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刻印 epilogue

 そこは地の底の王国だった。
 地の底、というのは揶揄で、陽の光が全く差し込まないから地の底のように思えたが、本当のところはどこにあるかは分からないし、誰も興味を抱かなかった。
 なぜなら、その王国はごく身近なところにあるようで、辿り着くまでの時間を感じさせない。薄暗い路地の見慣れぬ扉一枚を開いたら、その先に王国が存在していたということもよくある話だ。
 だからこそ、地上からの客が日々訪れて、その王国で繰り広げられる饗宴に身を浸した。
 地上から訪れる客は、この王国で欲望が赴くままに振る舞い、王国が所有する商品である奴隷たちを好きに弄んだが、対価はちゃんと支払っているのだという。
 王が対価を受け取るわけではなかったので、その対価の詳細を知らなかったが、それは金銭でないことは確かだった。王国を訪れるものは富める者だけでなく貧しい者も多かった。
 共通して言えることは、客はいずれも淀んだ欲を身の内に抱えている者たちだ。
 そして、客たちの相手をする奴隷たちこそ、王国の商品だった。その奴隷たちも地上から連れてこられていたが、どうやって奴隷が仕立て上げられていくのか、客たちはそれを知る由もない。
 その王国は、クラブRと呼ばれていた。


 玉座に傲然と座る王の足元では、日々肉の宴が行われていた。
 片手に鞭を持ちながら、それを冷めた目で見つめる。王の足元に這う奴隷たちは王の歓心を買おうと必死に媚態を演じている。
 王の足に触れようと手を伸ばした奴隷を、鞭を一閃させて払った。甲高い悲鳴が上がるが、その鞭さえも彼らにとっては快楽へと変換される。
 倦んだ気持ちを持て余しながら、王はMr. Rを呼びつけ、侍る奴隷たちを下がらした。
 この奴隷たちにも飽きた。そろそろ新しい奴隷を揃える必要があるかもしれない。
 王国は客たちの欲望を消費するための性奴隷を常に必要としている。
 性奴隷を用意して、客たちに飽くなきショーを提供する、それが王の役割だ。
 この王国の支配者が王であり、王の技量が王国の盛衰を左右する。
 奴隷たちを王の目の前から下がらせて、Mr. Rは王に静かに歩み寄った。Mr. Rは王に対して常にへつらい敬っているが、この男こそ王国の所有者だ。王はクラブRの支配権を委託されたに過ぎない。
「我が王、ご相談が」
「なんだ?」
「奴隷が一人、使い物にならなくなりました。私の方で処分してもよろしいでしょうか」
 勝手にしろ、と言いかけて、ふと疑問を口にした。
「なぜ、それを俺に訊く?」
「奴隷は全て、王の所有物です。私めが勝手に処分することは出来ません」
 その言葉に、王はレンズの奥の目を眇めた
「ほう……。だが、お前は今まで俺に奴隷の処分の許可を求めてきたことはなかっただろう」
 追及する言葉にも動じることなくMr. Rは言葉を継いだ。
「はい。今回、初めて使い物にならない奴隷が出た次第です」
「そうなのか」
「ええ」
 Mr. Rがにっこりと端正な笑みを作る。疑問が解決されて、そのまま思考がそれたが、その使い物にならなくなった奴隷にふと興味が沸いた。
「その奴隷をここに連れて来い」
「承知しました」
 命ずる声にMr.Rは慇懃に礼をしてその場を辞すと、少しして、一人の男の奴隷を連れてきた。首輪につけた鎖を引っ張れば、その男は這った姿勢で壊れかけた玩具のようにぎこちない動作で足を動かす。二本足で歩くことさえ忘れてしまったのだろうか。
 王の前まで連れてこられると、Mr. Rに促されて、その男はよろめきつつも立ち上がった。
 その顔はだらしなく弛緩し、その眸は濁っている。身体には無数の拘束具や鞭、拷問具の痕が生々しく残っていた。
 伏せがちの眸は落ち着きなく床を彷徨う。王に不躾な眼差しを向ける不敬を恐れているのだろう。
 全ての傷が速やかに癒えるクラブRで、これだけの痕がまだ残っているということは、それだけ激しく責められていたのだ。そして、そこまで責められたのは、そうまでしなくては期待する反応が得られなくなったからだ。
 使い物にならなくなった、という意味を奴隷の身体の傷から理解する。
 それにしても、自分はこんな奴隷を所有していただろうか、と訝しんだ。
 その時、胸とペニスにつけられたピアスに目がいった。無残な身体とは対照的な美しい白金の輝きが自らの澱んだ記憶を掻きまわし、一人の男の存在を思い浮かばせた。
