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The Door into Summer

 オフィスの窓から外を見ると、どこまでも青い空が広がる。
 既に日は高く、オフィスの窓から強い夏の日差しが差し込んでいる。この分だと、昼間は30度を軽く超えるだろう。35度近くまで上がるかもしれない。ニュースでも連日の猛暑を飽きることなく伝えている。
 御堂孝典は夏が嫌いだ。日本の高温多湿な気候は特に、だ。
 この季節はなるべく日中の外気に触れないように通勤していた。気温が上がり切らない早朝に出勤し、日が沈んでから退勤する。
 この季節ばかりは、一切外に出ることなく会社に出勤できる克哉の部屋は羨ましいと思う。
 幸い、オフィス内は冷房がしっかり効いていて快適に過ごせる。
 御堂にとってスーツを着ているときに汗をかくのは不愉快極まりなかった。ワイシャツが汗ばんだ肌に触れたり、ネクタイをしっかり締めた襟元に汗が伝う不快な感触は気が滅入る。
 御堂はスケジュールを確認してため息をついた。今日は外回りの予定が2件入っていた。午前中には片付くが、この日差しの中、外に出ること自体が気が進まない。
 だが、本来なら克哉が一人で行くはずだった予定に同行したいと言ったのは御堂だった。
 一件目は銀行での融資の相談、二件目はクライアントと合流して官庁での面談に同席することになっていた。
 いずれも、御堂にとっては初めての経験であり、興味を引かれたのだ。
 今までの会社ではそれぞれ専門の部署があり、企画開発部にいた御堂が銀行や官公庁に出向く必要はなかったし、気にしたこともなかった。
 それが今では全ての業務を克哉と御堂でこなさなくてはいけない。出来るだけ幅広い経験を積みたかった。
 そろそろ克哉が出勤してくるだろう。オフィスで待ち合わせて、一緒に出掛ける予定だった。
 御堂が腕時計を確認したのとほぼ同時に、オフィスの扉からカードキーによる開錠の電子音が響いた。扉が開き、克哉が入ってきた。
 お互いの姿を認め、声を出したのはほぼ同時だった。
「何だ、その格好は?」
「何ですか、その格好は?」
 眉間にわずかにしわが寄った表情も、呆れた口調も二人とも同様だった。
 互いに互いの格好をじろじろと上から下まで視線を向ける。それ程、対照的な服装をしていた。
 スリーピース・スーツを着込み、ネクタイをきっちり締めた御堂に対して、克哉はスーツのスラックスを着用しているものの、上は半袖のワイシャツにノーネクタイで襟元のボタンは開けっ放しだ。御堂はため息をついた。
「今日は、外回りのはずだろう」
「それは俺のセリフです」
 克哉が負けず劣らず大きなため息を返す。
「御堂さん、本気でその格好で外に出る気ですか?」
「君こそクライアントに会うのに、その格好は先方に失礼だろう」
「銀行は俺たちの方が顧客ですし、クライアント側といっても、契約しに行くわけではないですし。彼らと官庁の面談にオブザーバーとして同席するだけですよ」
 その克哉の言葉に御堂の眉間に益々しわが寄った。クライアントの面談相手は消費者庁だ。クライアント側だけでなく、役人側に悪印象を与えたら、まとまる話もまとまらなくなるかもしれない。しいてはクライアントへの不利益につながるだろう。
 憮然とした表情の御堂に克哉は更に畳みかけた。
「ジャケットとネクタイはここに置いていったらどうです?」
「断わる。君こそ、ジャケットとネクタイを取りに戻れ」
――この人は本当に外回りをしたことがないんだな。
 克哉は小さく笑った。その笑みを見咎められ、ますます御堂の眉尻がつり上がる。
 お互いの主張は平行線のままだ。御堂を説得するより、実際に、外回りを経験してもらった方が早いだろう。克哉は早々に説得を諦めた。
「もう時間もないですし、一緒に向かいましょう。その格好でいいですから」
「私が問題にしているのは、君の格好だ」
 納得いかない、という態度の御堂をなだめすかしながら、克哉はオフィスを出た。
