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嵐の夜に

「不穏な空模様になってきましたね」
 藤田がAA社の窓から薄暗い空を見上げて呟く。予報では勢力を増した巨大な台風が夜に東京を直撃するとのことで、メディアはひっきりなしに台風のニュースを流していた。かろうじて保たれていた天気も昼過ぎからは暗雲が立ちこめて雨が降り出してきた。
 克哉もちらりと窓の外を見遣り、デスクから立ち上がると社員たちに向けて言った。
「今日はもう業務終了だ。台風が来る前にさっさと帰るように」
 定時にはまだ早い時間だが台風が近付いていることもあり、業務は事前に調整していた。取引先に連絡しアポイントメントは別の日に組み替え、社員全員を退社させる手はずは整えている。休める社員は休んで良いと伝えていたため社内は閑散としていたが、それでも出社していた社員は克哉の言葉に弾かれたように急いで帰る準備をして「お疲れさまでした」と口々に挨拶を交わしオフィスを出て行った。最後までもたついていた藤田もようやく用意ができたらしい。元気な声で、克哉と御堂に向かってぺこりと頭を下げる。
「御堂さん、佐伯さん、お先に失礼します!」
「ああ、気をつけて帰ってくれ」
「寄り道なんかせずにまっすぐ帰れよ、藤田」
「もう、子ども扱いしないでください!」
 と藤田はふくれっ面をして克哉に言い返しつつAA社を出て行った。
 ふたりきり残されて、御堂は窓の外に目を遣った。この短時間の間にも雨は強くなり、無数の斜線となって降り注いでいる。そして、日も暮れていないのに外はどんどん暗くなってきていた。嵐が近いことを予感させる不穏な空模様だ。
「今夜は酷くなりそうだな」
 御堂の言葉に克哉はうなずきつつ言った。
「じゃあ、俺たちも雨風が酷くなる前にそろそろ行きますか」
「行くって、どこにだ」
 克哉と御堂の部屋はAA社のオフィスの上だ。怪訝な顔をする御堂に克哉はため息をひとつ吐いて告げる。
「今日はあなたの誕生日ですから、ホテルを予約したと言ったでしょう」
「それはそうだが台風が来るのだぞ。この雨の中を移動する気か?」
「車だから問題ない」
「問題ないわけないだろう」
 たしかに以前、克哉は御堂の誕生日に合わせてホテルを予約したと言っていた。今年の九月二十九日は金曜日に当たるから、仕事を終えたあとそのままホテルに泊まって優雅な週末を過ごそうと御堂も算段していた。しかし、巨大な台風が迫っているのだ。克哉の気持ちは嬉しいが、ホテルの予約はキャンセルするのが賢明な判断だろう。克哉とは365日一緒にいるのだ。今日という日にこだわる必要はない。明日にずらせば良いだけだ。
 しかし、残念なことにそんな常識的な聞き分けの良を克哉は持ち合わせていなかった。ホテルに行くと言って譲らない。
「どうしても行く気なのか?」
「当然だ。そのために社員を早々に帰したのだからな。それに、こんなところで揉めて時間を取られるとさらに台風が近付いてくるぞ」
「強引すぎるぞ、佐伯!」
「強引なのは自覚している。だが改めるつもりもない」
 しれっと言い放つ克哉に御堂はふかぶかとため息を吐いて言った。
「藤田には寄り道するなと言っておきながら、君は……」
「俺たちは寄り道じゃない。目的地に直行するんだ」
 克哉はにやりと笑った。


