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Rainy Night

 出張を終え自宅の最寄りの駅に着いたときは、夜の10時をとうに過ぎていた。
 朝一番の新幹線で大阪に向かい、クライアントの会社や工場をまわり、打ち合わせを終えてクライアント先を出た時は、既に7時近くになっていた。無事に業務が終了したことを社に連絡すると、佐伯が電話に出た。
『そのまま大阪に泊まったらどうです?明日はアポイントもないですし、ゆっくり東京に戻ればいい』
「いや十分に帰れる時間だ。気遣いは無用だ」
 佐伯の過剰な気遣いに苦笑しながら、電話を切った。
 一番早い新幹線を選んで乗り、車中で軽食と仮眠をとる。流石に疲れた。報告書をまとめるのは明日でもいいだろう。
 佐伯と会社を立ち上げてから一カ月、お互いにゆっくり時間を取ることが出来ないほどの忙しさだった。それでも、佐伯は私に対するフォローを忘れないし、それは時に過保護に感じるほどだった。
 昔の私だったら年下の佐伯に気遣われることは屈辱に感じただろうが、今の私にとってその気遣いは多少鬱陶しいもののくすぐったい程度にしか感じない。
 
 東京駅に近づくにつれて、新幹線の窓が雨にぬれるのが見て取れた。段々と雨脚が強くなっている。天気予報では曇りだったはずだ。傘は持っていなかった。少し気分が重くなる。
 そのまま地下鉄に乗り換え、自宅の近くの駅で降りた。改札から入ってくる客の傘が雨でぬれている。駅から自宅まではそれ程の距離ではなかったが、傘を買った方がいいだろう。
 改札を出て売店に向かった。その時、後ろから声をかけられた。
「御堂さん、お疲れ様」
 驚いて振り向くと、佐伯が立っていた。手には濡れた傘と乾いた傘の二本持っている。
「佐伯?」
「傘、持ってないだろうと思って」
 そう言って、乾いている方の傘を私に差し出した。社に置いていた私の傘だ。
「わざわざ傘を届けに?」
「あなたにビニール傘は似合わないでしょう」
 そう言えば、以前、傘を差したときに佐伯が私の傘に関心を寄せていたことを思い出した。
 16本骨のジャカード織りの生地の傘で名入れ加工がしてある。特段高価なものではなかったが、フォルムの美しさから愛用していた。
 くすり、と佐伯がほほ笑んだ。
「あと、あなたの顔を見ておきたいと思って」
 礼を言って佐伯から傘を受け取り、並んで歩いた。
「…いつから待っていた?」
「ついさっき来たばかりですよ」
 佐伯の端正な横顔を一瞥した。新幹線の時間は言っていなかった。タイミングよく現れたのは偶然なんかではないだろう。どれくらい待っていたのか気になったが、聞いても無駄なことは分かっていた。
 駅の地上出口で傘を差す。佐伯が隣で傘を差して、私を振り返った。
「では、また明日」
 それだけ言うと、佐伯は自分の家の方向に歩き出す。
 行ってしまうのか…?
 思わず声をかけた。
「佐伯」
 佐伯がゆっくりと振り返る。
「その……この後、君の部屋に寄ってもいいか?」
「もちろん」
 レンズの奥の目が緩み、笑みを返された。
「実はその言葉を期待していました」
「なんだ。下心か」
 そう言いつつも、私も笑みがこぼれた。
 連れ立って歩き出す。お互いの傘がぶつからないよう、距離を取る。
「その傘、いいですね」
 佐伯が私の傘を見て言った。
「君の傘と交換するか?」
 佐伯が笑いを噛み殺す。
「違いますよ。その傘に一緒に入れてください、という意味です」
「なっ…何を考えている!」
 自分の顔が一瞬で紅潮したのが分かった。声が上ずる。
 佐伯が堪えきれず、声を出して笑い出した。
「冗談ですよ。御堂さん」
 あながち冗談とは思えない眼差しでこちらを見る。
 お互いの視線がぶつかる。ふっ、とつられて笑った。
 今、佐伯に対して抱くこの気持ちを、愛おしい、と言うのだろうか。
 傘を叩く雨音は相変わらず強かったが、既に気にならなかった。
 こういう雨の夜も悪くない。

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