top of page
御堂月AM9時半
御堂:月曜日AM9時半

 Acquire Association社の月曜の朝の恒例のミーティング、隣でGPS技術に関する特許について話をする克哉を見上げた。

 JTC社の特許の新規性について、メンバーにかみ砕いて分かりやすく説明している。この特許の全体像だけでなく、業界の現状を詳細に把握してなければ難しい芸当だ。

 飲料や医薬品をメインに手掛けてきた御堂にとって、克哉が説明する電気技術系の特許については全く未知の分野だ。

 だが、それは克哉も同様のはずだ。ここ最近、克哉が分厚い専門書をいくつか抱えて、暇さえあれば読み込んでいたのは、これだったのかと思い当った。

 ハンドアウトの記載をもう一度確認する。

 経営改善計画の期待される数値も、過大な期待ではなく現実的で妥当なものだ。内容も無駄がなく隅々までカバーされており、完璧と言ってよいほど丁寧な仕事だ。

 藤田だけでは、まだこうはいかないだろう。

 藤田が主体となって担当する案件とはいえ、克哉が心を配っているのが手に取るようにわかる。

 克哉は全てにおいて貪欲な男だ。

 AA社の業務も、既存の得意分野の業務をこなしているだけでも、順調に業績は伸びている。それでも、あえて精通していない分野に手を伸ばすのは克哉の野心の現れだ。

 克哉は自分で得手不得手を作ろうとしない。これから伸びる分野かどうかを冷静に分析し、必要とあれば自分たちが慣れ親しんできた分野をあっさりと切り捨て、新しい分野の開拓を即断するだろう。

 克哉はこの会社の遠い未来まで見通して、事業を拡大しているのだ。この分野のコンサルテーションが上手くいけば、AA社の大きな飛躍につながることは間違いない。

 今回、JTC社が依頼してきた経営コンサルテーションのポイントは、新規事業参入のための資金の獲得だった。5千万円近い金額を克哉たちは特許の実用化で賄おうとしている。

 だが、そう上手くいくものだろうか。

 懐疑的に発言した。

「提携先の当ては?」

 

 藤田が企業名をいくつか挙げた。どれも日本を代表する大手で、研究開発に意欲的な企業だ。

 だが、どれだけこの特許に興味を示してくれるかは、未知数だ。少し考えて、別の可能性に思い当たる。

 

「企業だけでなくアカデミアなどの研究機関との提携も考えてみたらどうだ? 最近、国は産学連携を推し進めている。上手くいけば研究費がおりるかもしれない。母校の工学部に在籍している同期に興味を持ちそうな研究室がないか聞いてみよう」

「確かにそれは悪くないな」

 東慶大の同期の中には、工学部の研究室に入った者もいる。しばらく連絡を取っていなかったが、力になってくれるかもしれない。頭の中で連絡が取れそうな知り合いをリストアップする。

 克哉が同意する発言をしながら、御堂にちらりと視線を送った。交差した一瞬の眼差しで克哉が御堂に笑いかける。

 社員全員が集まるこのミーティングで何をするのだ、この男は。

 悪戯っぽく親愛のシグナルを送る克哉から慌てて視線を逸らした。それが逆に不自然な仕草となって、克哉に喉で低く笑われる。それでも、素知らぬ態度を貫く。

「御堂さん、是非お願いします!」

 藤田の元気な声で、ミーティングは幕を閉じた。

 こうして、AA社の一週間が始まった。

 ミーティング後、御堂は東慶大学の工学部の知り合いに早速連絡を取った。

 特許の内容をかいつまんで話すと、関連する分野で興味を持ちそうな研究室を紹介してくれるという。電話を切って数分後にはその研究室の名前と連絡先がメールで送られてきた。そのメールを藤田に転送する。

 AA社が手掛ける新しい分野のコンサルトだ。是非とも成功させたい。

 この案件に藤田がどれだけ張り切って取り組んでいるか、そしてサポートする克哉が陰で必死に勉強し心砕いているのか間近で見ているので分かっている。

 AA社はこれから更なる発展を遂げていくだろう。

 克哉は世界を手に入れてみせる、と大言壮語を吐くが、そんなことを堂々と言い切る者はそういない。そしてまた、それを実現させるだけの強固な意志と実行力を持つ者など滅多にいない。

 だが、克哉はその希有な人間なのだ。

 克哉の野心の一端を担い、AA社の成長を間近で目にすることを考えると、あまり感情を動かすことがない御堂でさえ、心が沸き立つ。

 自分が出来ることは何でもしてやりたい。

 御堂は外回りに出た克哉と藤田の吉報を期待しつつ、フロアに残っている社員に一言声をかけてAA社を後にした。

「いつもの処方でいいのか」

「ああ。すまない」

 診察室で白衣を羽織った四柳は、柔らかい笑みを御堂に向けた。

 AA社を出た御堂は、四栁の病院へと来ていた。四栁には事前に連絡を取っており、昼休みに特別に診察をしてもらっている。

「それにしても、久々だな。しばらくは安定していたんだろう?」

「最近、忙しかったから、体調を崩したのかもしれない」

「そうか。処方だけなら僕でも出来るけど、安定しないなら専門のところに行けよ」

 ここでいう専門医は精神科のことだ。

 精神科への通院は出来れば避けたい。精神科に受診していることが克哉に見つかったら言い訳が聞かない。だから四栁に頼み込んで、抗不安薬の処方を依頼していたが、四栁は深く訊くこともなく、快く引き受けてくれた。

「分かっている。恩に着る」

 処方箋を受け取り、診察室を出ようとした。その背に四栁が声をかけた。

「そうだ、御堂。今、内河が帰国しているぞ」

 足を止めて振り返った。

 内河は御堂の大学時代の同期で外交官をしている。ワインバーで集まっていたメンバーの一人だった。

 確か、一年前からアメリカに出向していたと聞いていた。

「内河? アメリカから?」

「ああ。つい先日連絡があった。お前のことを訊かれたよ」

「私の?」

「MGNを辞めたと言ったら驚いていた。理由を訊かれたけど、本人に聞けと言っておいた。お前に会いたがっていたようだから、連絡が来るかもな」

「そうか。心に留めておく」

 内河とは一年以上連絡を取っていない。互いの近況報告も疎遠になっていた。

 大学時代はよくつるんでいたが、社会人になってからお互い忙しいこともあって、それほど頻繁に連絡を取りあう関係ではない。だが、定期的に行われる大学時代の仲間との会合で顔を見合わせれば、離れていた時間と距離を忘れて打ち解けられる。そんな仲だ。

 内河が自分に何の用だろう。

 小さな疑問が沸いたものの、診察室を出た次の瞬間には内河のことは頭の片隅に追いやられていた。

 それもそうだ。AA社の昼休みを利用して、すぐに四柳の病院に向かったのだ。

 四柳が融通をきかせてくれたので、一時間足らずで診察を終えたが、昼休みが終わる前にAA社に戻らなければいけない。克哉に気付かれず、また、AA社の業務に支障をきたさないようにするためには、今、この時間しかない。

 御堂は病院の正面出口からタクシーを拾うと、急かすようにAA社に向かわせた。

 普段通りの姿で克哉の前に立たなくてはいけない。自分にはそれが出来るはずだ。何事もなかったかのように、振る舞えるはずだ。

 過去に目を瞑っていれば、今まで通りに上手くいく。

 そう自分自身に言い聞かせながら。

御堂:月曜日PM9時

 克哉たちの特許実用化の提携は、出だしは好調のようだった。もしかしたら、御堂が提案した大学との連携は必要としないかもしれない。

 だが、どうもAA社に戻って来た克哉の表情が晴れない。声をかけるのを躊躇わせるような厳しい気配を纏っている。

 お互い忙しいのはいつものことだ。

 だが、朝ミーティングで顔を突き合わせたきり、克哉とは何も言葉を交わしていない。

 今さら沈黙に気まずさを感じるような仲ではないが、どうにも気にかかる。

 会話のとっかかりを探そうにも、見つけられないまま今に至り、御堂は諦めて目の前の仕事を黙々とこなしていた。

 そんな時、唐突に克哉から呼びかけられた。

「御堂さん」

 キーボードを叩いていた手を止めて、デスクからこちらに顔を向ける克哉に意識を向けた。

 社内に残っているのは二人きりだ。着席したまま、返事をした。

「何だ?」

 見返す御堂の眼差しに、微かに克哉のレンズ越しの眸が揺れたように思えた。

「今日、澤村とJTC社で遭遇した。クリスタルトラストがJTC社の買収を計画している」

「クリスタルトラストが……?」

「ああ。JTC社の社長に買収の挨拶に来ていた」

 驚いて、思わず復唱した。

 クリスタルトラスト、そして澤村。決して忘れることのできない名前だ。先だっては月天庵を巡る案件で、AA社と大きな対立を引き起こした。

 御堂にとっては思い返したくもない出来事もあった。だが、動揺を悟られぬよう冷静な口調を保つ。

 心配なのはむしろ克哉の方だ。

 克哉と澤村の因縁は、思っていた以上に根が深く、澤村が絡んだ途端に克哉のいつもの冷静さが消え失せる。時に自暴自棄とも見られる行動さえ取るのだ。

 しかし、先だっての件では、澤村の妨害を跳ねのけ、クリスタルトラストの一件は片付いたはずだった。

 結果として、御堂と克哉の絆もその出来事を経て、深まった。

 だが、だからと言って克哉と澤村を手放しで相対させることは不安が付きまとう。

 克哉はあの場では澤村を見逃したが、心の底からは許していない。御堂の前だからこそ、自分の激情をどうにか抑え込んだのだ。

 克哉からクリスタルトラストの情報を聞いて、頭の中で冷静に分析する。

 本件においてはクリスタルトラストとAA社の利害は相反していないという。

 そこまでは御堂も同意する。しかし、一番気にかかるのは澤村の出現が克哉にどんな影響を及ぼすかだ。それを慎重に計算しなくてはいけない。

 ほんの3カ月前の出来事だ。複雑に絡み合った感情を無視して、克哉と澤村がお互いにビジネスライクな対応ができるのだろうか。

 特許に関する対外的な交渉は克哉に任せて、御堂はJTC社との直接の折衝を受け持った方が良いかもしれない。出来ることなら、なるべく克哉を澤村から遠ざけておきたい。

 思考を目まぐるしく羽ばたかせていると、克哉が一言付け加えた。

 

「だから、あなたはこの件に一切関わらなくていい」

 

 突き放す言葉に驚いて克哉を見返した。

 レンズのガラスを通した克哉の眸が、ほんの少しだけ御堂から外された。そこから克哉の秘めた感情を掬いとった。

 御堂が克哉を気にかけるように、克哉も御堂を気にかけているのだ。

 安心させるように表情を緩める。

 

「君らだけでこの件をこなすのは大変だろう。私のことなら気遣いは無用だ」

 

 しかし、間髪入れずに返ってきたのは、体温を感じさせない硬い言葉だった。

 

「勘違いするな。あんたに伺いを立てているわけじゃない。これは決定事項だ」

 

 息を呑んだ。

 全てを拒絶するかのような、頑なな表情と態度。

 

「どういうことだ?」

「言った通りだ」

 

 本心を探ろうと、じっとその眸を探るが、眼鏡のレンズが克哉の心を覆い隠す。数ミリの透明なガラスが、克哉の心を御堂から遠ざけてしまう。そこに、どうにもならないもどかしさを感じる。

「……佐伯、何を心配している?」

「……」

「理由が分からない限りは、一方的な命令に従うわけにはいかないな」

「……」

 無言のまま、克哉は御堂から眼差しを伏せた。

 克哉が時折見せる頑とした拒絶。

 克哉は御堂には決して見せようとしない何かを抱えている。

 少しずつ克哉との距離を詰めていく中で、克哉が隠そうとしている何かが顔を覗かせることがある。

 それは、きっと克哉にとって抉られるような痛みを伴うものなのだろう。だからこそ、分かち合いたいと思う。どんな苦しみも、共に背負うだけの覚悟はしたつもりだ。

 そして、克哉も御堂と共に歩む決心をしたはずだった。

 だからこそ、全てを拒絶する克哉の態度に、敢えて踏みとどまり、御堂は自身の言葉と態度に渾身の想いを籠めた。

 デスクから立ち上がり、克哉のデスクへと歩み寄った。

「君は、私のことを心配しているのか?」

「……ああ」

 うつろな返事だが、やっと一言返ってきた。

 克哉の凝り固まった心を解きほぐすように、穏やかに言い含める。

「それなら、安心しろ。私はもう二度とあんなヘマは犯さないし、澤村も前回の件で懲りたはずだ」

 だが、期待に反して、克哉は態度を更に硬くした。

 石のように固まって、御堂の存在を自分の意識から消し去ろうとしているかのようだ。

 心の中で深いため息を吐いた。

 これでは、頑是ない幼子と変わらない。

 3カ月前なら、ここで御堂が退いていただろう。

 だが、二人の関係は少しずつ前進しているのだ。ここで、後退はさせたくない。

「私はそんなに信用ならないか? 君のパートナーとしては力不足か?」

 克哉に対して声音を抑えながらも語りかけた。しかし、克哉は態度を変えようとしない。

「そんな態度がいつまでも通用すると思っているのか。何か言え、佐伯!」

 無反応を貫こうとする克哉に、少しずつ口調が強くなる。

 張りつめた緊張に部屋の温度が下がったかのようだ。

 追及の手を緩めない御堂に、呻くように克哉が一言呟いた。

「……違う」

 何がだ、と聞き返そうとした直前、克哉が唐突にデスクから立ち上がった。

 そのまま御堂の脇を通り抜けて、逃げていこうとする。

 咄嗟に呼び止めた。

 

「待て、佐伯! どうして、君は話し合おうとしないんだ。何故、逃げる?」

 

 御堂の鋭い言葉に克哉が足を止めた。

 このまま克哉を行かせてはいけない気がした。

 克哉は一人で重大な問題と向き合おうとしている。3か月前の出来事が脳裏に蘇った。

 あの時の克哉は不安定だった。ともすればそのまま消えてしまいそうな、儚さと脆さを裡に抱えていた。

 このまま手を放してしまえば、克哉は今度こそどこかに消えてしまうかもしれない。

 そんな不安が胸の裡に立ち込める。

 克哉の背中が微かに震える。克哉もまた迷っているのだ。

 

「佐伯」

 

 声を深めて呼びかけると、克哉は足を揃えてゆっくりと振り返った。

 克哉の思い詰めた顔が御堂に向けられた。

 御堂を見据える眸が見たことないほどに昏く、嫌な予感が背筋を走り抜けた。

 克哉の唇が引き攣れた。

「あんたは全然分かっていない。そんな事じゃない」

「何……?」

 地を這うような低い声が周囲の空気を凝らせた。

「俺はあんたを手放したくない。澤村にあんたを渡すなんて我慢できない」

「佐伯……何を言っている? なぜ、私が澤村に?」

「俺はあんたを手放す気はない」

 やる方ない憤りが克哉の声を震わせていた。

「話が見えない。私に分かるように説明してくれないか」

 彼の中でどんな結論が導き出されたのか、話の道筋が見えずに混乱する。

 そんな御堂を追い立てるように克哉が捲し立てた。

「あんたは澤村にされたことを許していないんだろう? 俺があんたにしたことはどうだ? 澤村とは比較にならないほど酷いことをしたはずだ。俺を憎んでいるか?」

「佐伯、一体何を言っているんだ」

 克哉の声に激しい熱がこもる。火傷しそうなほど。

 激情の波に攫われそうになり、御堂は踏みしめる足に力を込めた。

「答えろ、御堂。お前は俺を憎んでいるか?」

 克哉の言葉と視線の鋭さは、容赦なく切り付けてくるかのようだ。

 落ち着いた口調を心がけて、克哉に応える。

「私は、君を憎んでなど、いない」

 これは本心だ。

 自分は克哉を赦した。克哉と再会したときに。

 だが、克哉は御堂の言葉には満足しなかった。

「それは、俺を愛しているからか?」

「……ああ」

「だからだ」

 克哉の顔が苦しげに歪んだ。

 なぜ、そんなに辛そうな顔をするのだろう。困惑の態で克哉を窺う。

「君はさっきから何を言っているんだ。意味が分からない」

「本当に分からないのか」

 惑う御堂に、克哉の声が苦渋に沈んだ。克哉の双眸から光が消えて深い影を落とした。どこまでも昏く、沈んでいくような眸だ。

 得体の知れない何かが眸の奥に潜んでいるようで、先に起こる不吉を予感して全身の皮膚がそそけ立った。

 克哉によって今から紡がれる言葉、それを聞きたい一方で、この先には決して踏み込んではいけない、と遠くで警鐘が打ち鳴らされる。

 だが、肌で感じる直感を無視して、克哉の言葉の先を乞うように視線で促した。

 克哉のレンズが御堂を真ん中に映しとった。克哉が一つ大きな息を吐く。室内の空気が凍てつきを増した。

「あんたは俺に嬲られた記憶を持ち続けて、過去に怯え俺を憎み続けることに耐えられなかった。だから、俺を愛したんだ」

 今、克哉は何と言ったのだろう。

 克哉の言葉を理解する前に、次の激しい言葉が叩きつけられた。

 

「あんたは俺を愛したから、俺を赦したんじゃない。俺を赦したかったから、俺を愛したんだ」

 

 呼吸を忘れる。

 殴られたような衝撃を受けた。

 克哉の深く沈んだ心の澱みを突き付けられて、締め付けられた心臓がせり上がるのを必死に抑え込む。

 血の気が引いていくのを実感した。

「君は、本気でそう思っているのか?」

 自分の動揺を悟られぬよう、一定の語調を保つ。

「それなら聞くが、俺がお前を凌辱しなくても俺のことを愛したか?」

「……そんなことを問うのは無意味だ」

 過去を問うてはいけない。過去を振り返ってはいけない。

 今ここに二人がいる。それで満足してきたのではなかったのだろうか。

 だが、克哉は、二人が遠ざけて目を背けていた聖域に足を踏み込もうとしている。

 耳を塞いで目を閉じたい衝動に駆られた。

 克哉が今踏み込もうとすることは二人の関係を破たんさせる。

 予感が確信をもって、御堂に選択を突き付ける。

 逃げなくてはいけない。

 ここから。

 克哉の目の前から。

 早く、どこか、遠いところに。克哉のいないところに。

 忌々しい何かが、顔を覗かせている。

 そして、気が付いた。

 今、御堂が駆られているこの誘惑は、先ほどまで克哉を駆り立てていた誘惑だ。

 克哉も同様に、御堂から逃れようとしていたのだ。二人の今と未来を守るために。

 今ならまだ間に合うかもしれない。

 そして、何もなかったことにして、明日、また、にこやかに克哉と笑みを交わせばいいのだ。

 だが、目の前の克哉の悲痛に満ちた顔となけなしの御堂の理性が、御堂をこの場に留めた。克哉は自らが負う傷口を御堂に曝け出そうとしているのだ。

 逃げようとする本能を抑えつけて、御堂は克哉の前に立ち続けた。

 克哉の声が微かに揺らいだ。

「あんたが俺から受けた傷は深かった。立ち直るために、元凶である俺を必要とするほどな。俺を愛していると思いこまなければ、耐えられなかったんだろう」

「逆に訊くが、そうだとしたら君はどうなんだ? 単なる思い込みで好きだといわれて、君は満足なのか」

 残酷な真実を御堂に突き刺し、深く切り裂いていく克哉の言葉に条件反射で反駁する。

 だが、こんなことを聞いても焼け石に水だということも分かっていた。克哉の中で結論は出ているのだ。そして、それを御堂に告げる苦しみに苛まされている。

「……俺は、あんたが手に入るならなんだってよかった。……それに、あんたもそれで平穏な日常が得られるなら、お互いにとってメリットがあっただろう」

 克哉の口から絞り出される言葉は血を流しているかのようだ。

 その言葉は克哉の本心とは思えなかった。

 だが、克哉の心の道筋は見えた。それは、お互いにとってとても辛く悲しい結論だ。だからこそ、克哉はそれを御堂から秘して一人で抱え込んでいたのだ。

 様々な感情が渦巻き、それを抑え込もうと心がどこまでも凍えていく。自棄になって言った。

「だからか。だから、私が澤村に気を持つのではないかと心配したわけだな。澤村からの記憶を昇華するために、澤村を好きになるのではないかと」

「ああ」

 克哉の眸がこの上ない悲しみを見せた。

 これ以上言葉を重ねても、お互いの傷を深く抉るだけだ。言葉はすでに心を離れた。

 一刻も早く、闇雲に全てを破壊しつくそうとする嵐から逃れなくてはならない。

 渾身の力で克哉のデスクの天板に拳を叩きつけた。

「ふざけるな!」

 拳の痛みが、一拍置いて頭に伝わってきた。克哉が痛みを堪えるような面持ちでこちらを伺っていた。さも、自分が御堂の拳の痛みを味わっているかのように。

「……帰る」

 気が付けば、鞄を持って執務室を飛び出していた。

 抑えようのない感情が喉元にせり上がる。その感情は、怒りなのか悲しみなのか落胆なのか、色々な感情が境なくせめぎ合い絡み合い、胸の裡で猛り狂っていた。

 出来ることなら、一思いに叫び、この心の中を空っぽにしてしまいたい。

 早足でビルの外に出た。

 初夏の夜は心地よい。だが、街の喧騒も、きらめくネオンも全て意識から排除されていた。

 さわやかな夜風が、ざわめく胸を通り抜けていく。

 外気に心を晒して、少しでも自分を落ち着けようと当てもなく歩いていると、携帯が震え出した。

 克哉からだろうか。

 さすがにこの状態で、克哉からの電話に出る気はない。

 そう思いつつも画面を確認すると、知らない番号からだった。無視しようか、という考えが心をよぎるが、不審に思いつつ通話ボタンを押した。

「もしもし……」

『御堂か? 久しぶりだな。内河だ』

 電話口の向こうから聞こえてくる声は大学時代の旧友だった。驚きと懐かしさに、張りつめていた肩の力を抜いた。

「内河か。どうした、いきなり」

『実は、日本に戻ってきていてね。今、一人か?』

「ああ」

『そうか。ならば、単刀直入に言う。お前に会いたいんだ。今すぐに』

「悪いが、今は無理だ。日を改めてもいいか?」

 今、余計なことを考える心のゆとりはない。

 この電話だって出なければ良かった、と既に猛烈な後悔に駆られている。

 だが、内河は食い下がった。

『御堂、重要な話がある。お前のアクワイヤ・アソシエーション社に関わる話だ。どうしても今、会って話をしたい。お前一人と』

「何だって?」

 携帯を強く握りなおした。

 内河の口調に揶揄した響きはない。むしろ、深刻で切羽詰まった響きを有していた。

 外交官である彼とAA社にどんな関係があるのだろう。

 そもそもAA社の業務内容は国内の会社しか対象としておらず、アメリカ、ましてや海外とは直接関係していない。

「外交官のお前が何の話だ?」

『これ以上は電話では無理だ。直接会いたい』

 先ほどまでの感情の混乱に無理矢理蓋をして、なるべく冷静に内河の言外にある意味を探ろうと話を進める。だが、内河はそれ以上を電話口で話すことを拒否した。

 仕方なく、内河が指定したホテルに出向く。

 内河が指定したホテルは、銀座からほど近い日比谷にある日系のホテルだった。皇居の緑を望む、歴史がある格式高い高級ホテルだ。

 電話で告げられた部屋番号はロイヤルスイートの部屋で、何故こんな部屋を、と訝しみながら、ドアをノックする。

 少しして、ジャケットを脱いだワイシャツとネクタイ姿の内河がドアを開いた。

「御堂、突然呼び出して悪かったな。入ってくれ」

「いきなり、どういうことだ?」

 ドアを大きく開いて、内河は身体を退いた。中に通される。ロイヤルスイートのその部屋は何部屋も連なった造りで、瀟洒な調度品が設えてある応接間に通された。

 視界の端で他の部屋を伺うが、ホテルの部屋には似つかわしくない複数のパソコンや色々な資料が置かれている。そして、凝った内装に似合わない無粋なパイプ椅子も何脚か持ち込まれている。ここを宿泊用の部屋として使っているわけではなさそうだ。

