳ありません」

 

 他人行儀のような丁寧な謝罪を口にして頭を下げる。だが、御堂は克哉の謝罪を責めることなく軽い口調でいなした。

 

「どうせ両親が私の居場所を教えなかったのだろう? 男の恋人だなんて、世間体を気にする両親からしたら引き離したいだろうからな」

 

 御堂の言葉にドキリとした。御堂は克哉を恋人として認識し、一応は納得しているらしい。

 だが、そんなにあっさりと受け入れられるものなのだろうか。全く見ず知らずの人間が目の前に現れて、恋人だと名乗ったにも関わらず、だ。

 その頭の中でどんな整合性がとられているのか、興味をそそられて訊いてみた。

 

「御堂さん、最後の記憶はなんですか?」

 

 御堂は軽く瞼を閉じて、こめかみを指で押さえた。難しい顔をしながら、残された記憶を手繰り寄せる。

 

「MGNの部長職について、新しいプロジェクトに取り掛かろうとしたところだ。社内のコンペに出すための企画をしていた。飲み物だったかな」

「プロトファイバーです」

「プロトファイバー?」

「あなたが開発したドリンクで、大ヒットしました」

「そうか」

 

 御堂が手掛けたプロトファイバーがどれほど爆発的に売れたかを語ると、御堂が表情を綻ばした。零れた笑みが、頑なだった表情に思わぬ華を添えて、一瞬で目を奪われた。

 克哉だけのものだった御堂の素の笑顔、それを垣間見せられて、胸が熱くなる。

 御堂の記憶は、プロトファイバーの企画を立ち上げるところまで戻ってしまったようだ。

 克哉と出会う前の話だ。今の御堂は克哉の存在すら知らない時代まで巻き戻っているのだ。

 しかし、目の前の御堂は克哉が執務室で初めて対峙したときのような、厳しさも高慢さも見受けられない。

 あの時、アポイントも取らずに御堂のところに押しかけた克哉は、初対面の心証は最悪だっただろう。もし、仕事を介してあのような形で出会わなければ、御堂は克哉を一人の人間として真正面から接してきたのではないだろうか。

 胸に切ない波紋がさあっと広がった。

 もしかしたら、克哉と御堂の出会いの形が違えば、ふたりが辿った道は全く違ったものになっていたのかもしれない。自然な形で出会い、普通の恋人として関係を深め、他の恋人たちと同じように、ふたりの思い出を積み上げて、喜びも悲しみも分かち合っていく。こんな当たり前のことが、克哉と御堂にとっては難しかったのだ。

 

「佐伯といったな」

 

 御堂が克哉の方に身を乗り出した。虹彩まで黒一色に塗りつぶされた眸で克哉をじっと見つめる。その眸に克哉に対する好奇の色が見え隠れする。

 

「それで、教えてくれないか。私と君はどのように出会って、過ごしてきたのか」

 

 そう質問されるとは予想していたので、頭の中に用意してあった答えを述べる。

 

「俺と御堂さんは仕事上の部下と上司の関係でした」

「MGNの?」

「プロトファイバーの営業の委託先が俺の部署だったんです。それで、仕事を通してあなたと深い仲になりました」

「そうか……。私の途切れた記憶の何か月か先に君が登場するわけだな」

 

 克哉は、御堂との間にあった、口にすることが躊躇われるような出来事を上手く避けて、出会いから今に至るまでを説明した。克哉によって簡潔にまとめられた経緯を、御堂は記憶を失ってもなお、聡明な頭脳で推察し、いくつかの質問を投げかけてきた。前後のつながりから類推し、不自然な間隙、すなわち克哉が隠そうとしたことを御堂は鋭く突いてくる。

 克哉の言葉を傾聴する姿勢は、真剣そのもので、御堂は自分が失った期間の記憶を渇望していることが伝わってきた。

 自分の失われた物語。それを克哉が持っている。

 だから、克哉が本当に恋人なのかどうか、その疑問を脇に置いて、必死に自分の記憶の間隙を埋めようとしているのだ。

 矛盾を生じないように慎重に言葉を選びながら、AA社を立ち上げて今に至るまでの、御堂と克哉の軌跡を語った。

 ふたりは仕事を通じて仲を深め合い、AA社を共に起業し、今に至る。そこに、一片の曇りも歪みもない。

 克哉が作りあげた輝かしい軌跡の物語に、御堂の眸の焦点がふっとぼやけた。どこか遠いところを視る眼差しになる。

 

「つまり君は、『未来から来た恋人』というわけか」

「そういうことになりますね」

 

 未来から来た恋人、という自分の物言いが面白かったのか、笑い含みで返す御堂に、同じように微笑みながら返す。

 心地よい高原の夏の風が二人の間を駆け抜けていく。

 

「しかし、分からないのは……」

 

 御堂がふっと真顔になった。

 

「なぜ、私が君のことを好きになったのかということだ」

「それは俺に聞かれても分かりません」

「そうか。残念だな」

 

 御堂は心底落胆したように言って、椅子の背にもたれかかった。記憶にある自分の過去から自身の行動パターンを予測し、そこから弾き出される結論と克哉が示す現実との差異にどう折り合いをつけるか戸惑っているようだ。今の御堂にとっての克哉は、やはり異質な存在なのだろう。

 手に持っていたコーヒーをテーブルに置いて、御堂を真正面から見据えた。

 

「ですがその点について、俺から御堂さんに教えられることもあります」

「なんだ?」

「そのまま、目を瞑ってください」

 

 訝しげな眼差しを向ける御堂に、言い含めるように柔らかな声で促すと、御堂が椅子の背にもたれたまま、そっと目を瞑った。

 静かに椅子から立ち上がり、御堂に歩みを寄せる。御堂が腰を掛ける椅子の背を掴んで、上体を深く屈めた。御堂の唇に自分の唇を押し付ける。

 

「んんっ!」

 

 不意打ちのキスに御堂が喉で抗議をし、顔を背けようとする。逃げ惑う御堂の両頬を掴んで唇を執拗に追った。

 唇を優しく吸い上げ、尖らせた舌で誘うように膨らみを辿っていく。

 かすかに口が開く。そこにするりと舌を這入りこませた。

 噛みつかれるかと思ったが、御堂は身体を強張らせたまま動かない。緊張におののく口腔を自らの舌でたっぷりと埋める。口蓋を舐め上げて、舌を擦りつけ合う。口の端から混じった唾液が滴り落ちる。

 一か月ぶりの御堂とのキスに、頭の芯が煮えてくる。貪るように唇を吸い上げていると、御堂がおずおずと克哉のキスに応えてきた。それは初めてのキスかと思うほどのぎこちなさでゆっくりと舌を絡めてくる。克哉も舌を絡めてくすぐっていると、煽られたのか、克哉の首に腕が巻きつけられた。

 互いの顔の向きをずらして唇を深く噛み合わせる。舌で舌を舐め合う快感が身体の奥から込み上げてくる。

 息苦しさを感じるころになって、御堂がようやく我に返って克哉に巻き付けていた手を放し、克哉の胸をぐいと押してキスを解いた。

 頬を紅潮させた御堂が、唇の端から滴る唾液を手で拭って憮然と言った。

 

「何をするんだ、君は」

 

 途中からは自らも負けずと積極的なキスを仕掛けてきた割には、酷い言い様だ。だが、そんな御堂の態度が可笑しくて、クスクス笑いながら返した。

 

