
Tomorrow Sky
「喘息の子どもたちは色んなところで我慢を強いられています。そんな子どもたちを救ってやりたいのです」
バイオ医薬品のベンチャー企業であるキョウカ・バイオの社長、村上康雄(むらかみやすお)は自社の社長室で熱っぽく語った。
社長室は雑多な書類が溢れていて、応接セットも革張りのソファではあるものの、テーブルや部屋のファニチャーとの一体感がなく、応接室として客人を迎えるには疑問が湧く仕様だ。社長の村上も作業着に白衣を羽織ったままで、白髪が混じる髪はぼさぼさ。研究室からそのまま出てきたような出で立ちだ。
だが、AA社のクライアントの多くを占める中小企業はえてして似たようなものだ。逆に、無駄なところに経費を割いていない分、好印象ともいえる。
テーブルを挟んで向かい合った御堂は、身を乗り出すようにして村上の話に熱心に聞き入る一方で、隣りに座る克哉は深く腰掛けながらソファの背もたれにもたれて、手にした資料を無表情にめくっている。
今回のクライアントはバイオ製薬を手がける新興企業だ。
社長の村上は東慶大の研究室で研究一筋に生き、その分野では名が知られた研究者だったが、突如、研究室を飛び出し、自分で事業を立ち上げたという。
キョウカ・バイオが最も力を入れている事業が、新しい喘息治療薬の開発だ。治すことが難しいという喘息を根本的に治癒させることが出来るという、今までの喘息薬の概念を覆るような画期的な新薬であるらしい。科学技術の専門的な話は理解が難しかったが、それでも村上の話を聞くうちに胸に高揚感が湧きあがってくる。
薬の技術的な背景について饒舌に話を進める村上に、克哉が唐突に口を挟んだ。
「社長、大変結構なお話ですが、ご高説はそれくらいで。早速、本題に入りますが、当初の成長戦略が大分遅れていますね。利益も計画を大きく下回っている。収支を見ると、開発費に多大な金額が投入されている。これは本当に必要な経費ですか?」
村上の話を聞き流しながら、克哉は三期分の決算書に目を通したらしい。御堂の咎める視線を無視して克哉が厳しく指摘すると、村上の頬が紅潮した。
「それは、この喘息治療薬の開発にお金がかかって……」
先ほどまでの勢いが萎み、言葉尻が消え入るようだ。
「志の高さだけでは、会社経営は出来ません」
ぴしゃりと言いきる克哉に、真っ赤になっていた村上の顔がみるみるうちに色を失う。
顔面蒼白になる村上を目にして、御堂は慌てて言葉を被せた。
「我々にお任せください。御社の経営状態を改善し、この薬が早く世に出るように協力します」
「ありがとうございます!」
村上は表情をパッと明るくし、深々と頭を下げた。御堂の隣では、克哉が聞こえよがしのため息をつく。まだまだ追及し足りないらしい。
悪化しそうな雰囲気を和らげようと、御堂は部屋の中に視線を走らせて、本棚に飾られている写真に目を留めた。
「あちらの写真はお嬢さんですか?」
まだ黒髪の若々しい村上と妻であろう女性が、笑顔を弾かせる女の子と共に満面の笑みで写真の中に納まっている。微笑ましい家族写真だ。御堂の言葉に村上は照れたように頭を掻いた。
「あ、ええ。私の娘の今日香(きょうか)です。……享年七歳でした」
「………っ」
付け足された言葉に、御堂は言葉を失い、社長の言葉に克哉は資料に伏せてた目を上げた。
「まさか、娘さん……」
「重症の喘息発作で亡くなりましてね。もう十年も前の話です。それがきっかけでこの会社を立ち上げました」
「そうでしたか。……もしや、会社名はお嬢さんの…」
「ええ、娘の名前から付けました。娘と約束したんですよ。私が娘の喘息を治す薬を作るって。残念ながら間に合いませんでしたが……。私にとってはこの会社は子どものようなものです。この会社で開発した薬が、娘のような喘息の子を救うことが出来れば娘の本懐だと思うのです」
「その夢の実現に弊社は協力いたします。必ず、この薬を世に出しましょう」
「どうか、よろしくお願いいたします」
力強く言い切る御堂に、村上はもう一度、テーブルに頭が擦れそうなほど頭を深く下げた。
キョウカ・バイオを辞してタクシーでAA社に戻るがてら、克哉は後部座席に並んで座る御堂に向けて呟いた。
「御堂さん、何か、あったんですか?」
唐突に問いかけられた克哉の言葉に、御堂は訝しげな視線を返した。
