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劣情(四柳&本城)
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 電子音がリズミカルにピッチを刻んでいる。四柳は全身に包帯を巻かれてベッドに横たわる男をベッドサイドから静かに眺めた。血圧も脈拍も正常だ。粉砕されたフロントガラスの破片を浴びたせいで、身体のあちこちに傷を負ってしまったが、咄嗟に腕で顔を庇ったおかげで顔に傷が付かなかったのは幸いだった。本城の端正で華やかな顔立ちを四柳はあいしていた。いいや、顔だけではない。長い四肢を持つしっかりとした体格も男らしい張りのある声も、本城の何もかもが好きだった。そう思うのは四柳だけではなかった。恵まれた容姿と気さくな性格から常に本城の周りには女性が群がり、かといって同性の友人に妬まれることもなく、どんなグループでも中心に本城がいた。

 四柳と本城は日本の最高学府である東慶大学の同期生だったが、四柳は医学部で、本城は御堂と同じ法学部だった。最難関の入試をくぐり抜けた新入生の誰もがキャンパスライフを謳歌する中で、四柳は物静かな性格が災いしたのか、友人と呼べるほどの存在はいなかった。しかし、それを寂しいとも思わなかった。本城に出会うまでは。

 

 

「へえ、医学部なんだ。頭いいんだな」

 

 講義が終わったあと、テキストとノートを片付けているときに背後から不意に声をかけられた。そのときは第二外国語のフランス語の講義で、教養課程は全学部合同の選択制だった。一瞬、自分以外の誰かに話しかけたのかと思い、いや、そうではないと恐る恐る振り向けば垢抜けた雰囲気の男が立っていた。講義室の窓からは昼の輝きが増した陽射しが差し込んだ明るい室内。そんな眩い光を跳ね返すかのような鮮やかな印象の男が四柳に向けて笑いかける。

 知っている顔だった。たしか本城と呼ばれていた男だ。教壇近くのアリーナ席に座る四柳に対して、本城はいつも最後列に座っていた。本城の周囲には男も女も集まり、いつも笑い声が聞こえてきた。

 そんな男がどうして自分に? しかも、どうして自分が医学部だとわかったのか。

 突然のことに言葉に詰まってまじまじと相手を見返していると、脇からまた別の声がした。

 

「本城、迷惑をかけるな」

「悪い、だって医学部生ってみんな独語とってるだろ? 仏語選択って珍しいなと思って。御堂もそう思わない?」

 

 と、本城は四柳の鞄からはみ出していた医学書を指さした。なるほど、これで四柳の素性を知ったのだろう。返事に詰まる四柳の代わりに、御堂と呼ばれた男が答える。

 

「いいや、いまは医学も英語が主流だろう。第二外国語くらい好きなものを選べばいい」

 

 助け船を出したのは、四柳と同じくいつも前列に座っている男だった。御堂という名前ももちろん知っていた。背筋をピンと伸ばした美しい姿勢と整った顔立ちは本城と同じくらい人目を惹いたからだ。講師に当てられてもいつも流ちょうなフランス語で答える姿は、本人の近寄りがたい雰囲気とも相俟って畏敬の視線を集めていた。

 

「たしかにね」

 

 と本城はからりと笑い、四柳に向き直る。

 

「俺、本城、理学部。で、こっちは法学部の御堂。同じ一年だ」

「……四柳、医学部一年」

「よろしく」

 本城、御堂と挨拶を交わすと、「じゃあ腹も減ったし、このあと、一緒に昼飯食わない?」と本城は人懐っこい笑みで、四柳の都合も戸惑いも無視して学食に連れて行ったのだ。それからだ。本城を通じて、御堂だけなでなく田之倉、内河といった他学部の同期を紹介された。気が付けば、誰かと群れることをしなかった四柳が誰よりも傍にいるのが本城になっていた。本城は、恵まれた容姿に実家も裕福で、一見近寄りがたい御堂とは対照的に実に気さくな男だった。ともすれば軽佻浮薄に見える振る舞いも多かったが、打てば響くような知性の主でもあって、本城と一緒にいる時間は純粋に楽しかった。

 とはいえ、友人に取り囲まれている本城と二人きりになる機会はほとんどなく、四柳にとっては大切な友人であっても、本城から見れば自分は大勢の友人の一人なのだと自覚させられることも多々あった。それでも、飲み会に参加すれば、最後まで粘る本城と二人きりになれることが多かった。

 ある夜は千鳥足になった本城を支えながら二十四時間営業のファミレスに入った。本城の酔いを覚まそうとソフトドリンクを飲ませている内に、テーブルに突っ伏した本城は静かな寝息を立てていた。自分とは何もかも重ならない、まったく対極にいる男なのに、なぜ本城の傍にいるとこうも居心地が良いのだろう。そんなことを考えながら飽きもせずに本城の寝顔を眺めた。

