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Pomegranate Moon

 克哉がホテルにチェックインしたときはもう夜も更けていた。予約していたホテルのカウンターで名前を告げると、カードキーを渡される。告げられた部屋番号はずいぶんと上層階で、ホテルのスタッフから「お部屋をアップグレードしております」とひと言添えられた。
「ありがとう」
 そう返して克哉はカードキーを受け取ってエレベーターに乗り込んだ。用意された部屋は予約した部屋よりもはるかに良い部屋で、広い部屋にベッドが二つ並んでいる。夜遅くチェックインするとたまにこういう幸運に恵まれる。シングルの客室がすべて埋まってしまって、代わりのグレードの高い部屋をあてがわれるのだ。
 克哉は手前のベッドにバッグを放るとスーツのジャケットを脱いでネクタイを緩めた。ふう、と大きく息を吐く。いくら部屋のグレードが良くても明日は朝早くから先方の社との会議だ。日中はギリギリまでMGN社で仕事をこなし、最終便で出張先に向かったのだ。睡眠さえ取れれば良かった。
 今回は克哉がMGN社に異動して初めての出張だった。MGN社に籍を移して間もない克哉が一人で出張に出向くことになったのはのっぴきならない理由があったからだ。本来なら開発部部長であった御堂が出席するはずの会議だった。だが、御堂はMGN社を辞めた。開発部部長のポストは空席のままで他に代わる人材もなく、やむなく克哉が代わりに出席することになったのだ。
 ――御堂。
 その名前を思い浮かべるたびに深く苦い悔恨がとめどなく込み上げてくる。
 すべて終わってしまったことだ。もう決して元に戻すことはできない。それは十分に理解しているけれど、手に余る後悔とともに、克哉は御堂を思い返さずにはいられない。そのたびに未練の塊が鉛のように克哉の胸を塞ぐ。
 御堂と克哉の人生が深く交わることはこれから先きっとない。
 御堂がいない世界を独りでさすらい続ければ、いつかこの未練が時間と諦めによって削られていって跡形もなく消え去るだろうと、縋るように願い続けている。
 粘ついた感情を振り払うように窓の外に視線を流したところで克哉はハッと息を呑んだ。
 高層ビルの合間に大きな満月が浮かんでいた。赤みを帯びた月。赤い月から連想して『ストロベリームーン』という単語が頭に浮かぶが、たしかそれはアメリカ先住民がイチゴの収穫時期の満月を指したもので、月の赤さとは関係なかったはずだ。
 大気の影響で月が赤く見えることがあるとは聞いたことがあるが、これほどまでに赤くなるのだろうか。なぜか心をざわめかせるそんな妖しい月だった。

