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飼育5 Eternity
​(1)
(1)

 マンションのエントランスを抜けて、克哉はすれ違う住人とにこやかに挨拶を交わした。
 誰もが、克哉をこのマンションの住人だと思い込んでいる。
 それもそうだ。克哉がこのマンションに暮らし始めてから、もうすぐ半年が経とうとしている。
 ロビーフロアの自動扉をカードキーで開いて中に入ると、克哉は郵便受けを確認し、届いた封筒の宛名を一瞥した。
 そこに記されている宛名は全て克哉の名前ではない。『御堂孝典様』、表にそう記された封筒を、克哉は躊躇うことなく近くのゴミ箱に全て捨てた。
 エレベーターに向かうロビーを歩きながら、ガラス張りの壁面からマンションの共用庭園にちらりと視線を送った。
 そこに植えられている桜は、すでに緑の葉に覆いつくされている。
 克哉にとって一年の中で最も沈鬱な季節は過ぎ去ろうとしていた。
 桜の花だけはどうも苦手だった。視界一面に咲き誇る桜の風景は、克哉が封印している煤けたような古い記憶と結びついていて、春になるとどうも落ち着かなくなる。
 桜を避けようにも、この日本ではどこもかしこも桜の木が植えられていて、その時期になると気をつけていても克哉の視界の中にピンクの花が映りこんでくるのだ。
 だが、もう、桜は全て散った。
 いまや、克哉にとって全てが思い通りにいっている。
 ありとあらゆる欲しいものは手に入れた。あまりに簡単すぎて、拍子抜けしたほどだ。
 それなのに、ふと感じるこの不安は何なのだろう。踏み出した足元に深い穴が口を開いて、克哉を待ち受けているような、そんな気配を感じるのだ。
 いや、これも、忌々しい桜の季節がそう感じさせただけだ。
 克哉は自分の不安を笑い飛ばすと、部屋の扉を開けた。
「ただ今戻りました」
 部屋の奥にいるもう一人の住人に向かって克哉はいつも通りにこやかに声をかけた。克哉の声に反応して、チャリ、と鎖の音がする。
 克哉が飼っている、かつてのここの部屋の主だ。
 その気配を感じて、込み上がる笑みが零れる。今日も克哉の箱庭は美しく整えられて、克哉を待っている。
 この変わらぬ日々がずっと続くのだろう。克哉の世界を邪魔する者はいない。



 4月も終わりに近づいたその日は、寒い夜だった。ここ数日、曇天模様が続いたせいか春の暖かさが遠のき、天気予報では花冷えと報じられていた。
 ベッドに寝ながら、克哉は無意識に上掛けを引き寄せようとして、隣の気配に目を覚ました。
 起き上がって隣を見れば、御堂が身体を丸めるようにして口に手を当てながら自分の咳を押し殺そうとしている。
「どうした?」
 その裸の身体に手を伸ばして、肌が汗を刷いて熱くなっていることに気が付いた。
――熱?
 よく見れば、身体が細かく震えている。
「寒いのか?」
 克哉の問いかけに御堂がうっすらと目を開いた。
 日中はシャツ一枚で過ごさせていることもあり、ここ最近の激しい寒暖の差に、体調を崩して風邪を引いたのかもしれない。
――どうしたものか。
 汗で濡れた額に手を添えると、明らかに熱を持っていることが分かる。
 克哉が思案しているうちに、御堂の身体の震えがガタガタと大きくなってくる。
 このままだと更に熱は上がるだろう。既に身体は汗でびっしょりと濡れている。
 放っておくわけにもいかない。
 克哉は舌打ちして起き上がると、固く絞ったタオルを持ってきた。
 ベッドにつないでいた首輪の鎖を外して、上半身を支えて起き上がらせると汗を拭く。
 体力がないその身体はぐったりとして力が入らず、その視線も覚束ない。
 身体を拭くと、クローゼットからパジャマを取り出した。今まで、着せたことがなかったが、このまま裸で寝かせるわけにもいかない。
 手伝って着替えさせ、水を飲ますと、ベッドの真ん中に身体を押しやった。
 クローゼットにしまってあった毛布を取り出して、上からかけてやる。
「これでいいか?」
 咳き込みながらも御堂は頷いた。
 仕方がない。
 人を飼うのは意外と面倒なこともある。
 克哉は嘆息しつつ御堂の鎖をベッドにつなぎ直し、そのままベッドを明け渡すと、リビングに移動して、ソファに横になった。

