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葬送の部屋 -Die Kammer in Trauer-
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眼鏡克哉×御堂(CP:メガミド)の長編です。

解放された御堂が壊れたままで破滅することを望んでいたら?というIFストーリーです。

​気高く強い御堂さんではなく病んでいる御堂さんですのでご注意ください。

Pro

 重ったるい灰色の雲からはチラチラと白い雪片が舞い落ちてきていた。鋭く突き刺すような寒さの中、佐伯は目を丸くして御堂を見ていた。雪が降りだしたことさえ視界に入っていないかのようだ。それはそうだろう。自身が陵辱の限りを尽くした男が追いすがってきて告白しているのだ。だが、御堂は必死だった。どうしてもこの男、佐伯克哉を引き留めたかったからだ。そのためならどんな手を使っても良かった。好きだ、という言葉も唇が引き攣りながらも言うことができた。そして、そんな御堂のなりふり構わない態度が逆に真実味を与えてくれたのだろう。佐伯は御堂の告白を信じ、その返事はキスで返された。佐伯の腕の中で、御堂は恍惚と目を細めた。
 この男なら、御堂の望みを果たしてくれるだろう。御堂のすべてを容赦なく暴いて踏み躙った男なのだ。自分にとどめを刺すとしたらこの男以外に考えられなかった。中途半端に御堂を生かしてしまった後始末を佐伯自身にさせるのは当然のことだろう。御堂の苦しみはこの男の愉しみだった。御堂が名実ともに佐伯のものになったいま、佐伯はなんの躊躇いもなく御堂に嗜虐の鞭を振るえるのだ。だから、佐伯を騙すことに罪悪感などなかった。それに、御堂が佐伯を必要としているのは事実なのだから。
 佐伯に捨てられたあの日から、御堂の時間は止まったままだった。
 すべての人間が新しい朝を迎えて先に進んでいるというのに、御堂一人だけがあの夜の暗い部屋に囚われていた。
 あの夜、佐伯が「好きだ」と御堂に告げたのも、他人事のように聞いていた。それは、あっけなく壊してしまった玩具に対する愛着の欠片らしきものだったのだろうと思った。佐伯が「さよなら」と一方的に終わりを告げて去っていったあとも、御堂は呆然としたまま動けなかった。御堂が終わりを受け容れてしまったら、あの時間は何もかも終わってしまって、御堂には何も残らなくなる。御堂はすべてを失い、人格も尊厳も壊された。なんの希望の欠片もそこにはなく、なにに縋ることもできない。これをつまらない悲劇として完結させることなどできなかった。ちゃんと終わらせるためには、佐伯が必要だった。
 佐伯と恋人として初めて結ばれた夜は、拍子抜けするほど普通だった。この男はこんなふうに男を抱くこともできるのだと意外な一面を知った。もしかしたら遠慮しているのかもしれない。それとも様子見だろうか。御堂がどれほど自分に服従し、すべてを捧げる気なのか、本気度を測っている可能性もある。
 だから、翌朝、佐伯に、コンサルティング会社を立ち上げるから共にやらないか、と誘われたとき、御堂は一も二もなく誘いに乗った。聞けば一人で起業する予定だったようで、吹けば飛ぶようなベンチャーだが、佐伯に誘われたのならば断るという選択肢もなかった。当時勤務していたL&B社を退職するには急なスケジュールで、自分を拾ってくれたL&B社に不義理を働いている自覚はあったが、社長の慰留を御堂は頑(かたく)なに断った。自分の代わりはいくらでもいる。だが、佐伯の代わりはいない。
 外資系一流企業であるMGN社から新興企業のL&B社、そして佐伯が立ち上げたAA社へと籍を移すのは端から見ればどんどん落ちぶれていくように思えただろうし、御堂自身もそう思った。まさしく、いまの自分にふさわしい姿ではないか。御堂の選択を気にかける声も、零落ぶりを嘲笑する声も御堂には雑音(ノイズ)としか聞こえなかった。佐伯が手に入るのなら、すべてがどうでも良かった。
 佐伯は起業に合わせて引っ越しもするようで、新しい部屋に一緒に住まないかと言われたときも御堂は二つ返事で承諾した。付き合いだして日も浅い。それも自分が陵辱し監禁した男に同棲を持ちかける佐伯の気が知れないが、恋人らしいステップを律儀に踏んでいく必要はないし、御堂にとっても煩(わずら)わしいだけだった。職場だけでなく住む家まで同じ。それはすなわち、二十四時間佐伯に監視されることと同じで、部屋に監禁されても誰にも気付かれないということだった。退路を次々に断たれていくのは、いつになく興奮した。
 佐伯なら、きっと御堂の期待に応えてくれる。それができる男なのだ。

(1)

 朝起きると克哉の傍らから規則正しい寝息が聞こえてきた。そっと顔を向ければ、そこには御堂の寝顔があった。普段はきっちりと揃えている髪が寝乱れていても、御堂の美しさは損なわれるどころかさらに色香が増して見えた。まっすぐな高い鼻梁に、切れ長の二重。長い睫が縁取る瞼はどこか憂いを帯びて薄く眼球を覆っている。整った顔立ちは見た者すべてに鮮やかな印象を植え付ける。そんな御堂の寝顔に克哉の視線が縫い付けられると同時に、御堂が自分の隣で無防備に寝ているという事実に胸がじわりと熱くなった。

 いまでも夢なのではないかと思う。御堂が克哉を追いかけてきて好きだと告白するなどとは。だから目を覚ますたびに、御堂の姿を見て、これがまぎれもない現実であることに安堵する。

 恋人として結ばれた翌朝には、起業する予定を告げて御堂を誘った。御堂は驚いた顔をしたが、克哉の誘いを受けてくれた。共同経営者となってくれたのだ。

 それから慌ただしい年末年始を過ごし、MGN社の退職と起業準備も相俟って、御堂と会う時間はほとんどなかった。克哉は同時に引っ越しも予定していた。AA社の上の住居フロアに部屋を借りたのだ。そこでふと思いついて、御堂に一緒に住まないかと誘ってみた。これから職場でも顔を合わすことになるのだが、会えない時間が積み重なったせいで御堂に飢えていた。その欲求はあっという間に自分の手の内から失われてしまいそうなものに対する、切羽詰まった焦燥感によく似ていた。自分でも性急すぎると思ったが、意外にも御堂は同棲についてもあっさりと承諾した。御堂もまた、自分と同じ気持ちであることを嬉しく思った。

 AA社が起業するのと前後して、御堂は言葉どおりに克哉の部屋に引っ越ししてきた。御堂の引っ越しの荷物は驚くほど少なかった。衣服が必要最低限だけで本や雑貨もない。成人男性の一人暮らしだ。必要な物は多くないだろうが、それにしても持ち物が少なかった。御堂は、「君の部屋にあるものは使わせてもらうから捨ててきた」というが、そんなにあっさりと捨てられるほどの物しか持っていなかったのだろうか。そうまで考えて、克哉は自分の浅慮に気が付いた。御堂は以前住んでいたマンションを引き払っていた。そのときに愛着のある私物をすべて処分したのではないか。忌まわしい思い出とともに。そんな忘れたい記憶を御堂にわざわざ口にさせるわけにはいかない。互いが傷つく。それに、これからふたりの思い出を積み重ねていけば良いだけの話だ。

 だから、さりげない口調で以前のマンションはどうしたのかと尋ねてみれば、そのままにしているという。そして、「いい加減、売りにださないとな」と淡々とした口ぶりで言った。だがその瞬間、御堂の顔に、言葉には形容しがたいなにかが漂った。ほんの微かな、なにか。それがどんな感情の発露なのか見極める前に消えてしまったが、克哉の心の片隅にはそれが残った。

 

 

 

 AA社は起業直後から仕事が舞い込み、多忙を極めた。御堂がAA社に来ることになり、張り切って営業したことを今更ながらに後悔する。まだ事務員も雇っていないから、ふたりですべての仕事を回さなければならない。いざとなったらオフィスに泊まり込んで業務をこなすつもりだったが、御堂は克哉の想定以上に仕事をこなしてくれた。克哉が具体的な指示をしなくとも、自ら動いてくれる。

 昼も夜も、克哉から声をかけなければ御堂は休憩を取る素振りもなかった。克哉が止めなければ二十四時間働きそうな勢いだ。いつ見ても、ひたすら黙々とデスクに向かったり細かな作業をしたりしている。いまも御堂はキャビネットの中を細かく確認し何やらメモをしていた。何をしているのかと御堂の手元を覗き込み、克哉は眉を顰めた。

 

「そんなことはしなくていい。事務員を雇うから」

 

 事務用品の細かな発注をしようとしていた御堂を止める。

 

「だが、今は事務員がいないから誰かがやらなくてはいけないだろう」

「それなら俺がやる」

「君がやるほどのことではないと思うが」

「あなたがすることでもない」

「大した手間ではないが、それなら次から君にお願いする」

 

 そう言って、御堂は手早く発注を終えるとさらりと笑って次の仕事に取りかかる。

 そんな御堂を新鮮な気持ちで見詰めた。

 御堂のプライドの高さからすれば、自分の仕事をえり好みしてもおかしくないのだが、そんな素振りさえも見せなかった。人手が足りないのはたしかだが、御堂をAA社に引き込んだのは、誰でもできるような仕事をさせるためではなかった。御堂は放っておいたら床の拭き掃除までする勢いだったので、余計な雑務をしないように御堂に言い含めるが理解してくれたかどうかは怪しい。一刻も早く事務員を雇った方が良いだろう。

 取引先を回ったり、オフィスで書類を作成したり、互いに忙しく働いていたが、その日は二人とも朝からオフィスでデスクに向かっていた。時計が十二時を指し、克哉は御堂に向けて声をかけた。

 

「そろそろ昼休憩にしないか」

「もうそんな時間か」

 

 御堂はキーボードを打っていた手を止めて克哉に顔を向けた。

 

「君は先に休憩を取っていてくれ。私は一段落がついたところで休憩するから」

「それなら御堂さんの仕事が一段落つくまで待ちますよ」

 

 克哉の言葉に御堂が訝しげに眉根を寄せた。御堂と同じタイミングで休憩を取ろうとする克哉の意図が分からないらしい。克哉は肩を竦めて、言葉を付け足す。

 

「一緒に、昼飯でも食いに行きませんか?」

 

 そう言われてようやく腑に落ちたようだ。「そういうことなら」とパソコン画面をスリープモードにして立ち上がった。

 御堂は自分と一緒に居たくないのかと気を揉んだがそうではなかったことに安堵の息を吐く。

 

「何か食べたいものはありますか?」

 

 AA社のオフィスを出てエレベーターに乗り込みながら、克哉は訊いた。

 オフィスビルが建ち並ぶ界隈だが、ランチ需要を当てにしてキッチンカーも多く並ぶし、複合ビルの低層階には数多くの飲食店が入っている。和洋中、どれでも選びたい放題だ。だが、御堂は何があるか聞きもせずに言う。

 

「君が食べたいものでいい」

「L&B社ではお昼はどうしていたんですか」

「打ち合わせがてらの食事に誘われなければ、適当に済ませていたな」

 

 その『適当』の内容を聞けばあっさり教えてくれた。御堂ひとりで済ませる昼は、ゼリー飲料か固形タイプの栄養補助食品で済ませていたらしい。

 御堂は痩せていた。克哉が最後に見たときの、やつれた姿から変わらないくらいに。一緒に暮らしてみて分かったが、御堂の朝は眠気覚ましのコーヒー一杯で、昼も食事とも言えない食事だ。夜はさらに酷かった。強い酒を寝る前に呷(あお)るだけだったそうで、食事もまともに摂れないほど仕事が忙しかったのか、と聞いたら御堂は、そうではない、と首を振った。ただ、食事のために時間を取られることが煩わしかったのだと。

 こうまで食に興味を持たない男だっただろうかと疑問を覚える。かつての部屋にはワインセラーまで設置していたほどのワイン好きだったのに、再会してからの御堂がワインを嗜む姿を目にしたことはない。

 試しにワインの話題を振ってみる。

 

