top of page
飼育2.5

 暮れ始めた太陽の光が顔に当たる。
 御堂はソファの上で目を覚ました。50cmほど開かれたカーテンの隙間から茜色に染め上げられる空が見て取れる。
 身体が重く倦怠感はあったが、それでも体調は大分回復したと思う。
 御堂は、身体にかかっていた毛布を払い、ソファに手を着いて上半身を起こした。首につながれた鎖がジャリ、と不快な音を鳴らした。
 ソファから降りて窓に近づいて外の景色を眺めるが、鎖の伸びる範囲ではカーテンに触れることはできない。その日一日、御堂に与えられる空の範囲は、この部屋の主人である克哉の気分次第だ。日によってはカーテンを全て締め切られ、薄暗い部屋で一日を過ごすこともある。照明のスイッチは幸い手の届く範囲にあったが、太陽の光を遮った空間というのはどこか寒々しく気が滅入る。カーテンを少しでも開けてくれていた方が、気持ちが随分と安らぐというものだ。
 御堂は、少しの間、窓の外の景色を見遣ると身体を返した。
 視界には部屋のセンターテーブルに置かれた食事。サンドイッチが手つかずのまま置かれている。
 この部屋で過ごす夜は長い。昼間の内に出来うる限り体力を回復し、温存しないといけない。どう考えても食事を食べた方がいいことが分かっているが、食欲がない。サンドイッチを手に取りしばし思案したが、この時間に無理矢理胃に詰め込んだら、今度は晩御飯が食べられなくなる。
 食べることを早々に諦めた御堂は、サンドイッチを手に掴んで、トイレに移動した。
 トイレの床に蹲ると、サンドイッチをなるべく小さく千切り、便器の中に捨てる。少し捨てる度に水をしっかり流し、配水管が詰まらないように細かく気を配る。
 もし、食事をトイレに流していることがばれたら、ただでは済まないだろう。だが、食事をそのまま残しておけば、克哉の機嫌が悪くなることは目に見えている。少なくとも昼食をしっかり食べたと思わせれば、晩御飯を残してもそれ程、克哉は不機嫌にならないはずだ。
 唯一の衣服であるワイシャツの袖口から手首の痣が覗く。足首にも同様の痣がある。きつく拘束されていた当初は暴れていたせいで生傷が絶えず、常に瘡蓋と血によって汚れていたが、手足の拘束を外されてからは徐々に治癒し、褐色の痣を残すのみとなった。その痣も徐々に褪色してきている。
 残る枷は首輪のみだが、それは外されることはないだろう。革と金属でできた首輪はしっかりと御堂の首に巻き付いて、鍵をかけられている。
 今以上のことは何も望まず、期待しない。
 鎖が伸びる範囲の自由でさえ、克哉の気まぐれで次の瞬間には奪われるだろう。御堂にとって、このほんの僅かの自由でさえ、自分で勝ち取ったものではなく、克哉から下賜されたものに過ぎない。
 御堂は既に人であることやめていた。克哉の奴隷でありペットであり玩具に過ぎない存在に成り下がっている。その道を選択したのは御堂自身だ。そうなることで何を守ったのかと問われれば、人としての自分の心だ。
 自分を守るために、人として生きることをあきらめた。それはもう矛盾しているのかもしれない。だが、御堂はまだ自分が御堂であることを分かっている。それだけで十分だ。
 死ぬのは怖くなかった。だが、狂うのは嫌だ。
 最期の瞬間まで御堂孝典という存在で生きていたい。自分が自分でなくなる底知れぬ狂気は二度と味わいたくはない。
 サンドイッチを全部処分し終え、御堂は視線を床に丹念に這わせる。その欠片が落ちていないことを慎重に確認して、トイレから出た。廊下を覗けば、薄闇の向こうに人の気配がない玄関が見える。
 大丈夫だ。克哉はまだ帰ってきていない。
 御堂の視界の中に、ゲストルームの部屋の扉が映り込み、御堂は目を背けた。リビングに移されるまで、ずっと閉じ込められていた部屋だ。
