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​聖痕 -stigma-

 MGN社の執務室。壁一面を覆う窓から差し込む日差しも春らしく輝きを増してきている。
 ブラインドを降ろしてデスクで仕事をしていると、ドアが3回ノックされた。
「失礼します」
 返事をすると、扉が開いて部下が顔を覗かした。
「藤田か」
「今日のお花見の件ですが、プログラムを作ってみました。見ていただけますか?」
「懇親会といえども、花見だ。そんな畏まった会にしなくていい」
「ですが、伊勢島デパートとキクチの皆さん来られますし、お偉方から一言お言葉をいただいた方がいいかと」
 藤田からプログラムの進行表と参加者名簿を渡され、目を通す。
「御堂部長には乾杯の挨拶をお願いします。開会の挨拶は伊勢島デパートのお偉いさん、閉会の挨拶はキクチの片桐課長にお願いしようかと」
「ああ、いいんじゃないか」
 今回の花見は、先に行った伊勢島デパートとの合同プロジェクトが大盛況だったこともあり、打ち上げと懇親会を兼ねていた。
 パラパラと名簿をめくりながら、不意にあることを思い出した。小さく息を呑む。
「……藤田、すまない。私は今夜の花見、出席できない」
「はい……?」
「重要な先約があるんだ」
 何故、こんな大切なことを忘れていたのだろう。御堂らしくない失態だ。だが、優先順位は比較にならない。
 藤田が困惑しながら口を開いた。
「乾杯の挨拶はどうしましょう?」
「代理を私が手配する。本当に申し訳ない。私のミスだ」
「みんな残念がると思いますが、仕方ないですもんね」
 いつになく殊勝に頭を下げる御堂に、藤田が慌てた。
「代理が決まり次第、君に連絡を入れる。後、詫び代わりにこれで高級な酒と肉を追加してくれ。手間をかけさせて申し訳ないが」
「あ、はい。承知しました」
 財布からあるだけ一万円札を抜き取って、藤田に渡す。その厚さに藤田が恐縮しながら受け取って執務室を辞した。
 すぐにデスクの電話から内線をかける。自分の信じられないような不手際に内心で舌打ちしながら代理の手配をした。
 幸い、適任者がすぐに見つかり、御堂はほっと胸を撫でおろした。
 今夜の約束は必ず守らなくてはいけない。
 御堂は腕時計にちらりと視線を落とし、約束の時間から社を出る時間を逆算しつつ、積もった仕事をそれまでに片付けようと、猛然とパソコンに向き合った。


 その日の夕方、都内の超高級とランク付けされるホテルにタクシーで乗り付けた。
 ドアマンに笑顔で迎えられて、一歩足を踏み入れると重厚な造りと外資系らしい洗練された室内装飾に出迎えられ、ホテルマンを見れば懇切丁寧なホスピタリティが徹底されていることが一目でわかる。
 御堂はホテルの最上階に位置するフレンチレストランに入り、名前を告げた。黒服のウェイターが恭しく一礼し、御堂を最奥の個室に案内した。
 磨かれた大理石の床を歩きながら、当然のようにここまで来たものの、どこか腑に落ちない心地だった。
――私は、ここで、誰と約束をしていたのだろう。
 どうも、記憶がはっきりとしない。とても大切な約束なのに、いつ、誰と、どういう経緯で約束したのか記憶が覚束ないのだ。
 だが、約束したのは確かだったようで、現に、御堂は約束の場に案内されつつある。
「お約束の方は先にご案内しております」
 ウェイターが軽く礼をして、奥の個室のドアを開けて御堂を通した。
 中に一歩入って、先に座っていた人物と視線が合った。途端に、そうだった、とその人物の名前がするりと口を突いてでる。
「すまない、待たせたな。佐伯」
「いいえ。俺もさっき着いたばかりです。御堂さん」
 すっと通った鼻筋と締まった顎のライン。冷たく整った顔立ちをメタルフレームの眼鏡が引き締める。感情を伺わせない鋭い眼光をレンズで隠す男が、御堂に向かって微笑んだ。御堂もつられて笑みを返した。
――そうだ、私は佐伯と約束をしていたんだ。
 促されるままに佐伯の目の前に着席した。
「久しぶりだな。どうしていた?」
「変わりませんよ。御堂さんは?」
「私も変わらずだ。伊勢島デパートのプロジェクトは一段落ついたが」
「そうですか」
 他愛のない会話を交わすが、どこか、目の前の男は面白そうに御堂を見詰めている。御堂に遠慮する様子もない。
――久しぶり、だったのか?
