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All You Need Is Survive

鬼畜眼鏡FD、好きにしろEDの補完SSになります。澤村に刺殺される結末を回避するためにタイムリープをしてやり直す御堂さんのお話。

更新しましたら下につなげていきます。

CP:眼鏡克哉×御堂孝典

視点:御堂

一、結末とすべての始まり
Pro

 佐伯克哉は眼鏡をかけていなかった。

 深夜の遺体安置所の部屋。ステンレスの台の上で克哉は目を閉じて横たわっていた。身体には白い布をかけられ、顔色は血の気を失っていたが、今にも目を覚ましそうだった。

 

「佐伯克哉で間違いありません」

 

 御堂孝典は自分に言い聞かせるように低い声で言った。隣に立っていた刑事と名乗った男がメモ帳を開きながら尋ねてくる。

 

「佐伯さんの職業は分かりますか?」

「アクワイヤ・アソシエーションの社長です」

「アクワイヤ…?」

「アクワイヤ・アソシエーション、コンサルティング会社です」

 

 克哉をじっと見つめたまま、次々と投げかけられる質問に答えた。

 

「あなたと佐伯さんのご関係は?」

「同じ社の共同経営者で、佐伯が社長、私が副社長です」

 

 肌に強い視線を感じた。刑事は御堂の言葉を吟味するようにじっと表情を窺っている。

 御堂は隣に立つ刑事の方を見もしなかったが、口調は迷いがなく、刑事も御堂と克哉の関係についてそれ以上突っ込んでこようとはしなかった。もちろん、問い詰められても正直に答える気などなかった。克哉と自分がどのような関係なのか、自分でも整理がついていない。恋人関係だったことは確かだ。ただ、破綻しかけていた。

 

「佐伯さんの携帯にあなたからの着信履歴がありました」

「私がかけたものです」

「用件は?」

「仕事の件で」

「随分と遅い時間帯ですが」

「我々にとってはよくあることです」

 

 だが、克哉は電話に出ることはなかった。

 刑事からかいつまんで聞かされた話では、御堂が電話をした直前くらいに、克哉は澤村に刺されたそうだ。AA社近くの公園で克哉は澤村に襲われたらしい。克哉らしくない迂闊さだと思う。らしくないといえば、ここ最近の出来事が、何もかも克哉らしくなかった。

 刑事の質問に淡々と答えながら克哉の顔を見つめ続けた。遺体安置所の部屋は想像していたよりも明るく、人工の照明は冷たく整った顔立ちをはっきりと浮かび上がらせていた。眼鏡を外した顔は無防備に眠っているようにさえ思える。こんな風に、ずっと克哉の素顔を眺めたことはなかったかもしれない。

 刑事の質問がようやく途切れた時だった。部屋のドアが開いて、一人の男が顔を出した。まだ若い男だったが、身なりからひと目で刑事だと分かる。御堂に質問していた刑事向かって一言、言う。

 

「遺族と連絡が取れました」

「分かった」

 

 隣に立っていた刑事はそう返すと、御堂に軽く礼をして部屋から出ていった。

 克哉と二人取り残される。若い刑事が口にした『遺族』という言葉が切実な重みで響いた。

 克哉は死んだのだ。

 そう改めて思い知らされる。

 この日、御堂は自宅にいたところを警察からの電話で呼び出されたのだ。話では、克哉は、執拗に何度も切りつけられたそうで、救急車が到着したときには出血多量で絶命していたという。克哉の近くに本人の携帯電話が転がっていて、それに手を伸ばす体勢だったそうだ。

 

 ――私がもう少し早く連絡を取っていれば……。

 

 克哉は助かったのだろうか。ちょうど、同じころ、御堂は克哉の携帯に連絡をしていた。だが、その電話は通じることはなく、留守番電話サービスにつながり、御堂は電話を切った。

 得も言われぬ強い感情がこみ上げてくる。それを押しとどめるように息を殺しながら、台の上に横たわる克哉の頭から足まで視線を流した。喉元はざっくりと切り裂かれ、赤い肉が見えている。これでは、助けを求める声も出せなかっただろう。刑事の話が正しければ、布の下の身体にはいくつもの無惨な傷が残されているはずだ。だからと言って、布をめくってその傷を確認する気にもならなかった。

 不意に、御堂の視線が止まった。

 

 ――なんだ……?

 

 克哉に被せられた大きな白い布。ちょうど、御堂側の克哉の手先あたりに不自然な膨らみがあった。まるで、克哉が何かを掴んでいるかのようだ。

 恐る恐る白い布をめくった。

 

「……柘榴?」

 

 血の気を失った克哉の白い手が茶色い大きな果実を持っていた。布をめくった拍子に、克哉の手からごろりと果実が転がる。台から転がり落ちそうになった果実を御堂は咄嗟に手に取った。ずしりとした重みを感じる。

 どうして、こんなものがここに。

 何か手掛かりを探そうとあたりに視線をさ迷わせた時だった。

 

「こんばんは」

 

 唐突に背後からかけられた声に、びくりと身体を強張らせた。

 振り向くと、背後に一人の男が立っていた。いつの間に部屋に入ってきたのだろうか。

 それにしても、その男はあまりにもこの場にそぐわない出で立ちだった。全身黒づくめの服に頭には黒いボルサリーノ帽。両手には革手袋をはめている。遠目から見れば葬儀社の人間に見えなくもないが、緩く編みこまれた長い金髪と、丸眼鏡の奥に覗く、髪色と同じ金の眸が、この男が尋常ならざる存在であることを浮き立たせていた。

 いつの間にこの部屋に入ったのか、まったく気配を感じなかった。御堂は警戒心を露わにした顔で言った。

 

「誰だ……?」

「私のことはMr.Rとでもお呼びください」

「Mr.R?」

「まあ、私は佐伯さんの旧い友人とでもいいましょうか」

「友人だと……?」

 

 そんな話は聞いたことがない。だが、よく考えれば克哉のことなどほとんど知らなかった。克哉は自分のことを深く語ることはなかったし、御堂もまたあえて訊くことはしなかった。他愛のない会話をしながら、肌を重ね、熱を交わし、それで関係を深めた気になっていたのだ。結局のところ、自分は克哉のことを何もわかっていなかったのだ。

 Rと自ら名乗った男は克哉へと視線を向けた。軽く肩を竦める。

 

「類まれな逸材でしたのに、今回は大変残念な結果となりました」

 

 大して落胆もしていない調子で言う。

 何もかもがうさん臭く、この男が御堂と話す間、ずっと薄い笑みを口元に張り付かせているのも気に食わなかった。

 男から距離を取ろうと、一歩足を引いた。男はちょうど、部屋のドアと御堂の間に立っていて、御堂がこの部屋から逃げるには男の脇をすり抜けなくてはならない。男が克哉に注目している今がチャンスだ。そう思った時だった。男の顔が御堂へと向いた。ぎくりと、踏み出しかけた足を止める。男は御堂の思考を読み取ったかのように目を細めた。

 

「まあまあ、もう少し私と話をしませんか。あなたにとっても悪くないお話なのですが」

「何の話だ」

「……私なら、佐伯さんを何とかできなくもないですが」

「ほう、佐伯を生き返らせることが出来るとでも?」

「いくら私でも死者を生き返らせることは出来ません」

「いい加減にしろ。人を呼ぶぞ」

 

 御堂の苛立ちを孕んだ声にも男は動じなかった。

 

「正確には、何とかするのはあなたです。御堂孝典さん」

「何故、私の名前を知っている?」

「ふふ……」

 

 男はその質問には答えずに笑みを零した。

 なぜ、御堂の名前を知っているのか。克哉から聞いたのだろうか。それにしてもだ。掴みどころのない男の様子に警戒心は否応なく高まっていく。だが、男は御堂の険しい態度にも動ずることなく平然としている。

 

「その果実……」

 

 男の視線が御堂の柘榴を持つ手元に留まった。

 

「それは、私からの贈り物です」

「贈り物だと? この柘榴が?」

「これは単なる柘榴ではありません。特別な果実です」

「何だと?」

 

 御堂の手にある柘榴は、男の言葉に呼応するかのように、茶色く乾いた果皮の間から真っ赤な実を妖しく煌めかせた。

 

「この柘榴は時の果実。この果実を食べれば、時間を巻き戻すことが出来ます」

「一体何を言っているんだ」

「結末を変えてみたいとは思いませんか?」

 

 眉を顰める御堂を傍目に、男は嫣然とした笑みを深めた。

 

「あなたが戻りたい時点を強く願いながら、その果実を食べてください」

「馬鹿馬鹿しい。冗談にもほどがある」

「あなたは、後悔しているのではないのですか? やり直したいと願っているのではないですか?」

 

 男の言葉に、思考が止まった。こんなうさん臭い男の話、付き合うべきではない。この柘榴も刑事に事情を説明してさっさと渡すべきだ。そう、理性が警鐘をならすのに、なぜか動くことが出来なかった。美しく輝く柘榴から視線が外せない

 男は内緒話でもするように、人差し指を立てて声を潜めた。

 

「ただし、このことは誰にも言ってはいけません。もし一言でも口にすれば、この果実は二度と使えなくなります」

「……」

 

 ――もし、本当に時を戻せるなら……。

 

 克哉のこの悲惨な運命を変えることが出来るのだろうか。

 魅入られたように、御堂は柘榴を口元に持って行った。柘榴の甘酸っぱい香りが、強く、濃く迫る。

 指で硬い果皮を裂くと、零れんばかりの果実に歯を立てた。ぶつりと果肉が弾け、じゅわりと果汁が口の中を濡らした。

 

「どうぞ賢い選択を……」

 

 遠くから男の声が聞こえた気がした。

(1)
​二、そして、時をかける

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 腰の下のシートの振動、そしてエンジン音。御堂はハッと我に返った。

 今どこにいるのか混乱し、慌ててあたりを見渡すと御堂はタクシーの後部座席に座っていた。

 

 ――私はさっきまで……。

 

 遺体安置所にいたはずだ。克哉の遺体を前にして、怪しげな男と会話していた記憶が生々しくよみがえる。

 タクシーは御堂のマンションの近くを走っていた。馴染みのある景色は帰宅途中の道のりだ。遺体安置所から自宅に帰る途中なのだろうか、と考え、思い違えていることにすぐに気が付いた。窮屈な襟元に手を伸ばすとネクタイが触れた。隣のシートにはビジネス用のカバンが置いてある。深夜、警察から連絡を受けて、急いで向かったときは、シャツとスラックスにジャケットを羽織っただけの姿でネクタイは締めずに、カバンも持っていなかった。だが、今の御堂の姿は、AA社から帰るときの姿だ。

 腕時計で時間を確認する。短針と長針が示す数字、そして、文字盤の小さな窓から覗く日付を目にして驚愕に息を詰めた。

 

 ――時間が巻き戻った?

 

 時計が示す日時が正しいとしたら、最後の記憶から数時間、時間が巻き戻っている。

 

 ――あの男が言ったことは本当だったのか……?

 

 にわかには信じられなかった。それよりも、タクシーの後部座席でうたた寝して、夢を見ていたという方が納得できる。克哉の遺体を確認させられるという縁起でもない悪夢だが。

 しかし……。

 考えれば考えるほど、御堂の身に起きたことは生々しく、夢だと一笑に付すことは出来なかった。慎重に記憶をたどる。

 今日のこの日、御堂は定時になるとさっさと仕事を切り上げてAA社を出た。常日頃、当たり前のように夜遅くまで残業をしていた御堂だが、澤村の一件があってから、克哉を避けるように行動していた。会話も必要最小限しか交わさない。要は露骨な無視をしている状態だった。理由は言うまでもなく、克哉の行為のせいだ。

 ホテルの一室で、克哉はこともあろうに、御堂の目の前で澤村を強姦した。克哉に言わせれば、御堂を誘拐し辱めた澤村に対する当然の報復行為だという。だが、そうは見えなかった。克哉は澤村を蹂躙する自分に酔いしれていた。口元は残忍に歪み、その双眸には嗜虐の光が宿っていた。

 その時の光景を思い出そうとすると、怒りと悲痛がより合わさったような強い感情がこみ上げて、息が出来なくなる。それほどまでに御堂は克哉の仕打ちに傷ついたのだ。だが、克哉は御堂を裏切ったということさえ自覚していなかった。自分の行為が正当であると疑っていない。それどころか、御堂の克哉に対する態度を、子どもじみた意地の張り合いだと思っている節さえある。

 自分がどれほど苦しみ、悲しみ、そして、克哉に怒っているか、言葉でもって十分に説明すれば克哉も理解できたかもしれない。だが、それでは自分があまりにも惨めすぎる。

 オフィスビルを出た御堂はまっすぐに帰ることはせずに、近くの料理屋で軽く食事を取りアルコールを飲んだ。会計を済ませて、店を出ると、目についたタクシーを捕まえ、自宅へと帰った。

 自宅に戻った御堂は、キッチンでウイスキーを出すと、リビングでそれをストレートで呷(あお)った。独りでいると否が応でも克哉が澤村にした仕打ちが思い出されてしまう。気を紛らわせようと、アルコールに頼る日々が続いていた。

 酔いが回った頭でも、思考は鈍るどころか余計に冴えていた。どこか冷淡に自分を突き放して俯瞰する自分がいた。

 これでは、あの時と変わらない。克哉に解放されてからの満身創痍だった日々と。

 このままではいけない。いい加減、決着を付けなくてはいけない。

 そして御堂はグラスに残ったウイスキーを飲み干すと自分を奮い立たせて、克哉に電話をしたのだ。しかし、克哉が電話に出る気配がなかった。留守番電話サービスに転送されて、御堂はメッセージを入れずに電話を切った。

 しかし、克哉が電話に出なかったことに、どこか安堵した自分がいた。問題の先送りにしかならないが、結論を出すまでの猶予が与えられたのだ。だから、二度目のコールはしなかった。

 そして、それから間もなく、刑事と名乗った男からの着信で御堂の日常は一変した。

 

 

 

 金属の台の上に乗せられた克哉の死体、そして、Mr.Rと名乗った男との会話まで、御堂は詳細に思い出していた。握りしめた手にはじっとりと汗をかいている。御堂の顔色は血の気を失い、思いつめた表情になっていた。

 運転手は御堂に注意を向けることなく、黙々とハンドルを切っている。

 もう一度、腕時計を確認した。腕時計だけでは心許なく、自分の携帯電話を取り出して、日時を再度確認する。

 心臓があり得ないほどの速さで鼓動を刻みだした。

 

 ――タイムリープ(時間跳躍)……。

 

 フィクションの中でしか知らない出来事が我が身に起きている。この時間ならまだ克哉は生きているはずだ。あの惨劇を止められるかもしれない。

 となれば、自分のなすべきことはなんだ?

 御堂は顔を上げ、運転席の方へ身を乗り出す勢いで言った。

 

「すまない。行先を変更してくれ」

「はい?」

「……忘れ物をしたんだ」

 

 AA社のビル名を告げる。運転手は「分かりました」と返事をし、すぐさま車をUターンさせてAA社のビルへと向かう。

 刑事から聞いた情報を必死に思い出す。克哉はAA社近くの公園で澤村に刺されたという。克哉はAA社の上のフロアに居室を持っている。たまたま公園に立ち寄ったところを襲われたとは考えにくい。澤村に呼び出されているはずだ。

 澤村は克哉を刺した後、公園から逃走したが、返り血を浴びた姿であり、すぐに警察に確保された。明らかに常軌を逸した犯罪行為だが、澤村は逃亡を企てていたとしたら、克哉を呼び出した手段はメールではなく、痕跡が残りにくい電話を使ったと考えられる。それも、克哉が他の誰かに漏らさないよう、直前に呼び出したはずだ。

 じりじりとした焦燥感に焼かれる。自分の携帯から克哉の携帯に連絡するが、話し中らしく不通音が流れてつながることはなかった。不穏な予感が背筋をざわざわと駆け上がっていく。今、克哉はちょうど澤村と電話していたのではないか。

 携帯での通話を諦めたところで、目的のビル前にタクシーが到着した。エレベーターホールに一直線へと向かい、AA社のフロアを目指す。人気のない廊下を走り、AA社の部屋のドアをカードキーで開けた。部屋の中はまだ電気がついていた。

 まだ克哉はいる。そう安堵したところで、ちょうど執務室からカバンを持って出てくる克哉と鉢合わせした。克哉は御堂を見て目を瞠った。

 

「御堂?」

「佐伯……」

 

 そこで二人とも黙り込んだ。ここ数日間の亀裂は深く、今までのような気安さで声をかけることは出来なかった。

 それでも、声を押し出した。

 

「帰るところか?」

「俺のことが気になるのか?」

 

 克哉の口元が皮肉な笑みを形作る。御堂は厳しい表情のまま片眉を吊り上げた。

 

「どこかに行くのか?」

「何故そんなことを訊く」

 

 克哉はぞんざいに返しながら、御堂の横をすり抜けようとした。その腕を掴んだ。

 

「待て。もしかして、澤村に呼び出されたのではないか」

 

 御堂の言葉に、克哉は動きを止めた。訝しげな顔を御堂に向ける。

 

「どうして、それを?」

 

 ぞわり、と鳥肌が立った。まさしく、今、克哉は澤村に会いに行こうとしていたのだ。

 克哉の質問には答えずに、腕を掴む手に力を込めた。克哉は御堂を一瞥し、不快さを眉に伝える。

 

「佐伯、行くのはやめろ」

「俺に指図するつもりか」

「澤村は君を憎んでいる。会いに行くのはよした方がいい」

「澤村ごときが俺に何かできると?」

 

 克哉は低くざらついた笑い声をたてた。腕を大きく振って御堂の手を払う。

 

「そんなに知りたいなら教えてやる。澤村が謝罪したいと言ってきたんだ。だから今から会いに行く。あいつも俺を敵に回すことが、どれほど愚な行為だったかだったか分かったのだろう」

「澤村が君に謝罪するなど、本気で思っているのか?」

 

 御堂の言葉に克哉が怒りの気配をまとった。レンズ越しの双眸が冷たい鋭さを帯びる。それだけで、部屋の酸素が一気に薄くなったように息苦しさを感じた。

 

「……お前こそ、いきなりなんだ。今までさんざん俺を無視してきて、今更、保護者面でもするつもりか」

「……」

 

 臆しそうになる自分を深呼吸で落ち着け、克哉をまっすぐに見据えた。

 なぜ行くべきではないのか、克哉に待ち受ける運命を説明することは出来なかった。それがMr.Rとの約束だからだ。それに、正直に事情を話したとしても、克哉が頭から信じるとは思わなかった。自分でさえ、信じ切れていないのだ。

 だが、だからと言って、このまま克哉をみすみす死地へと向かわせるわけにはいかない。覚悟を決めた口調で告げた。

 

「君を行かせるわけにはいかない」

「ふうん……」

 

 克哉の冷たい笑みが深まる。

 

「そうか、嫉妬しているのか。俺が澤村に会うことに」

「馬鹿を言うな……!」

 

 克哉が御堂に顔を寄せた。耳元で囁く。

 

「俺に抱いてもらえなくて疼いているんだろう?」

「な……よせっ」

 

 咄嗟に克哉から距離を取ろうと足を引いた。だが、動けなくなった。克哉が御堂のネクタイを掴んだのだ。

 

「来い。抱いてやる」

「――ッ、よせっ!」

 

 ネクタイを掴む克哉の手を振り解こうとしたところで、克哉の方が一瞬早く御堂の手首を掴んだ。そのまま背中に回され、捩じり上げられる。関節が軋み、痛みに呻いた。

 

「くぁっ、はな…せ……っ!」

「そのまま、歩け。まっすぐだ」

 

 捩じり上げた手を背中に押し付けられて、歩かされる。執務室の中に入ると、克哉が後ろ手で部屋のドアを閉めた。そして、壁一面を覆う窓際まで歩かされる。

 

「佐伯……っ、やめろ…っ」

 

 ぐっと肩を押されて、窓ガラスに身体を押し付けられた。ひんやりとしたガラスの無機質な感触が頬にあたる。克哉は背後から覆いかぶさるようにして、御堂の動きを封じた。その手が御堂のベルトへと伸びる。身体を強張らせた。

 

「っ、触るなっ!!」

「黙れ」

 

 地を這うような声が鼓膜を舐める。ひやりとした怖気が頭の芯をしびれさせた。恐怖に身体が縮こまり、抗う力が抜ける。克哉の手が器用に動き、御堂のベルトを外し、ファスナーを下ろした。ズボンを膝のところまで落とされる。そして、克哉はアンダーの布の上から、御堂の性器をまさぐり始めると、すぐにそこは物欲しげな熱を帯びた。

 

「本当は俺に抱かれたくて仕方なかったんだろう?」

「違う……っ」

「嘘を吐くな。それなら、なんだこれは?」

 

 あっという間に高ぶってしまった性器の形を、布越しになぞられた。先端の部分を指先で強く押されると、ぬちゅっと湿り気を帯びた音が立つ。

 くくっと克哉は低く笑い、アンダーのウエスト部分に指を引っかけて押し下げた。ぶるん、と張りつめたペニスが弾んで出てくる。

 

「たっぷりイかせてやるよ……」

「やだ……、よせ……っ」

 

 克哉の指が御堂のペニスに絡みつき、根元から先端まで扱きたてる。巧みな手淫に、疼くような熱が下腹に流れ込んでいく。克哉の手から逃げようと後ろへ身体を引こうとしたが、背中に克哉の胸がぶつかる。背後から押し付けられる克哉の熱と重みに、焦がれるような劣情がこみ上げてきた。

 

「ぁ……や…」

 

 肌がしっとりと汗をかいた。産毛が逆立つような淫らな快楽が、さざ波となって全身を駆け抜ける。克哉の手は滑らかに動き、指が張り出したエラを弾き、小孔をくじり、筋を擦る。好き勝手に快楽を煽られて、屈辱しか感じないはずなのに、腰は期待に揺らめきだしていた。

 堪えきれず、悦楽が弾ける。咄嗟に手の甲で自らの口を封じて、喘ぎを殺した。

 

「――ッ」

 

 克哉の手の中でペニスが大きく跳ねてびゅくびゅくと重ったるい粘液を吐き出していった。

 苛烈な絶頂に膝が崩れ落ちそうになる。それを克哉が御堂の前に回した腕で支えた。尻を突き出す体勢にされて、克哉の精液に塗れた指がアヌスの襞をなぞる。咄嗟に力を込めて拒もうとしたが、克哉の指は御堂の抵抗をあざ笑うかのように易々と侵入してきた。

 

「ん……っ、くぅっ」

 

 中をなぞる克哉の指が次々と増やされる。克哉に躾けられ、従順に馴らされた身体はすぐに期待にざわめきだした。内腔がうねり、克哉の指を食い締める。

 ずっ、と指が抜かれた。身体の内部に外気が触れ、空虚さを埋めたくて、アヌスがヒクつく。せめてもの抵抗に首を振った。

 

