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余暇のすすめ 温泉旅行

「痛い!きついっ!佐伯っ!」
「御堂さん、もう少し静かにしてくれませんか。どこまで縛ったか分からなくなるじゃないですか」
 御堂が矢継ぎ早に叫ぶ声に、克哉は眉間の皺を深くした。
 それでも、御堂は黙り込んだりなどしない。口を閉じれば、今、この場で行われている行為を受け入れていると克哉に勘違いされかねないからだ。断じて本意などではない。
 克哉のせいで、御堂はとても他人に見せられない格好――克哉と二人きりのときは大抵そのような姿だが――になっていた。天井の太い梁から垂らしたロープに上半身裸の状態で括られて、吊り下げられている。
 全身を緊縛され、白い肌に食い込む朱色の麻縄が妙に扇情的だ。
 事の発端は、御堂の不用意な一言からだった。
 大きなプロジェクトを、コンペを勝ち抜いて獲得し、無事に契約まで済んだ夜。かかりきりだった仕事に一区切りをおいて、二人で食事をとった後、克哉の部屋のリビングでワインを開けた。
 グラスに注がれた赤ワインの芳醇な香りと深い味が達成感とともに高揚感を彩る。
 上機嫌に浮かされながら、プロジェクト受注のお祝いに、と前置きしてその言葉を口にした。
「佐伯、何か欲しいものはあるか?」
「それは、ご褒美、と受け取っても?」
「……ああ」
 克哉がまっすぐな眸を御堂に向けた。その全てを見透かすような眼差しに、とくんと鼓動がはねて、微かに視線を外した。
 そうですね、と克哉が口の中で呟く。小首を傾げて考える仕草に、肌がうっすら湿り気を帯びる。
 どんな要求をされるのだろうか。
 こういう時の克哉の要求は、大抵、御堂が嫌がるような淫らな内容で、ここぞとばかりに無茶な要求をしてきたりする。
 それでも、あえて御堂がそれを口にしたのは、御堂自身が克哉に飢えていたからに他ならない。特にここ数週間は克哉のプロジェクトへの打ち込みぶりは凄まじく、部屋には短時間の仮眠とシャワー、そして着替えのためにしか戻ってこなかった。
 ご褒美だのなんだの言い訳をつけて、あけすけに克哉を求めることが出来ない性格は自覚している。だが、30年以上、こうやって自分自身を硬い鎧で覆って生きてきたのだ。今更、そう簡単に性格を変えることは無理だ。
 克哉が考え込む僅かな時間に、周りの空気の密度が増したようだ。その間(ま)に耐え切れずにグラスに残っていた残り少ないワインを飲み下した。御堂がそのグラスをセンターテーブルに置くのを見計らって、克哉が口を開いた。
「それなら、今度の週末に、箱根に温泉旅行に行きませんか」
「温泉旅行?」
 意外な克哉の申し出に驚く。克哉が口元ににっこりと笑みを刷いた。
「ええ、実は、このプロジェクトが一段落したらお祝いを兼ねて一緒に行こうと、宿を予約していたんですよ」
「一体、いつの間に」
 克哉が口にした旅館は、箱根の中心から少し離れたところにある有名な高級旅館で、全室離れの部屋でそれぞれに専用の湯舟がついている。有名人の利用も多いという隠れ宿だ。
 予約も取りにくいことで有名で、聞けば、今回のコンペティションに参加を決めたときに手配をしたそうだ。克哉の頭の中では、そのコンペを勝ち抜き契約を無事に終えるところまで、その時点で決定事項だったのだ。相変わらずの自信過剰っぷりではあるが、実際その通りになったので、感嘆せずにはいられない。
「久々に二人でゆっくりできるオフですし、喧騒から離れて静かに過ごしませんか」
「佐伯……」
 胸の奥底から熱いものがこみ上げてくる。