「記憶というのは何も脳だけのものではないそうですよ。身体が覚える記憶というのもあるとか」

「そうなのか?」

「もう少し、試してみますか?」

「……ああ」

 

 少し迷ってためらいがちにうなずく御堂に、もう一度、唇を重ね合わせる。

 今度は最初から唇を全て塞ぐ。

 御堂が身を乗り出すようにして、克哉にしがみついてキスを深めてきた。それは、いつもの御堂とのキスを思い起こさせた。

 角度を変えて重なってくる唇の柔らかさと熱に、理性が溶けかけるのを必死に堪える。舌先を淫らにこすり合わせただけで、狂おしいほどの快感が込み上げて、引きずられそうになる。

 挿し込まれてきた舌を淫猥に吸い上げる。合わせた唇の中でつたわる唾液を、こくりと喉を鳴らして飲み込めば、御堂が熱っぽい吐息を漏らす。

 御堂は自分が満足するまでキスを繰り返し、そろりと唇を離した。二人の唇の間に、唾液が光る糸を引いた。

 てらてらと光る唇に目を取られながら言った。

 

「何か思い出しました?」

「いいや、何も」

 

 そう返す御堂の眸は黒々と濡れそぼっている。

 

「ですが、感じたんじゃないですか?」

「何を、だ」

「俺と、かつてしたキスを」

「……どうだろう」

 

 真面目に考え込む御堂に、克哉はふっと相好を崩した。

 

「体の相性が良かったんですよ。俺たち」

 

 露骨であからさまな物言いに御堂が眉をひそめた。だが、克哉の言葉を頭ごなしに否定することはしなかった。自らの快楽への貪欲さは、今の御堂も自覚しているようだ。

 挑発する眼差しを向けて、試す口調で言った。

 

「もっと、色々試してみますか? 何か思い出すかもしれません」

 

 我ながらずるい物言いだということは自覚していた。御堂が何よりも渇望する記憶を餌に釣っている。御堂はわずかに顎を上げて、克哉を見る目をすうっと眇めた。その口許に意地の悪い笑みが浮かぶ。

 形の良い唇が薄く開いた。

 

「佐伯」

 

 呼びかけられた深い声音が、唐突に胸に火を点けた。それは、御堂が克哉を呼ぶ声音そのもので、耳に馴染んだ響きに記憶が全て戻ったのかと錯覚したほどだ。だが、御堂は唇の端を吊り上げたシニカルな笑みを崩さない。

 

「そこまで言うなら、君の提案に乗ってやる。私に奉仕しろ、佐伯」

 

 有無を言わさぬ声で要求された内容を理解して驚き、そして、御堂が紛れもなく三十二歳の、克哉と出会った時の御堂であることに気づき、言いしれぬ懐かしさが込み上げた。

 記憶を失って心許ない状況にあるにもかかわらず、御堂は、克哉こそ御堂の失った記憶を渇望していることに気が付いた。克哉の誘いを逆手に取って、あくまでも自分の優位を崩さずに克哉に奉仕を要求する姿はまさしく、出会った当初の御堂そのままだ。

 御堂の試すような視線を意識して、平然とした顔を保った。

 

「承知しました」

「本気か?」

「ええ、勿論です」

 

 動じることなく、かしこまった口調で返して、御堂の両足の間に跪いて身体を割り込ませた。

 迷いのない克哉の態度に驚く御堂のシャツの裾を引き出す。ベルトのバックルを外して、ズボンの前を寛げて熱を孕みだした御堂の性器を下着の合わせから取り出した。

 御堂を上目遣いで見上げ、真っ赤で濡れた舌をちろりと見せながらゆっくりと含んでいく。

 

「佐伯……」

 

 掠れた声に欲情が滴る。その眼差しは克哉を捉えて離さない。

 唾液を塗した舌を使って、淫らな音を立てながら扱き上げれば、口の中の性器が大きく育つ。先端の浅い切れ込みに尖らせた舌を潜り込ませれば、潮気を感じるぬめる液体が溢れ出す。それをじゅるっと啜りあげた。

 御堂が小さく喉を鳴らす。

 黒目だけで御堂を見つめたまま、赤い口を開いて御堂のペニスを深く呑み込んでいく。視線を絡みつかせれば、快楽を堪える御堂の頬が上気して、一筋の色気が滲んだ。

 克哉の髪に十本の指が入り込む。その指先に頭を掴まれて、絶妙な力加減で押さえつけられた。

 御堂の昂りを直に口で感じながら、ねっとりと舌を這わせる。くびれに軽く歯を当てて刺激し、苦しいのを堪えて喉奥まで含んで締め付ける。

 ペニスの根元に輪っかにした指を絡めて、濃い蜜を滴らせるそれを舐めしゃぶって、一気に追い上げた。

 

「――ッ!」

 

 びくっと御堂のペニスが口の中で震えて、吐精した。濃厚な雄の匂いと味が口の中に充満する。

 

「…佐伯、吐き出せ……っ」

 

 そう言って、克哉から腰を退こうとする御堂に、更に深く顔を伏せた。御堂のペニスを口に咥えたまま、粘ついた液体を何回かに分けて飲み込んだ。そうして、唇と舌で御堂の竿をきれいに拭いながら、達した後の鈴口を優しく舐めて、残滓の一滴まで啜りあげる。

 ひたむきな克哉の奉仕に息を乱した御堂は、克哉の頭に手を置いたままだ。

 克哉はペニスから口を離すと、濡れた繁みや腿の内側に垂れたしずくまで残さず舐め上げて、ようやく顔を上げた。御堂と正面から視線がぶつかる。

 

「お前、そこまでするのか……」

「あなたにしか、しません」

 

 唖然とした口調に、当然のようにさらりと返した。御堂の衣服を正そうと手をかけたところで、その手を払われた。

 

「自分で出来る」

 

 御堂は椅子から立ち上がると、乱れた服を直し始めた。御堂は克哉から一歩距離を取りつつも、視界の端で克哉を慎重に窺っている。

 御堂の視線を感じつつ、汗ばむ額に張り付いた髪をかき上げながら、ゆっくりと立ち上がった。眼鏡のブリッジを押し上げて、ちらっと笑って見せる。

 甘さを含ませた深い声音で、唆す口調で言った。

 

「この先のことを、もっと試してみますか?」

 

 奉仕を命じたのは御堂でありながら、克哉の余裕を持った振る舞いに、御堂はこくりと喉を上下させた。

 

「……分かった」

 

 そう言って克哉に向き直る御堂の潔さに驚いたのは、克哉自身だった。

 

「いいんですか?」

「悩んでも仕方ない。記憶が戻るなら何でも試してみたい。それとも、君は、私をからかったのか」

「まさか」

 

 この決断の速さと行動力はいかにも御堂らしい。御堂は、克哉の前を通り過ぎて部屋の中に入り、寝室に向かった。その後を追う。

 御堂はベッドサイドテーブルに腕時計を外して置くと、ベッドの脇で自らの服を脱ぎだした。シャツを脱ぎ捨てながら、克哉に振り返った。

 

「君は脱がないのか?」

 

 あっという間に下着姿になった御堂に挑戦的に言われて、負けじと腕時計を外して、ベッドサイドテーブルの御堂の腕時計の横に置いた。

 二つの腕時計、相似のクリスタルが並んで輝く。その様をほんの少しの間、感慨に耽るように眺めた。

 そうして、シャツのボタンに指をかけて外そうとしたところで、動きを止めた。御堂に視線を送る。

 