 だが、二日たっても、御堂の熱は治まらなかった。
 38.9度と表示された体温計を見て、克哉はため息を深くした。
 熱を出した翌朝は、御堂はベッドに寝かしたまま食事をベッドサイドに用意して出社したものの、帰宅した時には朝と同じ態勢のまま食事に手を付けた形跡もなく、病状は改善の兆しさえみえなかった。
 咳が酷く、食べることはおろか、寝ることさえも満足に出来ないようで、御堂は目に見えて衰弱してきている。
 幸い、GW(ゴールデンウィーク)直前だったこともあって、克哉は休暇を取って看病に専念することにした。
 ドラッグストアで解熱剤や鎮咳剤を買ってきて飲ませてみるが、目に見えるような効果はない。
 食事がほとんど取れないので、購入した経口補水液をこまめに飲ませているが、これだけでは体力は失われるばかりだろう。
 単なる風邪ではないのだろうか。
 いや、風邪であったしても、監禁生活の長かった御堂の身体には、風邪を治癒させるだけの体力が残されていないのかもしれない。
「御堂」
 呼びかければ、瞼が薄く開く。だが、返ってくる返事は喘鳴と咳ばかり。熱は一向に下がる気配はないのに、その肌は青白さを増し、眼窩は落ち窪んできている。
 既に首輪は外していた。もう、今の御堂にはベッドから抜け出す力さえない。
 当初は楽観的に考えていた克哉も、今の御堂の状況は看過すべきでないことは分かっていた。
――病院に連れていくべきか?
 どうすべきかと思案する。すでに克哉が出来ることは、やりつくしている。
 世間はGWに入っているが、救急病院なら対応してくれるだろう。
 当たり前だが、そのためには部屋から出さないといけない。
 そうとなれば、御堂は克哉の手元から逃げ出すかもしれない。
 今は、そんな体力がなくとも、入院ともなれば御堂の家族に連絡がいくだろう。
 そうなれば今までの努力が水の泡だ。
 それは、嫌だ。
 だが、回復しなければどうなる?
 克哉の中にじりじりとした焦燥感と迷いが生じた。
 このままだと、どうなるのだろう?
 得も言われぬ気持ち悪さが、胸の裡に折り重なって澱みを作っていく。
「御堂」
 再び呼びかけた。鋭く強めに呼びかけると、開いた瞼から虚ろな眸が克哉の方に向けられた。そこにはまだ弱々しいながらも意志が感じられる。
 克哉は少しの間、逡巡して口を開いた。
「お前はどうしたい?」
 克哉を映し取っていた瞳孔がその言葉に反応してわずかに開いた。
 それもそうだろう。今まで、そんな質問を御堂にしたことはなかった。
 御堂の全てを決める権限は克哉にあり、御堂が自分の意思を主張することは許さなかった。
 しどけなく開いたままの唇が微かに動く。克哉はじっとその動きを見守ったが、何かを言いかけようとしたその唇はすぐに激しい咳嗽に取って代わられた。
 背中を擦って咳が治まるのを待ったが、咳が一段落着いたときには既に瞼は合わされ、開くことはなかった。
 熱い肌、浅い呼吸、忙しなく打つ鼓動。
 御堂の身体が急かされるように命を紡いでいる。
 再び、肢体を激しく波打たせて咳き込む。
 その度に、その身体から次から次へと命が零れていく。
 ハッと克哉は鋭く息を吸い込んだ。心臓が早鐘を打ち出し、瞳孔が開大する。
「御堂」
 その零れ落ちようとする命をせき止めようと、咄嗟に御堂の口に手を当てて口を塞いだ。
 息苦しさに御堂が喘いで目を大きく見開いた。
 その眸を覗き込む。
「御堂、お前の好きなところに連れて行ってやる。病院でも、家族のところにでも。どこがいい、選べ」
 その言葉が御堂の意識に届いたことを確認し、手を外した。
 不安に逸る胸を意志で抑えつけ、ぐらつきそうになる膝に力を籠める。
 ここは、克哉の箱庭。
 完成された世界だ。永遠にこの世界が続くものと信じていた。
 その箱庭が崩れ落ちようとしている。そして、待ち受けるのは虚無の闇。
 いや、いずれ遠からずこんな日が来ると予期していたのではなかったか。
 御堂が、乾ききった唇をゆっくりと震わせ言葉を紡ぐ。
「…さくら、…桜が、見たい」
 喉元が押し潰されたような掠れ声で告げられた言葉に、克哉は息を詰めた。そして、表情を曇らせ首を静かに振った。
「桜はもう散った」
 もう5月に入ったのだ。この時期に桜がみられるとしたら、北海道だろう。そこまで連れていくことはできない。
 御堂もそれを分かっていたようで、その顔に失望の色は見られない。すう、と静かに瞼を閉じる。
「それなら、いい。ここでいい」
 それは克哉が望んでいた答えだ。
 だが、それは克哉が望む結果をもたらさない。
 崩壊しつつあるこの世界、克哉が用意できる結末は限られている。もう時間の猶予はない。
 意識を沈ませようとする御堂の肩を乱暴に揺さぶった。
「それならここに家族を呼ぶか?医者でもいい」
 御堂の手がベッドから伸びて克哉のシャツの裾を掴んだ。促されるように御堂に顔を近づけた。その昏い眸が克哉を捉えた。
 蒼白な顔の中で、爛々と眼が光る。
「佐伯……君が欲しいんだ」
「御堂?」
 克哉は目を瞠った。
 何故この状況でそれを言う?
 克哉は解放を提示したのだ。だが、御堂はそれに目もくれない。
 それは、克哉が御堂に教え込んだ言葉。この上なく淫らな表情と声が克哉を誘う。そこにかつての凛々しいまでの男はいない。
 ぞくりと背筋が粟立つような衝撃が走った。
――御堂は狂っている。
 戦慄が喉元までせり上がってくる。
 御堂が持つ深淵に初めて恐れを抱いた。全ての動物の本能に根差す、闇への恐怖が克哉を侵す。
 反射的に後退ろうとする克哉に御堂が顔を寄せた。
「…佐、伯。私を…抱いてくれ」
 切れ切れな声音に込められた壮絶な色香。
 ベッドサイドの淡い光を弾いて、その顔が蠱惑的な陰影を刻んだ。夜よりも黒い眸が怪しく輝いて克哉を見詰め、艶然と微笑む。
「御堂…?」
 その刹那、頭の芯が灼き切れた。
 ふらりと克哉はベッドに片膝を載せて、身体を乗り上げた。
 誘惑されるままに、克哉は御堂の燃え立つ肌を押さえつけ、喘ぐ喉に噛みついた。
 着せていたパジャマを乱暴に剥ぎ、本能に衝き動かされるままに御堂の身体を拓く。
 猛る自らの剛直を無理矢理ねじ込むようにして、激しく穿つ。
 それは苦しいはずなのに、御堂の顔は恍惚と浮かされる。
 弱り切った身体で、克哉を強請るように身体を摺り寄せ、痩せた四肢を抱きつけてくる。
――何故だ?どうしてこうなった?どこで間違った?
 こんなことをすれば、御堂の身体に更に負担をかけることは分かっているのに。
 下手したら、このまま命が尽きるかもしれない。
 それでも、克哉に絡みつく肉襞から逃れられない。
 克哉に嬲られることを待ち望んでいたように、御堂の性器は勃ち上がり、滴を零しだす。
 御堂は完全に狂ってしまったのだろうか。克哉は呻いて首を振った。
――違う。狂っているのは俺だ。
 御堂から全てを奪って、狭い部屋に半年も閉じ込めて。その身体と心を快楽に落とし込んで。こんなことは狂気の沙汰だ。
 狂った自分が御堂を狂わせた。そして、今、自分が御堂に狂わされている。
 気がつけば、二人して煉獄の炎に取り囲まれているではないか。
 既に克哉の美しい箱庭はここにはない。灼熱の炎が全てを灰燼へと化していく。その炎に炙られながら克哉は御堂を犯し続ける。
 御堂を組み伏せるのは克哉でありながら、克哉の魂は御堂の従僕に成り果てている。
 その体の中は火傷するほど熱い。この熱が身体の隅々まで沁みわたり御堂を焼き尽くす。
 昇りつめる欲情に浸食される意識の中で、克哉は朦朧としながら気が付いた。
 御堂は、むしろこうなることを望んでいたのではないだろうか。
 血の気を失った御堂の肌が、高まる熱に赤く染め上げられていく。
 全てを奪い去る欲情の波に導かれながら、御堂にねじ込んだ性器を最奥を目指して突き上げる。
 切なげな喘ぎ声とともに、御堂は喉を反らせ、四肢が細かく痙攣しながら激しく絡みつく。
 御堂の双眸に理知の光は灯っていない。混濁した意識が、全てを凌駕する悦楽を追い求め縋る。
 それは破滅と隣り合わせの危うい楽園だ。その代償は果てしなく重い。

