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Where You Called Me My Name

 生ぬるく湿った風が頬をかすめる。
 東京の片隅にある公園、街の喧騒から少し離れたその場所は、暗く濁った水の底のような闇に沈み、街灯の光も心許なかった。
 御堂孝典は、その公園をあてどなく歩いていた。いや、さまよっていたというほうが正しいのかもしれない。きっちりと結ばれていたネクタイは緩められ、ひと筋の乱れなく整えられていた黒髪もほつれたように乱れている。
 いつの間にこんなところに来たのだろう、とぼんやりと思う。こんなところで無為に時間を費やしてもどうにもならない、帰るべきだ。克哉と暮らしていたあの部屋に。そうわかっているのに足取りは重く、立ち止まることさえもできない。あの日からずっと御堂の時間が止まったままだった。思考も心も千々に乱れたまま元の形に戻ることはない。
「……おや、こんばんは」
 突然、滑らかな声が背後から響いて、御堂はぎくりと足を止めた。恐る恐る振り向けば、そこに立っていたのは、一人の男だった。
 まるで闇から切り出したような黒ずくめの装い。御堂が見上げるほどの長身に黒いボルサリーノ帽から零れる金色の長い髪が淡く光っている。丸眼鏡の奥の眸は金色で、まっすぐに御堂を見ている。
「誰だ……?」
 人気のない夜の公園にいかにも怪しい風体の男、怪しむなというほうが無理だ。御堂は、低く、警戒に満ちた声を出した。男はそんな御堂の反応に驚いたように、少し大げさな仕草で胸に手を当て、艶然と微笑んだ。
「これは失礼いたしました。あなたがあまりにも追い詰められた顔をしていらっしゃったので。……夜風に凍えたのでしょうか」
 男の物腰は優雅で、丁寧で、しかし妙に芝居がかっていて、すべてが胡散臭かった。御堂は警戒心を緩めぬまま一歩後ずさった。
「私に構わないでくれ。私は……あなたに心配される筋合いはない」
「ああ、それはお気の毒に。ですが――」
 男は御堂の拒絶にも完璧な笑みを崩さぬまま、眼鏡のブリッジを指先で持ち上げた。丸眼鏡の奥の眸がで妖しく光る。
「――あなたは『死』を引き連れてらっしゃる」
「っ――」
 衝撃に御堂は呼吸を忘れた。
「いま……なにを……?」
 男は笑みを深めた。
「ご安心を。私にはただ視えるだけで、それ以上のことはなにもできません。……もっとも、あなたのような方が、死を引き連れているのはさして珍しいことではございません。むしろ、あなたは死に魅惑されているからこそ、この場にいるのではないでしょうか」
 男はすべてを見透かす眼差しで御堂を見据えた。肌の表面が一気に逆撫でされて鳥肌に変わる。この男はすべてを知っているのだろうか。男は御堂の反応を見て、満足げに言葉を続ける。
「どうです、なにがあったのか、私に話してみませんか? お力になれるかもしれません」
 その声は静かでありながら、御堂の心にするりと入り込んでくる。夜の闇がいっそう濃くなった気がした。
 御堂はふらつきながら近くにあったベンチに歩みを寄せると腰をかけた。前屈みに両肘を膝にのせ、目を閉じる。
 あのときのことを思い出すと呼吸が浅くなる。生々しい記憶が嵐のように御堂に襲いかかってくるのを、御堂はどうにか堪えながら声を絞り出した。
「……あの夜、私たちはホテルのレストランに向かっていたんだ。首都高を、佐伯の車に乗って……」
 声が震え出しそうになるのを御堂は必死に言葉を続けた。


 その日はコンサルティングの方針で克哉と意見が激しく対立した。お互いに譲らず、最終的に克哉が社長権限で強引に話を進めた。おかげで御堂は虫の居所が悪かった。だが、克哉はそれを気にしているふうもなかった。