    ◇◇◇◇

「佐伯?」
 シャワーを浴びた御堂がバスローブを羽織って出てみれば、やけに部屋が静かだった。
 毛足の長い絨毯を踏みしめながら部屋を見渡せば、克哉の姿はすぐに見つかった。御堂より先にシャワーを浴びた克哉はバスローブ姿でベッドに横になっている。
 ベッドに歩みを寄せて克哉の顔を覗き込んだ。寝たふりかと思いきや、規則正しく胸が上下し静かな寝息が聞こえてくる。御堂は呆れた息を吐いた。
「眼鏡をかけたままだぞ、佐伯」
 克哉を起こさぬよう、そっと眼鏡を取って脇のベッドサイドボードに置いた。せっかく二人で出張するのだからと出張先のホテルを奮発して良い部屋を予約したのだ。だが、クライアントとの打ち合わせとそのあとの会食でたっぷりと時間を取られてしまい、チェックインしたのは日が変わる時間だった。しかも克哉は立て続けの出張で疲労が溜まっていたのだろう。出張先のホテルという普段とは違う環境で甘い雰囲気を堪能する前に眠りに落ちてしまった。
 御堂もまたハードワークが続いていたので、こうして二人きりで過ごせる夜は久々だった。だから、その気になって念入りにシャワーを浴びたあとだったので落胆していないと言えば嘘になるが、それでも克哉を労ってやりたい気持ちの方が強かった。
 御堂は満たされない気持ちに諦めをつけると、部屋の灯りを消していった。最後にカーテンを閉めようとして、壁一面の窓の傍に立って気が付いた。
 街の明かりに照らされたくすんだ夜空。その真ん中に大きくて赤い月が浮かんでいる。
 月はこんなにも赤く見えるのだろうが。
 赤みを帯びた月の光が暗い部屋に差し込んでいた。
 仄かな月の光がベッドを照らしている。御堂は誘われるように、カーテンにかけていた手を離し、克哉のベッドへと近付いた。
 月の光が克哉の顔に陰影を刻み、端正な輪郭を際立たせていた。鮮やか眉に顔の中心を走る高い鼻梁。眼球の丸みを薄い瞼が覆い、その縁を長い睫毛が彩っている。こうして無防備に寝ていても見蕩れるほどの美しさと色気がこの男にはあった。
 共に暮らしていながらもこうして克哉の寝顔をまじまじと見る機会は少なかったように思う。せっかくの機会だからとじっくりと克哉を眺めた。
 形の良い唇から首筋、鎖骨へと流れる筋肉とぴんと張られた肌の滑らかさ。はだけたバスローブから覗く胸と腹には無駄のない筋肉が乗っている。そして、御堂は克哉の下腹へと視線を流し視線が一点に留まった。下腹を覆うバスローブが膨らんでいる。睡眠時の男の反応だろう。
 悪戯心に唆されて、そっとバスローブの裾をめくった。アンダーを身に付けていない克哉の屹立が露わになる。それは酷く扇情的で、御堂はこくりと唾を呑んだ。
「佐伯……」
 呼びかけても克哉はピクリとも動かない。御堂はどこか酩酊しているような感覚になりながら、克哉のベッドに乗り上がった。