 漆黒の闇の中、極彩色の炎が舞う。目にしたものを虜にし、触れてみよと誘い込む。

 御堂の身体を揺さぶるたびに、抱きしめる腕の内から、肌に食い込む指の間から、次から次に、御堂の命が滲みだしていく。
 その顔を覗き込めば潤んだ眸と視線が繋がる。
 失われゆく全てを愛おしみ、待ち受ける奈落を恋い焦がれるかのように御堂は微笑んだ。
 果てのない極みが続けさまに克哉を襲う。
 共に底なしの快楽の沼に堕ちていく。
「御堂――っ!」
 獣が咆哮するように叫びながら、克哉は達した。
 
 舞い上がる火の粉が爆ぜる。克哉の箱庭は、閃く炎に沈む。

(2)

 身体が小刻みに揺れる。そして低いエンジン音。
 御堂はふっと目を覚ました。足を延ばそうとしたら何か硬いものにぶつかった。窮屈な体勢で寝かされているようだ。
 重い瞼をうっすらと開けば、自分の車の後部座席に寝かされていた。身体にはシャツとスラックスを着せられ、その上に毛布を掛けられている。
 克哉に抱かれて意識を失っている間に着替えさせられて、連れ出されたようだった。
 運転しているのは克哉だ。
 窓の外は暗い。夜の道を車は走っていた。
 どこへと向かうのだろう。
 今が何時なのか、どれ位の時間こうしていたのかも分からない。当の昔に時間の感覚は失われている。
 窓の外を伺うも転がったままの体勢では窓の形に切り取られたいびつな夜空しか見えない。
 起き上がる気力も体力なく、そのまま横たわる。
 首だけわずかに動かしてフロントミラーを密やかに伺うが、克哉の顔は分からなかった。
 かなりの速度で克哉は車を運転している。
 体を揺らす振動に身を任せながら、溢れる咳を堪えてうつらうつらとしていると、車が急ブレーキをかけた。
 その反動で、座席の足元に転がり落ちた。毛布ごと落ちたため、身体を強く打ち付けることはなかったが、起き上がることも身体を動かすことも出来ずに、苦しさに呻く。
 その衝撃が伝わったのだろう。
 克哉が小さな舌打ちとともに、車を路傍に寄せて停車した。
 運転席のドアが開く音がしたあと、後部座席のドアが開かれる。
「大丈夫か?」
 克哉が覗き込む気配がする。四肢をもぞもぞと動かすと、突然、身体が持ち上がった。
 反射的に身体を強張らせる。
「何もしない」
 御堂の緊張を読んでか、克哉が言った。
 後部座席から車の外に一度担ぎ出され、助手席に押し込められる。
 克哉は助手席のシートを目一杯後ろに倒すと、シートベルトを着用させて毛布をかけた。
 何がどうなっているのか、自分は何処へ連れていかれるのか、状況を把握できずに伺うように克哉を見上げると、克哉の視線とぶつかった。
 克哉が小さく微笑む。
「もう少しで着く。待っていろ」
 どこへ連れていかれるというのだろう。
 半年ぶりに部屋の外に連れ出されたにも関わらず、何の感慨も湧かない。それ程、精神も身体も弱り切っていた。
 克哉に抵抗する気概も克哉から逃げ出す気概もない。だとすると、全て克哉に委ねるしかない。答えはもうとっくに出ている。
 このままどこか山奥に捨てられたとしても、それはそれで仕方ないだろう。
 諦念交じりの視線を克哉から外して、顔を伏せて背けた。
 克哉も御堂にそれ以上説明する気もないようで、運転席へと回ると無言でエンジンをかけて車を走らせる。
 フロントガラスを通して見える景色は馴染みがない。一般道を走っているようだが、どこにいるのか、それさえも把握できない。
 眸だけ動かして運転席の克哉を見れば、窓の外に流れる人工の灯りがその整った横顔を浮き立たせては翳らせる。
 低く響く振動に身を任せながら、熱に浮かされた意識は再び沈み込んでいった。


