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All I Need Is You

『All You Need Is Survive』の書き下ろし長編『All I Need Is You』のサンプルです。

第一章をサンプル公開いたします。本編を読んでいないと話の筋が分かりません。

『All You Need Is Survive 第7章 正しい選択』の克哉視点のお話です。

書き下ろし長編になります。

ーあらすじー

御堂によって、恋人同士になったという事実を消され、過去を改変された克哉。そうと気付かず一人きりで生きていた。

だが、時折、御堂と二人で過ごす甘い記憶がよみがえる。御堂とは他人同士のはずなのに、この記憶はなんなのか。

強い既視感に苛まされる日常、ふとした瞬間に紛れ込んでくる存在しないはずの記憶。

自分に何か起きたのか、それとも起きなかったのか。真実はどこにあるのか。

存在しない何かを追い求める日々を過ごす克哉。だが、桜が舞い散る公園で、事態は急転した。

第一章 アクワイヤ・アソシエーション

 重たい灰色の雲が低く垂れこめる冬の日、道行く人々は吹き付ける凍えたビル風を耐え忍ぶように首を竦めていた。

 この日、佐伯克哉は一年ぶりに御堂と再会した。

 ビルのエントランスから出た克哉は、足を止めて振り返った。目の前にそびえ立つオフィスビルは一面のガラス窓に空を映しとって暗い灰色に染まっている。そこに御堂はいた。

 どれくらいの間、ビルを眺めていたのだろう。白いものがちらつき始めて、克哉はようやく我に返った。

 未練の塊を振り払うようにして、踵を返した。アスファルトは寒々しく、靴底を通して冷気が這い上ってくる。

 独りきりの帰路は侘しく、見慣れた景色なのにどこか違って見えた。克哉は立ち止まり、あたりを見渡した。色彩のない空疎な世界が克哉を取り囲んでいる。今まで通りの代わり映えしない世界だ。それなのに何か大切なものを置き忘れてきたような、たとえようもない不安に包み込まれた。

 こんなにも落ち着かないのは、御堂に出会ってしまったからだ。

 克哉は心のざわつきにそう説明をつけて納得しようとしたが、途方もない喪失感に包まれた。

 自分は何か大切なものを失ってしまった。

 それは一体何だったのか。

 いくら考えても、克哉はそれを思い出せなかった。

 

 

 

 朝の光に誘われて、揺蕩う意識が次第に形を成してくる。四肢の隅々まで神経が行きわたり、感覚が研ぎ澄まされていくこの時間。眠りから覚め、瞼を開くまでの空白。その意識の間隙に克哉は存在しないはずの光景を視る。

 目の前に男がいた。克哉に何事か話しかけてくる。克哉を見詰める黒い眸に宿しているのは憎しみでも怒りでもなく純粋な愛おしさで、克哉に向けられる柔らかな微笑みからも、この男は克哉を愛していることが分かる。

 

『佐伯、吸い過ぎではないか?』

 

 長い指が、克哉が咥えていたタバコを摘まみ、灰皿へと放った。克哉はその指の優雅な動きを目で追いながら、言う。

 

『口が寂しいんですよ』

『タバコの吸い過ぎは健康によくないぞ』

 

 嗜(たしな)める声に、挑発する目つきを返す。

 

『そうですね。キスしてくれたらタバコを控えてもいい』

 

 男は克哉の言葉に目を瞠った。怒り出すのかと待ち構えていたが、そうはならなかった。男の顔が寄せられ、克哉の唇に唇が強く押し付けられる。相手の体温をもっと味わおうとしたところで、唇が離された。

 

『これでいいか?』

『これだけじゃ、全然足りない』

『強欲な奴だな』

『そんなこと、とっくに知っているでしょう? 御堂さん』

 

 御堂孝典は、克哉の言葉に呆れたように笑い出した。そんな御堂を克哉はレンズ越しに見つめ続ける。不意に御堂の双眸がいたずらっぽく眇められた。微笑みの形の唇が押し付けられる。克哉は目を瞑り、柔らかな唇をたっぷりと堪能した。

 

 

 

「――ッ」

 

 克哉は重い瞼を押し開いて、部屋の中に満ちる眩い陽射しから顔を背けた。

 

 ――まただ。

 

 また、あの夢を見た。

 御堂との甘やかな時間。二人で過ごす日常。

 夢と一言で片づけるには妙にリアルで、感情が揺さぶられる。

 克哉はマットに手を突いて上半身を起こすと、夢の余韻を振り払うように頭を振った。睡眠時間は必要なだけ取っている。だから寝起きは悪くないはずなのに、思考はすっきり晴れず、身体も重い。まるで幸福な夢を見た分、現実世界に馴染むことを心身が拒否しているかのようだ。