「……何か、とは?」
「いつものあなたらしくなかった」
「私らしくない?」
「随分と感情が入りすぎていたように見えた」
克哉の言葉に息を詰め、ややあって、ひとつ、大きな息を吐いた。
「私も子どもの頃、喘息だったんだ」
「喘息?」
「ああ、今は治ったが。当時は喘息発作で何度も入院したし、それで運動会や修学旅行を諦めなくてはいけなかった。だから、村上社長やお嬢さんの気持ちを考えると胸が詰まった」
そこまで言ったところで、横で黙って聞いている克哉に居心地が悪くなり、湿っぽくなった空気を切り替えた。
「佐伯、キョウカ・バイオの決算書、どう思った?」
「問題点が多いな。利益の割に債務が多すぎる。村上社長は研究者としては一流かもしれないが、経営者としては二流以下だな。そして、これ……」
身も蓋もない物言いに続けて、克哉が手元のタブレットPCを操作して、別の資料を引っ張り出した。手渡されて覗き込む。克哉が、別ルートで集めた資料のようだ。その一部を指差す。
「キョウカ・バイオは幾つかの銀行や投資会社から融資を受けている。ここ最近、キョウカ・バイオへの融資、すなわち債権を買い集めている会社が存在する」
克哉の指先が示す先を目線で辿る。そして、目を見開いた。
「これは、クリスタルトラストじゃないか!」
「ああ、クリスタルトラストはこの会社を狙っている。間違いないだろう。近いうちに何かが起きる」
クリスタルトラストが絡んだ案件は一筋縄ではいかない。不穏な予感が脳裏で発火した。
事態は数日も経たないうちに動き出した。村上から急ぎの連絡が御堂の元に入ったのだ。
『クリスタルトラストという投資会社の方が弊社に来まして』
「クリスタルトラストですか。それで?」
案の定来たか、という緊張が声に滲まないようにして、村上に話を促した。
『M&A(合併・吸収)を持ちかけてきたんです』
困惑した態で言う。M&Aとは企業の売買のことだ。
「買収先はクリスタルトラストですか?」
『いいえ、外川薬品が弊社の買収を希望していると。クリスタルトラストはその仲介をしたいとのことです』
「外川薬品だと……」
外川薬品は国内の大手製薬会社だ。キョウカ・バイオの身売りをクリスタルトラストは迫ったのだ。
喘息治療薬、そして外川薬品。製薬業界の内情は、MGN時代に頭に叩き込んである。クリスタルトラストの思惑を瞬時に悟った。そして、村上もまたその意図を理解していたようだ。憤然としたように言う。
『そんな話、当然断りましたよ。ですが……』
「クリスタルトラストはなんと?」
『買収を断るなら、融資を全て引き上げると言われました……』
クリスタルトラスト側の担当者の名前を聞くと、予想通り『澤村紀次』との返答だった。
ギリっと奥歯を噛み締める。
今のキョウカ・バイオにとって、クリスタルトラストが握っている融資が全て引き上げられたら、会社の存続は絶望的だ。
電話を切ると、息つく間もなく、クリスタルトラストの資料を引っ張り出して、澤村に連絡を取った。
御堂の名を名乗ると、澤村は意外な人物からの連絡に驚きつつも、電話を切ることはなかった。
『ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです』
人を食ったような丁寧な物言いにイラつきながら、厳しい口調で口火を切った。
「澤村、キョウカ・バイオへの買収提案、どういうつもりだ?」
『ああ……、おたくもキョウカ・バイオに関わっていたんだ。それは、無駄足でしたね。話は聞いたと思うけど外川薬品がキョウカ・バイオの買収を望んでいる。利益率の悪い会社だが、高く評価されているんだ。良かったじゃないか。大手の資本が投入されれば、あの社長も経営に頭を抱えることなく、自分の好きな研究が出来る』
「嘘を吐くな」
白々しい澤村の言葉に厳しく吐き捨てた。
「調べたが、クリスタルトラストの大口の出資者にラッシュ社の名前がある。そして、外川薬品はラッシュ・グループ傘下の企業だ。外川薬品のキョウカ・バイオの買収目的は、新薬潰しだ」
スイスに本社を置くラッシュ社はMGN社と同じ、国際的な製薬企業だ。製薬企業の世界売上高トップ3に入る規模で、その売り上げの一角を喘息薬が担っている。喘息に対する治療薬という側面から見ると、喘息薬シェアの過半数をラッシュ社とその傘下の企業の製品が占めているのだ。
