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私の犬
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鬼畜眼鏡FD、好きにしろEDの補完SSになります。

ミドメガのお話になります。ご注意ください(また、作中にRメガを匂わせる部分があります)

更新しましたら下につなげていきます。

​現在、第7章まで更新しています。

CP:御堂孝典×眼鏡克哉(ミドメガ)

視点:御堂、克哉

Pro

 佐伯克哉はこの公園で命を落とした。

 ビジネス街の真ん中にある公園は都市計画の一環として造られた公園で、東京の一等地にありながらも驚くべき広さを誇り、付近の貴重な緑地となっている。昼間はビジネスマンや観光で訪れた人々で賑わうが、夜も更けたこの時間ともなると人の気配はまったくなかった。これでは、悲鳴を上げたとしても誰にも届かなかっただろう。ただ一人、犯人を除いて。

 御堂は公園に入ったところで空を見上げた。雲が月の光を遮り園内はどんよりとした暗闇に包まれていた。頼りない街灯が公園の闇を疎(まば)らに薄めている。

 夏の始まりの湿気を孕んだ夜気が御堂を包み込む。あんな凄惨な事件があったものだから、夜の公園は不気味さを増して見える。しかし、御堂はそんな暗い公園を迷わずに歩くと公園の中心辺りで足を止めた。手に持っていたコンビニの袋から缶ビールを取り出しプルタブを開ける。プシュッ、と炭酸が抜ける音が公園の静寂を乱した。

 御堂は缶ビールを飲もうとはしなかった。そのまま缶を傾け、足下のアスファルトへとビールを注ぐ。たちまち、ビールの黒い水たまりが出来た。御堂は缶が空になると、その缶を公園のゴミ箱に捨て、近くのベンチに腰をかけた。

 先ほど御堂がビールを注いだアスファルトを眺める。そこは、ちょうど克哉が命を落とした場所だった。克哉が見つかったとき、そこには大きな血溜まりができ、スーツ姿の克哉は自分が造った血溜まりに浸りながら、空を見つめるようにして絶命していたという。そして、今日は克哉が殺されてから三ヶ月目の月命日だ。

 ぼんやりと克哉が命を落とした場所を見つめ続ける。そこに倒れている克哉の姿を頭の中に思い描く。克哉が最期に見た光景、それがこの公園とその上に広がる夜空だ。克哉は命が尽きる瞬間、何を考えたのだろうか。それを知る術はもはやない。

 殺された克哉は苦しかっただろう。だが、遺された人間にもまた、苦しみはあるのだ。

 克哉が死んだあの日から、御堂の時間は止まっていた。といっても、御堂を取り巻く現実は目まぐるしく進んでいて、まるで御堂一人が世界から取り残されているように感じる。いつになったら、前に進み出すことが出来るのだろう。

 御堂は一人、小さく呟いた。

 

「佐伯、私はどうしたら良いのだろうな」

 

 御堂の声に応える者はいない。生ぬるい風が公園を駆け抜ける。

 この場にたたずんでいても仕方がない。そろそろ帰ろうかと腰を浮かせたときだった。静まりかえった公園に、男の声が響いた。

 

「こんばんは」

 

 真横から声をかけられて、御堂は驚きのあまり声を上げそうになった。声の方向に振り向けば、一人の男が立っていた。この場に瞬間移動してきたかのように、今の今まで全く気配を感じさせなかった。

 全身黒ずくめの男。長身に黒いコートを身に纏い、夜なのに黒いボルサリーノ帽を被る。男は御堂と目が合うとにっこりと笑い、帽子を取った。途端に、まばゆいほどの金色の長い髪がこぼれ落ちた。

 こんな夜の公園で出会うにはあまりにも怪しい出で立ちだった。御堂は警戒感を露わにして、硬い口調で言った。

 

「誰だ?」

「私のことはMr.Rとでもお呼びください」

 

 不審さしか感じない。御堂は険しい表情をしたままだったが、Mr.Rと名乗った男は御堂の態度を気にせず、にこやかな顔で言葉を続けた。

 

「どうして、あなたのような方が沈まれた面持ちをされているのでしょうか。お辛いことでもあったのでしょうか」

「そう、見えるか?」

「ええ。とても。心の内の悲しみが強すぎて、立ち直ることが出来ないご様子。それでも、他の人の前では心を殺して、気を張ってらっしゃるのでしょう」

「そう思うなら、そっとしておいてくれないか」

 

 何を知っているのかしらないが、さもそうだと決めつけんばかりの口調に御堂は苛立つ。すると、Mr.Rは笑みを引っ込め、神妙な顔をして謝罪の言葉を口にする。

 

「私の言葉がお気に障られたら、大変申し訳ございません」

「いや……」

 

 即座に謝罪される。御堂は大人げない言い方だったかも知れない、と居心地の悪さを感じながら目を伏せた。二人の間にしばしの沈黙が流れる。このままMr.Rが立ち去ることを期待したが、そうはならなかった。Mr.Rは場の雰囲気も御堂の心情も無視して、ふたたび口を開いた。

 

「僭越ながら、深い悲しみを癒やすにはペットを飼うのも良いものですよ。……例えば、犬とか」

「犬か……」

 

 ずいぶんと厚かましい男だと思いながらも、御堂はふと思い出した。幼い頃、御堂は犬を飼いたかった。それも、自分と同じくらいの背丈の大きな犬だ。きっかけは思い出せない。多分、テレビか何かで大きな犬と戯れる自分と同じくらいの年頃の子の姿を見たせいだろう。ただ、当時の御堂には喘息という持病があった。犬や猫は喘息に悪影響を及ぼすらしい。だから、そう親に諭されれば、諦めざるを得なかった。その時の、犬を飼いたかったという満たされぬ感情は今でもありありと思い出すことが出来る。

