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Pomegranate Memory -side S-

「佐伯…」
 微かな声で名前を呼ばれた気がした。その柔らかな深みを持つ声を耳にし、克哉は迷わず意識を覚醒させた。それでも、動かずにベッドの中で、密やかに隣の気配に感覚を凝らす。
 それはもう、本能に根差した習性みたいなものだ。同じベッドで眠る恋人に異変がないか常に気を配る。それは、御堂が克哉の元に来た時に、自らの魂に刻んだ誓約であり、克哉がその身を捧げても尽くすべき義務だ。それを苦に思ったことはなかった。むしろ、自分が御堂の傍にいないときの方が心配で落ち着かない。
 耳を澄ませば、隣からは規則正しい静かな寝息が響いてくる。
――寝言か。
 安堵しかけたとき、今度は呻き声が聞こえた。小さいが、はっきりと。
 克哉は瞼を開き、音をたてぬように起き上がった。
 枕もとの眼鏡を手に取ると、ベッドサイドランプの光量を絞って灯し、御堂を伺う。ほのかな光を浴びて、美しい陰影を刻んでいる端正な寝顔が歪んだ。夢を見ているのだろうか。
 その時、ふわり、と甘い芳香が克哉の鼻腔に触れた。
――柘榴か?
 御堂が苦しそうに首を振った。途端に、柘榴の香りが強くなり空気を揺らした。その香りはどうやら御堂から漂っているようだった。香りの正体を見極めようと目を凝らす。不意に御堂の身体の質感があいまいになり、その輪郭が周囲に滲んだ。
「御堂?」
 克哉が目を瞬かせた時には、御堂の身体は元に戻っていた。目の錯覚だろうか。その存在をしっかりと確かめようと、顔に手を伸ばした時だった。
「佐伯様、お気を付けくださいませ」
 独特の抑揚がついた声が寝室の入り口から響いた。
 振り返れば、周囲よりも濃くなった闇の中に人影が浮かび上がってくる。
 黒衣に黒い帽子、その下から流れ出る濃い金色の髪がうねり、闇に溶け込んでいる。丸眼鏡の奥の眸が克哉の眸と交差した。闇を纏ったその男は、かつて克哉にMr. Rと名乗った男だ。
 克哉は眉間にしわを寄せた。御堂が寝入っていることを確認し、ベッドから降りる。御堂をその背にかばうと、ベッドとその人影の間に立った。声量を抑え、それでも不快感が相手に伝わるように剣呑さを声音に潜ませる。
「戸締りはしたつもりだったがな」
「私とあなたの間には如何なる障壁も無力というもの」
「何をしに来た」
「ご尊顔を拝しに」
「ならばもう十分だろう。帰れ」
「つれないお方ですね。ご忠告をしにまいったのですが」
 克哉の突き放すような態度にもMr. Rは怯む様子はない。
「なんだと?」
「そちらの方の魂は、今、この世界にはございません。多少のことでは起きないでしょうが、それでも無理に起こそうとすれば、その魂は時空の歪に囚われて、どの世界からもはぐれて戻ってこられなくなるでしょう」
「どういうことだ?」
 ふっ、とMr. Rは口角を上げた。その金髪が揺れて、部屋に漂う光の粒子を跳ね返して輝いた。
「佐伯様、あなたをその方から解放して差し上げましょう」
「解放だと?」
「あなたは類稀なる能力と高貴な魂を持ち、より高次の次元に羽ばたくことが出来る資格をお持ちです。それなのに、なぜ、この地に這いつくばり、しがみついているのでしょう。私が、あなたをこの世界に縛り付ける鎖を断ち切りましょう」
 にこやかな顔で勝手な言い分を披露する目の前の男を、克哉は睨みつけた。
「俺は御堂によってこの世界に縛り付けられているんじゃない。御堂がいるから、ここに立っていられるんだ。この人がいなければ、奈落の底に転がり落ちていたさ」
 そこまで言って、克哉は自分の言葉がまさしくMr. Rの言葉を裏打ちしていることに気付き、自らの言葉の馬鹿馬鹿しさに自嘲して唇の片側を吊り上げた。
 そう、この男が所有し、克哉を迎えようとする王国は地の底にある。
「そうだったな。お前は俺がこの世界から足を踏み外すのを待っているのだったな」
「立場が変われば見方が変わるというもの。私はあなたが本来あるべき王たる道に戻ってこられるのを心待ちにしております」
「痴れたことを。それで、お前は御堂に何をした」
「選択肢を差し上げました。その方が佐伯様を選べるように」
