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夜明けの軌跡 はじめに

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、ご了承いただいた上、お進みください。

 本作は本編、R後、同居までのドタバタの一週間(およそ)です。Rベストエンドの約3カ月後の設定です。
 同居をしようとしたら御堂さんのトラウマ発動。別れ話にまで発展。一方、仕事の方は再び澤村との対決が。

 全てが裏目に出て、眼鏡が四苦八苦します。

 あの冬の日、なぜ、御堂は克哉を追いかけたのか。二人の過去に決着は付けられるのか。

 失われた環(ミッシング・リング)を探す物語。

​ 

​【注意】

 話の構成上、プロローグ(御堂・克哉視点)→克哉視点の一週間→御堂視点の一週間→エピローグ、となる予定です。

 同じ一週間を克哉と御堂の両視点から見ていくことになりますが、克哉視点だけだと話が中途半端に終わりますのでご注意ください。​

【追記】

​たに まことさまに木曜日午後9時のエロシーンを漫画化していただきました!(Pixivに飛びます)

​【Prologue】

​【Epilogue】

Prologue: 日曜日PM5時
(1)

「それで、いつ引越してくるんですか?」

 

 克哉の部屋のリビング。腰掛けているソファの傍らが重みで沈んだと思ったら、克哉の低く深い声が御堂の鼓膜を震わした。

 読んでいた本から顔を向ければ、克哉のレンズ越しの眸がじっと御堂を見据えていた。

 

「そうだな……。今手掛けているプロジェクトが一段落着いたら……」

「それは具体的にいつなんですか」

 

 克哉は持ってきた二人分のコーヒーをリビングのセンターテーブルに並べた。軽く礼を口にしてそれを手に取った。

 克哉の部屋に引っ越すと約束をしてから既に3カ月以上経っていた。

 約束を反故にする気はなかったが、日々の忙しさにかまけて具体的な段取りが進まず先延ばしになっていたのは事実だ。

 時折、この話題が出てきていたが、克哉に引越しを急かされ詰られても、御堂が話を有耶無耶にしていた。

 要は、克哉と御堂において同居に対する優先順位の違いだ。

 御堂としては、今の克哉との関係に不満があるわけでもないし、むしろ、先だってのクリスタルトラストとの一件で、克哉との心理的な距離も縮まった気でいる。

 焦って同居を進める必要はないのだ。

 だが、克哉にとっては御堂との同居は最優先事項に値するようで、御堂があの場の勢いで同居を了承してしまったものだから、事あるごとにせっついてくる。

 それでも、御堂の肝心なところで煮え切らない態度を、今の今まで克哉はよく我慢している方だと思う。

 日曜日の午後、同じ空間で寛げるだけの余裕がある。ということは、この克哉の追及を躱すことが出来るだけの都合のいい理由もない。言い合いをしてこの場の空気を悪くする必要もない。

 御堂は一つ息を吐いて、腹を括った。

 

「分かった。荷造りもあるから、1カ月後にこの部屋に引っ越す」

「1カ月後ですか。具体的な日取りは?」

 

 克哉の探るような視線が注がれる。

 またもや先延ばしにしようとしているのではないかと、疑っているのだ。その眼差しを真っ直ぐと返した。

 

「今回は本気だぞ。今から、取り掛かる」

「今回"は"ですか」

 

 口が滑ったことに気付いたが、克哉に更に何か言われる前に、本を置いて立ち上がった。

 

「メジャーを貸してくれ。持ってくる家具を決める」

「もし、御堂さんの持ち物と被っている家具があったら、御堂さんのものを置いてもらって構いません。俺のは捨てます」

「いいのか?」

「別にこだわりはありませんから」

 

 克哉がさらりと口にした台詞が、胸に一度引っかかってすとんと落ちた。

 成程、と理解する。

 この部屋に初めて足を踏み入れた時に覚えた違和感はこれだったのだ。

 克哉の部屋には個性がない。シンプルで質の良い調度品が置かれているが、モデルルームかホテルの部屋の様で、生活している人間の存在を感じさせないのだ。

 克哉は物に執着を持たない。持っているものも少ない。こんな広い部屋を借りる必要もないだろう、と思うが、この部屋の広さは二人で住むことを想定して借りたのだろう。

 だとすれば、家具にこだわりがないのも頷ける。御堂の家具を持ってくることをあてにしていたのではないだろうか。

 つまり、ここは御堂と二人で暮らすことを前提に用意された部屋なのだ。だから、克哉は部屋の個性を出来るだけ消して、この部屋を御堂が自身にとって過ごしやすく造り替えられるよう、配慮をしているのだろう。

 克哉にとって、この部屋は御堂が来ることで完成されるのだ。

 克哉がこの部屋を借りるとき、御堂に一緒に住まないかと誘い、御堂はそれを断った。だが、克哉はその日が来ることを確信してずっと御堂のために部屋を整え待っていたのだ。

 

「私は、この部屋の調度品は気に入っているがな」

「そうですか。気に入ったものは残してもらっていいですよ」

「君が選んだ家具だろう」

「内装はデザイナーに任せましたから」

 

 ふう、とあきれ混じりのため息を吐く。

 他人が選んだものであろうと、使っていれば愛着がわくものだ。

 克哉の冷淡にも見える態度は、御堂が克哉のものを心置きなく捨てられるように気遣っているのかもしれない。だが、生憎と、御堂は恋人のものを容赦なく捨てられるほどの冷血漢ではない。

 克哉はそんな御堂を気にする風でもなく、御堂にメジャーを渡すと自室の書斎から分厚い資料を抱えて出てきた。

 現在取り掛かかっているコンサルティング案件の資料だ。

 

「資料をオフィスに戻すついでに明日のミーティングの準備をしてきます。部屋で待っていてください。2時間程度で戻りますから。食事でも食べに行きましょう」

「ああ」

 

 部屋に一人取り残され、御堂はメモ帳とペンを鞄から取り出すと、部屋を見渡した。

 メジャーを持って部屋のサイズを計測する。クローゼットや家具の配置を頭の中でシミュレーションをしつつ、メモに記入していく。

 他の部屋も確認し、隅々まで細かく計測していたら、いつの間にかかなりの時間が経っていたようだ。

 窓の外はすっかり日が暮れている。東京の眠らない街が眼下で輝きだした。

 ただでさえ職場も一緒なのに、同じ部屋で寝食を共にする。

 家族以外の人物と同じ屋根の下で暮らした経験はない。付き合い始めて一年も経ってない恋人、しかも同性の恋人、共に暮らすことに不安がないわけではない。今だって、ほぼ半同棲と言っても過言でないほど同じ時間と空間を共有しているが、それでも、一人になりたいときや喧嘩をしたときは自分の部屋に戻り距離を取ることも出来た。

 克哉と御堂はここにいたるまで色々あった。それが、今まで同棲を躊躇わせた理由でもある。

 ただ、そろそろ、もう一歩踏み出す時なのかもしれない。時にぐらつきながらも、二人の関係は崩れることなく、むしろ深まって、今、ここに在る。

 同性同士、結婚が出来るわけでも子どもが作れるわけでもない。形にできる節目というものが存在しない以上、同棲と言うのは二人にとって一つの形であり、そこには一切の打算も駆け引きもなく、自分の気持ちをただ真っ直ぐにぶつけてくる克哉なりの愛情表現なのだろう。

 その愛情表現は御堂にとっては面映ゆさも感じられるが、それを克哉の若気の至り、と一笑に付して流せるほど、自分は斜に構えているわけではない。

 7歳年上という年齢と経験が、御堂に慎重さと冷静さをもたらしたが、それを差し引いても、再会後の克哉の御堂に対する真摯な態度は御堂の心を揺り動かすものがある。

 

――いい加減、覚悟を決めなくてはな。

 

 失敗を恐れてその場で留まっているよりは、前に踏み出そう。

 克哉と再会した時から、御堂は克哉と共に歩むことを決意しているのだ。

 窓の外の夜景を視界に収めながら、そう心の中で呟いた。

 克哉はまだだろうか。

 もうそろそろ戻ってくるだろうか。時計に視線を流した時だった。

 煤けたような古い記憶の蓋が、ごとり、と外れた感覚に襲われた。

 

――そうだ、私は他人と一緒に同じ部屋で過ごしたことがある。

 

 突然、耳鳴りがした。

 全ての知覚が御堂の意思を離れて急激に鋭くなる。遠くから嵐の音が近付いてきた。

 

「あ……っ」

 

 この感覚は知っていた。自分の呼吸に意識を傾け、出来る限りゆっくりと息を吐く。

 それでも、どんどん嵐は近付いてくる。ごうごうという風の音、どっどっと叩きつけるような物音。それは、自分の滾る血流と激しい鼓動の音だ。

 

――来るな、こちらに来るな。

 

 両手でこめかみを押さえて、必死に念じる。だが、願いは虚しく、嵐はどんどんと気配を増していった。

 そして、嵐に包まれた。目の前が暗くなる。立っていられなくなり、膝をついた。

 頭の中で声が響いた。冷酷な光を湛えた双眸が闇の中で御堂を射抜く。

 

『あんたの運命は俺が握っている』

 

 その声音に残虐な響きが滲む。

 抑えこんでいた感情の堰が決壊し、溢れだした激しい奔流に巻き込まれる。息が出来なくなり、身体が激しく震え出した。

 

――早く、逃げなければ。この部屋から。あの男から。

 

 追い立てられるように荒い息をつきながら、震える膝を奮い立たせ、部屋から這うように逃げ出した。

 

 

 

 それからのことは記憶が途切れ途切れだ。

 一刻も早く逃げなければという意識だけが空回りし、それに追いつかない足取りで、ふらつきながらビルの正面出口まで這うようにしてたどり着いた。客待ちのタクシーに乗り込んで自宅まで、どうにか帰り着いたのだ。

 タクシーの運転手に、顔色が真っ青だと心配されたが、返事をする余裕はどこにもなかった。

 自分の部屋に倒れ込むように入ると、玄関の靴箱に隠してあった薬を取り出して、飲みこんだ。

 水がなくても飲み込めるように、口腔内崩壊錠であるその薬は、乾ききった口内に含んでも程なく崩れ、ざらついた甘さが口の中に広がった。

 この抗不安薬が効いてくれば、嵐は過ぎ去るはずだ。

 それまでの間、その場でじっと身を丸めて両手で頭を抱えて耐え続ける。大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせながら、自分の呼吸と鼓動を必死に抑え付ける。

 次第に、ゆったりとした眠気が襲ってきた。

 薬が効いてきたのだ。

 固まっていた身体を解し、壁に手を突きながらゆっくりと立ち上がった。寝室のベッドまでふらふらしながらも向かう。

 ベッドに倒れ込んで、大きな息を吐いた。

 久々の大きい発作だった。もう薬に頼ることもないと思っていた。常に持ち歩いていたピルケースも最近は一切必要としなかったから、携帯することもなかった。自分でも迂闊だったと思う。

 一年半前、克哉に解放されてからも、監禁された当時のことが思い出されて、時折、今のようなパニック発作に陥った。克哉を思い起こさせるようなものは全部処分し、住まいも変えて、それでも起こる発作には薬に頼った。

 だが、次第に発作の頻度は減り、自身でコントロール出来るようになったはずだった。

 克哉との再会後は、稀に発作が起きても、今のように自分を見失うほど酷い状態にはならなかった。

 

――なぜ、ぶり返した?

 

 三カ月前の澤村の件が原因だったのだろうか。いや、澤村の件も今まで自分には大きな影響はなかったはずだ。

 発作直前の行動を反芻し、思い当った。

 克哉がいつ部屋に戻ってくるのかを気にしたのだ。その時、克哉を部屋で待つ状況が、監禁時代の自分と重なった。

 部屋の中に閉じ込められ、繋がれて淫具でいたぶられながら、ひたすら克哉の帰りを待っていたかつての状況が呼び起こされた。

 克哉が戻ってこなければ自分は死ぬかもしれないという切羽詰まった不安と、克哉が帰ってくればまた嬲られるという底知れぬ恐怖。動かせない身体の代わりに、感覚ばかりどこまでも鋭くなり、不安と恐怖を煽った。そんな負の感情が一気に蘇ったのだ。

 今まで発作がコントロール出来ていたのは、無意識ながらに過去を思い出すような状況を避けてきたからだろう。

 克哉と共に暮らせば、また同じ状況に陥るかもしれない。

 こんな自分の情けない姿を克哉に晒すのは避けたかった。

 克哉とは対等でありたいと思っていた。克哉を恐れる自分を知られるのは嫌だ。

 

――もう、あの時のことは決着をつけたじゃないか。

 

 克哉と再会し、恋人関係になり、克哉を愛し、克哉に愛されているではないか。怯える必要などないのに。

 自分は克哉を赦したのだ。

 そう自分に言い聞かせる声が、空しく頭の中で反響する。

 両手に顔を埋めた。

 いつになったらこの過去を忘れることができるのだろう。

 忘れよう、忘れよう、と思っても、その過去は常に御堂の背後に潜んでいる。

 自分の感情のコントロールさえままならない。こんな自分自身が嫌で嫌でしょうがない。

 その時、携帯が震え出した。表示を見れば、克哉からの着信だ。

 それもそのはず、突然部屋から飛び出して帰ってしまったのだ。克哉に連絡するどころか、部屋の鍵さえ閉めたかどうかも怪しい。

 ひとまず、何か言い訳をしないといけない。

 大きく深呼吸をして、電話に出た。

(2)
Prologue: 日曜日PM7時

「御堂?」

『…ああ』

 

  電話の向こうの声に克哉は少し安堵した。背後の音は聞こえない。特に事故や事件には巻き込まれてないようだ。

 

「今、どこにいる?」

『自宅だ』

「何かあったのか?」

『いや……、頭痛がして、頭痛薬を取りに戻ったんだ』

「頭痛? 大丈夫か?」

『ああ、実は片頭痛持ちでね。……心配かけてすまない。今日の夕食はキャンセルさせてくれ』

 

 その声はどこか陰鬱さを含んでいるが、それを覆い隠して克哉に気付かせないようにする御堂の努力も聞き取れたので、あえて気付かない振りをする。

 

「食事はどうする? 辛いなら、何か買ってそっちに持っていくが」

『いや、来ないでくれ。休めばよくなるから』

「そうか」

『明日、また、オフィスで』

 

 それだけ告げて、電話が切れた。

 克哉は切れた携帯電話を片手に部屋の中を見渡した。

 仕事を切り上げ部屋に戻ってきてみると、玄関の鍵が開けっ放しだった。そして、床に散らばったメモ帳やメジャー、御堂の姿を探すも見つからない。

 嫌な予感がして、急いで携帯にかけたのだ。

 電話の向こうの御堂は、普段通りの口調を装いつつも、その声音はどこか白々しい。

 

――頭痛、ね。

 

 以前、御堂がピルケースを持っているのを目にして、訊いてみたことがあった。その時も、頭痛薬だと言っていた。

 だが、答える御堂の眸が一瞬揺らいで顔色が翳ったのを克哉は見逃さなかった。だから、気付いたのだ。これは、踏み込んではいけない領域だと。そして、その領域を作った元凶は克哉自身だ。

 

――あれを思い出したのか。

 

 胸の中に苦さがこみ上げる。

 自分自身にどうしようもない苛立ちを感じながら、床に散らばったメモ帳を一枚一枚拾い集めた。

 几帳面な字面で細かく書かれた部屋の間取り。そして、家具や家電のリスト。

 メモを見れば、御堂が本気で克哉の部屋に越してくる気だったことが見て取れる。

 

――俺が、また、追い詰めたのか?

 

 御堂の身に何が起こったのか、想像に難くない。克哉は何度かそれを目撃していた。大抵は真夜中。うなされて震える御堂を目の当たりにしていたのだ。だが、ここ最近は落ち着いているように思えた。

 澤村の一件があり心配したものの、当の御堂は克哉以上に気丈だった。その後も普段通りに振る舞い、様子も変わらないように見えた。

 御堂は克哉が思っているよりもはるかに強い。克哉にあれほど踏みにじられても、ここまで這いあがってきたのだ。その強靭さは克哉でも太刀打ちできないだろう。だからこそ、同居へと舵をきったのだが、それでも時期尚早だったのだろうか。

 御堂の様子が気にかかったが、克哉が原因で生じた状況だ。

 互いに見て見ぬふりをしている過去。

 素知らぬふりをしていれば、自然と風化し二人の記憶の彼方へと忘れ去られていくものだと思っていた。

 それこそ、リセットできると思っていた。いつまで互いにごまかし続ければその過去は消えてなくなるのだろう。

 いや、そう自分を信じ込ませようとしていたのだ。

 何事もなかったかのように、恋人として振る舞い、関係を深めていく。

 目を瞑って過去を積み重ねて、それを覆い隠す。そんな作業を地道に繰り返したその天辺に二人は立っている。

 その足場は、酷く脆い。それでも、足元を見ないようにして今までやってきたのだ。

 その事実を克哉は忘れて、崩れ落ちそうな足場を無造作に強く踏みつけてしまった。

 

「過去が消えることなんてないと分かっていたのにな」

 

 克哉は独り言ち、窓の外に広がる夜景に視線を流しながら、タバコに火を付けた。

Prologue: 月曜日AM5時
P:MonAM5

 インターフォンが鳴った気がして、克哉はベッドの上で身じろいだ。

 うっすらと目を開ければ、まだ薄暗い。窓に目を向ければ、東の空が白みかかっている。まだ夜が明けきっていない。

 覚醒に至らない意識を遊ばせながら、再び目を閉じようとした。

 再び、インターフォンの音がした。今度ははっきりと克哉の鼓膜を震わせる。

 瞬時に意識がクリアになる。

 インターフォンの音色は、客人がロビーフロアではなく、克哉の部屋の扉の前に立っていることを示していた。

 こんな時間に部屋の前でインターフォンを鳴らす人物は一人しか心当たりはない。

 跳ね起きて、慌ただしくズボンだけ穿いて扉を開けた。

 

「佐伯」

 

 扉の前に立っていたのは、スーツを着込んだ御堂だった。うつむき加減の顔が黒目だけで遠慮がちに克哉を伺う。

 

「こんな時間にすまない」

「どうぞ」

 

 視線を伏せたままの御堂を部屋に招き入れ、脱がせたジャケットを受け取りハンガーにかけた。

 

「……何も聞かないのか?」

「あなたがこの部屋に来るのに、理由は必要ないでしょう」

 

 ここで笑みを浮かべると、御堂を気遣っていると思われる。表情を消したまま素っ気ない態度を保つ。

 

「強いて言えば、いい加減インターフォンを鳴らすのをやめて、勝手に入ってきて欲しいですが」

「起こしてしまって申し訳ない」

「……」

 

 克哉が何を言っても、御堂は謝罪を止める気はないようだ。

 何故、こんな時間に克哉の部屋にやってきたのか、理由を問い詰めてやることも出来たが、御堂は克哉の追及を満足させるような理由を作ってきてはいないだろうし、御堂が隠したいと思っている理由をわざわざ口にさせるほど、克哉も馬鹿ではない。

 それは、諸刃の剣だ。二人が傷つく。

 だからお互いに目を瞑ればいい。今までも、そうして上手くやってきたではないか。

 こんな時間帯に克哉の部屋にやってきた、御堂の理由も目的も克哉は分かっていた。もちろん、それに気付かぬふりをして御堂の目的を果たさせる。

 克哉は御堂の腕をつかむと、ぐいと強く引き寄せた。御堂の身体が強張るのを、筋肉の緊張から感じ取るが、更に強く抱き寄せて腕の中に収める。そして、何か言いかけようと開きかけた口を自分の唇で封じた。