キョウカ・バイオの薬が開発されれば、今まで治らなかった喘息が完治してしまう。そうなれば、喘息薬の売り上げは激減してしまう。それを回避するために、ラッシュ社は外川薬品にキョウカ・バイオを買収させ、新薬の開発そのものを潰そうとしているのだ。
「お前の目的は村上社長にもバレている。こんな買収、承諾出来るはずがない」
御堂の言葉に、電話口の向こうでクスっと漏れた笑いが響いた。
『別に、買収を断ってもいいよ。その際は融資を引き上げるだけだ。そうなったら、キョウカ・バイオはどうなる? 経営破綻するよね。新薬の開発どころではなくなっちゃうね』
沸き立つ怒りを無理やり抑え込んで、低い声で言った。
「澤村、お前はこの薬の価値が分かっているのか? お前がやろうとしていることは倫理にもとる」
『僕は薬については門外漢だからね。正直よく分からないし、分かる必要もない。だけど、クライアントがキョウカ・バイオを望んでいる。そして、それがクリスタルトラストにとっても益となる。それだけのことだよ。僕に怒るのは筋違いだ。無能な経営者に対して文句を言うべきだよ。それじゃあ、また。克哉君によろしく』
それだけ言って澤村は電話を切った。悔しいが、澤村の言う通りだ。キョウカ・バイオが利益を上げ続けていれば、銀行も投資会社もキョウカ・バイオへの融資、いわゆる債権をそう簡単にクリスタルトラストに手放すことはなかったはずだ。御堂たちは出遅れた。
この買収が成功してもしなくてもクリスタルトラストの目的が達成される。計算されつくした卑劣なやり口だ。
非情な澤村の言葉に不通音が鳴る電話を握りしめる手に痛いほどの力が籠った。
「厳しいな」
御堂の報告を受けて、一言、克哉は呟いた。
クリスタルトラストが握っている融資、これがなくなるのは今のキョウカ・バイオにとって致命傷だ。御堂は、克哉に決算書の数値を示しながら言った。
「引き上げられる融資分を早急に補填する手配が必要だ」
「銀行からの融資は期待できると思うか? まず、無理だろう」
克哉が冷静に返す。
融資の引き上げにより会社の運転資金に大きな損害が出る。その分を穴埋めするために同額以上の借金、すなわち融資が必要になる。
だが、キョウカ・バイオにとってこれ以上融資の担保となるような資産はない。そして、借金の穴埋めのための融資は銀行にとっては、事業拡大のための融資とは違う、”後ろ向き”の融資であり、積極的に融資したい類のものではない。
「……他の投資会社を探すとか」
御堂の提案に克哉は首を振った。
「クリスタルトラストがキョウカ・バイオを狙っているということは既に知れ渡っている。将来性の分からないこの会社のためにクリスタルトラストを敵に回そうとする投資会社がいるとは思えないな」
克哉の言葉は正しい。呻くように言った。
「我が社がいくらか融資するのは……」
「いつから、我が社は経営コンサルティング業から投資業に鞍替えしたんだ」
呆れるように克哉が言う。
「キョウカ・バイオにも社員はいるし、その家族がいる。彼らの生活を考えるのなら、この買収話に乗るのが一番だ」
「馬鹿を言うな! この薬がこのまま失われてもいいのか!」
「御堂、落ち着けよ。新薬のパテントは外川薬品が持つことになるが、無くなるわけじゃない。この薬が本当に革新的な薬なら、いずれはこの薬も市場に出るさ」
「それは今の薬が売れなくなった時だな。一体いつの話だ? それまでに何人の患者が無駄に苦しむんだ」
既存の薬の売り上げが落ちていったときを見計らって、新薬を投入する。わざと新薬の発売を遅らせることで売り上げを維持する。大っぴらにやれば非難を受けるが、製薬企業のれっきとした経営戦略のひとつだ。
克哉は気色ばむ御堂を前にして、ひとつ息を吐いた。
「あんたの気持ちは分かるが、今大事なのはこれ以上の債務を増やさないことだ。あんたの話では社長は買収話に乗る気はないんだろう? ……事業を整理するなら早いうちがいい。傷口を広げる前に、きれいに倒産するべきだ」
戦うことを最初から放棄した克哉の言葉に、御堂はバンと勢いよくデスクに手を突いた。
「何とか事業を存続させて見せる」
そう言い切って、御堂は克哉に背を向けて、執務室から出ていった。
克哉の大きなため息が背後に響いた。