 結局折れたのは御堂で、そうとなれば急がねばと部屋に戻り、とりあえずの準備だけして克哉のブレラに乗り込んだ。
 ホテルまではAA社から二十分程度の道のりだが、フロントガラスに叩きつけられる雨風はどんどん強くなっている。出発して五分で御堂は自分の判断を悔いた。
 激しい雨風の音が車内にまで響き、路面は水が川のように流れていく。フロントガラスを流れる水の量にワイパーが追いつかない。街路樹が髪を振り乱すように枝をしならせ、風の強さを視覚的に訴えてくる。ドライブのコンディションは最悪だ。当然車の流れも悪く、遅々として進まない。
 以前、高速で渋滞に巻き込まれたときの克哉の不機嫌さを思い出して、ちらりと横目で運転席の克哉を窺うが、ハンドルを握る克哉は機嫌が良さそうだ。
 目的地まで無事に到着を祈ろうとしたそのときだった。
「おっと」
 ふいに急ブレーキの衝撃と共に車の前を大きな段ボールがぶわっと横切っていった。強風でどこからか飛ばされたのだろう。背後や反対車線でもブレーキ音が次々と鳴り響く。段ボールだからぶつかっても衝撃は軽そうではあるが、フロントガラスに覆い被さったらと考えたらゾッとする。御堂は青ざめながら呻いた。
「こんな日に車を運転するなんて無謀だ」
 どうあっても克哉を止めるべきだったと激しい後悔に駆られるが、克哉は至って余裕の表情だ。
「もうすぐ着くから、いまさら帰るとか言うなよ。ここからならホテルに向かったほうが早い」
 その目と鼻の先のホテルまで無事に辿り着るかどうかさえも危うい状況なのだ。社員は早々に帰しておきながら、経営者二人が台風の中外出して事故でも起こせば洒落にならない。そうこうしているうちに突風が吹きつけ車がぐらりと揺れた。御堂は緊張と不安にゴクリと唾を呑む。
「……百歩譲って君のために死ぬのは許せるが、君のせいで死ぬのは御免被る」
「俺は御堂さんのために死ぬのも、御堂さんのせいで死ぬのも別にいいが」
「また君はそんなことを」
 何の躊躇いもなく言い放つ克哉に、これ見よがしのため息を吐いた。
「軽々しく言わないでくれ。私はまだ死にたくないし君に死なれるのも嫌だ」
 克哉ときおり、こんなふうに自分をないがしろにするような言葉を言う。
 御堂は克哉とのこれからを望んでいるのに、克哉はそうではないのか。
 御堂の苛立ちと不安と感じ取ったのが、克哉はほんの少ししおらしい顔と口調で言った。
「悪かった。俺はあなたのためならすべてを擲(なげう)つことができるくらいあいしている、と伝えたかったんだ」
「な……」
 突然の真摯な愛の告白に動揺してしまう。
 ハンドルを握る克哉が黒目だけで御堂を見遣る。その眼差しが真摯で慈しみが込められていて御堂は思わず息を呑んだ。
 克哉は微笑んで言う。
「俺は絶対に死なないから安心しろ。俺はとっくにあなたのものだからな」
「佐伯……」
 胸に熱い思いが満ちていく。
 もし、いまここで不測の事態が起こって死ぬことになったとしても、自分はきっと最期の最期まで克哉にあいされているという幸福を感じているだろう。
 と克哉へのいとしさに呑み込まれかけたところで激しい雷鳴が轟いた。ハッと我に返る。
 いや、もしここで死んだら、それは100%克哉の責任だろう。
 うっかり克哉のペースに乗せられるところだっった。御堂は叱咤するように声を張り上げた。
「佐伯、前を見ろ! 安全運転だ! なにがなんでも生きて辿り着くからな!」
「畏まりました、Sir」
 克哉は笑いを堪えるように肩を震わせるとハンドルを握り、襲いかかる台風と向き合った。