 形だけ逃げようとする御堂の舌を絡めとる。

 湿った外気を纏った肌からは、清潔なシャボンの香りが漂う。案の定、シャワーを浴びてきたようだ。

 

「ん……ふっ」

 

 最初こそ、硬くなっていた身体は既に克哉の腕に身を任せている。くちゅくちゅと重ねた唇の中で無心に克哉と熱を交わす、御堂の身体がすぐに火照りだす。

 キスを繰り返しながら、御堂の服を脱がせつつ、ベッドへと誘う。衣服を乱した御堂をベッドに押し倒そうとしたところで、ためらいがちに御堂が口を開いた。

 

「今からするのか」

「シャワーを浴びてきて準備万端でしょう」

 

 耳元で声を低めて囁くと、分かりやすく頬が羞恥に紅潮した。

 御堂のシャツのボタンを指で外しつつ、ゆっくりとベッドに沈めた。

 

「さえ……きっ」

 

 切れ切れの声でキスをせがまれて、克哉は体を覆いかぶせるようにして唇を重ねた。長い脚が克哉の脚に絡みついて、身体を密着させようとする。

 恥じらうような素振りを見せるのはいつものことだ。だが、克哉に触れられ暴かれていくうちに、白い肌が上気しその熱に浮かされるように御堂も克哉を求めだす。

 こんな時こそ労わりたいという克哉の気持ちとは裏腹に、御堂は激しく溺れるような繋がりを望む。

 ベッドの上で、より深い繋がりを持とうと急くのは御堂で、克哉こそ自らn理性の手綱を強くかけて、御堂に全てを攫われないように慎重に御さなくてはいけない。

 本気になった御堂は怖いのだ。

 なりふり構わず、克哉を底なしの深みへと引きずり込もうとする。

 元々快楽に貪欲な身体だった。それを抑制していた鎖を全て取り除いたのは克哉だ。

 克哉が解き放った獣は、時として克哉に牙を剥く。その飢えた獣に喰いつくされないように、克哉は隙のない手綱さばきで御堂を満足させつつ抑え込まなくてはいけない。

 ねだられるままにキスを与え、熱を混ぜ合わせる。

 触るところから肌がしっとりと濡れて熱くなっていく。

 淫らに発情し、先を急こうとする御堂をなだめつつ、丁寧にゆっくりと、しなやかな身体を拓いていく。

 御堂は喘ぐ声を上げながら、露骨な性欲をむき出しにして、四肢を克哉に絡みつけた。

 もっと深く、もっと強くと克哉をねだり、全てを呑み込もうとするかのように、深く咥え込んでいく。

 腰を揺さぶるたびに、切なげな声が漏れ、身体を細かく引き攣れさせた。

 そう、これは儀式なのだ。

 二人の気持ちを交わし合って、確かめ合うことで、顔を覗かせる禍々しい過去を覆いつくして封印する。

 だからこそ、御堂は過去に怯える度に、克哉を激しく求める。

 克哉もそれを承知している。だが、敢えて気づかぬふりをする。

 自分が招いたことだ。

 御堂が求めるだけ与えるのは克哉の義務であり贖罪である。

 そうして、二人の間の絆を培って確認し、過去を忘れようと試みるのだ。

 決して振り返ってはいけない。いくら過去が背後にひたりと張り付こうとも。

 

 

 

 

 朝の太陽は既に空高く輝いている。

 職場の真上の部屋とはいえ、そろそろ出社の準備をしなくてはいけない。

 結局あれから一睡もせずに身体を重ねていた。

 立て続けの行為に身体の節々が辛いようで、御堂は顔を顰めながらベッドから降り立った。

 先に起きて朝食とコーヒーを手早く準備していた克哉は、気遣う声をかけた。

 

「午前中、休んだらどうです?」

「馬鹿を言うな。週明け早々、午後出勤できるか」

 

 眉根を寄せて克哉に視線を投げかける御堂は、いつもの御堂の姿だ。

 克哉は羽織ったシャツのボタンを留める素振りをしつつ、胸の裡で小さく安堵の息を吐いた。

 今回も、上手くいった。これからだって上手くいく。

 御堂と克哉の関係は、このままずっと続くのだ。手を取り合って、前だけを向いて。

 克哉と御堂の一週間が始まる。

克哉月AM9
​克哉:月曜AM9時30分

 アクワイヤ・アソシエーション(AA)社の一週間は月曜日の朝のミーティングから始まる。

 会議室でAA社のメンバー全員を前にし、藤田は幾分緊張した面持ちでプレゼンを行っていた。

 内容は、藤田が担当している経営コンサルティングの案件についてだ。

 クライアントのジャパン・テクノ・コミュニケーションズ(JTC)社は通信機器の開発販売を手掛けている中小企業だ。

 携帯やカーナビなどの部品からファイルサーバ等のネットワーク関連機器まで幅広く手掛けて、時代の勢いに乗り上場を果たしたものの、ここ数年は競合企業に押されて事業が先細りとなっていた。その経営コンサルティングを引き受けたのだ。

 御堂が、配られたハンドアウトの内容を確認する。

 

「この改善案の数値は悪くないとは思うが、新規事業参入のための設備投資費はどこから捻出する? 金融機関からの融資は当てにできるのか?」

 

 資料には新規事業参入のためには五千万円近くの費用が必要であると算出している。現在のJTC社の資産やキャッシュフローを見ても、簡単に用意できる金額ではない。だが、失速しつつある今の事業を継続するだけでは、今後の発展は望めないだろう。だからこそ、AA社に経営コンサルティングの依頼が来たのだ。

 御堂の問いは予想していたようで、藤田はよどみなく答えた。

 

「難しいです。既に、目一杯融資を受けている状況で、資産を見てもこれ以上担保と出来るようなめぼしいものはありません」

「どうするんだ?」

 

 御堂の問いかけに、隣に座っていた克哉が藤田を制して答えた。

 

「今後の事業の発展も考えて、JTC社が持っている特許の実用化を図ろうと思っている。この社は通信関連のいくつかの特許を保有していて、中には使われていないままのものがある。それを他社と組んで実用化を目指し、そのための資金提供を提携先に依頼する。また、もし、特許の実用化の目途がつけば、それを担保に更なる融資が期待できる」

「使えそうな特許はあるのか?」

「ざっと見たところ候補はある。GPSによる3次元測位の補正制御システムで、精度の高い測位が可能となる。それを受信側のみならず遠隔で操作・補正することが可能となる技術だ。当初は携帯やカーナビへの搭載を目指していたようだが、そこまでの精度を必要としなかったため、使われずに今に至っている。だが、今なら色々使いようがあると考えている。今日、JTC社の技術者とともに、提携先を当たる予定だ」

「提携先の当ては?」

 

 矢継ぎ早の御堂の質問に、藤田が、企業名がリストアップされているハンドアウトのページ数を答えると、ページをめくる音が一斉に響いた。

 

「興味を持ちそうな大手の企業をいくつかピックアップしているが、こればかりはどう転ぶか分からないな」

 

 克哉は説明を付け加えた。

 化学成分の特許は、医薬品のように一特許が一製品となるため実用化しやすい。しかし、電気技術系の特許においては、一特許は一部品に過ぎず、製品として成立するためには他の部品や他の特許が複雑に絡み合い、実用化が一筋縄ではいかないのだ。

 だからこそ、革新的な特許が実用化しきれないまま多く眠っているという問題が近年顕在化していた。

 特許という知的財産権を有効に活用して、経営コンサルティングに活かすという克哉なりの戦略だ。だが、今まで食料品や医薬品の分野をメインに手掛けてきたAA社にとって、この分野は精通しておらず、手ごたえは未知数だ。

 言うは易く行うは難し。アイデアを出す部分と実現する部分で必要とされる力は全く別種のものだ。だが、克哉はアイデアを実現化する自信があった。それは、誇大妄想などではなく綿密なマーケティングと分析によるものだ。

 御堂が克哉の説得力のある言葉にうなずき、口を開いた。

 

 「企業だけでなくアカデミアなどの研究機関との提携も考えてみたらどうだ? ここ最近、国は産学連携を推し進めている。上手くいけば研究費がおりるかもしれない。母校の工学部に在籍している知り合いに興味を持ちそうな研究室がないか聞いてみよう」

 

 産学連携とは大学を始めとした研究機関と企業を連携させることにより、新規技術の開発や新事業を創出する試みだ。高い技術力を屋台骨として発展してきた日本にとって、次世代の産業を担う重要な政策として、国が力を入れている。

 実用化が大前提の企業と違い、研究機関との連携は目先の実用化可能性の有無は必要とされない。企業との連携が上手くいかなくても、研究機関との連携の可能性はあり得る。

 

「確かにそれは悪くないな」

 

 克哉は御堂に眼差しを向けた。視線が一瞬重なって、その刹那に目だけで微笑みかける。御堂がほんの少しだけ頬を上気させ、克哉からぷいと視線をそらした。その仕草に笑ってしまう。

 御堂は克哉と違うところから物を見る。見落としていた点を確実に拾い上げてくる。御堂が積み上げてきた経験と磨いてきた見識の広さは、AA社になくてはならないものだ。

 前のめりに身を乗り出した藤田の元気な声が室内に響いた。

 

「御堂さん、是非、お願いします!」

「ああ」

 

 AA社の月曜日は活気ある朝のミーティングで始まった。

 

 

 

 ミーティングを終えた後、克哉と藤田はJTC社の技術部門の担当者と合流し、候補に挙げたいくつかの企業を回った。

 特許の実用化に向けた提携は、期待していた以上に良い反応が得られた。最初の面談の段階で、研究資金の提供に積極的な意欲を見せる企業もいくつもあった。

 ちょうど先ごろ、小型無人機『ドローン』が配達などの商用活用できるように、総務省が規制緩和を進める方針を打ち出した。それにより、ドローンに搭載する精度の高いGPSシステムが求められていたのも渡りに船だった。

 

「これで、共同開発の契約がまとまれば、一件落着ですね」

 

 自らが手掛ける初めての大型案件だけあって、手ごたえを感じている藤田の声は高揚している。

 意気込む藤田に、ああ、と克哉は頷いた。通信分野では初めてのコンサルティングだったが、今のところは予想以上に順調だ。

 

「そういえば、御堂さんから、候補の東慶大学の研究室がメールで送られてきています。どうしますか?」

「そうだな。そちらも話を進めておくか。だが、急がなくていい。企業との連携の方が優先だ」

 

 アカデミアとの連携は、研究費に対して使用用途や期限などの細かな制約がつくことが多い。国からの研究費は、不正使用が近年明るみに出てきたこともあり、使い道には厳しいチェックと制限が付けられる。つまり、使い勝手が悪いのだ。出来ることなら企業との提携を優先したい。

 

「分かりました」

「特許の契約の件で、いくつか社長と詰めておきたい」

 

 特許の取り扱いは難しい。先方と具体的な話を詰めるためには、自分たちが持つ特許の詳細を明らかにしなくてはいけないが、核心部分については簡単に手の内を見せることは出来ない。秘密保持契約などを結ぶなり、慎重に事を進める必要があり、どの段階でどこまで詳細を明かすか社長に事前に了承を得る必要がある。

 JTC社に一度戻り、克哉と藤田は社長室へと向かった。

 社長への面会を求めて、社長室の前室に控える秘書に声をかけた時だった。社長室のドアが開いた。

 

「――それでは、良いお返事を期待しています」

「……っ!」

 

 スーツ姿の一人の男が、社長室から挨拶と共に出てきた人物を視界に収めた瞬間、血が沸き立ち身体が熱くなった。

 それを悟られぬように表情を殺す。

 傍らで藤田が「あっ」と小さな声を上げた。

 その人物も克哉の姿を確認し、顔を大きく歪めた。だが、それもほんの一瞬で、口角を僅かに上げて皮肉めいた笑みを作る。

 そのまま視線を交わらせることもなく、すれ違う。互いの間の張りつめた緊張がビリビリと空気を震わせた。

 

「今のって、確か、クリスタルトラストの……」

 

 口を開きかけた藤田を無視して、克哉は社長室の扉をノックし、中に入った。

​克哉:月曜PM9時
克哉月PM9

 他の社員が退社し、二人きりとなったAA社のフロア。カタカタとキーボードを叩く音だけがフロアに満ちる静けさを寸断していく。

 執務室で克哉はキーボードを打ち込みながら、パソコンと向き合っている御堂の方をちらりと盗み見た。

 克哉もパソコン画面に向かってはいたが、心は上の空だ。

 迷いに迷って、やはり正直に話した方が良いだろうと、御堂に声をかけた。

 

「御堂さん」

「なんだ?」

 

 御堂が、手を止めて克哉に目だけを向けた。

 前置きを全て省いて用件だけを淡々と告げる。

 

「今日、澤村とJTC社で遭遇した。クリスタルトラストがJTC社の買収を計画している」

「クリスタルトラストが……?」 

「ああ。JTC社の社長に買収の挨拶に来ていた」

 

 御堂は驚いて、身体ごと克哉に向き合った。

 買収の挨拶とは、買収を仕掛ける側が相手に宣戦布告に行く挨拶だ。

 だが、敵対的な買収は、攻める側も守る側もダメージを負う。

 そのため、最初は友好的な買収を持ち掛け、それを拒否するなら敵対的な買収に移行する。クリスタルトラストは、そうJTC社に告げたのだ。

 

「JTC社はなんと?」

「困惑していた。クリスタルトラストが狙うには規模が小さい。何が目的なのかも不明だ。緊急の取締役会議で検討するらしいが」

 

 御堂が考え込む素振りを見せる。

 

「確かに。変だな。今までの買収案件を見ても、クリスタルトラストが狙う対象から外れている」

「ああ。……だが、今回はこちらと利害は衝突していないはずだ」

 

 JTC社がクリスタルトラストに買収されたとしても、直接AA社には影響がない。

 たとえ、この依頼をキャンセルされたとしてもキャンセル料は契約書でしっかり規定されているため、AA社の一方的な不利益にはならない。また、AA社がJTC社のために行っているコンサルティング自体は、クリスタルトラストのJTC社への買収に影響しないはずだ。

 

「それもそうだな」

 

 御堂も同様の見解のようで、克哉の言葉にうなずく。

 克哉は数秒押し黙り、そして、静かに口を開いた。

 

「だから、あなたはこの件に一切関わらなくていい」

 

 感情を乗せずに言い切った。

 御堂は克哉の言葉に僅かに目を瞠ると、克哉を安心させるように表情を緩めた。

 

「君らだけでこの件をこなすのは大変だろう。私のことなら気遣いは無用だ」

「勘違いするな。あんたに伺いを立てているわけじゃない。これは決定事項だ」

 

 ぴしゃりと言葉を被せて言い切る。表情を殺したまま一方的に告げる言葉に、御堂の顔が強張った。

 御堂は鋭い。取り繕えば取り繕うほどボロが出るだろう。

 だが、理詰めでないと納得しない御堂の性格も熟知していた。それでも、克哉を慮って一歩引く、そんな御堂の態度を期待して取り付く島もない言葉を選択した。

 しかし、克哉の願いに反して御堂は引き下がらなかった。

 

「どういうことだ?」

「言ったとおりだ」

「……佐伯、何を心配している?」

「……」

 

 克哉の独断が御堂の気分を害しているのは明らかだ。それでも御堂は努めて穏やかな口調で問う。

 

「理由が分からない限りは、一方的な命令に従うわけにはいかないな」

「……」

 

 克哉は御堂から視線を逸らし、口を閉じた。

 御堂を納得させるような説得力のある理由は思いつかない。

 しかし、正直に言うことはできない。ここから先の話は避けたい。

 黙り込んで、御堂が退いてくれるのを期待したが、そうはならなかった。

 返事をしない克哉に業を煮やした御堂が、立ち上がり、克哉のデスクの傍まで距離を詰めると、克哉の顔をじっと見下ろした。

 

「君は、私のことを心配しているのか?」

「……ああ」

 

 視線を外したまま返事をする。

 

「それなら、安心しろ。私はもう二度とあんなヘマは犯さないし、澤村も前回の件で懲りたはずだ」

 

 その言葉に込み上がる感情をぐっと呑み込んだ。

 御堂は分かっていない。そういう話ではないのだ。

 克哉が腹の奥底に抱えているものは、御堂が推測しているものと全く様相の違うものだ。

 投げかけられる御堂の言葉から心を閉ざし、視線も返事も返さずにやり過ごそうとする。

 だが、反応が乏しい克哉に御堂の苛立ちが徐々に募っていく。

 

「私はそんなに信用ならないか? 君のパートナーとしては力不足か?」

 

 そうじゃない。

 御堂を信用し、大切にしたいからこそ、触れてはいけないのだ。

 心の奥底で警鐘が打ち鳴らされる。

 これ以上、俺を追い詰めないでくれ、今までそうやって上手くやってきたではないか。

 そう祈るも、御堂は克哉の退路を次々と断っていく。

 

「佐伯、いつまで黙っている気だ。言葉にしないと分からないこともあるだろう」

「……」

「そんな態度がいつまでも通用すると思っているのか」

「……」

「何か言え、佐伯!」

「……違う」

 

 呻くような言葉が零れた。

 言葉にしてはいけないこともあるのだ。一度言葉にしてしまえば、それは事実となってしまう。

 御堂に対しては誠実でありたいと思った。ゆっくりと、少しずつではあるが、真正面から向かってきたつもりだ。

 だが、こればかりは隠し通さなければならないものなのだ。

 胸に鉛を注ぎ込まれたように、苦しさが募る。

 この重苦しい空気から逃げようと、克哉はデスクから唐突に立ち上がった。

 そのまま、御堂を無視して部屋を出ていこうとしたが、脇を通り抜けようとした寸前、鋭い声が克哉の足を縫い止めた。

 

「待て、佐伯! どうして、君は話し合おうとしないんだ。何故、逃げる?」

 

 正面切って戦うことばかりが正解なのではない。

 この場合の二人にとっての正解は、この話題を回避することだ。だが、それを御堂は理解していないし、それを説明することも出来ない。奥歯を噛みしめた。

 

「佐伯」

 

 独特の深みを孕んだ声と優美な所作が、静かな威圧でもって克哉の行く手を阻む。

 御堂は克哉を逃す気はない。無理にでも立ち去ったら、二人の間に決定的な不和が起こるだろう。

 心がざわめき毛羽立ち、舌打ちをした。

 この先に進むべきなのか、ここまできたら進むも退くも結果は変わらないように思える。

 見たくもないものを、今まで目を背けてきたものを、どうして見なくてはいけないのだ。

 そう思う一方で、このままではいずれ限界がやってくることも承知していた。

 互いの領域に深く踏み込めば踏み込むほど、隠していた秘密を曝け出さざるを得ない。

 少しずつ溜まってきたものがある日突然溢流し、全てを破壊する前に何とかしなければいけない。

だが、克哉に何が出来るのだろう。

 胸に色々な感情が逆巻き、奥底に降り積もっていた淀みを舞い上げる。

 

――どうすればいい?