 家具も置かずに空き部屋として放置していた部屋に、2か月以上閉じ込められていた。真っ白な壁と天井。思い出すだけで肌が粟立ち、身が竦む。
 あのまま閉じ込められていたら、御堂は確実に壊れ、狂っていただろう。当時に比べれば、今も鎖につながれたままとはいえ、比較にならないほど平穏な日々を過ごしている。
 こんな状況を嬉しく感じるなんてどうかしている。だが、今、御堂が感じる安寧は確かなものだ。
 克哉に服従することで、どれ程惨めな思いを味合わされようとも、あの部屋に戻されさえしなければいい。
 そのためには、克哉の怒りを買ってはいけない。克哉の機嫌を損ねてはいけない。克哉が望むべき振る舞いをしなくてはいけない。克哉の機嫌が良ければ、御堂の幾ばくかの自由は保障される。それだけで十分だ。
 克哉は飴と鞭をしっかりと使い分けている。鞭を恐れ、飴を強請る御堂は、すっかり躾けられている。


「ぅ…っ」
 じっとりと肌が汗ばむ。込みあがる射精感を抑えこもうと、御堂は床に這いつくばったまま太ももをすり合わせ、短く息を継いで後庭からもたらされる快楽を逃す。
 体内に埋め込まれたローターは単調ながらも手を緩めることなく、身体の内側から絶え間ない刺激を容赦なく与えてくる。
 全裸にされて、身に着けているのは首輪のみ。首輪につながれた鎖の先は克哉が握っている。そして、ローターのコードが後孔から尻尾のように垂れ下がっていた。
 これは、犬の散歩だ。
 玄関からリビングまで、犬に見立てられた御堂は、飼い主の克哉に連れられ、獣のように手と膝をついた状態で歩かされていた。ただ散歩するのはつまらないだろう、とローターを埋め込まれたのだ。しかし、射精は許されていない。
「御堂」
 低い声が頭上から降りかかると同時に、鎖を軽く引っ張られた。潤む目で見上げれば、克哉の冷徹な双眸に晒される。
「歩くんだ」
「っ、待って…くれっ」
 既に御堂の性器は張りつめていて、先端から滴を次から次へと溢れさせていた。
 切羽詰まった状態であることは、克哉も分かっているはずだ。だが、その表情は至って冷淡で、侮蔑の眼差しを御堂に投げかけてくる。
「御堂、俺は一度しか言わない。俺の言うことがきけないのか?」
「くぅっ、…」
 無情な言葉を返され、御堂はそろりと落ちかけていた腰をあげた。先に進もうと、足に力を入れると、腹部に力が入り、ローターの振動を直に感じてしまう。
 快楽に揺らぐ身体を意志の力で抑え付けながら、一歩、前方に立つ克哉の足元に近づく。
 玄関からリビングまでのわずかな距離が途方もなく長く感じる。先ほどからその歩みは遅々として進まない。
「あっ、ううっ」
 動いたことで、体の中のローターの位置が変わり、下肢がガクガクと震え御堂は克哉の足元に蹲った。
 これ以上、少しでも動いたら射精してしまうだろう。克哉は勝手な射精は決して許さない。
 御堂は自分のペニスに手を伸ばすと、根元をぎゅっと握りこんだ。
「っ、くっ」
 今度は激しい苦痛が御堂を襲う。物理的に血流を遮断し、強制的に射精を抑え込む。
「誰が触っていいと言った」
 苦しさに涙が滲んだ目を向けて、赦しを請う。
「さえ、き…もう、無理だ」
「あんたは我慢がきかないなあ。もう少し、堪えろよ」
「んっ」
 克哉は御堂の前に屈み込み、視線の位置を合わせた。鎖を引いて、首輪ごと御堂の顔を引き寄せる。
「それとも、部屋の中だから緊張感がないのか?この格好で公園で散歩してみるか?」
「――っ」
「エリートビジネスマンの趣味は尻にローター突っ込んで、犬の真似事をすることだって、公衆の面前でお披露目しようか」
 唇を強く噛みしめて克哉の言葉に耐える。
