
山吹の……
「御堂、そろそろ起きろ」
「……佐伯?」
頬に軽く触れられて御堂孝典はぼんやりと目を覚ました。視界に映り込む見覚えのない天井、御堂の顔を覗き込んでいる克哉。身体の感覚が速やかに戻り、背中に当たる床の固さからベッドではなく寝袋の中で寝ていることに気付く。ぼんやりとしていた意識がみるみるうちに研ぎ澄まされた。
ここはどこだろうと思い返し、思い出す。いまはもう使われていない民家の一室に寝袋を敷いて寝たのだ。カーテンのない窓からは明るい陽射しが射し込んで部屋を光で満たしていた。
「――っ」
寝袋から這い出して起き上がると身体を伸ばした。畳敷きの和室で寝たが、寝袋で寝たせいもあって全身のあちこちが痛い。それでも、春も終わりの暖かな気候なのは幸いだった。
克哉はとっくに目を覚ましていたようで、ネクタイこそ外したままであるもののスーツのジャケットを羽織った姿で立っていた。
そう言えば片桐はどうしたのだろう。同じ部屋で休んだはずだが、空になった寝袋しかない。
御堂の視線を察したのか克哉が言った。
「片桐さんはもう起きてキッチンにいる」
「……そうか」
バッグの上に置いていたジャケットを羽織り部屋を出た。廊下を歩くと床がミシミシと鳴る。一応、三年前までは住民が棲んでいたはずだが、いつ床が抜けてもおかしくないくらいの廃屋だ。一番新しくてまともそうな家を選んだのだが、もしこのままの状況が続くなら他の家も確認してどこに滞在するかよく検討したほうがいいかもしれない。
埃が積もった廊下を歩き、磨りガラスがはめ込まれた引き戸を開いた。そこはキッチンとダイニングの一続きのスペースで、電気もガスも通じないが、テーブルや椅子などの大きな家具は置きっぱなしになっている。そのテーブルの上で片桐が簡易コンロを使ってお湯を沸かしていた。御堂に気付きにこりと笑う。
「おはようございます。インスタントコーヒーですが飲みますか?」
「ああ。ありがとう」
テーブルに置かれているマグカップはこの家にあったものだろうか。使い込まれたようなくすんだ色合いのマグカップを手に取る気にはならないが、この状況で湯気立つコーヒーはインスタントであっても魅力的だ。
「その水は?」
「車に積んであったペットボトルの水ですから大丈夫ですよ」
「水は足りそうか?」
「いざとなれば井戸もありますし。飲み水として使われていたみたいですから、衛生基準はクリアしていると思うんですけど」
「飲み水と言っても水質検査を受けていたのは三年前だろう。まあ、文句も言ってられないし、煮沸すれば問題ないな」
片桐がインスタントコーヒーの粉とお湯をマグに注いで御堂に差し出した。
「どうぞ。御堂さんのお口に合わないかもしれませんが」
「インスタントでもないよりはマシだ」
そう呟きながら片桐からマグを受け取ると後ろから克哉が言った。
「十分ですよ、片桐さん。ありがとうございます。……御堂、この状況で文句が多いぞ。こんな村でコーヒーが飲めること自体を感謝しないと」
ちくりと釘を刺される。克哉の言い分は正しい。御堂たちは現在孤立している。正確にはもう誰も住んでいない廃村に閉じ込められていた。
マグに口をつけた。寝起きの熱いコーヒーが身体を温めてくれる。
「美味しいコーヒーだ。ありがとう、片桐さん」
粉っぽいコーヒーを飲みながら片桐に礼を言うと、片桐はにっこりと微笑んだ。
ことの発端はAA社が引き受けた依頼で、廃村となった逢坂村(おうさかむら)を訪れたことだった。
リゾート会社からのコンサルティングだった。廃村となった地域をまるごとリゾート地として開発する計画が立ち上がり、リゾートホテルから場所の選定の依頼を受けたのだ。
世界的な感染症の流行により在宅ワークが浸透し、自然の多い環境でテレワーク用のワーケーション、また家族での長期滞在を狙った農業体験ができるアグリツーリズムの需要が高まった。それに加えて、医食同源をテーマにしたレストランや観光と人間ドックを同時に楽しめるツアーなどを見込んだ大規模リゾート開発プロジェクトだ。複数の企業グループが参加する予定で事業規模は百億円を超える。
そのための候補地を各市町村に募ったところ地方の市から逢坂村を推薦された。逢坂村は山あいの小さな集落で、限界集落として頑張っていたものの三年前に最後の住民がいなくなり無人となった村だった。
東京からのアクセスは悪いが、周囲の自然環境が良いこと、三年前までは住人がいたこともあり電気水道などのインフラが存在していることから、書類選考を経て逢坂村が候補地のひとつとして選ばれた。そして、御堂たちは依頼を受けて現地まで下見に出向くこととなった。そこになぜキクチの営業八課に所属している片桐が同行しているかというと、リゾート開発計画にMGN社が参加しているからだ。医療面・食事面でリゾート開発のイニシアチブを取るのがMGN社で、候補地選定の段階から参加していたという実績を作るために、子会社のキクチから社員が派遣された。それが片桐というわけだ。MGN社の代理とのことだが、体よく面倒な仕事を押し付けられただけだろう。
だが御堂も他人のことは言えない。この案件は、本来なら克哉をリーダーとしたチームが担当していた。だからこの出張だって克哉と藤田が行くはずだったが、直前に不測の事態が起きて御堂が急遽、代わりに逢坂村まで出向くこととなったのだ。
田舎に出向くのは乗り気ではなかったが、片桐は御堂がMGN社にいた時代に下請けとして関わっていたし、克哉からしたら元上司だ。まったく知らない相手よりはコンビを組むのにストレスがないだろうと片桐と合流して出発した。東京から逢坂村に辿り着くまでは、飛行機と電車を乗り継いで逢坂村がある市で一泊して、翌朝、タクシーで市役所へと向かった。あまりにも東京から遠すぎて、この時点でかなり疲弊していた。
「わざわざ遠くからありがとうございます。それなのにすみません。こんな状況でなければ僕がご案内するのですが」
市役所の地域活性課という部署の若い男性職員は申し訳なさそうな顔をして御堂たちに頭を下げた。今回のリゾート地に逢坂村を推した市の担当者だ。
担当者は逢坂村の資料が綴じられた分厚いファイルと、預かっている家々の鍵を御堂たちに渡してきた。御堂が受け取り、中を確認しつつ言った。
「残念ですが、仕方ないですね」
「ナビもありますし、僕たちだけで見て回りますから」
本心では担当者が案内してくれることを期待していたし、その予定でいたが、市は先日の大雨で大きな被害を受けていた。その復旧に市役所の多くの人手を取られてしまい、御堂たちの下見に同行できなくなったのだ。だが、代わりといって、市役所の公用車を貸し出ししてくれるという。
「市長からも逢坂村が選ばれたら全面的に応援しますとのことですので、どうぞよろしくお願いいたします」
と担当者から何度も頭を下げられた。リゾート開発には地元の反対運動がつきものだが、今回に限っては真逆らしい。村に残された家の権利者とも市が率先して交渉してくれたようで、すべての家屋の鍵も預かっている。残された家も築百年以上経っている古民家もあるそうで、それもそのまま活かせるなら活かしたいという考えだ。
村の外に住む権利者たちはリゾート開発の計画に反対するどころかむしろ歓迎しているそうで、それもあって逢坂村が候補として選ばれたのだ。
担当者が頭をかきながら言う。
「正直、廃屋は放置しておけば倒壊の危険性もありますし、それでなにかあったら我々の責任も問われますし」
「誰も住んでいないのなら致し方ないのでは?」