 ビルの出入り口の自動ドアをくぐった。薄いガラス一枚が全く異なる二つの世界を隔離している。外を出た瞬間に熱くムッとする外気に包まれた。寄せてくる風も熱く粘りっこい湿り気を含んでいる。
 すぐに、ビル前に止まっているタクシーに乗り込んだ。そのまま霞ケ関の銀行に向かう。
 銀行の前にタクシーをつけた。銀行の中は涼しく快適だった。応接室に通されて、担当の銀行員と融資について細かい話を詰める。銀行員はしっかりスーツとネクタイを着込んでいた。
 ほら見ろ、という視線を御堂は克哉に送ったが、克哉は気にした風もなく話を進めていく。
 銀行での話し合いは順調に終わり、二件目の予定に向かう。消費者庁でクライアントと直接合流する予定だった。
「タクシー捕まえますか?」
 銀行を出ようとした御堂に克哉が言った。御堂は少し驚いて克哉を見返した。
「消費者庁まで?ここから目と鼻の先だろう」
 永田町にある消費者庁までは地下鉄で一駅分もない。1キロにも満たない距離だ。
「君は営業をしていた時、そんなに頻繁にタクシーを使っていたのか」
「まさか」
 克哉は笑いを噛み殺した。純粋に御堂に対する気遣いで提案したのだが、当の本人はそれに全く気付いてない。
「歩いていくか?大丈夫か?」
「当たり前だ」
 馬鹿にされたと思ったのか、憮然とした返事が返ってくる。御堂の機嫌を損ねたようだった。
 まあ、いいか、と克哉は銀行の外に出た。
 頭上から焼けつくような日差しが突き刺す。周囲に建ち並ぶ高層のオフィスビルのガラス壁が光を反射してキラキラと輝く。眼がくらむような眩しさに克哉は目を細めた。
 消費者庁に向かって歩き出した。
 かつて外回りの営業をしていた時代を克哉は思い出す。夏の東京は外にいるだけでじりじりと体力を奪われる。汗をかくことは相手への印象にも響くので、なるべく避けたかった。
 体力をすり減らさず効率よく営業先を回るためには、地理感が必要だ。東京出身ではない克哉にとって、キクチに就職した当初はその地理感を鍛えることがともかく重要だった。大学は都内だったが、学生時代とは明らかに行動範囲が異なる。都内を網目のように張り巡らす地下鉄からバスまで公共の交通手段や乗換方法は頭の中に叩き込んであった。
 正確には、その交通網や地理を頭の中に叩き込んだのはかつての克哉、つまり<オレ>だったが、その知識は今でもなくてはならない重要な価値を持っている。<オレ>は、こういう地味な作業を嫌がらずによくやっていた点は、克哉も認めるところだ。
 夏場には出来れば地下道を使って移動したいところだが、この辺りは日差しをよける地下道がないことも承知済みだった。

 歩き始めてすぐ御堂は自分の見込みの甘さを思い知った。数百メートルの距離、それは正しい。ただし、問題はひたすら上り坂だったのだ。
「虎の門から霞ケ関、そして永田町まで。上り坂なんだ。来たことなかったか?」
 御堂よりも数倍涼しげな格好した克哉が目の前を歩きながら、愉しげな声をかける。
「近くに来たことは数度あるが、歩きまわったことはない」
 克哉の口調にムッとしながらも、素直に自分の無知を認めた。今までは移動はタクシーか自分の車だった。何か所も歩いてまわることなどなかったから、場所は分かってもその地理はよく分かっていなかった。
 額に滲み出る汗をハンカチでぬぐう。克哉がそれを一瞥した。
「いい加減、ジャケットを脱いだらどうだ?周りにジャケットを着ている人間なんていないだろう。それともタクシー使うか?」
 そう言われて辺りを見渡すと、周りを歩くビジネスマンは皆ワイシャツ一枚だ。ネクタイさえも締めていない。克哉の格好は周りによく馴染んでいた。スーツとネクタイをしっかり着込んだ御堂一人が浮いていた。
「ここは官公庁を中心としたオフィス街だから、皆クールビズなんだ」
 クールビズはもちろん知っていたし、MGN時代も夏場は社員のノーネクタイ、ノージャケットは許容されていた。ただし、接客業務など社外の人間と会う者はフォーマルな格好を要求されていた。