 応接間のソファに促されて腰を掛けた。上質の革が張られたソファは、座り心地も申し分ない。

 内河も向かいに腰をかけた。御堂に向けた表情を綻ばす。

「どうだ、いい部屋だろう」

「外交官は随分と豪勢な生活をしているんだな」

 嫌味を返すと、内河は悪戯っぽい笑みを唇の端に乗せた。

「まさか。これでも公務員の身分だからな」

「それなら、何に使っているんだ、こんな部屋を」

「ウォールームだ。ああ、だが、今は俺とお前しかいないから気にするな」

「ウォールーム? 政府関連のか? 何をやろうとしている?」

 訝しんで聞き返す。

 ウォールーム、特定プロジェクトのためだけに用意された執務空間のことだ。

 内河がおもむろに姿勢を正して、表情を引き締めた。

「御堂、単刀直入に言う。お前のところが手掛けているコンサルティングの件について話をしたい。だが、これから話す内容は極秘事項だ。決して口外するな」

 内河の口調と態度に、不穏な空気を感じた。

 外交官の内河は国家の中枢に近い人物だ。

 そして、この格式あるホテルに誂えたウォールーム。通常ならば永田町や霞が関の官庁内で事足りるはずだ。わざわざ場所を変えて秘密裡に話をするというのはということは、決して表沙汰にしたくない案件ということだ。

 聞くべきではない、と脳内で警告が喚起される。

 御堂は、浅く腰を掛けていたソファから迷わず立ち上がった。

「内河、それならば、退席させてもらう。私が聞く必要があるとは思えない」

「御堂、待て。これは重要な話だ。お前たちにとっても我々にとっても」

 強い口調に、返しかけた身体を止めて内河を見据えた。御堂の冷ややかな眼差しをそのまま受け止めて、内河は一言告げた。

「我が国の国家安全保障に関する話だ」

「国家安全保障だと……? なぜ、そんな話に我が社が関係しているんだ」

 驚きに息を呑んで、目を見開いた。

 国家安全保障、すなわち、他国の脅威から国を守る、国家が果たす使命の最優先事項だ。

 だからこそ、この場にウォールームが設置された。そして、内河がここにいる。その重要性を一瞬で理解する。

「いいから、座れよ。話を聞く気になったか?」

 どうしてここに御堂が呼ばれているのか、そして、内河はどの立場で話をするのか、状況が全く見えない。

 内河に促されて、再びソファに腰を下ろした。

「お前は、私の友人として話をするのか、それとも政府の人間として私と話をするのか?」

 硬い表情のまま返す御堂に、内河は場の空気を和らげようと笑みを浮かべて見せた。

「そのどちらもだ。このプロジェクトを俺が担っている。だが、お前は俺の友人だ。だからこの場に呼んだ。このままだと、多大な不利益がお前の会社に降りかかるかもしれない」

 内河が遠まわしな表現を使う。

「私を脅すのか」

「脅し、というよりは提案だ。御堂、このプロジェクトは内閣官房長官の命で動いている。俺にも出来ることと出来ないことがあるが、お前のためにできうる限り力になりたい」

「内閣直結、政府の肝いりか」

 内河は口元には笑みを刷くが、その眼差しは感情を乗せず、御堂を見据えて離さない。

 国家安全保障、そして、内閣官房長官。内河の口から出る単語は、このプロジェクトが国家の勅命で動いていることが分かる。由々しき事態なのだろう。

 そして、御堂はそれを知ってしまった。

 不安と不快が嵩んで胸に満ちていくが、もうなかったことには出来ない。腹を括る。

「分かった。話を聞こう」

 内河がふうっと息を吐いてから、口を開いた。

「今、AA社はJTC社からコンサルティングを受けているだろう。そして、お前たちはある特許技術を実用化しようとしている。GPS通信に関する技術だ」

「ああ、その通りだ」

 その話は今朝のミーティングで聞いたばかりだ。なぜその情報を内河たちが既に握っているのだろう。全てを把握されていることに寒気を感じる。

 内河が声を低めた。

「この技術だが、軍事転用の可能性が指摘された」

「軍事転用?」

「ああ。現在、戦争で無人航空機による空爆が行われていることは知っているだろう。対イスラム国戦略でも活躍している。その無人航空機の心臓部ともいえるのがGPS通信による位置確認機能だ。JTC社の技術は、元々はGPS通信の精度を高めるための技術だったが、使いようによってはGPSによる位置確認をジャミングし、乗っ取りを行う技術に転用される可能性が指摘されている」

「まさか」

 内河が言葉を継いだ。

「外資系ファンドのクリスタルトラストがJTC社の買収を狙っている話は知っているか?」

「ああ」

 この話もつい先ほど克哉が口にしたばかりの情報だ。

 その時の克哉との間に起きた出来事が生々しく蘇りそうになり、乱れそうになった感情を瞬時に殺す。内河はそんな御堂の様子に気付かずに話を進めた。

 

「クリスタルトラストのJTC社買収はこの特許技術が目的だ」

「特許を?」

「クリスタルトラストは、この特許技術を第3国に売却しようとしている。売却相手もすでに判明している。中国だ」

 

 クリスタルトラストの買収目的がはっきりした。

 彼らは会社自体を目的としているのではなく、会社ごと特許を買い上げて特許を転売する予定なのだ。

 特許の売買を直接持ち掛けると、その特許の重要性に気づかれる恐れがある。軍事転用できる特許技術の収集は、あからさまに行うと国際的な政治問題や投資家たちの非難の対象になりやすい。だから、こっそりと会社ごと買い取るのだ。そして、特許の転売後は会社を解体して、めぼしい資産だけ取り上げて捨てるのだろう。彼ららしいやり口ではある。

 

「この特許技術は扱いようによっては莫大な富を生み出す一方で、大変危険なものだ。世界の軍事勢力図を書き換える恐れがある。だから、日本政府が保護する」

「どうやって?」

「JTC社からその特許技術を買い上げ、安全なところに技術移管をする。そのための非上場企業を現在準備中だ。だが、現在、お前の社がこの技術を表に出そうとし、尚且つクリスタルトラストが特許目的にJTC社ごと買収しようとしている。この状況は看過できない」

 

 奇しくも、AA社とクリスタルトラストが同時にその特許に目を付けてしまったのだ。互いの目的は全く異なっていたが。

 

「それで、私にどうしろと?」

「AA社の特許実用化の交渉を妨害するのに協力してほしい。この特許は、安易に実用化は出来ない」

 

 その言葉に目を瞠った。首を静かに振る。

 

「私はAA社の人間だ。お前の言っていることをすれば、我が社に対する背任行為にあたる」

「分かっている。だが、国益のためだ。協力してくれ」

「国益? 日本国国家は主権在民だろう。一般国民のために国が尽くすのが国家の務めだ。国益と言うなら、一介の会社員などに頼らず、政府が堂々と動けばいいだろう」

 

 国益を盾に勝手な言い分を披露する内河に、腹立ちに任せて御堂は被せるように鋭く言い切った。

 内河は学生時代から気の置けない友人だった。遠慮はしない。そしてまた、内河も御堂の剣幕に怯むことはない。

 

「相変わらずの正論だな、御堂。だが、我が国が軍隊を持っていないことは知っているだろう。軍事技術に関する行動は非常にデリケートにならざるを得ない。政府が表立って動くことは出来ない」

 

 だから、政府が表に出ないように、わざわざホテルにウォールームを設置したのだ。そして、決して他社に買収されることのないよう非上場企業を別に用意して、特許技術をJTC社から買い取り移管し、秘密裏に保護するというまどろっこしい手順が必要なのだ。

 内河は御堂を根気よく説得しようと試みる。

「これは俺が出来る目一杯の譲歩なんだ。この条件を呑まなければ、AA社の動きを封じるために、AA社に行政処分を下すことになる」

「行政処分だと……?」

 

 行政処分とは法令違反行為に対して、行政機関から業務停止命令などの処罰が下されることだ。その意味を理解し、御堂の針が一瞬で振り切れた。

 

「ふざけるな! 国家権力の乱用だろう!」

「残念だが、我々は本気だ。既に準備は出来ている。後はどのタイミングで手札を切るかだ」

 

 怒りに声を荒げる御堂に対して、内河は冷静さを保って返した。

 内河に対する激しい憤りが胸に逆巻く。唇を噛み締め、眉間に深い皺を刻みながら、鋭い眼光でにらみつける。

 しかし、内河は先ほどから”我々”と言っている。これは背後に政府がいることを暗に示している。内河でさえ、このプロジェクトの1メンバーに過ぎず、政府の命に従って動いているだけなのだ。

 やると言ったらやるのだろう。

 内河は御堂を言い含めるように、根気強く説いた。

「御堂、我々が動きを封じるのはAA社だけではない。クリスタルトラストに対してもだ。奴らに関しては、既に金融庁が動いている。程なく別件の買収事案について、証券取引法違反で東京地検特捜部が告訴を行う予定だ」

「何だって?」

「それだけ、この件は重要なんだ。分かるだろう。今やアメリカでさえ、その軍事力は衰退し覚束ない。しかも、大統領が変わって間もない。中国、ロシアの台頭がどれだけ世界情勢にインパクトを与えるか。日本にとってもその影響は甚大だ」

「……告訴出来るのか? クリスタルトラストを」

 

 アメリカのファンドであるクリスタルトラストは、出資者にアメリカの大手金融グループのみならず、日米の政治家や資産家が多く名を連ねる。だからこそ、違法ギリギリの強引な手段を日本で行っていても、安易に取り締まることが出来ない。それは公然の秘密だ。

 内河は大きく頷いた。

 

「ワシントンD.C.には根回し済みだ。奴らは特許を中国に売る気だからな。アメリカとしては当然それを阻止したい。クリスタルトラストの処分は好きにしていいと、日本に一任されている。誰からも口出しはさせない」

 

 ワシントンD.C.、すなわち、アメリカ合衆国政府もこの件に関わっているらしい。これは思っていた以上に大事になっている。日本だけの問題ではないのだろう。

 事態の深刻さを突きつけられて押し黙った御堂に、「だが」と内河は語気を強めた。

 

「クリスタルトラストは我が国の行政処分を受けても、まだ立ち直る余地はある。それだけの資金力とバックがあるからな。一方で、お前のところのAA社はどうだ? 出来て間もないAA社に行政処分が下されたら、ダメージが大きいだろう」

「私たちは法に触れるようなことは何もしていない」

「知っている。クリスタルトラストと違ってAA社はまだ塵も埃もついていない。だが、法律違反をした事実があるかどうかは関係ない。法律違反の“疑い”だけで我々は動くことが出来るんだ」

「……」

 

 静かな口調で内河は淡々と語る。

 

「世論はどうだ? その犯罪の事実があったかどうかは実際のところ気にしていないだろう。行政機関に法を犯していると疑われた、それだけで個人や企業にダメージを与えることが出来る」

 

 その一方的で乱暴な言い分に、御堂は反論する術を持たない。

 内河の言う通りだ。

 その罪に値する事実があったのかどうか、それは裁判で争われる。それまでは皆等しく“疑い”の段階なのだ。

 だか、実際のところ、世間は、疑われたというだけでその犯罪をしでかしたと同義で捉えてしまい、裁判の判決が出るまでに、社会によって裁かれてしまっている。

 しかしそれは、それだけ日本政府が信頼されているという事だ。まさか、国家が権力を振りかざし、無実の者に不当な処分を行うことはあり得ないと国民は信じている。信用の上に国家は成り立っているのだ。

 それなのに、国民の信頼を逆手にとって、内河はAA社の動きを封じようとしている。これは国家レベルの犯罪と言える。そして、それを承知の上で、内河は御堂を脅迫しているのだ。

 とても承服できない。

 怒りがみぞおちで熱く煮え立つが、日本にいながらにして、日本政府を敵に回すことは無謀に等しい。

 そしてまた一方で、内河がこのプロジェクトを担当しなければ、この処分は御堂や克哉に知らされることなく冷徹に下されていたのだ。

 唸るように言った。

「私たちが、AA社が、この案件を撤退するというのでは駄目なのか?」

 JTC社の経営改善案については、コストカットなどで最低限のレベルは達成できている。ここで手を引いても賞賛されはしないが、非難もされないだろう。事実を告げずに克哉を説得するのは難しいだろうが、背任行為に手を染めるよりは断然ましだ。

 内河は沈鬱な面持ちで頭を振った。

「残念ながらもう遅い。お前たちはこの特許を表に引っ張り出してしまった。今更AA社が撤退しても、JTC社は引き続きその特許の実用化を図ろうとするだろう。ならば、このまま実用化の芽をつぶすしかない。……恐るべきはこの特許の可能性を見抜いた、お前のところの佐伯社長の慧眼か。だが、背後の危険性までは気付けなかった」

 内河の口調に苦さが混じる。

「俺たちも、この技術にそのような可能性があるとは、今の今まで見抜けなかった。だからこそ、この様な事態を招いてしまったのは申し訳ない。だが、気付いてしまった以上見逃すわけにはいかないんだ。もう時間がない。乱暴な手段を取らざるを得ない。分かってくれ、御堂」

「……成程。だから私が呼ばれたわけか」

 内河がわざわざ御堂を呼びつけて、手の内を明かしたわけを理解した。

 日本政府としても、何の落ち度もない企業に法律違反の疑いをかけて陥れるような真似をすれば、政府への信用が失墜し、一大スキャンダルになりかねない。

 決して表沙汰にはしないだろうが、扱いようによって十分に現政権を揺るがす内容だ。だからこそ、政府としては、万一露見した場合の逃げ場を用意したいのだ。

「国家の犯罪を、個人の犯罪行為レベルに落としたいというわけだな」

「……」

 内河の沈黙が御堂の言葉を肯定する。

「私個人の背任行為であれば、この件が表に出たとしても私一人が責任を取れば事足りる。政府は無関係を装えるし、AA社は生き残れる」

 コンサルティング業に最も必要なものは信用であり信頼だ。

 AA社が信用され、信頼されるからこそ、企業は自分たちの情報を、隠したいものも含めて全て曝け出してくれるのだ。

 AA社は起業間もない会社だが、今までのコンサルティングの依頼を全て成功させてきた。それは、決して運が良かったわけではなく、克哉を始めとしたAA社のメンバーが、手間を惜しまずに真摯に取り組んできた結果なのだ。

 このひとつひとつの仕事が積み重なって、今の高い評価に繋がっている。もし、行政処分が下されたりすれば、克哉や御堂が今まで積み上げてきたものが一瞬で崩れ去るだろう。

 そんなことは出来ない。

 AA社は克哉と御堂が立ち上げた我が子同然の会社だ。克哉が、AA社を大きくするために、どれほど心血を注いできたか、御堂は間近で見てきたのだ。いくら出来たばかりの会社とはいえ、そうやって大切に育ててきたAA社をみすみす壊させるわけにはいかない。

 ぐっと拳を握りしめる。

 国内の一企業対日本政府、決着はとうについている勝負だ。後はどれだけ犠牲を少なくできるかだ。

 御堂が政府に手を貸せば、AA社の行政処分は免れ、一コンサルティングの失敗というだけに終わる。

 そして、万一、この件が公になったとしても、御堂が勝手に行ったこととすれば、御堂一人の背任行為で片が付く。

 後は、背任を行った社員をきっちりと処分して切れば、AA社の評判は一時的に揺らいでも、すぐに元の形に落ち着くだろう。

 内河が持ちかけてきた話は日本政府側だけの利益に留まらない。御堂がこの取引を承諾すれば、AA社も克哉も無事に生き延びることができるのだ。

 AA社の被害を最小限に食い止めるためには、この件を誰を巻き込むことなく御堂一人の背任行為に落とし込まなければいけない。

 となれば、それを決して克哉に知られてはいけない。克哉の知るところとなれば、御堂一人が罪を被ることを絶対に許さないだろう。克哉自らが責を負うなどと言いかねない。

 克哉はAA社の顔だ。克哉の評価も経歴も、決して傷をつけてはならないのだ。罪を被るのは御堂一人でいい。御堂は既にMGN社の仕事を途中で放り出す形で辞めている。今更、経歴に更なる汚点が付くことを気にすることはない。

 そして何よりも、御堂は背任行為を働くだけの動機が、先ほど都合よく出来てしまったのだ。そこまでは内河は知らないだろうが、皮肉なことに背任行為を働くにはベストなタイミングだと言わざるを得ない。

 内河が口を開いた。

「協力に対する見返りは用意する。今回の件は全て秘密裡に行うが、万が一、お前が不利益を被った場合、損害を補償する。お前が決して背任行為で起訴されることがないよう、検察に手を回す。その後のお前の将来を保証するし、AA社の今後についても便宜を図る」

 随分と大盤振る舞いなことだ、と御堂は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「分かった。協力しよう。ただし、条件がある」

 内河に協力することは、考えなくとも結論は出た。

 優先順位は決まっている。この話がお互いにとって利益があるなら、後は自分たちにとって有利になるように、その利益をどれだけ引き出せるかは交渉次第だ。

 毒を食らうなら皿までだ。日本政府が自分を利用するというのなら、御堂も政府を利用し尽そう。素早く思考を巡らせる。

 内河がにこりと笑った。

「では、取引成立だな」

「ああ」

 秘密を分け合ったもの同士、眼差しを交わして頷き合う。

 感情を封じ、ビジネスに徹して交渉のテーブルに着いた。

 そのまま内河と細かい点を詰めて、互いの納得を得ると御堂は部屋を辞した。

 部屋の扉の所まで内河はついてきた。張り詰めていた緊張を解そうと、軽い口調で声をかけてくる。

「御堂、決して悪いようにはしない。お前がAA社を辞めたとしても、日本政府の名に懸けて、AA社とは比較にならないほどの就職先と身分を用意するよ」

 悪びれない言葉に凍えた眼差しを突き返した。内河が肩をすくめてみせる。

「お前の気持は分かるが、better bend than break(長いものには巻かれよ)だ」

「It's none of your business!(余計なお世話だ!)」

 そう言い捨てて、ホテルを後にした。

御堂月PM9
御堂:火曜日AM0時

 今夜一晩で起きた事態は自分の許容量をとっくに超えている。

 ホテルから出てタクシーに乗る気にもならず、付近を彷徨い歩いた。

 日比谷公園から皇居の緑を視界の端に置きながら、繁華街の賑わいに背を向ける。

 人気のない暗い道を何も考えないようにして歩いて行けば、見覚えのある通りに出ていた。以前在籍していたL&B社のビルが立ち並ぶ通りだ。ホテルはL&B社の近くにあったことを思い出した。

 引き寄せられるように、ある場所に向かった。

 既に夜遅く、オフィス街であるこの通りには人影もない。

 街灯の下に立ちすくみ、オレンジ色の灯りを見上げた。

 忘れもしない。克哉と初めてキスを交わした場所だ。

 あの時、克哉を追いかけていった自分の心の裡を辿る。

 衝き動かされた感情に、訳も分からぬまま御堂は克哉を追った。克哉と向かい合った瞬間、その感情を理解した。自らを焦がす感情は愛だと思ったし、疑いもしなかった。自分の中で、それは確かな存在感を持って実在したのだ。

 だが、数時間前に突き付けられた克哉の言葉を思い出す。

『俺を愛したから赦したんじゃない。赦したかったから俺を愛したんだ』

 そうだったのだろうか。

 一人の人間をあれ程恐れ、憎んだ経験はなかった。そしてこれ程愛したことも。

 確かに、克哉を愛し、克哉に愛されれば、過去は消えてなくなるものだと信じていた。

 克哉と再会し、今の関係を築いてから、過去がフラッシュバックすることもほとんどなくなった。

 克哉から解放されてからの一年間、御堂は克哉を憎む一方で、暗く淀んだ感情に支配される自分自身にも嫌気がさしていた。

 そう、克哉を赦すことは、自分を赦すことだ。

 克哉を恐れ憎む自分自身を、御堂は恐れ憎んでいたのだ。

 一年かけて、御堂は克哉を赦すきっかけを探し求めていたのだろう。

 そんな時、克哉と再会するべくして再会した。克哉との再会の糸を、御堂は自らたぐり寄せた。

 御堂は、街灯がぼんやりと照らすアスファルトに目を落とした。

「赦したかったから愛した、か」

 

 ぼそりと呟く。

 もし、克哉の言う事が正しいとしたら、御堂は克哉を愛することで克哉を赦し、自分を赦した。

 そして、御堂を愛する克哉を愛することで、克哉を通して自分を愛したのだ。

――私が愛しているのは、自分自身だったのか?

