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The Buck Stops Here!

 あ、やばいな。
 昼下がりのビル内の喫煙所。佐伯克哉は火を点けたばかりの煙草を口から離し、ふうと煙を吐いた。
 風邪を引く前兆というものを克哉は経験から把握していた。
 煙草をまずいと感じたら風邪を発症する。
 手に持っている煙草を確認するが、いつもと同じ銘柄の煙草だ。つまり、煙草の味がおかしいのは克哉自身に問題がある。
 克哉はほとんど吸っていない煙草をアッシュトレイに押し付けて火を消した。もう一分たりとも時間は無駄にできないと喫煙所をあとにする。
 年の瀬が迫り年末年始の大型休暇に向けてどの社も追い込みをかけている。コンサルティングを生業(なりわい)とするAA社も例外ではなく、歳末と決算期が重なったこの時期は、クライアントの業績が事業計画通りに進んでいるかチェックと計画修正に追われている。仕事量の多さだけでなく精神的な疲労も重なる時期だ。
 克哉は滅多なことでは風邪をひかない自信があるが、それでも無理が続いて体力が尽きかけたときに風邪を引いてしまう。
 そして、しまったと思ったときにはもう遅い。
 これも克哉が経験的に学んだ教訓だ。
 御堂と一緒に暮らしているいま、風邪を引けば誤魔化しつづけることは困難だ。克哉が体調を崩したと知れば出社禁止を言い渡されるだろう。それどころが、しっかり休めと在宅ワークさえ許してもらえないかもしれない。
 自分が体調不良で仕事に穴を開けたらどうなるか。ある程度は御堂がカバーしてくれるだろう。御堂は克哉の恋人でもあり、信頼できる仕事のパートナーだ。仕事を任せることに不安はないが、いかんせんタイミングが悪い。
 こうなった以上、無理をせずに早めに休んだ方が良いということは十分に理解しているが、そうもいかない事情があった。ただでさえ多忙な通常業務に加えて、不測の事態が発生しているのだ。
 どうしたものかと頭の中で算段を巡らせつつAA社のオフィスに向かう。すると、オフィスのドアの前で外回りから帰ってきた御堂と鉢合わせした。
 質の高いカシミアのチェスターコートで身を包んだ御堂は外回りから帰ってきたところだ。長身の均整の取れたプロポーションはコートを着ていても一目瞭然で、印象深い鮮やかな顔立ちは克哉を目にして目元を和らげる。克哉もほほえみを返しつつ歩みを寄せると、御堂からはひんやりとした冬の外気が伝わってきた。
「打ち合わせは無事に終わったのか、御堂?」
「ああ。売上目標を達成して先方も満足していた」
「それは良かったな」
「それで、君は喫煙タイムか?」
 御堂は克哉が纏う煙草の香りに気が付いたのだろう。咎めるように片眉を跳ね上げる。
「少し気分転換にな」
「……ブーランジュは目処が付きそうか?」
「いま策を練っているが、まあどうにかなるだろう」
 ブーランジュこそ克哉に降りかかった悩みの種だ。御堂にはこともなげに答えたが、実のところ何の策も思いついていない。挙げ句、解決策を見つけるどころか、風邪のカウントダウンに気が付いてしまったという次第だ。
 御堂の視線が、克哉のつま先から頭のてっぺんまでさっとなぞっていく。克哉の言葉の向こう側を推し量るような眼差しだ。無策なのがバレたのかと身を固くしたが、御堂は視線を戻すとふ、と柔らかな笑みを浮かべた。
「君のことは信頼している」
 そうひと言告げて、御堂はドアを開けてオフィスの中へと入っていっく。目の前のまっすぐな背中を眺めながら克哉も続いた。


 ことは一週間前にさかのぼる。
「計画から大幅に遅れているぞ、藤田」
 御堂の低く抑えた声は深刻な響きを孕んでいた。克哉は黒目だけ動かして、御堂のデスクの前に立つ藤田と、レポートに記載された数字を厳しい表情で確認する御堂を窺った。藤田は直立不動の姿勢を崩さぬまま、緊張した声を出す。