「御堂、御堂」
 身体を揺さぶられて、意識を取り戻す。
 車はいつの間にか停車し、助手席側に回り込んだ克哉が、御堂を車の外に連れ出そうとしていた。
 外は暗闇に閉ざされている。周りに建物は見えず、人気もない。どこか山の中のような薄暗さだ。
 引きずられるように車の外に引っ張り出される。
 肌に触れる外気の冷たさにぶるりと身を震わせた。
 車の中では暖房がしっかりと効いていて、その上で、毛布を掛けられていたのだ。
 毛布を剥がされた御堂は、服を着せられているとはいえ、シャツとスラックスという薄着だ。いくら熱で身体が火照っているとしても、その夜気は御堂には酷な冷たさだ。
 寒さに体を縮めた御堂をみて、克哉は御堂を再び助手席に座らせると、自分が来ていたジャケットを脱いで御堂に着せた。
 その上着に残されていた克哉の温もりと煙草の匂いに、ほんの少し安堵する。
 克哉が御堂を車の外に連れ出そうとしたが、萎えた手足では立ち上がることさえ辛い。足を一歩踏み出そうとして、ぐらりとバランスを欠いた身体を支えられた。
 克哉は、ふう、と息を吐くと、無言で御堂を抱き上げた。
 抱きかかえられながら、揺れる視界の中で克哉を見上げた。
 克哉と暮らす中で、何度もこの様に抱き上げられていたことを思い出す。
 同じ背丈で体格的には変わらなかったはずなのに、今や克哉は御堂を重さを感じないかのように軽々と持ち上げる。それだけ、自分はやせ細っているのだろう。
 御堂の視線を感じたのか、克哉が顔を向ける気配にそっと視線を伏せた。
「着いたぞ」
 そこにあったベンチに身体を降ろされ、座らされる。
 顔を上げて、その光景に目を瞠った。
 目の前に一本の大きな桜が咲いていた。
 気の遠くなるような年月を生きてきたことを感じさせる大木。
 そこから四方に向かって目一杯枝を伸ばし、その枝に数えきれないほどの白い花を咲かしている。
 ライトアップされたその桜は、夜の闇の中に一際存在を際立たせて、この世のものとは思えないほどの輝きを見せる。
 鬼気迫るような美しさに目を奪われる。
 思わず身を乗り出しそうになり、倒れ込みそうになる身体を隣に座った克哉が腕を回して引き寄せた。克哉の体にもたれかかる格好になる。
「あんたが見たいのは桜だろう?」
 そう言う克哉の眼差しは桜に向いてはいなかった。その双眸はひたりと御堂を見詰める。
「ここの桜はこの時期に開花するそうだ」
 克哉は御堂の願いを叶えるために、わざわざ開花している桜を探して御堂を連れてきたのだ。
「これで満足か?」
 克哉の言葉に頷く。
 桜を見たい、と言ったのは本心ではなかった。
 ただ、克哉に訊かれたときに、ふと思いついたから口にしただけだ。自宅の周囲の桜はとっくに散ったことは承知の上だった。
 覚悟はすでに決めていたのだ。その覚悟の前では、克哉が提示した解放も何ら心を動かさなかった。むしろ、傲慢の限りを尽くしながら、自らの足場が揺らぐことさえ想定しなかった克哉を心の内で嗤った。
 克哉の退路を断ち切る愉悦は、貪る快楽と合わさって凄まじい愉悦となった。そのまま溺れ死んでもいいと思ったほどだ。
 だが、今の克哉はどうだろう。その眸は、全てを振り切ったようで、深く、潔い。
 おそらくは克哉も腹を据えたのだ。だから御堂をここに連れてきた。
 克哉も遂に御堂の立つ場所に降り立った。その克哉が抱く決意に触れて、握る拳に力を込めた。
 その時、急に目の前の桜が霞んだ。
 視界が暗くなる。ライトが消えたのかと訝しんだが、そうではなかった。もはや、眸の焦点が合わなくなったのだ。
 傾ぐ体、呼吸を短く継いでも息苦しさが募る。全ての知覚が鈍り、意識が悲鳴を上げる。
 ああ、もう限界がきたんだな、と頭の片隅で冷静に悟る自分がいた。
 そして、克哉もそう判断したのだろう。
 倒れて転げ落ちそうになる御堂を慌てることなく支えて、ベンチの上に横たえた。自らの膝の上にその頭を乗せる。
 布地を通して触れる克哉の膝から、じわりと暖かな熱が伝わる。
「なあ、御堂」
 その頭上から克哉の呟く声が降ってくる。その声音は低く、ゆっくり染み込んでいく。
 それは、御堂に対して話しかけている風でありながら、独り言を呟いているようでもあった。
「この世界に、俺とあんたの二人以外はいらなかった」
 二人だけの小さな箱庭。そこは完璧な世界でもあった。そんな世界が永遠に続くのなら、それでもいいと思った。
「俺は、あんたになれば、あんたを手に入れられると思ったんだ」
 御堂に成り代わることで、御堂の全てを手に入れる。それを信じた克哉の愚かさ。
「あんたは俺の全てだったよ」
 克哉は大きく息を吸い込んだ。そして、吐く息にそっと言葉を添える。
「…多分、俺はあんたのことが好きだったんだろうな」
 多分、と付けるあたりが克哉の本心を吐露しているように思えた。
――ああ、知っている。
 御堂は心の中で応える。この不器用すぎる男の自滅へと向かう強引で一途な愛の形。それは、克哉のそれは愛と言うよりも相手を欲しがり奪うだけのひどく粗削りで原始的な感情だ。
「あんたは、俺を置いていこうとしているんだな」
 そう。克哉はもうすぐ御堂を失って、この世界に一人きりになるのだ。
 御堂はうっすらと微笑んだ。
 それが御堂の克哉への復讐であり、克哉の愛への応えである。
――佐伯、私たちは、相喰む蛇だ。
 相喰む蛇が作る輪(ウロボロス・サークル)は永遠の象徴であるはずがない。
 二匹の蛇は永遠を手に入れることはできないのだ。お互いを喰らい尽したその先は無に帰すだけだ。
 だが、破滅へと向かわせるその業から解き放たれる手段はないのだろうか。
 いや、一つだけある。
 片方の蛇がその身を切り落とせば、輪は途切れる。そうすれば、他方は喰らい喰われる業から解き放たれる。そして、残された蛇は、初めて、外の世界に、前に、顔を向けることができるのだ。
 その深い業の中に御堂を繋ぎ止めているのは克哉であり、その克哉を繋ぎ止めているのは御堂だ。
――もう、終わりにしよう。
「さようなら、御堂」
 克哉がぐっと上体を屈めた。顔が落ちてくる。
 次の刹那には唇を塞がれていた。御堂の身体を炙る体温に対して、克哉の唇はひんやり冷たい。
 これはキスだ、ということに一瞬遅れて気が付いた。
 そう言えば、克哉と唇を重ねたことはなかった。体中のありとあらゆるところを暴かれ、蹂躙されたのに、キスをしたことだけはなかった。
 呼吸を塞がれ、残された命の灯を吸い取られるような激しい口づけ。
 まさしく全て喰らい尽くすかのように貪られる。苦しさに身体が痙攣するのを、強い力で押さえつけられ抱き締められる。
 もしかしたら、ずっとこれを求めていたのかもしれない。
 お互いだけを見ながら、気持ちを交わす術を持たず、ただひたすらに相手を焼け爛れた欲情の中に引きずり込もうとする関係。
 克哉が御堂にキスをしなかったのは、言葉でも行為でも、御堂に自らの気持ちを伝えようとしなかったからだ。
 それもそうだ。克哉は自分の心の在るべき場所を知らず、伝えるべき想いを持たなかった。
 だが、今、克哉は、たどたどしいが偽りのない言葉を用いて、それでも納まりきらずに溢れる感情を唇を重ねることで、自らの想いを余すところなく、御堂に伝えようとしている。
 それならばその全て受け止めるしかない。ぎこちないながらに体の力を抜いて、克哉に身を委ねる。
 視界が暗転し、意識が深い泥沼の底に引きずり込まれていく。
 それでも、心はどこまでも澄んでいた。覚悟と引き換えに得た清々しさだ。
 最期に与えられた美しい桜と克哉との接吻。これ以上のものは望むべくもない。
 別離の哀しみと死の苦しみを受容する。
――さようなら、佐伯克哉。私は君を解放しよう。
 失われる半身に心の中で別れを告げる。
 せめてもの気持ちを伝えようと、笑みを浮かべたがつもりだったが、きっと克哉には伝わらないだろう。
 それが唯一の心残りではあったが、すぐに静寂(しじま)に包まれた。


