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『御堂が意識不明の重体になったらしい』
十二月に入ったばかりの寒い日だった。MGN社に出社した克哉の耳に、不意打ちのように飛び込んできたニュースに、克哉は頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。そして、そこからさらに克哉を地獄に突き落としたのは、次のひと言だった。
『どうやら、自殺未遂らしいよ』
『やっぱり無断欠勤して退職に追い込まれたからかなあ』
MGN社のロビーや休憩室で次から次へと囁かれる噂話はほとんど聞こえていなかった。
なにかを考えるよりも前に吐き気が込み上げて、克哉はトイレに駆け込んだ。個室の中で膝を突き空っぽの胃からせり上がる胃液をすべて吐くと、口元を手の甲で拭う。口の中に苦さと酸っぱさ広がった。吐き気は治まらず、胃はキリキリと痛み、心臓は不穏に乱れ打っている。それでも、苦痛を感じるような余裕はなかった。頭の中は御堂のことで占められている。
そんな馬鹿な、と否定する気持ちと、やはり、と納得する気持ちが絡まり合って心を激しくかき乱した。
便座に手を突いてよろよろと立ち上がろうとしたが目眩がして、トイレの壁にもたれかかった。視界が暗くなる。その暗さは、御堂の部屋の闇と同じだった。
『忘れろ、なにもかも……』
御堂を最後に見たのはあの暗い部屋だった。もうあれから二週間近く経つ。
あの暗い部屋で御堂に告げた言葉。そのひと言で御堂を解放したはずだった。それなのに、御堂はどうして自らの命を絶つような選択をしたのか。
御堂は人間としての尊厳を貶められ、仕事を奪われ、自らが大切にしてきたなにもかもを克哉に否定されて蹂躙された。克哉に怯え、恐怖に身体を震わし、壊れたように許しを乞う御堂を克哉は無責任に放り出した。
こうなる可能性をまったく考えなかったと言えば嘘になる。それでも、克哉は御堂の強さを信じていた。最後まで克哉に屈しようとしなかった御堂の誇り高さと頑強さを。いや、信じたかっただけなのかもしれない。御堂のことだ。克哉のことを忘れて、何事もなかったかのように元の道に戻ってくるはずだと。
結局のところ克哉は自分がしでかした過ちの大きさと罪の重さを直視したくなかったのだ。だから、すべてをなかったことにしてその場を去った。
御堂が退職の手続きをし、仕事の引き継ぎを短期間できっちり行ったと聞いたとき、克哉は胸を撫で下ろした。御堂は以前の自分を取り戻したと思ったからだ。
実際、克哉のその直感は正しかったのだろう。冷静な判断力を取り戻した御堂は、自分の身に起きた惨事を的確に把握し、絶望に押し潰された。だから自殺を図ったのではないか。
所詮、噂話だ。真実はわからない。
そう自分に言い聞かせるも、指先が凍ったような嫌な寒さを覚えた。まるで悪夢の中に迷い込んでしまったような悪寒が全身を駆け巡る。そう、まるで悪夢のようだが、目を覚ますことができない分、悪夢よりたちが悪かった。
御堂が意識不明の重体になったというニュースは瞬く間にMGN社や子会社のキクチの社員の間に広まった。ニュースの情報源は、警察からの問い合わせだった。とはいえ、そのときには御堂はもうMGNの社員ではなくなっていたから、退職した旨を伝え、「MGN社とはすでに無関係の人間だからそれ以上の対応はできかねる」と情報提供を断ったという。
だから、御堂に関するその後の経過もなにが起きたのかも詳細はわからなかった。
御堂の話を聞いてからずっと克哉は仕事が手につかなかった。最悪の想像を繰り返し、全身の血が凍えたかのように寒気が肌を這い回る。
平静を装っていたつもりだが青褪めた顔は隠しようもなかったようで、打ち合わせでMGNにやってきた本多に「大丈夫か?」と心配される始末だ。一刻一刻、時間が経つほどに、いてもたってもいられなくなった。
御堂が運ばれたという病院名は警察からの電話を受けた総務部から言葉巧みに聞き出した。仕事が終わるなり、克哉は御堂が入院しているという総合病院に駆けつけた。克哉が行ったところで御堂が助かるわけでもないし、むしろ諸悪の根源である克哉がいれば状況はさらに悪化するかもしれない。そうとわかっていても、駆けつけずにはいられなかった。
とはいえ、克哉は御堂の家族でもなんでもない関係だ。時間外出入口で問い合わせるも面会を断られる。せめて状況だけでも教えてくれないかと粘ったがそれもすげなく断られた。
予想していた結果ではあったが、克哉はそのまま帰ることもできずに、エントランスから出たところで佇み、病院の建物を見上げた。頬を打つ凍えた風も気にならない。夜でも煌々と灯りが灯る窓のどこに御堂がいるのだろうか。いいや、もしかしたらもう御堂はいないのかもしれない。未練がましくその場にとどまり、ぼんやりと病院の灯りを眺めているとふいに声をかけられた。
「君、もしかして佐伯君……か?」
そう呼ばれて振り返る。白衣にネームプレートを付けた医師が克哉の顔をまじまじと見詰めてきた。
この男の顔に記憶があった。
「たしか……四柳さん…?」
「やっぱり。以前御堂が連れてきたよね。僕はここで働いているんだ」
四柳は以前、御堂に連れて行かれた飲み会の場で一度だけ会ったことがあった。ワインバーで開かれたその飲み会は、御堂の大学時代の友人たちの集まりでそのうちの一人が四柳だった。ワインに関する知識をひけらかしたり熱い議論が盛り上がる中で、四柳は大人しくワインと食事を愉しんでいて、どちらかというと印象は薄かったが、新参者だった克哉のことは覚えていてくれたらしい。
四柳は小首を傾げ克哉を見詰め、そして口を開いた。
「もしかして御堂に会いに来たの?」
その週の土曜日、克哉は四柳に連れられて、『御堂孝典』のネームプレートが掲げられた病室に入った。冬の透明な陽射しが差し込む部屋は、病室らしい殺風景さで、部屋の半分を占めるベッドに身体を起こしていた御堂は、四柳へと顔を向けた。
病衣を着た御堂の顔や身体の複数箇所にガーゼが貼られ、あちこちの打撲による痣はあるものの、四柳の言うとおり命に別状はないようだ。ただひとつの問題、記憶喪失を除いて。
御堂の視線は四柳、そして克哉へと移る。克哉は緊張に身を固くしたが、四柳はにっこりと笑って言った。
「御堂、佐伯君が見舞いに来たぞ」
「佐伯……?」
克哉を見る御堂の眼差しは見知らぬ他人に対する戸惑いに満ちたもので、本当に克哉のことをまったく覚えていないのだと実感する。御堂は事故で頭を打って、記憶の一部を失ってしまったのだという。
「佐伯君だよ。やっぱり覚えてないか……」
四柳が代わりに答えた。そして改めて克哉を紹介する。
「彼が佐伯君。お前と恋人関係にある相手だ」
「なんだって?」
なんの前置きもなく言い放たれた事実に御堂の目が見開かれた。まじまじと御堂に見詰められて居心地の悪さに身じろぎをするが、御堂の不審者を見るような目つきは変わらず、克哉を前に記憶が蘇るということもなかった。四柳に前に出るよう促されて改めて自己紹介をする。
「佐伯克哉です。……御堂さん、事情は聞いています。ひとまず無事で良かったです」
「あ、ああ……」
困惑一色の返事が返ってくる。それはそうだろう。御堂の記憶の中には佐伯克哉は存在していないのだから。ほんの少しでも克哉の記憶があるのなら、こんなふうにじろじろと克哉を見たりはしない。四柳がため息を吐きつつ言った。
「やっぱり思い出さないか。お前と同棲していたというのに」
「馬鹿な。私と同棲だと?」
さらに衝撃の事実を投下されて、御堂の声が跳ね上がった。驚愕に目が見開かれる。恋人がいるという事実よりも、同棲してしていたという事実のほうがショックが大きいようだ。御堂は克哉に顔を向けて尋ねる。
「四柳が言っていることは本当か?」
「ええ、そうです」
胡乱な顔をする御堂に、御堂の部屋の造りやインテリア、挙げ句は御堂の持っている服の種類や使っているシャボンのブランドまで説明した。御堂は残されている自分の記憶と照合してどうにか納得したようだが、それでも克哉と同棲していたという事実は受け容れがたいらしい。克哉に質問を重ねる。
「君と私はどれくらい付き合っていたんだ?」
「四ヶ月くらいです」
出会ってから付き合い始めるまでの期間も計算して、無難な数字を上げてみたが、御堂は眉間の皺を深くした。四ヶ月で同棲はやはり早かったかと後悔するが、四柳が助け船をだした。
「お前はよほど佐伯君に惚れてたんだろうな。ワイン会にも連れてきたくらいだったしな」
「私が、彼を?」
「ああ。だから僕も佐伯君のこと知っていたんだよ」
御堂は眉根を寄せる。そして視線を四柳から克哉に戻した。
まっすぐな眼差しが克哉を見据える。さすがに同棲までは無理があったのではないか、と思うが、克哉にはこの盛大な嘘をつき通さなければならない理由があった。
あの夜、偶然四柳に出会った克哉は、早速御堂について訊いてみた。しかし、四柳は克哉の質問には答えず、
「もし時間あるなら少しお茶でも飲まないか?」
と克哉を誘った。
四柳に連れて行かれたのは院内にあるカフェだった。もうすぐ閉店時間が迫っていて、ほかの客の姿は疎らだ。四柳は克哉を奥のボックス席に座らせるとコーヒーを二つ買ってきて克哉の前に一つ置いた。礼を口にして、コーヒーを手に取った。
「……ありがとうございます」
「ずいぶんと酷い顔色をしているな」
そうなのだろうか。自覚はなかったが、本多にも心配されたし、きっとそうなのだろう。四柳は言葉を続ける。
「御堂のことはいつ知った?」
「今日、会社で」
「詳しい事情は知っている?」
「いいえ。意識不明の重体になったとしか」
自殺未遂という言葉は伏せて答えれば、「そうか」と四柳は言って、コーヒーをひとくち口にして、つぶやく。
「基本、家族以外の面会は断っているし、個人情報についても厳しいからな」
克哉が御堂の面会に来たものの、すげなく追い返されたのはすぐにわかったのだろう。
四柳はほんのわずかの間思案するような顔をして、おもむろに口を開いた。
「君は御堂と特別な関係にあるの?」
言外の意味を含んだ問いかけに、克哉は無言で四柳を見返した。それを四柳は肯定の意味に受け取ったらしい。小さく頷いて言った。
「そうじゃないかと思っていたよ。御堂が誰かを同期の飲み会に連れてくるのは珍しかったからな」
そして克哉に向けて微笑みかける。
「安心してほしい。御堂は命に別状はないよ。意識も取り戻している」
「つまり、無事だ、ということですか」
思わず身を乗り出した。四柳の言葉に心の中に立ちこめていた暗雲が晴れていくようだ。
本来なら家族以外には伝えない病状だが、四柳は克哉を御堂の恋人だと勘違いしている。克哉も御堂の情報が知りたかったから、あえて訂正はしなかった。
安堵しかけたところで、四柳は克哉に向ける表情を引き締めた。
「全身状態には問題はないが、ここ一年くらいの記憶を失っている」
四柳は克哉を見る目に憐憫ともとれるような複雑な色を宿した。
「たぶん、君のことも覚えていない」
「な……」
言葉を失した。
四柳の話では、御堂は歩道橋から手すりを乗り越えて落下したという。真下は片道三車線の幹線道路だったが、御堂が落ちたのは道路の脇で、街路樹と植え込みがクッションになって大事には至らなかったという。とはいえ深夜で人も車の通りも少ない時間帯で、御堂が落ちたところは誰にも目撃されなかったし、御堂が病院に搬送されたのも転落してからしばらく経ってからだった。もしそのまま誰にも気付かれなかったら、と考えると血の気が引く。
四柳が概要を説明し、最後に付け加えた。
「警察は事故と事件の両面から調べている」
御堂の意識は戻ったらしいが、記憶を失っているから、なにが起きたのか、どうして深夜にあの場所にいたのかも覚えていなかった。
御堂が運ばれたのがたまたま四柳の病院で、事情が事情だけに四柳が御堂の主治医となった。
「事件……、御堂さんは誰かに襲われた可能性もあるということですか」
「財布や携帯は手つかずだったから、物盗りの可能性は少なそうだけど」
とはいえ、携帯は落下の衝撃で壊れていて、四柳の証言を頼りに警察はMGN社に連絡したという。その連絡がきっかけで克哉の耳に御堂の情報が伝わったのだ。事件でなければ、事故か。事故だとして一番可能性が高いのは、自らの故意による事故なのだろうか。克哉は重たく口を開いた。
「……遺書かなにか、あったんですか」
「いいや、現場からは見つかっていないと警察から聞いた。ただ、御堂の部屋までは確認していないみたいだが」
四柳は『現場からは見つかっていない』と、さも遺書が存在していることを前提としたように言った。御堂は直前にMGN社を退職していた事実を鑑(かんが)みれば、警察も四柳も御堂が自殺しようとしたと思っているのだろう。物盗りの可能性は低く、偶発的な事故にしては不自然で、自殺の状況証拠は十分に揃っている。
四柳は探るような視線を克哉に向けた。
「君はなにか心当たりがあるか?」
「いいえ」
否定したものの、御堂が自殺を図る心当たりについて身に覚えがありすぎた。
しかし、深刻そうな克哉の沈んだ顔を前に、四柳はそれ以上問い詰めようとはしなかった。
コーヒーはすっかりぬるくなっていた。もう訊きたいことはすべて訊いたし、これ以上訊くこともなかった。そろそろ切り上げ時だろう。そう思ったときだった。四柳が思い切ったように口火を切った。
「佐伯君、君にひとつお願いがあるのだが」
「俺に? なんでしょうか」
四柳はすぐには『お願い』の内容を口にせず、克哉にひとつ、質問をした。
「立ち入ったことを聞くが、君は御堂と同棲していたのか?」
「いえ、……御堂さんの部屋に入り浸ってはいましたが」
四柳がなぜそんなことを訊くのか意図がわからず、どっちつかずの返事をした。同じ部屋に住んでいたと言えばそうだが、その内実は御堂を無理やり監禁していた。それは四柳が言う同棲の定義に含まれないだろう。
四柳は克哉の返事を聞いて「よかった」と笑みを浮かべた。
「部屋に入ったことがあるなら十分だ。君は御堂と同棲していたことにしてくれないか?」
「はい?」
当惑する克哉に四柳は説明を加えた。
御堂には両親がいる。病院に搬送されてすぐに連絡を取ろうとしたがまったく連絡がとれなかった。どうやら長期にわたる海外旅行に出ているようで滞在先もわからなかった。肝心の御堂の携帯は壊れているし御堂も記憶がない。つまり、連絡を取る手段がないという。結果、いまの御堂は頼れる相手がいない状態だった。
御堂は記憶喪失になっていて、なにかの弾みで記憶が戻る可能性がある。もし、自分が自殺しようとしたことを思い出したら、ふたたび自殺を図るかもしれない。それも、今度は確実な方法で。だから、克哉に傍に付いていて欲しいのだという。
「それは……」
克哉は言葉を詰まらせる。
無茶だし、無謀だと思った。
四柳の話を信じるなら、いまの御堂にとって、克哉は見知らぬ相手だ。そんな相手よりも友人である四柳が傍にいてやったほうがよほどいいのではないかと反論したが、医師である四柳は日々病院に泊まり込むような激務が続いている。御堂に気を配る余裕はとてもない。それに、と四柳は付け加えた。
「御堂は君を気に入っているようだったし、推測するに、出会ってすぐに付き合い始めたんだろう? それならいくら御堂が君を忘れていたとしても、きっと歴史は繰り返されるさ」
「そうはならない気がしますが」
「いいやきっとなるさ。御堂が僕たちの集まりに誰かを連れてくるなんて、いままでなかったし」
四柳は力強い語調で主張する。
そもそも四柳が想定するような歴史は存在しないし、もし史実どおりの歴史が繰り返されたら大変なことになる。御堂が四柳たちとの飲み会に克哉を連れて行ったのは気に入っていたからではなく、単なる成り行きだ。しかも御堂の本心は克哉に恥をかかせたかったからだ。
当然、真実を明かすことはできないから別の角度から抵抗を試みる。
「それに、それでは御堂さんを騙すことになるのでは?」
「ほぼ同棲みたいな状態だったのだろう? 誤差の範囲だ」
「誤差の範囲、で御堂さんが納得しますかね」
「ああ。御堂が怒ったなら僕に連絡してくれ。僕が君の代わりに釈明するし、謝るし、責任を負う」
克哉は厳しい顔つきで唇を引き結んだまま四柳を見返した。四柳は、果てしなく重い責任を負おうとしていることに気付いているのだろうか。
四柳の心配はわかる。御堂が記憶を取り戻したら、絶望も一緒に取り戻すだろう。そのときタワーマンションの高層階にある自宅にいたら、発作的にベランダから飛び降りてもおかしくはない。
とはいえ、四柳の人選は最悪だ。一番選んではいけない人物を選ぼうとしている。記憶を取り戻したときに、目の前にすべての元凶である克哉がいたらそれこそ、より最悪な結果になるのは火を見るより明らかだ。
いくら克哉が否定しなかったからとはいえ、四柳は克哉を勝手に御堂の恋人だと頭から決めてかかっているし、勘違いは悪化の一途を辿っている。この男は病人や怪我人は診ることができても、人間を見る目はないのではないかと冷ややかに思う。
それでも、断ろうと喉まで出かかった言葉を克哉は呑み込んだ。
克哉は決して回してはいけない歯車を回してしまった。その結果がこれだ。今回は運良く助かったが、このままでは克哉が望まぬ結末が訪れてしまう。
御堂が意識不明の重体になったと訊いたときの、言葉にならないほどの恐怖。全身が凍り付くような悪寒をもう二度と体感したくはない。御堂の未来を奪った罪は果てしなく重く、なにをもってしても贖(あがな)うことは不可能だ。それならば、最悪の未来を防ぐしか残された方法はない。
「……わかりました」
こうして克哉は四柳の提案を承諾したのだ。
こうして、克哉は四柳に日を改めて面会時間に来院するように言われ、御堂に引き合わされた。四柳の言うとおり、御堂は一年近くの記憶を失っていて、ただただ困惑と猜疑に満ちた眼差しで克哉を見てくる。
御堂と克哉、そして四柳の三人と気まずさが充満した病室で、 御堂は神妙な顔をすると克哉に頭を下げた。
「すまない」
「どうしてあなたが謝るんだ」
「君のことをまったく覚えていないし、なんの心当たりもない」
御堂の謝罪は心からすまないと思っているふうではなく、ビジネスメールの定型文のような感情の乗らない口調だった。それでも克哉の胸中には、言葉に形容しがたい感情が渦巻いた。御堂から蔑みでも憎しみでもないフラットな態度を向けられたことがいままでなかったからだ。そんな克哉の当惑を四柳は別の意味に取ったのか、克哉を励ますように肩を叩いて御堂に向けて言う。
「それで、御堂。退院したら、お前は自分の部屋に戻るだろう?」
「ああ、当然だ」
「それなら、しばらく佐伯君と暮らしてもらうことになる」
「はあ?」
「それはそうだろう。もともとお前は彼と同棲していた。いきなり彼を放り出すわけにはいかないだろう」
「悪いが、私にそのような記憶はない」
「記憶は無くても事実は事実だ」
「無茶苦茶言うな。いまの私にとっては初対面の相手だぞ」
御堂はちらりと克哉を見て、ほんの少しだけ克哉を気遣う素振りで声を抑えつつ四柳に反論する。克哉がいなければ、もっと強い口調で四柳に抗議していただろう。
しかし、御堂はもっと正々堂々と主張していいのだ。そんな事実は存在しない。御堂のほうが正しい。
