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Frozen Fever

 最初に異変を感じたのは2日前だった。
 朝起きた時の喉の違和感。空気が乾燥しているのだろうか、程度にしか考えてなかったが、昨日には鼻炎になり咽頭痛と咳が出てきた。昨夜には寒気を感じるようになり、早めに就寝したのだ。
 そして今朝。起きた瞬間、更に全身状態が悪化している事に気が付いた。頭の芯が重く、身体の節々が痛い。しかも、明らかな熱がある。
 熱く重い身体を起こして御堂に連絡を取り、病院に行くことを告げた。
 うっすら危惧していたとおり、病院では検査でインフルエンザと告げられ、抗インフルエンザ薬を処方されるとともに自宅から出ないようにと医者に言われた。
――よりによってインフルエンザとは。
 意気消沈して再び御堂に連絡を取り、インフルエンザと診断されたことを告げる。
『インフルエンザか?しばらくは出勤できないな。会社のことは私が引き継ぐから自宅で安静にしていろ。何か入用なものがあれば、差し入れするが』
「いや、大丈夫だ。それより、俺の部屋には来るな。二人とも倒れたら会社が立ち行かなくなる」
『君と違って、私はインフルエンザワクチンを接種している』
 君と違って、という部分が強調されていた。
 御堂がワクチンを接種するときに一緒に誘われたのだが、確実にインフルエンザを防げるものではない、と聞いて断わったのだ。それ以上に、注射は嫌だという気持ちが先行していたが、それを理由にするのは流石に憚られた。
「ワクチンをうっていても罹るときは罹る」
『まあ、それもそうだな。分かった。必要があればいつでも連絡してくれ』
「頼りになる副社長がいて助かる」
 御堂に短く礼を告げて電話を切った。
 こんな時、御堂と二人で会社を興したことを心底良かったと思う。当初は一人で会社を興すつもりではあったが、こんな時に安心して頼れる相手がいるという事はこうも心強いとは。また、それだけではなかった。会社の運営についても、御堂はその経験と知識から様々な面で気を配りサポートし、若さゆえに侮られがちな俺をその凛とした佇まいで補佐し支えてくれている。
 それにしても、何たる様だろう。
 自分の健康管理を几帳面に怠らない御堂と違って、自身の体力を少し過信しすぎていたようだ。
 今までインフルエンザに罹ったことはなかった。だが、この過去の経験は現在と未来を何ら保証してくれるものではない。
 多少の風邪なら気にせず出勤するところだが、流石にインフルエンザとなると出勤すると周りに迷惑がかかる。ここは大人しく家に籠るしかない。
 薬局で処方箋と引き換えた抗インフルエンザ薬のカプセルを一つ、口に放り込みミネラルウオーターで流し込む。
 この熱に浮かされた頭では、家に持ち帰った仕事をこなせる気もしなかった。
 まだ真っ昼間ではあるが、素直にベッドに入って安静にすることにした。昼間から眠れるかどうか、と心配したものの熱で混濁した意識はすぐにその輪郭を失った。


「佐伯」
 突如、頭上から降ってきた声に意識を引き戻された。
 怠い身体を奮い立たせ、瞼を開く。ベッドサイドに誰か立っている。
 頭を向けると、スーツ姿の御堂が背筋を伸ばした悠揚とした姿で俺を見下ろしていた。
「御堂…?」
 まだ、昼間のはずだ。昼休みに会社を抜け出してきたのだろうか。
 来るなと言ったのに。
 まだ熱を持っている身体を起こそうとして気が付いた。両手がベッドのヘッドボードに括られて拘束されている。
「何だ?」
 誰が、こんなことを。
 状況的に一人しか思いあたらず、戸惑いながら御堂を見上げた。
 御堂は薄い笑みを浮かべながらも、怜悧な視線でこちらを睨めつける。
 窓のカーテンの隙間から挿し込む日差しを背にし、その表情や立ち振る舞いは威厳をまとっている。その立ち姿は見覚えがあった。
 そうだ。MGNの執務室で初めて御堂に会った時に抱いた印象そのままの姿だ。美しく高慢。身構えずに目にした人の視線を縫いとめずにはいられない、冷たい鮮やかさがある。