 闇の回廊を抜ければ、閃く一面の白い花、清冽な一陣の風、唇で重ね合う刹那の熱、儚く。

 此岸(しがん)と彼岸(ひがん)が二人を隔てる。

 永遠を手に入れるのは、御堂だろうか、克哉だろうか。

(2)
(3)

 目の前を光が滑る。次から次に、光の筋は闇の大気に散っては消えていく。
 よく見れば、その光は一枚一枚の白い花びらで、御堂はその仄かな光が煌く闇の中に一人立っていた。
 花びらの軌跡を追う。いつかの夜のように。
 その先にあるのは何だったのだろうか。
 目を凝らすも、目の前に広がるのは、一面の闇ばかり。


 生きるということは絶え間なく音を生み出すことだ。心臓の鼓動、肺を膨らます気流、血管の中を巡る血液。
 となれば、御堂が佇むこの彼岸は無音のはずだった。
 だが、耳を澄ませば、何かが御堂に語り掛けてくる。微かなざわめきだったそれは、次第に大きくはっきりと聞こえてくる。
――なんだ?
 御堂は耳をそばだてた。
 混沌としていた音は次第に形を持ってくる。誰かが、自分の名前を呼んでいる気がした。
 ここは本当に彼岸なのだろうか。
 いや、違う。
 自らの魂の在処を探る。
 ここは何処だろう。
 体を動かそうにも、重く圧し掛かられているようで、指一本さえも動かせない。聴覚だけで、周囲のぼんやりとした気配を探る。
 御堂を取り囲む音は、大きく耳障りなものへと変化していく。
 無機質な電子音が一定のリズムを刻む。暗い。何も見えない。
 重い瞼をうっすらと開いた。
 真っ白な天井が目に飛び込んでくる。眩しさに慣れず、目を瞬かせた。
 次の瞬間、御堂の体が速やかに五感を取り戻していく。御堂を中心に周囲の景色が、鮮やかに広がる。
 寝かされているベッドのすぐ傍で、医療用のモニターが御堂の生命活動に合わせて電子音を刻んでいる。口元に当てられたマスクからはシューと酸素が送り込まれる音が響いていた。
――病院?
 御堂の魂は、重力が支配する騒々しい世界に未だ繋ぎ止められていた。


 意識が戻った御堂は、福島の救急病院に入院していた。
 御堂の友人を名乗る人物が(特徴を訊くに克哉だろう)、救急外来に御堂を運び込んだそうだ。
 御堂は重症の肺炎になっていたそうで、そのまま一か月近い入院を余儀なくされた。
 克哉はしばらく御堂に付き添っていたそうだが、山場は越えた、という医師の説明を受けた直後に姿を消したそうだ。
 身体を起こせるようになった後、克哉が御堂の荷物として置いていったバッグを渡された。中を検めると、取り上げられていた御堂の財布や携帯、身分証の類、着替えなどとともに多額の現金が入っていた。
 御堂をここまで連れてきた御堂の車は、病院の駐車場に乗り捨てられていた。
 その後、克哉は一切姿を現すことはなく、病院から連絡を受けた御堂の両親が駆け付けた。
 退院し、自分のマンションに戻ってみて、ドアを開けて息を呑んだ。
 そこにはかつての自分の部屋がそのままに、克哉がいたという痕跡を一切消して、御堂を迎えた。
 克哉は御堂の視界のどこからも消え失せていた。


 マンションの部屋に入り、監禁されている間、定位置となっていたソファに座る。その感触は以前のままだ。そして、ソファから見上げる窓の外の景色も全く変わらない。
 克哉はどこに行ったのだろう。
 よくよく考えれば、克哉の連絡先なんて一切知らなかった。御堂は克哉をただ待つだけだった。自分から克哉に連絡を取ったことはない。
 携帯を取り出し、記憶にあるMGN本社の代表番号を押す。
 偽名を名乗り、商品開発部第一室の佐伯部長につないでもらう。呼び出し音のメロディーを聞いていると、突如音楽が途切れた。緊張に冷や汗が背中を伝った。携帯を握りしめる手に力が籠る。
「もしもし」
「お電話変わりました。企画開発第一室の…」
 聞こえてきた声は、克哉の声ではなかった。その声にも名前にも憶えがない。張り詰めた声の若さから言って新人だろうか。
「申し訳ございません。ただいま、佐伯は不在でして…」
「そうですか」
 落胆したような安堵したような複雑な感情がせめぎ合う。その微妙な声音の変化を感じ取ったのだろうか。相手が少し慌てたように声を上擦らせた。
「もしや、佐伯と何かお約束されていましたか?」
 それはどこか不自然な対応だ。黙ったままでいると、相手は御堂の沈黙を是と受け取ったようだった。
「大変申し訳ございません。仕事関係のお話でしたら、佐伯の代わりに別の者が担当させていただきます。失礼ですが、お約束の内容をお伺いしても…」
「佐伯部長はどうされたのでしょうか?」
「え…っ」
 相手の言葉を遮って、その違和感の核心を突く。御堂の問いに相手の声が上擦った。もしや、という疑惑が深まり、相手の動揺に付け込んで、強い調子で畳みかける。
「佐伯部長はどうされましたか?」
「あ…、実は、佐伯部長は一か月前から出社しておりません。連絡も取れない状況でして…」
 御堂の勢いに呑まれ、途方に暮れた口調で返事が返ってきた。少しプレッシャーをかけたくらいで電話の応対が乱れるあたり、本当に新人なのだろう。
 克哉はここにはいない。その情報だけで十分だった。焦る相手に短く礼を告げて、御堂は電話を切った。
 一か月前、ちょうど、GW明けだろう。その日から克哉は御堂を置き去りにして、消えたのだ。御堂を取り囲む世界から跡形もなく。
 御堂は部屋を見渡した。
 克哉のいないその部屋は、以前の御堂の部屋と全く変わらないにも関わらず、どこか余所余所しい見知らぬ空間になっていた。