四柳は「まあまあ」と御堂を言い含める口調で言った。
「お前の記憶がどこまで残されているのか正確にはわからない。もし基本的なことを、たとえば、火の使い方を忘れてたりしたら、料理をしようとして火事になる怖れもあるし、ガス漏れや爆発を起こすかもしれない」
なるほど、そういう危険性もあるのかと目が覚める思いだが、御堂は眉間に深い皺を刻んだまま、
「我が家はオール電化だ」
と少しずれた反論をする。御堂としても、なにを忘れてしまったのかさえわからないのだ。不安は当然あるだろうが、見知らぬ他人である克哉と暮らす不安と板挟みになって結論が出せないのが正直なところだろう。だが、四柳も退かなかった。
「ともかく、お前は頭を打ったんだ。あとから血腫ができる可能性もある。しばらく経過観察が必要だし、このままずっと入院するよりかは退院したいだろう?」
四柳はあくまでも、医学的な問題を盾に御堂を説得している。まさか自殺をするのを怖れているとは言えないからだ。
「それはそうだ」
最終的に、御堂はしぶしぶ頷いた。四柳の話では御堂はもう退院できる状況なのだ。それでも入院を続けているのは、御堂を見守る誰かがいなかったからだ。御堂もそれをわかっているから退院するためには四柳の言うとおりにしないとだめだと腹を決めたようだ。
本当にこれでいいのだろうか、と当事者でありながら、克哉は蚊帳の外で二人のやりとりを見守っていたが、四柳から唐突に話を振られた。
「じゃあ、佐伯君。御堂の着替えとか退院に必要なものを部屋から持ってきてくれるか?」
え、という顔で御堂は四柳を見た。克哉も驚いて四柳を見た。
「当然、僕よりも君のほうがどこになにがあるか知っているだろう。搬送されたときに着ていた服は破れたり汚れてしまったし、まさかこの病衣のままで帰るわけにもいかないからな」
御堂は露骨に不愉快そうな顔をしているが、克哉の前ではどうにか言葉にすることは堪えたようだ。御堂の無言の圧を受けながら、克哉もしぶしぶ頷いた。
「わかりました、持ってきます」
四柳はここまで自分の思いどおりに話をつけて満足したらしい。にこにこと満面の笑みを浮かべながら、克哉に「せっかくだから二人きりでなにか話す?」とか訊いてくる。
こんな状況で二人きりにされても、重苦しい沈黙に窒息する未来しか見えないし、御堂も苦虫を噛みつぶしたような顔で余計なことを言った四柳を睨んでいる。
「いえ、御堂さんの顔を見られただけで大丈夫です。今日はこれくらいで」
と断ると、御堂はあからさまに安堵したような表情をした。
四柳と二人で御堂の病室を出た。廊下を歩きながら四柳に言う。
「俺は御堂さんの部屋の鍵を持っていませんよ」
御堂の部屋のスペアキーは御堂を解放したときに玄関に置いていった。御堂の部屋の中は熟知しているが、そもそも中に入る手段はない。
「心配ない。僕が預かっている。正直、君に頼めて良かったよ。気が重い仕事だからね」
四柳は自分の財布を白衣のポケットから取り出すと、中にしまっていたカードキーを克哉に渡した。
「もし、いまの御堂に見つかったらまずいものがあったら、処分してくれ。家捜しみたいなことをさせて申し訳ないが」
四柳は声を潜めて言う。見つかったらまずいもの、とは遺書だろう。わずかな時間ではあったが、先ほど会った御堂は、驚くほど『普通』だった。若くしてMGNの部長職に就いたエリート然とした態度でもなく、降って湧いた災難に巻き込まれて困惑している一人の人間だ。
目を覚ましたら病院で、記憶を失っていたのだ。抱えている不安は大きいだろう。古くからの知り合いである四柳が主治医なのは幸いだっただろうが、退院した途端、御堂の恋人と名乗る見知らぬ男と一緒に暮らす羽目になるのだ。克哉の心情も複雑だが、御堂はそれ以上だろう。御堂の当惑している様子を思い起こしながら口を開いた。
「俺と暮らすことに、かなり抵抗していましたね」
「まあね。御堂は自分のプライベートスペースに他人を入れるのは嫌うからな。歴代の恋人も部屋に入れたことは一度もなかったはずだ」
それは初めて知る事実だった。四柳は意味深な目で克哉を見る。
「だから、君が御堂の部屋に出入りしていたということは、以前の御堂にとって君はかつてないほどの特別な存在だったということだ。君はもっと自信を持っていいぞ」
なるほどそういうことか、と腑に落ちた。
御堂は恋人を部屋に上げたことはなかった。だから、克哉が御堂の部屋に入り浸っていた、と知った四柳が克哉を信用できると踏んだのだろうし、克哉と同棲していると告げられた御堂が恋人だと知った以上に驚いたのだ。御堂には恋人は数多くいたのだろうが、プライベートな部分を曝け出すほど心を許した恋人はいなかったということだ。
黙り込んだ克哉を前に四柳がなにかに気付いたかのようにバツの悪そうな顔をした。
「佐伯君、御堂の以前の恋人の話で気を悪くしたら申し訳ない。……あと、歴代の恋人についてくれぐれも僕から聞いたとは御堂に言わないでくれ」
最後にそう四柳に釘を刺された。
四柳から又貸しされたカードキーで御堂の部屋に入った。暗い部屋に電気を点けた瞬間、克哉は息を呑んだ。
あの夜のままの部屋がそこにあった。二十四時間換気が効いてるせいか埃っぽさやカビっぽさは感じなかったが、雑然とものが散らかった部屋は暗澹たる様だった。御堂を監禁した部屋は御堂に用いた拘束具も淫具もそのまま残されている。
――どうして……。
まさか、と思ってキッチンに向かえば、シンクには使った食器はそのままでゴミ箱にはコンビニ弁当やレトルトの容器がそのまま詰め込まれていた。放置された生ゴミの腐敗したような甘酸っぱい匂いが鼻につく。まさかこんな状態の部屋で暮らしていたのだろうか。
愕然としつつも警察や四柳がこの部屋に入らなくて良かったと心の底から安堵を覚えた。この部屋を見ればこの場でなにが起きたのか想像を巡らせずにはいられなかっただろう。
記憶にある部屋そのままの光景に目眩がして、克哉は現実から逃げるように視線を彷徨わせた。すると部屋の電話の留守録のランプが赤く点滅していることに気が付いた。再生ボタンを押して録音を聞くと、都内のホテルからの連絡が欲しいとの伝言が入っていた。日時を確認すれば御堂が病院に運ばれたあとにきた電話のようだ。
克哉はホテルに折り返しの電話をかけて、御堂の身内だと名乗った。そのうえで御堂が事故で入院していることを告げると、ホテル側が事情を教えてくれた。
御堂は克哉から解放されたあと、すぐさまホテルに居を移していたらしい。一週間ごとに宿泊を延長していたらしいが、宿泊の延長の申し出がなくチェックアウトの手続きもなかった。部屋には荷物は置いてあるもののずっと不在だったため、本人に連絡をとろうとして自宅に電話をかけたらしい。
いまの御堂はそのホテルに宿泊していた記憶は当然ない。代わりに克哉がホテルまで荷物を取りに行きチェックアウトの手続きをした。
御堂の荷物はコンパクトなキャリーケースにわずかな身の回りのものとノートパソコンが詰め込まれているだけだった。着の身着のまま急いであの部屋を出たのだろう。
ようやく部屋の様相がまったく変わってなかった理由がわかった。御堂としても凌辱の跡が色濃く残るこの部屋から一刻も早く立ち去りたかったのだ。
克哉はホテルから御堂の部屋に戻ると部屋の掃除を始めた。ゴミ箱の中のゴミを処分し、御堂の部屋から克哉の痕跡を完璧に消し去る。万一にも御堂が部屋に入った瞬間、忌まわしい記憶が蘇らないように、最初に訪れたときの御堂の部屋を完璧に再現する。
掃除ついでにあちこち探してみたが御堂の部屋に遺書らしきものはなく、ホテルから引き取った荷物の中にもそれと思われるものはなかった。
本当に御堂は自殺を図ったのだろうか。
克哉には御堂がそんな選択をするような男とは思えなかった。しかし、あの誇り高い御堂でさえ、克哉に怯え、許しを乞うほどに追い詰められたのだ。MGNも辞める羽目になったいま、御堂はこの世界に存在し続ける理由を失ったとしてもおかしくはなかった。
真実は闇に包まれたままだが、闇を暴いたところで誰も救われない。克哉に必要なのは御堂が偶然助かったこの世界で御堂を守り抜く決意と覚悟だ。
2
退院の日、克哉は病院まで御堂を迎えに行った。
御堂は克哉が持ってきた服を着て、克哉が持ってきたバッグに数少ない御堂の荷物を詰めて退院した。
病室に御堂の着替えを持っていったとき、御堂は克哉が持ち込んだバッグを見て少し驚いたような顔をした。
「私がいつも出張に使っているバッグだ。よくわかったな」
「一緒に暮らしていましたからね」
平然と嘘を吐く。御堂がホテルに持っていったビジネスバッグの中身に御堂の着替えを加えただけだが、克哉と同棲しているという話しに真実味を与えてくれたようだ。
退院のため私服に着替えた御堂はもはや病人には見えなかった。モデルでも通用しそうな長身にバランスの取れた四肢、洗練された雰囲気は立ち姿ひとつとっても華がある。以前よりもやつれてはいたが、それでも、切れ込みの深いくっきりした双眸には強い光が宿っている。あの暗い部屋で壊れるほどまで踏み躙られた御堂の姿はそこにはなかった。
苦しいほどのなにかが込み上げてきて、克哉は知らずと胸元を掴んでいた。克哉が求めていた御堂がここにいるのだ。
御堂は少し遠慮がちに克哉に顔を向けた。
「迷惑をかけると思うが、これからよろしく頼む」
「ええ、こちらこそ。……退院、おめでとうございます、御堂さん」
互いにぎこちない挨拶だった。
タクシーに乗って御堂の部屋にふたりで帰った。克哉がスペアキーを使ってドアを開けたが、御堂はそれを目にしてもなにも言わなかった。スペアキーは御堂の部屋に入ったときに回収したものだ。
あの夜、玄関に克哉が置いたところにおいたスペアキーは同じ場所にそのまま置かれていた。それを克哉は複雑な気持ちで手に取った。またこのスペアキーを持つ日が来るとは思わなかったが、同棲しているという設定なら、克哉は鍵を持っていてしかるべきだろう。
家に帰ってきた御堂はまず洗面所で手を洗った。そして、自分の記憶との間違い探しをしているかのように、自分の部屋をひとつひとつ注意深く確認していく。克哉は先にキッチンへと向かい、御堂のためにコーヒーを淹れ始めた。少しして、すべての部屋を確認し終えたらしい御堂が難しい顔をしてやってきた。
もしやなにかまずいものでも見つけてしまったのだろうか。自分の事前準備は完璧だったはずだ。克哉は何気ないような軽い口調で訊いた。
「なにかおかしなところでも?」
「いいや、私の記憶どおりだ」
「それはよかった」
原状回復に問題がなかったことに安堵しつつ、コーヒーを注いだマグをテーブルに二つ置いた。御堂はマグには手を付けず、言葉を続けた。
「だからおかしいのだ」
御堂の言葉に悪い予感がした。御堂は胡乱げな顔を克哉に向ける。
「私は、本当に君と同棲していたのか?」
「どうした、いきなり」
「君と同棲していたはずなのに、その形跡がどこにもない」
「は?」
御堂が克哉の元にスタスタと歩みを寄せた。あ、と思ったときには御堂の顔が克哉の首元に接近していた。いきなりの距離の近さに身体が固まる。御堂は克哉の首筋にすっと鼻を寄せると、黒目だけ克哉に向けた。
「柑橘系……レモンに、ネロリの華やかさ。そして海を感じさせる潮の香り。使っているのはトム・フォードのネロリ・ポルトフィーノか」
「ああ」
「悪くない趣味だ」
そう言って、ようやく御堂は顔を離した。それでもまだ顔が近い。克哉が付けている香水を一発で当ててきた御堂に内心で舌を巻いた。御堂は至近距離から克哉を見詰めたまま言う。
「それで、君が付けているこの香水、この家のどこに置いてある?」
「――ッ」
御堂の言葉が意図するところを悟って息を呑んだ。
自分が痛恨のミスを犯してしまったことに気付く。自身が御堂に行った仕打ちの痕跡を消して元の部屋に戻すことに注力したばかりに、同棲の痕跡を偽装工作することをすっかり失念していた。
「洗面台には私のものと思われる香水しかなかった。その中にネロリ・ポルトフィーノはない。ほかにも、君の私物はどこにある? クローゼット中に君の服はなかった。それに、君は喫煙者だろう。この部屋に灰皿はあるか?」
御堂と克哉は体型がほぼ一緒であることを考えると、服は御堂と共有していたと言ってごまかせるかもしれない。灰皿も室内では禁煙していたで押し通せる。だが、使っている香水の銘柄を当てられて、その香水がこの部屋にないことをどう説明すれば良いのか。今朝偶然使い切ってちょうど捨てたところだと主張するのはさすがに無理がある。
御堂の観察力、思考力のキレの鋭さはまったく衰えてないことに感嘆しつつも、嘘が早々に破綻しかけているまずい状況になったことに克哉は気付いた。
どうすべきか、とコンマ数秒思考を巡らせ、克哉は同棲していたという前提をあっさり放棄した。
「自分の部屋に置いてある」
「自分の部屋? 君は私の恋人で、私と同棲していたのではなかったのか?」
「半同棲だ。週の半分はあなたの部屋で、残りの半分は自分の部屋で過ごしていた。だから自分の荷物はそっちに置いてある」
「ほう……」
苦しい言い訳だった。御堂の疑うような眼差しは依然として厳しく、克哉はどうしようかと考えながら言葉を重ねる。
「四柳が早合点してあなたを勘違いさせるようなことを言った。訂正するタイミングがなかった。すまない」
これは本当だ。克哉は御堂の恋人だとも同棲しているとも、ひと言も口にしてはいない。四柳がすべてを都合良く解釈して克哉を言い含めたのだ。早速四柳に責任を取ってもらう流れになりそうだ。
御堂は克哉を見据えたまま唇を引き結んでいたが、ややあってふかぶかとため息を吐いた。
「大方(おおかた)、四柳がそう言えと君に頼んだのだろう。あいつは心配性だから、私を見守る存在が必要だと考えていた」
御堂も同様の結論に至ったようで、その口調に克哉を責める響きはなかった。むしろ、克哉に同情するような顔だ。
「それで、佐伯…………」
「佐伯、でいいですよ。普段はそう呼ばれてましたから」
克哉をどう呼べば良いのかと口ごもる御堂に助け船を出せば、御堂はなにやら複雑な顔をしながら言葉を続けた。
「佐伯、君はどうする?」
「どうする、とは?」
「言ったとおり、私に君の記憶はない。こんな状態になった以上、君も私を押し付けられても困るだろう。四柳には適当に言い繕っておくし、私は誰かの見守りなど必要としていないから、君は自分の部屋に戻っていい」
ずいぶんとあっさりした態度だった。たしかにいまの御堂は克哉の助けも見守りも必要なさそうに思える。判断力になんら問題はないし、とても自殺をするような人間には思えなかった。
しかし、この御堂は、自分になにが起きたのかを知らない。怪我をした経緯は四柳からおおまかに説明されているが、自殺企図の可能性があったことは御堂には慎重に隠されている。事故で歩道橋から転落したとしか説明されていない。だからこんなにも楽観的なのだ。
それを考えると、克哉はこの場所から立ち去ることはできなかった。克哉が部屋を出ていった瞬間、御堂は記憶を取り戻すかもしれない。とはいえ、どう御堂を納得させるべきか。同棲していたという嘘はばれたが、幸い、恋人だという嘘はいまだばれていない。
御堂の恋人なら、どのように振る舞うのか考え、克哉は途方に暮れたような顔つきをした。
「あなたはここに俺がいたら迷惑か?」
「いいや、そんなことはないが……」
御堂は戸惑ったふうに言葉尻を濁した。視線が言葉を探すようにわずかに彷徨う。
「……私は君の期待に添えないかもしれない」
「御堂さんが、こうして存在しているだけで十分です」
克哉はすっと息を吸って、御堂の目をまっすぐに見詰めた。
「俺はあなたのことが好きだ。あなたが俺のことを好きでなくても俺の気持ちは変わらない」
御堂が驚いたように目を瞠る。なんの衒(てら)いもない告白だった。その場を取りなすための告白だったが、克哉の心は不思議と高揚していた。あの夜、御堂に告げた「好きだ」という告白も御堂の記憶と共に失われてしまった。いや、元から御堂の耳に届いていなかっただろう。だから、こうしてふたたび御堂に自分の気持ちを告げる機会に恵まれたのは幸運だった。しかし、結局、好きだ、というありふれた陳腐な単語以上に気の利いたセリフはでてこなかった。克哉は続ける。
「もし、迷惑でなければこの場所にいさせてほしい。もちろん、いまのあなたにとって俺は他人同然だということは承知しているからあなたに何かを求めたりしない」
そうはっきりと言い切れば、硬いばかりだった御堂の目が揺らいだ。克哉から目を逸らすようにして、返事をする。
「……君の好きなようにすればいい」
こうして、克哉は御堂と同じ部屋に住む権利を得たのだ。
コーヒーを飲んだところで次は食事について聞かれた。
「君との食事はどうしていたんだ?」
「ほとんど外食ですね。もしくはケータリングか」
「そうだろうな」
御堂は納得したように頷いた。
ほとんど使われた形跡のないきれいなキッチン。調理器具も食器もひととおり揃えてあったが、御堂が料理をしている姿が思い描けないからそう答えたが、正解だったようだ。具体的にどこでどんなものを食べていたか訊かれていたら危なかったが、幸いそこまでは突っ込んでこなかった。
御堂の記憶が中途半端に残っているおかげで、こうして不意打ちで振られる質問に迂闊な答えを返せない。毎回自分の記憶との整合性をチェックされているような緊張感がある。
御堂は頭が切れる男だ。克哉が付ける香水から同棲していないことを見抜いたように、ほんのわずかな綻びから克哉の正体と真実を見抜くかもしれない。くれぐれも慎重にならなければ。
「君の朝食はどうしていたのだ?」
「俺は御堂さんよりも朝早く出ていたから、コーヒーで済ませていました」
御堂は眉根を寄せた。御堂の朝食事情を知らないからごまかしたが、なにか違和感を覚えたのだろうか。緊張するが、御堂は考え込むようにして言う。
「それはよくないな。軽くでもなにか胃に入れた方が良い。トーストくらい焼こう」
顎に手を当てて思案する顔は克哉が知っている御堂よりも雰囲気が柔らかく、別人のような印象を受けた。克哉に対する憎悪がないだけで、同じ人間なのにこうも違って見えるのかと新鮮な気持ちで御堂を眺めながら言った。
「じゃあ、買ってきますよ」
「私も行く」
コーヒーを飲み終えたところで、御堂とふたりでマンションの近くの高級スーパーに買い出しに行くことになった。連れだって外出すること自体が初めてで、肩が触れあう距離で歩く御堂の存在を強く意識するが、御堂はごく自然体だ。
いざスーパーに入ってみれば御堂はあちこち目移りするようで、チーズや生ハムといった酒のつまみを次々と選んでいく。そんな御堂を見ながら呆れたように言った。
「酒を飲む気満々だな」
チーズの種類を真剣に吟味する御堂に確認する。
「病み上がりなのに飲んで大丈夫なのか?」
「ダメだとは言われていない」
「良いとも言われてないだろう」
そう釘を刺すと御堂は鼻で笑って克哉に目を向けた。
「四柳は私がワインを飲むことを知っている。アルコール摂取に問題があるなら必ず言うはずだ。つまり、なにも言われなかったということは飲んで問題ないということだ」
