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「御堂さん、今日……」
アクワイヤ・アソシエーション(AA)社の執務室。夏の始まりの強い陽射しを避けようとブラインドを下ろしたものの、背中には夏の輝く太陽の気配を感じる。社員がランチ休憩に入ったタイミングで、克哉が自分のデスクから御堂に向けて声をかけた。
書きかけのメールの文章を打つ手を止めず、視線もディスプレイに留め置いたまま返事をした。
「なんだ?」
克哉はほんの少しだけ間をおいて、言葉をつづけた。
「今日はなんの日だか覚えています?」
「今日? ……誰かの誕生日か? いや違うな。何かの記念日か」
「……今夜、ディナーとホテルの部屋を予約しています。仕事を早めに切り上げましょう」
克哉は御堂の問いに答えぬまま、予約しているホテルとレストランの名を挙げた。驚いて、克哉に顔を向けた。ハレの日に使うにふさわしい、一流レストランとラグジュアリーホテルだ。
ちらりとパソコン画面の隅にある今日の日付を確認したが、どれほど自分の記憶をひっくり返してみても、今日という日に心当たりがない。
「随分と張り切った選択だな。それで、今日は一体何の日だ?」
「いいえ、別に何もありませんよ」
「そんなことはないだろう」
「俺にとっては、御堂さんと過ごせる毎日が記念日です」
「君は……」
探る言葉を誤魔化しで遮られる。咎める視線を向けると、克哉は瞼を落として、言外に答えるのを拒否した。
今日という日を失念していたことで、克哉の機嫌を損ねたのだろうか。
しばらくじっと克哉を見詰めていたが埒が明きそうにもなく、御堂はひとつ大きなため息をついて、再び意識を書きかけのメールに戻した。
メールを書き終えたら克哉をランチに誘おう、機を見て、さりげなく話を切り出そう、と今日の日付を心に留めた。
どこからか漂う甘酸っぱい果実の香りが鼻腔をくすぐる。この香りは何だっただろうかと思案に耽っていると馴染みのある声が聞こえた。
「御堂さん、大丈夫ですか?」
切羽詰まった声音に、うっすらと瞼を開けた。
じいん、と頭頂部が痺れている。背中に重力を押し返す硬い床の感触が伝わり、自分がどこかに倒れている状況だということがぼんやりと分かってきた。
視界に飛び込むオレンジ色の光の眩さに何度も瞬きをして視界を慣らした。ブラインドが開け放たれた執務室の窓から、高層ビルの一面のガラスが夕陽を受けてキラキラ輝いている。
徐々に、目に映りこむものの輪郭がはっきりしてくる。頭を軽く振って、意識と視界をすっきりさせた。焦点が定まると視野が広がり、周囲の状況も見えてきた。
よく見慣れたAA社の執務室の天井。そして、自分の顔を覗き込む心配そうな克哉の顔。
少し遠巻きに、藤田や他の社員が不安げにこちらを窺っている。
「ああ、大丈夫だ。心配ない」
そう言って、御堂はフロアを覆う絨毯に手を突いて起き上がった。すぐに頭が冴えてくる。そして、直前までの記憶も戻ってきた。
身体のすぐ脇には分厚いファイルが転がっていた。キャビネットの一番上の段にあったそれを、手を伸ばして取ろうとしてバランスを崩し、落ちてきたファイルの角が頭にぶつかりそのまま倒れたのだ。
御堂を不安げに見守っていた克哉が、表情を緩めた。
「心配しましたよ。頭とか、ぶつけたところ大丈夫ですか? 念のため病院に行きますか?」
「大丈夫だ。問題ない」
「ゆっくり起き上がってください」
「ありがとう」
さりげなく差し出された克哉の手を取って起き上がったその時、視界に入り込んだ克哉のスーツの袖、そこに不意に違和感を覚えた。
克哉が好むネイビーの生地、だが、克哉が今まで持っていなかったタイプの布地だ。シルクのようなきめ美しい光沢と発色の良さはイタリアブランドのものだろう。袖口のボタンとボタンホールのディテールの繊細なこだわりは、スーツがオーダーメイドであることを示している。視線を袖口から肩、そして襟へと滑らせていく。落ち着いたフォルムに洒落気のある細部、一目でわかる最上の仕立てのスーツだ。
だが、克哉はこんなスーツを持っていたのだろうか。
克哉のスーツの襟に視線を留めたまま、黙って考え込みだした御堂に、克哉は怪訝に声をかけた。
「どうしました? 頭、痛みます?」
「いや、そうではない……」
心配する口調に、安心させるように速度を落とした口調で返して、顔を上げた。自分をまっすぐに見つめる克哉と視線がつながる。次の瞬間、思わず息を呑んだ。
目の前の克哉の顔。よく見知っているはずなのに、どこか違う。
精緻で端正な顔つき。シルバーのアンダーリムの眼鏡が、野性味を感じさせる鋭い双眸を覆う。だが、この男は、御堂の知る克哉ではない。
そして、克哉もまた、訝しがる御堂を見返し、ハッと瞳孔を開いた。
「佐伯、お前……」
「御堂さん、あなた……」
相手を疑り、探る声が重なる。
克哉が御堂の手をぐいと引っ張って立たせると、御堂を背に隠すように立ち位置を変えた。遠巻きにふたりを窺っていた社員に向けて声をかける。
「御堂は問題ない。皆、仕事に戻れ」
止まっていた空気が動き出し、社員が慌ててデスクに戻る。その様子を克哉の肩越しに眺めて、更に異変に気が付いた。視界を遮るはずの、壁がない。AA社内の空間が記憶にあるそれよりも明らかに広くなっているのだ。
左右対称に広がっている間取りから考えれば、同じフロアの隣の部屋の壁を取り払ったのだろう。
AA社を立ち上げた時、克哉は、先々のことを見越して、隣接する部屋も借り上げていた。会社の規模が拡大したら、壁を取り除いて部屋を広くするのだという。
その話を聞いたときは、随分と気が早い、と笑ったものだが、今、御堂の目の前には倍の広さになっているAA社とそこで忙しなく行き交い、仕事に励む、多くの社員の姿がある。
どこか現実に追いつかない意識で辺りを見渡した。
AA社の社員の数も、御堂の記憶にある人数よりもはるかに多くなっている。
こんなに社員を雇った覚えはない。
ここはどこだ?
