
Other Voices, Other Rooms
そこは、昼も夜もなく、全ての感覚が曖昧だった。
触覚も、視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、感覚器官に備わった受容体は神経線維を通して刺激を伝えてきたが、それらを認知する必要はなかった。
全てを捨てたときに得られる世界だった。
私はいつからここにいるのだろうか。なぜ、ここにいるのだろうか。
その疑問さえも、一瞬浮かんではすぐに消え去った。
胎内にいる時はこんな状態だったのだろうか。
苦しみもなければ喜びもない。無感覚で無感情の世界だった。
もしかしてここは死後の世界で、私は既に死んだのかもしれない。
それでも、良かった。この世界は私にとって安寧をもたらしてくれる。
「………ん、……る」
いつからだったろうか、時折、私の世界にさざ波がたった。
私の感覚器が何かを伝えてくるのが分かった。
しかし、放っておいて欲しかった。
私は全てを捨てたのだから。感覚を遮断する。
「み…………、……か」
まただ。
私の世界を邪魔するそれは、声であったり、触れられる感覚だった。
意識を閉じても、その感覚は私の世界に徐々に入り込んできた。
その感覚は柔らかく暖かかった。
時折混ざりこんでくるその感覚は自然に私の世界に溶け込んでいった。
「みどうさん」
ある時、突然、強い感覚が私の世界に差し込んだ。
それは外の世界と内なる私の世界にわずかに穴を開けた。
たちまち不安が私を襲った。
私は外に出ることなど望んでいない。
外の世界があることさえ知りたくなかった。
そこには何か、恐ろしいものがある予感があった。
急いで意識を閉ざす。ただ、一瞬空いた穴から、誰かが傍にいるのが分かった。
誰なのか、関心を持つことはなかった。私にとって存在しない世界なのだから。
それでも、次第に私の世界を包む膜は脆く薄くなっていった。
それは時に、私に対して呼びかけられる声であり、優しく触れる感触であり、仄かな光であり、懐かしい味であり、甘い香りであった。
それらは徐々に私に感覚の記憶を呼び起こしていった。
気付けば、その感覚は不快ではなくなっていた。
常に誰かの存在を傍に感じた。私の世界を揺さぶるのは誰だ。
「いま……た。……に………しょうか」
また聞こえる。誰だ?
「…イン、……しょう?………かって……です」
その声は優しかったが哀しげだった。
「すぐに………します」
私の傍にいるのは一体誰なのだろう。
ふと、興味を持った。
その時だった。突然、私の周りが明るくなった。周囲の感覚が輪郭を持って私の中に入り込んでくる。聞こえる衣擦れの音。肌を包む柔らかな空気。そして、目の前に浮かび上がってくる後姿。
ああ、そうか。君か。私はその人物を知っている気がした。
君が……
「………ずっと、そこにいたのか?」
目の前の人影が私を振り返る。顔にかけている眼鏡のレンズが光を反射する。
君は……。