 御堂はわずかに上体を屈め、枕元に置いてあった俺の眼鏡を取った。つるを開いて、俺の顔にかける。レンズを通して御堂と視線が合った。御堂は満足げに目を眇める。
「君は眼鏡をかけていた方が、ふてぶてしい面構えでいい」
「何のつもりだ?」
 訝しむ俺の言葉にも御堂は表情を変えない。
「私は君の会社を辞める。いい加減、私たちの関係を清算しよう」
「…どういうことだ?」
「なあ、佐伯、私たちの関係は歪んでいると思わないか?凌辱と暴力で始まった関係の私たちに未来はない。あるのは忌々しい過去だけだ」
「いきなり何を」
 熱で混濁した頭に、御堂の凍えた視線と言葉が突き刺さる。目の前に立っているのは、本当に俺の知る御堂なのだろうか。なぜ突然そんなことを言いだすのだろう。
 混乱して御堂を見上げる。俺の視線を受け止めるその双眸が揺らぐことはない。
「…お前の中では終わった話なのだろうな。だが、私はお前に与えられたあの時の屈辱を一時たりとも忘れたことはない」
――それは違う。
 心の中で反論した。
 俺だって、あの時のことを思い出さない日はない。忘れたい苦い記憶であることは否定しない。だが、あの経験を自分への戒めにしているからこそ今がある。
 その時のことは肯定したりはしない。だが目を背けているわけではない。
「…あんたは、誰だ?あんたは俺の知る御堂ではない」
「私を忘れたか?佐伯克哉。お前は望んでいたのではないのか、この私を」
 御堂はその目元に冷ややかな翳りを刻んだ。
 その表情と態度は、古い記憶を鮮明に思い起こさせた。
 そう。あんたは御堂孝典だ。俺と出会った当初の。
 そして、俺は確かにあんたを求めていた。俺に見向きもしない不遜な態度だったあの頃のあんたを。
 あんたを変えてしまったのは俺だ。だからこそ元に戻したいと思ったのは事実だ。
 だとすると、自分の目の前に立っているのは、俺の知っている元の御堂であり、俺が求めていた御堂なのか。
 混乱と困惑で、熱で澱んでいた思考がさらにかき回される。
「何故、こんな時に…」
「こんな時?…それは、お前の体調を慮れとでもいうのか?あの時、お前は私の事情を斟酌してくれたことはあったか?」
 息を呑む。何も反論は出来ない。
「なあ、佐伯。不公平だとは思わないか。私はお前によって、地位も私生活もプライドも、何もかも奪われたというのに、お前は何一つ失っていない」
「俺を恨んでいるのか」
 答えの代わりに侮蔑の視線が叩きつけられた。
「それなら、何故、俺と会社を興した。何故、俺との関係を築いたんだ」
 御堂は鼻で嗤った。口元に歪んだ微笑が浮かぶ一方で、その眸はいっそう冷たくなる。
「最初から手に入らないものを諦めるより、一度手に入れたものを失う方が辛いだろう?」
「それだけのために、ここまでしたのか」
「ああ」
「あんたとの仲は俺の幻想だったのか」
「ああ」
 取り付く島もない素っ気ない御堂の言葉に声が詰まる。そんな俺を見て、御堂が更に口角を歪めた。
 御堂は誇り高く高潔な男だ。当初は諦めの悪い男だと思った。なけなしのプライドに縋るその無様な姿を嘲弄した。だが、彼は信念の男だという事に程なく気が付いた。俺に屈することよりも、自らを壊すことで自分の信ずるものを守ったのだ。
 あの雪がちらついた夜。L&B社での再会後、そんな彼がその気高い誇りを曲げてまで俺を追いかけてきたのだ。俺に、好きだ、と告げるために。
 それも、復讐という強い信念に沿って振る舞っただけだったのだろうか。
「佐伯、お前はおめでたい奴だな。あんなことをしておいて、私がお前のことを好きになるとでも本気で思ったのか?」
 俺の心を読み取ったかのように、嘲り投げつけられた言葉に奥歯を噛みしめる。今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。さぞ、情けない顔を見せている事だろう。
 御堂が身を乗り出して俺の顔を覗き込んだ。その視線を避けようと顔を背ける。御堂の喉が震え、嗤いに似た音が零れる。
「私が味わった屈辱をお前にも味わってもらおうか」
 冷たく長い指が俺の頬をなぞる。その冷たさは熱い身体には気持ちがいいほどだったが、その指先は産毛を逆立て、その動きは心をざわつかせる。