「俺の服を脱がせてくれませんか?」

 

 その言葉に御堂は眉を潜めたが、無言で歩み寄った。

 御堂は克哉の羽織るジャケットを脱がしてその場に落とし、シャツのボタンをひとつひとつ外していく。

 細く長い指が素肌を掠める。その感触に胸が逸り出す。

 裾のボタンまで丁寧にはずした御堂が、克哉のスラックスの前の昂りを目にして、微かにうろたえた表情をした。

 今更ながら恐れが生じたのか、ゆるりと両手をシャツから放して、身体を退こうとする。

 

「佐伯……、やはり……」

「御堂さん」

 

 呼びかけた声は自分でも驚くほどに、欲情が滲み出て低くなった。

 怖気づく御堂の両肩を掴んでベッドに押し倒した。克哉の身体の下で御堂が慌てる。自分が下になるのは、想定外だったようだ。

 

「ちょっと……待て」

「俺に任せてください」

「待てと言っている!」

「記憶を取り戻したいのでしょう? いつものように俺がしますから。あなたはただ、感じていればいい」

「君は……っ!」

 

 抗議の声を唇で封じる。逃げる舌をきつく吸い上げているうちに、御堂の抵抗が弱まった。失った記憶を匂わせれば、御堂の抵抗が削がれる。それをいいことに、御堂の首元に顔をうずめた。

 舌を尖らせて、筋肉の筋をつうときわどく舐め上げていく。清潔ながら色香のあるフレグランス、浅く速い息遣い、身体の中に抱き込む感触の全てが絶妙に混ざり合い、官能を立ちくゆらせる。

 御堂の呼吸が浅く速くなる。澄ました顔が乱れていく。

 胸の先端に指を這わすと、御堂が慌てた。

 

「そこは……っ、やめろっ」

「あなたは、ここを弄られるのが好きでしたよ」

 

 覆いかぶさる克哉から逃れようとする御堂に巧みに体重をかけて押さえつけ、指の腹で乳首を擦りあげながら、他方の乳首を口に含んだ。唾液をたっぷりと塗して、舌先で転がす。

 

「……ふ、……ん」

 

 きつく吸い上げては、やわやわと撫でる。指と口での愛撫を繰り返すうちに、御堂の喉から上擦った音が漏れて、その背が露骨に仰け反る。

 御堂の下腹の器官が下着を押し上げて屹立し、克哉の腹部を押し返した。その先端部を覆う布は先端から溢れた蜜で黒い染みが広がっている。手を下ろして御堂の下着をずらし、欲情に張りつめたペニスを暴いた。

 質量を持ったペニスが、ぶるりと、狭い空間から弾んで飛び出した。

 その先端に克哉は自らのものを寄せて触れ合わせた。亀頭の先端を触れ合わせる。腰を柔らかく動かして、御堂のペニスに自分のモノを擦りつける。それだけで、御堂のペニスの頂から、くぷりとぬらめく蜜が滴った。

 羞恥に顔を染める御堂に、熱っぽく囁いた。

 

「もう一回やり直しましょう。最初から」

「……最初から?」

「俺とあなたの初めては、あまり良い思い出ではなかったですから……」

「そうなのか?」

 

 問う声にわずかに視線を外す。

 自分の言葉が意味する危うさに気づき、語尾をぼかしたが、御堂は克哉の声の揺らぎを見逃さなかった。曖昧に笑って誤魔化す。

 

「あの時、あなたは後ろの経験はなかったですから」

「……っ」

 

 御堂の顔が悔しそうに歪んだ。そうとは分かっていたのだろうが、いざ自分が組み敷かれることを克哉にハッキリと告げられて、その顔が分かりやすく紅潮する。それを揶揄することもなく、ごく自然な口調で言った。

 

「もう一回、やり直せるなんて夢のようですよ」

 

 その気持ちは半分は嘘で、半分は本当だった。克哉の全てを忘れ去られたことは悲しいが、こうなった以上、目を背けたい凄惨な過去をなかったことに出来るチャンスを得たのは確かだ。

 もう一度、初めてから全てをやり直す。今度こそ、これを相手を貶める行為ではなく、恋人同士であるふたりの愛を交わす行為に純化させてみせる。

 御堂の下着を脚から抜き取ってベッドの下に落とし、自分も衣服を脱ぎ捨てて裸になった。

 指を口に含んで唾液で濡らす。それを御堂の尻の狭間に挿し込んだ。

 

「……んっ!」

「力を入れるな」

 

 狭く閉じた窄まりをトントンと爪の先で軽く叩く。その度にギュッとそこが締まる。ベッドサイドテーブルに、アロマオイルが置かれているのを目にして、それを手に取った。とろりとしたオイルを指にたっぷりと掬い取って、アヌスの襞からその奥へと丹念に塗りこめていく。

 

「ぁ……っ」

 

 温まったオイルがラベンダーの香りを立ち上らせた。オイルのぬめりを借りて、淫猥にそこをまさぐりながら、指を中に潜り込ませた。指を前後させながら窮屈な孔をネチネチと広げて、粘膜を擦りあげる。内側をまさぐり、腹側にある敏感な膨らみを柔らかく撫でると、御堂の声に甘さが混じり、四肢が細かく引き攣った。

 

「ぅ……っ、あ…、んんっ」

 

 ゆっくりと時間をかけて、御堂の緊張を解しつつ、排せつ器官であるそこを、克哉を受け入れる器官へと変化させる。

 指を二本、三本と増やして、ぐちゃぐちゃと淫猥に出し入れを繰り返す。そして、指を引き抜いても御堂の窮屈な窄まりからとろりとオイルが滴るようになったころ合いで、身体の位置をずらした。爆発しそうなほどに大きく漲ったペニスの切っ先を御堂のアヌスに押し当てる。

 克哉の猛々しい凶器から逃れようと身体をずり上げた御堂を押さえ込んだ。御堂が息を詰めて、不安に揺らぐ眼差しで克哉を見上げた。

 

「佐伯……」

「御堂さん、心配しなくていい。今までで一番優しくしますから」

 

 そうは言いつつも、久々に触れ合わせる身体に自制の箍が吹っ飛びそうだ。御堂を安心させるように視線を合わせたまま、膝裏を鷲掴みにして、しっかりと持ち上げる。位置を合わせて、ぐうっと腰を押し込んだ。

 

「ぅっ、あ、あああっ!」

 

 もがく身体を押さえ込みながら、きつく舌を絡め捕って、悲鳴も一緒に吸い上げる。

 腰を小刻みに揺らして、粘膜の浅いところに自分の亀頭をぐりぐりと擦りつける。この身体を蹂躙しつくしたいという衝動と葛藤しながら、御堂の身体が克哉に馴染むまで、辛抱強く待ち続けた。身体の内側から感じる圧倒的な体感に、戸惑う御堂の吐く息に声が混ざり始める。

 

「ん……っ、ふ……、あぁっ」

 

 少しずつ腰の動きを大きくすれば、御堂の内側がいやらしく潤んで絡みついてくる。

 御堂の頭は克哉を忘れているにもかかわらず、御堂の身体は克哉をよく覚えていた。快楽に従順で克哉の行為に欲情を煽られていく。

 