 予約していたフレンチのディナーに克哉の車で向かいながらも、御堂はくすぶり続けていた。もっとしっかりと対話をしたいのに、克哉は御堂と面と向かって議論することを避けている。いつもそうだった。互いに譲れない衝突があっても、謝るでも話し合うでもない、共に暮らす日常の中で一日中顔を合わせている相手に怒り続けるのは難しい。いつの間にか怒りも不満も、なんとなくなかったことにされてしまう。克哉はそれをよくわかっていた。なによりもそのことに、御堂は不満を抱えていて、それを切り出せずにいた。
 渋滞を抜けて首都高はスムーズに流れ出した。克哉は運転席で滑らかにハンドルを回しながら、いつもの癖で煙草を吸おうとした。
 そこまで話して、御堂は胸を刺すような痛みに顔を歪める。
「……佐伯が運転中に煙草を吸おうとした。ただ、それだけだった。私はそれが癪に障って、止めるように言った。彼は私の言葉にチラリと笑って煙草を咥えた――それで私はムキになって余計に怒ってしまって……」
 夜の公園には、時折湿った風が吹き、木々をざわめかせる。
 男は変わらず御堂の前に立ち、黙ったまま耳を傾けていた。
「そのとき、目の前で事故が起きた。複数の車が絡んでいた……確か、トラックが一台、横転しかけて……それを避けようとした車が、こちらの車線に飛び込んできて……」
 御堂は一瞬、喉を詰まらせた。記憶の映像が鮮烈に脳裏に再生される。衝突音。浮き上がる身体。鳴り止まぬ警告音。
「……克哉は、とっさにハンドルを切った。反射的に。……だが……」
 言葉の先が続かない。
「大きく進行方向を逸れて、分離帯にぶつかった。激しい衝撃と同時に、助手席の私は……気を失った」
 切れ切れに言葉を絞り出す。
「……目が覚めたら、病院だった。脳震盪を起こしていたらしい。それでも命には別状なかった。……ただ、克哉は……」
 御堂はゆっくりと首を振った。
「助からなかった。私が目を覚ますより前に……もう、あいつは……」
 語尾がかすれ、風に紛れる。
「それからだ。……あいつが視えるようになったのは」
 御堂を見つめる金の眸が細められる。だが依然として、男は言葉を挟むことはなかった。
「最初は幻覚だと思った。夢か、記憶か……そう思いたかった。だが、違った。夜、ベッドに入ると、あいつの声が聞こえてくる。最近は姿まで視えるようになって……」
 御堂は悪寒に襲われたかのように身体を震わせた。
 目が覚めてからずっと克哉のことを思わぬときはなかった。後悔と悲嘆に暮れながらもそれを表に出さないように気を張っていた。そんな折、ふいに克哉の声が聞こえたのだ。最初はかすかな響きだった。御堂の名を呼んでいた。だが御堂はそれを、克哉を想いすぎる故の幻聴だと思っていた。
 ある晩、御堂は寝室の灯りを消してベッドに入った。克哉とふたりで寝ていたベッドは御堂一人には広すぎて、克哉の不在を改めて突きつけられた。御堂はなかなか寝付けず何度も寝返りを打っていた。そのとき、ふいに『御堂』と声が聞こえた。夢と現の狭間でぼんやりと目を開けた。すると、部屋の隅に克哉が立っていた。闇に輪郭を淡く溶かして。克哉は生前の姿のままで、ハッと目を瞠る御堂にレンズ越しの視線を重ねて言った。
『……御堂、俺のところに……来い』
「佐伯……」
 紛れもなく克哉の声だった。背筋に氷を差し込まれたかのような悪寒を感じた。克哉の眸が冷たく輝く。
『俺と一緒に……逝こう』
 部屋の温度が一気に氷点下に下がったかのようだ。歯の根が合わずガタガタと身体が震える。克哉が自分を迎えに来たのだ、と悟った。声を出そうにも恐怖に喉が狭まったまま荒い呼吸を繰り返すばかりだ。鳥肌が立ったまま全身を震わせ続ける。両手はじっとりと汗をかいていた。心臓が早鐘を打ち出し、意識がもうろうとしてくる。そしてそのまま気を失ったらしい。目が覚めたときには朝を迎えていた。
 しかし、それからもふとしたときに克哉は現れた。AA社の執務室、ふたりの部屋、現れた克哉は、御堂の名前を呼び、克哉の世界に連れて行こうとする。