 

 迷う克哉に、楽園の蛇が耳元で粘つく声で囁いた。

 楽園から追放されるのなら、自らそこを壊してしまえ。所詮は張りぼての楽園だ。

 自分は決してそれを望んでいないことは分かっているのに、揺らぐ胸の裡が、昏く染まっていく。

 地を這うような低い声が出た。

 

「あんたは全然分かっていない。そんな事じゃない」

「何……?」

 

 御堂が鋭く息を呑んだ。

 衝き上げてくる残忍な衝動。

 これは、御堂だけでなく自分自身にも向かう破壊衝動だ。

 堪えきれないどろどろとした想いが溢れ出して、唇を突き破る。

 

「俺はあんたを手放したくない。澤村にあんたを渡すなんて我慢できない」

「佐伯……、何を言っている? なぜ、私が澤村に?」

 

 困惑した眼差しが克哉に向けられる。

 自分の中の一番強い気持ちをもう一度、復唱した。

 

「俺はあんたを手放す気はない」

「話が見えない。私に分かるように説明してくれないか」

 

 一度溢れだした感情は抑えられない。

 押しとどめていた堰は決壊した。渦巻く激情に翻弄されつつ、眼差しに力を込めて御堂の顔を見返した。

 

「あんたは澤村にされたことを許していないんだろう? 俺があんたにしたことはどうだ? 澤村とは比較にならないほど酷いことをしたはずだ。俺を憎んでいるか?」

「佐伯、一体何を言っているんだ」

 

 突然ぶつけられた激しい言葉と感情に、御堂は戸惑った表情を克哉に向けた。

 

「答えろ、御堂。お前は俺を憎んでいるか?」

「私は、君を憎んでなど、いない」

 

 御堂は、一拍置いて静かに答えた。

 一見穏やかな水面。だがその真下では不穏なうねりが渦巻きだす。

 

「それは、俺を愛しているからか?」

「……ああ」

「だからだ」

 

 克哉は御堂から、すいと目を逸らして、眼差しを床に伏せた。

 胸が重く、苦しい。

全てを吐き出せば楽になるのだろうか。

 

「君はさっきから何を言っているんだ。意味が分からない」

「本当に分からないのか」

 

 克哉は、御堂が分かっていないことを分かっていた。

 それでも、心の中がぐつりと煮え立って、その苛立ちをぶつけずにはいられない。

 息を大きく吸って、強い口調で言い放つ。

 

「あんたは俺に嬲られた記憶を持ち続けて、過去に怯え、俺を憎み続けることに耐えられなかった。だから、俺を愛したんだ」

 

 自分の言葉を止められない。吐き捨てるように声を荒げて言い切った。

 

「あんたは俺を愛したから、俺を赦したんじゃあ、ない。俺を赦したかったから、俺を愛したんだ」

 

 克哉の言葉に、御堂の漆黒の眸が大きく見開かれた。その中心に克哉を据える。その顔色がすうと青ざめていくのが見て取れた。

 克哉は口にしてはいけない言葉を口にしてしまった。

 そして、御堂はそれを耳にしてしまった。

 もう、なかったことには出来ない。

 御堂の声が掠れる。

 

「君は、本気でそう思っているのか?」

 

 自らが開いてしまったパンドラの箱、破れかぶれな気持ちで返した。

 

「それなら聞くが、俺があんたを凌辱しなくても俺のことを愛したか?」

「……そんなことを問うのは無意味だ」

 

 その通りだ。歴史に『IF』はない。仮定の質問に答えても、その正解を確かめる術はない。だからこそ、何を答えてもいいのだ。

 あんなことがなくても御堂は克哉を愛した、そう答えてもいいのだ。だが、御堂はそう答えなかった。

 御堂は一時の感情に流されて決断を下したりしない。

 克哉に対して反射的に反駁しつつも、克哉の言葉を冷静に分析し始めている。そして、そこから克哉と同じ結論を導き出すだろう。それは御堂と克哉を繋いでいたものであり、今まで克哉が秘して目を背けていた真実だ。

 唸る声で言葉を添えた。

 

「あんたが俺から受けた傷は深かった。立ち直るために、元凶である俺を必要とするほどな。俺を愛していると思いこまなければ、耐えられなかったんだろう」

 

 その言葉は御堂を貶め、自分自身を切りつける。自らの心が散り散りになっていきながらも、口にせずにはいられない。

 御堂は、ぐらつきそうな足場を何とか保ちつつ、口を開いた。

 

「逆に訊くが、そうだとしたら君はどうなんだ? 思い込みで好きだといわれて、君は満足なのか。君は何故私を受け入れたんだ」

 

 御堂には克哉の言葉を否定できる根拠も自信もないのだ。だからこそ、別の角度から二人の関係を推し量ろうとしている。

 

「……俺は、あんたが手に入るならなんだってよかった。……それに、あんたもそれで平穏な日常が得られるなら、お互いにとってメリットがあっただろう」

 

 自らの言葉が克哉を深く突き刺した。こんなことを言いたいのではなかった。

 克哉が御堂を受け入れたのは、メリットとかデメリットとか、そういう理屈を抜きにした感情が胸の裡を覆いつくしていたからだ。

 克哉は御堂を愛している。心の底から。

 しかし、混迷を極めた克哉から出た言葉は本心から遠く離れていく。

 御堂の気配が一変して、冷やかさを醸し出した。

 その眼差しは冴え冴えとして、一切の表情が消える。凍てつく声を出す。

 

「だからか。だから、私が澤村に気を持つのではないかと心配したわけだな。澤村からの記憶を昇華するために、澤村を好きになるのではないかと」

「ああ」

 

 正しく言えば、御堂が澤村に心を傾けることはないとは思っていた。だが、それは単純に、克哉が御堂に残した爪痕の方がはるかに深いからだ。

 しかし、御堂に澤村との接触を許せば、澤村と対峙する中で御堂は自分で見つけてしまうだろう。克哉がひた隠しにしてきたものを。

 

「ふざけるな!」

 

 ドン、と御堂の拳が克哉のデスクに叩きつけられた。剣呑な口調が空気を裂く。一瞬にして、部屋を重い沈黙が支配した。

 

「……帰る」

 

 そう一言呟いて、御堂は克哉と目を合わせることもなく、鞄を持って足高に部屋を出て行った。

克哉はその後ろ姿を追う事も出来ずに、茫然と見つめた。

 かつて克哉を追いかけてきた御堂が、克哉に背を向けて去っていく。

 あの雪がちらついた冬の日、何故、御堂は克哉の元に戻ってきたのだろう。

 御堂は克哉を追いかけてきた。好きだ、と告げるためだけに。

 自分の凶暴な感情を持て余すほど焦がれながら、一度は諦め、解放した御堂が、克哉の元に自ら戻ってきたのだ。

 あれ程のことをした克哉を、御堂が好きになったのは何故なのだろう、という疑問は常にあった。もしかしたら、自身に対する復讐かもしれない、という疑いを持ったことも否定しない。だが、それでも良いと思った。復讐されて当然のことを克哉は御堂にしたのだから。

 しかし、御堂はそんな克哉の疑念を一蹴するかのごとく、克哉を一途に対等な立場で愛してくれた。

 何故、それを素直に受け止めきれなかったのだろう。

 どうして、自分が愛される理由を探してしまったりしたのだろう。人が人を愛するのに理由はいらないのに。

 しかし、胸にふつりと生じた疑問は消えることなく燻り続けて、克哉にある結論をもたらした。そして、その結論に克哉は反論の術を持たなかった。

 澤村の一件の後、御堂は克哉に隠し事はないと言った。

 その通りだ。

 御堂は克哉に何も隠してない。秘している事実に自分が気付いていないだけなのだ。気付いてしまったら、この取引は魔法が解けて効力を失う。今、この瞬間のように。

 取り返せない過去。そこから押し寄せる果てのない苦しみ。

 あの過去も消し去れればいいと願っていた。

 だが、今でもしっかりと御堂の心に刻み付けられているのだ。じくじくと膿んで血を流しながら。

 どうあっても過去の呪縛からは逃れられない。御堂と克哉は過去の負の遺産の上に張りぼての楽園を作って、その中で過ごしていた。

 いくら、二人の愛を深く育もうとも、その足元では御堂の流した血と涙が累々と重なり渦を作り、何かをきっかけにその土台を跡形もなく崩してしまうだろう。

 そうでなくとも、御堂がいつか過去を乗り越えた時には、ふっ、と夢から醒めたように、克哉に別れを告げるかもしれない。

 あの過去なくては、二人の今の関係は成立しないのだ。

 過去を消し去りたいと願いながらも、二人は過去に縋りついているのだ。

 

――そんなこと、分かっていたのに。それでも、俺は……。

 

 誰もいない空間に彷徨わせていた視線を、克哉は手元に戻した。

 御堂が心の奥底に封じていた聖地を蹂躙する愉悦と背徳感。そして、自分自身を切り裂く、自棄にも似た残忍な感情。

 どうして、堪えられなかったのだろう。

 自らの浅はかさを呪った。

 一時でも期待してしまったのだ。克哉の推測は単なる思い込みで、御堂はそんなことは関係なく克哉を愛してくれているのだ、と。

 過去も立場も忘れて、そんな過分な期待を抱いてしまったがために、大切な人を自分の手で再び傷つけてしまった。

 悔恨が波のように押し寄せてくる。

 くそっ、と大きく呻いた。

 誰にも受け止められることのない言葉が零れ落ちていく。

 

「所詮、俺は、大切なものを壊さずにはいられない。何も変わっていない、以前の俺でしかないのか」

 

 一人取り残された執務室の中で、その呟きは虚ろに響いた。

​克哉:火曜日AM1時
克哉火曜AM1

 その夜、部屋に戻った克哉は、そこに御堂の姿を当然見つけることもなかった。何をする気も起きずに、リビングのソファで一人ぼんやりとタバコをふかしていた。

 きつい味のタバコを肺一杯に吸い込むことを続ければ、ニコチンが血管を絞めて鋭く尖った思考と感情を鈍らせてくれる。

 思考を停滞させたまま、タバコの吸い殻だけが積もっていく。

 どれくらいの時間が経っただろう。不意に、機械的なチャイム音が克哉の時を動かした。

 部屋の前のインターフォンを鳴らすのは、ただ一人だ。

 期待か不安か。

 どちらとも分からぬ予感が心をざわめかせる。

 玄関の扉を開ければ、予想通り御堂が立っていた。

 社を出て行ったスーツ姿のままで、背筋を伸ばしたいつもの姿勢で立っている。

 御堂の眼差しはひたりと克哉を見詰める。その眸は、深く、昏い。

「佐伯、今、いいか?」

「ああ」

 

 社を出てから今の今まで、どこで何をしていたのだろう。疑問が生じたが、御堂の隙のない気配に気圧されて黙ったまま部屋に入れた。

 御堂は部屋に入っても、ジャケットを脱ぐこともネクタイを緩めることもなかった。そして、普段寛ぐリビングのソファに座ることもなく、ダイニングテーブルのチェアに腰かけた。

 その仕草が御堂の結論を示しているようで、克哉は自分の心が冷え切っていくのを感じた。

 このままいけば、自分の想像した通りに事が進むだろう。

 重い足取りのまま、御堂の後ろについて部屋に入る。御堂から目を逸らしたまま、キッチンへと足を向けた。

 

「何か、飲むか?」

「いや、いい。それよりも、話をしたい」

 

――俺は話をしたくない。

 

 そう言えずに、御堂の強い眼差しに促されて、渋々、御堂の正面のダイニングチェアに腰を掛けた。

 漆黒の眸が克哉を射抜く。その眸を見返すことが出来ずに、視線を軽く伏せた。

 まるで尋問されているみたいだ。

 いや、違う。重大な判決を受ける前はこんな気分なのだろう。

 自分が犯した罪を裁かれ、罰を言い渡される。

 揺れる克哉の心とは裏腹に、御堂の言葉も態度も揺らぐことなく平坦だ。

 その場の空気の密度に息が出来ず、溺れそうになる。

 灰皿を指で引き寄せて、タバコに火を付けた。御堂はそれを咎める風もない。それは克哉に許された最後の晩餐のようで、タバコを持つ指に自然と力が入った。

 克哉が一服、煙を吐くと、御堂が克哉に向ける顔をふっと緩めた。その表情は張り詰めた空気を動かした。

 静かな声が二人の間に響いた。

 

「私たちは互いに不器用で、言葉が足りなかったんだ」

 

 その言葉は静かでありながら、受ける印象は今までの御堂と違う。嫌な予感が次から次へと湧いて克哉を襲う。

 

「君に指摘されて気付いたよ。私は君を利用していたんだな」

 

 自分が御堂に対して言い放った言葉が自分に戻ってくる。耳をふさぎたい衝動に駆られた。克哉の返事を待つことなく、御堂は言葉を継いだ。

 

「一年半前、私にとってあの経験は忌まわしい経験だった。いや、忌まわしいの一言では片付けられないくらいに。私は今まで築き上げてきたものを奪われた挙句、自分自身が男に抱かれて、それも被虐的な快楽を得るような浅ましい男だとは到底受け容れがたかった。信じてきた自分をも否定されて、私は全てを失ったんだ」

 どこか他人事のように淡々と語られる言葉。

 遠ざけたはずの過去が黒い影とともに、克哉ににじり寄ってくる。

「君に関わるものを全て捨てて、忘れようと思ったが、忘れられなかった。次に私は、その記憶をコントロールしようと考えた。なぜ、そんなことが私の身に起きたのか、理由を探したんだ。その時、君の残した言葉に縋った。君は私のことを愛しているから、その様な行動に至ったのだと。そして、私は欲張ったのだな。理由を見つけて、次は意義を探したんだ。この経験は決して自分にとって負の遺産ではない。何かしらそこに意味があるはずだと」

 克哉が知らなった御堂に再会するまでの一年。

 克哉にとっての一年はぽっかりと抜け落ちた一年だったが、御堂はその間、過去との壮絶な戦いを強いられていたのだ。

「君と恋人関係になる事で、あの過去の意味や意義を得て、自分自身を納得させていたんだ。あの経験がなければ今の君との関係はなかった。だから、けっして無意味ではなかったんだ、と」

 克哉も同じだ。そうやって過去に理由を付けて目を背けてきたのだ。

「君に指摘された通り、君と恋人関係になったら、途端に心が楽になった。あの記憶に悩まされることもほとんどなくなった。もう、自分に失望することも、過去に怯えることも、君を憎む必要もなくなったのだからな」

 御堂は克哉が感情に任せて放った言葉を受け止め、あくまでも冷静に自分を分析している。それは御堂孝典という男が芯に持っている、どこまでも冷徹な強さだ。

 御堂が唇だけで小さな笑みを形作った。

「佐伯、今まで悪かったな。君は、私の浅はかで独善的な思考に気付いて、それでも尚、私に付き合ってくれていたんだろう」

「俺はただ……」

 

 ただ……、何だというのだろう。

 克哉は御堂を好きで、御堂が自分に向ける感情が虚飾なのだと知ったうえで、それにつけ込んでいたとでも言うつもりなのだろうか。

「私が自分で解決すべき問題を君に押し付けようとしていた」

「俺が原因だ」

 克哉の言葉に御堂は静かに首を振った。

「いいや。佐伯、今までありがとう」

 御堂は克哉を責める風はない。

 だからこそ、すうと身体から血の気が引いてくる。この後、御堂は克哉を徹底的に打ちのめす一言を発することが、肌を震わす直感でわかる。

 御堂が、一つ息を大きく吸った。

「君との関係をリセットしたい」

 その口調は柔らかくも、鋼のように固く、そして、鋭く尖って克哉の胸を裂く。

「……あんたがそれを望むなら」

 想像していた通りの言葉でありながら、心臓がくり抜かれるような衝撃に襲われる。それでも、表情を変えずに言葉を絞り出した。これ以外、どんな選択肢が克哉に残されているというのだろう。

 克哉は密かに握りしめた拳に爪が食い込むほどの力を込めた。

 御堂は、突き刺した刃の切っ先で克哉をこれ以上抉ることはしなかった。むしろ、その刃を突き刺したことさえ忘れたかのように、その顔は穏やかだ。

「会社の方は今まで通り、やっていきたい。君さえ良ければだが」

「ああ。あんたの会社だ」

「君が作った、君の会社だ」

 そう一言、訂正して、御堂は立ち上がり、玄関へと向かう。

 黙ったまま、克哉はその後をついていった。

 靴を履いて、御堂がもう一度克哉へと顔を向けた。眼差しが交差する。御堂の眸の昏さに、まばたきをすることさえ忘れた。

 ふっと吐く息に言葉が添えられた。

「佐伯。疑う事をせずに生きていければ、お互いに幸せだったのだろうな」

 その顔が形容できない哀しみに染まっていて、克哉は口を開くことが出来なかった。

 二人の間に培われた熱は、音もたてずにそろりと遠のいていく。

 パタンと乾いた音がして扉が閉まり、完全に二人は隔たれた。

 御堂に、そんな顔をさせてしまった自分が益々嫌いになった。

克哉火曜AM10
​克哉:火曜日AM10時

 御堂が部屋を訪れた8時間後には、二人は再びAA社の執務室にいた。

 シャツに一筋の皺もなく、かっちり着こなされたスーツ。頭のてっぺんからつま先まで一分の隙も無い。

 完璧という言葉を具現化した姿で現れた御堂は、何事もなかったかのように克哉に挨拶を交わして、自分のデスクに着席する。その横顔は禁欲的で怜悧な美しさを湛え、一切の感情を伺わせない。克哉に対する愛しさも憎しみも感じさせない。全くのフラットだ。

 まるで昨夜の出来事が夢だったのではないかと思うほどだ。

 だが、夢でもなんでもなく確かな現実であったことは自分が一番よく分かっている。

 御堂から見た自分はどうだろう。今朝も、いつもと変わらぬ装いをしてきたつもりだが、鏡の中の自分の顔は明らかに心の裡の不安定さを滲ませていた。

 滅多なことでは感情を揺らさない自負はあるが、そのコントロールは鉄壁ではない。弱みを突かれると、酷く脆くなることも自覚している。

 御堂の前に惨めな自分を晒したくはない。

 なるべく同じ場にはいたくない。

 克哉は藤田に声をかけると早々に執務室を後にしてJTC社へと向かった。

 幸いなことに、こなさなくてはいけない仕事は山のようにある。現実から目を逸らすにはうってつけだ。

 特許の提携について、現時点で前向きな回答が得られているのは3社ほどだ。

 JTC社で、エンジニアと企業との特許実用化について具体的な条件と内容を詰めている時だった。

 克哉と藤田は、唐突に社長室に呼び出された。

 コンサルティングに関する話かとすぐに赴けば、恰幅の良い体格の社長が壮年期の薄くなりかけた頭を掻きながら克哉に頭を下げた。

「佐伯さん、今からクリスタルトラスト社からのわが社への買収に関する説明会があるんです。よろしければ、一緒に参加してもらえませんか?」

 突然の思わぬ申し出に胡乱な視線を返した。

「何故、我々が?」

「クリスタルトラスト社は、買収によってわが社への資本増強を行い、支援を行いたいと言っています。それが、現実的なものなのかどうか、そして、買収によるリスクと釣り合うものなのかどうか佐伯さんのアドバイスをいただきたい」

「御社にもM&A(合併・買収)の担当者がいるでしょう。我々は専門家ではありません。満足いただけるアドバイスができるとは思えません」

 丁寧だが取り付く島もない言葉で返答した。

 そもそも、これが発端で、御堂との仲に決定的な亀裂が入ったのだ。

 その責任の所在は言うまでもなく自分にあるが、周りに当たり散らさずにいられるほどの心の余裕はない。自然と言葉もきつくなる。

 社長は克哉の言葉に尤もだ、と頷いてみせて、それでもと克哉に深々と頭を下げた。

「実は、わが社がクリスタルトラストのM&Aの対象になるとは全く予期していませんでして、検討も準備もしていないのです。青天の霹靂に困り果てているというのが実情でして」