 そうこうしているうちに、日が昇り、窓から朝の透明な光が本城に降り注いだ。緩やかなウェーブがかかった髪と長い睫が震えて光の粒子を弾く。本城が瞼を押し上げて、目を覚ます。頼りない双眸が四柳を捉えた。トクリと心臓が跳ねる。本城は濡れた眸で四柳をまじまじと見詰めて、「おはよう」と微笑んだ。その瞬間、四柳はたまらなく本城が好きなのだと知った。

 

 

 六年制の医学部とは違い、本城たちは四柳よりも二年早く卒業し就職した。本城は御堂と同じMGN社に就職した。在学時代から本城が御堂を強く意識していることはわかっていた。専攻が分かれても何かにつけて顔を合わせ、就職先も一緒。常に競い合うライバルだと言えば聞こえがいいが、そうではないだろうと四柳は見抜いていた。御堂は本城を気にしてはいなかった。御堂は常に、自分の中にこうあるべきという理想像があり、それに近付くべく脇目も振らず努力を重ねていた。そのため、周囲よりも常に自分自身を優先していた。そして、そんな御堂の態度が本城のプライドを傷つけていた。

 本城は御堂に強烈な嫉妬心を持っている。しかしそれを決して悟られたくないし自分でも認めたくないというねじくれた気持ちもあった。結果、本城の中で御堂は特別な存在になっていた。四柳はそんな本城の御堂への執着に気付かないふりで定期的に開催される飲み会にも欠かさず出席し、本城を見守っていた。

 その頃はとっくに本城に対する自信の劣情に気付いていたが、本城にとって数多くの友人の一人である立場から無理に踏み出すことはしなかった。ふたりの関係を壊したくなかったからではない。いまの四柳では本城を手に入れることはできない、とわかっていたからだ。

 鬱陶しく思われない適切な距離を保ち続け、さり気ない気遣いと決して本城を否定しない四柳は本城の相談相手に収まることができた。といっても本城の気まぐれで呼び出されて一方的に愚痴を吐かれるだけだったがそれで十分だった。おかげで、MGN社で二人が新製品の開発コンペに出ることを知った。そして、本城が御堂に負けたということも。

 薄暗いバーのカウンターで強い酒を呷りながら、悔しさを露わにする本城に四柳は頷きつつ言った。

 

「お前も御堂も頑張っていることはわかっているよ。どちらのプランも甲乙つけがたいほど出来が良かったはずだ。だから、もしどちらかに決まるとしたら、それはプランのクォリティよりも、周囲の感情によるものだったのかもしれないな」

「周囲の感情?」

 

 本城はアルコールで潤んだ眸を四柳に向ける。四柳は困ったような笑みを返す。

 

「選ぶのは人間だろう? だから、そこに気持ち入ってしまうのは致し方ない。人間に、純粋で客観的な評価は無理だ。どうしても主観的な感情が入ってしまう。……本城、お前は同期や後輩のウケは良いのだけどな」

 

 なるほど、と本城は強く頷く。

 

「……御堂は堅物な分、上からのウケはいいからな。クソッ、そんなくだらない理由で負けたのか」

「本城、お前のすごさは僕はちゃんとわかっている。御堂だってそうだ。ただMGNの土壌は御堂には合っていたけど、お前には合わなかったというだけだ。お前にはもっと自由で広い舞台があっていると思うよ。たとえば、アメリカみたいな…」

「……そうだな、ありがとう。四柳、お前はいつも優しいな」

 

 そう言って本城はグラスに残っていた酒をひと息に飲み干した。本城が自信を失いかけたときには常に救いの手を差し伸べる。本城が求めている言葉をかけ、ささくれだった心を癒やす。常日頃から弱った患者や動揺する家族を相手にしている四柳にとって、相手の心にすっと入り込むような言葉を与えてやることは造作もないことだった。それを繰り返していく内に、本城は四柳を全面的に信用するようになる。そのための手間暇は惜しまなかった。

 それから少しして、本城はMGNを辞めた。自分を認めてくれないMGN社に見切りをつけたのだ。そして、アメリカに留学してMBAを取るという。アメリカ留学前の壮行会が内輪で開かれて、四柳は当然出席した。本城とふたりきりになるのを見計らって、本城にある情報を耳打ちした。

 

「……パンドラ?」

「ああ、いま、アメリカで流行っているらしい。いわゆるマジックハーブの一種だが安全性が高く違法薬物に指定もされていない。同僚の医者が現地で試したが効果も強すぎず良かったと言っていた」