「最近はワインは飲まないのか?」

「別に、あれば飲むが」

「ワイン、好きだっただろう?」

「そんなこともあったな」

 

 と御堂の返事はまるで無関心なそれだ。かつての自分の嗜好についても他人事のように話す。

 あれから一年経ったのだ。人は変わる。克哉も変わった。それなら御堂だって変わるだろう。だが、御堂の場合は根源的な何かが変質してしまったような、変化のひと言では割り切れないような違和感がくすぶった。

 

 

 

「佐伯さん!」

 

 一人でクライアントの会社に出向いた帰りに、路上で突然克哉に声をかけてきたのは意外な人物だった。

 

「あなたは……」

 

 克哉は足を止めた。視線の先に立っているスーツ姿の壮年の男はL&B社の社長だ。社長は克哉に向けてにこやかに笑うとぺこりと頭を下げる。

 

「その節はどうも」

「いいえ、こちらこそその節は大変失礼いたしました。本来なら、私が直接ご挨拶に伺うべきところを」

 

  L&B社の社長と顔を合わせるのはショッピングモールの契約を交わして以来だ。その後、克哉は御堂を強引な形でL&B社から引き抜いた。本来なら克哉自らL&B社に出向き詫びを入れるべきだろう。だが、御堂に不要だと言われて、克哉も多忙さからその言葉に甘えてしまった。克哉が行ったことは不義理だと罵られても弁解できない。深々と頭を下げれば、社長は「いやいや」と手を振った。

 

「御堂君は元気でやっていますか」

「ええ」

「そうか。それなら良かった」

 

 なんの含みもない笑顔で社長は言う。

 

「我が社にいたときは心配していたんだ。彼、自暴自棄になっているような感じがしたから」

「自暴自棄?」

「正直、御堂君が抜けるのはうちにとって大きな痛手だが、このまま彼を働かせても過労死させてしまうのではと心配していた」

「そんなに仕事が大変だったのですが」

「まさか、そんなことはないよ」

 

 心外だとばかりに社長は首を振る。克哉も「失礼しました」とすぐさま謝罪する。

 

「ただ、彼は自ら仕事を限界まで増やしていたようで、私も何度か注意したのだがまったく気に留める素振りがなくてね。まあ、MGN社からの転職だから、色々思うところがあったのかもしれない」

 

 そう言って、社長は言葉を濁した。御堂のMGN社の退職が急だったことから、この社長も御堂が不名誉な形でMGN社にいられなくなったという事情を知っているのだろう。それでも、御堂を厚遇してくれたことに、克哉は心からの感謝を覚える。

 

「御堂君が君の所に転職したいと言いに来たとき、私は当然引き留めたのだが、彼の決意は固くてね。だがそれ以上に、彼は嬉しそうだったんだ。そんな顔をいままで見たことないくらいに。だから、そんな御堂君を見たらそれ以上何も言えなくなったね」

 

 社長の目が、不意にかつての部下の身を案じるように細くなった。

 

「佐伯さん、くれぐれも御堂君を気にかけてやってくれ」

「もちろんです。……社長、色々とありがとうございました」

 

 社長に向けて、克哉はもう一度、深く頭を下げた。

 

 

 なんの準備もなく始まったふたりの同棲生活も、思いのほか平穏だった。互いの生活習慣の衝突が起きるなら克哉が譲る気でいたのだが、御堂も克哉もこだわりと言えるほどの習慣を持っていなかった。喧嘩という喧嘩も起きない。というよりも、諍いをする余裕がないほどの、濃密な夜を毎夜過ごしている。

 一年経過しても、御堂の身体はしっかりと克哉のことを覚えていた。克哉の身体の下で乱れる御堂のなまめかしく喘ぐ肢体。同棲して最初の夜は互いに抑えが効かなくて、翌朝、御堂はベッドから出られなくなり克哉一人で出勤する羽目になった。それからは無理をさせないように自制しているが、御堂は常に貪欲だった。

 夜遅くまで仕事をこなし、部屋に戻ってシャワーを浴びるなりふたりしてベッドにもつれ込む。

 裸で仰向けになる御堂の上から覆い被さるようにして御堂の頭の脇に両手をついた。すると、克哉の顔を御堂が両手で挟み込む。

 

「なあ、佐伯」

 

 欲情に潤む御堂の視線が克哉に絡みついた。それだけで甘ったるい疼きが下腹を痺れさせる。御堂が掠れた声で囁く。

 

「私を縛らないか?」

「縛る?」

 

 思わず聞き返した。かつての克哉が御堂を嬲りものにしたとき、克哉は御堂を縛り、拘束して犯した。克哉は当時の自分の行為を後悔している。御堂にとってもそう簡単に割り切れるような記憶ではないはずだ。

 

「本気で言っているのか?」

「ああ。……君に縛って欲しい」

 

 御堂の白い頬には朱が差し、発情の彩りを添えている。あのとき、克哉は御堂を無理やりいたぶることで、御堂自身さえ知らなかった淫蕩さを引き出した。克哉と恋人同士になったいま、被虐的な快感に安心して溺れることだってできるだろう。もう強引なことはしないと誓ったが、御堂からねだられたのなら別だ。

 

「そういうことなら……」

 

 克哉は手近に落ちていたベルトを手に取ると御堂の両手を後ろ手にして縛った。御堂の自由を奪い、うつ伏せにして腰を高く掲げさせる。

 薄い肉付きの尻をするりとなで上げた。ヒクつくアヌスに指を沈め、そこが熟れて柔らかくなっていることを確認する。不自由な身体をのたうたせる御堂の腰を掴んで抱え込むと、張り詰めたペニスを押し当てた。

 

「ぁ……、あ、あ、あ――っ」

 

 ずぶずぶと先端が御堂の中に埋め込まれていく。ぐっ、ぐっ、とペニスを押し込むたびに、御堂から声が漏れた。窮屈な内腔を押し拓き、根元までねじ込むようにして収めると腰を遣い始めた。

 浅い場所から下腹の奥まで大きく張りだした先端で強く擦りあげる。ギリギリまで引き抜いて深く貫く。たくましく腰を打ち続けていると、異変を感じた。触れる御堂の身体が固く強張っている。

 

「く、ぅ…っ、ぁ、く、う」

 

 御堂の口から零れるのは、快楽ではなく、痛みと恐怖を堪えている声だった。よく見れば、御堂の身体が細かく震えていた。目はきつく瞑られて、額には脂汗が玉のようにいくつも浮き出ている。

 御堂は怯えていた。

 しまった、と舌打ちをする。御堂にせがまれたからと言って、こんな過去を思い出させるようなプレイをすべきではなかった。克哉は動きを止めると、上体を伏せて御堂の耳元に口を近づけた。落ち着けた口調で告げる。

 

「いま外す」

「このままでいい…っ」

 

 御堂の手を縛るベルトを外そうとしたところですぐさま拒絶の声が返ってきた。ハッと、御堂を見れば、目元を赤く染めた御堂が切実な眼差しで肩越しに克哉を射る。強く噛みしめたのか真っ赤な唇が戦慄いて言葉を紡ぐ。

 

「……佐伯、もっと酷くしてくれ」

「なんだと?」

 

 明らかに、御堂は快楽ではなく恐怖を感じている。それでも、切迫したような声で御堂は懇願していた。克哉の仕打ちの果てに、御堂はいびつな快楽を覚えたのだろうかと思ったが、これは違う。御堂にとって、あのときの陵辱は、忌まわしき記憶のままなのだ。それなのに、それを彷彿とさせるようなセックスを求めている。まるでそれは自分自身を虐(いじ)めたがっているかのようだ。

 動けない克哉に、御堂は瞬きもせずに、闇で塗りつぶされた黒い双眸を向けて言う。

 

「私を滅茶苦茶にしてほしい」

 

 御堂の顔に凄絶で静かな狂気が垣間見えた。克哉の首筋にひやりとした冷気がまとわりついた。

(2)

 寝室に差し込む眩い光に御堂はうっすらと瞼を押し上げる。仰向けになった裸体には毛布が掛けられていて、御堂は起き上がろうとしたところで、腰に力が入らずにふたたびベッドに突っ伏した。

 視界に佐伯の姿はなく、いま何時だろうと時計を見れば、とっくに始業時間は過ぎている。佐伯は御堂を置いて出勤したのだろう。

 重たい身体をどうにか起こしてバスルームへと向かった。下腹の奥には重たい疼きが残っていて、昨夜、自分を抱いた男の生々しい感覚を否応にも思い出した。

 途中で意識を飛ばしてしまったが、起きてみれば身体はきれいに拭われていて肌は乾いていた。佐伯が後始末をしてくれたことを知る。

 シャワーを浴びて、熱いお湯で自分をたたき起こしながらも、もっと乱暴に扱ってくれて良いのに、と残念に思った。有無を言わさずに縛り付けて、好き勝手に扱って、どんなに泣いて赦しを乞うても犯し抜くくらいに。

 再会してからの佐伯は御堂を抱くことに慎重になっているように思う。抱き方は常に優しく、御堂が嫌がることは一切しない。抵抗をしない、逃げようともしない御堂をつまらなく感じているのだろうか。佐伯が考えていることが分からない。だが、人間がそう簡単に変わるはずがない。かつてそうだったように、御堂に対する仕打ちは次第にエスカレートしてくるだろう。それまで、御堂はじっと待ち続けるしかない。

 シャワーを浴びてスーツを着込んで、佐伯が淹れてくれていたコーヒーを飲み、御堂はAA社のオフィスへと出勤した。同じビル内にあるオフィスは天候に左右されず、ものの数分で通勤できるのはたしかに便利だ。

 カードキーでドアを開けて執務室に顔を出すと、デスクにいた佐伯が顔を上げた。

 

「すまない、遅れて」

「御堂、大丈夫か?」

 

 遅刻を詫びるが、佐伯が気遣わしげに御堂の顔を見詰める。

 

「大丈夫だ。問題ない」

 

 何を訊かれているかも分からずに御堂は反射的にそう返していた。

 

「あまり無理するな。つらいなら部屋で休め」

「無理はしていない」

 

 佐伯は御堂の体調を気遣ったのだろうか。だが、問題なく動けるし仕事もできる。御堂は自分のデスクに着席し、パソコンを立ち上げながら、以前もよく同じように言われたのをふと思い出した。

 

『御堂君、大丈夫かね? 無理はしないようにしてくれたまえ』

 

 L&B社の社長はことあるごとに御堂にそう言った。当初は御堂が手がけているプロジェクトの進捗を訊かれているのかと思って、心配無用だと細かく説明してきたが、どうやら社長が知りたかったのはそうではなかったらしい。御堂自身を気にかけてそう尋ねていたのだ。

 だが、『大丈夫』とはどんな状態なのかわからなかった。社長は御堂の内面が空虚であることに気付いていたのだろうか。しかし、失ったものはもう戻らない。壊れてしまえば、それで終わりだ。それはもう仕方のないことなのだ。もう手の内にないものを惜しむよりも、一刻も早く自分の張りぼての外面を内面と同じように粉々にして欲しい、と正直な望みを口にすれば、社長は御堂が望むようにしてくれただろうか。いいや、仕事上の部下に過ぎない御堂にそこまでしてくれはしないだろう。だから、「大丈夫か?」と訊かれれば「大丈夫です」と答えるしかなかった。下手に心配されてあれこれ勘ぐられて世話を焼かれるのは勘弁して欲しかった。御堂が望むことはただひとつ、抜け殻になってしまった自分を木っ端微塵に打ち砕いてくれることだけだ。

 佐伯が出て行ったあの夜、御堂孝典はあの部屋で死んだ。それでも、御堂は生きていた。生きていたら、変わりたくないと思っても変化を強制される。御堂はできることならあの部屋の中で誰にも知られずに朽ちていきたかった。だが、それさえもできないくらい、自分は脆弱な存在だった。だから、部屋を出た。