 そう言いつつも、自分の言葉に自信がない。最後に会ったのはいつだったのだろう。
 記憶を掘り返そうとして、佐伯と視線がぶつかった。逸れかけた思考をこの場に戻す。
「それにしても、そんな格好でよく入れたな」
 佐伯の服装を指摘する。ジャケットは羽織っているものの、ノーネクタイで下に着ているブルーのシャツは襟元をはだけている。明らかにドレスコード違反だ。個室でなければ、入店を断られていただろう。
「スーツを着てくればいいだろう」
「スーツですか。ここ久しく着ていませんね」
「は?」
 さらりと返された佐伯の言葉に訝しむ。彼は、スーツを着ない職業だったのだろうか。仕事関係の知り合いだったように思ったが、違ったのだろうか。
 その時、ノックの音と共に食前酒として、淡いピンクのシャンパンが運ばれてきた。
 軽くグラスを掲げて乾杯をすると前菜が運ばれてくる。
 佐伯がシャンパングラスを置いて、ナイフとフォークを手に取った。
「確か、ワイン、好きだったでしょう。先にソムリエに頼んで選ばせておいた」
「そうか」
 その言葉に少し落胆する。ワインは選ぶ過程も楽しいのだ。ワインリストを見ながら、ソムリエと会話を交わす。自分が選んだワインが料理とのマリアージュを果たしたら、それは心躍る歓びだ。
 御堂のわずかな失望を見抜いたのだろう。佐伯が付け足した。
「気に入らなかったら、別のワインにすればいい」
「いや……」
 このクラスのレストランのソムリエが選んだのなら間違いはないだろう。だが、佐伯は分かっていない。ソムリエと会話を交わしながら共に選ぶという手順を踏むことが重要だということに。
 テーブルに白ワイン用のグラスが用意される。ブドウの房をあしらったソムリエバッジを付けた黒服の男が、アイスペールに冷やされたワインを持ってきた。
 そのラベルに目を瞠る。そして、ソムリエの説明に、やはり、と確信する。
「モンラッシェ、1994年物か……」
 レストランでサーブされるなら、一本30万円以上はするだろう。御堂と言えども、一回の食事に気軽に支払える金額ではない。
 驚く御堂を傍目に、佐伯は気負う様子もなくグラスを傾ける。
「辛口の白か。上手いな」
 最高級の白を飲んでいる割に、てらいもないコメントだ。小さくため息を吐いた。
「『脱帽し、ひざまずいて飲むべし』だ」
「なんだ、それは」
 先ほど御堂が引用した言葉は『三銃士』を書いた文豪デュマがモンラッシェについて評した言葉だ。それを佐伯に説明する。
「あんたは物知りなんだな」
 感心した風に言いながら、佐伯は前菜の鮎のアスピックにナイフを入れた。
 相手を探りつつ会話を紡ぐが、いずれも大して続かずに沈黙が場を支配する。
 どうも気まずいし落ち着かないが、佐伯はそれでもどこか愉しそうだ。
 料理が進み、目の前に赤ワイン用のグラスが用意された。
 白がモンラッシェなら、赤は何を持ってくるのだろう。御堂の期待と不安はすぐに現実のものとなった。
 ソムリエが持ってきたワインを見て、目を瞠った。ペトリュス、最高級のボルドー、しかも今目の前にあるそれは、世紀のワインと呼ばれるグレートビンテージだ。
 佐伯がソムリエに一言告げた。
「テイスティングは彼に。俺はワインに詳しくない」
「かしこまりました」
 御堂の前にテイスティング用のグラスが用意され、ワインが抜栓される。深く芳醇な香りが立ち上った。
 色も香りも申し分ない。一口、口に含めば想像以上の奥深い味わいだ。
「結構だ」
 御堂の言葉にソムリエが一礼し、二人のグラスにワインを注いで部屋を辞した。
 最高級のワインにそれにふさわしい食事。これ以上望むべくもない至高の組み合わせだ。
 だが、心は別の心配に占められていた。開栓されるワインはいずれも、おいそれとは飲めるものではない。
 躊躇いがちにグラスを傾けながら切り出した。
「佐伯、白も赤も、これは張り切りすぎではないか」
「俺があんたを招待したんだ。遠慮するな」
 そうだったのだろうか。そう言われれば、そうだったのかもしれない。
 だが、と御堂は頭を振った。
「そうはいかない。私は、こんな歓待を受けるほど……君と親しくない」
 そもそも、自分と佐伯の関係はどのようなものだったのだろう。
 佐伯は御堂に親しげに話しかけてくるが、御堂が心を許している人間なんて数えるほどしかいない。その中に佐伯なんて男はいなかったはずだ。
「親しくない?」
 堪えきれずに佐伯が笑い出した。
「ああ、確かに、あんたからしたら、俺は親しい存在ではないだろうな」
 何故佐伯が笑い出すのか理解できずに戸惑った表情を浮かべると、佐伯がニヤリと笑いかけた。
「だが、俺はあんたのことをよく知っている。あんたが知らないところまで、隅々と」
 形の良い唇の片側が淫靡に吊り上がった。佐伯の右手の人差し指が御堂の胸を真っすぐと指さす。
 嫌な予感が噴き出して、心の奥底がざわめきだす。
「その左胸についている、ピアスのことも」
「……っ!」
 背筋に氷を差し込まれたような衝撃が走った。
――何故、知っている?