 どうにか無事にホテルまで辿り着き、地下駐車場に車を停める。フロントでチェックインの手続きをして車の鍵を預けると、スタッフには「台風の中大変でしたね」と労(いたわ)られた。
 この台風の中無謀にもよく来たな、と呆れられているのではないかと勘ぐってしまうが、スタッフの対応は至って誠実で親切だ。
 部屋までの案内を断り、渡されたカードキーを手に宿泊者専用のエレベーターに乗る。部屋は最上階のスイートで、壁一面の窓からは東京の街並みが一望できる。克哉は窓の縁まで歩みを寄せて言った。
「台風を最上階から眺めるのも格別だな」
 共に暮らす部屋も高層階にあるが、この部屋はさらに高いところにある。台風の重たく分厚い雲まで手が届きそうなくらいに。激しく降り注ぐ雨に煙る高層ビル。遠くで雷が光る。強風と共に大粒の雨が窓に叩きつけられる。台風が東京を呑み込み、蹂躙していくさまがパノラマで展開されていた。眺望はお世辞にも良いとは言えないが、台風の迫力は直に伝わってくる。
「一度、台風を高いところから眺めたいと思っていたんだ。丁度いい機会だ。あとは台風の目を見てみたいが」
「君は子どもか」
 心底呆れて言うが、克哉は笑って返す。
「あなたから見れば俺は子どもですよ」
「こういうときだけ年下ぶるのは反則だ」
 せっかくの記念日を台風で台無しにされたと落ち込むよりは前向きで良いのかも知れないが、危険を冒してまで来るなんてどうかしている。
 直接雨に打たれたわけではないが、湿気のせいで服が重い。ジャケットを脱ぎつつ、克哉に「シャワーを浴びてくる」と告げれば、「それなら俺も」とついてきた。
 スイートルームのバスルームは広い空間のビューバスで、大きな窓が備わっている。また、ジェットバスの湯船には余裕でふたり同時に浸かることができた。
 水浸しになっている東京を眺めながら克哉と湯に浸かった。窓の外で吹きすさぶ嵐の打撃はガラス一枚で防がれていて、バスルームは至って静かだ。御堂は窓の外を見遣る。
「自転車並みの速度らしいから雨が長引きそうだな」
「台風も消える前に東京見物をしたいのだろう」
 南の海で生まれ勢力を増しながら北上してきた台風の寿命は一週間もない。最後は熱帯低気圧に変わってしまう儚い運命だ。それでも台風に襲われる街の人々にとってはたまったものではない。
 外では渦巻く台風が見境なく東京を蹂躙しているのに、自分たちは平和にジェットバスを楽しんでいる。安全圏から大自然の猛威を見物する愉悦。若干、不謹慎な気がしないでもないが、こんなふうに台風を楽しむのも悪くない気がしてきた。克哉に毒されている。
「なにを考えているんだ?」
 ふいにぐいっと肩を抱き寄せられて、背後から抱き締められた。抵抗せずに克哉の肩に後頭部をもたれかけさせながら、言った。
「台風をまじまじと見物するのは初めてだと思って」
「悪くないだろう?」
「一回くらいはな。だが台風の中の移動はもう二度とごめんだ」
 克哉が喉で低く笑い、それが振動となって肌を伝わってきた。ゆったりとした心地よさに身も心も解されていくが、克哉の不埒な手が御堂の身体をまさぐり始める。御堂も首をぐいとねじると、克哉の頭に手を回して引き寄せ唇を押し付けた。振り向きざまのキスにすぐさま克哉が応え、深く唇を噛み合わせてくる。
 くちゅりと濡れた音が合わせた唇の中で鳴り響く。
 そこからはもう、互いの熱を求めることに夢中になった。
 バスルームの中は湯気に煙り、嬌声と律動に合わせて激しく揺れる水面と律動に伴って鳴り響く湿った音、そして荒い息遣いが行き交い、さながら嵐のようにぐちゃぐちゃだ。もう外の台風に気を向ける余裕なんてとっくに失っていた。
「誕生日おめでとうございます、孝典さん」
 めくるめく快感に襲われている最中に誕生日を祝われたような気もするが、なんと答えたかは興奮の渦に呑み込まれてしまって覚えていなかった。


 翌朝は台風一過の眩い青空だった。からりと晴れた空からは混ざりけのない陽射しが眩い降り注ぐ。朝陽を受けて高層ビルのガラスがキラキラと輝いていて、昨夜の台風の混沌とした気配はすべて洗い流されてしまったかのようだ。朝のニュースでは台風の被害についてアナウンサーが神妙な面持ちで報告していたが、怖れていたほどの被害はなかったようだ。
 バスローブ姿の御堂は窓辺に立って真っ青の空を眺める。あんな激しい暴風雨とこの青空がセットになっているのは自然の摂理とはいえ、毎度感嘆せずにはいられない。
「良い天気だな」
 まさしくドライブ日和だ。ホテルをチェックアウトしたあと、海沿いを走るのも良いだろう。湘南のほうに抜けて洒落た店でランチを取って……そう頭の中でスケジュールを組みたてていると克哉も寝起きの髪をかき上げながら、御堂の隣に並んで空を見上げた。
「良い天気だから、こんな日はホテルに一日中籠もって過ごすべきだな。延泊できるか聞いてみるか」
「……つくづく君とは意見が合わないな」
 嘆息しつつ言えば、克哉はニヤリと笑う。
「だからいいんだろう?」
「ああ、そうだな」
 御堂の知らない世界を教えてくれるから。
 そのひとつひとつが新鮮で、未知の世界を克哉と共に分かつ喜びは未知への畏れを軽く凌駕していく。
 きっとこれからも克哉と共に眺める景色はいつだって輝いて見えるのだろう。
 しかし、ただ教えられるだけでは不公平だ。御堂だって克哉に見せてあげられる光景はたくさんあるはずだ。御堂は余裕の笑みを浮かべて克哉に顔を向けた。
「とりあえず、今日の予定については朝食を食べながらどちらの案がベターか検討しようか」
「望むところですよ、御堂さん」
 挑むような眼差しを返してくる克哉と笑い合いながら、どうやって克哉を説得しようかと頭の中で計算する。
 ふと視線を巡らせれば、克哉の淡い色合いの髪に朝陽が降り注いで光をそよがしていた。
 台風一過の眩い空は誰でも眺めることはできるけれど、克哉のこの光は御堂だけのものなのだ。
 きらめく光に取り囲まれながら、新しい一日が始まる。


 END

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