「あいつは私の傍にいる。今も、ずっと。……あの部屋の中には、佐伯の声も、匂いも、熱も、残っている。……だから私は、帰れない。あそこに戻れば、きっと……私は、あいつに……」
 それ以上言葉が続かなかった。ざわ、と背後で音がして御堂は反射的に振り返った。しかし、そこには何もなく、風が落ちた葉を巻き上げただけだった。
 顔を前に戻せば、男と視線が合った。話を最後まで聞いた男は、ゆっくりと眼鏡を押し上げ、柔らかな口調で問いかけた。
「……それで、あなたはどうしたいのですか?」
 その声はあまりにも静かで、御堂の胸の深いところまで届いた。
 御堂は、苦しげに眉を寄せた。握りしめた指が、わずかに震えている。
「……本当は、佐伯のところへ……行ってしまいたい。……あんな別れ方をして……」
 行き場を失った声が夜気に攫われていく。
「あいつは、私にとって唯一の存在だった。なのに、最後に交わした言葉は、些細な口論で……『煙草をやめろ』と、それだけだった。……八つ当たりをしていた自覚はあった。私があんなことを言わなければ、あいつは事故を上手く避けられたはずだ。……それなのに……あんな、ことに……」
 嗚咽に喉が震えた。涙が零れそうになり目に力を込める。
「後悔しているんだ。悔やんでも悔やみきれない……。佐伯の声が聞こえるたびに、その気持ちが抉られる。……だが……」
 そこまで言って、御堂は顔を上げた。空を見上げると月が滲んで見えた。
「……それでも、本当に、佐伯についていくべきなのか、わからない。どうしても、決心がつかない……。だからこうして逃げている」
 御堂は無理やり自嘲の笑みを浮かべた。克哉はなぜ御堂を連れて行こうとするのか。克哉が死ぬ原因を作った御堂に腹を立てているのか、それとも一人で逝くのは寂しいからなのか。御堂が克哉と共に逝けば、克哉の愛に応えることができるのか。
 長い沈黙が流れた。
 男は痛ましいものを見るような眼差しを御堂に向けた。その眸には憐れみにも似た光を宿している。
「……お気の毒な話です。ですが……あなたも、本当はわかっておられるのでしょう?」
 男の声は歌うように伸びやかで、決して高圧的なものではなかった。
「あなたと彼の世界は、すでに分かたれてしまったことに」
 その言葉は、ひどく静かで、決然としていた。言葉を失う御堂に男は語り続ける。
「あなたは、あの方についていくべきではないと理解している。それなのに、あなたの中の未練があの方を引き寄せている」
 男は、ゆっくりと一歩近づく。冷たい夜気をまとうその影が、御堂の足元にかかる。
「未練……私の未練があいつをここに留まらせているのか」
 ええ、と男は頷く。
「未練を断ち切り、きっぱりと拒絶すべきでしょう。もう、戻ることなどできないのです」
 男の言葉に御堂は目を伏せたまま、唇を噛んだ。
 そうなのだ、結局のところ自分の問題なのだ。すべては御堂の心の弱さが克哉の幻影を造り出しているのかもしれない。
 それでも、それを認めるのは、あまりに苦しかった。
「……そうするべき……なのだろうな」
 御堂は視線を落とし、かすかな声でつぶやいた。御堂の頬を湿り気を帯びた風が撫でていく。
 息が詰まるような沈黙が降り立ち、ややあって、御堂はそろそろと顔を上げた。
 男は、もういなかった。
 街灯の下に延びていたはずの黒い影も、金色の眸も、闇に溶けるように消えていた。
 そこにはただ、揺れる木々の影と、夜の気配だけが残され、まるで最初からなにも存在していなかったかのようだった。
 腕時計に視線を落とせば、もう夜も更けた時間だった。
 御堂はのろのろとベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。重い足取りのまま、地面を踏みしめる。
 いまのは夢だったのだろうか。
 そう思うくらい、現実感を伴わない邂逅だった。それでも、男と交わした会話はしっかりと記憶に残っている。
 夜の公園は、異様に静かでなにかが潜んでいそうな気配がある。いまさらながらにこんな場所にいる自分を後悔した。