それから数日、御堂は村上とともに、いくつもの銀行や投資会社を回った。
だが、どこの銀行も投資会社も手ごたえはなかった。克哉の言った通りだ。クリスタルトラストの提案に乗るように勧められることもしばしばだった。
融資してくれる会社を探して何社も巡り疲労がかさむ。日が暮れるころには村上は寂しそうにつぶやいた。
「やはり、新たな融資は難しいのかもしれませんね……」
「まさか、クリスタルトラストの提案を受ける気ですか?」
「それはありません。この薬を患者に届けるのは娘との約束ですから。石に噛り付いてでもどうにかします」
力強く返された言葉に、ほっと胸を撫でおろすも、どうすればこの状況を打開できるのか、まったく道は見えなかった。
「万策尽きたな……」
AA社の執務室で力なく吐いた言葉に、克哉はキーボードを叩く手を止めて、御堂に顔を向けた。克哉の視線を感じながら、言葉をつなぐ。
「……私が喘息で何度も入院したということは以前、話しただろう。喘息で入院すると、酸素や点滴に繋がれて、病室のベッドから動けないんだ。だから、病室の窓から空を眺めるくらいしかすることがない。日がな一日、無為に空を見て過ごすんだ」
喘息発作が起きた時の胸に重しを乗せられたような苦しさ、弱音を吐けば家族が苦しむことが分かっていたから、何も考えないようにして病室の窓の向こうの空を見続けた。当時のやるせない気持ちが呼び覚まされる。
くるりとチェアを回して、執務室の壁一面を覆う窓から空に視線を投げた。秋の空の透徹した青。その青さが網膜に沁みていく。
「クリスタルトラストの提案は到底受け入れられない。その気持ちは村上社長と一緒だ。だが、融資を引き上げられて事業を存続させる方法が見えない。どうにか出来ないか、佐伯」
普段、弱気を見せない男が吐いた弱音に克哉がすっとデスクから立ち上がった。
「あなたは冷静な判断が出来ていない。この件は、俺が引き継ぎます」
「どうする気だ?」
克哉に一縷の望みをかけて聞いてみるが、克哉は静かに首を振った。
「どうしようもありません。俺が引導を渡します。喘息の患者は大切だが、それ以上に、キョウカ・バイオが抱える社員やその家族も大切だ。クリスタルトラストの提案を断るなら、倒産しかない。倒産するなら早い方がいい。それを村上社長に説得する」
「そうか……」
克哉の言葉に肩を落とした。やはり、克哉でも打開策は見つからないのだ。
しかし、克哉の言う通り、自分はキョウカ・バイオに入れ込み過ぎているという自覚はある。冷静で客観的な判断が出来ているのか自信がない。
感情に任せるな、とは御堂が常々言ってきた言葉だ。キョウカ・バイオの件は克哉に託すことが正解なのであろう。
「佐伯、よろしく頼む」
無力感に打ちひしがれながら、執務室を出てキョウカ・バイオへと向かう克哉の背を見送った。
数時間後戻ってきた克哉は、村上への説得に成功したという。
自分の娘の名を付けた会社を倒産させるのは辛い選択であっただろう。だが、新薬を売り渡して開発の可能性を一切合切失うよりも、会社を倒産させることを村上は決断した。
それからほどなくして、キョウカ・バイオはクリスタルトラストの買収提案を断った。クリスタルトラストは宣言通り全ての融資を引き揚げた。こうして、キョウカ・バイオは資金繰りの悪化により倒産した。
だが、克哉の言った通り、債務を膨らませる前に倒産したこと、そしてまた、御堂が企業法務に長けた知り合いの弁護士を紹介したことにより、倒産の手続きはスムーズに進み、解雇された社員にも当面の生活費として幾何かの退職金を渡すことが出来たという話を伝え聞いた。
それでも、敗北感は色褪せることなく、空を見上げたふとした瞬間にキョウカ・バイオと村上父娘のことが苦い気持ちと共に思い起こされるのだった。
キョウカ・バイオが倒産して数か月後のことだった。終業時間を過ぎたころ、ひょっこりと村上がAA社を訪ねてきた。驚きつつも応接室に通して、克哉と共に向かい合うと、村上は深々と頭を下げた。
「御堂さん、佐伯さん、その節は大変お世話になりました」
「いえ、こちらこそ大したお力になれずに申し訳ございません」
あの時の悔しさを呼び覚まされて、御堂は端正な顔を歪めながら頭を下げた。だが、帰ってきたのは意外な言葉だった。
「とんでもありません。お二方のおかげで、新しい事業を明日から立ち上げることになりました」