 てっきり克哉がいつもの通り淫らな要求をするものだと想定し、またそれを心の奥底で期待していた自分の浅ましさがいたたまれなくなる。
「温泉は嫌いですか?」
「まさか」
 本来なら、プロジェクトのリーダーだった克哉を慰労するのは御堂の役目だろう。だが、克哉はごく当然のように、自分よりも御堂に対して気を配り、それを気取ることもしない。
 胸の内を占める感情に言葉を失う。そんな御堂の胸の内を知ってか知らずか、御堂の反応を伺うような克哉の言葉を慌てて否定した。
「ですが…」
 御堂に注がれた克哉の淡い虹彩が濡れそぼって、深みを増す。グラスのステムに添えられた御堂の手に克哉の手が重なった。
「それとは別に今夜は期待してもいいんですよね」
 色気が滲む低い声が耳朶を舐める。体温がじわりと上がったのはアルコールのせいだけではない。熱い体温がゆっくりと近づいて、ワインで湿らせ唇が重なった。

 そして迎えた週末。温泉宿は想像通りの落ち着いた趣で、日本庭園を眺めながら純和風の造りの離れに案内される。ぴんと張り詰めた清廉な空気と葉が擦れる音さえ伝わる静寂、部屋に入れば、古い建物にも関わらず、敷き詰められた畳は新しく、イグサの香りが煩くない程度に漂う。そして、部屋の向こうに、美しく整えられた日本庭園と、お湯が沸き出る音とともに半露天の湯舟が備えられている。
 窓から見える山の風景や庭に視線を遊ばせながら、ほう、と感嘆の息をつくと、隣で克哉も、思った通りだ、とぼそりと呟く。
 胸に沸き立つ期待を悟られないように、気持ちを抑えながら克哉を見遣れば、なぜか克哉の視線は天井の一点に固定されていた。その視線を辿ると、和室の天井を横切る頑丈な梁。長い年月にわたってこの建物を支えてきた風格と風合いを兼ね備えている。
「佐伯。何を見ているんだ?」
「あの梁ですよ。思った通り、丈夫そうだ」
「建築に興味があるのか?」
 そんな話は初耳だし、そんな素振りさえ見たことはない。克哉も首を振った。
「いいえ。建築に興味はありません」
「はあ?それなら、なんだ?」
「俺へのご褒美ですよ、御堂さん」
 ニヤリと克哉の顔に悪辣な笑みが浮かんだ。ぞくりと嫌な予感が胸を過ぎった。
 

 後ろに回った克哉が股間の縄をぎゅっと締め上げた。堪らず声を上げる。
「その縄はやめろっ」
「どの縄ですか?」
「今、足の間に通した縄だ!!」
「ああ、股縄ですか。でも、これがないと雰囲気でないですし。それにズボンも履いてるじゃないですか」
 何が不満なんだ、とでも言いたげな克哉に怒りが込みあがる。
 全裸ではなく、かろうじてズボンを履いているのは、克哉の自分への気遣いなどではない。自ら必死に守り通した権利だ。全裸に剥かれて縛りあげられそうになったところをがむしゃらに抵抗した。そんな御堂を「俺にご褒美くれるって言ったじゃないですか」と克哉は言葉巧みに言い含め、撮影しないこと、上半身しか脱がないことを条件に渋々承諾したのだ。
 克哉のことだ。宿の予約を取った時点で、プロジェクトの成功から、御堂がご褒美を口にするところまで計算ずくだったに違いない。
 その克哉の思惑にまんまとはまってしまった自分の迂闊さが悔しい。だが、それ以上に、旅行前の浮き立った気持ち、二人で過ごす休暇への期待、そして、それを御堂の知らぬうちに手配してくれた克哉への感謝、それらを全て踏みにじった克哉の罪は許しがたい。
 少しはこの怒りを思い知らせてやろうと、背後に回っている克哉に向けて片足を大きく蹴り上げた。その瞬間、つま先立ちの高さに吊られていたため、バランスを崩してぐらりと身体が揺れる。
「うあっ!」
「おっと、危ないじゃないですか」
 御堂が後ろに蹴り上げた足を克哉に掴まれて、抱えられる。揺れた弾みで肌に深く食い込んだ縄にうめき声を上げた。