 部屋に帰ろう、そう思った。
 克哉がきっとまた現れるだろう。それでも、御堂は克哉にちゃんと別れを告げるべきなのだ。自分は克哉と共に逝くことができないことを告げ、謝ろう。
 自分の決意が鈍らないうちに、と御堂は足早に公園の出口へと向かい、人の気配がある方向へと足を向けた。その直後、大柄な男とぶつかりそうになった。咄嗟に避けて、相手に顔を向け、驚く。
「本多君か……?」
 見覚えのある顔が御堂を見て、目を丸くした。
「えっ、御堂さん……?」
 高身長の筋肉質な体格。バレーで鍛えた身体つきが、スーツ越しにもわかる。本多憲二、克哉の古くからの友人だ。
 しかし、今夜の本多はいつもと様子が違った。顔は赤らみ、呂律もいささか怪しい。
「酔っているのか?」
「えっと……、接待でいっぱい飲まされて……。酔い冷ましにちょっと歩こうかと」
 言い訳めいた口調で本多は言い、目をしばたかせた。
「だけど、御堂さんこそ……なんでこんなところに?」
「それは……」
 その問いに、御堂は言葉を失った。本多は少し眠そうな顔をしながらも御堂の言葉をじっと待っていた。いろいろなことがあったせいで、自制心の箍がゆるんでいたのだろ。ふと胸の中に抑え込んでいたものが零れた。
「……佐伯から逃げていたんだ」
「克哉から……? それは、事故で……その……」
 本多は驚いたように目を瞠って、言いにくそうに付け足した。本多も当然克哉と御堂の事故のことは聞き及んでいるのだろう。
「ああ。あれから、克哉の亡霊が現れるのだ」
 御堂は本多の言葉を継ぐように口を開いた。先ほど公園で男に話したせいか、自分でも何があったのか、自然と言葉が紡がれていく。
 本多は、黙って御堂の話を聞いていた。そして、話し終わったところで、おもむろに口を開いた。
「それで御堂さん、本当は……克哉のところに行きたいんでしょう?」
 その言葉に、御堂は息を呑み、驚きと怒りを混ぜたような声で言い返した。
「当然だ。……できることなら、あいつと一緒に逝きたいに決まっているだろう……!」
 だが、それができないから苦しいのだ。
 本多は酒で赤らんだ頬とは裏腹に、妙に鋭い眼差しで真っ直ぐに御堂を見据えて言った。
「じゃあ、いけばいいじゃないですか。克哉のところに」
「……何を言っている。……君は本気で言っているのか?」
 本多は冗談でもなく真剣な口調で言っていて、御堂の背筋に冷たいものが走る。
「もちろん本気ですよ。あなたは……こんな場所にいるべきじゃない。一刻も早く、克哉のところにいくべきだ。だって――克哉はあなたを迎えに来てくれてるんでしょう?」
 言い切る口調は、酔っているとは思えないほどはっきりとしていた。
 ああ、そうか。と理解した。
 本多は克哉の唯一と言ってよい友人だ。だからきっと、あの事故の原因を作り、そして一人だけ生き残った御堂を許していないのだ。
 はは……と乾いた笑いが漏れた。
「君はそうなのだろうな。私が憎いのだろう。佐伯ではなくて、私が死ねば良かったと思っているのだろう?」
 御堂だってどれほどそれを望んだことか。本当なら死ぬべきは自分だった。自分より若く、才能溢れる克哉は決して死ぬべきではなかった。立場を交換できるならどれほど良かっただろう。
 本多はゆっくりと首を振った。
「御堂さん……逆なんだ」
「……逆?」
 本多の顔を見返した。本多はどこまでも真摯な声と眼差しで御堂に語りかける。
「あなたは勘違いしてる。克哉から……俺にも連絡が来たんです」
「佐伯から? 佐伯は君のところにも現れたのか?」
「そうじゃない」
 本多は太く短い息を吐いて言った。
「あなたはいま……病院の集中治療室にいるんですよ。死んだのは……いや、死にかけているのは克哉じゃない、あなただ」
「な……」
 ピシリ、と世界に亀裂が走る音がした。
「克哉は、あなたをこの世界に――連れ戻したいんだ」
 本多は、何を――何を言っている?