「よせ……」

「挿れてください、の間違いだろう?」

 

 喉で笑い、克哉の屹立が押し当てられた。ぐう、と圧がかかり、御堂の身体を大きく拓いて、圧倒的な質量が御堂を穿つ。

 

「ぁ、あああああっ!」

 

 克哉が御堂の腰を掴んで引き寄せた。ずり落ちそうになる上体を窓に両手を突いてどうにか保つ。克哉が先走りのぬめりを頼りに、さらに深くねじ込んできた。

 

「懐かしいな。あんたをMGNで犯した時を思い出さないか?」

「ぅ、う……」

「御堂、いい声で鳴いてみせろ」

 

 興奮に声を上擦らせながら、克哉が律動を始めた。一突きごとに奥を突かれる。苦しさに背をしならせ、喉を反った。まるで、標本箱にピンで貫かれた蝶のような無様な姿だ。眦から涙が伝う。

 克哉が腰を遣いながら、御堂のペニスを握り込んだ。そこは、萎えることもなく反り返ったまま蜜を垂らし続けていた。

 克哉が上体を深く伏せて、御堂のうなじを吐息でなぞった。

 

「ほら、自分の顔をよく見てみろよ。男が欲しくてたまらない顔をしているぞ」

 

 言われて、ガラスに映り込んだ自分に視線が向いた。上気した頬に潤んだ双眸、唇は半開きで悩まし気な喘ぎを漏らし、この上なく淫らな顔をしている。

 

「お前は俺に抱かれて悦ぶメスなんだよ」

「ちが……っ、あ、あああっ」

 

 克哉に強く粘膜を擦り上げられて、身体がビクビクと跳ねた。背筋から脳天まで快楽が電撃のように貫く。窓ガラスと克哉に挟まれながら、身悶えた。射精では得られない、どこまでも深い絶頂に囚われる。

 

「も……無理…、だっ、や、はぁ――あっ」

 

 克哉は御堂を穿ち続ける。果てても果てても、終わりがない。ペニスの先端からは壊れたように粘液が漏れ続ける。縋るものを探すように窓ガラスに手を這わせた。喘ぐ声で克哉の名を呼んだ。

 

「さえ……き…っ」

 

 答える声はなく、返事の代わりに、強く突き入れられた。

 東京の眩いネオンが視界に滲む。快楽の大きな波に攫われるように思考が焼き切れる。その先にあるどこまでも深い闇が目の前に広がり、意識が途切れた。

 

 

 

 意識を取り戻した時、御堂はAA社の執務室の床に横たわっていた。身体がひどく重たい。呻きながら手を突いて上体を起こした。どろり、と身体の中の残された液体が、内腿を伝い落ちていく。その不快さに眉を顰めながら窓の外に視線を向ければ、未だ夜の闇に閉ざされている。自分が何故ここにいるのか、混乱し、すぐに思い出した。

 急いで腕時計で時間を確認する。意識を失っていたのは一時間ほどだ。照明が付いたままのフロアに視線をさ迷わせるが克哉の姿はない。

 

 ――まさか……。

 

 寒気がぞわぞわと背筋を這い上がっていく。携帯を取り出し、克哉へと連絡した。呼び出し音は鳴るが、出る気配はなく、ややあって留守番電話サービスに転送される。御堂は苛立ちながら電話を切った。

 これではまるで、あの夜と一緒ではないか。

 急いで公園に向かえばまだ間に合うかもしれない。鈍い痛みが走る身体を鞭打ち、どうにか立ち上がった時だった。携帯が電子音を鳴らし、着信を告げる。

 克哉からのコールバックかもしれない。

 そう思って、携帯電話の画面を見た御堂の期待はすぐに失望に取って代わられた。電話帳に登録されていない電話番号が画面に表示されている。その末尾の四桁は0110だ。警察署からの電話だった。

 

 

 

 刑事からの電話の内容、そして、遺体安置所で刑事から受けた説明は、記憶にあるものと一致していた。

 克哉は御堂を抱いた後、公園へ向かい、そこで澤村に襲われたらしい。引き留めようとした御堂の努力は水泡と化し、何も変えることは出来なかった。

 力なく刑事の質問に答え続ける。この質問も前回と一言一句、違(たが)わなかった。

 途中で若い刑事が「遺族に連絡が取れました」と呼びに来るタイミングまで一緒だった。

 ふたたび、物言わぬ克哉と二人きり、部屋に取り残される。

 ぼんやりと克哉の遺体に視線を落とした。

 そして、まさかと思い、克哉の手元の布をめくった。すると、見覚えのある柘榴がごろりと御堂の方に転がってくる。それを手に取ったその時だった。

 

「こんばんは」

 

 背後から聞き覚えのある声がした。振り向くと、黒衣の男が立っていた。

 

「Mr.R……」

「覚えていただき光栄です」

 

 黒衣の男は明らかにこの場から浮いた存在なのに、もう驚くこともない。御堂は克哉に視線を戻し、掠れた声で言った。

 

「……私は失敗した」

「失敗かどうか受け止め方によります」

 

 平然とした言葉が返され、御堂はRへと顔を向けた。Rは蠱惑的な笑みを浮かべる。

 

「佐伯さんの行いを考えれば、この結果は当然の帰結とも言えるのでは?」

 

 口元に笑みを刷くも、その言葉はひどく冷淡だった。御堂は静かに首を振った。

 

「私はそうは思わない」

「それではまたその果実を使いますか?」

「……ああ。今度こそは、佐伯を助ける」

 

 手に持つ柘榴がずしりと重さを増した気がした。Rは小首を傾げて御堂に訊ねる。

 

「一つお聞きしたいのですが、あなたは佐伯さんを許せるのですか? あなたの善意は踏みにじられ、それどころか、あなたは酷い仕打ちを受けた。あなたが助けたい人は、助ける価値があるのでしょうか?」

 

 克哉の旧い友人と言っていた割には容赦ない言い様だ。

 御堂は小さく自嘲の笑みを浮かべ、言った。

 

「昔の私は、他人がどうなろうと知ったことではなかった。私が蹴落とした人間が、その後、悲惨な顛末を迎えようとも、何も感じなかった。だが、今は違う。理不尽な目に遭う者の苦しみを知っている。だから、運命を変えられる手段があるのなら、見殺しにすることなどできない」

 

 御堂を理不尽な目に遭わせ、人生を狂わせた張本人こそ克哉で、今回だって、克哉に酷い目に遭わされたのだ。だからと言って、殺されて当然だと割り切ることなど到底できなかった。

 克哉を助けるためにはどうしたらよいのか。

 今回のタイムリープで分かったことがある。単純に克哉を止めようとしてもダメなのだ。克哉が変わらなければこの結末を変えることは出来ない。

 だが、克哉を変えることなど出来るのだろうか。

 澤村を強姦する克哉は、御堂の知らない誰かのようだった。

 いいや、御堂はあの克哉をよく知っていた。かつて、御堂から何もかも奪いつくした克哉の姿だ。

 それでも、克哉と再会し、恋人関係になってから、克哉の細やかな気遣いに驚かされることが多かった。お互い、愛し愛されているという実感もあった。しかし、自分が克哉の何を知っているのかと改めて問えば、何も知らないも同然だった。

 一体、克哉の本当の姿はどちらなのだろうか。

 

「私は佐伯と話し合う時間さえなかったのだ」

 

 呟いた言葉は宙に漂い消えていった。

 

 ――せめて、佐伯と話し合う時間があれば……。

 

 何か違ったのかもしれない。少なくとも、克哉の本質を見極めることが出来たかもしれない。

 克哉を避けていたのは御堂だ。いい加減、話し合おうと電話をしたときにはもう手遅れだった。

 もう一度やり直すことが出来るなら、今度こそは……。

 柘榴を握りしめる手が細かく震える。

 Rが笑みを深めた。

 

「どうぞ、次こそは満足のいく選択ができますように」

 

 血のように赤く煌めく果実に、御堂は歯を立てた。

(2)
三、キスを、もう一度だけ

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 ハッと御堂は目を覚ました。御堂は寝室のベッドの上で寝ていた。カーテンの隙間からは朝の柔らかな光が差し込んでいた。

 頭を振って自分にまとわりつく柘榴の残り香を払うと、枕もとのデジタル時計を確認した。それだけでは不安を拭えず、テレビを付けて日付と時刻を確認した。願った通りに、朝まで時間が巻き戻っている。

 手早く朝の支度をして、AA社へと出勤した。始業時間より大分早い。特にここ数日は克哉と二人きりにならないように、始業時間ぎりぎりに出勤していた。

 カードキーでフロアに入る。まだ誰も出勤していなかった。自分のデスクに着席してパソコンを立ち上げた。今抱えているプロジェクトの資料を開き、仕事にかかりだす。月天庵以外にも複数のコンサルティングを同時並行で抱えているのだ。月天庵のプロジェクトが軌道に乗ったとしても、仕事が楽になるということはない。

 御堂がデスクについてからややあって、AA社のドアが開錠される音が響いた。ドアが開き、革靴の足音がこちらに向かってくる。長身の人影が執務室の入り口に現れた。克哉だ。

 

「御堂……?」

 

 御堂がいるとは思っていなかったようで、克哉は踏み出しかけた足を止めた。

 御堂はデスクから顔を上げて、自分をまじまじと見つめる克哉と視線を重ねた。落ち着いた口調であいさつをする。

 

「おはよう」

「……」

 

 克哉を前にして緊張が走るが、努めて平静を装った。克哉は値踏みをするような露骨な眼差しを突き返すと、無言のまま自分のデスクへと向かった。持っていたカバンをデスクの上にぞんざいに置く。そうして、口を開いた。

 

「どういう風の吹きまわしだ?」

「何のことだ?」

「今まで定時に来て定時に帰っていただろう」

「私が早く来たら目障りか?」

「悪い冗談だな。俺を目障りに思っていたのはお前の方だろう?」

 

 とげとげしい言葉が返ってくる。二人の間の空気は凍り付いたままだった。

 それでも、克哉は御堂の態度が変わったことで戸惑っているようだ。ちらりとレンズ越しから探る視線を向けてくる。

 なおも口を開きかけたところで、「おはようございます!」と快活な声がドアのところから響いた。藤田が出社してきたのだ。途端に、克哉も御堂も何事もなかったかのように仕事に取り掛かり始めた。日中も、克哉をあからさまに避けたりすることはせず、表面上はビジネスパートナーとして接すれば、克哉も同じように接してくる。一見、今まで通りの平穏な職場。だが、水面下では互いの腹を探り合う。

 今朝、自ら歩み寄ることで、何らかの克哉の反応を引き出せたのは計画通りだった。

 一方で、克哉が行った行為を許せるかと問えば、やはり許せなかった。しかし、心に渦巻いていた克哉に対する怒りと失望は静かに矛先を転じていた。克哉に待ち受ける過酷な運命を知ってしまったせいだろうか。克哉は明日を迎えることは出来ずに非業の死を遂げる。

 視界の端で、デスクに座る克哉の横顔を盗み見た。克哉はとっくに冷静さを取り戻し、藤田や他の社員に手際よく指示を出し、滑らかにキーボードを叩く。仕事に取り組むその顔は、若いながらも有能な経営者としての、知性と冷徹さを見る者に印象付ける。AA社を共に起ち上げたときに目にした克哉の姿そのままだ。しかし、その仮面の裏に潜む、克哉の本性はいったいどちらなのだろうか。他人を踏みにじることを容赦しない残虐な独裁者なのか、御堂を繊細に気遣い愛そうとする対等な立場の恋人なのか。それを見極めなければならない。

 窓の外が闇に閉ざされる。ようやく最後の社員が退社し、御堂はタイミングを見計らって、椅子から立ち上がると克哉のデスクの前に立った。

 克哉はパソコン画面に向けていた視線を御堂へと向けた。色素の薄い光彩が冷ややかに御堂を見据える。それをまっすぐに見返した。

 

「佐伯、君と話し合いたい」

「何を話し合うんだ」

「澤村のことだ」

 

 そう言うと、克哉は唇の端を吊り上げた。

 

「いつまでへそを曲げているのかと思っていたが、ようやく俺の正しさが分かったか」

「違う。君は間違っている」

「俺が間違っているだと?」

「君は、自分の行動が正しいと本気で思っているのか」

「御堂、お前こそ感情に流されているんじゃないか。あれから、クリスタルトラストの妨害はない。汀堂のプロジェクトも中断したと聞く。投資の回収を諦めたのだろう」

 

 克哉は低く、短く、喉で嗤う。

 

「澤村も今頃俺たちに手を出したことを心底悔いているだろうな」

「……暴力で澤村を改心できたと?」

 

 低い声で問うた。御堂は知っている。澤村は悔いるどころか、克哉への憎悪を募らせている。だが、克哉は御堂の懸念を歯牙にもかけない。

 

「あいつにはふさわしい報いだ」

「私には、君が嗜虐心に駆られているようにしか見えなかった」

 

 いちいち反論してくる御堂に克哉は苛立ったように眉間の皺を深くした。

 

「それなら、お前は澤村を許せるのか。あいつはお前に何をした?」

 

 脳裏に、あのホテルの部屋で澤村から受けた屈辱がありありと蘇る。ギリッ、と奥歯を噛みしめて、喉元にせり上がる感情を押し殺した。

 

「……澤村が行った行為は確かに許されるものではない。だが、だからと言って、自分まで同レベルに成り下がる必要はない」

「お前の説教は聞き飽きた」

 

 バン、と克哉がデスクの天板を苛立たしげに叩いた。ぎらりと剣呑な視線が向けられる。圧倒的な威圧感に場が支配される。部屋の温度が一気に氷点下まで冷え込んだかのようだ。

 

「御堂、勘違いしているようだが、俺は力づくでお前を服従させることだって出来る」

 

 克哉の気迫は研ぎ澄まされた刃のようだった。目の前に立つだけで冷や汗が背筋を伝い落ちる。氷のように凍えた薄い眸に御堂を射抜いた。だが、御堂は怯むことなく毅然とした厳しさを込めて告げる。

 

「勘違いしているのは、君だ」

「なんだと?」

「君は私を服従させるなどと言うが、それが出来たことがあったか?」

「……」

 

 克哉の眼差しが鋭さを増した。今にも襲い掛かりそうな猛獣の殺気が漂う。

 しかし、決して気圧されているように見えてはならない。ありったけの自制心をかき集める。

 

「私が君の傍にいるのは、自分の意思だ。君に強制されたものではない。もし、君の元から去るとしたら、それもまた、自分の意思だ。君にいくら無理強いされようとも、君は私の心まで自由にすることは出来ない」

 

 粘り強く、克哉に問いかけた。

 

「それでも、試してみるか?」

 

 これは賭けだった。切り立った断崖の崖っぷちで辛うじて踏みとどまっている気分だ。互いの視線が、剥き出しの刃のような鋭さで正面からぶつかり合い、冷たい火花が散った。瞬きさえできないほどの張りつめた緊張感。密度の濃い沈黙が充満し、窒息しそうになる。それでも、御堂は一歩も退かなかった。

 恐怖がないと言えば嘘になる。少しでも気を抜けば、膝から崩れ落ちていただろう。

 克哉がその気になれば、いとも簡単に御堂を組み伏せることが出来るのだ。克哉に屈するなど真っ平だ。それでも、克哉が御堂を服従させることを諦めなければ、今度こそ克哉は御堂を壊すかもしれない。嗜虐に駆られている今の克哉は、躊躇うことなくそれをやるだろう。口元には酷薄な笑みを刷きながら、御堂に処刑人の斧を振り下ろす。

 しかし、だからといって、御堂には退くという選択肢も従うという選択肢もなかった。

 光すら呑み込んでしまう闇の深淵と対峙する。背中がうすら寒くなるような感覚を覚えながらも、御堂はありったけの力を込めて克哉を見据え続けた。

 その時だった。

 唐突にデスクの上に置かれていた克哉の携帯が鳴り出した。緊張が寸断され、克哉の注意が携帯へと逸れる。だが、御堂は克哉を睨み付けたまま言った。

 

「佐伯、電話に出るな」

 

 鋭く咎める声に、携帯に伸ばしかけた克哉の手が止まる。

 

「今、私との話し合い中だ」

「……」

 

 御堂の真剣な気迫に呑まれたかのように克哉は動きを止めていた。そして、そのままじっと考え込むように視線を下に落とした。

 目の前で携帯が鳴り続ける。

 だが、克哉は、御堂も携帯も存在しないかのように表情を消していた。克哉の心はここになく、どこか遠いところをさ迷っているようだった。携帯は少しの間鳴り続け、留守番電話サービスに転送されると、画面の光が消えた。

 ふたたび静寂が部屋に立ち込める。

 少しして、克哉は大きく息を吐いた。そして、何を考えたのか、かけていた眼鏡を外し引き出しにしまうと、別の眼鏡を取り出して着用した。どちらもよく似た銀のメタルフレームの眼鏡だ。違うところと言えば、ハーフリムかアンダーリムかくらいだろうか。

 今の行為に何の意味があったのか、御堂には分からなかった。

 だが、克哉の視線がふたたび御堂の元に戻された時、そこには今までとは違う光が宿っていることに気が付いた。

 克哉は指で眼鏡のブリッジを押さえながら、掠れた声で言った。

 

「少し時間が欲しい」

 

 その顔は深い痛みを堪えるような険しさがあった。克哉のレンズの奥の眸の中で意思が揺らめき、そして、何かの形を成そうとしている様を御堂は視た。

 克哉は克哉なりに、御堂と、そして、自分と向き合おうとしている。だから、御堂は

 

「分かった」

 

 と頷き、纏う気配を和らげた。

 張りつめていた空気が緩み、止まっていた時間がゆっくりと流れだす。

 

「帰るか……」

 

 そう呟いて、克哉が携帯電話を手に取った。着信履歴を確認する。じわりと冷や汗をかきながらも素知らぬ口調で尋ねた。

 

「誰からだ?」

「非通知だ。留守録も残されてない」

「そうか」

 

 克哉はそれだけ言って興味を失ったように携帯を無造作にジャケットのポケットにしまい込んだ。

 そして、デスクのパソコンをシャットダウンすると立ち上がった。御堂に視線を向ける。

 

「あんたはどうする?」

「私も帰る」

 

 そう返して、御堂も自分のデスクに戻りカバンを手に取った。今や、克哉との間には、ぎこちないながらもどこか打ち解けた雰囲気が漂っている。

 二人してAA社を出る。克哉がカードキーでドアに鍵をかけた。

 エレベーターホールに向かうと克哉は上層階行きのボタンを押した。そして、ちらりと御堂へ視線を送る。

 

「俺の部屋に寄っていくか?」

 

 突然の誘いに心臓が跳ねた。だが、御堂は一つ息を吐いて首を振った。

 

「いいや、今夜はやめておく」

「ああ」

 

 克哉は平たんな調子で答えると、御堂のために下層階行きのボタンを押した。そして、御堂へと向き直る。真正面から向き合う形になり、緊張が走った。

 

「……御堂」

 

 ためらいがちに克哉が言った。

 

「俺とキスできるか?」

 

 思わぬ言葉に瞠目した。だが、嫌悪感はなかった。御堂は素早く周囲に視線を走らせ、自分たち二人しかいないことを確認すると克哉に顔をよせ、唇のきわどいところに自らの唇を押し付けた。

 克哉の手が御堂の背中に回される。身体が密着し、相手の温もりが布越しに伝わる。克哉の顔の角度が変わり、より深くキスを噛み合わせようとしたところで、御堂は顔を離した。克哉の胸を押して距離を取る。

 

「……今日はこれくらいにしておく」

「そうか」

 

 これ以上キスを交わすと、自制心が決壊してしまいそうだ。そして、克哉も深追いしなかった。その時、ちょうどタイミングよく上層階行きのエレベーターが到着した。克哉がエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる寸前に、御堂はドアを手で押さえた。

 

「佐伯、ひとつお願いがある」

 

 克哉は御堂の行動に少し驚いたように視線を向けた。

 

「なんだ?」

「今夜はもう、部屋から出るな」

「何故?」

「そうして欲しいだけだ」

「そうだな……」

 

 理由を訊くな、と祈る気持ちでいると、克哉がニヤリと笑みを浮かべた。

 

「もう一回キスしてくれるなら、考えてもいい」

「……分かった」

 

 ドアを手で押さえたまま、エレベーターの中の克哉へと身を乗り出した。唇は克哉の唇によって真正面から受け止められる。薄く開いた唇の間から舌が触れ合う。先ほどよりも深いキスだ。くちゅりと濡れた音が立った。

 頭の芯が、じん、と痺れる。克哉を欲する気持ちが高ぶりかけたところで、真横からエレベーターの到着音が鳴った。ハッと我に返ってキスを解く。克哉が吐息を零すように、御堂に告げた。

 

「俺はこのまま寝るさ。じゃあな、御堂」

「ああ……。おやすみ、佐伯」

 

 克哉の隣のエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、下へと動き始めた。

 唇を指でなぞった。先ほどの克哉の熱を指先でたどる。

 きっと明日は良い日になるだろう。

 そんな予感に包まれながら、御堂はタクシーを拾った。

 

 

 

 そして、数時間後。

 

 ――なぜ……。

 

 御堂は呆然と冷たい金属の台の上に横たわる克哉に視線を落とした。

 自宅に帰って数時間後、御堂は警察からの電話に呼び出された。そして、今、行きなれてしまった遺体安置所にいる。

 克哉は澤村からの電話にも出なかった。公園にも行かなかった。それなのに、どうして、死んでしまったのか。

 克哉の死に直面するのはこれで三度目だ。だが、慣れるということはなく、むしろ、最も深い悲嘆と悔恨に打ちのめされている。

 三度目にしてようやく悲しみが追い付いてきたかのようだ。

 顔面蒼白の御堂に、刑事は同情の言葉をかけながらも淡々と質問を重ねてきた。

 刑事の話では、澤村は帰宅した克哉を襲ったという。オートロックのマンションに入り込み、克哉の部屋のフロアの物陰で待ち構えていたらしい。

 克哉とキスを交わしたあのエレベーター。その先に、残酷な運命が待ち構えていたのだ。

 部屋のドアが開き、若い刑事が「遺族と連絡が取れました」と呼びに来る。刑事が部屋から去り、克哉と二人取り残される。そして、背後に密やかな気配が現れた。 

 

「こんばんは」

 

 かけられる声に振り向くこともしなかった。カツカツと乾いた足音を立てて、男が御堂の横に並んだ。Mr.Rだ。

 

「この度は誠に残念でした」

「……どうしてだ?」

 

 喉の奥から絞り出した声は嗄れていた。

 

「どうして……。どうして、佐伯は死んだ!?」

 