 漆黒の中、数多(あまた)の白い花弁が降り注ぐ。打ち付ける怜悧な夜風、研ぎ澄まされた月光の冴え、清く。
「俺とあんたとを分かつものは何だ?」
 その声の方を向けば、透けるような虹彩が夜よりも暗く翳り御堂を見つめていた。
「俺とあんたが一つになれば、永遠は手に入れられるのだろうか」
 感情の果てにある空虚な声。
――佐伯。お前も永遠を求めていたのか。
 だが、二人で得られる永遠なんて何処にもないんだ。
 その答えを告げるには、あまりにも克哉の眸が哀しすぎた。
 闇の中、永遠を探して彷徨う、二匹の蛇。

 
「残念ながら、行方は分かりませんでした」
 かけられる声に御堂は我に返り、瞼の裏の幻影を振り払った。
 御堂の前に座る興信所の男性スタッフは、調査報告書を御堂に渡しつつ頭を下げた。
「佐伯克哉さんのご家族からも失踪届が出されています。住民票は動かされた形跡はありません」
 興信所の応接ソファに座りながら、渡された書類に目を通す。苦心して調査した内容が記されていたが、どれも克哉の所在地に結びつくものではない。
「失踪直前に、銀行口座から全ての預金が引き出されています。引き出したのは本人であることが家族によるカメラ画像の照会で確認されています」
 克哉の口座から引き出された金額と同額の現金が、御堂に託されたバッグの中に入っていた。
「友人関係にもあたってみましたが、連絡を受けた者はおりません。意図的な失踪と考えられます」
 やはり、GW明けから克哉は失踪していた。御堂のマンションの部屋の中の痕跡を全て消すだけでなく、自分自身の存在もどこかに消し去っていた。
 克哉から解放されて一年近く経過した。
 一度は完全に失われた元の生活は、徐々に戻ってきていた。
 マンションを売り払い、生活環境を一新した。
 どこか虚ろなままの心とは別に、体調は速やかに回復し、再就職先もすんなりと決まった。
 失われた半年間のことを吹っ切るかのように仕事に没頭していたが、ふと気が付くと克哉を思い浮かべている。
 あの半年間、克哉が御堂の全てだったのだ。
 せめて克哉の現況を調べようと、興信所に依頼してみたものの、徒労に終わってしまった。
 失意の表情が伝わったのか、目の前の男性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お役に立てず申し訳ありません。ああ、でも、そう言えば、面白い話を聞きました。参考にはならないと思いますが…」
 と言いつつも、上半身を乗り出すようにして話を継ぐ。
「佐伯さんが所属されていた、MGNの商品企画開発部第一室、佐伯さんの前任の部長も突然連絡が取れなくなったそうです。そして、佐伯さんが部長に就かれて半年で失踪。二人続けて失踪されているんですよ。単なる偶然ですかね」
 その失踪した前任者は目の前にいる。御堂は唇の端だけで笑った。
 そのまま無言で、事務所を後にした。事務所を出たところで近くにあったゴミ箱に、渡された報告書を封筒ごと捨てた。
 やはり、ここも駄目だったか。
 深く嘆息する。
 興信所に依頼するのもこれで何度目だろう。興信所をいくら変えても、もう克哉の行方はつかめないのかもしれない。
 やっと解放されたというのに、何故克哉を探し続けているのだろう。
 一度はあきらめた、御堂孝典としての人生を再び手にすることができたのに。
 自分は、克哉をどう思っているのだろうか。
 自問するも、その答えは見つからない。当初は憎んでいたはずだった。
 だが閉じ込められて二人きりで過ごす中で、憎しみも執着も全てを昇華した何かが克哉との間に生まれていた。
 克哉をすでに他人として考えられなくなっていたのだ。自分の一部であり、全てであった。
 今でも、時折、克哉と最後に見た桜を夢に見る。
 闇の中に浮き立つ桜。
 その美しく儚い光景は、もはや夢幻の境地へと達している。
 夢の中で克哉と交わす会話は現実のものだったかどうかさえ判然としない。
 御堂と克哉、此岸と彼岸が二人を隔てる。
 気が付いたら御堂は一人、此岸に取り残されていたのだ。
 克哉は御堂の中の何か大切なものを持ったまま、失踪してしまった。
 自分はひたすらその答えを探し続けているのだ。その答えは克哉しか分からない。
 克哉が御堂に唯一残したジャケットは、未だに捨てられず御堂のクローゼットに掛けられている。
 それだけが、克哉が確かに存在したことを示している。
 自宅への帰路を力なく歩きながら、街路樹を眺めた。
 この時期にどこに行っても視界に入り込んでくる樹、桜だ。
 蕾がほころびかけて、花弁がちらりと覗いている。この調子だとあと数日で桜は開花するはずだ。
 今年の桜は間近で見ることができるだろう。空を見上げれば、遮るものなく青い空が広がる。御堂は何につながれることもなく、この地に立っている。
 それなのに、何故、こんなにも心は空々しいのだろう。
 不意に、目の前の桜の木に目が縫い付けられた。枝いっぱいについている蕾の一つが開花して、小さい花を咲かしていた。
 桜色を乗せた小さい花。近寄ってよく見てみる。
 瞼の裏に克哉ともに見た桜が蘇る。ハッと息を詰めた。
――いや、違う。
 これは、克哉と見た桜ではない。
 克哉と見た桜はもっと白かった気がする。
 何か重要なことを忘れているのではないだろうか。
 急かされるようにあやふやな記憶をたどる。
 あの時、目が覚めたら、御堂は福島の病院にいた。多分、その近くで見た桜だ。時期は5月のGW。桜の開花時期から大分遅れている。
 福島の内陸部だから開花時期が遅かったのだろうと思っていたが、そもそも桜の品種が違ったのではないだろうか。
 日本という小さな島国を覆いつくしている桜、克哉と見た一本を探し出すのは不可能だと思っていた。
 鼓動が忙しなく高鳴りだす。
 もしかしたら、克哉を見つけ出すことができるかもしれない。