「御堂は、自ら俺を選んだ」
「ええ、ですから、この世界とは異なる世界で、もう一人のあなたと共に過去をやり直す機会を差し上げました。あなたに嬲られた過去をあなたと共に愛を育む過去へと変えられるように」
「俺との過去を?」
 克哉と御堂の間の過去は二人以外誰も知らない。だが、この男はそれを了解しているように話す。実際、その全てを知っているのだろう。
「あなた方にとって、互いを縛る枷となっている過去を断ち切ることが出来るのです」
「御堂にダミーの俺を与えてか」
「ダミーではございません。本物の佐伯様です。その方のために、確率としてのみ存在する事象を用いて、御堂孝典さんの存在を除き、通常時空として構築し展開いたしました」
「何を言っているのかさっぱりだ」
「この世界も多面世界の一つの側面にすぎません。別の世界には別のあなたが別の生活を営まれています。それぞれの世界の佐伯様は表現型の違いこそありますが、いずれも同じ遺伝子を持ち、同じ魂の核を持つ佐伯様であることは間違いありません。…まあ、中にはあなたが存在しなくなった世界もありますが。その方は、ここではない別の世界で別のあなたと過ごされています。その世界の佐伯様は、私にとっては何ら価値はありませんが、その方にとっては理想とされるあなたの姿でしょう」
 自分が存在しなくなった世界、それが何を示しているのか、その世界の自分はどうなったのか、克哉は深く考えることを控えた。
 Mr. Rの話は荒唐無稽で胡散臭いことこの上ないが、同じ口調で渡された眼鏡は克哉の人生を一変させた。ということは、この話も御堂の人生を揺るがすに値する重さを持っているのだろう。
「御堂のためにもう一つ世界を作ったのか。随分と仰々しいことだな」
「あなたのためです。その方は理想のあなたを手に入れ、あなたは王としてこの世の全ての享楽を手に入れる。お互いにとって利益のある話ではございませんか」
 そしてMr. Rは克哉を手に入れる。その忌々しさに克哉は首を振った。
「お前は他の世界から、お前の望む<俺>を連れて行けばいいだろう。この俺にかまうな」
 Mr. Rは黙ったまま、おもむろに空間に指を這わせた。克哉がその指が示す先を目で追えば、そこにはどこまでも深い闇。その闇を吸い込み、瞳孔が開大する。
「まさか、俺が一番近いのか。お前の望む<俺>の姿に」
 Mr. Rは笑みを張りつかせたまま、闇を指していた手をゆるりと戻し、眼鏡を抑えつつ顔を覆った。
 彼が引き連れてきた暗闇が一段と濃くなる。
「…御堂は過去をやり直して、どうなるんだ」
「その時空がこの世界の時空に追いついたとき、その方は選択することになるでしょう。今までの過去かやり直した過去か」
「やり直した過去を選択したらどうなる」
「あなたならお分かりになるはず」
 過去があるから今がある。過去が変えられないからこそ、人は地に足を付けて今を生きることが出来る。過去から現在、そして未来は決して切り離せるものではない、一塊の時間なのだ。もし、過去が変化するというのなら、過去・現在・未来の全ての時間が変化して、この現実世界そのものを変えてしまうだろう。
「この世界から御堂は消えるのか。…お前は俺から御堂を奪うつもりか」
「見方を変えれば全てが変わるというもの。その方からすれば、今のあなたが消える。それを選ぶのは、私でもあなたでもありません。そもそも、あちらの世界に行かれたのも、その方の意思です。ですが、もし、あなたが、その方を望まれるのでしたら、私に一言命じていただければ、すぐにでも連れ戻して献上いたしましょう。あなたは、自らが欲するものを我慢する必要はないのです」
「俺は、お前に頼る気はない」
 冷やかに言い捨てると、Mr. Rの指の隙間から覗く目が細められた。顔を覆う手の向こうで、その笑みが深まったのが感じ取れた。
「ならばお待ちいただくしかありません。その方が、今のあなたを選択してこの世界に戻ってこられるのを」
「待つさ」
「もう、戻ってこられないかもしれませんが」
「それでも俺は御堂の選択に干渉するつもりはない」
「お忘れなきよう。私はあなたのために、あなたが望む全てを捧げる用意があります」
「失せろ」
