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​【サンプル】空白の白、闇の中の黒(いつかの朝の果実)

プロローグ

 

 ひと筋の光もない暗闇に支配された部屋。

 御堂孝典はベッドの上で呼吸を潜めた。

 周囲には心臓の拍動さえ聞こえてくるような静寂が満ちている。

 窓には分厚い遮光カーテンがかけられ、街の光をすべて遮っている。何もかもが闇の中に溶け込み、目を開けても閉じても暗闇しかない。

 まったく視界が効かないのに、闇を怖がるはずの本能がなりを潜め、恍惚とした痺れが身体の隅々まで行き渡った。

 それはまるで性的な快感そのものだ。

 御堂はそっと自分の手を下腹に伸ばす。そこには屹立した性器があった。

 何の刺激を与えずとも、底知れぬ闇を感じるだけで興奮しているのだ。

「ん……っ」

 

 五本の指を絡めて、根元から擦り上げた。筋に指を這わせ、亀頭の張り出しを弾き、リズミカルに扱く。淫らな感覚に肌がざわめき、呼吸が浅く速くなった。

 何も視えない闇の中、感覚を研ぎ澄ませるほどに官能が燃え上がる。

 これではまるで、闇に欲情しているかのようだ。

 その感覚は日常にまで浸蝕している。何気ない視線の先に暗い空間を見かけるだけで、ぞくりとした痺れが背筋を這い上がる。

 闇が深ければ深いほど、濃ければ濃いほど、御堂が感じる快楽は強くなる。それは他には代えがたいほどの悦楽だ。

 

「く……」

 

 御堂は呻く声を上げた。握り込んだ手の中でペニスは破裂せんばかりに漲っている。しかし、あと一歩で達することができない。

 放つことのできない快楽はすでに苦痛に反転していた。嵐のように体内で渦巻く欲情を解放できない切なさに御堂は身悶える。

 ペニスの先端からはじくじくと蜜が涙のようにしたたり落ちていた。毎回あと一歩のところまで辿り着けるのに、絶頂の一線を跨ぐことができない。

 今の御堂は性的な不能だ。闇を感じなければ勃起すらできないし、闇に取り囲まれてもなお絶頂に辿り着けない。

 御堂は諦めてペニスから手を離した。これ以上の刺激は自身をさらに苛むだけだ。

 身体に凝った熱は出口を失ったまま、じくじくと御堂を炙り続ける。その苦しさは言葉にならない。身体の中で荒れ狂う快楽の容赦ない苦痛にシーツをかきむしる。

 まだ足りないのだ、闇が。

 もっと濃密な闇が必要だ。自分の中の空白も何もかも塗りつぶしてくれるほどの暗く濃い闇が。

 乱れた呼吸が真っ暗な部屋にこだまする。

 なぜこれほどまでに闇を好むようになってしまったのか。自分は一体どうしてしまったのだろうか。

 こうなったのはすべて、御堂が記憶を喪ってからだ。御堂を構成する大事な歯車がかけてしまったのではないかと思う。

 胸の中にある大きな空白、そこが狂おしく疼いた。

 虚ろな空白に呑み込まれ、どこまでも堕ちていく。

 御堂は独り苦悶の声を上げながら、闇の中で悶えうった。

 

 

 

 御堂はビル前に付けたタクシーから降りると、目の前にそびえ立つビルを見上げた。

 初夏の輝きを増した太陽が沈もうとしていた。

 黄昏から夜の色に移り変わる空をガラスの外壁に反射させて輝くオフィスビルは、一等地のビジネス街の中でも圧倒的な存在感を誇る。

 有名な建築家が設計を手がけたビルで、このビルのオフィスフロアには、ベンチャー企業も多いが、いずれも勢いのある企業が名を連ねている。すなわち、このビルにオフィスを構えること自体が華やかな成功を示すステータスとなっているのだ。

 御堂は大理石のエントランスを通り抜け、オフィスフロアへとつながるエレベーターに乗り込んだ。目的の階のボタンを押すと滑らかな動きでエレベーターが上昇しだす。

 目的階に到着するまでの間、御堂は今から訪れる会社の情報を頭の中で整理した。

 アクワイヤ・アソシエーション。

 起業して一年も経っていないコンサルティング会社で、社長は佐伯克哉という二十台の若い男だ。コンサルティング経験がないにもかかわらず、たった一人で起業し、おそろしく賃料が高いこのビルにオフィスを置いている。そして、手がけたコンサルティングはことごとく大成功を収め、業界内の話題をさらっていた。すべては社長である佐伯の手腕によるものだという。

 社のホームページに掲載されていた佐伯の顔写真を思い出した。すっと通った鼻梁に薄い唇、整った顔立ちを銀のフレームの眼鏡が怜悧に引き締めている。明るい髪色は染めているようには見えないから地毛なのだろう。

 写真の中の佐伯はカメラを意識しているのか、どことなく柔らかな雰囲気を醸し出している。他人の目に自分がどう映るのか計算し尽くした姿だ。しかし、御堂が出会った佐伯は表情に乏しく、冷たい印象が先立っていた。