 慟哭を堪えて声が震えた。

 自分をどうにかして抑えていないとRに掴みかかっていただろう。

 克哉は変わった。別れ際のキスをした時には、克哉は御堂が愛した元の克哉に戻っていた。

 克哉との関係修復の可能性を垣間見た分、それが永遠に失われてしまったことが心身に辛く堪(こた)えた。

 たっぷりとした沈黙の後、Rはゆっくりと口を開いた。

 

「……時は改変を嫌います。あるべき姿に戻ろうとします」

「あるべき姿?」

「ええ。最初の時間軸で起きた出来事に忠実にあろうとします」

 

 顔を上げて、Rを見た。涼しい顔を保ったまま、Rは言う。

 

「流れる川に小石を投げて、ほんのひと時、さざ波を立てたとしても、川の流れを変えることができません。時の大きな流れを変えたいのなら、相応の力が必要なのです」

「お前は、私が佐伯の運命を変えることが出来ないと知りながら、この果実を渡したのか」

「そうですね。難しいだろうとは思っておりました」

 

 平然と答える口調に、御堂は身体の横に下ろした手をきつく握りしめた。Rは静かに言葉を続ける。

 

「ですが、あなたは運命に抗おうとしている。それが、どれほどの可能性を持つのか、自らの手で運命を切り拓くことができるのか、私に見せてほしいのです」

 

 御堂を見詰める金の眸が深い輝きを放つ。

 

「運命の分岐点を探してください。物事にはすべて因果があります。その因果を断つことで、定められた未来を変えることが、出来るやもしれません」

「……」

 

 未来へと敷かれたレールを進むことが運命だとしたら、分岐点を探せばいい。そうRは言っている。分岐点のポイントを切り替えることが出来るなら、最初の時間軸で決定された運命を覆し、克哉を救うことが可能となる。

 しかし、何が、因果を決定づけているのか。

 暴虐に走った克哉を変えてもなお、殺される運命は変えられなかった。

 克哉は澤村の呼び出しに応じなかった。だが、澤村は執拗だった。電話が通じなかった時点で、克哉の部屋の前で待ち伏せることにしたのだ。そこにあるのは狂気と言えるほど強く研ぎ澄まされた殺意だ。

 そう、問題は、克哉だけではなく澤村にもあるのだ。澤村が克哉を襲う決定的な原因になったのは紛れもなく、克哉の強姦だろう。だから、その出来事自体を無くせば、澤村の克哉に対する殺意を無かったことに出来るはずだ。

 克哉の身体にかかる白い布をめくった。克哉の血の気を失った手。そこには、予想通りに柘榴が握られ、御堂の方に、ごろりと転がってくる。それを手に取り、Rへ視線を向けた。

 

「Mr.R、お前は何者なんだ?」

「私は傍観者。運命の行く先を見届ける者」

「嘘だな」

 

 Rの言葉をそう断じる。

 

「単なる傍観者であるなら、私に運命を変えろとは言わない」

 

 Rは「ふふ……」と優美に笑った。

 

「私でも、運命に引き裂かれる恋人たちに胸を痛めることもあるのですよ……」

 

 微笑を湛えながらも、Rの金の眸には油断ならない光が宿っている。

 この男は単なる同情で御堂にこの果実を与えたわけではないだろう。何かしらの思惑があるのかもしれない。

 しかし、だからと言って、運命を変えるチャンスを手放すわけにはいかなかった。

 御堂は手にした柘榴に歯を立てた。果肉が弾け、果汁が迸る。

 

 

「あなたに幸運を……」

 

 Rの声が漂い、かき消されていった。

(3)
四、ありふれた殺意

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 目を覚ますような感覚で意識を取り戻した御堂は、ビル内の喫茶店にいた。目の前には飲みかけのコーヒー。そして、開かれたノートパソコン。御堂はパソコン画面の隅に表示されている日時を確認した。期待通り、克哉が殺される日から数日巻き戻っている。

 自分が何をしようとしていたのか、もしくは何をしたのか、パソコン画面に開かれていたメーラーを確認すると、ちょうど克哉にメールを送ったところだった。

 ちょうど御堂は今、クリスタルトラストが起こった取引について調べていたところだった。クリスタルトラストが手掛ける取引は幅広い。多くはM&Aと呼ばれる企業の買収で、その買収リストの中に、御堂の良く知る会社があったのだ。スローコーポレーション社、MGN社の関連企業だ。内情をよく知っていることもあり、細かく調べていたところ売買に不自然な点を見つけたのだ。

 幸い、御堂のMGN時代の知り合いにスローコーポレーション社の関係者がいて、この後、アポイントを取っていた。御堂の見込みが正しければ、クリスタルトラストのインサイダー取引の決定的な証拠が手に入る。そして、御堂は自分の見込みが正しいことをすでに知っている。

 腕時計を確認すると、もうすぐ待ち合わせ時間だ。御堂はノートパソコンを閉じると席を立った。この喫茶店が入っているオフィスビルの上層階のオフィスで会う予定になっていた。喫茶店を出たところで、ビル内に入っているコンビニを見つけた。思い立って中に入り、目的のものを購入する。そして、御堂はアポイント先へと向かった。

 そして、一時間も経たないうちに、御堂は目的の資料を入手していた。本当なら、このまま地下駐車場に降りて車に乗り込み、AA社へと戻る予定だった。だが、御堂は地下駐車場には降りず、ビルの途中階でエレベーターから降りて、非常口へと向かった。人目に付かないよう非常扉から外に出て、非常階段を駆け降りる。

 記憶が正しければ、地下駐車場に降りたところで御堂は澤村に襲われて拉致されるのだ。その時のことを思い出すと首の後ろがチリチリと痛む。車のドアを開けようとしたところで背後からスタンガンを首に押し当てられて、抵抗を封じられたのだ。澤村は一人ではなかった。協力者の男たちに挟まれるようにして御堂は車に押し込められ、拉致された。

 オフィスビルの周りには商業施設も多く、御堂は先ほどのビルの向かいにある別の喫茶店に入り窓際の席に着いた。そこからはビルの出入り口が確認できる。

 しばらくして、澤村と男たちがビルの正面口から出てきた。マスタードイエローの派手なネクタイに、赤いフレームの眼鏡。遠目から見ても派手な出で立ちは間違いなく澤村だった。澤村は苛立ったように周囲の男たちに何か指示を出している。御堂が車に戻ってこないことで当てが外れたのだろう。

 だが……。

 なぜ、澤村は御堂がこの時間にこのビルに来ることを、どうして知っていたのだろうか。このアポイントを取りつけたのはほんの数時間前だ。AA社はおろか、克哉にも報告していない。どこからこの情報を知り得たのか。尾行されていたのだろうか。

 その時だった。澤村が自分の携帯を取り出した。スマートフォンの画面を操作して何かをチェックすると周囲を見渡した。視線が合いそうになり、御堂は咄嗟に頭を伏せた。薄暗い喫茶店の中だ。澤村に気付かれることはまずないだろう。だが、今の澤村の行動は、明らかに御堂を探していた。まるで、この近くにいると確信しているかのようだ。

 

 ――もしや……。

 

 急いで自分のカバンを検めた。そしてカバンの底に発信機らしきコイン型の金属装置が付いているのを確認した。

 

 ――発信機?

 

 きっとそうに違いない。澤村には二度ほどAA社で話しかけられたことがある。その時にこっそりと取り付けられたのだろうか。

 御堂は手を上げて店員を呼んだ。エプロン姿の女性店員が御堂の元にやってくる。

 

「ケーキをくれないか?」

「ケーキですか?」

 

 御堂がケーキを頼む姿が似合わないのだろうか、店員は目を丸くして聞き返してくる。

 

「ああ、ケーキを。なるべく早く」

「えっと……、どのケーキにいたしましょうか」

 

 そう聞かれて、思い出したようにメニューを開く。色とりどりのケーキの写真の中から、一番色味が少ないものを選んだ。

 

「では、このレアチーズケーキを」

「承知いたしました」

 

 すぐに切り分けられたレアチーズケーキが運ばれてきた。

 甘いものが食べたいわけではない。御堂は急いで、ケーキの底についている銀紙を剥がすとそれで発信機を包み込んだ。

 アルミホイルは強力に電波を遮断する。そうして、ふたたびビル前の澤村に視線を向けると、澤村の行動が明らかに変化した。焦ったようにスマートフォンを操作し、そして乱暴にジャケットにしまい込んだ。やはり、と確信する。

 だが、それだけでは安心できなかった。念には念を入れた方がいい。携帯やパソコンにもGPSが組み込まれている。となれば、スパイウェアが組み込まれているかもしれない。御堂はスリープモードのパソコンをシャットダウンすると、携帯もまた電源を切った。

 そうして、喫茶店の窓越しに澤村を窺うと、澤村はあきらめたようにビルの中へと戻っていった。しばらくしてビルの脇の地下駐車場の出入り口からスモークガラスのバンが出てきた。澤村が拉致に使う予定だった車だ。車はものすごい勢いで走り去っていった。

 ほっと安堵の息を吐くが、AA社に戻るのはためらわれた。先回りして待ち構えられているかもしれない。

 御堂は地下駐車場で拉致される未来は知っているが、それを避けたときの未来は知らないのだ。Rは『時はあるべき姿に戻ろうとする』と言っていた。自分が慎重かつ確実に逃げ切らない限りは、澤村に拉致される未来が待ち受けているだろう。

 それならば、下手に動き回るより、この場にとどまっていた方が良いかもしれない。喫茶店なら人目がある。万一、ここに御堂がいると気付かれたとしても、無茶な行動には出られないはずだ。

 喫茶店でじりじりと時間が経過するのを待った。

 二時間ほど経過したところで、もう大丈夫だろうかと携帯の電源を入れた。克哉に連絡しようとしたところで、タイミングよくAA社から着信があった。電話に出ると、藤田は電話口の向こうで大きな声でまくし立てた。

 

『御堂さん、どこにいるんですか!? 連絡が取れなくて心配しましたよ!』

「すまない。打ち合わせに思った以上に時間がかかってしまった。携帯の電源が切れていて、連絡を入れられなかった。ところで、佐伯はいるか? 代わってくれ」

『それが……先ほど出かけられました』

 

 藤田が言い淀んだ。途端に嫌な予感が背筋を駆け抜け、鳥肌が立った。

 

「どこに行った?」

『分かりません……』

「分からないだと? どういうことだ」

『佐伯さん、携帯に電話がかかってきたんです。電話口で何か言い合いをしている感じで。それで、電話を切った後、何も言わずに、すごい剣幕で出ていきました……』

「分かった」

 

 それだけ言って電話を切った。

 心臓が早鐘を打ち出す。本来なら御堂を拉致した澤村からの電話がこの時刻にかかっていたはずだ。

 

「頼む、出てくれ……」

 

 克哉の携帯に連絡をするが、呼び出し音は鳴るものの出る気配はない。御堂は舌打ちをして携帯を切ると、すぐさま喫茶店から出た。自分の車を回収している暇はない。客待ちをしているタクシーを拾うと、ホテル名を告げた。

 ほどなく目的のホテルに着き、御堂は逸る気持ちを抑えながらエレベーターに乗って客室階へと向かった。

 ここは、都内の有名なシティホテルだ。そして、御堂が拉致されたホテルでもある。拉致された部屋の部屋番号はしっかりと記憶に刻み付けられていた。澤村が克哉を呼び出したとしたら、御堂を拉致したときと同じホテルの部屋を使っているだろう。

 

「開けてくれ!」

 

 目的の部屋のドアを強くノックする。すると、少ししてドアが開いた。出てきたのは克哉だ。克哉は御堂がこの場に現れたことに驚いたかのように、レンズ越しの眸を瞠った。

 

「御堂、来たのか」

「佐伯、ここで何を……」

 

 克哉を押し退けて部屋に入った。そして室内の光景に愕然とした。

 床には澤村がうつ伏せに転がっていた。澤村の服装は乱れ、剥き出しになった下半身からは、この場で何が起きたのが否応にも思い知らされる。意識もうろうとしているのか、御堂が来たことにも気付かないようだ。喉が干上がり掠れた声を出した。

 

「これは……」

「もう片はついた」

 

 御堂の背後から部屋の中に入ってきた克哉が、澤村の背を革靴で踏みつけた。澤村が呻く声をあげる。

 血の気がざあ、と引く音が聞こえた。

 見たことのある光景だった。今回は、御堂は拉致されていない。それなのに、なぜこんな事態になったのか。

 

「どうして、こんなことを……」

「こいつは、隠し撮りした俺たちの動画をネタに脅してきたんだ」

「ぐ……、ぅっ」

 

 克哉は足元の澤村を蹴り飛ばした。澤村が小さく悲鳴を上げて、仰向けになった。澤村の内腿に、精液と血が混ざった液体がつう、と伝っている。

 

「佐伯、どうして、澤村に手を出した!」

 

 声を荒げ、克哉の襟を掴んで詰め寄った。だが、克哉は憤る御堂を前に平然と言った。

 

「俺たちを卑怯な方法で脅してきたんだ。当然の報いだろう」

 

 克哉は冷笑さえ浮かべている。御堂は唇を噛みしめた。克哉の服から手を離し、よろめくようにして、澤村の傍らに膝をついた。

 迂闊だった。澤村は御堂の拉致に失敗したときに備えて、第二の手を用意していたのだ。そして、克哉はその手にまんまと引っかかった。

 事は起きてしまった。

 時間はあるべき姿に戻ろうとする。

 殺意の引き金は引かれてしまった。

 もう、御堂にはどうしようもできない。克哉はこの男に殺される。

 頭の中が真っ白に灼けた。

 こうなった今、自分にできることは……。

 ジャケットの内ポケットに手を忍ばせた。硬い柄が触れる。それを掴みだした。

 ここに来る前、コンビニで購入した果物ナイフだ。

 万一、澤村に襲われた時に、せめてもの護身用にと入手していたのだ。御堂は、ナイフのプラスチックの鞘を取り払う。御堂の行動に不審を抱いた克哉が声をかけた。

 

「御堂……?」

「佐伯、来るなっ」

「おいっ!!」

 

 果物ナイフを大きく振りかぶった。澤村の首を狙って振り下ろす。だがその刃が澤村の首を突き刺す寸前、手首を強く掴まれた。

 

「御堂、よせっ!」

 

 力任せに手首を引っ張られる。バランスを崩して倒れ込んだところで、克哉が素早くナイフを払い落とした。ナイフが飛び、床に落ちる。そのナイフを拾おうとしたところで、克哉は御堂を羽交い絞めにして動きを封じてきた。

 

「離せっ!!」

「何をする気だっ!」

「澤村を殺さないと、君が……っ!」

 

 このままでは克哉が死ぬ。一刻も早く澤村にとどめを刺さなければならない。澤村が死ねば、殺人者はいなくなる。今度こそ克哉を助けられるはずだ。

 だが、克哉は御堂を押さえ込もうとする。渾身の力で抗った。二人して揉み合いになり、ホテルの床に倒れ込んだ。

 

「御堂、落ち着け!」

 

 哉が馬乗りになって、御堂の両手を床に縫い付けた。互いに息は乱れて、胸を荒く上下させる。克哉は、御堂の予想外の行動に困惑しているようだった。呼吸を落ち着けながら、御堂に問う。

 

「いきなり、どうしたん……ッ」

 

 言葉は最後まで紡げなかった。克哉の身体が強張り、開いた唇が戦慄く。克哉がゆっくりと肩越しに振り返り、御堂もまた、克哉の視線の先に視線を向けた。

 克哉の背中に果物ナイフが深々と突き刺さっていた。そして、その背後に立つ、見知った人物。

 

「澤村……っ!」

「ハハ…っ! お前なんか死んでしまえっ!」

 

 狂ったような笑い声を上げながら、澤村は克哉の背に刺さったナイフを引き抜いた。克哉が苦悶の呻きをあげる。それでも、克哉は御堂を自らの背に庇うように、身を捩った。そして、切りつけてくるナイフを厭わず、澤村に渾身の力でタックルをする。澤村が尻もちをつくようにして倒れ込んだ。克哉が振り返り、御堂を見遣った。

 

「御堂、逃げろっ!!」

「佐伯っ!」

 

 悲鳴と怒号が行き交う。衝撃に腰が抜けて、動けなかった。澤村ががむしゃらにナイフを振り回す。克哉は逃げるどころか、自ら澤村にしがみついた。御堂を逃がそうとしての行動だろう。だが、澤村の狙いは克哉だ。澤村のナイフが一閃し、克哉の首に突き刺さった。肉が裂け、血が噴き出す。御堂は悲鳴を迸らせた。

 それからのことはよく覚えていない。

 絶叫と激しい物音でホテルスタッフが部屋に駆けつけ、澤村は取り押さえられた。御堂は克哉の出血を押さえようと首の傷を手で押さえた。手のひらが温かい血でしとどに濡れる。見る間に大量の血だまりが出来、克哉の意識はもはやなかった。すぐさま警察と救急車が呼ばれ、克哉は救急搬送されたが、出血多量で死亡した。御堂は警察の事情聴取を受け、そして、気付けば克哉と二人、遺体安置所に取り残された。

 

「この度は誠に残念でした」

 

 いつの間にかRが隣に立っていた。

 目の前で克哉を死なせてしまった衝撃に頭は痺れたままだ。動けないでいると、Rが克哉にかけられた白い布をめくって、克哉の手に握られた柘榴を手に取った。

 

「どういたしますか。また、やり直されますか?」

「ああ……」

 

 半ば自失したような状態で柘榴を受け取った。手の中にある柘榴に視線を向ける。

 茶色く乾いた果皮の間には、真っ赤に煌めく果肉がぎっしりと詰まっている。

 それが克哉の裂けた皮膚から覗く血肉のようだった。

 そう思った瞬間、吐き気がこみ上げてきた。Rが労わる声をかける。

 

「辛ければ、この柘榴を捨てても良いのですよ」

「……そうしたら、佐伯を助けられないだろう」

 

 Rは返事代わりに微笑んだ。

 ようやく、御堂は自分の立場を理解した。

 進も退くも地獄なのだ。ここで諦めれば、克哉の死は決定事項になる。だからと言って、時間を巻き戻っても、新しい克哉の死を突き付けられる。

 これが、Rの意図したことではないのだろうか。

 克哉に同情する素振りで御堂をけしかけ、克哉が何度も殺され、御堂が絶望に苦しむ様を見て愉しんでいる。

 本当に殺すべきなのは、このRという得体の知れない男なのではないか。

 そう考え付いたところで、Rはにっこりと御堂に微笑みかけた。

 

「そう思いたい気持ちも無理はございませんが、何の実も結びませんよ」

「……」

 

 御堂の思考を読み取っているかのような返答に、逆に意識が冷静さを取り戻した。

 進も退くも地獄なら、克哉を助けられる可能性が少しでもある方にかけるしかない。

 克哉はあの部屋で澤村に襲われながらも、御堂を守り、逃そうとした。

 克哉は澤村を強姦し、御堂にひどい仕打ちをした。だが、克哉の本質は非道な凌辱者だけではないことを知っている。だからこそ、諦めきれなかった。

 今度こそ、克哉を救いたい。

 その一心で、御堂は柘榴に歯を立てた。果肉を咀嚼する。果汁が御堂の唇を真っ赤にぬらめかせた。

五、恋人と幼馴染

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 タイムリープを行うたびに、柘榴の香りが鼻先を掠めていく。その香りは、深く息を吸い込んだ途端に、たちまち霧散してしまうような淡い香りだが、御堂にとってはタイムリープが実行されたことを確認するための大切な香りだった。

 そ御堂は、あれからさらに数度、時間を遡っていた。

 前のタイムリープの時のように、克哉が殺される前に澤村を殺す、という手段も考えたことがあった。だが、結局、手を下せなかった。冷静になればなるほど、人を殺すという行為の重みに耐えられなかったし、それをしたら、結局のところ御堂もまた澤村同様、他人の人生を理不尽に奪う殺人者に成り下がるのだ。

 それならば、と、克哉と澤村の対立が解消出来ないかと様々な手段を試みた。一度は、アルテア飲料と月天庵のコラボレーション企画を見直すように克哉に迫った。それが失敗し、それならば、とクリスタルトラストのインサイダー取引の証拠を固めて、クリスタルトラストが何か行動を起こす前に突きつけたこともあった。

 しかし、あるべき姿に戻ろうとする時間の恒常性は、御堂の努力をことごとく無に帰した。御堂の行動は、経過を変えることは出来ても、克哉が殺されるという結果を変えることは出来なかった。最初の時間軸を忠実になぞるかの如く、克哉は何度も殺された。

 命はなぜこれほどまで簡単に奪われるのか。風で舞い散る花びらのように、あっという間に克哉の命は御堂の目の前から攫われていく。時の流れは御堂をあざ笑うかのようだった。

 何度、克哉の死体を前に無力感に打ちのめされたことだろう。

 それでも御堂にあきらめるという選択肢はなかった。必ずどこかに突破口があると信じて、柘榴を口にした。

 一方、何回もタイムリープを繰り返して分かったこともある。

 御堂が介入しない限りは、必ず同じ時間に同じことが起きる。誰かが話す言葉も一言一句違わない。御堂以外の人間は全く同じ言動を反復するのだ。逆に言えば、御堂が意図的に介入すれば、違った反応が引き起こされる。新しい情報を得ることもできるし、ちょっとしたトラブルなら避けることが出来る。

 たとえば、克哉が死ぬ日、終業間際の社内で藤田がコーヒーのマグをデスクから落として割るという出来事が起きる。だが、タイミングを見計らって藤田のデスクの横を通りかかり、落ちるマグを咄嗟に掴んで割れるのを回避するのは、タイムリープ毎の御堂のルーチンワークのようになっていた。しかし、人の生死はマグのようにはいかない。

 Rは運命の転換点を探し、因果を断て、という。しかし、その転換点はいつで、因果がどこに根差しているのかはいまだに分からなかった。

 それでも、何度もタイムリープを繰り返す中で、少しずつ、御堂は端緒を掴んでいった。

 

 

 

 その時、御堂はタイムリープに失敗していた。失敗、というのは、タイムリープ出来なかったということではない。本来なら、アルテア飲料と月天庵とのコラボ企画の問題が発生した日の朝に飛ぶはずだった。だが、柘榴を口にした瞬間、不意に、その前夜に起きた出来事を思い出してしまったのだ。そして、タイムリープをした御堂が気付いたのは、克哉の部屋のベッドの上だった。

 

「ぐ……っ、ぅあっ」

 

 自分の口から苦痛に呻く声が漏れる。身体を裂かれる痛みに御堂は喉を大きく反った。膝裏に克哉の腕が当たり、大きく股を開かされている。伸し掛かる克哉に身体を無理に曲げられて関節が軋んだ。克哉から逃れようとしても、腕が痺れたように動かない。手首には拘束具がきつく巻き付けられていた。

 

 ――よりによって……っ。

 

 あの夜にタイムリープしてしまったのだ。克哉とワインを一緒に空けた後に、克哉は豹変した。その時に感じた恐怖と苦痛が、記憶と同じだけの衝撃でもって御堂を襲う。

 自分に覆い被さる克哉は、口元に無慈悲な笑みを浮かべながら、御堂に腰を激しく打ち付けた。御堂の身体を硬く熱い肉塊が貫き、深々と出入りする。

 

「ぅあ……っ、ぁ、はあっ」

 

 この先のことも、もちろん分かっていた。

 御堂は抗う気力を早々に失い、このまま一晩中、克哉に凌辱されることになる。明け方には解放されることを知っているとはいえ、あの夜と同じ凌辱が再現されることは耐えられなかった。だから、あらんばかりの声を張り上げて克哉の名前を呼んだ。

 

「さえ…き……っ! 佐伯っ!!」

 

 弱々しい呻きしか繰り返さなかった御堂の突然の叫びに、克哉は動きを止めた。ハッと我に返ったように御堂を見下ろす。その目が驚愕した様子で見開かれ、視線が重なった。

 

「もう……やめて、くれ……っ」

「俺は……」

 

 克哉の動きが止まる。その唇が震え、何事かを呟いたが、聞き取れなかった。

 拘束された手首に克哉の手が伸びる。また何かをされるのかと、びくりと身体が強張った。緊張に狭まった喉から「ひ……っ」と空気が漏れる。

 

「心配しなくていい。拘束具を外すだけだ」

 

 御堂をなだめるような声が響き、拘束具を外された。克哉はどこか苦渋に満ちた表情で、腰をゆっくりと引いた。

 

「ん……っ」

 

 ずるっ、と粘膜が擦られ、めくられる感触と共に、つながりが解かれる。その感触に身体が跳ねた。解放された安堵に脱力する一方で、次は何をされるのかと怯えたが、克哉はそれ以上何もしてこなかった。克哉は御堂を残してベッドから降りた。

 恐怖にぎこちなくしか動けない身体でどうにか上体を起こした。拘束具によって、じん、と痺れた手首を摩る。

 

 ――何が起きた?

