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残果

 棺に入れられた佐伯の顔は穏やかで、それは見知らぬ誰かのようだった。

 深夜の公園で澤村に刺された佐伯は、冷たくなって発見された。

 本人確認のために、と警察に呼ばれて対面したときは、全身傷だらけだったにもかかわらず、口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいて、まるで死にゆく自分自身を嘲笑っているかのようだった。

 現実感のないまま弔いを済ませ、棺の中の佐伯に最後の別れを告げようとした時だった。腹の上で組まされた両手のところに三つの柘榴が置かれていた。

 それを、黒衣の男が(葬儀社のスタッフだっただろうか)柘榴を拾い上げて私に手渡した。

「これは佐伯さんの柘榴です。三つすべてを食べれば佐伯さんに会うことが出来ますよ」

 そう囁くその男の唇が血に濡れたように赤くて、手に持つ柘榴の果肉のように見えた。

 こうして、私の元には三つの柘榴が残された。

 固い果皮は割れて、中から瑞々しい赤さの果肉が覗いている。

 これをすべて食べれば佐伯に会えるという。

 

 

 私の日常がかりそめの落ち着きを取り戻したころ、一つ目の柘榴を齧った。口の中で甘酸っぱい果汁が弾けるとともに、春めいた暖かな陽気が私を包み、目の前にピンクの花吹雪が散った。

 これは、あの日だとすぐにわかった。肩の触れ合う距離に自分が並んで立っている。佐伯は私が隣にいることに、確かに幸せを感じていて、私を見詰める視線には愛しい気持ちが息づいていた。

 胸がじわりと熱くなる。この柘榴は、佐伯の記憶を封じているのだ。

 その時だった。

 桜が満開の公園で浮かれる周囲の中、唐突に佐伯の心の中はとりとめのない不安が靄のように立ち上っていた。

 なぜ、彼はこんな不安を覚えたのだろう。

 それを探ろうとした矢先に、目の前の情景が立ち消えた。

 

 

 佐伯に会おうと口にした果実は、私の懊悩を深めた。

 彼は何に対して、不安を感じていたのだろう。私との未来に対してだったのだろうか。

 それでも、ほんのひと時の佐伯との邂逅は私の心をじりじりと焦がした。

 佐伯が感じた不安の原因も理由も分からぬまま、柘榴が蘇らせた佐伯の記憶をなぞり続けた。

 私の記憶から佐伯の気配が色褪せてきた頃、ふたつめの柘榴を齧った。

 その柘榴の果汁は苦かった。反射的に吐きだそうとして、私の周りが暗くなったことに気が付いた。

 胸の内にドロドロとした興奮が立ち込めている。頭の芯を煮えさせるような悦楽。これは、そうだ、嗜虐の快楽だ。

 呻く声が身体の真下から響いてくる。視線を下に向けると、苦悶に歪む顔が必死に私に訴えかけてきていた。これは、私だ。私を無理やり犯している最中の記憶なのだ。

 組み伏せられた私は恋人である佐伯をどうにか呼び戻そうとしていた。だが、この佐伯の心の内に占める感情は私に対する愛しさなんてものは微塵もなく、私の悲鳴を聞きたい、蹂躙し尽くしたいという淀んだ衝動だけだった。

 首を絞められるような息苦しさが押し寄せ、情景が消え去るなり私は吐いた。そして、悔しさと悲しさにむせび泣いた。

 彼の中の私は一体どこに消えてしまったのだろうか。

 

 

 過去の佐伯と二度の邂逅を経た私は最後の柘榴を口にすることが出来なくなった。

 この柘榴には佐伯の最期の記憶が封じ込められていることは直感的に分かった。

 そして、この柘榴を食べれば、佐伯に会うことが出来るのだ。

 だが、それを思うと、この柘榴を食べることが出来なくなった。

 佐伯が自分にどんな眼差しを向けるのか、怖くなったのだ。

 この柘榴を口にする行為は黄泉戸喫(よもつへぐい)に他ならないだろう。

 一度食べてしまえば、私はこの世界に居続けることは出来ない。

 死者の国に居る佐伯の元へと赴くことになるのだ。

 会いたい気持ちと会いたくない気持ちが等しい強さで拮抗する。

 死ぬことは怖くなかった。

 だが、佐伯の自分に対する気持ちが消え去っていることを直視することが怖いのだ。

 あの桜が咲き乱れた公園の甘やかな記憶。佐伯の気持ちなど露知らない頃の思い出で記憶が途切れていれば、私はなりふり構わず、佐伯に会おうと柘榴を口にしていたことだろう。

 佐伯を知ろうとする行為は、佐伯を余計に理解出来なくした。

 そうして、結局のところ、私は最後の柘榴を食べることも、捨てることも出来ずに、持ち続けていた。

 柘榴は腐ることも枯れることもなく、ずっと瑞々しい輝きで私に誘惑を囁き続けた。

 そんな時だった。

 私の日常に入り込んでくる相手が出来た。

 鬱陶しいと遠ざけていたのに、少しずつ少しずつ距離を詰めてきた人物は、私がずっと肌身離さず持っている柘榴に気が付いて尋ねてきた。

 しばしの間逡巡し、意を決した私は、佐伯について、そしてこの柘榴をどうするか未だに結論できていない自分の不甲斐なさについて、正直に話をした。

 相手は黙って話を聞き、一言、言った。

「それでは、この柘榴はもう、あなたの一部なのですね」

 その言葉にハッと顔を上げると、まっすぐに自分を見つめる眸と視線が重なった。

 私は、その夜、その相手とベッドを共にした。

 次の朝起きてみると、差し込む朝陽に照らされた柘榴はすっかりとしなびてしまっていた。あれほど鮮やかだった果実の色合いは干乾びたセピア色の濃淡に置き換わってしまっていた。

 驚くほど軽くなってしまった柘榴を手に取り、私は佐伯克哉が過去の男になったことを知った。

 そうして、私は初めて佐伯の死を悼んだのだった。

 

 

END

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