 御堂が出てきて、まるで克哉の恋人のように振舞う夢。

 有り得ない出来事だと分かっているのに、覚醒直前の意識の間隙に入り込んでくるこの夢は、克哉の心を激しくかき乱すのだ。

 こんなことが起きだしたのは、あの日からだった。L&B社で御堂に再会した日からだ。

 克哉はまだ重たい瞼を手の甲で擦りながらベッドから起き上がり、ベッドサイドに置いていた眼鏡をかける。そして、胸の中を一掃するほどの大きなため息を吐いた。

 

 ――俺も未練がましい。

 

 あの冬の日、克哉は御堂に再会したことで、どれほど自分が御堂を想い焦がれていたか再認識させられた。

 MGN社が企画したショッピングモールのコンペ、そこにL&B社は応募してきた。その提案書を書いたのは御堂だった。その事実を、克哉は、契約のためにL&B社に訪れるまで知らなかった。

 L&B社で出会った御堂の姿を思い出した。克哉と初対面を装うよそよそしい態度。「初めまして」と口火を切ったのは克哉だ。だが、自分で突き放しながらも、御堂もまた克哉に対して他人行儀な態度であったことに少なからず衝撃を受けた。

 しかし、思い返せばそれも道理だ。御堂にとっての克哉は災厄以外の何者でもなく、一切関係を持ちたくない相手だろう。相手の社長も交えて、淡々と契約の確認をしている最中、何度か御堂の視線を感じた。克哉が当時のことを変に持ち出さないか気にしていたに違いない。だから、御堂を安心させるために、克哉は無視を貫き通した。そして、最後まで御堂と克哉は全くの他人同士の関係のまま面談を終えた。

 契約を終え、克哉がL&B社が入るオフィスビルを出た時には、あたりはすでに暗くなり、冬の冷たい夜が降りてこようとしていた。克哉は、歩みを止め、振り返ってビルを見上げた。フロアの階数を数え、先ほどまで自分が居た応接室があるフロアに視線を止めた。電気が点いている部屋がある。あそこだろうか。

 

 ――御堂……。

 

 克哉はこのプロジェクトの契約を最後にして、MGN社を辞めるつもりだった。だから、もう御堂と一切関わることはない。そう一言、話のついでにでも教えてやれば、安堵しただろう。

 しかし、疑問は残る。

 

 ――そんなに俺が嫌なら、どうして、あのコンペに関わったんだ。

 

 社長の要請であればコンペに出ざるを得ないのは分かる。しかし、一切表に出ないまま企画書を作り上げることも可能だっただろう。そうすれば、最初から最後まで克哉と御堂は顔を合わすことさえなかったはずだ。御堂は自らの意思で克哉の前に現れたとしか思えない。そこに何らかの意図はなかったのだろうか。

 そう思惟を巡らせようとして、克哉は小さく笑った。

 御堂の一挙一動にさえ、何かしら深い意味があるのではないかと勘繰ってしまう。

 何もかも、過ぎたことだ。

 これ以上御堂に関わるべきではない。克哉と御堂は他人同士に戻ったのだ。

 そう自分に言い聞かせようにも、足が縫い付けられたようにL&B社の前から動けなかった。もしかしたら、最後にひと目御堂を見ることが出来るかもしれない。そうこうしているうちに、視線の先にある部屋の電気が消えた。それでも、一縷の望みをかけて、窓を見つめ続けた。だが、日も落ちて、暗い室内は地上から眺めても判然としなかった。

 不意に、頬に冷たい感触を感じた。

 周囲を見渡せば白いものがふわりふわりと舞い落ちてきている。雪が降りだしたのだ。これ以上、ここに居ても仕方ない。克哉はひとつ息を吐いて自分自身を笑い飛ばすと、ようやくその場を立ち去った。

 その日、自宅へと帰った克哉はまったく眠れなかった。自分が想像していた以上に、御堂との再会に衝撃を受けたらしい。動揺する心を落ち着けてようやく意識が沈みかけたところで、克哉が見た夢は淫夢としかいいようのないものだった。それも、御堂と激しく愛し合っている夢だ。

 夢の中で克哉と御堂は気持ちを通じ合わせ、互いの愛を確かめていた。L&B社から帰ろうとしたときに、御堂に引き留められ、告白されたのだ。本格的に降り出した雪の冷たさを感じながら、熱いキスを交わした。