 

 記憶とは違うことが起きている。克哉はあの夜、御堂を責め苛み続けた。こんな風に、唐突に行為を中断したりしなかった。

 御堂が力を振り絞って克哉の名を呼んだことで、何かが変わった。もしかしたら、今ならこの場から逃げだすことが出来るかもしれない。しかし、御堂はベッドの上に留まり、警戒しながら克哉を窺った。

 克哉は、御堂に背を向け立ち尽くし、その表情は見えなかった。ややあって、かけていた眼鏡を外した。克哉は外した眼鏡をベッドサイドテーブルに放ると、別の眼鏡に付け替えた。

 

 ――なんだ?

 

 これと全く同じ行動をどこかで見たことがあった。

 克哉が御堂に背を向けたまま言った。

 

「御堂さん……悪かった。今日のことはすべて忘れてくれ」

 

 嗜虐に満ちていた先ほどまでとは打って変わって、陰鬱さを感じさせる声だった。

 

「……どういう…ことだ?」

 

 もはや恐怖は感じなかった。御堂は、克哉の変化に戸惑い、ベッドから降りて声をかけた。

 

「何があった?」

 

 問う声に克哉が振り向いた。その表情を見て息を呑む。そこには、翳りを帯び、思いつめたような顔があった。

 その克哉を見て、思い出した。これは、あの時と一緒だ。二回目のタイムリープで克哉と話し合いをしたときに、克哉は今と全く同じ行動をしていた。暴走するような行動をしては、それを悔いる。まるで、自分自身を失っては取り戻しているかのようだ。

 頭の中で光がちらつく。御堂は、何かを掴みかけていた。

 殺される直前の克哉は、すべてにおいて克哉らしくなかった。いつもの冷静さを失い、容易(たやす)く感情を暴走させた。では、いつから克哉はおかしくなっていたのだろうか。

 克哉は、この時点ですでに自分を失いかけていたのではないか。いや、思い起こせば、克哉の行動に異変があったのは、もっと前だ。

 一生懸命、記憶を掘り返した。

 そう、最初に克哉に疑問を覚えたのは、あの花見の日だ。あの日、克哉は心ここにあらずといった雰囲気だった。挙句、旧友と再会した御堂に一緒に飲みに行くように勧めた。普段の克哉ならあり得ないことだ。

 克哉の表情を注意深く探りながら、言った。

 

「……君は、あの花見の日からどこかおかしい。本当は何かあったんじゃないか。だから、私に旧友たちと飲みに行けと言った、違うか?」

 

 そう言って、克哉の表情を慎重に見詰めた。だが、克哉は、すい、と御堂から視線を逸らして、ぞんざいに言った。

 

「違います、御堂さんの気のせいですよ」

 

 それ以上は、問いただしても無駄だった。克哉は質問をはぐらかして答えない。

 だが、克哉は何かを隠している。それも、とても重大なことを。そう御堂に確信を抱かせた。

 

 

 

 そして、もう一つの決定的な端緒は、翌日の澤村との会話からだった。克哉の不在時に澤村がやってきたのだ。克哉は突然社を出てしまい連絡が取れず、御堂が代わりに応対した。応接室に入ると、澤村は御堂が来たことに露骨にがっかりした様子を見せた。

 

「克哉君はいないんだ? 仕方ないなあ」

 

 このまま、記憶にある通りの会話を繰り返せば、澤村は月天庵の営業妨害をしているのは自分だと堂々と宣言することになる。だが、大人しくそれを聞かされるのは癪なので先手を打った。

 

「月天庵の営業妨害をしているのは君か」

 

 御堂に出ばなをくじかれて、澤村は目を瞬かせた。

 

「へえ……。どうして分かったの?」

「隠す気もないだろう。今日だって、それを宣戦布告しに来たのではないのか?」

「意外と鋭いんだね。さすが、克哉君の共同経営者だけあるなあ」

 

 揶揄する口調でクスクスと笑う。さっさと追い返したい気分だったが、御堂は話題を変えた。澤村の情報は出来る限り、集めておいた方がいい。

 

「その『克哉君』という呼び方、小学校時代の呼び方なのか?」

「ああ、そうだよ。同じクラスで仲良かったんだ。僕のこと、克哉君から聞かなかった?」

「仲良かった、か……。その割には、今に至るまで一切連絡を取ることはなかったようだな。呼び方が小学校止まりとは」

「僕のことが気になる?」

 

 返事代わりにじろりと澤村を睨み付けた。だが、澤村は意に介さず、言葉を続けた。

 

「僕はあなたのことをよく知っているよ。東慶大学法学部卒、MGN社商品企画開発部部長職を経て、L&B社に転職……」

 

 澤村が口にする御堂の履歴は恐ろしく正確だった。どれほど御堂のことを調べたのか、首筋がざわりとするような悪寒が走る。

 

「よく調べたものだな」

「まあね。だけど、分からないのが、MGN社を辞めた経緯かな。突然の無断欠勤の後の退職。そして、その後任に克哉君が就任。その時に、二人の間に何かあった?」

「君に教えるようなことは何もない」

「ふうん」

 

 冷たく返した。だが、そんな御堂の反応も想定内なのか、 澤村の唇がいやらしく歪んだままだ。

 

「澤村、そろそろ、本題に移ろうか」

 

 そう言って、御堂は口火を切った。

 

「君の要求は分かっている。月天庵とアルテア飲料のコラボ企画を断念すれば、君はもうAA社にも佐伯にも関わらないと約束するか?」

「へえ……、それ、克哉君も納得しているの?」

 

 まさか、御堂の方から歩み寄りがあるとは思っていなかったようだ。澤村は身を乗り出してきた。

 

「いいや、まだだ。だが、君が同意するなら佐伯を説得する」

「へえ……。克哉君を説得できる自信があるんだ。僕が話した時は問答無用に断ってきたけど」

「君の説得の仕方が悪かったのだろう」

 

 コラボ企画断念の説得は、すでに前のタイムリープで挑戦し、失敗していた。だから成功の見込みは限りなく薄かったが、澤村の出方を見るために、あえて説得できる風を装った。

 

「まあ、そっちが引く気があるなら、それに越したことはないけど」

 

 互いを探り合う隙のない視線が交わされる。

 

「だけど、もし、このままコラボ企画を進めるなら、僕にも考えがある」

「考えね……」

「まだ手の内は明かさないよ。克哉君に驚いてほしいからね」

 

 澤村の言う手の内を御堂はすべて知っていた。どれも上手くいかないことを教えてやりたいが、なおさら相手を煽るだけだろう。

 それにしても、先ほどから『克哉君』という単語が耳障りだ。澤村はこの場にいない克哉を随分と意識している。だから、訊いた。

 

「なぜ、それほど佐伯にこだわる?」

「そうだね……。克哉君とは色々あったからね」

「色々?」

「気になるなら、克哉君に聞いてみたら?」

「佐伯は君に関する話題は触れたくないようだ」

 

 正直に言うと、澤村は満面の笑みを浮かべた。

 

「そうなんだ。僕とのことは、『恋人』にも内緒にするくらい、隠したいことなのかな」

「……」

「まあ、克哉君は僕の大事な幼馴染みだからね。よろしく伝えて」

 

 そう言って、澤村は席を立った。

 立ち去る澤村の背中を見送りながら、御堂は胸の中を一掃するほどの息を吐いた。

 余計なことを言ったせいで、澤村との会話が随分と長引いてしまった。だが、その中で気付いたことがある。澤村の言葉の節々に克哉に対する敵愾心の炎が見え隠れしていた。

 澤村の克哉に対する執着は、尋常ならざるものを感じる。

 もしやと思って、デスクに戻った御堂は、汀堂を調べてみた。そして、意外な事実に気が付いた。

 クリスタルトラストの汀堂への投資は、AA社が月天庵のコンサルティングを引き受けた後に行われていた。

 あれだけの情報収集能力を持つクリスタルトラストだ。当然、競合相手の月天庵にAA社が関わっていることを掴んでいただろう。それを承知の上で汀堂への投資を行ったのは、AA社が取るに足らない相手と思われていたのか、それとも……。

 

 ――澤村は、あえて、汀堂へ投資を行った?

 

 クリスタルトラストが汀堂へ投資を行った結果、AA社とクリスタルトラストが対立する構図が出来上がった。だが、因果が逆だとしたらどうだろう。AA社とクリスタルトラストの対立を作るために、澤村が汀堂への投資を行ったとしたら……。

 そう考えると、見える世界が一変する。

 もしかして、自分はとんだ思い違いをしていたのではないか。

 今回の件はクリスタルトラストとAA社の対立に端を発し、澤村と克哉は互いへの憎悪を募らせたのだと考えていた。だから、クリスタルトラストとAA社の対立を解消すれば、因果が消え去るものだと考えていた。

 しかし、本当のところは、澤村と克哉の確執が根底にあり、クリスタルトラストとAA社の対立は起きるべくして起こったのではないか。問題はもっと根深いところにあり、運命の歯車はとっくに回り始めていたのではないか。

 克哉の澤村への強姦も、因果の原因ではなく、単なる結果の一つに過ぎないのかもしれない。

 そして、御堂の記憶にある限り、この一連の出来事の始まりは、あの花見の日にあるのではないのだろうか。

 

 

 

「この度は誠に残念でした」

 

 今回もまた、克哉を救うことが出来なかった。Rは相も変わらず、口元に優美な笑みを浮かべながら、御堂に口先だけのお悔やみを言う。

 Rを無視して、克哉にかけられた布をめくり、果実を手に取った。Rはレンズの奥の金の眸を眇める。

 

「また、果実を使われますか?」

「ああ」

 

 克哉を救うためには、闇雲に時間の流れを変えようとしてもダメなのだ。運命が分岐するポイントを見極め、決定的な一打を撃ち込まないといけない。

 御堂は、すべての因果の始まりを確かめる必要がある。手がかりは掴んだのだ。

 そのためには……。

 

 ――次は佐伯に死んでもらう。

 

 御堂の口の中で甘酸っぱい果汁が弾けた。

(4)
​六、諸悪の根源

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 だが、その香りは一陣の強い風によって瞬く間に掻き消えていった。同時に、淡い紅を乗せた花弁が視界一面を埋め尽くした。

 自分がどこにいるのか分からなくなる。踏み出しかけた足がよろめいたところで、隣に並んでいた人物に肩がぶつかった。

 

「すまない」

「いえ……」

 

 咄嗟に謝ったが、御堂の傍らの人物は心ここにあらずと言った生返事が返ってくる。

 

「佐伯、どうした?」

「いや……なんでもない」

 

 克哉が顔を向け、初めて御堂の存在に気付いたかのように目を瞬かせた。

 

「そうか? それならいいのだが……」

 

 何気ない風を装いながら、慎重に克哉を観察する。同時に辺りを見渡して、タイムリープが予定通りに実行されたことを確信した。

 頭上を見上げれば、空を埋め尽くすくらいの満開の桜だ。足元にはうっすらと白い花びらが積もっている。

 だが、克哉はすでに上の空だった。花見を楽しんでいるわけでもない。もしかしたら、もう『何か』が起きてしまった後なのだろうか。そうだとしたら、御堂はあてを外したことになる。

 内心焦りを感じながらも、克哉と他愛のない会話を交わし、公園を散歩する。克哉は徐々に本来の調子を取り戻してきたのか、笑みを零し、御堂を見詰める眦が緩んだ。

 そういえば、克哉は桜は好きではないと言っていた。そのせいかもしれない。

 時折笑い合いながら、二人して並んで歩く。時間がゆっくりと流れるかのようだ。安寧で平穏な日常。そんな日々を過ごしている実感がある。

 その時だった。

 花見客の多くの人間が作り出す流れの中で、克哉は唐突に足を止めた。背後の客がぶつかりそうになり、あからさまに迷惑そうな顔をして避けていく。

 

「佐伯?」

 

 克哉の肩に手を置いたが、固まったように克哉は動かない。御堂の声さえ聞こえていないかのようだ。視線は固定され、ただ一点を見詰めている。御堂もまた、克哉の視線に視線を添えた。

 その視線の先にあったのは一人の人物。

 

 ――澤村?

 

 見紛うはずもない。最初の時間軸では気付かなかったが、今は澤村の顔ははっきりと脳裏に焼き付いている。確かに澤村だった。

 澤村は克哉に気付かぬ顔で、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。距離はどんどん縮まっていく。しかし、克哉は動かない。いや、動けないのだ。触れる肩の筋肉が緊張し、強張っているのが分かる。信じられないが、克哉は強く動揺しているのだ。

 澤村は口の端をわずかに吊り上げながら、ごく自然な素振りですれ違った。その瞬間、

 

「へえ、今度はそいつに頼って生きてるんだ」

 

 園内のにぎやかなざわめきに紛れて、嘲るような呟きが、確かに聞こえた。

 

 ――ここで澤村と遭遇していたのか。

 

 いくら不意打ちで現れとはいえ、澤村になぜこれ程までに動揺するのか。克哉に訊いてみたい気持ちはあった。だが、御堂はこの時点で、澤村を知らないことになっている。迂闊なことは口にできない。

 

「佐伯!」

 

 なおも固まっている克哉の肩を強く揺さぶった時だった。御堂の横を通りかかった男たちに、唐突に声をかけられた。

 

「御堂? 御堂じゃないか!」

「……堀口か」

「久しぶりだな」

 

 数人の男たちが御堂の周りに集まってくる。いずれも東慶大学法学部時代の同級生だ。

 御堂に声をかけてきた堀口は、大学卒業後、大手出版社に就職した。綿密な取材に基づいたスクープを連発し、世論を煽り立てて政治まで動かしたことが何度もある筋金入りのジャーナリストだ。名前入りの記事もよく見かける。他の面々も、いずれも負けず劣らず、法曹資格者や名のある企業の社員だ。

 

「奇遇だな。もし時間あるなら、今から軽くやらないか?」

 

 堀口は酒を飲む真似をする。他のメンバーも口々に誘ってきた。そういえば、最初の花見の時もこうやって声をかけられたのをすっかり失念していた。だが、今は、彼らよりも克哉優先だ。だから、

 

「いや……」

 

 と口を濁した時だった。

 

「行ってきたらいいじゃないですか」

 

 唐突に傍らから声がかかる。克哉だ。振り向いたら、克哉がレンズ越しに御堂をじっと見つめていた。その顔からは先ほどの強張りが消え失せ、何の表情も読み取れない。

 

「しかし……」

「お前の連れもそう言ってるんだし、行こうぜ。御堂」

 

 克哉のこの反応もすべて最初の花見と同じだった。堀口が親しげに御堂の肩に手を回してくる。御堂の記憶通りなら、この後の飲み会は大して面白くもないし、克哉ともはぐれてしまう。だから、しっかり断ろうと思ったところで、克哉が先に口を開いた。

 

「オレも用事があるので先に失礼します」

 

 そう言って、御堂に背を向けて、一人で歩き出してしまった。

 

「おいっ、佐伯」

 

 慌てて呼びかけたところで、克哉は聞こえていないのか、聞こえない振りをしているのか、花見の人混みに紛れて消えてしまった。克哉を追いかけようとしたところで堀口達に取り囲まれた。

 

「ところで、御堂、お前、今何してるんだ?」

「そういえば、MGNを辞めたんだって?」

 

 久々の再会でもあり、次々に質問責めにあってしまう。

 

「俺は、編集長になったんだよ」

 

 そう言って堀口は名刺を渡してきた。ちらりと視線を落とせば、有名ニュース雑誌のロゴが印刷された名刺だ。堀口の名刺を名刺入れに仕舞うついでに、自分の名刺を渡した。克哉がどこに消えたのか気が気でないのに、そのまま、名刺交換会が始まってしまう。御堂の名刺を確認した一人が首を傾げる。

 

「アクワイヤ・アソシエーション……?」

「ああ、コンサルティング会社を起業したんだ」

「へえ、面白そうだな。話を聞かせてくれよ」

 

 御堂を中心に話が盛り上がる。そのまま公園から連れ出されかけたところで、たまらず声を上げた。肩に回されていた堀口の手を振り解く。

 

「すまない。急用が入った。この埋め合わせは必ずするから」

「え? ちょっと待てよ」

 

 唖然としている堀口たちを置いて、半ば無理やりその場から逃げ出した。

 人の波をかき分けながら、速足で花見をしていた公園に戻った。克哉の姿を必死に探す。離れたのはほんの四、五分とはいえ、花見に乗り気ではなかった克哉のことだ。早々に帰ってしまったのかもしれない。克哉の自宅の方へと向かうか、そう思った時だった。

 

「佐伯……?」

 

 克哉の姿を見つけた。桜が咲き誇る公園のベンチに、御堂に背を向けるようにして一人腰かけて佇む男は紛れもない、克哉だ。

 

「何をしてるんだ、あいつは」

 

 用事があると言っていたが、それは御堂を飲み会に行かせるための方便だったのだろう。俯き加減の顔は桜を見ている風でも、誰かを待っている風でもない。

 克哉に気付かれないように、少し離れたところから克哉を観察していたが、克哉は御堂の存在にはまったく気付かないようだ。それどころか、微動だにしない。ただ自失したように座り込んでいる。

 御堂からは克哉の後ろ姿しか見えない。それでも、明らかに克哉らしくなかった。声をかけようか迷い、自制した。この日から克哉はおかしくなったのだ。克哉に何が起きているのか、御堂はそれを見届ける必要がある。

 刻一刻時間が経過した。次第に周囲は暗くなり、昼間の賑わいが去る。宴会が禁止されていることもあり、夜になると日中とは比べ物にならないほどひっそりと静まっていた。

 克哉はベンチに座り込んだまま、何の動きもなかった。いい加減、諦めて帰ろうかと思った時だった。一人の男が克哉の前に現れた。

 

「あの男は……」

 

 黒づくめの服に、艶やかな長い金髪。Mr.Rだ。どうやら、克哉の知り合いというのは本当だったらしい。克哉がRの存在に気が付いたのか、顔を上げた。

 そのまま、克哉と何やら話し込んでいる。会話の内容は御堂の場所からは全くうかがい知ることは出来なかった。せめて会話の雰囲気だけでも、と二人の方に目を凝らした時だった。Rが御堂の方に視線を流し、意味ありげに微笑んだ。

 

「――ッ」

 

 咄嗟に木の陰に隠れたが、Rは確実に御堂に気付いていた。克哉にも気付かれただろうか。おそるおそる、もう一度、二人の方に視線を向けた。すると、克哉が立ち上がり、Rに背を向けた。緊張が走るが、克哉は御堂の気配を悟ることなく公園の出口へと向かっていく。

 克哉を追うか、それとも、Rに声をかけるべきか。

 そう、逡巡した時だった。ジャケットの内ポケットで携帯が震えだした。それに気を取られる。携帯の着信は馴染みにしているワインの輸入代理店だった。頼んでいたワインが入荷したという連絡だろう。着信を保留にして顔を上げた。だが、もはや、御堂の視界からは、克哉どころかRも消え失せている。

 公園には、最初から何もなかったように濁った闇が漂うばかりだった。

 

 

 

 今回のタイムリープは、見極めるためのタイムリープだった。余計な介入を行わず、観察と調査だけに専念する。そのために必要な資料を、御堂はタイムリープして早々に手配していた。

 それは克哉と澤村が通っていた小学校の名簿だ。二人が通っていた栃木の小学校名は、前のタイムリープで澤村から聞き出していた。

 興信所に依頼し金を弾んだところ、個人情報取扱事業者、通称名簿屋からすぐに名簿を入手してくれた。二人の名前はすぐに見つかった。澤村が言う通り、二人は同じクラスの同級生だ。さっそく、他のクラスメイトの住所をインターネット上の地図を使って細かく調べていく。

 その中の一人の住所が酒屋だった。名字と同じ中澤酒店のHPを検索するとすぐにヒットする。代々続く酒屋で、克哉たちの同級生の名前はそこの店長として載っていた。地酒を多く扱い、通販も手掛けているようだ。御堂はその中澤酒店に連絡を入れた。地元に根付いている店なら、同級生は今でもその場所にいるはずだという御堂の見込みは当たった。

 そして、翌日。御堂は外回りに出ると告げて、東北新幹線に飛び乗った。AA社には今回のプライベートな出張については何も告げていない。仕事に関しては、すでに同じことを何度もこなしているのだ。プレゼンも資料も完成形が頭の中に入っている。業務に支障をきたすことはない。

 事前に調べていた最寄り駅で降り、タクシーで中澤酒店に乗りつけた。克哉の地元の街並みがタクシーの窓の外を流れていく。時間があれば克哉の実家なども見てみたいが、そんな暇はなかった。ほどなくして目的の酒屋に着いた。中澤酒店、克哉と澤村の元クラスメイトが経営している酒屋だ。