「お前……み、どう……御堂か?」
「う……あ、」
「王、既に言葉は忘れております」
 声をかけられて、その奴隷は淫らに媚びるように、王に向けて条件反射で笑みを見せる。
 その笑みは白痴の笑みだ。理性の欠片もない。だが、その顔は確かに記憶にある御堂の面影を残していた。
「来い、御堂」
 呼びかければ、Mr. Rは御堂をつないでいた鎖を首輪から外した。御堂と呼ばれた奴隷は、一歩一歩、よろめきながら王のもとに向かう。
 呼び寄せて膝の上に跨らせると、恍惚とした表情で腰を揺らめかして誘おうとしてくる。
 この表情や仕草一つ一つが、性奴隷として叩き込まれ刻み付けられた刻印なのだ。
 片手を素早く奴隷の顔の前に振り上げた。
「ひ……っ」
 途端に、御堂は殴られる恐怖に身体を強張らせて、怯えた表情を見せる。一方で、御堂のペニスは、嬲られる期待に張り詰めて、勃ち上がる。先端の深く赤い粘膜から白金のリングが輝きを覗かせた。
 嗜虐心を煽る表情と態度、そしてどこまでも淫らな身体。奴隷としてよく躾けられている。
「なんだ、ちゃんと使えるじゃないか」
「おや……。こんな反応を見せるのは、王だけです」
 Mr. Rが、ほう、と感心して見せる。
「さすが、王のことは憶えているものなのですね」
 振り上げた手を御堂の頬に優しく添えた。途端に御堂は、怯えた表情を消してうっとりと目を細めて頬を擦り付けてくる。
「王だけに甘えるのも可愛いではないですか。お傍に置きますか?」
「戯言を」
「失礼いたしました」
 Mr. Rがくすりと小さく笑う。
 それはそうだ。御堂が王に甘えて見せるのは、他の者を拒絶しているからではない。認知機能が衰えて、王以外認識できなくなっただけだ。いわば、性能が劣化したのだ。使い古しの劣ったものを王の傍に置こうなど、悪い冗談だ。
「お任せいただければ私の方でよしなに取り計らいますが」
「どうするんだ? 廃棄するのか」
「いえ、元はきれいなお人形ですから。どうなっても、たとえ死体になっても使いようはあります」
「ふん」
 王は鼻で嗤った。死ぬことも、そして死んでからも、欲望の対象とされるのが性奴隷なのだ。
 自分の処分を相談する二人の傍で、御堂は涎を垂らしながらしどけなく口を開き、王に向けて呆けたような笑みをみせる
「使い物にならないのはこれだけか?」
「はい。こちらは王が即位された時に作られたものです。同時期に作成された他の奴隷と違い、奴隷になるまでに心身の負担がかかりすぎたせいか、あまり長持ちいたしませんでした」
 ぼんやりと思い出してきた。この奴隷は、王となったときに仕込んだ5人の奴隷のうちの一人で、他の奴隷と違って随分と手間がかかったのだ。
 唇の端を吊り上げた。
 今の今まで振り返ってみても、あれ程手のかかった奴隷はいなかった。当時はまだ、自分も未熟だったのだろう。今となっては、奴隷を作ることなんて、単純作業だ。痛めつけて苦痛を与え、快楽という飴を与えれば、どんな人間でもあっけなく堕ちる。
 この男はどうやって堕としたのだろうか。
 ああ、そうだ。
 この男は苦痛を恐れ快楽に溺れながらも、快楽と苦痛だけでは堕ちなかった。死という恐怖を与え、希望という飴を与えたのだ。
 希望という名の飴、その内容を思い出す。
 すっかり忘れていた。見失うところだった。
 徐々に鮮明になってくる記憶に、王は肩を震わせて笑い出した。
「くくく……」
「どういたしました」
「この男は処分しない。奴隷にしたときに仕込んだ仕掛けがあるんだ。見ていろ、見ものだぞ」
「ぁ……」
 御堂の顔に当てていた手で前髪を掴み、顔を上げさせた。
 その焦点が定まらない眸に自らに向けさせる。そのまま顔を近づけさせると、唾液で濡れているその唇に、ためらいなく自らの唇を重ねた。たったそれだけで、御堂の体が小さく痙攣した。イったようだ。
 ゆっくりと唇を離して、はっきりと聞こえるように、その鍵を口にした。
「『御堂孝典、戻ってこい』」
 王の膝に跨ったままびくんと御堂の身体が大きく跳ねる。 がくりと頭が落ちた。
 だらりと弛緩していた四肢に、徐々に力が漲ってくる。どこまでも堕ち切った性奴隷の顔がゆっくりと上がった。王の方をしっかりと向き、表情が引き締まる。その双眸の中心に王を映しとった。
 その眸に理知の光が灯る。
 開きっぱなしだった唇が、意志を持って形を作り、言葉を発した。
「さ、えき…?」
「お帰りなさい、御堂さん」
 王、佐伯克哉は腕の中の御堂孝典に向かって微笑んだ。