「オーナーもスタッフも頑張っているのですが」
「君やクライアントが頑張ってるかどうかを聞いているのではない。結果が伴わない努力を褒めてもらえるのは子どもだけだ」
 藤田の返事にぴしゃりと被せる御堂の言葉は容赦がない。二人の間で問題になっているのはパン屋『ブーランジュ』の業績だった。天然酵母を使った香ばしいパンが売りのパン屋で、開店当初のブームに乗り店舗を増やしたものの無理な出店計画がたたって赤字へと転落していた。そして、AA社にコンサルティングを依頼してきたのだ。
 克哉が大鉈を振るい、物流の見直しで余計なコストをできるだけ削り、客のニーズに合わせたメニューの一新を行った。それがが功を奏し、いったんは業績が回復して藤田に引き継いだものの当初の計画どおりとはいかなかったようだ。
 御堂が厳しい口調で告げる。
「このままでは銀行の融資の審査をクリアするのは難しい。融資がなければ来年の運転資金に行き詰まる。銀行側が納得するような資金繰り計画を書き直さないといけない」
「今後の業績が上向きになることを示すことができれば、銀行を説得できるかと」
「その根拠の当てはあるのか」
「それは……」
 御堂にじろりと睨まれて藤田は言葉を詰まらせる。御堂は深くため息を吐いた。
「時間がない。なにか打開策を探さなければ」
 藤田が口を開きかけて言葉を呑み込んだ。反射的に謝ろうとしたのだろうが、ここで御堂に謝っても無駄なだけで、御堂はそういった無駄をとことん嫌うということをわかっているから口を閉じたのだ。
 もっと早くこの状況がわかっていれば何かしら打つ手はあったかもしれない。しかし、年末の忙しさに押されてブーランジュ側から売上データの提出が遅れたのだ。そしていざそのデータを調べてみれば、期待から大きく外れた営業利益に留まっていた。いまさらそれを責めても時間を巻き戻すことはできない。いますべきことはこの事態をどう対処するか一刻も早く検討することだ。
 執務室の空気が重く沈み込む。克哉はわざと音を立てて椅子から立ち上がると御堂たちに顔を向けた。
「御堂、ブーランジュは元々俺が引き受けた案件だ。俺がこの件を担当する」
「佐伯さん!」
 藤田はパッと顔を輝かせたが、御堂は険しい表情をくずさない。
「いまは君の手から離れて、私と藤田が担当しているクライアントだ。こうなった責任は我々にある。君の手を煩わせるわけにはいかない」
 御堂にやんわりと介入を拒絶される。だが、克哉は怯まなかった。
「銀行側のタイムリミットはいつまでだ?」
「12月29日までに書類提出。年明け早々に融資可能かどうかの審議だ」
 AA社の年内最終営業日が締め切りだ。克哉は頭の中で素早く計算する。
「わかった。あとは俺が引き受ける」
「言っただろう。君に責任を負わせるわけにはいかない。状況は厳しいし、時間の猶予もない」
「問題ない。俺が責任を取る」
 そう言い切れば御堂は押し黙った。
 馴れ合いも妥協も許さぬ冷徹な眼差しが克哉を見据える。克哉は御堂の顔をまっすぐに見返した。数秒の息が詰まるような沈黙のあと、御堂が退いた。
「分かった。この件は君に任せる」
 こうしてブーランジュの件は克哉に一任されたのだ。
 藤田からブーランジュの資料一式を受け取り精査したところ、営業利益の低迷は、小麦を始めとした原材料価格や製造価格の高騰が原因だということはすぐに判明した。下がっている利益率を価格に転嫁するにしてもそれで売上が維持できるのかという懸念は残る。その一方でAA社のプランニングは少しずつ数値として現れており、長い目で見れば業績の回復は期待できた。それをどうやって銀行側に納得させるか。できることなら効果的な一手を別に打つべきだろうが、残された時間は少ない。万一、銀行に融資を断られたら運転資金の補填をどうするか。そうなればAA社のプランの大幅な修正が必要になり、コンサルティング失敗のそしりも免れない。だからこそ御堂は神経質になっていたのだ。