    ◆◆◆◆

「佐伯……」
 自分の名を呼びかける声に意識がふわりと浮上した。
 気のせいだろうか。
 眠りと現実の境目は酷く曖昧で、目を開けようとしたが瞼は酷く重く暗闇に包まれたままだ。それなら、と身体を動かそうとしたが、指一本たりとも動かせなかった。
 これが俗に言う金縛りだろうか。と、ぼんやりとした意識のまま記憶を遡る。ここは出張先のホテルの部屋で、克哉は夜遅くチェックインしたあとシャワーを浴びて、明日の会議の資料をチェックして就寝したのだ。当然一人で行動していたのだから、この場に他の誰かがいるはずがない。つまり、気のせいだ。
 そう納得してふたたび眠りにつこうとしたところで、寝ているベッドの足元のマットが沈み込むのを感じた。誰かが克哉のベッドに乗り上がってきていた。
 ――なんだ?
 身体は動かせなくとも感覚は正常のようで、足元に人の気配を感じた。これが幻覚でなければ、何者かが克哉の部屋に侵入してきている。どうにかしなければ、と思うものの、動くどころか声も出せず克哉は無防備にベッドに横たわったままだ。せめて目を開けることができればと焦るものの、やはり瞼は重く視界は暗闇に包まれている。次の瞬間、克哉は息を詰めた。その何者かが克哉に触れたのだ。
「――――ッ」
 よりにもよって触れてきたのは克哉のペニスだった。そこが生理的な反応で勃起していることを、絡められた指から思い知らされる。
 克哉の勃起を握り込んだ手が上下に動き始めた。その手は大きく男の手だった。明らかな意図を持った手つきに克哉のペニスはますます大きくなる。くすり、と何者かが押し殺した笑いを零した。
「もう臨戦態勢ではないか、佐伯」
 響いてきた声に耳を疑った。幾重にも重ねられたような深みのある声は、記憶に深く刻みつけられていた。紛れもなく御堂の声だ。
 途端に瞼の向こうの暗闇に御堂の姿が浮かび上がる。御堂の頭が克哉の股座に沈んだ。同時に熱く濡れた感触が克哉のペニスを包み込んだ。
 ――っ!?
 声にならない声を上げる。いま御堂は克哉のペニスを懸命にしゃぶっていた。裏筋を舌で擦られながら舐め上げられて、亀頭を唇で挟む。ぬるっとした口腔内の感触に腰の奥から熱が溢れてくる。
 御堂は克哉のペニスを愛撫しながら、自身のバスローブの裾に手を伸ばした。
 口淫の音とは別に、濡れた音が御堂の下腹から響いた。克哉のペニスを舐めしゃぶりながら、自分のアヌスを自分で解しているのだ。
 巧みな奉仕に疼くような痺れが拡がるのと同時に、克哉は混乱にたたき落とされた。
 そこにいるのは果たして御堂なのだろうか。御堂が自ら克哉のモノをしゃぶるなんてことはあり得なかった。だから、御堂ではないはずだ。それならば、一体誰がこんなことをするのか。
 困惑する思考とは裏腹に、克哉のペニスは硬く反り返り先端からは蜜を垂らしていた。御堂はその蜜をじゅるっと音を立てて啜ると口を離した。あと一歩の極みが遠のく気配に克哉は切ない吐息を吐く。御堂が喉で笑った。
「心配するな、佐伯。いま、欲しいものを与えてやる」
 御堂が克哉の腰を跨ぐ。克哉のペニスを掴み、自分の脚の間に宛がった。そのまま体重を利用して腰を沈めようとする。克哉の先端に重みがかかり、克哉も息を詰めた。
 窮屈なところへと押し入っていく感触があるが、御堂一人ではなかなか上手く呑み込めずに、半端に腰を上げた態勢で動けなくなっている。御堂が呻いて喉を反る。浅い呼吸を繰り返し、いくどか試行錯誤を繰り返したところで、角度と体勢が噛み合ったらしい。唐突にぐっと深くまで咥え込まれた。
「……んぁっ」
 鮮烈な快感が腰から背筋を駆け上った。強い快楽に戸惑い、弾みで瞼がうっすらと開く。
 月の光に照らされた仄暗い室内で、克哉に跨がる男の姿が視界に飛び込んできた。乱れたバスローブを羽織る裸体は引き締まり、美しい陰影が引き締まった筋肉を浮き立たせている。克哉を見下ろす顔は、克哉が想像したとおりの男の顔だった。
 ――御堂……。
 克哉に馬乗りになる御堂は凄絶に美しかった。
 柔らかい粘膜をこじ開きつつ、根元まで呑み込まれる。御堂が圧迫感に息を乱した。けれど、苦しげに寄せられた眉根と薄く開かれた唇からは発情の色香が漂っていて、克哉はぞくりとした興奮を感じてしまう。御堂がそろそろと腰を動かし始めた。ぎこちない動きは次第に滑らかになり、克哉は蕩けるような快感に引きずり込まれていく。
 これは夢なのだろうか。
 そう思ってはみたものの、そこにはたしかな熱と重みがあり、生身の身体が克哉を咥え込んでいるとしか思えなかった。しかし、もしこれが御堂本人だとしても、克哉に向ける表情がどうにも不可解だった。
 うっすらと開かれた唇からは色めいた吐息が零れる。星のない夜空を写しとったような眸は輝きながら克哉を見ている。まるで恋人を見るような眼差しで。
 克哉は殺されても仕方ないくらいに御堂に憎まれていたはずだ。それなのにどうしてそんな目で俺を見るのか。
 やはりこれは克哉の夢で、胸の深いところに押し込めていた願望が幻覚となって現れたのだろうか。御堂を愛し、御堂に愛されたいという傲慢な望みを思い知らされる。
 御堂が自身の屹立を握り込んで、腰を振り立てながら扱き上げた。
 奔放に乱れる姿から、御堂が味わっている快感が御堂の顔や息遣いから伝わってくる。動けない克哉を好きなように犯す愉悦に酔っているようにも思える。
 御堂の動きが忙しないものになった。アヌスがきゅうっと痛いほどに締まって、内奥が複雑に蠢いて克哉を刺激してくる。熱くて狭いところにペニスを食べられているようで、克哉は深い酩酊感を覚える。
「は、ぁ、佐伯……っ」
 ベッドに投げ出されていた克哉の手を御堂が探して握ってきた。
 手を繋ぎながら、背をしならせて、御堂は甘さの滲んだ眼差しで克哉を見詰めてくる。
 茫洋とした眼差しで御堂を見詰め返した。薄暗い部屋でも、御堂の色素の薄い肌が紅潮し発情しているのがわかった。
 このセックスはいままでのセックスとはまったくの別物だった。
 自分がいいように御堂を犯していたときとは違い、御堂のリズム、御堂のタイミングで刻まれるセックスは新鮮だった。御堂に感じさせられている自分を強く意識する。できることなら手を伸ばして御堂に触れたいと思った。強く抱き締めたいと思った。
「ぁ、あっ、か、……つ、や、克哉っ」
 切羽詰まった声で名前を呼ばれると同時に、握った手を強く絡めてくる。御堂の身体が跳ねてひときわ強い痙攣がおこった。次の瞬間ぐっと中を引き絞られて、強烈な快感に克哉も攫(さら)われた。堪えようもなく絶頂が弾けて、御堂の中にだくだくと放ってしまう。
 息を止めてふたりの絶頂が絡み合うのを味わった。
 御堂がくたりと克哉の上に身体を預けてきた。互いの乱れた呼吸が行き交うのをしばらくの間、聞いていた。
「佐伯、起きているのか?」
 ようやくひと息ついて、御堂が小首を傾げて囁くように問いかける。「ああ」と返事をしたかったが、くぐもった息が漏れるだけだった。あいかわらずの金縛りで身体の自由が利かず、瞼の隙間から御堂の姿をどうにか捕らえるのが精一杯だ。
 御堂は反応しない克哉を寝入ったままだと思ったらしく、頬に手を添えると唇を重ねてきた。開いた唇の狭間から濡れた舌が入り込んでくる。御堂の手が克哉の髪をかき乱し、舌が克哉の乾いた口内を濡らしていった。
「ん……」
 御堂が甘く喉を鳴らした。御堂とのキスは、初めてのはずなのにどこか懐かしさを感じた。
 一方的に唇を貪られたが、御堂は満足したように克哉からそろりと唇を外し、うっとりと息を吐いた。
「おやすみ、克哉。……あいしてる」
 そう聞こえた気がした。御堂が呼ぶ『克哉』は特別な響きを持っていて、なぜか目の奥がじわりと痛くなった。
 そっと頭を撫でられる。間近で克哉の顔を覗き込んでくる気配に、克哉は御堂の顔を網膜に焼き付けようとした。
 しかし、視界が急激に暗くなり、あらゆる感覚が遠のいていくような感覚に襲われる。
 抗えない眠りに引き込まれて、克哉は何の反応も返せないまま意識を闇に溶かしていった。