 左胸につけたピアスは誰にも見せたことがない。ワイシャツを着たときも、必ずベストを着用しているので、傍目からは絶対に分からないはずだ。
 顔から血の気が引いていくのを実感しながらも、素知らぬ口調でしらを切る。
「一体何を言っている……」
「そのピアス、俺がつけたものだからな」
「違うっ、これは私が付けたんだ」
 咄嗟に佐伯に言い返したが、それが佐伯の指摘する胸のピアスを肯定してしまったことに気が付いた。
 左胸の乳輪を貫くピアス。自分の胸には白金環が一つ、輝く。シャワーを浴びる度に、シャツを着る度に、ピアスは視覚や触覚を淫らに刺激する。
 何故、こんな装具を自分の身体に付けてしまったのか、と問われると明確な答えはない。ただ、全てにおいて完璧と思われている自分自身に、自分しか知らない背徳的な秘密を作りたかったのだと思う。
 もちろん、こんな危険な秘密、ない方がいいに決まっている。
 だが、ピアスを外そうと思っても、どうしても思い切れなかった。
 このピアスがある限り、自分は周りが思うような高潔な存在ではないことを常に思い知らされる。自分に対する戒めであり、身の内に潜む淫蕩さを目に見える形で知らしめる刻印だ。
 いつでも外すことが出来る、そう思えばこそ外すことが出来なかった。
 目の前の佐伯は平然とした態度を崩さずに、メインディッシュの子羊のローストをナイフとフォークで切っていく。粘性のあるオレンジのソースが、肉の赤い切断面にとろりと滴った。
「ああ、そう思い込んでいるのか。俺が付けたんだよ。あんたの左右の乳首に。あんたが自分で付けたのはペニスの方だ」
 佐伯の薄い唇から信じられないような言葉が紡がれる。ソースに濡れた佐伯の唇がぬらめいて、それが何かの隠喩のようで目が釘付けになった。
 ワインで潤したはずの喉がカラカラに干上がっていく。
「ピアスを付けたのは左胸だけだ」
「残りは外したんだ。よく見てみるといい。あんたの右の乳首とペニスにピアスの痕が残っているぞ」
 そんなはずはない。
 だが、本当にそうだろうか。自分の右の乳首とペニスに痕はないのか、と問われると途端に自信が揺らぐ。今すぐにでも確認して佐伯の言葉を否定しないと、自分の寄りかかる足場が崩れ落ちる不安に押し潰されてしまいそうだ。
 そして、目の前の男。
 眼鏡の奥から自分を見据える眼差しは抗うことのできない強さを持っている。
 脈が乱れだし、不安定な瞬きを繰り返した。
 この男は一体誰だ? 
 私はこの男を本当に知っているのか?
 呻くように言葉を発した。
「佐伯、お前は、誰だ? 誰なんだ…?」
 この男は佐伯克哉だ。
 自分の言葉に自分の頭が答えを返す。だが、『佐伯克哉』とは誰だ?
