
32歳エリート部長、魔法少女になりました☆
エピローグ 鬼畜眼鏡は永遠に
高いところから降り注ぐ日差しがMGN社の執務室を満たしていた。MGN社企画開発部の部長のデスク、御堂はそこで相も変わらず仕事に勤しんでいる。
あれから季節がひとつ移り変わった。
かつて魔法少女になって怪人と戦ったという事実も日に日に現実感が薄れ、激務と過労が見せた幻だったのではないかと思えてくる。
御堂の中に漲っていた魔力もあっという間に失われ、御堂はもはや普通の人間だ。いや、普通というのは語弊がある。もともと御堂は優れた能力の持ち主だ。魔力による能力の強化がなくなったとしても、自身が優れていることは変わらない。
御堂の周りでは多くの変化があった。御堂が手掛けた新製品は、発売直後から驚くべき売上を記録し、業界の話題を独占している。その立役者の御堂は、次の人事異動で史上最年少専務への昇格するのではないかと囁かれている。
御堂が部長を務める企画開発部は軌道に乗った商品は他部署に引き継ぎ、また新たな商品の開発を手掛けることになった。忙しさ相変わらずだが、部下の藤田は着実に成長している。新人らしいひたむきさにスキルが備わり、任せられる仕事も多くなった。彼もまた御堂同様激しい出世競争に挑むことになるのだろう。
五十嵐太一のバンド『grab your luggage』は、新製品のCMソングを足掛かりにして華々しいメジャーデビューを果たした。人気はうなぎ登りでこの分だと武道館でのライブも夢ではないだろう。しかし、大衆的な人気を目指すよりも自分たちの音楽を純粋に追求したいらしく、活動スタンスは変わっていない。
須原秋紀はマイチューバーのアイドルとしてフォロワーを日に日に増やしている。マイチューブだけでなく、他の媒体でも活動の幅を広げていこうという話もあるが、学業との両立をしっかりさせる事務所の方針もあり、しばらくはマイチューブ中心の活動を行うようだ。
キクチ八課の営業マンの本多憲二は新しく設立されるバレーボールチームのトライアウトを受けて、晴れて来季から実業団チームのメンバー入りを果たすこととなった。今の状況で営業から離れてしまうことに責任感を感じているようだが、キクチ八課のメンバーは本多の新しい挑戦を祝福している。
キクチ八課の課長、片桐稔は、メンバーが減ってしまったキクチ八課の仕事の引継ぎや取りまとめ、そして各部署との折衝に奔走している。不器用な性格は変わらずだが、キクチ八課の面目躍如の活躍ぶりに周りからは一目置かれるようになったそうだ。
そんな片桐を何かと虐めていた権藤は不正経理問題で立場が危うくなったこともあり、今のところは大人しくしているらしい。権藤と共謀して横領を行っていた大隈専務は高級クラブ通いが家族にバレてしまい家庭の危機だという。
そして、佐伯克哉……。
キチク眼鏡の魔力が解けた佐伯克哉は、御堂の知らない佐伯克哉だった。
しかし、御堂に向けて言葉を発したのも一瞬で、佐伯はすぐに意識を失った。今は病院に入院しているが、原因不明の意識障害はずっと続いている。
時の流れがあらゆるものに変化を促していく中で、佐伯はただ一人、すべてが終わったあの夜に佇んでいる。
御堂にできることは何もなく、時折見舞いに行っては回復を祈るばかりだ。
かつて、鬼畜妖精が言っていた。長い間、怪人でいるともう人間に戻れなくなると。無理やりキチク眼鏡を破壊したせいで、佐伯克哉は人間に戻ることも怪人として生きることも出来なくなり、中途半端な状態で命をさまよわせているのだろう。
今でも眼鏡をかけた怜悧な佐伯の顔を思い出すたびに胸の深いところがじくじくと痛む。
佐伯を消滅させたのは御堂だ。その選択が正解だったのか、今でも分からなくなる。
いつの間にか、キーボードを叩く手が止まっていた。
感慨にふけり、デスクでぼんやりとしていたらしい。
こんなことではいかん、と気を引き締め直したその時だった。デスクトップパソコンの上に小さな人影が現れた。パタパタと飛ぶ蝙蝠の翼と羊の角を持った、小さな人型の生き物。それは、サングラス越しに御堂にヘラヘラと笑いかけた。
「旦那! お久しぶりでやんす~!」