くらくらと眩暈がしてきて、眉間を抑えた。確かに、AA社の風景であるはずなのに、自分の見知っている現実からかけ離れている。
口を開きかけたまま、唖然としてその場に立ちすくんでいると、克哉が御堂の手を掴み、執務室に隣接するミーティングルームに連れ込んだ。扉を閉めて、内鍵をかける。
全てをさておき、強引にこの場に連れてこられたことに抗議をした。
「いきなり、何をする」
ふたりきりの部屋で克哉は表情を変えぬまま、眼鏡を押し上げて御堂を見据え、一言、言った。
「……御堂さん、あなたは御堂さんじゃないですね」
「何を言っている。私は御堂だ」
「言葉が足りなかった。あなたは、俺の知る御堂孝典ではない」
「何だって?」
「だが、俺はあなたを知っている」
謎かけのような克哉の言葉に、御堂は眉間の皺を深くした。
克哉は、どう説明しようかと思案するかのごとく視線を斜め下に落とし、レンズ越しの眸を再び持ち上げた。
「御堂さん、今、何歳ですか?」
「三十四歳だ。今更何を聞く」
御堂の返答に克哉は「やはり」と肩を竦めて大きく嘆息した。
「あなたは、今、四十四歳なんですよ」
「は?」
「そして、俺は三十七歳です」
その言葉に驚いて目を瞬かせ、まじまじと克哉を見詰め返し、そして、腑に落ちた。克哉の顔に覚えた違和感はこれだったのだ。
「御堂さん、どうやら過去のあなたが入れ替わったらしい」
「過去の私が入れ替わった? 何故そう思うんだ」
首を傾げる。普通に考えれば、御堂がここ何年かの記憶を失ったと考えるのが妥当だろう。
「違うんです。俺の知っているあなたと」
「違う?」
「懐かしいな……。昔の御堂さんに会えるなんて」
「なんだって?」
克哉が手を伸ばして、御堂の頬にそっと触れた。
肌の表面の産毛を逆立て、撫でるような柔らかな指先に、言いようのない不安を覚えて、顔を背けて克哉の手から逃げた。克哉がふっと吐息だけで笑った。
「ひとまず、あなたがここにいては混乱が起きる。俺たちの部屋に移動しましょう」
理解が追い付かぬまま、再び克哉に手を引かれてミーティングルームを出た。
克哉が社員に一言声をかけて、AA社のフロアの上にある自宅に御堂を案内した。
そこは、記憶通りの克哉の部屋で、多少の細かい違いはあっても、見知ったレイアウトにやっと安堵を覚える。リビングのソファに腰をかけた。
センターテーブルの上に無造作に置いてあった新聞を手に取った。日付を確認して、瞳孔が開ききる。何度見直しても、克哉が告げた通り、新聞に記載されている日付は、御堂の記憶にある今日のきっかり十年後の今日の日付だ。呻くように言った。
「私はちょうど、十年前の今日にいたんだ」
「十年前の、今日ですか」
後から部屋に入ってきた克哉は御堂の言葉を復唱し、なにやら思案顔になった。「どうしたものかな」と呟いて、おもむろに携帯で連絡を取り始め、電話口で仕事のやり取りをし始めた。その間に、この世界の情報を少しでも得ようと新聞をめくり始めたところで、克哉が電話を切って御堂に視線を向けた。
「俺たちの仕事はこの後オフにしました」
「それで大丈夫なのか?」
「ええ、元々、今日は重要な仕事を入れていませんでしたから。問題ありません」
御堂はネクタイのノットを緩めると深々とソファの背もたれに体重をかけた。重たいため息を吐く。
「……まったく、何がどうなっているのか」
「考えても仕方ありませんよ。なるようになりますって。また元の世界に戻れますよ」
これから先のことを考えて表情を暗くする御堂に対して、克哉は平然としたままだ。挙句、確信めいた口調で御堂が元の世界に戻れると言い切ってみせる。猜疑に満ちた視線を返した。
「どうして君はそんなに楽観的なんだ」
「たまに、こんな日だってありますよ」
「こんなこと、たまにだってあってたまるか」
「まあまあ、怒っても状況は変わりませんから」
ひとり苛立ちを増す御堂を、克哉はどこか面白い光景を楽しむ表情で見ている。その態度にさらに不満が嵩んでいく。憤然とした口調で言った。
「君は、いつだって問題を軽く考えがちだ。もう少し、目の前の問題に対して真剣に取り組んだらどうだ?」
「……御堂さん、今のあなたは三十四歳だ。対して、今の俺は三十七歳。つまり、分かりますか?」
「何がだ」
「今や俺の方が年上なんですよ」
「それはさっき聞いた」
「では、もう少し年上に対して敬意を払ってくれてもいいと思うのですが」
克哉の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「お前は私の七歳年下だったが、いつだって偉そうだったじゃないか」
「そうでしたか?」
「ああ。私に対して敬語を使っても、態度が伴ってなかったな。そして都合が悪い時だけ年下ぶる。そして、今や年上ぶろうとしている。年齢をあげつらうなら、まず君が私に敬意を払いたまえ」