 指は首から鎖骨、Tシャツの上から肌をなぞる。胸の突起にたどり着いた指は、布地の上からその胸の突起を強くつまんで爪ではじく。
 思わず呻き声を上げ、身を捩ってその手から逃れようとしたが、高熱に炙られている身体はわずかに体躯を震わせただけだった。
「熱い身体だな。中はもっと熱いんだろう?」
「やめろっ」
 御堂はその双眸に侮蔑と嗜虐的な光を湛え、その唇は淫靡に吊り上がる。
「私は君と違って暴力は好まない。大人しくしていれば、優しくしてやる」
 その手は下腹部から下に降りて、スウェットの中に手を差し入れる。アンダーの上から性器の輪郭をなぞる。その感触にぞわりと身体の奥が慄いた。
 かろうじて自由になる脚を捩って御堂から逃れようとするが大した抵抗にはならず、御堂の執拗な手の動きがひるむことはない。性器の形を辿られ、掬われる。下着を通して触れられることがもどかしく感じる程、そこは更なる熱と質量を持ち始めた。高熱で荒くなっていた息に声が混じりそうになり、必死にその声を喉に封じる。
「無様だな。佐伯克哉」
 頭上から俺の顔を覗き込むその眸の奥底に、欲情の炎が揺らめいた。
――そんな眼で俺を見るのか。
 蔑みと嗜虐、そして劣情。
 あの時、俺はこんな眼であんたを見ていた。
 身体を思い切り捩じって、渾身の力を込めれば、高熱で重く軋むこの身体でも御堂のみぞおちあたりに蹴りを入れることは出来るだろう。
 だが、これがあの時の俺のしたことに対する報復であるならば、俺に拒絶する権利はない。
 たとえ、そうでなくても、御堂に暴力を振るう選択肢は取れるはずがない。
 ならばもう結論は出ている。
「…好きにしろ。あんたの気のすむように」
 腹を括り、抵抗にならない抵抗を止めて、身体の力を抜く。
「それに、あんたは会社を辞めなくていい。俺が辞める」
「ほう…?」
 御堂の手の動きが止まった。
「俺は、あんたを愛している。だから、あんたが俺を憎んでいるなら、俺から全てを奪えばいいし、俺を好きにしていい。それで少しでもあんたの気が晴れるなら、それでいい」
「愛している、だと…?」
 そう呟くと御堂は口角をゆがめた。肩を震わせ、喉の奥から嗤い声が漏れる。だが、それも僅かの間で、すぐにその歪んだ笑みは消えた。
 俺を見下ろす御堂の眼差しはどこまでも冷徹だ。そして、その口から紡がれる言葉は一切の体温を感じさせない。
「佐伯、知っているか?“愛”の反対は“憎しみ”ではない」
「…御堂?」
 御堂は俺の身体を弄っていた手を離した。そのまますっとベッドから立ち上がる。
「…貴様に贖罪の機会など与えるものか。思い上がるな。勝手に苦しめばいい」
 そう吐き捨てると、俺に一瞥もくれずに部屋の扉に向かって歩き出した。
 扉のノブに手をかけて、こちらを振り向く。だが、既にその双眸には何の感情も浮かんでいなかった。
「……壊すほどの価値もない。私はお前のものなど何も欲しくはないし、お前のことなど全く興味はない」
 その声や表情には、怒りも憎しみも侮蔑も、何も感じられなかった。
 俺に対する関心を全て失ったかのような、無機質で冷たい人形の様な表情。
 背筋に氷を差し込まれたように、ぞくりと寒気が身体の中心を走る。煽られていた身体の熱が一瞬で凍え去る。
 御堂は、そのまま、ふいと視線を戻し、ドアを開けて部屋を出ていこうとした。
「待て!御堂!」
 御堂に向かって叫び、体を捩って追いかけようとした。だが、拘束された手は動かず、その重い身体は全く自分のいう事を聞かない。
「待ってくれ!」
 消えゆく御堂の影に向かって、必死に声を張り上げた。だが、御堂はそのまま視界から消え去っていった。
「御堂!」
 御堂がいなくなってしまった部屋。声が掠れる程叫ぶ。絶望に心が昏く染まっていった。

 どれくらい叫び続けただろう。
「…き?…佐伯!」
 突然、耳元で声が聴こえた。自分の頬にひんやりした手が当てられる。はっと目を開いた。
 目の前には御堂の顔。スーツ姿の御堂がベッドサイドに立って、心配そうにこちらを覗き込んでいる。窓の外は既に暗くなっていた。
「あっ……」
 情けない声が思わず喉から漏れ出た。次の瞬間、安堵が身を包み大きなため息が出た。
