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​32歳エリート部長、魔法少女になりました☆
第七話 部屋とワイシャツとカレーとバレー

「おーい、克哉! こっちこっち!」

 

 混み合う店内でよく通る声の方向に顔を向ければ、店の奥の座敷から本多が、御堂と佐伯に向けて大きく手を振っていた。

 

「御堂さん、あちらです」

 

 佐伯は御堂に声をかけると、狭いテーブルの隙間を縫うように歩いて、本多がいる座敷へと向かった。その後に続きながら御堂は佐伯に向かって言った。

 

「随分と大衆的な店だな」

「ええ、八課でよく使っています」

 

 嫌味を込めて言ったつもりだったが、佐伯は気付かぬふりで返答をする。

 佐伯の話では、キクチ八課から徒歩圏内にあるこの店は、安いながらも手作りの味の総菜を出す人気の店なのだという。だから繁華街の外れにあっても、いつでも混雑している。今日は本多が先に並んで順番待ちをしてくれていたおかげで、御堂たちは待つことなく中へと入れた。

 本多は畳敷きの座敷のテーブルの手前に座っていて、御堂に上座にあたる奥の席を勧めた。佐伯は本多の隣、御堂とは向かい合わせに座った。

 本多はドリンクメニューを手に取って御堂に差し出した。

 

「御堂さん、何飲みます? 俺たちは生ビールでいいよな?」

「ああ」

「では、私も同じもので」

 

 目の前に差し出されたメニューを受け取ることなく、御堂はちらりと一瞥して言った。

 

「じゃあ、とりあえず生ビール、中ジョッキ三つ!」

 

 本多が店員を呼んで注文を告げると視線を御堂へと向けた。

 

「御堂さん、苦手なものとか食べたいものとかあります?」

 

 今度は食事メニューを広げて御堂に見せてくる。御堂は眉をひそめて言った。

 

「……私の舌に合うものがあるとは思えん。私のことは気にせず、君たちで好きに選んでくれたまえ」

 

 この飲み会に嫌々ながら出席しているという態度が露骨に出ていて、本多は肩を竦めると傍らの佐伯に耳打ちした。

 

「舌に合うものって、どうせ、カタカナだらけの長ったらしい名前のものばかり食ってるんだぜ」

 

 本多のよく通る低い声は明らかに内緒話向けではない。佐伯は返事がわりに片肘で本多の腹を突き、御堂は片眉を吊り上げて本多を睨みつけると、本多は慌てて背筋を正した。

 

「じゃあ、こっちで適当に頼みますね」

 

 そう言って、ビールと突き出しを持ってきた作務衣姿の店員に、慣れた調子で注文を頼み始めた。

 

「枝豆、やみつきキャベツにだし巻き卵、焼き鳥盛り合わせをタレで。あ、あと、本日のおすすめの……」

 

 本多が店の壁に貼られた本日のおすすめメニューを確認しながら、さらに注文を続ける。三人分にしては注文量が多い気がするが、本多は体格が大きいだけによく食べるのだろう。

 本多憲二、佐伯と同じキクチ八課の営業メンバーだ。佐伯に次いで営業成績は良いという。いかにも体育会系といった印象を受ける立ち振る舞いで、中身も想像を裏切らない。真っすぐな熱血漢だ。鬱陶しいが悪い男ではない。

 そしてこの日、なせ御堂がこの場にいるのかというと、佐伯に飲みに誘われたのだ。

 複雑なしがらみもあり飲みに行くことを承諾すると、佐伯はすかさず「本多も一緒ですが良いですか?」と聞いてきた。あからさまに嫌な顔をしたら「俺と二人きりが良いですかね」と含みを持った口調で言われたので「もちろん本多君も一緒で構わない」と即座に返答した結果、ここにいる。だが、この店に入って五分で御堂はすでに後悔し始めていた。お世辞にもきれいとは言えない、騒々しい居酒屋。御堂が来るような場所ではない。断じてない。

 

「それじゃ、ひとまず乾杯!」

 

 運ばれてきたビールのジョッキを掲げて本多が宣言した。御堂も手にしたジョッキをわずかに持ち上げて合わせる。本多が、口元に白い泡をつけた顔を御堂に向けた。

 

「ところで、御堂さん、いつの間に克哉と仲良くなったんです?」

「――ッ!」

 

 本多の何気ない一言に、飲みかけたビールを噴き出しかける。佐伯がむせ込む御堂の代わりに答えた。

 

「まあ、いろいろあってな」

 

 どうにか呼吸を整えて、口を開いた。

 

「本多君、君は勘違いしているようだが、私は佐伯と仲良くなどなっていない」

「そうなんですか? 今日だって克哉が飲みに御堂さん連れてくると言って、本当に連れてきたからてっきり仲がいいのかと」

「それは……」

 

 本多に釘を刺すつもりが、痛いところを突かれて言葉を失う。向かいで佐伯がくすりと吐息で笑った。

 

「本多、御堂さんには御堂さんの事情があるんだ。深く突っ込むな。しかも、今回はおごりだぞ」

「え、まじか」

「ですよね、御堂さん」

「ああ。好きに飲み食いしたまえ」

 

 不承不承に頷きながら言った。ホテル代の代わりに食事代をおごる。そんな約束を佐伯としたのは事実だ。その後いろいろあってすっかり忘れていたが、まさか、今頃になってそれを持ち出されるとは思わなかった。どうせなら、御堂が普段行くような店に連れてってくれと頼んでくれば可愛げがあるのに、こんな小汚い居酒屋に御堂を連れてくるとは。

 不満を隠そうともせず、御堂はこれ見よがしのため息を吐いた。

 

「別にこんな安っぽい店でなくても、私がいい店を紹介したのに。それも君らとは縁がなさそうな店をな」

 

 本多がジョッキを半分ほど空にして言った。

 

「まあまあ、御堂さん。ここ、俺のおすすめの店なんですよ。値段が手ごろなのに、美味い」

「君らの舌にはちょうど良いのだろうな」

 

 騒々しい背後の客の声に紛れたのか、御堂のコメントは本多の耳に届かなかったらしい。本多が男前の顔で笑って言葉を続ける。

 

「御堂さんさえ良ければ、今度俺が作った特製カレーごちそうしますよ。結構いけるんですよ、なあ、克哉」

「……コメントは控える」

「なんだよ、それ。この前俺んちで食わせてやったろ」

 

 ぼん、と強く背を叩かれて、佐伯は手にしていたビールを零しそうになる。迷惑そうな顔で本多を睨んだが、本多は「わりい」と軽く笑っていなす。本多と佐伯の二人の間に漂うのは、同僚というよりは気の置けない友人といった空気だ。二人の話の内容からすると、佐伯は本多の部屋で一緒に食事をするくらいには仲が良いのだろう。

 それを想像した時、不意に御堂の心の奥底に名状しがたい不快感がこみ上げた。

 

「枝豆とやみつきキャベツお持ちしました~!」

 

 威勢の良い声と共に、枝豆と大きなボウルに盛られたやみつきキャベツがテーブルに置かれた。それを目にして、御堂は眉をひそめた。

 

「……なんだこれは」

 

 サラダなどという洗練されたものではない。乱雑に千切られた生のキャベツに、ごまと黒い糸状の物体が散らされている。本多は菜箸でキャベツを取り分け皿に盛ると御堂の前に置いた。

 

「やみつきキャベツですよ。一口食べてみたらどうです? おいしいですよ」

「とてもそうは思えないが」

 

 げんなりしつつも本多に促されて渋々、小さめのキャベツを端で摘まんだ。よく見たら、黒い糸状の物体は塩昆布のようだ。ゴマ油の良い香りが漂っている。恐る恐る口の中に入れてみる。新鮮なキャベツの触感、塩昆布の風味、そしてゴマ油の香ばしさ。思わず「これは……」と感嘆の声を上げそうになって、自分を見つめている二人の視線に気づき急いで何でもない風を装った。

 

「まあ、意外性のある味だな」

「……素直に美味いって言えばいいのに」

 

 本多が呆れたように言う。

 

「御堂さん、ここのだし巻き卵も絶品ですよ」

 

 佐伯はそう言いながらもあまり食事には手を付けず、ビールばかりを傾けている。

 二人に勧められるまま、他の料理も口にしたが、確かにどれも美味しかった。だし巻き卵はふんわりとした柔らかさでだしと甘さが絶妙だ。こってりとした甘辛の焼き鳥も炭焼きの香ばしさが食欲をそそる。接待に使えそうな店ではないが、営業だけに評判の良い店に詳しいのだろう。

 運ばれてくる料理を摘まんでいると、本多が佐伯相手にしゃべり始めた。

 乗り気ではなかった飲み会だ。この三人で場が持つのか不安だったが、心配は杞憂だった。新製品の営業の手ごたえや失敗談、新たな取引先の開拓など、本多が会話のとっかかりを作り、所々で御堂に話を振ってくる。御堂に気を配りつつも場を盛り上げる、そのセンスはさすが有能と言われる営業マンだ。

 よくしゃべる本多に対して、佐伯の口数は多くはない。それでも二人は仲が良さそうに見える。同じ課の営業同士だ。常に成績を比較されるライバルでもあるはずなのに、こうした砕けた雰囲気を作ることが出来るのは本多の根明(ねあか)なキャラクターによるところが大きいのだろう。

 会話する二人をじっと見つめる。

 裏表がなさそうな本多に対して、佐伯は滅多に素を見せない。だから、佐伯が本多のことをどう思っているのか。それが気になって仕方がない。チラチラ佐伯を観察していると、不意に佐伯と視線が絡んだ。慌てて視線を外したところで、佐伯が言った。

 

「そんなに、やみつきキャベツ、気に入りましたか?」

「は?」

 

 佐伯に指摘されて手元の皿が空になっていることに気が付いた。

 

「い、いや、これは……」

「これ、名前通りやみつきになりますよね」

 

 本多が大きくうなずきながら言う。

 

「違う、やみつきキャベツにやみつきなどなっていない!」

「やみつきキャベツ、もう一つお願いしま~す!」

 

 御堂の反論などお構いなしに、本多が店員に追加で注文した。

 

「おい、こんなに食べられないぞ」

「残ったら俺たちが食べますから、なあ克哉」

「俺はお前と違って馬鹿食いはしない」

 