 佐伯が御堂に向けて完璧な笑みを作った。その顔は天使のように愛らしく、悪魔のような残忍さを見せる。
「俺が誰だか知りたいか? お前は俺をよく知っている」
 この後、佐伯は口にしてはいけない一言を口にする。肌を震わす直感で分かった。
 直ちに耳を塞ぎ、目をきつく閉じて、この男の存在を自分の世界から消し去らなければならない。
 だが、指一本たりとも動かせなかった。佐伯がゆっくりと唇を動かす。
「『俺を思い出せ、御堂孝典』」
 その瞬間、目の前が赤く染まった。脳裏に赤い部屋とその中で起きた出来事が生々しく展開される。
 御堂孝典の身に起きた全てが記憶の表面に引きずり出された。
 手から離れたナイフとフォークが落ちて、甲高い音を立てた。その音を聞きつけて、ウェイターが個室に入ってくる。
 その姿を視界の端に収めながら、身体が傾いで崩れていくのを止められない。
「お客様!」
「あ、ああっ!」
 ウェイターが咄嗟に御堂の体を支えた。その顔色は真っ青で、身体がガクガクと激しく震えだす。
「大丈夫ですか!?」
 ただならぬ状態にウェイターが人を呼ぼうとドアの方に振り返ったときだった。
 佐伯がウェイターとドアの間に立ちはだかった。
「騒がなくていい。ちょっと気分を悪くしただけだ。すぐよくなる」
 落ち着いた声音に、ウェイターは口を開きかけたまま佐伯を見上げた。その眸に射抜かれ、麻痺したように表情を強張らせて、動きを止める。まるで時間が止まったかのように、その場に固まった。
 佐伯がウェイターの脇を通って、御堂に近づくとその耳元で囁いた。
「立って歩けるな、御堂?」
 血の気を失った顔で、問われるままに頷いた。震える脚を意志の力で抑えつけて立ち上がる。テーブルに手をかけて体重を支え、乱れきった鼓動と呼吸を整える。
「連れを部屋で休ませる」
 佐伯がウェイターに声をかける。はっと我に返ったウェイターが、何事もなかったかのように立ち上がって姿勢を正す。
「残ったワインは栓をして後で届けてくれ」
「かしこまりました」
 ウェイターが恭しく一礼して、個室のドアを開けた。佐伯に促されてふらつきながら、個室の外に出た。
 既に自分の身体が自分のものではないようだ。自分の意思は麻痺したように、佐伯の命令に従順に従っている。
 佐伯克哉、この男が誰だったのか、正しく鮮明に思い出していた。
 甘く酸っぱい果実と湿った体液の匂いが混ざった幻臭が鼻腔をくすぐった。
 意識の遠いところから、細い悲鳴が聞こえた。それが記憶の中の声なのか、意識が軋む音なのか分からなかった。


 レストランから同じ建物のエグゼクティブフロアへとエレベーターで移動する。手を掴まれているわけでもなく、逃げようと思えばいくらでも逃げられた。だが、それが出来ずに、黙ったまま佐伯に付き従っていた。
 佐伯がカードキーを使って入った部屋は、エグゼクティブスイートだ。
 何部屋も連なる造りで、焦げ茶の美しい絨毯が敷き詰められている。
 入るなり、入り口近くの壁に身体を押し付けられて、顎を掴まれると唇を合わせられた。
「んんっ、ふ……」
 口内を蹂躙され、舌を絡められる。溢れる唾液を拭うことも出来ずに、唇の端から滴り落ちた。
 佐伯の指が、ジャケットの中に入り込み、ベストの上から左乳首のピアスを押さえつけた。
「ん、ああっ」
 堪えきれずに声を上げたその瞬間、達していた。狂おしい程の甘美な電流が身体を走り、膝が砕け、壁に背を預けながらその場にずるずるとへたり込んだ。
「相変わらず、堪え性がないな」
「くぅっ、あ、ああ」
 佐伯が革靴で床に腰を落とした御堂の股間を踏みつけた。その行為にさえも感じてしまい、靴底の下で再び性器が漲っていく。
「佐、伯」
 焦がれる眼差しを佐伯に向ければ、佐伯の唇が歪んだ。
「服を全部脱げ」
「……っ」
 荒い息を吐きながら、震える指でジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いていく。