 事前に連絡を入れていたこともあり、店内に入ると店主がすぐに御堂を出迎えた。まだ若々しいその男性は紺地に酒屋の紋が白く入った前掛けがよく似合っていた。御堂を見て満面の笑みを浮かべる。

 

「東京からでしたっけ。はるばるようこそ」

「中澤さんですね。お時間をいただきありがとうございます」

 東京で購入した手土産を渡しつつ、御堂は名刺を取り出した。

「私はこういうものですが」

「へえ、すごいなあ。この雑誌、よく本屋で見ますよ。堀口さん」

「ありがとうございます」

 

 感嘆の目を向けられて、御堂は気まずい思いをしながら頭を下げた。御堂が渡した名刺は、ニュース誌の編集長である堀口の名刺だ。花見の日にもらった名刺をそのまま、自分だと偽って渡したのだ。私印偽造及び不正使用、と罪名が頭に浮かんだが、見知らぬ相手の警戒心を解いて話を聞くには、無名に等しいコンサルティング会社の肩書よりも堀口の肩書の方が便利だ。

 

「それにしても、雑誌の編集者ってもっと砕けた感じの人が来るのかと思いきや、お堅い格好なんですね」

「え……ええ。取材のときは失礼がないよう、スーツを着ています」

「へえ、色々大変ですね。ま、ここではなんですから、どうぞ、中へ」

 

 中澤に鋭く指摘されて冷や汗が背筋を伝う。御堂はAA社から直接ここに向かったのだ。三つ揃いのスーツと乱れなく撫で付けた髪型。どうみても雑誌編集者には見えないだろう。しかし、克哉のクラスメイトである中澤は御堂の説明に疑問を覚えることなく、奥の自宅スペースへと案内した。こざっぱりと片付けられているリビングのソファを勧められる。中澤は自ら二人分の茶を淹れて、湯呑を御堂の前に置いた。

 

「それで、何の取材でしたっけ?」

「実は、この方についてのお話をお伺いいたしたく……」

 

 御堂はAA社の社長の肩書の『佐伯克哉』の名刺を取り出した。それを中澤に渡す。中澤は克哉の名刺を見て、目を丸くした。

 

「こちらの方はご存じですか?」

「克哉じゃないか。だけど、どうして?」

「佐伯さんは新進気鋭のコンサルティング会社を経営していまして、今度、佐伯さんのインタビュー特集記事を予定しているんです。それで生い立ちについての取材をしています」

「へえ、あいつ、そんなに偉くなったんだ」

 

 目を丸くする相手に、克哉の小学校時代の話を聞かせてほしい、とお願いするとすぐに信用した。

 中澤は一回部屋を出ると卒業アルバムを持ってくる。それをめくりながら、克哉の小学生時代のエピソードが次々と口にした。中澤は地元の代々の酒屋の生まれで、子供時代からずっとこの場所に住んでいたのだ。御堂が期待した通り、小学校時代のアルバムもしっかり残している。

 そして、予想はしていたが、克哉は勉学もスポーツも飛びぬけて秀でていたらしい。メモを取る素振りで、克哉を誉めそやす言葉を一通り聞いた後、御堂は切り出した。

 

「ところで、佐伯さんの親友と呼べる方はいらっしゃいますか? そういう方がいたら、そちらからも話を伺いたいと思いまして」

「親友……かあ」

「たとえば、この方はどうでしょう。名簿で前後なので仲がよかったりとかしませんか?」

 

 卒業アルバムの名簿のページを開き、『澤村紀次』の名前を指した。出席番号で佐伯克哉の次だ。だが、中澤の表情が曇った。

 

「紀次か……。そいつからは話を聞かない方がいいんじゃないかな」

「それはどうして?」

 

 中澤は言いにくそうに口ごもりつつ答えた。

 

「実は、克哉は酷いいじめを受けていたんだ。聞かなかった?」

「いいえ、……いじめ、ですか?」

 

 思わぬ方向に話題が向かったことに、御堂は卒業アルバムから顔を上げた。中澤は気まずそうな顔をして、御堂から視線をわずかに逸らした。

 

「そっか。それなら俺からは話さない方がいいかもしれない」

「よろしければ教えていただけませんか? 記事にする、しない、は佐伯さんによく相談したうえ判断しますし、もし、いじめられていたのであれば、今回の成功談は美談となるかもしれません」

 

 中澤の口が重くなったのを見て、御堂は急いでフォローを入れた。

 

「美談ねえ。あんまり気持ちのいい話じゃないよ」

 

 そう前置きして語られた話は、御堂をもってしても眉をひそめるほど凄惨なものだった。子どもらしい、残酷で狡猾ないじめだ。精神的に苦痛を与え、相手を貶める。それは徹底していて、無邪気で容赦がない。

 

「こんな感じで、克哉はクラス全員に無視されたり嫌がらせされていたんだ」

「クラス全員……ということはあなたもですか?」

「まあね……。俺はそんなことをするのは嫌だったけど、俺がいじめの対象になるのはもっと嫌だったんだ。克哉は何でもできる奴だったから、苦にしているようでもなかったし」

「本当に、佐伯さんはいじめを苦にされてないと思いましたか?」

 

 御堂の言葉に、中澤は顔を大きく歪めた。

 

「今は、悪かったと思っているし後悔している。謝れるものなら謝りたい」

 

 そう言って、中澤は消え入りそうな声で付け足した。

 

「克哉は知らなかったかもしれないけど、いじめの首謀者がそいつだよ」

「澤村紀次……ですか?」

 

 アルバムにはクラス全員の学校生活の写真が数多く収められていた。過酷ないじめがあったとは思えないほど、どの写真も和気あいあいとしている。そして、克哉の傍にはいつも澤村がいる。いかにも仲良さげに肩を組んでいる写真もあった。

 

「自分は克哉の親友だって顔をしてたけどね。そいつが言ったんだ。『克哉は図に乗っているところがある。このまま大人になると苦労するから今のうちに懲らしめてやろう。これも克哉のためだ』って」

「なるほど」

 

 上手いやり方だと思う。いじめは悪いことだと小学生でも分かっている。だから、これはいじめではない、と自分の行為を正当化するのだ。そうすれば、罪悪感が中和され、中立だった傍観者も抵抗なく加害者側に巻き込める。集団悪意の本質というのは、大概、ほんの一握りの人間の敵意から生まれるのだ。大多数は無自覚な加害者で、この男もそんな一人だったのだろう。だが、歳を重ねた今の中澤は、自分がした行為の意味を分かっている。ここで彼を責めても益はない。だから、質問を変えた。

 

「何故、この澤村という子は佐伯さんをいじめたのだと思いますか?」

 

 大人になったことで、改めて見えてくるものもあるはずだ。中澤は首を傾げて、御堂の質問に答えた。

 

「……嫉妬じゃないかな。紀次も勉強もスポーツも良くできたんだ。クラスにいるだろう。文武両道な優等生、それが紀次だったんだ。だけど、克哉はさらにその上をいっていた。紀次がクラスで一番とか学年で一番なら、克哉は県内一位、下手したら、全国一位とか。それくらいレベルが違ったんだ。だから、疎ましかったんだと思うよ。克哉のことが」

 

 そして、澤村による陰湿ないじめが始まった。

 澤村はいじめの首謀者でありながら、素知らぬ振りをして克哉の味方だと本人に信じ込ませたのだろう。陰で嘲笑いながら、表では克哉を励ました。そして、澤村の執拗なやり方を考えれば、最後の最後で自分がいじめの首謀者だと克哉に明かしたに違いない。

 信じていた親友に裏切られる。それは、克哉の心を効果的に打ちのめしただろう。

 いじめられっ子といじめっ子、それが克哉と澤村の関係だったのだ。

 今の克哉がいじめられる側にいたとは考えにくい。しかし、小学生の無垢な心に受けた傷は相当なものだっただろう。それが、克哉の人格形成に大きく影響した可能性もある。

 所詮、子どもの頃の話だ。

 そう一言で片づけようと思えば片付けられる話だろう。だが、そうしないのは、未だにその傷が癒えてないからだ。

 花見に行った公園で、澤村に遭遇した克哉の動揺ぶりは尋常ではなかった。

 克哉にとって、澤村は過去の亡霊そのものだったのだろう。

 もう一度アルバムの顔写真を開いて見た。幼さを残した利発な顔つきの克哉がまっすぐに御堂を見詰めてくる。そして、その隣に並ぶ澤村。その二人が十数年を経て、殺人に発展するほどの憎悪を募らせるのだ。

 その二人の顔がひんやりとした感触を伴って、御堂の頭に残った。

 

「お時間を取っていただき、ありがとうございました」

 

 頭を下げて、酒屋を辞する。片手には店主お勧めの地酒が入った紙袋を持っている。中澤はにこやかに御堂に言った。

 

「堀口さん、もし雑誌が出たら教えてもらってもいいですか?」

「ええ、お礼にお送りしますよ」

 

 御堂の言葉に中澤は喜んだ。「そうだ」と御堂は渡した名刺の裏に、自分の携帯電話の番号を書き込んだ。

 

「編集室にいないことも多いので、何かあればこちらの携帯にかけてください」

 

 そうくぎを刺しておくことも忘れない。間違っても堀口本人の方にかけてくれるなよ、と祈りながらその場を後にした。

 東北新幹線に乗り、東京へと戻る。買った地酒は克哉に見つかると面倒なので、途中のコンビニで、自分の実家宛に発送した。

 その時、不意に思い出した。頼んでいたワインを取りにいかなければならない。今夜はそれを持って克哉の部屋に訪れる予定がある。その先に起こることを思い出すと気が進まないが、今回のタイムリープはなるべく最初に忠実に進めるつもりだった。だから、克哉の部屋に行かないという選択肢はない。

 そうして、AA社が入るビルに戻った時だった。エレベーターホールで背後から声をかけられた。

 

「こんにちは、御堂さん」

 

 振り向けば澤村だった。目が覚めるような濃いブルーのシャツにマスタードイエローのネクタイ、赤いフレームの眼鏡を合わせると、一見してホストかと思うくらい派手なコーディネートだ。だが、仕立ての良いスーツや一つ一つのアイテムが一級品で、それを着こなすあたりが如何にも外資系のビジネスマンといった洗練された雰囲気を出している。

 もうすでに、澤村のことはとっくに調べつくしていたし、今だって澤村の同級生に会ってきたのだが、この時間軸では、御堂は澤村と初対面だ。だから、訝しげな顔を作って聞き返した。

 

「すみませんが、あなたは……」

「澤村です。今ちょうど、克哉君に会ってきたところで」

「克哉君……」

「ああ、僕と彼、旧い友達で。それにしても克哉君、すごいなあ。こんな東京の一等地にオフィスを構えるなんて。で、あなたが克哉君の大事なパートナーなんでしょう?」

 

 人の良さそうな笑みを浮かべて、馴れ馴れしく御堂に話しかけてくる。だが、その目は油断ならない光を宿して御堂を見据えてきた。冷然と見返すと、澤村はクスリと笑った。

 

「まあ、これからも色々お世話になるので、よろしく」

 

 そう言って、澤村は踵を返してエレベーターホールを後にした。このやり取りはすべて、最初の時間軸と全く一緒だった。

 先ほど目にした卒業アルバムの小学校時代の澤村の顔が思い浮かんだ。これから澤村が行おうとしていることは、小学生の頃と変わらない。

 そして、ここから克哉と澤村の運命は破滅へと一気に転がり落ちていくのだ。

 

 

 

 その晩も翌日も、すべてが記憶通りに進んだ。翌朝にはアルテア飲料と月天庵とのコラボに横やりが入り、その対策を話し合っている最中に、唐突に克哉がオフィスを出ていった。追いかけたい気持ちはあるが、直後に澤村が訪ねてくるはずだった。こちらの相手をせねばならないし、確かめたいこともある。そして、予定通りに澤村がやってきた。

 応接セットのソファに座り、澤村と向き合う。澤村との会話はもううんざりするほど繰り返している。だが、この澤村にとってはこうして御堂と正面切って話し合うのは初めてだ。

 

「克哉君はいないんだ? 仕方ないなあ」

 

 澤村の口元には嫌な笑みが浮かび、御堂を値踏みするかのような露骨な視線を向けてくる。その視線を流しながら、御堂は口火を切った。

 

「月天庵の妨害をしているのは君で、その宣言をしに来たのか」

「へえ……鋭いね」

 

 あからさまに敵対心を出しては相手を警戒させる。だから、御堂は、落ち着いた声音を出した。

 

「その話よりも、君に聞きたいことがある」

「僕に?」

 

 一つ息を吐いて、澤村を見据えた。

 

「なぜ汀堂への投資を行った?」

 

 不意打ちの質問に澤村は驚いた顔をしたが、それも一瞬で、薄い笑みを浮かべる。

 

「そんなの決まっているじゃない。それが僕の仕事だからだよ。割安な企業を探して投資する。そして、収益を改善して利益を回収する」

「私が聞いているのは、なぜ、汀堂を選んだのか、ということだ」

 

 澤村の言葉をぴしゃりと遮って、言葉を続けた。

 

「クリスタルトラストの汀堂への投資、AA社が月天庵のコンサルティングを引き受けてから行われている。汀堂への投資を行えば、我々と対立することになるのは火を見るよりも明らかだった」

「……それで?」

「君がそれを知らずに汀堂への投資を決断したとは考えにくい。つまり、汀堂を選んだ本当の目的は、アクワイヤ・アソシエーション……いや、佐伯克哉ではないのか」

 

 澤村は片眉を吊り上げた。惚けた口調で言う。

 

「何故、僕が克哉君のために汀堂へ投資をしないといけないのさ」

「AA社、そして、佐伯の妨害をするためだ。汀堂はそのための名目に使われたに過ぎない、と私は考えている」

「随分と大胆な仮説だね」

 

 澤村は御堂の言葉を頭から否定はしなかった。ただ、レンズの奥の目を眇めて、御堂の真意を探る視線を向けてくる。口元には笑みを浮かべても、双眸は凍り付き少しも笑ってはいない。

 

「何故、君はそれほどまでに佐伯にこだわるのか。それを、知りたい」

「そんなに僕のことが気になる?」

「佐伯とは小学校時代の同級生だったという話だな」

「ああ、そうだけど」

 

 そこでいったん言葉を切った。そして、御堂は狙い澄ました一言を叩き込んだ。

 

「それで、佐伯に対するいじめの首謀者が君か」

 

 澤村のレンズの奥の瞳孔が大きく見開かれた。だが、すぐに冷笑とともに御堂を見返してくる。

 

「へえ、克哉君がそう言ったの?」

「いいや。私も調べた。情報収集に長けているのは何も君だけではない」

「ふうん……」

 

 御堂の言葉を字面通りに受け取るべきかどうか決めかねている表情で、澤村は首をわずかに傾げた。ここからが本番だった。澤村から理由を聞きださなければならない。感情的にならないよう、声を低めた。

 

「小学生時代のいじめの加害者が君だ。被害者が加害者に対して恨みを持つならまだしも、なぜ、君が佐伯にそれほどまでに執着する? それが分からない」

「……僕が加害者だって?」

 

 御堂のこの一言で、澤村の顔に怒気が広がるのが分かった。御堂は、澤村の心の脆く柔らかな部分を逆なでしたらしい。周囲の温度が一気に下がるような緊張感が張りつめる。

 息が詰まるような沈黙のあと、澤村の口元が歪んだ。

 

「あなたみたいな人間には分からないと思うけど。自分が必死に努力して得たものを涼しい顔をしてかっさらっていく奴っているよね。そういうの、ムカつかない? そいつさ、何の悪気もなくさ、自分が大切にしてきたものを踏みにじっていくんだよ」

 

 澤村は世間話のような何気ない会話を装いながらも、暗く陰惨な眼差しは御堂に据えられている。ポーカーフェイスの裏に隠されていた感情が、剥き出しにされる様を目撃する。

 

「正々堂々と勝負するべきだ、とか反吐が出るよ。こっちがどれほど頑張ろうともそいつのせいで、いつも日陰に追いやられる。正直、そいつ、目障りなんだよね」

「……」

「他人を傷つけた分、そいつも傷つくべきだと思わない?」

 

 そこにあるのは、歪みきった強烈な被害者意識だ。

 数年前の自分なら、澤村の言葉を、負け犬の戯言だと嘲笑し侮蔑していただろう。だが、今は違った。澤村の鬱屈した感情の一端が痛いほどに分かるのだ。自分が必死に積み上げてきたものをあっさりと蹴り散らされ、踏み越えられる。それも、自分より格下と思っていた相手に。

 御堂も全く同じ経験をしているのだ。今でこそ克哉は公私ともにパートナーとなっているが、克哉が消えればいいと、心の底から願ったことは一度や二度ではない。殺したいと思ったことさえある。子供時代の澤村が、濁流のような暗い感情をいじめに転化したのは十分すぎるほどに理解できた。

 だが、ここで澤村を肯定するわけにはいかなかった。

 

「小学生同士の力関係がまだ通用すると思っているのか、澤村」

 

 きつい口調を向ける御堂に、澤村がクスリと笑った。

 

「僕は克哉君の親友だったんだよ」

「……知っている」

「それが、何故、今頃になって佐伯の前に出てきた?」

「今頃、ね……」

 

 澤村はクスリと笑った。そうして前かがみになり、膝に両肘をつくと、組んだ手の上に顎を乗せる。御堂から視線を落とし俯き加減になる。

 

「ねえ、最も効果的ないじめってなんだか知ってる?」

「さあな」

「本人を痛めつけるよりも、そいつの大事なものを台無しにするんだよ。自分の宝物がズタズタにされた時の、絶望に満ちた顔、本当に見ものだよ」

 

 当時のことを思い出したのか、澤村の顔に愉悦が満ちる。

 

「自分が痛めつけられるのは耐えられても、自分の大切なものが痛めつけられるのって耐え難いよねえ」

 

 うっとりと目を細めて澤村は言葉を継いだ。

 

「大切なものを一つ一つ取り上げて、代わりに僕がそいつの一番大事なポジションに収まって……そして、暴露してやったんだ。俺がした何もかもを。その時のあいつの顔見ものだったよ」

 

 澤村は可笑しさに堪えられないといったように、肩を震わせ、声をあげて笑いだした。ひとしきり笑った後、表情を消して言う。

 

「……だけど、この方法はそいつに『大事なもの』がないとダメなんだよ」

 

 澤村は黒目だけを動かして、御堂を見遣った。どこまでも暗い闇がその双眸に宿る。

 

「だから、そいつに『大事なもの』が出来るまで待っていた、と言ったら信じる?」

「まさか……」

「つまらない学園生活を送って、つまらない会社に就職して、つまらない人生を送っていれば良かったんだよ。それがこんなに目立って周囲からちやほやされて。本当に、目障りで厄介だよね」

 

 御堂は慄然とした目で澤村を見た。

 御堂は背筋がすう、と凍えるような感覚を覚えた。寒くもないのに鳥肌が立つ。

 小学校時代のいじめは単なる始まりに過ぎない。まだ終わっていないのだ。

 澤村は、別々の道を歩んでもなお、ずっと克哉の動向を追っていた。そして、克哉にとって大切なものが出来る瞬間を待って仕掛けてきた。澤村のすさまじい執念を垣間見る。すべては起こるべくして起きたのだ。偶然や運命の巡りあわせの一言では片付けられない、常軌を逸した強固な恨みがこの因果を形作っている。

 うすら寒さを覚えながらも、一方で、克哉はどうだったのだろうかと気になった。克哉もまた、澤村を恨み続けていたのだろうか。

 克哉にとっての澤村を知りたくて、訊いた。ゆっくりと、口を開く。

 

「君は佐伯に自分が犯人だと告白した。……それで、佐伯は君に怒ったのか?」

 

 御堂の言葉に澤村の笑みが固まった。それでも、無理やりに笑おうとして引き攣った笑いになった。

 

「あいつ、いじめの張本人が『俺がやった』と言っているのに、それでも、俺を信じようとしてさ。笑っちゃうよね」

「……」

 

 いつの間にか一人称が『俺』に変わっていた。乾いた笑い声を立てつつも、澤村の顔は不自然に歪んでいた。不意に、笑い声が止んだ。

 

「余計なことを話過ぎちゃったな」

 

 そう呟いて、澤村は我に返ったように立ち上がった。

 

「じゃあ、克哉君によろしく伝えて」

 

 澤村は感情を消し去った声で、そう告げて御堂の返事も聞かずにその場を去った。

 その姿を複雑な気持ちで見送った。御堂に向けられた背中は、心なしか苛立ちに震えているように見えた。

 澤村もまた、克哉によって人生を狂わされた一人なのだ。人生の半分以上を克哉の影に脅かされながら過ごしてきた。克哉を排除しようとする澤村のなりふり構わぬ行動は、自分を守ろうとする防衛本能によるものなのかもしれない。

 克哉の類稀な能力とカリスマ性は、本人がそうと願わずとも周りを巻き込み、大きく歪めていく。自分も一歩間違えれば澤村の立場にいたかもしれないのだ。

 膝の上に握りしめた手は嫌な汗をかいていた。

 因果の起点は御堂が想像していた以上に根深く、そして、混沌としていた。

 自分はこの因果を断つことは出来るのだろうか。

 

 

 

 その日の夜、御堂は克哉の部屋を訪ねた。ドアの前に立ち、インターフォンを鳴らすが、やっぱり克哉の反応はなかった。仕方なしに合い鍵を使ってドアを開ける。

 暗い部屋には人の気配はしないが、克哉が中にいることを御堂は知っていた。奥のリビングへと一直線に向かい、リビングのドアを開けた。

 照明が消されたリビングは闇に閉ざされていた。だが、壁一面を覆う窓から差し込む街の光が窓際に立ち尽くす克哉を仄かに照らしている。リビングに足を踏み入れると、部屋の空気がうっすらと紫煙に曇っていた。

 克哉は入ってきた御堂にも気付かず、じっと窓の外に視線を向けていた。その表情ははかなげで、何かを思い詰めているかのようだ。克哉まであと数歩の距離まで近づき、声をかけた。

 

「佐伯……」

 

 振り返る克哉は御堂の出現に驚いた顔をした。だがすぐに表情を戻し、いつも通りに振舞おうとする。その姿は痛々しくさえ感じた。克哉は気遣われることは嫌いだ。それでも、こう言わずにはいられなかった。

 

「大丈夫……なのか?」

「何でもない。あなたが気にするようなことじゃない」

 

 殊更平静を装って、克哉は御堂を突き放そうとする。克哉は視線をふたたび窓の外に戻した。暗い部屋で一人佇む克哉の背中は御堂を拒絶している。

 なんと言葉をかければよいのか分からなかった。

 そもそも、自分が何を言っても、克哉の心に響かないのではないか。

 克哉は御堂の手の届かないところで、孤独に過ごしている。

 それが、悲しかった。

 克哉は弱みを御堂に見せようとしない。自分の弱さをさらけ出すことは、決して克哉の強さを損なうものではない。それでも、弱い部分を御堂から隠そうとするのは、克哉は強くないからだ。