 さてどうしたものか。
 いろいろな解決策を考えてみるがどれも決め手に欠ける。それに、克哉が抱えている案件は他にも数多くあって、ブーランジュだけにかまけている余裕もなかった。
 この日も、ほんのわずかな煙草休憩から戻ってきた克哉を待ち構えていたのは山積みの仕事で、書類のチェックやクライアントからの問い合わせの対応、そういった仕事をこなしているうちにあっという間に時間は過ぎていった。
 そして、日が暮れる頃に悪寒に襲われた。気のせいだ、と思い込もうにも体調は悪化するばかりで、風邪を引きそうだ、という克哉の予感は残念ながら外れることはなかった。そうこうするうちに喉の痛みはひどくなり熱まで出てきたようだ。それでもマスクで顔を隠し、業務を遂行する。
 日中、クライアントの社に出向いていた御堂は、ふたたび別の社との打ち合わせに参加するため不在にしていた。帰りも遅くなるから直帰するとの連絡があった。
 どうにかその日の業務を終えて、克哉は社員全員が退社したあと、戸締まりをしてオフィスの上層階にある部屋に戻った。
 暗い部屋の灯りをつけ、ジャケットを脱いでネクタイを解くとソファの背もたれに頭を預けた。ぐらりと世界が回るような感覚に克哉は目を閉じた。頭が痛い。かろうじてネクタイの結び目を緩めたものの、動くのも億劫なほどに色濃い疲労感に襲われていた。
 ここ最近まとまった睡眠も取ってなかった。多忙と睡眠不足が風邪を引いた原因だろう。どこから風邪をもらったのか検討はつかないが、御堂にうつしていないことを祈るばかりだ。
 これからのことを考えると克哉はホテルに移るなりして、御堂から離れた方がいいだろう。重たい手でスマホを取り出す。ホテルを検索しながら、御堂に会いたい、と思った。十二月に入ってから御堂も克哉も別々の大型案件を抱えていて、それにかかりきりだった。出張や先方での会議などで会社を不在にすることも多く、家でも会社でも御堂とすれ違いばかりだ。一緒に暮らしているのにふたりきりの時間がほとんど取れていない。いつまでこんな生活が続くのだろうか。年が明けたら大規模なコンペが待ち構えていて克哉は当然それを獲得するつもりではいたが、そうなったら益々忙しくなるし、御堂とふたりで過ごす時間はその分だけ少なくなる。
 なにもかも投げ出して、御堂とふたりきりになりたい。
 不意に、そんな願望が克哉の胸に差し込んで、克哉は無理やりその誘惑を抑え込んだ。
 こんな状態では会わない方がいいだろうし、ひとまず御堂に事情を伝えた方がいいだろう。風邪を隠して、ふたりして共倒れになったら元も子もない。
 御堂に連絡を。
 スマホを操作しようとしたころで、すう、と意識が沈み込んでいった。


「佐伯」
 肩を揺さぶられて目を覚ました。いつの間にかソファにもたれたまま寝入ってしまったようだ。
「あついな、熱がある。大丈夫か?」
「ああ……」
 と生返事をしたものの酩酊したように意識の輪郭に靄がかかり、身体は酷く重く、そして熱かった。
「着替えろ。汗が酷いぞ」
 そう言われてのろのろと身体を起こした。
 汗をかいているのかシャツが身体に張り付いていて不快だった。シャワーを浴びたかったが立ち上がるのもひと苦労だ。シャワーは諦めた方が無難だろう。
 立とうとしてよろめいた克哉を支えようと御堂がさっと身体を寄せた。それを手で制する。
「俺に近付くな。風邪を引いたようだ。あんたにうつしたらまずいから、いまからホテルに移る」
「馬鹿を言うな。そんな状態で移動して周りにウイルスをばらまく気か? 大人しく部屋で寝ていろ」
「それなら、あんたがホテルに移れ」
 克哉の言葉に、御堂は馬鹿馬鹿しいと首を振った。
「いまさらどこに行っても一緒だ。ホテルだって人の出入りが多い分、風邪をもらうリスクがある。……それより、着替えた方がいい。身体が冷える」