 ―― まさか、コンサルティング会社の社長だったとはな。

 

 それも今や飛ぶ鳥を落とす勢いのコンサルティング会社だ。とてもそんな風にはみえなかったが、写真を見る限りは確かに同一人物だった。

 目的階に着いたことを示す音が鳴り、御堂の意識は現実に引き戻された。

 エレベーターのドアが開く。御堂は腕時計を一瞥し、アポイントメントの時間に間に合っていることを確認すると、エレベーターホールへと足を踏み出した。その瞬間に右足に鈍い痛みが走り、御堂は微かに眉をひそめる。

 今日は移動が多かったためか、足に負担がかかっていたようだ。

 東京のビジネスマンは速歩で歩く。リハビリであれほど足に負担がかからない歩き方を練習したのに、東京に戻りスーツを着るようになると、自然と歩き方も元に戻ってしまったようだ。

 御堂はゆっくりと息を吐き、右足を労るように歩調を緩めて歩き出した。リハビリの効果で今でこそ松葉杖なしで歩けるようになったが、右足には後遺症が残っている。関節が上手く動かず、足の筋肉も左と比べて痩せ細ったままだ。

 スラックスで見た目を隠し、普段は上手くごまかしているがよく見れば歩調が一定ではないことは分かるだろう。

 およそ半年前、御堂は当時の勤務先のMGN社を無断欠勤し、それから数ヶ月後に自宅で意識朦朧としているところを発見された。そのせいで、御堂は出世街道を踏み外すと同時に、身体に後遺症を負ってしまったのだ。

 表向きは過労で倒れたことになっているが、その真相は御堂自身も分からない。その間の記憶が抜け落ちているからだ。リハビリも兼ねて郊外の病院長期入院していたが、ようやく退院許可が下りて、ふたたび東京で仕事に復帰した。復帰といっても、MGN社に戻ることはかなわなかった。

 MGN社では休職の扱いになってはいたものの御堂の居場所はすでになく、御堂は入院中に退職手続きを行い、また同時に転職先も見つけた。

 現在の御堂の勤務先はL&B社という新興企業で、プロジェクトマネージャーのポジションに就き、クライアント企業のプランニングや運営を主に手がけている。MGN社と比べると比較にならないほど小規模の会社であり、今までと勝手が違ったが、それはそれで小回りがきいてやりがいがある。

 ようやく体調も本調子になり職場にも馴染んだところで、御堂は依頼していた興信所から報告書を受け取った。探していた人物の身元が分かったのだ。その人物とは、東京郊外のリハビリ病院に入院していた御堂の元に毎週花を届けていた男だ。

 一度は待ち伏せしてその男を捕まえることができたが、男は「もう来るつもりはない」という言葉どおり、それから二度と病院を訪れることはなかった。興信所の報告に寄れば、その男こそAA社の社長である佐伯克哉だった。

 当初は佐伯が誰かに依頼されて御堂の元まで花を届けていたのかと思ったが、どうやらそういう訳ではなさそうだ。ほんのわずかな会話しか交わさなかったが誰かの指図で動くような男には思えなかった。それに、佐伯は御堂の顔を最初から知っているようだった。

 何が目的で病院まで通っていたのか。そして、御堂とはどういうつながりだったのか。

 疑問は渦巻くばかりで、いくら考えても結論は出なかった。なぜこれほどこの男が気にかかるのか自分でも分からない。だが、病院でこの男がつけていた香水、その香りを知っていた気がするのだ。

 嗅覚というのは記憶を司る脳の部位、海馬に深くつながっているという。ふとした香りが、はるか昔の幼い頃の記憶を鮮明に蘇らせたという経験は誰しもが持っている。

 この男の香りを嗅いだとき、胸の中の空白が切なく疼いたような気がした。結局、何も思い出せなかったが、この男は御堂が知らない何かを知っているのかもしれない。

 御堂は佐伯にもう一度会って話をしたいと望み、興信所の報告を元に、試しにAA社に連絡してみた。すると、アポイントメントをすんなり取ることができた。

 電話に出たのは事務の女性で、御堂孝典、と自分の名前を名乗り、コンサルティングの相談ではなく社長と直接話したいと伝えたところ、しばしの保留音を挟んでこの日時を指定された。それがこの営業時間終了後の時間だ。

 その意図的な時間指定に御堂は目的の人物が佐伯克哉で間違いないことを確信した。そして、御堂は今、AA社のドアの前に立っている。

『Acquire Association』と刻まれた金属プレート、その傍らにあるインターフォンを押すと、返事代わりにドアが開いた。病院で出会った男がスーツに身を包んで目の前に立ち、御堂に向けてにこりと微笑む。

 

「お待ちしていました、御堂さん」

「……失礼する」

 