 上場している限りは常に買収のリスクは常にある。それを念頭に置くのは、至極当然の危機管理だ。

 だが、義理人情を重視する日本の企業は油断しきっており、その油断を外資系ファンドが非情な手段を用いて食い漁っている。そして、日本政府も後手後手の対応に終始して日本の企業を守り切れていない。そんな現状も克哉は周知していた。

 JTC社はAA社のクライアントだ。JTC社の未来のためにAA社は尽くす義務がある。

 どうすべきか。

 ちらりと御堂の顔が脳裏に浮かんだ。御堂なら、職分を超えたことは一切関わらないというドライな判断を行うだろう。特に澤村がらみであれば猶更だ。余計な火種は抱え込みたくない。

 だが、と克哉は考え直した。

 クリスタルトラストがなぜJTC社に買収を仕掛けたか、思惑を探りたい気持ちもある。

 相手の目的が分かれば、出方が図れる。本当にAA社にとって脅威とならないのか、見極めることが出来る。それに、クリスタルトラストの説明を聞いてアドバイスをする位だったら契約の範囲内だろう。

 克哉は一つ息を吐いて、心を決めた。

「……分かりました。お役に立てるかどうかわかりませんが」

「ありがとうございます!」

 社長は満面の笑みを浮かべて喜んでみせた。

 説明会はJTC社の大会議室で行われた。

 社長を始めとした取締役の面々が楕円形のテーブルに着席する。

 正面に用意されたプロジェクター用の白いスクリーンに澤村がプレゼンを準備して控えていた。

 克哉が会議室に入室すれば、一瞬、澤村と自然が交わる。お互い表情を変えずに、無視を貫いた。

 克哉と藤田の席は最後列に設けられた。テーブルもない。ただのオブザーバー(聴衆)としての参加だ。

 出席者全員がそろったところで、澤村が口を開いた。

「クリスタルトラストの澤村と申します。本日は、このような機会を設けていただきありがとうございます。御社にとって有益なご提案をいたしたく、弊社のプランについてご紹介いたします」

 克哉には一切視線を合わさず、型通りの社交辞令とともに澤村のプレゼンテーションが始まった。

 展開されるスライドと説明は、外資系らしく無駄を省いた洗練された内容のものだった。

 JTC社にとってクリスタルトラストの傘下に入ることのメリットを滔々と説いていく。

 説得力のある数字や計画を、自信に満ちた言葉とともに視覚や聴覚に訴えかけるプレゼンテーションは、場慣れしているだけのことはある。スライドが切り替わるたびに、出席者の感嘆が沸いた。

 時間はあっという間に過ぎ、プレゼンテーションが終わったときは、微かなどよめきが起こった。内容に圧倒されたのか、参加者は感心した風にうなずき合っている。

 一つ二つ質問が上がったものの、いずれも澤村の提案に追従する内容だ。大方、澤村に事前に懐柔された役員たちだろう。克哉はそれを、冷めた目で距離を取って見守った。

 質問が途切れ、場が静まったところで、澤村はにっこりと人好きのする笑みを浮かべて出席者を見渡した。

「御社と我々は良きパートナーになれます。これから、手と手を取り合って、協力していこうではありませんか」

 白々しいほどの明るく前向きな声。

 この男は一体何を言っているのだろう。パートナーとは対等であることだ。だが、買収する側とされる側は決して対等ではない。買収とは支配だ。クリスタルトラストはJTC社を支配しようとしているのだ。

 馬鹿馬鹿しい猿芝居だ。

 こみ上げてくる可笑しさに、克哉は耐え切れずに喉で笑った。

 そのくぐもった笑いは、静まり返った会議室内に響き、澤村をはじめとした出席者が克哉の方を振り返った。

「……何か?」

 澤村の眦がきつく吊り上がる。克哉はもはや笑いを押し殺そうとはせずに、着席したまま澤村の目を見返した。

「耳さわりの良いことだけ言って、いざ買収したら、本社の方針変更とか言って、今までの話を反故にする気じゃないのか。これまでも何度もそうしてきただろう」

「……申し訳ございませんが、ご発言の際は、職位とお名前を教えていただけますか」

 耳障りなほど丁寧で粘ついた口調で返される。

「Acquire Association社の佐伯だ」

 澤村はわざとらしく眉をひそめて訝しむ表情を見せた。

「何故、この場に部外者がいるのか理解に苦しみますが。これはJTC社への説明会ですので、社外の方の質問に答える義務はありません」

 唇の端を歪めて言い放つ澤村に、JTC社の社長が口を挟んだ。

「澤村さん、彼は私が同席をお願いしたんだ。彼の質問にも答えてくれるかね」

 澤村もそんな社長の返しを予想していたのか、にこやかな表情を社長に向けた。

「社長がそうおっしゃるなら仕方ありません。弊社はアメリカに本社をおくクリスタルトラストの日本支社にあたります。そのため、本社の方針の変更には従わざるを得ませんが、大型の買収事案ならともかく、失礼ですが、御社の規模で本社が口を出してくる可能性は限りなく低いです」

「ほう。ない、とは言い切らないわけだ」

 克哉は辺りに聞こえるような声で、独り言ちた。

 怒りが滲んだ視線を澤村から向けられるが、それをわざとらしい笑みを浮かべて受け流す。会場が大きくどよめいた。

 澤村が負けじと声を張り上げた。

「我々の目的は御社の企業価値を高めることです。それは御社の経営方針とも一致しています。確かに、企業価値を高めるために、経営コンサルティング会社に依頼するのも一案です。しかし、それにしてもお金はかかりますし、それに見合ったリターンが得られるとは限らない。彼らは失敗しても責任を取ってくれるわけではありませんからね。」

 力強い視線で出席者を見渡す。

「対して、我々は御社の可能性を信じて、身銭を切って投資するわけです。いわば運命共同体です。どちらの言葉が信用に値するか、賢明な皆様ならお分かりになるでしょう」

「確かに、クリスタルトラストはわが社の資本増強を行ってくれる」

 出席していた役員の一人が、澤村に同調した発言をする。

 その役員は先ほどの質疑応答でも澤村におもねる発言をしていた。すでに買収されているのだろう。

 克哉はその発言を一笑に付した。

「楽観主義なことだな。見知らぬ相手がお金をくれるといったら、あなた達は疑わずに受け取るわけだ」

 発言した役員の顔が一瞬にして色を失った。澤村が噛みつくように口火を切る。

「随分と失礼な物言いですね。投資とはJTC社の存続と発展を願う弊社のアクションです。金だけとって口先だけのコンサルティングを行う会社とは違う」

「存続と発展? どの口がそれを言う。今まで食らい尽くした会社はどれだけあるんだ、言ってみろ」

 挑発する克哉に澤村の怒りの振動が空気を伝わって克哉に届く。それを心地よく感じながら、澤村を無視して出席者に視線を投げた。

 衝き上げる加虐的な衝動に身を任せて口を開いた。

「あなた達もいい加減に目を覚ましたらどうですか。彼らの目的は利益を得ることだ。この社を存続させることが目的ではない。経営権を奪取された瞬間に、解体されて叩き売られるかも知れない。もしくは役員全員の首を挿げ替えられるかもしれない。もちろんそのリスクを承知の上で、みなさんはクリスタルトラストの話を聞いているんですよね?」

 笑みを保ちながらも辛らつな言葉を投げつける克哉に、会場がしんと静まり返った。

「謂れのない誹謗中傷だ! 我々の話し合いを妨害するなら出て行ってくれ」

 即座に澤村が言い返す。克哉に対する憎悪を剥き出しにした表情と態度には、先ほどまでの余裕はない。

 会場内がざわめき、出席者の視線が舌鋒鋭く戦う克哉と澤村を行ったり来たりする。

「佐伯さん、こんなに目立って大丈夫ですか?」

 隣に座っていた藤田が、不安そうに声を潜めて聞いてきた。

 その言葉にハッと我に返った時には、克哉は会場の注目を独占していた。

​克哉:火曜日PM6時

「佐伯」

 硬い声で名前を呼ばれた。

 顔を上げれば、デスクの脇に御堂が立ち、厳しい視線を克哉にぶつけてきた。

 

「藤田から聞いた。JTC社でクリスタルトラストとやり合ったそうだな。何故、わざわざ相手を挑発するような真似をするんだ」

「JTC社の社長から頼まれたんですよ。アドバイスが欲しいって」

「それならば、社長にお前の見解を伝えればいいだけの話だろう。部外者の我々が直接クリスタルトラストと対立する道理はない」

 

 不快さを眉に伝える御堂から視線を外した。

 御堂がさらに責める言葉を継ぐ。

 

「そもそも、今回、クリスタルトラストと直接の利害関係はない、と言っていたのは君だろう」

「そうだ。利害関係はない。だから、好きにやれる」

 

 克哉の言葉に御堂が息を詰めた。険しい気配が増す。ひしひしと怒りの振動が空気を媒介し伝わってきた。

 

「お前は、私的な感情でクリスタルトラストと、いや、澤村との諍いを引き起こしたというのか」

「……澤村ごときどうにでもなる」

 

 その一言が御堂の導火線に火を付けた。心の準備もなく、怒鳴りつけられる。

 

「佐伯、何を言っているんだ! 君はわが社の社長なんだ。プロフェッショナルに徹しろ。君の判断がわが社の今後を左右する事くらい分かるだろう! 私情を仕事に挟むな。冷静な判断が出来ないならこの件から降りろ」

 

 AA社のフロアに響き渡る御堂の怒声に、社内の空気が一瞬にして凍りついた。

 滅多に感情を荒げない男の鋭い声と迫力に気圧されそうになる。

 御堂の言葉はすべて正論で、克哉に反論の余地はない。

 真っすぐと投げかけられる冷徹な眼光と怜悧な言葉は、研いだ刃で切りつけてくるようだ。

 自分でもやり過ぎたと反省している。だからこそ、御堂の一言一言が胸に突き刺さる。

 一般社員のデスクと執務室は仕切りで区切られていたが、仕切りの向こうから社員たちの密かに伺う視線が突き刺さるのを肌で感じた。

 静まりかえった空気はどこまでも重く克哉にのしかかる。

 御堂の剣幕に押されて黙りこくったまま、足元の鞄を手に取って立ちあがった。

 眼差しを伏せて、一言告げる。

 

「この後、JTC社の社長と会食の予定がある」

「佐伯!」

 

 御堂の制止を振り切って、逃げるようにAA社を後にした。

 

 

 

 銀座の料亭で行われたJTC社の社長との会食は、案の定、クリスタルトラストの買収話に終始した。本来なら、資金繰りや特許の開発条件など、AA社本来のコンサルティングの話を詰めたかったが、そこは招待されている身だ。曖昧に笑って、話を合わせる。

 先だってのクリスタルトラストの説明会を引っ掻き回したことを咎められることはなかった。むしろ、社長としてはクリスタルトラストの買収案を拒否したい考えで、克哉の説明会での不遜ともいえる態度は、社長からすれば渡りに船だったようだ。

 克哉を褒めそやす言葉を右から左へと聞き流す。心は別のところにあり、酒だけが進む。

 だが、いくら飲んでも、酒は水のように自分の中を通り抜けていく。酔いたいのに酔えない。

 社長の話では、明日、水曜日に取締役会議で買収提案の是非が審議されるそうで、買収反対派の社長派閥と買収賛成派の反社長派閥の真っ二つに分かれているとのことだった。

 社長は、買収案は拒否されてクリスタルトラストは身を引くだろうとの楽観的な考えだったが、克哉はそうは思えなかった。

 克哉に虚仮(こけ)にされて、クリスタルトラスト、いや、澤村が素直に身を引くとは思えない。むしろ、状況を悪化させたのではないだろうか。先の御堂の怒りが否応にも思い出される。

 不穏な予感に襲われたが、克哉と澤村の対立を知らない社長に話す内容でもない。じっと口を噤んだまま、酒を煽った。

 

 

 深夜、やっと会食から解放され、克哉はタクシーを捕まえた。

 タクシーに乗り込んで、後部座席の背もたれに深く体を預けて、長い溜息をついた。

 冷静さを失った自分とはこうも見苦しいものか。

 昨夜から暴走している自分自身に、ほとほと愛想が尽きてくる。

 タクシーは銀座の真ん中を貫く道を、多くの信号に阻まれながらのろのろとした速度で進む。

 ぼんやりと車の窓から、周囲へと視線を流した。流石に平日のこの時間帯では、銀座と言えども行き交う人影は多くない。

 その時、不意に歩道の一点に視線が縫い付けられた。

――御堂?

 

 人影に紛れながらも、最上の仕立てのスーツを着こなして、ぴんと背筋を伸ばして凛然と歩く姿は様になっている。その後ろ姿は、間違えなく御堂だ。そして、横に並んで御堂と会話を交わすもう一人のスーツ姿の男性。

 唐突に目にした御堂の姿に、思考の全てが奪われた。

 御堂は今夜、誰かと会うなんて言っていなかった。

「すみません、止めて……いや」

 

 タクシーの運転手にそう言いかけて、言葉を切った。

 今すぐにでも追いかけて捕まえたい衝動にせかされるが、追ってどうするというのだろう。

 御堂が誰と会おうと自由だ。今の自分にそれを問いただすことも、ましてや咎める権利はない。

 御堂とはもう、恋人関係ではない。

 今更ながら突き付けられる事実に、感情が千々に乱れた。感情だけが上滑りして、心を掻き回していく。

 熱く重いものが、みぞおちで煮え滾る。

 アルコールを摂取しすぎたのだ。酔えないからといって、後先を考えずに煽った酒は、着実に克哉の理性を侵食していた。暴走しようとする感情と嫉妬を懸命に抑え込む。

 そのまま押し黙った克哉に、運転手が不審げに声をかけた。バックミラー越しに顔を覗き込まれた。

 

「お客さん、どうしますか」

「……歩道側をゆっくり走ってください」

「分かりました」

 

 タクシーが車線変更をし、路肩に車体を寄せてスピードを落とした。御堂達の横をゆっくり通過する。

 車道から顔を背けている御堂の表情を伺うことは出来なかったが、相手の顔はしっかりと確認できた。確か、御堂に連れられて行ったワインバーで見たことがある顔だ。御堂の大学時代からの友人だっただろうか。御堂に向ける表情は親しげだ。

 御堂はどんな顔をあの男に向けているのだろう。それを想像しただけで、胸の裡がかき乱された。

 たかが友人と歩いているだけではないか。もしかしたら、偶然に出くわしたのかもしれない。

 そう、自分に言い聞かせる。

 克哉には克哉の世界があるように、御堂には御堂の世界がある。

 二人の世界を重ね合わせて、全てを共有して生きていこうとしていたのに、今や二人の世界は別の方向に分離しつつあるのだ。

 御堂の心が見えないというのは、こうももどかしい。

 無意識に拳を強く握りしめていた。

克哉火曜PM6
​克哉:水曜日AM10時

 悪いことは続く。その知らせは予期せずにもたらされた。

「なんだと?」

 

 藤田の報告に、克哉は思わず声を荒げた。克哉の剣幕に藤田がびくっと肩を竦める。

 

「3社ともか?」

「はい」

 

 特許の共同開発のための契約を推し進めていた3社が、今日になって突然手を翻して提携を拒否してきたのだ。

 このタイミングに3社同時。AA社の社員達が手を止めて、克哉と藤田を伺う。皆、考えていることは同じの様だ。

 

「……クリスタルトラストですかね」

 藤田が、皆の意見を代表するかのように呟いた。

 先だっての月天庵での出来事が脳裏に浮かんでいるのだろう。

 克哉は藤田には答えず、奥歯をぎりっと噛んだ。克哉も同意見だったが、それを口にすればクリスタルトラストとの正面衝突を認めてしまうことになる。ギリギリのところで踏みとどまる。

 嫌な息苦しさの沈黙が社内を覆った。

 その空気を破ったのは御堂だった。

「クリスタルトラストがやったという証拠はあるのか?」

 

 二人のやり取りを見ていた御堂が、自分のデスクから静かに口を開いた。藤田が慌てて御堂に向き直る。

 

「いえ、ありません。それぞれの企業の担当者にも翻意の理由を聞いてみたのですが、上からの指示との一点張りで……。担当者も困惑しているようでした」

「証拠がないのなら、クリスタルトラストではないかもしれない」

「ですが、このタイミングで3社同時ですよ?」

 

 藤田が食い下がった。それを御堂が落ち着いた声で返す。

 

「クリスタルトラストだとしたら、なぜ、その3社を知っている?」

「それは……」

 藤田が反射的に答えかけて、慌てて続く言葉を飲み込んだ。

 今回の提携はJTC社とAA社で進めてきた。

 クリスタルトラストが、AA社が提携を目論む3社を知っていたとしたら、それは情報がどこからか漏れているからだ。

 月天庵の時も、社外秘の情報がクリスタルトラストに筒抜けだった。その漏洩源は不明だったが、月天庵の一件の後、AA社はセキュリティと情報管理を徹底的に強化したのだ。

 JTC社から漏れているのならともかく、AA社側から漏れたとなっては信用問題にかかわる。特に、クライアント企業の内部情報を扱うコンサルティング業にとって、情報管理の甘さは致命傷だ。安易に情報漏洩の可能性について言及することは自分たちの首を絞めることになる。

 御堂が克哉に視線を流した。

「佐伯、この特許実用化の共同開発を妨害することで、クリスタルトラスト側に何か利益はあるのか?」

「……利益はない」

 御堂の問いに克哉が答えた。

 そもそも、今回のコンサルティングでクリスタルトラストと直接の利害関係はないと判断したのは克哉だ。それでも、先日のJTC社での説明会での対立が脳裏に浮かんだ。

 忌々しげに吐き捨てる。

 

「だが、澤村ならやりかねない。俺たちへの嫌がらせだろう」

「澤村といえども、企業買収がかかったこの大事な時期に、そんな暇なことはしないだろう」

 

 御堂はどこまでも冷静沈着だ。しかし、その冷静さが克哉を苛立たせた。

 

「それなら、誰がこんな妨害をするんだ」

「……そもそも、これが妨害によるものかさえ証拠もないだろう。いずれも契約に至っていない案件だ。企業側が利害を勘案した結果の意思決定に過ぎない可能性もある」

「別々に話を進めていた三社がたまたま同時に考えを翻したというのか? ……あんたはいつからそんな悠長で呑気な考え方をするようになったんだ?」

「佐伯、感情に任せすぎているぞ」

 

 刺々しい克哉の言葉にも、御堂は表情も声も保ち、崩れることはない。

 感情的になっているのは自分でも分かっていた。

 もし、この妨害がクリスタルトラストによるものだとしたら、JTC社の説明会で澤村と対立した自分に原因がある。その仕返しと考えるのが妥当だろう。いわば、自分が蒔いた種だ。だからこそ、自分自身に、そして澤村に対する怒りが抑えられない。

 

「くそっ!」

 

 ドン、とデスクを拳で叩く。社員の視線が一斉に克哉に向けられた。克哉が熱くなればなるほど、対する御堂はより冷静さを深めていく。

 

「佐伯、今は目の前の業務をこなせ。クリスタルトラストがやったという証拠がないなら、これ以上の無用な対立はするな。約束しろ」

 御堂の言葉に返事はしない。口を開けば、きつい言葉を言ってしまいそうで、克哉はひねくれた感情を辛うじて押しとどめて黙る。

 