 夢だったのだ。
「…御堂」
「佐伯、大丈夫か?随分とうなされていたぞ」
 周囲を見渡す。いつもの自分の部屋だ。両手を確認するが、拘束もされていない。枕元には寝付いたときそのままに自分の眼鏡が置かれている。
 眼鏡を手に取り、震える手を抑えつつ顔にかけた。
「いや…何でもない」
「ひどい汗をかいている。まだ熱も下がってないな」
 頬に触れていた手が額へと移動する。その冷たい手が心地よい。
 まだ先ほどの夢が生々しく脳内を占拠していた。目の前の御堂をまじまじと見つめるが、その優しい眼差しも穏やかな表情も、俺の知っている御堂だ。
「シーツまで濡れている。シーツを取り換えるから、その間に着替えてこい。動けるか?」
「…ああ」
 どこからどう見てもいつもの御堂だ。動かずに御堂をじっと見つめる俺の視線を訝しんで御堂が首を傾げた。
「どうした?動けないのか?」
「いや…」
 のろのろとベッドから這い出す。汗で濡れた衣服が肌に張り付いて絡み、不快な感触をもたらす。この汗は、熱だけのせいではない。先ほどの夢によってもたらされた嫌な汗も混ざっているはずだ。
 そのままバスルームに行って、軽くシャワーを浴びて上下を着替える。
――なぜあんな夢を。
 俺を睥睨する御堂の凍てついた視線がまだ瞼に張り付いている。
 熱で体力が弱ったせいであんな夢を見たのだろうか。体が弱れば、心も引き摺られる。
 寝室では御堂がまだベッドメイキングをしていた。
 高熱で節々が痛む身体を引き摺りながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
 リビングのソファに深く腰掛け、背もたれに沈み込んだ。カラカラになった喉を潤す。
 少しして、御堂がリビングに顔を出した。
「シーツかけ直したぞ。…何か食べるか?軽食ならすぐ作れるが」
「いや、そこまであんたに迷惑をかけられない。大丈夫だ」
「会社帰りに少し様子を見に来たのだが、あまり良くなさそうだな。遠慮するな」
 御堂は軽く笑って、スーツのジャケットを脱ぐとネクタイを緩めキッチンに向かった。ダイニングテーブルの上に置かれっぱなしの薬局の袋に気付き、手に取る。
「薬、夕方の分は飲んだか?」
「まだだ」
 ガサゴソと袋を開ける音がする。
「佐伯、朝の分は飲んだのか?」
「ああ」
「薬の数が合わない。…ああ、なるほど。佐伯、間違ったものを飲んでいるぞ」
 その言葉に御堂の方を振り返った。御堂は俺に見せるように、小さな銀色のPTP包装されたカプセルを手に掲げた。紅色のカプセルが並び、一つ分空になっている。
「サプリの試供品みたいだ。ザクロエキス…?女性用か?」
「なんだと?」
 そう言われて思い出した。薬局で処方箋を引き替えた際に、サプリの試供品を渡されたのだ。それを間違えて飲んでしまっていたとは。しかもよりによって柘榴味だ。
 自分の迂闊さを呪った。熱に浮かされていたとはいえ、そんなものを口にしてしまうなんて。あの男の差し金だろうか。脳裏に黒づくめの金髪男が浮かんだ。
 だが、一方で、先ほど見た悪夢の原因が分かってほっと息をついた。もう、あの悪夢を見ることはない。まだその記憶が鮮明に脳裏に刻まれているが、少し心が楽になった。
 結局、御堂の言葉に甘えて、手早く用意された夕食を口にした。
 ダイニングテーブルで向かい合って食事をする。インフルエンザのことを考えると、早く帰るように促すべきだったが、その一言が喉の奥につかえたまま口にすることが出来なかった。
 食後、食器を手早く片付ける御堂をダイニングの椅子に座ったまま、ぼんやりと眺めながら、先ほどの悪夢を反芻する。
 無意識のうちに御堂に向かって、夢の中で言われたことを口にしていた。
「御堂、“愛”の反対ってなんだ?」
「いきなり、何だ?」
 突然の問いかけに驚いたのか、御堂が動きを止めてこちらに視線を向けた。
「…いや、何でもない」
 なぜこんなことを聞いてしまったのだろう。気まずくなって目を逸らす。
「佐伯、知っているか?“愛”の反対は“憎しみ”ではない」
 御堂の口から出たその言葉に、心臓が大きく跳ねた。夢の中の御堂と同じ口調、同じ声色だった。