 そして、御堂も常にスーツを着込んでいた。責任ある立場の者はそれに相応しい身なりを、それが当たり前だと思っていたし、年若く部長になった御堂にとって、身嗜みをしっかり整えることは他の役職付きの年輩の上司や同僚に侮られないための大切な振る舞いだった。スーツはいわば自分にとって鎧のようなものだ。乱れなくスーツを着こなすことは御堂にとって安心感を与えてくれる。緊張や不快を感じると無意識にネクタイのノットに指をかけて、ネクタイの位置を調整してしまう癖も、そう言った心理からきているのだろう。
 だが、背に腹は代えられない。克哉の言うとおりにジャケットを脱いでベスト姿になった。カフスボタンを外し、カフを折り返して袖をまくった。今更タクシーを使うのは、克哉の思惑にはまったようでもっと悔しい。
 ジャケットは目的地に着いてから再度着込めばいいだろう、そう自分自身に言い聞かせ、大人しく克哉に従った。
 アスファルトから照り返される熱を浴びつつ、消費者庁についたときは、その暑さに息が切れていた。この熱気の中では思った以上に上り坂がきつかった。
 消費者庁の入り口の自動ドアをくぐる。これで、涼める、と安堵しかけた御堂の期待は見事に裏切られた。ビルの中は思ったほど涼しくない。
 御堂のその一瞬の落胆を克哉は見逃さなかった。ククッと喉を鳴らして笑う。
「残念だったな。官公庁は冷房の設定温度が28度だ」
 心の内を見透かされた御堂は思わず顔が紅潮する。
「…君は、随分詳しいな」
「営業でよく来ていたからな」
 その言葉に御堂は首をかしげた。こんな官公庁を中心としたオフィス街に、克哉は何を営業しに来ていたのだろう。
「佐伯さん!」
 数メートル離れたところから声がかかった。振り向くと、待ち合わせをしていたクライアント側の社員だ。
「この暑い中、お付き合いいただいてすみません」
 そう言う中年男性の社員は汗を拭きつつ、片手に扇子を持ち自身にせわしなく風を送っている。その格好は半袖のワイシャツ一枚と克哉と全く同じ服装だった。
「こちらこそ、同席させていただき、ありがとうございます」
 克哉が営業用の人好きのする笑顔で返す。
 今回は食品会社であるクライアントが、新商品を機能性表示食品として販売するための申請だった。
 特定健康保険食品、いわゆるトクホよりも申請の敷居が低く、健康の維持や病気の予防などをアピールできるこの制度は平成27年4月から始まったばかりだ。
 克哉たちは以前よりその制度に注目しており、販売戦略を相談された食品会社の新製品に機能性表示食品という付加価値を付けて売り出すことを提案したのだ。
 もちろんクライアント側も克哉側も申請するのは初めてだったので、こうやって申請のための事前相談に消費者庁まで出向いてきたのだ。
 それにしても、と御堂は不安になった。新製品の販売に関わる大事な面談なのに、この緊張感のない二人の格好は如何なものだろうか。相手の心象を悪くするだけではないだろうか。
 だが、その不安も杞憂だった。面談の待合室に通されて周りを見てみると、相談者のほとんどが克哉達と同じ軽装だったのだ。そしてご丁寧にも、壁には大きなポスターで「クールビズ実施中。軽装でお越し下さい」と書いてある。
 そして、その言葉通り、面接の担当者も半袖のワイシャツ、ノーネクタイで襟元のボタンは開けたままだった。
 御堂の友人に官僚は何人もいたが、彼らも夏場はこんな格好をしていたのだろうか。御堂の記憶にはなかったが、そもそも真夏の仕事帰りに会ったこともなかったかもしれない。
 申請相談は問題なく終了した。事前に念入りに準備した製品データとその効果を裏付ける科学的根拠を示した書類は要求水準を難なくクリアできたようだった。
 手ごたえを感じ、クライアントとにこやかに挨拶をかわし、消費者庁を出たところで別れた。
 やっとオフィスに戻れる、と一息ついた御堂に克哉が声をかけた。
「昼食を食べていきませんか。すぐ近くにおいしい中華があるんですよ」
 そう言われて御堂は時計を見た。11時半を少し過ぎたばかりだ。
「まだ早くないか。12時にもなってない」
「だからですよ。ここはオフィス街だから、12時を過ぎると一気に人が溢れる」