だいぶ都合の良い解釈な気がするが、大学時代からの友人である四柳と御堂は気の置けない間柄のようで、いまの御堂と克哉の唯一の共通の話題ともいえる。だからこうして御堂の口に上ることが多いが、四柳の話ばかり聞かされるとなにやら複雑な気持ちになってくる。
そういえば、四柳はなぜ克哉を御堂の見守り役に選んだのだろう。克哉を御堂の恋人だと勘違いしてた部分が大きいのだろうが、克哉が現れたのは偶然に近い。共通の友人に頼るという方法もあったはずだ。むしろ共通の友人のほうが克哉より信用できるだろうし御堂を安心して預けられたはずだ。
ようやくチーズを選び終えて次の食材のコーナーへと移る。御堂はスモークサーモンやベーコンなど目についたものをぽんぽんと選んでいく。値段も賞味期限もまったく気にしていないようだ。
御堂に好きに選ばせながら克哉は話しかけた。
「四柳以外のほかの友人とは連絡を取ったりしないのか? ワインバーで集まっていたほかのメンバーとか」
「いや……」
御堂は動きを止めた。かすかに顔を曇らせる。
「向こうは多忙だしな。それに気を遣わせたくない」
それもそうだろうな、と克哉は思った。
御堂たちみたいなエリートは互いの格付けに敏感だ。自分の弱みは友人であろうと見せたくないのだろう。
しかし、御堂の拒絶にはそれ以上の理由、たとえば会いたくない人物でもいるのではないか、と思わせるなにかがあった。
買い物をしたあとはデリバリーの夕食を頼んでふたりで食べた。そして、買ってきたチーズを出してワインを飲もうとしたところで次の問題が起きた。
御堂の部屋にある大型のワインセラー、その中には何十本ものワインが並べられている。御堂はその扉を開けて、ワインを確認すると「ない……」とつぶやいた。
「どうした?」
御堂の背後からワインセラーを覗き込んだ。御堂は愕然とした顔でワインを眺めている。
「グレートビンテージのワインがない……」
「大事なワインか?」
「シャトー・ラフィット・ロートシルト2009年、卓越したバランスとエレガンスを持つ当たり年のワインだ」
じろりと克哉を睨み付ける。
「私はこのワインを飲んだのか、君は知っているか? ほかにも熟成させておこうと思ったワインが何本も消えている」
「俺も何本か飲んだけど、どうだったかな……」
本多と御堂の家に訪ねたときも御堂は嫌そうな顔をしながら高めのワインを何本も出してくれた。それだけではない御堂を監禁したときも、御堂に見せつけるようにして高級なワインを開けて飲んだ。ロートシルトはその中の一本だ。
消えてしまったワインを数え、御堂は頭を抱える。
「ロートシルトはこれから熟成させていけばますます味わいが深まるワインなのに、私はそれを飲んだというのか」
あまりにも絶望に満ちた声で呻くので申し訳なさが沸き起こる。とはいえ、責任のすべてが自分にあるとは告白できない。精一杯慰める口調で言った。
「同じものを俺が買ってきますよ」
「そんなに簡単に手に入るものか」
御堂はそう吐き捨てて、ふかぶかとため息を吐いた。
「許せんな。過去の私にどういうつもりか問いただしたい」
自分が飲んだと思い込んでるだけに怒りの矛先も過去の自分になっている。過去の御堂にまったく罪はないのだと代わりに釈明したいが、それを堪える。
御堂はしばしの間ワインセラーの前で悲嘆に暮れていたが、思い直したように赤ワインを一本選んだ。その銘柄を見て息を呑んだ。シャトー・マルゴー、これもヴィンテージワインではなかったか。
「御堂さん、それは……」
「シャトー・マルゴー2009年、完璧に近いヴィンテージと評される。熟した果実味、シルクのようなタンニン、バランスの取れた酸が際立つワインだ」
「そんなのを開けていいのか。あとから後悔するぞ」
「過去の私だって飲んだのだ。私が飲んで悪いことはあるまい」
諫めようとする克哉を御堂は一笑に付す。
「それに、退院祝いだ。ちょうどいい」
退院は祝いはこじつけだろう。ちゃんとした記念日でもないし、怒りの勢いで大切なワインを開けていいのかと思うが、持ち主である御堂が飲むと言い張るなら仕方ない。それに大事に保管しておいたところで、飲む機会が保証されるかどうかもわからない。ロートシルトだって克哉にダメにされたのだ。結局は御堂の好きにさせるしかない。
御堂はワインをキッチンまで持っていくとソムリエナイフを取りだし、ワインボトルのネックに刃を当てた。慣れた手つきでキャップシールに刃を入れてシールを剥がす。そして、ナイフのスクリューを静かにコルクへと差し込む。一定のリズムで回し、しっかりとねじ込むとてこの原理でコルクを引き上げ、最後はコルクを握って優しく引き抜いた。
一連の仕草は迷いもためらいもなく、流れるような優雅な動きだった。こういった技術のような身体が覚える記憶は、記憶を失っても一緒に失われることはないという。
「この手のワインはデキャンタージュすることで香りも味も開かせることが重要だが、時間がかかるから今回はポアラーを使おう」
そう言って、御堂はボトルの口にポアラーという細長い注ぎ口を嵌めた。通常ならデキャンタに移して空気と触れさせるエアレーションを行うことでワインの香りと味を開かせるが、それを手軽に行う道具だという。
せっかくのヴィンテージワインだ。御堂ならもったいぶってデキャンタージュをしながら延々と蘊蓄を垂れそうなものだが、御堂は飲むことを急いているように思えた。
よほど大事なワインを失ったことが腹に据えかねているのか、それとも、ほかに気にかかることがあるのか、もしくはその両方か。
ポアラーを通したワインが空気と混ざり合う音を立てながらグラスに注がれる。同時に華やかな香りが広がった。御堂はグラスを掲げて色味と香りを確認すると満足げにうなずいて、もうひとつのグラスにもワインを注いだ。
リビングのソファに移り、乾杯をする。
馥郁な香りにしっかりとした味わいがある。深みがあって華やかな口当たりの、いかにも御堂が好みそうなワインだ。値段に見合う価値があるのが克哉にはわからないが、御堂は「評判どおりのワインだ」と頷いているから、納得のいく味なのだろう。
「ロートシルトはどうだった? このワインより美味かったか?」
御堂がグラスの中のワインを揺らしながら、克哉に話を振った。
「いえ……、このワインのほうが美味しいですね」
「本当か?」
疑わしげな眼差しを返されるが、本当だった。ただ、原因もわかっていた。デキャンタージュもせず、ポアラーも使わずに乱暴に飲んだからだ。あのときはワインを味わおうという気持ちはさらさらなかった。ただ御堂が大切にしていたワインを使って御堂をいたぶりたかっただけだ。
ワインで口を湿らせて、御堂はようやく本題を切り出した。
「この一年間で私になにがあったのか教えてくれないか? 君のわかる範囲で構わない」
「そうですね……」
この質問が来るのは予期していた。御堂は自分がMGNを退職したことを病院のベッドの上で知った。ただ退職に至る経緯は記憶にないから、なにかしら真っ当な理由があっての退職だと思っている。外資系企業にとって転職は常だから社員の入れ替わりも激しく、退職自体は自分の身に起こっていたとしてもそれほどショックを伴うものではなかったようだ。
「プロトファイバーがきっかけで御堂さんと出会ったことは話しましたよね」
克哉は綿密に練ったストーリーを御堂に語る。相手を騙すには真実の中に上手く嘘を散りばめることが肝要だ。プロトファイバーが発売されて少しして御堂が体調を崩し、プロジェクトの指揮を執れなくなったことに責任を感じて退職した、と克哉は話した。
「体調を崩した? 私が?」
いままで大きな病気も怪我もしたことがなかったようで、御堂は首を傾げる。
「ええ、気を張り詰めていたのもあると思いますよ。工場のトラブルもあったりして不眠不休で働いてましたから」
工場の生産トラブルは事実だが、それは大した問題ではなかった。すべては克哉が御堂を監禁して凌辱の限りを尽くしたからだ。
「それくらいのことで倒れたのか?」
信じられない、といったふうに嘆息する。これでもだいぶオブラートに包んで話したつもりだったが、御堂を落胆させたようだ。
「もしかしたらもっと良い条件の転職先を見つけていたのかもしれない。御堂さんレベルならヘッドハントの誘いもあるでしょう」
克哉のフォローに御堂は首を振った。
「具体的な話はなかったと思う。もしあったら携帯に連絡が来ているはずだ」
退院したときに御堂は壊れた携帯を買い換えた。電話番号は以前のままで、克哉はすぐさま自分の携帯番号を登録した。御堂の携帯はいたって静かなもので、連絡も入っていなかったようだ。御堂から仕事を取り上げたらずいぶんと寂しい生活になるのだなと御堂の横顔を眺めた。
御堂は黙ったままワイングラスを傾け、ぼそりとつぶやいた。
「どうやら不本意な理由で退職したみたいだが、どちらにしろこんな状態では周りに迷惑をかけただろうし退職せざるを得なかった。むしろ、退職後で幸いだったと言うべきか」
淡々と御堂は言う。その口調は恨み言も負け惜しみも言っているふうには聞こえなかった。御堂は誰よりもプロトファイバーのプロジェクトの行く末を案じていた。自分が組織の一員として責務を果たせなければ潔く辞職する。そんなシビアな世界の中で戦ってきたからか、覚悟はできていたのだろう。それでも克哉は、本来なら御堂は燦然たるエリートの階段をあるくべき人間だったと知っている。胸の奥がじくりと痛んだ。
気を取り直すようにして御堂はワイングラスの中のワインを飲み干すと新たなワインを注ぎながら克哉に尋ねた。
「それで、君と私が付き合い始めたのは、私が君を誘ったのか?」
「そう思うのか?」
「そうだな。君はとても興味深い」
御堂は含みのある言い方をしてちらりと克哉を見遣る。この御堂はどのように自分たちの出会いを想像しているのか、思いを巡らせながら、克哉は答えた。
「そうだな……、あなたが先に俺を誘いましたが、そのあとは俺のほうが積極的でしたよ。御堂さんはたんなる遊びか、からかうつもりで俺に声をかけたのでしょうが」
克哉はそのときのことを思い出して、ふ、と吐息で笑った。御堂は生意気な子会社の若造を懲らしめてやろうという軽い気持ちで克哉に接待を要求した。だが、その代償は高くついた。仕事だけでなく、プライドも、人としての尊厳までを克哉に差し出すまでに。克哉は視線を下に落として、言葉を選びながら語る。
「俺があなたに溺れたんだ。御堂さんは誰にも媚びることなく大きなプロジェクトを仕切る手腕を持っていて、責任感は人一倍強かった。そんなあなたが眩く見えたし憧れた。あなたをほしいと思った……」
喋っていると御堂が自分をじっと見詰める視線を感じた。まっすぐに向けられる眼差しは克哉の心の奥底を透かし見ようとしているようで、居心地が悪い。克哉は御堂の気を逸らそうと、咄嗟に言葉尻を軽薄な口調に変えた。
「……それに、なんといっても、御堂さんはエロかったしな」
露骨な物言いをされて御堂は怒るかと思いきや、別のところに引っかかったようで「その呼び方……」とつぶやいた。
「君は私をずっと名字で呼ぶが、私たちは恋人同士なのに、そんな他人行儀な呼び方だったのか?」
なるほど、今度はそうきたか。
「ああ、それですか。仕事でよく顔を合わせてましたからね」
自分の失言に気付いたが、軌道修正ももう慣れてきた。御堂が怪訝な顔をするたびに、克哉が想像する恋人の在り方の解像度が低いのだと思い知らされる。実際、克哉にとってのそれは現実味が薄いし、興味もない。それでも、この御堂に対してはさもそれが現実であったかのように振る舞わなければならない。
「二人きりのときや、ベッドの中では『孝典さん』と呼んでいましたよ、……孝典さん」
囁くような甘い口調で名前を呼べば御堂は頬を紅潮させた。『孝典さん』というフレーズは初めて口にしたが、想像以上に甘やかだった。もう一度、口の中で声に出さないようにして口ずさむ。味わうほどにくすぐったいような気持ちになる音節だ。悪くない。
御堂は額に落ちた前髪をかき上げるとふかぶかと息を吐いた。
「私は君のことがよほど好きだったのだろうな」
「はい?」
「君と半同棲だったのだろう? 君の様子を見れば、君は私の部屋のどこになにがあるかを熟知している。それはこの部屋で君を好きにさせていたということだ。私がそんなふうに他人を受け容れるなどまずあり得ないからな」
「俺が無理やり押しかけたんですよ」
「それでもそれを私が許したのだ。つまり、それだけ君が特別な存在だったということだ。……君が私の恋人だというのは信じよう」
御堂は大きく頷いて、克哉に向ける眼差しを和らげた。病院で克哉に向けた猜疑に満ちた態度から棘が取れ、気の置けない相手に対するやわらかなそれへと変化している。
克哉は御堂の見えないところで拳を強く握り込む。
違う、許されてなどいない。ふたりの間にあったのは脅迫と暴力だ。
それでも、四柳が言ったとおりだった。御堂は他人に対するガードが堅い。歴代の恋人たちにもしっかりと線引きをした付き合いをしていたのだろう。そして、それ故に、御堂の部屋を我が物顔で蹂躙していた克哉を自分の恋人、それもいままでになく特別扱いしていた恋人だと思い込んでいる。
克哉はどう御堂に答えるべきか迷い、沈黙を埋めるようにワインを口にしたそのときだった。
「克哉」
唐突に下の名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。ワインを噎せてしまい、慌ててグラスをテーブルに置いた。
「なにを驚いているんだ。私も二人きりのときは、君をそう呼んでいたのだろう?」
「いまのあなたに呼ばれたことはなかったから驚いたんですよ」
「そうか? だが、以前のように呼んでいれば君のことを思い出すかもしれない。君も私のことを下の名前で呼んでくれていい」
「……孝典さん」
改めて名前を呼ぶが、ぎこちない呼び方になってないだろうか。
慣れない呼び方に声が閊えそうになるが、御堂は克哉が名前を呼ぶと目を細めて頷いた。その顔は決して嫌そうではないし、むしろ、どこか嬉しそうだ。
名前同士で呼び合うなんてまるで恋人同士ではないか、と思って、まさしくそういう設定だったことを思い出す。
「克哉」
もう一度、くっきりと名前を呼ばれ振り向いた瞬間、御堂の唇が唇に重なってきた。避ける間もなく、唇が噛み合う。いや避ける必要はないのか、恋人同士なのだから。克哉は御堂から仕掛けてきたキスを受け止めた。
眼鏡や鼻が当たらないように顔を少し傾ける。キスの弾みで薄く開いた唇の狭間から濡れた舌が差し込まれた。探るように入ってくる舌を舐め上げ、吸い上げる。御堂が甘く喉を鳴らす。克哉を試すように始まったキスだが、逆に形の良い頭を捉え、逃れられないようにして深く追い詰める。
舌が立てる濡れた音が頭蓋内に大きく響いた。キスを交わし続け息苦しくなったところで、名残惜しく顔を離した。
息を乱した御堂は濡れた唇を手の甲で拭いつつ言った。
「君はこんなキスをするのか」
「こんなキスってどんなキスですか」
「悪くないキスだ」
控えめに評して、御堂は悪戯っぽく微笑む。
「もう一回試せば、なにか思い出すかも知れない」
それは困ると思ったが、拒絶する間もなく御堂はふたたび唇を重ねてきた。今度はさらに深く、積極的にキスを貪る。どうやら先ほどの克哉とのキスはまんざらでもなかったようだ。
なにかを思い出すもなにも、御堂とキスをするのは初めてだ。だから、克哉は遠慮なく御堂とのキスに耽溺する。キスを深めるほどに身体が密着した。布越しに火照った肌が触れあう。
あくまでも、御堂を守るために恋人だったと嘘を吐いているだけだ。だから、深入りしてはいけない。そう自分に言い聞かせるも、御堂から積極的に求めてくるキスはあまりにも魅惑的だった。ふしだらな唇を味わい、御堂の口内に残るワインの残滓を舐め取り、混ぜ合わせた唾液を喉を鳴らして呑み込む。
御堂の手が克哉の背中を掴んだ。引き寄せられて身体が傾ぐ。もつれあったまま御堂を押し倒すようにソファに倒れ込んだところで、克哉は我に返り身を離した。
「もう、これ以上はやめよう」
「どうした?」
良い雰囲気になったところを邪魔されて御堂が訝しげに克哉を見上げた。
「俺たちはあなたが思っているような関係じゃない」
克哉の脳裏に蘇ったのは、御堂との一番最初の夜。あの夜もワインを飲んだ御堂は、このソファの上で克哉に強姦された。このまま御堂を抱けば、まさしくあの夜を再現してしまうのではないか。そうなれば、御堂の記憶の蓋をこじ開けてしまうかもしれない。
「ほう……。私たちは私が思っているような関係ではないと」
深く吟味するように御堂は克哉が放った言葉をつぶやいた。御堂の視線がその答えを探るようにかすかにゆらめく。
なにやら悪い予感がした。このまま御堂に考えさせてはいけない。
「ともかく退院したばかりなのに悪酔いしすぎだ。さっさと寝た方がいい」
御堂の思考を中断するように言い放ち、克哉は起き上がろうとした。だが、起き上がれなかった。御堂が克哉のシャツの襟元をしっかりと掴んでいるせいだ。
「放せ、御堂」
ソファの背を掴み、どうにか御堂から身体を離そうとするが、御堂は力を緩めない。離れようとする力と引き寄せようとする力が拮抗する。いまや克哉は御堂に捕えられていた。これでは立場が逆だ。
ややあって御堂は確信の籠もった口調で言った。
「……わかった」
「なに……?」
「私は君に抱かれていたのだろう?」
ぎょっとして御堂を見下ろした。
「なにか思い出したのか?」
「私は抱かれた経験は無いが……そんな気がする」
御堂の目がひたりと克哉を見据えた。吸い込まれてしまいそうな深い黒に染まっている眸だ。
「君をひと目見たときから、妙な感覚があった。それが何なのか確かめたくて、こうしてキスもしてみたが……不思議なことに、君を抱く自分が想像できなかった。それでも、君への欲望は確かにある。――つまり、私は君と、これまでにない関係を築いていたのだろう」
御堂は冷静に自分を分析しながら論理的に推理を組み立てている。少しずつ真実に近付いてきていることに身震いをした。これが御堂という男の真髄なのだ。つくづく御堂という男を見誤っていたことを思い知らされる。
思い返せば、この男は臆面もなく克哉に性的な接待を要求してきたのだ。自分の欲望に忠実で、それを欲することにためらいがない。なによりも、この御堂は克哉を憎んでも怖れてもいない。克哉が慎ましく同棲しようとしたところで、御堂が克哉に対して性欲を感じたなら、恋人同士という建前上、遠慮無く求めてくることは当然念頭に置くべきだった。
しかし、御堂も御堂だ。もう少し冷静に俯瞰してみれば、恋人だと名乗る見知らぬ男をこうして無防備に挑発することがどれほど危険なのかわかるはずだ。
「どうだ、正解か?」
「……ああ」
「つくづく、君には驚かされる。そうか、私を抱いたのか」
渋々同意すると、御堂はさもおかしそうに笑った。
「私も、君が私を抱くことを許そう」
克哉を見上げる御堂の口元には高慢な笑みが浮かんでいる。克哉が御堂の誘いに乗ることを確信している顔だ。それはまさしくMGN社の執務室で御堂と初めて対峙したときのプライドと自信に満ちあふれた姿そのままで、当時の情景が脳裏に鮮明に蘇り胸が熱くなった。思わずその衝動のまま御堂の誘いに乗りそうになるが、かろうじて理性の手綱が克哉を抑えた。
――さすがにそれはまずいだろう。