「身体が……おかしいっ、ぁ、あ……、抜け……っ、佐伯っ!」

「俺を感じてください、御堂さん」

 

 嫌悪と快楽がせめぎ合う御堂の意識を自分に向けさせようと、上体を深く折って御堂の唇を食み、淫らに口内を舌でかき回した。自分の唾液を注ぎ込み、御堂がそれをこくりと飲み込むまできつく唇を押し付ける。

 息苦しいほどの強引なキスに、御堂の意識が白み、痺れた身体が柔らかく弛緩していく。

 深い官能を確かなものにしようと、克哉は巧みに腰を遣いだした。御堂の身体に教え込んだ自分の形を思い起こさせるように、執拗に中を抉る。角度と深度を変えては、御堂の反応を見極める。

 自分の腹で御堂の硬く勃ちあがったペニスを擦った。次第に激しさを増す挿入に、御堂が喘ぐ声を上げ始める。

 より交わりを深めるよう片足を抱え上げて、腰を深く挿し込んでいく。角度を変えて、はめ込んだ肉塊をぎりぎりまで引き抜き、奥まで亀頭で一気に擦る。息つく暇もなく御堂の快楽を追い立てていく。

 

「佐伯……っ、い、や、だ……、もお、ぁ、あっ、やめ…っ」

 

 きつく眉根を寄せる顔は辛そうなのに、それでも、快楽を滲ませていた。

 許しを乞う御堂の涙も汗も舌で舐めとりながら、燃え立つ肌を擦り合わせる。

 陰嚢同士が押し合うほど、根元まで深く収める。御堂の身体の真ん中を自分のモノで最奥まで貫きながら、内壁を先走りで濡らしていくと、粘膜がきゅっとねじれて、悶えるような快楽を巻き起こす。

 より奥へと克哉を貪欲に引き込もうとする御堂の身体に低く唸りながら腰を遣い続けた。

 

「ふ、かい……っ、佐伯っ」

 

 すすり泣く声を上げながら、御堂が背中にしがみついてきた。爪を立てられ、鋭い痛みが走る。互いの快楽を煮詰めて凝らせながら、昇り詰めていく。

 淫靡にわななく肉壁を小刻みに突き上げながら、射精へと向けた動きに突入した。

 御堂のペニスを掴んで扱き、先端の割れ目を指の腹で押し開く。

 

「……イく、さ…えき、あ、ああっ!」

 

 ひときわ高い声を出して、御堂が果てた。真っ赤に充血したペニスの先端からとめどなく精液がこぼれ落ちて、竿を伝い結合部まで濡らしていく。蕩けた中がぎゅっと引き絞られて、克哉も全身を震わせた。腰を前に突き出して、御堂の深いところに精液を注ぎ込んでいく。

 

「御堂、……あんたが好きだ」

「ぁ……っ、中に……っ」

 

 飾り立てのない愛の言葉と身体の奥底で感じる克哉の熱に、御堂が呻いた。長い射精で吐き出すたっぷりとした精液が結合部から溢れ出して、御堂の精液と泡立ち混ざりながら滴り、御堂の尻や太腿の内側を濡らしていった。

 つないだ身体を離したくなくて、御堂の中に自分自身を収めたまま、深く息を吐いた。御堂もまた、乱れた呼吸を整えながら克哉の背を撫でる手をほどこうとしない。首筋に優しく口づけを落とした。顔を上げれば、御堂と視線がつながる。

 

「何か、思い出しました?」

 

 一縷の望みをかけて聞いてみる。御堂は軽く首を振った。

 

「いいや」

「……そうですか」

「だが、どうやら私の身体は君を覚えているようだ、ということだけは分かった」

「それで十分です」

 

 ぎゅっと御堂の身体を腕に抱きしめた。御堂を根こそぎ奪いたいという渇望と、深く労わり守りたいという情が複雑に混じり合う。

 

「あいしてます、御堂さん」

「佐伯……」

 

 そう耳元で何度も囁くが、御堂の薄く開いた唇からは愛の言葉は返ってこない。それでもよかった。御堂が忘れてしまった以上に、愛の言葉を重ねたかった。その分だけ、見えない絆が深まると願って。

おやすみなさい、あいしてる。(4)

 昼食として部屋のキッチンで作った軽い食事を御堂と食べると、ふたりして施設周囲の林を散策した。

 湿った落ち葉の匂い、木漏れ日が風で揺らめく。葉と葉が擦れる音さえ、感じ取れるほど空気が澄んでいる。

 ここは、東京の喧騒では気付かなかった、透明でゆったりとした時間が流れる。野鳥の囀りに耳を傾けながら歩いていると、御堂がつぶやいた。

 

「早く仕事に戻りたくて、気ばかり焦るな」

「仕事の方は心配ありません。御堂さんが部下をしっかりと育ててくれたお陰で、社長と副社長が抜けてもちゃんと回せています」

「まあ、今の私が戻ったところで役に立たないだろうしな」

「仕事のことは考えるのをやめて、ふたりでゆっくりと過ごしましょう。こういう機会でもないと、こんな風に過ごせる時間なんてありませんよ」

「怪我の功名か?」

「俺にとってはそうですね」

「気楽なことだな」

 

 自嘲めいた顔をする御堂に冗談めかして返したが、何の慰めにもならなかったようだ。

 御堂は口を引き結んで表情を消した。柔らかな落ち葉を踏みしめて、克哉の一歩先を歩いていく。

 前を歩く御堂に視線を向けながら、歩調を合わせた。整えられた襟足から伸びる首筋のライン、そしてまっすぐな背筋。見慣れた後ろ姿だ。

 木々を通して和らいだ陽射しが御堂の髪に降り注いでは、つややかな黒髪を輝かせた。

 光を散らす後ろ髪に誘われて、手を伸ばした。御堂の髪の毛に指を這わせて滑らせた。そっと撫でる。

 

「――ッ」

 

 御堂の身体がびくりと強張り、動きを止めた。訝しげに克哉の方に振り返る。慌てて指を引っ込めて、言い訳めいた口調で言った。

 

「ゴミが付いていた」

 

 克哉の言葉に納得したようで、御堂は再び前を向いた。

 胸が軋む。

 目の前の御堂は、まったく変わらぬ御堂その人なのに、克哉と積み重ねた年月を全て失っているという残酷な現実を突きつけられる。

 ともに過ごした十年近い歳月。それを失ってしまった御堂よりも、その記憶を持ち続けている自分の方が苦しくてたまらない。

 

「御堂」

 

 行き場のない気持ちを抱える重苦しさに、低い声を出していた。御堂の手首を掴み、散策路から脇の林にずかずかと入っていく。

 

「おい……っ、何をする」

 

 抗議を無視してうっそうと茂る木々の木陰に御堂を引き込み、木の幹に御堂の背を押し付けた。

 強引な克哉の振る舞いに、御堂が惑う視線を克哉に重ねてきた。

 克哉をひとり置いて失踪した御堂を詰りたいのか、不治の病に苛まされる御堂に優しくしたいのか、いろんな衝動が混ざり合って、訳も分からぬまま、顎を掴んで強引に御堂に口づけをした。

 

「ん……っ、ふ…、んんっ」

 

 抵抗が出来ないように御堂の身体を木肌に押し付け、視界を塞ぐように迫る。唇を擦りつけ、それだけでは満足できなくて、切れ切れの吐息を漏らす唇の中に舌を入れようと舌先を唇の狭間に押し付けていると、御堂が口をわずかに開いた。そこから舌を挿し入れて、御堂の舌の先端に触れ合わせる。