 自ら名乗る必要もなく、完璧な営業スマイルの佐伯に出迎えられた御堂は、オフィスへと招き入れられた。

 応接セットへと案内される途中、素早く周囲に目を走らせるが、洗練されたインテリアのオフィス内に他の社員の姿はどこにもない。もう帰ったあとのようだ。むしろ、御堂との話を周りに聞かれたくないからこそ、社員がいなくなる営業時間終了後の時間を選んだのだろう。

 佐伯は御堂をソファに座らせると、二人分のコーヒーを御堂と自分の前に置き、向かい合わせのソファへと腰を掛けた。御堂が周囲を観察していることに気付いていたのだろう、申し訳程度に謝る素振りで言った。

 

「すみません、他の社員はすでに退社していまして」

「私と会っているところを見られたくなくて、あえて、この時間を選んだのではないのか?」

 

 そう指摘してみるが、佐伯は御堂の言葉を無視して、懐から出した名刺を切って型どおりに御堂に挨拶をする。

 

「アクワイヤ・アソシエーションの佐伯です。初めまして、御堂さん」

「初めまして、ではないな」

 

 名刺を受け取りつつ、まじまじと目の前に座る男を観察する。

 サックスブルーのシャツにえんじ色のネクタイ。御堂が出会った時は私服だったが、佐伯が身にまとう細身のスーツはテーラーメイドの一級品だ。袖からチラリと見える腕時計も社長の肩書きに相応しい高級なものだ。

 年若く軽薄に見られてもおかしくない出で立ちだが、身につけるひとつひとつのアイテムが洗練されていて、嫌味なほどに決まっている。そして、仕草ひとつとっても無駄がなく落ち着いていて、ただ座っているだけで不思議な存在感を持つ男だ。

 佐伯は黙ったままレンズの奥から御堂を見詰めている。その眼差しを受け止めて、言う。

 

「君とは会ったことがあるだろう。少なくとも、病院で」

 

 問いただす口調に佐伯はふう、と息を吐いて、肩を竦めた。言い逃れは早々に諦めたようだ。社交辞令の笑みを引っ込め、いくらか砕けた態度と口調で御堂に聞き返す。

 

「どうやって俺の名前とこの場所を?」

「車のナンバーからだ」

「……迂闊だったな」

 

 佐伯は独り言のように呟いた。

 この男が病院に来たとき、駐車場にあった一台の外車、そのナンバーを御堂は記憶していた。それを元に、御堂は興信所に依頼して車の持ち主である佐伯とこの会社を突き止めた。

 

「それで、わざわざここまで俺に会いに来たのか」

「君と話をしたかった」

「……」

 

 佐伯のレンズ越しの双眸が眇められる。御堂に向けられる鋭い眼差しは、御堂を威嚇しているようにも真意を探ろうとしているようにも見えた。

 御堂は自分のこめかみを指さして言った。

 

「私には数ヶ月分の記憶が欠落している。記憶を失う最後の記憶は、MGN社で普段どおりに仕事をしていたところだ。だがそこで記憶は途切れ、その次の記憶は部屋で動けなくなっていたところだ。その間に数ヶ月も経過していた」

 

 佐伯は返事をしなかった。何の表情も浮かべないその顔は、御堂の事情を初めて耳にしたようにも、端から知っているようにもとれる。

 御堂は相手の出方をじっと待っていたが、佐伯は口を引き結び、反応する素振りを見せない。仕方がないので、御堂から口火を切った。

 

「君が、私の部屋から救急車を呼んだのか?」

「……ええ、そうです」

 

 わずかな表情の変化も見逃さないよう探る視線を向けていたが、意外なことに佐伯はあっさりと肯定した。

 知らない、としらを切ると思っていただけに、肩透かしを食らった気分だ。

 てっきりその事実を知られたくないがために、身元を隠して病院に来ていたと御堂は考えたのだ。しかし、それならば、そもそも見舞いになど来なければ良い。なぜはるばる郊外の病院まで通っていたのか、疑問は残る。

 こうして佐伯と向かい合って話をしてみても、謎はますます深まるばかりだった。この佐伯克哉という男は誰なのか。なぜ、御堂の部屋にいたのか。

 心中に渦巻く疑問を言葉にする前に、佐伯は口を開いた。

 

「俺の前職は、MGN社開発部部長、すなわち、あなたの後任でした」

「私の?」

 

 佐伯の言葉に驚いた。御堂はMGN社の部長職に最年少で就任した。御堂の後任だという佐伯は御堂よりもはるかに若い。よほど優秀だったのだろう。だが、御堂には佐伯という社員がMGN社にいたという記憶がない。御堂の後任になるくらい優秀な社員なら、多少の噂なりとも伝わってきてもよいはずだ。

 

「君はどの部署にいた?」

「MGN社ではありません。キクチの社員です」

「キクチだと?」

「ええ。仕事ぶりを認められて、MGN社に引き抜かれました」

 

 訝しげに聞き返す御堂に佐伯は頷きつつ言った。御堂が疑問に思うのも道理だ。キクチはMGN社の子会社で営業の委託先のひとつだ。そこの社員がMGN社に転籍するなど聞いたことがない。よほど抜きん出た働きぶりだったのだろうか。