克哉は御堂を無理やり抱いて御堂を蹂躙したのだ。いま御堂を抱けばそれがきっかけになって御堂は記憶を蘇らせるかもしれない。それも退院して早々に関係を持つなど、こらえ性が無いにも程がある。
御堂が促すようにぐい、と引き寄せる力を強くする。克哉はそれでも御堂の力に抗いながら、言った。
「御堂、あんたにとって俺は初対面に等しい。いきなりこんな関係を持つのは不適切だ」
「不適切? 君と私は恋人同士だったのだろう? それに、君は私に好意を持っている。違うのか?」
「それはそうだが……」
「私がいいと言っているのだ。なにをためらう必要がある? 君は誰に貞操を立てているんだ?」
御堂は自分の膝を克哉の脚の間に差し込んだ。克哉の股間に腿を押し付け、克哉の欲情の形をたしかめると唇の片端を吊り上げる。
この男はどこまでも快楽に貪欲だ。克哉に犯されるまで抱かれた経験はなかったはずだ。だからこそ、自分が抱かれる側だったという事実に嫌悪を抱くかと思いきや、逆だった。むしろ未知の体験に好奇心を刺激されている。
「後悔するぞ」
「何もしないで後悔するよりは、して後悔するほうが良いだろう? それに、君は私ともう何度もしているのだ。何の問題がある?」
問題は大いにある。だが、それを釈明することもできないまま、互いの間合いを計る緊張が張り詰める。ややあって、焦れた御堂が口を開いた。
「それとも、君は記憶を失った私だと不満だというのか?」
「違う」
「では、何が不満なのだ」
「あんたは正常な判断ができていない」
「私を病人扱いするな。君から見て私はそんなに信用ならないのか」
そう問いただされて、克哉は折れた。
「……せめて、ベッドにしてくれないか」
自分の自制心のふがいなさを痛感しながら、降参の旗を揚げる。
御堂は克哉に出会うまで欲しいものすべてを手に入れてきた男なのだ。今回、初めてMGNの退職という挫折を味わっても、その記憶の無い身からすれば実感が湧かないのだろう。むしろ、かつての恋人であった克哉をこうして試すことで、自分の価値を計っている。断れば御堂のプライドを傷つけて怒らせることは容易に想像できた。
だから、これは致し方ないことなのだ。そう自分を納得させたが、それ以上に、御堂が自分を求めているという事実に心が揺さぶられた。壊すほどに好きな男に誘われて断れる忍耐力など克哉は持ち合わせていなかった。
敗北感に打ちひしがれる克哉を前に御堂はニヤリと笑う。
「そうだな。私も、シャワーも浴びたい」
その顔はすべてを自分の思いどおりに動かせると信じる男の高慢さが滲んでいて、ひどく魅惑的だった。
3
交代でシャワーを浴びて、ベッドでキスを再開した。
バスローブを羽織った御堂の肌はしっとりと滑らかで、キスを交わしながら互いを裸にしていった。肉の削げた骨張った身体は克哉が最後に見たときのままだったが、肌の血色は良かった。忌まわしい記憶を棄てたことで、心身の健康を取り戻している。
互いにバスローブを脱がせ合った。御堂の肌に手を這わせると指先が胸の尖りに触れた。そこを摘まむと御堂がビクっと身体を震わせた。
「そこは、感じない」
しつこく触れようとする克哉に御堂が抗議をするが、それを無視して強めに捏ねると御堂が大きく息を呑んだ。
「っ、どうして……」
爪の先で先端を弾くと御堂は耐えきれずに声を震わせた。自分が胸で感じていることが信じられないのだろう。やはり、と克哉は確信する。克哉に抱かれたという事実を忘れても、御堂の身体は克哉に抱かれたことをしっかりと覚えている。克哉によって性感帯へと変えられてしまっていた場所は、克哉の愛撫にいとも容易く反応する。
口と手を徐々に下へと降ろしていく。臍を尖らせた舌で突きながら御堂のペニスに指を絡めた。頭をもたげ始めたそこは克哉の手の中に大人しく収まった。そこを根元から軽く擦りあげると、あっという間に張り詰める。御堂が急激に高まる快楽を堪えようと克哉の背にしがみついた。
「こんな……ぁ、あっ」
「しゃぶってほしい?」
訊くと御堂は欲情に濡れた眼差しを克哉に向けた。
「いつも、君がするようにしてほしい」
それは無理だ、と心の中で答える。いままで抱いてきたようには抱けない。御堂との関係は力ずくで強いてきたものだったからこそ、真逆の抱き方をする必要があった。決して過去を思い出させることなく、恋人同士であるという嘘を塗り固める抱き方。
克哉は御堂のペニスを口の中に迎え入れた。喉の奥まで含み、亀頭を粘膜で締め付け、唇の輪で根元から先端まで擦りあげる。
「――んっ」
御堂の下腹に力が入る。御堂の手が克哉の頭を掴んだ。髪をかき乱す手つきから御堂が感じる快楽が雄弁に伝わってくる。
上目遣いに御堂を見上げると、克哉を見詰める濡れた双眸と視線が重なった。ニッと微笑んでみせると、口内のペニスが一回り大きくなった。
「それ以上は……イってしまう」
頭を前後させながら、足の付け根や双嚢に艶めかしい動きで手を這わせる。さらなる刺激を求めるように御堂の腰が揺らめきだした。御堂の快楽が一気に高まるのを感じる。すんでのところで克哉は御堂のペニスを口内から抜き取った。根元から手で強く扱き上げると同時に、先端を尖らせた舌で突いた。
「ィ……クっ」
御堂が喘ぐように声を上げた。同時にびゅくりとペニスが震え、精を迸らせる。克哉は絶妙なタイミングで顔を離した。おかげで御堂が放った白濁は克哉の顔から首、そして胸元へと飛び散った。御堂の精液を浴びながら、克哉は凄艶に微笑んでみせる。
「あなたの味がする」
「君という……男は……」
嫌な顔ひとつせず口元に散った白濁をちろりと舌で舐め取る克哉に、御堂は息を荒げながらつぶやいた。
「孝典さん、今夜はこれくらいで大人しく寝ましょうか」
絶頂の余韻に目許を赤らめる御堂に言い含めるように告げたが、御堂は首を振った。
「普段はこの程度で終えていたのか?」
「……あんたは頑固だな」
「君こそ私を甘く見ているのではないか?」
御堂は軽く眉を上げて克哉を睨んだ。
御堂はどうあっても続ける気らしい。まるで失った一年間の自分に対抗意識を持っているようだ。
この御堂はなんの挫折も知らずに生きてきて、ごく自然に傲慢さをまとった御堂だ。そんな彼からしたら、記憶を失ったあいだの御堂は、認めがたいふがいない自分のように思えるのかもしれない。だから、かつての御堂が手に入れたもの、そして失ったものをすべて奪い返そうとしている。高価なワインを飲むのも、克哉に抱かれるのも、御堂にとっては失われた一年を奪い返す復讐の一環なのだ。
とても御堂らしい、と思った。克哉に出会う前の御堂が持っていた、健(すこ)やかな高慢さ。それは克哉が憧れた御堂の姿そのままだ。そこに存在し続けるだけで、相手が自分に屈すると疑っていない尊大な態度がなぜか心地よい。
「わかりました。極力優しくしますよ」
そう言って、克哉は自分の指を口に含んだ。御堂の視線を感じながら指をたっぷりと舐めて唾液をまぶす。そうしてしとどに濡れた指を脚の奥へと這わせた。
「ッ……」
ぬぷり、と指先を狭い場所へと潜らせた。不快感に御堂が眉根を寄せる。
「嫌なら止める」
そう声をかけたが、天より高いプライドを持つ御堂が止めろと言うとは思わなかった。窮屈な場所をまさぐり始める。拒絶に力が入り閉ざそうとするのを、前も同時に刺激することで気を逸らせた。柔らかく手懐けるように内腔を撫で、御堂の感じる場所を指で軽くタップする。びくり、と御堂が背を仰け反らせた。
「んぁっ」
「ここがあなたの悦いところですよ」
指先を蠢かし内側から快楽の凝りを刺激し続ける。御堂は抗いがたい感覚を堪えようと必死だ。シーツを掴む手に力が入っている。克哉は同時に少しずつ指の本数を増やし、十分だろうと思った頃合いで指を引き抜いた。唐突に訪れた空虚さに御堂は「あ」と切なげな声を上げた。
御堂の腰を引き寄せ、大きく開かせた脚の間に腰を入れる。途切れた刺激を欲しがってヒクつくアヌスに自分の先端を押し当てると、御堂が緊張に身体を強張らせた。もう、御堂に確認は求めなかった。克哉の我慢も限界だからだ。
「挿れるぞ」
「っ、あ、あ……っ、あああ」
ぐうっと腰を入れると十分に解されたそこは柔らかく拓いて克哉を受け容れていく。それでもこの御堂は初めて経験する圧迫感に苦しそうに喘いだ。
「少し、待…て……」
御堂は克哉の胸を手で押して動きを止めようとする。
「まだ半分しか挿入ってない。大丈夫だ、すぐに悦くなる」
言葉を被せるように言って、じりじりと隘路を攻略していく。
もはや先を急いているのは克哉のほうだ。それくらい切羽詰まっていた。それでも自制心をかき集め、できうる限り御堂を気遣おうとした。
「無理、だ……っ、あ、ひあ……っ! ん、んん、ふっ!」
異物感が強いのか御堂は声を上げて拒絶するが、克哉は御堂の口を口で塞いだ。そのまま腰を遣い始めた。ゆっくりと反応をたしかめるように始まった律動は、すぐに御堂の悦いところを探り当てた。
「ぁ……、ん、ふ……」
突くたびに漏れる無防備な喘ぎが甘さを滲ませ始めた。熱く、きつく克哉を食い締める粘膜は、克哉に呼応して収斂(しゅうれん)する。御堂の反応をたしかめながら、快楽を導くように巧みに腰を遣う。
未知の快楽に取り繕えなくなった御堂が、上擦った嬌声とともに苦しげに顔をしかめるが、それでも、御堂のペニスは反り返ったまま先走りを零し続けている。
「御堂」
名前を呼ぶと御堂が視線を上げて克哉を見た。その眸に発情が差して煌めいている。もう一度「御堂」と呼びかけて、「孝典さん」と訂正した。
「……孝典さん、俺の背につかまって」
シーツを強く掴みすぎて痺れたように固まっている御堂の手を掴み、自分の背に回させる。そうして、猛然と動き始めた。最奥に突き入れ、内腔をかき回す。粘膜もまた、克哉自身を包み込み奥へと誘い込もうとした。
熱く身を焦がすような欲情が突き上げてくる。御堂もまた激しく揺さぶられながら克哉の背にしがみついてきた。
「か……つ、や…。――克哉、っ」
甘く掠れた声で名前を呼ばれて頭の芯が痺れたように何も考えられなくなった。御堂に求められている。あれほど焦がれた御堂が、いまや自分の腕の中で甘く乱れて克哉を欲しがっている。言葉に形容できない興奮が克哉の全身を駆け巡った。
たまらずに、動きが忙しないものとなる。ふたりの快楽が噛み合い圧倒的な絶頂に攫われる。克哉は喉の奥で呻いた。たまらない悦びに頭の天辺から爪先まで満たされる。狭い場所に熱い粘液が溢れかえるのと同時に、御堂もまた迸らせた。
気が付いたら唇を重ねていた。深くつながったままするキスは心地よくて、きつく抱き合ったまま動けなかった。
まどろみの中で夢を視た。
「御堂、いい加減起きろよ」
両手を吊り上げられて拘束されていた御堂は意識を失っているようだった。肩を揺さぶると頭が頼りなく持ち上がる。ぼんやりとした御堂の眼差しは頼りなく彷徨い、克哉を視界に捉えた瞬間、たちまち目が見開かれ、怯えの色に染まった。
監禁して昼夜を問わず責め苛んでるにも関わらず、御堂は克哉に屈服することはなかった。克哉の責めに悲鳴を上げ、屈辱に涙を流しても、克哉に媚びることも縋ることもしない。あまりにも頑(かたく)なな反応に克哉の苛立ちも増している。たぶん、身体をいたぶるだけではダメなのだ。精神的にも追い詰めなくてはいけない。
だから、御堂の大切なものをひとつひとつ踏み躙っていった。自由を奪い、家を奪い、仕事を奪い、誇りも奪った。人間としての尊厳さえも。御堂が大切にしていると思われるものはすべて台無しにしていく過程で、克哉は御堂のワインセラーにあるワインにも目を付けた。
「ワイン好きなんだろう? あんたのとっておきのワイン選んできてやったぞ」
御堂の前にこれ見よがしにワインを掲げる。克哉はワインには詳しくないが、ロートシルトという銘柄は知っていた。高いワインだということも。
御堂は克哉が持ってきたワインを目にして微かに息を呑んだ。口は厳しく引き結んだままだが、そのわずかな反応だけで御堂が大切にしているワインだということが知れた。
「いまからこれを飲もうと思うのだが、あんたもどうだ?」
「……勝手にしろ」
にやついた笑みを浮かべながら御堂に尋ねる。だが、御堂はそっぽを向いて吐き捨てるように言った。
キッチンから拝借してきたソムリエナイフを使ってキャップシールを剥がし、スクリューをコルクに突き刺した。奥までねじ込むと力任せに抜いた。乱暴に引き抜いたせいか、経年劣化したコルクの端が欠けてボトルの中に落ちたようだ。チッと舌打ちしながら食器棚から持ってきたワイングラスに注いだ。
ドボドボと暗赤色の液体がグラスを満たし、濃い香りが鼻を掠める。
「高いワインなんだろう? さぞかし美味しいのだろうな」
御堂の前でグラスを傾けワインを口に含んだ。途端に、克哉は顔をしかめた。ざらついた舌触りとひたすらに濃厚で重ったるい味わいで、えぐみさえ感じた。ひいき目に評価してもとても美味しいとは思えない味だ。
「まずいな……。あんた、こんなのをありがたがってるのか? 飲んでみろよ」
御堂の薄く口元にグラスを近づけた。御堂は頑なに口を閉ざしたままで、克哉は顎を掴み上を向かせると頬のくぼみに指を食い込ませて無理やり口を開かせた。グラスを傾けてワインを御堂の口に注ぎ込む。
「ちゃんと味わえよ」
「くはっ、ぐ……、かはっ」
御堂が激しく咳き込んでワインを吐き出した。
「もったいないなあ」
薄く笑いながらまた御堂の顎を掴んで無理やり飲ませた。御堂の喉仏が上下する。今度こそちゃんと飲んだと思って、顎から手を放せば御堂は口の中に残っていたワインを吐き出した。赤い液体が御堂の胸から腹へと滴り落ちる。
「なんだ、飲まないのか? それとも外れのワインだったのか?」
御堂は赤らんだ目許で克哉にありったけの憎悪の眼差しを向けた。ぶつけられる憎しみを心地よく感じながら、克哉は唇を歪めた。
「ああ、そうか。あんたはこっちで味わいたいんだな」
「やめ……っ、ひっ」
克哉は御堂に咥え込ませていたディルドを引き抜いた。そして、おもむろにグラスに残ったワインを傾け自分の指を濡らすと御堂のアヌスに指を突っ込んだ。
「は、あ、あ……」
指を抜き差ししては何度もアヌスにワインを塗り込める。少量でも直腸から吸収させると効果は抜群で、御堂の顔が火照り始めた。
「ずいぶんとこのワインが気に入ったんだな」
御堂の目の前でワインの瓶を振って見せた。まだ中には半分以上残っている。
「もっといっぱい飲みたいだろう?」
「よせ……、やめろっ」
日中ずっとディルドを咥え込ませていたせいで、御堂のアヌスはいつだって柔らかく綻んで克哉を受け容れられるようになっていた。克哉は気分ひとつで御堂をねじ伏せ、犯し、快楽を得るための道具として弄ぶことができた。
「たっぷり飲ませてやるさ」
自分のペニスにワインを傾けた。ひんやりとした液体が克哉のものを濡らす。ワインを滴らせたまま、克哉は御堂のあぬすに亀頭を押し当てた。ぬぷりと粘膜が柔らかく解けて克哉を受け容れる。
腰を差し込み、抉りながら深いところの粘膜を押し開いていく。苦しいほどの圧迫感に御堂が喉を反らした。
「く……、ふ、はぁっ、あ、ああああ」
口が大きく開いて、悲鳴が上がる。克哉は軽く腰を揺すって中の具合をたしかめると、本格的に律動を始めた。緩急と深度を巧みに変えながら、抗う粘膜を強引な抽送でいたぶった。抜ける寸前までゆっくりと引き抜きながら、今度は一気に根元までたたき込む。
「あ、く……っ、は、ああああっ!」
喘ぐ声は止めどなく尾を引いた。絶え間ない刺激に翻弄されて御堂は鞭打たれたように身体を跳ねさせた。容赦の無い交わりを続けるうちに御堂の声が濡れたものへと変わっていく。苦痛以外のものを感じているのは明らかで、御堂のペニスは腰を打つたびに重たく揺れた。
屹立したそれを戯れに擦りあげると御堂は嫌悪に顔をしかめた。
「いや、だ……っ」
「どうして? 俺に犯されて興奮しているんだろう?」
根元から亀頭まで指で一往復させるだけで御堂のペニスは蜜を溢れさせる。
「違う……抜けっ、ふ……やめっ」
「あなたのここはこんなにも美味しそうに俺を咥え込んでいるのに?」
御堂にわからせるように、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を聞かせるように抜き差しする。
「俺に犯されてここをおっ立てて、あんたは乱暴にされると感じるマゾなんだな」
「貴様……っ、くっ、ぅ……、放せ…っ」
「そうか。あんたはもう男に犯されて悦ぶメスだから、メスイキしたいんだな」
「違う…っ!」
涙に濡れた眸で睨み付けられるが、そんな顔をすると余計に男を悦ばせるだけだとわからないのだろうか。御堂はどうにか逃げようとして身体をのたうたせるが、克哉に深く穿たれて動くこともままならない。必死の抵抗は息を乱すばかりでなんの甲斐もなかった。むしろ、克哉の興奮を煽るだけだ。
ペニスから手を放し、床に置いてあったワインボトルを手に取った。そして御堂の顎を掴んで口を開かせると、残りすべてのワインを御堂の口へと注ぎ込んだ。とぷとぷと注がれるワインに御堂が激しく噎せてワインが零れる。御堂が噎せるたびに粘膜がきつく締まってその窮屈さを味わった。
零れたワインは首や胸と伝い。御堂の肌の上を赤く染めて流れ落ちていく。ひんやりとした冷たさに御堂がふるりと震えた。
「く……ぅ」
「ぜいたくな楽しみ方だろう?」
ワインは下腹を伝い御堂の茂みから結合部までをしとどに塗らした。アルコールで上気した肌が赤く染まっている。それはまるでワインの赤さに染まったかのようだ。ワインに濡れて尖った乳首をきつくつねれば、中が生き物のようにうねる。その感触を愉しみながら荒々しく奥を蹂躙する。
「ひぃっ、あ、ああっ、……んっ! くっ!」
御堂は額に脂汗を浮かべながら、全身を強張らせた。絶頂はすぐそこまで来ているのだろう。克哉はひときわ強く中を抉り抜き、根元まで突き入れた。
「ぁ、あああああっ!」
御堂は四肢を突っ張らせて腰をガクガクと痙攣させた。直接の刺激を与えられていないにもかかわらず、ペニスからは白濁が溢れだし、幹を伝ってワインと混ざり合いながら下へと伝い落ちていく。
絶頂を迎え忙しなく収縮を繰り返す粘膜を克哉はさらに犯し続けた。
「んあっ、も……、よせ……っ、――や、ぁあっ」
「すっかり淫乱なメスに成り下がったじゃないか。さっきからずっとイきっぱなしだな」
せせら笑いながら荒々しく身体を揺すってやると、御堂は涙を流しながら首を振った。それでも 御堂のペニスは壊れたように粘液を零し続けている。むせかえるようなワインの香りの中で克哉は御堂を貪り続ける。
「いい加減認めろよ、あんたは俺に抱かれて善がりまくる淫乱なマゾなんだよ」
「違……っ、違う…っ!」
うわごとみたいに繰り返し否定し続ける御堂をあざ笑いながら、克哉は自分の快楽を辿った。美しく誇り高い男を蹂躙する愉悦。
御堂の腰骨を爪が食い込むほどの強さで掴んだ。そうして、体重をかけるようにぐうっと腰を深く差し込む。みちみちと粘膜が軋む感触がした。さらに深い最奥をこじ開きそこに亀頭を潜り込ませた。腸壁を狭いところをずぼっと抜けた感覚があった。
「――――ぁああっ!!」
御堂が仰け反って目を剥いた。アルコールに蕩けた身体は本来暴かれるべき場所でないところまで克哉の侵入を許してしまったのだ。
御堂の口が酸欠の魚のように大きく開いて忙しなく喘ぐ。足が爪先までつっぱり、御堂は最奥を犯される苦痛に裸身を戦慄かせた。