 

「そうだな。考えてみる」

 

 いい加減この男の相手をするのも面倒になって、御堂は適当に話を合わせて言った。するとMr.Rは嬉しそうに目を細めた。

 

「そうですか。では、私があなたにぴったりの、特別な犬を見繕いましょう」

「はあ?」

「実は、あなたにふさわしい犬に心当たりがありまして。後日、犬を持参いたします」

 

 あまりにも予想外の言葉に御堂は顔を上げて、まじまじとMr.Rを見返した。だがMr.Rは艶然とした笑みを浮かべて御堂に一礼すると「それでは」と身を翻した。

 

「おい、待て」

 

 引き留める言葉は届かず、男はあっという間に闇に溶け込むようにして御堂の目の前から去って行った。最初から何も存在しなかったかのように、静寂が立ちこめる。

 一体何だったのだろうか。まるで、夢でも見たような気分だ。

 感傷的な気持ちをすっかり邪魔されてしまい、御堂はひとつ、大きなため息を吐くとベンチから立ち上がった。スーツについた誇りを払うと、公園をあとにした。

 翌日には御堂はMr.Rと名乗った男のことをすっかり忘れていた。

 しかし、御堂は、それから一週間も経たぬうちにその男と再会することになったのだ。

 

 

 

 御堂は経営コンサルティングを生業(なりわい)とするAA社(アクワイヤ・アソシエーション)を経営している。副社長の立場だが、社長である克哉が殺されて以来、御堂が一人でAA社の業務を切り盛りしている状態だった。連日深夜まで仕事をこなしているが、それでも克哉が抜けた穴は大きく、いかにAA社が克哉に頼り切っていたかを思い知らされる。それもそうだ、御堂は共同経営者ではあったが、実態は克哉のワンマン経営に近いものがあった。特に、克哉が殺される前は御堂と克哉の仲は決裂状態で、誰も克哉に異を唱える者はいなかった。そして、事件が起きた。

 コンサルティング会社は客観的なデータ解析と実績が重視されるが、それと同じくらい信用が重視される。いくら被害者側とはいえ、克哉が殺されたという血なまぐさい事実は、AA社の運営に大きな影を落としていた。AA社の華々しい業績に殺到していた新規の依頼は、蜘蛛の子を散らしたかのようにぱたりと途絶えた。今のコンサルティングを片付けたらAA社をたたむべきだろう。そう、御堂は考えている。だが、せめて、現在進行中のコンサルティングだけはきっちりと完遂するつもりだった。

 そして、この日、深夜に帰宅した御堂を待ち構えていたかのように、玄関のチャイムが鳴った。その音色は、訪問者が御堂の部屋の玄関前まで来ていることを示していた。どうやらマンションの正面エントランスのセキュリティはすり抜けたらしい。

 インターフォンの液晶画面に映る真夜中の訪問者を確認し、御堂は顔を強ばらせた。そこには、あの公園で出会ったMr.Rと名乗った男が立っていた。こちら側は見えていないだろうに、Mr.Rはまるで御堂が確認していることをさも分かっているかのように、画面越しににこりと笑いかけてくる。

 居留守は使えないようだ。御堂は警戒しながら、ドアを開けた。ドアの前にはMr.Rがあの夜の公園で出会った姿そのままに立っている。

 

「こんばんは、御堂孝典さん」

「……住所も名前も教えたつもりはなかったが」

「私はあなたのことをよく存じしておりますよ」

 

 にこやかな笑みを崩さずに言うMr.Rは、よく見れば、黒いトランクケースを傍らに置いていた。その大きなトランクケースに目が行ってしまう。

 人間の死体でも入れているのだろうか。

 そんな不穏な想像をしてしまうくらい、目の前に立つ男が纏う気配は異様だった。照明で照らされているマンションの廊下でさえ、この男の周囲だけ闇が濃くなっているように感じる。

 Mr.Rは夜の公園で話しかけてきただけでなく、御堂の自宅までやってきたのだ。ストーカー行為とも言える。警察に通報すべきだろうか。だが、逡巡する御堂をよそに、Mr.Rは親しげな声音で言った。

 

「あなたに、お約束の品をお持ちいたしました」

「約束の品? ……まさか、犬か?」

 

 何を言っているのだろうと首を傾げ、すぐに思い当たった。確かにそんな話をしたことは覚えている。当たり前だが、御堂は本気にしていなかった。

 Mr.Rは御堂に向かって頷くと、口を開いた。

 

「中に入れていただけませんか? お時間は取らせませんので」

「……」

 

 相手の意図がまったくもって分からない。しかし、御堂はためらいつつもドアを大きく開けると、身を引いてMr.Rを招き入れた。こんな得体の知れない男を家の中に入れたくはなかったが、真夜中の玄関先でこのまま言い合うのも憚られたからだ。もちろん、玄関より奥には上げるつもりはなかった。丁重に断ってさっさと帰ってもらおうと考えたが、Mr.Rもまた玄関より先に入るつもりはなかったようだった。

 Mr.Rは礼儀正しく玄関先で一礼すると、 トランクケースを軽々と持ち上げ、玄関に入ってくると上がり框(かまち)にトランクケースを横にして置いた。Mr.Rの背後でドアが鈍い音を立てて閉まる。

 

「なんだ、それは」

「犬ですよ。あなたにふさわしい犬を見繕って参りました」

「本当に犬なのか?」

「ご覧いただければ分かります」

 