 ワイシャツのボタンを外し、佐伯に見えるように胸のピアスを曝け出すと、佐伯は満足げに鼻を鳴らした。
 佐伯は一旦御堂から足をどけて、部屋の中に入るとボストンバッグを持って戻ってきた。
 それは、御堂の部屋のクローゼットの奥にしまいっ放しだったボストンバッグだ。
 何故ここにあるのだろう。疑問が沸いたものの、すぐに思い出した。そうだ、自分が持ってきてフロントに預けたのだ。
 佐伯は、御堂の元にそれを放る。
「ちゃんと持ってきたんだな。それをつけろ」
 それだけ言って、佐伯は部屋の奥へと入っていった。
 ボストンバッグを開けば中に、エナメルの首輪が覗く。黒く美しく輝くその首輪は、性奴隷時代の装いだった。
 服を全部脱いで、首輪を自らの首にはめる。皮膚に少し食い込むくらい強めに。
 他にも拘束具が入っていたが、あとは必要に応じて佐伯が使うだろう。
 首輪だけを付けた姿で部屋に向かえば、ベッドの端に腰をかけた佐伯がちらりと御堂を見て、命じた
「俺に奉仕しろ」
「はい……」
 冷たい眼差しで命令されれば、下腹部の奥がずくりと疼く。
 佐伯の前に跪いて、スラックスのジッパーを降ろして佐伯のモノを取り出す。
 口の中に唾液を溜めて深く咥える。舌を絡めながら粘膜で擦りあげて、口内でたくましく大きく育つ佐伯のペニスを喉の奥まで受け入れる。
 じゅぷじゅぷと音を立てながら、淫らな表情で舐めしゃぶる。全て、奴隷時代に徹底的に教え込まれた技巧だ。
 熱く脈打つペニスから潮気を感じる先走りが溢れ、それを唾液と混ぜ合わせて飲み下すが、開ききった顎の唇の端から飲み込みきれない液体がしとどに滴り落ちる。
「ふ……、う、んぐ」
 10本の指が頭を鷲掴みにして、前後に揺さぶり始めた。喉の粘膜を強く抉られて息苦しさに呻くが、同時に口内を埋め尽くすペニスが自分を貫くことを想像して、下肢の奥がずくりと疼いた。
 身体はしっかりと佐伯に貫かれた時の熱く凝った快感を覚えていた。足の間の性器が淫らに勃ちあがる。佐伯の目には隠しようがないだろう。
「これを挿れて欲しいのか?」
「んんっ……ふ、ぐ」
 佐伯の問いに応えようにも、頭をがっちりと固定され、喉の奥を犯されて、返事することが叶わない。代わりに欲情に濡れる眼差しを佐伯に向けた。佐伯の指が頭から外れて、熱く染まる頬を撫でていく。
「淫乱なのは変わらないな」
 そう言って、佐伯は御堂の口からずるりとペニスを引き抜いた。
 ベッドの上で佐伯に向けて足を大きく開く。期待にひくつく後孔が晒され、羞恥に頭の中が白んでいく。
「あんたは痛い方が好きだったな」
 股間にひんやりとしたジェルが垂らされたかと思うと、佐伯が身体を伸し掛からせてきた。両足を肩に担がれて、後孔に滾った硬い器官が押し当てられる。息を呑んだ瞬間、腰をぐっと押し込まれた。
「……ッ、く…ふ、あ、ああっ!」
 解されていない後孔に異物を捻じ込まれる。激しい痛みに怯えて閉ざそうとする身体を、強引に抉じ開かれていく。
 窮屈さに、佐伯は、小刻みに腰を使いつつ、捩じりこむ動きを加えながら、逃げようとする御堂の身体をがっしりと押さえつけた。
「誰とも寝てなかったのか。よくこんな我慢のきかない身体で耐えられたな」
「さえ……、ふ……、はあっ……、んっ」
 揶揄する言葉に、乱れた呼吸で喘ぐことしか出来ない。
 佐伯の言う通り、誰とも寝ていなかった。
 性欲がなかったわけではない。むしろ逆だ。
 身体の奥底で淫蕩な熱が常に燻っていた。淫らな衝動に襲われる度に、その欲望をどうにか押し殺して、自分で処理してきたのだ。
 何度、行きずりの相手と関係を持とうとしたことか。そうでなくとも、金でセックス相手を買おうとしたことか。それをかろうじて押しとどめていたのは理性と矜持、そして、左胸のピアスだ。
 一度堕ちた被虐と快楽の底なし沼へ、再び溺れることを本能が恐れた。封じられた性奴隷としての記憶がピアスを通じて御堂に訴えかけた。