 御堂の両手が克哉の項と後頭部に回された。ぐっと引き寄せられる。

 唇が深く重なり合って、舌がたっぷりと触れ合う。求められるキスに興奮が高まる。

 互いの舌を吸い上げ、唾液を啜る。何度も何度も、強く啜るうちに、触れる皮膚が熱っぽく湿り出す。

 昂りが満ちて更なる行為に及ぶ寸前に、唇が突然離された。舌を弾き出される。

 

「……んっ」

 

 突然の拒絶に目を開いて御堂を見れば、火照る頬とは対照的に御堂の眸が頼りなさげに揺らめいていた。掠れた声が周囲の空気を震わせる。

 

「佐伯、私は失った記憶を取り戻せると思うか? 不安になるんだ、このまま何もかも失ってしまいそうで」

 

 問いかけられた言葉に、胸が詰まった。

 残された者には残された者の苦しみがあるように、失った者には失った者の苦しみがある。

 どうしようもない現実に、御堂の深い孤独が伝わってきて、いたたまれなくなった。

 四柳の話、そして、今までの状況を鑑みれば、御堂が失った記憶を取り戻せる可能性は限りなく低いだろう。

 克哉はそれを知っているのに、決して叶えられることのない希望を御堂にチラつかせている。胸の内を後悔と罪悪感が立ち込めた。

 しかし、この場で正直に告げて何か変わるのだろうか。それこそ、御堂に絶望を押し付けて自分だけ楽になりたいというエゴに過ぎない。

 だが、自分は嘘を吐きとおせるのだろうか。

 みぞおちが痛くなる。告げることのできない大きな秘密。それが鉛のような塊となって、胃と喉を詰まらせているようだ。

 全てを打ち明けたい衝動に煩悶しながらも、それを顔に出さずに声を絞り出した。

 

「焦らなくていい。記憶なんて、また、一から積み上げていけばいい。大切なのは、過去じゃなくて、今日であり未来だろう。何度もキスをして、愛し合って、ふたりの思い出を作ればいい」

 

 そうして積み重ねた思い出は、一晩経てば砂上の楼閣のように風に攫われて跡形もなく消えてしまうのだ。それを知っていても、本人に告げることは出来ず、苦しさばかりが胸に募る。克哉の言葉に御堂が視線を落とした。

 

「そうだな。失ったことを嘆くよりも、新たに得る喜びを分かち合うべきだな」

 そう言いながらも御堂の顔は寂しげだ。

「あいしてます」

 

 何かを言いたげな御堂の口を愛の言葉で封じた。身体を密着させて、自分の欲情の兆しを押し付ける。御堂の眸がじっと克哉を見つめる。形の良い唇が開いた。

 

「私も、君が好きだ」

 

 そう答えた御堂が、本当に克哉のことを愛しているのか、それとも心許ない現実から逃れようと克哉の愛に縋りついているだけなのか、分からない。

 果てのない不安に包まれる御堂に対して克哉が出来ることと言えば、目先の快楽を与えることだ。

 それでも、今は、何もかも放り出して、このひとときの熱に溺れていたい。そしてまた、御堂も克哉と同様の気持ちの様だ。御堂の喉から漏れる声が甘く艶めく。

 部屋に戻って、再び御堂を抱いた。繰り返し繰り返し、愛を囁き続けながら、頭の中が白むほど果てる。それはまさしく愛を育む恋人同士の行為で、ひたすらに相手だけを視界の真ん中に置き続けた。

 気付けば日は落ちて、澄んだ大気の向こうに一面の星が輝きだした。

 だるい身体を起こしてベッドから抜け出すと、二人してキッチンに並んで、用意されていた食材を使ってパスタとサラダを作った。

 それを涼やかな夜の風に包まれるテラスに持ち込んだ。

 残念ながらこの施設にはアルコールの類は置いてないようで、ガス入りのミネラルウォーターを飲みながら、自然の中で食事を楽しんだ。

 自分たちふたりだけかと錯覚するかのような静かな夜で、心身が解されて、ゆったりとした流れの時間に浸る。

 食事を終えた後は、部屋に備え付けのバスに一緒に入った。

 介護の可能性も踏まえて設計されたバスルームは広々として、互いに身体を洗いあった後、御堂を後ろから包む形で同じ湯舟に浸かった。

 お湯を手で掬いながら、御堂が肩越しに振り返り、戯れに聞いてきた。

 

「私は何度、君に好きだと言った?」

「数えきれないくらい」

「では、君は何度、私に好きだと言った?」

「星の数ほど」

「どっちが多い?」

「俺ですよ」

「本当か?」

「ええ、御堂さん。……好きですよ、あなたのことが、大好きです」

 

 言葉とともに御堂の頬を挟んで唇を押し付けた。「ずるいぞ」と御堂が笑いながら呟いて、克哉の唇を受け止める。濡れたキスの音がバスルームに反響する。

 バスルームから出ると、バスローブを身にまとい、そのままベッドに直行して愛し合った。視線が重なるたびに、どちらともなく唇を合わせる。口許には常に安堵の微笑が浮かぶ。

 手加減なく突き付けられる現実が重く苦しいものだからこそ、愛を交わすこのひとときが美しく煌くのだ。

 何度目かに果てた後、寝室から窓の外を見ると、都会とは違う濃い夜が迫っていた。

 森が溶け込む真っ暗な闇。全てを塗りつぶす夜。

 今日一日で積み重ねたこの関係も、一晩経てば御堂の中からきれいに拭い去られてしまう。

 心が深く沈んでいく。どれほど関係を一から築いたとしても決して報われることはない。

 このままずっと、御堂のところに滞在する心持ちでここまで来た。

 しかし、こうまでして抱き合って愛を確かめ合った男が、一晩で消え失せてしまう。そのどうしようもない現実に、心が散り散りに切り裂かれそうだ。

 それだけではない。一日一日、御堂の身の内から色々なものが零れ落ちていき、克哉の手の届かない過去へと引き戻されていくのを、なす術なく見続けることしかできないのだ。

 肌を合わせて感じる体温が、急に空々しくしく感じた。

 

――それなら、いっそ……。

 

 乱れた呼吸に胸を荒く上下させる御堂の首に、抱きしめる体を装いながら指をかけた。

 暗い眼差しを向けた。声が闇を震わせる。

 

「……このまま、ふたりで死のうか」

 

 薄い皮膚に指が食い込む。御堂は小さく呻いたが、抵抗する素振りを見せることなく、瞼を静かに押し上げて、克哉に視線を合わせた。

 

「ああ……。いいよ、佐伯」

「ッ……!」

 

 御堂の迷いのない表情と言葉に我に返り、指先から力が抜けた。星一つない真っ暗な夜を湛えた眸が、揺らぐことなく克哉を映しとった。克哉を恐れることも責めることもしない、哀しみを湛えた表情が向けられる。

 

「私が失った記憶の中には、君とたくさんキスして愛し合って、色々な経験を分かち合った思い出があるのだろうな」

「御堂さん……」

「すまない、佐伯。私一人だけ忘れてしまって。君のことを忘れて、君を傷つけてしまった」

 

 目が熱くなって痛くなる。それを悟られないように、咄嗟に顔を背けた。

 