 克哉の言葉に、Mr. Rは慇懃に礼をする。腰を折ったその姿は周囲の闇に滲み溶け込んでいき、金色に輝いていた長い髪の残像を残して跡形もなく消え去っていった。

 克哉はふう、と詰めていた息を吐くと、ベッドに戻って、御堂を覗き込んだ。胸板が規則正しく上下し、深く寝入っているようにしか見えない。だが、その姿はどこか儚げで頼りない。ベッドサイドランプの仄かな明かりが、克哉の影をベッドの上に長く引き伸ばした。
 Mr. Rの話が本当であるならば、御堂は今、別の世界で別の自分と過去をやり直している。
――俺は待つことしか出来ないのか。
 帰ってくるかどうかも分からない恋人を。しかも、御堂は自ら望んでもう一つの世界に行ったという。
「あんたは今、俺といることを後悔しているのか?」
 御堂の眠りを妨げぬよう、ぼそりと呟いた。
 1年前の自分が引き起こした惨状は忘れたわけではない。克哉は御堂に償う代わりに、御堂の前から消えた。今後二度と御堂に関わることを自分に禁じ、御堂が克哉との過去を消し去ることを望んだ。
 だが、御堂はそれを望まなかった。過去を消し去ることよりも、過去と共に克哉と今を歩むことを選択したのだ。
 御堂と再会した時、御堂は克哉を赦した。だが、御堂はその忌まわしい記憶を乗り越えているわけではない。赦すことと忘れることは違う。それを同意義に考えてしまえば、また同じ過ちが繰り返されるだろう。それは克哉も肝に銘じている。その過ちを深く刻みつけたうえで今が存在しているのだ。過去は変えられないが受け止め方は変えられる。
 克哉にとっては、あの過去は今を成立させるための必要悪であったともいえる。
 だがそれは克哉の一方的な言い分だ。克哉には克哉の編んだ物語があるように、御堂には御堂の編んだ物語がある。
 御堂にとっては、克哉との過去は後付けの理由でどうこう出来るほど軟(やわ)なものではない。それでも、過去は変えられないからこそ、前に進まざるを得ないのだ。だが、出来ることなら、そんな過去はないほうが良いに決まっている。
 だからこそ、その秘めた望みをMr. Rに付け入られたのだ。
 あの時の、昏く沈んだ御堂の部屋と、その中で虚空を見詰めるうつろな御堂の双眸を思い出す。低い声で呟いた。
「あんたには取り返しのつかないほどの酷いことをやってしまったことは分かっている。だが、その過去を後悔しているのか、と言われると、正直分からないんだ。ああしなかったら、あんたは俺のところには来なかっただろう?」
『やめろっ!離せ!』
 克哉を見るたびに、御堂は嫌悪と憎悪に顔を歪めた。それでも、克哉に組み伏せられれば、快楽に喘ぎ、善がり、涙を流しながら何度も達した。
 じわじわと御堂を追い詰めていくのは、えも言われぬ愉悦があった。
「あんたは俺が持っていないものを持っていた。それは、俺がかつて失ったもので、俺はずっとそれを求めていたんだ。だが、当時は、それがなんだかよく分からなくて、あんたを無理矢理にでも俺のものにすれば手に入ると思っていたんだ」
 あの時は自分が何故御堂を求めるのかもわからぬまま、衝動に駆られて行動していただけだ。その結果、一度は御堂を壊しかけた。だが、幸いにして、ギリギリのところで克哉は踏みとどまることが出来たのだ。だからこそ、今ここに克哉がいて御堂がいる。
 Mr. Rの話では、別の世界には別の克哉がいる。そこには、踏みとどまることができずに、御堂を完膚なきまでに壊し尽した克哉もいるのだろう。それを想像し、背筋がぞわりと粟立った。
 あの時、克哉は御堂を解放したとはいえ、御堂は今でも暗闇に怯える。そこに何かの気配を感じ取っているのだ。その気配の正体は分かっている。過去の克哉だ。過去の克哉が御堂の背後にある暗がりに潜んでいるのだ。
「あんたを解放してから、どうすればよかったのか何度も考えた。だが、俺には分からなかった」
 御堂の前から立ち去ったとき、克哉の世界から色彩とコントラストが失われた。灰色の世界に克哉は生きていた。全てに興味を失い、目標を失ったその世界は、克哉にとって変化のない静謐な安寧をもたらす世界でもあった。世界は克哉の存在を忘れて進んでいたし、克哉もそれを願った。その視界を覆うくすんだ空の向こうに存在する御堂を想い、克哉は過去に意識を封じ込めようとしていた。