御堂は静かに立ち上がった。そして、黙ったまま視線で間合いを計ると、自分の目の前を能天気な顔をして飛ぶ鬼畜妖精を素早く捕まえた。そして、きつく睨みつける。
「貴様、よくものうのうと私の前に現れたな」
「だ、旦那! 苦しいでやんす!!」
御堂の手から抜け出そうとじたばた暴れる鬼畜妖精を、握る手に力を込めて押さえつける。低い声を出した。
「よくも私をだましたな。その責任はきっちりとってもらうぞ」
「違……っ、あっしは何にも知らなかったでやんすよ!」
「嘘を付け」
「ほ、本当でやんす! あっしは、魔法少女になった旦那をサポートして助けるように言われただけでやんす! R様の深謀遠慮などあっしは知る由もなかったでやんす!」
「そんな言葉、とても信じられん」
ひっ、と鬼畜妖精は鋭く息を呑み、御堂に向かって必死に釈明し始めた。
「怒らないで聞いて欲しいでやんす! 御堂の旦那もサラリーマンなら上の命令に断れない立場と悲哀を分かるでやんすよね……っ」
「……まあな」
鬼畜妖精が御堂をサポートしようしていたのは間違いない。御堂が瀕死の痛手を負った時、鬼畜妖精は御堂を救おうとして消滅しかかったのだ。
鬼畜妖精はどう見ても下っ端だ。何の目的で御堂の傍にいたのか、本人が言う通り、その理由を一切知らなかったのだろう。Mr.Rが組み立てた巧緻な計画。それを知らされていない鬼畜妖精は悪意もなく命じられたまま愚直に御堂についていた。鬼畜妖精の出来を考えると、御堂を騙そうとして騙せる知力があるとは思えない。
だから鬼畜妖精に恨みつらみを晴らそうとしたところで無駄だ。御堂は渋々手を離すと、鬼畜妖精は胸を撫でおろしながら御堂のデスクに降り立った。御堂は冷ややかな口調で言う。
「で、何しに来た?」
「今日はお別れを告げに来たでやんす」
「なんだ、帰るのか」
「名残惜しいですが、元の世界に戻るでやんす」
それをわざわざ告げに来るとは律儀なことだ、と思いつつも素っ気のない返事をする。
「とっとと帰れ。そしてもう二度と私の前に現れるな」
「相変わらず冷たいでやんすね……。あれほど苦楽を共にした仲でやんすのに」
冷淡な御堂の反応にふくれっ面を見せながらも、鬼畜妖精はすたすたとデスクの天板を歩いて御堂に近寄ると、御堂の手を取って何かを押し付けてきた。
「これを御堂の旦那に……」
渡されたそれをまじまじと見詰める。忘れもしない、この形……。
「エネマグラ? ……でなくて、魔法スティックか?」
鬼畜妖精は首を振った。
「これはもう魔力を失った単なるエネマグラでやんす。あっしだと思って大事に使ってほしいでやんす」
「は……?」
白けた目で鬼畜妖精を見返すが、鬼畜妖精はそんな御堂の様子にも気付かず、翼を羽ばたかせて飛び上がり、御堂を見つめて目を潤ませる。
「旦那、性格の悪さはもう変わらないと思うでやんすけど、あっしがいなくなっても元気でやるでやんすよ」
「ほう……」
御堂は適当に返事をしながらエネマグラを強く握りしめ、そして鬼畜妖精に向けて大きく振りかぶった。
「こんな中古品、誰が使うか!」
「ぐひっ!」
力いっぱい投げつけたエネマグラが鬼畜妖精を直撃した。その勢いでエネマグラごと鬼畜妖精は執務室のドアに叩きつけられる。鬼畜妖精はひしゃげたような声をあげながら姿を消した。取り残されたエネマグラがぽとりと床に落ちる。それと同時にノックの音が響き、ドアが開いた。
「御堂部長、失礼します……ん?」
「あ……」
執務室に入ってきた人物は足元に転がるエネマグラに気付いたらしい。青ざめた御堂が慌てて止めるよりも前に、身を屈めてそれを拾う。そして、拾い上げたそれがなんだか確認し、御堂へと顔を向けた。可笑しさを堪えきれない口調で言う。
「御堂さん、エネマグラ落としましたよ」
「これは、違……っ!」
否定しようとして、声が出なくなった。言葉を続けようにも胸が詰まったように苦しくなり、酸欠になった魚のように口をパクパクと開閉するだけだ。
執務室に入ってきたスーツ姿の男は、御堂へと歩みを寄せた。そして、呆然としている御堂の手を取ると、拾ったエネマグラを握らせた。明るい髪色、精緻に整った顔立ちを銀のフレームの眼鏡が引き締める。どうにか声を絞り出す。