 MGN社は辞める以外の選択肢は残されていなくて、当然のように辞表を出し、冷ややかな侮蔑の眼差しとともに辞表を受理された。これからどうしようか、なんのプランもなかったが、L&B社の社長から声をかけられた。L&B社で働かないかと誘われて、何も確認せずに再就職を決めたが、働いてみれば随分と待遇が良かった。仕事に就いたおかげで、朝と夜、昨日と今日の区別がつき、かつてどんな生活を送っていたかをぼんやりと思い出した。とはいえ、元の生活に戻りたいと思うわけもなく、他人との交流を極力避け、友人からの連絡もことごとく絶った。働けるだけ働いて、勤務時間が残業規制に引っかかるようなら自宅に仕事を持ち帰って没頭した。

 仕事をこなせばこなすほどそれは成果として表れて、御堂は周囲から褒め称えられたが、なんの嬉しさなかった。佐伯がやればもっと素晴らしい成果をたたき出せただろうと空しく思っただけだった。

 こうして単調な日々を重ねながら、御堂は胸にある痛みが遠のいたりしないよう、時折、かつてのマンションを訪れた。いまは誰も住んでいない部屋だが電気も水道も止めていない。二十四時間の換気システムが作動していることもあって、掃除が行き届いていなくても埃っぽくはなかった。家具もそのまま置かれていて、あの日の時間が止まったままだ。そう、この部屋の時間を止めたくて、御堂はこの部屋で暮らし続けることをせず、部屋を出た。

 ゲストルーム、かつて自分は監禁されていた部屋に御堂は籠もり、傷口が塞がらないように過去の痛みを思い出す。そうすることで、自分の身に起きた出来事を過去形ではなくて現在進行形だと認識する。自分の姿かたちもあのときから何一つ変えたくなかった。ことさら不健康であることを求めたわけではなかったが、気がつけば不摂生な生活を送っていた。あの時間のまま自分を終わらせたくて、御堂は時間を止めた。もう少し御堂に行動力があれば、自分を徹底的に嬲り尽くしてさっさと終わらせてくれる人間を夜の歓楽街で探すこともできただろう。だが、そんなことを考えることが億劫なほど御堂はすべてに倦(う)んでいた。御堂に未来を願う希望などは必要なかった。あともうひと押し御堂を踏み躙ってくれれば、すべてを終わらせられた。ただそれだけを考えていた。

 そんなさなかに佐伯克哉の名前を見かけたのだ。MGN社が企画するコンペの書類だった。

 運命という言葉に否定的な御堂も、こればかりは運命だと思った。この悲劇の幕を下ろすことができるのは佐伯以外にいなかった。その佐伯が御堂の目の前に現れたのだ。運命の環がふたたび回り出すその音を御堂はたしかに聞いた。

 

 

 

 AA社の業務は順調だった。御堂は佐伯に言われたとおりの仕事をする。L&B社のときと違って、佐伯が御堂の業務量と業務内容をしっかりと管理していた。最初は自分で好き勝手に業務をこなしていたが、働き過ぎだと佐伯に仕事を取り上げられてしまったのだ。もっと仕事量を増やしてくれて構わない、そう申し出たが、佐伯は首を横に振った。仕方ないので備品の管理や掃除と言った単純業務をしようとしたら、それも佐伯に止めろと言われる。

 佐伯に信用されていないのだろう。それとも、単純に佐伯自身がやったほうが確実で質を担保できると考えているからなのかもしれない。それもそうだ。御堂が佐伯でもそうする。自分があっさりと蹴落としたレベルの人間に社の命運を左右させるような仕事はさせない。とはいえ、佐伯一人でこなすにはAA社の業務の負荷は大きくなりすぎていて、佐伯は仕方なしに御堂に仕事を割り振っていた。

 その日、佐伯は御堂を連れて取引先へと出向いた。新製品の販売戦略に対するコンペティションに参加したのだ。AA社が打ち立てる販売戦略を佐伯がプレゼンし、競合他社を押しのけて、大きな契約をものにした。プレゼンテーションのスライドは御堂が作成したもので、資料作成のための細かな市場調査レポートをまとめるところから御堂が手がけていた。

 契約書を交わし、AA社のビルに戻ってきたときは既に夜も遅くなっていたので、そのままふたりの部屋に直帰した。

 

「さすがに疲れたな」

 

 そう言いながら、佐伯はリビングのソファに腰掛けるとネクタイを緩め、ワイシャツの襟元のボタンを外した。それだけで怜悧な鋭さの中にしどけない色気が滲む。この男は自分の魅せ方というものをわかっている。類い希な能力の高さ、そして、精緻に整った容貌をもってすれば、どんな人間だって佐伯の魅力の虜になるだろう。

 そんな男が御堂に執着したのはなぜだったのか。単に、実力の伴わない人間がMGN社の部長ポストにいることが目障りだったのかもしれない。だから、佐伯は御堂を引きずり下ろし、身の程を分からせた。

 当時の御堂は必死に抗ったが、御堂に飽きた佐伯に放り出されてみれば、御堂は世界に独りきり取り残されていた。異国の地で迷子になるような寄る辺ない心細さ。御堂が辿り着くべきところはどこにもない。そんな絶望に苛まされながら日々を生きてきたのだ。だが、これ以上苦しむ必要もなくなる。佐伯が御堂に正しい終わりを与えてくれるのだ。

 佐伯は息をひとつ吐くと、アッシュトレイを指先で手元に引き寄せて、ジャケットの懐からタバコを取り出して火を点けた。口に咥えて紫煙をくゆらせる。

 そのタバコの赤い先端をじっと見詰めていると、御堂の視線に気がついたらしい。

 

「ああ、すまない」

 

 といって、佐伯はタバコから口を離した。喫煙を咎められていると思ったのだろう。だが、タバコの火を消そうとする前に、御堂は佐伯からタバコを摘まみとった。驚く表情をする佐伯の隣に座り、そのタバコを咥えると、大きく吸った。途端にむせかえってゲホゲホと咳き込む。どうにか呼吸を整えて言う。

 

「きついな。君はこんな強いタバコを吸っていたのか」

「喫煙していたことがあるのか?」

「いいや、学生時代に何度か試した程度だ。外資の医薬品系は喫煙者と言うだけで評価が下がるからな。就活や出世の足手まといになる。まあ、君くらいの実力があれば喫煙していても問題なかっただろうが」

「……」

 

 嫌みでもなく御堂はそう言って、手にしたままのタバコに視線を落とした。

 

「私も吸ってみようかな」

「止めておけ。あなたにタバコは似合わない」

 

 克哉は御堂からタバコを取り上げて、ステンレス製のアッシュトレイに押し付けて火を消した。

 

「そうだな。君が止めろというなら止めておく。……コーヒーでも淹れるか?」

 

 御堂は微笑みながらソファから立ち上がった。だが、克哉は何かが気になったのか、御堂の真意を探るような鋭い視線を向けてくる。しばしの沈黙が降り立ったが、佐伯はふっと眦を緩め、御堂に笑いかけた。

 

「今日は、あなたが作ったプレゼンと資料のおかげで新しい契約が取れた。ありがとう」

「私が作ったものでも君の役に立てたようで良かった」

 

 そう返したところで、佐伯は表情をさっと変えた。

 

「あなたが手がけたものは非の打ち所がないくらい、圧倒的だった。自分を卑下するのは止めてくれ」

 

 その声音は硬く強張っていて、なにかまずいことでも言ったのだろうかと佐伯の顔を見返した。すると佐伯は驚くほど真剣な眼差しで御堂を見据えていた。

 

「俺はあなたの実力を買っている。だから、あなたを共同経営者として誘った。この社が順調な滑り出しなのも、あなたのおかげだ。だから、そんなことは言うな」

「すまなかった。君の共同経営者として相応しい言動ではなかったな。次からは気をつける」

 

 ようやく佐伯が不機嫌になった原因を理解して、自分の至らなさに気付く。

 御堂は佐伯の付属品なのだ。自分を貶めれば、佐伯もまた貶められてしまう。他の人間がいる前ではAA社の名を汚さぬよう副社長としてそつなく振る舞うようにしていたが、ふたりきりだからと気持ちが緩んでいた。

 御堂は素直に自分の非を詫びて、謝罪の言葉を口にしたが、なぜか佐伯は深いところの痛みを堪えるような顔をした。静かに立ち上がって、御堂に歩みを寄せると背中に手を回した。そっと抱き寄せられる。

 

「あなたがここに、……俺の傍に居てくれて、俺がどれほど嬉しいか分かりますか?」

「私も君と共に居られて嬉しく思っている」

 

 御堂も佐伯がしたように、佐伯の背に手を回して言う。それは心からの言葉だ。

 佐伯は御堂の肩口に顔を埋めるようにして呟いた。

 

「御堂、愛してる」

「私も君を愛している」

 

 そう応えれば、佐伯は何かを言いかけて黙り込んだ。代わりに御堂の肩に顔を埋めたまま、御堂の背中に回した手に力を込める。身体が密着し、しんとした静けさの中にふたりの鼓動が響き合った。

 このままセックスにもつれ込むのかと思ったが、佐伯は御堂をきつく抱き締めたまま動かない。

 長い抱擁の中で、御堂は眼差しを窓の外に向けた。壁一面の嵌め殺しの窓からは東京の輝く夜景が展開されていた。その無数の光のきらめきをぼんやりと眺め続ける。

 いまは佐伯の『恋人ごっこ』遊びの最中なのだ。御堂が始めて、佐伯がそれに乗ってくれた。佐伯がどんな恋人を望んでいるのか分からなかったが、いくらでも佐伯が望むような相手になるつもりだった。自分を偽ることに胸が痛むこともない。そもそも、本来の自分なんてものはとっくにどこかに消えてしまったのだ。御堂の虚飾を暴いて、取るに足らないようなつまらない人間だったと証明したのは佐伯なのだ。

 いつ自分を完膚なきまでに壊してくれるのか、そして、破滅させてくれるのか、それだけが楽しみだった。

(3)

 再会した御堂に対する違和感は日に日に色濃くなっていた。ふたりの間に決定的な不和が起きているわけではない。ふたりで回しているAA社の業務も軌道に乗っている。すべては一見順調そのものなのに、水面下では何かが噛み合わず予期せぬ方向へと進みつつあるような、そんな不安が胸の奥を掠めていく。

 仕事に取り組む御堂の辣腕(らつわん)ぶりはまったく衰えていなかった。AA社の貴重な戦力としてなくてはならない。だが、なぜか御堂は自分の能力に対してどこか否定的だった。克哉から相談すれば的確な答えが返ってくるが、自分から克哉に意見することはまずなかった。謙虚さとはまた違う、卑屈さに似た自己否定だ。あれほど自信に満ち溢れた男が一体どうしてしまったのか。

 御堂は克哉に対して常に柔らかな笑みを浮かべている。恋人に対する慈しみを感じさせる笑みだ。そして、克哉に対して声を荒らげることもなければ克哉を否定することもない。克哉を慮っているのかもしれないが、自分の意思というとものがまったく見えないことに寒気を感じる。それでいて、ベッドの上では過去に怯えながらも陵辱的な仕打ちを望む。

 克哉は御堂を愛し、御堂に愛されているはずなのに、なにかがおかしかった。

 

 

 

 AA社でトラブルが起きたのはそんな折だった。

 終業時間間際のAA社のオフィスに騒々しい怒号が響く。怒鳴り散らしているのは無精ひげを蓄えた男だ。中小企業の社長で、AA社にコンサルティングを依頼してきたものの、どうにも契約条件が折り合わず克哉から断りを入れた相手だった。その男が、納得がいかないとAA社に怒鳴り込んできたのだ。

 御堂は落ち着き払った態度で男を応接室に案内し、自ら相手を買って出た。男の言い分は言いがかりもいいところで、悪質なクレーマーとして克哉自ら対応しようとしたが、「君が出るまでもない。相手は血が上っているから私に任せてくれ」と御堂に押しとどめられた。だが、御堂に任せたものの、やはり気になって応接室の扉を開けたところで目にしたのは、ソファでふんぞり返る男に対して、御堂が深く腰を折って頭を下げる姿だった。

 

「ご期待に添えず、大変申し訳ございません」

 