「あんたは見られる方が興奮するからな。どうしようもない変態だ」
 顔と身体を紅潮させ屈辱に震える御堂の姿を見て、克哉は唇の片側を吊り上げると、ゆっくりと立ち上がった。
「ほら、手を離せよ」
「うあっ」
 ペニスを握りこんでいる御堂の手を軽く足先で突く。その衝撃でさえ、耐え難い刺激となって体の芯に伝わる。
「御堂、何度も言わせるな。お仕置きされたいのか」
 お仕置き、という言葉に息を詰め、身体を強張らせた。
「もう一度、最初から躾し直すか?お前の部屋に戻るか?」
「それは…っ、やめてくれっ」
 心臓が激しく脈打ちだし、身体が恐怖に震えだす。克哉の言う部屋とはあの部屋のことだ。御堂が閉じ込められた真っ白な部屋。
 鎖を持ったまま、克哉の足先がその部屋の扉へと向いた。
 その歩みを止めようと、ペニスから手を放して克哉の足に縋りつく。
「佐伯っ、お願いだっ」
 克哉が御堂に足を取られて、歩みを止めた。
 御堂の方を振り向くと、おもむろにその足を蹴り上げて、御堂の腕を振り払った。
 よろけた御堂の股間をそのまま足先で押さえつける。腹部につくほど反り返った器官に体重を軽くかけて、揉み込んだ。
「くぁっ!」
 その刺激に耐えようと下腹部に力を入れたところで、克哉が手元のコントローラーを操作して、ローターの振動を強めた。身体の中のローターが跳ねて暴れだす。
「あ、あああっ」
 身体の内外に強い刺激を与えられて、腰が震えて堪えきれず放ってしまう。背を仰け反らせながら、大量の白濁した奔流が克哉の靴下ごと足を濡らしていく。
「行儀が悪いぞ、御堂」
「く、ふっ…」
「濡れたじゃないか。ベタベタだ」
 ローターの振動が止まった。脱力して崩れ落ちるように廊下に伏せた御堂の鼻先に、克哉が濡れた足先を突き出した。克哉の靴下に御堂の精液がべったりと大きな染みを作っていた。
 荒い息を吐きながら手をついて顔を上げ、克哉を仰いだ。逆光になって翳る克哉の顔の表情はよく見えない。素肌に直に触れる床板に体温が徐々に吸い取られていく。
「ほら、きれいにしろよ。あんたが汚したんだから」
「ぅっ」
 精液独特の青臭い匂いが鼻腔に触れる。御堂は克哉の足先に視線を落とした。
 克哉の足を拭えるものを御堂は持っていない。克哉が御堂に何を要求しているのか、考えるまでもない。それでもまだ辛うじて残されていた人としてのプライドが御堂を逡巡させた。
「御堂」
 名前を呼ばれて、びくりと身体が震えた。
「俺は一度しか言わない」
 その声が低くなる。
 御堂は怯えた目で克哉の顔を見上げ、その底光りする双眸とぶつかると、慌てて顔を伏せた。そろそろと口を克哉の足先に近づける。
 今更、何を迷うことがあるのだろう。
 舌を出して、克哉の靴下を汚した自分の精液を舐めとる。繊維が唾液に絡んでざらりと舌に引っかかる。えぐみのある味が口内に広がった。
 克哉の視線を感じながら、赤い舌を出して克哉の足先に舌を這わす。舐めれば舐めるほど克哉の靴下が御堂の唾液で濡れて染みが広がっていった。
「いい子だ。やればできるじゃないか」
 克哉が満足げに笑って足を引いた。
「御堂、その尻の中のモノ、取り出せ」
 もちろん、克哉の目の前で、ということだろう。
 瞼を閉じて、克哉の存在を視界から消した。腰を上げ、震える手を伸ばして、後孔に埋め込まれたローターを取り出そうと、指を沈める。息を吐いて、身体の力を抜いて、慎重に奥を探る。指先にローターの端が触れた。
「ふ……っ」
 次の瞬間、カチッと克哉が手元のスイッチを操作した音が響いた。
「うっ、あああっ!」
 突然動き出したローターが腸壁を擦りつつ、より奥へと潜っていく。激しい振動に身体が痙攣するように波うった。崩れ落ちていく身体を支えようと、咄嗟に目の前の克哉の足にしがみつく。