「え……?」
驚く御堂に村上は名刺を出した。そこには『アスカ・バイオファーマ』の会社名と社長村上康雄の名前が書かれている。
「キョウカ・バイオの社員全員、新会社で雇い入れています。……あの時、佐伯さんに倒産を説得してもらって良かったです。キョウカ・バイオを失うことにはなりましたが、事前の手配によって新会社を素早く立ち上げることが出来ました」
「それはおめでとうございます」
意味が分からず目を瞬かせて克哉を見ると、克哉は全てを承知しているようで表情を変えることなく、にこやかに村上の話を聞いている。
「あの時、教えてもらった通りに、資金を別名義の口座に移して帳簿を……」
「村上社長、待ってください。俺は、そういう事例もありますよ、と世間話をしただけです」
「あ、そうでした。すみません」
村上の言葉を慌てて遮った克哉に、村上は苦笑いしながら頭を掻いた。
理解が追い付かない御堂を残して、克哉は村上に神妙な面持ちで言った。
「キョウカ・バイオが倒産したのは残念ですが……」
「いいえ、佐伯さん。娘の遺志はアスカ・バイオファーマに引き継がれています」
「もしや、アスカの名は……?」
「ええ。漢字では”明日香”と書きます。喘息で入院するたびに、今日香がよく言ってたんです。『きっと明日は今日よりも良い一日になるよ』って。今日から明日へ、未来へと想いを繋いでいるんです。今度こそ、新薬の開発を成し遂げてみます」
固い信念を言葉に滲ませる村上の顔には、まさしく娘への思慕と哀愁が宿っていた。村上という人間の強さを亡き娘が支えていることが垣間見えた。
村上が帰り、二人だけ残されたAA社を静けさが満たした。村上が置いていった名刺を手に、眦を吊り上げて克哉を睨み付けた。
「佐伯、お前は村上社長に計画倒産を指示したな」
「人聞きが悪い。指示はしていませんて。ケチがついた今の会社を捨てて、新しい会社を立ち上げる提案をしただけです。再起を図るなら早いうちがいい」
再建の意志を持って計画的に倒産を行うのは許される。だが、クリスタルトラストの執拗な攻撃を避けるため、再建計画をギリギリまで隠し通したのだ。しかも、先の村上の話では、帳簿に乗らない裏口座への資金移動など、あの実直な社長が思いつかないようなことを事前に行っていたらしい。詐欺まがいの行為だ。そして、それを耳打ちしたのは克哉に間違いない。
倒産が避けられない会社をあえて捨てることで、素早く再起を図る。そのために必要な資金調達のため、キョウカ・バイオからの水面下の資産移動を、克哉が村上社長にこっそりと提案したのだ。
克哉が口許に不敵な笑みを浮かべる。
「アスカ・バイオファーマへの投資元も信用が置ける投資会社や投資家を厳選した。債権をそう簡単に譲り渡したりしない。クリスタルトラストが再び狙おうとしても、もう無理だ」
クリスタルトラストはまさかこうも早くキョウカ・バイオが社名を変えて再建したとは想定していないだろう。事情を知った澤村が臍を噛んで悔しがる顔が目に浮かぶ。
経営コンサルティング会社がクライアントに計画倒産を指示するなど、表沙汰になったら大問題になりそうだが、今回の件に関しては克哉の行動に目を瞑ることにした。
「全く、君には驚かせられる」
唇を綻ばせて言うと、克哉は悪戯っぽい視線を向けた。
「あと、もう一つ。その信用が置ける投資家の一人はあなたですよ、御堂さん」
「私が?」
驚いて聞き返す。
「あなたの名前でアスカ・バイオファーマへの出資を行いました。あなたは今日から投資家です。この会社の成長を見守ってやるといい。俺からのプレゼントだ」
克哉が告げた投資金額を聞いて目を剥いた。克哉の年収分に匹敵する額が御堂名義でアスカ・バイオファーマへ出資されていたのだ。「これからしばらくは節制しないとな」そう呟いて笑う克哉の顔に、御堂を驚かせてやったという無邪気な高揚感が滲んでいる。
胸に込み上げる熱い想いを噛みしめながら言った。
「お前はいつだって私に最高のプレゼントをくれる。ありがとう、佐伯」
「お礼はいつものでいいですよ」
そう御堂の耳元で囁く克哉に、周囲に素早く目を走らせると克哉の口を唇で塞いだ。
窓から見える空は陽が落ちて、微かな星の光が瞬きだしている。
明日はきっと、いい一日になるのだろう。
END