 不審を露わにする御堂にMr.Rは涼しい顔でそう言って、御堂の前で膝をつくと、トランクケースのロックを外していった。

 この中に犬を入れているのだろうか。よく見れば、トランクケースの表面には目立たぬように空気穴が開けてある。だが、犬を運ぶようなキャリーケースには見えない。それよりも何よりもトランクケースからは何の音もしなかった。

 厳重ないくつものロックを外して、Mr.Rは御堂を見上げた。おもむろに蓋を開く。

 

「どうぞ、ご確認ください」

「――ッ」

 

 御堂は言葉を失した。そこにあったのは、人間の男だ。

 トランクケースの中に身体を折りたたむようにして裸の男が収められていた。顔にはアイマスクを被せられ、口元にはボールギャグを噛ませられている。裸と言っても、首にはぴったりとした黒い金属の首輪が巻かれている。それだけではない。両手は背中で拘束され、手を使えないように革の袋を装着されていた。また、両足は膝頭(ひざがしら)を挟むようにして太ももと膝をベルトでつながれている。ベルトの長さは短く、これでは膝を九十度以上、伸ばすことができず、這うようにしか歩くことが出来ないだろう。

 目にしたものの衝撃からようやく立ち直り、御堂は眉根を寄せて不快さを表情に出した。

 

「人間ではないか」

「いいえ、犬です」

 

 Mr.Rはきっぱりと言い切った。

 

「お伝えしたように、特別な犬なのです。ヒトの姿をした犬。ですが、所詮は犬です。ヒトとしての戸籍もなければ名前もありません。もちろん、人権などもなく、お好きなように扱っていただいて構いません」

 

 Mr.Rの言葉に、御堂は眉間のしわを深くした。

 

「悪趣味だな」

「そうでしょうか。このような犬をご所望されるお客様は多いのですよ」

「それなら、なぜ、私に?」

「この犬の飼い主としてあなたがふさわしいと考えたのです」

「私が飼い主としてふさわしいだと?」

 

 今度こそ御堂は剣呑な口調と顔で言った。御堂にだって嗜虐的な嗜好はある。だが、このように人としての尊厳を奪われて、犬に貶められた人間をいたぶって悦ぶような趣味はない。だが、Mr.Rは動じることもなく、御堂の目をまっすぐに見返して、「ええ」と頷いた。

 

「私はあなたを高く買っております。ですが、あなたにこの犬の飼い主の資格が本当にあるのか、見極めさせてください」

「私の家に押しかけてきた割には、ずいぶんともったいぶった態度だな」

 

 精一杯の皮肉を込めていったが、Mr.Rは動じることもない。

 

「期間は三ヶ月、三ヶ月後にあなたが飼い主としてふさわしい場合には、その時にはこの犬をお譲りします。そうでない場合は、生死を問わず回収いたします」

「生死を問わず?」

「ええ、死体でもきれいに回収いたします。あなたが罪に問われることもありません。もし、期限を待たずに死んだ場合には、その時点で回収に参りますのでご心配なく。これから三ヶ月間はあなたの犬ですから、お好きなように。アフターサービスも万全ですから」

「なんだと……」

 

 御堂は絶句して言葉を継げなかった。Mr.Rはこの犬を殺してもいいと言っているのだ。

 Mr.Rは、言葉を詰まらせる御堂にかまわず、いくつか注意事項を淡々と説明した。この男を、あくまでも人間ではなく犬として扱わなければならないと念を押される。

 御堂が今、目にしているものは人身売買だ。それも、性的な嗜好目的――特に、相手の意思を無視して苦痛を与えることに快楽を得るような、嗜虐趣味の人間向けの商品として、一人の人間が売買されているのだ。

 この男がどうしてこんな目に遭っているか知るよしもないが、決して本人が望んだことではないだろう。

 自分の頭上で物騒な言葉を吐かれていても、スーツケースの中の男はピクリとも動かない。咥えさせられているボールギャグの隙間からヒューヒューと呼吸音が漏れていた。その規則正しいリズムからすると、深く眠っているのだろう。それも薬物か何かで。拘束され眠らされるとはずいぶんと厳重な処置だ。

 Mr.Rは一通り説明し終わると、思い出したようにポケットから何かを取り出した。

 

「ああ、そうでした。この眼鏡を」

「眼鏡? 犬なのに眼鏡を付けるのか?」

 

 嫌味も含めて言ったつもりだったが、Mr.Rは美しく微笑んでさらりと言った。

 

「ええ、この犬のトレードマークみたいなものですから」

 

 そう言って御堂の手に眼鏡を手渡した。握らされた手の中で、眼鏡の銀色のフレームが鈍く輝く。ひんやりとした金属の感触が、御堂の意識をはっきりとさせた。目の前に立つ黒衣の男とスーツケースの中の犬扱いされている裸の男。この事態がいかに現実離れしたものだか再認識させられる。

 こんな話はきっぱり断ろう。元から望んでもいなかった話だ。

 そう決意して顔を上げたときには、男は御堂の前から忽然と姿を消していた。閉じかけたドアがガチャリと音を立てて沈黙する。

 

「おいっ!」

 

 慌ててドアノブを掴み、ドアを開いた。ドアの外に顔を出して、左右に首を振ってMr.Rの姿を探すが、そこにはもう誰もいなかった。マンションの静かな内廊下には人のいた気配は微塵もない。

 まるで夢でも見ていたかのような狐に包まれた気持ちになる。ドアを閉めて振り向けば、それが夢でなかった証拠に、大きなスーツケースが蓋を開いた状態で置かれていた。そして、中には裸の男。

 

 ――どうしたものか。

 