 深々と頭を下げて謝罪する御堂を目にした瞬間、克哉の血が沸騰した。

 あれほど気位が高い御堂が、自分の不手際でもないことに頭を下げて赦しを乞うている。それがこれほどまでに耐えがたいとは。

 激烈な怒りが克哉を襲う。どうにか自分を抑えなければ相手に殴りかかってしまいそうで、手のひらに爪が食い込むほどに拳を握りしめる。ずかずかと部屋に入り、地を這うような低い声を出した。

 

「御堂、下がっていろ」

 

 そう言って、克哉は御堂と男の間に立った。

 

「お引き取りください」

 

 有無を言わさぬ威圧感でもって相手を睨み付ける。男は克哉の気迫に怖じ気づいたように腰を浮かせたが、それでも虚勢を張って声を上げた。

 

「お、俺は、客だぞ……っ」

「あなたは弊社の客ではありません。これ以上、弊社の業務を妨害するなら、しかるべき措置をします」

「な……っ」

「出口はあちらです。どうぞ」

 

 これ以上何か言われたら殴りかかっていたかもしれない。そんな克哉のギリギリの自制心と怒りのせめぎ合いを察したのだろう。男は顔を真っ赤にし、ブツブツと口の中で何かをつぶやきながらも、這々(ほうほう)の体でAA社を出ていった。

 男の姿が消えるなり、克哉は御堂に向き直った。苛立ちを隠さない口調で言う。

 

「御堂、なぜ、あんな相手に謝った」

「あんな相手だからだ。社長の君に謝らせるわけにはいかないし、謝って相手の気が済むならそれでいいではないか」

 

 平然とそういう御堂を信じられない気持ちでまじまじと見返した。

 それがいかに手っ取り早くことを収める手段だとしても、この男は誰かに膝を折ることのできない人間だったはずだ。そんな御堂が、こんなつまらない相手に仮初めであっても頭を下げるなど許せるはずがなかった。

 御堂に頭を下げさせてしまった自分に、そして、あまりにも簡単に頭を下げた御堂に対して、克哉は激しい怒りを持て余す。

 だが、御堂は克哉の怒りが微塵も理解できないようで、克哉のことを不思議そうな顔で見ている。克哉は吐き捨てるように言った。

 

「あなたのプライドはそんな安っぽいものではないだろう」

「買いかぶるな、佐伯」

 

 御堂は笑った。その笑みは酷薄で、自嘲しているようで、克哉はひんやりとした嫌な予感を覚える。

 

「私がそんな大層な人間ではないと教えてくれたのは君ではないか」

 

 御堂の言葉に頭をぶん殴られたような衝撃を受ける。瞬きさえも忘れて御堂を見返した。

 言うな、その先を言うな。

 自分が愛する男をこれ以上侮辱するな。

 聞きたくなかった。御堂を蔑む言葉を御堂の口から聞きたくない。

 だが、御堂はなんの感情も感じさせない平坦な声で言う。

 

「無様でみっともない、中身のない人間なのだと」

「違う!」

「違わないさ。だから、君が私の代わりに部長になって、私の尻拭いをしてくれた。私は君に感謝している。だから私も君の役に立てるなら立ちたい」

「いい加減にしろっ! あんたは一体どうしてしまったんだ!」

 

 衝動的に御堂の胸ぐらを掴んでいた。その弾みで御堂の頭がぐらりと揺れる。体格はほぼ同じだったはずだった。だが、いまの御堂と克哉は力の差は歴然としていた。だからこそ、再会してからの御堂に対して冗談でも力を振りかざすようなことはしなかった。するつもりもなかった。

 それなのに、いま、自分は何をしようとしているのか。ビリビリと頭の芯が痺れ、力が入りすぎた手が震える。

 御堂は抵抗しなかった。御堂の双眸が恐怖に見開かれ、その真ん中に自分の顔が映り込む。御堂が克哉を見る眼差しは、克哉に怯えながらも期待が恍惚と混ざり合っている。自分を滅茶苦茶にしてくれと懇願したときのように。

 ふたりの乱れた呼吸が行き交い、ややあって、御堂は言った。

 

「好きにして良いぞ、佐伯。私にだってそれくらいの価値はあるだろう?」

 

 御堂は引きつったような薄い笑みを湛えながら囁く。反られた白い首の形の良い喉仏、それがやけに扇情的だ。

 

「君は欲望のままに私を好きにして良いんだ。拘束して殴ってもいい。好きなだけ犯していい。君は君のしたいことを我慢しなくていい。私がそれを望んでいるのだから」

 

 克哉の手にそっと御堂の手が触れた。冷え切った指先、その冷たさに我に返った。力が入りすぎて細かく痙攣する指を一本ずつ解いていく。克哉は御堂を離すとよろめくようにして、数歩、後退(あとずさ)った。

 

「……頭を冷やしてくる」

 

 それだけ言って、逃げ出すようにしてオフィスを後にした。

 

 

 

 ビル内に併設された喫煙所で、克哉タバコを胸に一杯吸い込んだ。きついニコチンで自分の動揺を抑える。

 

 ――あれは一体誰だ?

 

 乱れ打つ心臓をタバコで宥めながら先ほどの御堂の姿を思い返す。

 克哉が知っている御堂はあんな人間ではなかった。

 御堂は自棄(やけ)になっているのだろうか。いや、違う。本気でそう思い込んでいるのだ。自分は取るに足らない人間だと。

 どこに消えてしまったのか、かつての御堂は。すべての者を睥睨し撥ねつけた、強さと美しさを兼ね備えた御堂は。いまの御堂のどこにも見つからない。目の前に居たのは、本当に御堂なのか。

 

 ――ああ、そうか。

 

 唐突に克哉は気付く。

 以前の御堂が見つからないのは当然だった。なぜなら、克哉がこの手で壊したのだから。

 自分が手を下した御堂のなれの果てを見たではないか、あの暗い部屋で。

 一年前、克哉は御堂がひたむきに守ってきたもの、大事に築き上げてきたものを根こそぎ踏み躙り、否定した。懸命にまっとうに生きてきた御堂を嘲(あざけ)り貶めたのだ。

 その結果、御堂にとって自分自身は大切にするものではなくなってしまった。御堂は自分自身をどうでもいい存在だと見限った。

 いま克哉の内にある衝撃は、あの部屋で変わり果てた御堂の姿を目にしたときと同じ衝撃だ。あのときの御堂の変わり果てた姿を、克哉は意識の奥底に閉じ込めて忘れてしまっていた。いいや、忘れたかったのだ。自分が壊したものの罪の重さから逃れたくて。

 タバコを摘まむ指先が冷たく凍えていた。

 御堂を壊したのは、紛れもなく克哉自身だ。

 ようやくすべてが腑に落ちた。

 御堂が克哉に強引なセックスをしてくれと望むのは、かつての克哉の仕打ちを再現したいのだろう。容赦なく御堂を追い詰め壊した、克哉の非道な行為を繰り返して欲しいのだ。

 そうすることで御堂はさらに壊れたがっている。もう何も感じなくてすむまで徹底的に。御堂は自分自身をこれ以上なく痛めつけたくて克哉を利用している。

 御堂を解放してから一年。御堂はその一年で立ち直るどころか自身を少しずつ削ってきた。それはまるで緩慢な自殺そのものだ。破滅したい、そんな昏い欲望が、克哉と再会したことで勢いづいた。

 あの雪がちらついた夜、御堂は克哉を追いかけて告白した。そこまでしたのは、克哉なら確実に御堂にとどめを刺してくれると思ったからだろう。つまり、克哉と恋人同士になることで、御堂は自分自身を克哉に投げ捨てたのだ。

 

 ――御堂、あんたは死にたくて俺に告白したのか?

 

 胸の中の空気を一掃するかのように克哉は深く息を吐いた。

 自分がそんなふうに扱われたことよりも、御堂をそんなふうにしてしまったという事実に胸がキリキリと痛んだ。

 

 

 

 AA社のオフィスに戻ってみたが、既に施錠されていた。

 部屋に戻ってドアを開ければ、先に帰っていた御堂が玄関まで出迎えてくれた。克哉は御堂からわずかに目を伏せて、言った。

 

「御堂、さっきは……」

 

 謝罪の言葉を口にしようとする前に、御堂が首を振って言葉を被せるようにして言った。

 

「私の方こそ申し訳なかった。許して欲しい」

 

 御堂が薄っぺらな謝罪を口にする。この御堂は克哉に従順だ。克哉なら御堂の望みを叶えてくれると思っているからだ。それでいて御堂の聡さは変わっていなかった。御堂は克哉の心を透かし見て言う。

 

「君を、失望させて悪かった」

「いいや……」

 

 克哉が力なく首を振ったところで、御堂が突然克哉を抱き締めてきた。縋りつくように抱き寄せられて、克哉は御堂の腕の中に収まる。

 

「御堂……?」

 

 御堂は克哉の首元で小さな息を吐いて、戦慄(わなな)く声で言った。

 

「このまま君が出て行ったらどうしようかと不安だった」

 

 克哉の背中をかき抱く手は細かく震えている。これは、きっと御堂の本心なのだろう。御堂は克哉を二度と手放したくはないのだ。自分を壊してくれる唯一の相手だから。

 克哉はかつて、御堂を置いて部屋を出た。克哉からすれば、御堂を解放したつもりだったが、御堂からすれば置き去りにされたも同然なのかもしれない。

 御堂が感じる心細さや不安を痛感し、克哉は御堂の背中をそっと抱き締め返した。

 

「すまなかった。心配をかけて。だが俺はあんたの傍から決して離れたりしない」

 

 これもまた、克哉の偽らざる本心だった。

 御堂の胸を少しだけ押して、御堂の顔を覗き込む。夜よりも暗い虹彩がじっと克哉を見詰め返してくる。その目をまっすぐに見据えながら告げる。

 

「御堂、俺はあなたのことを愛している」

「…私も君のことを愛している」

 

 御堂の形の良い唇から零れる言葉はどこか空疎に響いた。それでも、御堂の「好き」という言葉はよく研がれた刃がすっと差し込まれたかのように、克哉の深いところに抵抗なく突き刺さった。

 恋人たちが当然そうするように、唇を合わせ、服を脱がせあいながら部屋に入った。ベッドまで我慢できずにリビングのソファで御堂の身体を貪る。克哉は何度も御堂の名を呼んだ。好きだ、と何度も囁けば、同じ分だけ、御堂も言葉を返す。そうして、克哉を咥え込む腰を自分から振り立てる。

 身体は熱に浮かされているのに、頭の片隅では自分たちを突き放して俯瞰していた。御堂はただ、克哉の言葉をオウム返しに繰り返しているだけだ。それでも、克哉が一番欲しい言葉を克哉が望むだけ、察して言ってくれる。それが克哉の心の空隙を埋めてくれる。

 だから、克哉もいっときの幸福感に溺れ、御堂の本心を見極めようとはしなかった。会う者すべてを冷たく睥睨していた怜悧さと強さを持つ御堂が、安っぽく身を擲(なげう)つことなどしないと信じ込んでいた。

 こうしていくら熱を交わしても自分たちは互いに孤独だった。御堂は目の前にいて、深く繋がりながらも、とても遠かった。肉体の欲求は満たされても、心にはどこか空しさが漂い続けて、消えることはない。これはあのときと変わらなかった。御堂を無理やり組み伏せて欲望のままに弄(もてあそ)んだときと。

 あのときと違って、御堂は克哉に抱かれることを望んでいる。ふたりの同意の上の行為だが、心はすれ違っているままだ。

 御堂は破滅したがっている。そんな御堂の昏い願望を植え付けてしまったのは克哉だ。だからといって、御堂の願いを叶えるわけにはいかなかった。

 しかし、御堂は克哉が自分の望みを叶えてくれないと知ったら、克哉から離れていくだろう。それも耐えがたかった。

 壊れてしまったものは元には戻らない。

 それでも、元の形に近づけることはできるのではないか。

 自分が壊してしまった御堂の心と身体を、あるべき姿に修正していく。

 御堂にそうと気付かれないように、少しずつ、緩やかに。

 

 

 