 

 目を背けていた真実を突きつけられて、零れそうになる涙を堪えようと顔を上げた。

 克哉を愛することは、深く傷ついた自分を守り癒すための、自身に対する願いであり、祈りだったのだ。

 それでも、克哉は御堂を愛した。

 克哉が自分に向けた愛は確かなものだ。愛された自分が一番よくわかっている。

 それならば、克哉は御堂への愛に、どんな願いと祈りを込めたのだろう。

 街灯の灯りが丸く滲んで、視界がぼやける。

 苦しさを堪えながら、丁寧に自分と克哉の感情をひとつひとつ紐解いていく。

 いまや、猛るように渦巻いていた激情は消え去り、静寂の中に沈み込むような切なさが胸を占めていく。

 御堂が克哉に向ける愛が、克哉自身を通り越した自分自身に向けられているものである、といつから克哉は思っていたのだろう。

 人を愛するのに理由はいらない。

 だが、克哉は探したのだ。自分が御堂に愛される理由を。

 克哉は御堂の心を直接知るすべはない。御堂の言動から推し量るしかない。

 そして、ふたりにとって最も残酷な結論を導き出した

 それを告げる克哉の顔を思い出す。とても苦しそうだったその顔は、自分の言葉で自分を抉ったからだ。

 空を仰ぎ上げれば、頭上を雲ひとつない夜空が覆う。

 東京の夜空では見えないが、この空の向こうに無数の星が確かに存在しているのだ。

 遙か天上の見えない星を捉えようと御堂は目を懲らした。姿が見えない星が瞬き始める。

――だが、佐伯、君は間違っている。

 御堂は静かに首を振った。

 克哉と共に歩む、そう決断した想いにはそれ以上の気持ちが確かにあったはずなのだ。

 しかし、その感情は複雑に絡み合って混ざり合い、どこまでが自分に向けた想いでどこからが克哉に向けた想いだったのかは判別がつかない。

 そもそも、その二つの想いはきれいに切り離せるようなものなのだろうか。自分を愛さぬものはいない。自分を愛するからこそ、他人を愛せるのだ。

 克哉の言う通り、克哉を愛したきっかけは自分に向けた感情から来るものだったのかもしれない。だが、克哉と過ごす中で、自分の胸の裡で育てた感情は、克哉に向けたものなのだ。

 最初が紛いものならば、最後まで紛いものなのだろうか。

 今、この胸に抱える、克哉への愛しさも克哉は偽りだと断じるのだろうか。

 ふたりで育んだ愛も、なかったことにされるのだろうか。

「違う!」

 強く否定する言葉が唇を突き破る。

 克哉こそ、過去に怯えているのだ。

 自分が御堂に愛される資格があるのかどうか、悩み、苦しんでいるのだ。

 克哉に伝えてやりたい。そして、安心させてやりたかった。

 御堂は確かに克哉を愛していることを。それは過去を差し引いても、しっかりと残る心に根付いた気持であることを。

 しかし、その機会はもう二度と訪れないだろう。

 先ほど御堂は克哉への裏切り行為を働くことを決意したのだから。

 この行為の結末を考えると、御堂の克哉に対する気持ちが冷め切ったと思われた方が都合良い。

 だから、これから行うことは、自分自身への証しに過ぎない。

 それでも、自分の克哉の気持ちが確かなものであることを、態度で示してみせる

 例え克哉が御堂を愛さなくても、御堂は克哉を愛する自信があった。

 それは、今、御堂の胸の裡に抱く感情が克哉に向けた欺瞞のない愛だからだ。

 これが自己愛によるものだけなら、克哉が御堂を愛さなくなった時点で、克哉への想いも消え去るだろう。御堂を愛さなくなった克哉に価値はなくなるのだから。

 しかし、自分は克哉のために見返りを求めずに尽くすことが出来る。

 克哉を愛する気持ちは確実に自分の裡に存在しているのだ。

 ならば、信じたい自分自身を。

 御堂は空を見上げた。人工の光を照らす街灯の向こうに、仄かな光を放つ星を見据え、心に誓う。

――私は守る。君と、君とつくったものを。

 御堂は意を決して克哉の部屋に向かった。

 皮肉なものだと思う。

 人を愛するのに理由はいらない。

 しかし、別れを告げるときにはちゃんとした理由が必要だ。

 そして、御堂と克哉が別れる理由は、御堂と克哉が愛し合うに至った理由だった。

 克哉は御堂の宣告を淡々と受け止めていた。自分が引いた引き金だという自覚があるのだろう。

 とはいえ、別れを告げるのは苦しかった。

 リセットしよう、という言葉に、克哉の眉が微かに動いた。

 だが、一文字に結ばれた唇からは引き留める言葉も何も出てこなかった。胸の裡で自分を責めているのだろう。それが分かるだけに、苦しい。

 いくら過去に怯えようとも、御堂は、今の克哉を恨む気持ちは全くないのだ。リセットしたいのは克哉との今の関係ではなく、克哉との過去の方だ。

 それでも、ふたりの過去が今のふたりを作り上げた。だからこそ、過去から逃れられない。

 過去に囚われているのは御堂だけではない。むしろ、克哉の方が今の今まで過去との戦いを強いられてきたのだ。克哉と再会して、御堂は過去の呪縛から逃れた一方で、その責を克哉が負ったのだ。

 克哉は過去を御堂の目から覆い隠しながら、御堂が求める以上の愛を返したのだから。

 こんな繋がりは決して健全なものではない。

 御堂と克哉の関係は複雑に絡み合って、知らぬうちに重苦しく粘ついたものになっていたのではないだろうか。そのぬかるみに克哉は足を取られながら、それでも、前に進もうとしていた。

 今更、そんな事実に気付く自分の鈍さにあきれ果てた。

 自分は克哉に取っての錘(おもり)になっているのなら、御堂が克哉に別れを告げることは、最終的には克哉を自由にするだろう。

 克哉はもう、御堂にも過去にも縛られることはない。自分の好きなように生きていけるのだ。

 一方で、自分が手放そうとしているものに底知れぬ未練が沸いてくる。

 胸に渦巻く、果てのない悔しさと苦しさを意識しないようにして、自分を無理やり納得させる。

「会社の方は今まで通り、やっていきたい。君さえ良ければだが」

 そう告げた言葉に、克哉は安堵したように詰めていた息を解いた。

「ああ。あんたの会社だ」

「君が作った君の会社だ」

 だから大切にしたいのだ。克哉と同様に。

 御堂は一言克哉に訂正を入れると席を立った。克哉が玄関口まで付いてくる。

 克哉を振り返って、表情に虚を突かれた。

 その顔が沈鬱に染まっていて、見ていられずに呟いた。

「佐伯。疑う事をせずに生きていければ、お互いに幸せだったのだろうな」

 克哉の顔がわずかに歪んだ。

 そんな克哉に背を向けて、静かに扉を閉めた。

 もう、御堂と克哉のふたりの関係は今まで通りにはいかない。

 少しずつ、少しずつ、克哉の世界から自分を消していく。ふたりの間で結んできた絆を一本一本断ち切っていくのだ。

 扉が閉まる音を聞きながら、エレベーターホールへと向かう。

 御堂はAA社を辞めない。

 だが、克哉が御堂を辞めさせることになるだろう。背任行為による懲戒解雇で。

――佐伯、お前には酷な思いをさせる。

 これからしばらくの間、克哉は辛い決断を迫られ続けるだろう。その克哉の心の裡を思うと、胸が張り裂けそうになる。

 しかし、これから御堂が行うことは、克哉とAA社の未来に繋がるはずだ。

 そう思いきると、心はどこまでも澄んでいく。これは覚悟と引き換えに得た清々しさだ。

 御堂は、克哉の部屋を出た足でAA社のフロアへと向かった。歩きながら携帯で内河に連絡すると、深夜にもかかわらず、数コールで内河が出た。

「今から我が社のデータをそちらに送る。約束は必ず守れよ」

『ああ、もちろんだ』

 断言される言葉を聞いて、電話を切る。御堂は、AA社の執務室に向かった。

 誰もいないフロアの電気を点け、パソコンを立ち上げる。社外秘のファイルをコピーし、メールで内河宛に送付した。そして、履歴を消去する。

 ここまで10分もかからなかった。背任行為とはこうもあっさりできるものだ、と力が抜けた。

御堂火AM0
御堂:火曜日PM6時

 克哉に別れを告げてから、数時間後にはいつもと変わらぬAA社の朝を迎えた。

 普段通りに挨拶をして、デスクに着席する。

 昨夜のことは何もなかったかのように、二人して振る舞う。このまま、前と同じ日々が繰り返されるかのような錯覚に陥るが、御堂は既に重大な背任行為に手を染めてしまった。なかったことにはできない。

 一心不乱に働くAA社の社員を目にして居心地の悪さを感じるが、御堂がAA社を去るまでは時間の問題だ。全てが終わるまで心を殺して、裏切り行為を決して悟られないように振る舞わなくてはいけない。

 克哉に対してこんな重大な隠し事をするのは初めてだが、克哉は御堂と同じ空間にいることに息苦しさを感じるのか、すぐに外回りに出て行ってしまった。

 そちらの方が、御堂にとっても都合がいい。

 終業時間も間際の時だった。

「御堂さん」

 

 コーヒーを入れようと給湯室に向かったところで、声を潜めた藤田に話しかけられた。

 確か藤田は、日中、克哉と一緒にJTC社に行っていたはずだ。

 

「どうした?」

「実は、今日、JTC社で……」

 

 気まずそうに藤田が視線を伏せた。ぼそぼそと今日、JTC社で何が起きたか、かいつまんで御堂に話し出す。

 

「なんだって?」

 

 藤田が告げた内容に、言葉を失った。

 コーヒーを注いだカップをその場に置いたまま、給湯室を出て、執務室の佐伯のデスクへと一直線に向かった。

 

「御堂さん!」

 

 血相を変えた藤田が呼び止めようとする。それを無視して、デスクに着席している佐伯の前に立った。

 

「佐伯」

 

 硬く呼びかける声に、克哉がレンズ越しに御堂を見上げた。その眸をきつい眼差しで睨みつける。

 

「藤田から聞いた。JTC社でクリスタルトラストとやり合ったそうだな。なぜわざわざ相手を挑発するような真似をするんだ」

 

 ふう、と克哉はつまらなそうにため息を吐いた。

 

「JTC社の社長から頼まれたんですよ。アドバイスが欲しいって」

「それならば、社長にお前の見解を伝えればいいだけの話だろう。部外者の我々が直接クリスタルトラストと対立する道理はない。そもそも、今回、クリスタルトラストと利害関係はない、と言っていたのはお前だろう」

「そうだ。利害関係はない。だから、好きにやれる」

 

 ぞんざいに言ってのける克哉に息を詰めた。

 クリスタルトラストとAA社の無用な争いは避けなければならない。これから、日本政府が水面下で本格的な介入を行うのだ。

 このままだと、克哉と澤村の私的な感情のもつれあいが、事態の混乱に拍車をかけるだろう。

 ぐっと拳を握りしめる。

 克哉を諫めなくてはいけない。

 克哉の市場を見極める鋭い感覚と勘の良さは、圧倒的に抜きんでているのは言うまでもない。

 だが、克哉の最大の弱点は若さだ。絶対的に経験が足りない。経験は判断に慎重さをもたらす。しかし、年若い克哉は自分の実力を過信しすぎる節がある。その上、振れ幅の大きい感情は視野を狭くする。

 物事を冷静に俯瞰する力を失った今の克哉は危険だ。

「君は、私的な感情でクリスタルトラストと、いや、澤村との諍いを引き起こしたというのか」

「……澤村ごときどうにでもなる」

 だが、御堂の懸念をよそに、克哉は事もなげな口ぶりで返した。

 その一言に、御堂は社内に響く声で克哉を怒鳴りつけた。

「お前は何を言っている! 君はわが社の社長なんだ。プロフェッショナルに徹しろ。君の判断がわが社の今後を左右する事くらい分かるだろう! 私情を仕事に挟むな。冷静な判断が出来ないならこの件から降りろ!」

 

 御堂の怒声に、克哉はぴくりと眉をひそめた。

 仕切りで遮られているとはいえ、社内の視線が一気に集中するのを肌で感じ取る。克哉との間に、張りつめた緊張が高まった。

 克哉に対してこんなに感情を荒げたのは、月天庵の一件以来だ。そして、今回も澤村絡みだ。

 このやり取りが克哉に月天庵のことを思い出させて、冷静さをもたらすことを期待したが、克哉はぷいと御堂から顔を背けた。

 無言のまま、足元の鞄を持って立ち上がる。御堂から視線を逸らしたまま、一言呟いた。

「この後、JTC社の社長と会食の予定がある」

「佐伯!」

 御堂の脇を通り抜けようとする克哉を鋭く呼び止めたが、克哉は足を止めることなく、一直線に部屋を出ていった。

 その背中には御堂への拒絶の意思が漲っている。社員の忍ばせた視線が行き交う中、克哉はAA社を出ていった。

 克哉がいなくなったフロア。

 緊迫した空気が、徐々に薄まっていく。

 執務室の入り口に人の気配がして、目を向ければ、藤田が所在なさげに立っていた。

「御堂さん、すみませんでした」

「君は何に対して謝っている?」

「それは……」

「JTC社で佐伯を止めなかったことに対してか?」

「えっと……すみません」

 藤田が言葉を詰まらせて俯いた。

 克哉の暴走を止めなかったことに対して謝っているというよりは、御堂と克哉の不和を引き起こしてしまったことを謝っているのだろう。半ば呆れた口ぶりで言った。

「藤田、君は君の仕事をしているんだ。堂々としていれば良い。佐伯も、君が私に告げたことに対して怒るような奴ではない」

「ですが……」

「佐伯も、切り替えは早い男だ。明日には何事もなかったかのように現れるさ。そんな時化(しけ)た顔をするな」

 御堂はふう、と息を吐いて、藤田に向けた表情を緩めた。

 藤田の眸が言葉を探して彷徨う。

 気まずい雰囲気が漂う社内で、続く静けさを恐れたのか、藤田は唐突に言葉を継いだ。

「でも、佐伯さん、この会社を立ち上げてから随分変わられましたよね」

「変わった?」

「何というか、感情を表に出すようになったというか。MGNのころとは違います。御堂さんも、そう思いませんか」

 藤田に同意を求められて、居心地の悪さに視線をわずかに外した。

「私は……そのころの佐伯を知らないんだ。あいつと再会したのは、昨年の冬だったからな」

「え、あ、そうだったんですか。すみません」

 どうも、藤田は謝ることが癖になりつつあるようだ。苦笑する。

「MGNにいたころの佐伯はどうだったんだ?」

「怒ることはなかったですし、優しかったですよ。でも、何というか、全てから距離を置いて関心を持たないから、優しくみえるような感じでした」

 そこまで言って、藤田は自分の言っている内容に気付いたのか、「俺、酷いこと言っていますね」と慌てて両手で口を押さえた。

「あ、でも、MGN時代、一度だけ怒りましたよ。佐伯さん。すごい迫力でした。さっきの御堂さん並みに……あっ、すみません!」

 度重なる失言に気付いたのか、藤田は慌てて口をつぐんだ。

 だが、御堂の心はそれ以前の言葉に捉えられていた。

「それは、どういう……」

 御堂の知らない、克哉の過去。

 藤田に詳しく問おうとした寸前、御堂の携帯が鳴りだした。表示をみれば内河からだ。

 

「すまない、重要な電話だ」

 

 話を打ち切って、御堂は携帯を隠すように持ちながら、防音室であるミーティングルームの中に籠った。

御堂火PM6
御堂:火曜日PM10時

 内河からの連絡は夕食の誘いだった。ついでに、経過報告も兼ねたいという。

 夜、内河と銀座で合流した。遅い食事を取って、ウォールームがある日比谷のホテルへと連れ立って歩く。

 内河から現況を細かく聞き取る。それは、御堂が協力の条件として提示したことの一つだ。

 なるべく詳しく政府の行動と現況を御堂に逐一報告すること。

 その情報によって、AA社の動きを御堂がコントロールする。互いにとってメリットのある話だ。

 御堂が昨夜送った情報に対してのアクションはもう既に行われていた。

 克哉が提携を目指している3社はいずれも、JTC社との提携を拒否することになる。

「お前のところの社長は目の付け所がいい。特許の提携先に、国内の大手優良企業を選んでいてくれて助かったよ。いずれも我が国が事業を発注している企業だ。お陰で話が通じやすかった」

 内河があくどい笑みを浮かべてみせる。

 AA社の提案を断るように、政府が企業のトップに言い含めたのだ。もちろん、企業側に拒絶する権利はない。なんと言っても相手は日本政府なのだ。

 詳しい内容は聞かなかったが、政府が発注している事業の与奪を匂わせたのだろう。

 内河の素早い対応には感心するが、御堂は小さくため息を吐いた。

「それにしても、もう少しタイミングをずらすことは出来ないのか。一斉に企業が掌を返したら佐伯が怪しむ」

「期待させといて拒否するのも申し訳ないだろう。断られるなら早い方がいい」

「確かにそれもそうだな」

 内河の言うとおりだ。

 期待すれば、それだけ、その後の失望が深まる。

 御堂も、克哉に決して希望を持たせてはいけないのだ。突き放した距離を近付けてはいけない。少しずつ克哉から遠ざかる必要がある。そうでないと、辛い思いをするのは克哉だ。

「それに、企業同士で契約されてしまったら手出しが難しい。法的拘束力が発生するからな。我が国は法治国家だ」

「法治国家、ね」

 口の中で忌々しく復唱する。

 法治国家というなら、今、国家が行おうとしていることは何なのだろう。

 御堂の言いたいことが伝わったのか、内河が苦笑を漏らした。

 

「何をやろうとも体裁は全て、法に則って行うのさ。それが我が国のルールだ」

「どんな手段をとっても無理やりルールに当てはめるんだろう。随分と都合の良いルールだな」

「まあ、要は、解釈の問題だ。法は一つでも、解釈は何通りもありうる」

 

 詭弁を弄するのは国家の十八番だ。しかも、内河は外交官だ。二枚舌だってお手のものだろう。

 大学時代からの付き合いで、内河の人となりが誠実であることは分かっているが、今や二人とも様々なものを背負っている。気楽な学生時代とは違う。腹の裡を全て明かすことは出来ない。

 それでも、二人で並んで歩けば、気の置けない友人同士として、凝り固まった神経が解れていく。

 銀座の大通り、疎らになっている人の間を縫いながら、速めの歩調で歩いていく。

 ウォールームがあるホテルは日比谷だが、ここから徒歩十分程度でたどり着く。食後の運動にはちょうどいい。

 他愛のない会話をはさみながら、内河が御堂の方に顔を向けた。

「それよりも、御堂、本当にいいのか? 対外的な交渉なら我々が担当する。お前が表に出る必要はないし、むしろ出ない方がいいだろう」

「いいや、自分に言い訳をしたくないんだ。これは私の選択だ。AA社に対する責任はしっかり取るつもりだ」

 はっきりと言い切るその言葉に、御堂らしい生真面目さとその覚悟を知り、内河はため息を吐いた。持っていた鞄を抱え直して、中から紙封筒を取り出すと御堂に手渡した。

 

「忘れないうちに渡しておく。これが、例の大学教授の資料。研究費のプールが見つかった。研究者生命を危うくするネタだ。これを元に交渉しろ。お前用の仮の身分も用意してある」

 

 封筒の中には、御堂が紹介した大学の研究室の教授の資料と、偽名を記した名刺が入っていた。

 自分で提案しておきながら、自らそれを潰さなくてはいけないという因果に陥る。その政府としての交渉を、御堂は引き受けたのだ。

 深く関わればそれだけ言い訳は難しくなる。情報を流しただけ、というならば、隠し通すことも白を切り通すことも可能だろう。

 内河の手を借りれば、全てを無かったことにして、素知らぬ顔でAA社で働き続けることも出来るはずだ。しかし、それを良しとしたくない。背任行為を働いた社員を会社に置き続けることは、後で事態が露見した時に信用を損なう。内河の持ち掛けた取引を承諾した時から、AA社から去る覚悟は決めている。

 封筒の中の資料をさらりと確認して、自分の鞄に仕舞い込んだ。

 

「研究費の流用か」

「どんな個人でも企業でも、探せば必ず粗が出てくるものさ」

「こんな短時間でよく分かったな」

 

 情報を流したのは昨夜だ。一日も経たずに内河は、相手の致命傷となり得るネタを調べ上げたのだ。

 自慢げに内河が頷いた。

 

「内調が動いているからな」

「内調……内閣情報調査室か?」

 

 内閣情報調査室、通称“内調”と呼ばれる機関は、日本政府のCIAとも呼ばれる情報機関だ。その存在は明らかにされているものの、活動内容は秘されていて表に出ることはない。

 警察庁と深いつながりがあり、国家安全保障のために手段を問わない情報収集を行っているとも聞く。

 

「今回の件は、それだけ日本政府にとって重要だということだ。世界情勢と国益がかかっている」

 

 改めて背筋が寒くなった。

 内河は口にすることはないが、既にAA社の内部情報も、克哉や御堂の全てについても丸裸にされているのだろう。

 そして、必要とあらば、どこまでも的確にかつ無慈悲に弱点を突いてくる。国家権力を相手にすることの恐ろしさを思い知る。

 ぶるり、と身を震わせた。

 その一方で、克哉を裏切ることにはなったが、内河が同じ味方サイドにいることに、ほっと安堵の息を吐いた。

 

「ところで、外交官のお前がなぜこの件に関わっているんだ?」

「これは、元々アメリカ政府が口を出してきたことだったんだ」

「アメリカが?」

「アメリカが中国の軍事力を最大限に警戒しているのは知っているだろう。最近その中国にクリスタルトラストが接近したようでね」

 

 内河の話では、アメリカ政府が中国の軍事力を警戒し情報収集を行う中で、中国軍の幹部とクリスタルトラストが急激に接近し取引を行うという情報を得た。詳しく調べると、日本のある企業がどうやらその取引に関連しているようだ、という事実を掴んだ。そして、中国が欲しがっているのが、JTC社の特許であり、クリスタルトラストはJTC社から特許を奪い、中国に転売しようとしていたのだ。

 

「アメリカは大統領が変わって日が浅い。知っての通り、外交の方針を転換したせいで混乱が起きている。その隙をクリスタルトラストはついたつもりだろう。とは言え、このまま放置は出来ないから、外交官の俺がホワイトハウスに呼び出されて、この状況を何とかしろ、と注文をつけられたのさ。全く警戒してなかった日本政府は大慌てで、即刻、俺が日本に呼び戻されて、このプロジェクトを拝命したわけだ」

 

 茶化すように言って、内河は肩を竦めて見せた。

 銀座の大通りを無数の車が走っていく。車の流れを右肩に感じながら、内河に顔を向けた

 

「内政干渉だな」

「それを言われると身も蓋もない。かといってアメリカ政府の介入を許して、日本の特許をアメリカに持っていかれるわけにもいかない。特許は外交の切り札にも成り得る。だからこそ、日本政府が重い腰を上げて、派手に立ち回っているわけさ。機密費も大盤振る舞いだから、あのホテルのスイートをウォールームとして借りられる」

 本当は、パークハイアットとかマンダリン、シャングリラといった超高級ランクの外資系ホテルに部屋を取りたかったけど、と内河が嘯いた。

 いくら使用用途を明らかにしなくていい機密費とはいえ、国の金を使うからには外資系ではなく日本のホテルを使うことで義理立てしているらしい。そうでなくとも、国の機密事項だ。外資では信用できないという面も大いにあるだろう。

 この狭い界隈には多くの外資系高級ホテルが乱立している。

 およそ十年前、外資系の高級ホテルが相次いで日本に参入した。ホテル戦争と騒がれる中で、日本のホテルは外資と競い合い、彼らの経営を学び、国際的な地位を上げた。

 平穏と安寧が続くに越したことはない。だが、守るだけでは日本経済は育たない。存続と発展のためには、時として痛みを伴う決断が必要となる。それは、AA社も同じだ。

 御堂が行おうとしていることは、AA社に激しい痛みをもたらすだろう。だが、その先には逆境をバネとした更なる飛躍があるはずだ。それを願い、信じている。だからこそ、内河に協力することを了承したのだ。

 AA社が、そして克哉が、この先、世界を手に入れるために、御堂が今出来ることを尽力していきたい。

 内河が、一拍おいて言葉を継いだ。

「日本に戻って、JTC社とクリスタルトラストの情報を徹底的に収集していたら、問題の特許を表に引っ張り出そうとしているコンサルティング会社を見つけてね。調べてみたら、新進気鋭の会社のようで、その中にお前の名前を見つけて、心底驚いた」

 

 だから内河は四栁に連絡を取って、それが本人かどうか確認したのだろう。

 内河は腕時計に視線を落として時間を確認すると、再び御堂に顔を向けた。

「なあ、御堂。なんでMGNを辞めたんだ?」

「それは……」

 

 予期せぬところで投げかけられた問いに、言葉に詰まった。

 

「AA社の社長の彼は、お前より7歳も年下だろう。お前ほどの人間が、何故、そんな若い奴の下についているんだ?」

 

 柔らかな表情を保ち、世間話を装う軽口ながらも、内河がじっと御堂を見詰めて、問う。

 この質問は聞き飽きていた。御堂がAA社を立ち上げたことを知り合いに伝えるたびに、返される問いだ。

 だが、内河の眸は、安直な答えを許さぬ真剣さだ。

 内河は口にしないが、御堂と克哉が恋人関係にあることも既に把握しているのかもしれない。

 だからこそ、御堂が、色恋に惑わされて、克哉を社長に担いだのではないかと疑っているのだ。

 大きく息を吸って、内河に揺るぎない眼差しを返した。

 

「佐伯こそ社長にふさわしい。私が認めた男だ。それに、私は今の仕事にやりがいを感じている。AA社の一員であることに誇りを持っている」

 

 はっきりと言い切った御堂の言葉に、内河は申し訳なさそうに首を竦めた。

 

「すまない。俺が口を出すことじゃなかったな」

 

 内河が神妙な顔になった。

「……偶然とはいえ、お前を巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思う」

 

 内河は頭を掻いて、視線を深く伏せた。内河が御堂を巻き込んだために、このままだと御堂はAA社から追われることになる。

 御堂は首を静かに振った。

 

「いや、逆に、内河がこの件を担当してくれてよかった」

「え?」

「お前が私を引き込んでくれたおかげで、我が社は生き残れる」

 

 そして、克哉も。

 内河がこの話を持ち掛けてくれなければ、AA社には何の前置きもなく、行政処分が下っていたのだ。

 そうなれば、何が起きるか想像に難くない。AA社は立ち直れないほどのダメージを被る。一度悪い評判が立てば、それを挽回するのは難しい。起業間もないAA社であれば尚更だ。