「俺の形を忘れるなよ、御堂」
克哉は愉悦を噛みしめながら、御堂の一番深いところにたっぷりと白濁を注ぎ込んだ。
生々しい夢に克哉は目を覚ました。夢……というよりは記憶だった。御堂を甚振り尽くした記憶の断片。御堂が大切にしていたワインを克哉がどれほど無下に扱ったのかを思い知らされる。深く苦い後悔が込み上げてくるのに、夢の中の興奮はまだ残留していた。自分の身体が正直に反応していることに気付き嫌な気持ちになる。
ふいに寝息が聞こえた。横を見ると、深く寝入った御堂が規則正しい呼吸を刻んでいた。そっと上掛けをめくるが、御堂はどこも拘束されていない。信じられない気持ちで深く眠る御堂を眺めた。逃げようと思えば逃げられるはずの御堂がこうして克哉の横で無防備に寝ている事実に驚く。
「しまったな……」
昨夜の出来事を思い返して、克哉は額に手の甲を当てて、自己嫌悪に深いため息を吐く。
無理強いこそしなかったが、勢いに任せて御堂を抱いてしまった。病み上がりで、記憶を失っていて克哉が恋人だったと騙されている御堂を、だ。
どうあっても御堂を抱くべきではなかったと冷静になった頭で反省するが、いまさら時間を巻き戻すこともできない。
それにしても、昨夜の御堂はどうしようもなく淫らで蠱惑的だった。抱かれる快楽を素直に受け容れる御堂はこうも艶やかに乱れるのだ。夢で感じた興奮とは違う別種の熱がまた克哉の下腹の奥でくすぶり出す。そのときだった。
もぞりと御堂が寝返りを打った。
ハッと我に返って、おそるおそる隣で眠る御堂を見た。この御堂が目を覚ましたらどうなるのか。いままさに記憶を取り戻したところかもしれない。
そんなときに克哉の横で寝ていたと知ったらパニックに陥るかもしれない。そうでなくても絶望にたたき落とされるだろう。
克哉は音を立てないようにそっとベッドから抜け出したそのときだった。
「……克哉?」
名前を呼ぶ声に動きを止めた。
背後で気配が動く。ゆっくりと肩越しに振り向いた。
重ったるい瞼を押し上げた御堂が克哉を見てゆったりと微笑む。
「おはよう」
「おはようございます、み……孝典さん」
御堂、と名字で呼びかけて名前を呼び直した。
御堂はベッドマットに肘を突いて起き上がろうとして顔をしかめる。
「痛……っ」
「大丈夫か?」
咄嗟に駆け寄ったところで、御堂に睨み付けられた。
「君は加減というものを知らないのか」
「すみません」
「まったく……」
怒っている口ぶりだが、その口調はからかう響きがある。本気で怒っていないのは明らかだ。御堂は寝乱れて額に落ちた前髪をかきあげながらため息を吐いた。
「仕事を辞めていてよかった。この状態で出勤しろと言われてもとても無理だ」
「あなたなら這ってでも行きますよ」
「そんなことがあったのか?」
そう聞き返されてまた余計なひと言を口にしたことを後悔するが、素知らぬ顔をして言った。
「以前、あなたに無理をさせすぎたときに」
御堂をこの部屋で初めて犯したとき、男に抱かれたことのない無垢な身体を強引に貫いた。クスリで身体の自由を奪われた御堂はろくな抵抗もできずに、恥辱に呻くことしかできなかった。
翌日、そんな御堂が、午後からとはいえ出社していたのは驚いた。青ざめた顔はたまたま克哉と出くわしたからだけではないだろう。痛めつけられた身体を鞭打つようにして、気力と矜持だけで出勤したのだ。
あのときの御堂がどれほど無理していたのか。克哉はそれをわかっていながら、克哉を前に怯える御堂を愉しんだ。
克哉は労る口調で告げた。
「無理せず休んでください。朝食は俺が作りますから」
「そうさせてもらう」
克哉は返事代わりに微笑んだ。部屋を出る寸前、「克哉」と呼びかけられた。振り返れば、ベッドに上体を起こした御堂が克哉を見詰めている。部屋には朝の陽射しが満ちて、御堂の肌も髪も光を弾いて輝いていた。御堂の形の良い唇が開く。
「これからも、よろしく」
その声には紛れもない克哉に向けたいとおしさが込められていて、この瞬間、自分はこの御堂に受け容れられたのだと感じた。嘘から出たまことの愛。
「ええ、よろしくお願いします、孝典さん」
にっこり笑って平然と返しながらも、鼓動が早鐘を打ち出した。克哉の胸の内にはいままでにないほどのこそばゆい感情が溢れかえっている。満ち足りていながらも、限りなく欲してしまう。これを幸福と呼ぶのだろう。同時に、背筋が震えるほどの怖さを覚えた。
すべてを擲(なげう)ってもいい、と思うほどの大切なものを手に入れた瞬間、それを失う恐怖に脅かされることに気付いたからだ。
とはいえ、御堂との同棲生活は始まってみれば至って順調だった。お互い弁えた大人同士だし、御堂の家は一人暮らしにしては部屋数が多く、一人になりたいと思えば簡単に部屋をわけることができた。それに、御堂は恋人同士だという思い込みがあるせいで、克哉への嫌悪を持っていない。それどころか、克哉とどんな恋人関係を築いてきたのか興味津々で、ことあるごとに、どんなふうに付き合っていたのか克哉に尋ねてくる。休日の過ごし方からふたりの共通の交友関係まで事細かに確認しようとしているようだ。
訊かれるたびに克哉は御堂との同棲生活を詳細かつ具体的に頭の中で組み立てようとするが、そのたびに自分の至らなさを痛感する。御堂の家のどこになにがあるかは知っていても、御堂自身のことはほとんど知らないのだ。それに、あまり話を広げすぎたらつじつまが合わなくなって嘘が露見するリスクも高くなる。結果、外出はほとんどせずに家に引きこもってベッドの上で耽っていた、という身も蓋もない話を語ることになった。御堂は「自分の浅ましさに絶望する」と顔をしかめてコメントしていたが、あり得ない話ではないと思ったのか、それ以上は詰問してこなかった。
御堂の前では気を張り詰めている克哉に対して、記憶を失った御堂のほうがよほど新しい生活に馴染んでいた。仕事を失いはしたが、療養期間と割り切って、精力的に体力回復や知識の補充に努めている。むしろ、克哉のほうが降って湧いた御堂との恋人関係への戸惑いを払拭しきれないでいる。そんな克哉の態度を、御堂は記憶を失った自分に対する遠慮だと思っているようで、ふたりのあいだにたびたび立ちはだかる不自然さは見過ごされていた。
同棲生活が始まって二週間経過したが、御堂の記憶が戻る気配は無かった。
御堂を見守るにしても、克哉は仕事がある身で一日中御堂に付いているわけにもいかない。以前のように御堂を監禁して閉じ込めることもできないから、御堂はどこで何をしようとも自由だ。
つまり、克哉のあずかり知らぬところで御堂が記憶を取り戻し、自分を蹂躙し尽くした克哉への憎悪と自分を見捨てた世界への絶望に、発作的にベランダから飛び降りる可能性さえあるのだ。それを考えると心臓を握りつぶされるような恐怖に襲われた。御堂の死体を前に呆然とする悪夢を見て深夜に飛び起きることもざらにある。いっそ、御堂を拘束して監禁してしまったほうが安心だと思うが、そうなれば御堂はふたたび壊れるだろう。あの暗い部屋で変わり果てた御堂の姿を目にした恐怖と、御堂をこの世界から失う悲嘆、どちらがまだましなのだろうかと考える。
結局のところ、克哉は御堂を思いどおりにはできない。それならば、仮初めにでも甘い関係を築くことができている『いま』を選択したほうが良いに決まっている。結果、御堂をいつ失うかもしれない不安に苛まされ続けている。
朝を迎え、克哉は御堂の家から出勤するたびに、もしかしたらこれが御堂の見納めになるのかもしれない、と今生の別れのような覚悟を迫られた。
帰宅するときは、ドアを開けた瞬間、そこに御堂はいるのか、いるならいるで御堂が自分に向ける眼差しが真逆に変わってやしないかと緊張に指先が冷たくなる。
そして、部屋の奥から御堂の声で「おかえり」と言われるたびに氷が溶けていくような安堵を覚えるのだ。
セックスもほぼ毎日のようにした。決して克哉から強いたものではないことは強調したい。
御堂は克哉に抱かれていたという事実もあっさり受け容れた。ベッドでは常に抱く側だった御堂が抱かれる屈辱をよく許したと思うが、過去の自分がそれを許したならいまの自分も許す、と割り切ったようだ。そして、それが未知の悦楽をもたらしてくれるとを知った。快楽に貪欲な男が暇をもてあますとセックスに耽るのは言わずもがなだ。
セックスをするときは必ずベッドの上で、拘束は一切しない。それが克哉にとっての免罪符だ。まるで普通の恋人たちのように快楽を分かち合う行為に溺れる。
ある夜、お互い満足するまで抱き合って眠りに攫われる寸前、御堂はふと目を覚まして克哉に顔を向けた。
「君が私を抱くのは、比べられるのが嫌だからだろう?」
唐突にそう言われて何のことだかわからずに目を瞬かせたが、御堂は難問の解を見つけたような自慢げな顔で言う。
「君は相当に嫉妬深いからな。私の過去の相手と比較されるのが我慢ならないのだろう。違うか?」
「そんなに嫉妬深く見えるか?」
「いちいち私の居場所を確認してくるではないか」
克哉が御堂の行動に気を配っているのは確かだ。帰ったときに家にいなければすぐに連絡をする。携帯がつながって、変わらぬ調子の御堂の声が聞こえてきたら安堵するが、携帯がつながらないときは不安に喉が締め付けられて最悪な想像が次から次に浮かび上がる。いまのところ克哉の心配はすべて杞憂で、近くを散歩していたとかジムに行っていたとかそんな些細な理由だったりするのだが、御堂の動向を逐一気にする克哉を御堂は束縛の強い恋人だと思っている。克哉がなにを怖れているのか、この御堂は知らない。
「……そのとおりですよ。あなたはモテるからな。それに、あなたを抱くのは俺が最初で最後の男だ」
正解だと告げると御堂は満足げに微笑んで、すうっと眠りについた。
いとおしさが込み上げて、御堂をきつく抱き締めたい衝動に駆られた。
御堂は御堂で、自分たちの物語の空白を補完しようとしている。いまのふたりの関係を盤石にするためにそうと知らず克哉の嘘に協力してくれるのだ。それはひとえに克哉を恋人だと信じているからだ。そんな御堂がいとおしくてたまらない。
御堂は決して冷血な男ではない。基本的に御堂は、一度懐の中に入れた相手には愛情をひたすらに注ぎたいタイプなのだろう。御堂という男を知れば知るほど離れがたくなっていく。
御堂と一緒に暮らす日々を積み重ねるうちに御堂についていろいろなことがわかってきた。
御堂は寒がりで、暖房が効いている部屋の中でも厚着で過ごす。食べ物については辛いものやスパイスが利いたもの、パクチーは苦手。チーズにはこだわりがあるようでウォッシュタイプのチーズが好き。料理は簡単なものなら作れるようで、朝食は卵料理とサラダといった簡単なものを交代で作るようになったが、克哉が作ったほうが手際が良いし失敗がない。また、御堂に食材の買い出しを任すと無駄にたくさん買ってくるので、冷蔵庫の中が中途半端に使われた食材で溢れかえる。御堂にとっては外食のほうが合理的で地球にも優しい。
克哉がいない日中はどうやら読書をしたりジムに行ったりしているようだ。夜はよくワインを開けている。最初こそポアラーを使って飲んだが、時間がたっぷりとあるせいか、ワインを飲むときはデキャンタに注いで長々と蘊蓄を垂れてからようやく飲み始める。御堂のワイン講釈を毎晩聞かされているせいで、克哉もすっかりワインに詳しくなってしまった。
御堂はワインが好きではあるものの、アルコールはそこまで強くなかった。克哉と飲むことでワインを気軽に何本も飲めることがうれしいようで、ふたりで外食するときはワインの品揃えで店を選んでいる。家で食事をするときはデリバリーを利用したが、テーブルワインを御堂が用意した。テーブルワインはさすがに高価なものではなく手頃な値段のもののようだが、新世界のワインなど御堂が気になるワインを選び抜いている。一度大失敗をしたことがあった。
克哉がデリバリーで寿司を頼んだことを知らず、御堂が赤ワインを開けたのだ。寿司に赤ワイン、克哉は悪くない組み合わせのように思えたが、乾杯し食べ始めたところで、御堂が眉をひそめ「最悪だ」とつぶやいた。克哉も御堂の言わんとすることがすぐにわかった。口の中が大惨事になっている。魚の生臭さがワインの鉄っぽさを強調し、嫌な後味になるのだ。
「白ワインにしておけば良かった」
期待していたワインを相性が最悪の寿司でダメにしてしまった御堂の嘆きは大きかった。ワイングラスを手に悲嘆に暮れる御堂をよそに、克哉はワインを脇に避けて淡々と寿司を食べ続けていると、御堂が恨めしげに克哉を見た。
「君は平気そうだな」
「寿司は寿司で食べて、そのワインはあとで飲めばいいだろう。つまみならチーズも生ハムもある。取り返しのつくことだからそんなに悲しむことじゃない」
御堂は少しの間、不思議そうな顔をして克哉を見返していたが、ふいに笑い出した。
「君の言うとおりだ。君は面白い男だな」
なにが面白かったのかわからないが、御堂は心の底からおかしそうに笑う。その顔に惹きつけられた。御堂もこんなふうに笑うことがあるのだな、と新鮮に思う。
「次からは寿司を頼むときは事前に私に報告するように」
そう言い置いて、御堂も気を取り直して寿司を食べ出した。これからも克哉と食事を共にすることを当然としてる口調に胸がじんわりと熱くなる。
こうした御堂の知らなかった一面を知るのは嬉しいし、御堂の生活に克哉が自然と組み込まれていくのもくすぐったい気持ちになる。
ワインばかり飲んでいる御堂が、急に克哉の存在を思い出したように「ところで君はワインは好きなのか?」と聞いてきたこともあった。苦笑しつつ「ええ」と答えれば、御堂は安心したように三本目のワインを開栓した。「実は苦手だ」と言ったら御堂はどんな反応するのか見たくはあったが。
御堂との生活はなにもかもが新鮮で輝きに満ちあふれていた。他愛のない日々といえばそのとおりだが、この一瞬一瞬が永遠の思い出に変わってあとから何度も思い出す、そういった類いの日々だった。克哉はそれを当然のような顔をして享受している。身に覚えのない贅沢を味わいながら、この代償は途方もなく高くつくだろうと覚悟する。
4
四柳からは定期的に御堂の様子を確認する連絡が来た。問題ない、と答えながら、克哉は気になっていたことを逆に訊いた。
「頭を打って性格が変わることはあるのか?」
一緒に暮らす御堂は、克哉の知っている御堂と違ってもはや以前と別人と言っても差し支えなかった。四柳に御堂がよく笑うようになったことを報告すると、四柳は電話の向こうで笑った。
『御堂はもともと気難しい性格じゃなかったよ。君は御堂をなんだと思っていたんだ』
「そうなのか?」
そう言われても、克哉が知る御堂は違った。
御堂との初対面は子会社の人間に対する、侮蔑、嘲りが露骨に満ちた態度だった。他の人間に対しても気難しい顔をしているか、冷笑くらいだった。力尽くで犯してからは、憎悪と怒りをぶつけてきた。だが、それを身体に徹底的に教え込むことで、克哉に対する怯えと恐怖が御堂を支配した。
それが一緒に暮らしてからは御堂が楽しげに笑う場面をよく見かけた。料理に失敗して卵を焦げ付かせては「しまった」と笑い、初めて買ったワインが思いのほか美味しければ喜ぶ。御堂のワインの蘊蓄を適当に聞き流すと腹を立てる。克哉よりもよほど情緒豊かだ。
『……ああ、そうか。君は昔の御堂を知らないんだね』
四柳は合点したように話を続けた。
『御堂は普通に笑うし普通に怒るし、昔はもっと喜怒哀楽がはっきりしていた。だから、もしかしたら以前の御堂に戻っているのかもしれない』
「俺が知っていた御堂はひねくれたあとだったのか」
『そうだね』
四柳は言葉を濁し、少しのあいだ思案するようなためらいを見せた。
『君は知っておいても良いかもしれない。御堂が部長になるときに、部長のポストを争った相手がいてね。その相手は、僕と御堂の大学時代からの共通の友人で本城という男だ』
言葉を慎重に選ぶ間を置いて四柳は続ける。
『結局、その競争に御堂が勝って部長になったのだけど、その争いは二人の友情を壊すには十分だった。本城はMGNを去って、御堂は滅多に笑わなくなった』
そう言われれば、そんな話を藤田から聞いたことがあった。四柳は意図的に省略したのだろうが、本城の研究データを御堂が盗んだという噂も流れていた。克哉もそれをネタに御堂をいたぶった。御堂は否定していたが、克哉にとって真偽はどうでもよかった。御堂の弱点を知ったからだ。
しかし、こうして一緒に暮らしてみればわかる。御堂は自分自身に対してもシビアでフェアな人間だ。不正を働くような男ではない。研究データの盗用は御堂に対して悪意を持つ者が流した根も葉もない噂だろう。
御堂にとっての部長のポストは友情を犠牲にして得たもので、だからこそ部長としての責務は重いものだった。それが御堂の性格を頑なで冷徹なものへと変えた。MGNを辞めたいま、御堂はやっとその呪縛から解き放たれたのかもしれない。
とはいえ、いまの御堂には部長になったときの記憶は残っているから、本城とのあいだの出来事も覚えているはずだった。むしろ、それ以降の記憶が失われた分、生々しささえあるのかもしれない。だから、四柳以外の共通の友人と連絡を取りたくなかったのかと合点がいく。本城もそのうちの一人で、自分の話が伝わると思ったからだ。
四柳は、ふ、と吐息で笑った。
『きっと御堂は君に心を許しているのだろうな。御堂をよろしく頼むよ』
そう言って、四柳は電話を切った。
四柳からはよろしく頼まれたものの、御堂は自立した大人の男で克哉が面倒を見る必要は一切なく、恩恵を受けているのはむしろ克哉のほうだ。御堂の恋人として、本来なら受ける資格の無い愛情を注がれている。いや、克哉が搾取していると言ったほうが正しいのかもしれない。
「ただいま、帰りました」
その日、帰るなり「克哉」と部屋の奥から呼ぶ声がして、御堂を探した。
書斎に入ると、御堂は本棚の前に立っていた。本を一冊ずつ手に取り、ページをめくっては内容を確かめている。
「どうした?」
と尋ねると御堂は持っていた一冊の本を克哉に手渡した。
「克哉、私はこの本を読んだか知っているか?」
「さあ……」
克哉はタイトルを確認する。昨年出版されたビジネス書らしい。国際的に有名な経営学の第一人者が書いた、分厚い専門書だった。書き込みもないまっさらな状態で、御堂はそれを読んだかどうか判断つきかねているようだ。
御堂が読む本は大抵ビジネス書かノンフィクションで、娯楽というよりは勉強の一環で読書をしているようだ。難しい顔をして分厚い専門書や英語論文を読んでいる姿をよく見かける。
リビングのテレビも、たいていは数字が飛び交う経済ニュースが流されている。せっかくの大型スクリーンがもったいないので、休日にソファに並んで映画でも見ようと提案したら、御堂はモノクロ時代の古い映画を再生した。最近の動画配信サービスはこんな古い映画まで取りそろえているとは知らなかった。
「あなたはワインも映画も古いのが好きなんだな。俺にはよくわからないが」
と疑問を呈した途端に、
「シャドウの強いコントラスト、計算し尽くされたカメラワーク、そして俳優たちの抑制された演技。色がないからこそ光と影の使い方が際立っているだろう?」