 今なら胸のピアスの意味が分かる。
 これは、性奴隷だった刻印だ。解放されるときに右胸とペニスのピアスを外された。最後の左胸のピアスは佐伯から下賜されたのだ。
 このピアスはただの白金環ではない。クラブRと佐伯克哉に関する全ての記憶が封じられている。御堂孝典と佐伯克哉を繋ぐ環(リング)、それこそが胸のピアスだ。
 繊細な粘膜を無理やり引き伸ばされ、捏ねられる。怒張したペニスが激しく出し挿れされるたびに腰を跳ねさせた。
 身体を奥まで繋げると、佐伯は御堂の身体を抱き起した。胡坐をかいた佐伯の膝に座らされて、膝裏を抱えられれば、結合部分に自重が全てかかり、どこまでも深く佐伯を受け入れさせられる
「く、ぅ……ッ、深…い、苦しっ」
 下から突き上げながら、佐伯が耳元で意地悪く囁いた。
「誰かあてがってやろうか。あの本城なんてどうだ? あんたを可愛がってくれるんじゃないか」
「あっ、くっ、私の相手は、……私が、決める」
「へえ。じゃあ、あんたは俺と寝たかったのか。あれほど忌み嫌って憎んできた俺を」
 そうだ。佐伯を心の底から嫌い、憎み、そして恐れた。そして、性奴隷になってからは盲目的に崇拝し、服従した。
 今の御堂は佐伯の奴隷ではない。決して佐伯に隷従しているわけではない。薄い涙の膜で覆われる双眸を真っすぐと佐伯に向けた。
「ッ、君は……約束を守った」
「約束?」
「私を戻してくれた」
 だからこそ、今ここに御堂がいる。他に選択肢がなかったとはいえ、佐伯を信じて全てを委ねた。そして、佐伯は御堂に応えた。
「勘違いするな。俺はあんたと約束なんてしていない」
 佐伯の声はどこまでも冷ややかだ。そして皮肉な笑みを浮かべる。
「あんたは本当におめでたい奴だな。その記憶でさえ作られたものだと疑わないのか」
「は……ッ、ぅ…、くぅっ!」
 佐伯は両膝ごと御堂の身体を持ち上げ、手を緩める。引きずり出されたペニスが、落とされた身体に深くに突き刺さって四肢を引き攣らせた。
「あんは一度壊れたんだ。木端微塵に。俺が壊した。今の自分が自分であるという根拠なんかどこにある?」
 嬲る声に唇を噛みしめた。佐伯は更に続けた。
「あんたが戻りたかった自分というのは、これなのか? 首輪をつけて、俺の上に跨って腰を振って善がって見せる。奴隷だったころとどんな違いがあるっていうんだ」
「っ……」
 違うのだ。奴隷だったときは、真っ白な頭で訳も分からずにただ快楽だけを追い求めていた。だが、今は、自らの意志で動いている。
 だが、それは奴隷になったことがない佐伯には分からないだろうし、分かってもらおうとも思わなかった。
 代わりに両腕を佐伯の首に回した。
 これは奴隷時代、拘束されていた四肢ではできなかった行為だ。たとえ拘束されてなくとも、奴隷自ら相手に触れることは許されなかった。
 そのまま強く抱き締めて、佐伯の額にキスを落とした。
 思わぬ御堂の行動に佐伯が目を眇めて、動きを止めた。
 今の御堂は奪われる一方ではなく、与えることも出来る。それを態度で示したのだ。
 顔を放して、佐伯を見下ろした。
「佐伯、君こそ、どうなんだ?」
「何?」
「君は本当に佐伯克哉なのか。君が佐伯克哉だなんて根拠はどこにあるんだ……」
 返す御堂の言葉に、佐伯は軽く腰を揺すって御堂を犯す存在を知らしめた。
「くくく……。それもそうだな。だが、あんたは俺を知っている。俺は誰だ? 答えろ、御堂」
「君は、……佐伯克哉だ」
「それが答えだ、御堂。俺が佐伯克哉であるという」
「それなら……」
 一つ息を大きく吐く。
「君が私を御堂と呼ぶなら、私こそ御堂孝典だろう」
 返す御堂の言葉に、佐伯は目を大きく瞬かせて、次の瞬間、肩を震わせて笑い出した。
「あんたはやはり面白い男だ」
 汗の刷かれた首から腰へ、佐伯の大きな手が御堂の輪郭を辿る。
「あんたは間違いなく、御堂孝典だ。俺が保証しよう」
「く……、っ、あ、あ」