「違うんだ。俺の方があなたを傷付けてきた」

 

 絞り出す声は揺らいでしまう。その震えが全身に伝わって、身体が崩れ落ちてしまいそうだ。

 

「これは俺への罰かもしれない。あなたから愛される資格を俺は失ったんです」

 

 克哉の言葉に、御堂はいくらか落ち着いた声音で返した。

 

「君は、何を後悔しているんだ?」

「全て、です」

 

 始まりも、途中途中も、そして、今この時も。後悔は常に付きまとっている。

 苦渋に満ちた顔を伏せる克哉の頬に、あたたかな体温が触れた。御堂が大きな手を添えて、克哉の顔を上げさせた。

 

「では、一からやり直そう。君がそう言ったんだ」

 

 至近距離にある黒々とした眸。濡れそぼったそれが、近づいてくる。そっと目を閉じる。唇に柔らかな弾力を感じた。

 御堂はいつだって克哉を無条件に受け入れてくれる。

 どの瞬間を切り取っても、御堂は御堂であり続けているのだ。どれほどこの男に支えられてきたのだろう。

 甘やかなキスなのに、狂おしいほど胸を締め付けた。

 夜が怖い。

 この温もりを逃したくない。ぴったりと隙間を作らないように御堂に身体を添わせた。

 

 

 

 その夜は、風も穏やかで、星が瞬く音さえ聞こえてきそうな夜だった。

 ひと時も離れたくなくて、ベッドの上で常に身体のどこかを重ねながら、他愛のないおしゃべりをする。会話が尽きると相手の身体をまさぐりあってくすぐったりして、笑い合う。

 このまま、時間が止まってしまえばいいのに、とさえ思う。それが無理なら、地球の裏に隠れた太陽が爆発してこの世界が滅びてしまえばいい。そうすれば、今この瞬間は永遠になる。そんなことを考えていると、御堂が顔を上げて、壁に掛けられた時計を確認した。

 

「もう、こんな時間か」

 

 そう呟くと、御堂は枕もとの灯りをつけて、ベッドサイドチェストに手を伸ばした。メモ帳とペンを手に取る。

 今日の日付を確認してメモ帳の一番上に書き込み、続けて何かをつらつらと書き綴る。脇から覗き込んだ。

 

「何を書いているんですか?」

「日記だ」

「日記?」

「この部屋にはノートの類がなくてな。取り寄せてもらおうと頼んだのだが、それまでの間はメモ帳を日記代わりにしようと思って」

「へえ」

 

 細かな字で書きこまれているメモに焦点を凝らした。

 

《私は、交通事故で記憶を失ったらしい。リハビリのためにこれを記す》

 

「几帳面だな。あなたらしい」

 

 克哉の言葉に御堂はペンの動きを止めずに、小さく笑う。

 

《私の最後の記憶は、MGNの部長として新規飲料の開発に取り組んだところだ》

 

 小さなメモ帳に、日付と自分の最後の記憶を書き込んだ後、簡潔に今日一日の出来事が書き込まれていく。真剣な表情で取り組む姿はとても神聖な行為のようで、その作業を邪魔しないように見守った。

 少しして、御堂はペンを置いた。今日の記憶が記されたメモを破って切り取る。

 

「どこに仕舞っておこうか」

 

 御堂はメモ用紙を片手に部屋の中を見渡した。そうして、一カ所に視線を留めた。ベッドから立ち上がって、寝室に置かれているデスクへと足を向ける。

 その迷いない一連の動作にハッと気が付いた。

 御堂は記憶を失っても御堂なのだ。

 となれば、御堂がこんなことを始めたのは今日が初めてであるはずがない。御堂はそうと覚えてないだけで、昨日も一昨日も、同じことをしていたはずだ。

 御堂を引き留めようとベッドから飛び出した。

 

「御堂、待て!」

 

 克哉が声を上げた直後、御堂の手がデスクの引き出しを引いた。中には御堂が片手に持つメモ用紙と同じものが幾多も乱雑に放り込まれている。御堂の手が引き出しの中に突っ込まれる。呻く声が響いた。

 

「どういう……ことだ、これは?」

 

 引き出しから取り出したメモには、どれも異なる日付が記されている。

 だが、書き出しの一文はどれも同じだ。

 

《私は、交通事故で記憶を失ったらしい。リハビリのためにこれを記す》

 

 御堂は狂ったように引き出しをひっくり返す。

 昨日の日付、一昨日の日付、そして、一週間前のものも。しかし、そのどれもが、御堂が交通事故から意識を取り戻したところから始まっている。そして、次の一文には、自分の最後の記憶が記されている。それは、日付が進むごとに過去へと遡っていた。

 

「なんだ、これは……っ!」

「御堂!」

 

 御堂の声が焦りと怖れの色に染まる。一枚一枚メモを引っ張り出しては文面を見て、投げ捨てていく。

 その手を押さえようとしたが振り払われて、たまらずに背後から両腕を回して抱きしめた。御堂は、渾身の力で克哉を振りほどこうとする。それをしがみつく勢いで押さえつけた。

 もつれあいながら、ふたりしてベッドに倒れこんだ。

 はあ、はあ、と荒い息が静寂に満ちた部屋に木霊する。御堂が唸った。

 

「君は嘘を吐いたな。私は交通事故になんかにあってない。事故で記憶を失ったわけではない」

「……」

「私は記憶を失う病気なのか」

「……」

 

 沈黙は何よりも雄弁だ。

 いくら記憶を失っていっても、御堂の聡さは変わりなく、全てを察したようだった。御堂の身体の力がくたりと抜ける。

 怒りも絶望も何もかも呑み込んで、御堂は引き攣れるように笑った。

 

「私は新しいことを覚えることも出来ずに、どんどん記憶を失い、過去に引き戻されていっているのだな」

「……っ」

「この世界から一人、置いてかれているのか」

「違う!」

 

 思わず荒げた声に、御堂が驚いて顔を向けた。

 

「あなたに置いていかれたのは俺の方だ。これは、俺への罰なんです」

「罰?」

 

 苦痛に満ちた克哉の顔を目にして、御堂は幾分冷静さを取り戻した。怪訝に聞き返す。

 

「あなたが、この病気になる直前、俺たちは喧嘩をしたんです」

「喧嘩を?」

「どうでもいい、些細なことだった。それなのに、俺はあの時、あなたに向き合うことも、一言謝ることも出来なかった。そして、俺は、あなたをひとり残して出て行った」

 

 過去から押し寄せる怒涛の後悔と、自分に対する行き場のない怒りに、言葉が震える。自分を殴りつけたい衝動を堪えようと拳を握りしめた。

 

「あの時のあなたはもう何処かに行ってしまった。俺に対して怒っていただろうし、もしかしたら、飛び出していった俺を心配していたかもしれない。それだけじゃない。あなたがこんな病気を発症したとき、俺は傍にいなかった。あなたは今みたいに不安だっただろうし、怖かっただろう。俺はそんなあなたを見捨てて、勝手なことをしていたんだ」

 

 あの時、御堂の前から逃げ出さずにちゃんと向き合っていれば、病気の発症を防げたのかもしれない。この病気の前では、誰もどうしようもなかった、そうは頭では理解できても、あの時の自分の行動に対する悔恨は決して拭い去ることは出来ない。

 