 困惑しながら、御堂はスーツケースの前にかがみ込んだ。

 成熟した男の身体。引き締まった肉体に長い四肢、明るい髪色で、顔の造作はアイマスクをつけていても美しく整っていることが分かる。身体は少年特有のしなやかさが抜けた、成人の男の身体だ。年齢は二十代後半だろうか。御堂は、恐る恐る男のボールギャグとアイマスクを外した。

 御堂が予想したとおり、男の目は閉じて、寝入っているようだった。眼球の丸みを覆う薄い瞼を長い睫が縁取る。御堂は、無防備に眠る男を品定めでもするかのように不躾(ぶしつけ)な視線で眺めた。確かに、この顔と身体なら、その手の需要はあるのだろう。

 それなのに、なぜ、わざわざ御堂のところに連れてきたのか。まさか、御堂を将来の顧客として見込んでいるのだろうか。

 御堂は、男の額にかかる髪を指で払い、恐る恐る眼鏡をかけてみた。たしかに、Mr.Rの言うように、眼鏡を付けた顔の方がしっくりと馴染んでいるように思えた。

 

「おい、起きろ」

 

 そう声をかけてみたが反応がない。肩を揺さぶってみるが、それでも起きる気配がなかった。どうしたものかと考えて、Mr.Rが一緒に置いていった道具をあさり、気付け用のスプレーを見つけた。それを眠る男の鼻先に吹きかける。途端に、あたりに刺激臭が漂い、男が激しく噎せた。

 

「硝酸アンモニウムか……っ」

 

 御堂もまた、漂う刺激臭に顔をしかめた。これを直に吹きかけられた男はたまらないだろう。眠りも一瞬で吹き飛んだようで咳き込みながら不自由な身体を捩り、そして、ようやくスーツケースの中に収められていることに気付いたようだ。

 狭いスーツケースの中でもがくのを手助けしてやる。やっと上体を起こした男が顔を振って纏わり付く硝酸アンモニウムを振り払いながら、御堂へと顔を向けた。そして、レンズの奥の瞳孔を大きく見開いた。

 

「……私が君の新しい飼い主だ」

 

 ひとまずそう挨拶するが、男は驚愕を隠そうとしない表情で口を開いた。何かを言おうとする。その瞬間、男は身体を大きく痙攣させた。

 

「お……ぐあっ、あああっ!」

「おいっ!」

 

 断末魔のような悲鳴があがり、男は目を剥いた。とっさに手を伸ばそうとした寸前、男の身体がまるで糸が切れたようにがくりと床に伸びた。

 

「大丈夫か?」

 

 御堂の声に男は数度まばたきをして、薄く目を開いた。胸が激しく上下し、呼吸が跳ね上がる。何が起きたか、御堂も理解した。この男は喋ろうとしたため、罰を与えられたのだ。

 御堂は深いため息を吐きつつ言った。

 

「返事はしなくて良い。犬は言葉をしゃべらないものだろう?」

 

 この男に付けられた首輪は男の言葉を封じている。意味のある言葉を発しようものなら、電流が流れて男を躾けるという。犬の無駄吠え防止ようの道具として似たようなものがあると知っていたが、こうして実際に目にすると残酷な道具だ。人間としての言葉を奪い、犬へと貶めている。

 男がぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。電撃のダメージから回復するのを待ち、背中にまとめられた両手の拘束を外してやった。ついでにミトンも取ってやる。犬として扱うべきなら手を封じるこのミトンも取るべきではないだろう。だが、御堂は犬の飼い主として認められたいわけではないし、この男にも少なからず同情していた。それに、手が使えないのは何かと不便で、それはすなわち、飼い主となる御堂の手間にも直結する。しかし、男の両手の指は硬く丸まっていた。指を握り込んだ状態で長い間、革のミトンできつく戒められていたのだろう。これではせっかくミトンを外しても満足に手を使えない。

 犬として厳しく躾ている、とMr.Rは言っていたが、それはすなわち人間としての生き方を去勢され、奪われたのだ。手を使うことも出来なければ、二本足で歩くことも出来ず、言葉もしゃべることが出来ない。

 この男が受けた仕打ちを考えれば憐れみを覚える。無関係な他人とはいえ助けてやりたいとも思う。だが、と御堂は思い留まった。

 冷静に考えてみれば、Mr.Rは、こんな風に人間一人の人権を奪い、社会から存在を抹消することさえ軽々とやってのけるのだ。その背後には莫大な金と権力を握る闇の組織があるのだろう。だからこそ御堂の名前や住所まで把握しているのだ。

 そんな巨大な組織相手に、御堂一人で太刀打ちできるわけもなく、この男には申し訳ないが、三ヶ月間、共におとなしく暮らし、引き取ってもらうのが最善策であろう。反社会的な行為に手を染めたくはないが、反社会的な組織と対立もしたくはない。

 なぜこんな厄介な事態に巻き込まれたのか、鬱々とした気分になりながら、御堂は男に言い含めるように言った。

 

「君と私はこれから一緒に暮らすことになる。君が賢い犬であることを祈るよ」

 

 まずは名前をどうしようかと考え込んだ。Mr.Rは名前を好きに付けて良い、と言っていた。名前を付ければ情が移る。かといって、名前がないのも不便だ。

 不意にこの男がつける首輪に目が留まった。そこには『K』のアルファベットが刻まれている。

 

「……そうだな。ケイ、これがお前の名前だ」

 

 ケイ、とゆっくりと発音した。ケイは頷くこともせずに、御堂の顔を凝視している。瞬きさえしないその顔は必死で、何かを懸命に訴えかけているかのようだ。

 御堂に助けを求めているのだろう。あえてその訴えには気付かないふりをして御堂はリビングへと足を向けた。

 

「ケイ、こっちに来い」

 