 佐伯は言葉を続ける。

 

「俺がMGN社に移るという話が出たとき、ちょうどあなたが無断欠勤したタイミングでした。社内ではあなたを心配する声が上がっていた。仕事に厳しいあなたが無断欠勤するはずがないと。それこそ、あなたの家まで様子を見に行こうという話もあった。だが、俺がそれを妨害した」

「妨害した、だと?」

「チャンスだと思ったのですよ。俺はあなたのポジションを狙っていた。あなたさえいなければ、俺は部長に就けた。つまりあなたが邪魔だった」

 

 驚きに目を瞬かせる御堂の前で、佐伯は何の感情も浮かべず、淡々と話し続ける。

 

「俺はあなたが仕事を放り出して逃げ出したと周りに吹聴した。今頃、旅行でもしてのんびりしているだろうと。あなたの同僚は俺の言葉を信じ、あなたを探そうとはしなかった。それどころか、皆、あなたの無責任さを糾弾した。そして、俺の思惑どおり、あなたは無断欠勤で部長職を解かれ俺が部長になった」

 

 告白される内容に唖然として佐伯を見返した。佐伯は口の端で小さく笑う。

 

「だが、それがまったくの嘘であることは、俺が一番よく分かっていた。最初は、ことが上手く運んだことに満足していたが、次第に不安になった。あなたは一体どこでどうなっているのか。俺はもしかして、人ひとりを見殺しにしようとしているのではないかと。

 だから、あなたの部屋まで見に行った。すると、ドアの鍵が開いていた。部屋の中には、あなたがいて、意識朦朧としていた……あとは、あなたが覚えているとおりだ」

 

 まるで台本を朗読しているかのように佐伯は澱みなく話しきり、最後にひとつ大きな息を吐いた。

 

「以上が、あなたが知らなかった部分の話だ。こっそりと病院まで通っていたのは、あなたの動向を知りたかったからだ」

「私の動向?」

「あなたが俺を告発しないかどうか」

「告発するも何も、私は君を知らない」

「ええ、あなたと会って喋ってみれば、あなたは何も覚えていないようだった。だから、俺は安心して病院通いを止めることができた。それに、ちょうどその頃俺はMGN社を辞めてこの社を立ち上げていたところで、時間的な余裕もなかったから助かったというのが正直なところだ」

 

 佐伯の話が本当だとしたら、御堂が想像したよりもずっと卑劣で次元の低い話だ。

 しかし、それは御堂が病院でこの男に抱いた印象とは真逆だった。佐伯が御堂に向けた眼差しには複雑な色を宿していた。言葉では形容しがたい感情を必死に抑え込んでいる。そんな色だ。

 

「俺の話は以上です」

 

 一方的に言いたいことを言って、佐伯は口を引き結んだ。ようやく御堂の番が来たようだ。

 御堂は佐伯のレンズ越しの双眸をじっと見詰めつつ、口を開いた。

「だが、私は君のことをよく知っている気がするのだ」

 佐伯は少し驚いたように目を見開いた。そして慎重な口調で尋ねてくる。

 

「あなたには俺の記憶があるとでも?」

「……いいや、何も思い出せない」

「思い出すも何も、そんな記憶は存在しない。あなたの記憶には空白がある。だから、気が付いたときに、目の前にいた俺が強く印象に残ったのだろう。雛が最初に目にしたものを親鳥と思い込むようなものだ」

 

 そうなのだろうか。

 断言するような強い口調で言い切る佐伯に不自然さを感じたが、反論できるほどの確証もなかった。佐伯が言うように、自分の記憶の空白を埋めようと、無意識にそう思い込んだのかも知れない。

 御堂は深くため息を吐いて言った。

 

「君に会いたかった理由は第一に興味があったからだが、もし君が救急車を呼んだ人物なら、礼を言うつもりだった」

「あなたが感謝すべき相手は俺ではない。俺はあなたがこうなった原因を作った人間で、むしろ憎むべき相手だ」

 

 佐伯は眼鏡を押し上げてひんやりと笑った。ぞくりとするほど冷たい笑みだ。

 しかし、そんな佐伯を前にして、御堂の胸の内に生じたのは憎しみではなく違和感だ。御堂は言葉を選びつつ、言った。

 

「なぜ、今更そんな話を洗いざらい私に話した。私に記憶がないことを知っているなら、隠し通すことも都合の良い事実をでっち上げることもできたはずだ」

 問いただす口調で訊いたが、佐伯は平然と答える。

「罪悪感ですよ。俺は、俺の罪悪感を軽くしたかった。それに、もうMGN社は辞めた。AA社も軌道に乗っている。だから、今更何を暴かれようと問題はない。むしろ不審を持たれてあなたに付きまとわれるくらいなら、真実を話した方がお互いにとって面倒がない。慰謝料ならあんたの言い値で払うつもりだ」

 

 開き直ったかのような佐伯の態度を前にして、佐伯が言う慰謝料とやらをふっかけてやろうかと思ったが、それでも御堂の中に佐伯に対する怒りは湧いてこなかった。

 御堂は佐伯に向かって軽く頭を下げる。

 