 薄闇が立ち込める部屋。不意に、目の前の克哉の輪郭が揺らぎ、消え失せてしまうような錯覚に襲われた。それぐらい、克哉は頼りなく見えた。

 言葉に出来ぬ衝動が突き上げて、御堂は克哉を背後から抱き締めた。克哉の存在を確かめるように強くかき抱きたかった。だが、そうしたら、今度こそ克哉が腕の中で掻き消えてしまいそうで、克哉に触れる腕に力を入れることが出来なかった。

 腕の中で、克哉は動かなかった。振り向きさえもしない。それでも、克哉に伝えたかった。

 

「君が何か大きな問題を抱えているということは、私にもわかる。……それは、君の内面的な問題だ」

「……」

「そして、君は決して他人に頼るような人間でないことも知っている」

 

 克哉は黙りこくったまま、何も答えない。

 

「だが、……たまには私に頼れ」

 

 本心からの言葉だった。克哉を支えたかった。

 今の御堂は、克哉と澤村の子ども時代に何があったのか知っている。それをそのまま克哉に告げることもできた。だが、そうはしなかった。これは、克哉にとっての聖域なのだ。克哉が自分から心を開かない限り、そこに無断で立ち入ることは許されない。

 窓ガラスに映る克哉の顔は、どこか遠くを見つめていた。

 静寂が部屋に満ちる。ひどく、寂しく感じた。

 克哉が見渡す世界に御堂はいない。克哉は誰を頼ることもなく、たった一人でこの事態に立ち向かおうとしている。今度こそ澤村に大切なものを奪われないようにするために。

 自分は決して克哉に守られたいのではない。克哉を守ることが出来る人間でありたいと願っていたし、そうであると信じていた。

 自分は克哉にとって、何だったのだろうか。

 克哉の支えになることもできず、克哉にとっての弱点になってしまっているだけなのではないか。

 愛するということは信じるということだ。

 克哉にとっての御堂は、自分のすべてをさらけ出すほどに信じられる相手ではなかったという事実が、ただただ悲しかった。

 そんな御堂の失望と悲嘆が伝わったのだろうか。克哉が口を開いた。

 

「俺はどこにも行きませんよ」

「本当だな」

「ああ、約束してもいい」

 

 克哉は御堂を安心させるように、約束を口にする。

 克哉を抱き締める手が震えた。その約束が守られることはない。まもなく、克哉は永遠に失われる。その運命を知っていながら、自分はそれをどうすることもできないのだ。

 克哉の唇が微かに震えた。

 

「あんたがいてくれて、よかった……」

 

 部屋の静寂を乱すか乱さないかのほんの小さな呟きだった。それでも、御堂の胸に、克哉の言葉が切実に響いた。

 

 

 

 時は改変を嫌う。一度起きた出来事は完璧な精度でもって繰り返された。

 時が流れるままに身を任せた。恐怖も、屈辱も、怒りも、失望も、いくら身構えていても同じだけの質量と衝撃でもって襲ってきた。

 御堂は澤村に拉致され、克哉は澤村を強姦した。

 克哉と御堂の仲は冷え切り、御堂は克哉を無視し続けている。

 そして、この日。

 御堂は腕時計を眺めた。もうそろそろ終業時間だ。デスクから立ち上がると、藤田のデスクへと向かう。ちょうど藤田のデスクの横を通る間際、デスクに向かっていた藤田が資料を広げた。デスクの端に置かれていたコーヒーマグが、資料にぶつかってデスクから押し出される。落ちる寸前にマグを掴んだ。

 

「藤田、危ないぞ」

 

 中には半分くらいコーヒーが残っている。本来なら、床に落ちたマグが割れてちょっとした惨事になるところだった。資料に夢中になっていた藤田は、マグがデスクに置かれた物音でようやく事態に気付き、慌てて御堂に顔を向けた。

 

「あっ! ありがとうございます、御堂さん」

「気を付けろ」

「すみません、次から気を付けます!」

 

 藤田は反省しきりの態度を見せて御堂に頭を下げる。ニコリと笑い返して、御堂は自分のデスクに戻った。

 御堂の動きを観察していれば、藤田の落ちるマグを、さも予期してその場に向かったように見えるだろう。だが、誰も、御堂の動きには注目していなかった。

 藤田のマグカップに関してだけは、割れるのを回避する運命が固定されたかのようだ。最初の時間軸以外すべて、御堂によって落下を免れている。藤田とのやり取りも一言一句変わらない。

 時計をもう一度確認すればぴったり終業時間だ。御堂はカバンを手に取り立ち上がった。視界の端の克哉をちらりと盗み見る。

 

「佐伯、すまない」

「……?」

 

 小さく呟いた声に克哉がパソコン画面から顔を上げた。御堂に顔を向ける。視線がぶつかった。表情を変えずに言う。

 

「さよなら」

 

 そう一言、告げる。怪訝な顔の克哉を残して、AA社を出た。

 

 

 

 そして、数時間後。

 

「この度は誠に残念でした」

 

 遺体安置所の冷たく明るい照明に照らされて、御堂は克哉の死体を見下ろしていた。

 克哉の死体を見たのはこれで十を超えただろうか。御堂の目の前に累々と克哉の屍が積み重なっている。Rが御堂の横に並んで、克哉の死体を共に見下ろした。

 

「今回は、あなたの予定通りだったのでしょうか」

「ああ……。佐伯には死んでもらう必要があった」

 

 克哉は死ぬべくして死んだ。御堂はこの克哉を見殺しにした。何の介入もせず、助けようともしなかった。だが、今回は因果の流れを見極めるための必要な犠牲だった。そう自分に言い訳しても、無惨に殺された克哉の苦痛と無念を贖えるものではない。痛烈な悔恨が胸を裂く。

 それでも、自分の感情を押し殺して、克哉に掛かる白い布をめくった。自分の元へと転がってくる柘榴を手に取る。手の上にある柘榴は果皮からルビーのような果実が煌めき、咲き零れんとする妖しい花にも見える。

 

「またその果実をお使いになりますか?」

「ああ」

 

 迷いはなかった。Rに告げる。

 

「諸悪の根源が分かった」

「ほう……」

「次こそは佐伯を生き延びさせられる」

 

 確信をもって、御堂は言った。

 柘榴を持つ手に力が入る。

 運命の分岐点、そこに介入し、因果の起点を消せば、克哉の運命を大きく変えることが出来る。

 今回のタイムリープで運命の分岐点が分かった。そして、諸悪の根源も。

 

 ――それは、私だ。

 

「これが最後だ」

 

 そう宣言して、御堂は果実に歯を立てた。果汁が御堂の口内をしとどに濡らす。

 

「どうぞ、あなたの選択が新しい道を切り拓きますように」

 

 遠くから、Rの声が響いた。

(5)
​七、正しい選択

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 御堂はゆっくりと瞼を押し上げた。周囲を見渡すと懐かしい社内の光景が広がっている。AA社よりも広いフロアに、デスクを並べる多くの社員。今、御堂はL&B社のオフィスにいた。自分のデスクから窓の外へと視線をちらりと向ければ、厚い雲が空を覆い隠して日没の境目を消し去っている。重たい雲からは今にも雪がちらつきそうだ。冬の暗く長い夜が始まろうとしている。季節が丸々一つ巻き戻っていた。

 タイムリープは御堂が願った通り、正しく実行されていた。

 時刻を確認しようとしたところで、デスクに置かれた電話が鳴りだし、内線の着信を告げた。電話を取ると、事務の女性の声が響いた。

 

『御堂マネジャー、社長がお呼びです。応接室へお願いします』

「分かった」

 

 そう返事をして御堂は席を立った。窓ガラスに映る自分の顔を確認する。紛れもない自分の顔がそこにあった。表情を引き締めて御堂は応接室に向かった。

 応接室のドアを軽く三度ノックすると、中から社長の声がかかる。

 

「失礼します」

 

 そう声をかけてドアを開けると、中にいた社長と向かい合わせに座っていた人物がドアの方へと顔を向けた。その人物、佐伯克哉は御堂を見て瞳孔を瞠る。御堂もまた、克哉を目にして小さく息を呑んだ。恋人だった克哉が、目の前にいる。それも、親しいとは真逆の間柄になって。

 

「こちらは弊社企画部のプロダクトマネージャー、御堂孝典くんです」

 

 事情を知らぬ社長は立ち上がると、御堂を前に出して克哉に紹介する。克哉もまた立ち上がって、御堂へにこやかな笑みと共に握手を差し出した。

 

「初めまして、御堂さん」

「……初めまして」

 

 お互い、初対面の振りをして儀式的に握手を交わし、名刺を切る。

 この瞬間、御堂は一年ぶりの克哉との再会を果たした。最初の時間軸では、内心、ひどく緊張したのを覚えている。克哉がこの場で何を喋っていたのか、ほとんど記憶にないほどだ。

 だが、今は、二回目の再会だった。複雑な気持ちを押し殺しながら、ぎこちなさが自然に見えるように振舞う。

 社長と共にソファに着席し、克哉と契約についての話を詰めていく。黒目だけ動かして視界の端で克哉を窺うが、克哉はすでに何の表情も見せない。淡々と契約事項の確認を進めていく。こうしてみれば、一年ぶりの再会も、緊張していたのは御堂一人だったのではないかと思えてくる。克哉は不意打ちで現れた御堂に驚きはしたものの、自分の中ではケリがついた事柄のように、それ以上御堂を気にする素振りも見せない。

 そうして、つつがなく契約を終えて、克哉は立ち上がった。

 

「それでは、失礼いたします。今後ともよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

 

 御堂も社長と共に立ち上がり、頭を下げる。克哉はコートとカバンを手に取り軽く一礼すると応接室を去っていった。

 ドアが閉まり克哉の姿が視界から消えると、社長は大きく息を吐いた。

 

「契約が無事に済んでほっとしたよ」

 

 社長は凝り固まった肩をほぐすように首を回している。そうして、応接室を出ようとして、動かぬ御堂に気付いた。

 

「御堂くん、戻らないのかね?」

「先に行っていてください。私は書類を検めてから参りますので」

 

 先ほどの書類を手に取り、中身を確認したい素振りを見せると、社長は少し不思議そうな顔をしながらも、

 

「そうか、今回はご苦労様」

 

 と言って、御堂を残して部屋を出て行った。

 一人、応接室に取り残される。書類は何も見ずに封筒にしまった。契約を交わす際に熟読している。確認する必要はない。

 最初の時間軸では、ここで社長と共に部屋を出た。そして、オフィスに戻る道すがら、克哉のことで頭がいっぱいになり衝動に突き動かされるようにして、克哉を追いかけたのだ。

 だが、今回は追いかけるつもりはなかった。

 それが、自分の選択だった。

 あの時、御堂が克哉を追いかけたからこそ、二人は互いの気持ちを確かめ合い、恋人同士になった。そして、AA社を共に起業し、澤村と出会った。

 まさしく今が、運命の大きな分岐点なのだ。

 御堂が追いかけなければ、二人の運命はこのまま交わることなく、別々の道を歩むこととなる。二人が恋人関係になることもない。

 御堂はソファに座り込むと、胸の中を一掃するほどの大きな息を吐いた。本来なら今頃コートを急いで着込み、マフラーをひっつかんだ状態でビルを飛び出している頃だろう。

 こうしてみれば、あの時の自分は随分と動揺して浮かれていたように思う。そうでもなければ、自分を監禁し凌辱しつくした男を追いかけて告白するなどという恐ろしく馬鹿げたことなどしないはずだ。

 御堂は、俯いて自嘲の笑みを浮かべる。

 因果を断つのは思っていたよりも簡単だった。自分が冷静になり、この場に留まるだけで良いのだ。

 そろそろ良いだろうか。運命の分岐点は切り替わった頃合いだろうか。

 御堂は立ち上がった。契約書が入った封筒を掴み、応接室の照明を消す。そして、応接室を出ようとしたところで、ふと気になって、窓辺へと足を向けた。何気なしにビルの真下、エントランスのあたりを見下ろした。

 そして、電撃に打たれたように動けなくなった。はらり、と書類が手から床へ滑り落ちていった。

 

「――ッ」

 

 エントランス近くの歩道に、明るい髪のスーツ姿の男が立っていた。克哉だ。顔を上げ、まっすぐに御堂の方を見上げている。

 あの場所からはこの暗い部屋の中までは見えないはずだ。それでも、克哉はまるで御堂がそこにいるのを分かっているかのように、ぶれない視線をぶつけてくる。

 かつて御堂が克哉を追いかけたとき、克哉は空を振り仰ぐようにして、このビルを見詰めていた。その視線の先に、克哉は何を見ていたのか。今、思い知らされる。

 呼吸をするのを忘れる。心臓がこれ以上ないくらいに激しく暴れだした。射竦められかのように、克哉から視線が外せない。

 その時、ガラス越しに白いものがちらついた。ふわり、と揺らめきながら落ちていくそれは、幾多もの白い花弁を彷彿とさせた。

 落ちてきそうなほど暗く重い空。そして降り出してきた雪。

克哉の表情は見えなかったが、その場に立つ彼の存在は、周囲から浮き立っていた。レンズ越しの視線は哀切を帯びているかのように切実で、まっすぐに御堂に訴えかけてくる。

 時はあるべき姿に戻ろうとする。

 御堂は克哉の元に行かねばならない。

 焦がれるような衝動が御堂の身の内から噴き出した。

 

「ぐ……っ」

 

 胸を押さえた。崩れ落ちそうになり、もう片方の手で窓ガラスに縋りつく。ひんやりとしたガラスの感触が、御堂の理性を辛うじてこの場に引き戻した。

 それでも、何もかもを放り出して克哉を追いかけたいという衝動は、御堂を身の内から炙り続ける。

 今ならまだ間に合う。克哉はあの場で御堂を待っている。

 克哉を追いかけた先にある日々が御堂の脳裏に鮮明に思い浮かんでいった。自分は今、何を捨てようとしているのか、その重みを突き付けられる。

 少しでも気を抜けば、なりふり構わず部屋を飛び出して克哉の元へと駆け付けていただろう。

 一秒一秒が永遠のように御堂を苛む。

 もうこれ以上は堪えられない、意志が崩れかける寸前、克哉が視線を下げた。

 止まっていた時間が流れ始める。克哉は、何事もなかったかのように、ビルに背を向け、そして、歩き出した。

 

「佐伯……」

 

 膝から崩れ落ちる。漏れそうになる嗚咽を抑えようと口元に手の甲を押し付けた。

 克哉は行ってしまった。御堂の手の届かない所へと。

 鋭い痛みが胸を貫いていく。身体が震え出しそうになるのを必死に耐えた。

 苦しくてたまらない。

 それでも、御堂は確かな予感を手にしていた。

 運命は分岐し、時は新しい未来を刻み始める。

 選択は成されたのだ。

 

 

 

 年が変わり、まだ冷たい風が吹きつけるその日、御堂は馴染みのバーへと向かっていた。

 御堂のL&B社での日常は変わることなく続いていった。

 あの日から少しして、克哉がMGN社を辞め、AA社(アクワイヤ・アソシエーション)というコンサルティング会社を起ち上げたことを人伝いに知った。

 アクワイヤ・アソシエーションという社名は御堂が考え、克哉がそれを気に入って社名に採用したはずだった。それなのに、社名が変わっていないことを不思議に思ったが、すぐに思い直した。

 最初の時間軸で御堂がアクワイヤ・アソシエーションという社名を提案したのも、克哉に巧みに誘導されていたのかもしれない。そうと知らぬうちに人を操ることに長けた男だ。自分が気に入った社名を御堂にそれとなく言わせることくらいお手の物だったのだろう。

 御堂は冷たく鋭い風に首を竦めながら、大通りから一本奥まった通りに入った。飾らない木の扉を開ける。顔なじみのバーテンダーに軽く会釈して店内を見渡すと、待ち合わせの相手は先に着いていたようだ。奥のボックス席に座る男が手を上げた。御堂はまっすぐと店の奥へ向かい、男の向かいに腰をかけた。

 

「久々だな、御堂」

「ああ。君は変わらないようだな、田之倉」

 

 田之倉と呼ばれた男は、返事代わりににっと笑い返した。最上の仕立てのスーツ、ジャケットの袖からちらりと見える腕時計も一級品で、田之倉の弁護士事務所は相変わらず繁盛しているようだ。田之倉の前にはすでに琥珀色の液体が注がれたグラスが置かれている。だが、量がほとんど減っていないところを見ると、田之倉も到着したばかりなのだろう。

 おしぼりを持ってやってきた店員に、御堂はシングルモルトの逸品を頼んだ。

 すぐに運ばれてきたグラスを目の高さに掲げて、再会を祝した。ウイスキーを舐めたところで、田之倉が口を開いた。

 

「最近、付き合い悪くなって心配していたぞ。そういえば、MGNを辞めたんだってな」

「悪かったな。色々忙しかったんだ」

 

 久々の再会とは言え、大学時代の同期で気心知れた仲だ。会えばすぐに会話が弾む。互いに、気持ちよく酔いが回ったところで、御堂はおもむろに話を切り出した。

 

「ところで、ヤメ検のお前に頼みたいことがある」

「俺に?」

 

 ヤメ検、検察庁を辞めた元検事の弁護士を指す言葉だ。ヤメ検という単語をわざわざ使った含みに気が付いたのだろう。田之倉が眼光を鋭くした。

 

「田之倉、お前は検事時代は金融庁にも出向し、金融犯罪の立件も多く手掛けていただろう。そのお前を見込んで頼みたい」

「わざわざこんなところに俺を呼ぶってことは、一筋縄でいかない話か」

「察しが良いな」

 

 そう言って、御堂はカバンの中から分厚い封筒を取り出した。それを田之倉に手渡す。

 

「クリスタルトラストのインサイダー取引の証拠資料だ」

「クリスタルトラスト? あの、外資系ファンドのか?」

「ああ。これをもとに、クリスタルトラストを立件してほしい。君なら、証券取引等監視委員会(SESC)にもつながりがあるだろう」

「こういうのは情報提供窓口で受け付けているぜ」

「急いでいる」

「ほう……」

 

 田之倉は封筒を開いて中の書類にざっと目を通した。

 薄暗いバーの中だ。書類の詳細は確認できないだろうが、それでもこの資料が証拠能力を十分に有するほどに、具体的詳細が記載されていることが分かったはずだ。田之倉は「よく調べたな」と感心したように呟いて、書類を封筒に片付け、御堂に視線を戻した。

 

「クリスタルトラスト……強引な取引で最近何かと話題のファンドだな。だが、なぜ、お前がここのインサイダー取引を調べている?」

「利害の不一致だ。クリスタルトラストに動かれると色々迷惑する」

「ふうん」

 

 少しの間、田之倉は考える素振りをし、そして、封筒を自分のカバンにしまった。御堂に向けて不敵な笑みを浮かべる。

 

「俺にとっては一銭にもならんが、まあ、我が国の経済活動とは、利害が一致しているな。いいだろう。預かろう」

「頼んだぞ」

 

 そう言って御堂はグラスを煽った。

 これで、計画の第一段階は上手くいった。

 強い酒が胸の奥を焼きながら、胃に落ちていった。

 

 

 

 そして、田之倉とバーで会ってから二ヶ月が経過した。

 御堂は、花見客で混雑した公園で、一人、空を見上げた。青空に張り出した枝に桜が満開になっている。

 吹きつける強い風が桜の花びらを一斉に空高く舞い上げた。空気はまだ冷たいが、鋭さが随分と和らいでいる。花見日和の天気だろう。

 田之倉とはあれ以降、時たま連絡を取り合っている。彼の話では、御堂の用意した証拠を元に、近々クリスタルトラストに強制捜査が入る見込みだという。田之倉は御堂が調べ抜いた内容の正確さに驚いていたが、御堂からしたら、何度もタイムリープして調べていた内容だ。どこをどう調べればどんな情報が手に入るのか熟知している。短期間で精度の高い証拠集めをするのは造作もないことだった。

 克哉とはL&B社での契約以降、一度も顔を合わせていない。克哉から御堂に連絡を取ってくることもなかった。赤の他人同士、それが今の二人の関係だ。

 一方で、御堂はAA社の動向もそれとなく気にしていた。AA社は起業したばかりであるのに、破竹の勢いで次々とコンサルティングを成功し、すぐに業界の注目を集めるようになっていた。その著しい業績も御堂がいた最初の時間軸と変わらない。その事実に安堵する一方で、自分は何の役に立っていたのだろうかと虚しく感じた。

 しかし、と思い直す。御堂はAA社にとって不要な人間であっても、克哉の役に立つことは出来る。今からそれを証明するのだ。

 

 ――そろそろか。

 

 御堂は腕時計を確認した。ここは、最初の時間軸で克哉と訪れた公園だった。だが、今、隣に克哉はいない。桜は好きじゃない、と言っていた克哉のことだ。きっと今頃は、桜が視界に入らないところで過ごしているのだろう。それでも、御堂がこの場に来たのはちゃんと訳があった。

 この時間に、この場所で、御堂は人を待っていた。と言っても、待ち合わせではなく、正確には待ち伏せだ。そして、顔を上げると、視界の端に目的の人物を見つけた。向こうは集団でにぎやかに花見を楽しんでいる。御堂はそちらに向かって歩き出した。ごく自然な形ですれ違う。すると、

 

「御堂? 御堂じゃないか」

 

 すれ違い様に相手が驚いたように声をかけてきた。御堂も、驚いた素振りをし、そして微笑んだ。

 

「堀口か」

 

 堀口と連れ立っていた面々も皆、大学時代の知り合いだった。田之倉はこの場にはいないが、皆、大学時代の同窓生だ。

 

「御堂、今、一人か?」

「ああ」

「それなら、これから飲みに行こうぜ。積もる話もあるし」

「そうだな。そうさせてもらおうか」

 

 場が盛り上がり、早々に花見を切り上げて店に向かうことになった。並んで歩きながら、堀口に言った。

 

「そういえば、編集長になったそうだな」

「俺のこと知っていたのか?」

「ああ、もちろん。お前のことは注目していたし、有名だからな」

「そいつは嬉しいな」

 

 御堂の言葉に気をよくした堀口が親しげに肩に手を回してきた。その堀口に意味ありげに笑いかけた。

 

「実は、お前に話したいネタがあるんだ。後で時間をくれないか?」

「ネタ?」

 

 敏腕編集者らしい勘の良さで何かを嗅ぎつけたのだろう。御堂に向けられる堀口の目が眇められ、探る目つきになる。

 

「ああ、是非ともお前に聞いてほしいネタだ」

 

 堀口に向ける笑みを深めた。この後の飲み会はつまらない飲み会だ。だが、意義のあるものに出来るだろう。

 公園を一陣の強烈な風が吹き抜け、幾多もの花を散らしていった。

 

 

 