「それはそうなのですが、最近はほら、ユーチューバーとかが、ああいう廃村とかに無断で立ち入って面白おかしくレポートしたり家屋を荒らしたりするじゃないですか。昨年でしたか、逢坂村もその対象になったことがあって」
「え、荒らされたんですか?」
「いえいえ、未遂です!」
驚く片桐に担当者が慌てて首を振って否定した。マイナスイメージになったかもと危惧したのだろう。
「結局、予告編だけ流れてそのあとはなんにもなかったんですよね。廃墟探検専門のチャンネルで、若い男性がやってたようですが、それ以降、更新自体ストップしてしまって。あちこちの廃屋に立ち入ったりしていたので警察沙汰にでもなったのかもしれません。まあ、正直ホッとしています。何かあったら僕が損害状況を確認しないといけないですから」
担当者は苦笑する。後半部分が本音だろう。市としては逢坂村がリゾート地として開発されれば、廃村のいろいろな問題が一気に解決して、なおかつリゾート需要で市全体が賑わうことが期待できる。だから、なんとしても逢坂村を売り込みたいようだ。
「そうそう、あの村、以前は携帯をつなげるためのアンテナを設置してもらっていたのですが、村人がいなくなってからは取り外されているんですよ。だから、リアルタイムの配信ができなくて諦めたのが実情だと思いますけど。……あ、携帯つながらないので、気をつけてくださいね」
担当者が思い出したように御堂たちに注意した。
どちらにしろ電気の通っていない逢坂村は日中しか見て回れないから、ふもとの町を拠点にして二日ほどかけて村やその周囲を見て回る予定だった。なにかあれば町まで戻って担当者に連絡すれば良いだろう。御堂たちは担当者に礼を言うと、貸し出された車に乗り込んだ。
車は市の名前が側面に書かれた白のミニバンで、片桐が運転した。
山あいのくねる道を一時間近く走り、逢坂村に辿り着いた。
車から降りると、湿った土と草木の濃い匂いが風とともに吹きつけてきた。ほんのりと甘い香りも混ざっている。花の匂いだろうか。
逢坂村の周囲は山々で囲まれていて、御堂が想像する典型的な里山の村だ。村の中心を小川が流れ、春の陽射しに照らされた山々は標高が低く野山といった趣(おもむき)だ。白や薄紅、紫といった色とりどりの花が咲いていて色彩豊かでのどかな光景を形作っている。その山のひとつ、黄色に染まった山があった。片桐がその山を指さして言う。
「あの山は山吹がたくさん咲いていますね」
「山吹? あの黄色い花か?」
「ええ。これだけ群生していると見事ですね」
新緑と鮮やかな黄色のコントラストが目に眩い。周りの山はいかにも雑木林といった雑多な花が咲いているのに、あの山だけ山吹に統一されているのは人為的に植えられていたのだろうか。
「この時期は花の里山というコンセプトも良さそうだな」
御堂は周囲の光景を次々に写真に収めた。村の中に点在する家屋は当然人の気配もなく物寂しいが、もしここがリゾート地として開発されたら、きっと見違えるように美しく整備されるのだろう。
ある程度写真を撮ったところで、御堂は腕時計に視線を落として言った。
「今日はこれくらいにして残りは明日にしよう」
まだ調査は半分も終わっていなかったが、市役所に寄っていったせいであまり調査にかけられる時間はなかった。一日目はざっと回って翌日に細かな調査をしようといったん引き返すことにした。
そうして、車に乗り込んで帰ろうと思ったら、途中の山道が落石で通行不可能となっていたのだ。軽く数百キロありそうな大きな岩がゴロゴロと道の真ん中を塞いでいた。山の斜面を見上げると赤茶けた地肌が出ているところがある。日中に軽い地震を感じたので、大雨でぬかるんでいた地盤が崩れたのかもしれない。ちょうど道を走っているときに落石がなかったことに安堵するが、これではふもとの町まで帰れない。日も暮れる中、山道を歩く気にはなれなかった。
仕方なく引き返し、村の中で一番まともそうな家に泊まることにした。車中泊も考えたが、車のトランクを開けてみたら寝袋も含めてキャンプセットが詰まっていたので、それを拝借することにしたのだ。市の災害対策用に積み込んであったのだろう。
村の入り口近くにある比較的新しい民家に鍵を使って入る。ほこりっぽさはあったが、一晩過ごすには耐えられる範囲だ。こうして御堂たちはトランクにあった懐中電灯を使って中を確認しつつ、一階の和室で一晩泊まることになったのだ。
「やはり携帯はつながらないか」
御堂はコーヒーを飲んで、トランクに積み込まれてあった味気ない非常食を食べると家の外に出た。スマートフォンの電源を入れて確認するが、圏外の表示のままだ。
空を見上げたれば、雲ひとつない空からは輝きを増した陽の光が射し込んでいた。東京にはない広くて青々とした空だ。ぼそりとつぶやく。
「落石が片付けられたか、見に行ってみるか」
隣に立つ克哉が首を振る。
「さすがにそんなに手際は良くないだろう。それよりさっさと調査を終わらせてしまったほうが効率的だ」
「……またこの村に行くのも面倒だしな」
克哉の言うとおり、落石の撤去作業にも時間がかかるだろうし、それよりは当初の予定どおり調査を先行したほうがよさそうだ。村に閉じ込められたとはいえ、御堂たちが逢坂村を訪れていることはAA社も市役所も把握している。連絡がなければ異変があったと気付くだろう。むしろ昨日の時点で連絡がなかったことですでに動き始めているかもしれない。そう考えるからこそ、村に閉じ込められたとはいえ、それほど心配してはいなかった。家に戻り片桐にそう告げると片桐も異論はないようで、村の中を歩いて回ることにした。
青空の下、逢坂村を歩いた。逢坂村は稲作もしていたようだが、乾いた田んぼは雑草に覆い尽くされていた。アスファルトに舗装されている道はまだましだが、あぜ道は夏になれば雑草に勢いに阻まれて歩けなくなるだろう。人の気配がない村は、風が草木をざわめかせたり、鳥の鳴き声は遠くから聞こえるがとても静かで落ち着かない気持ちにさせられる。
さっさと調査を終えようと速歩で歩く御堂に片桐が言う。
「蛇がいるかもしれませんから気をつけてくださいね」
「蛇!?」
ぎょっとして足元に視線を落とした。幸い足元に蛇の姿はなかったが、道の左右には背丈の高い雑草が生い茂っている。いつどこで蛇が出てきてもおかしくなかった。
「田舎ではこの時期よく出てきますから。まあ、マムシはこういう開けた場所には出てこないと思いますが」
「詳しいな」
「地元が田舎だったので」
片桐はハハ…と笑う。
「御堂さん、足元をよく見て歩いてくださいよ。蛇を踏んづけないように」
御堂の後ろを歩いていた克哉もくすくす笑った。克哉を無視して足元を注意しながら歩き出した。
役所で渡された村の地図を見ながら一軒一軒、状態を確認し写真に収めた。
逢坂村の家々は十数軒残されているが、雰囲気のある古民家から、倒壊寸前のぼろぼろの家屋、建て替えてまだ間もないような家もあった。
写真を撮っていると、道ばたに一台の車が停まっているのに気が付いた。
「片桐さん、あれ……」
「おや、車ですか? 変ですねえ。誰か来ているのでしょうか」
車のところまで歩みを寄せる。紺のステーションワゴンは比較的新しいモデルで、この廃村には相応しくないタイプの車だ。車内は空で助手席にはコンビニの袋や大きめのボストンバッグが無造作に置かれている。近くに運転手がいるのかもとあたりを見渡したが、やはり人の気配はどこにもない。
「なんでしょうね?」
片桐は首をひねるが、この車にこれ以上かまけていられない。気を取り直して近くを散策することにした。
