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​賢者の贈り物

 仕事帰りに行きつけのワインバーに寄ったところで、四柳は久しい人物をカウンター席に見つけた。薄暗いバーの空間で、こちらに背を向けている彼が、彼であると分かったのは、腰を掛けていても分かる長身とピンと伸びた背筋の姿勢の良さ、そして夜も更けた時間でありながら、スーツも髪型も一切乱すことのない品格の高さからだ。

 相手も一人で飲んでいるようだったので、席を案内しようとするウェイターを断り、その男の隣に声をかけて座った。

 

「久しぶりだな、御堂」

「……四柳か」

 

 振り向いた顔を見て、おや、と思った。ワイングラスを片手にバーカウンターに座る人物は、期待した通り、大学時代からの友人である御堂孝典その人だったのだが、想像していた顔とは違った。大分酒が進んでいるらしい。頬は赤らんで、向けられた眸はおぼつかない。

御堂の目の前に置かれたボトルをちらりと見た。

 

「もう一本空けたのか?」

 

 気心知れた仲だ。許可も取らずに隣に座る。御堂が物憂げにワイングラスを揺らした。暗赤色の液体が波紋を立てる。彼らしくなく、深酒をしているようだ。

 

「そういえば、起業したらしいな」

「ああ」

「滑り出しは順調か?」

「まあな」

 

 そう答える御堂の歯切れが悪いことが気にかかった。

 

「それにしても、急な話だったな。いつから考えていたんだ、コンサルティング会社をやるって」

「……私ではない」

「なに?」

「佐伯だ。……佐伯がすべて決めたんだ」

「佐伯君か。お前の共同経営者だったな」

 

 御堂が口にする佐伯というのは、佐伯克哉、という七歳下の男だ。一度、大学仲間が集う飲み会に御堂が連れてきたことがあった。明るい髪色の快活な青年だった記憶がある。何があったのかは知らないが、御堂と彼がAA社(アクワイヤ・アソシエーション)というコンサルティング会社を、つい最近二人で起業したことを友人伝いに聞いた。

 

「佐伯はもともと、一人でAA社を起ち上げる予定だったんだ。私も手伝うと言ったが、起業の準備はすべて彼一人でやった」

「すごいな。前の仕事の引継ぎもあっただろうに」

「あいつは有能だからな」

 

 へえ、と相づちを打ちながらも、御堂の言葉に内心驚いた。彼が誰かを手放しで褒めることなどなかったからだ。まあ、御堂にそう言わせるくらいの相手でないと共同経営者にはなったりはしないのだろうが。

 だが、四柳の驚きを尻目に、御堂は深く嘆息した。

 

「……私は必要とされているのだろうか。仕事はすべて彼一人で回している。私はいなくてもいいんだ。替えが利く」

「そうは思えないけどな」

「いいや。あいつは、私を副社長に据えたが、そんなポジション、単なる名誉職だ」

「どうした? お前らしくもない」

 

 たとえ、気の置けない友人関係にあっても、一歩引いて冷めた目で俯瞰するような男だ。弱音を吐くところなど見たことがない。起業の順調な滑り出しとは裏腹に、御堂の顔は晴れなかった。だが、四柳は、そんな御堂をふがいないとは思わなかった。

 

「変わったな、お前は」

 

 ハッと何かに気が付いたように、御堂はグラスを持つ手を止めた。

 

「変わった……。そうだな、私は変わったのだろう」

「…だけど、僕は前のお前より今のお前の方がいいと思う」

「何?」

「今の御堂の方が、よっぽど人間みがあって親しみがわく」

「私を冷血漢みたいに言うな」

 

 ムスッと言い返しながらも、御堂の表情が更に翳った。

 

「だが、佐伯は、前の私が良かったんだろうな。だから、今の私に失望している」

 

 思っていた以上に御堂は重症のようだ。だからこそ、こうして一人で深酒をしているのだ。

 

「お前は、今よりも以前の自分の方が良いと思うのか?」

「いいや、そうは思わない。私は今の自分で満足している」

 

 御堂の声に力が籠る。だが、それもほんのわずかな時間で、すぐに元の浮かない顔に戻った。どうやら治療が必要なようだ。御堂を真っ直ぐと見ながら、深い声で言った。

 

「もしお前が言う通り、御堂がAA社に必要ない存在だとしたら、それでも佐伯君が一緒にいるのは、なぜだと思う?」

 