 そんな折、再会した御堂は去っていく克哉を追いかけてきた。だが、克哉にとっての事実は違う。過去に置き去りにされたままの克哉を、御堂がこの世界に連れ戻しにきたのだ。御堂は克哉の時間を再び動かして、克哉の世界に鮮やかな色を取り戻した。そして、それから御堂は克哉の隣にいる。
 その瞬間から、克哉は御堂に償い報いる誓いを立てている。
 それでも、時として御堂をその中から食い尽くしてしまいたいほどの、凶暴な衝動が克哉を襲う。その内なる獣を克哉は奥深くに抑えつけている。決して飼い馴らしているわけではない。その獣は克哉と御堂の間に生まれる不安や不信を、敏感に嗅ぎとって襲い掛かろうと、克哉の心の奥底で、爪を研ぎ牙を磨いている。
 御堂は過去を、克哉は獣を、互いにどうにか抑え込みながら、二人の今の関係を築き上げてきたのだ。この関係がいつまで続くかも分からない。どちらかがバランスを少しでも崩せば、堰を切ったように崩壊に向かうのかもしれない。だが、それは克哉と御堂が選択した今の二人の在り方なのだ。
 過去が変えられないからこそ、今があるのだとしたら、その土台が変われば必然的に現在も変わる。そうなれば、御堂の横に立つのは自分ではなく、もう一人の自分だ。
「今、あんたと一緒にいる<俺>はどうやって、あんたを手に入れたんだろうな。あの頃の俺がそんなに賢い判断が出来たとは思えないがな」
 そう言いつつも、それはもう一人の克哉に対する負け惜しみであり、羨望であることは自覚していた。
「なあ、今、あんたと一緒にいる<俺>は優しいのか?あんたが望むものを与えてやっているのか?」
 克哉の視線を受け止めるその顔にはふわりと優しい微笑が浮かぶ。返事はなくとも、御堂のその穏やかな寝顔を見れば、答えは自然と胸の裡に届く。こんなに無防備で安らかに寝ている姿を見るのは初めてだ。
 自分が成しえなかったことを、もう一人の自分が実現している。何故それがこの克哉ではなかったのだろう。苛立ちに奥歯を噛みしめた。
「それでも、あんたは、<俺>がいる過去を望んでくれているんだろう。それを俺は喜ぶべきなんだろうな」
 御堂は克哉のいない世界を望んだわけではないのだ。克哉がいる世界を克哉と共にやり直すことを望んだのだ。その事実に少しだけ心が救われる。
 克哉は御堂の顔の両脇に手をついた。そっと顔を近づけて、その唇に自分の唇を被せる。
 起こさないように、静かにその表面だけを押し潰す。こんな繊細なキスが最後のキスになるのかもしれないと思うと、胸が掻き毟られる。
 自分の手元から離れてしまうなら、いっそ、無理矢理にでも起こしてその魂を誰の手にも触れられないところに隔ててしまいたい。そんな歪んだ衝動にさえ襲われる。
 御堂が克哉の元から消えれば、再び克哉の世界の時が止まり、その色が失われるだろう。
 だが、その灰色の世界は克哉が一度体験した世界とは違う。克哉はもう知ってしまったのだ。御堂がいる世界の鮮やかさと歓びを。
 だからこそ、Mr. Rはその世界を再び克哉にもたらそうとしている。克哉が御堂を渇望し、御堂の存在しないこの世界に耐えられなくなるのを、虎視眈々と待っているのだ。絶望し飢えた克哉が禁断の実に手を伸ばし、その内なる獣を解放することを期待しながら。実際、もうこの時点で克哉の心は散り散りに砕けそうになっている。
 克哉がMr. Rの言う王になったのならば、克哉は自らの欲望を御することなく、御堂を望むだろう。その瞬間、御堂は克哉に捧げる贄となって、再びこの世界に連れ戻される。御堂が望み選んだ世界は崩壊し、御堂は再び絶望の淵に追いやられるのだ。
 なんという悪趣味なシナリオをMr. Rは描いたのだろう。
「俺があんたの恋人として、するべきことは分かっているのにな」
 御堂がもう一人の克哉と共に在ることを願うなら、それを叶え、その世界を守るのが自分の務めだろう。それは理性では分かっているのに、心では思い切れない。御堂の寝顔を視界の真ん中に置きながらも、様々な感情が沸き上がり入り乱れて克哉を揺さぶった。
 ふいに御堂の眦から水滴が盛り上がり、つうと伝い落ちた。その涙が一筋の線を引くと、その線が途切れる前に、次から次へと新たな水滴がその線を辿り光の筋をくっきりと描いていく。
――泣いているのか?