村はずれまで来ると山の中へと伸びる階段があった。枕木でできた階段で山吹の黄色に染まる山へと続いているようだ。階段の両脇には山吹の黄色い花々が咲き乱れている。
「ここにはなにかあるのか?」
場所的に山のふもとの登山口のようにも見えるが、道の両脇に飾られた紙垂付きの注連縄(しめなわ)がここは特別な場所であることを示していた。片桐が手元に持っていた村の見取り図を確認する。
「祠(ほこら)、とだけ書かれていますが、なんでしょうね。確認してみましょうか」
片桐が先導し、そのあとを御堂、克哉と歩いて行く。
急な角度の階段を息を切らして昇っていると、山の中腹に開けた場所があった。その中心に祠があり、その裏にはさらに山奥に通じている山道のような細い道がある。
祠の傍まで行って観察してみた。注連縄が飾られている古い木の祠で、長らく手入れをされていなかったせいかかなり汚れている。しめ縄も一部が腐り落ちていた。克哉が眉間を寄せる。
「ずいぶんと粗末な祠だな」
片桐は祠をしげしげと眺めた。
「なにか地元の神様でもまつられているのでしょうかね。地図には詳しいことは書かれてなかったですが」
「市役所に戻ったときに確認してみよう」
片桐が祠の裏にある山道へと顔を向けた。
「あの道も行ってみますか?」
「あまり奥に入りすぎて迷子になったら洒落にならん」
御堂は首を振った。その先に何があるのか気になるが、このまま進んだら山の奥深くに入り込みそうな予感がある。
片桐と近くまで行って覗いてみる。よく見ると山道の地面に朽ちた注連縄が落ちていた。
たぶん、この山道の入り口に張られていた注連縄ではないだろうか。ということは、この先は入ってはならない聖域なのではないかと思ったが、片桐は「大丈夫ですよ。そんな奥まで行きませんから」と言って、落ちている注連縄を跨いでずんずんと進んでいった。あっという間に姿が見えなくなる。
「片桐さん、待て!」
「まったく、あの人は……」
克哉と慌てて追いかけるが、ふいに、清涼な水の匂いがして片桐の姿はすぐに見つかった。祠から歩いて五分程度のところに、透明な水を湛える池があったのだ。いや、池にしては水がきれいすぎる。よく見ると池の中心から水が湧き出しているようで、これは泉なのだろう。その泉の周囲を取り囲むように山吹の花が咲きこぼれ、美しく幻想的な景色を作っていた。
「これは……」
思わぬ光景に息を呑む。隣では克哉も言葉もなく立ち尽くしている。先ほどの祠はこの泉を祀っていたのだろう。村人たちにとって、信仰の対象になっても違和感のない神聖さがある。
「山吹の…」
泉の縁に立つ片桐がぽつりと言った。なにやら小さい声でつぶやいているようだ。
「なにか?」
「あ、いえ、山吹を歌った万葉集の歌があったなあと思って。思い出していたところです」
「ほう、どんな歌だ?」
そう聞き返したとき、ハッと片桐が顔を変えた。
「いま、なにか、声がしませんでした?」
「いいや、気付かなかったが」
耳を澄ますが、あたりは静まりかえって、虫や鳥の声さえもしなかった。克哉も頷く。
「何の音もしないな」
片桐は首を傾げながら言った。
「子どものような……」
「動物の声がそう聞こえたのだろう。こんな廃村に子どもなどいない」
「それもそうですね」
御堂は泉の写真を何枚か撮影するとその場を離れた。調査はもう十分だろう。さっさとこの村から離れて都会の喧噪に身を置きたい気分だった。
朝から村を見回っていたおかげで、予定した調査は昼には終了した。車のトランクに保管されていた非常食を軽く食べて、車に乗り込むと村を出た。だが、昨日と同じ地点で車を停めて、御堂は絶望的な声をだした。
「だめだ、まだ片付けられてないし、誰かに気付かれている様子もない」
目の前には昨日と大きな岩が同じ状態のまま道を塞いでいた。御堂は車から出て巨大な落石を前に呆然とつぶやいた。
「ここに車を乗り捨てて歩いて帰るか……?」
一緒に車から降りてきた克哉が眉根を寄せる。
「御堂、早まるな。この先はもっと酷い状態かもしれないし、素直に救援がくるまで村にいたほうがいいと思うが」
克哉が言うことも一理ある。ここから麓の村までまだ10キロ以上ある。その間の道の状態が分からない以上、無謀な挑戦はすべきではないだろう。片桐も周囲を見渡しながら言う。
「たぶん、明日には誰かが気付いて助けに来てくれますよ。御堂さん、無理せず、村に戻りましょう」
「片桐さん、あなたはずいぶんと楽観的だな。本当だったらもう帰れるはずなのに」
帰れると期待していただけに失望は大きかった。それだけに口調が刺々しくなってしまう。片桐は小さく笑って言った。
「僕がいなくてもキクチ八課はちゃんと機能してくれますから」
「ほう、あなたがいなくても問題ないとは心強いことだな」
「ええ、本当に部下に恵まれて助かってます」
皮肉を込めて言ったが、片桐には通じなかったようだ。
片桐が御堂を気遣う口調で言う。
「でも、AA社の社長と副社長が不在のままなのはまずいですよね。あ、あと藤田君もですね」
「藤田は足を骨折したが、松葉杖を使えばAA社に出勤できるとは言っていたが……。その後の状況は分からないからどうなっているのか」
本来ならこの出張は克哉と藤田が行くはずだったのだ。それが出張直前、クライアントの社からAA社に帰る途中、乗っているタクシーに車が追突し、藤田は足を骨折したのだ。それで急遽、御堂が代わりに逢坂村に行くことになった。その事故さえなければ、こんな田舎に御堂が来ることもなかったし、こんな目に遭うこともなかっただろう。スケジュールが押していたこともあり代理を立てて出張を強行したが、素直に延期にしておけば良かったと後悔する。
「せめて社員と連絡が取れれば良いのだが」
スマートフォンを確認するが、案の定、電波は圏外のままだ。片桐が御堂を言い含めるように言った。
「僕たちがこの村に来ていることは皆知っているし、連絡を絶ったまま帰ってこないとなればいい加減誰かが気付いていくれますよ。もう少しの辛抱です」
「とんだ災難だが、何とかなるだろう。ここで焦ってもどうにもならないぞ、御堂」
克哉は大きくため息を吐いた。御堂もつられてため息を吐く。自分を落ち着かせて片桐に詫びる。
「すまなかった。あなたのご家族も心配しているだろう」
「僕に家族はいませんから。バツイチなんです」
「……それは失敬」
「いえいえ、昔の話ですから」
余計なことを言ってしまったと後悔するが片桐は気にしていないようだった。
ふたたび車に乗り込み、車止めのスペースまでバックして、Uターンすると村へと向かった。片桐がハンドルを握る。滑らかで丁寧な運転に御堂は助手席でうつらうつらしていると、村に入ったところで片桐が唐突に急ブレーキを踏んだ。浮き上がった身体にシートベルトが食い込み、御堂は呻いた。
「ッ――!」
「す、すみません」
「どうした?」
「ちょっと見てきます」
ガチャガチャと慌ただしくシートベルトを外して片桐が運転席から飛び出した。車の周囲をきょろきょろと見渡している。
「何があったんだ?」
急ブレーキの衝撃で頭を天井にぶつけたのか、後部座席から克哉が頭を押さえつつ訊いてきた。
「分からん……」
御堂もシートベルトを外して車から出た。なにかを必死に探しているらしい片桐に声をかけた。
「どうした? なにかあったのか?」
「いや……、なにかが飛び出してきたように思えて」
「私は気付かなかったが……。動物か?」
片桐の顔が心なしか青ざめていた。御堂も念のために車の周囲や下を点検するが何も異常は見当たらない。
「問題ないようだな。気のせいだったのではないか?」