「……そうか。今日は、私のために時間を割いてくれてありがとう」

 

 御堂の言葉と態度に佐伯は面食らった顔をして言った。

 

「俺が憎くないのか?」

「なぜ?」

「言ったでしょう。俺があなたをこうした張本人だと」

「そう言われても、覚えていないからな」

「……」

「では、私はこれで」

 

 佐伯はレンズの奥の目を眇めたが、それ以上何も言わなかった。御堂が立ち上がるのに合わせて一緒に立ち上がり、言った。

 

「出口まで送りましょう。タクシーを呼びますか」

「いや、いい」

 

 佐伯の申し出を断り、オフィスを辞した。佐伯は御堂をオフィスの外までついてきて、エレベーターに乗り込むところまで見送ると、閉まる扉の前で軽く頭を下げた。その態度はもはや冷淡で、御堂に対して何の感情も抱いていないかのようだ。御堂にすべてを告白して胸のつかえが下りたのだろうか。

 だが、一方の御堂はと言えば、消化しきれない気持ちが胸の奥に凝り固まったままだ。

 ビルから出て、しばらく歩いたところで御堂は周囲を見渡した。

 辺りはすっかり暗くなっていてタクシーを拾おうにも、夜のビジネス街で客待ちをしているタクシーは見当たらなかった。タクシーを呼んでも良かったが、少し夜風に当たって頭を冷やしたい気持ちの方が強かった。

 御堂は駅に向かってゆっくりと歩き出した。

 御堂が佐伯に会いたかった本当の理由は、確かめたかったのだ。病院で出会ったときに感じた、胸の奥深いところの感情がゴトリと動いたような切なさの理由を。佐伯に会えば何かしら思い出せるかと思ったが、そうはならなかった。

 先ほどの佐伯との会話を思い返す。御堂が予想したとおり、佐伯が御堂を見つけて救急車を呼んでいた。しかし、それだけではなかった。佐伯の話が本当なら、あの男は御堂が急病で欠勤してもそれを巧妙に周りから隠し、発見を遅らせた張本人だ。

 佐伯は、御堂の質問のすべてに詰まることなく答えた。その話の内容もブレがなかった。しかし、何かが引っかかった。不自然なほどに話が一貫しているのだ。

 人は自分にとっての汚点を隠そうとするものだ。いくら正直に話そうにも、多少のごまかしや保身が見え隠れしてもおかしくない。だが、佐伯にはそれがなかった。自分にとって不利益になる話を問い詰められてもいないのにこうまで語るのは、本当に罪悪感によるものなのだろうか。

 そこでようやく御堂は自分の中の違和感の原因に気が付いた。

 あの男は御堂にひと言も謝ろうとしなかった。謝罪の言葉は最初から最後までなかった。罪悪感を軽くすることが目的なら、本心はどうであれ上辺だけでも心の底から謝る素振りを見せるべきだろう。

 

 ―― あれでは、まるで……。

 

 御堂に憎まれることが目的かのような態度だ。実際、佐伯は「俺が憎くないのか」と御堂に尋ねている。

 どうして自らそんな真似をするのだろうか。そうすることで何かしら得ることでもあるのだろうか。コンサルティング会社の社長を務めるほどの理知的で計算高い男が、不利益な選択をする理由は何か。

 不意に思い当たる。

 

 ―― まさか……。

 

 人が自ら損失を選ぶときは、より大きい損失を避けるためだ。

 そうとは考えられないだろうか。佐伯は、より重大な秘密を隠すためにあえて、偽りの手の内を晒したのではないか。御堂の目を眩ますために。

 しかし、あんな卑劣な行為より酷い話などあるのだろうか。

 考えこみながら歩いていると駅前の歩道橋にさしかかった。少し迷ったが、遠回りして歩道橋のエレベーターに乗るのではなく、目の前の階段を選んだ。

 時間をかけて長い階段を昇りきったときには右足が悲鳴をあげていた。だが、その痛みが逆に尖った思考を逸らしてくれる。

 御堂は自分を痛めつけるように右足を引きずりつつ歩いていたが、さすがにこれ以上は無理だと歩道橋の真ん中あたりでひと息ついた。ビジネス街に面するこの駅は、この時間ともなると人影は少なく、いたとしても脇目も振らず足早に歩いている。立ち止まる御堂を気に掛けるものは一人もいない。

 御堂はぼんやりと手すりから下を眺めた。駅前の歩道橋は、下には片道四車線の環状道路が走っていて、四方に広がる巨大な駅前空間を形作っている。

 御堂のはるか真下では次から次に車のライトが眩い光の帯を描いては去っていった。決して眠ることのない大都会は、真夜中であっても光が溢れ、無数の光のひとつひとつに人々の生活が息づいている。

 人間が多い分、孤独が紛れるかと言えば逆だろう。むしろ、人とのつながりが薄まる分、気を抜けばあっという間に独りになってしまう。日本の孤独死の三分の一が東京二十三区で起きているというのも納得だ。