と延々と説明されたので閉口した。克哉からしたら退屈な映画で、むしろ映画に見入る御堂の横顔を見るほうがよほど楽しい。ちなみに、御堂はホラー映画は苦手なようだ。深夜、克哉がリビングで適当に選んだホラー映画を音量を抑えて流しながら仕事をしていたら、ちょうどスプラッターシーンで御堂が部屋に入ってきてぎょっと固まっていた。
そのときの御堂の顔を思い出しながら、くすりと笑いつつ、御堂に本を返した。
「読んだかどうか気になるなら、もう一度読めばいいじゃないか。書斎に置いてあるってことは、読みたいと思っていた本なのだろう?」
「一度読んだ本をもう一度読むのは時間の無駄だ。過去の私が読んでいるなら、記憶が戻れば読む必要はない」
「また読んだら新しい発見があるかもしれない。悩むくらいなら読めばいい」
御堂は一瞬考え、それから淡々と答えた。
「……そうだな。記憶が戻るかどうかもわからない。過去の私は死んだも同然だと思ったほうが良さそうだ」
さらりと吐き出されたその言葉に、克哉の胸が鋭く痛んだ。まるでナイフを突き立てられたように。
過去の御堂は死んだ。
その言葉が、心の奥深くに沈んでいく。
御堂との生活は平穏で幸福だった。このままこんな日々がずっと続けばよいのに、と切に願う。御堂の記憶喪失によってリセットされたふたりの関係は、振り出しに戻るどころかゴールテープを切ったところから再開されている。それも考え得る限り最上のゴールだ。
しかし、時折こうして冷や水を浴びせられるように、過去を否応なく意識させられた。
この生活が御堂の記憶喪失の上に成り立っていることは忘れてはならない。克哉が過去の御堂を葬り去ることで、いまの関係を手に入れた。御堂にいとおしげな眼差しを向けられるたびに克哉の胸が軋む。克哉は、あれほど自分を憎んだ御堂を破滅させただけでは飽き足らず、上澄みだけをすくい取った御堂と恋人ごっこをして、御堂を冒涜し続けている。 御堂の記憶が戻って現実を正しく認識したら、憎い仇に心身を弄ばれたというさらなる絶望にたたき落とされるだろう。
かといって、幸福の意味を知ってしまったいま、御堂を手放すことは決してできなかった。ともに暮らす日々が長くなるほど背負う罪が重くなると自覚していてもだ。
「どうした?」
表情に出したつもりはなかったが、ほんのわずかな克哉の変化を敏感に察知したらしい御堂が、克哉の顔を覗き込んできた。急いで取り繕った笑みを浮かべた。
「孝典さん、これを」
克哉は手に持っていた細長い紙袋を御堂に渡した。
「ワインか?」
御堂は興味を持ったらしく、本を本棚に片付けると克哉から紙袋を受け取り中からワインを取りだした。
「ロートシルト2009年……」
御堂はラベルを確認するなり目を瞠り、つぶやく。
「これはどうしたんだ?」
「あなたへのプレゼントですよ」
あちこちの都内のワインショップに問い合わせて見つけたものだ。値段は相当に高かった。それでも迷わず買った。御堂にはプレゼントと言ったが、正確には償いだ。克哉が奪ってしまったもので取り返しがきくものを少しずつ返却しているだけだ。それなのに、御堂は心の底から喜ぶような顔をして言う。
「ありがとう、克哉。大切な記念日にこれを一緒に飲もう」
「……ああ。ついでに聞くが、その記念日はすぐに来るか?」
「いいや、十年は寝かせたいからそのつもりでいろ」
「だいぶ先だな」
「君が飲んだロートシルトよりも熟成されてはるかに美味しくなっているはずだ。楽しみにしていろ」
「それは楽しみだな」
返事をしながらも、窒息しそうなほど胸が苦しくなった。熟成されたワインをいつか飲むことを純粋に期待している御堂、その未来を奪いかけた克哉の罪のおぞましさを突きつけられたからだ。
御堂の記憶が戻れば、克哉はもう一度御堂を殺してしまうかもしれない。
御堂がいつ記憶を取り戻すのか、そして、御堂を失う場面を想像しては最悪の未来に怯えている。 もし御堂の記憶が戻らなくても、いつか戻る記憶に怖れ続けながら砂上の楼閣に暮らし続けることになる。それはまるで時限爆弾の上に暮らしているようなものだ。それは克哉に与えられた終わりのない罰なのだろう。
療養期間として自宅で過ごしていた御堂だが、やはりじっとしていられない性分らしい。
その日、出社の支度をする克哉の横で、御堂もまたクローゼットからスーツを取り出し着替え始めた。
「出かけるのか?」
「ああ、MGNを辞めたと知って、知り合いの社長が声をかけてきてな。すこし会って話でも聞こうかと」
「そうか。そこに就職する気か?」
「条件次第だな」
御堂は軽く笑った。その顔は自信に満ちあふれているいつもの御堂だ。
御堂がこうして再就職することを克哉は歓迎した。御堂が仕事を始めれば日中、克哉がいないところでも誰かが御堂に目を配れる。
克哉は御堂が選ぼうとしたネクタイを一瞬先に奪い取った。
「なにをする」
片眉を跳ね上げて睨む御堂に軽く笑い返し、御堂の首にネクタイを回した。
「じっとしていろよ」
ネクタイを結び始めると御堂は大人しくなった。ノットがきれいに見えるようバランスに気をつけつつ訊いた。
「で、どの社の人間と会うんだ?」
「話がまとまったら教える」
「せいぜい高く売ってくれ」
「もちろん、そのつもりだ」
軽口を叩く克哉に御堂もまた軽口で応える。ネクタイをきっちり調整しながら結び終えると、御堂は「ありがとう」と礼を口にして、そっと克哉が結んだノットに触れた。
「やはりあなたはスーツ姿が似合うな」
「私もそう思う」
そう言って高慢に微笑む御堂を眩く感じた。御堂は克哉に出会う前に時間を巻き戻した。順風満帆にエリート街道を歩む自分を取り戻したのだ。MGNは辞めることにはなったが、この御堂はその経緯を知らないからこそ、失意も挫折も遠いところにある。だからすぐに栄光を取り戻すだろう。
「それにしても……」
御堂は小首を傾げた。
「先方には私が怪我で療養していることを告げたのだが、私はどうして歩道橋から転落したのだろうか」
あの事故の話に触れられて心臓が跳ねるが、克哉は顔色を変えずにあえて軽い調子で答える。
「飲み過ぎて前後不覚になっていたんじゃないですか」
「学生でもあるまいし」
御堂は不快に眉をひそめた。搬送された御堂の血中からはアルコールは検出されなかったというのは四柳から聞いていた。御堂は転落したとき、素面の状態だった。
「四柳は事件の可能性もあると言っていたが、私は誰かに恨まれていたりしたのだろうか」
「心当たりがあるのか?」
「君はどう思う?」
「ありうるかもな。なんたってあんたは若くしてMGNの部長だったからな。それでパワハラとかして恨みを買ったんじゃ……」
「馬鹿を言うな!」
茶化す克哉の口調に御堂はさぞ心外だと言わんばかりに顔を赤くした。
「私がそんなことをする人間だと思うのか」
性的接待を要求していたのはどこの誰でしたか、と言いたくなるのを堪える。いまの御堂には身に覚えのないことだ。
こうして考えれば、御堂が誰かに恨まれて襲われた可能性もありえるように思えたし、御堂はそう思っていてくれたほうがよかった。
御堂、本当にあなたは死のうとしたのか?
声には出せない問いを胸の内で繰り返す。
転落事故について誰も表だって話しをしようとしなかった。警察が御堂に進捗を報告しに来ることもない。それはもう、見えないところでとっくに結論が出たからなのではないかと克哉は密かに思っている。
御堂は自ら死のうとして飛び降りた。遺書が見つからなくて、御堂が記憶を失ってしまった以上、動機についてはわからない。だが、警察、そして四柳も、こうなる少し前に御堂がMGNを退職したこと、そして遡れば御堂が無断欠勤でプロジェクトを無責任に放り出したと非難されていたことを知っている。となれば、御堂に何かしら飛び降りようとする動機があったのだと推測するのは容易いだろう。
御堂は事故の真相にどこまで近付いているのだろうか。できるならば、もう二度と事故のことは気にかけないでほしかった。それは記憶が蘇ることを怖れているのもあるが、自殺の可能性に思い当たってほしくないからだ。
こうしてふたたび日の当たる場所へと踏み出そうとしている御堂に何の影も落としたくない。ただ、前だけを向いて足を踏み出してほしい。
そんな物思いに沈んでいたものだから、御堂の次のひと言を理解するのに数秒かかった。
「まあ、相手が君なら立場を利用してでも手に入れようとしたかもしれないな」
ふん、と鼻を鳴らして御堂はちらりと克哉を見遣った。え、と御堂の顔を見返せば、御堂はぷいとそっぽを向いた。
「それは俺への遠回しの告白ですか」
「好きに解釈しろ」
心なしか御堂の頬が紅潮している。毎晩のように身体を重ねても、御堂から改めて愛の告白など受けたことはなかった。恋人として受け容れられている事実だけで十分すぎるほどで、この御堂からのそれ以上の好意は期待していなかった。
それよりも、いまの言葉を吟味すると、あの日、克哉に性的接待を要求した時点で、御堂は克哉に対する好意を持っていたとでもいうのか。
いいや、まさか、そんな。
それまで考えたこともなかった可能性が研ぎ澄まされた錐のような鋭さで胸にすっと刺さった。
所詮は仮定の話だと思い込もうにも、思考は目まぐるしくある種の可能性について検討し始める。もしかして、あの忌まわしい出来事をなしにして、克哉と御堂が結ばれる世界があったというのだろうか。
御堂は克哉から視線を外したままぼそりとつぶやく。
「どうやら私がなくした一年は、得るものよりも失うものの方が多かった一年のようだな。まあ、その記憶さえも失ってしまったわけだが」
御堂は自嘲気味に小さく笑い、思い切ったように克哉に正面から向き直った。
「克哉」
幾重にも重ねたような深い声で名前を呼ばれる。いつの間に、御堂はこんなにも濡れた響きで克哉の名を呼ぶようになったのか。
「それでも、君と出会うことができたのだ。過去の私に感謝しなければならないな」
御堂の顔は晴れ晴れとしていて、その眸には揺るがない意思の光が宿っている。御堂はもう失った過去を吹っ切ったのだと知った。
この人を好きだ、と観念するように思った。なにごとにも屈することのないしなやかな強さが。そして、同じくらい憎たらしくも思った。克哉が御堂を失うことをどれほど怖れているのかも知らないで、御堂は克哉をより深みに引きずり込もうとする。
克哉にとって御堂との出会いは一生に一度の価値があるものだった。これからの人生でこれ以上の人と出会うことは二度とないだろうと直感する類いの出会いだ。
そんな大切な存在を克哉は蹂躙してしまったのだ。御堂を解放したとき、克哉は今後の人生においてずっと後悔し、重たい未練を引きずることになると悟った。
それなのに、御堂は克哉を恋人だと思い込んで微塵たりとも疑ってない。もし、これがおとぎ話なら、このままめでたしめでたしとはならないだろう。諸悪の根源である克哉が地獄の業火で焼かれる結末が待っているはずだった。むしろそれを望んでいた。御堂が助かる結末なら命を投げ出すことも惜しくない。
御堂の顔をまともに見返すことができなくて、克哉は自分のネクタイを結びつつ、言った。
「……ともかく、今後誰が襲ってこようとも俺が守りますから」
「それは頼もしいな。期待しておく」
御堂は笑いながら返事をした。
無意識に自分のネクタイをきつく締めてしまい、にわかに息苦しくなるが思考は別のことに占められていた。
本当に自分は御堂を守ることができるのだろうか。過去の亡霊から。
御堂が転落したという歩道橋を克哉はこっそり確認しに行ったことがあった。歓楽街から少し離れた場所にあったが、夜は人気が途絶える物寂しい場所だ。こんなところに御堂はなんの用があったのだろうと不思議に思う。御堂が宿泊していたというホテルからも離れている。
歩道橋の上で克哉は一人立ち尽くした。御堂が落ちたであろう場所から下を覗き、御堂の心境に思いを馳せた。
御堂を監禁してからの克哉の仕打ちは日に日にエスカレートしていた。なにかにせき立てられるかのように御堂を責め立て手酷く凌辱した。
かろうじて生命を維持できる環境で追い詰められた御堂は意識をもうろうとさせていた。それでも、克哉の気配を察すると怯えたように顔を引き攣らせ、「ひっ」と恐怖に声を上げ、身体を縮こまらせた。強大な捕食者を前に無防備でいることしかできない存在はあまりにも脆弱で、無力で、痛々しかった。
克哉に監禁され凌辱され続けた記憶は、御堂の日常を蝕むほどに色濃い影を落としていたことだろう。御堂はその影を払拭できずにいたのではないか。
だからある意味で、いまの状況は御堂が願ったとおりになったのではないかと思う。歩道橋から飛び降りることであの御堂は死んだ。そして、かつての自信と矜持に満ちあふれた自分を取り戻した。克哉が焦がれた御堂の姿そのままだ。あの御堂を生け贄に捧げることで、いまの御堂を得ることができた。
それでも、克哉はあのときの御堂に会いたいと願う気持ちはたしかにあった。克哉への愛しさを湛える御堂の眸の奥に自分を憎み怖れる御堂の姿を探してしまう。暗闇の中でひたすら苦しみ抜いた御堂を見捨ててしまった後悔は克哉を炙り続けている。あの御堂と会ったとしてどうするのか。土下座をして許しを乞うても、それは自己満足に終わるだけだ。
このまま御堂の記憶が戻らなければ克哉が犯した罪もなかったことになるのだろうか。いっそのこと克哉も記憶を失ってしまえば、未来に対するなんの憂いもなく御堂との生活を送れるはずだが、そうなればまた同じ罪を犯すかもしれない。
こうして考えれば、蹂躙された御堂も、蹂躙した克哉も、いまのふたりの生活を築くための必要な犠牲だったといえるのではないか。もちろん、それは克哉の身勝手な言い分で、御堂にとって克哉は災厄以外の何ものでもなく、克哉さえ現れなければ今頃MGN社で出生街道を華々しく歩んでいたに違いない。
克哉は冷たい風を受けながら、どこで間違えてしまったのだろうか、と何度も考えた問いをふたたび考える。そしてまた同じ結論に辿り着く。
御堂と出会ってしまった時点で、運命は決定づけられてしまったのだ。取り返しがつく地点などただのひとつもなく、いまだって克哉は間違いを積み重ねている。問題は、その間違いが麻薬のように克哉を耽溺させてしまうことだ。行き着くところまできっと行き着いてしまう。そうとわかっていても、もう戻れない。
御堂の記憶は戻るのか、戻ったらなにが起きるのか、わからないまま平穏な生活は続いた。ひと月がすぎ、ふた月がすぎた。冬の寒さが徐々に和らぎ、日の差す時間も長くなっていた。
欺瞞と嘘の上に成り立っている楽園は危うかったが、散りゆくからこそ花が美しいように、崩壊がわかっているからこそ御堂と暮らす日々は輝いて見えた。そして、春が来るより早く、終わりは唐突にやって来た。やはり気まぐれな幸運に頼った日々はいつまでも続くことはなかったのだ。
週末の夜、御堂が行きたいと言っていたフレンチレストランで食事をした。らしくなく御堂はワインを飲むペースをセーブしているように思えた。レストランを出てタクシーを捕まえようとしたところで、御堂は克哉を呼び止めた。
「克哉、このあと行きたいところがあるんだ。付き合ってくれないか?」
改まった口調で御堂にそう切り出されたとき、克哉は御堂がどこに行きたいのか悟った。それでも素知らぬふりで訊いた。
「いいですよ。どこですか」
「ここの近くだ」
そう言って、御堂は店から出ると歩き始めた。御堂が向かう方向にはあの歩道橋がある。
この店を御堂が選んだ時点で、嫌な予感はしていたのだ。都心部にありながら、閑静な場所にある隠れ家的なレストラン。この店の近くに、御堂が転落した現場がある。
御堂はスマートフォンで場所を確認しながらその歩道橋に辿り着いた。
「君はここを知っているか?」
「ええ、まあ……」
言葉を濁しつつも肯定する。御堂は手すりから下を覗き込んだ。克哉も横に並んで覗き込む。地上までの遠さに眩暈がするようだった。よくぞ記憶を失うぐらいで済んだと感謝したくなる。
「私はここから落ちたのか?」
「そう聞いている」
「こんなところからどうやって落ちたのだろうな」
歩道橋には頑丈な手すりがついていて、ぐらついていたり外れていたりするわけではない。ここから落ちるとしたら手すりを乗り越えなければならない。思い切り身を乗り出していたら、なにかの弾みでバランスを崩して落ちるということもありそうだが、御堂はそんな迂闊なことはしないだろう。御堂もこの場に来てそうと悟ったはずだ。
とはいえ、御堂が本気で死のうと思ったら決して失敗しない方法を選んだだろう。だからもし御堂自ら飛び降りたとしたら、偶発的な衝動だったのではないかと思う。ふと、歩道橋から下を覗いたときに闇が御堂を誘惑した。張り詰めていた糸が切れて、御堂は解放されたいと望んだのではないか。
真実は御堂の記憶と共に失われてしまったのだから、こんなことはいくら考えても無駄だ。
できることならこの御堂は事故のことも含めて、失われた一年のこと自体を忘れてほしかった。忘れたことさえ忘れてしまえば最初から存在しなかったことになる。
「御堂、もういいだろう」
下をじっと覗き込む御堂が危うく思えて、克哉はたまらずに御堂の腕を掴んだ。
「あなたは助かったんだ。もういいじゃないか」
「そうだな、こうしてここに来てみたが、なにも思い出せないしな」
振り返った御堂の顔はどこか陰鬱さがあった。それでも克哉を見る眼差しはいままでと変わらない。
御堂の中にかつての御堂の影はない。当然だ。あのときの御堂は決して克哉と恋人同士になったりはしない。
「帰ろうか」
しばらくの間、歩道橋の上に佇んで、御堂はようやくそう言った。
「克哉」
帰り道、御堂は明日の天気を話すようななにげない素振りで克哉に言った。
「私はあの歩道橋から飛び降りたんだな」
克哉も四柳も、御堂の周りがひた隠しにしていたことを御堂はさらりと口にする。咄嗟のことに反応できないでいると、御堂は足を止めた。克哉へと顔をむけて、夜よりも暗い眸でひたりと見据える。
「そして、君はなぜ嘘を吐いた? 私の恋人だと」
「なんだと……?」
「違うのか?」
「どうしてそんなことを言うんだ」
克哉の返事に御堂は寂しげに笑った。
「否定しないということは本当なのだな、佐伯克哉」
「何があった? 今日のあんたは変だ」
困惑した体で返しながらも、頭の中ではどう対応すべきか素早く計算していた。克哉に対する態度からすれば記憶が蘇ったわけではない。どこかしらから以前の自分の情報を手に入れただけだ。まだ、挽回の余地はある。そのためには、どこからどんな情報を入手したのかたしかめなければならない。
そんな克哉の思惑を知ってか知らずか御堂は言った。
「携帯電話の情報復元サービスを利用した」
「携帯って壊れた携帯のか?」
御堂は「ああ」と頷いた。落下の衝撃で壊れた携帯は電源さえも入らなかった。だから買い換えたのだが、壊れた機種を御堂はいつの間にか修理に出していたらしい。
「壊れた携帯に残されたデータを復元してもらった。完璧なものではなかったが、だいたいのところは復元できた」
御堂は薄い笑みを貼り付けたまま言った。
「そのなかに、君とのやりとりはまったくなかった。そもそも、君の番号さえ登録されていなかった」
そのとおりだ。克哉を死ぬほど憎んだ男の携帯に克哉の番号が登録されているわけがない。
どう取り繕えばいいのだろうか。プライベート用の別の携帯を持っていたことにするか、いいやそれではダメだ。すぐにばれる。
どうすればいい? どうすれば御堂を失わずに済む?