「俺はどこまでも身勝手だった。一度あなたを酷いやり方で捨てたのに、あなたは俺を追いかけてきてくれた。だが俺はそんなことさえ忘れてしまった。その報いを今、受けている。あなたは俺を捨てて、俺の届かないところへ行こうとしている。全て、俺が悪いんだ」

 

 吐き捨てるように言った。自分自身に対する怒りが抑えきれなくて、漏れそうになる嗚咽を堪える。御堂の顔をまともに見返すことが出来ない。

 重く張りつめた空気を、御堂の静かな声が割った。

 

「そんなことを後悔しているのか、君は」

 

 事もなげなように言う御堂に驚いて顔を向けた。克哉を見つめる御堂の顔は、先ほどまでの混乱が消え失せて、どこまでも穏やかだ。

 

「私の病気を知ってもなお、君はここまで私を追いかけてきてくれたのだろう。……ありがとう、佐伯」

 

 克哉の後頭部に手が回されて、御堂が額を合わせてくる。少し温度の違うふたつの体温が混じり合う。

 

「私は、君を愛している」

「御堂……」

「この気持ちも一晩で消えてしまうのかもしれない。それでも……」

 

 言葉を切って、息を大きく吸う。克哉に向ける眼差しにありったけの想いが籠る。

 

「たとえ、未来の私と今日の私が消えたとしても、過去の私が残っている。未来の私が愛した君だ。きっと何度でも君に恋をする」

 

 くだらない心配をする恋人をたしなめる表情で、御堂は言い聞かせた。

 御堂の濃いやかな優しさが胸に沁みていく。

 全てを悟った上でなお、御堂は気丈に振る舞う。そんな御堂を前に自分のちっぽけさを思い知らされて、克哉は力なく笑った。

 

「あんたを支えようと思ってここまで来たのに、励まされているのは俺なのか」

「……佐伯、頼みたいことがある」

 

 唐突に聞こえた強い声音に顔を上げれば、ひどく真剣な眼差しが克哉を見据えていた。

 

「人は二度死ぬんだ。一度目は肉体が死んだとき、二度目は忘れ去られたときだ」

「忘れ去られたとき……」

 

 その言葉にまじまじと御堂を見てしまった。

 

「私は未来に向かって君とともに歩んでいくことは出来ない。だが、君は私を覚えていてくれ」

 

 残酷な現実がふたりを分かつ。辛さを噛みしめながら御堂が克哉に伝える。

 

「過去に縛られてはいけない。それでも、私を忘れないで欲しいんだ。……私は君を忘れていくのに、勝手な願いだが」

「あんたを忘れることなんてしない。決して出来ない」

 

 切実な重みを持った言葉。それをそのままに受け止めて、真摯に返せば御堂も微笑んだ。

 

「私だって君を忘れたくない。だから、私の身体に君を刻み付けておく」

 

 御堂が克哉と体の位置を入れ替えた。膝を立てて、克哉の腰を跨ぐ。自分の脚の間にある克哉のペニスを掴み、自分のペニスと重ね合わせた。ぐちゅぐちゅと音を立てながら、まとめて擦りあげる。

 そうして、克哉のペニスにしっかりと強度を持たせると、腰を浮かせて位置を調整した。狭い尻肉の狭間にペニスを挟み、窄まりに克哉の先端を当てる

 

「御堂……、まさか」

「ああ、佐伯、お前が欲しい」

 

 確認する声に頷いて、御堂は場所を定めながら腰をゆっくりと下ろしていく。

 

「ん……、ぅ、うう……」

 

 ペニスにぐっと圧がかかる。御堂のアヌスは克哉を受け入れようとじわじわと綻んでいくが、それでも、自らペニスを含むということに戸惑っているのか、中が締まって結合を深めることが出来ない。

 

「力を入れるな。口を開けて、大きく息を吐け」

「く……、う、ああっ!」

 

 克哉に促されて、御堂は意識して緊張を緩め、腰の位置をずらした。それで、上手く角度がはまったらしい。ずぶり、と亀頭の部分が中に入り込んだ。

 先端の張り出しが粘膜を抉りながら、奥へと向かう。

 熱い粘膜にぎゅうぎゅうに締め付けられて、克哉は喉で唸った。

 御堂の身体は先を急こうと焦り、そして苦しさと圧迫感に力を漲らせる。開きかけた唇をきつく噛みしめて、無理にでも克哉のペニスを呑み込もうと悪戦苦闘しだした。

 

「御堂」

 

 深い声で御堂の名を呼びながら、片手を突いて上半身を起こし、御堂の下唇に、とん、と自分の人差し指を置いた。

 固く瞑っていた目がうっすらと開いて、克哉を見る。

 

「舐めて」

 

 指先で唇を押し開き、閉じた歯列をなぞる。御堂がそろりと口を開いた。濡れた舌が克哉の指先をくるむ。

 

「そのまま、俺の指を舐めてろ」

 

 ぴちゃぴちゃと音を立てて指先を舐め上げられる。克哉の指を舐めているうちに、御堂の全身に張りつめていた緊張がやわらいだ。

 他方の手で御堂の臀部に手を添えて、ゆったりと撫で上げる。御堂の力が抜ける。ずるっと身体が落ちた。

 

「あ、あああっ!」

 

 克哉のペニスが身体の中心を押し拓きながら貫いていく。

 

「んんっ、くる……しっ! ぅ、大き…っ」

 

 不安定な声を伸ばしながら、御堂は身体を支えようと克哉の肩にしがみついた。身体が強張る。

 じっと身体を動かさずに口の中に含ませた人差し指をそのままにしていると、御堂が再びしゃぶりだした。

 体内が不安定に波打ちながら、克哉を咥えこむ。軽く腰を揺すると、更に御堂の腰が落ちた。

 

「く……ぅ、あ、ああ」

 

 根元まで克哉のペニスを含み、克哉の腰の上に御堂の尻肉が押し潰される。

 

「動けるか?」

 

 喘ぐ口に咥えさせた指を動かした。口蓋をくすぐり、舌の柔らかな粘膜を擦る。そうしているうちに、少しずつ御堂の腰が動き出した。

 腰が揺らめき、自分の粘膜に克哉のペニスを擦りつける。頼りない動きだったそれが、次第に大きくなって、上下の動きを伴う。

 指を口から抜いて、御堂のわき腹に両手を添えた。御堂の身体を支えれば、御堂が動きを大きくする。御堂の粘膜が絡みつき、くねりながら克哉の男を食い締めていく。

 

「いいぞ、持ってかれそうだ」

 

 ぎこちなかった動作が、徐々にしなやかで激しいものとなる。御堂の身体が覚えている快楽を煽り高める動きだ。少しでも気を抜けば、貪欲で淫乱な身体に、食い尽くされてしまいそうだ。

 

「孝典」

 

 ひたむきに腰を振り立てる御堂のペニスに指を絡めて扱きながら、名前を呼んで顔を寄せた。自然と御堂の顔も寄せられ、それでも届かない距離を埋めようと舌を出す。その舌を唇で挟んで吸った。

 互いの本能の赴くままに、懸命に求めあう。口と結合部で感じる熱をもっと感じようと、忙しなく腰を振っては、舌を擦り合わす。昂りが極まっていく。

 

「克哉……」

 

 欲情が滴る声が克哉を求める。

 ぞっとするような甘美な感覚が全身を駆け巡った。

 体内のペニスがぐっと張りつめる。御堂の腰の動きに合わせて、大きく突き上げた。

 御堂の身体が持ち上げられて、その反動で落ちてくる。これ以上ないくらい、つながりが深まった。

 