 数歩歩き、振り向いて確認すれば、ケイは四つん這いで御堂の後を追う。足を伸ばせないように太ももとふくらはぎを戒める拘束具が痛々しい。

 ケイをリビングに入れると、御堂は言った。

 

「ここが君の部屋だ。自由に動いていいのはこのリビングとトイレとバスルームだけだ。それ以外の部屋は決して入らないように」

 

 犬は好きだし、いつか大型犬を飼ってみたいとは思っていたが、犬にされた人間を飼うのは想定外だ。せめて、同居が不快にならないよう、ルールは厳しく決めておいた方が良いだろう。その点では、言葉が通じるのは幸いだった。

 

「寝床はあのソファを使ってくれ。あとで毛布を持ってこよう」

 

 犬扱いといってもこれくらいは許されるだろう。

 いくら好きにしていい、と言われても、拘束されてつながれる姿を見て喜ぶ気持ちになれない。かつての自分の姿を思い出すからだ。

 御堂もかつて、拘束されて監禁されたことがある。

 当時のことが思い出されて、ずきん、と胸の深いところが軋んだ。複雑な感情がより合わさって胸に込み上げてくる。

 今まで、色々なことがありすぎた。御堂はそれに翻弄されるばかりで、どうにかこの場に踏みとどまっているが、あとひとつ、何かがあればあっという間にもろく崩れ去ってしまいそうな、そんな薄氷の上に立っている。

 その時だった。

 不意に足に温かな感触が触れた。視線を下ろせば御堂の足に腕が巻きついている。ケイがすがりつくようにして御堂の足に両腕を巻き付かせていた。

 

「私に触れるな」

 

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。ケイの身体が硬直する。冷ややかにケイを見下ろした。

 

「ケイ、一つ言っておく。私は不本意ながら君を一時的に預かることになった。正直、君とは関わりたくはないし、三ヶ月後には君を引き取ってもらうつもりだ。だが、こうなった以上、せめてこの家の中では、お互い居心地良く過ごしたいと考えている。だから、ルールはきっちり守ってもらう」

 

 そこまで言って、一度言葉を切った。ケイを強い視線で見据える。そして、言った。

 

「私に触れるな。それがルールだ」

(1)

 春の夜空はくすんで見えた。星は地上の明かりに薄められて消えかけ、夜空に浮かぶ大きく丸い月は青白く滲む。

 佐伯克哉の背中に触れる硬いアスファルトから、冷気が忍び込んできた。視界の焦点が次第にぼやけていく。暗く冷たい水の底に沈んでいくかのようだ。この暗い公園と月が、自分が目にする最期の景色なのだろう。

 感覚が消えゆく中、強い風が吹き抜け、木々をざわめかせた。そう言えば、人が死に瀕する際、聴覚は最期の瞬間まで残ると聞いたことがある。携帯の着信音が聞こえないかと、克哉は耳を澄ました。御堂が、もう一度、克哉に電話をかけてこないだろうかと。しかし、聞こえてきたのは規則正しくアスファルト踏みしめる足音だった。それはだんだんと近づいてきて、克哉の視界を黒い人影が遮った。Mr.Rだ。

 瀕死の克哉を前にしてもMr.Rはにこやかだった。助けてあげましょうか、と囁いてくる。

 

「好きにしろ……」

 

 佐伯克哉は迫り来る死を前に、そう言った。

 死ぬよりも最悪なことなんてそうそうないだろう。死が怖いわけではない。何もかもがどうでもよくなったのだ。手にしたと思ったすべてが、克哉の指の間からこぼれ落ちていった。そして今や、命までも。

 

「それでは、私の好きにさせていただきます」

 

 Mr.Rは薄く笑った。満月を背負う黒衣の男は魂の契約を持ちかけてほくそ笑む悪魔に見えた。実際、その通りなのだろう。

 そして、契約が締結される。Mr.Rはその証(あかし)に克哉に顔を寄せた。唇に冷たい重みがかかる。

 この世界の克哉は死んだ。だが、地獄はこれからだということを、この時の克哉は知らなかった。

 

 

 

 目覚めは唐突だった。

 強烈な刺激臭が、克哉を深い眠りから無理やり引きずり起こした。鼻の粘膜がヒリヒリと痛む。瞼を押し上げた途端、視界に飛び込んでくる照明の明るさに目がくらんだ。

 一体何が起きたのか、身動ぎしようとしたところで体のあちこちが硬い板のようなものにぶつかった。裸の体を不自然に折り曲げた状態で拘束され、狭いケースの中に詰め込まれていることに気付く。目は覚めても悪夢は続いているようだ。

 

「うぅ……」

 

 呻きながら顔を上げると目の前に誰かがいた。先ほどの刺激臭で鼻だけでなく目もやられていた。涙に滲む視界をそちらに向ける。目の前にいたのは長身の男だった。そして、それが誰なのか認識し、瞳孔が開ききる。

 片膝をついて克哉を覗き込むその男、のりの効いたワイシャツにスーツのベストを纏い、つややかな黒髪は一筋の乱れなく撫でつけられている。くっきりした直線状の眉の下にある切れ長の漆黒の双眸、顔の中心にあるすっと通った鼻筋と、引き結ばれた薄い唇。研ぎ澄まされた相貌は克哉の記憶にある御堂孝典と何一つ違わなかった。

 

 ――御堂……?

 

 御堂を目の前にして、すべての思考も光景も一瞬にして遠ざかった。

 何が起きたのか分からなかった。

 だが、御堂が助けてくれたのだと思った。克哉が突き落とされた地獄から。

 ……しかし、どういうわけだか、御堂は克哉を目にしても、感情の動きは乏しかった。どこか迷惑そうに眉をひそめただけだった。御堂が口を開く。

 

「私が君の新しい飼い主だ」

 ――何だって……?