   ◇◇◇◇


「御堂部長、こちらの報告書、ご確認お願いします」
 御堂はデスク越しに渡される報告書にざっと目を通して、目の前に立つ部下に付き返した。
「図が見にくい。あと、書式を統一しろ。内容以前の問題だ」
「申し訳ありません! すぐに作り直します」
 部下は慌てて背筋をピンと伸ばして一礼すると、急かされるように執務室を出て行った。
 入れ替わりに秘書が顔を出す。
「御堂部長、キクチ8課の本多さんがお見えです」
「ああ、入れてくれ」
 一言告げると、「失礼しまあす」と間延びしたような大きな声で、大柄な男が顔を出した。
「御堂さん、工場の件ですが、昨日送ったレポート見ていただけました?」
 どうしてこの男はいちいち声が大きいのだろう。
 不快さを込めた視線で一瞥すると、本多はそれを別の意味に解釈した。
「ああ、まだ見てないんでしたら、簡単に内容説明しますね。プロトファイバーの生産ライントラブルで……」
「説明しなくていい。君のレポートは既に目を通した」
 短い間に作成したにもかかわらず、想像していたよりはよく書けていた。だが、それを口にするつもりはない。
 ちぇっ、と本多が小さく舌打ちをする。冷ややかに黒目だけを向ければ、本多は慌てて背筋を正した。
「全く。こんなトラブル一つ防げないとは。君ら8課に何故委託したのか。当時の自分に問いただしたい」
 反論しようと口を開いた本多をきつい視線でひと睨みして黙らせる。文句は言いつつも、キクチ8課は予想以上の働きを見せたことは、評価している。それにしても、実績のない部署に委託するなど、過去の自分は随分と危険な賭けに出たものだ。
 思い返せば、お荷物部署の8課に決めたのは、きっかけがあったのだ。
 突然、アポイントもなく執務室に踏み込んできた本多ともう一人。
 もう一人? 誰だっただろうか。
「そういえば、君のところの課にもう一人いただろう。一緒に売り込みに来た男だ。名前は何と言ったか…」
 本多も思い出したのか、「ああ」と呟いた。
「いました。何て言ったかなあ……影が薄いやつで、少しして辞めちゃったんですよね。そいつがどうかしました?」
「いや、ふと思い出しただけだ」
「そうだ、工場には先に片桐課長が向かっています」
「ああ、行こう」
 脳裏にぼんやりとした男の影が浮かぶが、どうも顔が思い出せない。
 どこか心の奥底で引っかかりを感じたが、思考はすぐに目の前の問題へと逸れていく。
 促されて資料を掴むと、御堂は本多と共に執務室を出た。