 上下左右もなくぬるい水の中でたゆたうような感覚に克哉はゆるりとまぶたを押し上げた。朝の透明な光が部屋を満たしていた。思わず部屋の周囲に視線を巡らせた。
 広い部屋に克哉がただ一人。隣のベッドは昨日放り出した鞄がそのまま置かれていて、使われた気配もない。
「夢、だったのか」
 掠れた声で呟いた。
 ほんの少し前まで、この部屋に御堂がいた。それも、克哉に愛しさを込めた眼差しを向けて。絶対に存在しないはずの気配はまだ克哉の胸の内に残っている。
 馬鹿馬鹿しい、と首を振った。
 あんなふうに、御堂が克哉を求めてくれることなどありはしないのに。
 頭では理解しても、胸には狂おしいほどの感情が渦巻いている。息が詰まるほどに苦しいのに、この胸にある気持ちを棄てたくなかった。
 未練を捨て去るつもりだったのに、またスタート地点に引き戻されてしまった。
 生きている限り、きっとこれからも御堂への未練に振り回され続けるのだ。
 だが、それでも良いと思った。
 もしこの世界に、美や憧れや理想といったものが存在するとしたら、克哉にとってそれは御堂の形をしているのだろう。克哉から決して切り離すことはできない。
 清々しい光が満ちる部屋で、克哉は大きく息を吐いて、小さく笑った。

