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Master of the Game

 私、御堂孝典は何度目かのため息をついた。
 ここの所、佐伯の機嫌がずっと悪い。
 と言っても、その事に気付いているのは私だけだ。Acquire Associationの社員もクライアント先も誰も気づいていない。それもそうだ。彼は仕事上では自分の機嫌の悪さを完璧に隠し切ることが出来る。それは自分の機嫌の悪さを自覚していることに他ならないのだが、その態度を根本的に改める気はないようだ。
 そして、その原因が私にあることは分かっていた。
 事の発端は私が通っているジムに佐伯が入会してきたことが始まりだった。何もジムまで一緒にしなくても、と思ったが、彼が私のプライベートを詮索するのは今に始まったことではなかったし、好きにさせていた。
 次に佐伯が首を突っ込んできたのは、私がジムでよくプレイしているスカッシュだった。短時間でかなりの運動量となるので、手っ取り早く汗をかくために昔からよくプレイしていた。瞬時に攻防の戦略を練る頭脳戦が必要なのも、自分に合っていた。
 ゲームは二人で行うので、コートを借りてジムの若い男性インストラクターと行っていたのだが、それが、佐伯の目に留まった。たかが30分程度なのだが、嫉妬心の強い佐伯には見過ごせなかったようだ。
「俺にスカッシュを教えてください」
 ある日突然、私に言ってきた。
 10年近くのプレイ歴はあったが、他人に教えた経験はない。インストラクターに頼んでくれ、と一旦は断ったのだが、どうしてもと食い下がられたので、道具一式レンタルしてきた佐伯と一緒に渋々スカッシュコートに入ったのだ。
 今から考えると、その時の佐伯の依頼を断らなかったのが間違いだったのか、それとも、運動神経がよくあっという間にコツをつかんだ佐伯に気を良くし、単純なラリーからゲーム形式に切り替えたことが間違いだったのか。ともかくその日の全てが間違いだった。
 佐伯の性格を熟知していたつもりだったのに、あっさりとゲームの支配権を握った私は初心者の佐伯を完膚なきまでに叩きのめしてしまった。
 途中から佐伯がいらつくのが見て取れた。スカッシュはその場その場で瞬時の判断力が必要とされる。平常心を失った時点で負けだ。ボールを左右前後に振って、佐伯のポジションを大きく動かす。自分はほとんど中央のポジションから動かず、ゲーム終了時に肩で息を切らしていた佐伯と対照的に私はほとんど汗をかかなかった。
 ゲームを終えて、佐伯の方を振り返った瞬間に彼の機嫌が悪くなっていることに気が付いた。しまった、と思ったが、既に遅かった。
 急いで「初めてなのに筋がいい」と取り繕ったのだが、それが更に佐伯の機嫌を悪化させた。佐伯は極度の負けず嫌いだった。
 こちらに目も合わせず、無言でコートを出た佐伯は、さっさとレンタル用品を返却するとそのまま何も言わず着替えて自宅に帰ってしまった。その日は、携帯に電話をかけても一切出なかった。
 そして、数日経った今の今まで機嫌の悪さを引きずっている。
 普段は佐伯の方から食事に誘ってくるのだが一切誘ってこなくなり、仕方なく私から誘った。だが、一緒に食べ始めてすぐに誘ったことを後悔した。佐伯はずっとムスッとしたまま黙っている。こちらから話しかけても生返事しかしない。流石に私も我慢に耐えかねてきた。
「佐伯、その機嫌の悪さは何とかならないのか」
「別に何も。いつも通りですが」
 硬く抑揚のない返事が返ってくる。ため息をついた。
「…先日のスカッシュの件は悪かった。私も大人気がなかった。謝るから機嫌を直せ」
「なぜ御堂さんが謝るんです?スポーツの試合ですよ。フェアに勝ったのになぜ謝る必要があるんです?」
 佐伯が私に視線も向けずぶっきらぼうに言う。
 では、勝者に対するあてつけの様なその態度はなんだ?