 一度そうと気付いてしまえば、御堂の虚ろな内面は否応にも目についた。御堂の眼差しは常に克哉に向けられていて、克哉が何を欲しているかは敏感でも、自分自身についてはどこまでも無頓着だ。

 だから、克哉に従順であることを逆手にとった。食事はできる限り三食食べさせる。克哉自身、食事にこだわりを持つ方ではなかったが、そんなことも言っていられない。克哉が食べなければ御堂も当然食べない。だから、自分が健康的な生活を心がけるしかなかった。

 休日ともなれば、なるべく外に御堂を連れ出した。まだ肌寒い季節で、天気が良いときは散歩がてらに買い物に行き、天気が悪いときは車の助手席に御堂を乗せて、景色が良いところをドライブする。

 そんな健康的な日々を送っているせいか、御堂の肌艶は良くなり、顔にも血色が戻ってきた。だが、それは克哉が二十四時間ずっと御堂の生活を管理しているからであって、御堂自身に好きにさせればあっという間に元の荒んだ生活に戻ってしまうことは容易に想像できた。

 御堂とのセックスも様変わりした。男同士のセックスは受け容れる側に多大な負担がかかる。だから、平日は挿入行為をなるべくしないようにした。御堂の欲求をそのまま呑めば、御堂は被虐的で容赦のないプレイを要求する。目隠しをするだけ、軽く両手を拘束するだけ、たったそれだけのことで御堂は怯え、恐怖に身体を震わせる。御堂にとって当時の記憶は忌まわしいものであるのに、それでも求めずにいられないのだ。だから、御堂を満足させつつギリギリのところで克哉が手綱を取る。アイマスクで視界を奪ったら身体は常に密着させる。克哉は常に御堂の傍にいることを触れあう肌で教える。手足を拘束しても、自由までは奪わない。御堂の身体を傷つけないように、自分で外せるように緩めて縛る。

 御堂はセックスのたびに、欲情と不安、期待と諦めが混ざり合ったような顔で克哉を見た。そんな御堂にキスを繰り返し、自分は御堂を愛していることを言葉と態度で伝え続ける。御堂が求めているものとはかけ離れているセックスだ。それでも御堂の身体を知り尽くしている克哉は、御堂を乱れさせ、快楽を極めさせて、強いアルコールに頼らなくても御堂を眠らせることができた。

 ベッドの上で克哉の腕に頭を乗せて、御堂が静かな寝息を立てる。御堂の汗に濡れた髪を克哉は指でそっと梳(くしけず)った。

 深く寝入る御堂の顔は安らぎに包まれているように見えた。いまの御堂は意識を闇に溶かすことでしか安寧を得られないのだろう。

 すべては自分のせいだ。

 御堂が今までの人生をかけて形作ってきたもの、輝かしい業績、周囲からの信頼。そこから無理やり引き剥がして、放り出したのが克哉なのだ。

 克哉は憎まれて、恨まれて、当然なのだ。

 しかし、御堂は克哉を憎悪することはない。ただただ、自分を壊せと煽ってくる。

 愛し愛されることを忘れてしまって、傷つけられることだけを望んでいる御堂を哀れに思う。

 克哉はもう二度と御堂を傷つけたくはないと思うのに、御堂を傷つける自分の姿が容易に想像できてしまう。またそれが歪んだ悦びをもたらすことも分かっていて、自分の中の獣が舌なめずりをするのを無理やり抑え込む。

 

「どうすれば、あなたに償うことができるのだろうな」

 

 呟く声は誰に受け止められることもない。

 克哉の元に行こうとしている御堂は嬉しそうだった、とL&B社の社長は言った。実際、そうだったのだろう。御堂はついに再会することができたのだから。破滅したいという自分の本懐を遂げさせてくれる相手に。

 御堂は克哉がかけた呪いに蝕まれている。御堂を壊し尽くすことで、御堂が呪いから解き放たれるなら、それが克哉の果たすべき責任なのかもしれない。

 それでも、どんな理由であっても、克哉を素直に求めてくる御堂にひどく心を揺さぶられた。

 御堂と再会して、克哉の日常は彩りが生まれた。黒でもなく白でもなく灰色だった世界が鮮やかに色付いたのだ。

 それは克哉だけの一方的な見方で、御堂の世界は深い湖の底に沈んでいるままであったと知ったいまでも、もう御堂を手放すことはできない。御堂が傍に居る、ただそれだけで克哉は幸せなのだ。それは御堂が克哉にとって初めて、心から欲しいと思った相手だからだ。だから、失いたくない。

 強い想いが自分の中に芽生えている。

 御堂を守ってやりたい。助けてやりたい。

 自分の大切な人を大事にしてやりたい。

 それは抗いがたい欲求として克哉を駆り立てている。

 だが、克哉の心の有様(ありさま)と御堂の心の有様は真逆であることが、つらく、苦しかった。

 御堂が佐伯と恋人となり共に暮らすようになってから一ヶ月以上経った。だが、佐伯は御堂が期待したように振る舞ってはくれなかった。それどころか御堂が思い描く姿からはかけ離れているようだ。

 ふたりの生活は佐伯によって過不足なく整えられていた。それは心地良さにつながるものだろうが、御堂は心地良い生活など微塵(みじん)も望んでいなかった。

 セックスだってそうだ。とくにここ最近では、セックスらしいセックスさえそう簡単にはしなくなった。手や口で互いを慰め合う程度で、佐伯がそれで満足するのかと疑問に思ったが、佐伯はそれ以上を無理に強いることはなかったし、御堂もその程度のふれあいであっさりと意識を闇に滑らせていた。

 いまだって御堂が望めば佐伯は御堂を縛ったり視界を奪ったりしての行為をしてはくれるが、それはかなり手心を加えられたもので、御堂が期待している一方的に支配され奪われるような行為とは違った。

 もっと過激なプレイを望んでみたところで、佐伯には、いまの御堂には体力がないと宥(なだ)められた。たしかに、以前に比べれば体力はないに等しかった。これでは御堂が望み、佐伯が好むような嗜虐的なセックスに耐えられないだろう。あっけなく壊れてしまう玩具では佐伯も魅力を感じるわけがない。完膚なきまでに壊してもらうためには、佐伯をその気にさせるような身体を作らなくてはならないのだ。

 だから、佐伯に言われるがままに食事を摂るようにした。すっかり小食になって縮んでしまった胃には、佐伯が食べるような食事をすることはきつかったが、それでも無理やり胃に収めた。佐伯は御堂にことあるごとに食事や飲み物の好みを訊いてきたが、御堂は適切な答えを持っていなかった。以前は、好き嫌いがあったし、食事という行為自体をもっと大切にしてきたように思うが、今となっては何を食べても砂を噛んでいるように味がせず、倒れないだけの栄養と水分補給ができてさえいればよかった。アルコールも酩酊さえできれば安酒でも十分だった。仕事があったのでアルコールに必要以上に溺れることはしなかったが、いまはAA社での勤務だ。いくら酒を飲んでも佐伯が気にしなければそれで良いと思ったが、酒も佐伯に取り上げられた。当初はそれで眠れるか心配だったが、それは杞憂だった。佐伯に極めさせられれば呆気なく眠りに落ちる。佐伯と一緒のベッドでの眠りは深かった。

 こうして佐伯の言葉すべてに従って生活することに慣れてしまえば、それは苦ではなかった。むしろ、思考放棄して従うことは楽だった。これを食べろと言われれば食べ、連れ出されるままに外を歩く。服も何着か買い足されて、佐伯の好みに合わせて着飾る。「似合いますよ」と言われて「ありがとう。君の見立てのおかげだ」と微笑むと克哉も嬉しそうな顔をする。まるで人形遊びのようだと思ったが、悪い気分ではなかった。人間らしい感情とか尊厳とか、そういうものすべてを蹂躙して、人を『もの』として扱うことが佐伯には楽しいのだろう。そして、飽きたら無造作に捨てるのだ。御堂が望むのは、今度は捨てるときにちゃんと跡形もなく破壊してから捨てて欲しいということだけだ。

 

 

 佐伯はこまごまと御堂の面倒をみることが好きなようだった。風呂ひとつとってもそうだ。ふたりで暮らす部屋のバスタブは一人用で、男ふたりが入る余裕はなかった。

 佐伯はバスタブに湯を張って御堂を入らせると、頭をバスタブの縁に出させた。 Tシャツにスウェットのパンツの裾を捲りあげた姿の佐伯はシャンプーを手に取ると御堂の髪で泡立てる。こうして御堂の頭を洗う佐伯はどこか楽しそうで、御堂はかつてバスルームで散々いたぶられたことを思い出しながらも、黙って佐伯の好きにさせる。頭皮を揉み込んでマッサージするように洗ってくる手つきは慣れたもので、ゆっくりと洗いながら「痛くないか?」と訊いてくる声はまるで御堂を労わっているかのように聞こえた。洗い終わると最後にはシャワーでざあっと泡を流される。

 そこまですると佐伯は満足するようで「のぼせるなよ」と言いおいてバスルームを出て行く。あとは御堂ひとりでゆっくりと湯船に浸かって、バスルームから出ればふかふかのタオルとバスローブが用意されている。

 濡れた身体や洗い髪の水滴をタオルで拭きながらふと思う。

 こんな日々を積み重ねて、自分が思い描く結末へと辿り着けるのだろうか。

 バスローブの袖に手を通しながら鏡に映る自分の身体をみると、骨ばっていた身体には必要な筋肉が戻りつつあり、締まった体付きになっていた。自分の顔に触れる。鋭角に張っていた頬骨ラインが心なしか緩やかになり、青白かった肌色には血の赤みが差している。昔のような健(すこ)やかさが戻ってきたかのような自分の姿に、御堂はゾッとした。

 変わってきている。それはすなわち御堂の時間が進み出したということだ。

 焦燥に駆られるようにその場から離れた。佐伯の姿を探して、リビングで見つける。佐伯はバスルームに入って来たときのTシャツとスウェットのズボン姿のままソファの上で寝転んでいた。片手にタブレット端末を持って、何やら画面を注視している。くつろいでいるように見えるが、きっと仕事のメールか業界ニュースを確認しているのだろう。コンサルティング業界で早くも頭角を現す男は常に貪欲で、時間があれば常に仕事をこなしている。

 普段なら佐伯の仕事が一段落つくまで待つのだが、いまの御堂にそんな余裕はなかった。佐伯へと一直線に歩みを寄せる。

 

「御堂、出たのか?」

 

 御堂に気が付いた佐伯が手にしていたタブレットをローテーブルに置いた。御堂は、佐伯が起き上がる前に、佐伯に覆いかぶさるようにして乗り上がる。ソファの上に放り出された下肢を跨ぐようにして、佐伯のスウェットのパンツをアンダーごと膝下までずり降ろした。御堂はバスローブを羽織っただけでその下は裸だ。剥き出しの下半身を佐伯の下肢に沿わせて押し付けながら、佐伯の柔らかい性器を握り、舌を這わせる。

 佐伯は御堂の唐突な行動に驚いたようだが、止めようとはしなかった。

 根元を指でなぞり上げながら、ペニスにたっぷりと唾液をまぶした。張り出したエラを唇で弾き、先端をきつく吸い上げる。舐めれば舐めるほど、佐伯のペニスは大きさを増した。その反応に気をよくしてさらに喉の奥深くまで咥えこむ。

 

「随分と積極的だな。我慢できないのか?」

 

 熱っぽい息を吐く佐伯が御堂の湿り気を帯びたままの髪を指先で梳(す)いた。

 いまや完全に屹立したペニスをしゃぶりながら、上目遣いで佐伯を見据える。視線が深く絡み合った瞬間、佐伯のペニスがさらに硬くなった。佐伯の締まった腹筋が快楽を堪えるかのように浮き立ち、生唾を飲む音が聞こえる。

 

「御堂、俺もあんたのを舐めたい」

 

 佐伯の視線が御堂の下腹部へと流れた。乱れたバスローブの狭間から覗く自分のペニス、それが何の刺激も与えられていないのに興奮して反り返っている。

 欲情に目の縁を赤らめる佐伯を前に、御堂はこのまま自分を与えることはしなかった。互いに口淫して果ててしまったら、いつもと変わらない。

 御堂は紅潮した顔で佐伯を見据えながら、ゆっくりと咥え込んでいたものを口から離す。御堂の唇から佐伯のペニスの先端を一筋の透明な糸が滴り落ちる。

 媚びた口調で言った。

 