「え、ええ……。そうですね、きっと気のせいです」
片桐は自分に言い聞かせるようにつぶやいて、ふたたび運転席に乗り込んだ。
逢坂村に戻ったものの、現地の調査は終えてしまったので御堂は車の中でレポートを作成することにした。幸いガソリンはたっぷりあるのでシガーソケットから電気は取れる。とはいえ、これからのことを考えるとあまり無駄遣いもできないだろう。
片桐はもうすこし村の中を散策してくると言って懐中電灯を持って出ていった。一緒に行こうか、と声をかけたが、日が暮れる前に戻るから大丈夫だとやんわりと拒絶された。
御堂は、車の後部座席に移り克哉と共に逢坂村の資料を眺めた。逢坂村をまるごとリゾート地にするなら、最大のヤマ場は土地の権利者との交渉だ。だが、市役所の担当者の話ではその点は問題なさそうだった。鍵をすんなり預けてくれたくらいだ。リゾート開発に前向きだという言葉に嘘はないのだろう。克哉が言う。
「この村に住んでいた人たちは全員亡くなっている。だからは地権は村の外に住む子どもや親戚に移っている。朽ちていく家や土地を持て余しているのが正直なところだろう」
克哉の言葉にもっともだとは思いつつも気になった。村を離れた子どもや親戚は、自分の故郷がリゾート地として大きく変えられてしまっても気にならないのだろうか。山吹に囲まれた泉の神秘的な光景と、手入れされずに朽ちかけていた祠を思い出した。あの場所もかつては丁寧に祀られていたのだろう。ああいった土地に根付いた信仰が消えてしまうのも物寂しい気がする。
「君が言うとおり、権利者たちもリゾート開発に前向きだと言うから、逢坂村への思い入れは少なそうだな。だが、自分の育った村がまるごと消えてしまっても寂しくないものなのだろうか」
「むしろ、まるごと消してほしいと思っているのかもしれないぞ」
「どういうことだ?」
思わぬ言葉に克哉を見返せば、克哉は唇の片端を歪めた。
「家は見てのとおり、ほとんど手入れがされないまま放置されている。昨夜泊まった家も家具もそのままだ。子どもを始めとした親類はこの村に滅多に足を踏み入れていないということだ」
「なぜだ? 村に戻りたくない理由でもあるのか?」
「村の関係者全員がリゾート開発に賛成だというのは、個人レベルの話でなくて村ぐるみのなにか問題があるのかもしれない」
「そんなふうには思えないが……。だが、産廃の不法投棄とかあるのかもしれんないな。調べてみるか」
車の窓から村を見渡した。人の手が入っていない村は荒廃した雰囲気はあるものの、平和でのどかな光景が広がっている。この村にどんな問題が隠されているのかまったく見当がつかない。
考え込んでいると、突然横から伸びてきた手に顎を掬われて唇を押し付けられた。不意打ちのキスにあっと口を開いた瞬間、克哉のぬめる舌が入り込んでくる。
「ん……っ、んんっ」
喉を鳴らして抗議するが、遠慮のない舌は口内の感じるところをねっとりと舐めていった。貪るようなキスに陶然となる。抵抗しようにも、いつのまにか手は克哉のシャツをきつく掴んでいた。息が上がりそうになったところで、どうにかキスを解いて克哉に抗議した。
「こんなところで何をするんだ!」
「あんただって楽しんでいただろう……ほら」
「ぁ……っ」
キスで欲情した器官を、ズボンの上からなで上げられて声が出た。克哉が御堂に身体を寄せる。
「やめないか……っ、片桐さんが戻ってくるかもしれない」
「あの調子ならしばらくは戻ってこないさ」
たしかに片桐は村の地図と懐中電灯を持っていた。片桐はいまさら村のどこを散策しようとしているのか気になったが、その疑念は克哉に押し倒されてそれどころではなくなった。
覆い被さられてアンダーごとズボンをずり下げられる。すっかり硬くなったペニスが晒された。克哉もベルトを外してズボンの前を寛げると、張り詰めたものがぶるんと弾みでた。それを御堂のものと重ねて握り込んでくる。
興奮したペニスを擦り合わせる。克哉の手の中で二本まとめて扱かれると、あっというまに限界まで張り詰めて、ペニスの先端から蜜がとぷとぷと溢れ出した。
「っ、ん……」
狭い車内で克哉が身体を密着させた。克哉が腰を淫猥に動かし出す。先走りで濡れたペニスがぬちぬちと淫らな音を立て、エラとエラがひっかかりながら押し合う茎がビクビクと震える。たまらなくなって克哉の背中をかきだいた。淫らに腰が揺れて身体が疼く熱を帯びる。
「――ッ、ああっ」
ペニスの中心を重たい欲情が駆け抜け、派手に爆ぜた。克哉のペニスに御堂の白濁が噴きかけられる。
御堂の精液で濡れそぼる克哉のペニスはまだ放っていなかった。互いの下腹を濡らした精液を克哉の指が拭い、その指が御堂のアヌスへと伸ばされた。
「っ、ぁ……や…」
克哉の指が御堂のアヌスの中に侵入する。精液のぬめりを襞に塗り込み、手際よく窮屈な内腔を手懐けていった。
「よせ……っ」
弱々しく首を振った。だが、絶頂で弛緩した身体は克哉を拒むどころか、克哉を欲しがるように粘膜をヒクつかせていた。克哉が喉を鳴らす。
「あんたも俺を欲しがっている。そうだろう?」
「それはそうだが……。こんな場所で……っ、ぁ、あっ」
脚を持ち上げられて身体を折りたたまれる。大きく張り詰めた肉塊が御堂の身体を拓いていった。その苦しさに御堂は顎を跳ねあげた。
狭い車内で苦しい体勢のまま、克哉はずぶずぶとつながりを深めていく。大きな声が出そうになり思わず自分の手の甲に噛みついた。
「ん、ふ――っ」
狭い車内に荒い呼吸が行き交う。克哉は根元までねじ込むとおもむろに腰を動かし出した。
律動に伴って車がガタガタと揺れる。いくら声を抑えても、これでは遠目から見ても車内でなにをしているのか一目瞭然だろう。だが克哉は遠慮する様子もない。斟酌のない強さで御堂を犯す動きを加速した。
克哉のレンズ越しの双眸が快楽に眇められ、呼吸が太く短くなる。
「克哉……ぅ、ぁっ」
切羽詰まった声で克哉を呼ぶと、克哉が身体を覆い被せて御堂の唇に唇を押し付けた。腰の動きが忙しないものとなり、克哉の絶頂がすぐそこまできていることを知る。こんなところを片桐に見られたらどうするのか。
危機感と羞恥が興奮を煽る。克哉の舌が御堂の熱い口の中を蹂躙する。快楽と苦痛にもみくちゃにされて、頭の芯が痺れる。克哉の身体がわなないた瞬間、御堂もまた強烈な極みにすべてを攫(さら)われていった。
「まだ怒っているのか?」
克哉の声を無視して、車の中をチェックした。車の換気は済ませたし、情事の痕跡は何も残っていないことを確認すると、克哉を睨み付けて言う。
「見つかったらどうする気だ。それに、これは市役所の車だぞ」
「まあ、見つからなかったし、あんたも楽しんだしいいじゃないか」
「そういう問題ではない」
あっけらかんとした克哉の物言いにふかぶかとため息を吐いた。克哉がいると克哉にすっかりペースを握られてしまう自分が腹立たしい。克哉が周囲を見渡しながらつぶやいた。
「それにしても片桐さん、遅いな。探しに行くか」
「たしかに、日が暮れたら危ないしな」
言われてみればもうすぐ日が暮れる。
克哉と連れだって、片桐が歩いて行ったほうへと向かった。途中、放置されていた紺のステーションワゴンを見つけた。昨日とまったく同じ状態のままだ。克哉が言う。
「なあ御堂、あの車、調べてみないか」
「……そうだな。運転手は見当たらないようだし、変だな」
昨日見たときも変だとは思ったものの、村の調査を優先したためそれほど気に留めはしなかった。しかし、寂れゆく村の中で、いかにも若者が乗りそうな車があるのは違和感を覚える。
