top of page
To This Day

 東京の奥座敷と言われる温泉街の更に郊外の山の中、全室が離れの客室となっているその温泉宿は、滞在期間中、他の客と出会うこともなく過ごせるということもあって、有名人の利用も多いらしい。
 12月30日、克哉の運転する車がその宿に着いたときには、既に日が落ちかけていた。
 年末ということもあり、想像していた以上に渋滞がひどかったことが原因だ。初めての恋人とのドライブという事もあって、高速のサービスエリア等しっかり確認したのだが、どこも混雑しており休憩どころではなかった。互いに口数が多いほうではないこともあり、最後の方はお互い無言のままのドライブとなった。
 計画通りに事が進まなかったことで、苛立ちが抑えようにも言動に滲み出る克哉と違って、助手席に座っていた御堂はその落ち着いた雰囲気を乱すことはない。
「いいところだな」
 澄んで張りつめた空気と静寂。近くを渓流が流れているせいか、滔々と水の流れる音だけが響く。主張することなく周囲の風景に溶け込んだその旅館の佇まいを見て、御堂が呟いた。その一言に、克哉のささくれ立っていた気持ちが一瞬で凪ぐ。
 どうやら克哉の選択は間違っていなかったようだ。あまり人目につくようなデートは好きではないらしい、というのは御堂を観察して分かったことだ。周りから克哉と御堂は恋人関係にある、と思われること自体が嫌なようである。克哉としては、それが事実と異なるならまだしも、実際恋人関係にあるのだから問題ないと思うのだが、年上の恋人の心の裡は複雑でどうも読み解くのが難しい。ただ、御堂から言わせれば、克哉の思考回路の方が理解不能であり、しかもそれを自ら説明しようとしないから余計に厄介なのだそうだが。
 旅館の女将に迎えられて、館内を案内される。客同士が顔を合わすことのないように、エントランスから各離れの客室に伸びる入り組んだ廊下、館内はひどく静かでスタッフ以外とすれ違うこともない。
 案内された部屋は純和風の造りだが、目隠しの竹穂垣で囲まれつつも山並みを一望できる部屋専用の庭園と岩で組まれた半露天の風呂を見て、御堂が小さく感嘆の息をつく。それだけでここまで来た甲斐があったというもの。
 克哉の表情も自然と綻ぶ。
「全て手配させてしまって悪かったな」
「いいえ。俺が誘ったことですから」
「だが…」
「御堂さん、さっさと食事にして風呂に入りましょう」
 なおも言い募ろうとする御堂の言葉を遮った。御堂が克哉の視線を辿って部屋付の露天風呂を目にし、わずかに頬を赤らめ視線を逸らした。
 御堂は自分のために克哉が今回の旅行をセッティングしたと思っているが、事実は違う。自分自身のためだ。それを知らずに克哉に感謝と申し訳なさを見せる御堂に、少し心が痛んだ。
 克哉と御堂が恋人関係になってからまだ日も浅い。互いの忙しさもあり、会うどころか連絡さえも疎かになっていた。そんな最中、克哉からこの旅行を誘ったのだ。
『年末、空いているか?』
『年末とはいつのことだ?』
『31日』
『大晦日か…』
 思案している声色を聞いて付け足した。
『それなら30日から一泊で温泉にでも行かないか?』
『……ああ。分かった』
 微かに息を呑む気配がしたが、どうにか了承の返事をもらえた。
 12月31日が克哉の誕生日であることを告げれば、もっと話は早かったのかもしれない。
 だが、今まで自身の誕生日に特別な感情を抱いたことはなかったこともあり、それを御堂に告げて気を遣わせるのは憚られた。ただ、御堂と恋人関係になって、その日を共に過ごしてみたい、と、ふとした感情が湧いたのだ。
 そんな甘ったるく面映ゆい感傷が自分の中にもあったことに一人苦笑した。

 山菜や川魚をメインにおいた夕食を味わい、部屋付きの露天風呂に浸かる。
 眼鏡を外して、立ち上る白い湯気を辿って空を見上げれば、冴え冴えとした冬の夜空に一面の星が輝く。耳をすませば、かけ流しの源泉が勢いよく流れ込む水音とともに、渓流のせせらぎが遠くから響く。