 腰を掴み直されて、強く突き上げられる。その度に結合部から濡れた卑猥な音が立ち、声が喉から押し出された。
 佐伯の爪が左胸のピアスを摘まんだ。ピアスを捩じられて、赤く熟した乳首を甚振られれば、中がぎゅっと締まり佐伯のペニスに絡みつく。
「ひっ、ああっ!」
「これ、自分で外せないというなら、俺が外してやろうか。きれいさっぱり全てを忘れて、自分の人生とやらを歩めばいい」
「やめろっ! ……あっ」
 佐伯の手を上から押さえた。胸のピアスが引っ張られて、皮膚が千切れそうな痛みが生じる。
 一方で、手酷く扱われて、ペニスがどぷりと大量の先走りを吐いた。
「ん、これは……私が君から貰ったものだ。私が、自由にする権利がある」
「それもそうだな」
 くくっと佐伯が喉を鳴らした。
 突き上げが激しさを増す。身体を壊されそうなほど不安定に揺さぶられて、必死に佐伯にしがみつく。
 時が止まるような、絶頂の波に攫われる。自分を失いそうな恐怖に悲鳴を上げながら、欲情の飛沫を放った。
「俺のことを佐伯と呼ぶ人間がいなくなるのも寂しいからな」
 極まった意識と身体が、朦朧と崩れて溶けていった。


 深い眠りに陥る中で、低い言葉が唐突に闇を震わせた。
「御堂、分かっていると思うが、クラブRとのつながりを断ちたいのなら、ピアスを外せ」
 ピアスを付けたままだったから、佐伯が御堂の目の前に現れたのだ。
 このピアスを外せば、クラブRと佐伯に関する全ての記憶とつながりが途切れる。
 そうなれば、日常の狭間に潜む不安を忘れて元の生活に戻れるだろう。
 だが、自分は今までそうしなかった。
 いつまで、忌まわしい出来事を密やかに抱えていられるのだろう。そうまでする理由が自分にあるのだろうか。
 佐伯は自分にどうして欲しいのだろう。ピアスを外して欲しいのだろうか。
 いや、きっと違うのだ。
 佐伯が佐伯であるという記憶をピアスを通じて御堂に託されたのだ。御堂が佐伯に全てを委ねたように。
 他にも同じものを託された相手はいるのかもしれない。
 だが、御堂が佐伯の記憶を捨てたとき、クラブRの王が佐伯克哉であるという事実が消え去るように思えた。その時は佐伯克哉という存在の一切がこの世界から消失するのだろう。
 ベッドのマットに沈む御堂の耳介を熱い吐息が撫でた。
「『俺に関する全てを忘れろ、御堂孝典』」
 再び鍵がかけられて、記憶を封じられる。左胸のピアスが小さく震えたように思えた。
首に少し冷たい指先が触れて、首輪が外される。
「じゃあな」
 わずかに引き上げられた意識が散りゆく寸前、額に温かく柔らかい感触を受けた。
 気配が去って、部屋と心に静寂が満ちた。


 暖かな日差しが差し込むホテルの部屋で、扉をノックする音に起こされた。
 ローブを纏ってドアを開ければ、ホテルのスタッフが朝食を運んできていた。
 部屋の中で朝食の用意を始める。注がれるコーヒーの良い香りが鼻腔に触れ、意識が研ぎ澄まされていく。
「お待たせしました。どうぞお召し上がりください」
「ありがとう」
 礼を言うと、ホテルマンは優美で無駄のない動作で御堂に向かって一礼し、部屋を出ていった。
 作り立てのオムレツは、温められた皿の上に盛られて湯気が立っている。
 御堂は空腹を覚えて、一人分の朝食が用意されたテーブルに着席した。
 高層階のホテルの部屋の窓からは遮るものなく景色が広がり、東京の朝を美しく演出した。
 食事を手早く終えて、きっちりとスーツを纏ってロビーフロアへと下りる。
 チェックアウトのカウンターで、御堂はフロントマンから細長い紙袋を渡された。
「御堂様、こちらを」
「これは?」
「昨夜のワインです」
 手渡されたワインはペトリュスだ。しかも自分の生まれ年のものでグレートビンテージと評される逸品だ。
 こんなものを自分は飲もうとしていたのだろうか。
 いや、そうだった。開栓したものの、飲みきれなくて持って帰ることにしたのだ。
 しかし……。
――私はこれを一人で飲もうとしたのか?