 呆れたように返す佐伯に本多は男前の顔を崩して大きく笑う。この二人の距離感は、やはり単なる同僚と言い切れないものを感じた。

 

「君たちは随分仲が良いのだな」

「俺と克哉は、同じ大学の同期ですし、部活も一緒だったんですよ」

「ほう」

「俺は途中で退部して本多とはそれきりでしたし、再会したのはキクチですけどね」

 

 佐伯がやんわりと本多の言葉を補足した。

 佐伯は確か、明応大学出身だったはずだ。大学時代の同期ならこの気安さも納得できる。しかも、部活も一緒だったのならなおさらだろう。

 

「部活は何をしていたんだ?」

「ええと……」

 

 返事をしかけて本多は言葉を切った。そして不意に押し黙った。胡坐をかいていた佇まいを直し、正座をすると御堂にまっすぐに向き直る。

 

「……実は、御堂さんにお願いがあるんです」

「お願い?」

「MGNサンライズの存続をお力添えいただけませんか」

「サンライズ? バレーボールのか?」

「そうです」

 

 本多は大真面目な顔をして頷いた。

 MGNサンライズ。MGN社が持つ実業団バレーボールチームだ。MGN社はスポーツドリンクなどスポーツ関連商品を展開していることもあり、スポーツ文化支援の一環として実業団チームを有していた。だが、近年の不況のあおりを受けて、経営の立て直しのため上層部はサンライズを廃部する方針を固めたと聞いていた。その噂はすでに社の内外に広まっている。

 

「悪いが、私はサンライズの存続に云々言える立場ではない。それに、廃止の方針は今更足掻いても覆せるものではない」

「そこを、なんとかお願いできませんか!」

 

 本多は両手をテーブルに付けると大きく頭を下げた。どうやら、御堂がこの飲み会に呼ばれたのは裏があったのだ。本多が御堂にこの直談判をしたくて、佐伯に頼んでこの場を設けたのだろう。

 騙して連れてこられたことに、御堂は佐伯にきつい視線を向けたが、わざとらしく顔を逸らされる。佐伯の顔を立ててやる義理も必要性も感じなかったが、とりあえず話だけは聞いてやろうと本多へと視線を戻した。

 

「なぜ、それほどサンライズの存続にこだわる?」

「俺はキクチに入ってからずっとサンライズを応援していたんです。試合は出来る限り観戦しにいきましたし……」

 

 本多の話では、本多主導で存続に向けての署名活動を行い、他にも関係各所への働きかけをしているという。しかし、反応は芳しくなく、御堂の知恵と力を借りたいと考えたようだ。だが、御堂にとってはまるで興味のない話だ。

 

「サンライズが廃部になっても、日本の実業団バレーが滅びるわけではない。引き続き他のチームを応援すればいいではないか」

「そういう話じゃないんです!」

 

 本多は声を上げた。その口調が熱を帯びる。

 

「チームが一つ減れば、プロ選手の数も少なくなる。サンライズのメンバーの多くはプロを諦めなくちゃいけなくなるし、下手したらバレー自体を辞めなくちゃいけなくなる。俺はそんな思いをメンバーにさせたくないんです」

「君はサンライズの熱心なファンというわけか」

「ファンというだけじゃないんですよ、御堂さん」

 

 横から佐伯が口を挟んだ。

 

「本多は大学時代バレーボール部のキャプテンだったんです。プロ入りを嘱望されるようなアタッカーで、本多が率いたチームは全国優勝を……」

「おいっ、克哉! その話はもういいから……!」

 

 本多が慌てた声で佐伯の言葉に被せてきた。何かしら触れられたくない事情でもあるのかもしれない。しかし、御堂は佐伯の言葉に反応する。

 

「君らは明応大のバレー部だったのか」

 

 バレーボールにてんで興味がない御堂でさえも明応大学のバレー部が強豪チームであることを知っていた。全国制覇の常連で、プロ入りする選手だけでなくオリンピックの舞台で活躍する選手も多く輩出している。本多をまじまじと見詰めた。本多がバレー部出身だというのは知っていたが、それほどの名門チームのキャプテンまで務めていたとは知らなかった。

 

「それなら君はなぜ、プロ入りしなかったんだ?」

「それは……」

 

 本多は気まずそうな顔をして言葉を濁した。先ほどの佐伯に対する態度といい、どうやらプロ入りしなかったのは、そう簡単に言えない複雑な理由があるらしい。しばしの間、沈黙が立ち込める。御堂は、ひとつ息を吐いて告げた。

 

「私はサンライズ廃止の経営判断は当然だと考えている」

「っ……」

 

 御堂の冷淡な言葉に本多が息を呑んだ。

 

「サンライズの成績不振は今に始まったことではないし、チーム人気も低迷している。コストに見合うだけのリターンがあるとは到底考えられない」

「バレーボールチームを持つというのは、自分の会社に対するリターンとかそういう狭い視野で考えることじゃないんですよ!」

 

 本多は即座に反論してきた。すぐカッと熱くなる本多の性格は、冷静沈着を常にする御堂からしたら煩わしいことこの上ない。本多が御堂を頑張って説得したところで、サンライズ廃部の方針が覆る訳では無いのだ。うんざりしながら言った。

 

「大体君は、なぜそこまでサンライズに肩入れする? 本当のところ、君は自分の挫折した夢をサンライズに託しているだけなのではないか?」

「それが、ダメだって言うんですか?」

「ダメとは言わない。チームを応援するのはいいことだ。だが、君はファンとしての一線を越えて入れ込み過ぎているように思える」

 

 本多は今にも御堂に食って掛かりそうな勢いで御堂を見据えている。御堂は言葉を続けた。

 

「それに、わが社の財政状態の建て直しは喫緊(きっきん)の課題だ。もし、サンライズを継続させるなら、代わりにどこかの部署のリストラが必要になる。君は、そのことについて考えたことがあるか?」

「え……」

 

 そんなことは考えたこともなかったのだろう。本多は呆気にとられたように目を見開いた。

 

「サンライズは廃部するとはいえ、部員をリストラするわけではない。全員をわが社の社員として継続雇用する予定であるし、もちろん、バレーを続けたいのなら他のチームへの移籍も出来る。そして、事前の希望調査ではわが社での継続雇用を望む者が大半だと聞いている。つまり、そこまでしてバレーを続ける気はないとのことだ」

 

 本多は何かを言いかけて口が半開きになったまま、言葉を失っていた。御堂は冷笑を浮かべた。

 

「君自身はサンライズのメンバーにバレーを続けさせたいのだろうが、MGN社がなぜ廃部の判断に至ったか、そして、メンバー全員が本当に存続を望んでいるのか、そんなことさえ考えなかったのか? 自分本位の勝手な主張を押し通すのは頑是ない子どもと変わらない」

 

 赤らんでいた本多の顔が青ざめていく。それでも御堂の舌鋒に容赦はなかった。

 

「大体、夢は自分で叶えるものだ。他人に叶えさせるものではない。君がなぜプロへの夢を挫折したか知らないが、君の暑苦しい夢の押し付けなど、チームメンバーも迷惑しているのではないか」

 

 あまりにも辛らつな言葉。

 本多がバンと両手でテーブルを叩いた。騒がしい店内が一瞬で静まり、周囲の客の注目が御堂たちに集まる。本多はそんな視線を気にすることなく御堂に言い放った。

 

「もういいです! あんたに期待した俺がバカでした!」

 

 御堂も負けてはいない。ふんと鼻で笑って言い返す。

 

「君は自分が正しいと信じて疑わない。他人の意見を取り入れる気もない。そして、自分の意見が受け入れらないと分かった瞬間に不貞腐れる。まるで図体の大きい子どもだな」

「――ッ!」

 

 本多はぐっと太い眉を吊り上げて、御堂を睨みつけた。だが、かろうじて怒りに任せた言葉は呑み込んだようだ。ひざに力を込めて立ち上がる。

 

「克哉、悪い。俺は帰らせてもらう」

 

 唸るように言った。そこに御堂が余裕の笑みを浮かべながら追い打ちをかける。

 

「なんだ、もういいのか? 私のおごりだぞ? 好きなだけ飲み食いするといい」

「どうもご馳走様でした!」

「本多!」

 

 御堂にそう言い捨てて本多は席を立った。佐伯の呼びかけに振り返ることもなく大股で店を出て行った。

 佐伯と二人で取り残される。何事もなかったかのように店内の喧騒はすぐに戻った。佐伯はふう、と大きなため息を吐いて、御堂を見た。

 

「御堂さん。あなた、敵が多そうですね」

「君もな」

「俺はいたって平和主義ですが」

「どの口が言う。私をこんな場所に連れてくるとは」

「ですが、食事は中々いけるでしょう?」

「ふん、いかにも庶民受けしそうな味だな」

「やみつきキャベツお持ちしました~!」

 

 嫌味と挑発の応酬をしていると、店員の威勢の良い声が割って入った。御堂は店員に顔を向けて一言、言った。

 

「ああ、それはこちらだ」

「はい、どうぞ」

 

 御堂の前にやみつきキャベツがどんと置かれた。

 

 

 

「くそったれ!」

 

 本多は自室に帰るなり、乱暴にドアを閉め悪態を吐いた。

 真っ暗な部屋の電気を付ける。男の一人暮らしの殺風景な部屋だ。ネクタイを解いてスーツのジャケットを脱ぎながら部屋に上がった。

 スーツの窮屈さから解放されたくて、トレーニング用のジャージに着替える。

 苛立ちはまだ腹の奥底にくすぶっている。原因は明白だ。先の飲み会での御堂とのやり取りのせいだ。

 

「プロになれるなら、なってたさ……」

 

 ひとり呟く声に苦渋が混じった。

 今の仕事は楽しい。特に、御堂が開発した新製品の販売を任されてからは、今までになく大きなプロジェクトの一員として頑張っている自負があるし、やりがいもある。ただ、営業マンとしての自分の立場に満足しているかと問われれば、素直にうなずくことは出来ない。

 ワイシャツを着てネクタイを締めて各社に頭を下げて回る。大学生時代の自分は、まさかこんな仕事をしているとは夢にも思わなかっただろう。今から思えば、あの頃が一番輝いていたのかもしれない。プロの選手になるという夢に向かってひたむきに励んでいた。