「この村の関係者の車とは思えないが」
車のサイドガラスから中を覗き込む。車内のアクセサリやインテリアは若者が使いそうな派手なものだ。助手席にはボストンバッグやコンビニの袋が放置されている。ためしに車のドアに手をかけると、鍵がかかっていないようですんなりとドアが開いた。
「鍵もかけてないのか。一体何があったんだ」
「御堂、見ろ」
克哉が助手席のコンビニの袋を指した。コンビニの袋の中には空になったパンの袋があった。それを取り出して賞味期限を見る。昨年の日付だ。座席の上にあったボストンバッグも開いた。中には小型のハンディカムやバッテリーがあった。克哉がハンディカムをしげしげと眺めて言う。
「これは動画配信用で人気のモデルだ。もしかして役所の担当者が言っていた、ユーチューバーの車じゃないか?」
「未遂って言っていたやつか? まさか、この村に来ていたのか?」
「そういうことだろう。廃村探検だかの動画を作るためにこの村までやって来た。だが、なにかしらの事情があって、車も機材もここに放置する羽目になった」
「たしか、予告動画以降、更新されなくなったと言っていたな」
「もしかしたら更新できない状態になったのかもしれない」
克哉がレンズの奥の目を鋭く眇める。
逢坂村は長い山道を越えた先にあり、車以外でアクセスするのは難しい。二台の車で来ていればもう一台に乗り込んで村をでることができるだろうが、それにしてもビデオカメラなどの高価な機材を車に放置したままにするのは不自然だ。
ハンディカムを手に取りスイッチを入れてみるがバッテリー切れだ。カメラを調べてみると、中にSDカードが入っていた。これをPCで再生できるだろう。
「とりあえず持ち帰って、あとで調べてみよう」
克哉の言葉に御堂は頷いた。
そして片桐探しを再開したところで、ほどなく片桐を見つけた。
車から遠くない家の庭に片桐がいるのを見つけたのだ。その家はかつて子どもがいたのだろう。庭にブランコが置かれていた。その周囲で片桐がキョロキョロとなにかを探すように視線をさまよわせて、何やら言葉を発している。聞き取れないが、まるで誰かに話しかけているようなトーンだ。
「片桐さん!」
御堂が叫ぶと片桐が顔を向けた。驚いたように目を見開く片桐へと速歩で向かう。
「何をしていたんだ。心配したぞ」
「すみません。ちょっと探していて……」
「なにをだ?」
「それは……」
片桐が語尾を濁して足元に視線を落とした。克哉が黙ったまま御堂の腕を肘で小さく突いた。克哉の視線が片桐の手に握られているスマートフォンに向けられている。画面はつけっぱなしでカメラモードになっているようだ。御堂は言った。
「なにか撮影していたのか?」
「え、ええ……。これなんですけど」
片桐は弾かれたように顔を上げて、おずおずとスマートフォンを差し出した。その小さい画面を覗き込む。
片桐が画面を操作して写真を出した。村の中を撮影してきたようで、村の道や民家の庭が何枚も映っている。だが、どれもどうということのない写真で、中には動画もあったが、あぜ道が映されているだけだ。なにを目的としてこれらの画像を撮影したのかさっぱり見当がつかず御堂は首をひねった。
「これがどうしたというのだ?」
「……そうですよね。見えませんよね」
なぜだか片桐は残念そうに言う。
「何を撮ろうとしたのだ?」
「いえ、いいんです……」
そう言って、片桐はスマートフォンの画面を消してポケットにしまった。そして、話題を変える。
「そうそう、食べられる山菜や野草を結構見つけたので、食料のことはそう心配しないで良さそうですよ」
そう言われて自分たちが置かれている立場を改めて思い出した。あの道の落石が取り除かれない限りこの村に閉じ込められてしまう。そんな状況はこれ以上耐えられない。御堂は宣言するように言った。
「明日は朝イチでここを出よう。落石がまだあったらそこで車を降りて、徒歩でふもとまで向かう。日が暮れる前までには町までたどり着けるはずだ」
片桐からも克哉からも反論はでなかった。
昨夜泊まった家に戻り、味気ない非常食を無理やり胃の中に押し込むとふたたび寝袋を敷いた。
日が落ちると濃厚な闇に包まれる。いままでに体験したことのないほど暗い夜だ。この深い夜の底で、無数のなにかが息を潜め、こちらを伺っている。そんな気配を感じてしまい、寝袋の中で身を竦めていると克哉の囁く声が聞こえた。
「御堂、起きているのか? 眠れないなら寝かせつけてあげようか?」
「馬鹿を言うな。大人しくしてろ」
「はいはい。ほら、御堂さんも夜更かしせずに寝た方がいいですよ」
暗闇の中で克哉の押し殺したような低い笑い声が響いた。克哉の声を無視して目を閉じた。反対側から聞こえてくるのは片桐の寝息だろうか。静かで規則正しい呼吸を聞いているうちに御堂の意識も滑り落ちていった。
夢うつつで声を聞いた。
「うん……、そうだね。明日には帰るんだって」
「……僕も、そうだよ。…………だいじょうぶ、いっしょにいるから」
片桐の声だった。相手の声は聞こえない。克哉と話しているのだろうか。それにしては、片桐の声は幼(おさな)子(ご)に語りかけるかのように優しく、やわらかだった。
誰と話しているのだろう。
そうは思ったが、温かみのある声に眠りが誘われる。ふたたび意識が沈み込み、目を覚ました時は、すでに明るくなっていた。
寝袋から這い出て、あたりを見渡し、片桐の姿がないことに気が付いた。先に起きていた克哉に訊いた。
「片桐さんは? キッチンか?」
「俺もそう思ったんだが、見当たらないな。家の周囲にもいないし、車の中にもいなかった」
「どこに行ったんだ?」
朝早く出立する予定だったのに、なぜいないのか。苛立ちが混ざる声に克哉は考え込む素振りを見せた。
「昨日、片桐さんの様子がおかしかったと思わないか?」
「たしかに、すこし変だったな」
片桐はなにもないところに視線を向けて、なにかを探しているようだった。そして、御堂に確認させた何の変哲もない村の写真や動画。もしかして片桐は昨日訪れていた家のあたりにいるのだろうか。
克哉も同じことを思ったようで、御堂に言う。
「ひとまず探しに出かけるか」
「ちょっと待て、その前にあのビデオカメラの画像を確認したい」
放置されていた車のハンディカムから回収したSDカードを思い出した。放置されていたとはいえ他人の持ち物だ。村を出る前に返しておきたい。それに、片桐は朝の散歩に出ただけかもしれない。そう広くない村だ。すぐに見つかるだろう。
御堂は昨日持ち帰ったハンディカムから取り出したSDカードをPCに差し込んだ。
フォルダを開き、一番直近のファイルを探す。最新のそれは動画で、ちょうど一年前くらいの日付だ。クリックして再生してみると、逢坂村の風景が映った。すでに廃村となっている逢坂村の光景は、いま目にしている村となんら変わらない。
『皆さんこんばんは! ケイタです! 今日は二年前に廃村になった逢坂村を探検したいと思います!』
撮影者はケイタと名乗る若い男性でカメラを持ちながら陽気な声で実況している。
実況内容からすれば、どうやら市役所の職員が言っていた廃村を探検しているユーチューバーで間違いないようだ。逢坂村は携帯の電波が通じていないため、リアルタイムの実況ができない。だから、この動画はあとから編集してアップする予定だったのだろう。
克哉と一緒に、加工されていない動画をところどころ飛ばしながら見ていく。ケイタは無遠慮に無人の家に入り込もうとしたり、私有地の敷地内を歩き回って実況中継している。ケイタは村をあらかた回ったあと、山吹が咲き乱れる山の祠に気付いたようだ。