「ふ……、あああっ!」

 

 その衝撃に、御堂が喉を反った。ほぼ同時に欲情を放つ。御堂の白濁が克哉の胸から腹へと散らされた。

 御堂の身体から力が抜けて、ぐったりと倒れこんでくる。それを受け止める克哉もまた、限界だった。ふたりしてベッドに沈み込んだ。

 腰をずらして、ずるずるとつながりを解いたが、指一本動かすのも億劫だ。少しでも気を抜くと眠気が襲ってくる。それは御堂も同様だろう。

 顔をシーツに伏せたままの御堂にそっと顔を近づけると、気配を察してこちらを向く。自然と唇が重なる。ゆるく唇を触れ合わすキスを繰り返していると、御堂の手が克哉の眼鏡に伸びた。眼鏡を外される。

 御堂がほんの少し顔を離して克哉の顔をじっと見つめた。

 

「どうした? 俺に見惚れたか?」

「自惚れるな」

 

 克哉が軽口を叩くとすぐさまきつい一言が返ってくる。つかの間、顔を見合わせて、ふたりで笑いあった。

 御堂は眼鏡を片手に持ったまま唇を押し付けてくる。眼鏡がない分、接近するキスを堪能する。まるでいつかの夜の様だ。

 キスを交わす吐息に紛れて、聞こえるか聞こえないかの声音で御堂は小さく呟いた。

 

「目を閉じるのが怖い。眠ってしまったら、この私はどこに消えるのだろう」

 

 自分という存在が消えてしまう。そんな、夜の闇に潜む底知れぬ恐怖を、御堂はたった一人で毎晩、耐えてきたのだ。喉元にまで熱い想いが込み上げる。

 

「俺がついている。ずっと傍にいる」

「佐伯、ありがとう」

 

 それだけ言うのがやっとだったが、御堂は安堵したような吐息を零した。

 今度は自分が御堂に寄り添う番だ。克哉から離れていく御堂を、どこまでも追っていきたい。御堂はずっと克哉の横で克哉を支えてくれた。自分を見失いそうになった時も、御堂がいたからこそ、克哉は立っていられたのだ。

 だから、克哉も御堂に添い遂げたかった。

 あと数時間でこの御堂は消える。跡形もなく。

 胸が苦しくてたまらない。自分が御堂にできること全てをやり尽くしたい。

 無意識に呟いていた。

 

「あなたと一緒に消えることが出来たらどれほどいいか」

「ありがとう、佐伯」

 

 大きな手が克哉の頭を挟み込んできた。きつく唇を奪われる。

 

「だが、君は、明日の私のために取っておく」

 

 克哉の気持ちが御堂に伝わったのだろう。眠たそうな顔で微笑んで、御堂は克哉をぎゅっと抱き寄せた。

 

「君は、未来から来た私の恋人なんだろう?」

「ああ、そうだ。あんたをどこまでも追いかけていくさ」

「よろしく頼む」

 

 御堂が手に持っていた眼鏡を克哉にかけ直した。長い指が眼鏡のテンプルを辿りつつ、後頭部まで伸ばされ、克哉の髪を優しく梳いた。その他愛ない仕草に、心が切なく揺れた。

 滲んだ視界の中に、ずっとずっと愛しく思ってきた顔がある。克哉をこの世界に繋ぎ止めてくれた大切な人だ。

 この人の願いを叶えてあげたい。純粋にそう思う。

 克哉もまた、御堂の髪を指で撫でた。触れるか触れないかの柔らかさで御堂の髪を梳く。

 その感触に御堂は、くすぐったそうに表情を緩めた。頭を動かさずに克哉の好きにさせる。

 克哉に完全に心許す反応に、胸がじんわりと熱くなった。

 失われた十年近い歳月。それをそのまま取り戻すことは出来ないだろう。だが、この一日で、ここまで御堂との距離を縮めることが出来たのだ。

 克哉と御堂の間には、記憶に頼るだけではない、そこに確かな絆が結ばれている。そう信じたい。

 今度は、克哉が御堂をこの世界に繋ぎ止める番だ。御堂が克哉を忘れても、克哉は胸の内に御堂との思い出をひとつひとつ積み重ねていく。

 御堂に寄り添い続けて、御堂がこの世界に存在したという証に、自分がなるのだ。

 この御堂はもうすぐ消え去り、そして、あくる朝、過去の御堂が蘇る。

 御堂は消滅と再生を克哉の腕の中で繰り返していく。

 

「おやすみなさい、孝典。あいしてる」

 

 耳元でそう告げて、御堂の唇にそっとキスを落とした。

 いやらしさのない、相手を支えたいという精一杯の想いをこめた純真なキス。受け止めた御堂の唇が柔らかな弧を描く。

 御堂もまた、あたたかな唇を重ねてくる。

 交わしているキスをほんの一瞬解いて、御堂が囁いた。

 

「おやすみ、克哉。君を心からあいしている」

 

 視界が滲んで輪郭を失う前に、そっと目を閉じた。

 夜が迫る。

 忍び寄る闇から守るように御堂を抱く腕の輪に力を込めた。

 

 

 

 高原の朝の、透明な空気が漂う。林に響く鳥の声と暖かな日差しに、克哉は目を覚ました。

 昨夜、固く抱き合って眠りに落ちたものだから、目と鼻の先に御堂の顔があった。腕の中で御堂がぴくりと動く。

 寝ぼけた御堂が目をしばたたかせ、克哉に焦点を合わせる。

 

「誰だ?」

 

 しばらくじっと克哉を見つめたが、記憶は何の手がかりも与えてくれなかったらしい。

 自分と周囲を見渡して、見知らぬ相手と裸でベッドで抱き合っている状況を認識したようだ。克哉に向けられた眸にみるみると不審の色が混ざる。

 やはり、昨日の記憶は何もかも失ってしまったのだろう。そして、この一晩で御堂はどれほど過去に戻ってしまったのか。

 失望めいた寂しさがさざ波のように胸の中に広がっていったが、それをおくびにも出さないようにして、微笑みを口許に残したまま、御堂を抱く腕に力を籠めた。

 

「おはようございます、御堂さん」

「何をする! んっ……」

 

 挨拶と共に唇を押し付ける。腕の中で暴れる御堂を押さえ込みながら、たっぷりとキスを交わす。

 拒絶の声も抗いも、唇を強く吸い上げることで黙らせる。

 顎を掴んで、長く伸ばした舌で熱い口内をまさぐり、敏感な上顎の粘膜を舌先で擦りあげる。歯列を丁寧になぞって、御堂が好むキスを繰り返し、口の中の性感帯を、御堂の身体に思い起こさせる。

 抵抗がなくなるまでしつこくキスを繰り返すほどに、御堂の身体の昂りを感じ取る。酸素が足りなくなってきたところで、御堂を解放した。

 乱れた息を吐きながら、御堂が克哉の胸を力任せに押し返す。

 

「何をするんだ! 一体、誰なんだ、君は!」

 

 険を含んだ眼差しを向けられる。それを、余裕の笑みで返した。

 

「俺は、未来から来たあなたの恋人です」

「何?」

 

 呆気に取られて丸い目を向けてくる御堂に顔を寄せて、もう一度、克哉は優しいキスをした。

 

 

END

(4)
bottom of page