 むしゃくしゃした気分を晴らすには身体を動かすのが一番だ。軽くジョギングでもしてくるかと立ち上がった時だった。インターフォンが鳴った。

 ドアを開けてみれば、スーツ姿の佐伯が立っていた。

 

「克哉……」

「中に入ってもいいか?」

「ああ」

 

 ドアを大きく開いて身体を引くと佐伯が靴を脱いで入ってきた。本多はジョギングに行くのを止めて、佐伯の後に続いて部屋の中に入るとしおらしく頭を下げた。

 

「さっきはすまない。途中でおっぽり出して帰って。……御堂さん、怒っていたか?」

「相変わらずさ。おごってもらったお礼を言うついでに、一言謝罪でも言っておけ」

「ああ、そうする」

 

 部屋に入った佐伯は部屋の中に立ち込める異臭に顔をしかめた。

 

「また、カレー作ったのか」

「作り置きのカレーだ。お前も食べるか? まだいっぱいあるぜ」

「要らない。お前みたいに無尽蔵な胃袋を持っていなからな」

「それなら酒でも飲むか?」

 

 本多は部屋の片隅の段ボールから実家から送られてきた地酒の瓶を引っ張り出した。佐伯がわざわざ本多の部屋まで来たのは、自分が落ち込んでないか、フォローするために来たのだろう。そんな佐伯の心遣いがうれしくもあり、申し訳なくもあった。

 黙ったまま二人で酒を酌み交わす。自分へのいら立ちを紛らわそうとして、口を開いた。

 

「なあ、克哉」

「なんだ?」

「俺は、サンライズのメンバーに自分の夢を押し付けているんだろうか」

「そうだな……」

 

 はいでもいいえでもない曖昧な相槌を打つ佐伯に本多は思い切って話を切り出した。

 

「克哉。お前、なんでバレー部辞めたんだ?」

 

 佐伯と本多は同じ明応大のバレー部だった。だが、佐伯は一年ちょっとでバレー部を突然辞めてしまった。それがずっと本多の気がかりだったが、自分自身、バレー部時代のことはあまり触れられたくない話題だったから聞けなかったのだ。

 本多の唐突な言葉に佐伯は酒のグラスを置いた。そして、顔を本多に向けた。

 

「知りたいか?」

「ああ」

「教えてやろう」

 

 佐伯のレンズ越しの眼差しがまっすぐに本多に向けられる。その眸は冷たくて、ぞくりと嫌な予感が本多の背筋を走った。佐伯は口元を歪めて、一言告げた。

 

「お前が気に食わなかったからだよ、本多」

「な……」

 

 あまりにも予想外の返答に思考が固まった。佐伯は言葉を継ぐ。

 

「二言目にはチームワーク、チームワークって馬鹿みたいに繰り返して。根性やら熱意やら、精神論を振りかざすお前の短絡的な思考が目障りだったんだよ」

「なんだって……」

「俺はプロ入りを希望していなかったからな。お前を我慢してバレー部にいる理由がなかった。だから、辞めた」

「それ、本気で言ってるのか……?」

 

 酒で潤したはずの喉がやけに渇く。佐伯は低く笑った。

 

「お前、気付いてなかったのか? あのチームメンバーがお前について言ったのは、お前を支持していたからじゃない。お前が強かったからだ。お前と組めば勝てる。そして、プロに入れると思っていた。ただプロ入りだけを嘱望してバレー部に入ったんだ。だが、その夢をお前がぶち壊したんだ」

「――ッ!」

 

 凍えた手で心臓を鷲掴みされたような衝撃だった。本多があの時のメンバー以外の誰にも話さなかったこと、話せかった秘密を、佐伯は知っている。佐伯は冷たい笑みを深めた。まるで死刑を宣告するような口調で言った。

 

「……知っているぞ、本多。お前は実業団のプロチームとの試合で、プロを勝たせる代わりにプロ入りを保証する、その取引を蹴ったんだってな。結果、お前のチームは大勝。そして怒った実業団に、お前ばかりかプロ入りが内定していたほかのメンバーもプロ入りを白紙にされた。結果、お前のチームは誰一人プロになれなかった」

「だからって、八百長試合をしろというのか! それこそ、真面目にやってきた俺たちへの侮辱だろ!」

「俺たち、だと?」

 

 佐伯は呆れたように肩を竦めた。

 

「お前はチームを代表しているつもりか? だから、誰にも相談せずに独断で決めたんだろう? それで他のメンバーはお前に賛同したか? 違うだろう。誰もがお前を責め立てた」

「どうしてそれを……」

 

 まるでその場にいたかのように佐伯は言う。

 

「お前の耳には全く聞こえていないのだろうな。あの時の部員たちの怨嗟の声が」

「分かってたさ……。あいつらがどれほど落胆したか」

 

 本多は歯を食いしばりながら言った。

 

「だからってどうしろって言うんだよ! 俺は間違ったことをしたつもりはない!」

「そう、お前は間違っていない。だから、理不尽に奪われた自分の夢をサンライズに託した。そして、自分の代わりにサンライズのメンバーにプロを続けさせようと奔走した」

 

 良き理解者のような口ぶりで佐伯は続ける。

 

「しかし、御堂の言う通り、お前は独りよがりな夢をサンライズのメンバーに押し付けていただけなんだ」

「よせ……っ!」

 

 悲鳴のような声を上げた。これ以上は何も聞きたくない。

 手加減なく突きつけられるナイフのような佐伯の言葉は本多の心の柔らかな部分を抉りぬいていく。

 

「可哀想だなあ、本多。正しく生きようとしても誰からも感謝されずに、むしろ恨みを買って。お前の熱意は常に空回りをしている」

「もうやめろっ! ……やめてくれっ」

 

 本多は両手で耳を覆った。強さを失った視線が何を探すように宙をさまよう。だが、佐伯の唇は残酷な言葉を紡ぎ続けた。

 

「本多、お前は自分の信念だけを正しいと信じて、それにすがって生きてきた。他のものには見向きもしない。だから強かった。しかし、そのお前の信念が間違っていたとしたら、そしてそれが周囲にとって害悪でしかないとしたら……お前は一体どうすれば良いのだろうなあ?」

「もう……やめろ…。お願いだから………」

 

 すすり泣くような声が本多から漏れる。佐伯は一転して優しく労わるような声を出した。

 

「俺がお前を助けてやろう」

「なに……?」

 

 本多は涙にぬれた目で佐伯を見上げた。佐伯がゆったりとほほ笑む。

 

「お前の活躍の場を俺自ら用意してやる」

 

 佐伯はジャケットの内ポケットから眼鏡を取り出した。そのツルを開くと、呆然としている本多にかけてやる。

 ひんやりとした金属の感触が肌に触れた。本多の視界がレンズに覆われる。

 

「これは……?」

 

 何の変哲もない只の眼鏡、これが何だというのだろう。本多がそう思った次の刹那、視界が真っ赤に染まり、思考が激しくかき乱された。

 

「――うぁ、うあああああっ!!」

「お似合いだぞ、本多」

 

 佐伯は眼鏡を付けた本多を満足げに見下ろした。

 

「お前がこうなるのを待っていた。お前の固い信念が脆く崩れ去るのを」

 

 あまりの苦しさに本多は眼鏡を外そうとした。だが、もう遅かった。キチク眼鏡は本多の弱った心に深く根を張った。

 佐伯の足元で本多がのたうち回る。しかし、その抵抗も次第に弱まり、見開かれた本多の双眸が血のような赤さに塗り替えられていく。

 

「お前にはエネマキュアをおびき寄せてもらおう」

 

 佐伯は薄い笑みを浮かべながら、本多の耳元に口を寄せた。艶めいた声で囁く。

 

「本多、すべて壊してしまえ。お前の思い通りにならないこの世界を、何もかも……くく」

 

 

 

 

 その夜、御堂は馴染みのワインバーのカウンターの隅で深酒をしていた。

 

「佐伯め、私の誘いを断るとは許せん。私は親会社の上司だぞ」

 

 そう呟いて、ワイングラスを揺らすと、中の暗赤色の液体を一息に呷(あお)った。

 

「旦那、飲み過ぎでやんす」

 

 一見、一人でクダを巻いているように見えるが、御堂にしか見えない悪魔姿の人外の存在が御堂の相手をしていた。鬼畜妖精だ。鬼畜妖精はかれこれ一時間以上こうして御堂に付き合わされている。発端は、御堂の誘いを佐伯が断ったことだった。

 本多が去った後、少しして御堂たちも店を出た。御堂が会計を済ませると、佐伯は御堂に「ごちそうさまでした」と深々と頭を下げた。店の会計は本多が言った通り肩透かしするほど安く、礼を言われるほどのものでもなかったが、貴重な自分の時間を割いてやったのだ。そのことに関しては感謝されて当然だった。

 これで佐伯と貸し借りなしとしたいところだが、佐伯とこうして二人で食事をして酒を交わすことに御堂は新鮮さを感じた。佐伯とはのっぴきならない理由で体の関係を持ってしまったが、お互いのことはよく知らないままなのだ。今日の飲み会で佐伯の大学時代の話を少し知った。自分でも驚いたことに、佐伯のことをもっと知りたいと思った。だから、さりげない風を装って佐伯を誘った。

 

「佐伯、この後、私の行きつけの店を紹介しよう。良いワインが置いてあるし、雰囲気も良い」

 

 御堂自ら誘ったのだ。当然佐伯はついてくるものと思ったが、期待は裏切られた。

 

「お誘いありがとうございます。ですが、この後、所用がありまして」

 

 控えめながらもきっぱりと御堂の誘いを断る佐伯の所用が何を指しているのか、すぐに分かった。意地悪く聞く。

 

「本多のところに行くのか?」

 

 佐伯は柔らかな表情を保ったまま答えなかった。その沈黙が肯定と御堂への気遣いを示していて、御堂は不機嫌になった。

 

「彼のことなど放っておけばいいだろう。彼も良い大人だ」

「たまに大人げないところもありますが」

「まったくだ」

 

 御堂に合わせて会話をしながらも、佐伯は本多の元へと向かうつもりのようだ。その事実に無性に腹が立ったが、これ以上しつこく誘うのは御堂の性に合わない。御堂はひとつ息を吐いて、佐伯を誘うのを諦めた。嫌味を込めて言う。

 

「随分と仲がいいのだな、君たちは」

「あいつとは大学時代からの腐れ縁ですからね」

 