 その夢があまりにもリアルで色鮮やかで、目を覚ました時に、どうして隣に御堂がいないのか、そして、どうしてここがホテルの部屋でないのか、不思議に思ったほどだった。

 こうやって夢の内容を一つ一つ思い返すたびに、克哉はいたたまれなさに自分を殴りつけたくなる。あれほどの酷い状態で放り出した御堂が自分を追いかけてくるなんて、どれほどご都合主義な展開を望んでいるのか。自分自身にあきれ果てる。

 

「所詮、夢は夢だ」

 

 自分に言い聞かせるように呟いた。単なる夢、それ以上でもそれ以下でもない。現実にはあり得ない、克哉には無縁の世界。だが頭の中ではどんなことさえ自由だ。

 こうして、御堂との再会を自分なりにケリを付けようとした克哉だったが、そんな決意を嘲笑うかのように、それからも、御堂と二人で過ごす夢は、事あるごとに克哉の前に現れた。

 それは何も寝ているときだけではない。起きているときでさえ、ふとした弾みで現実以上の鮮明さで脳裏に展開される。現実を踏みしめていたはずの意識が、気付いた瞬間にはその夢に囚われている。

 夢の中では常に、克哉と御堂は恋人同士だった。なおかつ、仕事上のパートナーでもあった。夢は必ずその前提で話が進む。まるで、別の世界に生きている自分たちをのぞき見している気分になる。

 そんな心の奥底に押し込めた願望が克哉の頭の中には無数に眠っているらしい。そうした夢が現れるたびに克哉はひどく心をかき乱されて、夢と現実の落差に落胆させられる。

 夢の中の自分は、たとえようもなく幸せだった。まさしく、夢見心地の気分だった。それが、目が覚めた瞬間に、現実に引き戻される。克哉はたった独りで生きていて、腕の中にあるはずの温もりは幻だったと思い知る。現実に戻るたびに、高いところから突き落とされる感覚に呆然とした。

 思えば、御堂を解放したときから、克哉は黒とも白ともつかない世界に生きていた。少しでも気を抜けば暗い世界へと滑り落ちていただろう。だが、辛うじてこの地上に踏みとどまっている。

 胸躍らせるような喜びもなければ、打ちのめされるような落胆もない。仕事は簡単すぎて、やりがいなどなかった。だから刺激を求めてMGN社を辞め、コンサルティング会社を起ち上げた。一人で起ち上げた会社だ。日々の忙しさは想像以上で休む間もない。だが、それを辛いと感じたことはなかった。逆に、仕事の中に身を置くことによって感覚を麻痺させてきた。それなのに、御堂の夢が現れるようになってから克哉の日常は一変した。

 濃淡も明暗もない単調な灰色の世界に生きることが決して不幸せなのではない。色彩溢れる世界を見せびらかされ、そして、それが決して自分の手の届かぬところにあると思い知らされることが辛いのだ。

 決して叶うことのない夢。最初から自分の手の中になかったし、期待などもしていなかった。それでも人は失うことが出来るらしい。あの夢はざらついたような喪失感を克哉の心に残していく。

 しかし、あの夢が及ぼす影響はそれだけではなかった。繰り返される御堂との夢は、克哉が生きるこの現実世界に少しずつ、侵食してきていた。

 克哉が社長を務めるコンサルティング会社の社名はAcquire Association(アクワイヤ・アソシエーション)という。その社名を決めたきっかけは御堂が出てくる夢だった。

 年の瀬も押し迫ったその日、会社を起ち上げるための登記の書類を前に、克哉は自室のデスクで悩んでいた。社名が決まらないのだ。いくつか候補は考えていたが、どれもしっくりこない。大事な社名だ。適当に決めて後から変えるということは出来ない。

 

「どうするか……」

 

 そう呟いた時だった。

 

『どうした、佐伯?』

 

 背後から声がかかった。振り向くと、御堂がいた。肩越しに克哉の前に置いてある書類を覗き込んでくる。間近に御堂の顔がある。真っ直ぐな鼻梁に切れ長の双眸。鋭い美貌は華やかでありながら、人を寄せ付けない冷たさを併せ持つ。

 驚きに鼓動が早鐘を打ち出す。だが、克哉は御堂の存在をさも当然のように受け容れ、言った。

 

『社名が考えつかないんだ』

 

 虹彩まで塗りつぶされた黒一色の眸が克哉へと向けられた。

 

『それなら……私が考えようか』

『何か良い案でもあるか?』

 