 克哉は肩まで湯に潜りながら御堂に目を向けた。御堂は克哉から距離を取るように、湯を挟んだ対角線上の岩に背を預けて湯につかっている。庭の石灯籠に照らされたきめ細やかな肌は、湯の熱で赤く色づいているのが見て取れる。
「御堂さん、そっちに行ってもいいですか」
 返事を聞く前に、克哉は湯を曳きながら御堂の傍に向かった。そのまま御堂の眼の前に立つと、ぎくりと狼狽を滲ませた顔が克哉に向けられた。何かを言おうとその口が開かれたが、言葉が空気を震わせる前に克哉は唇を塞いだ。湯が大きく波を立てるのも構わず覆いかぶさり、その身体を逃げられないように岩肌に押し付ける。
「こんなところでっ」
 克哉の意図に気付き、顔を背け慌ててその腕から逃れようと身を捩る御堂を無視し、しっとりと濡れて上気した肌に指を滑らせる。たどり着いた胸の突起の輪郭を撫で、爪弾くように弄ると、その刺激に身体が震えた。
「やめないか…!」
 御堂が克哉の腕を掴もうとする。その手を弾いて掴みあいになり、派手に水しぶきがあがった。顔に湯が撥ね、たまりかねた御堂が抗議の声を上げた。
「佐伯っ!子どもじゃないんだから、ここで遊ぶな!部屋に戻ってから…」
「なぜ?」
「なぜって、ここは外だ」
「こんなに広い露天を二人で好きに使えるなんて最高じゃないか。それに、誰も見てない」
「私にそんな趣味はない」
「俺は今、ここで、したいんだ」
「もう少し我慢しろ」
 克哉を振り払って湯から立ち上がろうとする御堂の手を掴み、湯の中に引き摺り戻す。バランスを崩しかけた御堂が湯の中に尻もちをつきそうになったところを両腕で抱えた。
「佐伯っ!」
「御堂さん、俺のわがまま聞いてくれませんか?」
「だが…」
 顔を近づけ、甘い声音で強請る。克哉に向けられた御堂の双眸が揺れた。身体に込められていた力が僅かに弱くなる。
 あと、もう少しだ。
 もう少しで、快楽への欲求が理性を凌駕する。
 御堂の身体をそっと引き寄せつつ、覆い被さる。御堂の耳元に顔を寄せ、熱い吐息で耳を撫で、低い掠れ声で囁く。
「ねえ、御堂さん」
「……っ」
 そっと頬に手を添えれば、その身体がぴくりと震えた。顔を克哉の方に向かせて、唇を重ねる。薄く開かれた口の隙間から舌を挿し入れ、口内をくすぐる。御堂の舌に優しく触れて舐めあげれば、舌が少しずつ絡みだす。次第に、キスが深くなり唇の間で音が立った。
 御堂の身体の中心に差し伸べれば、既にそこは兆しかけていた。そこを包んで揉みこめば、御堂の顔が一層紅潮する。
「…駄目だ。湯を汚す」
「かけ流しだから朝にはきれいになってるさ」
 それでも尚反論しようとする御堂の腰を片手でぐいと掴んで浮かせると、体勢を崩した御堂が慌てて岩の底に手をついて身体を支えた。浮いて開いた脚の間、その奥に手を這わす。指先が窄まりに辿りつくと、御堂がくっと喉を鳴らした。
「佐伯っ」
 懇願するように上目遣いになる御堂の艶めかしさに目を奪われつつも、そのまま指を含ませる。ああ、という弱い悲鳴とともに、背が弓なりに反り、湯がたぷんと波紋を広げた。
「中まで熱いな」
 二本目、三本目と指を挿し入れ、その粘膜を押し広げる。指の間を伝って、その狭い内腔に湯が流れ込むのが感じ取られた。
「あ、ああっ……うっ」
 短く息が継がれ、その肩が喘ぐ。狭い内腔を湯で潤わせ、指でしっかり解すと、その指を引き抜いた。片足を掴んで更に開かせ、その間に腰を入れる。位置を合わせて、腰を突き上げた。
「んんっ、――くぅっ」
 身体の中から沸き立つ欲情に衝き上げられつつ、逃げようとする御堂の身体を押さえつけ、その身体の裡に欲望を埋めていく。中はいつもよりも熱く、強く締め付けてきた。
 根元まで納めると、御堂の不安定な身体を両腕で引き寄せ起こし、自分の腰の上に乗せた。そして、御堂の茎を握り、強弱をつけて捏ねる。