 そうやって小さく笑う佐伯にさらなる苛立ちがこみ上げた。

 そうして佐伯と別れた後、馴染みのワインバーのカウンター席の端に腰かけて御堂は鬼畜妖精相手にワインを飲んでいたのだ。

 

「まったく、可愛げのない男だ」

「そんなに佐伯君と飲みたいなら、また誘えばいいでやんすよ」

「なぜまた私が誘わなければいけないんだ。次はあいつが私に頭を下げるべきだろう」

「旦那、絡み酒はもうそろそろ終わりにするでやんす~」

 

 鬼畜妖精に愚痴りながらワイン一本開けて、すっかり出来上がった御堂はようやく店を出た。アルコールで覚束ない足取りで大通りに沿って歩く。タクシーを捕まえたいが、終電を過ぎた時間帯のせいか、なかなか空車のタクシーが捕まらない。

 そんな時だった。鬼畜妖精が御堂の耳元で声を上げた。

 

「旦那! 怪人が出現したでやんす!」

「うるさい。そんな気分じゃない」

 

 御堂は鬼畜妖精を追い払うように手を振った。だが、鬼畜妖精も慣れたもので、その程度ではへこたれない。御堂の手を上手く躱しながらさらに言葉を続けた。

 

「でもでやんすね、怪人になったの、さっきの本多君でやんすよ!」

「何、本多だと?」

 

 御堂が足を止めた。ここぞとばかりに鬼畜妖精は手持ちのスマートフォンを参照しながら情報を伝える。

 

「この近くの公園にいるでやんす。繁華街に来る前に決着をつけるでやんすよ」

「無理だ、無理」

「はい? ちょ、待って、旦那!」

 

 御堂はあっさりと言い放ち、再び歩き出した。慌てて御堂に追いすがる鬼畜妖精に対して口を開く。

 

「私は今、酔っている。つまり酒気帯びだ。こんな状態で戦えるか」

「変身すればアルコールは抜けるでやんすから、大丈夫でやんす!」

「どちらにしろ、そんな気分じゃないし、本多の一人ぐらい怪人になっても私の販売戦略に支障はない。それにサンライズが廃部になるくらいで怪人化するような輩はむしろ不要だ。本多も営業マンを辞めて怪人に転職したのではないか」

「相変わらず冷たいでやんすね……」

 

 あくまでも自分本位で戦うかどうかを決める御堂に、鬼畜妖精はため息を吐きながらスマートフォンで調べた情報を読み上げた。

 

「本多君は大学時代、対戦するプロの実業団チームからの八百長の申し入れを蹴って圧勝したでやんすよ。結果、実業団のお偉いさんたちを怒らせて、チームメンバー全員のプロ入りがダメになったみたいでやんすね。それで、キクチに就職、営業マンとしても有能で当初一課に配属されたものの、チームワークを主張するのが煙たがられて八課に追いやられたでやんす」

「ふうん」

「反応が薄いでやんすね……」

「バレー部で自分の正義を振りかざして周りを道連れにしたということか。周囲はいい迷惑だな。その時のバレー部メンバーこそ怪人になって、本多に思い知らせてやればよかったのだ」

「本多君、MGNサンライズを熱心に応援する傍ら、草バレーも熱心にやっているみたいでやんすよ。お、本多君の草バレー、地区大会優勝してるでやんす。MGNサンライズを熱心に応援するのも、きっとバレーが諦めきれないからでやんすね……」

 

 同情を誘おうとする鬼畜妖精を御堂はじろりと睨みつけた。

 

「彼が本気でプロ入りを目指すのなら、日本にこだわる必要はなかったのだ。日本がダメなら国外に出ればいい。それとも、プロ入りできなかった仲間に気を使ったか? 馬鹿馬鹿しい。その程度で諦めるなら、所詮その程度の夢だということだ。覚悟もないのに、青臭い信念を貫こうとするから自分の夢を叶えることも諦めることも出来ずに中途半端な人生を送るはめになるのだ」

「う……」

 

 鬼畜妖精は言葉を詰まらせた。

 それくらい、御堂の言葉は手加減がなかった。そしてまた、その言葉は正論だけに余計にたちが悪かった。実際御堂は自分の言葉通りに生きて今の地位を獲得したのだ。だが、そんな強い生き方を誰しもが出来るわけではない。弱いからこそ、迷い、苦しむのだ。しかし、そんなことを御堂に諭しても無駄だろう。

 鬼畜妖精は御堂への反論を諦め、別の角度から説得を試みた。

 

「旦那、このまま本多君が怪人になったら、同僚を失うことになる佐伯君は悲しむでやんすよ」

「佐伯……」

 

 その言葉を聞いて、御堂は急激に酔いが覚めていった。そう言えば、佐伯は本多のところに行くと言っていた。あれから大分時間が経っている。佐伯は無事だろうか。まさか怪人となった本多に襲われていないだろうか。低い声で鬼畜妖精に問う。

 

「おい、その怪人化した本多はすでに誰か襲っているか分かるか?」

「今のところまだ誰とも遭遇してないみたいでやんすよ」

 

 本多が怪人化したということは、佐伯は本多のフォローに失敗したのだろう。もしくは、本多と会えなかったのかもしれない。今この瞬間、佐伯が本多を探していたらどうなるだろうか。もしそうなら、怪人と化した本多と遭遇する可能性もあるだろう。変わり果てた本多の姿を見たら、常に冷静沈着な佐伯と言えどもショックを受ける。挙句、怪人に襲われたとしたら……。

 御堂は大通りに向かっていた足を止めた。顔を鬼畜妖精へと向ける。

 

「本多が怪人化した理由の1%くらいは私に原因があるからな。これで何か被害が出たら寝覚めが悪い」

「随分少なく見積もったでやんすね。……旦那、こっちでやんすよ」

 

 鬼畜妖精に案内されて、繁華街から少し離れた公園へと向かった。繁華街のすぐ近くにありながらも、木々が多く植樹された公園は申し訳程度の街灯しかなく、いつもながらに薄気味悪い静けさを漂わせていた。

 足音を忍ばせて、怪人の気配を探る。怪人はすぐに見つかったが、御堂は自分の目を何度も疑った。そこに人影はなく、透明な粘液のような巨大な塊があった。どろりとした液体状の体を街灯の光が透かしている。ゼリーのような体を不規則に蠢かせ、のろのろと動いていた。

 

「あれは、なんだ……?」

「あれはスライム型怪人でやんす。状況に応じて自在に体の硬度を変えることができるお約束モンスターでやんすね」

「ああ、なるほど。分かった」

「おや、随分と理解が早い……」

 

 御堂は鼻を鳴らした。

 

「馬鹿にするな。私だって庶民の常識くらい身に付けている。スライムと言えば、ロールプレイングゲームの雑魚敵だ。……それにしても本多も怪人になって、ようやく柔軟性を身に付けというわけか。まあ、本多の面影はもうどこにもないが」

「感心している場合でないやんすよ」

 

 スライムと化した本多はもはや原型をとどめていなかった。どこに頭があるのかも分からない。だが、スライムは何かに勘づいたのか、御堂たちの方へ向かってくる。

 そして一人と一匹の存在にはっきりと気付いたようだった。スライムはまるで意思を持っているかのように身体を細く延ばした。軟体生物の触腕のような形のそれをぶんと振り回してくる。近くの木々にあたり、ばりばりと枝を薙いでいった。

 

「うわっ」

 

 酔っ払いとは思えない俊敏さで、御堂は背後に飛びのいてスライムの触手を躱したが、スライムの本体は何本もの細長い腕を触手状に伸ばしてきた。このまま逃げ切るのは無理がある。「くそッ」と御堂は悪態を吐くと、スーツのポケットからエネマグラ型魔法スティックを取り出した。それを頭上に掲げて叫ぶ。

 

「エネマキュア!」

 

 目も眩むほどの眩い光が御堂を包み込む。そして、その光が薄れると、そこには可憐な魔法少女へと変身を遂げた御堂が立っていた。

 

「魔法少女エネマキュア参上!」

 

 魔法スティックをびしっとスライムになった本多へと向ける。

 

「本多憲二! 君の取柄(とりえ)は鬱陶しいほどの正義感だというのに、よりにもよって怪人になって私に迷惑をかけるとは、大いに反省したまえ!」

 スライムと言えば雑魚モンスター。御堂の顔は余裕に満ちている。だがその油断が隙を生んだ。御堂がスライムに向かって一歩踏み込んだその時、地面を踏みしめたはずの足が柔らかな感触に沈み、ぬるっと滑った。

 

「何っ!?」

 

 派手にバランスを崩してひっくり帰った御堂は、固いアスファルトに身体を打ち付けるかと覚悟したがそうはならなかった。ぬらぬらしたジェルのような物体に全身を受け止められる。

 密やかに闇に紛れて、スライムが透明な体を伸ばして地面を覆いつくしていたのだ。

 

「なんだ、これは……っ!」

 

 粘った感触が全身を覆っていく。引きはがそうにも、相手は液体のような生き物だ。掴もうにも掴むことが出来ない。

 そしてあろうことか、御堂の魔法少女のコスチュームをみるみるうちに溶かしていった。

 ジュルル……ジュルッ。

 生身の肌の上をスライムが這って広がっていく。

 

「気持ち悪い……っ」

 

 ひんやりとした感触のスライムが触れたところの布を溶かしていく。その嫌悪感に御堂は身を震わせた。

 ぼろぼろとなった衣装、胸の尖りの上でスライムが複雑に収縮する。それはまるで乳首を摘まんでこね回すような動きで、御堂はたまらずに声を上げた。

 

「よせっ、そんなに胸をいじくるなっ」

 

 胸だけではなかった。股間にまとわりついたスライムは、あっという間に純白のショーツを溶かし、御堂の性器を包み込むと渦を巻くように動き出した。根元から先端まで、明らかな意図を持った粘液に擦り上げられる。

 

「んあっ、やめっ、……ぁああっ」

 

 乳首とペニスを同時に責められて、強烈な刺激から逃れようと身を捩るが、スライムはどこまでもねばついてまとわりついていく。

 ぬるぬるとした感触、乳首や股間にとどまらず、首筋や脇の下、脚の指の間まで、全身をくまなく愛撫されるような感覚に、否応なしに性感は高まっていく。

 

「はぁっ、あ……んっ、ふ……ぁあっ」

 