 

 御堂の言葉を頭の中で繰り返す。

 何を言ったのか、何と言ったのか。

 思わず「御堂」と言いかけたその瞬間、全身に電撃が走った。

 

「お……ぐあっ、あああっ!」

 

 喉に焼け火箸を突っ込まれ、かき回されたかのような激痛。あまりの苦痛に悲鳴が跳ね上がり、途切れた。身体を大きく跳ねさせて、痛みが引くのをひたすら耐えることしか出来ない。

 ほんの数秒、あるいは数分もの時間だったかも知れない。御堂は目の前の克哉に何が起きたのか察したようで、克哉が落ち着くまで忍耐強く待つと一言、言った。

 

「犬は言葉をしゃべらないものだろう?」

 

 御堂の言葉は自分に付けられた枷を思い出させた。二本足で歩くことを封じる足枷、手を使うことを封じる手枷、そして、言葉を封じる首輪。そして、衣服は剥ぎ取られ、首輪と拘束具だけ付けられた心もとない姿だ。

 御堂は克哉が落ち着くのを待って、後ろ手にまとめていた拘束と、手を封じる革のミトンは外してくれた。だが、首輪と足枷はそのままだ。

 ようやく周りを見渡す余裕が出来て克哉は御堂の周囲へと視線を振った。克哉の予想が正しければ、ここは御堂の部屋であるマンションの一室で、AA社の近くに位置する。克哉はAA社の上のフロアに部屋を持っていて、御堂に一緒に住まないかと誘ったのだが、御堂はそれを断ってAA社近くに部屋を借りたのだ。

 克哉を犬へと貶めたMr.Rはこの場にはいない。だが、あの男が克哉をこの場に連れてきたのは間違いないだろう。そして、何故か、御堂はこんな状態の克哉を前にしても、克哉が克哉であると気付かないようだった。

 目の前の御堂の反応はいたって冷淡なものだ。克哉に向ける眼差しは困惑とよそよそしさに満ちている。

 御堂はため息と共に克哉に向けて口を開く。

 

「君と私はこれから一緒に暮らすことになる。君が賢い犬であることを祈るよ」

 ――御堂と一緒に暮らす?

 

 それは願ってもない話だった。御堂の克哉に対する態度は不自然だ。だが、少なくとも、御堂は克哉の敵ではない。そして、ここはクラブRではない。

 御堂は考え込むように小首を傾げ、そして、克哉の首輪に視線を這わせると言った。

 

「……そうだな。ケイ、これがお前の名前だ」

 

 本気で言っているのだろうか。御堂の真意を測りかねて御堂をじっと見つめるが、そんな克哉の視線から逃れるように、御堂は立ち上がった。

 

「ケイ、こっちに来い」

 

 そう言って、御堂はリビングへと向かって歩く。その後を四つん這いで付いていった。御堂の前に裸で這いつくばる状況、今までの克哉なら屈辱の極致だっただろうか、そう思えるほどの矜持はとっくに失っていた。

 動くたびに頭がガンガンと痛む。ここに連れてこられる前に投与された薬物の影響だろう。不自由な身体を持て余しながらも、リビングに入った。

 克哉は物珍しさに周囲を見渡した。膝をついた体勢で低いところから見るリビングは広く、置かれている家具も少なかった。克哉は自分の部屋に御堂を招いても、克哉は御堂の部屋を訪れることはなかった。だから、御堂の部屋は新鮮だった。御堂が言う。

 

「ここが君の部屋だ。君が自由に動いていいのはこのリビングとトイレとバスルームだけだ。それ以外の部屋は決して入らないように」

 

 そう言って、御堂は部屋の中央に置かれているソファを指さした。

 

「寝床はあのソファを使ってくれ。あとで毛布を持ってこよう」

 

 御堂の言葉は耳に入っていなかった。御堂の克哉に対する態度は、まるで見知らぬ他人に対するそれだ。

 

 ――御堂、俺が分からないのか?

 

 喋ることが出来ない以上、御堂を問いただすことも出来ない。だが、御堂は冗談でも何でもなく、本気で克哉が分からないようだった。

 克哉は穴が開くほどに御堂を見つめた。本来なら、克哉の身長は御堂と同じくらいあるから視線の高さは同じになるはずだった。だが、立ち上がることが出来ない以上、見上げるしか出来ない。跪いた状態から見上げる御堂は、身長はほぼ同じ百八十センチのはずなのに、とても大きく見えた。

 克哉の視線に気がついた御堂は、居心地悪そうに言葉を切ると咳払いをした。克哉から目を逸らし、視線を合わせようともしない。そのまま部屋から出て行こうとする。

 

 ――待て!

 

 気がつけば、克哉は御堂の両足に追いすがるように両手を回していた。その瞬間、御堂はぎくりと身体を強ばらせた。そして、凍えた声が降ってくる。

 

「私に触れるな」

 

 露骨な拒絶の態度だった。まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、克哉は怖々と御堂を見上げた。冷徹な視線が重なる。

 

「ケイ、一つ言っておく。私は不本意ながら君を一時的に預かることになった。正直、君とは関わりたくはないし、三ヶ月後には君を引き取ってもらうつもりだ。だが、こうなった以上、せめてこの家の中では、お互い居心地良く過ごしたいと考えている。だから、ルールはきっちり守ってもらう」

 

 御堂は克哉の腕を払うように、一歩前へと足を出した。そして、有無を言わせぬ命令口調で言った。

 

「私に触れるな。それがルールだ」

 

 

 

 ――何が起きた?