 それから一週間もしないうちに、クリスタルトラスト社に対する強制捜査が行われたというニュースがメディアを賑わせた。スローコーポレーション社に対するインサイダー取引の疑いで、証券取引等監視委員会(SESC)が動いたのだ。主要紙には名前は伏せられていたが、クリスタルトラストのリサーチ部門の社員がインサイダー取引の被疑者として捜査を受けている旨が記載されている。口さがないゴシップ紙には容疑者として澤村紀次の実名やモザイクをかけた写真まで出ていた。

 そして、それとタイミングを合わせて、堀口が編集長を務めるニュース誌からクリスタルトラストに関する特集記事が出た。御堂も発売当日に雑誌を買って読んだが、堀口らしい巧みな構成だった。難しい法律関係の話は脇に置いて、クリスタルトラストの違法スレスレな企業買収によって被害を受けた会社の社員やその家族に焦点を当てた記事だ。丁寧なインタビュー記事を中心に、クリスタルトラストの非道さを炙りだすような書き方だ。

 あの花見の日に、御堂が堀口にクリスタルトラストの強制捜査の件をリークしたのだ。クリスタルトラストに関する詳細な資料も渡した。その結果、堀口は御堂が期待した通りの記事を書いてくれた。

 そして、機を狙ったかのような強制捜査と雑誌記事により、にわかに世論が沸き立った。ワイドショーは連日、クリスタルトラストの話題を流し始め、世論に後押しされるようにクリスタルトラストの他の取引まで次々と強制捜査が入った。外資系ファンドの強引な取引を規制する法案を立法化しようとする動きまである。田之倉の話では、澤村もインサイダー取引容疑で立件される見込みだという。

 これで、クリスタルトラストは日本で活動を行うことがほぼ不可能となった。御堂が調べる限り、汀堂に投資したという情報もない。澤村が主導していた投資だ。立ち消えになったのだろう。

 御堂の目的は達せられた。あとは、結果を確認するだけだった。

 

 

 

 その日は、朝から御堂は落ち着かなかった。何度も腕時計を見てしまう。L&B社にいる以上、御堂にできることは何もない。ただ、信じて待つだけだ。そう自分で自分を嗜(たしな)めようにも、気が付けば時間ばかりを確認してしまっている。気もそぞろに仕事を片付け、L&B社を出た。結局仕事が片付かず、残業までしていたので、周囲はすっかり暗くなり、帰宅する社員の姿もまばらだった。

 いつもなら外食してから帰るのだが、御堂は思い立ってAA社が入っているビルの近くの公園に向かった。ビジネス街の真ん中にある公園だ。ベンチと街灯だけの簡素な公園で、それでも昼間はビジネスマンたちで賑わうのだろうか、夜は人気がまったくなく侘しさが際立つ。御堂は、目立たぬよう、暗がりにあるベンチを選んで座った。ここは、克哉が澤村に呼び出されて、襲われた公園だった。

 時間が一刻一刻経過するのをただ座ってじっと待つ。御堂以外の人影はなく静寂が公園に立ち込めている。植樹されている木の枝が街灯に照らされて不気味な影を作り出していた。

 そんなことはないと信じつつも、もし、この場に澤村と克哉が現れたら、身を張って間に割って入る気持ちだった。

 そして、克哉が刺されたという時間が過ぎても、公園の中は静まり返ったままだった。

 

 ――上手く、いったのだろうか

 

 静かな夜だ。どこかで惨事が起きているとはとても思えない。それでも、確かめたかった。

 御堂は携帯電話を取り出した。この携帯に克哉の電話番号は入っていない。電話番号を交わす機会もなかったからだ。だが、御堂の頭の中に克哉の携帯番号は記憶されている。

 非通知で克哉の携帯に電話をかけた。握る携帯に熱がこもる。

 何度目かのコールの途中で、通話がつながった。緊張が走り、息を呑む。

 

『もしもし……』

 

 電話の向こうから響いてきた声は聞き間違いようもなく克哉の声だった。夜遅くに掛かってきた非通知の着信を怪しんでいるのだろう。警戒を露わにした低い声音だ。

 黙りこくったまま耳を澄ました。

 

『誰だ? いたずら電話か? ……切るぞ』

 

 不機嫌な声と共に、ぷつり、と電話が切れた。わずか、十数秒の通話だった。だが、それで十分だった。克哉は生きている。

 御堂は安堵と共に、深く深く息を吐いた。携帯電話をカバンにしまい、立ち上がった時だった。

 

「この度は誠におめでとうございます」

 

 唐突に、背後から掛けられた声に驚き振り返った。公園の薄闇が人の形の輪郭に切り取られ、黒服の人物が現れた。長い金髪、金の眸。Rだ。Rは御堂と視線が合うと、嫣然と微笑む。

 

「Mr.Rか……」

「あなたの願いは達せられました。因果を断ち、運命の流れを大きく変えた。ですが……これでよろしかったのでしょうか」

「これでよかった、とは?」

「あなたと佐伯さんは別々の道を歩まれています。それは、あなたが意図したこととはいえ、あなたが望まれたことなのでしょうか」

 

 Rは口元に薄い笑みを刷きながらも、金の眸は御堂の真意を見透かすかのように御堂を見詰めてきた。御堂は一つ息を吐いて、告げた。

 

「何かを選ぶということは、何かを捨てることと同義だ」

 

 それが御堂の答えだ。最後に柘榴を口にした時、すでに心は決まっていた。何を選択し、何を捨てるべきか。そして、御堂はそれを実行した。

 

「佐伯にとって一番大切なことは生きることだ。それ以外は二の次だ」

「それで、あなたは佐伯さんを選び、佐伯さんを捨てた」

「そういうことだ」

 

 クリスタルトラスト、そして、澤村の動きは封じた。そのおかげで、AA社と克哉が澤村の妨害を受けることもなくなった。

 こうして今回は切り抜けたが、いずれ、澤村と克哉が対立する時が来るかもしれない。しかし、御堂がいなくなった分、守るものが少なくなった克哉は身軽になるはずだ。御堂自身が克哉の弱点になることもない。もちろん、今の克哉は御堂が行ったことを知らないし、かつての時間軸で、御堂と克哉が恋人関係だったことも想像すらつかないだろう。

 御堂は一旦、言葉を切ると、Rを見返した。

 

「それで、Mr.R。お前の目的は達せられたのか?」

「はて……、私の目的ですか?」

 

 問う言葉にRは空とぼけたように首を傾げた。それを鋭く見据えて、問いただす。

 

「何の理由も無しに、私にあの柘榴を渡したわけではないだろう」

「おや……」

 

 Rはクスクスと笑い出した。そうして、ひとしきり笑って、口を開いた。

 

「おかげ様で、私も良いものを拝見することが出来ました。佐伯さんは生き延び、新しい道を手にしました。あの方の旧い友人として嬉しく存じます」

「本当に、それだけか?」

「お互いの利害が一致したのです。私はあなたにこれ以上の対価を求めることは致しません。どうぞ、ご安心ください」

 

 滑らかな口調。Rの軽やかな笑い声は、公園の闇に漂い、吸い込まれていく。

 この男は、結局何者だったのだろう。その答えを御堂は知らない。だが、克哉はこの男から渡された果実のおかげで生き延びた。それがすべてであり、それ以外は何もかも些末なことに過ぎない。

 もうこの男と会うこともないだろう。

 御堂は黙ったまま、Rに背を向けた。そして、歩き出す。

 遠ざかる御堂の背中にRが声をかけた。

 

「どうぞ、あなたの行く末が素晴らしいものになりますように」

 

 その声に振り返ることもなく、御堂は公園を後にした。

 

 

 

 翌朝、L&B社に出社しても、御堂は落ち着かなかった。

 御堂にとっては、初めての『今日』だ。克哉も御堂と同じように、今日という日を無事に迎えているだろうか。

 昨夜のRとの会話では、克哉はもうすでに新しい未来を手にしている。御堂も電話をして克哉の生存を確かめたのだ。それでも、万一ということもある。

 御堂は社の使われていない会議室にこもると、ふたたび携帯から非通知で電話をかけた。これが最後だ、と自分に言い聞かせる。日中なので、克哉の携帯ではなく、AA社の代表番号に発信した。電話に出たのは事務の女性だった。咄嗟に考えた虚偽の身分と名前を名乗る。

 

「MGN社人事部の佐藤です。佐伯克哉さんはいらっしゃいますか? 退職関係の手続きで確認したいことがありまして。」

『お待ちください』

 

 すぐに保留音のメロディーが鳴る。そして、少しして、電話がつながった。

 

『はい。佐伯です』

 

 昨夜と同じ声だ。紛れもない、克哉の声だった。何かを喋ろうと口を開いたのに、声が出ない。

 

『……もしもし?』

 

 電話口の向こうで克哉が訝しむ。

 受話器を握りしめた手が震えた。このまま、人事部の人間の振りをして会話をすることも出来た。だが、喉に閊(つか)えたように声がまったく出なくなっていた。克哉の声に、胸が熱くなり、心臓を鷲摑みされたかのように息苦しくなる。

 克哉が少し苛立ったような声を出した。

 

『すまない、電話が遠いようだが……もしもし?』

 

 それ以上は堪えられず、電話を切った。携帯の画面の光が消える。

 心臓が爆ぜそうなほど、激しく鼓動を刻んでいた。克哉は紛れもなく生きている。生きて、今日という日を迎えている。

 その事実を自ら確認したにも関わらず、喜びが満ちることはなく、心にぽっかりと大きな穴が開いたかのように何の感情も湧いてこなかった。

 この日、御堂は退社時間になるとすぐに社を出て、家に帰った。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを解くとベッドへと身を投げ出す。清潔で柔らかなフランネルのシーツが御堂の身体を受け止める。羽毛が詰まった枕に顔を埋める。

 何もする気が起きなかった。

 もしかして、これが燃え尽き症候群というものなのだろうか。

 

『あんたがいてくれて、よかった……』

 

 克哉の言葉が、胸が苦しくなるほどの切なさを伴って、蘇る。

 そう、御堂がいる意味はあった。ただ、御堂の居場所は克哉の隣ではなかったというだけだ。

 御堂と克哉の未来は完全に分かたれた。克哉は御堂がいなくても、何の問題もなくAA社を経営し、上手くやっている。そして、御堂もL&B社で揺るがない地位を築いている。澤村だってそうだ。インサイダー取引容疑で有罪になるかもしれないが、殺人罪よりよっぽどいい。

 自分はちゃんとやり遂げたのだ。時の流れに抗い、因果を断って、未来を変えてみせた。

 これ以上、何を求めようというのだろう?

 克哉によって御堂は人生を狂わされた。克哉を殺したいと本気で思ったことさえある。にもかかわらず、克哉と出会ったことを後悔する気持ちはなかった。この残酷な運命を恨むこともない。

 重ねた唇の柔らかさ。ベッドの上で交わした熱。共に見た朝焼け。抱き寄せられた身体の温もり。並んで歩いた公園。一つ一つの記憶は美しく、胸を燃やした。

 記憶とは経験だ。それが事実かどうかは、重要ではない。この記憶がある限り、御堂は克哉を愛し続けることが出来る。克哉の幸せを心から願うことが出来る。そして、克哉がいなかった人生を歩むことが出来るのだ。

 それなのに。

 なぜこれ程、苦しいのだろうか。

 御堂の選択は間違っていない。克哉は生きている。それが何よりも、御堂の正しさを裏付けている。御堂は運命に打ち勝ったのだ。

 だが、高揚感はどこにもない。息が詰まり、目の奥が痛くなる。克哉を焦がれる気持ちに身体の奥から溶けてしまいそうだ。

 自身の選択が針のように御堂の心に突き刺さっていた。

 あの日、御堂は克哉を追いかけなかった。本当は追いかけたかった。追いかけた先にある日々、その甘やかさを知っているだけに、一人きりのベッドが寂しくて仕方がない。

 

「私は正しかった。そうだろう、佐伯?」

 

 隣にいない克哉に問いかける声が、嗚咽に震えた。

 目の表面が熱くなり、ぎゅっと目を瞑ると眦から液体が溢れた。その熱を抑え込むように、御堂は枕にきつく顔を押し当てた。

 御堂は世界でただ一人、タイムリープを行って、未来を変えたのだ。誰に助けを求めることもできない、孤独との戦いだった。タイムリープを繰り返すごとに疎外感は増した。あの男(R)を除いて、御堂が何をしたのか知る者はいない。誰も御堂に感謝することもない。

 孤立無援の中、御堂は頑張ったのだ。

 だから、今夜一晩だけ、克哉を想い焦がれることを自分に許そう。

 そして、明日からは自分が選んだ道を、胸を張って歩き出すのだ。

(6)
八、二人の選択

 ふわり、と柘榴の香りが漂った。

 

 ハッと御堂は目を覚まし、あたりを見渡した。

 自分を取り囲む光景に息を呑む。驚きに、座っていた椅子から身を乗り出しかけて、大きな音が立った。周囲の社員が御堂に視線を向ける。咄嗟に、何事もなかったかのように素知らぬ顔をして、デスクで作業をしているふりをした。だが、内心は酷く動揺していた。

 

 ――なぜ、ここに……?

 

 御堂の最後の記憶は夜、ベッドで突っ伏したところで途切れている。それなのに、今、御堂はスーツを着て、L&B社に出社していた。そして、一瞬、漂った柘榴の香り。

 

 ――どういうことだ……。

 

 デスクのパソコン画面の隅を確認した。そして、目を瞠った。自分が目にしている日付が信じられなくて、背後を振り返って窓の外に視線を向けた。暗く、重たい空が見える。駆け足で夜が訪れていた。そう、今の季節は冬だ。

 心臓が早鐘を打ち出す。タイムリープが実行されたのだ。

 混乱に思考が停止しかけたとき、デスクの電話が鳴りだした。内線の着信を告げる。

 条件反射で電話を取ると、女性の声が響いた。

 

『御堂マネジャー、社長がお呼びです。応接室へお願いします』

「……分かった」

 

 応じる声が掠れた。よりによって、あの日にまで時間を遡ってしまったのだ。

 なぜ? どうして?

 激しい困惑に包まれる。

 今回は柘榴を食べていない。それなのに、どうしてタイムリープが起きてしまったのか。

 

「もしや……」

 

 原因があるとしたら、昨夜、御堂が激しく後悔したからだ。この日の選択を、克哉と別の道を歩むと決断した自分の判断を。克哉に焦がれ、やり直せるならやり直したい。そう願ったせいでこの瞬間まで戻ってしまったのではないか。

 だが、克哉を追う選択をすれば、克哉は殺される運命に戻ってしまう。

 助けを求めるように視線をさ迷わせたが、もちろん誰に助けを求めることもできない。タイムリープをしたという事実は御堂一人しか知らない。

 迷っている時間はない。応接室から呼ばれている。

 御堂は立ち上がり、窓ガラスに映る自分の顔を確認した。血の気が失せ、青ざめて見える。心の準備もままならないまま応接室に向かった。

 ドアをノックする手が細かく震える。中から社長の声がかかり、入るように促される。

 

「失礼します」

 

 誰がいるのか分かっているからこそ、動揺が顔に出ないようにあえて視線を逸らして一礼して入った。それでも、ハッと息を呑む気配が伝わってきた。

 社長がソファから立ち上がり、御堂を前に出して紹介をする。

 

「こちらは弊社企画部のプロダクトマネージャー、御堂孝典くんです」

「初めまして、御堂さん」

「……初めまして」

 

 克哉との再会はこれで三度目だ。だが、変わらずに初対面の素振りで名刺を切り、握手を交わした。

 それでも、今回は自分に向けられる克哉の眼差しを受け止めることが出来ずに、わずかに視線を伏せた。

 まともに克哉を見てしまったら、今度こそ自分を抑えられないかもしれない。だから、契約を進める間も、ずっと契約書に集中する素振りで克哉を控えめに無視し続けた。

 しかし、克哉は何の反応も示さない。それはそうだろう。御堂と克哉の間には目を背けたくなるような惨事があったのだ。御堂の克哉に対する反応も当然だと思われているはずだ。

 

「それでは、失礼いたします。今後ともよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

 

 克哉が立ち上がって一礼すると、書類が入ったカバンとコートを持って応接室を出て行った。社長と共に立ちあがり、部屋から出る克哉を見送った。

 ドアが閉まると同時に社長は大きく息を吐いた。

 

「契約が無事に済んでほっとしたよ」

「ええ、良かったです」

 

 御堂は社長に相槌を打つと、書類を手に持ち応接室のドアを開けた。

 社長が部屋から出るのを待ち、応接室の電気を消して自分も続く。このままこの部屋に残り続ければ、ふたたび窓の外を見てしまうかもしれない。そうしたら、克哉の姿を見つけてしまう。だから、今回は社長と共にオフィスに戻ることを選択した。

 心臓は激しく脈打ち続けている。この後に続くどちらの未来も知っているからこそ、運命の分岐点に立つ自分が苦しくてたまらない。

 克哉を追いかけた先にある、心躍るような幸せな日々とその後に続く絶望。克哉を追いかけなかった先にある、平穏と喪失感が背中合わせになる日常。どちらを選ぶべきか一目瞭然であるのに、克哉を追いかけたい衝動に駆られ続ける。

 社長と共にエレベーターに乗った。隣に立つ社長から話しかけられたが、気もそぞろにあいまいな返事を返す。

 御堂は自分のデスクに戻ると、椅子に深く腰掛け胸を一掃するほどの大きな息を吐いた。書類を封筒に戻し、デスクの引き出しにしまいこむ。

 今、克哉はビルの前に立っているはずだった。そして、御堂たちがいた応接室を見詰めている。言葉にすることのできないすべての感情を込めた眸で。

 克哉から気を逸らすように、デスクのパソコンを起ち上げた。届いているメールを確認し、急ぎでないものまで返信を書いていく。それが終わると、手掛けている別のプロジェクトのファイルを開き、部下が作った企画書の添削を始めた。こうして自分の意識を無理やり仕事に注ぎ込む。自分の感情から目を背け、内なる衝動と戦い続けた。そして、運命の分岐が切り替わるのをじっと待つ。

 

「御堂さん、お先に失礼します」

 

 遠慮がちにかけられた声に我に返り、御堂は顔を上げた。部下が頭を下げて、オフィスを出て行くところだった。時計を見れば終業時間はとうに過ぎて、御堂がオフィスに残る最後の一人になっていた。結局、やりかけた仕事にのめり込んで、時が経つのに気が付かなかったらしい。

 ふう、と肩の力を抜いた。

 さすがにもう、克哉は立ち去った後だろう。時は御堂が願う未来へと進み始める。また、この時点まで戻ってしまったことに、途方もない徒労感を感じた。

 御堂はパソコンをシャットダウンして、デスクの上を片付けた。帰宅の準備をして、オフィスの電気を消して戸締りをする。そして、オフィスを辞した。

 L&B社が入るビルから出て、大きくため息を吐いた。吐いた息が空気を白く濁らせる。刺すような寒さに空を見上げれば、雪が本格的に降り出していた。足元に視線を落とせば、アスファルトの上にうっすらと積もっている。悪天候のニュースが流れていたせいか、オフィス街であるこの場所に人影はほとんどない。皆、とっくに帰ったのだろう。

 タクシーを捕まえることが出来るだろうか。そんなことを考えながら、目の前の道路に視線を流したところだった。

 

「どうして……」

 

 思わず言葉が漏れた。歩道の端に、男が一人立っていた。街路樹の下で、辛うじて雪を避けようとしていたのだろうか。それでも、ダークグレーのコートの肩は雪で濡れて黒くなっていた。相当長い時間、その場に立っていたのだろう。そして、男はまっすぐに、ビルから出てきた御堂を見ていた。

 

 ――どうして、佐伯がここに?