 そうはいっても、現在進行形で風邪を引いている同居人がいるよりはマシな状況だろうとは思ったが、言い返す気力もなかった。
 大人しく御堂が用意したスエットの上下に着替えると、ふらつきながらリビングを出ようとした。慌てた御堂が追いかけてくる。
「どこに行く?」
「俺の部屋で寝る。できるだけの対策はしたい。あんたまで倒れたら大変だ」
 同じ居住空間にいるのだ。寝室を別にすることで少しでも感染のリスクを下げたい。
 振り返りもせずにそう言ってリビングを出て自分の部屋へと向かう。背後で御堂の気配が動いたが追いかけては来なかった。それを当然と思いながらも、胸のどこかが軋んだ。


 翌朝になっても熱は下がる気配はなかった。頭痛もひどくとても出勤できる状態ではない。大人しく休みを取ることにする。マスクをした御堂が家に常備してあった解熱剤と飲み物、そして軽食を克哉のベッドサイドに置きつつ言う。
「病院に行くか? 四柳に連絡しておこうか」
「風邪くらいで病院に行くなんて大袈裟だ。一日寝ていれば治る。病院に行ったら逆にたちの悪い風邪をうつされそうだ。それよりあんたは早くこの部屋から出ろ。AA社を頼む」
「ああ。社のことは心配するな」
 御堂は克哉を気遣う表情を見せたが、それ以上は追及しなかった。
 ――ブーランジュはどうするか。
 俺に任せろ、と啖呵を切った挙句の無様な状態に痛い頭がなおさら痛む。ブーランジュ側に介入するのはあきらめて、銀行側を説得する方針へとに舵を切るべきだろうか。
 熱に浮かされた思考はまとまらず、重たい身体はシャワーを浴びただけで疲労困憊だ。自分の部屋のベッドからほとんど抜け出せないまま一日を過ごす。
 そして、一日で回復すると思った体調は翌日になっても改善の兆しがなかった。高熱が続き、関節が痛み、倦怠感も酷い。さすがにこれは病院に行ったほうが良いだろうと、観念する。
「一人で大丈夫か?」
「心配性だな、あなたは。子どもじゃあるまいし。それより会社のほうを頼む」
 朝方、克哉の部屋を覗いた御堂は気遣わしげな顔で言ったが、御堂は克哉の心配をしている場合でないことは分かっていた。克哉が戦線離脱したいま、AA社の仕事の采配は御堂にかかっている。御堂もそれを重々承知しているから、「何かあったら連絡してくれ」と言い残して出勤した。
 克哉はだるい身体を奮い立たせて発熱外来を受診したが、結局、検査の結果は普通の風邪で数日で良くなるだろうと言うことで解熱剤と感冒薬を処方されて帰ってきた。これなら受診しなくても良かったように思うが、たちの悪い感染症でなかったと判明しただけよかったのだろう。
 汗で濡れた服をパジャマに着替え、部屋に籠もる。ずっと寝ていて眠気などなかったが、身体が虚脱したように重いのはまだ熱が続いているからだ。
 こうやってなにもできない状況がもどかしくて、ノートパソコンを開いてみる。たまったメールなどを片付けてはみるものの、画面の明かりを見ているとすぐに頭痛がぶり返してきた。まだ仕事ができる状態ではなさそうだ。ベッドに横になってぼんやりと天井を見詰めた。
 こうやってなにもすることがない時間を持つのはいつぶりだろう。
 ワーカーホリックと揶揄されるほど日々仕事に追われてきたし、オフの時間も常に仕事のことが頭の片隅にあった。だからといって仕事が好きなわけではなかった。克哉にとって仕事は退屈を紛らわせ、自尊心を満たすための手段に過ぎなかったはずだ。それなのに、なぜこんなに必死になっているのか。
 それは、御堂との約束があるからだ。
 あの冬の日、克哉は御堂に責任を取ると約束した。克哉のせいで御堂が喪ってしまったものを返さなければいけない。御堂が視るはずだった景色を克哉が見せなければならない。すなわち、AA社を大きくし、世界を手に入れることが克哉の責任なのだ。それができないのなら、御堂にかかわるべきではない。
 仕事と恋人、どちらが大事か?