 そんなことを考えながら視線を流していると、真下の道路に黒々とした闇を見つけた。ちょうど車線を仕切る分離帯のあたりだろうか。車のライトの死角になっているのか、そこだけ闇が溜まっているように見えた。

 思わぬところで闇を目にして、ざわりとした感覚が背筋を這う。

 目の錯覚かも知れない。

 そう思って目を凝らすが、眼下の闇はどこまでも深く、その闇の奥に何かが隠されているようにも思える。思わず御堂は手すりから身を乗り出して、覗きこんだ。

 底なし沼のように深い闇が、なぜこんなところに存在しているのか。

 夜より暗い闇の黒さに、ぞくぞくとした痺れがさざ波のように御堂の身体に行き渡る。

 魅入られたように闇を見詰めていると、淫靡な感覚が下腹の奥に流れ込み、触れてもいない性器が興奮し出す。

 こんなこと、異常だ。

 そうは思うのに、ざわめきだした感覚はとどまるところを知らない。ここが歩道橋でなく御堂の部屋の中であれば、すぐさま自慰行為にふけっていただろう。

 自身に触れたい欲求をどうにか抑えこむが、闇から目を離すことはできない。むしろ、もっと闇に近づきたいという誘惑に駆られ続けている。

 あともう少し。

 手すりを軸にして、さらに上体を深く倒して闇を深く覗きこもうとしたところで、つま先立ちで踏ん張っていた右足に激しい痛みが走った。瞬間、ぐらりとバランスが崩れる。咄嗟に手すりを握ったが、汗ばんだ手は手すりを掴み損ねた。重力が抗うことのできない力で御堂を引っ張った。落ちる、そう思った瞬間、「危ないっ」と鋭く叫ぶ声が耳元で響いた。

 頭の中が真っ白になる。ふわりと身体が浮いたように感じた。だが、宙に放り出されたと思った身体は、背後から回された力強い手に抱き留められた。

 視界が大きく揺れ動き、身体の重心が大きく傾いだ。自分では体勢を保てず、衝撃と共に背中の人物に体重を預ける形になる。ふたりして地べたに尻餅をつくようにへたり込んだ。

 

「大丈夫か?」

 

 鼓膜に響くような低い声と共に顔を覗きこまれた。先ほどまで会話を交わしていた男の顔が視界の真ん中にある。

 

 ―― 佐伯……?

 

 あ、と思ったときにはもう遅かった。身体の中心を快楽の電撃が貫く。びくん、と体躯が跳ねた。がくがくと腰が砕け、ずり落ちそうになる。引きずり込まれる絶頂に抗おうとして御堂は咄嗟に佐伯の服にしがみついた。

 

「御堂……?」

「ぁ……あ、ぅ……」

 

 頭が真っ白になり、情けない声が漏れた。吐精は止められず、下着の中でなま温かな濡れた感触が広がる。あれほど焦がれた極みは激しかった。肩で息をしながらひたすらに耐えていると、ようやく絶頂の波が落ち着いた。

 途端に、恥ずかしさにいたたまれない気持ちになる。紅潮した顔に潤む眸、何が起きたのか、同じ男の佐伯なら丸わかりだろう。

 

「すまない……」

 

 絶え入りそうな声で謝ると、佐伯は平坦な声で言った。

 

「立てるか?」

 

 気遣いのない口調が逆にありがたい。

 御堂は頷き、足に力を込めて立ち上がろうとした。だが、脱力した身体と負荷がかかりすぎた右足は力が入らず、しゃがみ込むように腰が落ちてしまう。

 黙って御堂の様子を見ていた佐伯は、無言のまま御堂の右腕を自分の肩に回させて、身体を支えて立たせた。そして、足元に落ちていた御堂の鞄を反対の手に持ち、歩き出す。

 

「お、おい、君…っ!」

「佐伯、でいい」

「佐伯、私は大丈夫だから……」

「家まで送る」

 

 そう言って、佐伯は問答無用で御堂を引きずるようにして歩き出し、頼りない足取りの御堂を支えて歩道橋のエレベーターに乗り込んだ。これではまるで自力で歩けない酔っ払いのようだ。周囲の視線が気になるが、かといって、佐伯がいなければまともに動ける自信がない。

 佐伯は自分と同じ体格の御堂を支えて歩いても、体幹は安定し、揺らぐことはない。病院でも転びそうになったときも抱き留められたが、佐伯は着痩せする体格なのだろう。スーツを通して佐伯の締まった体つき、そしてしなやかな筋肉の動きが伝わってくる。

 どうにか歩道橋から降りると、佐伯は流しのタクシーを捕まえ、御堂を奥に押し込んだ。

 ようやくこれで家まで帰れる。

 負担をかけてしまった佐伯に礼を言おうとしたところで、佐伯も御堂の横に乗り込んできた。呆気にとられていると、佐伯が御堂に顔を向けた。

 

「前と同じマンションに住んでいるのか?」

 