 

 愕然とその場に立ち尽くした。

 克哉は御堂を見詰めたまま、近付いてくる。そして、目の前に立ち、ふう、と白い息を吐いて、言った。

 

「今回『も』俺を追いかけてくれないんですか」

「――ッ」

 

 そこにあるのは、秘密を共有する者の小さな笑みで、克哉の一言で、御堂は、タイムリープをしたのは自分だけではないことを知った。どうにか口を開くも、声が掠れる。

 

「まさか……」

「俺が果実を口にした。すべてをやり直すために」

 

 途切れた御堂の言葉を克哉が継いだ。そして、御堂へと手を差し出した。先ほどの儀礼的な握手とは違う、御堂を自分に繋ぎ止めるための手だ。

 

「御堂、俺と一緒に行こう。俺はあんたに助けられるだけの人生はごめんだ」

 

 目の前に伸ばされた手は冷え切って、すっかり白くなっていた。その手に戸惑い、そして、かけられた言葉に呆然とした。何が起きたのか理解するにつれ、次第に怒りがふつふつと湧いてくる。克哉の手を鋭く振り払った。怒りに任せて言い放つ。

 

「何をやり直すと言うんだ! すべては完璧だった。君が私をこの場に連れ戻したこと以外はな!」

「御堂?」

 

 克哉の目が見開かれる。御堂にそんな反応をされるとは露程も考えていなかったのだろうか。そんな克哉の傲慢さを笑った。

 

「君を助けただと? 勘違いも甚だしい」

「……俺を助けるために、あんたは時の果実を使った。違うのか?」

「馬鹿も休み休み言え、佐伯。私が君を助けるためにタイムリープしたとでも思ったか? 君は自分が私に何をしたのか覚えていないから、そんなことが言えるのだろうな」

 

 御堂の突き放すような声と態度に、克哉は苦痛を堪えるように顔を歪めた。

 

「覚えている。……正確には、思い出した」

「ほう……。それなら、私が君に愛想を尽かしたという考えには及ばなかったか?」

 

 口元に冷笑を浮かべた。侮蔑の眼差しで克哉を見返す。

 

「君はすべてを無責任に放り出して、勝手に死んだ。あとに残された私のことなどまったく考えずにな。途方に暮れていたところに、君の旧友という男が現れた。そして、私にあの柘榴をくれた。君と付き合った事実を最初からなかったことに出来る果実だ。だから、私は自ら望んでそれを口にした」

「……」

 

 克哉は動かなかった。凍り付いたようにその場に立ち尽くしている。御堂に向けられたレンズ越しの眼差しは瞬きさえ忘れていた。

 御堂はどうにか自分を落ち着けて、克哉に告げた。

 

「これで、分かったか? 私は君と縁を切りたかった。それが、すべてだ」

「……それならなぜ、澤村を俺から遠ざけた? あんたは、クリスタルトラストと澤村をインサイダー取引で摘発させ、動きを封じた。それは、俺のためじゃなかったのか」

 

 ――そこまで分かっていたのか……。

 

 克哉に切り返されて言葉を失う御堂に、克哉は静かに言葉を続けた。

 

「あんたと再会したこの日からずっと、何か大切なものを失ったような感覚を抱えながら、俺は生きていた。隣にいるはずの誰かがいない。身体の半身を無くしてしまったかのような喪失感が、ずっと付きまとっていた。どこもおかしくないのに、毎日が、どこか白々しく感じる。AA社を起ち上げても、本来なら一緒に仕事をしているはずの誰かがいない。こんな性格の俺が誰かをパートナーに選んで共に働くなんてことは、まずありえないはずなのに。

……あんたの夢をよく見たよ。そんなことがあるはずがないのに、あんたが俺に笑いかけて、俺を労わってくれて。俺は夢の中で満ち足りていた。

 その一方で、殺される夢もよく見た。小学生時代の幼馴染にな。それ以来会ったこともないはずなのに、そいつが大人になって嫌な笑みを浮かべて俺を刺し殺してきた。どちらも、俺の未練や執着がみせた幻覚だろうと思っていた。

 だが、ある日、電話がかかってきたんだ。無言電話が二回。夜と翌朝に。その直後から、すべての幻覚から解き放たれた。いつもの日々がごく自然に感じられた。喪失感が喪失したんだ。それで気が付いた。自分が知らないところで、何か『こと』が起きたのだと直感した。そして、俺は自分が新しい道を歩み始めたことを理解した。

 そこからすべてを調べ始めた。俺の知らぬ間に何が起きたのか、本当は何が起こるはずだったのか。俺はどうにか真相にたどり着いた。俺が失ったものと得たものを知った。そして、俺はMr.R(あの男)に会って、あんたが手にしたものと同じ果実を口にした」

 

 克哉はひと息に喋り続け、そして御堂に告げた。

 

「もう、あんただけにすべてを負わせはしない」

 

 克哉の言葉に呼応するように強い風が吹いた。雪を舞い上げ、夜を震わせる。

 克哉の死を終点として何度も繰り返された時間、起こりうるはずだった出来ごと。それが克哉の記憶の中に幾重にも折り重なって微かな痕跡を残していったのだろう。その痕跡は克哉の日常に違和感をもたらし続けた。そして、克哉が生き延びて迎えた新しい日、それを境に繰り返された時間の痕跡は消え去った。その、ほんのわずかな差異。それに克哉は気付き、すべての謎を紐解いてみせた。

 自分が行ったすべては、自分の胸の内にだけに秘された事実で、誰に知られることもないだろうと思っていた。だが、克哉は何が起きたのかを知った。そのすべては、御堂が仕組んだことだとも気が付いた。

 胸が灼けつくように熱い。喉元にせり上がってくる感情を、御堂は息を止めて無理やり飲みくだした。

 タイムリープを行う時に御堂が持っていくことが出来たのは、記憶と孤独だけだった。タイムリープを繰り返すたびに、世界から取り残されていく疎外感。それを、克哉は理解し、分かち合おうとしてくれている。だが、克哉の言葉と気持ちをそのまま受け入れることは、決してできなかった。感情を押し殺して、冷淡な口ぶりで言った。

 

「……澤村は君だけの敵ではない。私があの男に何をされたのか、覚えているだろう。私はタイムリープを利用し、しかるべき報復をしただけの話だ。君のことなど関係ない」

 

 そう言い切りながら胸が切なく痛んだ。

 関係ない、なんて嘘だ。すべては克哉のためだった。惨(むご)く殺される克哉を前にしたら、自分が受けた屈辱など比較にもならなかった。だからこそ、今、克哉を許してしまったら、御堂が行ったすべてが無に帰してしまう。時間軸は最初に戻り、残酷な運命は繰り返されるだろう。

 しかし、頑なに否定する御堂に、克哉はなおも問い詰めた。

 

「……あんたは俺と付き合ったことを後悔しているのか」

「ああ」

「AA社を共に起ち上げたことも?」

「ああ」

「俺と過ごした何もかも、あんたにとっては後悔しかないのか?」

「ああ」

「本気でそう言っているのか?」

「ああ」

 

 身を切るような冷たい風が吹きつけてくる。視線を伏せながら、淡々と答えた。克哉の言葉が尽き、沈黙が降りる。

 顔をそろそろと上げれば、黙り込んだ克哉の顔に、微かに傷心した色が見て取れた。自分は克哉をひどく傷つけている自覚はあった。それでも、ふっ、と笑ってみせる。

 

「佐伯、もう、いいだろう? 二度と私の邪魔をしないでくれ。君のおかげで、またこの時間軸を生きなくてはいけない。これ以上繰り返すのは迷惑だ」

 

 御堂の言葉に、克哉もまた唇の端を吊り上げて、小さく笑った。

 

「もう時間を遡ることは出来ない。俺もあんたも」

「なんだと……?」

 

 御堂は怪訝そうに克哉を見る。克哉は頷いた。

 

「俺は、あんたに時の果実を口にしたことを告げた。あんたもまた、時の果実を口にしたことを認めた。……Rとの約束を忘れたか?」

「まさか……私を嵌めたのか!」

「俺たちにもう、『次』はない。だから、あんたの本心を教えろ」

 

 思わず声を荒げたが、克哉は動じなかった。強い光を宿した眼差しで御堂を見据えてくる。

 Rとの約束。この果実について、人に告げてはいけない。もし、言えば、この果実は二度と使えなくなる。

 だが、それならば、なおさらだ。もう二度と失敗できない。この時間軸はこの一回限りだ。御堂は正解への道筋を知っているのだ。

 御堂は寒さにかじかんだ手を強く握りしめた。他人を寄せ付けない凍てついた気配をまとい、厳しく言い渡す。

 

「何度でも言う。君とは終わりだ。いや、終わりも何も、最初から何もなかった。……さよなら、佐伯」

 

 それだけ言い捨てて、克哉に背を向ける。

 そして、一歩踏み出したその時だった。

 

「何かを選ぶことは、何かを捨てることじゃない!」

 

 克哉の叫ぶ声が御堂の足を縫い留めた。肩越しに振り返る。そこにあるのはどこまでも真剣な眼差しと表情だった。決して本心を見せようとしない男が、御堂を引き留めるため冷静さをかなぐり捨てて激しい感情を剥き出しにしている。

 克哉など無視して、この場を去ればいい。

 それなのに、御堂は克哉の本気の気迫に動けなくなっていた。

 

「あの男が言っていた。あんたがそう言ったと」

 

 叫んで上がった息を整えながら、克哉は力強く言った。

 

「俺にとって何よりも必要なのは、あんただ」

 

 克哉が出した結論に、瞬時に血が沸騰した。

 

「馬鹿を言うなっ! 君にとって必要なのは生きることだ」

「御堂、誰が生きることを諦めるって言った?」

 

 その顔が傲慢に笑う。

 

「両方とも手に入れてみせる。あんたも未来も」

「……君には無理だ」

 

 幾分冷静さを取り戻して言った。最初は、御堂もそれを目指したのだ。克哉と共に歩む未来。だが、その試みはことごとく失敗した。だから、こうして、この時点まで時を遡ったのだ。

 克哉の言う言葉は口先だけの理想論だ。いくら克哉がそう願おうとも、時は無情だ。また同じ惨劇が繰り返されるだろう。御堂はそれを嫌というほど知っている。だから、決して譲れなかった。御堂と克哉は交わってはいけない。何かを得るためには、それだけの対価が必要なのだ。

 それでも、克哉は一歩も退かなかった。克哉の鋭い視線は揺らぐことなく御堂を貫いてくる。そして、克哉ははっきりと告げた。

 

「あんたと二人なら、出来る。俺たちはすべてを手に入れられる」

「っ……」

 

 言葉で心臓を射抜かれた。

 克哉のレンズ越し双眸。その眸の奥に、静かな炎が熾火のように燃えている。それは、覚悟を決めたものの目だった。

 克哉は自分が惨く殺される未来を知った。それなのに御堂を手に入れるために、生き延びることが出来た平穏な未来に別れを告げた。もう一度、御堂とやり直すために、残酷な運命が待ち構える道を選択しようとしている。しかも、時の果実を使ったことを御堂に告げて、自らの退路を断った。

 克哉は手に入れたすべてを捨て、そしてまた、自分が失ったすべてを手中に収めようとしている。なんと無謀な決断だろう。それなのに、克哉を笑い飛ばすことも、呆れて切り捨てることも出来なかった。

 御堂だけでは成し遂げられなかった、二人の未来。それが、克哉と共になら手に入れられるかもしれない。

 そんな甘い考えなどとうの昔に捨てたはずなのに、克哉を信じてみたいと心が揺らいだ。

 動揺している自分を自覚し、冷静になれと自身を叱咤する。

 いつの間にか風は止んでいた。降りしきる雪が街のざわめきを遮り、静かな暗い夜が二人を取り囲む。克哉の声が静寂の中に響いた。

 

「だが、俺だけでは無理だ」

 

 先ほどまでと打って変わってどこか弱気を感じさせる声だった。克哉が口を開きかけ、ためらい、そして、思い切ったように、言った。

 

「だから、頼らせてほしい」

「佐伯……」

「俺の背中を預かってくれないか、御堂」

 

 それは、切実な懇願だった。それでいて、真摯な愛の告白だった。克哉の言葉が心を揺さぶる。

 これが克哉の切り札だった。

 克哉はすべて思い出したのだ。御堂が口にした何もかもを。

 あの暗い部屋で、御堂は克哉に『私を頼れ』と言った。だが、あの時、克哉は御堂を頼ろうとしなかった。自身の弱さを決して曝け出そうとはしなかった。だから、御堂は克哉の弱点にしかならないと悟った。自分の居場所は克哉の隣ではないと知った。

 時を遡ったこの時点では、御堂はそれを口にしていない。もう、起こりうるはずもない未来の言葉だ。それなのに、克哉は存在しない御堂の言葉を切り札として使った。目的はただ一つ、御堂をつなぎとめるために。克哉らしくない、なりふり構わぬ乱暴さだ。御堂のためなら自分のプライドさえも捨ててみせる克哉の決意を目の当たりにする。

 抑えようにも、狂おしいほどの感情がこみ上げてきた。

 本当は、克哉に頼られたかった。克哉を支えたかった。克哉が御堂を守りたいと思ったように、御堂もまた克哉を守りたかった。この世界のありとあらゆる悪意から。

 掠れた声が口から洩れた。

 

「どうして、今更……」

「今更、じゃない。今だから、だ。何度だって言う。俺にはあなたが必要だ。俺の隣にあなたが必要なんだ」

 

 御堂の心を固く覆いつくした鎧に、ぴしりと亀裂が入る。みるみるうちに、自分の心がむき出しになっていく。

 

 ――私も、君の隣に立ちたかった。

 

 克哉は息を呑んで御堂を見つめ続けている。

 そんな不安げな顔をして、そんなことを言われたら、もう突き放せないではないか。

 視界が急速に歪み、絞り出した声が頼りなく震えた。

 

「……ずるいぞ」

「あなたを手に入れるためなら、俺は手段を選ばない男だと知っているだろう?」

 

 克哉の眦が緩む。その口元が綻び、柔らかな笑みがこぼれた。

 これ以上言葉が続かずに俯きかけた御堂に、克哉の顔が近付いた。そのまま唇が押し付けられる。ごく自然に、当然そうなるべきかのように。

 久方ぶりのキス。克哉の唇は記憶していた通り柔らかく、記憶していた以上に胸を熱く燃やした。くちゅり、と濡れた音が、合わせた唇の間から立つ。

 静まり返った街中に、克哉と二人きり。夢中になってキスを貪ったところで、自分がどこで何をしているのか思い出した。慌てて克哉の胸を押し、キスを解いた。

 吐息が唇に掛かる距離で、克哉が御堂の顔を覗き込んでくる。

 

「それで、今、俺に言うべき言葉があるんじゃなかったか?」

「な……」

 

 一度は伝えることを諦めた言葉、胸の奥底に封印した言葉が、こみ上げてくる。それでも、辛うじて抵抗した。

 

「……そんなの、分かっているだろう?」

「いいや、忘れた」

 

 克哉の顔は先ほどまでの殊勝さは消え失せ、いつもの余裕が戻っている。素知らぬ顔でとぼける克哉が憎たらしい。本当は、告げたくて仕方がない。克哉は御堂の一言を待っている。そして、時はあるべき姿に戻ろうとする。観念して言った。

 

「っ、……、き……だ」

「聞こえない」

 

 いざ告げようとすると、声が詰まる。そして、あの時と一言一句変わらずに克哉は聞き返してくる。

 羞恥に頬が燃えた。こんな言葉、今更、恥ずかしがるものではない。さらりと言ってしまえば良いものを、最初の時間軸と同じように、緊張に喉が狭まる。

 

「好きだ……っ」

 

 半ば自棄になって、もう一度震える声で言った瞬間、克哉の唇が押し付けられる。だが、そのくちづけは堪能しようとする寸前に克哉が顔を離した。訝しんで克哉を見ると、克哉は難しい顔をして自分の腕時計を確認する。

 

「大分遅れている」

「何?」

「遅れた分、取り戻すぞ」

「何をだ? ……おいっ」

 

 胡乱げに聞き返した瞬間、克哉に腕を掴まれた。そのままずんずんと車道へと連れていかれる。克哉は流しのタクシーを捕まえると御堂を後部座席に押し込み、自分も隣に乗り込んだ。唖然としている御堂に克哉がにやりと笑いかけた。

 

「この後、何をすべきか、分かっているだろう?」

「おま……っ」

 

 最初の時間軸で、再会した自分たちがその後どうなったのか。それを思い出して、御堂はいたたまれなくなった。だが、身体の芯に灯った炎は収まりそうにもなかった。

 

 

 

 

 あの時に使ったホテルも、部屋も、ちゃんと記憶通りのままだった。

 互いの服を脱がせ合い、ベッドへともつれ合うようにして倒れ込む。最初の時間軸ではもうちょっと時間をかけていたような気もするが、まどろっこしい手順をすべて省いて、互いの熱を求めあう。

 唇や肌を重ね合うと、そこから甘い痺れが全身に広がっていく。舌を絡め、唾液を混ぜ合わせる。タバコの苦みが滲む克哉の唾液をこくりと喉を鳴らして飲みこんだ。克哉の大きな手が御堂の身体の輪郭をなぞりながら、下へと降りていく。そして、狭間へと指が忍び込んでいった。

 

「――ッ」

 

 敏感なところを克哉になぞられて身体が跳ねた。今までになく身体の感覚が研ぎ澄まされている。自分の身体に戸惑っていると克哉が喉で低く笑った。

 

「一年ぶりだからな。優しくしますよ」

「一年……」

 

 そう言われて気が付いた。時間を遡ったのだ。御堂の記憶の時間とこの世界の時間は違う。御堂はこの世界では克哉とは一年ぶりに身体を重ねるのだ。

 

「ぁ、……んっ」

 

 克哉の指が窮屈な襞をなぞり、馴らしながらより深くへと潜っていく。身体を内側からまさぐられて、もどかしいほどの欲求がこみ上げてくる。記憶とは経験だ。この先にある、深く爛れた官能を知っている。克哉の指を物欲しげに食い締めて腰が浮いてしまう。

 克哉が身体を起こした。そして、御堂を膝の上に乗せる。とうに昂っていた性器を御堂の尻のあわいにあてがった。色素の薄い眸が情欲に潤みながらレンズ越しに御堂を促してくる。

 

「力を抜け」

「あ――……ッ」

 

 窮屈なところに圧がかかる。めり込むようにして、圧倒的な質量が身体を拓いていった。ゆっくりと、深く、身体の内側に克哉が入ってくる。

 

「ぁ……、く……ぅ」

 

 記憶の中では何度も経験しているはずなのに、この身体にとっては、初めて克哉と心を通じ合わせながら繋がるのだ。自分のものではない熱に身体の奥から炙られる。

 身体の強張りが抜けなくて、窮屈で苦しくてしかたない。それでも、この後に続く身体が沸き立つような快感を知っているからこそ、御堂の中はいやらしく蠢いて克哉を絡め取る。

 先を急こうとする御堂の身体を、克哉は丁寧に、丹念に愛撫をしながら、どこまでも深くつながっていった。

 

「御堂」

「ん……っ」

 

 名前を呼ばれて、キスを求められる。正面から向き合いながら、奥まで穿たれキスを交わす。狂おしいほどの甘美な快楽が頭のてっぺんからつま先まで駆け抜けた。御堂の身体が柔らかく解けたのを感じ取ったのだろう。克哉が腰をたくましく使い始めた。

 

「ぁ、あ、……っ、ぁああ」

 

 真下から獰猛に突き上げられる。骨がたわみそうな衝撃。腰を遣われるたびに声が漏れ、唇が離れそうになった。必死に克哉にしがみつく。張りつめたままの御堂のペニスからは、蜜がとぷとぷと溢れ続けて、二人の下腹部をしとどに濡らしていく。

 御堂を見つめ続ける克哉の眉根が苦しげに寄せられた。克哉の眦に朱が差し、克哉もまたたまらないほどの快楽を貪っていることが分かる。快楽をこうして二人で分け合うと、昂りはあっという間に乗算されてどこまでも昇りつめていく。

 

「っ、孝典……」

 

 克哉が呻くようにして、これ以上ないくらい深く御堂を抉り、そして腰を震わせた。臍の裏の深いところで、克哉の熱が広がっていくのを感じ取る。同時に、御堂も達した。大量の精液が噴き出す。あまりに激しすぎる絶頂に、視界が白んだ。くたりと力が抜ける。その身体を克哉が抱き留めた。御堂もまた、克哉の背中に手を回して、強く抱き寄せた。互いに互いを抱き締める。絶頂の余韻に浸り続け、ようやく息が整ったところで、克哉が、御堂の肩に顔を擦りつけるように埋めてきた。そして、熱っぽい吐息に紛れて呟いた。

 

「あんたがいてくれて、よかった」

「佐伯……」

 

 御堂の身体を抱き締める手が微かに震えていた。そこから克哉の不安を感じ取った。御堂が克哉を失うことを恐れたように、克哉もまた、御堂を失うことをひどく恐れていたのだろう。

 脆さと強さを併せ持った男、それが佐伯克哉なのだ。そして、彼らしく不器用なりに、御堂に少しずつ、心を開こうとしてくれている。

 克哉は、きっと大丈夫だ。二人でなら、きっと上手くいく。

 

「私は君の傍にいる、……克哉」

 

 荒げた息を整えながら克哉の耳元で囁いた。返事代わりに、御堂を抱き締める腕にさらに、力が籠った。満たされる心地よさに御堂はそっと目を閉じた。

 

 

 

 

 それから、数カ月後。

 

「藤田、危ないぞ」

 

 御堂はそう言って、転落しかけたマグカップを藤田のデスクに戻した。

 AA社の社内。自分のデスクで資料を広げていた藤田は、マグカップが置かれた振動で、ようやく何が起きたのか気付いたようだ。

 

「あっ! ありがとうございます、御堂さん」

「気を付けろ」

「すみません、次から気を付けます!」

 

 記憶と違わぬ会話。御堂はニコリと笑い返し、執務室の自分のデスクへと踵を返す。すると、克哉と目が合った。自分のデスクから御堂の行動をずっと見ていたらしい。克哉はすべてを知っている顔でニヤッと笑う。

 

「あんたのルーチンワークか。これで何度目だ?」

「忘れたな。だが、これが最後だ」

 

 御堂も笑い返してデスクに着席すると、入れ替わりに克哉が立ち上がった。

 

「あんただけに良い格好させるのは癪だな」

「佐伯?」

 

 御堂の横をすり抜けて、克哉は藤田のデスクへと一直線に向かった。そして、藤田が広げていた資料を背後からいきなり取り上げる。

 

「藤田。さっさとその仕事切り上げて今日は定時で帰れ」

「え、でも、まだ報告書が出来てなくて……」

「残りは俺がやっておく。その報告書は俺にメールで送っておいてくれ」

「ですけど……」

「最近ずっと残業続きだったろう。月天庵の件はお前たちのおかげで上手くいったようなものだ。だから、たまには早く帰ってのんびりするなり、彼女と飲みに行くなりしたらどうだ」

 

 克哉に労わる声をかけられて、藤田は照れくさそうに鼻の頭を擦った。

 

「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらいます!」

 

 さっそく帰り支度を始めた藤田を残して、克哉は取り上げた資料を脇に抱えて満足げに戻ってくる。そんな克哉に声をかけた。

 

「優しいところもあるじゃないか」

「俺はいつでも優しいぞ」

「そうか?」

 

 二人の間に漂う空気は心地よく、視線を交わし笑い合う。そうしているうちに、終業時間を迎え、一斉に社員が退社していった。最後の一人が部屋を出ると、克哉はドアのところに行き、カギをかけて戻ってきた。そして、御堂に向かって微笑む。

 

「早くあなたと二人きりになりたかったんですよ」

「なんだ、下心か」

「なんとでも」

 

 呆れたように言いつつも、御堂も今夜は克哉と二人きりで過ごしたかった。克哉もきっと同じ気持ちだろう。大丈夫だと頭では分かっていても、やはり一抹の不安は拭えないものだ。だが、今は二人とも相手を頼る強さを持っている。

 時の流れの舵は切られた。御堂と克哉は、新しい時間へと進もうとしている。

 克哉は部屋の電気を消すと、御堂のところに歩みを寄せた。立ち上がって克哉を待っていると、ぐっと胸に抱き寄せられる。力を抜いて、身を任せた。

 この先に起きることを克哉も御堂も知らない。

 だが、二人で歩む未来は約束されている。

 御堂はそっと目を閉じて、唇に押し付けられる熱を受け止めた。

 

 

END

(7)
あとがき

最後まで読んでくださりありがとうございます。

こちらは、鬼畜眼鏡FD『好きにしろエンド』の補完SSですが、このエンドの補完SS、これで三作目だったりします。このエンド、本当に好きですね、私。

『好きにしろエンド』の他の作品(『In The Dark Room』、『リターン』)と違って、こちらは最初から最後まで御堂視点となっています。タイムリープを繰り返して歴史を変えようとするお話ですが、よく考えると『リターン』も眼鏡が同じ一日をひたすら繰り返すというタイムリープものでした。

今回の話は、今放映中のアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の第93話『まぼろしの汽車』から着想しました。ネコ娘がタイムリープを繰り返して、鬼太郎と世界を救おうとするストーリーで三十分という短い時間の間にSF要素と恋愛要素と世界を救うというテーマを盛り込んだ神回です。タイトルは『All You Need Is Kill(桜坂洋)』から取っています。こちらも、ハリウッド映画化もされたタイムリープSFの名作なのでお勧めです。

久々のオンライン連載の長編でしたが、少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。今作、なぜMr.Rは御堂に果実を渡したかの裏設定もあるので、歴史が改変されたと気付く克哉視点の話もどこかで追加で書ければなあ、と思っています。

それでは、最後までお付き合いいただきありがとうございました。感想などいただけましたらとても嬉しいです(*´▽`*)

(8)
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