 
 そして、GW。御堂は福島に向かって車を走らせた。以前、入院した病院の近くに宿を取り、あらかじめ目星をつけておいた桜の名所を回る。
 目的の桜はほどなく見つかった。
 山の中、一年前と全く同じ巨木の桜が、白い花を誇らしげに咲かせて、御堂を待っていた。
 幻が現実に引き寄せられ、邂逅する。
 御堂は、心を震わせ、大きく息を吐いた。
――この桜だったのか。
 明るい太陽の光に照らされる桜は、幻想的というよりも威風堂々とした趣だった。その巨木からは荘厳さが伝わってくる。長い年月を生きてきた桜の周りを観光客が取り囲み、感嘆と歓びの声が沸く。
 御堂が探していた桜はここにあった。
 日がな一日その桜を眺めた。
 夜、ライトアップされた桜の周りを人の間を縫って歩く。昼間からずっとこの桜の前で待っているが、待ち人は来ないかもしれない。そう諦念が頭をもたげる。
 点灯時間も終わりが近づき、人足が遠のいていく。ほとんど人影がなくなったころ、桜から離れたベンチに、ぽつりと一人座る、灰色の人影を御堂は見つけた。
 ジーンズにパーカーというラフな格好。
 その男はパーカーのフードを深く被り、前屈みに座り込んでいる。うつむき加減のその顔は、桜を目の前にして桜を見ていない。
 逸る胸を抑え、ゆっくりと歩みを寄せて、声をかけた。
「隣、座っていいか?」
 その気配が微かに動いたが、返事がないため、そのまま隣に座った。
 こちらを振り向こうともしない男。御堂は気にせず口を開いた。
「桜を見ないのか」
 相変わらず無言のままだ。しばらく待っていると、ぼそりと小さな声が聞こえた。
「嫌いなんだ」
「桜が、嫌いなのか?」
 御堂の言葉に小さく頷く。ややあって、再び男は口を開いた。
「…この桜は俺が嫌いな桜と少し違う気がしたんだが、やはり好きになれないな」
「大島桜(オオシマサクラ)だ」
「大島……?」
「この桜は大島桜というそうだ。桜の原種の一つで、染井吉野はこの大島桜と江戸彼岸(エドヒガン)から交配されて作られた。君が嫌いなのは染井吉野(ソメイヨシノ)ではないのか」
 御堂の言葉に返事はなく、その男は御堂に顔を向けるどころか、微動だにしない。御堂の話を聞いているかどうかさえ判然としない。
 それを気に留めず、話し続けた。
「大島桜も江戸彼岸も樹齢1000年を超える長寿の桜だ。だが、それを親に持つ染井吉野は、自らの種子では増えることができず、接ぎ木でしか増やすことはできない。日本にある染井吉野は全て、元は一本の木のクローンだそうだ」
 接ぎ木されて増える染井吉野は、その全てが一本の木のクローンだ。日本を覆いつくす染井吉野は同一の遺伝子を持つ。だからこそ、一斉に咲き、一斉に散るのだ。
「そして、染井吉野は親の樹が持っていた長寿をも失ってしまった。その寿命は60-80年。人間と同じ寿命だ」
 樹では珍しいその短命さ故に、人はこの桜に自らを反映させ、親しみを覚えるようになったのかもしれない。
「人の手によって造られ、美しさを得、愛されるようになった染井吉野。だが、その寿命は短く、種子で代を継ぐこともできない。その存在は生き物としては非常にいびつだ。種としても成り立っていない。人間がいなければ、染井吉野は存在できない。……染井吉野は、永遠を得たと思うか?」
 隣に座る男の横顔をじっと見つめ、ゆっくりと言葉を継いだ。
「君はどう思う、――佐伯?」
 御堂の言葉に、その男、克哉はゆっくりと顔を向けた。フードの陰からメタルフレームの眼鏡をかけた顔が覗く。
 眼鏡のレンズの奥の青みを帯びる虹彩に端正な顔立ち、一年前、日々目にしてきた顔がそこにあった。頬から顎のラインがシャープになっている。痩せたのだろう。
 その顔は覇気を欠き、精彩を失っている。よく見れば、纏う衣服も擦り切れて汚れている。
 身なりと風貌を見れば、この一年、荒んだ生活を送っていたであろうことが見て取れた。
 全てを捨てて、自分という身分さえ捨てた人間がどのように生活していたのであろうか、想像に難くない。
 それこそ、地を這いずって、泥水を啜って生きてきたのであろう。
 その薄い虹彩を闇に溶かしつつ、その真ん中に、御堂の顔を映す。
「染井吉野は、永遠を、手に入れたんだろう」
 掠れた低い声音が胸を打つ。
「人が存在し続ける限り、染井吉野は咲き続ける。人は染井吉野のために、染井吉野は人のために生き続ける。染井吉野は魂を人と分かち合って、人と共に永遠を手に入れたんだ」
「それが君の答えか」
 そして、それが自分への答えでもある。
「私は永遠を手に入れたかった。だが、一人で手に入れることは出来なかった」
 様々な感情が溢れ、もつれ、胸を掻き混ぜる。
「馬鹿だな。あんたは。永遠なんてものはまやかしだ」
「君もそのまやかしの永遠を求めていたんだろう」
 しっかりと向き直り、意を決して、精一杯、声を絞り出す。その声は喉で潰されたように震えた。
「佐伯、君をずっと探していたんだ」
 一年前、御堂は克哉を此岸に置き去りにするつもりだったのだ。だが、結局、置き去りにされたのは自分だった。なぜ、克哉は何も告げず、たった一人で立ち去ったのか。その理由を御堂は知らない。
 御堂の言葉に克哉の瞳孔が僅かに開いたが、すぐに克哉は目を眇めた。
「あんたは俺のせいで死にかけたんぞ。あんな目に遭わされたのに、まだ懲りていないのか」
「だが、私は生きてここにいる。そして、君も。私たちは共にこの此岸にいる。私と君を分かつものは何もない」
「黙れ」
 克哉が声を荒げた。そして、自嘲めいた声音で言い捨てる。
「奈落に堕ちるのは俺一人で良いんだ」
 突然の言葉に御堂は返す言葉を失った。克哉が御堂を置き去りにした理由を突き付けられる。
 ああ、そうか。
 克哉も御堂と同じ決断をしたのだ。自らを切り捨てて、相手を解放する。どこまでも堕ちゆくその業から、御堂を解き放とうとしたのだ。
 胸の奥底から一つの想いが込み上がる。その想いの塊に息が詰まりそうになるが、それを抑えつけて、静かに克哉に語り掛けた。
「もう一度、やり直さないか。私たちの永遠を見つけよう」
 克哉がかぶりを振った。
「同じことが繰り返されるさ」
「そこに君が求める永遠があるのなら、それでもいい」