 御堂の返事も聞かず、克哉が背を向けて歩きはじめる。当然ついてくるだろう、という自信がその背から透けていたが、御堂は大人しく従った。今回ばかりは克哉の方が全て正しい。
 結局のところ、途中で脱いだジャケットは再び羽織ることなく鞄と一緒に抱えたままだった。
 ビルのすぐ近くにある中華の店に入る。ドアをくぐった瞬間、寒いほどの冷えた空気が御堂の身を包んだ。一気に汗が引く。御堂はほっと一息ついた。
 その店は、克哉曰く四川料理の有名店だそうで、夜間は結構な値段がするが昼はリーズナブルに定食が食べられるとのことだった。
 四川料理だからこれ程冷房が効いているのか、と御堂は納得し、同時にこの店を克哉が選んだのは自分への気遣いによるものだということにも気付いた。
 有名店というだけあって、実際、出された料理は食欲をそそる匂いと、期待を裏切らない味だった。
 御堂は、食べながら疑問を口にする。
「君は、なんでこの辺りの事情に詳しいんだ?」
「営業で来ていましたから」
「何の営業で?」
「プロトファイバーです」
 克哉は、余計な感情をのせず、その単語をさらりと口にした。御堂の箸の動きが止まった。
 その製品は、御堂と克哉を引き合わせ、お互いの運命を大きく変えた。
 克哉の胸の奥底に当時の記憶が、ある種の苦さとともに疼く。だが、御堂にとっては克哉以上に重い意味を持つだろう。克哉は食事の皿を引き寄せようとする自然な動作でテーブルに視線を伏せ、その視界の端で御堂を伺った。
「そうか」
 御堂も感情を含ませない平坦な声で返してきた。自分の複雑な感情に一瞬で蓋をして心の内に仕舞いこんだようだった。
 再び箸が動き出す。御堂は言葉をつないだ。
「ここら辺には小売店はないように見えたが」
 御堂は来た道のりを思い出した。周辺にはスーパーも、コンビニでさえあまり見当たらなかった。
「ドラッグストアがあるんです。そしてコンビニも」
「ドラッグストア?コンビニ?そんなものあったか?」
「路面に面してないんですが、ここら辺の高層オフィスビルの中に入っているんですよ。そして、この周辺のコンビニは高級志向です。ドラッグストアも食品や飲み物を扱っている。客は同じビルや周辺のビルに勤める職員。女性も多い」
「プロトファイバーのターゲット層に一致していたのか」
「ええ。そして、夏は官公庁系列の職場はクールビズで冷房が抑えられている。飲料水は爆発的に売れる。実際、契約は多く取れた」
「なるほど、な」
 確かに周辺は官公庁やその系列の行政法人が多く乱立している。克哉の戦略に、素直に感心し、感嘆した。
 プロトファイバーの目を見張る様な販売実績は、決して偶然でも場当たり的なものでもなかった。的確な戦略のもとに達成された結果だったのだ。
 御堂は自分のネクタイのノットに指をかけ、ネクタイを解いて引き抜いた。襟元のボタンも外して、首元を寛げる。それだけで大分涼しく感じた。
 克哉が少し驚いて目を見張った。ふっと御堂は軽く笑う。
「外回りは君の方が一枚も二枚も上手だな。今度からは君の言葉に従うさ」
 その言葉に克哉も口元を綻ばせた。襟元からは御堂の白い肌が覗いている。
「わが社もクールビズを導入するか」
「それは御免だな。こんな格好心許ない」
「そうか?色っぽくていいと思うが。…ああ、でも、あなたはしっかり着込んでいたほうが、それだけ脱がせる楽しみがあっていい」
「君の頭の中はそういう事しか考えてないのか」
 ニヤニヤ笑う克哉に対して、御堂があからさまに眉をしかめた。
「そういう事ってどういう事ですか?」
 からかうように克哉は御堂の顔を覗き込む。その克哉の眼差しと表情に笑みがこぼれそうになったのを抑え、御堂はふい、と横を向いた。
「全く、君という男は」
 御堂はぞんざいに呟いた。
 外は変わらず眩しいほどの光が熱を持って降り注ぐ。他愛のない会話を交わすこの時間を二人で共有できることに、ささやかな幸せを噛みしめた。

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