 御堂が苦しそうに柳眉をしならせ、長い睫毛がその顔に翳を落とした。湯から出た身体から湯気が立ち上り、濡れてしっとりとした肌が柔らかい照明の光を浴びて輝く。
「ほら、動かすぞ」
「ぅあ、……ああっ、はっ…ああっ!」
 腰を揺すれば、湯が波音を立てる。その音がかき消されるほどの嬌声が上がり始めた。
「いい声だな」
 低い声で呟くと、御堂がはっと我に返り、自分の口を手の甲で塞いで喘ぎを押し殺そうとする。
「隠すな。誰にも聞こえやしない」
 とはいえ、この静けさの中では意外と響くかもしれない。そう思いつつも、口を塞いでいる手を掴んで、引き剥がす。そのまま、指を絡めて手を重ねた。その手を軸に、ぐっと大きく律動を始めれば、堪え切れずに御堂の細い喉が反って、一段と大きな声が上がった。その下腹部は硬く屹立したペニスが筋を浮き立たせ、湯の中に蜜を散らしている。
「御堂」
 名前を呼んで、顔を向けさせる。視線が合うと同時に唇が近付いた。急かされるように、唇を重ね合わせ、舌を絡める。腰を揺する度に唇が外れ、忙しない息継ぎとともに、甘やかな喘ぎが漏れる。
「佐伯…っ、佐、伯」
「――御堂」
「あっ、…ああっ!」
 一段と艶やかな嬌声とともに、湯の中に白濁が舞った。同時に中を強く引き絞れられ、掠れた低い呻きを押し殺すようにして、克哉も御堂の中に熱く滾った欲望を打ちつけた。
 重ねた手を強く握りしめられる。それ以上の強さで握り返すと、ぐらり、と身体が揺れて克哉の胸に御堂がしなだれかかってきた。それを片手で抱き留める。
「佐伯…」
 きれいな背筋をなで、その顔を掬いあげ唇を重ねる。甘く蕩けるような口づけを交わした。しっとりと滑らかな肌を弄り、舌先同士を絡めて舐めあう。その交じり合いが段々と深くなるにつれ、御堂の身体の中に埋め込んだままの茎が芯を持ち始める。
「んんっ……」
 その圧迫感に気付いたのか、御堂が腰を揺らめかした。そのまま腰を突き上げようとして克哉は思いとどまった。触れる御堂の身体も口内も熱く火照っている。そして、自分自身も。このままだと湯に当たる。
「続きは湯から上がってからにしましょうか」
 眦を朱に染め、淫蕩に濡れた眼差しを克哉に向けて、御堂は微かに頷いた。
 繋がりを解いて湯から上がり、乱暴に身体を拭いて部屋に戻ると、再び肌を重ねた。

「御堂さん」
 克哉は時計を確認して、御堂に囁いた。目の前の御堂は、昨夜の最後の体位のまま、寝具の上でうつ伏で意識を飛ばしていた。掴んで皺になったシーツと枕を掻き抱くように眠る御堂を、克哉は上体を起こして見下ろした。
 時計の針は12時を指していた。汗で額に張り付いた御堂の前髪を指で払いながら、再び声をかけた。
「御堂さん」
「ん……」
 長い睫毛が震え、緩々とその瞼が開かれる。声の方向に視線をぼんやりと向けるが、気を抜いた瞬間に再び眠りに陥ってしまいそうな不安定さだ。克哉は上体を屈め、その耳元に口を近づけた。
「孝典さん、愛してますよ」
 御堂の眸が僅かに大きく開かれ、克哉の方に向けられた。揺れる眸とともに唇がしどけなく開かれ、掠れた言葉を乗せて息が吐き出される。
「克哉…。私も、君を、愛している」
 甘く、不明瞭な声。克哉はその言葉に満足し唇に微笑を刷くと、無防備な身体の後孔に長い指を挿し入れた。指を曲げれば、何回も注ぎ込まれた克哉の精液が濡れ音を立てる。途端に、意識を沈ませようとしていた御堂の身体が小さく跳ねた。
「あっ…っ」
 克哉の指から逃れようとする腰を掴み、更に2本目、3本目、と指を奥まで貫くと、呼応して粘膜が蠢く。御堂の呼吸が乱れ、短く継がれる。
「佐、伯っ。…もう、無理だ…」
「ずっと俺のものでいてください」
 抵抗する気力さえも残っていない御堂の腰を抱え込んで、自身を裡深くに埋めた。ゆっくりと抽挿を開始する。
「ぁ……動く、な…っ」