 

 御堂が居なくなったリビング、克哉は静かな混乱にたたき落とされていた。

 部屋から出っていた御堂はもう一度リビングに戻ると、ソファに毛布を置いて出て行った。克哉には目もくれない。

 一人取り残された克哉はリビングのベランダへと通じる窓辺へ寄った。外は夜の帳(とばり)が降りている。煌々と灯る照明がガラスに反射し、鏡のごとく克哉の顔を映した。

 そこにあるのは自分の記憶通りの佐伯克哉の顔だ。手で自らの顔を怖々と触れた。眼鏡の冷たいフレームの感触、鋭角に這った頬骨。ガラスに映るとおりの顔がそこにある。

 もしや、クラブRで過ごした時間が、克哉の人相を大きく変えたのかもしれないとも考えたが、こうして見る限りなんら変わりがないように思えた。一体どうしたというのか。なぜ、御堂は克哉のことが分からないのか。

 

 ――どういうことだ?

 

 ぼんやりと考え込みながら、窓に映る自分を眺めていると、窓の向こうに黒い人影が映り込んだ。

 

「こんばんは」

「ッ――」

 

 鍵はかけてあっただろうに、ベランダに現れた男は至極当然のように、ガラス戸を開けて克哉に向き合った。高層階の部屋のベランダ。湿気を含んだ強い風が部屋に吹き込む。その風は決して冷たいものではなかったが、克哉は身をブルリと震わせた。

 

 ――Mr.R……。

 

 黒衣をまとう長身の男、Mr.Rは克哉を見下ろした。首筋の肌が粟立つような悪寒が走る。それでも気圧されまいと目をきつく眇めて睨み付ける。

 Mr.Rは悠然とした態度で言った。

 

「どうでしょうか、新しい主人の飼い犬となったご気分は」

 

 そして「ああ……」と思い出したように言葉を付け足した。

 

「そうそう。犬のあなたは喋れないのでしたね」

 

 クスクスと笑うMr.Rを、憎悪を燃やした眼差しで射た。だが、Mr.Rはそんな克哉の態度も愉しいようで笑い含みの口調で言った。

 

「私と二人きりの間は、言葉を発することを許可しましょう」

 

 そして、パチンと指を鳴らした。どうやらそれが合図らしい。克哉は恐る恐る、口を開いた。

 

「……新しい主人とは御堂のことか」

「ええ」

「御堂に何をした?」

「何をした、とは?」

 

 とぼけたように返す男に苛立つが、この男のペースに乗らされたら、それこそMr.Rの思うつぼだ。口調を落ち着けて言った。

 

「御堂は俺のことを覚えていなかった」

「それは違います。佐伯克哉さんのことはちゃんと覚えてらっしゃいますよ」

 

 それならば、克哉に対するよそよそしい振る舞いは何だったのか。意図的にそうしているとは思えない態度だった。笑みを深めたMr.Rが言葉を続ける。

 

「正確には覚えていないのではなく、あなたが誰だか分からないのです」

「なんだと?」

「御堂孝典さんから、佐伯克哉さんに関する記憶のほんの一部、お預かりしました。あなたを預ける担保代わりに」

「俺の記憶……?」

「佐伯克哉さんの顔、声、仕草、姿形に関する記憶……すなわち、佐伯克哉さんを他者から識別するための記憶です」

「っ……」

 

 だから、昨晩、御堂は克哉を見ても反応に乏しかったのだ。御堂にとって克哉は佐伯克哉ではなく、赤の他人に見えたのだろう。そんな克哉の心の内を読んだかのように、Mr.Rは頷いた。

 

「その通りです。あなたは、御堂孝典さんにとっては見ず知らずの他人です。それも犬同然の。……まあ、この世界の佐伯克哉さんは死んでおりますしね。佐伯克哉さんの記憶が新しく形作られることもない。風化されるだけの記憶をほんの一部いただいただけのことです」

「俺が、死んだ?」

「あなたもよくご存じでしょう。むごい殺人事件の被害者となって。まことに残念なことです」

 

 Mr.Rはそう言って、さも痛ましい表情を作って胸に手を当ててみせる。しかし、その仕草も表情も大仰で、演技くさかった。

 だが、そんなことよりも、自分が死んだ、という事実に衝撃を受けた。確かに、澤村にナイフで何度も刺されたことは覚えている。それが、気がついたときには傷はどこにもなかった。Mr.Rが救ってくれたのだと考えていた。ただし、その代償は途方もなく高く付いたが。

 

「じゃあ、ここにいる俺は誰なんだ?」

「あなたはご自分を誰だとお思いでしょうか?」

「俺は、佐伯克哉だ」

「それなら、それが答えでしょう」

 

 Mr.Rはそうとだけ言って口をつぐんだ。これ以上詳細を説明する気はないようだ。

 Mr.Rは人間ではない。この世界のルールから外れた存在だ。この男はかつて、佐伯克哉の肉体にもう一つの佐伯克哉の人格を植え付けた。一人の人間から二つの人格を作り出すことが可能ならば、この男の手にかかれば肉体もまた分割することが出来るのかも知れない。だが、それよりも何よりも、聞きたいことは別にあった。克哉は、Mr.Rを見据えながら、口を開いた。

 

「お前は一体、何を企んでいる?」

 

 問い詰める言葉にMr.Rはふっ、と笑い含みの吐息を漏らした。

 

「あなたにチャンスをあげようと思ったのですよ」

「チャンス……?」

 

 Mr.Rは薄い唇を優美につり上げた。

 

「さて、私と賭けをしませんか」

「賭けだと?」

「ええ。あなたの自由をかけた賭けを」

 