 漏れる声に艶めいた甘さが混ざり始めた。こんな気色悪い怪人に責められているというのに、御堂のペニスはあっという間に腹に付きそうなほどに反り返った。

 そして、アヌスの襞を探るように蠢いていたスライムがぬるりと中に入り込んでくる。

 

「ふぁっ!? あ、そこは……っ、うぁあっ」

 

 アヌスを固く閉ざそうにも相手は液体だ。ぬちゅぬちゅとアヌスの皺を伸ばすようにして中へと侵入してくる。そして、奥へと侵入するや否や適度な硬度を持ってぐりぐりと中の粘膜を擦り上げ始めた。

 

「ひあっ、あうっ、そんなとこ、ぐりぐりするなぁあっ」

 

 狙いすましたかのように、スライムは御堂の感じるところを抉ってきた。目いっぱい狭い内腔を拡張されて、どこまでも奥深く犯される。

 

「そんな、いっぺんに……ぁあああっ!」

 

 また両の乳首にへばりつくスライムもきつく摘まんでは揉みこむ動きを加えてくる。

 硬度も形も自由自在に変えられるスライムは御堂の感じるところを的確に探り当て、同時に責め立てた。

 

「ぁ、あんっ、は……っ、イく……っ、ぁ――あああっ!?」

 

 スライムから与えられる淫らな快楽に絶頂感が高まったその時だった。破裂しそうなほど張り詰めた御堂のペニス、その頂(いただき)の小孔に触手のように伸びたスライムがつぷりと先端を潜り込ませた。

 

「そこは……やめっ、ひあっ、あああっ」

 

 姿かたちを変えながら、尿道に侵入したスライムはさらにその奥へと触手を伸ばす。ねっとりとした蠢く粘液が、尿道の敏感な粘膜をぬるりと擦りあげた。神経をむき出しにするような火花が散るような激烈な感覚、それに続く形容しがたい疼き。

 

「ひあっ、ふぁ……っ、あ、らめっ」

 

 じゅぷじゅぷと尿道を犯すスライムがピストン運動を始めた。中に入っていたものがズルズルと這い出し、そしてまた深く押し入っていく。

 ペニスも尿道も、そしてアヌスも。穴という穴をスライムにみっちりと埋められて犯される。

 行き場のない快楽が嵐のように身体の中で荒れ狂う。

 狂おしいほどのみだらな熱を吐き出したくて腰を前に突き出すが、尿道を蠢くスライムに塞がれて射精することが出来ない。

 

「イかせてくれ……っ!」

 

 その時だった。不意に尿道の圧がなくなった。たまらずに射精をするが、ちゅぷっと尿道内でスライムが蠢いた。

 

「ふぁ!? 何を……っ」

 

 スライムは尿道から抜けてなどいなかった。尿道内でトンネル状に内腔を広げ、御堂の精液の出口を作ったのだ。細く狭いスライムが作った精路を御堂の精液が駆け上る。それはまるでスライムに精液を吸われているかのような感覚だった。

 チュルチュルッ、と精液を啜られる。思い切り精を吐き出したいのに、細切れに精液を吸い上げられて、射精の感覚が途切れることなくいつまでも続いた。それはまるでお漏らしをしているような感覚で、排泄感と絶頂感に挟まれて御堂は激しく喘いだ。

 

「んあっ、あっ、はぁっ!」

 

 ありとあらゆる穴をスライムに犯され、責め立てられた。

 あまりにも苦しく、あまりにも激しい快楽の波に揉まれる。瞼の裏には極彩色の火花が散り、喘ぐ唇からは熱っぽい吐息が漏れる。

 ストロー上に伸びたスライムに精液を吸われ続け、射精をコントロールされる。アヌスを犯すスライムにはぐりぐりと前立腺を揉みこまれ、乳首はきつく摘ままれる。

 激しい極みの深みに囚われたまま、抜け出すことが出来ず思考が真っ白になった。欲情に濡れた嬌声を上げ、出すものがなくなってもなお腰を振り立てて、さらなる解放を求め続けた。

 苛烈な快楽に全身を焼き尽くされ、びくびくと四肢を突っ張らせては弛緩させた。

 

『旦那! 旦那!』

 

 そんな御堂に小さな声が必死に呼びかける。

 

『旦那、もう十分でやんすよ! さっさとやっつけて、本多君を元に戻すでやんす!』

「……っ」

 

 ぼんやりと意識が形をなした。それでもなお、すべてを攫うような悦楽に身を浸していると、鬼畜妖精のせっつく声が響いた。

 

『佐伯君もきっと喜ぶでやんすよ、ほら、必殺技を!』

「佐伯……」

 

 その名前に視界がはっきりと焦点を結ぶ。全身にねばつくスライムの不快感が御堂に正気を戻した。

 御堂の身体の隅々まで魔力は充溢していた。

 この分だと一瞬でこの怪人を倒せるだろう。そして、本多を元に戻せる。そうすれば、佐伯は喜ぶだろうか。頭の中に先ほど居酒屋でみた二人の姿が過(よぎ)る。チリッと火花のような異質な感情が御堂の心を乱した。

 御堂は必殺技を叫ぶ。

 

「エネマフラッシュ!」

 

 魔法スティックが眩く輝き、光が爆発する……はずが、御堂はいつもと違う感覚に気が付いた。光の輝きが不十分なのだ。

 

「不発……?」

 

 通常なら視界一面を覆いつくすはずの光は御堂を中心に半径二メートル程度を焼き尽くして消えていった。御堂にまとわりついていたスライムは全部消えているが、エネマフラッシュの光の範囲外にいたスライムは無傷だ。御堂を叱咤する声が頭の中にがんがん響く。

 

『何やってるでやんすか! まだスライムは残っているでやんすよ!』

「どういうことだ……?」

 

 魔力が十分に漲っている。それなのに、なぜ、必殺技がこれほどまでに弱くなってしまったのか。

 だが、考えている暇はなかった。エネマフラッシュによって半分以上身を抉られてもなお、スライムの残った身体からはボコボコと新たな隆起が浮き出してきた。ダメージを回復させているのだ。

 ふたたび魔法スティックをスライムに向けて構えた。もう一度、必殺技を叫ぼうとした寸前、自分の身を包み込む魔力がほろほろと崩れ落ちていくのを感じた。変身が解けていく。

 

「何!?」

 

 そこに立っているのはもはや魔法少女ではなかった。エネマグラを手にしたスーツ姿の一人のビジネスマン。すなわち、御堂だ。

 

『旦那! 変身が解除されてるでやんす!』

 

 鬼畜妖精が焦りながら叫んだ。

 

「そんなこと分かっている!」

 

 御堂はエネマグラをふたたび頭上に掲げて叫んだ。

 

「エネマキュア!」

 

 すると、エネマグラが眩い光を発して変身できるはずだった。だが、エネマグラはわずかに光ったのみで何も起きなかった。ならば、と「エネマキュア!」と声を振り絞って何度も叫ぶ。しかし、もはやエネマグラは光を発することさえしなくなった。

 不意に我に返って、御堂は怒りのあまりエネマグラを地面に叩きつけた。

 

「これでは、ただの変質者ではないか!」

 

 夜の公園でエネマグラを高々と掲げて、訳の分からない単語を叫ぶ御堂。誰がどう見ても気が狂ったとしか思わないだろう。

 

「一体、何が起きた……?」

 

 唖然と地面に転がるエネマグラを眺めた。こうしてみると、魔法スティックは単なるエネマグラにしか見えない。

 

「旦那! 魔法スティックになんてことを!」

 

 パタパタと鬼畜妖精が御堂の元に飛んできた。急いで魔法スティックを拾い上げつつ御堂を見上げる。

 

「……旦那、もしかしてスランプでやんすか?」

「スランプ? 私がスランプだと!? 魔法少女ごときにスランプも何もあるはずないだろう!」

 

 すぐさま反駁したものの、その声にはどうしようもない焦りが滲む。

 今まで自然とできていたことが出来なくなった。その理由が分からない。いや、思い返せば、なぜ自分が魔法少女になっていたかさえ謎だ。

 出口のない迷宮にさまよいこんでしまったかのように思考は混乱に陥ってしまう。

 一方、鬼畜妖精は今までの御堂の言動を反芻し、原因に思い当たった。

 

「旦那、エネマキュアのとき、別のこと考えてなかったでやんすか?」

「別のこと? 別のことってなんだ?」

「……魔法少女を辞めて普通のサラリーマンに戻りたいと思ったんじゃないでやんすか?」

「何を言っているんだ!」

 

 御堂は声を荒げて怒った。

 

「私は『普通のサラリーマン』ではない。『エリートビジネスマン』だ。今までもそうだったし、これからもエリートだ。『普通のサラリーマン』に『戻る』など、意味が分からん!」

「そういう意味で言ったんじゃないでやんす!」

 

 話の通じなさに鬼畜妖精もまた声をあげた。

 

「魔法少女が魔法を使えなくなるきっかけ第一位は恋でやんすよ!」

「なんだと……?」

「旦那、恋に落ちたでやんすか。……そうでやんすか。旦那も血の通った人間だったでやんすねえ」

 

 嬉しそうな顔をしながら、うんうんと頷く鬼畜妖精に御堂は唖然とした顔を向けた。

 

「ちょっと待て! 誰が、誰に恋したんだ!?」

「え、旦那が佐伯君にでやんすよ」

「は?」

 

 ――私が佐伯に……何だって?