 この涙は、誰のために流した涙なのだろうか。ハッと息を呑んだ。
「…俺のためか?」
 御堂の中で、ついに決断が下されたのだろうか。どちらの世界を選んだのだろうか。
 先の御堂の柔らかな寝顔が瞼の裏に浮かんだ。自問するも自ずと答えは視えている。御堂はもう一人の克哉の世界を選んだのだ。そして、この世界の克哉を消し去る選択をしたのだろう。
 この涙は御堂から、この世界に対して、克哉に対して送られた餞別に違いない。
「あんたは、俺のために泣いてくれるのか」
 胸がカッと熱くなる。
 克哉の胸の奥の閊えが洗い流され、顔を覗かせていた凶暴な衝動が、凪いでいく。
 今まで御堂と共に過ごした時間は、決して無駄ではなかった。
 その涙の分だけ、御堂はこの克哉を想って悲しんでくれているのだろう。
 自分に手向けられた涙を受け取ろうと、頬にそっと手を添えた。御堂に対する愛おしさが胸の裡を満たしていく。
――俺はあんたの幸せを願うよ。
 この世界は多面世界の一つの側面にすぎない、とMr. Rは言った。それぞれの世界にそれぞれの克哉がいる。だが、その魂の核は共通していると。となれば、一つ一つの世界に散らばった克哉は完全なる独立事象ではないだろう。その存在を感じ取ることは出来なくとも、全ての克哉の魂の芯は、多面世界の中心で緩やかな絆でつながっているのだ。
 ならば、克哉は御堂を失うわけではない。もう一人の克哉に託すだけのことだ。
 これは、単なる役割分担にすぎない。御堂が克哉と生きていく世界を守るために、自分は内なる凶暴な獣を抑え付ける役割を担ったのだ。
 その事実に気付いて、自然と笑みが浮かんだ。灰色の世界が待ちかまえようとも、そこには絶望も渇きもない。克哉には果たすべき使命がある。
――安心しろ、御堂。俺は、Mr. Rの思惑通りにはならない。
 御堂は過去という名の頸木から解放されたのだ。そして同じく過去から解放された克哉と共に輝かしい未来を目指して歩むのだ。
 もう一人の自分がこの克哉より賢明であることを心から祈り、願う。常に御堂の傍にいて、彼が望む幸せを実現してやってほしい。この真摯な願いは、魂の絆を通して、きっともう一人の克哉に届くだろう。
 御堂の顔を、熱を、魂を、最後に自分の記憶に焼けつけておこうと、克哉は御堂の頬を両手で包み顔を寄せた。
――さよなら、御堂。
 声を出さずに呟いた。その吐息が御堂の睫毛を震わせる。
 その微かな振動は睫毛から瞼に伝わり、顔から体へと表面をさざ波のように伝わっていく。
 御堂の輪郭が一瞬揺らぎ、より強い輪郭を描く。目を瞠った。
「御堂?」
 すう、と瞼が緩やかに開かれて、漆黒の眸が克哉の顔を小さく映し取った。その眸に御堂の強い意志を湛えた光が灯る。魂が身体と共鳴し、震え、一つとなる。
 克哉は心の裡でその名を叫んだ。
――御堂!
 魂がこの世界に戻ってきたのだ。御堂は克哉がいるこの世界を選択したのだ。
 その事実を理解すると同時に、全身を灼き尽くすような焦がれる熱が自らの魂をも震わせた。
 御堂は、ここにいる。克哉の、前にいる。
 だが、一方で、それは同時に、御堂が今まで存在したもう一つの世界、御堂のために創られた世界が崩壊し消失することを意味している。
 克哉はその世界にいたもう一人の自分に思いを馳せた。
 せめて、その世界の克哉が御堂にかけた願いと約束を自分が受け取ろう。
 御堂は決して一人きりで戻ってきたのではない。もう一人の克哉の想いをその背に負ってこの克哉のいる世界に戻ってきたのだ。
 御堂の魂に触れようとその頬をすうと撫でた。御堂の涙に濡れた眸が克哉の眸と交わった。
――おかえり、御堂。
 そして、克哉と交わることのなかった、もう一つの世界のもう一人の自分に届くよう、克哉は強く願う。
――お前の魂は俺が引き継ぐよ。さよなら、もう一人の<俺>。
 この世界は色を失っていない。その時間が止まることはない。
 御堂は克哉と共に、ここにいるのだ。

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