「まったく、敵わないな」
不遜な御堂の言葉に、克哉が苦笑した。
「折角ですから、この後、食事に行きましょうか。今日は、ほら、あの日ですからディナーを予約してあったんです」
「あの日?」
克哉の言葉に顔を上げた。そう言えば、こうなる前の克哉も今日が何かの日だと言いかけていた。訝しげな御堂の表情に、克哉は笑いを引っ込めた。
「分からないなら結構です」
「なんだと? 隠し事はよせ」
強い口調で返して、はたと気付いた。先ほどの克哉にはこんな風に強気の態度で問い詰めることはしなかった。だが、目の前の克哉には遠慮を感じずに、言いたいことが言えてしまう気安さがある。この違いはどこからきているのだろうか。
克哉は肩を軽く竦めて御堂をいなした。
「隠してはいませんよ。ただ、受け止め方の違いです。俺にとっては重要でも、御堂さんにとってはそうではないことだってあるでしょう。とりたてて言うほどの事ではありません」
そう、さらりと流して、御堂の前に立つと、克哉はかしこまった動作でお辞儀をした。御堂にすらりと長い手を差しだす。
「御堂さん、俺と一緒にディナーはいかがですか?」
「佐伯、今はそれどころではないだろう」
「今宵は、あなたのために特別な夜を用意しております」
もったいぶった克哉の態度に毒気を抜かれそうになる。そう言われてみれば、空腹だった。克哉を誘ってランチ行こうと計画していた昼は、別の仕事が入って食事どころではなくなっていた。どんな状況でも腹は減る。たとえ、十年後の未来に飛ばされてしまったとしても。
克哉の言う通り、打開策が見つからない以上、ここでじっとしていても仕方がない。
なるようになれ、と気持ちを切り替え、御堂の返事を微動だにせず待っている克哉の手を掴んで立ち上がった。克哉がにっこり笑う。
克哉は御堂の手を取って玄関まで案内すると、靴を揃え、靴ベラを渡し、扉を開けて御堂のために身体を退いて道を作った。
「随分と仰々しいな」
「今日は俺が年上なんです。またとない機会だ。年上らしい振る舞いをさせてください」
そうして御堂の前に恭しく差し出された手に、軽く手を重ねた。
こんな風に年上の克哉にエスコートされるという事態に胸がざわめき逸りだす。それを悟られないように、すました顔を保ち続けてはいるが、とても平静ではいられない。
克哉に案内されたのは、グラン・メゾンと評するにふさわしいフレンチレストランだった。料理の質だけではない、比類なき歴史と風格、優れたサービスを有する日本屈指のレストランだ。
ワインリストを渡されて、中を見れば垂涎たるワインが並んでいる。それを選ぶのは御堂の役目だ。克哉は口を出さずに、御堂の選択を待っている。ソムリエと料理のメニューを見ながら会話を交わし、ワインを選ぶ。
口当たりの良いワインで口を潤して、食事が始まった。
枝豆のポタージュスープは香りも味も抜群に良く、ホタテのクリームを絡めたフェットチーネは胡椒がきいて濃厚だ。旬の食材をふんだんに使って、それぞれの味を引き立て調和させる料理の腕は唸るほどで、美しく盛りつけられた皿はアートのごとく視覚も喜ばせた。
ワインも、料理も、そして給仕のサービスも完璧としか言いようがない。
克哉が一口、ワインを口に含み、優美な仕草でローストされた鴨肉を切り分ける。
その姿は堂々たる風格を持つ実業家、そのものだ。この域に辿り着くまで、いったいどれほどのハードルがあったのか。そして、その全てを乗り越えて、克哉はここにいる。
克哉から視線が外せなくなった。
大人の男としての色気と包容力を兼ね備えた、一人の年上の男が目の前にいた。
間違いない。
克哉はいい男になっている。
スーツ姿も板につき、男としての深みが増している。ともすれば獰猛ささえ感じさせたエネルギッシュさは、心地の良い洗練された雰囲気となり、相対する人間の気持ちを自然と解きほぐす。御堂でさえも、この克哉には緊張を解いて甘えたい心持になってしまう。
コンサルティング業という競争の激しい業界で酸いも甘いも噛み分けてきたのだろう。その中で積み上げてきた経験が、この佐伯克哉という人間を裏打ちしているのだ。
そう、それは、自分が心ならずも捨てたもの、渇望しながらも遂に手に届かなかったもの。
それを、目の前の克哉は持っている。
項に冷たい汗が流れ、言葉にできない畏怖を覚えた。
人は、十年でここまで変わるものだろうか。
そして、十年後の自分は、この克哉にふさわしい男であるのだろうか。
口の中が渇き、会話を交わそうにも声が掠れそうになる。ワイングラスを傾けるスピードが速くなった。
食事を終えるタイミングでシェフが挨拶に来た。親しげに会話を交わす克哉の態度は、このランクの店に行き慣れていることが分かる。物怖じした様子もない。克哉の身に着けるもの、そして、AA社の様子を見れば、事業は順調に拡大しているのだろう。克哉が御堂と共に手中に収めようとした世界。それはもう、手にしたのだろうか。