 

 鬼畜妖精の言葉に思考が停止した。数秒後、御堂はぶんぶんと大きく首を振った。

 

「そんなこと私は認めんぞ! 直ちに発言を取り消せ!」

「あっしの言葉を取り消したところで事実が変わるわけではないでやんすよ、旦那」

 

 やれやれと鬼畜妖精が肩を竦めたところで、御堂たちの目の前に巨大な影が伸びた。ハッと振り向けば目と鼻の先までスライムの巨大な体が迫っていた。こんなところで言い合っている場合ではない。

 

「ひとまず逃げるぞ、鬼畜妖精!」

「はいでやんす――うぁっ!」

 

 スライムの触手のように伸びた腕が鬼畜妖精を薙ぎ払った。

 強風に舞い散る木の葉のように、あっという間に鬼畜妖精は御堂の視界から吹き飛ばされていった。

 

「おいっ!」

 

 ぞっと背筋を冷たいものが走った。

 魔法少女に変身できない御堂は単なる一般人だ。怪人の相手なんかできるはずもない。それなのに、目の前にはダメージから完全回復したスライムが立ちはだかっているのだ。御堂は大きく息を吸って、自分を落ち着けた。

 

「ひとまずここは冷静に話し合わないか、本多君」

 

 そうは言ってみたものの、とても話が通じる相手とは思えなかった。

 

 

 

 

 公園に隣接するビルの屋上に、夜空からふわりと黒い人影が降り立った。

 黒いマントが風にはためき、男の眼鏡のレンズが煌めく。佐伯克哉だ。

 片手には鞘に納められた刀を手にして、佐伯は公園の方に顔を向けて目を凝らした。砂埃が公園の木々の間から立ち上っている。スライム型怪人と化した本多は期待通りに暴れてくれている。エネマキュアをおびき寄せてくれるはずだ。ここに降り立つ寸前、ちらりと魔力の光が見えたが、エネマキュアはすでに現れたのだろうか。

 だが、佐伯はレンズ越しに視線を研ぎ澄ましたところで、ひとつの人影に気が付いた。

 

「あれは……御堂部長?」

 

 眼下の地上では怪人と化した本多が暴れる間近にスーツ姿の男がいた。どうにか逃げようとしているが、恐怖に足が竦んだのか動けないでいる。

 

「チッ」

 

 佐伯は舌打ちをした。エネマキュアが現れやすいように繁華街から少し離して本多を暴れさせたというのに、余計な一般人が紛れ込んでしまった。単なる一般人なら見捨てるところだが、よりによって御堂だ。

 佐伯はマントの下に隠していた刀に手を伸ばした。漆黒の刀を抜刀すると、上段に構え、目の前の空間にまっすぐに振り下ろす。一閃の闇が煌めき、中空に異空間の裂け目ができた。そこに佐伯は足を踏み入れる。佐伯の姿が空間の亀裂に呑み込まれた次の瞬間にはスーツ姿の佐伯が現れた。

 佐伯は迷うことなく、ビルの屋上から足を踏み出した。真下に向けて落下する。そのまま地面に叩きつけられようとする直前に再び手にした刀を振るう。切り裂かれた空間が歪み、佐伯の足場の重力を中和する。

 佐伯は何事もなかったかのように地に降り立つと、空間の裂け目に刀を放った。刀が掻き消え、そのまま空間の裂け目も消える。佐伯は普段通りのスーツ姿で御堂の元に向かって走り出した。

 スライムと化した本多は単なる破壊衝動で動いているだけだ。その証拠に、御堂に対しても襲い掛かろうとしている。目の前ではまさに御堂がスライムに襲われようとしている。佐伯は叫んだ。

 

「御堂!」

「佐伯……? うわっ!」

 

 本多の攻撃が御堂に届く寸前、御堂の腕を掴み大きく引いた。バランスを崩して倒れようとする御堂の真上をスライムが伸ばした触腕が大きく振りかぶっていく。そのまま御堂を抱え込むようにして、木陰に飛び込んだ。植樹された低木の茂みが二人の姿をスライムから覆い隠してくれる。

 佐伯は詰めていた息を吐いた。小声で御堂に言う。

 

「御堂さん、あんた、なんでこんなところにいるんだ!」

「……通りすがりだ」

 

 御堂は異形の怪物よりもスーツの土汚れが気になるようで、埃や葉をぱたぱたと払いながら不貞腐れたように言った。

 

「飲んだ帰りにここを通りかかったら、あんな訳の分からない怪物がいたんだ。……それより、君こそ、どうしてこんなところにいる?」

 

 そう問い返されて言葉に詰まった。適切な理由が思いつかず、御堂からわずかに目を逸らして言った。

 

「……俺も通りすがりです」

 

 その時、ざりざりと公園のアスファルトを削るような音がした。スライムが移動しているのだ。

 二人して顔を見合わせた。御堂の顔は恐怖に強張っている。

 どうにか、この場から御堂を逃がさなくてはいけない。

 スライムと化した本多の移動速度は遅いし、知能も低下している。スライムの注意を逸らせば御堂一人を逃すことは容易いだろう。御堂さえ逃がせば後はどうにでもなる。

 佐伯は御堂の肩を掴んだ。顔をまっすぐに見つめて言う。

 

「御堂さん、よく聞くんだ。俺があの怪物の注意を引く。その間に、あんたは逃げろ。この公園から出るんだ」

「そんなことをしたら君はどうなる?」

「俺のことは心配しなくていい。なんとかなる」

「なんとかって、どうするんだ?」

「いいから、俺の言うことを聞くんだ」

 

 有無を言わせぬ強い口調で御堂に言い放つ。御堂に公園の出口を指で示した。

 

「俺が合図したらあっちに向かって全速力で走れ! 振り返るなよ」

 

 御堂は佐伯が指し示す方向を見る。そして何か言いたげな顔で佐伯の方を向いた。だが御堂が口を開くよりも前に佐伯は御堂の背中をポンと力強く叩くと、勢いよく立ち上がって茂みを軽々と飛び越えた。そして、スライムと化した本多の前に立つ。

 

「お前の相手はこっちだ! ついてこい!」

 

 スライムの周囲を大きく回り込むようにして走った。スライムが佐伯に向かって触腕を伸ばす。それを上手く躱しつつ、御堂の位置とは反対方向へとスライムを誘導していく。

 スライムの注意が完全に自分へと逸れた瞬間に、叫んだ。

 

「御堂! 逃げろ!」

 

 スライムの背後でがさりと物音がする。御堂が動いたのだ。だが、幸いスライムは目の前の佐伯に釘付けになっていて御堂の存在に気が付いていない。御堂は無事に逃げ出せるだろう。

 じゅるじゅるとスライムがゼリー状の躯体を大きくして佐伯にへとにじり寄ってくる。だが、佐伯はもはや逃げようとはしなかった。真正面に立って、腰をわずかに下げ、ジャケットの懐に右手を入れる。

 

「本多、せっかく怪人にしたのに悪いが、予定変更だ」

 

 ジャケットの内側、何もない空間に右手の指先で素早く呪を描いた。呪に反応した空間が薄く引き裂さかれ、佐伯はそこに手を差し込めば、空間の狭間に隠していた刀の柄が触れる。鬼畜の刀だ。その刀を空間の狭間から取り出そうとしたその時だった。

 ひゅん、と空気を切り裂く音がしてずぶり、とこぶし大の石がスライムの横っ面にめり込んだ。ずぶり、と石がスライムの中に呑み込まれ、不意打ちの攻撃を受けたスライムが、攻撃者への方へと向きを変えた。

 驚いて佐伯もまた視線を向けた。そこには御堂が立っている。佐伯に向かって叫ぶ。

 

「佐伯、逃げろ!」

「御堂! あんた、まだ逃げてなかったのか!」

「部下を置いて私だけ逃げることなどできるか! この化け物め、こっちに来い!」

 

 御堂は石を拾い集めていたのだろう。ふたたび石を握るとスライムに向かって投げつけた。だが、スライムに物理攻撃は効かない。スライムは大きな体をのっそりと動かして、狙いを御堂に定める。ジェルのように柔らかな体から何本もの触腕が伸びる。佐伯は御堂に向かって走り出した。同時にスライムに向かって声を張り上げた。

 

「よせっ! お前の相手は俺だ」

 

 スライムの巨大な手が御堂を狙う。そのスライムと御堂の間に割って入った。こん棒のような固く強烈な力が佐伯を大きく薙ぎ払った。咄嗟に腕を交差させて直撃を防いだが、それでもダメージを殺しきれず、生身の身体は背後に吹っ飛ばされた。

 

「ぐあっ!」

「佐伯っ!!」

 

 アスファルトの固い地面に打ち付けられ、激しい痛みが全身に走った。

 鬼畜王の力が使えれば、こんな攻撃ものともしないはずなのに、御堂がこの場にいるせいでその力を使えない。御堂の前で自分の正体を現すことはできない。

 

「くそっ!」

 

 心の中で御堂に向かって悪態を吐いた。

 なんと間が悪い男なのだろう。悪いのは性格と口だけではなかったのか。

 親会社であるMGN社の上司として現れた御堂は、エリート気質丸出しの嫌味な男だった。

 自分の手は汚さずにうまく立ち回る、それはエリートたる男のお家芸のはずだ。それなのに、なぜ、子会社の部下の男など気にかけたのか。

 

 ――御堂、あんたはそんな男ではなかったはずだ。

 

 それとも、身体の関係を持った相手に絆(ほだ)されてしまったのだろうか。

 甘い。あまりにも甘い。そして愚かだ。

 そんな甘ったれた性根でよくぞ今の地位を得たものだ。このまま自分に良いように弄(もてあそ)ばれていればいいものを。

 

「馬鹿が……」

 

 佐伯は呻いた。

 ぶれる視界の中でスライムの形状がまた変化し、身体から触手のような腕が伸びてきた。

 スライムの次の攻撃が来る。このままだと御堂が襲われる。

 考えるよりも先に身体が動いていた。痛む身体を鞭打ち、力を振り絞る。スライムの攻撃の軌線を予想し、御堂を庇った。二度目の衝撃が佐伯の身体を激しく打ち据える。

 

「ぐ……っ」

 

 まさか、自分が怪人にした本多に襲われてピンチに陥るとは、とんだお笑い種(ぐさ)だ。

 愚かなのは御堂ではなくて、俺だったのか。

 自嘲の笑みが口元に浮かぶ。

 

「御堂、逃げろ……」

 

 抵抗空しく、意識が闇に呑み込まれていった。

 

 

 

 

「佐伯――ッ!!」

 

 目の前で佐伯が吹っ飛ばされた。怪人と化した本多の手はいとも簡単に佐伯を薙ぎ払い、固いアスファルトに叩きつけた。急いで佐伯の元に駆け寄る。

 

「御堂、逃げろ……」

 

 佐伯はその言葉を残して、がくりと意識を失った。

 怒りがふつふつと湧いてくる。怒りの形相でスライムを睨みつけた。

 

「本多! 貴様、なんてことをするんだ! 佐伯は君の友だちだったのだろう!」

 