 思わず頷くと、佐伯は御堂のマンションの住所を運転手に指示した。すらすらと行き方を述べる佐伯に驚くが、よく考えれば、この男は御堂の部屋まで来ていたのだ。

 タクシーが発車し、御堂は力なくシートに身体を預けた。体勢が変わったせいか下着の中に放ったものが内腿を伝う。あんな場所で、激しく達してしまったことを思い出すと羞恥に死にたくなってくる。

 佐伯はタクシー内で御堂と口をきこうとはしなかった。黙りこくったまま窓の外に視線を流している。御堂もまた、濡れた布地の感触を耐えているうちに車が停まった。

 財布を出そうとする佐伯を今度こそ押しとどめ、支払いをする。タクシーから降りたあとも、佐伯は御堂の脇にぴったりと寄り添い、支えるようにしてエレベーターまで一緒に乗り込んできた。

 エレベーターの中でふたりきりになったところで、佐伯が険しい眼差しを御堂に向けて、ようやく口を開いた。

 

「あんたは飛び降りる気だったのか?」

「違う、死のうとしたわけではない」

 

 すぐさま反駁した。

 佐伯が何を勘違いしたのかは手に取るように分かる。周囲からはどう見ても、御堂が歩道橋の手すりから身を投げようとしていたように見えただろう。しかし、そのときの御堂は死ぬかもしれないという危険すら頭になかった。

 厳しい口調で問いただそうとする佐伯の言葉を遮るように御堂は言う。

 

「ただ、あと、もう少しで何かが視えそうだったのだ…」

「何か、だと……?」

 

 なんと言えば良いのか、言葉を探すうちにエレベーターのドアが開いた。途端に下腹の不快な感触を思い出す。一刻も早く一人になりたくて佐伯に言った。

 

「もう大丈夫だ。ここまで送ってくれて礼を言う」

 

 そう言ってエレベーターを出たところで二の腕を掴まれた。

 

「まだ話は終わっていない」

「何をする。離せ」

 

 鋭い口調で咎めれば、佐伯は手を離した。だが、御堂から一歩離れてついてくる。本気でついてくる気なのかと不審に思ったが、ここで言い合いをするよりも、直ちにシャワーを浴びたい。

 

「勝手にしろ」

 

 そう言って、佐伯を無視し、自分の部屋の前まで行くとドアを開けた。そのまま一直線にバスルームへと向かう。

 濡れて張り付く下着を脱いで熱いシャワーを浴びた。そこでようやくひと息をつく。

 汗も精液もきれいに洗い流しながら、思考を巡らせた。

 歩道橋の手すりから落ちかけたあのとき。今までまったく絶頂にたどり着けなかったのに、なぜ予期せぬ極みを迎えてしまったのか。何が違ったのか。

 あの瞬間に感じたのは底知れぬ闇と、そして、迫り来る死の気配。恐怖が引き金になって、何かの箍が外れたのだろうか。

 考え込みながらシャワーのコックを閉め、バスルームから出た。バスローブを羽織って廊下へと出たところでぎょっとする。玄関先に、御堂を送ってきたそのままの格好で佐伯が立っていた。色んなことがありすぎて、佐伯の存在が頭から抜け落ちていた。

 佐伯は御堂の鞄を片手に持ったままだ。

 強引に御堂の家の中までついてきたのだ。部屋に上がり込むこともできただろうに、変なところで律儀なことだと呆れながら声をかけた。

 

「ずっとそこにいたのか?」

「見れば分かるだろう」

 

 佐伯は不貞腐れたような顔で言う。

 

「悪かった。中に上がってくれ」

 

 御堂は洗い髪で額に下ろしていた前髪をかき上げつつ言った。バスローブ姿で完全に油断しきった格好だが、今更、着替える気にもならない。

 よく考えれば、佐伯は御堂の恩人とも言える。この部屋で意識を取り戻したとき、そして、歩道橋から落ちかけたとき、と二度も御堂の命を救ってくれたのだ。

 御堂は素直に非礼をわび、佐伯から自分の鞄を受け取ると中に入るように促した。だが、佐伯はすんなりとは動こうとはしなかった。躊躇う口調で聞き返してくる。

 

「俺が上がって良いのか?」

「住所も諳んじることができるのだ。知らない部屋ではないのだろう?」

 

 佐伯の話によれば、一度は勝手に上がり込んだのだ。揶揄した口調で返せば、佐伯は黙って入ってきた。

 リビングのソファに案内し、「何か飲むか?」と聞けば「結構です」と固い声が返ってくる。ちらりと見遣れば、佐伯は居心地が悪そうにソファに座っている。

 御堂としても佐伯を長居させるつもりはなかったので、髪から滴る水滴をタオルで拭いながら佐伯の前に座った。

 佐伯がこうして御堂の自宅までついてきたのは、御堂のことを心配したからだろうか。

 佐伯は御堂が歩道橋の上から身を投げようとしたと思っている。助けた相手がそのあとにふたたび何かあったら寝覚めが悪いだろう。そうでなくても、御堂は自殺未遂をした挙げ句、佐伯の前ではしたなくイってしまった。