「これは、足も縛って欲しいというおねだりですか?」
「馬鹿言えっ!これ以上、お前のくだらん趣味に付き合ってられるか!」
 続けざまにボキャブラリー豊かに克哉を罵倒するも何ら影響を与えないようで、克哉は含み笑いを零しながら、御堂の右足を折った状態で縄で戒めた。
「何をするっ!」
 これで、御堂の身体を支えるのは、天井から吊られた縄と辛うじて床につく左足だけ。不安定な体勢を保とうと、左足のつま先に力を込めた。
 満足のいく仕上がりになったのだろう。克哉が御堂から離れて、全身を舐めまわすように見渡した。
「いい格好ですよ、御堂さん。とても素敵でそそられます」
「ああ、そうか。それなら、次はお前を縛らせろ」
「…それは、また、いつかの機会に」
 半ば自棄になって返した言葉もやんわりと躱される。
 じっとりと粘ついた視線が御堂を炙っていく。その熱っぽい眼差しにじりじりと肌が焼かれ、火照りだす。その熱を抑え込もうと声を荒げた。
「もう十分だろう。降ろせ」
「撮影させてもらえないので、しっかり目に焼き付けているんですよ」
 そう言いながら、克哉が縄に沿って手で尻から背中を撫で上げた。縄がずれて赤い痕となった縄目を指でつうとなぞる。
 その触れ方は愛撫にも似た巧みな手つきで、触れられた部位から凝った熱が生み出されていく。
 指は張り詰めた筋肉の筋をたどり、胸へと伸ばされた。硬くなった乳首をぴんと爪弾かれる。
「く、あっ」
「すっかり乳首を硬くして。随分とその気になっているじゃないですか」
「佐伯っ!」
 喉で笑いながら、克哉がしつこく乳首を捏ねだす。痺れが生まれ、下腹部の奥に重い熱が溜まりだす。淫猥な指から逃げようと、緊縛された身体をのたうたせたが、到底逃れることは叶わない。
 このまま一方的に、高ぶらされてはたまらない。
 いい加減にしろ、と克哉に向かって本気で怒鳴ろうとしたとき、深く体を折った佐伯に唇を塞がれた。
「んんっ。ふ……っ」
 開きかけた唇を、吐息ごと貪るかの勢いで吸い上げられた。濡れた音を響かせて、口内の柔らかい粘膜を舐めあげられ濡らされていく。舌を絡められ、唾液を啜られた。
 時間をかけて執拗なキスを繰り返されながら、胸をいじくられる。克哉に対する怒りも抗う気持ちも、意識の端からゆっくりと溶け去っていく感覚に陥った。代わりに、じれったい疼きが身体の中を支配する。やっと唇を解放されたときには、酸素不足に喘いでいた。
「佐伯、苦しい」
「何がです?」
「前が、苦しいんだ。縄を解いてくれ」
 眦をほんのり朱に染めて懇願すると、克哉がちらりと御堂の股間に視線を送った。布の上から縄で押さえつけられているので、見た目には明らかではないが、その中は張り詰めて縄が当たる窮屈さに痛みさえ感じる。
「前だけじゃないでしょう」
 くすりと笑って、克哉が股縄を手で掴み、揺さぶった。
「あああっ」
 股間に食い込んだ縄の振動が、性器から双丘の狭間にダイレクトに伝わる。その刺激に身悶えた。
「このまま、挿れてあげましょうか」
 耳元でささやかれた低い声に、ぞくりと身体を震わせた。
 背後に佐伯が回り込む。視界から佐伯が消えて、不安と期待に鼓動が忙しなく打ち始める。
 ズボンに佐伯の手がかかった。
 そして、次の瞬間、佐伯の呟きに耳を疑った。
「…あれ?どうやって脱がすんだ?」
「いいから、縄を解け!!」
 ズボンを切り裂くなどという危険な解決法を克哉が思いつく前に、あらんばかりの大声をあげて不埒な恋人を怒鳴りつけた。

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