 そんなことは訊かれずともわかっている。
 克哉は御堂が何よりも大切だと言い切れる。御堂より大事なものなんて存在しない。AA社だって御堂がいなければ意味がない。御堂のためならすべてをためらいなく捨てることができる。
 克哉にはそう言い切れるだけの自信がある。しかし、御堂は克哉と同じ気持ちではないだろうということも分かっていた。
 御堂にとっては恋人も仕事もどちらも同じくらい大切だ。だからどちらに対しても決して手を抜いたりはしないし、どちらかを優先して他方をないがしろにもしない。御堂にとってAA社は他の何にも替えがたいものなのだ。
 御堂は目的を達成するためなら手段を選ばない冷徹さとそれを実現するための周到さを兼ね備えている。そんな御堂を共同経営のパートナーとして迎えることができたのは、御堂が克哉を認め、克哉を信じてくれたからだ。
 克哉の能力を御堂は高く評価している。また、AA社の代表として辣腕を振るう克哉をあいしている。もし克哉がAA社を放り出してしまえば、御堂はきっと克哉に失望するだろう。そして、克哉への愛を薄れさせるだろう。
 AA社は起業してからずっと順風満帆に業績を積み重ねている。しかし、その結果、二十四時間一緒に過ごしているといっても過言ではないのに、克哉は御堂との時間を失っている。いっそのことすべて投げ出してしまいたいという誘惑に駆られる。御堂をどこかに閉じ込めてふたりきりで溺れるほどセックスをしたい。克哉がいま一番求めているのは金でも名声でもなく御堂との時間だ。御堂と一緒ならどこまでも落ちてもいい。
 だが、克哉はそう望んでも、御堂はそれをよしとはしないだろう。そして御堂がいったん拒絶すれば、克哉がどれほど強引なことをしようとも、決して御堂は克哉の思いどおりにはならない。
 御堂の恋人としてあいされ続けるためには、御堂の期待を超え続けなければいけない。結果の伴わない努力は評価に値しない。そんなことは当たり前だ。決して立ち止まることは許されない。克哉は責任を全うしなければならない。弱音なんて決して吐いてはならない。そうでなければ御堂にあいされる資格を失う。
「いったい、どうしたんだ俺は」
 こんなことを考えてしまうなんて、いつになく弱気になっている。いままでAA社で働く自分に疑問など思ったことはなかったはずだ。世界を手に入れるためのヴィジョンも夢物語ではなく現実味を増している。それなのに。
 身体が弱れば心まで引きずられる。
 そして、心が弱っている一番の原因は、風邪でも過労でもなく、御堂に会えないことだろう。
 だが、仕事は棄てられない。袋小路にはまっている。
 堂々巡りの思考に囚われているうちに意識がもうろうとしてきた。


 現実と夢の狭間を行き来しながらうつらうつらしていると、ひんやりとした手が額に当てられる感触で目が覚めた。
 瞼を押し上げれば、仄暗い部屋で克哉を覗き込んでいる御堂と目が合った。
「御堂……?」
「すまない、起こしたか?」
「いいや」と首を振りつつ、マットに肘をついて上体を起こした。枕元に置いてあった眼鏡をかける。喉の渇きを覚えてベッドサイドのミネラルウォーターのペットボトルに視線を向けたところで、御堂がさっとそれを取ってキャップを開けて克哉に渡した。
「ありがとう」
 礼を言って、ひと息にペットボトルの半分ほど飲んで口を離した。
「いま、何時だ?」
「一時前だ」
「こんな時間まで仕事をしていたのか」
 スーツ姿の御堂はネクタイも緩めていない。AA社のオフィスから戻ってきてすぐさま克哉の様子を見に来たのだろう。
「書類作成に手間取ってな。だが無事に仕事納めはできた」
 すでに日付は12月30日に変わってしまっている。結局、年内に復帰にできないまま年末年始休暇に入ってしまったことに忸怩たる思いを抱く。
 御堂はふう、と息を吐いてネクタイの結び目に指を入れて解きつつ、克哉にいたわりを込めた視線を向ける。
「体調はどうだ?」
「だいぶマシになった。もう治った気がする」
 じっとりと身体に汗をかいていたが熱っぽさはなかった。倦怠感はいくらか残っているがずいぶんと楽になっている。頭の中も霧が晴れたかのようにすっきりしていた。自分が残した仕事に思考を巡らせ、ずっと胸に引っかかっていたことを口にする。