 だが、日本という一国の国の利害と一企業、比較するまでもなくどちらを優先すべきかは明白だ。

 今となっては、国家機密漏洩のリスクを負った上で内河が御堂を巻き込んだのは、彼なりの最大限の配慮によるものなのだということもわかる。

 良い友達を持った、とも言える。

 顔を上げた内河に笑みを返せば、内河が表情を綻ばした。

 

「御堂、全てが片付いた後、飲みに行かないか?」

「ああ。うまいワインが飲みたいな」

「俺は久々に日本酒が飲みたいよ」

 

 お互い微苦笑を交わすと、道を急いだ。

御堂火PM10
御堂:水曜日PM6時

 内河が秘密裏に握りつぶした特許実用化の件は、案の定、3社とも同じタイミングでAA社に伝わった。

 水曜日の午前中にもたらされた3社同時の提携拒否の連絡は、克哉を不信の渦に叩き落とした。

 全てにおいてタイミングが悪かった。

 火曜日に克哉はクリスタルトラストとの対立を引き起こしてしまったし、今回の件で、クリスタルトラストへの疑惑を更に深めたようだ。

 このままでは克哉は暴走しかねない。

 とはいえ、自分が克哉を四六時中見張るわけにもいかない。克哉がJTC社にかかりきりになっている分、御堂は他のコンサルティング業務を担っている。

 AA社内も、克哉と御堂のどちらかが外回りに出ているか、両方いないかのどちらかで、克哉の行動に目を配る余裕もない。

 早めに決着をつけないと、取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。

 焦りは禁物と思いつつも、不安が生じる。

 何という厄介な事態の舵取りを引き受けてしまったのだろう。

 それでも、克哉を信じるしかない。

 AA社の業務の外回りから帰る道すがら、御堂は内河からの連絡を受けた。

『予定通り、緊急取締役会議でクリスタルトラストの買収案は流れた。クリスタルトラストは敵対的買収に移るだろう』

「どうやったんだ?」

『クリスタルトラストに懐柔された取締役員を反対派に寝返らせた。……クリスタルトラストの言いなりになるような輩は金に汚いのさ。案の定、調べてみれば、脱税やら横領やら色々出てきたよ。それをネタに取引をした。クリスタルトラストは焦っているだろうな。思い通りにいかなくて』

 

 内河の声音に含み笑いが混じる。その交渉の手管は流石なものだと感心する。外交官として必要な資質だろう。

 だが、これで、クリスタルトラストがJTC社の敵対的買収へと舵を切る。本気で動き出すのだ。その矛先は克哉やAA社に向くかもしれない。一刻も早い対処が必要だ。

 

「それより、金融庁の方はどうなっている?」

『急かせている。だが、手続きにこまねいていて、もう少し時間がかかる。我が国は法治国家だからな。これでも法に則った厳格な手続きが必要なんだ』

 

 またもや出てきた法治国家、という言葉に、御堂はふん、と鼻を鳴らした。

 どこの国でもやっているとはいえ、明らかに法を超えた行為をしておきながら、それを法の中に収めて見せる。それが政府だ。だが、それでも、今はその政府に頼らざるを得ない。

 

「なるべく早く頼む」

『ああ。任せろ』

 

 通話を切り、AA社に急いで戻って来てみると、克哉と藤田が丁度、JTC社について話しをしていた。間に割って入る。

 

「クリスタルトラストの買収案が流れたそうだな」

「御堂さん! ええ。そうなんですよ。クリスタルトラストはどう動きますかね」

 

 藤田が御堂の方に目を向けた。一方、克哉は御堂から目を逸らして黙り込んだ。

 

「このままクリスタルトラストが大人しく引き下がるとは思えないな。TOB(株式公開買い付け)を始めるだろう」

「となると、JTC社とクリスタルトラストの真っ向勝負ですね」

 

 どちらが勝ちますかね、と藤田が興奮して語りだした。傍らで黙っていた克哉が鞄を手に取り、立ち上がった。

 どうも、克哉は御堂と同じ場に一瞬たりともいたくないようだ。今の二人の関係を考えればそれも致し方ない。

 御堂から目を逸らしたまま、克哉が一言告げる。

 

「JTC社に行く。事の顛末を確認しておく」

「待て、佐伯」

 

 御堂の脇をすり抜けていこうとする克哉の腕を掴んだ。克哉が動きをびくりと止める。

 

「分かっているとは思うが、これは、JTC社とクリスタルトラストの問題だ。わが社は関係ない。絶対に首を突っ込むな。どんな挑発をされてもだ」

 

 今の克哉に御堂が何を言っても、逆に反発を招くだけだろう。それは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。

 顔を背けたまま答えようとしない克哉の腕を更に強く掴んだ。

 克哉を掴む手に想いを込める。克哉が身じろぎして御堂の方を振り向いた。

「……ああ、分かっている」

 無造作に言い放つ克哉の目をしっかり見据えた。

「お前を信じている」

 微かに克哉の双眸が揺れたが、すい、と視線を外される。そのまま振り向くことなく社を出て行った。

 その後ろ姿を見送って、深く嘆息した。その場に取り残されて、身の置き処をなくし呆然と佇んでいる藤田に声をかけた。

「藤田、特許の件どうなっている? 大学の研究室には連絡したのか?」

「あ、はい。先方もとても興味を持ってくれているようで、アポイントの調整をしています。金曜日に面会になりそうです」

「そうか」

 頭の中でスケジュールの算段をする。

 当初の目論見であった企業との提携が駄目になったのだ。克哉が大学との提携を推し進めようとするのは予想の範囲内だ。金曜日の克哉とのアポイントまでに、大学の方の片を付けなくてはいけない。

 よりによって自分が提案したものを自分で摘み取らなければいけない羽目になってしまった。知らなかったとはいえ、余計なことをしたとため息をつく。

 それよりも、問題はクリスタルトラストだ。

 克哉は精神的に脆い一面がある。ただでさえ、御堂との仲がぎくしゃくしており、その上、仕事上のトラブルも多発している。

 そのトラブルを引き起こしているのは自分なのだが、克哉はその原因をクリスタルトラストの仕業だと勘違いしている。そんな状況の中で澤村相手に自分を抑えきるのは難しいかもしれない。

 先の一件でも、本当にギリギリのところで澤村への直接の復讐を諦め、克哉は踏みとどまったのだ。

 時間の猶予はない。やらなくてはいけないことが山積みだ。

 御堂は社のフロアから出ると、携帯から大学研究室へと電話をかけた。内河が用意した偽名を名乗り、アポイントを取った。

御堂水PM6
御堂:木曜日AM10時

 目の前の大学教授は、御堂から渡された研究費流用の証拠資料を目にし、あからさまな動揺を見せた。

 御堂は静かな微笑を口元に載せたまま、その表情の動きを見守った。

 ここでは、御堂の名前ではなく『電気通信技術センター 鈴木』という偽の所属と偽の名前で訪れている。いずれも内河が用意したものだ。

 大学時代の知人経由でこの人物を紹介されたが、相手と全く面識がなかったことは幸いだった。目の前で自分を詰問している人物が、AA社の人間であることは露程も気付かれていない。

 とはいえ、渡している資料内容から相手には名乗っている所属と名前が虚偽のものであることはばれているだろう。だが、問題はない。この面談自体が二人にとっての秘密になるのだから。

「こんなことは、他の研究室でもやっている……」

 

 研究費の流用を指摘されて、教授は呻くように言葉を漏らした。

 研究者らしい実直さで、嘘をついて取り繕うことに慣れていないのだろう。額には脂汗が浮き出ている。

 

「ですが、違反であることに口をはさむ余地はありません」

 

 科学研究費と呼ばれる国からの研究費は、年単位で与えられる。その年に使いきらなかったものは国庫に返納しなくてはいけない。

 そのため、業者に年度をまたぐ仮発注を行い翌年度に研究器具などの現物で返してもらう方法が慣例としてよく行われていた。俗に言うプール金だ。多くの研究室で公然と行われていたが、れっきとした違反行為であり、摘発の対象となる。

 教授の顔が色を失う。

「私はどうすれば……」

 御堂は、相手を安心させるようににこやかな笑みを浮かべた。

 

「我々は貴方の研究を高く評価しています。この件については目を瞑りましょう。ですが、条件があります」

「条件?」

 AA社が持ち掛けてくる共同研究を拒否すること、そして、この面談自体を内密にすること。御堂の出した条件に、相手は深く問い返すこともなく一も二もなく頷いた。

 それはそうだろう。プール金による研究費の流用が表沙汰になれば、研究費の支給がストップされ大学からも解雇される。言わば、研究者生命が断たれるのだ。国の援助無くして日本で研究者として生きていくことは難しい。

「お忙しいところ、お時間を取っていただきありがとうございました」

 御堂は片手を差し出した。相手は一瞬戸惑い、その手を握り返す。じっとりとその掌には汗が滲んでいた。

 この交渉は上手くいった。

 そう確信を得て、御堂は研究室の応接間のソファから立ち上がった。

 その時、鞄の取っ手に引っかかって、カフスボタンが外れソファの下に転がり落ちた。

 咄嗟に拾おうと手を伸ばしかけて、その手を止めた。

 御堂がカフスボタンを落としたことは、相手には気付かれていない。

 このままカフスボタンを拾って帰れば、自分がこの場所に来たという痕跡は何も残らないだろう。

 それは、アンフェアではないだろうか。

 据わりの悪い感情が沸き立った。

 これは、克哉を裏切るという後ろめたさからくるものだろうか。

 たった今、御堂はAA社の交渉先を先回りして潰した。克哉と藤田は、交渉のテーブルにつく機会もなく、拒否の返事を突きつけられるだろう。それが御堂の背任行為によるものだとは知る由もなく。

 だが、罪は罰せられて当然なのだ。

 そして、御堂の罪を罰するのは克哉であるべきだ。

 御堂は、カフスボタンから視線を外し、何事もなかったかのように鞄を持った。

「それでは、失礼いたします」

 

 教授に一言挨拶を交わして、応接間から出る。

 彼ならこの小さな手掛かりからきっと自分に辿りつくだろう、そう確信してその場を後にした。

 大学から出たところで、内河から連絡が入った。

 

『御堂、金融庁の準備ができた。こっちはいつでもオーケーだ』

「分かった」

 

 内河とタイムスケジュールを詰めると、携帯を切る。そのまま、ある電話番号に掛けなおした。

 

「アクワイヤ・アソシエーション社の御堂だが」

『御堂、だと…?』

「私と、今から取引をしないか?」

 

 電話口の向こうで、聞き覚えのある声が息を詰めた。

「あんたが僕と取引なんて。本気かい?」

 御堂が指定したホテルのジュニアスイートの部屋で、応接間のソファに腰かけながら、澤村は辺りを隙のない目つきで見渡した。何かの罠がないかと警戒しているのだろう。

 口の端を僅かに歪めたその笑い方も、あくまでも優位な立場に立とうとする鷹揚な振る舞い方も、記憶にある澤村と変わりがない。

 感情を排した冷静な口調で、御堂は口を開いた。

「澤村、お前と歓談する時間はない。取引の話に移らせてもらう。こちらの要求は3つある。一つは、JTC社へのTOBを撤回しろ」

 いきなり本題に切り込む御堂の言葉に澤村は目を大きく瞬かせると、可笑しそうに笑って身を乗り出してきた。

「ちょっと待ってくれないかな。いきなりなんだい? 取引と言うからには僕たちに益がないと。でも、僕が欲しがるものを君らが持っているとは思えないけどね」

 御堂を挑発しようとする言葉をさらりと受け流す。

「お前たちに対するメリットはない。ただし、こちらの要求を呑まないと、お前たちに対するデメリットはある」

「どういうことかな?」

 澤村の質問に直接答えず、御堂はおもむろに自分の腕に視線を落とした。視線の先では腕時計がきっちりと時を刻んでいる。

 

「そろそろだな」

「何……?」

 

 訝しむ澤村に、御堂は不敵な笑みを返した。

 

「クリスタルトラストに連絡して見ろ。金融庁の立ち入り調査が入っているぞ」

「なんだと?」

 澤村の笑みが強張った。続けて口を開く。

 

「先日お前たちクリスタルトラストが行ったスローコーポレーション社の買収について、株価を不正操作した疑惑がある。この件について金融庁のSESC(証券取引等監視委員会)が関心を持っている」

「まさか」

 澤村が立ち上り、急いで携帯を出して連絡をしはじめた。

 今、クリスタルトラストの社内では、金融庁の職員が押しかけて、立ち入り調査の名の元に、有無を言わせず手当たり次第に資料を押収しているはずだ。

『派手にやってやるから、期待していろ』、電話口の向こうで高らかに宣言していた内河の姿が脳裏に浮かぶ。今頃嬉々として現場で指揮を取っていることだろう。

 澤村は電話の相手と言葉を交わすうちに、みるみるとその表情に焦りが浮き出てきた。数分もしないうちに、電話を乱暴に切り、御堂の前に座り直した。

 既に澤村の態度からは余裕が消えており、眼を見開いた顔は蒼白で、声には取り繕う余裕がなくなっていた。その姿をみて、全てが予定通りに動いていることを確信する。

「どういうことなんだ。これは」

「じきに東京地検特捜部が動く。……澤村、お前はインサイダー容疑の金融商品取引法違反で、告発予定になっているぞ」

 その一言に、澤村の顔からさらに色が失われた。

 御堂の言葉が決して脅しでないことは、自分が一番よく分かっているのだろう。睨み殺さんばかりの勢いで御堂をねめつけてくる。歯軋りの音まで聞こえそうだ。

 圧倒的優位な立場に立っていることを自覚して、御堂は微笑を浮かべた。

「このままだとクリスタルトラストもお前も日本では活動できなくなる。しかも、お前は下手すれば塀の中だ。……だが、私の要求を呑めば、この件について不問にしてやるが」

「馬鹿な……。クリスタルトラストも僕も、そう簡単に手出しが出来ないはずだ。本国が許さない」

 

 澤村は喉の奥で唸るような声を絞り出した。クスリと笑って返す。

 

「安心しろ。ワシントンD.C.の了解は取れている。お前の今回の取引は日本とアメリカを怒らせた。迂闊だったな」

「なんだと? ……大体、何であんたがそんな権限を持っているんだ」

 

 そこまで言いかけて、澤村はハッと言葉を失し、愕然とした顔で御堂を凝視した。小さく掠れた声で呟く。

 

「……まさか、アノニマス・エネミーって」

「何だ?」

 

 聞き取れずに聞き返す。澤村が落ち着きなく視線を彷徨わせた。

 

「いや……なんでもない。こちらの話だ」

「ふむ、どうする? 私の話を聞くか?」

 

 澤村がきつい眼差しで御堂を制する。

 

「あんたが日本政府の回し者だったとはな。このことを克哉君は知っているのかい?」

「無駄話をしている時間はないと言っただろう。要求を呑むのか呑まないのかはっきりしろ」

「……要求は?」

「JTC社へのTOB撤回、この場の話を決して他言しない事、そして、今後、佐伯克哉及びアクワイヤ・アソシエーション社に手出しをしない事。この三つの条件を呑むなら、金融庁の立ち入り調査を中止させ、告訴は見送る」

 

 御堂が出した最初の二つの条件は想定の範囲内だったようで、澤村は押し黙ったまま聞いていたが、最後の条件を出した時に、澤村はたまらずに声を上げた。

 

「ちょっと待ってくれ。TOB撤回と他言無用はまだしも、AA社とあいつのために、あんたは国家権力を振りかざすのか」

「アクワイヤ・アソシエーションと佐伯を守るためなら、なんだってする」

 

 迷いなく言い切った御堂に、澤村は苦り切った表情のまま、数分の間沈思して、声を絞り出した。

 

「……分かった。条件を呑む。あんたの背後にいる権力を敵に回すには分が悪すぎる」

「決まりだな。押収した資料はすぐ返却する。ただし、今後、この条件が守られなかった場合は分かっているな」

 

 澤村の頭の中では全ての損得勘定が済んだようで、諦めたように、大きく息を吐いた。

 

「ああ。僕も馬鹿じゃない。……一つ聞いてもいいかい?」

「何だ?」

「なぜ、あんたが表に出てきた? 姿を隠したまま、取引することだって圧力をかけることだって出来たはずだ」

 確かに、このまま金融庁の立ち入り調査を続行すれば、クリスタルトラストは業務不能に陥るだろう。パソコンもハードディスクもプリンタも何もかも押収するのだ。とても、TOBを続行できる状況ではなくなる。

 澤村は言葉を切り、じっと御堂の表情を探りつつ再び言葉を継いだ。

「そうしなかった理由は、自らが黒幕だと晒すことで、僕たちクリスタルトラストの標的を克哉君から逸らすことが目的だ。違うかい?」

「……」

 御堂が返事をしないことに、澤村は確信を深めたようだった。呆れたように言う。

「どうしてこんな取引をするんだ」

「……お前と佐伯の禍根をこれ以上引き摺りたくはない」

「僕とあんたの禍根ではなくて?」

「そんなものは大したことではない」

 そう言い切られて、澤村は唇の端を歪めた。

「”あの時”のことを記録してある、と言っても? それを取引内容に含めるというのはどう?」

「記録? そんなもの、好きにすればいい。悪いが、もう、失うものは何もない。」

 ふうん、と呟いて、澤村はソファの背もたれに深く背中を預けた。

「失うものは何もない、か。失う前に捨てたんだな、全部。先ほどの条件には、AA社と克哉君に手を出さないことが入っているけど、あんたの名前は入っていない。……AA社を辞める気なのかい?」

「おしゃべりは終わりだ」

 感情を一切乗せずに返す御堂に、澤村は肩を揺らして笑い出した。

「笑っちゃうな。君らは一枚岩どころか、あんたは、克哉君の獅子身中の虫だったわけだ。この件は全て極秘に済ますんだろう? 克哉君は真実を知らないまま、あんたに裏切られたと思って深く傷つくだろうね」

 返事の代わりに澤村に凍えた視線をぶつけた。澤村はその眼差しを薄い笑みで受け止める。

 

「だけど、礼は言うよ。あんたのお陰でクリスタルトラストは行政処分を免れるし、僕は刑事処分を免れるのだから」

「交渉は以上だ」

 澤村との会話をこれ以上続ける義理はない。澤村の言葉に被せて鋭く言い切った。

 鞄を持って、澤村はソファから立ち上がった。眼鏡のブリッジを押し上げつつ御堂を見下ろす。

「だけど、僕から言わせてもらうと、そんな自己犠牲精神、誰のためにもならないと思うけどね。まあ、利用させてもらうけど」

「お前は少々煩いな」

「それはどうも」

「澤村、約束は守れ。いつでもお前を告訴する準備は出来ている」

「ああ。のど元に匕首を突き付けられている気分だよ。……こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど、あの時の記録なんてものは存在しないから、安心していいよ。自分が映る記録を残すほど馬鹿じゃない。それにしても、克哉君、全てを知ったらどうなるかな」

 クスクスと笑いながら、肩を竦めて軽い口調で話す澤村を、御堂はじっと見据えた。

 心の底からの憐れみを込めた声音で静かに言った。

「澤村、お前は佐伯を焦がれてやまない一人なのだな」

「……っ!!」

 次の瞬間、澤村の顔が強張り、そして、大きく歪んだ。

 澤村が発する激しい憤りの気配が空気を震わせた。戦慄く声が、唇から放たれる。

「俺は、お前たちことなんか大嫌いだっ!」

 一人称が『俺』になり、剥き出しの感情が叩きつけられる。

 全ての虚飾を脱ぎ去って、澤村は苛烈な怒りを宿した眼差しで御堂を射殺さんばかりに睨みつけると、身体を返して足早に部屋を出た。

 足音高く去っていく澤村を視界の端で見送った。

 澤村に対して、最早、怒りも憎しみも何も感じなくなっていた。

 澤村は克哉を激しく拒絶しながらも、克哉に惹きつけられて止まない。彼もまた、克哉に狂わされた一人なのだ。

 御堂と同様に、克哉にさえ出会わなければ、心乱されることなく平穏な人生を歩んでいたのだろう。

 しかし、子ども時代の澤村は、克哉によって自尊心も何もかも木端微塵に砕かれた。

 今の澤村がやっていることは、克哉の模倣だ。中身の伴わない、形ばかりの模倣だ。

 だからこそ、克哉を自分の世界から排除して、ただ一人の自分自身になろうとしている。

 だが、その努力を克哉に否定された。

 澤村が克哉にこだわり続ける限りは、空っぽの中身を永遠に満たすことはできないだろう。

 模倣することを否定はしない。ヒトは鳥を模倣して、空を飛ぶことを覚えたのだ。全ては模倣から始まる。だが、鳥を全て撃ち落としたところで、自分が空を飛べるようになるわけではないのだ。

 克哉は澤村に、そのことに気づくためには別の誰かが必要だ、と告げた。それは、克哉もまた、澤村によって失った自分自身を見つけたからなのだ。御堂と共に。

 克哉の言葉は彼に届くだろうか。

 彼は自分の裡を満たす、自分だけの何かを見つけることが出来るだろうか。

 それが出来れば、その瞬間から、誰にも揺るがされることのない彼だけの時間が始まるのだ。それを願いたいと思う。

 深く息を吐いて、御堂は携帯で内河に連絡をした。

「内河、こちらは上手くいった。金融庁の監査を引き揚げさせてくれ」

『わかった。だが、勿体ないな。クリスタルトラストを告訴できるせっかくの機会なのに』

「それが条件だったはずだ」

『ああ。分かっているよ。すぐに引き揚げさせる』

 それだけの会話で通話を切った。

 御堂は眉間に皺を寄せたまま、革張りのソファに身体を沈めた。心身ともに辛く重いが、今のところは上手くいっている。

 御堂が内河との取引を引き受けるにあたって、内河に突きつけた最大の条件が、クリスタルトラストの告訴を取り下げる権限を御堂が譲り受けること、だった。

 今回の件は、表立って日本政府が動かない分、AA社とクリスタルトラスト社が、更には克哉と澤村が、互いが原因だと勘違いして憎み合うのは目に見えていた。

 このままクリスタルトラストを告訴すれば、一時的にクリスタルトラストと澤村の動きを封じることは出来るだろう。だが、互いの憎しみは固く凝ったままだ。相手に対する二人の憎悪は一層煽られ、別の諍いを引き起こしかねない。

 敢えて自分を囮にして、クリスタルトラストと澤村の目を逸らせ、AA社と克哉をクリスタルトラストの手から守る。

 そのために利用できるものは国家権力であっても躊躇はしない。

 しかし、その意図は澤村に見抜かれてしまったようだ。

 だが、それでもいい。

 克哉と澤村の憎しみの連鎖を断ち切ることができるのなら、それに越したことはない。

 これで、クリスタルトラストは片付いた。

 後は、AA社の決断を待つだけだ。

 道は全て塞いだ。結論は一つしかない。

 克哉ならその決断が出来るだろう。それはきっと苦しく辛いものになるが、そうせざるを得ないのだ。

 御堂は重い足取りでホテルを後にした。

御堂木AM10
御堂:木曜日PM9時

 AA社に戻る前に、ビルの中のレストルームで自分の顔と身だしなみをチェックする。

――大丈夫だ。問題ない。いつも通りだ。

 