「佐伯さん、大学の方の話を進めますか?」

 

 二人の間の剣呑な空気に藤田が恐る恐る割って入った。

 

「……ああ、そうしてくれ」

 

 辛うじて声を絞り出す。

 後回しにしていたが、御堂が紹介した大学の研究室との提携を進めざるを得ないだろう。心の中で、まだ御堂の案があることにほっと安堵の息をつくが、それを素直に口に出来ない程度には御堂との間に色濃い影が落ちていた。

 

「外回りに出る」

 

 御堂がそう一言告げて、立ち上がった。

 

「あ、はい。どうぞお気をつけて」

 

 すかさず、藤田が御堂に声をかけた。

 御堂からちらりと視線を投げられるが、その眼差しを瞼を落とすことで遮った。

 胸がざわつく。

 この身の置き所のない苛立ちは、御堂からもたらされたものでも澤村からでもない。自分自身に対するものだ。

 乱れた感情を落ち着けるために、深く息を吐く。それでも、脳裏に色々な出来事や感情が境なく入り混じり、普段の自分がどうであったかさえ、思い出せなくなっていた。

克哉水AM10
​克哉:水曜日PM6時

 その日一日、克哉は何の成果も出せずに焦燥に駆られたまま日中を過ごした。

 提携先の目論見が外れたことで、JTC社と次の策について打ち合わせを行いところだったが、JTC社は突然降ってわいた買収案にそれどころではなくなっていた。

 特許を資本に資金を獲得するという戦略を根本的に見直す必要があるのだろうか。

 提携を進めようとした3社は、いずれも大手企業で通信・情報分野のリーディングカンパニーとも言えるトップ企業だ。その3社ともJTC社の特許に対して当初は興味を示し、乗り気だったのだ。やはり、自分のプランの方向性が間違っているとは思えない。

 だが、上手くいってない以上、方針を転換する必要は本当にないのだろうか。

 胸に去来する焦りと不安が心を揺らし、判断を迷わせ感情を逆巻かせる。

 煩悶しているうちに時間だけ過ぎ去っていく。

「失礼します」

 

 抑えた声が執務室に響き、藤田が顔を出した。

 克哉にまとめた資料を手渡すがてら、落ち着きなく呟く。

 

「そろそろJTC社の緊急取締役会議が終わりましたかね」

 

 ちょうどこの時間に、クリスタルトラストの買収提案の是非を検討するJTC社の緊急取締役会議が開催されていた。JTC社の社員も全員、固唾を吞んで成り行きを見守っている。場合によってはクリスタルトラストの買収がそこで決定されるだろう。

 JTC社の判断、そして、クリスタルトラストの動きは慎重に見極めなければならない。どんな決定が下されるのか、JTC社の内部情報とはいえ、すぐに連絡をもらえるように手配はしていた。

 先の説明会の取締役員の様子から見て、クリスタルトラストに懐柔されている役員も何人かいるようだ。汚い手を好む澤村のことだ、裏工作はお手の物だろう。

 となると、社長がいくら反対しようとも、クリスタルトラストの思惑通りに事が進むかもしれない。

 だが、それでもいいと克哉は考えていた。

 目的通りJTC社を手に入れられたのなら、クリスタルトラストは満足して、これ以上克哉たちに関わることはないかもしれない。

 この案件に取り掛かってから、良くないことが次から次へと起きている。この不穏な流れは留まることを知らないように思えた。嫌な予感が尽きない。こんな理由の分からない不安な気持ちを抱えたままでいるのなら、この案件から早々に手を引いた方が良いのかもしれない。そんな弱気な考えさえ浮かんでしまう。

 しかし、克哉の予想は裏切られた。

 JTC社の取締役会議でクリスタルトラストの買収が否決されたのだ。

 

『クリスタルトラストの買収提案の内容はJTC社の価値を毀損するとの結論に至った。そのため、クリスタルトラストの買収提案にJTC社は反対する』

 

 JTC社が下した決断と声明について、直接の報告を受けた藤田が、執務室の克哉にすぐに伝えにきた。神妙な顔をする。

「佐伯さん、クリスタルトラストはこの後どう動きますかね」

「さあな」

 澤村はどう出るだろうか。

 そして、AA社や克哉たちに対する妨害工作はさらに熾烈になるのだろうか。

 思考をせわしなく巡らせていたところで、よく通る声が執務室の空気を割った。

「クリスタルトラストの買収案が流れたそうだな」

 藤田が振り返り、目を輝かせた。外回りに出ていた御堂が戻って来たのだ。

「御堂さん! ええ。そうなんですよ。この後はどうなりますかね」

「このままクリスタルトラストが大人しく引き下がるとは思えないな。TOB(株式公開買い付け)を始めるだろう」

「となると、JTC社とクリスタルトラストの真っ向勝負ですね。JTC社、何か策はあるのかなあ」

「資本力でいえば、クリスタルトラストの方が有利だな。しかも、M&Aに手慣れている」

 初めて企業の買収合戦を目の当たりにする藤田が、御堂相手に興奮して話し始める。

 TOB(株式公開買い付け)はJTC社の支配権を奪うために株を買い集めることだ。言わば、力づくでJTC社の買収を行う手段だ。

 友好的な買収提案を拒否することで、クリスタルトラストと直接戦うという厳しい道をJTC社は選んだのだ。

 JTC社はクリスタルトラストに対抗する手立てを持っているのだろうか。クリスタルトラストはきっと容赦はしない。

 しかし、クリスタルトラストの買収を了承したところで、彼らの真意は謎だ。それこそ、克哉の言ったとおりに、一瞬で解体されて売り払われるかもしれない。

 御堂と藤田のやり取りを黙り込んだまま聞いていた克哉は、おもむろに鞄を手に取って立ち上がった。

「JTC社に行ってくる。事の顛末を確認しておく」

 

 クリスタルトラストとの戦いが始まると、決着が付くまでJTC社は克哉たちが手がけるコンサルティングに労力をかけていられなくなるだろう。

 場合によっては、克哉たちだけで事を進めることに、しっかりと了承を得ておいたほうが良いかもしれない。

 それさえも、クリスタルトラストが経営権を奪取した暁には、全てを白紙にされて無駄になるかもしれないが、先が見えないことは仕事の手を抜く理由にはならない。

 そして、克哉たちAA社と澤村のクリスタルトラストが衝突して諍いが起きる可能性についてもJTC社に言い含めるつもりだった。

 JTC社はクリスタルトラストと対立をする道を選んだのだ。克哉はもうクリスタルトラストに遠慮する必要はない。好きにやれる。

「待て、佐伯」

 

 御堂の脇を通り抜けようとして、唐突に腕を掴まれた。

 

「分かっているとは思うが、これは、JTC社とクリスタルトラストの問題だ。わが社は関係ない。絶対に首を突っ込むな。どんな挑発をされてもだ」

 

 御堂は隙のない気迫に満ちる。ジャケットの布地の向こうに、御堂の張り詰めた筋肉の緊張が伝わってくる。

 克哉は振りほどこうとした腕を止めた。揺らめかせた視線を御堂に少しだけ向けた。

 

「……分かっている」

「お前を信じている」

 

 間髪入れずに御堂の芯を持った強い言葉が、克哉の鼓膜を震わせた。

 それだけで、鎮めようとした気持ちが乱れる。

 まともに御堂の顔を見返すことが出来ない。視線を外して、自分の視界と意識から御堂を消した。

 御堂はそれ以上克哉を追い詰めることはせずに、腕を掴んでいた手を放した。

 克哉は自由になった手を身体に戻し、ジャケットの襟元を正して皺を伸ばした。視線を逸らしたまま、言う。

 

「行ってくる」

「ああ」

 

 克哉は振り返ることなく、AA社を後にした。

 御堂に掴まれた腕が、まだジンジンと痺れるようだ。

 いっそのこと、御堂に徹底的に無視された方が気持ちが落ち着くというのに、それを知ってか知らずか、御堂は無遠慮に克哉との距離を詰めてくる。御堂が気にかけているのは、克哉個人以上に、克哉が背負うAA社であることは分かっているのに、気持ちがかき乱される。

 大きく深呼吸をして、心が凪いだのを確認すると、JTC社に足を向けた。

 それから程なくして、JTC社の公式の声明が発表された。

 そして、御堂の予想通り、クリスタルトラストはJTC社の決定を受け、直ちにTOB(株式公開買い付け)をするとの声明を出した。

 JTC社とクリスタルトラストの正面切った戦いが幕を開けたのだ。

 克哉はJTC社に赴いたが、社長は記者会見などで時間が取れず、代わりに取締役の一人から直接話を聞くことが出来た。

 当初、社長の考えに反してクリスタルトラストの買収案が受け入れられる見込みだったが、蓋を開いてみれば圧倒的多数で買収案が否決されたとのことだった。

 克哉と面会した取締役は言葉を濁したが、もしかしたら先の説明会での克哉のパフォーマンスが影響している可能性も十分にある。ならば、克哉はクリスタルトラストとJTC社の戦いを巻き起こした一因だ。克哉は、クリスタルトラスト、しいては澤村の激しい怒りを買っていることだろう。

 JTC社だけでなく、AA社とクリスタルトラストの戦いも幕開けした。そんな予感が確信を持って、脳の奥で危険な炎をちらつかせる。

 月天庵の一件で拉致された御堂のことが脳裏に浮かんだ。

 あの時の心臓が引き絞られる恐怖と後悔が思い起こされて、背筋が粟立った。

 澤村に再び狙われるかもしれない。御堂がいくら克哉の恋人でなくなったとしても、御堂に何かあったら、とても平静ではいられない。同じ後悔は二度としたくない。

 澤村が御堂に手を出す前に、何らかの手を打つべきだろう。

 御堂は、クリスタルトラストに手を出すなと念を押してきたが、そんな悠長なことは言ってられない。

 どうしたものか、と考えあぐねながら歩いていると、JTC社を出たところで、克哉の目の前にすっと人影が立ち塞がった。

 チャコールグレーのスーツに、鮮やかなブルーのシャツ、マスタードイエローという派手な色味のネクタイを締める。赤いフレームの眼鏡を合わせると、如何にも軽薄な男という出で立ちだが、仕立ての良いスーツや身につけるひとつひとつのアイテムが洗練されていて、全体として侮りがたい印象を与える。

 そして、人を小馬鹿にするような笑みが、克哉に向けられた。

 その人物の顔を認めて、克哉は眉間にしわを寄せると、怒りを剥き出しにした視線を返した。相手も笑みを保ったまま、同じだけの剣呑さを滲ませた視線をぶつけてきた。

「克哉君、君と二人きりで話がしたいんだけど、いいかな」

「ああ。俺もお前と語り合いたいと思っていたところだ、澤村」

 皮肉めいた調子で合わせる。

 挑発をさらりと受け流すことも出来たが、克哉はそうしなかった。鬱屈した気持ちをぶつけるのにちょうど良いタイミングだ。しかも、相手は諸悪の根源たる人物だ。

 克哉は獲物を目の前にした肉食獣のように、すっと目を細めた。

 場所を変えよう、と言われて澤村に案内されたのはJTC社からほど近いところにあるホテルだった。

 そのホテルを目にした瞬間、瞳孔が開き体温がせり上がった。

 御堂が澤村に拉致されて監禁されたホテルだ。

 澤村が克哉の様子を見て、可笑しそうに唇の端を歪めた。

「ああ、このホテル、気になる? ここ、クリスタルトラストがオーナーなんだ。だから色々融通が聞いてね。人目に付きたくない商談はここを使うことが多いんだよ」

「気に食わない人間を拉致誘拐するのにも使うんだろう?」

「ああ、そう言えば、克哉君は、ここに来たことがあったよね」

 澤村はクスッと笑いを零した。

 人を嘲るような物言いは、明らかに克哉を挑発してきていた。相手の弱点をついて冷静さを失わせようとする、澤村のやり口だ。きつい視線で澤村を制する。

 互いの間で培われた敵愾心の炎が見え隠れする。

 澤村に対するどろどろとした怒りが噴き上げてくる。

 通された部屋は角部屋で、二面採光の明るい室内に瀟洒なテーブルとソファが設えてられており、澤村の言葉通り商談用に用意された部屋のようだった。

 ソファに腰を掛けると、タバコを取り出して火を付ける。

 見せつけるように天井に向けてゆっくりと煙を吐き出すと、澤村は嫌そうに顔をしかめつつも、端に置かれていた灰皿をテーブルの中央に指で引き寄せた。

「それで、話は何だ?」

 澤村と余計な話はする気はない。今回、澤村に素直についていったのも宣戦布告と警告をするためだ。

 タバコを咥えながら鋭い視線を向けて、本題を切り出すように促した。

 そして、澤村も克哉と同じ心持だったようで、息を一つ吐いて克哉を真正面から見据えた。

「克哉君、随分とやってくれるじゃないか。今回に限っては、そちらと利害は衝突していないと思っていたけど、僕の勘違いだったかな」

「何の話だ。お前たちこそ、相変わらず汚い真似をしてくるんだな。クリスタルトラストのお家芸とはいえ」

「汚い真似だと……? そもそも、最初に僕たちに対する攻撃を仕掛けてきたのは君達だろう。それを我慢してやっていたのに。君らは僕たちクリスタルトラストと本気で戦うつもりなのかい?」

「お前の安っぽい挑発はいい加減飽きた。遠くで吠えていろ。それとも俺に躾けられたいのか?」

「喧嘩を売ってきたのは君達だ。その言葉、後悔するなよ。これからは容赦しない」

 牽制と挑発が混じり合、敵意剥き出しのやり取りが交わされる。一触即発の殺伐とした空気が心地いい。喉を震わせて、くくっと笑った。

「その言葉、お前たちにそっくり返すさ。無益で無駄な話し合いだったな。まあ、お前に関わった時間で有意義なんてものは一度もなかったがな」

「もう少し冷静な話し合いが出来るかと思ったけど、君がそう言う態度なら、こちらにも相応の考えがある」

「考え? 浅知恵の間違いだろう?」

「そう言えば、君のステディは元気かい?」

「貴様……」

 突然、澤村の声が粘着さを帯びる。

 あの時のホテルで、御堂を拉致して辱めた張本人が目の前にいるのだ。

 瞬時に身体中の血が沸騰した。灰皿に火が付いたタバコを乱暴に押し付ける。

 澤村を睨み付ける目が据わり、握りしめた拳が憤怒に戦慄く。

 クスクスと澤村は笑みを零した。

「君のステディは男といえども、色気があるよね。ノーマルな僕でもそそられたくらい。一回ぐらいヤってもよかった。きっと可愛い声で啼くんだろうな」

 煽られて、澤村に飛び掛かって殴りつけたい衝動に襲われる。

 頭の中が怒りに白んだところで、ふっと先の御堂に掴まれた腕が、じんと痺れた。

『お前を信じている』

 御堂の深い声が耳の奥に響く。憤りに曇る思考がすっと落ち着き、視界が広がった。

 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる澤村を、視界の真ん中に捉える。一瞬、澤村が天井の方にちらりと視線を送った。

 その視線の方向に目をやり、天井隅に設置された防犯カメラが二人にレンズを向けているのを見つけた。

――こういう、ことか。

 全ての合点がいき、冷静さを取り戻す。

 このまま克哉が怒りに任せて澤村を暴行すれば、その犯行の一部始終が記録に残る。信用を第一とするコンサルティング会社の社長が暴力を振るった。それが公になれば、AA社は一巻の終わりだ。だからこそ、澤村は克哉を挑発してきたのだ。

 深呼吸をして気を落ち着かせると、冷たい眼差しで澤村を射した。

 澤村は自分の目論見が外れたことに小さく舌打ちをして、表情を苦くする。

「お前は、相変わらずの馬鹿さ加減だな。澤村」

「……っ!」

 澤村は相も変わらず澤村だった。何の脅威も感じない、見かけ倒しの男だ。

 克哉は気色ばむ澤村に軽蔑交じりの視線を投げ返し、さっと席を立った。

 だが、そのまま帰ろうとして、不意に小さな違和感が頭をもたげた。

 澤村の発言内容に齟齬がある。

 最初にクリスタルトラストを挑発したのは、確かに克哉だ。クリスタルトラストの説明会を引っかき回した。そして、クリスタルトラストが報復としてAA社の特許提携を妨害した。

 そういう理解だったのだが、澤村は、「我慢してやった」「これからは容赦しない」と、さも、今から改めて報復するかのような口ぶりだった。もう嫌がらせは十分すぎるほど受けている。

 どうも、話が噛み合わない。

 澤村に対する憤りの中で、ふつりと沸き上がったその疑問をどう取り扱うか惑う。

 克哉を惑わせようとする、澤村の撹乱に過ぎないのかもしれない。

 だが、彼ならどうするだろうか。

 御堂の顔が頭をよぎった。

 御堂なら、私情を全て差し置いて、どこまでも冷静に一つ一つ分析していくだろう。自分が納得するまで徹底的に。

 この胸の内の据わりの悪さを無視することも出来たが、見逃してはいけない気がした。

 澤村を叩きのめす前に、せめて、そこだけは明らかにしてからも悪くない。

 浮かしかけた腰をソファにかけ直す。笑みを消して、真正面から澤村を見据えた。

 突然態度を変えた克哉に、澤村が表情を強張らせ、警戒心を露わにする。

 

「一つ聞いていいか、澤村」

「何をだ」

「お前は何に対して怒っているんだ?」

 

 克哉の言葉に、澤村がぽかんと口を開けた。

 

「はあ? 何に、って、君らがやったことに決まっている。取締役会で役員を唆して、クリスタルトラストの買収提案を拒否させただろう」

 

 澤村の言葉に眉を顰めて首を振った。

 

「俺はそんなことはやっていない」

「なんだって?」

 

 不穏な予感に神経がざわめく。もう一つ、確かめなくてはいけない。

 

「もう一つ、聞きたい。お前は、俺たちが進めていた特許の実用化のための企業提携を妨害したのか?」

「は? 僕はそんな事はしていない」

「本当か?」

「心外だな。そんなことをして僕らに何のメリットがあるんだ。そんな提携、買収したらいくらでも潰せるだろう。優先順位が違う」

 やはり、澤村はJTC社を買収して支配権を得た暁には、克哉たちのコンサルティングの契約を潰すつもりだったのだ。

 怒りが込み上げるが、それを腹の底に押しとどめて、澤村の率直な言葉を頭の中で吟味する。素直に認めるのは腹立たしいが、澤村の主張に矛盾はない。

 眼鏡のブリッジを押し上げつつ、自分の考えをまとめた。

「……。澤村、お前は俺達が取締役会議の邪魔をしたと本気で思っているのか。俺たちに何の利益がある」

 

 澤村がレンズの向こうの目を細めた。

 

「あの取締役会議で、本来ならばクリスタルトラストの買収案が受け入れられるはずだったんだ」

 

 眦をぎらりと吊り上げて睨みつけられる。その声に隠しようもない怒りが滲む。

 

「入念な根回しもしてあった。だが、土壇場で裏切りが続出した。これは人為的な介入によるものだ。そもそも、この買収案について社長は反対をしていた。君は社長の肝入りで招聘されたんだろう」

「俺は裏工作はしていないし、お前たちの買収案には全く興味がない。依頼の件がキャンセルになっても、違約金はしっかりと手に入る契約だったしな。反対派の先鋒が社長と言うなら、社長がやったのだろう」

 

 克哉は、自分を疑う声を低く窘めた。だが、澤村は克哉に疑いの眼差しを向けたまま、苛立たしげに髪を掻き上げる。

 

「社長の動きは厳しくマークしていたんだ。それに裏切ったのは、反社長派閥だ。社長とは別の人間が動いたとしか思えない」

「俺でないことは確かだ。それより、お前は、企業との提携を邪魔はしていないのは本当だな?」

「何度も言わせるな。僕たちの最優先事項は買収を成功させることだ。それさえ出来れば後のことはどうにでも出来たんだ」

 克哉は手元に視線を落として、黙り込んだ。

 一向に話がかみ合わない原因はここにあったのだ。

 互いが互いを妨害していると考えていた。だが、それはどうやら事実ではない。

 澤村の言っていることは理に適ってはいる。それを信じるならば、一つの結論に辿りつく。

 そして、澤村も同じ結論に行きついたようだ。二人で顔を見合した。

 まじまじと互いの顔を見つめ合ったまま、場に沈黙が降り立った。

 固まった空気を克哉が動かした。

「澤村、お前の話を信用するなら、アノニマス・エネミー(顔の見えない敵)がいる。俺とクリスタルトラストを両方とも邪魔しようとしている第三者が」

「誰が、何の目的で……?」

 見出したもう一つの可能性に、信じられない面持ちで澤村が呟いた。

「それが分かったら苦労しない。JTC社の買収を狙っているのはお前のところだけか?」

「ああ」

「それは確かか?」

「馬鹿にするな。JTC社の株の動きは細かくチェックしている。第三者に買い占められている動きはない。僕たちの情報収集能力を見くびるな」

「澤村、クリスタルトラストがJTC社を狙う目的はなんだ?」

 澤村がふん、と鼻を鳴らした。

「割安で優良な企業を買収して、企業価値を高めてリターンを狙う。企業買収の目的はこれ以外にないだろう」

「違うな」

 模範的な解答をする澤村に、克哉はそう言い切って、口の端を吊り上げた。

「JTC社の事業内容や資産を見ても、クリスタルトラストが興味を持つとは思えない。お前たちの目的は別にある」

「さあ?」

「お前が必死で狙うからには、そこに巨額の利益が絡むはずだ」

「僕を買い被りすぎだよ、克哉君」

 喋りつつもJTC社に関する情報を頭の中で素早く展開する。JTC社の固有資産はたかがしれている。事業だって落ち目だからこそAA社にコンサルティングの依頼が来たのだ。

 ならば、クリスタルトラストが狙うものは何だ?

