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​【再録】慕情(四柳&本城)

「御堂……?」
 出した声は自分の声とは思えないほど掠れていた。本城(ほんじょう)嗣郎(しろう)は視界のまばゆさに目を細める。窓から差し込む陽の光でオレンジ色に染まった部屋。見慣れぬ白い天井と柵付のベッド。頭上から聞こえてくる無機質な電子音はこの場所が病室であることを示していた。
「御堂じゃないよ、本城」
 西日を背負う白衣の男がベッドの傍らで本城を覗き込んでいた。逆光に視界が馴染むと、見覚えのある顔が浮かび上がる。
「なんだ、四柳か……」
「気分はどうだ?」
「……最悪」
 口を動かしながら顔をしかめる。全身のあちこちに包帯が巻かれて、腕から伸びた透明な管はベッド脇に吊り下げられた点滴バッグに繋がれていた。それにしてもこの気分の悪さはどういうことだろう。二日酔いのようなひどい頭痛に吐き気までする。
 そもそもどうして自分はこんなところにいるのか、記憶を掘り返してぼんやりと思い出した。
「そうだ、俺は車で御堂を……」
 夜の歩道、御堂のマンションの前、激しい口論、背を向けてマンションのエントランスへと向かう御堂。怒りが理性を凌駕(りょうが)し、本城は路肩に止めてあった自分の車に飛び乗った。そして……。
 思い出すほどに心臓が不穏なリズムを刻み、無意識に握りしめた手が汗をかく。モニターの電子音も心拍に合わせてピッチを速くした。
「御堂は……!? 御堂はどうなった!?」
 ベッドから跳ね起きようとして全身に激しい痛みが走る。本城はふたたびベッドに突っ伏した。四柳が静かな口調で言う。
「御堂は無事だ」
「そうか、良かった……」
 安堵の息を吐くが、四柳は沈痛な顔で首を振った。
「御堂が無事だったのは、佐伯君が庇(かば)ったからだ。そして佐伯君は君の車に跳ね飛ばされて頭を打って入院している」
「佐伯……? ああ、彼か。そっか」
 四柳に言われて思い出す。突然横から飛び出してきた人影。驚いて咄嗟(とっさ)にブレーキを踏んだ。激しい衝突音とともにバンパーに弾かれた身体がそのまま下敷きにならなかったのは、エントランスの段差を車が乗り越えられなかったからだ。だが、衝撃に驚いた本城は大きくハンドルを切り、歩道に乗り上げて街灯に衝突した。最後に見た光景は砕け散るフロントガラスだ。
「本城、君には違法薬物使用と殺人未遂の容疑がかかっている」
「俺が?」
 我ながら間の抜けた声だった。面倒な仕事を押し付けられたときくらいの、軽い響きだった。重大な罪名に実感が伴わない。四柳が深々とため息を吐いて言う。
「殺人未遂については、佐伯君が自分が不注意で飛び出してしまったと証言してくれた。御堂も、佐伯君が君を罰するつもりがないなら、と話を合わせてくれている。だから、罪に問われることはないだろう」
「へえ……。なんで?」
「君のことを心配しているからに決まっている」
 四柳の語調がわずかにきつくなる。だが、それでも冷たく突き放す響きはなかった。
 モニターの電子音のリズムはいつの間にか元に戻っていた。これって動揺したらすぐにバレるのではないか、まるで嘘発見器だな、と思って可笑しくなった。
 四柳がベッドサイドの椅子に腰を下ろし、手で顔を覆った。苦しげな声で言う。
「本城、君は一体何をしているんだ。僕にひと言くらい相談してくれてもよかっただろう」
「……なあ四柳、大学時代、みんなでよく飲みにいったろ?」
 突然何を言い出したのかと、四柳は顔を上げて本城を見た。その目を見返した。
「御堂はさっさと一次会で抜けて、田之倉や内河は二次会で抜けて、で気が付くと、俺と四柳の二人になってるの」
 御堂は学生時代から一歩引いた冷めた目で見るような男だった。気の置けない友人同士でいくら羽目を外しても、決して枠外に足を踏み外すことはない。若さにそぐわない冷静沈着ぶりはこの男はきっと大物になるだろうと予感させた。田之倉や内河だってそうだ。翌日に響くような深酒はしない引き際を心得た聡明さがあった。だが、本城は違った。そのとき限りの享楽を目一杯楽しんで何が悪い、そんな考え方で飲み屋をはしごした。ひとり、またひとり脱落し、最後はいつも四柳と本城の二人になっていた。
「楽しかったなあ。終電逃して、朝までカラオケボックスとかあったよな。ファミレスのドリンクバーで粘ってたら店員に嫌な顔をされたりとか」
「……そんなこともあったな」
 アルコールで浮かれた周りがどれほど馬鹿騒ぎをしようとも、四柳は常に落ち着いた態度で穏やかな笑みを浮かべながら周囲に気を配っていた。
 二十四時間営業のファミレスのドリンクバーでコーラとカルピスを混ぜて、御堂なら眉をひそめそうな飲み方をしても、四柳が説教くさいことを言うことはただの一度もなかった。
 ソフトドリンクを飲んで体内のアルコールを薄めつつ、とりとめのない話をして、いつの間にかテーブルに突っ伏して寝る。そして、腕が痛くなって起きたら、目の前に四柳がいた。柔らかな眼差しで本城を見詰めていた。本城の寝ぼけた視線が重なると、ふわりと笑う。朝焼けの光に染まった四柳を、とてもまばゆく感じたのだ。そう、まるでいまみたいに。あのときは新しい朝の光だった。だが、いまは一日の終わりの光だ。それでも、四柳は変わらぬ優しさを本城に注いでくれる。四柳はひとつ息を吐いて言った。
「これから大変だぞ、本城」
「ああ……」
 気のない返事に聞こえたかもしれない。だが、実際のところ、本城にとってはどうでもよかった。クスリと一緒に興奮も感情も抜け落ちてしまったのか、御堂や佐伯に対する怒りも罪悪感も湧いてこない。
 窓の外から差していた陽の光は徐々に薄くなり、部屋は薄闇に沈みつつあった。上掛けからはみ出た手にそっと体温が触れた。柔らかく握りしめてくる手から四柳の熱がじんわりと伝わってくる。だが、四柳の手を握り返すことはしなかった。天井にぼんやりと視線を向ける。四柳は黙っている。本城は四柳の好意を知ってもなお、無視している。
 ―― 俺はお前を憎みたくないんだよ、四柳。
 どんなときだって、四柳は最後まで本城に付き合ってくれた。ただ、好きだな、と思うだけのそれ以上でも以下でもない好意。何かが始まることのない関係であることの安心感と心地よさ。
 始まってしまえばいつか必ず終わりが来る。自分たちがどこまでも重ならない存在であると思い知れば、好意は反転し憎しみに塗りつぶされる。このままいけば、いつか四柳に見限られる日が来るのだろう。それでも、自分が四柳を憎む日が来るよりはずっといい。
「あー、お腹減った。ここの病院食って美味いの?」
「退院を促すために不味くしてある」
 ことさら明るい調子で言えば、四柳も本城に合わせて返してくれる。顔を見合わせ笑い合った。何事もなかったかのように夜が始まり、一日が終わる。明日もきっと四柳は俺に優しいのだろう。

END

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