 何事もなかったかのように、AA社のフロアに足を踏み入れた。

「お疲れさま」

 執務室に入るなり、ごく自然な口調で克哉から声がかかった。

「ああ」

 返事をして、自分のデスクに戻る。視界の端で克哉の様子を伺うが、落ち着いているようだ。まだ、大学からの提携拒否の返答が来ていないのかもしれない。

 パソコンを開いて、たまったメールと業務を黙々と片付けていく。

 AA社に対する裏切り行為を働きながらも、AA社の発展を願い、今できる仕事に全力を傾ける。

 ここに残れる時間は少ない。物事の優先順位をつけなくてはいけない。

 自分がいなくなることを見越して、密かに引継ぎ用の資料を作成していると、コン、とデスクが小さく振動した。

「どうぞ」

 驚いて見上げれば、克哉が下のコンビニで買ってきた缶コーヒーを御堂のデスクに置いて、自分のデスクに戻っていく。

 何故、缶コーヒーなのだろう、と訝しんだが、もう終業時間もとうに過ぎている。社内に残っているのは御堂と克哉だけだ。給湯室のコーヒーメーカーも電源が落とされているのだろう。

「ありがとう」

 一言返して、気取られないように作業中の資料を閉じた。まだ、見つかるわけにはいかない。全てが片付くまでは。

 金属の乾いた音が響き、克哉が自分のデスクで缶コーヒーのプルタブを開けた。

 くぐもった嚥下の音とともに、軽く反った喉が大きく上下する。

 室内の明かりに照らされる克哉の横顔に視線が縫い止められた。

 克哉を間近で見ることが出来るのも、もうあと僅かだろう。

 いつか自分は克哉への未練を断ち切ることが出来るのだろうか。

 ぼうっと眼差しを克哉の横顔に注いでいると、振り向いた克哉と視線が重なった。慌てて、克哉から視線を外そうとした寸前、克哉が缶コーヒーを口から離して言葉を発した。

「なあ、御堂さん」

「なんだ?」

 視線を戻せば、缶コーヒーを手に持ちながら、克哉がほんの少し迷い、言った。

「俺は、この社をどこまでも育てて、大きくしたい」

「ああ。君ならそれが可能だろう」

 返す御堂の言葉に、克哉が小さく笑みを零した。

「世界だって手に入れてやるさ」

 そして、克哉は真っすぐと御堂を見据えた。その眸にはこの数日間で見られた感情の揺らぎが拭われて、ひとつの強い光が灯る。

「だから、これからも協力してくれないか。ビジネスのパートナーとして。あんたとなら世界だって手に入れられる。その気持ちは変わっていない」

「佐伯……」

 かつて、御堂を誘ったセリフが唇から放たれる。

 克哉の言葉は力強く言い放たれながらも、切実な重さが込められていた。

 ひとつの感情が沸き起こり、胸を衝き上げた。

 あの再会の日、克哉は恋慕の情を超えて、御堂の実力を認めたからこそ、ビジネスパートナーとして御堂を誘った。だが、今の克哉の願いはそれだけに留まらない。

 自分自身やAA社のこと以上に、御堂のことを必死になって考えていることが痛いほど伝わってくる。

 かつて克哉はMGNから御堂を追い出した。次に、L&B社からAA社に強引に引き込んだ。だが、二人の関係がこじれた今、このままだと御堂はAA社を辞めるかもしれない。克哉はそれを恐れている。

 居場所を失い続ける御堂のために、御堂のための安心できる居場所をどうにか作り出そうとしているのだ。

 狂おしいほどの愛しさがこみ上げる。

 克哉は苦しんでいるのだ。御堂に告げられた別れを受け止めて、それでもなお、御堂との新しい関係を構築しようとあがいている。

 だが、御堂は、胸を満たしていく焦がれるような感情に無理やり蓋をして抑え込んだ。

 克哉のその努力は無駄になるのだ。

 克哉がやるべきことは、御堂をAA社に残すことではなくて、辞めさせることだ。

 背任行為を行った社員を置いておくことは、他の社員やAA社に期待を寄せる人々に示しがつかない。それが共同経営者であれば尚のこと。克哉が意識を向けるべきものは、御堂ではなく、自分自身とAA社の未来であるべきだ。

 差し込む想いを振り切って、御堂はシニカルに返した。

「君は、私に同情しているのか?」

 克哉の顔が瞬時に強張った。

「そうじゃない。俺は、ただ……」

 克哉が言いよどむ。

「佐伯」

 すっと、デスクから立ち上がり、克哉に歩み寄った。

 克哉の手から缶コーヒーを取り上げて、残っていたコーヒーを一息で飲み干すと缶をデスクに置いた。

 克哉に向けて、薄く笑う。

「私は、君の飽くなき野心と強い上昇志向を気に入っている。使えるものは何でも使えばいい」

「御堂……!」

 克哉の御堂に向けた想いを一刀のもとに斬り捨てる。胸の奥がチリチリと痛んだが、それを感じないように意識を逸らす。

 克哉が座る椅子の背に手をかけて自分の正面に向かせた。

 御堂の態度に体を固まらせる克哉の足の間に跪いた。

 上目遣いに克哉に目配せをすると、克哉のベルトのバックルを外して、ジッパーを下ろし、下着の合わせから克哉のペニスを取り出す。一連の滑らかな仕草に克哉が息をのんだ。

 まだ硬くない克哉のペニスを根元まで口内に含み、唾液をたっぷりと絡めた舌で奉仕をする。逃げようとした克哉の腰に手をまわして、息する暇もなく、音を立てて淫猥に舐めしゃぶる。

 相手を知り尽くした愛撫に、克哉のそれは否応なく反応していく。

 髪の毛に十本の指が入り込んで、御堂の頭を押さえつけながら克哉が低く呻く。

「あんたはこういうのは嫌だったんじゃないのか」

「こういうの?」

 愛撫を止めて、口を放した。見上げれば克哉の欲情と不安が浮かぶ表情が向けられていた。

「……気持ちが通じてない相手とヤるのは」

「私が誘っているんだ。それとも、君は“こういうの”は嫌なのか? まさかな」

 劣情が滲んだ眼差しを返せば、克哉がこくりと唾を飲み込んだ。

 クスリと笑って、再び喉の奥まで克哉の張りつめたペニスを受け入れる。克哉の欲情を追い立てて追い詰めていく。

「くそっ」

 克哉が舌打ちして、御堂の頭を鷲掴みにすると口内からペニスを引き抜いた。

 椅子を乱暴に引いて、克哉が立ち上がる。

 御堂の腕を掴んで立たせると、上半身を克哉のデスクに伏せさせて、腰を突き出す態勢にさせた。

「いいんだな?」

「ああ」

 低い声で念を押してくる克哉に、端的に頷き返した。

 ズボンと下着をずり降ろされ、下半身を剝き出しにされる。

 克哉がデスクの引き出しに手を伸ばし、潤滑剤のチューブをつかみ取った。余裕のない仕草で、キャップを歯で噛んで開け、床に吐き捨てる。双丘の奥の窄まりにジェルがかけられた。

 ひんやりとした感触とともに、二本の指が差し込まれ、きつく締まる粘膜の口を拡げられる。

「ん……っ」

 克哉の指に絡みつく粘膜をかき分けて、快楽の凝りを触れられた。

 途端に、抑えようとしていた呼吸が跳ねる。ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てながら指を抽送され、克哉の指が双丘の狭間から身体の内側まで濡らしていく。

 いやらしく体内をまさぐられて、自分の性器も張りつめる。堪える息に、声が混じりはじめたところで、克哉は指を引き抜いた。切ない声が漏れてしまう。

「……ぁ」

 腰を両手で掴まれて引き寄せられる。尻肉の間に、熱く滾った器官が埋まり、アヌスにその先端が触れた。

「く……、ぅ、はあっ!」

 心の準備をする前に、ぐっと押し込まれた。

 抽送のたびにより奥を突かれ、これ以上繋がれないというところまで、体を深く押し広げられた。

 いつになく先を急く行為だ。

 強烈な圧迫感がこみ上げ、それを追いかけるように繋がったところから痺れるような快感が這い上がってくる。

 下腹部では張り詰めた自分の性器がとめどなく蜜を溢れさせた。

「ふ……、ん……っ、ぁっ」

 背中に克哉の身体が重なった。

 スーツを通して克哉の強い鼓動が背中に刻みつけられる。

「御堂」

 首を横に向けて喘いでいると、切羽詰まった声音で名前を呼ばれた。首筋に、熱のこもった息がかかる。

 克哉に向けて背後に首を思い切り捩じり、キスをしたい衝動が突き上げた。克哉もまた、御堂にキスを与えたいのだ。

 だが、すんでの所で、その衝動を拒否して、口の前に左手をまわして口を封じた。自らの手の甲に噛みつく。声を出せば、あられもなく克哉をねだってしまいそうで、喉で全てを押さえ込む。

 これは想いを交わす行為であってはならないのだ。何も想像しないようにして身体の奥から溢れる感覚を辿り、肉体の快楽を追うだけの行為に落とし込む。

 御堂のあからさまな拒絶に、背後の克哉の落胆が伝わってきた。克哉は御堂の後ろ髪にほんの一瞬、唇を触れさせると、上体を起こし、律動を激しくした。

 前に伸ばされた手が御堂のペニスに触れる。丹念に輪郭を辿られて、掌で握りこまれる。突き上げに合わせて扱きあげられた。

「く……、ふ、あぁっ」

 克哉の手の中で、はち切れんばかりにペニスが育つ。克哉の指が、浮き出た筋をなぞって這い登り、先端で蠢いた。浅い切れ込みが指の腹で擦られるたびに、ヒクヒクと口を開閉して、ぬめる液体を溢れさせる。

「んん……、ふぁっ、……ぅっ」

 激しい感覚に惑乱する身体を堪えようと、デスクの天板に右手を這わせて爪を立てて力を籠めた。

「……ッ!」

 御堂の右手に大きな手が重なった。咄嗟に払おうとして、強い力でデスクに押さえつけられた。

 掌の湿った熱さが手の甲に伝わる。克哉の抑えた声が鼓膜を震わせた。

「……孝典」

 自分の下の名を呼ぶ微かな声に胸が震えた。その一言には、底知れぬほどのリアルな克哉の想いが込められていた。

 重ねた右手、指が一本ずつ絡められる。御堂の手にしがみつこうとする強さで手の甲を握りしめられた。

 今や、克哉は自分が保とうとした距離を放り出して、御堂を求めている。

 克哉の纏うフレグランスの香りが鮮明に深くなり、視界が曇っていく。

 息が、苦しい。

 克哉に応えてやりたい。

 克哉のことを心から愛していると伝えたい。

 ひとつの同じ想いを分かち合いたい。

――駄目だ。

 御堂は、口元に当てた左手を強く噛んだ。鮮烈な痛みが御堂に自制をかける。

 克哉に期待も希望も持たせてはいけない。これから、克哉は非情な判断を御堂に対して下さなくてはいけないのだから。

 身体と心の痛みに耐えて、自分を乞う声を無視する。目をきつく閉じて、与えられる快楽に意識を集中した。

 克哉の律動が早く、小刻みなものになった。体内の克哉が硬く張り詰める。射精直前の特有な動きに突入していく。

 来る。

 そう思ったときに、ずるっとペニスが勢いよく引き抜かれた。粘膜を大きくめくられ、擦られた。同時に、自らの性器を根元から強く扱かれる。絶頂の波に攫われた。

「ふ……、うあっ」

 亀頭を包む克哉の手の中に欲情を吐き出した。前後して、臀部に火傷しそうなほど熱い粘液が打ち付けられた。生々しい感触に身体が引き攣れる。

 二人分の荒れた呼吸が部屋に響いた。

 絶頂の余韻に浸っていると、握りしめられた右手がすっと離れて、克哉の体温が遠ざかった。

 空しさと共に、独り取り残される。こんなセックスで、満たされることはない。克哉に対する渇きがいっそう深まっただけだ。そして、克哉も同様だろう。

 力が入りすぎて痺れている両手をデスクに突いて、のろのろと身体を起こした。

 自分がどんな顔をしているのか分からない。

 克哉から顔を逸らしたまま立ち上がり、背中に克哉の気配を感じながら、自らの身繕いを黙々と行った。

 目をきつく瞑り、呼吸を整える。克哉に向けた感情と表情を封じ、心の乱れが凪いだことを確認してゆっくりと瞼を上げた。

 ちらりと視界の端で伺う克哉の顔は、自己嫌悪に曇っている。今の御堂と安易に関係を持ったことを後悔しているようだ。

 別れを突き付けられても尚、克哉は自分を抑えて、御堂とビジネスのパートナーであろうとした。

 それを、快楽に溺れて欲情を遂げるだけの安直な体の関係を挟ませることで、克哉の情念を逆巻かせた。

 もう、一定の距離を維持した単なるビジネスパートナーであり続けることは難しいだろう。

 克哉の想いを打ち崩すため、わざと、克哉の男を刺激した。克哉の理性を崩した。

 自分がこうも浅ましい手段を取ることが出来るとは、知らなかった。

御堂木PM5
御堂:金曜日PM5時

 週末の夕方だと言うのに、社内は沈鬱の底に沈んでいた。JTC社の件が上手くいってないことは社内では隠しようがないし、社を率いるべき克哉が外回りに出たきり、帰ってこないというのも影響しているのだろう。

 克哉が社を出てほどなくして、クリスタルトラストがJTC社へのTOBを撤回するというニュースが大々的に伝わった。

 メディアを通じて流れる内容を見れば、JTC社は外資の手から会社を守った英雄のように祭り上げられているようだ。社長も意気揚々とした表情で、記者会見に応じている。

 クリスタルトラストのTOB撤退の裏に政府が絡んだ政治的な取引があったとは、誰も、当のJTC社さえも、気が付いていない。

 終業時間となり、一人一人業務を終えて社を後にする中、御堂は最後に残った藤田に声をかけた。

「藤田。帰っていいぞ」

 

 キーボードを叩く手を止めて、藤田が振り返った。

 

「いえ、佐伯さんがまだ戻られていないので」

「待っていても仕方ない。業務がないなら帰れ。休むのも仕事のうちだ」

「ですが……」

 

 言葉尻の勢いがなくなり藤田は俯いた。

 大学側からの共同研究の撤回と面会キャンセルの申し出は、朝一番に藤田の元に連絡が来ていた。藤田はその内容を外回りに出た克哉に電話で伝えたが、社内で御堂の業務を手伝うように指示されたようだ。

 しかし、日中はずっと心ここにあらず、といった体たらくだった。

 藤田としても気が気でないのだろう。自分が担当している案件だ。

 いくら克哉や藤田が頑張ろうとも、最早どうにもならないことを御堂は知っているが、それを顔に出さずに藤田を励ました。

「コンサルティングはこの一件だけじゃない。一喜一憂しても仕方ない。もっと大局を見るんだ、藤田」

「この会社の依頼はこの一件だけです。だから、ひとつひとつ大切にしたいんです」

 

 安直な慰めを正論で返される。反論の余地のない藤田の言葉に苦笑しつつ言った。

 

「佐伯は君に期待しているんだ。だから、常に顔を上げていろ。弱気を見せるな。君ならいずれ佐伯の横に並べる」

 

 克哉には手足となれる優秀な部下が必要だ。だが、それだけでは心許ない。

 対等な立場で物を言える人間が必要なのだ。御堂が今までその任を担っていた。

 しかし、御堂が居なくなった後は、克哉は一人でAA社を負って立つことになる。支える人材は一人でも多い方がいい。そして、出来ることなら克哉が経験を積むまで、逸る克哉を諫めることが出来る人間が欲しい。

 御堂の言葉に、藤田は驚いたように御堂を見返した。

「そんな……。は御堂さんがいるじゃないですか」

 

 曖昧に笑ってごまかす。

 

「私だって、常に佐伯の傍にいるわけではない。佐伯だって生身の人間だ。いくら優秀でも出来る仕事量は限られる」

「ですが、俺、佐伯さんに迷惑かけてばかりで」

 

 情けない表情を見せる藤田に活を入れた。

「藤田、行き詰まったら、一つの視点からだけでなくて、いくつもの視点から物を見ろ。困ったとき、佐伯ならどうするか、そう考えるんだ」

「ああ、それ!」

 御堂の言葉に藤田が突然食いついた。

「何だ?」

「佐伯さんがよく言っていました。『こんな時、御堂さんならどうしていた?』って」

「何?」

「MGN社の時の話です。佐伯さんが開発部の部長になって、何か問題が起きる度に、『こんな時、御堂さんならどうしてた?』ってよく言ってたんです」

「佐伯が?」

「ええ」

「……佐伯は、MGN社ではどうだったんだ?」

 

 先日聞きそびれたことを聞いてみる。

 MGN社を御堂が辞めた後、御堂の地位に就いた佐伯。彼は一体どのように振る舞っていたのだろう。

 自分が知らない克哉の一年間。それを聞くのは怖くもあり、興味もあった。

 藤田は、少し考えあぐねて、次の言葉を探して言った。

 

「そうですね……。やっぱりやりにくそうでした。実力で大抜擢されたとは言え、子会社からの転籍でしたし。あの若さで御堂部長の後任でしたから、部の内外から風当たりが強くて。何か指示を出すたびに、反発が起きて、結局佐伯さん自身が動かないといけないことも多かったです」

 

 いわゆる妬みによる嫌がらせなんですけど、と藤田は小さく付け加えた。

 

「でも、佐伯さんは、プロトファイバーのプロジェクトに、誰よりも真剣に取り組んでいましたから、自分から率先して面倒な仕事を引き受けて。で、問題が起こるたびに、僕たちに問い質したんですよ。『こんな時、御堂さんはどうしていた? 御堂さんのやり方を思い出せ』って」

 

 藤田が、口を尖らせて克哉の口調をまねる。

 

「それでも最初の頃は全くまとまらなくて。そんな中、生産ラインのトラブルが起きたんです。でも、みんな責任の押し付け合いばかりして。そうしたら、遂に佐伯さんが怒って。『俺は何と言われてもいい。だが、前任者から引き継いだ仕事は決して疎かにはしない。だから、お前たちも御堂さんがやりかけた仕事を汚すな』と一喝したんです。その一言で部内全員をまとめ上げましたね。後にも先にも佐伯さんが怒った姿を見たのはあの一回だけでした」

「そんなことがあったのか……」

 

 その時の佐伯の雄姿を思い出したのだろう、藤田は胸を誇らしげに反らした。

 プロトファイバーの大成功は、いくら目を逸らそうにも業界の内外で大きな話題となっていた。MGNを辞めてからもプロトファイバーを目にする度に、克哉のことを思い出して、激しい苦悶に呻いた。克哉が御堂との実力差を知らしめているように思えたのだ。

 だが、その裏には、御堂から託されたプロジェクトを成功させようとした、克哉の切実な想いと身を削る努力があったのだ。

 もし、克哉が御堂の座を奪ったことを悔いていたとしたら、目の前にいない人物に対して償い続ける心情は、際限なく苦しいものであっただろう。

 そして、克哉はMGNで積み上げてきた全てを放り出して、AA社を立ち上げた。克哉が辿った軌跡から、克哉の人知れぬ葛藤を推し量る。

 胸の奥深いところがずくりと疼いて、きつく締め付けられた。

 そんな御堂に気付かずに藤田は言葉を続けた。

 

「佐伯さんは、自分の手柄を主張することはなくて、褒められる度に『前任者が道を拓いてくれましたから』って言っていたんですよ。俺、てっきり、御堂さんに遠慮しているのかと思っていたんですけど、分かりましたよ」

 藤田は眼差しを御堂にまっすぐと向けた。

 

「佐伯さんは、御堂さんに憧れていたんですね」

「私に?」

「だから、御堂さんを追いかけてMGN社を辞めて、一緒にAA社を立ち上げたんでしょう?」

 

 思わぬ言葉に、御堂は小さく首を振った。

 

「それは違う。佐伯は私がいなくても、AA社を立ち上げていた。私たちが会ったのは偶然なんだ」

 

 あの時、御堂と克哉が再会を果たさなくても、克哉はAA社を起業していただろう。再会したときには既にプランは出来上がっていた。そこに御堂は誘われただけなのだ。

 御堂がいなくなってもAA社は存続できる。本来の形に戻るだけなのだ。

 克哉は実力もさることながら、最大の強みは圧倒的なカリスマ性だ。集団の中で自然と注目を集めて主役となる。そんな魅力を持っている。

 克哉がAA社の社長となることに異存はなかった。克哉がいてこそのAA社だ。御堂の替えはきいても、克哉の替えはきかない。

 御堂の言葉に藤田は首を傾げた。

 

「僕は、佐伯さんは御堂さんを目指してAA社を立ち上げたんだと思います。俺も一緒だから分かるんです」

「一緒?」

「憧れの人を目指して、少しでも近づきたくて追いつきたくて、一生懸命頑張る気持ちが一緒なんです。俺にとっては、佐伯さんや御堂さんが憧れの人で、佐伯さんにとっては御堂さんが憧れの人だったんだなあ、って」

 御堂はじっと藤田を見据え、口を重く動かした。

 

「藤田、佐伯は私を目指してなどいない。そして、君も佐伯を目指してはいけない」

「え?」

 

 不思議そうな顔をしてみせる藤田に、強い口調で語りかけた。

 

「目指しているだけでは決して追いつけない。横に並ぶことが出来るのは、追い越そうとする者だけだ。だから、藤田、お前は佐伯を超えてみせろ」

 

 克哉は御堂の隣に並びたいと言った。

 だから、克哉は御堂を目指すのではなく、御堂が目指したその先を目指したのだ。追いつこうとする者は決して横に並ぶことはできない。追い越そうとする者だけが並び立つことが出来るのだ。

 御堂の言葉に触れた藤田が、束の間、難しい顔をして考え込んだ。そして、顔を輝かせる。

 

「俺、追い越します! 御堂さんも佐伯さんも、追い越してみせます」

 

 臆面もなく興奮し息を弾ませて、御堂に告げる。

 微笑んで返した。

 

「その意気だ。ひとまず、来週に向けて、週末はしっかり休め」

「はい!」

 

 藤田の眸が活き活きと光りだす。溌剌とした声で御堂に挨拶し、AA社を出る藤田を見送った。

 彼ならいずれ、御堂の代わりに克哉のビジネスパートナーを務められるだろう。

 御堂はAA社に誘われてから、克哉が目指すところを見据えている。

 輝かしい未来、そのヴィジョンを脳裏に描く。

 目指すその先、克哉はそこにいずれ立つ。これは希望的な観測ではない。確信だ。

 だが、その時、克哉の横に立つのは、最早御堂ではない。それを思うと、みぞおちのあたりが苦しくなった。

 藤田が帰って少しして、克哉がAA社に戻って来た。

 克哉は大学の研究室に向かったと藤田が言っていた。御堂が昨日、名を偽って訪れた研究室だ。

 厳しい顔をして戻ってきた克哉を見て、肌の下に緊張が走るが、克哉は御堂と型通りに挨拶を交わすと、それ以上目もくれずに自分のデスクに着席してパソコンを立ち上げた。そのままパソコンに向かって作業を行っている。

 二人だけの静かな社内に、キーボードを叩く無機質な音だけが響く。

 会話もなく時間だけが一刻一刻経っていく。

 克哉は難しい顔をしたまま、御堂の方に意識を向けようともしない。

 その胸中で何を考えているのだろう。

 クリスタルトラストのTOB撤退も耳に入っているはずだ。そして、大学の研究室との共同研究が立ち消えになったことも合わせれば、どんな愚鈍な人間だって背後に何かあると気付くだろう。

 この一連の件に御堂が関わっていることに、克哉は気付いただろうか。

 そして、克哉はどんな選択をするのだろう。JTC社の特許実用化を中断するのか、それとも、諦めずにあがくのか。

 だが、それを自分から問い質すことも出来ずに、御堂は小さくため息を吐いた。

 今や、残っているのはAA社だけだ。

 克哉がJTC社から手を引く判断をすれば、内河との協力関係も終了する。

 そして、克哉がこの一連の妨害の首謀者が御堂だと気付けば、御堂一人の私怨による妨害工作として今回の件は説明される。

 後は克哉が背任行為を行った御堂をきっちりと処分して解雇することで、AA社は再び信頼を得ることが出来る。日本政府は決して表に出ることはなく、全ては丸く収まるのだ。御堂一人を除いて。