 そのときの自分を思い出すとあまりの恥ずかしさにいたたまれなくなるが、世の中には自傷行為で性的な快楽を得る人間もいるという。御堂もその類いだと思われているのかも知れない。可能ならひどい誤解は解いておきたい。

 

「先ほどの話の続きだな」

 

 どう話せば佐伯を納得させて帰すことができるのか、考えつつ口を開いた。

 佐伯の視線がちらりとバスローブの裾から出ている御堂の右足に向けられた。左足と違い痩せて不自然な形をしている右足。普段はスラックスの中に隠しているが、こうして素足を出せば病的なのは一目瞭然だ。

 ちゃんと見えるようにバスローブの裾をたぐると佐伯は慌てたように視線を逸らせた。ふ、と笑う。

 

「病院でも言っただろう。あれの後遺症だ。リハビリのおかげで日常生活にほぼ不便はなくなったがな。走ることができないのと、長時間歩くのが辛いくらいで」

「……」

 

 佐伯の顔が曇る。唇が固く引き結ばれ、深いところの痛みを堪えるような表情になった。病院でも松葉杖をつく御堂に対してそんな顔をしていた。

 御堂はひとつ息を吐いて心を決め、言った。

 

「実は、後遺症はこれだけではない。性的不能になった」

 

 佐伯の目が見開かれる。男として致命的な障害。それを口にするのは屈辱だった。だが、佐伯にはそれ以上に恥ずかしいところを見られている。

 

「といっても中途半端だがな。明るいところではまったくの性的不能だが、暗いところ、それもまったく視界が効かないような深い闇に興奮するのだ。それでも達することはできなかった。

 だが……あのとき、あの歩道橋の下に、闇が視えた。それが酷く魅惑的に思えた。その闇の中に自分が求めているものがあるように思えた……その先は君が知っているとおりだ。これで分かっただろう。私に希死念慮はないし、自傷行為をするつもりもない。だから、安心してくれ」

 

 あまり深刻に受け取られても負担だ。だから、何事もないかのような口調で言った。しかし、佐伯の表情は晴れるどころか、深く思い詰めているかのように厳しい表情をしていた。レンズ越しの双眸が御堂にひたりと固定する。

 

「なぜ、あなたはそんなことを俺に言った? 俺はそれをネタにあなたを脅すかも知れないのに」

「脅す気なのか?」

 

 思わぬ言葉に驚いて聞き返した。その御堂の様子が意外だったのか、佐伯は歯切れ悪く言った。

 

「いや……。あなたは決して自分の弱みを人には見せない性格だろう」

 

 佐伯の言うとおりだ。かつての自分なら決して自身の弱みを他人に握らせることなどなかった。自分でもこうまで正直に告白してしまった理由は分からない。佐伯に気を許しているわけでもないのに。

 それにしても、佐伯はコンサルティング業らしく、人を見る目があるのだろう。それでも、そうと断定してくるのはまるで御堂を以前から知っているかのような口ぶりだ。

 

「君の言うとおりだ。だが、君が私を助けてくれたのは事実だ。それも、二度も。救急車を呼んでくれたし、先ほども助けてくれた。そんな男がこんなことで私を脅迫したりしないだろう」

「言ったでしょう。俺はあなたを窮地に陥れた張本人だ。俺があんなことをしなければ、あなたはそんな後遺症を負うこともなかった」

「君の話ではそうなのだろうな」

 

 御堂の言葉に佐伯の眉がひそめられる。

 

「俺の話が信用できない?」

「そうではない。実感が湧かないのだ。言ったとおり、私にはまったく記憶がないからな」

 

 正直なところ、佐伯が言っていることは嘘ではないと思う。だが何か引っかかりを感じているのも事実だ。真実の中に巧妙に嘘を紛れ込ませているような、そんな微かな違和感だ。

 そう、この男はもっと重大な秘密を隠しているのではないか。

 しかし、今、それを突き詰めても無意味だ。御堂に記憶がない以上、答え合わせはできない。

 だから、御堂は作った微笑を口元に滲ませて言った。

 

「これで、納得したか? 満足したら帰ってくれ」

 

 だが、佐伯の顔は険しいままだった。御堂を見据えて言う。

 

「……今の話だと、あなたはまた闇を求めて歩道橋の下を覗き込むということか?」

「まさか」

 

 そう笑い飛ばそうとしたが、その可能性はないとは言い切れなかった。

 あの苛烈な絶頂の衝撃は未だに抜けきっていない。ふたたびあの闇を見つけたら、自分はまた触れようとしてしまうのではないか。

 佐伯はさっと立ち上がった。そのまま帰るのかと思いきや、御堂へと歩みを寄せる。

 薄い色味の虹彩がレンズ越しに御堂をまっすぐに覗きこむ。その距離の近さに心臓が跳ねた。

 形の良い唇が御堂に向けて言った。

 

「俺に試させてくれないか?」

to be continued...

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