 訝しむ顔が自分に向く。にっこりと笑って続けた。

 

「それは、彼がお前の傍にいたいからじゃないのか」

「――ッ!」

「随分と大切にされているんだな、御堂は」

 

 涼しい顔をしながら最後の一押しをした。

 御堂は口を開きかけて何かを言おうとしていたが、言葉が出てこない。そして、耳まで赤くなっているのは、決してワインのせいだけではないだろう。

 御堂の今までの人間関係において常にイニシアチブを握る立場にあった。だから、気を遣うことはあっても、気を遣われることはなかったはずだ。

 

「それで、お前ののろけ話はあとどれくらい続くんだ?」

「私は、のろけ話などしていない!」

 

 そう返して御堂はグラスに残っていたワインを一息で呷(あお)った。「おい」と慌てて止める前に御堂はカウンターに突っ伏した。見事に酔いつぶれてしまった御堂を前に、どうしたものかと思案していると、御堂のジャケットのポケットでスマホが震えて光りだした。ちらりとみると『佐伯克哉』と液晶に表示されている。

 

「御堂、佐伯君から電話が来てるぞ」

「ん……」

 

 声をかけて揺さぶったが反応はない。すっかりと寝入ってしまったようだ。仕方なしに代わりに電話に出た。

 

「もしもし、佐伯君か。悪いが、御堂は出られる状態ではなくてな」

『誰だ?』

「四柳だ。以前、君とは会ったことがある」

『ああ……』

 

 警戒心を露わにした低い声に御堂が酔い潰れたことを説明する。

 

「御堂は責任もって、家まで送るから心配しないでくれ」

『今どこに?』

 

 問う声に店の名前を答えて電話を切った。手元のグラスに残っていたワインを飲みほして、ウェイターに会計を頼み、御堂の分まで支払いをした。店に頼んだタクシーが到着したのを見計らって、酔っぱらった御堂を無理やり立たせた。

 そうして、御堂に肩を貸してワインバーを出たところで、ぐいっと反対側の肩を掴まれた。びっくりして振り向けば、スーツ姿の青年が厳しい顔をして立っていた。こんな遅い時間まで一人仕事をしていたのだろうか。ネクタイはきっちり結ばれたままだ。彼がこの場に現れたことに驚いた。

 

「佐伯君か」

「四柳さんですね」

 

 電話してからまだそれほど時間が経ってない。電話を切ってすぐ飛び出してきたのだろう。そして、そのまま有無を言わさず、泥酔している御堂の腕を自分の肩に回して引き取った。

 

「ご面倒をおかけしました。あとは俺が部屋まで送りますのでここで結構です」

「君が謝るのか。まるで御堂の身内のようだな」

 

 くすくすと笑ったが、彼は一切表情を崩さなかった。じっとこちらを値踏みするような視線をぶつけてくる。態度は丁寧だが、何かしら威嚇されているようで居心地が悪い。場を和らげようと、話題を変えた。

 

「君はこんな時間まで仕事をしていたのか。御堂はここで飲んでいたというのに」

「俺のわがままに付き合わせているんです。無理はさせられません」

 

 すぐさま返された言葉に思わず苦笑が漏れた。

 

「御堂はもっと君を手伝いたいみたいだぞ」

「御堂さんにこんな雑用をさせるわけにはいかない」

 

 そうはっきり言い切る彼の顔は、それが当然と思って疑わない顔だ。

 

 ――ああ、そうか。やっぱりな。

 

 そう思ったが、口には出さないでおいた。

 

「では、これで失礼します」

「ああ、気をつけてな」

 

 御堂は意識もうろうとして、佐伯の登場にも気付かないようだ。この分だと懐かしい友人と再会したことさえ覚えていないかもしれない。御堂は引きずられるようにして待たせていたタクシーの後部座席に押し込められる。佐伯はこちらを見て軽く会釈をすると、御堂の隣に乗り込んだ。ドアが閉まり、タクシーが発車する。

 タクシーが車の波に飲み込まれて見えなくなるまで、その場で見送った。

 ……賢者の贈り物。

 夫は妻に櫛を贈るために懐中時計を売った。妻は夫に懐中時計の鎖を贈るために髪を売った。お互いを想っての贈り物は空回りしたけれど、二人の愛は深まったという。彼ら二人が円熟したパートナーとなったときには、きっとこのことは笑い話になるだろう。だが、不器用な二人を見る限り、それはもう少し先の話のようだ。

 

 

END

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