 二人きりの社内、息が詰まるような静けさが凝っていく。

 しばらく視界の端で克哉の様子を見守っていたが、御堂は緊張に張り詰めていた神経を緩めた。

 今日はもう、これ以上動きはないかもしれない。克哉は、大学に残した御堂の手掛かりに気付かなかったのだろう。

 意識を切り替えて、御堂はパソコンをシャットダウンすると、鞄を手に持った。

 克哉に顔を向けて声をかける。

 

「それでは、失礼する」

「ああ」

 

 ほんの少しの間、照明に照らされる冷たげに整った克哉の横顔を眺めた。

 だが、克哉は御堂に視線も返さずに、素っ気ない返事をする。

 背任行為を行ってから退社の挨拶をするたびに、これが”最後”になるかもしれないと覚悟した。思い残すことがないように、一日一日を過ごしてきたつもりだ。

 だが、この分だと、克哉の判断は持ち越しで、来週も御堂は出勤できそうだ。

 その事実に安堵と不安と後ろめたさが、境目なく胸に広がっていく。

 未練がましく克哉の顔を見続けようとする自分自身にけじめをつけて、克哉に興味がない態度で振る舞い、克哉に背を向けた。

 執務室を出ようとした寸前だった。

 

「御堂、これ、落ちていたぞ。あんたのだろう」

 

 突然背中にかけられた克哉の声が、御堂の足を縫い止めた。

 心臓が不穏に跳ねた。

 ゆっくりと足を止めて、振り返った。

 克哉が、椅子から立ち上がり、じっと御堂を見据えていた。

 レンズ越しの眸がぶれることなく御堂を捉える。

 克哉がデスクの前に移動し、御堂に向けて手を差し出した。その掌に、キラリと光る小さな金属の装飾品が見えた。

 頭の芯が、じんと痺れる。

 脈打つ感覚が肌の下で疼き、瞳孔が開く。

 動揺を悟られぬよう、無駄を省いた動作で歩み寄り、克哉の掌に視線を落とした。

 昨日、御堂が研究室に落としたオニキスのカフスボタンがそこにあった。

 克哉の手を借りて、今、御堂の元に戻ってこようとしている。

 ドクドクと心臓が皮膚を突き破りそうなほど大きく鳴りだした。

 指を伸ばして、克哉の手からカフスボタンをつまみ上げた。

 指先に触れた、克哉の掌。一瞬の接触に、ぴりっとした電気が走ったかのようだ。

 震え出しそうになる指先に力を込める。爪の先まで神経を張り詰めさせて、小さなカフスボタンを自分の掌に包み込んだ。

 オニキスが克哉の熱を留めて、温かい。

 紛れもなく、御堂のカフスボタンだ。

 克哉は大学の研究室からこれを持ち帰った。それが指し示す真実と共に。

 肌を突き刺すような、真剣な克哉の視線を感じる。

 克哉が無言の裡に御堂を見つめて、問う。

 突きつけられた選択肢に心が揺れた。

 これを自分のものだと認めれば、もう言い逃れは出来ない。克哉は御堂が背任行為を行ったことを確信するだろう。しかし、違うと言い張れば克哉は疑心を抱きながらも、目を瞑って、御堂を傍に置いてくれるかもしれない。

 だが、今更だ。

 いくら偽ったとしても、克哉を裏切った過去をなかったことには出来ない。どんなに覆い尽くそうとしても、過去は足元に存在し続けるのだ。

 克哉の元に居ようと思ってはいけない。この一週間、自分は克哉の期待をことごとく裏切って来たのだ。

 希望を持てば、その後に続く絶望はそれだけ深くなる。それは克哉だけの話ではなくて、自分こそ、そうなのだ。

 心を貫く痛みを振り切って、御堂は顔を上げた。笑みさえ浮かべてみせる。

「……ああ、これは私のだ。よく分かったな」

 

 御堂の返答を聞いて、克哉の顔が悲痛に陰った。

 克哉もまた期待していたのだ。これは自分のカフスボタンではない、と御堂が否定することに。

 そんな克哉に気付かぬふりで、柔らかな表情を保つ。

 克哉が全てを抑えた声音で言った。

 

「木曜日にこれを付けて出社しただろう。そして、帰り際には片方無くしていた」

「そんな事、私は言わなかっただろう? 君はよく見ているな」

「ああ」

「ありがとう。探していたんだ」

 

 にっこりと微笑んで、カフスボタンをジャケットのポケットにしまった。

 さりげない手の動き、指先の神経一本一本の細やかな所作まで、克哉の視線が纏わり付くのを肌で感じ取る。

 視線を向ければ、レンズ越しの克哉の眸と真正面からぶつかった。

 

「なんだ?」

「いや……」

「では、先に失礼する」

 

 一言告げて、今度こそ克哉に背を向けた。

 ビルを出て少し歩いて足を止めた。

 振り返って、ビルを仰ぎ、AA社のフロアがあるあたりに視線を留めた。ポケットに入れたカフスボタンがひどく重く感じた。

御堂金PM5
御堂:土曜日AM1時

 AA社が入るビルからほど近いところにあるマンション。その一室で、御堂は窓辺に立って、AA社の方角に目を向けていた。

 克哉はもう、部屋に戻っただろうか。

 克哉の部屋の辺りに視線を彷徨わせるも、克哉の部屋がどれだか見つけることは出来なかった。AA社があるビルの住居フロアの灯りはまばらだ。あの四角い窓が並ぶ中の明かりが灯る部屋と闇に沈む部屋。そのどちらに克哉はいるのだろう。

 そっと握りしめた手の中にはオニキスのカフスボタンが収まっている。

 小さなそれが、存在感を持って御堂の掌を押し返す。未練の塊を手の内に抱えているようだ。

 想いを握りつぶすかのように、拳に力を込めた。固く握りしめるほど、カフスボタンが皮膚に突き刺ささる。

 名残惜しさを振り切って、夜景から部屋へと視線を向けた。

 がらんとした部屋を見渡す。

 部屋の隅には組み立てた段ボール箱が積まれていた。

 辞表も既に用意していた。懲戒解雇ともなれば、この辞表の受け取りは拒否されるだろうが、それでも、自分自身の覚悟を示すために書き上げた。

 AA社を立ち上げる時に引っ越してして、まだ半年ほどしか経っていない。だが、この部屋ももうすぐ引き払う。

 元々持ってきた荷物は少なかった。

 MGNを辞めたときに、住んでいたマンションを引き払った。

 その時に持っていたもの、ほぼ全てを捨てて身一つになったのだ。本当に必要なものなど無いに等しいと知った。

 L&B社に就職して、新しい住まいを決め、生活を整えようとした。だが、持ち物を増やすことは躊躇われた。

 身軽な方がいい。何かあったときに、すぐに逃げられるように。

 そんな卑屈な考えで、自分にとっての重荷になりそうなものは、物質的なものも精神的なものも、何もかも排除した。誰かと深い関係を結ぶこともないだろう、そう思っていたのだ。

 克哉と再会して恋人関係になり、AA社を共に立ち上げる時に、一緒に住まないか、と克哉に誘われた。

 それを断って、自分でこの部屋を探して引っ越した。

 だが、次に引っ越しするときは、克哉の部屋に引っ越すのだろう。頭のどこかで、そう期待していた自分がいる。少なくとも、先週末までは。

 しかし、今行っている荷造りの意味合いは、真逆に変わってしまった。

 御堂は、克哉から遠く離れるために、引っ越しをしようとしている。

――結局、この部屋にも馴染めなかったな。

 

 足元に視線を落とした。

 生活感を感じさせない磨かれたままの床板が鈍く光っている。

 L&B社時代に過ごした部屋は1年。そして、この部屋に半年。

 いつか、自分の帰るべき居場所だと思える所に、たどり着くことが出来るのだろうか。

 克哉によって壊された日常が、克哉の手によって再び形を成した。だが、御堂はその日々を放棄しようとしている。

 失ったものの大きさが、我が身にのし掛かって心を深く沈ませる。

 JTC社の一件がなければ、ずっとあの生活が続いていたのだろうか。

 いいや、JTC社は単なるきっかけに過ぎない。遅かれ早かれ、克哉と御堂は、過去を目の前に突きつけられていただろう。

 ほんの少し前までは手の中にあった普通の日常が、指の間からこぼれ落ちていく。

 もう、二度と取り戻せない。

 胸が切り裂かれるような痛みに襲われた。

 克哉が横に立っていたこの半年、夢見心地と言っても良いほど幸せだったと思う。

 そんな日常が自分を脆くした。克哉から離れようと思うだけで、足元が心許なくなり、立っていることさえ困難になる。

 それでも、きっと、自分なら耐えられるはずだ。また、自分の心を殺せばいい。克哉から解放されたときのように。

 周りの全てから心を切り離して、誰にも縋らず、何も信じずに生きていくのだ。

 克哉に再会する前までは、そうやって生きてきたではないか。

 そう決意しても、こうまで心細く揺らいでしまうのは、克哉と共に歩む日々を知ってしまったからなのだ。期待した分、絶望が深くなる。相手を想い、相手に想われる幸せを実感した分、別離が身に突き刺さる。

 不意に、握りしめていた手の中のカフスが動いた気がした。

 顔を上げて、窓の外に意識を向けた。眼差しの向こうに広がる夜の世界。ここのどこかに克哉はいるのだ。

 

「佐伯」

 

 呟いた言葉が耳の奥で反響する。

 途端に、呼吸が乱れそうになり眸が濡れる。滲む視界の代わりに、脳裏に浮かぶ克哉の顔の輪郭が鮮明になった。

 いつか、克哉に関わる全てを、思い出のひとつと割り切ることが出来るのだろうか。

 いや、無理だろう。これからも、克哉のことを思い出すたびに、胸の裡を激しくかき回されるのだ。

 

――君と、離れたくない。

 

 底知れぬ想いが唇を突き破りそうになり、すんでの所で呑み込んだ。溢れ出そうとする想いが、胸を焼いて落ちていく。

 一度でも言葉にしてしまったら、偽りのないリアルな感情に自分自身が崩れ落ちてしまいそうで。

 張り詰めさせた心の糸を、決して緩めてはいけない。

 漏れ出そうになる嗚咽を喉で押し殺す。長く呻いた。

御堂土AM1
御堂:月曜日AM9時半

 定例の朝のミーティングで、克哉はAA社のメンバーを前に静かに口を開いた。

 

「JTC社の特許実用化の試みは中止する。クライアントの依頼は、以上を持って終了とする」

 

 紛れもない事実上の撤退宣言に、社員の面々が驚いた顔を克哉に向けた。そして、御堂も息を詰めたまま、黒目だけを動かして隣の克哉をそっと窺った。

 克哉は御堂に意識を向けることもなく、表情を変えぬまま出席者を見渡した。有無を言わさぬ気配が皆を圧倒する。

 

「待ってください!」

 

 藤田がすかさず声を上げた。

 

「特許実用化はまだ失敗と決まったわけではありません。俺、提携先の候補企業をいくつか見つけています。もう少しだけやらせてください!」

 

 克哉は藤田に顔を向けた。

 

「藤田、お前はよくやった。だが、決めたことだ。この件はこれで終了だ」

「佐伯さんっ!」

 それでも藤田が食い下がる。

 藤田が力を入れていた案件であり、特許実用化のプロジェクトも途中までは上手くいきかけていたのだ。

 克哉のにべもない態度に、藤田は御堂に体ごと顔を向けた。

 

「御堂さん! 御堂さんはどう思いますか?」

 

 懸命な表情で訴える藤田を、視線を落として遮った。

 

「私は、佐伯の判断を支持する。特許実用化を中止しても、それ以外の経営改善策で及第点はクリアしている」

「――っ」

 藤田が唇を噛み締め、悔しそうに黙り込んだ。

 

「JTC社の件は以上だ」

 

 克哉は、淡々とした口調でその他の連絡事項を告げると、ミーティングの終了を宣言した。

 ミーティングルームからスタッフが退室していく、

 克哉はデスクの上の資料をまとめ、うつむく藤田に顔を向けた。

「藤田、今日はこの後、先方に契約終了の挨拶に行く。特許に関する説明は俺がするから、お前は契約書類をまとめて合流しろ」

「……はい」

 

 そう言って、克哉は御堂に一瞥をくれることもなく、ミーティングルームを出ていった。その後を藤田が追いかける。

 

――終わったのか? 本当に?

 

 あっけない幕引きに現実感が伴わない。克哉は御堂に何も言ってこない。その胸の裡で何を考えているのか全く読めない。

 しかし、克哉は撤退の判断をした。

 これで、御堂の役目は終わったのだ。

 自分が画策したとおりの結果を目にしながら、達成感も何も無く、途方も無い喪失感に包まれた。

 

 

 

 午後、JTC社から戻って来た藤田にさりげなく話を聞いてみた。

 

「JTC社はどうだった?」

「特許の実用化が出来なかったことは残念ですが、社長は佐伯さんに、すごく感謝していました」

 

 藤田の顔に、朝のミーティングで見せた苦渋は残っていない。むしろ、晴れ晴れとしていた。彼の中で踏ん切りが付いたのだろうか。

 

「AA社のコンサルティングの成果に満足してくれたということか?」

 

 新規事業参入のための経費の捻出は出来ていない。結局のところ、現事業の徹底的なコストカットと生産効率を高めるという無難な既存案に落ち着いてしまった。

 藤田は、ええ、と頷いて、説明を付け加えた。

「クリスタルトラストの買収劇がメディアで話題になって、JTC社に注目が集まったこともあるみたいです。製品の注文が一気に増えたと言っていました」

「そうか」

 

 確かに、それはあるかもしれない。

 結果的に、JTC社は悪名高い外資系ファンドを撃退したのだ。それは、日本国民の愛国心を大いに刺激しただろう。話題性がいつまで持つかという疑問はあるが、JTC社を応援したいという気持ちは湧いたはずだ。

 最後に一つ、藤田に念を押す。

 

「それで、JTC社との契約は終了したんだな?」

「ええ、終わりました。今から、報告書を仕上げます」

 

 藤田は、迷いなく言い切った。

 その日一日、それ以上何事もなく、驚くほど静かに終業時間を迎えた。

御堂N月9時半
御堂:月曜日PM9時

 内河の滞在するホテルに訪れると、部屋の応接間に通された。ソファに座り、くつろぐ間もなく本題を切り出した。

「我が社は、JTC社から手を引いた」

「ああ、既に確認は取っている」

 

 内河も連絡を受けていたようで、柔らかい表情を変えないまま御堂に返した。

 

「内河、お前との取引は終了だ」

「協力に感謝する」

「確認するが、これで、AA社に行政処分が下されることはないのだな?」

「もちろんだ。俺が約束する。ダミー企業も準備できたし、あとはJTC社に我々が赴いて、特許を買い取る取引を持ち掛ける。そして、特許を移転・保護して終了だ」

 

 内河も終わりが見えたことに安堵を感じているのだろう。両手を天井に向けて、大きく背筋を伸ばした。

 実質、一週間という短い期間だったとはいえ、あまりにも多くのことがありすぎた。

 だが、これで御堂の任は終えたのだ。その事実に、ほっと胸を撫で下ろす。

 内河が立ち上がって、部屋に備え付けられたミニバーへと足を向けた。棚からグラスを手に取り、並べてある酒の数々に目を流す。

 

「せっかくだから何か飲んでいくか?」

「いや、結構だ。私は失礼する」

 

 早々にソファから腰を浮かせかけた御堂を内河が引き留めた。

 

「御堂、この後、どうする気なんだ? 責任を取ってAA社を辞めるつもりだろう?」

「お前には関係のないことだ」

「巻き込んだ俺の責任でもある。次の当てがないならしばらくアメリカにこないか。俺はこの件が片付き次第、アメリカに戻る。お前も来い。現地の会社をいくつか紹介するぞ。御堂なら引く手あまただ」

「内河、いちいちお節介なんだ、お前は」

 

 そうは言いつつも、渡米するというプランは考えていた。

 全てが落ち着くまで、克哉のことを思い出さずに済むように、物理的な距離を取ったほうがいいだろう。だからこそ、この一週間、合間合間に荷造りを進めていた。

 内河も、ほとぼりが冷めるまで日本にいるな、と言外に匂わせている。

 御堂は重大な国家機密を抱えている。万一にも漏洩することを恐れているのだろう。

 だが国外に出るにしろ、内河、ましてや日本政府の手は借りたくはない。

 冷ややかな眼差しを内河に投げ返すと、鞄を手に取り、立ち上がった。

 顔を上げれば、高層階の部屋の壁一面を覆う窓から広がる、東京の夜景が目に飛び込んだ。

 地上に展開する無数の輝き。その真ん中に大きな黒い影が落ちている。皇居から日比谷公園の一帯だ。昼間は濃い緑に覆われる美しいエリアだが、夜は人工の光の海の中で、ぽっかりと大きく口を開いた闇の空洞のようだ。

 そこに自分の心を重ねた。暗い影を取り囲む眩い光が痛いほど目に沁みる。

 これで、お仕舞いだ。

 これで、よかったのだ。

 心からそう思うのに、心臓がひしゃげそうなように軋む。

 克哉が世界を手に入れるとき、御堂はもう、克哉の隣にいない。ただ遠くから克哉の活躍を眺めることしか出来ないのだ。

 忘れたい過去が、もうひとつ増えただけのことだ。

 そう納得しても、今までのどんな出来事よりも、胸が深く抉られる。

 克哉が存在しない日々を積み重ねれば、いつか克哉を忘れて、この胸の奥の感情を拭い去ることが出来るのだろうか。

 いや、逆だ。

 この感情を拭い去ることができない限り、どれほど空白の日々を積み上げようとも、克哉を忘れることなんて出来ないだろう。

 忘れるから、想いが消え去るのではない。

 想いが消え去るから、忘れるのだ。

 不意に気付いた。

 

「……私が、間違っていたんだ」

 

 全ての事象が点となり結び合わされ、一つの軌跡を描く。

 どうして気付かなかったのだろう。こんな単純なことに。

 こんなにも軌跡ははっきりしていたのに、自分は軌跡の指し示すベクトルとは真逆のところに点を打とうとしていたのだ。

 

「どうした?」

 

 衝撃に全ての動きを止めた御堂に、内河が胡乱な視線を向けた。

 

「いや、何でもない」

 

 今さら、もう遅い。最早、全ては終わりを迎えようとしている。

 未練を振り切って踵を返し、部屋を出ようとした寸前、部屋の内線電話が鳴った。

 内河がミニバーから離れて、電話を取る。

 ホテルのフロントからの電話のようで、一言二言、言葉を交わすうちに内河の顔が強張った。

 置いた受話器の上に留めた手元に、考え込むような視線を落としたままの内河に声をかけた。

 

「何かあったのか?」

 

 内河が、御堂に顔を向けた。その顔からは先ほどまでの笑みが一切消え失せている。

 

「客が来る」

「客?」

「招いたつもりはないが……」

 

 言葉を継ごうとした内河の声を遮って、部屋の扉がノックされた。

 内河が扉に向かった。ドアを少しだけ開けて、その向こうに立つ人物とやり取りをする。

「誰だね、君は?」

「俺のことはよくご存じでしょう、内河さん。一度お会いしたこともありますし」

 

 耳に馴染んだ声が響く。驚いて目を向ければ、内河の頭の向こうに、明るい髪色が見えた。

 

「何の用だ?」

「俺も話に混ぜていただきたいと思いまして。あまり、人目に付きたくもありませんし、中に入れていただけませんか?」

「……分かった」

 

 扉を挟んで、言葉を交わしていた内河が体を引いて、扉を大きく開けた。

 長身のスーツ姿の人影が中に入ってくる。

 端正な顔立ちにシルバーのメタルフレームの眼鏡。克哉だ。

 唖然として、立ち尽くしたまま言葉を失う。

 克哉は部屋の中にいた御堂を一瞥した。視線がほんのひと時交わるが、克哉は御堂の存在を当然予想していたかのように、驚くこともなく、ごく自然に視線を逸らされた。

 

「確か、佐伯さん、でしたね。どうぞ」

 

 白々しく言ってのける内河が応接間のソファに克哉を案内した。目の前を克哉が横切って、さっきまで御堂が腰掛けていたソファに着席する。それを呆然と目で追った。

 内河が克哉の正面に腰をかけた。

 

「それで、どうしてこちらに?」

 

 黒目だけ動かして御堂に目配せして問う内河に、慌てて首を振った。

 御堂は全く以てあずかり知らないことだ。

 内河も御堂の表情から、御堂を信じたようで克哉へと視線を戻した。

 克哉は正面に座った内河を見据えたまま、笑みを浮かべた。

 

「御堂さんからは何も聞いていませんよ。情報収集に長けた知り合いがいましてね。あなたの居場所を教えてもらいました」

「ほう。……それで、突然こんなところに来て、何の御用ですか?」

 

 素知らぬ振りをして内河が切り出した。

 

「弊社に関する話は俺を通してほしいですね、内河さん」

「一体、何の話かな」

 

 白を切る内河に、克哉がニヤリと笑みを返した。

 

「俺と取引をしませんか?」

「取引? 悪いが、何を言っているのか分からないな」

「実は、たまたまある特許を手に入れたのですが、興味をお持ちかと思いまして」

「特許だと?」

 

 克哉の言葉に、内河がさっと顔色を変えた。

 

「ええ。JTC社が持っていた特許で、弊社で実用化を目指したのですが、残念ながら提携先がことごとくダメになって、とん挫しましてね」

 

 克哉は、目の前の人物がその黒幕であることを知っている素振りで、あてつけがましく肩を竦めてみせる。

 

「この特許は実用化の見込みなしとJTC社が判断したので、弊社での購入を申し出たら快く譲っていただけました。すでに、特許移転の契約は締結済みです」

 

 克哉は鞄から書類を取り出して、二人の間のテーブルに無造作に放った。内河がそれを手に取り、食い入るように確認する。

 御堂も端から覗き込んだ。

 その書類はJTC社とAA社の間に交わされた特許の売買契約書だ。しっかりと体裁をなしており、法的拘束力が発生するものだ。

 契約書の日付は今日になっている。買い取った金額は5千万。JTC社が新規事業参入のために必要としていた資金だ。

 克哉は特許を買い取ることで、JTC社が必要な資金を与えて、JTC社との契約を終了したのだ。JTC社の社長が克哉に深く感謝していたのは、そう言うわけだったのだ。

 書類を掴む内河の手が細かく震える。

 してやられた。

 コンサルティング業を生業とするAA社が特許を買い取る可能性を、微塵も念頭に置いてなかった内河の顔から血の気が引いていく。唸る声で問い質した。

 

「一介のコンサルティング会社である君の社が、この特許を買ってどうする気だ?」

「弊社のことをよくご存じで。おっしゃる通り、弊社がこの特許を持っていても宝の持ち腐れです。どうしようかと悩みましたが……」

 

 そう言い切って克哉が悪辣な笑みを浮かべた。ゆっくりと口を開き、一言一言区切って言った。

「弊社は、この特許権を放棄します」

「なんだと……?」

 

 驚愕に御堂も内河も言葉を失った。

 克哉が肩を揺らして笑いながら、愉しげに言葉を続ける。

「特許権を放棄すれば、この特許の詳細が全世界に向けて公開される。誰がどのようにこの特許を使っても差し支えない。世界のどこかで早々に実用化されるかもな」

「馬鹿な……。君はこの特許がどれだけの経済的価値を持つか、また、世界情勢にどれ程の影響を与えるのか知っているのか! そんなことをすれば、売国奴の誹りを免れないぞ。断じて、許すか!」

 