シェフが辞した後、持っていたワイングラスを置いて、口を開いた。
「この十年はどうだった?」
漠然とした問いに、克哉はレンズ越しの眸の色を深めた。
「色々ありましたよ」
そう一言口にして、克哉は複雑な感情の色を眸に宿した。克哉の表情を読み解くことが出来ずに、レモンのシャーベットを一口含んで口直しをすると、更に切り込んでみた。
「それは、仕事の話か? それとも、プレイベートでの話か?」
「どちらも」
克哉は言葉少なに返し、それ以上言及しようとはしなかった。
ふたりの間に沈黙が流れる。克哉は柔らかな微笑を浮かべたまま、口を引き結んでいる。
それは、静かで控えめな拒絶であり、それ以上の詳細を尋ねるのは憚られた。
追及を諦めた御堂が探る視線を収めると、克哉が唇の端をわずかに吊り上げた。
「先のことは知らない方が、愉しめますよ」
「愉しめる?」
「明日には何が起こるか分からない。だから、今を精一杯生きることが出来るんです」
「随分と知った風な口をきくんだな」
嫌味たっぷりに返せば、今度こそ克哉は破顔した。
「今や、御堂さんより年上ですからね」
そう言うと、身を乗り出すように、御堂の顔を覗き込み、含みを持たせた口調で言った。
「御堂さん、何があったって、俺を信じてください。いや、あなたが俺を信じてくれたからこそ、今があるんです」
「佐伯……」
克哉の言葉には御堂に対する揺るぎない信頼と愛情が滲み出ていて、この十年の時を経た克哉と御堂が、どれほどの困難や葛藤を乗り越えて、強い絆で結ばれているのか垣間見えた。
「場所を変えましょうか」
克哉はナプキンを軽くたたみ、食事を終えたテーブルに置いて立ち上がった。
同じホテルのバーへと移動した。バーは照明を抑えた薄暗い空間で、入った正面にコの字型のカウンターテーブルがあったが、克哉は奥の閑散としたボックス席に座った。重厚なアンティークの調度品が揃えられ、革張りのソファも座り心地が良い。
克哉はシングルモルトの逸品を頼み、御堂もそれに倣った。
少ししてバーの片隅に置かれているアップライトピアノからゆったりとした曲が流れだした。頭を上げて見れば、黒いロングドレスを着た女性がピアノを演奏している。ホテルに雇われたピアニストだろう。
客は静かに音楽や会話を愉しみ、男二人、並んで飲んでいても違和感はない。
他愛のない言葉を交わし、時折流れる沈黙さえも味わう。曲が変わり、不意に耳に届いた音楽、懐かしさを感じるその響きに、グラスをテーブルに置いた。
「この曲は、『アズ・タイム・ゴーズ・バイ(時の過ぎゆくままに)』か」
「映画『カサブランカ』の曲ですね」
克哉の返事に、「ああ」と頷いた。ピアニストが即興でアレンジを加えて弾く旋律は、古い曲であるのにどこか新鮮で、耳に心地よい。
十年経ってもこの曲は変わらず愛されているのだ。時間が過ぎ去っていっても、変わらぬものはある。バーを見渡せば年月を感じさせるオーク材の壁や床は温かみのある風合いで御堂たちを包み込んでいた。きっと、このバーは十年前から何一つ変わっていないのだろう。自分が十年後の世界にいることさえ忘れてしまいそうだ。
ウイスキーを舐めながら、曲が終わるまで耳を傾けた。鍵盤が最後の旋律を響かせ、曲の余韻が静けさに溶け込んでいく。克哉にちらりと視線を送った。
「佐伯、十年前のことは覚えているか?」
「そんな昔のことは覚えてないな」
すぐさま返された型通りの答えに、満足した。克哉が笑みを含んだ眼差しで御堂を誘う。
「今夜は俺と過ごしてもらえますか、御堂さん?」
「そんな先のことは分からないな」
型通りの応酬に、互いに顔を見合わせて、笑い合った。このやりとりは『カサブランカ』の名台詞のシーンだ。「昨日なにしてたの?」「そんな昔のことは覚えていない」「今夜会える?」「そんな先のことは分からない」、ハンフリー・ボガード演じるリックが、彼を口説こうとする酒場の女性をさらりとかわす場面だ。
克哉がきざな仕草で、琥珀色の液体が煌くグラスを視線の高さに恭しく掲げた。格好つけた口調で言う。
「君の瞳に乾杯」
「それは私の台詞だ」
これも『カサブランカ』の名台詞だ。御堂は文句を付けながらも、克哉と同じくグラスを掲げた。眼差しを交わして乾杯をする。
強いアルコールが深い香りを伴って、胸の奥を落ちていく。
「御堂さん」
そう声をかけて、克哉が顔をわずかに傾けて顔を寄せた。御堂のくちびるのきわどいところにそっとくちびるを触れさせる。
不意打ちのキスに身体を強張らせると、喉を震わせて笑った克哉が耳元に顔をずらし、静寂を壊さぬように小声で囁いた。
「ホテルの部屋を取ってあります」
はっと克哉の顔を見返せば、克哉は視線をねっとりと絡めてきた。