『きれいな山ですね~。あ、これは神社? いやそれにしてはぼろいか』
ケイタは笑って祠をぐるっと一周して、祠の裏にある山道に気付いたようだ。御堂が見たときは地に落ちていた注連縄がまだピンと張られている。男は言う。
『こちらにも道があるようで、言ってみたいと思います』
カメラが裏道に向かう。ケイタは注連縄を跨ごうとして、画面が大きく揺れた。『あ、やべ』と男の声が聞こえ、カメラが地面に向けられた。注連縄が外れて地面に落ちている。どうやら足を引っかけたらしい。ケイタは『あとで直しておきます』と言い訳のように言いながら道の奥へと向かった。山吹に囲まれた泉が映し出される。ケイタもその美しさに息を呑んだように『これは……ものすごくきれいですね』と凡庸なコメントしか出てこないようだ。
画面を注視しながら御堂はつぶやく。
「それで、この男はこの動画ごとカメラを置いてどこに行ったのだ?」
「まあ、待て。先を見よう」
克哉が動画を早送りする。ケイタは持ち込んでいたキャンプセットを設置してキャンプを始めた。ソロキャンプだ。一晩、逢坂村で過ごすことにしたらしい。そして、翌日になってケイタの動画に変化が現れた。実況中継を再開したが、村を映し出す動画が唐突にあらぬところを向いたりと落ち着かなくなる。ケイタの声が動画に混じる。
『あれ? いま声が聞こえたんですけど、誰かいるのかな? おーい!』
『いま、あそこに人影が、行ってみたいと思います。……おい、待てよ!』
『もしかして、あの男、俺が知っている奴かも……え、マジで!?』
『コウキ? コウキか!? 俺だよ! ケイタだよ』
ケイタの声が興奮に満ちたものになる。だが、動画の視界にはなにも映っていない。それでもカメラは意図を持って、なにもないところへ向けられているようだ。場面が変わった。ケイタの車、例のステーションワゴンの中が映し出される。ケイタの顔が画面の中心に映される。想像どおり若い男だ。ケイタはしゃべり出す。
『ええと、皆さん、ご報告があります』
『なんと、この逢坂村でコウキと出会えました』
『コウキっていわれても分からないですよね。コウキは俺の親友で、ほんと仲良かったヤツで、このチャンネルもこいつと一緒に始めたんですけど、3年前に交通事故で死んじゃって。だから、まさかここで会えるとは思えなくて』
感極まったようにケイタの声が途切れる。嗚咽を堪える間があり、ケイタが言った。
『で、こちらがコウキです』
カメラが何もない助手席の天井を映し出す。男が困ったように笑った。
『何も見えないですよね。そうなんです。コウキ、なぜか顔も声も映らなくて。でもここにいるんです。……なあ』
ケイタは無人の助手席に向かって話しかける。少しの間、『分かってるよ』『だよな』と誰かと会話をしているような相槌が挟まれた。もちろん、相手の声はまったく聞こえない。だが、ケイタの視線と声は明らかにその場に存在するはずの誰かと喋っているようだ。
ケイタがふたたびカメラのほうを向いた。声が力強さを帯びる。
『コウキが一緒に泉のところに行こうって言うんです。だから俺も行こうと思います。カメラは……ここに置いておきます。きっとここから先はカメラに映らないから』
『じゃあ、みなさん、最後までご覧いただきありがとうございます!』
泣き笑いの顔でケイタが最後の挨拶をする。画像が暗転する。再生が止まった。御堂は唸る。
「これは……どういうことだ」
「やらせだとすれば、モキュメンタリー風の動画かもしれない」
「『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』みたいなものか」
克哉が頷く。
「これをホラーとするならまさしく『ファウンド・フッテージ』だろう」
モキュメンタリーは実際にあった出来事のように見せかける創作だ。その中でもホラー映画に関しては、関係者全員が死んだり行方不明となったときに残されたカメラに偶然映像が残っていたという仕掛けで公開される映像を『ファウンド・フッテージ』と呼ぶ。映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』で有名になった。御堂は眉根を寄せた。
「だが、この配信者がそれで有名になろうと仕掛けたとは考えにくいな」
「誰が来るとも分からない村に車一台放置しているしな。もし発見されることを前提にするならもっと分かりやすいところに置いておくだろう」
市役所の職員は配信チャンネルは更新が止まったままだと言っていた。それも一年前だ。これが話題性を狙ったがための手の込んだ仕掛けだとは考えにくい。ケイタはこの動画を残して本当に行方不明になったのではないだろうか。
だが、どうして。一体、なにが起きたのか。
いくら考えても分からないが、ぞくりと嫌な予感がした。
カメラには映らないけれど存在する誰か。その誰かと会話をするケイタ。よく似た光景を見かけなかったか。
克哉と顔を見合わせる。
「片桐さん!」
同時に声が出た。
「御堂、泉だ。あの動画では、泉に行くと言っていた。車で向かおう」
片桐を追って走り出そうとする御堂に克哉が言った。ここから泉まで歩けば三十分以上かかるが、車なら五分だ。急いで車に乗り込み、泉へと向けて車を走り出す。山の入り口に車を乗り捨てて階段を駆け上った。
筋肉が痛み、息が切れる。祠の場所に辿り着いたところで片桐の姿を見つけた。
「片桐さん!!」
大声で呼びかけた。片桐は祠の裏の道に足を踏み入れようとしていた。御堂の声に足を止め、振り返る。
その片桐の姿を目にし、肌の表面を冷たいなにかで逆なでされたように鳥肌が立った。呼吸が一瞬止まり、全身に悪寒が走る。御堂はどうにか声を絞り出した。
「片桐さん、あなたは『なに』と手をつないでいるんだ?」
片桐は不自然に右手を斜め下に伸ばしていた。手の先は緩く握られていて、まるで誰か、それも小さい子どもと手をつないでいるかのようだ。
片桐はふわりと笑った。
「僕の息子です。……あ」
片桐の右手が引っ張られるように背中に回される。片桐が困ったように笑った。
「すみません、人見知りが激しくて。……ほら、おとうさんのお仕事のお友達だよ。ご挨拶して」
片桐は肩越しに振り向き、柔らかな声で話しかける。御堂はゆるく首を振った。
「私には何も視えない」
「片桐さん、俺も何も視えない」
克哉が隣で険しい視線を片桐に向ける。
「そうですか」
片桐は残念そうな顔をした。
「僕も一生懸命写真を撮ってみたり、動画を撮ろうとしたんです。でも何も映ってなくて。たしかにここにいてしゃべっているのに、それを証拠に残せないんです」
「あなたにお子さんがいるのか?」
「ええ、二歳の時に……交通事故で……」
「片桐さんはお子さんを交通事故で亡くしている」
片桐の消え入った語尾の代わりに克哉が言葉を継いだ。なるほど、それが離婚の原因になったのかもしれない。常に物腰の柔らかい片桐はどこか薄幸な雰囲気をまとっていた。それは、子どもを亡くしたという凄絶な体験が影響を及ぼしているからなのか。
御堂は片桐を強く見据えて言った。
「それなら、片桐さん、それは……幻覚だ」
「分かっています」
片桐は悲しげに微笑んだ。
「分かっていますが、ようやく会えたんです。この子はこの村から出られないって言うんです。だから、僕はこの村に残ります」
なにかに取り憑かれたような面持ちで、片桐は言う。抑揚の失せた声、焦点がぼやけた眸。右手はしっかりと子どもの手を握っている。怖(おぞ)気(け)を振り払うように、御堂は強い語調で言った。