 普段は冷静沈着な内河が、たまらずに声を荒げて怒鳴った。目が据わり、纏う迫力が凄みを増す。一国を背負って他国との折衝を担う、外交官の本気を目の当たりにする。

 日本の技術や特許は、資源を持たないこの国の大切な財産だ。特許の諍いは国同士の争いへと発展するほどの価値を持つ。克哉が手に入れた特許は、上手く用いれば巨万の富を生み出すだろう。同時に、戦争を激化させる可能性も秘めている。

 そして、5千万円という大金を払って入手した特許を、克哉はいとも簡単に捨てようとしているのだ。

 しかし、克哉は臆することなく、口の端に意地悪い笑みを浮かべたまま内河に返した。

 

「許す? 心外ですね。俺は法律に則った権利を行使するだけです。俺を止めて見せますか? だが、あなたが戦う相手は、最早、俺ではない。この国の法律だ」

「……っ!」

 

 内河が言葉を失した。

 企業からの特許の売買も、克哉が行おうとしている特許権の放棄も、全て法律で認められた権利だ。そこに無理やり行政が介入して法をないがしろにすれば、法治国家の根幹が揺らぐ。だからこそ、法的拘束力が発生する前に、と急いで物事を進めてきたのだ。

 内河が激しい憤りに、握りしめた拳を戦慄かせた。

 

「君がやろうとしていることは、戦争を激化させる。それこそ、新たな世界大戦を引き起こすかもしれない。それでも良いのか!」

 内河の脅す言葉にも克哉は動じなかった。

 

「国? 世界? そんなことは知ったことじゃあない」

「佐伯……!」

 傲岸不遜な態度の克哉を横から鋭く咎めた。

 内河は政府側の人間なのだ。その気になればAA社を簡単に潰すことさえするだろう。

 いくら特許という切り札を手に入れたとはいえ、国という巨大な権力を前に、圧倒的不利な立場にあることは変わらないのだ。

 脇から口を挟んだ御堂に克哉はちらりと視線を送った。その眸は深く、潔さを持っていて、御堂は二の句を告げなくなった。

 克哉はおもむろに内河に視線を戻し、低く深い声で言った。

「俺には大切にしたいものがある。それはこの国や世界を敵に回しても、守りたいものだ」

 

 はっきりと言い切られ、内河は押し黙り、そして真正面から克哉を見据えた。克哉も鋭い眼光をぶらさずに内河にぶつけてくる。そこから、克哉の揺るぎない決意が伝わってきた。

 互いの気迫が拮抗して見えない火花が散る。一触即発の張りつめた緊張に部屋の温度が一気に氷点下まで下がったかのようだ。長く重い沈黙が部屋を支配した。

 その沈黙を破ったのは内河だった。

 内河がふう、と息を一つ吐いて、克哉に向ける表情を緩めた。

 

「君の覚悟は分かった。君が言う取引を聞こうじゃないか」

 内河を交渉のテーブルに引きずり出すことが出来て、克哉は纏う雰囲気を一転させた。にっこりと端正な笑みを浮かべてみせる。

「取引といっても単純なものです。我が社が持つこの特許を必要とあらば、お譲りしましょう。相応の金額をお支払いいただければ」

「……いくらだ?」

「一億円で」

「一億だと?」

 

 内河が絶句する。

 それもそうだ。克哉は今日、JTC社から特許を5千万円で買い取ったのだ。それから一日も経たずに、倍の金額で転売しようとしている。

 

「口止め料込みの金額です。たった一億で、あなたの言う国の利益や世界平和が買えるとしたら安いものでしょう」

 

 平然と言ってのける克哉に内河は眉を顰め、しわが寄った眉間に拳を押し当てた。少しの間考え込んで、顔を上げた。

 

「……君の言う条件を呑もう」

「それでは、取引成立ということで」

 

 克哉は端正な笑みを崩さぬまま、さっと立ち上がった。内河に向かって手を差し出す。

 顔をしかめながら、内河はその手を軽く握り返した。

 

「明日、君の社に人を寄越す」

「承知しました」

 

 克哉と内河はその場で一言二言、取引の打ち合わせをして、互いの了解を得ると別れの挨拶を交わした。

「それでは失礼します」

 克哉はテーブルの上の書類を集めて自分の鞄にしまった。

 その場を辞そうとするがてら、部屋の隅で突っ立ったままの御堂に、さっと歩みを寄せた。レンズ越しのまっすぐな視線が御堂に向けられる。

 そして、声を忍ばせて一言、言った。

「御堂、あんたはもう自由だ。俺からもAA社からも」

「佐伯……」

 

 喉が震えて、声が出ない。

 克哉は御堂の返事を待つこともなく、御堂の脇を通り抜けて、部屋を出ていった。

 扉が閉まる音を確認して、内河がソファにふんぞり返った。

 背もたれのてっぺんに頭を預けて御堂を見上げる。

 

「完全にしてやられたよ。お前のところの社長、全て見抜いたのか。挙句、日本政府を脅してきやがった。流石、御堂が下につくだけのことがあるな」

 

 予想外の展開に、苦笑いしてみせる。

 だが、御堂の心は既に別のところにあった。

 居ても立っても居られず、気もそぞろに内河に声をかけた。

 

「内河、私はもう……」

「ああ、行けよ。もう、今回のプロジェクトで俺たちの協力関係は終了している。今更、何も隠すこともない。早く追いかけろ」

「すまない。失礼する」

 鞄を引っ掴んで、飛び出す勢いで部屋を出た。視界の片隅で内河がソファに背を預けたまま御堂に向かって、軽く手を挙げるのが見て取れた。

 高層階のエグゼクティブフロア、エレベーターホールでじりじりと焦りながらエレベーターの到着を待つ。

 苛立つほどの優雅な速度で開いたエレベーターに飛び込んだ。途中途中で乗り込んでくる客にきつい眼差しを向けながら、ロビーフロアに到着した時には、克哉の姿はどこにも見当たらなかった。

 四方に首をねじって周囲を見渡していると、ホテルマンがにこやかな笑みを浮かべて近づいてきた。

 

「何かお探しでしょうか」

「結構だ」

 

 懇切丁寧なホスピタリティが売りのホテルマンを、ぴしゃりと拒絶する。

 ホテルの中に克哉はいない。

 速足でエントランスをくぐり抜けた。正面玄関に付けられたタクシーに並ぶ客の列にも、克哉の姿はなかった。

 タクシーを使わなかったのだろうか。

 だとすれば、どこに。

 思考を巡らせて、一つの可能性に思い当たった。

 ここは、L&B社の近くだ。

 不安と焦燥、そして、一抹の期待に駆られて駆け出した。

 克哉を追いかけるのはこれで二度目だ。一度目はあの冬の日。

 あの時、御堂は、好きだと告げるために、克哉を追いかけた。

 そして、今、何を伝えるために克哉を追いかけるのだろう。

 衝きあげるひとつの想いが胸を焦がす。

 今、伝えなくては、きっと一生後悔する。

 街灯に照らされた、色を失った道を走る。

 街の喧騒が遠ざかり、人の気配が消え去る。閑散とした夜のオフィス街が目前に広がった。

 そして、あの場所。

 街灯が等間隔に心許ない光を落とす中、探していた後姿が視界に飛び込んだ。

 夜の静まりに、焦りに乱れる足取りがアスファルトを不規則に踏み鳴らす音が響く。

 目の前の人物が、御堂の気配に気づいて足を止めた。

 あと、数歩のところまで距離を詰めたところで、スーツ姿の背中に声をぶつけた。

「佐伯!」

 克哉を視界にとらえて、喉が苦しいほどに痙攣する。その後の言葉が続かない。呼吸と鼓動を整えようと、眼差しを地面に落とした。

 胸には痛みと昂ぶりが満ちている。

 自分が行ったことは全て克哉に知られている。克哉やAA社のためだったと釈明する気持ちもない。

 伏せた視界の中で、克哉の磨かれた革靴の先がゆっくりと御堂の方を向いた。

「御堂」

 

 二人を覆う沈黙を克哉が破る。静かな声が、鼓膜に触れた。

 

「俺はあんたを手放したくない」

 

 ハッと顔を上げた。克哉の強い眼差しが御堂を射ている。

 何を言えばいいのか、もどかしく言葉を探していると、克哉が続けた。

 

「あんたは俺と一緒にいた方が良いと思っていた。俺はあんたを幸せに出来ると自負していた」

 

 克哉は、そこまで言って言葉を切った。ひとつ息を吐いて、再び口を開く。決意を込めた迷いない口調で告げた。

 

「だが、あんたが俺から離れた方が、今よりも幸せになれるなら、俺はあんたを解放する。俺もAA社も、あんたの重荷にはなりたくない。あんたは好きなようにしろ」

 

 宣言された言葉の衝撃に、呼吸の仕方を忘れた。

 身体の芯が細かく震えだす。

 克哉は御堂が告げた別れを受け止めて、尚且つ、克哉は御堂の裏切り行為を全て承知したうえで、御堂を問い質すことも責めることもせずに御堂が歩もうとする道を後押ししようとしている。

 御堂が向かうその先に、御堂の幸せがあると願って、御堂を信じ、力を貸してくれようとしているのだ。

 目の奥が熱くなった。

 惑いながらも揺れながらも、ただひたむきに御堂の幸せを願い、祈る。

 これが、克哉が御堂への愛にかけた祈りであり、願いであり、誓いなのだ。

 御堂に対する、執着と恋情、希望と不安、思慕と欲望。こじれて絡み合った動機を克哉はひとつひとつ紐解いていった。

 拮抗する感情に翻弄される中で、克哉は自分の想いを純化させた。

 揺るぎない眼差し、静かな言葉。

 それは、まっすぐと御堂に向ける想いでありながら、そこに息苦しい重さはない。克哉は見返りを求めていないからだ。

 切実で優しい想いがじわりと溶けて、沁み込んでくる。

 克哉に別れを突き付けたのは自分でありながら、胸が締め付けられて、空気の密度に溺れそうだ。

 胸の中を占める重い塊に押し潰されそうになる。

 懸命に呼吸を抑えつけて、適切な言葉を探そうとするが、もう、堪えきれない。

 自分の中に押し込めていた想いが、堰を切って溢れた。

「佐伯、君が好きだ」

 自分の口を衝いて出て行く言葉を意識する。

 媚びでも偽りでもない、ありのままの自分の感情が鮮やかに浮かび上がる。

「御堂?」

 克哉が驚いてレンズの向こうの目を瞠った。身体の重心が、ほんの少し後ろに傾き、決意に満ちた表情が揺らぐ。

 思いも寄らない御堂の言葉に、戸惑う克哉を無視して続けた。

 自分が見つけた答えを克哉に伝えたい。

「私の覚悟が足りなかったんだ。愛するという事は、忘れないことだ」

 愛するからこそ、自分の中に相手を刻みつけていく。

 好きな相手とどんな時でも一緒にいたい。それはごく自然な感情だ。

 

「私は君を求める一方で、私にとって都合の悪い君を消し去ろうとしていたんだ。相反することをしようとしていた。だから大きなひずみが出来たんだ」

 

 克哉を求める衝動は確かなものだった。それは、克哉と過ごす間に培われた想いだ。

 だが、克哉は“過去”があっての“今”の克哉なのだ。切り離せるものではない。だが、御堂は、過去の克哉を拒絶した。克哉を求めつつ克哉を拒絶する。その矛盾は大きな歪みを生じる。

 御堂に足りなかったのは覚悟だ。自分の至らなさが、二人の過去を、二人の脅威へと育て上げてしまったのだ。

 過去に目を向けることが恐れに繋がるのではない。過去から目を背けるからこそ、恐れに繋がるのだ。

 克哉とともに歩むという決断は、克哉との過去も含めて全て受け入れるということだ。その覚悟を今、ひしと胸に抱く。

 揺るぎない想いを込めて、言葉を喉から押し出した。

 

「もう、私は忘れない。君の行動を、君の言葉を、何ひとつ忘れない。君に対して沸き起こるどんな感情も、たとえ、恐怖や嫌悪であっても、何ひとつ失いたくないんだ」

「御堂……」

 

 御堂の堂々とした告白に克哉の表情が固まっている。

 それはそうだろう。克哉は御堂を手放すことを決断したのだ。御堂が克哉との別れを望んでいると勘違いして。

 

「君にどう思われようとも、なんと言われようとも、君が、好きだ」

 

 過去を否定しない。克哉を愛したきっかけがどうであっても関係ない。今のありのままの気持ちを曝け出して、叫んだ。

「だから、私と別れるだなんて言うなっ!」

 自分が出した決断を180度ひっくり返して克哉に縋る。

 日本政府が関わっていることが克哉にばれた以上、もう、御堂は克哉から距離を取る必要はなくなってしまったのだ。そうなれば、途端に、克哉への未練に振り回される。

 何が起きたのか、一から順を追って説明してくれれば、克哉の誤解も解けるだろう。だが、そんなまどろっこしい手順を踏む余裕はどこにもない。

 色恋沙汰でこれほど感情に翻弄されたことはない。だが、克哉が絡むと、こうも心のコントロールが難しくなる。

 愕然としている克哉の心情が手に取るように分かる。

 自ら別れを告げて、それをまた、前置きなく撤回しようとしている。克哉は心底あきれ果てていることだろう。

 しかし、一度掴んだものを二度と手放したくない。

 たとえそれが、互いにとっての足枷になったとしても。

 やっと自分の心の軌跡が見えたのだ。その軌跡が向かう先に迷うことなく突き進んでいきたい。

 湧き上がった想いが輪郭を鮮やかにして、唇を突き破っていく。

 みっともなさも何もかも忘れて、叫んだ。

 

「君が好きなんだ。だから、私を捨てるな! お願いだから……っ! ――んんっ」

 

 掠れた声の切実な哀願。最後の言葉は、唐突に吸い込まれた。重ねられた克哉の唇によって。

 押し当てられた唇に、言葉と想いが受け止められる。

 きつく抱きしめられ、回された腕にぐうっと力が込められた。

 開いていた唇に、克哉の肉厚の舌が入り込んでくる。呼吸を忘れるほどに、唇をきつく吸われた。遠慮を知らない克哉の舌に、口の中を埋められる。

 甘く絡め合った舌、深く重ね合った唇の感触に、腰が砕けそうになったころ、ようやくキスを解かれた。

 克哉の腕の輪の中に身体を捕らわれたまま、至近距離から顔を覗き込まれる。居心地の悪さに顔をまともに見返すことが出来ない。

 レンズ越しに克哉の長い睫が微かに震えた。

 

「俺の理解が正しければ、あんたは俺と別れないということでいいのか?」

「ああ」

 

 確認する声に、心臓を震わせながら声を絞り出した。

 

「良かった」

 

 御堂の返事に、克哉は心から微笑んでみせて、再び唇を重ねてきた。

 綻ばした唇に、柔らかく弾力のある唇が押し付けられる。今度は、自らも舌を克哉の唇の間に恐る恐る差し入れた。それは温かく迎え入れられ、尖らせた舌先で舐められてくすぐられる。

 重ね合わせた唇から甘さが滲む吐息が細く漏れる。くちゅ、と混ぜ合わせた唾液が淫靡な音を立てた。

 いくら人の気配がないとはいえ、街灯の暖かい色の光が頭上から降り注いで、二人を照らしている。

 今頃になって、誰かに見られるかもしれないと羞恥が心を掠めるが、口の中に入ってくる熱い舌を退けることは出来なかった。

 口内をたっぷりと舐められて濡らされる。

 克哉に抱きしめられて、千々に乱れていた心が、柔らかくほどけ、そして、力強く形を整えていく。

 名残惜しく唇を放せば、唾液で濡れそぼる克哉の唇が艶めいて光っている。

 恐る恐る顔を上げた。焦点の合いきらない距離に克哉の顔があった。震える声で言った。

 

「君は、私を許してくれるのか?」

 

 一方的に別れを宣言した挙句、克哉のやろうとすることを片っ端から妨害したのだ。謝って済むようなことではない。

 しかし、返事は間髪入れず返ってきた。

 

「許すも許さないもない。あんたがしたいことなら何だって力を貸す。……俺はあんたにずっと惚れっぱなしなんだ」

 

 克哉は御堂に、体温が伝わるほど顔を寄せて言い切った。

 

「惚れた男の弱み、ってやつだな」

「君は……、全く、」

 

 克哉があまりにも堂々というものだから、緊張が崩れて、引き締めていた表情が緩んでしまう。

 夜の風に乱された御堂の髪に、克哉がそっと指を這わせて、囁いた。

 

「家に、帰ろう」

 

 ああ、と御堂も頷いた。

 

 

 

 一週間ぶりに克哉の部屋に足を踏み入れた。

 月曜日の深夜、別れを告げに訪れて以来だ。

 克哉に続いて玄関に入る。そのまま、靴も脱がずに立ち止まっていると克哉が訝しげに振り返った。

 克哉と視線を重ね、全ての想いを込めて、一言告げる。

 

「ただいま」

 

 その言葉に、克哉のレンズ越しの眸がハッと大きく見開かれて、そして優しく綻んだ。

 

「お帰りなさい、御堂さん」

 

 この瞬間から、ここは二人の部屋になる。

 二人が帰る場所だ。

 御堂と克哉がひとつひとつ積み上げた数知れぬ想いは、交わって一つの軌跡を描く。二人が辿った軌跡は、今この瞬間につながっている。

 そして、更にその先へと

 克哉が御堂に向けて両手を大きく広げた。少し照れながら、その腕の中に納まって見せる。

 息苦しいほど、強く抱き締められた。

 

「もう、インターフォンは鳴らさないでくださいね」

「自分の部屋に帰るのに、何故インターフォンを鳴らすんだ」

 

 憮然として言い返すと、克哉が喉で笑った。

 微笑みの形の唇を押し付けられる。

 克哉の唇を受け止めて、その唇を押しつぶす様に自ら重ね合わせる。

 ゆるゆると角度を変えながら、深くキスをかみ合わせていく。

 期待の眼差しを向けられて、甘い痺れが沸き起こった。

 相手の服に手をかけて、脱がせ合う。素肌をまさぐり合う。

 脱ぎ捨てた服に足を取られつつも、身体を絡ませ、もつれ合わせながら部屋の中へと入った。

 一歩ごとに互いの身体に腕を回して、抱擁とキスを繰り返す。触れ合う身体がもどかしいほどの熱を帯びていく。

 ベッドまでがひどく遠く感じたが、太ももの裏にベッドのスプリングが触れたところで、克哉が御堂を押し倒そうと覆い被さってきた。

 体重をかけられて身体が後ろに傾ぐ。仰向けに倒れて、ベッドのマットに沈んだ。

 すぐに、克哉の熱い体温が身体全体を圧して、渾身の力で抱き締められた。御堂の肩口に克哉が顔を埋める。熱い吐息が首筋にかかった。

 

「俺がここにいるのは、あんたがいるからだ」

「佐伯……」

 全ての想いを込めた一言に、心揺さぶれた。

 気付けば克哉の背に両腕を回してしがみついていた。

 理由も、言葉も、いらない。互いを想い合う気持ちがあればいい。

 二人で与え合い、分かち合い、支え合う想いは確かにここにあるのだ。

 克哉の重みを全身で受け止めることが出来ることに、心からの幸福に浸る。

 その気持ちを啄むキスで返せば、唇を押し潰すように、克哉の唇が強く押し当てられる。

 裸の身体を重ね合わせて、触れ合わせていれば、淫蕩な疼きを生み出していく。

 克哉の唇が筋肉の筋に沿って滑らかな皮膚を滑っていく。それだけで、呼吸が淫らに跳ねた。昂ぶる衝動が下腹部に流れ込んでいく。

 お互いの足をきつく絡み合わせれば、克哉の張り詰めた欲望が御堂の脇腹に押しつけられる。そして、自分の欲望もまた克哉の皮膚を押し返す。

 忙しない動きで先を求めて愛撫を繰り返していると、克哉は御堂を貪る動きを不意に止めた。御堂の顔の真横に両手を突いて、渋い表情を浮かべる。

 

「まずいな」

「何?」

「あんたを目の前にすると、我慢がきかなくなる。あんたを大事にしようと誓ったはずなのに」

 

 怖いくらいに真剣に言う克哉の言葉に、思わず笑ってしまう。

 

「我慢なんかするな。好きなだけ、来い。全て受け止めてやる」

 

 言い切った言葉に、克哉が目を大きく瞬かせた。克哉を安心させるように、言葉を足した。

 

「私は、頑丈に出来ているからな」

「……それは十分すぎるほどに思い知らされている」

 

 大きく息を吐きながら、呆れたように克哉が呟いた。そして、気を取り直して笑みを浮かべると喉を鳴らして笑った。

 

「その言葉、後悔しないでくださいよ。孝典さん」

「後悔なんかするものか」

 克哉の首に両手を回して引き寄せる。「克哉」と小さく呟いて、唇を押しつければ、すぐにねっとりとした濃いキスが返ってきた。キスの合間に掠れた声で囁く。

 

「私を無茶苦茶にしてくれ」

「あんたって人は」

 

 そう言いながらも、克哉は獰猛な光を宿した眸を御堂に向けた。

 お互いをずっと渇望していたのだ。今さら我慢する必要なんてない。

 克哉の大きな掌が身体の輪郭を辿っていく。

 胸の尖りを柔らかく弄られて、身体を小さく引き攣らせる。胸の粒は赤く熟れて、どこもかしこも、神経が鋭敏に研ぎ澄まされている。触れられて熱を持った肌にキスが散らされ、濡らされていく。

 克哉の顔が下に降りていった。

 股間に頭を埋めて、御堂に奉仕しようとする克哉の頭を両手で押さえた。動きを止められた克哉が窺うように、レンズ越しに黒目だけで見上げる。

「私もしたい」

「そういうことなら」

 

 素直に欲望を口にすると、克哉はニヤリと笑って、顔を上げた。

 横たわる克哉の顔にまたがるかたちで両膝をベッドのマットに付く。脈を浮き立たせて勃ち上がっている克哉のペニスを、大きく開いた唇で含んでいく。喉の奥まで克哉を受け入れて、口の中の粘膜で扱いて更に大きく育てていく。

 そして克哉も、恥ずかしいほどに反り返っている御堂のペニスを、尖らせた舌で舐めていく。

 裏筋を執拗になぞられ、溢れだしたとろみの強い蜜を音を立てて啜られた。亀頭を熱い舌がくるみ、その下のくびれから根元まで丹念に舐められていく。

 同時に克哉の指がその奥にある窄まりに触れた。長い指が唾液のぬめりを借りて、ぷつりと中に含まされていく。克哉の指に触れられて、狭い内壁がひくひくと震えた。纏わり付く粘膜を拓きつつ、克哉は腹側にある凝りをゆるゆると撫でていく。

「っぁ……ん、ふ」

 

 前と後ろを同時に責められて、喉から艶を乗せた声が漏れた。息が乱れ、克哉の指の動きに合わせて自然と腰を振ってしまう。

 欲しかったものを次から次へと与えられて、身体はどうしようもなく発情していく。

 すぐに下半身の刺激に喘ぐことしか出来なくなった。克哉のペニスはかろうじて口に咥えている状態だ。

 堪えようにも堪えられない。果てそうになった寸前、全ての刺激を止められた。

「あ、……っ」

「イくのは一緒に、でしょう?」

 今そこにあった極みを遠ざけられて、思わず切ない声を上げてしまう。克哉は、喉で笑うと御堂の口から自分のペニスを引き抜いた。

 克哉がベッドに手を突き身体を起こして、御堂の腰を自分の腰の上へと移動させた。下肢の狭間に、克哉の熱く滾ったペニスが触れる。

「御堂、おいで」

「ぁっ、……く、はっ」

 優しい声で促される。腰を落とす動きに合わせて、克哉がゆっくりと腰を突き上げてくる。

 克哉によって快楽を得ることを教えられた狭い路に、克哉が押し入ってくる。

 痛いほどの圧迫感に全身に力が入る。腰を掴んだ克哉が小刻みに抜いては、前よりも少し深く挿入し、中にゆっくりと馴染ませていく。

 そのじれったいほどの速度に喘ぐ。

「佐伯、もっ、……と。は、やく」

「ん? 何ですか?」

 