 逃げることも忘れて、スライムと化した本多に言い放った。スライムはもはや御堂の言葉を解さない。今度こそ御堂を叩きのめそうとゼリー状の腕を振り上げた。

 だが、御堂はきっとスライムを睨みつけた。一歩も退く気はない。なぜなら、御堂の背後には佐伯が倒れている。佐伯を見捨てるわけにはいかない。

 御堂がさっさと決着を付けていれば、佐伯はこんな目に遭うことはなかったのだ。部下の、それも自分より年下の男が身を挺して御堂を守ろうとした。自分のふがいなさに忸怩たる思いを抱く。そして、決意を新たにする。

 異形の怪物を前にしても心は研ぎ澄まされていた。自分が何をすべきか、覚悟が出来たからだ。

 ジャケットのポケットからエネマグラ型魔法スティックを取り出した。それを頭上に掲げる。そして、高らかに宣言した。

 

「エネマキュア!」

 

 エネマグラが目も眩むほどの光を放つ。

 ふわり、と身体が浮いた。光が御堂を包み込み、オーダーメイドのスーツを消し去った。そして引き締まった裸体に光の帯が巻き付いていく。頭にはカチューシャ、身体にはフリルがふんだんについた愛らしいコスチューム。手足には白いグローブとブーツが装着される。成熟した男の身体をかわいらしい魔法少女のコスチュームが包み込む。その際立つアンバランスさが目を惹きつけて離さないほどの魅力を放つ。

 御堂の頭の先から爪の先まで研ぎ澄まされた魔力が駆け巡る。

 すっと地面に降り立った御堂は魔法スティックをびしっとスライムへと向けた。

 

「魔法少女エネマキュア、参上!」

 

 ピンと張った糸のように、御堂を取り巻く空気は清冽な緊張感に張り詰めていた。

 御堂は、ブーツに包まれた足を一歩、スライムに向かって踏み出した。凛とした声が響く。

 

「希代のイノベーター、スティーブ・ジョブズは言った。『もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?』と」

 

 魔法スティックをスライムに向けて構えた。燐光のように御堂を包み込む光が強烈な輝きを放ちだす。今までとは明らかに違う魔力の高まり。異変を感じ取ったのかスライムは動きを止めた。

 

「今の私は迷うことなく『Yes』と言える」

 

 公園全体に魔法少女の魔力が満ちた。御堂の仕草一つにさざ波のように御堂を中心に魔力の粒子が広がっていく。

 

「世界平和とか正義とか関係ない。私は、私のためにこの力を使う。私が守りたいものを守る!」

 

 魔法スティックを強く握りこんだ。燃え立つような激しさで御堂に魔力が集中する。鮮やかな紫に染め上げられた御堂の髪と眸は内側から輝くような鮮烈な美しさを醸し出した。一瞬で爆発しそうなほどの魔力を御堂は手にしている。知力に乏しいスライムでさえ、畏怖を感じたのか、御堂から逃げようと後退を始める。だが、御堂はそれを許さなかった。一言、叫ぶ。

 

「エネマフラッシュ!」

 

 あたり一面が眩いばかりの光に包まれた。何もかもを呑み込み、浄化する暴力的な光。エネマフラッシュは光の速さでスライムを覆いつくし、その細胞すべてを消し去っていく。

 そして、光が薄れ、夜の闇が戻る。暗い公園のアスファルトに、ジャージ姿の本多が倒れていた。そして、その顔にかかるキチク眼鏡。レンズにピシリと亀裂が走る。そして、次の瞬間には粉々に砕け散った。

 

「ひどい目に遭ったでやんす~」

 

 ふらふらと羽ばたきながら鬼畜妖精が戻ってきた。御堂の姿を安堵に胸を撫でおろしながら言う。

 

「無事にスランプ脱出したでやんすね。本多君も無事でやんすよ」

 

 だが鬼畜妖精を無視して、御堂は上空の一点に視線を向けていた。鬼畜妖精も御堂の視線を追って見上げる。

 

「どうしたんでやんす?」

「上空に何かいたような気がしたが……気のせいか?」

 

 御堂はしばらく目を凝らして夜空を見上げていたが、濁った夜闇の中に何も見つけることは出来なかった。

 御堂は視線を降ろすと佐伯の元へと駆け寄る。佐伯は意識を失ったままだ。鬼畜妖精に顔を向けた。

 

「佐伯は、大丈夫か?」

「気を失っているだけでやんすね。放っておいても大丈夫でやんす」

「よかった」

 

 ほっと胸を撫でおろす御堂に、鬼畜妖精が言った。

 

「じゃ、鬼畜王が現れる前にさっさと撤退するでやんすよ!」

 

 そう言うと、鬼畜妖精が光りだした。瞬間移動をするつもりなのだ。

 

「待て!」

「はい?」

「佐伯も一緒に連れてってくれ」

「え~! ほかの人間もだなんて、魔力使うから嫌でやんす!」

 

 あからさまに嫌そうな顔をする鬼畜妖精に、御堂は頭を下げた。

 

「頼むから……」

「旦那……」

 

 御堂にこんな風に頼まれるなんて初めてだ。だが、悪い気はしなかった。鬼畜妖精は大きくため息を吐いて肩を竦めた。

 

「今回限りでやんすよ」

 

 鱗粉のような光が御堂たちを包み込んで公園からかき消した。

 

 

 

 

「大丈夫か、佐伯?」

 

 呼びかける声にぼんやりと意識が戻る。背中に触れるのは柔らかな感触で、薄く開いた瞼の隙間から人口の照明の灯りが飛び込んでくる。どうやら、どこかの室内にいるらしい。

 瞼を押し上げて声の主の方に顔を向ければ、御堂の姿があった。心配そうに自分を見下ろしている。

 

「ここは……?」

「私の部屋だ」

 

 リビングのソファに寝かせられた。なぜ、こんなところにいるのか。記憶を辿ろうとしたところで、御堂が言った。

 

「あの後、なんだか分からないうちに怪人がいなくなったんだ。君は意識を失っていたからここまで連れてきた」

「そうか……」

 

 情けないことに、公園でスライムと化した本多にやられて意識を失ったらしい。

 その本多はどうなっただろうか。

 佐伯は感覚を研ぎ澄ませたが、怪人の気配は微塵も感じなかった。

 自分が気を失っている間にエネマキュアが来て怪人を倒していったのだろう。

 意図した通りにエネマキュアが現れたというのに、せっかくのチャンスを不意にしてしまった自分の無様さに腹が立つ。

 もう、エネマキュアは去った後だろうか。今すぐに向かえば、エネマキュアと遭遇できるかもしれない。

 佐伯は身体を起こして立ち上がろうとした。御堂が慌てて佐伯を押さえる。

 

「けが人なのだから、じっとしてろ」

「問題ない」

 

 軽く腕を振るが骨や関節は問題なさそうだ。多少、打ち付けた部分の痛みがあるが、これくらい怪我の数にも入らない。

 御堂を押しのけて佐伯はソファから立ち上がると脱がされたジャケットを手に取った。

 

「お邪魔しました」

「佐伯っ!」

 

 佐伯はぐるりと辺りを見渡し、引き留めようとする御堂を置いて、リビングから玄関へと抜ける。

 玄関にはちゃんと自分の靴が揃えてあった。それに足を入れたところで、背中から二本の長い腕が巻き付いた。追いかけてきた御堂が克哉を背後から抱きしめたのだ。驚いて動きを止めると御堂が絞り出したような声で言う。

 

「待てと言っているだろう……」

 

 自分に巻き付いた腕、それが微かに震えていた。何かに怯えているような、それでいて佐伯にすがりつくような。らしくない御堂の姿だ。佐伯は肩越しに振り返って言った。

 

「どうしました? あなたらしくもない」

 

 しばしの間御堂は黙り込み、そして、吐息に紛れるようにして呟いた。

 

「君が死んだのではないかと思って、怖かった」

「俺は死にませんよ」

「馬鹿。本当に危ないところだったのだからな」

 

 御堂は小さく笑った。その声に込められた感情から佐伯の無事を心から安堵している気持ちがひしひしと伝わってくる。

 

「……あなたが無事で何よりです」

 

 本当のところ、御堂があの場からさっさと立ち去ってくれれば、佐伯は鬼畜王としての力を解放でき、すべて上手くいくはずだったのだ。あのまま本多を上手く操ってエネマキュアをおびき出し、始末することさえできただろう。

 その思惑はこの男の予想外の行動で台無しにされたのだが、それでも御堂に対して怒りも憎しみもなかった。御堂が佐伯を気遣う気持ちが痛いほどに伝わってきたからだ。あるのは自分自身に対するいら立ちだけだ。自分の中にある、理屈のつかない感情。この訳の分からない感情からくる衝動に佐伯は振り回された。そんな自分から目を背けるように、佐伯は御堂に告げた。

 

「じゃあ、これで」

 

 御堂の返事はなかった。代わりに回された腕に力が込められた。動きを封じられる。

 

「御堂……?」

「佐伯、この後、まだ『所用』はあるのか?」

 

 そう言いながら、佐伯の肩口に御堂は額を擦りつけるようにして顔を埋(うず)めてきた。

 

「……いえ」

「それなら、今晩くらい私に付き合え」

 

 このまま御堂を振り切ることも出来た。むしろそうすべきだ。このスーツを纏う佐伯克哉は仮初の姿だ。自分の本分は別にある。

 それでも、背中越しに感じる仄かな体温を、高まる鼓動を、佐伯は無視することは出来なかった。

 自分の胸を占めるこの感情を何と呼ぶのか。もう分かっていた。ただ、認めたくなかっただけだ。一時(いっとき)の間だけ、良いようにからかって扱おうと思っていた相手にこんな感情を抱くなんて。

 ふ、と佐伯は身体の力を抜いて、笑った。御堂が訝しげに顔を上げる。

 佐伯は身体ごとねじって振り返ると御堂の背中に手を回して強く御堂を抱き込んだ。

 

「佐伯……?」

「責任はしっかりとってもらいますよ」

「なんの責任……んんっ」

 

 御堂の顎を掴み、何かを言いかけた唇に唇を強く押し当てた。最初から強く御堂の口を吸い上げる。御堂は抵抗しなかった。むしろ、積極的に佐伯の舌に舌を絡めてくる。

 身体の奥から焦がれるような熱がこみ上げる。この熱は、肌を重ねることでしか鎮めることは出来なかった。

 

 

 

 