 シーツに押し付けられた顔から小さく色めいた声が上がり、その指先や足先が、抽挿の度にぴくぴくと跳ね、身体が震える。そのこめかみや項にキスを落としながら、ひたりと肌を沿わせ、奥に、深く、その身体に自分自身を刻み付け馴染ませる。すぐに、甘く上擦った声が上がり、腰が淫らにゆらめき始めた。その睦みあいは夜が白むまで断続的に続いた。
 

 山肌を朝日が染め上げていく。針葉樹と広葉樹が覆うその山は、まだらに緑が残る。
 部屋の窓に面した広縁で、克哉は藤椅子に腰を掛けながら煙草を片手にその景色を眺めた。
 どれ位そうしていただろう、佐伯、と名前を呼ばれて振り向くと、御堂が背後に立っていた。こざっぱりとしたその姿を見れば、肌が上気し髪の毛が濡れている。その気配に全く気付かなかった自分自身に呆れつつ、目の前の対の籐椅子を勧める。
「風呂、入ったんですか。俺も誘ってくれればよかったのに」
「シャワーを浴びただけだ」
 御堂は用意されていた新しい浴衣に着替え、きっちりと襟元を締め着こなしている。昨夜の皺になった浴衣をルーズに羽織り、かろうじて帯で繋ぎ止めている克哉とは対照的だ。
 御堂は昨夜の疲労が目元に滲んでいるが、それを気取られないように振る舞い、背筋をぴんと伸ばして椅子に腰かける。その姿は、いかにも御堂らしい。どんな状況でも、御堂は御堂であろうとする。その彼らしさに克哉は笑みを浮かべた。
「身体、大丈夫ですか?」
「今頃気遣うなら、最初から手加減しろ」
 克哉から微妙に視線をずらして、憮然と応える。克哉は声を立てて笑いながら、手にしていたタバコを灰皿に押しつけ火を消した。その手の動きを御堂の視線が追った。
「佐伯、年末年始は休めそうなのか?」
「ええ。さすがに正月休みはどこも動いていないので、俺だけ頑張ってもしょうがないですしね」
 克哉は12月末付でMGNを退職している。ここでの話は新会社設立の準備についてだ。
「準備はどうなっている?手伝うが」
「そうだな……」
 克哉は少し思案した。せっかく旅行に来ているのに仕事の話をするのもどうかと思ったが、御堂の意見を聞こうと思ったまま後回しにしていた事柄を思い出した。
「それなら、社名を考えてくれ。俺たちの新会社に相応しい社名を」
「社名?案はあるのか?」
「白紙状態だ。そこまで考えている余裕がなかった」
 御堂は考え込むように首を傾げた。額にかかった半乾きの前髪を軽く払う。その指の動き一つにも流れるような優雅さと艶を含み、自然と視線が惹きつけられる。ぼそり、と御堂が呟いた。
「社名か。難しいな。カタカナ名、英語名は避けた方がよいかもな」
「何故?」
「顧客が抱くイメージだ。日本人は外資でなくても外資と思われるような社名に抵抗を持つ。和名の方が敷居が低い」
「MGNはどうなんだ?そのままの名で日本で商売をしている」
「MGNは製薬企業だからな。医薬品は一般向けの商品とは違って、グローバルな知名度は影響力が大きい。対して、MGNが展開する一般向けの飲料水や食品は、国内企業の製品より良い物を作っても、選ばれにくい。国内で開発し国内で生産していてもだ。外資系の企業が日本に上陸しても、日本人の外資に対する抵抗感を乗り越えられずに軒並み苦戦する。海外では有名でも、日本ではそうはいかない」
 御堂の言葉は正しい。それは克哉も嫌と言うほど分かっている。企業名を大々的に表に出せばそれだけで売れる、という訳ではなかった。だからこそ、販売戦略が重要であり、キクチやMGNで戦略のたて方やその実践を鍛えられたともいえる。
 だが、克哉は御堂の言葉を一笑に付した。
「いいんだ。俺たちが満足できる名前であれば。俺たちに失うものなどない。後は、獲得していくだけだ」
 克哉の表情からその自信を読み取ったのか、御堂は呆れ交じりのため息をついた。
「分かった。考えておく。それで、他に手伝えることはないのか?別に事務作業でも構わない」
 真顔でそんなことを言ってくる。