「なあ、佐伯。そろそろ、良いだろう?」

「何がだ?」

「私をめちゃくちゃに壊してくれ」

 

 そう口にした瞬間、佐伯の身体が固くこわばった。

 佐伯は御堂を見つめながらしばらく黙っていた。ギリギリの衝動と欲望を堪えているようでもあり、何やら思案に沈んでいるようでもあった。

 

「御堂」

 

 ややあって、佐伯は深く濡れた声で御堂の名を呼んだ。御堂を見つめるレンズ越しの双眸がすっと細められる。佐伯の大きな手が御堂の髪を撫でて頬へと添えられた。

 

「俺はあなたを壊したりはしない」

「どうして?」

「あなたを愛してるから」

「…………」

 

 欲情に昂ぶる身体とは裏腹に、すう、と頭から熱が引いていく。御堂は黙ったままうっそりと上体を起こし、ソファから降りた。佐伯に背を向けてクローゼットへと向かう。

 バスローブをその場に脱ぎ捨てて服を着替えだすと、佐伯が服装の乱れを直しながら慌てたように御堂を追ってきた。

 

「おい」

 

 呼びかける声を無視して、シャツのボタンを上まで留めるとジャケットを羽織り、冷たく言った。

 

「少し外の空気を吸ってくる」

「どこに行くつもりだ?」

「別にいいだろう。子どもじゃあるまいし、行き先を君にいちいち報告する必要なんてあるのか」

 

 いつになく御堂の反抗的な物言いに、佐伯は面食らったような顔をしたが、それでも御堂に食らいついてくる。

 

「それなら俺も行く」

「一人で行きたいんだ。君と四六時中一緒にいる生活に気詰まりしてきた」

「…………」

 

 口を引き結んだ佐伯は明らかに機嫌を害しているようだった。だが、それでも御堂に手を出してこないので、御堂は財布と携帯電話だけ持って部屋を出た。そんな御堂を佐伯は困惑と焦りが混ざり合った顔で見送る。恋人関係になってから佐伯に歯向かったのは初めてだったからどう対処すべきか迷っているのだろう。

 ばたんとドアを閉めて、エレベーターホールへと向かったが、佐伯が追いかけてくる気配はなかった。

 ビルを出ると、御堂は流しのタクシーを捕まえた。向かった先は新宿の繁華街だ。

 自分の感情がひどく波立っていた。言葉に形容できないような感情が胸を塞ぎ、息苦しささえ感じていた。

 なぜ佐伯は自分を壊そうとしてくれないのか。何が足りないのか。

 自分があの男に監禁されて嬲られていたころを思い出す。

 あの頃の佐伯は何かしらに怒っていた。そして、その怒りを御堂にぶつけていた。

 佐伯に足りないのは自分に対する怒りだろう。御堂が思いのほか自分に従順なせいで、仕置きという名目の嗜虐の鞭を振るうことができないのだと思い当たる。

 AA社で一度佐伯が怒ったときを思い出した。あのときの佐伯のレンズ越しの目は血走り、御堂は恐怖を感じる一方で、ゾクゾクとした痺れの漣(さざなみ)が体中を駆け巡った。それは性的な快楽によく似ていた。だがあと一歩のところで、佐伯は自分を抑えてしまった。

 それなら、今度こそ佐伯が思う存分怒ることができる理由を与えてやれば良いのではないか。

 御堂は新宿二丁目でタクシーを降りると、ゲイの友人に以前教えてもらった『アントレ』と言う名のバーに入った。男同士の出会いを求めるバー、その中でも高級なクラスの店として界隈では有名らしい。抑えられた照明に洗練された内装。週末の夜ともあって、客が多いようだった。御堂はカウンターに座り、強めのバーボンを注文する。一人でグラスを傾けていると、ものの数分も経たないうちに「隣、いい?」と声をかけられた。

 胡乱な眼差しを向ければ、声をかけてきたのは細身の男で御堂と同年代に見えた。身に纏うスーツや腕時計は一級品だが、その派手さと貫禄から考えればホストかクラブのオーナーといった趣(おもむき)だろう。男は、値踏みするような御堂の視線に苦笑しつつ強引に隣に座ってくる。バーテンダーを呼ぶと御堂と同じ酒を頼んだ。

 

「一人?」

「ああ」

「相手を探してる?」

「そんなところだ」

 

 男はグラスを傾けながら、機嫌よく御堂に話しかけてくる。その堂々たる態度は、この種の出会い方に手慣れているからだろうし、断られないという自信があるからだろう。あたりさわりのない返事をしながら、隣の男を眺めた。

 好みのタイプではないが、別に誰だっていいのだ。性欲のはけ口として使われるだけで十分だし、いまさら面倒な事態にもつれこむような相手を避ける必要もない。御堂は誘ってくる男に、ちらりと笑い返して承諾すると、男の顔がわかりやすく喜色にあふれた。

 そのとき、御堂の携帯電話が鳴った。ポケットから出して見てみれば、画面に『佐伯克哉』と表示されていた。電話に出ようか迷っていると、隣の男が御堂の手元を覗き込む。

 

「誰?」

「同棲相手だ」

「へえ、彼氏持ちなの」

「まあな」

 

 そう言ったところで、面倒ごとを嫌う男に断られたらどうしようかと危ぶんだが、男は楽しげに目を細めて、訊いてくる。

 

「出なくていいの?」

「出たら帰ってこいと言われるからな。もううんざりしているんだ、この男には」

 

 そう言えば、男は喉を鳴らして笑う。

 

「それなら、俺が出てあげようか? 今夜は帰らないと伝えてあげるよ」

 

 一瞬迷ったが、御堂は男に携帯を渡した。佐伯を怒らせることができるなら、なんだっていい。

 男は、元来の性格なのか、アルコールで気が大きくなっているのか、御堂の携帯に耳を当てて電話に出ると、初っぱなから嘲るような声を出した。

 

「佐伯サン? ダメじゃない。君の恋人、アントレに来ちゃってるよ。………ああ、俺? 今夜の彼のアバンチュール相手」

 

 電話口の向こうから何やら佐伯の抑えた声が響いてくる。このまま電話越しに喧嘩を始めても困るので、御堂は男の手から携帯を取り上げて耳に当てて言う。

 

「ということだ、佐伯」

『御堂、どういうことだ』

 

 佐伯の口調はいつになく険しかった。続けさまに何かを言おうとする佐伯を遮って、御堂は言い放つ。

 

「今夜は帰らない」

 

 それだけ言って電話を切った。また電話が掛かってきても鬱陶しいので携帯電話の電源自体を切った。

 そんな御堂の様子を興味深そうに眺めながら男が訊いてくる。

 

「嫉妬深いの、彼?」

「そうだな。私を監禁したことがあるくらいには」

 

 冗談だと思った男が声を立てて笑った。

 

「俺は、そいつよりずっと優しいよ」

 

 それは残念だ。

 そんなことを考えながら、男と他愛のない会話を交わしつつグラスに残っていた酒を呷り、会計を頼んだ。

 男も続いて会計を済ませて、御堂と並んで店を出た。男に連れられるがままに、ホテル街へと足を向けようとしたところで、御堂はビル前で二人を待ち構えるかのようにして立っている佐伯を見つけた。驚いて足を止めると、男も御堂の視線の先に立ちふさがる佐伯の存在に気付く。

 佐伯は取る物も取り敢えず駆け付けたのか、呼吸を乱していた。御堂はわざと隣の男に体を寄せた。仲睦まじい様子を繕うと、男はすぐさま佐伯と御堂の関係を察したらしい。御堂を庇うように、一歩前へ出る。軽い調子で言った。

 

「もしかして、あんたが佐伯サン?」

「お前は黙っていろ」

 

 佐伯が一言、返す。それは決して大きな声ではなかったが、その迫力に男はぎょっとたじろいだ。それくらい低く、威圧感に満ちた声だった。

 佐伯はちらりと男を一瞥すると、御堂を見据えた。

 

「御堂」

 

 佐伯が御堂の名を呼んだ。怒りをぶつけるわけでも懐柔してくるわけでもなく、静かに問うてくる。

 

「これは本当にあんたが望んでいることなのか」

「ああ、そうだ」

「本気なのか?」

「しつこいぞ。君には失望したからな」

 

 冷たい視線を突き返し、鼻で笑う。佐伯が身体の横に下ろした拳をぐっと握りしめるのが分かった。激しい感情を必死に抑えつけているかのようだ。今度こそ理性を吹き飛ばすほどの怒りを滾らせ、御堂を痛めつけてくれるだろう。

 だが、聞こえてきたのは苦渋を滲ませた声だった。

 

「俺は、あなたにこれ以上傷ついて欲しくない」

 

 佐伯は深いところの痛みを堪えるかのような顔をして御堂を見つめていた。なぜ、そんな目で自分を見るのか。自分の心の奥底を見透かすかのようなまっすぐな眼差しに、目を逸らしたいのに逸らせない。得体の知れない感情に呑み込まれそうになる寸前、御堂の隣の男が言った。

 

「未練がましいのはみっともないぞ、お兄サン。愛想つかされているのが分からないの?」

 

 男はようやく息を吹き返したようで、御堂と佐伯の間に割って入ってきた。

 

「ということだから、フラれた可哀想なお兄サンは帰りな」

 

 男は佐伯を嘲笑し、御堂の肩に手を回してぐっと抱き寄せた。男の挑発にも佐伯は反応しなかった。ただじっと御堂を見詰めている。傷心の色で翳る顔が痛々しくて、御堂は顔を背けた。

 

「じゃあな、佐伯サン」

 

 男は見せつけるようにして、御堂に肩を抱えながら佐伯に背を向けて歩き出す。佐伯から距離を取ったところで、男が御堂の耳に口を寄せて笑った。

 

「あんたの彼氏、無様だな」

 

 男がまとうタバコと香水が混ざり合った香り、そしてアルコール臭い息が鼻を掠め、耐えがたいほどの嫌悪が込み上げた。

 

「悪いが気が変わった。また次の機会に誘ってくれ」

 

 御堂は男の腕を冷たく振りほどくと、唖然とする男を置いてそのまま早足で歩き出した。

 

「おい、待てよ」

 

 男に手首を掴まれた。その感触さえ不快で、御堂は凍えた口調で言った。

 

「私に気安く触るな」

「ふざけんな」

 

 怒り心頭に発した男が顔を真っ赤にして御堂に怒鳴る。だが、それをあからさまに無視してそっぽを向いたところで男が拳を振り上げた。

 殴られるのか。

 佐伯ではなくて、こんな取るに足らない男に。

 だが、もうどうでもよかった。自分を痛めつけてくれる人間なら誰でもいい。

 訪れるであろう衝撃を待ち構えて目を瞑ったところで、男がうめき声を上げた。目を開ければ、佐伯が男の腕を背中にねじり上げている。

 

「俺の連れに手を出すな」

「ぐ……っ、ふざけんな、離せっ!」

 

 男が身体の向きを変えて、佐伯の手を振り払うと、怒声とともに佐伯に殴りかかる。寸でのところで佐伯は躱すが、勢い余った男が足元の看板にぶつかって派手に転倒した。さらに激高した男が看板を蹴り上げるようにして起き上がり、佐伯へと掴みかかった。通りかかった客の悲鳴が上がり、周囲の視線が集まる。

 御堂は、揉める二人を置き去りに足早にその場を去った。あたりを見渡し、客待ちをしていたタクシーにすぐさま乗り込んで発車してもらう。

 ちらりと振り返れば、背後では喧嘩騒ぎに人がどんどん集まってきている。佐伯は無事なのだろうかと気になったが、それを確かめる余裕などどこにもなかった。

 自分の胸に手を当てた。心臓が不穏に乱れ打っている。鳩尾(みぞおち)のあたりがぐっと締め付けられて、御堂は自分が痛みを感じていることを知った。

 佐伯の深く傷ついた顔を目にして、ひどく動揺していた。

 自分の行動は佐伯を怒らせることはできなかった。ただ、傷つけただけだ。そして、傷ついた佐伯を見て、自分も傷ついていた。

 