 ペトリュスは言うまでもなく高価なワインだ。何かの記念に大切な人と分かち合う、そんな位置づけのワインではなかったか。
 どこか釈然としない気持ちを抱えながらも、フロントマンからワインを受け取りその場を後にした。
 ドアマンに恭しく頭を下げられ、エントランスの扉をくぐった。
 すぐにタクシーが目の前に停車され、ドアマンが颯爽とした動作で御堂にタクシーを案内した。
 タクシーの後部座席のドアが開かれたときだった。周りの人間が不意にざわめいた。
 その視線が集まるところを見遣る。そのざわめきの原因はすぐに分かった。
 滅多に目にすることがない車が正面玄関につけていた。
「マイバッハだ……。初めて見た」
 後ろでタクシーを待つ客が感心して呟いた。
 曇り一つなく、美しく磨き上げられ鏡面のように輝く黒い車体。一台数千万円するという超高級な車だ。
 中から運転手と思しき黒衣の人間が降りて、後部座席のドアを開ける。
 そこに誰が乗るのか、自然と周囲の眼差しが注がれる。
 その車に向かって歩いてきた人間は、まだ若い男だった。明るい髪色に、開襟のシャツとジャケットを羽織ったラフな格好。
 気取ることなく歩くその姿は、肩をそびやかしているわけでもないのに、凡人とは違う威厳を持った佇まいを感じさせる。
 車に乗り込もうとして、男は顔を上げた。周囲を軽く見渡し、御堂を視界に収めた。
 御堂と視線がまっすぐにぶつかる。自分が不躾な眼差しを向けていることに気付き、慌てて視線を外そうとした寸前、その男は御堂に向かって、意味ありげにほほ笑んだ。
 驚いて目を凝らした時には既に男は車に乗り込んでいた。気のせいだったのだろうか。
 御堂も続いてタクシーに乗り込んだ。
 家の住所を告げれば、タクシーが速やかに発車する。運転手が気のいい調子で御堂に話しかけた。目の前を走るマイバッハを話題にする。
「すごいですね。あの若さで。ベンチャー企業の社長とかですかね」
「……彼は、王なんだ」
「へ?」
「あ、いや、何でもない」
 自分は何を言ったのだろう。訳のわからないことを。そもそも、あの男のことを何も知らないではないか。
 だが、あの男に惹きつけられた。顔を思い出そうとして、既に記憶が曖昧になっていることに気付いた。
 それもそうだ、車に乗り込む一瞬しか目にしなかったのだから。
 それでも、何故か気になった。自然と手が左胸にのびる。そこにつけられているピアスが重く感じ、乳首がずきんと疼いた。
 どうしてだろう。胸が痛い。
 ホテルのエントランスを抜けたタクシーは、少しの間、視界にマイバッハを捉えていたが、すぐに車の海に紛れて見失った。車は血管のように張り巡らされている道をビルの合間を縫って進んでいく。
 朝日が高層ビルをきらきらと輝かせる。町を行き交う多数の人間たち、車の音、喧騒が心地よいざわめきになって街を震わせる。
 ここは、美しい世界だ。
 私はこの世界を愛している。
 不意に目の奥が熱くなった。どうしたというのだろう。涙が溢れそうになり、眦に力を籠めた。



 滑らかに車と車の間を縫いながら黒塗りの車は、東京の道を走っていた。後部座席のスモークガラスの中は暗く、中を窺い知ることは出来ない。
 佐伯は革のシートに深く背中を預けた。計算されつくした高級なクッションが心地よい弾力で佐伯の身体を受け止める。
 窓の外の風景に視線を流すこともなく、つまらなさそうに視線を漂わせていると、運転席から声がかかった。
「地上はどうでしたか」
「随分と派手な車で来たものだな」
「お気に召しませんでしたか?」
「いいや」
 無関心に答えて、佐伯は運転席から視線を外した。
「皆、王の帰りを待ちわびております」
「ふん」
 窓の外を流れる景色が次第に霞んで澱んでくる。そして、空気が次第に重たくなっていく。
 佐伯はジャケットのポケットから小さく光る金属の飾りを出した。地上に出ている間、外していたものだ。
 それを指で摘まむと右耳にぷつりと針を刺して取り付けた。前回開けた穴は既に跡形もなくふさがっている。まっさらな皮膚を貫通させたため、鋭い痛みが走り、小さな血の滴が浮き出た。
 美しく輝く白金環が右耳を飾った。このピアスと対になる片方は、地上にいる御堂の左胸についている。
 別れ際の御堂の姿を思い出してクスリと笑みを浮かべた。あれほど奴隷に堕ちることを抗ったのに、未だに胸のピアスを外していない。あの男も随分と酔狂だ。
 右耳のピアスにそっと触れた。
 このピアスは自らが人間であったことを常に知らしめてくれる。佐伯克哉という名前の一人の人間であったことを。
 これは、自らに忘れぬよう刻み付けた、人間の記憶(スティグマ)。

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