「ふーん、そんなのが流行ってるんだ。だけど、お前もそんなものに興味があるのか」

「まあな。その同僚の医師がこれは日本でも新たな娯楽として流行るんじゃないかと言っていて気になっていた」

「へえ」

 

 本城の声のトーンがわずかに跳ね上がった。どうやら興味を持ったようだ。

 

「日本人は遺伝上アルコール分解酵素を欠損した下戸が多い。だから、アルコールで楽しめるのは一部だけだ。だか酒を飲めない人間にもアルコールと同じくらい酔えて楽しめる娯楽があると良いと思わないか?」

「たしかにな。日本人はドラッグに対する嫌悪感も強いが、それを上手く克服できればアルコールやタバコに並ぶ嗜好品になるかもしれない」

「まあまだ詳しい情報はわかっていないから、話半分に聞いてくれ」

「わかった。ありがとう、四柳」

 

 そう返事しながらも本城の目線はどこか上の空だった。いろいろなことを目まぐるしく考え出したのだろう。いまの本城は御堂に打ちのめされた屈辱と、それでも見返してやろうという気概に溢れている。新しい潮流となるかもしれないドラッグに本城が食いついたのは想定内だった。あとは四柳が撒いた種がどう芽吹くのか、時間をかける必要があった。

 本城がアメリカにいる間、四柳もただ待っているだけではなかった。脳外科医という激務の合間で、薬物依存症における脳の機能的メカニズムというテーマで研究を続け、特に新型ドラッグに関する論文執筆や学会発表を精力的にこなしていった。日本ではまだ馴染みの薄い分野で、四柳が日本における薬物依存症の治療の第一人者として認知されるまで時間はかからず、警察からも意見を求められる立場にもなった。

 そんな折、御堂に恋人ができたと聞いたのだ。他人を寄せ付けず、高嶺の花のように孤高であった御堂が恋人にするのは外見も中身も完璧な女性なのだろうと思ったが、恋人だと連れてきたのは七歳年下の子会社の男だったことが意外だった。佐伯克哉、と名乗った彼に合うのは二回目だった。たしか、ワインバーでの飲み会に御堂が連れてきたことがあったのだ。

 一見地味で面白みのない人間に見えるが、話を振ればちゃんと正面から受け止めて媚びもへつらいもなく真面目に返してくる。話せば話すほど、その心根の優しさやまっすぐさが伝わってきた。本城とは対照的な印象の男で、本城が嫌うタイプの人間だということは一目でわかった。そしてそんな彼を御堂が深くあいしていることも。冷徹な御堂がいつになく隙を見せる姿を、四柳は興味深く見守っていた。MBAを取得した本城の帰国は目前に迫っていた。

 本城が帰国したと聞いて、四柳は真っ先に会いに行った。他愛ない会話をしながら観察し、確信した。どこか浮ついた雰囲気と落ち着きのなさ、いとも容易く感情が揺れる。四柳がそう期待したとおりに、本城は薬物に手を出していた。

 本城の長所であり弱点は警戒心のなさだ。万事に察しがよく頭も良い男は自分を過信しているから、好奇心にそそのかされるまま、見知らぬ人間、真新しいものに容易く手を出してしまう。余計な先入観を持たずにフラットな眼差しで対象に接し、その価値を計ろうとしてくるのだ。その一方で、同じ立場でやり合おうとはしないプライドの高さも持ち合わせていた。それが本城という男の魅力でもあったが、四柳はそこにつけ込んだ。御堂に敗(やぶ)れた本城のプライドを煽り、パンドラという新型ドラッグの情報を与え、他の友人たちに邪魔をされないようにアメリカへと誘導した。

 本城にパンドラを教えたとき、まだその薬物は違法ドラッグ指定されていなかったのは事実だ。だが、いくつかの症例報告で依存性の可能性が指摘されていた。パンドラは他の薬物とは違い穏やかな効き目で多幸感をもたらした。使用者を安心させながら、そうと知らぬうちに深く根を張る依存性でアメリカの若者達を席巻し、いまや日本にも上陸している。アメリカではすでに取り締まり対象となり、日本でも違法薬物指定されるのは時間の問題だった。

 薬物依存症特有の執着心を垣間見せて、本城はその後の御堂に付いて尋ねてきた。四柳は本城に求められるまま、御堂の現状を話した。恋人の存在についてはあえて触れなかった。言わなくても御堂の露骨な変化を見れば、本城はすぐに気が付くだろうと思ったからだ。案の定、そのとおりだった。

 御堂に付きまとう本城の行動をしばらく静観していたが、そろそろだろう、と四柳が連絡した先は御堂だった。御堂からは何も言おうとしなかったが、「本城のことで…」と切り出した途端、御堂が小さく息を呑んだ。