「佐伯……。本当に、佐伯なのか?」
「お久しぶりです、御堂さん」
どこからどう見ても、佐伯だった。それも、御堂のことをしっかりと覚えている佐伯だ。佐伯の顔を穴が開くほど見つめてしまい、ようやく自分がエネマグラを手にしたままだと気が付いて慌ててエネマグラをスーツのポケットに押し込んだ。
「どうして……君が……」
佐伯はキチク眼鏡と共にこの世界から消えたはずだった。本体の人間である佐伯克哉を残して。それなら、今御堂の目の前に立っているのは誰なのか。そして、かけている眼鏡は何なのか。いろいろ聞きたいのに、こみ上げる感情に言葉が詰まって言葉が続かない。
佐伯は、ふっ、と笑うと自分の眼鏡を外した。眼鏡を外した佐伯の顔はどこか柔らかさを感じさせる。
「Mr.Rがこの世界を去るので、餞別にこれをくれた」
「キチク眼鏡を?」
緊張が走る。これは、鬼畜王を生み出すという例の眼鏡なのだろうか。だが佐伯は御堂の懸念を察したのだろう。首を振った。
「いいや、これはキチク眼鏡ではない。鬼畜眼鏡だ。今までの眼鏡と違って何の魔力もない。ただ、俺をこの世界に引き戻すためだけの眼鏡だ」
微妙に『キチクメガネ』の発音が変わったようだが、御堂には違いが分からなかった。それでも、目の前に立つ佐伯克哉は御堂と共に過ごした佐伯克哉だ。それを実感すると同時に胸が熱くなってくる。その一方で、気になることがあった。
「君の本体はどうした?」
佐伯は外した眼鏡をかけ直すと御堂に薄い虹彩を向けた。
「オレはもう、俺ととっくに一体化してしまったからな。オレは俺がいないと生きていけないし、俺も魔力を持たない今となっては、オレがいなければこの世界に存在できない」
「そうなのか……」
人間の佐伯克哉と怪人の佐伯克哉が寄り添い、互いを補い合うことで目の前の佐伯克哉が存在するのだ。
佐伯は眼鏡のブリッジを押し上げると、不敵な笑みを御堂に向けた。
「明日からキクチ八課に復帰する。今日はその挨拶回りだ」
数か月ぶりに意識を取り戻したはずなのに、佐伯はブランクを感じさせない涼しい顔をしながら、御堂と今までと変わらぬ調子で言葉を交わす。
御堂一人だけ佐伯との再会に動揺しているようで、これでは格好がつかない。据わりの悪い感情を無理やり抑えつけて、御堂は顎を上げて佐伯を見据えると、きつく目を眇めた。
「君が突然抜けたせいで、わが社もキクチ八課も大変だったのだからな。責任はしっかりとってもらうぞ。明日からは馬車馬のごとく働いてもらう。覚悟しろ」
「お手柔らかに頼みますよ」
「すぐに悲鳴を上げさせてやる」
ぷい、とそっぽを向きながら憎まれ口をたたくと、ふいに佐伯が押し黙った。
二人の間に沈黙が流れ、その気まずさに耐えかねて佐伯へと顔を向けると、間近に佐伯のレンズ越しの眸があった。御堂の顔をまっすぐ、深く、覗き込んでくる。
「っ、なんだ」
「俺がいなくて寂しかったか?」
心臓がドクンと跳ねた。いろんな感情が縒り合わさって胸を詰まらせる。佐伯を失ったあの夜、その闇の暗さと絶望を思い出しそうになり御堂はわずかに佐伯から視線を伏せた。
「そんなこと聞くな、馬鹿……」
「……御堂」
うつむきがちになった顔、その顎を掬われて真正面を向かされる。鼻が触れ合うほどの距離に佐伯の顔があった。吐息がかかる距離で佐伯の唇が震えた。
「俺は、あなたに会えてうれしいですよ」
「私もだ……んんっ」
言葉が言い終わる前に、温かい重みが御堂の唇を塞いだ。佐伯の手が御堂の後頭部に回されて、キスをより深くかみ合わせる。
久方ぶりのキス、甘い痺れが深いところからさざ波を立てるように全身に広がっていった。こんな昼間から、しかも、執務室で何をしているのか。いろんなことが頭を過るが、あっという間に理性はこそげ落とされて、キスのことしか考えられなくなる。佐伯の腕を掴み、強くかき抱いた。抱きしめた分だけ抱き返される。
『旦那、またどこかで! さらばでやんす~!』
どこか遠くから鬼畜妖精の声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。
END