 ――どうして……。

 

 佐伯という存在がいつの間にか自分に深く根ざしていたことに気付かされる。御堂が求めていた佐伯との関係は、このような形ではなかった。

 

「お客さん、到着しましたよ」

 

 そう言われて御堂は意識をこの場に戻した。いつのまにか目的地に着いていた。料金を払って、冷たいアスファルトの上に降り立ち、顔を上げた。そこにそびえ立つのはかつて御堂が住んでいたマンションだった。

 またここに戻ってきた。

 財布に忍ばせていたカードキーでエントランスをくぐり、かつての自分の部屋へと向かう。

 ドアを開ければ、あのときの時間が風化せずに御堂を出迎えてくれる。

 電気も点けず、暗闇の中を御堂は迷うこともなくゲストルームに入った。かつて自分が監禁された部屋の、まさしく自分が繋がれていた壁にもたれかかるようにして、床に腰を落とした。何にもない部屋だ。御堂と同じ、空っぽの部屋。だが、その場でじっとうずくまっていると。ねっとりとした濃い闇がひたひたと御堂に寄り添ってきた。この部屋だけが御堂にあるべき姿を教えてくれる。

 苦しさから逃れたくて、御堂は立てた膝に額をつけて俯いた。

 ひりつくような痛みが胸を刺している。

 御堂が求める痛みはこんな痛みではなかった。早く、忘れなければ。一刻も早く、自分の時間を取り戻さなければ。

 そのときだった。

 玄関から音がした。鍵は開けっ放しだった。そこから誰かが入ってきたらしい。パチ、パチとスイッチが押される音がして、歩き回る足音がする。電気を点けて何かを探しているのだろう。その足音は、この部屋へと向かってくる。そして、ドアが開けられ、まばゆい灯りが部屋を照らした。

 

「御堂、ここにいたのか」

 

 佐伯の声だった。だが、御堂は深く俯いたまま、顔を上げなかった。

 気配が近づき、視界に佐伯のつま先が入り込む。

 

「御堂」

 

 頭上から呼びかけられる声を無視していると、佐伯が膝をついた。

 そっと御堂の肩に手が触れる。佐伯が御堂の顔を覗き込むようにして、言う。

 

「御堂、俺と一緒に帰ろう」

「私に触るな」

 

 厳しく拒絶する声に佐伯の手が止まった。

 

「ずっとこの部屋にいる気か?」

「ああ」

 

 佐伯は黙り込んだ。沈黙が充満し、ややあって、佐伯は、深く、深く、息を吐く。

 

「この家もこの部屋もまったく変わっていないんだな」

 

 そのとおりだ。あのときの時間を閉じ込めるために、まったく手を加えなかった。何一つ変えたくなかった。自分自身さえも。

 

「あんたにとって、あのときの時間は終わってないのか」

 

 痛みを伴う声で、佐伯は呟く。

 

「御堂、悪かった。俺一人だけ先に進んでしまっていた」

 

 もうやめてくれ。

 佐伯が御堂の望みを叶えてくれないのなら、そっとしておいて欲しい。御堂ひとりでこの部屋で朽ち果てるのだ。だから、突き放す口調で言った。

 

「もう、私のことは放っておいてくれ」

「いやだ。あんたは俺の恋人だ」

「もう君とは別れる。それでいいだろう」

「断る」

 

 佐伯は聞き分けのない子どものように拒否し、この部屋からでていこうとしなかった。御堂の傍から離れようともしない。あのときは、御堂を置いてあっさりと出ていったというのに。

 佐伯は変わってしまった。御堂が求めたかつての佐伯ではなかった。佐伯の中に以前の佐伯の面影を見出そうとした。一緒に暮らすことで自分を支配し屈服させるつもりなのだと思い込もうとした。だが本当はわかっていた。佐伯と一緒に暮らして、御堂は『もの』として好きに扱われていたわけではない。そう信じたかっただけだ。

 佐伯が御堂に示す優しさや愛情はたしかにそこにあって、そんな日々にさらされていれば、血を流していた傷は徐々に塞がってしまう。そうやって人は過去の傷を癒やしていくのかもしれない。しかし御堂はそれを望んではいなかった。

 佐伯がそうしたように、御堂もすべてをなかったことにして、先に進むことだってできた。だが、そうしてしまったら、あの時間が終わってしまう。どん底に留まるよりも前を向いて先を進むべきだという言葉は正しい。だが、正しさは御堂を救ってはくれない。終わったことだと片付けてしまえば、あのとき、必死にありもしない何かにすがりついて戦っていたかつての自分が報われないではないか。あのときの自分をなかったことにしたくはなかった。だから、ずっと痛みと苦しみの中に浸っていたかった。あの時間を過去のものしたくない。自分が終わりを認めなければ、この悲劇は進行中なのだ。

 だから、御堂は変わりたくはなかった。佐伯によって傷口を生々しく開かれたままの自分でいたかった。世界が自分に対して無関心であるように、御堂もまた未来へと向かう世界を無視し続けた。

 それなのに、抗えない強さでもって、佐伯は自分を変えようとしてくる。過去に取り残されたかったのに、着実にいまという時間に引き戻されつつある。

 

「なぜそこまでして私に構うんだ」

「そんなの決まっているじゃないか」

 

 佐伯は言葉を切り、そして、続けた。

 

「あなたのことが好きだから」

 

 そうはっきりと言い切る佐伯に、顔を上げた。御堂を見つめる佐伯の眼差しはどこまでも真剣で、嘘偽りなく、自分のことを好きなのだとその顔が雄弁に語っていた。追い詰められるような焦りを感じながら、御堂は言う。

 

「……私は君のことなんか好きではない」

 

 御堂は佐伯に好きだと告白した。だが、それは方便で、佐伯を利用しようとしていたのだ。

 しかし、佐伯は仄かに笑い、事もなげに言う。

 

「知っていた」

「それならなぜ……」

「俺の好きな人が、嘘でも俺のことを好きだと言ってくれて傍にいてくれるなら、それだけで嬉しかった」

 

 言葉を失う。御堂が佐伯に向ける虚飾に満ちた言葉も態度も、まがい物だと知っていてもなお、佐伯の気持ちは揺らがなかったというのか。

 

「なあ、御堂」

 

 佐伯は深く静かな声で御堂に語りかける。

 

「後悔することばかりだが、どれほど俺があなたに謝ったとしても過去は変えられない。だが、もし、あの夜からやり直すことができるなら、俺はやり直したい。あのとき、俺は一人で部屋をでるべきではなかった。あなたがどれほど抵抗しようとも、一緒に連れ出すべきだった。俺は、あなたをこの部屋に独り残してしまったことを悔いている」

 

 佐伯の言葉、ひとつひとつが御堂の内側へと静かに染み込んでいく。

 壊れやすいものに触れるような繊細さで、佐伯はそっと御堂を抱きしめた。あの夜のように、佐伯のぬくもりがじんわりと伝わってくる。

 

「あなたが俺のことを好きじゃなくても、嫌いでも、憎んでいても、どう思っていてもいいから、俺がやり残したことをやらせてくれ」

 

 視界が歪む。目を開いていられなくて、御堂は瞼を閉じた。その弾みに目の縁から滴がこぼれ落ちる。

 わかっている。わかっていることだった。

 いつまでも同じ場所に居続けることはできない。同じように生き続けることもできない。変化はどれほど厭(いと)おうとも必ずやってくる。

 何もかもあの夜に終わっていたことだったのだ。だが、それを自分は認めることができなかった。あの夜がいつまでも続くことを祈っていた。終わらなければ、あの時間はずっと存在し続ける。

 御堂を抱き締める手に力が込められる。

 

「御堂、すまなかった。愛している」

 

 御堂は答えることができなかった。口を開けば、あられもなくしゃくりあげてしまいそうで。

 この世界のなにもかもが移ろい、変化していく。どれほど過去の痛みに執着しても、それは新しい何かに塗り替えられて、少しずつ自分自身を入れ替えながらいまの自分を形作っていく。気が付いたときにはもう引き返せないところまで来てしまっていた。佐伯によって、御堂はあたたかで陽の当たる場所へと連れてこられてしまっていた。

 ひんやりとした闇に満ちた部屋は、佐伯のせいで台無しになってしまった。ここはもう、明るく空々しいだけのただの部屋で、時々過去の残滓が暗く輝くのだけれど、もはや御堂の居場所ではなくなったのだ。この部屋が変わったのではない。御堂が変わってしまったからだ。

 佐伯と共にこの部屋を出れば、過去の自分は過去のものになる。そうなればもう、自分はどう生きてもいいのだ。なりたい自分になれる。だが、なりたい自分なんてどこにあるのか。

 先に進むことを恐れていた。だが、いまこの瞬間、自分を包み込む存在を信じても良いと思った。そう思ってしまった時点で、御堂は負けていたのだろう。

 いい加減、認めよう。弔いの時間がきたのだ。この部屋に葬り去られた過去の自分と、別れを告げるときが、いまこのときなのだ。

 佐伯が御堂の耳に唇を寄せ、ひと言、告げる。

 

「俺と一緒に、この部屋を出よう」

 

 御堂は嗚咽を堪えながら、小さくうなずいた。

(4)

 あの夜、あの部屋から御堂を連れ出したことで、御堂の時間はふたたび動き出した。ふたりの部屋に連れ帰ってみれば、御堂は素直についてきて、いまでも克哉の部屋に暮らしている。AA社の副社長のポストもそのままだ。

 何事もなかったかのように……、とまではいかないが、いままでどおりの生活が再開された。

 御堂は少しずつ好き嫌いといった自分の意思を表に出すようになった。葬り去ろうとしていた自分自身に気持ちを傾けることができるようになってきたからだろう。そして、克哉に従順に従う理由もなくなってしまったせいで、克哉と意見が対立する場面も出てきた。特に仕事の面では顕著で、克哉の市場分析やコンサル案の不備を厳しく指摘することもあった。MGN社を辞めてもなお、仕事を続けてきた御堂だ。御堂にとって働くと言うことは、根源的な生存欲求に連なるくらい大事なものなのだろう。

 ということで、AA社の業績は順調すぎるほどの右肩上がりだ。事務員も雇い、社員も増やし、事業もどんどん拡大していくことになるだろう。

 目下の問題は御堂と克哉の恋人関係の方で、克哉はいまだに御堂と恋人関係を継続していると考えているが、御堂がどう思っているのかは謎だ。改めて確認すべきなのだろうが、それできっぱり断られたら克哉のダメージが計り知れないので、御堂が部屋を出て行かないのを良いことに、やぶ蛇にならぬよう、当たらず障らずでいままでどおり御堂に接している。御堂の克哉に対する態度も表面上は変化がなく、頭も洗わせてくれる。だが、セックスは求めなくなった。御堂にとって克哉とのセックスは自分を傷つける手段だったからだろう。一緒に暮らしているのにセックスできないというのは、お預けを食らっているのと同義で堪(こた)えるものがあるが、もう御堂を傷つけることはしないと誓ったので、大人しく我慢している。

 

 

 その日、克哉は取引先から渡された手土産を持たされて部屋に帰宅した。

 先に帰宅していた御堂は、克哉がぶら下げてきた紙袋を受け取って中を覗く。

 

「ワインか?」

「ああ、クライアントからもらった。高級なワインらしい」

 

 そこは輸入食品を手がける会社で、AA社のアドバイスが早速数字になって現れて、喜んだ社長は、とっておきのワインだと克哉に持たせてくれた。

 たまには家で飲むのも良いだろうと、克哉は食器棚を漁って一組のワイングラスを取り出した。リーデルのワイングラスをペアで購入していた。ワイン好きの御堂なら絶対必要だろうと買っていたものの、御堂がワインに対する興味を失っていたせいで仕舞われたままだった。

 ふたりで酒盛りの準備をする。

 

「シャトー・マルゴーか。良いワインだな」

 