「片桐さん、目を覚ますんだ。幻覚なんかに惑わされるな!」
片桐はふ、と目許を緩めた。御堂に笑いかける。
「他人のことは言えないでしょう、御堂さん」
「――っ」
片桐がじっと御堂を見つめた。背筋に氷を差し込まれたように、息が止まる。
「そういう御堂さんも、傍にいるのでしょう? だって、ずっと誰かと話をしてますよね」
笑みを顔に張り付かせたまま片桐は言った。御堂は喉がカラカラに干上がるのを感じながら頷いた。
「ああ……」
「いつからですか?」
「この村に来た翌朝からだ」
「誰がいるのですか?」
「佐伯だ。……佐伯がいる」
そう言って、横を見た。隣に立っている佐伯は驚いたように御堂を見た。
「御堂、何を言っているんだ?」
掠れた声で克哉に告げる。
「佐伯、君はここにいるはずがない。君は交通事故に遭って病院に運ばれた。だから私が代わりにこの村に来た」
交通事故にあったのは藤田だけではない。克哉もだ。クライアントからの打ち合わせの帰り、二人が乗ったタクシーが追突された。藤田は足を骨折し、克哉は頭を打って病院に運ばれた。二人とも命に別状はなかったが、藤田は足の骨を折り動けなくなったし、克哉は頭部外傷があるからしばらく入院して経過観察が必要とのことで、代わりに御堂が出張に行くことになった。この村に来たのは片桐と御堂の二人だけだ。
克哉は馬鹿馬鹿しいといったように笑う。
「何を言っているんだ。俺はここにいるじゃないか」
「違う。昨日、朝起きたら、君がいたんだ。私の横に立って、普通に話しかけてくる。だが、片桐さんに君は視えていなかった。だから、君は幻覚だ。私にしか視えていない」
片桐はずっと御堂と克哉のやりとりを静かに見守っているが、片桐は克哉のほうを見ようともしない。克哉の声も姿も視えていないのだ。御堂は無理やり克哉から視線を振りほどくと、片桐に顔を向けて言った。
「幻覚だと分かっているのに、それを拒絶せずに信じてしまいそうになっている。この村には、そういう空気がある」
最初は克哉を無視していたが、ごく当然のように話しかけてくる克哉の幻影と共にいるうちに、この克哉を自然に受け容れていた。
克哉が咎めるような口調で御堂に言った。
「御堂、あんたは俺を幻覚だというのか?」
「ああ。お前は幻だ。佐伯は病院に経過観察入院中だ」
「違うんだ、御堂」
克哉は悲しげに笑って首を振った。
「急変したんだ。あんたがこの村に旅立ったあとの最初の夜に。藤田があんたに連絡しようとしたがつながらなかった。俺は助からなかった」
「そんなこと……、誰が信じるか」
「俺がこの場にいるのがなによりもその証拠だろう」
「違うっ!」
拒絶するように頭を振る。克哉はそっと御堂を抱き締めた。
「あんたを置いていけなくて迎えに来た。俺と一緒にいこう、御堂」
この克哉を認めてはいけない。そう頭では分かっているのに、御堂に触れる手のぬくもりや触感はたしかに克哉のそれで、そこに克哉が存在していることを信じてしまいそうになっている。
片桐が小さく笑って言った。
「御堂さん、僕はこの子と一緒にいたい。たぶん、僕がこの村に来たのは、この村に呼ばれたんです。御堂さんも、そうだったんじゃないですか」
「違う! 私たちは依頼を受けてきたのだ。単なる偶然だ。この幻覚だってなにか理由があるはずだ」
「御堂、俺が信じられないのか?」
克哉が横から口を挟む。
「黙れっ!」
両耳を塞いだ。頭がくらくらとした。足元が沈み込みそうになり御堂は首を振ってどうにか自制心を保とうとする。
この村に呼ばれた。そうなのだろうか。
この村から出ようと思えば車を捨てて出られた。それなのに戻ってきてしまった。
もう会うことのできない大切な人と再会するために、自ら望んでこの村に戻ってきたのか。
片桐が口を開いた。
「山吹の立ちよそひたる山清水、汲みにか行かめど道の知らなく」
片桐が柔らかな声で歌を紡ぐ。かつて学んだ万葉集の一首が思い浮かんだ。
たしかそれは高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)が異母姉である十(とお)市(ちの)皇(ひめ)女(みこ)の死を悼み、彼女を蘇らせたいと詠んだ歌だという。山吹の黄色い花が咲き乱れる山中の泉とは、死者の国とされた黄(よ)泉(み)を暗示していると言われていた。
山吹が咲きこぼれる泉。あれは……。
「ここは黄泉とつながっているのですよ、御堂さん。逢坂村の名前だってそうです。坂は黄泉平坂を意味しているのではないですか。だから、ここに来れば失ってしまった大切な人と逢えるんです」
どこか恍惚とした口調で片桐は言う。片桐の視線はときどき斜め下に向けられて、そこにいるらしい『なにか』に片桐は愛おしさを込めて微笑みかける。
「ごめんね、待たせて。……うん、一緒にいこう」
かつて、片桐はこんなふうに、愛情に溢れた眼差しと口調で子どもに話しかけていたのだろう。そう思わせる優しさがそこにあった。
「片桐さんっ!」
片桐を引き留めようとしたところで、克哉は御堂を抱き寄せる腕に力を込める。
「御堂、俺と一緒にいよう」
「よせ……っ」
ここに克哉がいるはずがない。
こんな甘言に耳を貸してはだめだ。
克哉は東京の病院で入院しているはずだ。
そう自分に言い聞かせても、この克哉が言うように急変した可能性も否定できないのだ。この村に来てから御堂は外部と連絡が取れていない。自分が知らない間に克哉は本当に亡くなってしまったのかもしれない。そして、克哉の魂が御堂を追いかけてこの村まで来た。
「御堂、俺のことを認めてくれないのか?」
縋るような弱々しい声音で囁かれて、御堂は動きを止めた。
「……君は本当に死んでしまったのか?」
克哉は答えずに微笑む。そして御堂の頬に手を添えた。
「孝典、あいしている。俺はあなたを独りきりにはさせられない」
克哉にぐっと抱き締められる。片桐の前で変なことをするな、と抵抗しようとしたが形ばかりの抵抗は克哉の力強い抱擁によって封じられた。
「御堂、ここでならずっと一緒にいられる」
鼓膜に注がれる馴染んだ低い声は御堂の心を揺さぶってくる。
「っ……」
ぬくもりに包まれる。その感触も重みも匂いも、記憶にある克哉そのままだ。
「違う、違う……」
「違わないさ。俺はあなたの佐伯克哉だ。これからもずっと一緒にいよう」
理性では克哉ではないと分かっているのに、心の深いところではこれが克哉だと納得しかけていた。
克哉が自分を求めてくれている。自分をあいしてくれている。
それなら、それでいいではないか。
克哉のいない世界をさすらうよりも、克哉とともにこの村で過ごせばいい。
身体の力が抜ける。我知らず克哉の背中に手を回していた。
克哉の肩口に顔を埋める。
「佐伯、私は君のことが……」
そのときだった。石階段の下の方から車のエンジン音が聞こえ、派手なクラクションが響いた。
「なんだ?」
克哉と片桐が音の下方向へ顔を向ける。ややあって、階段を駆け上る慌ただしい足音が響いてきた。同時に叫ぶ声が聞こえる。
「御堂! 片桐さん!」
「……佐伯?」
「佐伯君……?」
階段を駆け上ってきたせいでぜいぜいと荒い息をしながら現れたのは克哉だった。思わず自分を抱き締めている克哉を見た。まったく同じ人物が二人、この場に存在している。
「二人とも、早くここを離れろ」
克哉が息を切らして怒鳴る。そこにはたしかに克哉がいた。はっと意識がそちらに流されかけたところで、御堂を抱き締める克哉が言った。
「だめだ。御堂、行くな。俺と一緒にいてくれ」