    ◇◇◇◇

「御堂、そろそろ起きた方がいいぞ」
 頭上から降ってきた声に御堂は重たい瞼を開いた。
 見慣れぬ部屋の中は朝の煌めく光が満ちている。濡れそぼった睫毛の合間に克哉の顔が覗く。克哉は微笑みながら、御堂に指を伸ばして額にかかる前髪を払った。
「疲れが溜まってたのか?」
「あ……」
 そう言われて、急激に意識が覚醒する。昨夜、自分がなにをしたのかを思いだした。寝ている克哉が勃起していたのをいいことに、克哉を襲い、無理やり犯すような真似までしてしまったのだ。
 どうして疲労で寝入ってしまった克哉にそんなことをしてしまったのか。まるであのときの自分は自分でなかったようだ。
 思い返すほどに後悔と羞恥が込み上げて、いたたまれない気持ちに包まれた。御堂はガバリと起き上がって、克哉を見返した。
「佐伯、昨夜はその……」
「ああ、昨夜はすまなかった。すっかり寝てしまった。あなたと久しぶりの夜をゆっくり愉しみたかったが」
 克哉に先に謝られてしまい言葉を失する。
 申し訳なさを言葉に滲ませる克哉はいつもどおりの口調と顔で、何ら含むところはなさそうだ。
 御堂が昨夜したことを覚えていないのか、そもそも深い眠りの中にいて気が付いていなかったのだろうか。
 必死に記憶を辿りつつ、曖昧模糊とした違和感を覚える。
 そもそも、昨夜の出来事は本当にあったことなのだろうか。
 部屋の灯りを消し、カーテンを閉めようとして、赤い月を見たところまでは覚えている。
 それから……。
 詳細を思い出そうにも、それこそ夢の出来事みたいにあっという間に色褪せて現実味が乏しくなっていった。
「まだ寝ぼけているのか?」
「いや……」
 克哉がくすりと笑った。
 手がかりを探すように窓へと顔を向けた。赤い月は跡形もなく、真っ青な空に太陽が輝いていた。
 高層ビルの一面の窓ガラスに反射する光が眩しくて目を瞬かせると、克哉が「カーテンを閉めるか?」とベッドヘッドのボタンを押した。モーター音と共に自動でカーテンが閉まり始める。
「そこにそんなスイッチがあったとは気が付かなかった」
 灯りのボタンとは離れたところにさりげなくあるスイッチだ。御堂はすっかり見落としていた。
 御堂に影がかかったところで、克哉はスイッチをオフにした。部屋はほどよい明るさに保たれる。
「この部屋に泊まったことがある」
「そうだったか?」
 このホテルに克哉と泊まること自体が初めてだったはずだ。もしかして、克哉は自分以外の誰かと泊まったのだろうかと訝しむ御堂に克哉が付け足した。
「俺一人のときだ。シングルを予約していたがグレードアップされてこの部屋になった」
「それは幸運だったな」
「出張で来て、睡眠さえ取れれば良かったから、部屋のグレードは別にどうでも良かったが」
 そう言って、克哉はふ、となにかを思い出したように言葉を切った。レンズ越しの双眸が眇められ、どこか遠くを見るような眼差しになる。
「そういえば、そのときにあなたの夢を見た」
「私の?」
「ああ」
「どんな夢だ」
 克哉が御堂の視線を向けた。その眼差しが意味ありげに緩む。その意味を察し、御堂はため息を吐いた。
「……ろくな夢ではないな」
「いい夢だったですよ」
 そう口にする克哉の眼差しはとても大切なものを愛おしむように御堂に注がれていて、御堂は言いかけた言葉を呑み込んだ。
 克哉にそんな顔をさせるほどのなにかを夢の中の自分はしたのだろうか。
 それを問いただしたくはあったが、夢の中の自分にまで嫉妬しているとは思われたくないから黙っておく。
 今夜こそは夢さえも割り込めない二人の夜を過ごせば良いだけだ。

END

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