御堂と克哉の間に熱を孕んだ空気が流れる。先を急くことのない、大人の余裕を兼ね備えた克哉が、御堂を前にして秘めていた欲情を剥き出しにしようとしている。
じっとりと手のひらに汗をかく。身体がこうも熱いのは、アルコールを飲み過ぎたせいなのだろうか。それとも、年上の克哉と過ごしているという、あり得ない状況に酔ってしまったのだろうか。
ほんの少しの間逡巡し、この克哉が持っているその先の世界を覗いてみたくて、克哉の誘いに乗った。
バーを出て、克哉に導かれるまま上階の部屋に向かった。
薄暗い廊下の毛足の長い絨毯が足音を消す。ふたりだけの音しかしない部屋に入ったところで、克哉に優しく抱き締められた。
強すぎず、弱すぎず、ふたりの身体の間に隙間を作らないように、それでいて、体温を感じるか感じないかのような、絶妙な加減で抱き締めてくる。
克哉が纏うフレグランスに仄かに体臭が混ざって、官能的な香りが鼻腔を浸す。
心臓が早鐘を打ち出し、気持ちが高ぶりだしたところで、唐突に克哉が身体を離した。
「スーツにしわが寄りますよ」
「……ああ、そうだな」
ともすればこのままことに及んでしまうところで克哉に宥められる。克哉らしくない落ち着きに、戸惑ってしまう。
克哉の胸に軽く手を当てて、克哉との距離を保ち自らの逸る気持ちを抑えようとしたが、顔が、燃えるように熱い。克哉の顔を直視出来なくて、逃げるようにバスルームへ向かった。
シャワーを浴び、バスローブを羽織ってバスルームを出ると、入れ替わりに克哉がシャワーを浴びに入っていった。
部屋の窓辺に立った。壁一面を覆う、嵌め殺しの大きな窓。そこにもたれかかって窓の外の風景に視線を彷徨わせた。
十年経っても、東京の眩い光は衰えることなく、その輝きは目に痛いほどだ。
かすかな気配を感じて振り向けば、御堂と同じくバスローブをまとった克哉が、御堂の元に歩みを寄せた。
背中をそっと抱き寄せられ、頬に手を当てられて、柔らかな速度で体温を合わせてくる。
くちびるに重みがかかった。
くちゅり、と唾液が混ざる音が、ふたりの合わさったくちびるの間で響く。角度を変えて、舌を舐め合い、やさしく始まったキスを次第に激しいものにしていく。
キスに夢中になり、呼吸が苦しくなったところで、克哉にベッドへと誘われた。
バスローブの前をゆるくはだけた克哉が眼鏡越しに視線を投げかけてくる。隙間から覗く身体つきは引き締まって無駄がない。御堂が知っている克哉から何一つ衰えていない。
それなのに、御堂を抱き寄せる大きな手には、今までの克哉にはないものを持っている。唇を柔らかく押し当てるキスも、身体の輪郭をゆっくりとなぞる触り方も、肌を掠める熱い吐息も。記憶に刻まれるものと同じなのにどこか違う。
克哉はためらいなく動き、その仕草は滑らかだ。御堂を愛することに慣れた手つきは、決して勢いに任せることなく、余裕に満ちている。
年月が克哉に大人の余裕と自信をもたらしたのだ。少年めいた眸の輝きはなりを潜め、強い眼差しは落ち着いた力強さを持つ。蠱惑的な笑みを浮かべる克哉と目が合っただけで、高揚感に自然と頬が赤らんでしまう。
この克哉に抱かれたらどうなるのだろう。
それを想像しただけで背筋がぞくりと戦慄いた。
「佐伯、やはり……」
逡巡と欲情の狭間で、心が揺れ動く。そんな御堂を見透かしたように、ぐいと強い力で腕を引かれて克哉の膝の間に座らされた。思わぬ強引な所作に、逃げ出そうとしたが、長い腕で抱きすくめられた。
「じっとして。そう……。あなたはただ感じていればいい」
艶やかな声が抗えない磁力でもって、御堂の抵抗を挫いた。後ろから抱え込まれるように、両脚をぐいと広げられる。
「な……っ、佐伯、なにするんだ!」
年端のいかない子どものような、はしたない格好をさせられて、声を荒げて抗議した。
「十年前の御堂さんがどうだったか、確認しているんですよ」
掴みきれない微笑を浮かべて悪びれずに言う克哉がはだけたバスローブの間から、御堂の性器を取り出した。
「こうされるの、好きでしたよね」
「ん……っ、そんな、触り方……、する、な」
克哉の大きな手が御堂の性器を根元から擦りあげる。上下に手が動くたびに、指先でつうと筋を辿られ、指で作った輪に亀頭のえらを弾かれる。大胆で繊細な克哉の指遣いがもたらす快感に、御堂は背中を大きくしならせた。一秒ごとに自分の性器が体積を増していくのが手に取るように分かる。あっという間に筋が脈打つほど大きく熱くなったそれを、克哉が性器の形をたどるようになぞるだけで、身体の奥からとろりとした蜜が滲みだしていく。
「よせ……っ」
「俺の触り方、嫌ですか?」
「そうでは、ない……っ」
「じゃあ、御堂さん、自分で触ってみてくださいよ」
「ん、ああっ」
右手をあてがわされて、自分の性器を掴まされた。自分の手の感触にさえ、ぎちぎちに張りつめた性器には過敏すぎる刺激になって、掠れた喘ぎを漏らしてしまう。