「俺一人で問題ない。あんたは今の会社の引き継ぎに専念してくれればいい」
 はっきりと言いきった克哉の言葉に、御堂の顔からあからさまな不満が覗いた。蚊帳の外に置かれている面持ちなのだろう。
 とは言え、以前から引き継ぎを着々と準備してきた克哉とは違い、御堂は克哉に引き込まれて一カ月で退職する羽目になったのだ。責任感の強い御堂のことだ。たとえ、新会社の設立を手伝わせても、必要十分な引き継ぎはしっかりこなすだろう。
 それでも、御堂を巻き込んだ克哉の矜持もある。一人で会社を興す予定だったのだ。御堂に手伝うと言われても素直に甘えるわけにはいかない。
 そんな克哉の気持ちを知ってか知らずか、御堂が不機嫌さを滲ませながら皮肉な笑みを浮かべて切り返してくる。
「そうだろうな。君は、独りで何でも出来るからな。“One can acquire everything in solitude – except character.”」
「なんだ……?」
「作家スタンダールの言葉だ。“人は、あらゆるものを独りきりで獲得することが出来る――ただし、性格は別だ”。君にぴったりだ」
“性格は別だ”の部分を強くはっきりと発音される。御堂らしい物言いに可笑しさがこみ上げるが、それを押し殺して御堂の双眸をひたと見返した。
「それなら、これからは“We can acquire everything if we’re together.”か」
 多分に嫌味を含ませた言葉にそう返されるとは予想しなかったのだろう。御堂は眼を大きく瞬かせると、少し頬を紅潮させ、克哉から顔を背けた。
『お前となら、世界だって手に入れられるさ』
 再会し、共に朝日を浴びながら告げた言葉。その時の期待と高揚感、そして腕の中に引き寄せた恋人の感触が蘇る。
 御堂も同じ情景に思いを馳せたのだろう。その切れ長の双眸は、しばし遠いところを見詰めるようにその焦点が霞んだ。
 その艶を含ませた物憂げな横顔に見惚れていると、克哉の視線に気付いたのか、すぐに取り繕った澄ました顔に戻る。ぞんざいに言った。
「…“Acquire”か。君に相応しい単語だな。社名は“Acquire Association”というのはどうだ?」
「それはいいな」
 冗談めかして照れ隠しに提案された社名だったが、克哉は御堂の凛として芯のある声に乗せられたその響きをすぐに気に入った。その言葉が持つ意味もいい。二人の未来を予感させる。
――あんたからの初めてのバースデープレゼントか。
 自然と笑みがこぼれる。その笑みを不思議そうな眼差しで見つめる御堂が口を開く前に、籐椅子から立ちあがると、御堂の手を取って立たせた。ふわりとその身体を抱き寄せると、顔を覗き込んだ。
「お前と過ごせてよかった」
――そして、今日を共に迎えられて。
 克哉の顔を映すその瞳が濡れて、柔らかく緩む。その手が静かに克哉のうなじに回された。湿り気を帯びた吐息と共に言葉が紡がれる。
「私も、だ」
 体温を測るかのように唇を触れ合わす軽いキスを交わす。そっと重ねては位置をずらし、深入りはせずにその柔らかい感触を愉しむ。
 誕生日でも、ありふれた一日でも、この人と過ごす一日は特別な重みを持つのだろう。
 共に過ごせる時間はあとどれくらいだろうか。
 名残惜しさを感じつつ口づけを解くと、御堂がためらいがちに口を開いた。
「今夜は空いているか?ホテルのディナーと部屋をとってある。君の都合が良ければ…」
 告げられた言葉に、克哉が驚く番だった。克哉の表情を伺う御堂の表情に微かに緊張がはしる。抱き寄せる腕に力を込めて耳元に唇を寄せた。
「あんたは最高だな」
 その言葉に御堂は相好を崩した。克哉のうなじに置かれていた指が克哉の髪の中に埋まる。引き寄せられるように唇を重ね、その舌を絡めとる。溺れるように深くキスを交わし、その瞬間の特別な甘さを分かち合った。

bottom of page