「ブーランジュの件どうなった?」
「間に合った。来年からプレステージホテル東京のデリにブーランジュのパンが採用されることになって、銀行側から融資は問題ないだろうという内諾を得た」
「新しい取引先を開拓したのか」
 驚いて聞き返す。プレステージホテル東京と言えば、格式高い外資系ホテルだ。
「プレステージホテル東京の統括マネージャーが学生時代からの知り合いでな」
 どうやら御堂の東慶大のコネクションをフル活用したらしい。それにしても年末の時間がない状況でよく間に合ったな…と考えていると、御堂は言いにくそうに言葉を付け足す。
「……実は藤田から報告を受けた時点でホテル側に打診をした」
 御堂の表情がかすかに強張っている。克哉が自分に任せろと言い、御堂がそれを承諾した直後だ。克哉を信用していなかったと告白している気分なのだろう。しかし、御堂の機転のおかげでピンチを切り抜けた。ギリギリのタイミングだったが、新規取引先の開拓は銀行との交渉を有利にした。
 なんてことはない。最初から御堂と藤田に任せておいて問題なかったのだ。それを自分が横から口を出した。二人を信用していないのはむしろ克哉の方だった。ばつの悪さに俯きながら言った。
「俺が責任を取ると言っておきながら、迷惑をかけたな」
「迷惑などと思ったことは一度もない」
 克哉に被せるようにしてきっぱりと言い放たれた言葉。その語調の強さに驚いて御堂を見返すと、驚くほど真剣な眼差しが克哉を見据えていた。
「私は君のパートナーだろう? それなら責任も分かち合うべきだ。君はもう少し私や周りを信用しろ」
「……そうだな」
 御堂に説教されるまでもなく、自分のふがいなさを思い知らされて嫌になる。ふたりして黙り込み、部屋にたっぷりとした沈黙が満ちたところで、御堂がぼそりと呟いた。
「佐伯、君と一緒に暮らしていてよかった」
 突然何を言い出すのかと目を瞬かせた。御堂が克哉の頬にそっと手を当てて顔を覗き込んでくる。その双眸は先ほどまでとは違って、克哉に対する愛おしさを湛えている。
「どんなに遅く帰っても、君がいる。少しでも長く君と一緒に居られる」
 切実な気持ちが込められた言葉に、とん、と胸を突かれた気がした。
 自分が御堂と過ごせないことに不安と不満を募らせていたのに、御堂は少しでも長く克哉の傍にいられるということを喜んでくれている。いまさらながらにその事実に気付かされる。
 たぶん、御堂は克哉が考えるよりもずっと克哉のことを愛していて、克哉を大切にしている。克哉はその事実をちゃんとわかっていなかった。
 克哉は我知らずため息をついた。やはりこの人には敵わない、と素直に認められる。だからずっと頭の片隅にあったわだかまりがするりと口をついて出た。
「あなたの期待に応えられなかったら、あなたに見限られる気がしていた」
 御堂は驚いたように眉を上げて克哉を見た。いつになく殊勝な克哉の言葉が意外だったのかもしれない。そんな御堂の顔に居心地の悪さを感じていると、御堂は黙ったまま上体を屈めて克哉の背に手を回した。そして手の輪を狭めぐっと克哉を抱き寄せる。
 互いの鼓動が響き合うほど強く抱きしめ、御堂は深く息を吐いて言った。
「私は君を心からあいしている」
 何の飾りもないまっすぐな言葉だった。率直な愛の告白だった。だからこそ胸に響いた。
 御堂は克哉を抱き締める腕に力を込めて言葉を付け加える。
「君は私の期待を超え続けてきたし、君の能力が高いのは疑う余地がない。だが、私は君の能力をあいしているわけではない。逆に訊くが、君は私の能力をあいしているのか?」
「まさか、そんなわけない」
「君には私の無様なところまで見られているしな」
 御堂は苦笑しながらも、甘やかすように克哉の後ろ髪を指で梳いた。
「何度でも言うが、私たちはパートナーだ。お互いにもっと弱音を吐いていいし、もっと相手を頼ることを覚えるべきだ」
 御堂の言葉がぬくもりを伴ってかさついた心にじわりと沁みていった。御堂の肩口に顔を埋めながら、心の奥底にある本音を口にする。
「あなたの前では、頼れる恋人でありたいんだ」