 御堂はそう言って、ソムリエナイフを使い手慣れた仕草でワインを開封した。

 克哉はその横でカナッペとチーズやスモークサーモンといったつまみを用意する。

 同じの目的のためにふたりで共同作業をするというのは、悪くなかった。むしろ気分が高揚してくる。

 リビングのローテーブルに自分たちで作ったつまみとデリバリーで頼んだオードブルを広げて、ふたりで乾杯をした。

 御堂が長い指でグラスのステムに触れて、優美な仕草でワインをテイスティングする。

 流れるような一連の仕草に目を縫い止められていると、御堂の眉が跳ね上がった。

 

「うまいな……」

 

 そう感心したように呟いてまじまじとワインを見詰めている。まるで自分がそう感じていることに驚いているかのようだ。

 何を食べても飲んでも同じ顔しかしなかった御堂が、少しずつ感情を揺り動かされている。それを眺めるのは嬉しい。

 御堂の機嫌は良いようで、試しにワインの話題を向けてみれば、御堂は博識なワインの知識を披露してくれた。それを酒の肴に穏やかな時間を愉しむ。

 こんなふうに普通のような生活を積み重ねていくことで、これが普通の生活になれば良いと思う。

 久々のアルコールに酔ったのか、鮮やかに整った顔立ちをワインで赤らめながら、いつになく御堂は饒舌だった。

 ワイングラスを傾けながら御堂が言う。

 

「君も物好きだな」

「物好き?」

「いまだにしつこく私に構っているじゃないか」

「物好きなのは俺だけじゃないと思うが」

 

 L&B社の社長はいまでも何かにつけて御堂は元気かと探りを入れてくるし、人材不足を補うために声をかけたかつての部下の藤田は、「御堂がいる」のひと言に一も二もなく飛びついた。御堂がそうと気付こうとしなかっただけで、御堂のことを気にかけている人間は多くいるのだ。

 だが、それを素直に教えてあげるほど克哉もお人好しではなかった。ライバルの芽は早めに摘んでおくに限る。

 御堂は小首を傾げて克哉を見た。こうして克哉を見返してくる眼差しひとつをとっても、肌が粟立つような色気がある。

 

「君にはもっと良い相手がいるんじゃないか。君なら誰だって選びたい放題だろう」

「あなたがいいんだ」

 

 と即座に言い切る。

 あと何度、好きだと伝えれば御堂は克哉の気持ちを理解してくれるのだろうが。だが、根気強く伝えていきたい。克哉は御堂と共に在りたいこと、御堂を決して失いたくないこと。一度手に入れた幸福を手放す気はさらさらないことを。

 胡乱げに眉根を寄せる御堂に、さらに言葉を付け足しておく。

 

「それに、あなたも俺にしておくのがベストだ」

「どうして、そんなことが言える」

「俺があなたを一番愛しているし、あなたを幸せにできるのは俺しかいないからな」

「君のそういう自信家なところは変わっていないな」

 

 御堂は呆れた口調で言って、ワイングラスをくっと呷った。

 その御堂の姿を見ながらふと思う。

 克哉が物好きとか選びたい放題とか自信家だとか。もしかして、克哉は変人で節操なしで傲慢だと、御堂に遠回しに貶(けな)されているのだろうか。

 話が不穏な方向に傾きそうだったので、克哉はそっとその場を離れて、風呂場へと向かった。

 御堂が余計なことを言い出す前に、さっさと風呂に入れて寝かせてしまおう。

 そう考えながらバスタブに湯を張って、御堂を呼びにリビングルームへと戻った。「御堂」と声をかけたところで、御堂がぼそりと言った。

 

「――好きだ」

 

 まるで自分に告白されたかのような錯覚に心臓が早鐘を打ち出す。だが、よくよく御堂を見れば御堂の手元のワイングラスではワインが小さな波紋を立てていた。

 

 ――なんだ、ワインのことか。

 

 小さな失望を見透かされないよう平然と振る舞おうとしたところで、御堂が潤んだ双眸を克哉に向ける。

 

「君のことが好きだと言ったんだ。聞こえなかったのか?」

「本気で言っているのか? それとも酔っ払っているのか?」

 

 御堂の手にあるワイングラスを取り上げて、ローテーブルへと置いた。すると、御堂が両手を克哉の首に回して引き寄せる。

 

「どっちだって君は構わないのだろう?」

「……どっちでも嬉しいが、もしあんたが本気だったらなおのこと嬉しい」

 

 御堂の眸が近づいてくる。虹彩まで塗りつぶされたかのような黒に呑み込まれた。

 くちゅりと濡れた音がふたりの唇の間で立った。ゆるゆると唇を擦り合わせながら少しずつ深く噛み合わせる。薄く開かれた御堂の唇の狭間に舌を差し入れた。御堂の口内に残るワインを舐めとると、御堂の喉が甘く鳴った。

 その先に進みたくなる衝動を、自制心を総動員して抑え込む。御堂の胸を押して、どうにかキスを解き、言った。

 

「御堂、風呂に入れ。飲み過ぎだ」

「風呂は後でいい。君と一緒に入れないからな」

 

 その言葉を言葉どおりに受け止めてよいのか。言外の意味をさらに深読みしようとしたところで、御堂の手が克哉の頬に添えられて、ふたたび唇を押し付けられた。今度は御堂から舌を差し入れられた。その舌を吸い上げ、御堂の唇の柔らかさだとか、舌の感触だとか、熱だとかを味わいながらたっぷりとキスを交わした。

 互いに息苦しくなってきたところで、御堂がようやく顔を離した。

 

「君とのキスは少し苦いな」

 

 そう言う御堂のシャツは襟元のボタンが外されていて、そこから覗く肌と鎖骨の盛り上がりが上気して赤くなっている。

 乱れた呼吸と昂ぶりだした熱に、克哉は喘ぐように言った。

 

「これ以上俺を煽るな。これでも必死に我慢しているんだ」

「だから煽っているんだろう?」

 

 と蠱惑の笑みが誘ってきて、克哉の理性はあっけなく焼き切れた。

 ソファの上でもつれ合うように互いの服を脱がし合って、裸になる。

 御堂の肌という肌に唇と指を這わせ、執拗に愛撫をした。細部まで知り尽くしている肉体をひとつひとつ確かめるように。

 

「さえ…き……っ」

 

 焦れったいのか御堂が掠れた喘ぎを漏らしながら、克哉にすがりついてくる。自分の口と手で御堂の凄絶な色気を剥き出しにしていく様は何度目にしても興奮する。

 

「ぁ、あ……っ、ッ」

 

 御堂の平らな胸の尖りを唇で挟み、軽く歯を立てる。硬く赤く腫れた乳首を甘噛みしながら、窮屈な場所へと指を伸ばした。克哉を拒んで閉ざそうとするところを、手際よく手懐けていく。

 硬く勃起したペニスを御堂の内腿に押し付けながら、御堂の勃起を自分の腹で擦りあげた。全身を使って全身を愛撫しながら、互いの熱をこれ以上なく高めていく。

 

「佐伯……っ、もう…っ」

 

 堪えられない、といったように御堂が声を上げる。

 

「どうかしたか?」

「――っ」

 

 あえて、素知らぬふりで聞き返すと、御堂が克哉を潤んだ双眸で睨み付けた。その眼差しにゾクゾクと背筋が震える。自分を欲しがる御堂をもっと堪能したい。ちゃんと言葉で自分を欲しがって欲しい。そんな意地悪な気持ちに唆されるが、もはや克哉も限界だった。

 上体を起こし、御堂の腰を抱え直す。猛々しく反り返った自分のペニスを握り込む。それは、先走りを滴らせて淫らに濡れそぼっている。

 御堂の脚が克哉を迎え入れるために自然と開かれた。腰を差し込み、御堂の中を押し広げていく。

 

「ぁ、あ――っ」

 

 苦痛と快楽が混ざり合ったような声が零れ、御堂が喉を反る。無意識に克哉を搦め捕ろうとする内側を、深く抉り込んだ。すさまじいほどの快感に脳が痺れながらも、根元まで深々と自身を埋め込んだ。

 

「御堂」

 

 覆い被さって真上からのぞき込むようにして、名前を呼ぶ。顔を見ながらつながりたいと思うのに、このときに限って御堂は顔を背けて克哉を見ようとしない。

 

「こっちを向け」

「いやだ」

「どうして?」

「言いたくない」

 

 そう言って御堂は腕で自分の顔を覆った。

 もしかして恥ずかしがっているのだろうか。

 御堂の本意ではなかったとはいえ、いままで散々抱き合ってきたのだ。いまさら羞恥を覚えることではないと思うが、今日の御堂は少し変だ。いや、変わったのだろう。克哉が変わったように、御堂も変わった。自分たちは、少しずつ変わりながら新しい関係を築こうとしている。

 御堂の腕を無理やり解いて抱かれる御堂の顔を見たい気持ちはあったが、御堂がその気になるまで待つことにして、克哉は腰を遣い出した。

 

「ぁ、あ、あ……っ」

 

 突き上げるたびに、御堂は身悶え、声をあげて、背を弓なりに反らせた。激しく惑乱する自分を抑えたいのか、克哉の肩に爪を立ててしがみついてくる。

 それは初々しささえ感じる反応で、克哉もまた、御堂の身体の重みや熱さ、その中のいやらしさを生々しく知覚する。

 それはまるで、御堂を初めて抱いているのかのようで。

 御堂のペニスからは透明な蜜がしとどにあふれ出している。粘膜は淫らに波打って克哉を容赦なく揉みしだく。ありとあらゆるところから快楽が弾け、克哉は極みがもうすぐそこまで迫っていることを知る。

 

「御堂」

 

 克哉は動きを止めて、もう一度、名を呼んだ。そして、告げる。

 

「あいしてる」

「…………」

 

 御堂はちらりと克哉を見たものの、喘ぐ唇を引き結んで返事を拒否する。克哉は優しい口調で促す。

 

「言ってくれないのか?」

「……さっき言っただろう」

 

 そう言って、ぷい、と横を向く御堂の耳は赤くなっていて、それがアルコールによるものなのか、発情によるものなのか、それとも別の理由なのかわからないのだけれど。

 そんな御堂が愛おしくて、克哉は御堂の頬に熱くなった唇を押し付けながら、動きを再開した。

 

「っ、ぁ、あ……」

 

 揺さぶられる御堂が克哉へと顔を向けて唇を合わせてきた。

 忙しないキスを繰り返していると、大きな絶頂の波に攫われる。頭の中が真っ白になり、克哉は御堂を強くかき抱いた。ふたりの腹に挟まれた御堂のペニスが熱を迸らせ、克哉もまた御堂の深いところに熱を溢れさせる。

 こうして御堂と快楽だけでなくひとつの想いを分かち合う。

 だれかを愛して、愛されるということ。

 いまが幸せで、これからも幸せであろうとすること。

 過去は決して消えなくて後悔は常に足元にあるのだけれど、それでも未来への希望は常に胸に抱いて生きていきたい。

 御堂をきつくきつく抱き締めると、触れ合わせる唇の狭間で、御堂が声を掠れさせながらも「君が、好きだ」と言うのをたしかに聞いた。

 

 

END

(5)
あとがき

最後までお読みくださりありがとうございました!
普段書かないタイプのメガミドでしたがいかがでしたでしょうか。
私の中では、御堂さんは常にしなやかな強さを持っている人で、虐げられてもなおどん底から這い上がる強靱さがあるのですが、今回は、破滅願望を持ち続けている御堂さんで書いてみました。
キチメガ公式とも違うタイプの御堂さんですが、こんなふうに過去に囚われているのも萌えますよね。そしてまた、自分のしでかした結果を目にして呆然とする眼鏡も。

副題の『Die Kammer in Trauer』はドイツ語が堪能なフォロワーさんに付けてもらったのですが、読み方は『ディー・カマー・イン・トラウアー』だそうです。
カマーというのが古い言葉の「寝室(chamber)」でイン・トラウアーが「喪に服す」みたいなかっこいい単語でめくるめく厨二感をだしてもらいましたのでご堪能ください…。

(6)
(7)
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