御堂の手の上に克哉の手が被さった。そして、自分の手で自分のペニスを扱くように誘導される。
「やっぱり、自分の手の方が気持ちいいですか? 十年経っても御堂さんには及ばずですか」
「違うっ、これはお前が……っ」
悪辣に笑う克哉に導かれて、絶妙な力加減で、根元からくびれを締め付けられて、擦られる。自慰行為を視姦されるだけでなく、手伝われているようで、羞恥に顔が燃え上がる。
御堂と克哉の手が重なって、愛撫される性器はとぷとぷとぬめる蜜を溢れさせた。
「ん――っ、ッ、あ……っ、あぁっ」
滴り落ちる蜜が、竿を濡らす。次から次へと溢れ出る先走りが竿を濡らして指に絡まる。自分のペニスを扱くたびにくちゅくちゅと濡れた音が立った。
下半身の感覚に意識を取られていると、克哉は御堂の胸へと露骨な愛撫を仕掛けてきた。指先で胸の尖りを摘まみ、きゅっと引っ張り、揉みこんでくる。羞恥と快楽に身体が発情していく。下腹の深いところから込み上げてきた熱に全身を支配される。
「ッ、佐伯……っ、もう、イきそうだ……っ」
「俺の目の前で、イってください」
克哉はレンズの奥の目は冷徹な光を灯していて、快楽に翻弄される御堂を鋭い視線で狙いすましてくる。
こんな恥ずかしいことをしたくないのに、自分の性器を扱く手を止めることが出来ない。
腰が浮き上がるような疼きを懸命に堪えていると、克哉の親指が、先端の割れ目の敏感な粘膜をくりっと擦りあげた。
「あ、イくっ、く、あっ、ぅ……っ」
爆ぜる、という言葉がふさわしいほど、大量の白濁を放った。それは胸や顎まで飛び散って、どろりとした熱を直に感じた。
御堂の顔を汚した精液を、克哉が指ですくって舐めとった。ちろりと真っ赤な舌が覗いて、それがひどく煽情的で、下腹の奥がずくりと疼いた。
「味は変わらないな」
「馬鹿……っ!」
非難の声を上げようとしたところで頤をきつく掴まれて、くちびるをきつく押し付けられた。舌を強く吸い上げられて、意識が炙られ、朦朧としていく。気付けば御堂もまた、浅ましく克哉の唾液を啜って、キスをねだっていた。
克哉の手が下肢に這わされる。べったりと繁みを濡らす精液を使って、アヌスに指が忍び込み、狭いそこを拡げていく。浅く出入りをする指に物足りなくなって、腰を克哉に向かって押し付けるように突き出してしまう。
「ん……っ、佐伯…っ、欲しい……っ」
素直に克哉を欲しがる御堂の態度に、克哉は鋭く息を吸い込んだ。問答無用にベッドに上体を押し倒されて、腰を掲げさせられる。尻肉を割拓かれて、アヌスに熱い先端が直に当たり、御堂はたまらずに熱っぽい吐息を漏らした。
「無茶……するな」
「こんな姿を見せつけられて、我慢できるはずないじゃないですか」
言葉通りに克哉は御堂の腰骨をきつく掴んで引き寄せると、ぐっと強く腰を入れてきた。それは、御堂の尻の狭間をぬるっと進み、窮屈な内腔を抉りこんでくる。
「んっ、く、ああ――っ!」
克哉は根元までみっちりと御堂の中に納めると、中の感触を確かめるように腰を重ったるく揺すった。克哉の形に押し広げられた内壁が狂おしいほどに疼いて、内股が細かく震える。全ての神経が体内に感じる克哉に集中していくような感覚に、四肢の力が抜けて腰が落ちそうになるが、克哉に深く貫かれているせいで、尻だけ高々と掲げた恥ずかしい体勢のままだ。
克哉がしなやかに腰を遣いだした。身体の奥から噴き上げてくる甘い悦楽に溺れてしまいそうだ。突き上げられる度に、身体が跳ねてしまう。克哉がひときわ深く穿つと、御堂の身体をぐいっと返した。中をぐりっと硬いペニスでかき回されて、その衝撃にまた放ってしまう。熱い飛沫がお互いの肌をべっとりと濡らした。
「んあっ! 中が、擦れて……っ!」
「御堂……」
今度は真正面から御堂に突き入れてくる。その目は酷く真剣で、眦がうっすらと紅く染まっている。揺らめく眸は濡れて、淡い光を散らしている。
克哉が御堂の性器に手を伸ばした。ぬちゃっと卑猥な音を立てながら、放ったものを塗され擦られる。解放したはずなのに、ペニスはまったく萎えることなく漲ったままだ。中を擦られるたびに、壊れたようにびゅくびゅくと白濁を吐き出し続ける。
「あ、あっ、……ッ、また、イく……っ」
克哉は果てることなく御堂だけをイかせ続けた。その執拗さは、十年前の克哉と何ら変わらない。
激しく突きこまれ、強烈すぎる快楽に無意識に腰を揺らしてしまう。深い抽送を繰り返していた克哉の動きが小刻みなものになり、克哉が唸った。体内で克哉がどくっと震えた。御堂の奥に、ひどく熱い精液を撃ち込んでくる。その火傷しそうな熱さに、御堂の理性は跡形もなく蕩かされていった。
互いの欲望を吐き終えて、熱くなった肌を重ねた。克哉は御堂の中に自身を残したままだ。