 分かっているくせに、意地悪く聞き返してくる男を、欲情に潤んだ眸を吊り上げて睨む。だが、頬を染めながら睨んだところで、余計に克哉を煽っただけだ。

 

「欲しいなら、ちゃんと口にして」

 

 幼子を言い含めるような口調にムッと拗ねてみせるが、克哉はわざとらしく動こうとしない。

 御堂が自分からおねだりを口にするまで、辛抱強く待っているようだ。

 

「こんなに俺を期待しているんでしょう?」

 

 克哉の眼差しが御堂の股間に落ちた。二人の身体の間の空間には、御堂の反り返った性器がある。これ以上ないほど張りつめて、赤く腫れた先端は溢れ出した蜜でしとどに潤んでいる。

 それを直に見られているという羞恥に、ペニスがひくひくと震える。羞恥に頭の中が白んだ。

「佐伯……」

 

 いい加減許してくれ、と懇願しようとしたところで、克哉のくっきりとした鋭い二重にレンズ越しに見上げられて、熱い痺れがぞくりと背筋を這い上がった。

 自らの欲望がどうしようもなく衝き上げる。観念して、言った。

 

「君のを、欲しい。奥まで……」

 

 羞恥に頬を朱に染める御堂に、克哉が驚くほど優しい笑みを浮かべた。

 

「ちゃんと言えたご褒美をあげなくちゃだな」

 

 克哉は両手で掴んでいた御堂の腰を離した。同時に自分の腰を強く突き上げた。身体が灼熱の剛直に貫かれていく。

 

「ひっ! あ、ああっ、かつ、や……ふ、ん、っ……はあっ」

 

 四肢を末端まで震わせて、克哉を深々と受け入れる。内壁を克哉の形にぎっちりと押し広げられて、足の爪先までぴんと張る。

 想像を絶するような苦しさに襲われるが、すぐに繋がったところから痺れるような疼きが込み上げてきた。

 

「御堂」

「ぃ、……いいっ、んぁ」

 

 克哉が腰を揺すり上げる度に声が漏れる。克哉の動きは次第に激しさを増していく。

 力強く腰を遣われる度に、喘ぎが止まらない。苦しさと気持ちよさが渾然一体となって、恍惚とした快楽となる。

 これ以上ないくらいに下肢が密着する。もっともっと克哉が欲しくて、自ら克哉の突き上げに合わせて腰を振り立てた。快楽の上に更なる快楽を積み上げていく。

「克哉……っ」

 

 乞うように名を呼べば、克哉がわずかに動きを止めて顔を寄せる。

 その唇に自分の唇を強く押し当てて、舌を絡ませ唾液を混ぜ合う。切れ切れの息の合間に、互いの名前を呼び合う。

 制御できない感覚に翻弄されながら、欲望に素直に身を任せる。

 とめどなく溢れ出した先走りが、竿を流れ落ち、二人の結合部まで濡らしていく。

 不安定な視界に映りこむ克哉の眉が苦しげにしなり、目元が朱に染まる。全身にうっすらと汗を履いて、濡れた眸に光を散らす克哉は、いつもの余裕が消え失せている。

 口と下腹部で感じる克哉の昂りに引きずられながらも、更なる高みへと克哉を引き上げていく。体内で克哉のものが硬さと太さを増していく。

 克哉の背に回した腕に力を籠めて、自分へと引き寄せた。これ以上ないというくらい、結合が深まる。

 お互いの全てを、魂まで委ね合う、快楽がここにある。

 克哉が切羽詰まった声で低く呻いた。

 

「……孝典」

 

 体内にドッと熱い欲情を流し込まれて、同時に御堂も熱い奔流に攫われた。

 二人の絶頂が絡み合い、目の前に幾多もの光が弾ける。

 頭の中が煮えたぎるほどの極みに自分自身を見失いそうになるが、克哉の背中に必死にしがみつき、そしてまた、克哉に強く抱きとめられる。ゆるく開いた唇がふたつ、触れ合った。

 そこに永遠を視た。

 この一瞬に永遠を閉じ込めて、二人で分かつ。

 絶頂に攫われた身体を戦慄かせながらも、克哉の指が頬に添えられ顔を寄せる。

 濃厚なキスを交わして愛を確かめ合っていると、体内に収められたままの克哉が再び大きく漲ってくる。

 それを感じ取った自分のペニスも淫らに火照り、欲を催していく。

 果てたはずなのに、次から次へと欲求が沸き起こって身体の隅々を支配する。

 貪欲なのは克哉だけではない。自分自身も十分すぎるほどに貪欲だ。

「ふ……ん、か、つや」

 

 淫猥な律動が始まる。自分から腰を揺らめかして、その行為を深めていく。

 何度も体位を変えて交わり、欲情を放つ。

 

「好きだ」

 

 どちらともなく互いの名前を呼んで愛を囁き合う。

 この一晩で、何度永遠を視たのだろう。

 そして、果てのない幸福に二人の魂を溶かし合った。

 

「ん……」

 激しい絶頂の余韻に大きく息を乱した。下半身は未だ繋がったままだ。

 ぐったりと力を失った身体を克哉の腕に包まれながら、一筋の薄い光に誘われて窓へと視線を流した。

 開かれたカーテンの間から柔らかな気配が差し込んでくる。

 夜明け直前の藍色の世界。東の空が薄く白み、みるみるうちに光が広がっていく。夜が明けようとしているのだ。

 隙間なく立ち並んだビルの合間から、眩い光が溢れだし、空をグラディエーションに塗り替えていく。夜の世界はもうすぐ姿を消し去るだろう。

 鮮やかな色彩が満ちる世界が広がっていく。

 毎朝、これほど美しい空が頭上に展開されていたのだ。

 この心揺さぶる光景の向こうには夜の闇が在った。だが、目の前の光輝く世界へと繋がっているのだ。

 緩やかに散逸していく意識の中で、淡く思った。

 

 いつか、出会ったときから今までの自分たちを、二人でゆっくりと振り返ろう。

 克哉と御堂の間には、憎しみも、恐怖も、愛も、多くの出来事があり、色んな葛藤があった。

 だが、きっと、二人でなら受け止められるだろう。その時には分からなかった景色を見つけられるはずだ。

 克哉と辿った道の中に、今、そして、未来へと伸びる確かな軌跡があることを知っているのだから。

御堂N月PM9
epilogue 御堂:土曜日AM11時

 次の土曜日、御堂は克哉と連れ立って成田空港に来ていた。

 荷物をカウンターに預けた内河が、御堂たちのところに歩みを寄せる。

「わざわざ成田まで見送りに来てもらってすまない、御堂」

「今回は色々世話になったからな」

「世話? 多大な迷惑を被ったの間違いだろう」

 

 御堂の一歩後ろで小さく呟く克哉の腹を、肘で軽く小突いて黙らせる。

 内河とホテルで取引した次の日には、事前の打ち合わせ通り、見知らぬ会社名を名乗る男がAA社に現れて、例の特許の売買を持ち掛けた。克哉も素知らぬ対応で特許を一億で売った。

 全てが粛々と行われた。

 そして、AA社には今までの日常が戻って来た。

 内河も全ての処理が終わったようで、早々にアメリカに戻るという。

 それを聞いて、御堂は空港まで見送りに来たのだ。そして、克哉もブツブツ言いながらもついてきた。

 ゆっくりと羽を伸ばす暇もない出立だったが、内河は疲れを感じさせない精力的な顔つきで、御堂に笑いかけた。

 

「結局、お前とは飲む時間が作れなかったな。次に帰国するときにでも」

「ああ」

「その時は、佐伯君も是非」

 

 二人から距離を取ってつまらなそうにしている克哉に、内河は親しげに声をかける。

 そっぽを向いていた克哉が内河に視線を返した。

「機密費で飲ませてくれるんですか?」

「佐伯!」

 

 御堂が慌てて佐伯を制した。内河は声を上げて笑う。

 

「そうだ、それで思い出した。君らに一言、言っておきたい」

「何だ?」

「今回、余計にかかった機密費分は、君らの所得税とAA社の法人税から回収するから、せいぜい儲けてくれ。くれぐれも脱税しようとなんて思うなよ」

 余計にかかった機密費とは、克哉が特許転売で得たマージンを指している。今回かかった経費は全て機密費で賄われている。元をたどれば、国民の税金だ。

 御堂が苦虫を潰した顔をした一方で、克哉は不敵な笑みを浮かべた。

 

「内河さん、これも何かの縁ですし、我が社が国家運営のコンサルティングを受けてもいい。無駄な経費を徹底的にそぎ落としてあげますよ」

「相変わらず手厳しいな」

 

 笑いながら、内河は克哉の耳元に顔を近づけ、何かを耳打ちした。

 

「……」

 

 克哉がレンズの奥の目をすっと細める。内河はニヤリと笑ったまま、顔を離した。

 二人に向けて軽く手を上げる。

「じゃあな、御堂、佐伯君」

「内河、またな」

 

 最後にひとつ、内河はにっこりと笑いかけると、踵を返し搭乗口へと消えていった。

 その後姿を見送る。人ごみの中に消えていく内河を見て、もう、今回の件は片付いたのだと改めて確認する。

 怒濤の一週間だった。

 肩の力を抜いて、大きく息を吐く。

 

「帰ろうか」

 

 御堂が一言いえば、「ああ」と克哉がすかさず返した。

 

 

 

 

 晴天の青空が広がる。

 克哉の運転するアルファロメオのシルバーのブレラに乗って、成田から東京へと向かった。高速道路に入った途端、克哉は猛スピードで走り出した。

 助手席から見る外の景色は、あっという間に飛び去っていく。

 窓の外に流していた視線を、克哉に戻した。

 

「ところで、君はいつ気付いたんだ? 今回の件の背後関係に」

 

 今回の内河と御堂の最大の誤算は克哉だった。限られた時間で全てを見抜いて、日本政府を手玉に取った手際のよさは感心するしかない。

 克哉は前に視線を置いたまま口を開いた。

 

「AA社とクリスタルトラスト、二つを妨害しようとするアノニマス・エネミー(顔の見えない敵)がいることには割と早く気付いた。だが、それが誰で、何の目的なのかはわからなかった」

 

 アノニマス・エネミー、克哉が呟いた単語に反応する。同じ言葉を澤村が呟いていた。もしかしたら、二人は御堂の知らないところで情報を共有していたのだろうか。

 

「金曜日、あんたがアノニマス・エネミーに関わっていることが分かった。同時に、クリスタルトラストがあっさりとこの件から手を引いたことから、相手がただならぬ存在だってことも」

「それが日本政府だと、どうして分かった?」

「クリスタルトラストを専門の業者に見張らせておいたんだ。そうしたら、木曜日の夕方に、クリスタルトラストにSESC(証券取引等監視委員会)の立ち入り調査が入ったという情報を手に入れた。だが、金融庁はすぐに引き上げたそうだ。クリスタルトラストへの立ち入りは大きなニュースになっていいはずなのに、金融庁からは一切情報が伏せられている。どうにも不自然な動きだ。それで、アノニマス・エネミーが日本政府だということが分かった。後はあんたと一緒に歩いていた内河の情報を徹底的に洗わせた」

 内河といたところをいつの間に克哉に見られたのだろう。

 断片的な情報の欠片、それを頭の中で全て組み合わせて結び合わせて、克哉は真実にたどり着いた。週末のわずかな時間で全てを解明し、形成逆転の一手を打ったのだ。

 克哉らしい感の鋭さと行動力だ。心の底から感心をする。

 その時、不意に気づいた。

「まさか、情報収集に長けた知り合いって」

 

 内河がウォールームとして使っていたホテルの部屋まで克哉は知っていた。そんな情報収集が出来る人物の心当たりといえば、一人だけだ。

 克哉が唇の端だけでニヤリと笑う。

 

「そうだ、澤村だ」

「澤村に? どうやって?」

 

 驚きに目を瞠った。いつの間に、澤村と手を組んだのだろう。克哉は予想外の行動をする。

 

「澤村に電話して、『貸しを返せ』と言ったんだ。あいつ、ご丁寧にも俺にプライベートの携帯番号まで教えてくれたからな」

「貸しだと?」

「あいつは『お前になんか借りはない』って凄い剣幕で噛みついてきたがな。『御堂に借りがあるだろう。その借りを俺に返せ』って言ったら、渋々調べてくれたよ。だが、あいつの割にはいい仕事をする。週末の一日で、内河の滞在ホテルの部屋番号まで調べ上げたんだからな」

 克哉が喉を短く鳴らして笑った。

 どうやら、御堂と澤村の間の陰の取引まで克哉は見抜いていたようだ。

 克哉は目的を達するために、あれほどのしがらみがあった相手でさえ利用するになったのだ。そのしたたかさは、今回の件で克哉の中に生まれた強さだろう。

 そして、澤村もまた、絡まった感情に目を瞑って、克哉に協力したのだ。御堂への借り以上に、日本政府に一矢報いたいという気持ちも大いにあっただろうが。

 克哉の成長を目の当たりにして、眩いようなくすぐったいような面持ちになる。

 御堂は過保護すぎたかもしれない。克哉は着実に成長している。そして、AA社も。

「そういえば、さっき内河はお前になんて言ったんだ?」

 

 空港で克哉に何事かを耳打ちしていた内河を思い出す。

 克哉が横目でちらりと御堂を見た。

 

「釘を刺された」

「釘?」

「『我々は君の言い値でなくても特許を買い取ることが出来た。上乗せした金額は君らに対する迷惑料だ。今回は特例だからな。くれぐれも図に乗るなよ』だとさ」

「どういうことだ?」

「足元を見られていた」

「何? ……まさか」

 すぐに克哉の言葉の意味に気が付いた。

 思わず腰を浮かせて克哉の方に体を向けた。シートベルトが肩に食い込む。

 

「佐伯! お前、会社の運転資金に手を付けたな!」

「ああ」

 

 平然と肯定する克哉に言葉を失った。

 克哉が特許を買い取った5千万。現金一括払いされていた。だが、よく考えれば、そんな余裕、AA社にはない。いくら社長とはいえ、克哉の懐にもないだろう。

 克哉は、JTC社から特許を購入するために、AA社の虎の子である運転資金を使い込んだのだ。

 そして、内河はそのことにすぐに気が付いた。

 内閣情報調査室が背後にいて、AA社の全てを洗っていたのだ。当然、AA社や克哉の資産、資金繰りも熟知していただろう。

 克哉に脅された内河は、逆にAA社の資金繰りを立てに特許を買いたたくことも出来た。このまま放っておけば、運転資金に不足したAA社が経営に行き詰まることは明らかなのだ。

 しかし、敢えて、内河は克哉が提示した金額を呑んだ。それは、御堂たちに対する迷惑料だという。

 克哉が不満そうに言った。

「自分の金じゃないくせして、あの男も偉そうに」

 

 御堂は眦を吊り上げて、克哉をきつく睨みつけた。

 

「なぜ、そんな危険な橋を渡ったんだ。内河が特許を買わなければ、我が社は経営破たんしていたぞ」

 

 あれほど御堂が大切に守ろうとしたAA社、知らぬうちに克哉が危険に晒していたことを今頃思い知って、御堂は血の気が引いた。

 御堂の剣幕にぼそりと克哉が呟いた。

 

「……金が必要だったんだ。それで、手っ取り早く金を手に入れる方法が、特許の転売を行うことしか思いつかなかった」

「金? 何故?」

 

 そんな大金、何に必要だったのだろう。

 追い越し車線を走る克哉たちの車の前に、速度の遅い車が立ちはだかる。それを克哉は鮮やかなハンドルさばきで追い抜かして、アクセルを踏み込んだ。

 

「あんたはAA社を辞めるつもりだと思った。だから、せめて、退職金をいっぱい持たせたかった。金ならいくらあっても困らないだろう? 俺があんたに渡せるものはそれくらいしかなかったからな」

 

 思わぬ克哉の返しに、言葉を失した。こみ上げる想いを必死に吞み込む。

 

「佐伯……。懲戒解雇する人間に退職金は払わないものだ」

 自分でそう言いながら、自分が行った数々を思い出した。いくら、最後は円満に片付いたとは言え、御堂は内河にAA社の内部情報を流し、AA社の業務を妨害したのだ。理由があったとはいえ、紛れもない背任行為だ。言い訳はできない。

 そうだ。まだ全て片付いてはいないのだ。御堂の処分が残っている。

 

「それについては不問にする」

「佐伯!」

 

 あっさりと言い切った克哉に声を上げた。

 JTC社のドタバタで後回しになっていたが、これは見逃してはいけない行為だ。克哉は御堂を処分しなければ、AA社の社員や顧客に示しがつかない。

 克哉は自分の髪を掻き上げた。

 

「あんたの背任行為を追求するなら、俺の運転資金使い込みも問題にしなくちゃいけない。そうなれば、今回の件に国家が関わっていることも、俺は口が滑って表に出してしまうかもしれない。それは、まずいだろう? AA社は俺とあんたの会社だし、日本を愛する国民の一人として、ここは互いに目を瞑るってことでどうだ?」

 

 日本国国家をゆすって金をせしめた克哉が、いけしゃあしゃあと愛国心を口にして、御堂を言い含めようとする。その変わり身の早さに大いに呆れる。

 悪戯っぽく笑う克哉の横顔を眺めながら、ため息を吐いた。

 

「君は、本当に馬鹿だな……」

「そう思うなら、隣にいろ。あんたがちゃんと見張ってないと俺は何をしでかすか分からないぞ。あんたのためなら核戦争のボタンを押す覚悟だって出来ている」

 

 ほろりと漏れた克哉の発言に胸を打たれた。

 克哉は内河に、御堂のためなら国家や世界も敵に回す、と言い切ったのだ。

 その後、今回の顛末と御堂がとった行動の理由を克哉に説明した時も、克哉は一言、「そうか」と言ったきりだった。克哉にとって、御堂がやろうとすることに、理由なんか必要ないのだ。たとえ御堂が私怨でAA社を潰そうとしても、克哉は迷うことなく御堂に手を貸すのだろう。

 目の奥がカッと熱くなる。

 涙がこぼれる前に景色を眺めるふりをして、フロントガラスの向こうの青い空を仰いだ。

「そうだな。放っておけないな、君は。どこまでもついて行ってやる」

「ああ、これからも、よろしく頼む」

 この先に、一歩一歩、歩んでいくのだ。克哉と共に。

 克哉が手元を操作して、運転席と助手席の窓を少し下げた。

 初夏の気持ち良い風が社内を駆け巡り、克哉の髪を軽やかに煽った。克哉の髪が眩い光を散らして鮮やかに輝いた。

 成田の山間の道を車が駆け抜けていく。このまま真っすぐ行けば、この道の先に東京があり、AA社がある。そして、御堂と克哉が帰る家も。

 これからも、繰り返す日常の中で、互いへの想いを積み重ねていくのだろう。それは、時として、惑い、揺れて、行く先を見失うかもしれない。だが、積み重ねた想いが描く軌跡はぶれずにひとつの心を指し示しているのだ。相手を愛し信じる気持ちはきっと変わらない。

 山が開けて、視界が広がった。目の前に高速道路の分岐の案内板が現れた。

 克哉が笑いかけてくる。

「どうする? 少しドライブするか?」

「そうだな。海が見たい」

「決まりだ」

 

 克哉が笑って、ハンドルを切った。この時期、房総の海もいいだろう。

 御堂も克哉が向ける視線のその先に眼差しを向けた。

 二人の目の前にどこまでも美しい空が広がる。そして、輝かしい未来も。

 隣には克哉がいる。今までも、これからも。

 どんどんと開けていく美しい風景。

 車の向かうその先に、きらきらと輝く海が顔を覗かせた。

 

「潮の香りがするかな」

 

 克哉が運転席と助手席のサイドガラスを全部降ろした。途端に、激しい風が車の中になだれ込む。

 

「よせっ、佐伯!」

 

 整えた髪を風にかき乱されて、克哉に抗議の声を上げた。

 克哉が笑い声をあげる。御堂も髪を押さえながら笑った。

 共にずっと笑い合った。

 二人の視界の先にはどこまでも眩い景色が広がっている。

 END

エピローグ
あとがき

『夜明けの軌跡』最後までお付き合いいただきありがとうございましたm(__)m

 内心、心臓バクバクしながら連載していましたので、連載中の拍手やコメントには大いに勇気づけられました。重ねて御礼申し上げます。

 こちらを読まれている方は本編を読み終えた方だと思いますのが、ネタバレを含みますのでご注意ください。

 今回の長編は、今まで書いた中で一番の長編です。というのも佐伯克哉編と御堂孝典編の2編を合わせる構成となっているため、普段の2倍の長さです。

 本作は鬼畜眼鏡をプレイしてメガミドにはまってから、書きたいと思っていたテーマをこれでもかってほど詰め込んでおります。

 本作の主題は『謎解き』です。そのため、同じ一週間を、謎に翻弄される佐伯克哉編と謎解きの御堂孝典編のふたつの視点から書いてみました。自分でも今まで読んだこともない特殊な構成で、かなり難渋しました。

 御堂さんはなぜ克哉を好きになったのか、二人の過去は二人の今にどのような影を落としているのか、どうやって過去と決着を付けるのか、メガミドの数々の謎を独自の解釈をしております。独断と偏見で捌いた挙句、怒涛の後付け設定が多数ありますので、納得いかない、という方もいらっしゃるかと思いますが、そこは1メガミドファンの視点として温かい目で見ていただければ嬉しいです。

 そしてまた、パートナーものとして、一度は書いてみたかった『裏切り』をストーリーの主軸に置いています。強い絆で結ばれている二人だからこそ、裏切りをするならどんな理由で、何を目的に、と考えるのは楽しかったです。

 私は二人の仕事をする姿がとても好きなので、AA社を舞台に、経済小説風のテイストも混ぜ込みました(あくまでもテイストですw)。

 また、今作は内河が活躍していますが、世界を手に入れようとするAA社だからこそ、まずは日本を相手に、とキーマンを設定しました。御堂さんのご友人がバリエーション豊かで助かりましたw

 構想自体は1年以上前からあり、途中、構成の難しさやストーリーの整合性がつかなくなったりして完全に筆が止まっていたのですが(その間にアメリカの大統領も変わってしまいました……)、どうにか完成させることが出来ました。

 ストーリーの本編も最後はかなり迷いました。御堂さんが眼鏡を追いかけていますが、逆に眼鏡が御堂さんを追いかけるというパターンも検討していました。ですが、ふたりのキャラクターを考えた時、ハピエン後の眼鏡は潔さ(諦めっぱやいともいう)、そして御堂さんはひたむきさ(頑固ともいう)が際立っているのかな、と自分の中のふたりに任せると、こうなりました。

 また、メガミドファンには蛇蝎のごとく嫌われている(?)澤村も、実は好きなキャラの一人です(キチメガには嫌いなキャラというのは存在しないのですが)。

 澤村も、凄腕のファンドマネージャーとして登場させたいと思っていました。本作は割とあっさり退場してしまったので、また最後に出てくるのではと何人かの方に予想していただきましたが、会話中に出てくるのみでした。すみません。

 いつか、澤村率いるクリスタルトラストvsAA社の正面対決を書いてみたいと構想だけは練っています。

 今作、書きこみたいことが多すぎて文章力が追い付かずに煩悶しながら書いていましたが、やっぱり二人の話を書くのはとても楽しかったです。散々連載に時間を取った挙句、ご期待に沿えるものでなかったら申し訳ございませんm(__)m

 本作を読んでいただいて、二人の心情に沿って、少しでもドキドキしたり、切なくなったりしていただければ幸甚です。

 それでは、また!

bottom of page