「それは、私も同じだ。お互い、まだまだ言葉が足りない」
 自分を最後まで曝け出すのは怖い。一方で相手の一番脆く弱い部分を知りたいと思う。かつて克哉は御堂を暴(あば)いた。御堂と恋人として対等なパートナーとしての関係を結ぶいま、自分自身も遅かれ早かれ暴かれていくのだろう。いまこの時のように。それでも御堂から揺るぎない愛が伝わってくるから素直に受け容れられる。
「君は私がどんな有り様でもあいしてくれるだろう。私だってそうだ。私は他の誰でもなく君自身をあいしている。もし君が無職になったら、私が養ってやるから心配しなくていい」
「俺の恋人は頼りがいがあるな」
「いまごろ気が付いたのか?」
「いいや、知っていた」
 克哉の言葉に御堂がにやりと笑みを浮かべる。
「まあ、私がついている限り、経営の失敗などありえないが」
 そう言って高慢に笑う御堂はいつもの御堂だ。
 御堂は克哉に向ける眼差しを和らげると抱擁を解いた。そしてすっと顔に顔を寄せる。咄嗟に自分の顔の前に手を掲げて御堂を制した。
「風邪がうつるぞ」
「治ったのだろう?」
「たぶん。だが確証はない」
「年末年始休暇に入ったからな。風邪をひいたら、せいぜい君に看病してもらうさ」
「そのときは喜んで看病するが、熱でつらい思いはさせたくない」
「The Buck Stops Here!」
 御堂がきっぱりとした語調で言う。
 責任は私が取る。
『The Buck Stops Here!』は、アメリカ合衆国大統領だったハリー・トルーマンの執務室のデスクのプレートに刻まれていた言葉だ。は『すべての責任は俺が取る!』という意味で、合衆国大統領として合衆国で起こるすべてについて自分が責任を持つというトルーマンの覚悟を示したという。
 つまり、克哉から風邪をうつされても君の責任にはしない、自分の責任だ。と御堂は言いたいらしい。
 素直にキスをしたいと言えばいいのに、わざわざ小難しく言うところが御堂らしい。それでも、そこまでして克哉のキスを求める御堂の気持ちに触れて心が甘く震えた。だから、
「責任は分かち合うものだろう?」
 と言い返して、御堂の唇に自ら唇を押し付けた。声も吐息もなにもかも奪うように唇を塞ぐ。すぐに御堂は克哉のキスに応えて濡れた舌先を差し入れて舌を絡めてきた。久方ぶりのキスをたっぷりと交わして、名残惜しく唇を離した。キスだけで呼吸が弾み、心臓が早鐘を打ち出し、下がったはずの熱がぶり返してくるような感覚がある。互いの身体に手を這わせたところで、御堂がふと思い出したように言う。
「……だが、君の誕生日にダウンしていたら申し訳ないな」
「いまさらだな」
 克哉は笑いを噛み殺しつつ言う。
「あなたをつきっきりで看病できるなら、それは最高のプレゼントだ。ふたりきりで濃密な時間を過ごすさ」
「それなら君の言葉に甘えさせてもらう」
 克哉を見詰める視線に熱が籠もる。
「ずっと君が不足していた。もう我慢できそうにない」
「俺もだ」
 御堂のシャツのボタンを外し、仕切り直そうとしたところで、今度は克哉が自分の汗ばんだ肌に気が付いた。動きを止める。
「待て、汗をかいてるからシャワーを浴びてくる」
「そのままで構わない」
 ベッドから起き上がろうとするところを御堂に押さえつけられた。
「もう我慢できないと言っただろう。それに君の汗の匂いは嫌いじゃない」
「……変態ぽいな」
「君がそれを言うか?」
 笑い含みに言いながら、御堂は克哉のパジャマのズボンをずりさげる。観念してされるがままになると、御堂は克哉の臍に口づけをした。そのまま下腹へと唇を滑らせ形を持ち出した克哉のペニスへキスを落とす。熱くぬめる口腔内に包まれる感触に息を呑んだ。
 御堂の舌先が器用に根元から亀頭まで這い回り、鈴口を突く。同時に長い指が巧みに竿を扱いた。御堂はじゅるっと音を立てて舐めしゃぶり、欲情に濡れた眼差しで克哉を見上げる。視線が重なった瞬間、ぞくりとしたしびれが背筋を駆け上った。
「そこまででいい。あとはあんたの中に挿れたい」
 なおも舐めしゃぶろうとする御堂の頬を撫でて動きを止めさせる。
