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L'Heure Bleue(ルール・ブルー)
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「次の約束までまだ時間があるな」
「どこかで時間を潰すか……。コーヒーでも飲むか?」
 克哉はちらりと腕時計に視線を落としながら御堂に尋ねる。
 取引先との打ち合わせが想定以上に順調に終わり、次のクライアントの打ち合わせまで中途半端に時間が空いてしまった。移動にかかる時間を差し引いても一時間はあまる計算で、かといってAA社(アクワイヤ・アソシエーション)に戻るほどの余裕はなく、どうしようかと考えたところで、御堂はふと思い出した。
「ここの近くに浮世絵美術館があるから少し見ていかないか?」
「浮世絵?」
「ああ、小さな美術館だが、季節ごとに展示品が変わる。さっと見るには丁度良い広さだ」
「へえ、浮世絵が好きなんですか」
「好きと言うほどではないが、海外のエグゼクティブは浮世絵好きが多いからな。教養として知っていて損はない」
 浮世絵に対する関心と言うよりは実利重視の御堂の言葉に克哉はくすりと笑う。
 数百円の入場料を払って入ったのはこじんまりした私設美術館で、有名企業の重職を歴任した実業家の浮世絵コレクションが展示されている。
 美人画、花鳥画などさまざまなジャンルがある浮世絵だが、ちょうどいまは風景画をテーマにしていて、葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』といった誰もが知っている浮世絵から、歌川広重の『東海道五拾三次』シリーズの見応えのある浮世絵が飾られていた。
 克哉は浮世絵に対する造詣も興味もさほどないようで、さっと絵を眺めては解説を読んでを繰り返して手際よく美術館内を回っていく。あらかた見終えたところで克哉は浮世絵を見比べて言った。
「随分と青の発色がいいな」
 北斎のダイナミックな大波の青や富士山の青、広重の海や空。目を惹くような色鮮やかな青は浮世絵の至る所に使われている。御堂は頷きつつ言った。
「君は目の付け所がいい。十八世紀のベルリンで発見された新しい青色顔料、プルシアンブルーが江戸時代後期に日本に伝わって、浮世絵で大流行した。広重ブルー、北斎ブルーと言われる青がそれだ」
 それまで浮世絵の青として使われてきたのは退色しやすいつゆ草を原料としたものや、渋い青の本藍といった顔料だった。一方、ヨーロッパではラピスラズリを原料としたウルトラマリンブルーが青色顔料として使われていたが、金と同等の価値を持つ青はおいそれと使えるものではなかった。それが安価で色鮮やかなプルシアンブルーが発明されたことで、青色顔料はプルシアンブルーに取って変わられた。そしてそれが日本まで伝わり、いままで存在しなかった美しく色鮮やかな青に人々は熱狂した。プルシアンブルーを使うことで浮世絵は表現の幅を格段に広げ、後世に残るさまざまな名画が生み出されたのだ。
 御堂の蘊蓄(うんちく)に神妙な顔で耳を傾ける克哉に、御堂は気分が良くなってさらに饒舌(じょうぜつ)になる。
「佐伯、このプルシアンブルーの原料はなんだか知っているか?」
「ラピスラズリより安価で入手しやすいものだろう」
「そう。……原料は血液だ。当時は牛の血が使われたらしいが」
「……血の赤から深い青が生まれるのか」
 克哉は立ち止まって、目の前の浮世絵に視線を向けた。空の青や川や海の青、それがすべて真っ赤な血から生み出された色だと思うと、受ける印象も変わるのだろう。先ほどまでとは打って変わって浮世絵を真剣な目つきで見詰める克哉の横顔に御堂の視線が縫い付けられた。
 精緻に整った横顔は人形のような冷たささえ感じた。冴えた知性や人の心の奥底を見抜く鋭さだけでなく、他人を魅了しながらも決して心許すことはない冷徹さを持つ男だ。だが、御堂は知っている。触れてくる克哉の指の温かさを、重ねる唇の柔らかさを、そして御堂を抱く肌の熱さを。またときとして激しい感情を剥き出しにすることも。凍える青も、燃えさかる赤も克哉の中に矛盾なく収まっている。まるでプルシアンブルーのように。
 一枚の浮世絵の前で、克哉がぽつりと呟いた。
「ルール・ブルーだ」
「ルール・ブルー?」
 克哉が見ている浮世絵に視線を移した。
 歌川広重 東海道五拾三次『沼津 黄昏図』――これもまた、有名な浮世絵だ。黄昏と名打っているにもかかわらず、沈む太陽の赤ではなく藍一色の空と満月を描いている。満月が大きく輝く空は一見夜空に見えるが、まだ空は明るく、川沿いを歩く旅人の姿がある。
「……言われてみれば、そうだな」
 ルール・ブルー(L'heure bleue)とは太陽が沈み星が輝くまでの間、空が美しい青色に染まる時間帯の数分間のことだ。英語ではブルー・アワー(blue hour)と呼ぶ。陽の光の明るさは消えても、残光により仄かな明るさが残る。夕暮れと夜の境界でどちらにも属さない空。フランスの伝説的な調香師ゲランはその空の美しさを香りで表現し、ルール・ブルーという名の香水にした。
 黄昏の赤から劇的に移り変わるルール・ブルーの青を、血液から生まれたプルシアンブルーで表現したのは、希代の浮世絵師、歌川広重が狙ったものなのか偶然なのか。御堂もまた浮世絵で描かれた青く染まる空に視線を向けた。


 クライアントとの打ち合わせを全部終えてビルを出ると、ちょうど日没の瞬間だった。ふっと太陽が消え去り、夜の闇が訪れるまでのほんの数分間の猶予。御堂は空を見上げて言った。
「これがルール・ブルーか。こうして見るときれいだな。現実世界だとは思えないくらいに」
 朝と昼と夜をすべて混ぜ合わせたような幻想的な空の色。歌川広重やゲランを虜(とりこ)にした空だ。今日という一日の終わり。太陽が消え去った空に残る微かな光は、まるで祈りのように見る者の心に灯(とも)る。克哉が横に並んで空を見上げつつ言った。
「あなたがそんなこと言うから、この空が走馬灯の背景になる気がする」
「君の走馬灯か。どんな光景が出てくるのか、想像しがたいな」
「きっとあなたばかりですよ。今際の際に血圧が上がりそうだ」
「一体何を想像してる?」
「もちろん、あなたとのあれやこれやを」
「馬鹿」
 と肘で軽く克哉の腹を小突くと、克哉が肩をふるわせて笑いを堪(こら)える。その顔が幸せそうで、楽しそうで、御堂とふたりでいることを心から喜んでいるのがわかって、御堂もまた嬉しくなる。
 何気ない一日のほんのひととき、ふたりで見上げたこの空の美しさを御堂はきっと忘れないだろう。そして、克哉も。
 ルール・ブルーの空の下、ふたりは肩を寄せ合って、帰路を歩き出した。

                                                                                                    END
                                                                                (文 みかん猫、絵 千万太)


 
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