 言葉が喉で閊えたように出なかった。周囲の音がみるみるうちに遠ざかっていく。
「……それなら、ここにいる私は……なんだ……?」
「たぶん、魂ってやつか……?」
 本多は考え込むようにほんの少し首を傾げた。
 本多は一歩、御堂に近づき、言い含めるように優しい声音で言った。
「早く戻るんだ、御堂さん。克哉のところに」
 それならば、先ほどの黒ずくめの男の言葉はなんだったのだ。克哉との未練を断ち切り、克哉を拒絶するように御堂を唆したあの男は。
 男の顔を思い出す。顔は微笑みを保ちながらも、あの金の眸は爬虫類のように無機質で御堂を冷たく見据えていた。
 御堂の視界が、ぐらりと揺れた。足元が沈み込み、世界の輪郭が歪んでいく。
 自分は、どこにいるのか。
 誰の言葉が正しいのか。
 呼吸が浅くなる。
 闇が、御堂の周囲に立ちこめる。本多が「御堂さん!」と呼ぶ声がどんどん遠ざかっていく。
 世界が暗転する。
 あたり一面が、闇に包まれていた。
 視界も、音も、重力すら消えたような静寂。
 御堂はそこに立っていた。いや立っていたのかも怪しかった。
 足元もなく、頭上もない。ただ、ひどく深く、ひどく静かな闇だけが満ちていた。
 そのときだった。
「……御堂」
 声がした。耳に馴染んだ深い響きで。
「……俺のところに、来い」
 その声は、決して大きくなかったが、だが、魂にそっと触れるような、あまりに切実な響きだった。
 声の方向に目を凝らした。
 まるで闇から浮かび上がるように淡い燐光をまとった克哉の姿が現れる。
 整った顔立ちを怜悧に引き締める眼鏡をかけて、切れ長の目は揺らぐことなくひたりと御堂を見据えている。
「御堂……一緒に来るんだ」
 克哉が、御堂に手を差し伸べた。
 長い指を持つ大きな手。御堂を愛することに長けた手だ。
 このまま克哉の手を取っていいのか、御堂はためらった。
 なにを信じるべきなのか、わからなかった。
 逡巡が御堂を惑わす。
 どれほど恋い焦がれたとしても、いつか恋は終わる。克哉を心から求める衝動も永遠を約束してはくれない。熱に浮かされる感情をあとから冷静に振り返れば、ばかばかしいと一笑に付すことなのかもしれない。それでも、すべてが不確かなこの世界で、なにを信じるべきか考えたら答えはひとつしかなかった。そのために世界のすべてを捨てることになっても、きっと後悔はしない。
「佐伯」
 御堂は、克哉の声に応え、そっと手を伸ばした。
 ゆっくりと、克哉の手を、握りしめた。
 その瞬間だった。ぐっと克哉に強く握り返された。
 世界が閃光に包まれる。
 眩い光がすべてを塗りつぶし、御堂はぐいとなにかに引き上げられるような感覚を覚えた。
 ぬるくて重い水を割って水面に浮上する感覚に御堂は喘いだ。
 ゆっくりとまぶたを押し上げる。
 見覚えのない白い天井。明るい照明。消毒薬の匂い。耳元で、規則正しい機械音がうるさく鳴っていた。
 視線を動かせば、自分の腕や胸には、管やコードが複数繋がれていた。病院だ。
「御堂」
 その声に、再び視線を動かす。
 そこには、克哉がいた。
 克哉が、ベッドの脇に立ち御堂を覗き込んでいた。
 やつれた顔に酷い隈のある目を見開き、信じられないというような顔をして瞬きもせずに御堂を見つめている。
「……良かった」
「佐伯……」
 酸素マスクが着けられていて、どうにか出した声はくぐもって自分でも聞こえづらかった。手を動かそうとして気が付いた。克哉にしっかりと握りしめられている。
 ふだん表情を見せない克哉が苦しそうに顔を歪ませて言う。
「……よく戻ってきてくれた。……あなたは、ずっと……意識不明だったんだ」
 御堂は、克哉の言葉を噛みしめるようにゆっくりとまばたきを繰り返した。
 先ほどまでの光景は、現実だったのか、幻だったのか、判然としない。
 けれどたしかに、いま御堂はこの世界に生きている。戻ってきたのだ、この世界に。
 御堂はかすかに唇を動かした。
「……君はずっとここにいて、私を呼んでくれていたのだな」
 克哉がハッと息を呑む気配がした。克哉の答えは聞かずともわかっていた。

END


© 2015 Missing Ring

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