快楽に翻弄される情事の後の、気怠い余韻に浸るこの時間も嫌いではない。
濡れて張り付く髪を払う指先に、緩く触れ合うくちびるに、相手に対する愛おしさが確かに胸に息づいているのを感じることが出来るからだ。
戯れのようなキスを交わしながら、克哉が吐息に紛れて呟いた。
「恋に落ちる瞬間があったとしたら、あの時だった」
「あの時……?」
「俺が、初めてあなたに会った時ですよ。MGNの執務室で」
克哉は目を眇めた。御堂の向こうに、もう一人の御堂の像を結ぶかのように、焦点が霞む。
「あの時のあなたは、あらゆるものを跳ねのける強さと美しさを兼ね備えていた。あの瞬間、俺はあなたの虜になったんです」
克哉は涼しげな目許を緩めながら「窓から差し込む光があなたの顔を陰にしていた。だから、あなたの顔をまともに見ることが出来たんです」と言って、御堂の頬にそっと触れた。突然の告白に驚いて目を瞠った。
「そんな素振りなど、君は微塵も見せなかっただろう」
「あなたは、初めから俺のことなど眼中になかったですからね。だから、どうしても、振り向いて欲しかったんです」
克哉は御堂の顔を大きな手で挟んで自らの真正面に向けた。
「愛してますよ、御堂さん。今までも。そして、これからもずっと」
克哉の素直な愛の告白に、胸がじいんと痺れ熱くなった。歳を経てもなお、飾り立てのない自分の気持ちをまっすぐにぶつけてくる克哉がたまらなく愛おしい。
「私だって、君のことを愛している。今だって、そして、この先も」
「知っていますよ」
今の自分より十年先を生きる克哉は、事もなげにそう言って笑った。
そして、再び快感を呼び戻すために、ゆったりと動き始めた。すっかり濡れて潤んだ内腔が、空気を潰した淫猥な音を立て始める。すぐに喘ぐことしかできなくなった。
幾多の絶頂を絡み合わせたのち、指一本を動かすのも気だるい身体を持て余す御堂に、克哉がバスルームから濡れたタオルを手に戻ってきた。
丁寧な手つきで事後の身体を拭ってもらう。
呼吸が整ったところで、崩れそうになる膝をどうにか堪えて、シャワーを浴びようと立ち上がった。
すぐさま克哉も御堂を支えようとさりげなく手を添えた。室内の抑えた照明が、克哉の裸体に美しい陰影を刻んだ。
克哉の無駄のない、美しい筋肉が乗る身体に惹かれた。御堂の記憶にある克哉の身体から全く衰えていない。
自分も鍛えてはいるが、十年後の自分は、どうなっているのだろう。実のところ、この克哉と出会ってから、十年後の自分がどうなっているのか気になって仕方がない。克哉は十年前の御堂が現れたことにすぐに気付き、自分が知っている御堂と違う、と言った。それはつまり、十年後の自分は変わったということだ。
十年後、自分はどのように変わったのだろうか。
それは期待というよりも、どこか不安めいた怖れでもって、御堂の心に暗く立ち込める。
時間は人を待ってはくれない。ただ、過ぎ去るのみ。
克哉は自分を抱いたことで、十年後の御堂と胸の内で比較したことだろう。それは残酷な現実を知らしめるものであるのかもしれない。この克哉は十年前の御堂と出会ったことで、本来のパートナーである十年後の御堂に対する愛を薄れさせたのではないだろうか。誰だって、衰えと向き合いたくはない。
自分は、ここにいてはいけない存在なのだ。
不意に湧きあがってきた恐怖に床に脱ぎ捨てたバスローブを急いでかき抱き、自分の身体を隠そうとした。その最中に、ベッド脇に置かれていた克哉の鞄を倒してしまった。中から、大きな封筒が零れ落ちる。慌てて拾い上げれば、黒地の上質紙の封筒に金字で大手不動産会社の名前が刻まれている。
不審に思い中を覗けば、ずっしりとしたパンフレットと書類が入っていた。
「これは?」
「ああ、見つかってしまいましたか。サプライズプレゼントにしようと思っていたのに」
「プレゼント?」
克哉が御堂から封筒を受け取ると、中からパンフレットを取り出して手渡した。
「マンションですよ」
「マンション?」
「今住んでいる部屋を買い取ろうかと考えている。御堂さんと共有名義で」
「何……? どういうことだ?」
驚いて目を丸くする御堂に、克哉は喉で軽く笑った。
「俺たちは男同士で、この国では結婚は出来ない。お互いの気持ちだけでここまで来たが、この節目に、何か形を残したい」
「佐伯……」
「終の棲家っていうのも悪くないだろう?」
「……それは、十年後の私に言ってくれ」
真剣な克哉の眸に惹きこまれた。胸が詰まり、これだけ言うのが精いっぱいだ。
「ええ、もちろん。驚かせたいので、このことは忘れてください」
悪戯っぽく言って見せる克哉が穏やかな笑顔で聞いてくる。
「俺は昔と変わらず魅力的ですか?」
「そうだな。少しは落ち着いたようにも見えるが、中身は変わらないな」
克哉はいつだって克哉だ。十年後でも二十年後でも、決して変わることはないのだろう。