 御堂は口を離すと、素早く服を脱いで床に落とすとベッドに乗り上がってきた。上半身を起こした克哉の膝に跨がり、腰を浮かすと克哉の前で指を足の付け根へと伸ばした。そして、自分の指で自分の場所を解し出す。眉根を寄せて切なげな顔をしながら、窮屈な場所を蕩かす様が凄絶にいやらしい。克哉に見られていることが御堂の発情を煽るのだろう。熱い吐息を零しながら指を増やしていく。
「御堂、手伝おうか?」
「……君は病み上がりなのだから大人しくしていろ」
 御堂に睨み付けられる。その眼差しさえ艶めかしくて、興奮が駆け巡る。
 御堂の手が克哉のペニスを掴み、膝立ちの体勢でゆっくりと腰を落とす。
「――ぁ、んあ」
 先端に圧がかかり、熱くぬめる体内に咥え込まれていく。圧迫感に御堂が細い息を吐いた。克哉もまた快感に息を詰める。
「……は、あ、あ、あ、さ、え…き」
 御堂が切れ切れな声で克哉を呼んだ。
 中が熱く収斂し、じれったいような甘い疼きが込み上げる。
 御堂は根元まで咥え込むと、克哉の肩に縋り、慣らすのもそこそこに腰を揺すり始めた。克哉を欲しがっているのは本当なのだろう。額に汗を浮かべながら、余裕なく先を求めようとする。
 思うさま突き上げたい衝動をどうにかこらえて、代わりに快楽を貪る御堂の様子を見詰めた。半開きの唇や跳ね上がる喘ぎから御堂が味わっている快楽が伝わってくる。同時に、克哉には甘苦しい締め付けと熱い粘膜の摩擦がもたらす愉悦がひっきりなしに訪れた。
 克哉の上で思う存分乱れる御堂を前に、興奮が嵩んでいく。御堂は大人しくしていろ、と言うが、こんな恋人の痴態を見せつけられて我慢しろというのが無理な話だ。
 悦いところを見つけたらしい御堂が深く抉るように腰を蠢かしだした。腹に反り返るペニスは透明な粘液をひっきりなしに溢れさせた。びくびくと震える破裂寸前の御堂のペニスを咄嗟に握り込むと、御堂が身体を跳ねさせた。
「――っ」
「イくときは一緒にでしょう?」
 あと一歩で達するというときに止められて、御堂が恨めしげな視線を克哉に向ける。先端の切れ込みを指の腹で強く擦ると御堂がびくんと背をしならせた。同時に中が強く締まる。その締め付けを味わいながら、克哉は御堂の腰を掴むと猛然と突き上げだした。
「あ、ぁ……っ、は、あ、克哉……っ」
 獣のような荒々しい呼吸と喘ぎを繰り返しながら御堂は克哉にしがみついた。御堂の汗がこめかみから宙に散り、爪が背中をひっかいたが構わずに激しく突き上げた。最奥までみっちりとはめ込み、中をかき回す。
 克哉しか許されていないところを、克哉しか許されてないやり方で思う存分、堪能する。
「……孝典」
 切羽詰まった声で名前を呼ぶと、濡れそぼる視線が絡んだ。自然と顔を寄せ合い、伸ばした舌を触れあわせる。互いの唇を潰すような激しいキスに脳の中心から粟立つような熱が弾ける。大きな波に襲われる。御堂の身体が強張り、全身を震わせた。腹部に熱い飛沫を感じると同時に、強烈に引き絞られて最奥にだくだくと放つ。鮮烈な絶頂に髪の先まで満たされる。
 そして、長い空白のあとの弛緩。
 御堂の身体がくったりと重なってくる。それを抱き留めながらふたりしてベッドに倒れ込んだ。シーツが汗で湿っている。いろいろなものでどろどろになった身体を抱き締め合いながら啄むようなキスを繰り返した。
 キスの合間に御堂が掠れた声で呟いた。
「シャワーを、浴びないか?」
「俺はこのままあなたの汗の匂いを堪能していたいが」
 御堂の濡れたうなじを舐め上げるとほんのりと潮気を感じた。くすぐったいのか御堂が「やめないか!」と声を上げる。じゃれ合うように四肢を搦めながら、ふたりしてバスルームに向かう。
 互いを求める声も汗の匂いも触れる肌の感触も唾液の味も、すべてに快楽を呼び起こされて、たまらないほどの幸せを感じる。これほどなにもかもがぴったりと合い、なにもかもを愛おしく思える相手は他にいない。
 シャワーを浴びたらまた熱を求め合うだろう。互いに溺れているうちにいつのまにか誕生日を迎え、新年を迎えているかもしれない。
 それはきっと克哉が望む最高のプレゼントになるだろう。

END

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