 恐る恐る御堂を見上げる。
 御堂は優しい眼差しのまま、静かな笑みを浮かべて、そのまま言葉を継いだ。
「“愛”の反対は“憎しみ”ではなく、“無関心”だ。マザー・テレサの言葉と言われている」
「…そうか」
 そうだったのか。
 片手で顔を覆い、目を閉じた。自分の心の内がはっきりと分かった。
 俺が本当に怖れていたのは、御堂に憎まれることではない。
 俺に対する関心が御堂から失われることだ。
 御堂の中から自分の存在が消えてなくなること。それが一番恐ろしかった。激しく軽蔑されていてもいい。殺されるほど憎まれていてもいい。俺という存在が御堂の中にあれば、それでよかった。
 夢の中の御堂はそれを分かっていた。だからこそ最も残酷な刃の切っ先をためらいなく俺に突き刺したのだ。
「どうした?気持ち悪いのか?」
「…いや、ちょっと頭痛がしただけだ」
――あんたに捨てられる夢を見た。
 もうあの夢は見ないだろう。だが、次は非情な現実となって目の前に現れるのかもしれない。
 その穏やかに包み込む眼差しが冷徹な光を湛えるのを、その柔らかく甘い言葉を紡ぐ唇が刺々しく歪むのを、俺は知っている。その姿を自らの澱んだ意識の奥底に封印していただけで。
 これは俺に対する罰なのだろう。あんな酷い仕打ちをして御堂を手に入れた。そして今は、手中におさめたものを失う恐怖におびえ続ける。
 俺はどこまで弱気になってしまったんだろう。これも、インフルエンザと柘榴のせいだ。
 こんな情けない顔を見せることは出来ない。
 自己嫌悪を抱えながら、その鬱屈した昏い感情に支配されないよう唇を噛みしめる。
 その時、そっと頬にひんやりした手を添えられた。瞼を緩やかに開くと、いつの間にか傍に立っていた御堂が俺の顔を不安げに伺っている。急いで、今までの思考と感情を表面から拭い去り表情を取り繕う。
「佐伯、今夜泊まっていいか」
「…インフルエンザがうつるぞ」
 御堂の申し出は今の自分にとっては心底嬉しかったが、流石にこれ以上長く共に過ごすのは躊躇われた。ワクチンを接種しているといっても、罹ってしまったら大変だ。
 その迷いを悟ったのか、御堂が安心させるような笑みを浮かべた。
「大丈夫だ」
 そう言うと、御堂はスラックスのポケットから銀色のシートを取り出す。俺が処方されたものと同じ抗インフルエンザ薬のPTPシートだ。
「この薬は、治療だけでなく発症の予防薬にもなるそうだ。今日、四栁に処方してもらってきた。私もこれを内服する」
「だが…」
「万が一のために、スケジュールも調整したし、藤田にもしっかり引き継ぎが出来るように手配している。他に看病してくれる人はいないんだろう?…たまには私にも看病させろ」
「…あんたが泊まったら、余計に汗をかきそうだな」
「まだ減らず口を叩く元気はあるのか」
 クスクス笑い、御堂はそのシートからカプセルを一粒取り出して自らの口に含みミネラルウォーターと共に流し込んだ。
 そして、もう一粒、俺が処方された薬をPTPシートから取り出し、長い指でつまんで俺の唇の間に押し込む。
「飲み間違えないように、私が飲ませてやろう」
 そう言うと、ミネラルウォーターをその口に含み、上体を屈めて唇を押し付けた。その口づけを受け容れた。ひんやりとした柔らかい唇が触れ、そこから冷たい水が流し込まれる。
 カプセルごとその水を喉に送り込みながら、俺は御堂の身体に手を回し強く抱きしめた。濡れた唇がそっと外される。
「御堂、愛している」
 数えきれないほど囁いたその言葉を、口にする。
 その言葉が今まで口にした中で最も頼りなく、怯えが滲んでいることに気付かれただろうか。
 触れるか触れないかの距離にいた御堂の唇が離れた。そのまま、顔を俺の肩口に埋めるように乗せた。御堂の静かな吐息が俺のうなじに滞った熱を刷く。
「私も、君を愛している」
 その鼓膜を震わした甘い響きがもたらす、ひと時の安堵に身を包まれながら、その存在を離さぬように更に力を込めて御堂を抱きしめた。

© 2015 Missing Ring

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