 その言葉をぐっと飲み込む。
 これ以上、佐伯の不機嫌に巻き込まれるのは御免こうむりたかった。
 自分自身を抑え、そっぽを向いている佐伯の顔を覗き込みながら、柔らかい口調で話しかけた。
「なあ、佐伯。私たちは仕事上だけでなく、プライベート上でもパートナーだろう?言葉にしないと伝わらないこともある。私たちは付き合いだしてそんなに日も経ってないし、もっと君のことが知りたいんだ」
 その言葉に反応し佐伯がこちらに顔を向けた。私の視線を受け止め、口角を上げニッと笑う。
「あんたの言う通りだ。俺たちはもっとお互いを知る必要がある。でも言葉だけでは足りないこともあると思わないか」
 そう言って意味ありげな視線を向けてくる。さっきまでの機嫌の悪さは身をひそめたようだ。
「そうだな」
 佐伯に笑みを返した。
 続きは俺の部屋で、と機嫌よく誘ってくる佐伯の現金さに呆れながらも、その夜に仲直りを果たし、佐伯の機嫌は翌日からすっかり直ったのだ。
 ただ、あの日以来、ジムで佐伯の姿を見かけることはなくなった。

 それから1か月後。
 休日、ジムで着替えた私の前に、突然佐伯が現れた。
「御堂さん、一緒にスカッシュやりませんか?」
「嫌だ」
 先日の出来事が頭をよぎり、即座に断った。
「そう言わずにやりましょうよ。またスカッシュがやりたくなったんです。」
「インストラクターとやってくれ」
「あなたとしたい。負けても拗ねたりしませんから」
 やっぱり自覚があったのか。佐伯を一瞥する。
「私は知っての通り手加減が出来ない。…負けても文句言うなよ」
「もちろんです。むしろそっちの方が燃えます」
 佐伯が嬉しそうに言う。その余裕はどこからくるのか訝しく思ったが、かくして再び二人でスカッシュコートに入ることになった。
 黒い上下で揃えた私とは対照的に白いシャツと短パンを着用した佐伯は、眼鏡からアイガードに付け替え、ヘアバンドを着用する。横で私もアイガードを付けた。驚いたことに、佐伯は自分用のラケットを購入していた。私とスカッシュがしたくて買ったのだという。軽くウォーミングアップをして、佐伯のたっての希望で再びゲーム形式で始めた。
 サービスボックスから軽くサーブを打つ。ゲームを始めてすぐに佐伯の動きに無駄がなくなったことに気が付いた。ボールの動きも良く読めている。偶然だろうか。そのままラリーを続ける。私が打ったボールがコーナーにぶつかり失速し、佐伯のラケットに届かなかった。1点リードする。
「やっぱり強いですね」
 佐伯が笑みを浮かべて言う。
「君も上手くなったな。…練習したのか?」
「才能ですかね」
 佐伯がうそぶく。再びラリーが始まる。
 序盤戦はお互いの実力を伺いながらの軽いラリーが続く。前回と違い、佐伯は常に冷静だった。技術面では未熟だったが、とことんミスがない。取りこぼしがないため、必然的にラリーが長くなる。点を取ったり取られたりしつつ、いい勝負のまま後半戦に入った。
「佐伯、君は練習してきただろう」
「さて、どうでしょう」
 自分の息が少し上がっていることに気付いた。佐伯の目が笑う。
 ラリーを続けていると、突然佐伯が低く速いボールを打った。相手のポジションをかく乱するためのプレッシャーショットだ。
 すかさず拾いに走る。私のポジションが大きくずれる。そのまま佐伯にゲームの支配権を握られた。続けざまにプレッシャーショットを打たれる。激しくコート内をかき回された。このまま佐伯の好きにさせるわけにはいかない。フロントに打つと見せかけて、バックにボールを打った。フェイントに驚いた佐伯がボールを拾うものの、勢いは削がれた。これでイーブンだ。
ーー強い。
 佐伯は明らかに強くなっていた。戦術面でも技術面でも上達していた。しかも元々身体能力は高い。挙句、前半戦ではその能力を隠していた。試合が思っていた以上に長引き、息が切れる。スタミナ勝負になったら若い佐伯の方が有利だ。
「あっ」
 ボールを取りこぼし、思わず声を上げた。佐伯がニッと笑う。
「これで10-10ですね。2点先取したほうが勝ちでしたっけ」
 まだおしゃべりが出来る余裕があるのか。対して私は荒い息になっていた。汗をタオルでぬぐう。
 戦況は佐伯に傾いていた。疲労から足が重くなり、ボールを追うのが精いっぱいになる。
 かろうじて1点先取しマッチポイントに持ち込んだものの、すぐに佐伯に追いつかれ、11-11に。再びゲームが振出しに戻る。2点先取するまでは終わらない。