 夜の公園を眩いばかりの光が包み込む。それをはるか上空に浮かぶMr.Rは表情も変えずに見下ろしていた。夜を昼に変えるかのような強烈な光。その中で一閃の光の槍が一直線にMr.Rに迫り来た。明らかに、Mr.Rを狙った攻撃だ。

 Mr.Rは焦ることもなく、人差し指を真下へと向けた。足元に闇の溜まりをつくりだす。Mr.Rの足元を中心に同心円状に広がった漆黒の闇はエネマキュアがつくりだした光の槍を中和し呑み込んだ。

 次第に光が薄れ、元の濁った闇が戻ってくる。決着はついたのだろう。都会の喧騒と公園の静寂が混ざり合う東京の夜が眼下に広がっていた。怪人の気配は跡形もなくなっている。エネマキュアによって何もかも浄化されたのだ。

 

「まさか、これほどまでに強くなるとは」

 

 Mr.Rは丸眼鏡の奥の眸を眇めた。金の眸が妖しく輝く。

 

「機は熟しました。そろそろ私の出番でしょうか」

 

 ふふ、と軽やかな笑い声と共に、Mr.Rは夜の闇に同化し、姿を消した。

 

 

 

 

 それから数日後、本多は御堂に呼び出された。御堂の執務室でデスク越しに御堂に相対する。先日の飲み会での不作法を謝罪するより前に、御堂が口を開いた。

 

「正式にサンライズの廃部が決定した。今シーズン限りでMGNサンライズは解散する」

「……」

 

 冷たい宣告に、本多は返事もせずに俯いた。覚悟はしていたが、自分の無力さを思い知らされる。身体の横に降ろした拳をぎゅっと握りしめた。

 

「わが社の正式な決定事項だ。力になれず残念だったな」

 

 口先ではそう言っても、御堂は何の落胆もない表情と平坦な口調のままだった。

 本多はぎりっ、と奥歯を噛みしめつつ、言った。

 

「ご用件はそれだけですか。それなら、失礼します」

 

 御堂への謝罪も忘れて、踵を返そうとする。それを御堂の声が引き留めた。

 

「ああ、そうだ。忘れていた」

 

 白々しい素振りでそう言って、御堂は一枚の紙を無造作に放った。デスクから滑り落ちそうになるその紙を本多がキャッチする。そして、その文面に目を通して息を呑んだ。

 

「これは……」

「私の大学時代の同期がそのITベンチャー企業の社長でな。バレー好きな奴だったが、金の使い道に困ったのか、実業団バレー部を設立することに決めたそうだ」

 

 本多が手にした紙には、実業団バレー部設立の発表とメンバーを選ぶためのトライアウトの開催が記載されていた。そのスポンサーとして急成長と度重なる話題作りでメディアを騒がせているベンチャー企業の名前がでかでかと書かれている。

 新しく、実業団バレーチームが出来るのだ。その事実がもたらす衝撃に本多はごくりとつばを呑み込んだ。 胸に、静かな興奮が沸き起こる。

 いちから立ち上げるバレー部とは言え、このタイミングともなればMGNサンライズの選手の受け皿になることは間違いない。

 さらに、御堂は本多に向けて言った。

 

「私の友人は徹底した実力主義だ。選手の過去の経歴は関係ない。今の実力と将来性を重視している。君もバレーにまだ未練があるなら、そのトライアウトを受けてみるといい」

「しかし、俺は……」

 

 大学時代の出来事を思い出し、本多は顔を曇らせた。本多は、実業団バレーから拒絶されたのだ。だが御堂は素知らぬ口調で言う。

 

「その社長は大学時代もバレー部だった。弱小チームだったがな。好きが高じて大学バレーも実業団バレーの実情にも詳しい。だから、君の事情も承知している。その上で、君の実力に興味を持っている。彼はIT業界の革命児と呼ばれた男だ。日本のバレー界にも革命を起こしてくれるだろう」

 

 御堂の言葉に心が揺れた。相手は本多の事情も知っていて、それでも誘ってくれるという。

 だが、本当に、自分が実業団バレーに入っていいのだろうか。期待と不安に心が激しく揺れ惑う。

 

「俺が入ったりしたら迷惑がかかるんじゃ……」

 

 言葉尻が消え入りそうになる。

 かつて実業団を怒らせた本多が新しいチームに関わったらうまくいく話もうまくいかなくなるのではないか。それに、新商品の営業はこれからが正念場だ。目も回るほどの忙しさの中で、自分だけ夢を追いかけて抜けてしまってよいのか。結局、周囲に迷惑をかけるだけになるのではないか。

 そんな本多の煮え切らない態度に御堂は苛立ったように鼻を鳴らした。

 

「偉大なる経営学者、ピーター・ドラッカーは言った。『未来とは予測するものではなく、創り出すものだ』と」

 

 御堂の言葉に俯き加減だった本多が顔を上げた。そんな本多の顔を真正面から見返し、御堂は「それに」と付け加えた。

 

「営業のことなら心配無用だ。君程度の営業など掃いて捨てるほどいる。私が開発した商品は誰が営業しても必ず売れる。……だが、君の夢を叶えるのは君しかいないだろう。何を怯むことがある、君らしい向こう見ずな無鉄砲さで突き進めばいい」

「御堂さん……」

 

 貶(けな)しているのだか応援しているのだか分からない口調で御堂は言った。

 それでも、その言葉に背中を押されて、本多の心に力強い意思の炎が灯った。その顔から迷いが晴れていく。本多が口を開いた。声に力が籠る。

 

「ありがとうございます!」

「ふん。たまたまそんな話を聞いただけだ。礼を言われるほどのものでもない。まあ、プロ入りがダメだったら、また営業マンとして馬車馬のように働いてもらうからな」

「はい! その時はよろしくお願いします!」

 

 先ほどまでとは打って変わって、本多はいつもの本多だった。根っからの体育会系らしい威勢の良さで返事をする。

 騒々しさに眉をひそめながら、御堂は軽く手を上げた。面談の終了を通告し、本多にさっさと部屋から出て行けと促す。そんな御堂の居丈高な態度も気にならないのか、本多はうれしさを満面に浮かべながら、部屋の外まで響く大声で「失礼しました!」と一礼して出て行った。

 

「まったく静かにできないのか、あいつは……」

 

 閉まったドアに向けてうんざりしながら言うと、鬼畜妖精が御堂のデスクの上に現れた。口元にはにやついた笑みを浮かべている。

 

「旦那、やるじゃないですか」

「何がだ」

「そのご友人にうまく実業団バレー部設立を誘導したのは、旦那でしょう?」

「馬鹿を言うな。たまたま話のついでにバレー部の話題を出したら、向こうが勝手に食いついてきただけだ」

「ふふ~ん」

「何が言いたい?」

「いいえ、別に!」

 

 鬼畜妖精は知っている。御堂が大学以降疎遠になっていた知人に連絡をとり、会食の約束を取り付けたことを。そして、その場で知人にMGN社のバレー部の廃部を伝えてうまく実業団バレー部設立を決断するよう誘導したのだ。

 相手も御堂と同じ人種だ。御堂は自分と同類の自尊心のくすぐり方はよく心得ているようで、社長は御堂に唆されるままその場でバレー部設立を決断していた。生き馬の目を抜くような業界の覇者であるIT会社の辣腕社長だ。一度決断すれば、そのあとの動きも早かった。結果、ぎりぎりのタイミングだが、来シーズンに間に合った。

 来季からMGNサンライズのメンバーはユニフォームを変えて、新しい実業団バレー部としてプレイできるだろう。そして、その新メンバーに本多が加わるのかもしれない。

 御堂も素直に本多に恩を売ればいいものを、それが出来ないあたりが相変わらずひねくれている。

 笑いをかみ殺して肩を震わせている鬼畜妖精を御堂はぎらりと睨みつけた。

 

「勘違いするなよ。私は筋肉と勢いだけで物事を考えるような人間は嫌いだ。だから、体(てい)よく厄介払いしただけだ」

「そうでやんすよね。佐伯君を取られるのも困るでやんすからね~」

「おま……っ! もう許せん、駆除してやる!」

「や、やめてっ! 助けてっ!」

 

 顔を赤くして怒る御堂が鬼畜妖精を捕まえようと手を伸ばす。その手を間一髪で避けていると、御堂の携帯がメールの着信を告げた。御堂が鬼畜妖精を捕まえるのを諦め、携帯を確認する。鬼畜妖精も横からちらりと画面を覗くと『佐伯克哉』と表示されていた。メールの内容を見て、御堂の口角が自然と緩む。もう、鬼畜妖精のことは頭から消えたらしい。御堂は、すぐさまメールの返事を返して、宣言した。

 

「今日は早く上がるからな。さっさと仕事を終えるぞ」

 

 そして、御堂は猛烈な勢いで仕事を再開させたのだった。

 

 

 

 

 佐伯は営業先から帰る道すがら、御堂からのメールの返事を携帯で確認した。今夜の約束の返事が端的に書かれていた。佐伯は、くすりと小さく笑った。

 今日は素直に御堂の顔を立てて、御堂のいきつけの店に付き合おう。となると、営業回りをいつ切り上げるか。

 頭の中で今日の予定を素早く逆算していく。

 その時、不意に、背後に異質な気配が現れた。

 多くの人が行き交う歩道。突然足を止めた佐伯に周囲の人間は怪訝そうな顔をしながらも、佐伯を避けて歩いていく。その人間たちの目には映っていないのだ、佐伯の背後に立つ長身の黒衣の人物が。その人物は長い金髪を揺らめかしながら、佐伯に向かって頭を下げた。Mr.Rだ。

 

「なんだ?」

 

 佐伯は振り返らぬまま低く問う。

 

「わが王、私にエネマキュアの始末をお任せいただけませんか?」

「お前に?」

「ええ。必ずや、ご期待に沿う働きをしてみせましょう」

「好きにしろ」

「承知いたしました」

 

 佐伯の言葉にMr.Rは胸に手を当て、深々と頭(こうべ)を垂れた。佐伯は最後まで振り向くことなく、Mr.Rを置いて歩きだした。

 俯いたまま、Mr.Rは口角を吊り上げた。

 

「わが王のために、あなたには死んでもらいましょう、エネマキュア」

 

 密やかな笑みを一つ残して、Mr.Rは姿をかき消した。

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