 御堂はほんの少しの間考え込み、そして口を開いた。深みのある声が克哉の鼓膜に心地よく響く。

 

『……そうだな。アクワイヤ・アソシエーションなんてどうだ?』

『Acquire(アクワイヤ)……勝ち取るか』

『世界を手に入れる君にふさわしい名前だろう?』

 

 御堂の口元が挑発的な笑みを刷いた。途端に、孤高の美貌が艶やかさを纏う。

 その顔に思わず見とれてしまいそうになるが、克哉はアクワイヤ・アソシエーションと呟き、口の中で転がしてみた。良い響きだった。英語の綴りも、頭文字のAがふたつ並ぶのは洒落ている。アルファベットの最初の文字が立ち並ぶ姿は、まるで自分たち二人のようだ。

 

『気に入った、それを社名にしよう』

『そんなにあっさり決めてしまっていいのか?』

『悩んで決めても同じ結論になるさ、きっと』

 

 克哉はペンを手に取ると、ささっと『アクワイヤ・アソシエーション』と社名を書き込んだ。そうして立ち上がり、御堂の身体を抱き寄せる。腕の中で御堂が窮屈そうに身じろぎをした。だが、それは克哉への拒絶ではなく、反射的な筋肉の緊張だ。その証拠に御堂の手が克哉の背にそろそろと回され、身体がさらに密着した。服の布地越しに御堂の体温を感じる。その熱を逃さぬよう、克哉は腕の輪をさらに狭めた。互いの視線が絡みあい、唇に吐息がかかる。

 

 

 

 ……そこで克哉は我に返った。

 目の前には白紙のままの書類。念のために部屋の中を見渡す。当たり前のことだが、御堂の気配はどこにもなかった。

 ペンを握る手がじっとりと汗をかいている。それは、あまりにも生々しかった。かけられた声も、向けられた眼差しも、抱き締めた身体のしなやかな筋肉も。すべてが、いましがたの出来事のようにリアルな感覚で記憶に残っている。

 今のは、白昼夢だったのだ。

 そう、自分に言い聞かせる。そして、動揺している自分を落ち着けるためにペンを置き、デスクの上に置いてあったタバコを手に取ると、火を点けた。

 胸いっぱいにタバコを吸いこむ。きついニコチンが血管を締めて思考を冴えわたらせた。

 

「アクワイヤ・アソシエーションか……」

 

 呟いた声は掠れていた。だが、夢の中同様に、その社名はしっくりと馴染んで聞こえた。まるで、最初からそう名付けられることが決まっていたかのようだ。

 書類の空欄に視線を落とした。夢の中の自分は、そこに『アクワイヤ・アソシエーション』と迷うことなく書き込んでいた。

 夢で社名を決めるなんて馬鹿げている。

 そう、一歩離れたところから冷静に俯瞰する自分もいた。

 だが、古来より夢は閃きの元となり、神の啓示とも思われてきた。分子生物学者のジェームズ・ワトソンは二匹の蛇が絡み合う夢を見て、DNAの二重らせん構造を着想した。また、Googleの創業者の一人であり元最高経営責任者(CEO)のラリー・ペイジは夢でGoogleの検索エンジンの元となるアイデアを閃いた。

 

 ――これは、何かの啓示なのだろうか。

 

 夢を分析することで、何か分かることがあるかもしれない。そう考えて先ほどの夢を詳細に思い返そうとして、克哉はあまりの馬鹿馬鹿しさに苦笑した。

 分析するまでもない。この夢は、自分の願望の現れだ。御堂と恋仲になり、さらに、仕事でもパートナーになるという、強欲極まりない願望だ。そんな途方もない願いを自分は心の奥底に抑え込んでいたのだろうか。

 こんな夢を見ている事実を御堂に知られないことが唯一の救いだ。もし知られたら、軽蔑されるか、それとも怯えさせるかのどちらかだろう。

 頭を振って気持ちを切り替えると、克哉はペンを手に取った。登記の書類の社名の欄をじっと見つめ続ける。

 改めて社名を考え直そうとするも、夢で御堂が告げた『アクワイヤ・アソシエーション』がずっと脳裏にちらついている。そのせいで、それ以外の社名がしっくりこない。

 克哉は一つ息を吐いて心を決めると、登記の書類に『アクワイヤ・アソシエーション』と記入した。

 こうして克哉はAA社を起業した。そして、克哉が自社の社名を目にする度に、頭の中では御堂の深みのある涼やかな声で『アクワイヤ・アソシエーション』と再生されるのだった。

 

To be continued...

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