 佐伯が軽くボールを打つ。一刻も早く決着をつけないと戦況はどんどん不利になる。思いとは裏腹に佐伯に1点先取された。マッチポイントだ。負けたくはない。思い切りラケットを振り切る。鋭い打球は佐伯のラケットの下をかすめた。
「これで12-12。振出しですね」
 佐伯が意地の悪い笑みを浮かべた。嫌な予感がした。
「佐伯、今の取りこぼしは、まさか……わざとか?」
 酸素が足りない。声を出すのものも喘ぎ喘ぎになる。
「俺はわざと負ける気はありませんよ。…ただ、汗をかいて喘ぐあんたは色っぽくてそそられる」
 その佐伯の眼差しは、彼が場を支配し君臨したときに見せる愉悦が混ざっていた。
 彼の戦略に気が付いた。経験の少ない彼は、技術や戦術面の未熟さを体力でカバーし、消耗戦に持ち込むことで優位に立とうとしたのだ。そして、彼のその思惑にまんまと私ははまった。彼は試合をわざと長引かせて楽しんでいる。
 佐伯はこのゲームを完全に支配した。1点先行しては、私に点を取らせる。一向に勝負がつかなかった。
 絶え間なく流れる汗が目に入る。ヘアバンドを着ければよかったと後悔した。
 再びマッチポイントを佐伯が取った。水分補給と汗を拭く以外の休憩はほとんどとらずに、走りっぱなしだった。流石に佐伯も肩で息を切っている。一方私は、すでに話が出来る余裕はなく、ぜいぜいと荒い呼吸をし、膝に力が入らなくなっていた。
「そろそろ限界か?」
 佐伯がこちらを一瞥し喉をならして笑った。
「決着をつけますか」
 佐伯が激しいスマッシュをうった。ウィニングショットだった。反応しきれず、私の脇をかすめて2回バウンドする。勝負がついた。私の負けだった。
「……くそっ」
 悔しさに呻いた。その一方で、やっとゲームを終わらせることが出来て安堵していた。
 コートを出て、ベンチに崩れるように座った。汗をぬぐい水分を補給する。佐伯が機嫌よくついてくる。
「…どこで練習した?」
 ペットボトルから口を離して、佐伯に聞いた。佐伯はいつの間にかアイガードから眼鏡に付け替えていた。
「スカッシュスクールに通いだしたんです。プライベートレッスンを契約して、ほぼ毎日通いつめましたよ。……おかげで、スタミナがつきました」
 気付かなかった。普段の忙しい業務の中で、いつの間に行っていたのだろう。
 素直に感心した。やはりこの男はすごい。
「君は相当の負けず嫌いだな」
「…あなたに並びたいんです。仕事でも何でも」
 そう言うと私の隣に座ってこちらに顔を向けた。
「試合に勝ったので、ご褒美もらえますか?」
「ご褒美…?分かった。この後、食事をおごろう」
 佐伯は私の耳元に口を寄せて囁く。
「食事の後のご褒美も期待していいですか?」
 その甘いささやきには淫猥な響きが含まれていた。既に紅潮していた顔が更に赤くなる。
「馬鹿!…もう、体力の限界だ」
 佐伯が軽く笑って立ち上がった。佐伯を見上げる。
「佐伯。……次は負けないからな」
「楽しみにしています」
 そう笑って私の言葉を余裕の笑みで受け止めると、先に着替えてます、と言って、シャワールームに向かった。
 私は受付に行ってレンタル用品を返却し、コート使用終了の手続きを行った。
「御堂さん、今日はらしくない試合でしたね」
 普段一緒にスカッシュをしているインストラクターに声をかけられた。
「いつもは最初から遠慮せずに容赦ない攻撃を仕掛けてくるじゃないですか」
「…相手の実力を見誤ったんだ」
 そう短く返答して、会釈した。佐伯がこの場にいなくてよかった。
 手を抜いたわけではないが、プレイスタイルは変えた。序盤戦で決着をつけずに、あえて大きく動いて、自分の体力をわざと削ったのだ。多少のハンディをつけたつもりだったが、それがこんなに自分自身を追い詰めるとは思わなかった。
 佐伯は鋭い。私の普段のプレイスタイルを知らなかったから出来たことだ。でなければ、手加減されたと更に機嫌を悪くしていたことだろう。
――徐々に本気を出すか。
 あの短期間にここまで上達した佐伯のことだ。うかうかしていると、本当に抜かれるだろう。
 面倒で厄介な男と付き合いだしたものだ。苦笑が漏れる。
 疲れて重くなった身体を引きずり、シャワールームに向かった。
 だが、不思議とその疲労感に心地よさを感じた。

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