 ハッとひらめいた。

 クリスタルトラストが狙う資産。それは克哉が目をつけたものと同じではないだろうか。

「澤村。クリスタルトラストの目的はJTC社の特許だろう」

「知らないな」

 白を切る澤村に追及の手を緩めずに責め立てる。

「どの特許を狙っている? いや、分かった。俺たちが実用化しようとしている特許だろう」

 AA社にクリスタルトラスト、JTC社を挟んで別々の目的で動いている二つが共に妨害されるとしたら、考えられる共通点はこれしかない。

 澤村の眉が微かに動いた。

「……」

「何故、その特許を狙う。目的は何だ?」

「克哉君、勝手に話を進めないでくれるかな。僕は特許が目的だとは一言も言っていない」

 澤村の言葉を聞き流して、忙しなく思考を巡らせる。

 特許はGPS技術に関するものだ。GPSは今や数多くの分野で活用されている技術だ。

 その中で、最も利権が絡むのはどこだ?

 すぐに、克哉は一つの可能性に思い当たった。

 澤村を強い眼差しで射て、その表情を慎重に探る。

「……昔から、科学技術の最大の目的は戦争への貢献だ。意図するしないに関わらず、な。JTC社のGPS技術は、軍事に転用できるじゃないか。そしてお前たちはそれを目当てに、JTC社に買収を仕掛けた。この特許を他の国や軍事企業に売るつもりじゃないのか」

 特許だけを直接買い取ろうとすれば、その価値や狙いがばれてしまう可能性がある。だからこそ、会社ごと買い上げて、社が所有する特許を入手するという戦略なのではないだろうか。王冠が抱く宝石を狙うなら、王冠ごと買い上げてしまえばいい。

 澤村が黙りこくったまま克哉に向ける目を眇めた。それは克哉の言葉に同意していると読めた。

 それにしても、軍事が絡むとなると、事態は厄介だ。

 どこまでの敵を想定すればいいのか。

 そして、現時点でわかることは、アノニマス・エネミーにJTC社、クリスタルトラスト、そしてAA社の内部情報が漏れているということだ。

 克哉は、ふう、と大きな息を吐いた。

「澤村、だとするとアノニマス・エネミーは俺達が思っている以上の強敵かもしれない。下手したら無傷ではすまないくらいの。現にお前たちの情報が筒抜けだ」

「ははっ。面白いじゃないか。敵が誰だって、僕は受けて立つよ。情報戦なら僕の得意とするところだ」

 

 澤村は唇を歪ませて笑った。

「そして、身近なところにアノニマス・エネミーの仲間もしくは内通者がいる。内部の人間だな。JTC社かクリスタルトラストか」

「もしくは、Acquire Associationか」

 すかさず言葉を継いだ澤村を睨みつける。どう差し引いてもこいつは嫌な奴だ。それは間違いない。だが、煮えくり返る怒りをぐっと呑み込んだ。

「澤村、敵が判明するまでは休戦だ」

「休戦も何も、僕は君らを相手にしたつもりはない」

 やはり、気に食わない。

 しかし、克哉も鋭い眼光を澤村に返した。

「俺もお前と遊んでいるほど暇ではない。休戦はするが、共闘はしない」

「結構だ。相互不可侵といこうじゃないか、克哉君」

 ああ、と克哉は返して大きな動作で席を立った。

 澤村をどこまで信用できるのか大きな疑問だが、どうやらクリスタルトラスト以外に気を向けないといけない敵がいる。それが分かっただけでも大きな収穫だった。

 部屋を出ようとして、足を止めて振り返った。

「澤村、最後に一つ聞くが、アノニマス・エネミーに心当たりはあるか?」

 澤村は小首を傾げた。

「心当たりが多すぎて、一つに絞り切れない」

「だろうな」

 

 この言葉だけは、考えずとも信用に値するように思えた。

 こうして、奇妙な休戦協定が克哉と澤村の間で結ばれた。

克哉水PM6
​克哉:木曜日PM0時

 午前中、別々に動いていた克哉と藤田は、AA社近くのそば屋で落ち合った。食事をとりながら、互いに得た情報を交換し今後の戦略を練り直す。

 だが、現在のところ、めぼしい情報はない。

 藤田は資料を捲りながら、難しい顔をした。

「提携先の企業、他の会社もあたってみます。いくつか候補は見つけてあるので」

「リストアップにとどめておいてくれ。それよりも、今回の3社同時のキャンセルの原因を判明させることが先だ」

「承知しました」

 

 そうでないと、新しい候補先も二の舞になる可能性がある。

 だが、現状ではその原因を追究することは難しいこともわかっていた。午前中の間、藤田はキャンセルされた3社を回って、担当者と面会したが、どの社の担当者も、その指示が上層部から来たということだけしか把握していない。どこも大手企業で、規模も大きく指示系統も複雑だ。誰が何の理由で意思決定をしたのか、具体的なことは何も分かっていない。

「大学の件はどうなっている?」

「前向きな返事を得ています。直接説明するために、金曜日にアポイントを取っています」

「情報管理は徹底しろ。提携先の情報はギリギリまでJTC社にも告げるな」

「はい」

 企業との提携が白紙になって、御堂から紹介された東慶大学の研究室との連携を進めていたが、JTC社やAA社からの情報漏洩が完全に否定できない以上、慎重にことを進める必要がある。

 大学の件に関しては、月曜日のミーティングで御堂が発言したものの、その後は藤田と御堂が直接やり取りしていたため、具体的な連携先はAA社内でも限られた人間しか知らない。また、JTC社にも教えていない。

 先方との連絡も社内の電話やメールを避けて、藤田個人が直接連絡をするように指示していた。同じ轍は踏みたくない。

 それにしても、不信は募る。

 まだ検討段階であった企業の提携話をなぜ各々の社の上層部が把握し、一も二もなく握りつぶしたのか。

 この提携案を蹴ることで、その3社にどんなメリットがあったのか、全く見当がつかない。アノニマス・エネミーがどのような手を使って、克哉たちの動きを察知し先回りしたのかも。

 月天庵の時はどうやってAA社の内部情報を得ていたのか、澤村に問い詰めておいても良かった。簡単に手の内は明かさないだろうが、多少揺さぶればヒントは得られたかもしれない。

 しかし、アノニマス・エネミーが本当に存在するのかさえ、実際のところ確証は得られていない。

 今のところ分かっているのは、提携先のキャンセルがどうやらクリスタルトラストの仕業ではないということだけだ。

 御堂の言う通り、偶然である可能性も否定できない。アノニマス・エネミーとは疑心が生んだ仮想の敵かもしれないのだ。

 JTC社の緊急取締役会議での買収案拒否にしても、買収反対派の社長の必死の説得が功を奏した可能性もある。

 真相というのは、往々にして単なる偶然の積み重ねであったりして、拍子抜けすることもざらだ。ヒトは出来事の全てに理由をつけて、納得をしたがる生き物だ。だからこそ、存在しない真実があると決めつけたがる。

 偶然なのか、必然なのか。

 考え込んだまま箸が止まる。二人の間に落ちた沈黙を唐突に藤田が破った。

「佐伯さん、先日はすみませんでした」

 藤田が頭を下げる。

 言っている意味が分からなくて反応が遅れると、藤田が口を継いだ。

 

「あの、火曜日のクリスタルトラストの説明会の件、御堂さんに告げたりして。御堂さんがあんなに怒るとは思わなくて」

「ああ、あれか。気にするな」

 

 言われてやっと思い出す。色々ありすぎて、一昨日の出来事なのに随分と昔のことのように感じる。

 あれは、どう考えても自分自身の行動に問題があった。

 真剣に怒った御堂の顔を思い出す。あんなにまっすぐに怒られたのは月天庵の一件以来だっただろうか。

 ぼそりと呟いた。

 

「御堂さんは間違っていない」

「あ、その言葉」

 

 藤田が嬉しそうに破顔した。その思いがけない笑顔に驚く。

 

「何だ?」

「いえ、懐かしいなあ、と思って」

「懐かしい?」

「ええ。ほら、佐伯さんがMGNにいた時、上の人たちを相手に、一歩も退かずに『御堂さんは間違っていません』って事あるごとに言ってくれたじゃないですか。あれ、俺、本当に嬉しかったんです」

 

 藤田は記憶を思い起こしたのか、どこか遠いところを見るような眼差しになった。

 

「プロトファイバーでトラブルが起きるたびに、偉い人たちは前任の御堂さんのせいにして。すごく悔しかったんです。その場にいない人の責任にして、角を立てずに済ませたいだけなのかもしれませんが……。この人たち、御堂さんがどれだけプロトファイバーに心血を注いでいたか知らないくせに、って。でも、その度に佐伯さんが、御堂さんは正しいと主張してくれて。嬉しかったなあ」

「……あれは、事実を述べただけだ」

 

 それ以上、藤田の言葉を聞いていられず、一方的に話を切った。

 責められることこそあれ、褒められるようなことは何もない。

 克哉自分が粉々に砕いてしまった御堂の業績。その破片を拾い集めて、少しでも元の形に近付けようと一人奮闘していた。

 そんなことをしても、当の本人には何も届かないのに。

 単なる自己満足の贖罪だ。

 克哉が断ち切ってしまった御堂の輝かしい道、御堂が必死に積み重ねてきたひとつひとつの成果、その軌跡の向く先ははるか高みへと伸びていたはずだ。

 

「なあ、藤田。御堂さんがMGNをあんな風に辞めずに残っていたら、どこまで登り詰めていたかな」

 

 藤田が目を輝かせる。

 

「それはもう、専務を超えて社長まで、いや、アメリカ本社に出向すると言う話もありましたから、MGNグループ全体のCEO(最高責任経営者)にまでなっていたかもしれませんね」

「そうだよな」

 

 胸が痛くなる。

 その道を無残に踏み躙ったのが自分なのだ。

 藤田が黒目がちの眸を克哉に向けた。

 

「でも、俺、同じことを佐伯さんに対しても思いましたよ。佐伯さんもきっとどこまでも出世するだろうなって」

「俺に?」

 

 出世には興味がなかった。

 ただ、ひたすら御堂が残したものを守り、御堂が目指していた目標に少しでも近付ける、それだけがMGN時代の克哉の全てだった。

 だから、プロトファイバーのプロジェクトがゆるぎない成功をものとし、軌道に乗った時に目標を見失った。

 新しいプロジェクトをいくつか回されたが、克哉にとっては最早何のモチベーションも見いだせなかった。そつなくプロジェクトをこなしたものの、虚しさばかりが心を占めた。

 そして、また、御堂のいないMGN社に自分が残っていること自体が許されない気がして、Acquire Associationを立ち上げたのだ。

 藤田が言葉を継いだ。

 

「でも、佐伯さんはMGNに残る道を選ばなかった。御堂さんと、このAcquire Associationを興した。だから、きっとこの会社には、MGNでは得られない、それ以上のものがあるんだろうな、と思ったんです」

 

 だから俺も迷わずAA社に来たんですよ、そう付け足して、藤田は屈託なく笑った。その顔には媚びも偽りもない。

 藤田の言葉に息を呑んだ。急に視界が広がり明るくなったようだ。

 そうだった。

 今までの会社では見られない世界を見せてやる、そう言って、御堂を無理矢理引き込んだのだ。

 失った過去は変えられない。だが、未来なら変えられる。

 このAA社を育てれば、御堂が得るはずだった以上のものを得ることが出来るはずだ。

 MGN時代に最後に手がけた、コンセプトショッピングモールの企画、偶然選んだ応募企業の企画が御堂の作った企画だった。思い返せば、あれは偶然ではなくて、御堂の影を追い求めていた自分が選ぶべくして選び取ったのだ。言わば、必然だ。そして、御堂と克哉二人の道が再び交わった。

 御堂と克哉のつながりはまだ切れていない。AA社が残っている。

 恋人関係でなくても、克哉と御堂は共に出来ることがある。

「そうだな。わが社のゴールはまだまだ先だ。こんなところで躓いてはいられない」

「頑張ります!」

 きっぱりと言い切ったところで、藤田は満面の笑みを浮かべた。克哉もつられて笑う。

 そういえば、今週に入ってから、心から笑ったのは初めてだったかもしれない、と気が付いた。

克哉木曜PM0
​克哉:木曜日PM9時

 社に戻ってしばらくすると、御堂が外回りから戻ってきた。

 今週に入ってから、克哉は藤田とともにJTC社の案件にかかりきりで外回りばかりしている。他のコンサルティングや社内のことはほとんど御堂に任せきりだった。

 御堂の負担は大きいだろう。だが、御堂が克哉のねぎらいの言葉を求めていないことは分かっていた。御堂はそれを自分の当然の業務として淡々とこなしている。

 御堂は自分のデスクに着席してから一心不乱にパソコンに向き合っていた。JTC社の進捗を聞いてくることもない。

 JTC社の話になるたびに、御堂と克哉の間に不和が巻き起こる。御堂はもう、克哉に任せることにしたのだろうか。それとも、藤田経由で話を聞いているのだろうか。

 今となっては御堂の意見を聞きたいが、積み重なった多くのことが、克哉と御堂の隔たりを広げていた。

 相手を徹底的に避けていたのは克哉の方だ。我ながら子供じみた振る舞いだと自覚している。

 しかし、失恋のひとつやふたつ、と割り切るには御堂の存在が大きすぎるのだ。

 御堂は今までと変わらぬ態度で、克哉にも仕事にも向かい合おうとしている。ただ、プライベートの時に克哉だけに見せる、甘さと優しさが一切なくなっただけだ。

 御堂の克哉に対する一貫した態度を見れば、既に未練はないのだろう。御堂の中で、克哉の件は既に処理済みのフォルダに分類されているかのようだ。

 だが、克哉自身はどうだろう。

 展開があまりにも急すぎて、気持ちが過去に取り残されたままだ。

 取り戻せない過去から押し寄せる、怒濤の後悔。

 身から出た錆だということは言うまでもないが、未練の塊がそこに転がっている。

 今の、御堂との硬直した関係を何とかしたい。

 御堂が克哉を拒絶していない以上、自分の気持ちひとつで事態は打開できることが分かっている。いい加減、自分がどこに身を置くべきか、迷いを拭い去らなければいけない。

 過去から未来へと目を向けようと、心に決めたのだ。

 御堂との新しい関係を築くことが出来れば、トラブル続きのJTC社の案件にも解決の糸口が見つかりそうだ。そんな根拠もない期待さえしてしまう。

 頭はひとつしかないのに、検討しなくてはいけない課題が山積みだ。

 気づかれぬように大きなため息をついて、克哉は悩みながら執務室から出ると、給湯室にコーヒーを取りに行った。

 だが、生憎とコーヒーメーカーの中は既に空だった。もう、この時間だ。他に社員もいないし、仕方ない。

 諦めて、下の階のコンビニへと向かった。缶コーヒーを買おうとして、少し迷って、二つ買った。

 そして、デスクに戻りがてら、さりげない仕草で、缶コーヒーをひとつ御堂のデスクに置いた。

「どうぞ」

 パソコン画面に向かっていた御堂がびっくりして顔を上げて、「ありがとう」と一言返した。そのまま、パソコン画面に視線を戻す。

 克哉が置いたコーヒーに手を触れる気配はないが、克哉は気にせずに自分のデスクに戻って、もう一つ買ってきていた缶コーヒーを開けた。

 苦みがある液体を飲み下しながら、黒目だけを動かして御堂を伺うと、御堂も画面から視線を外して、克哉を見ていた。眼差しがつながる。

 そのつながりが途切れる前に、咄嗟に顔を向けた。

「御堂さん」

「なんだ?」

 

 普段と変わらぬ口調。呼べば応えてくれる。そこに大きな安堵を抱く。

 決心して口を開いた。

「俺は、この社をどこまでも育てて、大きくしたい」

「ああ。君ならそれが可能だろう」

 すかさず返される言葉。背中を押されて言葉を継いだ。

 

「だから、これからも協力してくれないか。ビジネスのパートナーとして。あんたとなら世界だって手に入れられる。その気持ちは変わっていない」

 

 傲岸不遜とも受け取れる誘い文句に仄かな緊張が混じる。それは御堂に伝わってしまっただろうか。

「佐伯……」

 眼差しを定めて御堂を見詰めれば、御堂の切れ長の目元が驚きにふっと緩んだように見えたが、すぐに感情を乗せない厳しさが戻った。

 御堂が薄い唇の片側を吊り上げた。

「君は、私に同情しているのか?」

「……ッ!」

 

 鋭く問われ、言葉に窮した。冷水を浴びせかけられたかのように、ぎょっと身体を竦めた。

 

「そうじゃない。俺は、……」

 