御堂の返答に、克哉は満ち足りた笑みを浮かべた。そんな克哉にさりげなさを装って聞いた。
「私はどうだ?」
「どうだ、とは?」
「十年後の私は変わっていないか?」
「いいえ、変わりましたよ」
あっさりとそう言い切る克哉に、御堂は目を瞬かせた。
やはり、自分は変わったのだ。克哉にそう、言い切られるほどに。
克哉が歳を重ねたように、御堂も同じだけの歳を重ねている。だが、二十代の十年と三十代の十年の重みは残酷なほどに違う。喉が干上がり、続けた声が揺らいだ。
「……それは、どのように」
克哉はニヤリと笑って、間髪入れずに答えた。
「今のあなたより、もっと魅力的です」
「何……」
微笑む克哉の目じりの笑い皺が薄く刻まれて、それが、克哉が経た歳月を忍ばせた。それでも、その顔の中に御堂だけが知る無邪気さを見つけて、胸が熱くなった。きっと十年後の自分は、今と変わらず克哉に惚れ続けているのだろう。
この世界の克哉が自分に接する態度を見れば、この世界のふたりの間柄は確固たる関係が築かれていることが分かる。それは十年という歳月が培った絆だ。
そして、さらにこの先へと進んでいくのだろう。
克哉の御堂に対する揺るぎない想いを見せつけられて、目頭が熱くなった。十年後の自分はきっと幸せだ。そう、確信できる。
聞きたいことはいっぱいあった。そして、伝えたいこともいっぱいあった。
だが、そんな御堂の口を克哉はくちびるを押し付けて塞ぎ、そうして、ほんの少しだけ顔を離した。
「御堂さん、そろそろ戻りましょうか、あなたの世界に。そして、俺の孝典さんを返してください」
再び克哉の体温が迫る。視界が塞がれて、そっと瞼を閉じた。唇に温かな重みがかかる。
――ああ、そうだ。今日は……。
御堂の意識は、ゆっくりと暗いところに沈んでいった。
「御堂さん、大丈夫ですか?」
瞼を押し上げると、心配そうに覗き込む克哉がいた。その背後にはAA社の白い天井が見える。
目の前の克哉が見知った顔なのに、どことなく違和感を覚えてまじまじと見つめていると、克哉が居心地悪そうに顔を引いた。
「俺の顔が、何か?」
「……いいや、私の良く知っている君だと思っただけだ」
「はい?」
克哉のスーツの仕立てに目を走らせた。オーダーメイドのスーツで仕立ては悪くはないが、まだまだ改善の余地はある。
今度、克哉のためにスーツを見立ててやろう、一流のテーラーを紹介してやろう、そう考えながら、ゆっくりと膝に力を入れて立ち上がった。
周囲を見渡せば、自分の記憶と寸分も違わない。戻ってきたのだ。この世界に。
どこか夢見心地のような、浮ついた感覚が残っている。今しがたの十年後の克哉との邂逅は白昼夢だったのだろうか。
それでも、十年後の克哉が残した最後の感触を、せめて、指先に留めようと、御堂は唇をそっとなぞった。微かな熱が指に伝わる。
自然と笑みが浮かんだ。克哉がますます胡乱な表情をする。そんな克哉に笑いかけた。
「今日は、私たちが初めて出会った日だ。そうだろう、佐伯」
「……ええ、そうです」
克哉は、驚き、そしてどこか嬉しそうな表情を御堂に向けた。
あの日の光景がありありと思いだされた。アポイントメントもなく御堂の元に押しかけてきた、子会社の社員二人。
執務室の扉を勢いよく開けた大柄の青年の陰に隠れるように立っていた、気弱な顔立ちの青年。同じ人物のはずなのに、何故か目の前の克哉は初対面の印象とまるで違う。
いや、そんなことはない。あの時だって御堂は克哉の存在から視線を外すことが出来なかった。あの日、自分もまた、克哉に捕らわれていたのかもしれない
「御堂さんは、もう忘れたと思っていましたよ」
「あいにくと記憶力には自信がある」
「本当ですか?」
疑り深く返してくる克哉の追及を無視して克哉に向かって手を伸ばした。その手を克哉が苦笑しながら掴む。ぐいと引いて御堂を立たせた。
スーツを軽くはたいて、しわと埃を取ると、克哉の正面に立って、改めて、手を差し出した。
「これからもよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします。御堂さん」
御堂と視線を合わせて克哉が微笑み、御堂の手のひらに手を重ねてくる。
克哉の手のひらを握り返すと、同じだけの力が返ってくる。
克哉の大きな手が抱く、暖かな熱。互いに対する、愛も信頼も、握り合う手に、願いと共に伝え合う。
AA社の執務室、窓の外は夜の帳が下りている。
ここから、ふたりは再スタートしたのだ。
何もないところからの始まりだった。それでも、克哉とふたりで歩めば、すべてを手に入れられると確信していた。その気持ちは1ミリも変わっていない。
東京の輝く夜がふたりを包み込む。
暮れゆく光の中で過ぎ行く一日を惜しみ、そして、次の一日をふたりで迎えることが出来る喜びを噛みしめた。
END