    ◇◇◇◇

 高層ビルの狭間の小さな公園。多くの人が行き交う大都会の真ん中で、その公園は植樹された木に覆われて薄暗く、昼間といえども人気がなかった。その緑の陰に二人の男は立っていた。
「王、これでよろしかったでしょうか」
 Mr. Rは隣に立つ男から一歩引いて軽く頭を垂れた。
「彼らからクラブRの記憶を消して、地上に連れ戻し、周りの人間の記憶も操作して、かつての日常を与えました」
「ああ」
 王の命令に従い、王が一番初めに手をかけた人間たちをMr. Rは地上世界に戻した。
 奴隷たちの自我は既に形をとどめていなかった。
 御堂以外の奴隷は、王の記憶にある彼らのかつての自我を、それなりの形に整え移植したのだ。
 彼らは自分が性奴隷だったことを忘れて、地上世界に溶け込んで生活している。
 どういう風の吹き回しで、王がこんなことを命じたのか、Mr. Rは図りかねて王の次の言葉をじっと待った。
 王が動きを止めたままのMr. Rを一瞥した。
「なんだ、労ってほしいのか?」
「まさか。私の時間は全て、王のものでございます」
「ふん」
 王は再び前を向いた。そこには、目の前のビルから二人のスーツ姿の男が連れ立って出てくるところだった。
 一人は本多、もう一人は御堂だ。いずれも、佐伯の支配する国の性奴隷だった男たちだ。
 一人の男、本多が道路の方に走って、タクシーを捕まえた。もう一人の男、御堂を先に乗せようと、大仰な動作で御堂を呼んでいる。
 急かされることもなく落ち着いた動作で、タクシーに向かって御堂が歩いてきた。乗り込む前に辺りを軽く見渡して、御堂達を眺めていたMr. Rと王を視界に収めた。その刹那、視線が交わったが興味なさそうにすぐに視線が外れる。
 二人を乗せたタクシーが走り去っていく。
 タクシーの姿を目で追って王が口を開いた。
「あいつらは、クラブRにいたときと今とどちらが幸せなんだろうな」
「それは、我が王に仕えていたときでしょう。彼らは至上の悦楽の中で過ごしておりました」
 Mr. Rの答えに、くくっと、王が喉を鳴らす。好奇心に衝き動かされて、Mr. Rは疑問を口にした。
「何故、このような行いをされたのでしょう」
「知りたいか?」
「教えていただけるなら、是非とも」
 ちらりとMr. Rに視線を向けて、王は口を開いた。
「彼らの魂には、堕落した肉の楽園が刻まれている。その刻印が常に彼らに誘惑を囁きつづけるだろう」
 その口元が歪み、挑発的な眼差しを遠くに向けた。
「その中でどこまで、この地上世界にしがみついていられるのか、見てみたいのさ。一度、禁断の果実を口にして堕ちた魂が、救われるのかどうか」
 王の中に、もう一人の人格が眠るように、あの奴隷たちの中に、もう一人の淫らな自分が眠っている。
 壊れたものは元に戻らない。
 彼らの魂は砕け散って地の底に堕ちた。御堂の魂も例外ではない。
 それを再び掬い上げることに何の意味があるのだろうか。
 王が言う、彼らの行く先を見届けたいという、本当にそれだけの理由なのだろうか。
 だが、王に生じたほんのわずかな変化をMr. Rは敏感に感じ取っていた。
 あの時まで王は確かに王だった。
 だが、あの性奴隷が自分を取り戻し、そして、王に向かって人の名を呼んだときに王もまた呼び戻されたのだ。人間の時の自分を。
 王は王でありながら佐伯克哉としての自分を取り戻した。
 それでも、いつまであの世界で自分を見失わずにいられるのだろう。
 アンカーは確かに切り離されたのだ。
 だが、王は一度絶たれたアンカーを再び結び直した。しかし、それはもはやアンカーと言えるのだろうか。壊れたもの、そして、失ったものは元に戻らないのだ。
 この王は、Mr. Rが今まで戴いた王の中で、まごうことなく一番傲慢であり、残忍であり、美しい。
 その魂に刻印されている人としての記憶は、この王をどこへと向かわせるのだろう。
 より高みへと導くのか、それとも、決壊への綻びとなるのだろうか。
 一陣の強い風が二人の間を駆け抜けた。頭上の木の枝をざわめかせて、二人の間に束の間の日差しを落とした。
 降りかかった強い陽の光を避けようと王は一歩身体を退いた。
「帰るぞ」
 王は一言宣言すると踵を翻し、颯爽と歩き出した。先ほど目にした男たちへの興味を失ったかのような態度だ。
 この王は気まぐれだ。
 次の瞬間には王は、この奴隷たちのことを忘れて新たな享楽に心を浸すのかもしれない。
 それもまた良いだろう。
 王国は、出来たその時から滅亡に向かってのカウントダウンが始まる。
 いくら千年王国といえども、千年経てば滅びるのだ。
 王が玉座から失墜するその時を思い浮かべて、Mr. Rは心を震わせた。
 それはきっと、心躍らせるようなこの上ない歓喜をもたらすだろう。
 王が王である限りは、王の心の赴くままに、Mr. Rは付き従うだけなのだ。
「佐伯克哉さん、あなたこそ我が王です」
 Mr. Rは密やかな笑みを浮かべて、目の前を歩む王を眺めた。


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