 相喰む蛇の輪(ウロボロス・サークル)。二匹の蛇が互いを食らいつくしたその後は、全て無に帰すのだろうか。全く何も残らないのだろうか。
 違うのだ。そこには、確かに永遠が残るのだ。相手をその身に取り込みつつ犠牲になった二匹の蛇が共に得た永遠が、見えなくともそこにある。それも一つの永遠の形だ。
 克哉は再びゆっくりと首を振った。御堂を残して立ち上がった。
「そこに、俺の求めるものはなかったんだ。……もう、俺にかまうな。あんたは自分の生きたいように生きろ」
「君は、もうその答えを持っているだろう」
 立ち上がり、去ろうとする克哉の手首を掴んだ。
 破滅へと向かわない永遠があることを、克哉は自ら口にしたではないか。食らい合うのではなく分かち合うことで得られる永遠があることを。
 克哉は振り返り、唇を冷ややかに歪めた。
「憎悪と蔑みならありがたく貰うが、同情は要らない」
「憎悪でも蔑みでも同情でもない」
「ならなんだ?」
 そう問われて言葉を失う。
「分からない」
「分からない?」
 だが、この感情を何と言うのか、御堂も本当は、その輪郭を掴んでいるはずなのだ。
 克哉の手首を掴む手に気持ちを込める。
「…分からないが、多分、君を好きなんだと思う」
「…っ」
 克哉は鋭く息を吸い込んだ。その目が大きく見開かれる。
 これが御堂の精一杯の答えだ。
 全ての欲望と生存本能を超えたところで、相手の存在を肯定し何よりも優先させた御堂と克哉の決意はどこから生まれたのか。
 克哉が出した結論に御堂もたどり着いた。
「もう一度、最初から始めよう」
 真っすぐな眼差しで克哉を射抜いた。御堂を映す克哉の眸が揺らぎ、惑う。
 克哉が何を迷っているのか、痛いほどに伝わってくる。
 二人のすぐ傍には、底をも知れぬ奈落が口を広げて待ち構えている。一度はその淵から這い上がったが、次に堕ちたら這い上がることは難しいだろう。その奥底で待ち受ける昏い悦びだけでなく、互いに抱く深い情を知ってしまったのだから。
 克哉は御堂を巻き込むことを恐れている。克哉は自らの狂気を思い知り、自力でその狂気を打ち払ったのだ。むしろ、今、その狂気を身の裡に潜ませているのは御堂なのかもしれない。御堂は克哉となら奈落に堕ちることさえ厭いはしない。
 それでも、二人で見つけた答えを信じたい。堕ちることなく二人で得られる永遠があるということを。そして、それを二人でなら手に入れられるということを。
 自らの想いを伝えきれないもどかしさを堪えながら、克哉を見詰め続け、決意を促す。
 その時、ふっ、と暗闇が落ちてきた。ライトアップの時間が終了したのだ。道を示す足元の小さな明かりが頼りなく闇を照らした。
「佐伯!」
 克哉の姿がそのまま深い闇の中に溶け込んで消えてしまいそうで、御堂はその名を呼んだ。
 もう置き去りにはされたくない。掴んだ手首を離すまい、と力を籠めると、不意にその手を引っ張られて、身体ごと引き寄せられた。大きく吐く息と共に、克哉の低い声が耳朶を掠める。
「…あんたも俺も、どうしようもない馬鹿だな」
「さえ…っ」
 熱い体温が身体を包み、開きかけた唇を唇で封じられる。克哉が顔を傾けて、唇を嚙み合わせた。硬く強張った筋肉をほぐすように、口唇の輪郭を舌でなぞり、ゆっくりと御堂の中に入れてきた。
「んんっ」
 熱く濡れた舌が、口の中をとろりと濡らしていく。舌先を舐められて、小さく電流が走ったような感触に身を震わせた。
 奥に竦ませようとする舌を絡めとられて、口内に舌を深く沈められる。溢れだした唾液が口の端を滴っていく。
 掴んでいた克哉の手首を離して、克哉の後頭部に回す。被っていたフードを脱がして、髪の中に指を埋めた。そして、抱きしめられる以上の力で克哉の体を引き寄せる。触れ合う布地の下にある体温を感じ取ろうと身体を密着させた。
 交わりが次第に深くなり激しくなる。唾液を掻き混ぜる音が、暗闇の中に大きく響いた。
 言葉では納まりきらない、滾るような感情がキスを通じて伝わってくる。身体の芯が震える。克哉のキスを受け入れた分だけ、自らの気持ちを込めたキスを返す。
 失われた時と距離を埋めるように、執拗に舌を絡めて舐めあう。合わせた唇から生まれる熱は頬から首を伝い、身体の隅々まで熱くする。色めいた吐息が漏れた。
 霞んだ記憶の中にある一度だけの克哉のキスが呼び起こされて、鮮烈な光景とともに胸を覆いつくす。だが、その時と今回は受ける印象が180度異なる。
 前のキスは、自らの裡に噴き出す闇を周りの闇へと溶け込ませるような本能が求めるままに貪るキスだった。克哉と一つになりたいという欲求、そして、自分自身の存在が細胞一つに至るまで消滅するような恐怖が一体となる。まさしく喰われて相手に取り込まれていく悦楽がそこにはあった。
 だが、今回は違う。心を伝えあい、交わし合うたびに、相手の存在が自らの中にしっかりと形作られていく。相手をそのまま受け入れ、愛おしむ。そしてあるがままの自分を相手の中に刻み付ける。別個の存在として認め合うからこそ、分かち合う歓びがそこにある。
 暗い夜に包まれながら、佐伯の形をした闇を抱きしめる。次第にそれははっきりとした輪郭を持ち、確かな存在として腕の裡に納まる。
 心の中が空っぽになるまで、想いを伝えて、相手から受け取った想いで心を満たす。
 どれくらいの間、キスを交わしていたのだろう。名残惜しさを感じつつ、ゆっくりと顔が離した。それでも体温を感じる距離で、唇をほんのわずかに触れ合わせながら克哉が囁いた。自らの気持ちに言葉を添えて。
「魂を分かち合おう」
「…ああ」
 御堂も囁き返した。全ての気持ちをその一言に込めて。
 やっと見つけたのだ。探し求めていたものを。

 乱れた息を整えながら顔を離して克哉を見れば、透き通った月の光が克哉の顔に微かな陰影を刻む。克哉の手がそっと御堂の頬に触れた。克哉もまた御堂の存在を確かめている。その顔が小さく笑う。御堂も笑みを返した。
 鼓動と呼吸が重なる。どちらからともなく再び唇と心を交わらせた。
 
 天には遠く輝く無数の星、舞い落ちる白い花が軌跡を描く。腕(かいな)の内に抱く熱、分かち合う永遠、遥か。

 二人の永遠は、ここにある。

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