 ビジネスのパートナーとして御堂を誘ったのは、御堂の実力を認めているからだ。加えて、今や途切れかけている御堂とのつながりを少しでも保ちたいと考えた。

 しかし、このタイミングで御堂を改めて誘ったのは、克哉の償いや同情だと思われても言い訳できない。その気持ちが全くないかと問われれば嘘になる。

 御堂は気高いプライドを持つ男だ。同情されることが一番プライドを傷つける行為だということは、一番よく分かっていたはずなのに。

 克哉の目標は、AA社を共に立ち上げた御堂のそれと同じであったはずだ。

 だが、二人の関係が変わってしまった以上、そう思うのは傲慢で、克哉の夢に付き合って当然と誘うことは、上の立場からの独り善がりな物言いに聞こえたのかもしれない。

 部屋の空気が凍えていく。

 自らの浅はかさを呪った。

 御堂を本気で怒らせてしまったのだろうか。いや、怒るのならまだいい。それは克哉という存在を認めているからだ。だが、目の前の御堂は体温を感じさせず、態度は平坦だ。

 御堂は克哉から視線を外さずに言った。

 

「佐伯」

 

 すっと、デスクから立ち上がり、克哉に歩み寄った。じっと見下ろされる。

 御堂は戸惑う克哉の手から缶コーヒーを取り上げて、残っていたコーヒーを一息で飲み干すと缶をデスクに置いた。カツン、と金属の乾いた音が響く。

 御堂は克哉に向けて、冷笑を浮かべた。

 

「私は君の飽くなき野心と強い上昇志向を気に入っている。使えるものは何でも使えばいい」

「御堂……!」

 

 道具として自分を利用しろ、と感情のない声が告げる。

 みぞおちのあたりが冷たく重くなっていく。

 自分はそんな風に御堂を扱いたいわけではない。だが、張り詰めた密度の空気の中で気持ちだけが空転して、言葉が出てこない。

 そんな克哉を傍目に、御堂は克哉のプレジデントチェアの背に手をかけた。椅子を回して、克哉を自分の正面に向かせた。

 椅子に腰かけたままの克哉の前に跪づく。そのまま、流れるしぐさで、克哉のズボンのベルトに手をかけて、克哉の前を寛げた。

 御堂が何をしようとしているのか正しく悟り、咄嗟に腰を退こうとした寸前、下着の合わせから性器を掴みだされた。御堂が克哉の股間に頭を埋める。次の瞬間、ペニスが御堂の中に消えた。

 熱く濡れた粘膜がペニスに絡みつく。唾液でたっぷりと濡らした舌が、根元から先端まで這いまわる。克哉のそれは、御堂の口内ですぐに質量を持った。

 口の中を埋め尽くそうとする克哉のペニスを、御堂は顔を前後させて扱いていく。淫らな音を立てて克哉の欲情を煽ろうとする御堂の頭に、指を差し入れて押さえつけた。

「あんたはこういうのは嫌だったんじゃないのか」

「こういうの?」

 

 御堂が愛撫を止めて、口を放した。濡れそぼった唇の端から一筋の唾液が光る線を引く。それを目にしてぞくりと甘い痺れが背筋を走った。

 

「……気持ちがない相手とヤるのは」

「私が誘っているんだ。それとも、君は“こういうの”は嫌なのか? まさかな」

 

 御堂は克哉の反応を面白がっているようだ。小首を傾げて、克哉を見上げる顔は挑発的で煽情的だ。

 かつて、克哉に対して、性的な接待を要求したのは御堂だ。御堂は、相手が誰であっても感情を切り離して、行為そのものを愉しむことが出来る人間なのだ。

 体温がせり上がる。心臓がドクドクと早鐘を打ち出し、掌に汗をかく。

 男の劣情は誤魔化しようがない。御堂に握られたままの自分のペニスがびくんと震えた。

 御堂は唇の端に笑みを乗せたまま、再び克哉を咥えた。反り返った克哉のペニスの裏側を舐め上げ、くっきりとした亀頭の段差を舌でなぞる。口で奉仕しながら、右手を克哉の陰嚢に這わせて茎の根元から双玉を、くすぐり擦る。

 いつになく積極的な御堂の態度だ。言葉通り、御堂は克哉を誘っているのだ。

 御堂の形の良い唇が大きな輪を描き、脈打つ自分のペニスが出入りする。克哉のペニスを口に含みながら、眦を朱に染めて上目遣いで克哉を見上げた。

 硬質な美しさを湛えた顔が淫らに歪み、滴るような色香を宿した眸が、挑むように克哉を捉える。

 理性が焼き切れた。

「くそっ」

 

 御堂の頭を掴んで、口からペニスをずるりと引き出すと、腕を掴んで立たせた。上体をデスクに伏せさせ、

 腰を突き出す体勢を取らせる。

「いいんだな?」

「ああ」

 形ばかりの確認を取るが、すぐに返事が返ってくる。

 淫猥な期待に心臓が高鳴る。御堂のベルトに手を回し、下着ごとずり落として、下半身を剥き出しにした。

 白い肌に覆われた薄い尻肉があらわになる。滑らかな肌に手を滑らせれば、克哉より少し低い体温がしっとりと熱を持って火照りだした。

 デスクの引き出しに手を伸ばす。奥に隠していた、潤滑剤のジェルのチューブを取り出した。キャップを開けるのももどかしく、歯で咥えてキャップを噛みちぎる勢いで開けた。

 床にキャップを吐き捨て、御堂の尻の狭間にジェルを垂らした。

 ぬらめきながら落ちていくジェルの感触に、御堂の身体がびくっと跳ねた。

 会陰部を前後に撫でながらジェルを温めつつ、窄まりに指を埋める。身体の中にジェルをたっぷり塗り込んでいく。

「ん……っ」

 指を増やして、中を探りながら解していけば、熱い粘膜が指に絡みついて、アヌスが大きくひくついた。更なる刺激を求めるかのように、御堂の裸の下肢がわずかに開く。

 深く挿し入れてかき混ぜる指が粘膜に締め上げられた。奥へ引き込もうと蠕動する粘膜から逃れて、セックスのように指を前後に卑猥な音を立てつつ抽送すれば、それに合わせて御堂の腰が揺らめく。

 御堂は首筋や頬を上気させて呼吸を乱す。唇を噛み締めたまま、御堂の喉が甘く鳴る。

「……ぁ」

 

 せり上がる欲望を抑えきれずに、指を全て引き抜いた。

 まだ十分に綻んでないアヌスに、滾りきったペニスの切っ先を押しつけた。腰骨をがっちりと掴むと、そのまま、思い切り腰を力強く入れた。

 

「く……、ぅ、はあっ!」

 

 抵抗する内壁をこじ開いていく。猛る雄をねじ込まれて、苦しさに御堂の喉が反った。

 きめ細かな肌の下に、無駄のない筋肉の強ばりを感じ取る。硬くなった身体をものともせずに、ひと突きごとに挿入を深めていく。

 最奥までペニスを埋め込み下半身を深くつなげると、御堂に覆い被さった。中を味わうように、ゆっくりと大きな律動で腰を使い出す。太いペニスが、御堂の身体を淫らな音を立てながら出入りする。

 胸の奥底から焦がれるような情動が沸き立った。

 デスクの天板に伏せた御堂の整えられた髪、横向きの顔の朱が差した頬、うっすらと汗を刷く首筋から、官能の香りが立ち燻る。

 熱い中を穿つたびに、「んっ」と艶めいた声が御堂の喉から漏れた。

 

「御堂」

 身体だけでなく、心も深くつなげたい。衝動に駆られて、たまらず、名前を呼んだ。

 首筋に顔を寄せ、熱の籠もった吐息で耳朶を舐める。

 御堂の身体の筋肉に緊張が走った。期待したのも束の間、御堂は左手を口元に当てて封じ、横に向けていた顔を天板に伏せた。

 明らかな拒絶の仕草に、心が冷えた。だが、冷めゆく気持ちとは裏腹に、快楽を貪る身体は熱くなっていく。

 行き場の失った想いを御堂の後ろ髪に軽いキスを落とすことで、諦めをつける。代わりに、胸の裡を欲情で満たそうと、激しくペニスを突き立てた。

 御堂の前に手を伸ばして、屹立した性器の形を辿る。腰をぶつける動きに合わせて、揺れるそれを指を絡めて扱く。先端の浅い切れ込みを、指の腹で強めに擦れば、強すぎる快楽に、御堂が身体を引き攣らせて、中がきゅっと締まる。

 

「く……、ふ、あぁっ」

 

 御堂が声を殺そうと左手を噛み締めた。同時に、デスクの天板に這わせた右手の爪を立てた。克哉からもたらされる感覚を堪えようと必死に耐える姿がなまめかしい。

 デスクの天板に爪を立てる御堂の右手を、右手で覆った。びくりとその手が震える。逃げようとした手を押さえつける。手を固く握りしめられる前に、指の間に指を入れ合う形で、御堂の手を握りしめた。

 

「……孝典」

 

 無意識のうちに、呻く声で下の名前を呼んでいた。

 だが、御堂は伏せた顔を動かすことなく、克哉の呼びかけに応えてはくれない。身体をどれほど深く繋げようと、心は離れていく。それでも、込み上げる衝動を抑えきれない。

 右手の指を一本一本絡みつける。御堂は頑なに顔を伏せたまま肩で息をしていたが、克哉が繋いだ手を振り払おうとはしなかった。

 奥深い粘膜に揉まれたペニスから、重く熱い快楽が沸き起こってくる。克哉は腰の動きを小刻みにした。柔らかな粘膜に自分自身を刻みつけていく。射精に向けた律動だ。

 爆ぜる。

 そう感じた瞬間、奥に突き込んだ自分自身を引き抜いた。粘膜を引きずり出される大きな動きに、御堂が呻いた。

「ふ……、うあっ」

 

 御堂の身体が大きく跳ねて、ペニスを握る克哉の手の中に、熱い液体が放たれる。

 同時に、欲情の熱い粘液が克哉の性器の真ん中を通り抜ける。射精の衝撃に息を詰めた。御堂の尾てい骨のあたりに、白濁をまき散らす。

 白い肌が、克哉の粘液で汚されていく。その熱さに御堂の身体がビクビクと震えた。

 それを目にしながら、冒涜的な陶酔に浸る。

 しかし、その蕩ける心地が引いていくと、頭の中に冷たい痺れが満ちて、項から背骨を伝い落ちていった。

 ハッと我に返り、ぞっとして御堂から身体を離した。

 デスクに身体を預けていた御堂が呼吸を整えながら、のろのろと緩慢な動作で身体を起こした。

 克哉の方を振り向きもせず、克哉に汚された自分自身を淡々と拭って後始末をする。

 絶頂の余韻が引いてきたのか、御堂が普段の立ち振る舞いを取り戻していくのを、呆然と見つめ続ける自分に気づいた。急いで、御堂の精液で汚れた自分の手をハンカチで拭い、自分の衣服を正した。

 現実に追いつかない意識を悟られぬように、素っ気ない口調で言った。

「部屋でシャワー浴びていくか?」

「いや、いい。ちょうど帰ろうと思っていたところだ」

 誘う言葉をきっぱりと断られる。

 克哉から距離を取って乱れた服を直す御堂の凜とした立ち姿は、克哉との情事の名残を跡形もなく消し去ったかのようだ。

「また、明日」

 普段通りの口調で一言告げて、御堂は自分の鞄を掴むと、克哉の目の前から去っていった。

 部屋を出ていく真っすぐな背中に、ぼんやりと視線を向ける。

――こんな、つもりは……なかった。

 激しい自己嫌悪が襲ってくる。肉の快楽の後の、やるせない虚脱が克哉を包む。

 いくら御堂に誘われたとはいえ、これは表面的な快楽を追うだけの行為だ。克哉はこんなセックスを行うべきではなかった。

 それでも、御堂との行為は、克哉の自制心を押し流すには十分な生々しさだった。

 掴もうとしたものが克哉の手からするりと逃げていく感覚。

 御堂と恋人関係ではなくとも、せめて、信頼を分かち合うビジネスのパートナーでありたいと思った。

 二人の関係は、今まで、憎しみか愛のどちらかにしか振れたことがない。

 ニュートラルな在り方というものが分からない。他の人間であれば、自然ととれる距離が、御堂を相手にすると上手くいかないのだ。

 御堂は、克哉とどんなつながりを求めているのだろう。

 ビジネスパートナーでありながら、気持ちの伴わないドライな関係のセックス相手。そんな風に克哉と付き合っていくつもりなのだろうか。

 だが、そんな関係であり続けることが出来るのだろうか。克哉と御堂の間には色々ありすぎた。今さら、なかったことには出来ない。

 御堂が何を考えているか分からない。

 もう、御堂とは恋人関係ではない。そんな事実が今になって、胸を切り裂いていく。

 焦がれに焦がれた相手だ。

 御堂に別れを告げられて承諾したが、自分の中では何の決着もついていない。無理やり自分を納得させようと試みているだけだ。

 それでも、新たに築こうとした御堂との距離を、この衝動に溺れたセックスが粉々に打ち砕いてしまった。

 御堂を傍に置く限りは、御堂が自分以外の誰かと付き合い、関係を深めていくのを目の当たりにしなくてはいけないのだ。

 自分は平静でいられるだろうか。

 嫉妬に狂った自分は、御堂を以前のように閉じ込めて、無理やりにでも自分のものとしてしまうかもしれない。

 そんなことは、絶対に嫌だ。

 だが、その可能性をきっぱりと否定できる自信がない。

 ビジネスパートナーや単なるセックス相手なんて割り切った関係、克哉には無理なのではないだろうか。いっそ、どこか視界に入らないところに遠ざかった方がいいのではないだろうか。

 窓の外を見れば、眼下に東京の街の光が緩やかに明滅する。

 あの灯りのどこに御堂は帰るのだろう。御堂の行き先が見えない。

 気持ちが散り散りになり、懊悩に低く呻いた。

 自分が何を目指していたのか、最早分からなくなってしまった。

克哉木PM9
​克哉:金曜日PM0時

 この週、最後の平日である金曜日。AA社内は一見いつも通りだが、社員たちの表情はどこか不安げだ。

 そんな社員たちの姿を視界に収めて、克哉は表情に出さないように、心の中でため息をついた。

 自分の余裕のなさが社員に伝わっているのだ。

 社長たるもの、どんな時でも堂々と立ち振る舞わなくてはいけない。

 そう頭では分かっていたが、今週一週間で、プライベートと仕事において次々と襲い掛かった出来事は、克哉が捌ききれる限界を超えている。

 混迷が心を暗くする。目の前の仕事に意識を向けようにも、同じ空間に御堂がいるというだけで、息が出来なくなる。

 当の御堂は、昨夜の克哉との情事などなかったかのように、そもそも、克哉とはビジネスパートナー以上でも以下でもないかのように、ぶれない距離を保って接してくる。その強靱な精神は克哉が決して敵わないものだ。

 PC画面に顔は向けているが、キーボードに置いた手は止まったままだ。さっきから全く仕事になってない。克哉は散逸した思考のまま、息苦しさに社を飛び出した。

 今日は、特許実用化の件について東慶大学の研究室との面会の予定しかなかったが、頭の中が停滞している分、身体を動かしていた方が気分が楽だろう。

 JTC社に顔を出してクリスタルトラストとの戦いの進捗状況でも聞き出そう、そう思いながら社を出た克哉の前に、甲高いクラクションと共に一台の真っ赤なツーシーターの外車が止まった。

 歩道側のサイドウインドウが開き、左ハンドルの運転席から澤村が顔を出した。

 澤村は克哉と目を合わすと、口角を歪めて片手を軽く上げた。

 澤村と会話しているところは誰にも、特に御堂には、見られたくない。周囲を素早く警戒し、車に近寄った。

 愛想も社交辞令の一つもなく、口を開いた。

「何の用だ、澤村?」

「今日は挨拶に来ただけさ。クリスタルトラストはJTC社のTOBを撤回する。今回の件で克哉君たちと関わることはもうない」

 澤村が告げた言葉に驚いて目を瞠った。

 クリスタルトラストとJTC社の戦いは幕を切ったばかりだ。JTC社へのTOBはマスメディアで話題になっていたが、どの専門家もクリスタルトラストの方が有利との見方をしていた。実際その通りだろうと克哉も見ていた。撤退の結論は早すぎる。

 つい一昨日の好戦的な澤村の態度とは思えない。どんな心変りがあったのだろうか。

 

「何故だ?」

「このままTOBを行っても、クリスタルトラストにメリットがないと判断した」

 

 型通りの返答に胡乱な視線を返す。

 この買収には、クリスタルトラストが狙うに値する特許に絡んだ膨大な利権が存在したはずだ。それを放り出すとは、その利益を相殺するほどの不利益があったに違いない。

 思い当たる原因はひとつだ。

 

「アノニマス・エネミーに屈したのか?」

「ノーコメント」

 

 澤村は首を振ると、含みのある視線を克哉に送った。

 

「僕から一つアドバイスをあげるよ。この件からは君も手を引いてさっさと切り上げたがいい。傷口を広げるだけだ。どうせ、上手くいってないんだろう?」

「悪いが、諦めは悪いほうだ。澤村、アノニマス・エネミーの正体は? 本当に存在するのか?」

「ノーコメント」

 口元を微かに歪ませたまま、そっけない返事が返ってくる。

 澤村の乗る派手な外車を蹴りつけたい衝動に駆られた。

 澤村は何か重大な情報を握っている。だが、それを克哉に告げる気はなく、克哉の苛立ちを見て楽しんでいるようだ。

 嫌な笑みを湛えたまま、澤村はハンドルの上に腕を組んだ。

 

「克哉君、今回はお互い上手くいかなかったけど、どうだい? 今までのことは水に流して、これからは仲良くやらないか?」

 

 どうやら、澤村の中では克哉もJTC社から手を引くことが決定しているらしい。

 吐き捨てるように言った。

 

「はっ。澤村、よく言ったものだな。俺はお前と馴れ合う気は一切ない」

「それは、僕が君のステディに手を出したから?」

「……口の利き方に気を付けろ」

 

 凍えた眼差しで睨み付ける。だが、澤村は動じなかった。

 

「あの時、克哉君に言われた言葉を考えたよ。自分だけでは自分自身が見えない。誰か別の人間が必要だ、と君は言ったよね。だけど、返答はノーだ。僕は君の後ろを歩くつもりは一切ない。僕は僕のやり方で、君よりも、のし上がって見せる。別の人間を信じるなんて、それだけ弱点を増やすことだろう。それに、絶対に信頼できる相手なんて絶対にいない。それが真実だ」

 

 迷いのない澤村の言葉。これが澤村の行きついた結論なのだ。

 それを克哉は鼻で嗤い飛ばした。

 

「相変わらずだな、澤村。お前はいつまでたっても俺に勝つことはできない」

「その上からの物言いが気に食わないんだよ。君は僕よりも偉いとでも思っているのか」

「好きにしろ。お前のことなぞ興味はない。同じ負け犬になる気はない」

「せいぜい頑張ってくれ。だが、君はこの件、必ず手を引くことになる。僕も君も勝者にはなれない」

「どういう意味だ?」

 

 澤村は克哉の問いを無視して、懐の名刺入れから一枚の名刺を気障な仕草で克哉に差し出した。

 ちらりと視線を落とすと、澤村の名前の下にペンで数字が書き込まれている。

 

「僕のプライベートな携帯電話の番号だ。気が変わったら、いつでも連絡をくれ。歓迎するよ」

 

 澤村から視線を離さず、無言でその名刺を受け取った。

 

「じゃあね、克哉君」

 

 纏わり付くような口調で一言残してサイドウインドウが上がる。走り去る澤村の車を忌々しげに見送った。

 その直後、携帯が震えて着信を告げた。表示を見ると、藤田からだった。電話に出る。

 