 声を潜めて御堂に告げる。

 

「あいつは軽症だが薬物中毒だ。本城の言うことには取り合わないようにしてくれ。現実が見えなくなっている」

「なんだと……」

 

 四柳は声のトーンを落とし、悲しげなため息を吐く。

 

「僕が言っても聞かなくてね。酷いことにならないうちに本城を止めることができればいいのだけど……」

「わかった。私からも言っておく」

「ありがとう。御堂の言葉なら本城に届くかもしれない」

 

 御堂は冷淡に見えて実は友情に厚い男だということも知っていた。

 だから、こう言えば、御堂は本城を救おうと動くだろう。そして御堂の行動は本城をさらに追い詰める。

 いままでのことすべてが計算ずくだった。面白いほどに四柳の思いどおりにことが動いた。だが、最後の最後で本城が車で御堂に突っ込んだというのは想定外だった。本城が佐伯にしつこく接触を図ったせいで、御堂の怒りを煽ったのだ。それが御堂の態度をさらに硬化させ、本城を窮地に追い込んだ。そのせいで激昂した本城がなりふり構わぬ行動に出たのだ。

 しかし、本城が四柳の病院に運ばれたのは幸いだった。御堂が連絡をくれたのだ。四柳は一も二もなく救急部へ直行し本城の救急搬送を待ち構えた。だが、搬送されたのは本城だけではなかった。本城の車に跳ね飛ばされた佐伯もまた同時に搬送されてきた。その二人の応急処置をするがてら、通報を受けてやってきた警察から薬物検査のためのサンプル提出を求められた。四柳はもちろん承諾し、警察に検体を提出した。ただし、出したサンプルは本城のものではない。佐伯克哉のものだ。同じ救急処置室にいた佐伯の検体をすり替えて提出した。

 そして、怪我の治療という名目で本城に大量の点滴を行い、体内の薬物を速やかに排出させた。本城の部屋に家宅捜索が入ったら違法薬物が押収される可能性はあるが、使用したという証拠は掴めないはずだ。となれば、本城は黒に限りなく近いグレーのまま罪には問われない。仮に問われたとしても、医療上の必要性を盾にこの病院にできる限り入院させるつもりだった。大学時代からの友人で腕の立つ弁護士の田之倉にも、頭を下げて本城の弁護を頼んだ。田之倉は事情を知り、複雑な顔をしながらも四柳の頼みならと引き受けてくれた。本城の身元引受人を買ってでた四柳を心配していたが、それはまったくの見当違いというものだ。四柳の心はいままでになく高揚している。

 ベッドの上で静かに眠る本城に話しかける。

 

「15年……。お前と出会ってから15年も経っているんだよ」

 

 ようやく、手に入るのだ。自分が心から欲していたものが。

 

「あんなに輝いていたお前が、クスリ漬けになって、周りからも見捨てられて可哀想だね、本城」

 

 四柳が初めて目にした本城はすべてに恵まれていた。容姿も才能も友人も、何もかも手にしていた。揺るぎない成功も簡単に手に入っただろう。

 それがいまや仕事を失い、友人を失い、社会的な信用さえ失った。何もかもを失い、孤立した本城がすがりつくことができるのは、もう自分だけだ。そうなれば、本城は精神的にも肉体的にも少しずつ自分に依存していくだろう。蜘蛛の巣にかかった蝶がもがけばもがくほど蜘蛛の糸に深く搦め捕られ、離れることができなくなるように。

 

「やっとだ。やっとお前に触れることができる」

 

 あれほど眩かった男が目の前にいる。傷つき、ボロボロになった姿で。だが、本城がどんな姿になろうとも自分は本城を愛し続ける自信があった。四柳が本城を取り巻く他の人間よりも誇れるところがあるとしたら、本城に向ける愛の深さだろう。だから、本城に自分を選んでもらうために、本城の選択肢をひとつずつ奪っていった。だが、罪悪感に心が痛むこともない。本城を見捨てた人間達はそれくらい愛に乏しかったというだけの話だ。そんな奴らは本城にふさわしくない。

 そしてまた、四柳もこれからずっと自身の愛を試され続けることだろう。本城にとって自分が相応しい人間であるかどうかを。だが、決して自分は本城を失望させはしない。

 

「ぅ……」

 

 本城の睫毛が震える。どうやら意識が戻ったようだ。

 四柳は表情を引き締めると、本城の顔を覗き込んだ。重たい瞼がうっすらと持ち上げられて、頼りない眸が四柳を捉える。四柳は震えるほどの歓喜を心のうちに押し殺しながら、「本城」と呼びかけた。

 

END

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