目まぐるしく思考を羽ばたかせるが、御堂は決定打のひと言を放つ。
「君は私の恋人ではない」
御堂の言葉が死刑宣告のように克哉に届いた。だが、そのあとに続く御堂の言葉に克哉は息を呑んだ。
「もう私たちはとっくに終わっていたのだろう?」
「なに……?」
「同棲の気配のなかった部屋は、君が立ち去ったあとだったからだ。そして、私は携帯から君の情報のすべてを消去した。……私が体調を崩したのはそのせいか? ということは私ではなく君から別れを告げたのだろう? そして、君を失ったショックで私は仕事を辞めて自殺しようとしたわけか」
御堂は真実を絶妙な方向に取り違えている。唖然としている克哉に向けて、御堂は自嘲気味に笑う。
「君は私がこうなったことを知って、自分の責任だと思った。私と現在進行形で付き合っていることにして、四柳と口裏を合わせたのだな。罪滅ぼしのつもりか?」
御堂は克哉に向ける眸に怒りの炎を宿した。
「私を騙したな、佐伯」
御堂は誇り高い男だ。克哉を心から信じていた分だけ、騙されていたと知ったときの屈辱はより深いものになるだろう。御堂の酷い勘違いを正さなければならない。しかし、どうやって?
克哉は唸るように言った。
「あなたは、自分がそんなくだらない理由で自殺するような人間だと思うのか」
「くだらない? そうだな。私もそう思う。色恋沙汰ごときで仕事もなにもかも投げ出すような人間であるはずがないと思っていた」
御堂は顔を苦しげに歪める。
「だが、こうして君と過ごしてみたらわかる。君がどれほど特別な存在であるかを。私にとって君は自分のすべてを賭けるに値する男だった」
はっきりと言い切られた言葉はこの上ない愛の告白だった。
それなのに御堂の顔は冷たく笑っていて、同時にひどく傷ついた顔をしていて、克哉は息を呑んだ。
そんな顔をさせたくはなかった。どうして俺はいつも失敗するのか。
「違う、御堂、そうじゃない。あんたはそんなことで身を投げたりするような男じゃない」
「では、なぜ私はあそこから転落したというのだ。偶然の事故だと言うのか? 君も本当は自分のせいだと思っている。だから、君は私に同情してこんな茶番を続けたのだろう?」
まだ自殺だと結論づいたわけではない。それなのに、御堂も克哉も御堂が自殺しようとしたという前提で話を進めている。なぜなら御堂も克哉もその理由に心当たりがあるからだ。とはいえふたりが考える心当たりはまったく違うものだ。
「御堂、俺を信じてくれ。あんたは俺のことを憎みこそすれ、好きになるようなことなんか決してなかった」
「どうして君のことが信じられるというのだ! 私でさえ私自身が信じられないというのに」
御堂が苛立ちに声を荒げた。
御堂の言うとおりだ。御堂を散々騙し、愛を不当に搾取してきた克哉が、自分を信じろなどと言えるわけがないのだ。
「みっともないな、私は。こんなに取り乱したりして」
勢いのままに怒りをぶつけた御堂は、自分に恥じ入るように俯き、そして消え入りそうな声で言った。
「……もう、これ以上私を振り回さないでくれ」
克哉は御堂に責められて当然の人間だ。しかしあえて言うならば、こんな生ぬるい罪で断罪される資格なんてなかった。克哉が犯したのは殺人だ。過去の御堂を葬り去った。それなのに傘を盗んだくらいの軽い罪で責められている。
「あんたを追い詰めたのはたしかに俺だ。後悔も数え切れないほどした。過去に戻れるならやり直したいと思った。だが、同情であんたの恋人を名乗ったんじゃない。むしろ、やり直すチャンスに飛びついたんだ」
「どういうことだ?」
御堂が目を瞠って克哉を見返した。御堂がひどい勘違いで過去の自分を貶めるくらいなら、すべてを打ち明けてしまおうと考えた。すべては克哉に起因する罪だ。
「それは……」
覚悟を決めて口を開いたときだった。
突然、背後からクラクションを鳴らされた。思わず御堂も克哉も振り返る。すると、路肩に車が停まった。派手な外国車だ。
車の運転席側のドアが開き、男が降りてくる。明るいグレーのスーツに濃いブルーのシャツ、艶やかなネクタイを締めた男は悠然とした態度で降り立った。御堂が目を瞠って呆然とつぶやいた。
「……本城」
「また会ったね、御堂」
「また……?」
全身を一分の隙もないスーツで身を包んだ男は、御堂を前にしてにっこりと笑った。
「俺に連絡が来るかな、と思っていたのになしのつぶてだったから、仕方なく俺から会いに来たよ」
困惑する御堂に本城は話を続ける。
「これでも、お前が歩道橋から落ちたから心配してたんだよ。どうやら平気だったみたいだね。よかったよ」
「……私が転落したことは四柳から聞いたのか?」
御堂がそう返すと本城は目を丸くした。
「どうしたの、御堂。俺のこと忘れちゃった?」
克哉は御堂の傍らでふたりのやりとりを訊いていたが、噛み合わない会話に違和感が色濃く胸の内に立ちこめる。御堂の態度を見れば、本城とは久しく会ってなかったようだ。だが、本城は御堂と会っていたかのような口ぶりだ。そして、御堂が歩道橋から転落した事実を知っているのに、御堂が記憶を失った事実を知らない。それはつまり……。
「本城、お前が御堂が歩道橋から落ちたとき、その場にいたんだな」
「誰だ?」
ふたりの間に割って入ると本城が怪訝な顔を向けた。だが、克哉が名乗るよりも早く、同じことに気付いた御堂が本城に詰め寄った。
「本城、まさか……、お前っ」
「やだなあ、事故だよ。覚えてないの? 御堂が俺を通報するって言うから携帯を取り上げたらお前が取り返そうとしてくるから。運が悪い事故だったけど、無事で良かったよ」
この男はなにを言っているのか。理解が追いつかない御堂は本城を呆然と見返している。対する本城はなんの悪気もないような笑顔でへらへらと笑っている。
御堂は転落してからしばらくのあいだ誰にも気付かれず、搬送が遅れたという。すなわち、本城は御堂の転落を目の当たりにしながら、御堂を助けようともせずその場を立ち去ったのだ。本城は事故だと言っているが、それこそ悪意を持って御堂を突き落としたのではないか。
ぶわっと全身の毛が逆立つような怒りが燃え立った。本城はそんな克哉には目もくれず、なれなれしい口調で御堂に話しかける。
「御堂、あの話、考えてくれた? 俺とお前でMGNを見返してやろうよ。俺たちを無情に切ったあの会社をさ」
「あの話だと……?」
記憶を失っている御堂の当惑を無視して、本城は一方的に話を続けた。
「俺の新事業に参加してくれるだろう? もう計画はできあがってるんだ。莫大な利益を生むのは確実だ。今日はその返事を聞きに来たよ。これはもう、次世代の経済モデルと言ってもいいやつだ。従来のやり方を根本から覆し、新しい市場を切り拓く仕組みを俺は構築する。今の時代、ただモノを売るだけじゃダメなんだ。これからは、消費そのものを価値に変えるシステムが求められる。これからはMGNみたいな旧来モデルの会社は駆逐されるべきなんだ。御堂ならわかるだろう?」
本城は滔々と語り続ける。その顔は恍惚として、自分自身の弁舌に酔っているようだ。
この男はおかしい、と克哉は思った。御堂もまた表情を険しくしながら口を開いた。
「本城、私はお前がなにを言っているのかわからない。だが、これだけはわかる。いまのお前はまともじゃない」
御堂は厳しい視線を本城に投げかける。
「……お前、なにかクスリをやっているな」
「またそれか! お前だって酒を飲んで酔っ払うだろう。それと同じだって言っているだろうが!」
本城は突然激昂したように怒鳴った。しかし次の瞬間には御堂を懐柔するような粘ついた甘さの声をだす。
「俺をがっかりさせないでくれ、御堂。お前はそんなつまらない男じゃないだろう」
そう、本城の茫洋とした眼差し、不自然なほどの高揚、簡単に揺れ動く感情、支離滅裂な言動。この男は正常な精神状態ではない。
二人の会話からすべてを理解した。MGN社を辞めた本城は新規事業に誘おうと御堂に近付いた。だが、それを断られた挙げ句、違法な薬物を使っていることを指摘された。それが原因となって揉み合いとなり御堂は転落し、本城は薬物の使用がばれないようその場から逃げた。
御堂はなおも本城を睨み付けていると、本城は肩を揺らして笑い出した。
「ハハ……お前も本当はむかついているんだろ? 俺たちから搾取するだけしてあっさり切り捨てたMGNを」
「御堂をお前と一緒にするな……本城っ!」
我慢できず、克哉は御堂の盾になるよう前に出た。地を這うような低い声を出す。。
本城の怪訝な眼差しが克哉に向けられる。ようやく本城は克哉の存在を思い出したらしい。
「そういえば、誰だ?」
「佐伯克哉、お前とは初対面だ」
「それなら部外者じゃないか。俺たちの話に口を出すな」
「お前の話は聞くに堪(た)えない。お前はまず、御堂を危険な目に遭わせたことを謝罪すべきだろう」
「はっ、お前は一体何様なんだ。偉そうに」
本城は怒りを露わにして吐き捨てる。
「御堂を俺と一緒にするなって? じゃあ、お前はどうなんだ? 御堂と同じ側の人間だとでも言うのか?」
「いいや、俺はお前と同じ敗北者側だ。泥の底で指を咥えて御堂を見上げることしかでない立場だ。だが御堂は違う。御堂は、卑劣でも、弱くもない。俺たちが触れていい存在じゃない。潔くあきらめろ」
本城の行ったことは卑劣なものだ。だが、克哉だって本城を責められる立場にない。克哉が犯した罪だって到底許されるものではない。
「……御堂は諦めの悪い男だが、お前みたいに過去にしがみついたりしない。御堂は未来を決してあきらめない。どこからでも一人で這い上がってくる。だから、御堂の邪魔をするな」
「なんだと……?」
本城は己の持ち得ないものを手にしていた御堂を妬んでいたのだろう。それが、御堂がMGN社を不名誉な理由で辞めたと聞いて、嬉々として誘いに来た。御堂が自分と同じ側の人間になったと思い込んで。
結局のところ、本城が御堂につきまとうようになったのは克哉が原因なのだ。だからこそ、克哉が本城を退(しりぞ)けなければならなかった。
「御堂は俺を必要としていない。それでも、俺は命に替えても御堂を守る。この世界のすべての悪意から、そして、お前からも。それが、いまの俺にできる唯一の贖罪だからだ」
刺し違えても本城を排除する。そんな克哉の剣呑な覚悟が伝わったのだろう。本城は憤怒に顔を赤くしながら殺気だった目で克哉を睨み付ける。周囲の気温が下がり、一触即発の緊張感が高まったそのときだった。
「ありがとう、克哉」
ふいに肩に手を置かれ、克哉はハッと御堂の存在を意識した。御堂は克哉の横に並び、本城へ揺らがぬ眼差しを向けた。
本城の視線が克哉から御堂へと移った。克哉もまた御堂を見る。御堂は硬質な凜々しさをまとい、思わず居住まいを正してしまうような威圧感を放っていた。
「本城、お前のおかげで目が覚めた。その点ではお前に礼を言う。私は記憶を失い、自分を信用しきれていなかった。現実から逃がれるために歩道橋から飛び降りたのだと勘違いしていた」
本城は顔を強張らせながらも強がってみせる。
「へえ、それじゃあ、俺に協力してくれるの?」
「お前は本気で自分のビジネスが成功すると思っているのか?」
すっと刃物を差し込むような、静かで鋭い声だった。
「……当然だ。リスクがないとは言わないが、リスクがないところにビジネスはないだろう!」
御堂の気迫に気圧されたかのように本城は声を上擦らせた。
「私はリスクを取ることを怖れたりしない。だが、失敗したとしても自分の決断を後悔したくないし、誰かのせいにもしたくない。そのためにはどんな立場であっても、そのときできる最大限の努力をして最高の結果を出すことが重要なのだ。そのうえでの敗北なら受け容れる。お前はそれだけの覚悟があるか?」
凍てつく声音に本城は怒気を込めた視線を突き返す。ぎりぎりと奥歯を噛みしめる音が聞こえてくるかのようだ。
「……お前は昔のままだ。ちっとも変わりはしない。自分の正しさに凝り固まって、他人を見下している。正義を振りかざすことはさぞ楽しいだろうな」
「ああ、そうだ。私は私の中の正しさを大切にしたい。逆に訊くが君は自分を信じられるのか? クスリに頼り、妄言を吐いて、痛いところを突かれるとすぐに激昂する。お前は自分が信じられないからこそ誰かを頼ろうとしているのではないか。お前がすべきことは事業の立ち上げではない、現実の直視だ」
克哉よりもはるかに辛辣な言葉を御堂は吐いた。本城の顔色がみるみるうちに青褪めていく。
御堂は痛ましいものを見るような目つきで本城にトドメを刺す。
「お前とこんなふうに再会はしたくなかった。残念だ、本城」
そう言って御堂は本城に背を向けて歩き出した。背後から吐き捨てるような言葉が聞こえた。
「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって」
その声には底知れぬ憎悪が込められているようだった。それでも御堂は一顧だにせず本城を置き去りに歩いて行く。
危うさを感じながらも、克哉は御堂を追った。いくばくもしないうちに、すぐ脇から低いエンジン音が唸り、タイヤが路面を擦る甲高い音が響いた。反射的に音のする方向、車道側へと振り向けば、一台の車が猛スピードで突っ込んでくる。本城の車だ。
「御堂!」
考えるよりも先に、御堂を抱き込んで車の進行方向から飛びのいた。次の瞬間——。
ドンッ——!