「くっ、ううっ!」
 掴んだ克哉のズボンの生地をきつく握りしめつつ、呻き声を上げながらローターから伸びるコードを掴むと力任せに引っ張った。
「ぁあああっ!!」
 ローターが中を深く大きく抉りつつ、引きずり出される。跳ねながら床に落ちて、不快な振動音を立てた。御堂は再び達して、精液を迸らした。白濁した粘液が、床を汚していく。
「あ、ああ、はっ」
 肩で大きく息をしながら、下半身が沈んで落ちていく。下肢が崩れ、腰が砕ける。
 快楽に染め上げられる思考の中で、再び射精したことと床を汚したことを克哉に咎められるだろう、と恐れが沸き上がった。
 今度こそ克哉の不興を被って部屋に閉じ込められるかもしれない、その恐怖が意識を正気のままに踏み止まらせた。
 怒られる前にきれいに拭わなくてはいけない。
 自分が汚したものをどのように雪ぐか、先ほど克哉に教えられている。
 一刻も早く、その痕跡を拭わなくては。
 だが、心ばかりが恐怖に駆り立てられ、身体が思うように動かない。克哉のズボンを握りしめる手を放そうにも、爪が食い込むほどに強張った指がぶるぶると震えるだけだ。
「ぁ…ああ……」
 行き場のない感情と焦りが嗚咽となって溢れ、熱い液体が顔を伝った。
 視界を埋める薄暗い廊下が涙で滲んで歪む。その涙は重力に従って、鼻先からぽたぽたと床板に滴り落ちていく。
 今度は涙で床を汚してしまった。
 絶望が胸に染み込み、全てを覆いつくす。鉛のように重い身体に引きずられて、克哉にしがみついていた手がずるずると落ちていく。
 床を濡らす涙も全て舐めとれば、克哉は赦してくれるだろうか。
 放心状態でそんな事を考えながら、落ちていく顔の前に迫りくる床を見つめ続けた。
「御堂」
 もう少しで顔が床にぶつかるというときに、沈みゆく身体が止まった。克哉が御堂の手首を掴み、上半身を引き揚げる。
 ぐいと身体を起こされた。呆然としたまま濡れた顔を上げると、克哉が屈み込んで顔を寄せた。
「お前の涙は俺のものだ」
「あ……」
 涙よりも熱いものが頬に触れる。克哉の真っ赤な舌が皮膚を這って、御堂の涙を舐めあげていく。
「甘いな」
 目の前には愉悦に満ちた克哉の顔。
 嫌悪感よりなによりも、克哉の機嫌を損なわなかったという安堵が歓びとなって沸き上がる。
「さ、えき…」
 切れ切れに克哉を求める声には媚が混じる。
「俺が欲しいんだろう?」
 その言葉に小さく頷いた。
 そこにはかつての凛然とした御堂の姿はない。
 例えようもないほど淫らな表情を、御堂は克哉に向けていた。
 克哉はこの上なく優しく微笑む。
「何が欲しいのか、はっきりと自分の言葉で言うんだ」
「佐伯。君が、欲しいんだ…。私を、…抱いてほしい」
 このまま克哉に抱かれたら、後、何度絶頂を迎えることになるのだろう。
 それを想像したら、淫靡な期待に身体の奥がぶるりと疼いた。
 欲情を滴らせた克哉の眼差しが御堂に注がれる。その視線に全身を灼かれながら、御堂は熱に浮かされたような陶然とした面持ちに包まれた。
 克哉は御堂の調教師だ。だが、決して良い調教師ではない。
 良き調教師とは、調教する対象と自分との間に個人的な感情を一切介在させることはないのだ。だが、克哉が御堂に向けるそれは、御堂に対する執着以外の何物でもない。
「御堂、お前はいい子だ」
 囁かれる克哉の言葉に御堂はうっとりと至福の笑みを口元に刷く。
 克哉の心は御堂に捧げられている。その感情の底流が途絶えぬ限り、御堂は克哉に打ち捨てられることはないだろう。
 克哉と御堂をつなぐものは執着という名の鎖だ。それは互いの首にきつく巻き付いている。
「佐伯……」
 抱き寄せられる克哉の腕の中に、御堂は恍惚と身を委ねた。

bottom of page