耳元で懇願される。ぐっと腕の輪を狭められる。決して逃れられないように。
「やめろ!」
思わず自分を抱き締める克哉の腕を振り払った。その手を駆けつけた克哉に握られる。汗に湿った熱い手。この手こそ本物の克哉の手だ。自分を抱き締めていた克哉に射るような眼差しを向けた。
「お前は、佐伯ではない」
確信をもって言う。途端に目の前の克哉の顔からすべての表情が拭われた。まるで魔法が解けたかのように、みるみるうちに立体感が失われ、まるで荒い画像の写真を貼り付けたようなのっぺりした顔になる。そして次の瞬間、細かな粒子になって脆い砂糖菓子がようにほろほろと崩れていった。
「――――ッ!!」
克哉が崩れ去るのを目の当たりにして悲鳴にならない悲鳴を上げた。幻覚とはいえ、この克哉とずっと一緒に過ごし、愛まで交わしたのだ。たとえそれが御堂の幻覚だったとは言え、克哉が崩壊していく姿に恐怖に呑まれそうになる。身体の力が抜けてその場に膝を突きそうになり、克哉に抱き留められた。
「御堂、大丈夫だ。『それ』は俺ではない」
と克哉は御堂に言い聞かせるが、まだ膝が震えている。
御堂を抱き留めたまま克哉は片桐に向かって声を上げた。
「片桐さんも早く! この村を出るんだ!」
「僕は、ここに残ります」
片桐は克哉を前に泣きそうな顔をして言った。
「この子をここに残していくなんてできません」
「それはあなたの息子じゃない」
「いいえ、僕の子です。僕には分かります」
克哉は言葉を選びながら、言い聞かせる口調で片桐にゆっくりと言った。
「あなたの息子はちゃんと天国にいる。こんなところであなたを騙したりしない」
片桐は見えない子ども背に庇い、外敵から我が子を守るかのように身を強張らせた。必死の表情で克哉を見返す。克哉は片桐を見つめたまま静かに首を振った。
「この村に棲む『なにか』は、死者を蘇らせたりはしない。本人が望んでいる幻覚を見せて山の中に誘い込もうとしているだけだ。俺が生きているのがなによりもその証拠だ」
「やめてください! 僕からこれ以上、子どもを奪わないでください」
悲痛な声が響いた。御堂は痛いほどに片桐の気持ちが分かった。懐疑的だった御堂でさえ、目の前に現れた克哉を本物だと思い込まされたのだ。我が子を失うという途方もない悲しみを抱えた片桐にとっては、我が子との再会は何物にも代えがたい喜びだっただろう。克哉も言うべき言葉を失っている。
もう片桐を止めることはできない。そう思った。
静寂が降りる。
片桐は小さな笑みを浮かべると御堂たちに背を向けた。山の奥へと踏み出そうとしたそのときだった。
「おーい! 克哉! まだかかりそうか?」
背後から聞こえてきた声が山の空気を震わせた。ハッと片桐の足が止まる。おそるおそる、片桐が振り向いた。御堂もまた、声が聞こえてきたほうを振り向くと、大柄な人影が階段から現れた。克哉たちに向けて手を大きく振りながら駆け寄ってくる。
「克哉、悲鳴っぽいの聞こえたけど大丈夫か? あ、課長に御堂さん、探したんですよ!」
どこかのんびりとした口調だった。
本多が現れた途端、濃い霧の中にひと筋の光が差し込んだかのように空気が変わるのを感じた。 本多はずかずかと片桐に歩みを寄せる。
「片桐さん、こんなところで何やってるんですか。ほら、帰りますよ」
本多は呆気にとられている片桐の手首を掴んだ。その瞬間、片桐は目を大きく瞬かせた。夢から覚めたような顔で本多を見返す。
「本多君……?」
「もう心配させないでくださいよ! 八課で課長が行方不明になったって大騒ぎになっているんですから。早く元気な顔をみんなに見せてください」
本多はにっかりと笑ってぐいと片桐の手を引っ張った。片桐はよろめいて、本多の胸の中に飛び込む。
「ぁ……」
「落石ももう片付けられましたから。さっさと戻りましょう」
「え、ええ、そうですね……」
片桐が戸惑いながら頷いた。片桐の視線はもうありもしないところを向いたりはしなかった。本多が現れたことで、幻覚が崩れ去ったようだ。
克哉が安堵の息を吐いた。克哉は呆れたように本多に言う。
「本多、お前の力業はすごいな。感心する」
「ん? なんのことだ?」
「いや、なんでもない……。さあ、帰ろう」
先ほどまで山を覆っていたなにかの気配はどこかに霧散してしまっていた。克哉や本多といった乱入者のおかげで、幻覚が打ち払われたのだろう。
四人で連れだって階段を下りた。
山から出たところで、片桐が振り返り山吹が咲き乱れる山を見つめた。失われてしまった景色を探すかのように、憧憬(しょうけい)と切なさに満ちた眼差しで見つめる。だが、なにも見つけることはできなかったようだ。本多によってこちら側の世界に連れ戻されてしまったからだ。本多の底抜けの明るい性格がそうさせたのか、本多が来たことで片桐は自分のいるべき場所を思い出したのか。
帰りは二台の車に分乗して村を出た。御堂たちが乗ってきた車は克哉が運転し、克哉たちが乗ってきた車は片桐を乗せて本多が運転した。
克哉は助手席の御堂に向けて言う。
「夢を見たんだ」
「夢?」
「あなたが俺ではない俺に連れられて、あの山に呑み込まれていく夢を見た。あなたとは連絡が取れないし、嫌な予感がして、無理やり退院してこの村に向かった」
本多は本多で片桐と連絡が取れないことを心配していて、二人で連れだってきたという。途中で市役所に寄り、逢坂村へ向かう道が落石で通行不能となったことを知った。御堂たちが村に閉じ込められているのはもはや確実で、最優先で落石撤去をしてもらい、逢坂村へと乗り込んだという。
「詳しいことは分からないが、市役所の担当者の話だと、あの山は、逢坂村で昔から祀られていた山で立ち入り禁止だったらしい。村を出た人たちもあの山を気にしていたが、詳しい事情は分からずじまいだ。だが村に関わりのあるどの人間も、村に近付きたがらないらしい」
克哉は一拍おいて言った。
「祀ることで、忌まわしいなにかを封じていたのかもしれない」
村から出た者たちは村を避け、そこに祀られている『なにか』を畏れた。だから、村がリゾート開発の対象になることに前向きだったのかもしれない。あの地域一帯が開発されることで、『なにか』を消し去ることができると思ったのだろう。
車の窓の外は緑の景色があっという間に流れ去っていく。御堂は助手席から後ろを振り向いたが、逢坂村は山の中に隠れて影も形も見えなくなっていた。
克哉と共に東京に戻り、あっというまに普段の日常が戻ってきた。藤田も松葉杖はついていたがすぐに仕事復帰ができた。
その後、逢坂村は途中の道路が斜面崩落の危険性があるとのことで村への道路が全面通行止めとなった。逢坂村に安全に行き来するようにするためには山肌の大規模な補強工事が必要になるとのことで、予算の面からリゾート開発の候補地から外れることとなった。
また、警察の調査で、放置されていた車は例のユーチューバーの車であることが判明したそうだ。昨年から行方不明になっていて、警察が逢坂村の中を調査したものの結局本人の行方を示すような手がかりは見つからなかったという。御堂が持っていたカメラのSDカードは警察に提出したが、事件性はないと判断された。
逢坂村で起きたことを思い返しても、なにもかもが遠い過去のように希薄になっていて、あの体験も夢だったのではないかと思う。
それでも、ふとした折に風を感じた。コンクリートに囲まれた都会で土の匂いを運ぶ風はほのかに甘い香りが混ざっていた。逢坂村ののどかな情景と山吹が咲き乱れる山が思い起こされて、なぜだか胸が切なく痛んだ。
きっと同じ風は片桐の元にも届いているのだろう。
END