激しい衝撃とともに、体が弾き飛ばされる。地面が遠ざかり、視界が揺れる。耳をつんざく急ブレーキの音、通行人の悲鳴、なにかが砕けるような派手な音が重なり合う。
痛みも、恐怖も、すべて後回しだった。どうにかして御堂を守らなければと、考えるよりも前に動いていた。
きつく抱き締めた腕の中で、御堂がわけもわからぬまま身じろぎした。
「な……、なにがあった? 大丈夫か?」
「ああ……、あんたは? 痛っ」
身体を動かそうとして鋭い痛みが走った。御堂が周囲を見て、目を瞠る。ようやくなにが起きたのが理解したようだ。
本城の車は近くの植え込みに乗り上げていた。段差のおかげでタイヤが空転し、勢いが削がれ、進行方向が逸れたようだった。まっすぐに突っ込んでいれば、いくら克哉が庇ってもふたりとも大変な事態になっていただろう。
「出血している……、いま救急車を呼ぶからじっとしてろ」
全身が痛んだ。
御堂はそろそろと克哉の身体の下から這い出ると、克哉の両脇に手を入れて、車から少しでも離そうとする。
誰かが通報してくれたらしい。サイレンの音がすぐに近付いてくる。
安堵に気が緩んだのか意識がすうっと遠のいていく。
「克哉……っ! 克哉!」
御堂の声が遠のいていき、意識がぷつりと途切れた。
5
克哉は病院に運ばれたものの、意識はすぐに回復した。複数箇所に打撲を負っただけの軽傷で済んだため検査入院することになったものの、数日で退院できる見込みだという。
搬送された病院は奇しくも御堂が入院していた病院と同じで、入院した翌朝には四柳が部屋に見舞いにやってきた。ベッドサイドの椅子に座って笑いかける。
「佐伯君、無事で良かったよ」
身体のあちこちが痛むし痣も複数できているが、これは医者的には『無事』のうちに入るようだ。ベッドから起き上がろうとして傷が引き攣れる痛みに顔をしかめる。
「ところで、御堂は大丈夫なのか?」
「ああ、彼は無傷だ。救急車に同乗して君についてきたけど、君が無事だという説明を聞いて帰ったよ」
「そうか……」
それを訊いて安堵の息を吐いた。四柳に礼を言おうとして、ようやく四柳の顔色の悪さに気が付いた。くたびれた白衣に乱れた髪、目の下に色濃い隈を作っていて、疲労の極致にあるようだ。
「徹夜明けなのか?」
「いいや。本城の治療に当たってたんだ」
本城、という単語にぎくりと力が入った。四柳は目を伏せて重たいため息を吐く。
「本城も事故による全身打撲で運び込まれてきてね。……本城からは薬物反応が出た。いまこの病院に警察の監視付きで入院しているよ。早速今日から事情聴取だ」
どうやら事情聴取ができるくらいにはちゃんと生きているらしい。
昨夜の本城と御堂のやりとりを思い出し、克哉はぼそりと言った。
「……御堂さんは自殺しようとしたわけじゃなかったんだな」
「ああ。本城が御堂を呼び出したそうだ」
本城は以前から御堂にしつこく連絡していたらしい。そして、御堂を自分の新事業に誘おうとしたが、御堂はそれを断った。御堂は、落ち着きなく浮ついた本城の様子から薬物中毒を疑い、四柳に連絡しようとした。それを本城は警察に通報されると勘違いした。本城は御堂の携帯を奪おうとしてもみ合いになり御堂は横断歩道の手すりから転落したという。
克哉は胸を一掃するほどの大きな息を吐いて言った。
「あの人が自殺をするとは信じられなかった」
「僕もだよ」
あっさり同意する四柳を睨み付けた。
「あんたはそう信じていただろう」
「信じていたわけじゃない。その可能性を否定できなかっただけだ。そして、万一、自殺企図だとしたら、一番厄介な結果を招くと思った。僕たち医者は一番最悪の事態を想定して動くのが定石だ。だから君に協力を要請した」
たしかに四柳の言葉も一理ある。それでも、四柳には問いただしたいことがあった。
「……もしそうだとしたら、」
克哉は言葉を句切り、一拍おいて言った。
「俺があの人の自殺未遂の原因だと思わなかったのか?」
「思ったさ」
あっさりと肯定する四柳に克哉は息を呑む。四柳は小さく笑った。
「時間外に家族でもないのに思い詰めた顔をして面会に来たんだ。御堂との間になにかしらあったのだと疑うのが道理だろう」
「それならどうして」
「ワインバーで会ったとき君はあまり感情を表に出さない人間だと思った。それでもあの夜、御堂に会いに来た君は、拭いきれない後悔を抱えているように見えた。だから、やり直す機会を得たら、なにがあっても御堂を守ってくれると思った。そして、事実、君は御堂を守ってくれた。……ありがとう」
「あんたに礼を言われる筋合いはない」
冷たく突き放すが、ふ、と四柳は目許を綻ばした。
「どうだ、僕の見立ては正しかっただろう。これでも人を見る目には自信があるんだ」
「どうだか。それならさっさと本城をどうにかしてくれれば良かっただろう」
「本当に面目ない」
四柳は本城の保護者でもなんでもないが、四柳は責任を感じているらしく、克哉にふかぶかと頭を下げて謝った。四柳の思わぬ行動に反応できずにいると、顔を上げた四柳はにっこりと笑って言った。
「何はともあれ、重大な結果に至らなくて良かったよ。本城も御堂の僕の大切な友人だから」
そう言って疲れ果てた顔に無理やり笑みを浮かべる。克哉はそんな四柳を複雑な心情で眺めた。
四柳や御堂にとっては本城は友人だったのかもしれないが、克哉にとっては赤の他人だ。それも御堂を歩道橋から突き落とした挙げ句、車で轢こうとしたのだ。正直、本城が死んでいたとしてもまったく悲しくはなかっただろう。とはいえ、本城もまた御堂に焦がれた一人なのだと思うと、割り切れない感情が胸の奥底にわだかまる。
「それじゃあ」
と、四柳は立ち上がった。そして、病室を出ようとドアに手をかけた瞬間、四柳はなにかを思い出したように肩越しに振り返り、告げた。
「ああ、そうだ。事件のショックのせいか御堂の記憶が戻ったよ」
「なに……」
それだけ言い置いて四柳はさっさと部屋を出ていった。
全身の検査をひととおりされて問題ないと診断されると、克哉はすぐに退院した。御堂からは連絡が途絶えている。当然だろうな、と思う。自分から連絡を取るのもはばかられて、克哉は自宅へとと帰った。
ひさびさに帰った自宅は狭く、寒かった。主(あるじ)に見捨てられていた部屋はどこかよそよそしく感じる。それでも、ここが克哉の本来の居場所だったのだ。
御堂との生活はほんのいっとき視た夢だった。いままでの生活をそう割り切るにはあまりにも幸福な日々で胸が締め付けられる。
御堂と過ごし、御堂に『克哉』と甘く呼ばれ、あいされて、本当は御堂にこんなふうにあいされたかったのだと痛感した。そして、それをあっさり失ったことに途方もない失意を感じていた。
しかし、こんな喪失感を感じること自体がおこがましかった。克哉が失ったものは、もともと手に入れてないものだ。
一方の御堂はどうだろうか、と心配になる。克哉と過ごした日々が絶望を上塗りすることになっていないだろうか。
克哉は思い直す。御堂の強さは証明された。克哉が心配する必要などないほどに御堂は強い。どんな状態からだってかならず這い上がってくる。
となれば、克哉がすべきことはただひとつ、御堂の邪魔にならないよう御堂の前から姿を消すことだけだった。
「佐伯さん、お疲れさまでした!」
「お疲れさま」
週末を迎え、克哉は同僚に挨拶をしてMGN社のビルを出ると冬の強い風が克哉の頬を打った。定時に退社したが、空を見上げるとすでに夜の帳が下りている。この時期は駆け足で夜がやってくる。
懐かしいな、と思った。あれから一年経ったのだ。
御堂が搬送されたという病院に駆けつけた夜も、凍えたビル風が吹きつける底冷えのする夜だった。
あのときは御堂のことで頭がいっぱいで、冬の夜の寒さもまったく気にならなかった。四柳が声をかけてくれなければ、自分は一晩中あの場所に立って病院を見上げていたのかもしれない。
あの事故のあと、克哉の日常は途切れ目なく再開された。MGNで与えられた仕事は及第点以上の成果を出して着実に評価を積み重ねていったが、心の中では空虚さが常に漂っていた。
心躍るような喜びもなければ、絶望に陥るような悲嘆もない。ただただ、平坦で灰色な世界が克哉を取り囲んでいる。こんなふうに感じてしまうのは、きっと、幸福の意味を知ってしまったからだろう。そしていまの自分にはそれがないことに気付いてしまったからだろう。
空疎な毎日を送りながら、ことあるごとに御堂とふたりで暮らした日々を頭の中で思い返し、そこにあった色彩と輝きを反芻していた。その分だけ現実の寂寞とした孤独が身に迫るとわかっていてもだ。
本城のその後についても克哉は知らなかった。克哉が怪我をした件で、警察からの聴取はあったものの、軽症であり本城への処罰感情はないと答えた。曲がりなりにも本城は御堂や四柳の友人だ。克哉が口を挟むべきことではないと思ったからだ。
御堂のことは気になったがなんの情報も入ってこなかったし、克哉からも探ろうとはしなかった。こうなる直前、御堂はいくつかの会社から声をかけられていた。そのなかのどこかに就職したのだと思うが、確証はない。御堂だけでなく四柳からも連絡は絶えていた。それどころではなかったのだろう。
二人の連絡先は知っていたが、自分から連絡を取る気もなかった。ただ一度だけ、スペアキーを返却しに御堂のマンションに立ち寄った。万一にも御堂に遭遇したりしないよう素早く郵便受けにカードキーを放り込んでその場を離れた。御堂の部屋に残したままの私物があったが、いまさら返して貰おうとも思わない。勝手に処分されても困らないものばかりだ。
御堂はまだあの部屋に住んでいるのだろうか。
それともとっくにあの部屋を処分してどこかに引越したのだろうか。
いくら考えても詮無きことだとわかっていても、思考はかつての日々に引っ張られていく。
克哉は寒々としたアスファルトを歩きながら、見てふと思った。
そろそろMGNも辞め時かもしれない。実質的に引き継いだプロトファイバーは好調に売れ続け、定番商品の地位を確立し、克哉の手を離れた。MGNで克哉がやるべきことはもはやない。
代わりになにかやりたいことがあるわけではなかったが、MGNは御堂を思い起こさせる。MGNから離れたとしても重たい未練と後悔は永劫につきまとうだろうが、それでもMGNを去るべきだという思いに駆られる。なぜなら、御堂もMGNを去ったのだから。
自分の吐く白い息を見ながらそんなことを考えていたときだった。向かいから走ってくる車がハザードランプを出して路肩に停車した。ライトの光が眩い。その横を通り過ぎようとしたところ、クラクションを鳴らされた。これは自分に向けたクラクションだろうかと、振り向くと停車していたアウディの運転席の窓が降りた。左ハンドルの運転席から決して忘れられない男が克哉を見る。
「御堂……?」
「佐伯、乗れ」
信じられない気持ちで動けないでいると、御堂が軽く顎をしゃくって「早く」と無言の内に指示をする。
わけもわからぬまま、克哉は助手席に乗り込んだ。シートベルトを締めたところで車が低いエンジン音とともに発車する。
唐突に車に乗せられてどこに行くのかも説明がない。スーツ姿の御堂は黙ったまま運転していて、その横顔を眺めた。端正な輪郭のラインが窓から流れ込む街の灯りに照らされている。すっきりとした鼻梁と鮮やかな眉、撫でつけられた髪はひと筋の乱れもない。厳しい横顔からは克哉に対する気安さは一片たりとも感じられなかった。克哉を恋人だと思い込んでいた御堂はもう消えてしまったのだな、と寂しく思うと同時に、かつての御堂がこうして戻ってきた事実に胸を打たれた。
少しして、車は見覚えのある通りに入った。窓からの景色に目を奪われていると、車はタワーマンションの駐車場へと入る。御堂は定位置に車を停車して、克哉に「着いたぞ」とひと言告げる。
言われるがままに御堂と車を降りた。御堂は住民用の出入口から入るとエレベーターに乗りこんだ。ぐんぐんと上昇していくエレベーターの中で御堂は無言で階数の液晶表示を眺めている。その姿は話しかけられることを拒絶しているようだ。
目的の階に到着したことを告げるチャイムがなり、エレベーターのドアが開いた。御堂は克哉のほうを見もせず降りていく。克哉もそのあとに続く。
もう御堂の行き先は間違いようもなかった。御堂はカードキーで自室のドアを開けると中に入っていった。どうすべきか迷い、克哉も中に入る。
御堂の部屋は克哉が最後に見たときのままの姿で、生活の香りが漂っていた。御堂はいまでもこの部屋で暮らしているのだと知る。
リビングの中央に立ち、御堂はようやく克哉に向き直った。なにかを堪えるような険しい眼差しが克哉を見据える。
「……本当はこの家もなにもかも処分する気だった。君に関するものはすべて消し去って、やり直すつもりだった」
痛みを押し殺しているような声だった。克哉は返す言葉もなく押し黙る。
そうだったのだろうな、と心の内で思う。克哉から解放された御堂がすぐにホテルに移ったのも、もうこの部屋のすべてを捨て去るつもりだったからだろう。鞄の中に詰めたほんのわずかな持ち物だけ残して。
御堂は言葉を継いだ。
「それなのに、君が余計な思い出を作るから、この家が処分できなくなってしまった」
御堂の口調や眼差しが熱を帯びていく。
「どうしてくれるんだ、私の過去をめちゃくちゃに改ざんした挙げ句、なんの断りもなくまた私を捨てていくとはな」
「御堂……?」
驚いて御堂を見返した。御堂は瞬きもせずに射竦めるような視線を克哉に向ける。
「この一年間、君を忘れようと努力した。仕事も順調で、なにもかも上手くいっていたのに……!」
御堂は悔しそうな顔でぐっと唇を噛みしめる。
「忘れられないのだ、君のことが……! 君があんなふうに本城に大見得を切ったりするから…! 命に替えても私を守るなどと……」
「俺の本心だ」
克哉は静かに答えた。あのときの言葉に一片の嘘も虚飾もなかった。
とたんに、御堂はうろたえたように顔を赤くした。視線がたよりなくさまよう。
「だが、君は私に嘘をついていたではないか」
「ああ。……本当にすまなかった」
御堂を守るためだと自分に言い聞かせていたが、心の奥底では御堂との新しい関係を手に入れたかった。すべてをなかったことにして、御堂との甘やかな生活に溺れた。
どれほど責められても釈明できないほどの罪を克哉は犯した。それでも、御堂にひと言告げたかった。
「だが、俺が吐いた嘘はそれだけだ。あなたを好きだと言ったのも、あなたを守りたい気持ちも嘘偽りはない、俺の本心だ」
言い切った言葉に御堂がたじろぐ。
御堂は言葉を失い、ややあって御堂は声を絞り出した。
「私だって、あのときの言葉は本心だ。……いまだって変わらない」
「なに……」
「記憶が戻って、君への憎しみも戻ってきたのに、君を憎みきれなかった。それ以上に君のことが大切な存在になってしまったからだ」
苦しくて苦しくてどうしようもない、というように、御堂は顔を歪めながら気持ちを吐露する。
記憶を失った御堂は克哉をあいした。ただそれは、克哉の仕打ちを覚えてないからこその感情で、記憶を取り戻せばあっという間に淘汰される、儚い蜃気楼のような感情だと思っていた。
その愛が克哉への憎しみも怖れも凌駕したとでもいうのか。
「それなのに、君はなんの連絡も寄越さないで、カードキーも黙って返してきて。今さら、なにもかもをなかったことにするなど……。君は私にもうなんの興味も……」
必死に言葉を紡ぐ御堂の頬は紅潮し、心なしか目は潤んでいる。御堂の口から出るにはあまりに切実な声だった。
「孝典さん」
くっきりと名前を呼んだ次の刹那、克哉は御堂を抱き寄せて唇を押し当てた。呆気にとられた御堂の口を塞ぐ。記憶どおりのやわらかな唇を押し潰し、縮こまった舌を絡める。固く強張った御堂の身体を腕の中に抱き込みながら、御堂の口内をあますことなく味わい、ようやく御堂の力が抜けたところでキスを解いた。
鼻が触れあう距離で、御堂が伏し目がちに声を震わせた。
「……いきなり、キスなんて」
「いつかのお返しということで」
身体を離すまいと腕の輪を狭めたまま、克哉は吐息で微笑む。御堂は抱き寄せられるまま、とん、と克哉の肩に頭を置いてつぶやいた。
「……香水」
「なんだ?」
「香水、変えてないのだな」
「あなたに褒められましたからね」
御堂が一発で当てた克哉の香水、「悪くない趣味だ」のひと言は、この香水を使いつづげる十分な理由になった。御堂と交わした言葉、御堂の一挙手一投足、そのすべてを心の中に大切にしまっている。
御堂が顔を上げて克哉を見返した。間近にある御堂の唇が唾液に濡れて艶めかしい。窮屈な腕の輪の中で御堂がなにかを言おうとして、ためらって口をつぐむ。だから促すように口を開いた。
「言わないのか?」
「なにをだ」
「もう一回キスを試せば、なにか思い出すかも知れない、って」
御堂と初めてキスを交わした夜をなぞって言えば、御堂は「馬鹿」と克哉を睨み付けた。
「もう全部思い出している」
そう言いながら御堂の唇が押し付けられる。御堂から仕掛けてくるキスを受け止めた。
舌を触れあわせ、互いの口の中を行ったり来たりする。欲情を引き出すための熱く濡れたキスを交わし続けると御堂は鼻に抜けるような甘い気を漏らした。息が苦しくなってようやく唇を離すと、唾液が長く糸を引いた。
「続きはベッドで?」
御堂は目許を赤らめながらこくりと頷いた。
防音が効いたマンションの部屋で忙しないキスの音が響いた。
互いの服を脱がせながらもつれ合うようにベッドまで辿り着き、お互いの身体に手と唇を這わせて熱と輪郭を確かめ合う。御堂の身体を仰向けにして、唾液で濡らした指を狭い場所へと潜り込ませる。
「……くっ」
異物感が強いのが御堂は苦しげに眉根を寄せた。
「久々なんでしょう? あなたを傷つけたくないからな」
そう言いながら、ゆっくりと指を抜き差しした。最初こそ慎ましく閉ざそうとした場所はすっかり克哉に手懐けられて、克哉を求めるかのように柔らかく綻んで赤く熟れた粘膜をチラつかせた。御堂の感じるところを重点的に狙ったせいか、御堂の脚は自然に開き、克哉の指を追うように腰が揺らめく。御堂のペニスはずっと反り返って腹に蜜を垂らしている。
「あなたの身体は俺をちゃんと覚えてくれている」
満足げにつぶやくと、潤んだ目で恨みがましく御堂に睨み付けられた。
「君は記憶を失った私を散々弄んだから……」
「とんでもない。弄ばれたのは俺のほうだ」
さも心外だという顔で言い返した。実際そうだ。勘違いが前提にあったとはいえ、一途な想いをぶつけてくる御堂に翻弄されていたのは克哉のほうだった。他人に対する警戒感が強い御堂だからこそ、御堂から注がれる愛情の得難さは特別なものだった。
ゆるゆると中を擦りあげながら御堂を宥めるようにキスを落としていると、御堂が息を荒げた。
「克哉……もう、して……くれ」
切れ切れの声にせがまれれば我慢も限界だ。御堂の窄まりに屹立した自身を宛がう。御堂がはっと息を詰める。ゆっくりと腰を進めると、ずちゅっと先端が熱い粘膜に呑み込まれていった。
「ぁああっ、んく……っ」
圧迫感に御堂の背筋が反った。開かされた脚ががくがくと震える。それでも御堂のペニスは萎えることなく、ぶるんと震えて先走りを盛大に散らした。克哉を受け容れる御堂の顔を見詰めながら、半分まで挿入したところで、ぐっと強く最奥へと突き入れた。
「あっ、は……、ふ、んあああ!」
御堂の淫らに発情した身体は、すんなりと克哉を深く咥え込んでいく。すっかり蕩けた粘膜にペニスを包み込まれる感触に克哉は感じ入った息を吐いた。
「あなたの感触だ」
腰を遣い始めるとしなやかな身体が跳ね、突き入れるたびに濡れた嬌声が響いた。堪えようにも漏れてしまう声を恥じたのが御堂が手の甲で自分の口を塞ごうとする。その手を頭上に縫い止めた。そうして猛々しく打ちつけながら言う。
「あなたの声をもっと聞かせてください」
「ひ……や、あ、さ、えき…っ、ふぁ、あああ……んっ」
もう取り繕う余裕もないのか、激しい律動に御堂は声を上げ続けた。苦悶と快楽に激しく揉まれた顔、啜り喘ぐ声に煽られる。つながったところは濡れた音を立て、御堂のペニスが揺さぶられるたびにだらだらと先走りを散らす。
粘膜が淫猥に動き克哉を締め付けてくる。下腹を薄い臀部に叩きつけるようにして、中を緩急をつけてかき回した。深い官能に引きずり込まれる感覚に、克哉の息遣いも荒く熱くなっていく。
「たまらなく、気持ちいいですよ……御堂さん」
「か…かつや、ぁ……っ、はぁ……あああっ」
名前を呼ばれて視線を重ねれば、とろりと蕩けた黒い眸が克哉に向けられていた。誘われるようにして上体を屈めて唇を合わせた。
「孝典さん……、…ん、孝典……っ」
「克哉……あ、ああっ」
キスの合間に名前を呼び合う。激しく御堂を揺さぶりながら御堂を抱き締める。背中に回された手が必死の強さでしがみついてくる。
ふたりして高みへと駆け上がっていく。互いに手を伸ばしてぎゅっと指を絡めた。大きな波に攫われる。下腹に打ちつけられる熱い迸りを感じると同時に、克哉も放っていた。
「「好きだ」」
どちらのともわからぬ声が甘く鼓膜に染みわたった。
克哉が目を覚ました時には部屋の中に明るい陽射しが溢れていた。
光に誘われるように瞼を押し上げた克哉はぼんやりと天井を眺めていた。克哉の部屋ではない、だが懐かしい。ここはどこだろうと思い、御堂の家の寝室であったことを思い出す。克哉は肘を突いて身体を起こすと、隣で眠る御堂を眺めた。
裸に上掛けかけた御堂は深く寝入っているようだ。夜が白むまで交わり続け、御堂はいつの間にか意識を飛ばしていた。しばらくは起きてこないだろうと、御堂の寝顔をじっくり眺める。整った輪郭が光の線を描いている、形の良い薄い唇はキスを交わしすぎたせいが赤くなっている。眼球の丸みを覆う薄い瞼。目を閉じていると睫の長さがわかる。寝乱れた髪が御堂の額にかかっていたが、それさえも御堂の美しさを損なうどころかさらに際立たせていた。
まだどこか夢を視ているような気分が残っていて御堂を飽きもせずに眺めていたが、次第に甘く切ない気持ちが胸に込み上げてきた。またこうして御堂と同じベッド朝を迎える日が来たのだ。
感傷に浸りきってしまいそうで、克哉は視線をむりやり御堂から引き剥がすと、物音を立てないようにしてベッドから降り立った。時計を見れば、もう昼に近い時間だ。コーヒーを淹れて軽い食事でも作るか、とドアに向かったとき、背後から気配がした。振り向くと御堂が目覚めたところだった。重たそうな瞼を押し上げ、周囲を確認し、克哉を視界に捉える。
御堂の焦点がまっすぐに克哉に定められ、克哉はわずかに緊張しながら、口を開いた。
「起こしてしまったか?」
「いいや……」
寝起きの掠れた声で返事をして、御堂は上体を起こした。その弾みで上掛けがずり落ちて、昨夜の情交の痕が色濃く残った裸が覗く。自分が付けた所有の印が御堂の身体に散らばっているのを目にして、気まずさに視線を落とすと、克哉の身体にも御堂に刻まれた痕があちらこちらに残っていた。お互いがお互いだけのものになったのだと満ち足りた気持ちになる。
澄んだ光を浴びながら御堂はすっと息を吸った。克哉に微笑みかける。
「おかえり、克哉」
ふたりの生活がまたここから始まるのだ。
ふいに熱いなにかが胸の中に込み上げてくるのを感じながら、克哉は御堂を見詰め返して、返事をした。
「……ただいま、孝典さん」
END
あとがき
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
こちらは、御堂開放後に御堂が事故で記憶を失ってしまったら?のIFストーリーになります。
私は眼鏡が御堂さんを解放するときに、すべてをほったらかして去って行ったことを許していないのですが、皆さんはいかがでしょうか…。せめてあの惨状を片付けてから去れよ、とスチルを見ながら思ったものでした。
そのあとも眼鏡はなんのフォローせずにいて、まあ、御堂さんは強い男ですからそこから一人で這い上がったわけですが、万一、御堂さんがあのあと自殺した、という状況になれば眼鏡はどん底にたたき落とされたと思うのですよね。どう考えても眼鏡の責任としか思えないですし……。
ということで、そんなIFを考えてみました。ついでに私の大好きな記憶喪失ネタを絡めましたが、御堂さんが眼鏡のことを忘れたら本来の攻め気質が出てくるわけで、そうと知らずに眼鏡にモーションをかける御堂さんを書くのは楽しかったです。
本作はあまり重く&長くせずライトに書こうと書いてみた作品でもあります。といっても作風を変えるのはなかなか難しいですね。
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