「なんだ?」

『佐伯さん、東慶大学の工学部の研究室の件ですが』

「アポイントは今日だったな?」

 

 電話口の向こうで、ためらいの気配がした。

 

『……それが、断られました』

「断わられた?」

『ええ。この話はなかったことにして欲しい、とのことです』

「馬鹿な……。俺から連絡してみる」

『申し訳ありません』

「藤田、この東慶大との共同研究の件、誰が知っている? JTC社に話をしたか?」

『いいえ。言われたとおり、JTC社には伝えていません。情報管理はしっかり行っていました。この件の詳細を知っているのは、僕と佐伯さんだけです』

 

 はっきりと断言される。

 

「そうか」

『あ、あと、この話を持ってきてくれた御堂さんですね』

「俺が直接向こうの教授に会って、経緯を問いただしてみる。藤田はこの件に関して動かなくていい。社で待機しろ。ひとまず御堂の仕事を手伝っていろ」

『承知しました』

 

 進みかけた特許実用化の話が立ち消えるのはこれで4件目だ。クリスタルトラストの不自然なタイミングでのTOB撤回といい、これは決して偶然ではない。アノニマス・エネミーは確かに存在する。

 それにしても、どこからこの情報が漏れたのだろう。

 そして、アノニマス・エネミーの正体と目的は何なのだろう。

 だが、このまま大人しく引き下がる気はない。妨害の可能性も念頭に置いて、次の提携先候補を企業ではなく大学の研究室にしたのだ。ここからアノニマス・エネミーの手掛かりを捕まえてみせる。

 克哉は東慶大の研究室に連絡をして、一度キャンセルされた教授との面会を半ば無理矢理に取り付けた。

 

『この件、必ず手を引くことになる』

 

 先ほどの澤村の言葉が頭をよぎった。

 何か、嫌な予感がする。

 顔の見えない真実が、真っ赤な口を開いて待っている。

 キャンセルされたアポイントメントを復活させた克哉は東慶大学工学部の研究室を訪れた。教授室の応接ソファへ案内される。

 応接セットのテーブルをはさんで向かい合った相手は50歳前後だろうか。研究者らしく身なりに気を遣わず、人の良さがにじみ出ているような教授は困ったような顔を浮かべた。

 

「何故と言われても、こちらにもこちらの事情がありまして」

「責めているわけではありません。なぜ、心変わりされたのか、理由を教えていただきたいのです」

 

 頭を深々と下げる。だが、教授は気まずそうに眼差しを克哉から外した。

 

「あなた達には申し訳ないことをしました。気を持たせるようなことを言いまして。ですが、このお話はなかったことにしていただきたい」

 

​ どうしても詳細は話したくないようだ。先ほどから克哉の追及に言葉を濁すばかりで、克哉の顔を見ようともしない。

 これ以上の話を聞きだすのは無理だろう。

 克哉は社交辞令の挨拶を交わして席を立った。

 だが、ここで諦めるつもりは毛頭ない。最低でもアノニマス・エネミーの正体を明らかにしなくては、一方的に妨害され続けてしまう。

 アノニマス・エネミーは派手に立ち回っていながら、正体へとつながる端緒は掴めそうでいて掴めない。直接姿を現すことなく、暗躍しているのだ。

 しかし、克哉の追うアノニマス・エネミーの決定的な手掛かりはここにあるはずだ。

 複雑な指示系統を持つ大手企業と違い、大学の研究室の規模は小さい。研究の権限を持つのは研究室主催者(Principal Investigator)である教授であり、その裁量権は絶大だ。ならば、アノニマス・エネミーはこの研究室の教授に必ず接触をしているはずだ。だからこそ、次の提携先の候補として大学の研究室を選んだのだ。

 克哉は教授室を出た足で、研究室の秘書の元に立ち寄った。女性の秘書に面会終了を伝える傍ら、営業で培った極上のスマイルで微笑みかけた。軽く世間話をして、相手の警戒心を解く。

 

​「ところで昨日か今日の午前中に、教授の元に急な来客があったと思うのですが、どなたか教えていただけます?」

「来客ですか?」

 

​ 訝しげな表情を向けられるが、にっこりと蕩ける笑みを返した。

 少なくとも、昨日、藤田が連絡を受けた段階まではこの教授は克哉たちの提案に乗り気だったのだ。心変わりをした原因は昨日から今日の午前中のどこかにあるはずだ。

 秘書から少しでも情報を得ようと、その場で作った嘘をさらりと吐く。

 

​「実は、教授に商談を持ち掛けに来たのですが、一歩遅くて。どうやら、直前に来た相手に商談を持っていかれたみたいなんです。手ぶらで帰るのも何ですから、せめて商売敵の名前だけでも知りたい、と思いまして」

 

​ 困ったような気弱そうな表情を浮かべる。秘書の女性は少し迷って、そう言う事なら、と教授のスケジュールを確認しだした。

 

​「急な来客は昨日の一件だけで……この方ですけど」

 

​ 引き出しから名刺を取り出した。

 その名刺を覗き込むが、鈴木というよくありそうだが見覚えのない名前と電気通信技術センターという馴染みのない所属が印字されていた。

 

​「他にいませんでした? ファンドとか金融系の人とか? もしかしたら教授宛の電話とかありませんでした?」

「いいえ」

 

​ そう言いながらも、その女性は少し考え込むように首を傾げた。

 

​「どうかしました?」

「実は、この鈴木さん、忘れ物をされたんです。それで、この名刺の連絡先に電話したんですけど、繋がらなくて。使われていない電話番号だったようで」

「へえ。不思議ですね」

 

​ 気取られないように普通の返答を心掛けつつも、その一言に食いついた。

 名刺の連絡先が間違っているということはないだろう。それはすなわち、名刺に記載された所属は全くの虚偽である可能性が高い。となれば、この人物こそアノニマス・エネミーではないだろうか。俄然、この鈴木という人物に興味が湧いた。

 だが、所属を偽るなら当然、鈴木という名前も偽名だろう。そんな人物をどうやって同定すれば良いのだろうか。

 

​「ところで、その忘れ物って?」

「このカフスボタンなんです」

 

​ 秘書は引き出しから、オニキスのカフスボタンを取り出した。高級品だと一目でわかる精巧に装飾された品だ。

 それを目にして克哉の瞳孔が開いた。脈が不安定に速まる。

 

​「……俺、この鈴木さんなら知っていますよ。今度会うので、返しておきましょうか?」

「本当ですか?」

 

​ 忘れ物の取り扱いに困っていたのだろう、不安と期待がないまぜになった視線を返された。

 安心させるように、その人物の特徴をあげつらうと、その人です、と秘書はパッと表情を明るくし、それではお願いします、とカフスボタンを克哉に託した。

 そのカフスボタンを握りしめて、克哉は大学を後にした。

 アノニマス・エネミーの手掛かりは手に入れた。

 だが、その手掛かりが示す真実に、手の中のカフスボタンが酷く重く感じた。

 冷たい汗をかく掌に、カフスボタンが突き刺さる。

克哉金AM10
​克哉:金曜日PM9時

 研究室からAA社に戻った克哉は、電気通信技術センターをネットで検索した。

 案の定、そんな会社は存在しない。この名刺に記載されている鈴木という名前も当然偽名だろう。

 ただ、名刺まで作成するとは嫌がらせにしては随分と手が込んでいる。

 そうまでして、この件を妨害したいのだろうか。

 そうすることで何のメリットがあると言うのだろう。目的が分からない限りは、対処のしようがない。

 ぎり、と克哉は奥歯を噛みしめた。

 本当に、自分は目的が分からないのだろうか。

 いや、手加減なく突き付けられる現実から目を逸らしているだけなのだ。

 週の最後の金曜日、この一週間、何の成果もあげられず、時間だけが過ぎ去っていく。

 視界の隅で、御堂が立ち上がった。

 鞄を持って、克哉に顔を向ける。

「それでは、失礼する」

「ああ」

 そっけなく返す。

 御堂はそれ以上克哉に気を留めることなく、背を向けて執務室から出ようとした。

 それを背後から呼び止めた。

「御堂、これ、落ちていたぞ。あんたのだろう」

 御堂が足を止めて振り返った。

 椅子から立ちあがって、デスクの前に立つ。御堂に向けて手を差し出せば、御堂が歩み寄って、克哉の手に視線を落とした。

 そこには、オニキスのカフスリンクが一つあった。大学の研究室から預かってきたカフスリンクだ。

 御堂がそれを指でつまみ、吟味するように目の前に持ち上げた。

 御堂の指先が、ほんの一瞬、克哉の掌に触れた。

 体温を感じるか感じないかの、微かな接触。それだけで、指から腕、そして首筋へと弱い痺れが走った。

 鼓動が乱れ打ちだす。

――頼む。違うと言ってくれ。

 このカフスリンクが御堂のものでなければ、胸の裡で渦巻く疑念も何もかも、なかったことに出来るのだ。

 御堂に向けて、切実に祈る。

 だが、御堂は克哉の願いをあっさりと裏切り、克哉に顔を向けて、微笑んだ。

「ああ、これは私のだ。よく分かったな」

 言い切られる言葉に、心が暗く沈んでいく。それを悟られぬよう表情を殺した。

「木曜日にこれを付けて出社しただろう。そして、帰り際には片方無くしていた」

 御堂が驚いた顔を克哉に向けた。

「そんな事、私は言わなかっただろう? 君はよく見ているな」

「ああ」

 木曜日、オニキスのカフスリンクを付けて出社した御堂。だが、克哉と身体を重ねた時には右のカフスリンクが無くなっていた。

 それはもう、本能のようなものだ。

 御堂の瞬きひとつ、指先の動きひとつにまで意識が向く。五感を研ぎ澄まし、表面の神経一本の動きまで見極めて、そこから御堂の心の深いところを覗き込もうとしているのだ。

「ありがとう。探していたんだ」

 どこに落ちていたのか、聞かれることもない。

 慎重に表情を伺うが、御堂は、その口元に柔らかい笑みを保ったまま、克哉から受け取ったカフスボタンをポケットにしまった。

 再び視線がぶつかる。

 克哉の探るような眼差しに御堂は小首を傾げた。

「なんだ?」

「いや……」

「では、先に失礼する」

 踵を返して、御堂は悠然とした立ち振る舞いで執務室を後にした。

 急に、執務室の空気の密度が薄くなったようだ。

 息苦しさに上がりそうになる呼吸を抑え込もうと、克哉は眼鏡のブリッジを押し上げた。

 初めはほんの些細な違和感だった。

 JTC社の緊急取締役会議でクリスタルトラストの買収案が否決された時、執務室の藤田と克哉の間に割って入った御堂は、買収案が否決された件を既に知っていた。

 社外に向けた公式発表が行われる前に、外回りに出ていた御堂はどうやってその情報を知ったのか。

 御堂のカフスリンクが、大学の研究室から見つかった。その前後で態度を変えた相手。

 遡れば、全てが符合していく。

 何故、提携の候補先が大学の研究室も含めて全てアノニマス・エネミーに知られていたのか。

 そして、提携の候補先の企業が一斉に手を翻した時に、クリスタルトラストの関与を疑うAA社のメンバーを尻目に、御堂一人が何故それを否定したのか。

 御堂ならAA社がどこと提携を目論んでいるか、当事者だから当然知っている。

 そして、御堂は知っていたのだ、今回の妨害にクリスタルトラストが関与していないことを。何故なら、御堂がそれを画策したのだから。

 少し考えれば分かることだった。だが、その可能性を検討することを避けていた。

 真実を知るのが怖かったのだ。

 知らなくていいものを何故知る必要がある?

 知らずにいれば、上手くやれたのではないか。

 疑うことをしなければ、幸せにいられるのだ。

 今までも、これからも。

 扉の外へと消えて行く御堂の背中を見詰めたまま、ぼそりと呟いた。

「――あんたがアノニマス・エネミーだったのか」

 あやふやな疑念は、言葉に置き換えれば輪郭を顕わにし、唇から放たれれば確信へと変わる。

――何故だ? 何故なんだ?

 その問いは心の中の薄闇に反響し、答える者がいないまま澱のように積もっていく。

 その答えを克哉は知っている気がした。だが、それを認めたくない。

 月曜日までは、御堂は克哉たちに大学の研究室を紹介し、協力的だったのだ。だが、その紹介先すら自ら潰した。

 何が、御堂の心を変えさせたのか。思い当たる原因は一つだ。

 克哉と御堂の関係が変わったからだ。

 クリスタルトラストとAA社、アノニマス・エネミーに共に妨害された二社の共通点はJTC社に関わったことだ。だから、アノニマス・エネミーの目的はJTC社関連だと考えた。

 だが、クリスタルトラストとAA社ではなく、澤村と克哉に視点を変えればどうだろう。違った光景が見えてくる。二人の共通点は、JTC社に関わったことだけではない。どちらも、御堂の誇りを傷つけた人物だ。御堂に憎まれる相応の理由がある。

 あれほど憎んだ克哉と愛し合うことができたのなら、あれほど愛し合った克哉を激しく憎むことだって、容易いだろう。

 しかも、御堂ならばそれを、顔色一つ変えず、克哉に悟らせないまま冷徹な鉄槌を下すことが出来る。

 月曜日の深夜、克哉の部屋を訪れた御堂の表情は穏やかだったし、その後の御堂の行動は、AA社と克哉を慮っていたように思えた。

 それも、克哉を油断させるための振る舞いで、昨夜の克哉との情事さえも御堂は利用したのだろうか。

 御堂とのつながりを必死に保とうとする克哉を嘲笑っていたのだろうか。

 御堂は、最初から、克哉との繋がりを全て断ち切る気だったのだろうか。

 たとえ恋人関係でなくても、克哉は御堂との未来に希望を持った。

 希望は絶望よりも性質が悪い。なまじ期待してしまえば、それに縋ってしまう。

 ふらふらとデスクに戻り、崩れるように腰を掛けた。

 誰もいないAA社のフロア。

 照明に照らされた室内に、明るい闇が立ち込めていく。

克哉金PM9
​克哉:土曜日AM1時

 無人の部屋。AA社の上にある、高層階の部屋は下界の音は伝わることなく、静けさが凝っている。

 どうしようもない虚しさだけが募り、部屋の灯りを付ける気にもならない

 リビングの窓辺に立って、夜景に視線を流す。

 もう一本タバコを咥えようとして、既に手持ちのタバコがないことに気が付いた。

 視線を落とせば、灰皿には克哉の吸い殻が所狭しと積まれている。

 その吸い殻の数は克哉がどれ程の時間、窓辺で時間を無為に潰していたのか指し示していて、一人苦笑した。

 克哉の思考は当てもなく彷徨うばかりだ。思考も感情も掻き集めることなく散逸したままだ。

 そう言えば、以前もこんなことがあった。

 不意に肩を抱かれた暖かい手の感触を思い出した。

 そして、その時に感じた痛みと甘さが、泣きたくなるような切なさとともに蘇る。

「御堂」

 

 あの時この場にいて、今この場にいない男の名前を呟いた。

 自分が発した言葉が鼓膜を震わせ、胸を熱くする。

 どうしようもなく胸が苦しい。

 物音ひとつしない、がらんとした部屋を見渡した。

 御堂はもう、この部屋を訪れることはないだろう。

 そう思うと、ここは自分が本来帰る場所ではなくなってしまった気がする。

 自分には居場所がなくなってしまった、そんな心細い感覚に近い。

 御堂と再会するまでは、たった一人で生きてきたのだ。

 元の状態に戻っただけだというのに、こうも弱気になるのは何故だろう。

 それは、もう御堂がいないからだ。御堂の心が克哉から離れてしまったからだ。

 どんな感情を御堂に向ければ良いのか分からない。

 怒りなのか、失望なのか、後悔なのか。

 今や、自分の在るべき場所が分からなくなってしまった。

 自分は、こうも不安定で、風が吹けば揺らいでしまうような脆い存在だったのだろうか。

 いや、克哉は、自分自身を見つけたはずだった。御堂が見つけてくれた。それは、確かなものだったはずだ。

 それなのに。

 どうして、惑うのだろう。

 それは見返りを求めるからだ。

 愛することで愛されることを期待する。

 尽くすことで尽されることを期待する。

 信じることで、全てを分かち合うことを期待する。

 共に未来を歩むことで、過去が消えることを期待する。

 見返りを求めて、相手を愛し、尽くし、信じるわけではない。

 見返りがないからといって、自分が相手を愛さない理由にも、尽さない理由にも、信じない理由にもならない。

 それなのに、いつしか因果が逆転してしまうのだ。

 御堂をどう想っているのか、問われれば迷うことなく答えが出る。

――俺は、御堂を愛している。

 

 それは自身の存在が揺らぐ中で、たったひとつの真実だ。

 愛するということは信じるということだ。信じるということは力を貸すことだ。

 そこに、打算も駆け引きも存在しない。自分が自分に誓う覚悟だ。それが愛することの本質なのだ。

 御堂が克哉のことを愛さなくても、たとえ、克哉のことを憎もうと嫌おうと、克哉の覚悟には何ら影響を及ぼさないはずなのだ。

 それなのに、何故、こうなった? どうして、自分はこうも迷う?

 小さいが確かにそこに在ったひとつひとつの想い。指向性を持った点と点とが結び合えば、一つの軌跡を描く。

 軌跡が示す先はどこを向いている?

 自分はいつ見誤った?

 

――そうだ。そうだった。

 

 克哉は喉の奥で長く呻いた。

 何故こんなことが分からなかったのだろう。

 これは、御堂の問題ではなく、克哉の問題だ。

 そんな結論、最初から明らかだったのに。

 克哉は自嘲した。

 堂々巡りして、やっとスタート地点に戻ってきたのだ。

 御堂を解放したあの日、自分が気付いた想いと決断を、いつの間に忘れてしまったのだろう。

 御堂と再会して、恋人関係になって、思わぬ幸せに浸った。それが克哉を見誤らせたのだろうか。

 澤村との一件で、自分を見失いかけた克哉を御堂は全て肯定し受け止めてくれた。だから、克哉は今ここにいる。

 御堂は、克哉の寄る辺なのだ。

 だからこそ、克哉は御堂に自身を全て委ねると告げたのだ。その覚悟をどこに置いてきてしまったのだろう。

 ひとつ得れば、もうひとつ欲しくなる。気づけば、自分の眼はこうも曇ってしまった。

 自分の心の弱さに辟易する。

 どうして、いつも自分は見失ってしまうのだろう。自分にとって一番大切なものを。

 失ってからでは遅いのに。

 御堂を愛し信じ続けることこそが、克哉が克哉であり続けることなのだ。たとえ、御堂の心がどこに向かおうとも。

 ガラスに映る自分の顔、憔悴し弱気になっているその顔に向かって言った。

 

「御堂、俺はあんたを愛し信じる」

 

 あやふやな想いは、言葉に置き換えればその姿を現し、唇から放たれれば覚悟となる。

 たとえ裏切られようと関係ない。

 これは自分が佐伯克哉であり続けるために必要な軸なのだ。

 硬く拳を握りしめた。

 

「あんたに力を貸そう」

 

 揺れていた心が静かに定まる。在るべき位置に。

 見失いかけていた、本来の自分を取り戻す。

 自然と微笑さえ浮かんだ。

 闇の中に一筋の光の軌跡が見えた。

 もう、迷わない。

 あくる月曜日の朝のミーティング、克哉はAA社のメンバーを前にして、特許実用化の試みを全て中止し、JTC社から受けた依頼を打ち切ることを伝えた。

佐伯克哉編 了

克哉土曜AM1
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