 どうやらここからが本題らしい。Mr.Rはレンズの奥の金の眸を眇めた。途端に、この男が纏う闇の気配が濃くなる。

 

「犬に堕ちたあなたと御堂孝典さんがふたたび愛し合う関係になることが出来るのか、賭けてみませんか? 期限は三ヶ月、あなたを御堂さんに貸し出す期間です。もしその間に、両想いになることが出来れば、あなたの勝ち。出来なければあなたの負け。勝てばあなたを解放しましょう」

 

 愛し合う関係……。Mr.Rが口にした言葉はMr.Rには全く似つかわしくない言葉だった。それがどんな意味を持つのかこの男は知っているのだろうか。だが、その疑問は置いておいて、克哉は言った。

 

「負けたらどうなる?」

「ふたたび私の元に戻るだけ。ただし、もう二度と陽の光を見ることはできません」

「今までと変わらないと言うことか」

 

 自嘲気味に言った。この男の手に落ちてから今の今まで、陽の光など目にしたことはなかった。

 

「そうです。あなたに失うものはない。悪い賭けではないでしょう」

「……」

 

 この話をそのまま受け取るなら、Mr.Rの言葉通り悪くはない賭けだった。最悪、元の状態に戻るだけだ。だが、勝ち目はある。なぜなら、克哉は御堂の恋人なのだ。Mr.Rが克哉の顔を覗き込むようにして尋ねる。

 

「いかがです? 私の賭けに乗りますか?」

「……ああ」

 

 克哉は頷いた。Mr.Rの話を鵜呑みにすることは出来ない。この男は口調と態度は丁寧だが、どこまでも冷酷で残忍になれる。そして、その思考は人間の理解の範疇を飛び越し、何を目的に克哉に関わってくるのかも分からない。

 うまい話には裏がある。しかし、解放のチャンスを目の前にぶら下げられて、克哉に断るという選択肢はなかった。

 

「それでは、賭けの始まりです」

 

 Mr.Rは当然といった顔で賭けの開始を宣言した。そして、ふと思い出したように言った。

 

「あなたは人魚姫の話をご存じですか?」

 

 人魚姫……ハンス・クリスチャン・アンデルセンの有名な童話のことだろうか。Mr.Rは頷く。そして、恍惚に浸るかのようなうっとりとした表情をした。

 

「私はあの話が大好きなのですよ。王子に愛されたくて、命をかけて人間の姿を得たにもかかわらず、その想いは報われず、海の泡(あぶく)となった人魚姫。哀れで悲しい運命だと思いませんか? ですが、それだけに愛おしい」

「その人魚姫が俺だと?」

 

 なぜ突然こんな話をしだしたのか、克哉は察して言った。

 となると、王子は御堂だろうか。声を失い喋ることが出来ない点では克哉は人魚姫と一致しているのかも知れない。そして、王子が目の前の女性が自分を助けた人魚姫だと分からなかったように、御堂が克哉を克哉だと分からない点でも。

 ふふ……、とMr.Rは肯定代わりに微笑んだ。

 

「果たして、あなたがどのような物語の結末をみせてくれるのか、楽しみにしております」

 

 そう言ってMr.Rはガラス戸を閉めると、来たときと同じようにベランダの闇へと紛れて消えていった。

 ふたたび部屋に静けさが戻る。

 

 ――人魚姫、か。

 

 童話『人魚姫』の話はこうだ。

 海の深いところにあるお城に住む人魚姫は十五になった誕生日、始めて海の上に出ることを許される。そこで船に乗る王子に恋をした。王子を恋い焦がれる人魚姫は魔女に頼み、美しい声と引き換えに人間の姿を手に入れる。だが、魔女は言った。『もしお前が王子と結婚できなかったら海の泡となるだろう』

 そして、この物語の結末は誰もが知っている。人魚姫は嵐で海に投げ出された王子を助けるも、王子は浜辺であった別の娘を命の恩人だと思い込み、その娘と結婚するのだ。そして、人魚姫は海の泡となった。

 人魚姫は海の泡となり、天へと召された。だが、克哉の場合は天ではなく地の底に堕ちるだろう。

 この話の結末を変えるためには、どうにか御堂に自分が佐伯克哉であることを気付いてもらわないといけない。そのためには何が必要だろうか。

 ひとりきりのリビングで克哉は忌々しく舌打ちをした。

 

 

 

 翌朝、寝室のドアが開く音が聞こえ、克哉は目を覚ました。少ししてパジャマ姿の御堂がリビングに現れた。

 御堂はソファの上のケイを見て、不審な侵入者を目撃したかのようにギョッとした顔をしたが、コンマ数秒後にことの顛末を思い出したらしい。克哉から視線を外すと、眉間にしわを寄せたまま、リビングを横切ってバスルームへと向かっていった。

 シャワーの音が聞こえ、しばらくするとバスローブを纏って戻ってくる。克哉は毛布を被ったまま起き上がった。御堂はちらりと克哉を見たが無視してキッチンへと向かう。そして冷蔵庫を開けると何やら取り出してリビングに戻ってきた。ソファ近くのセンターテーブルに持ってきたものを置いて、ようやく克哉へと顔を向けた。

 

「おはよう」

 

 返事をしたいが、それをすればどうなるか身に染みて分かっているので視線を合わせて頷き返す。御堂は克哉から、すい、と視線を外して言った。

 

「すまないが、私は外食メインだったから、君の食事の用意が出来ない。少しの間、これで我慢してくれないか」

 

 そう言われて、やっとセンターテーブルの上に置かれたミネラルウォーターのペットボトルと栄養補給用のゼリー状飲料が、自分のための食事だと知った。

 克哉は礼代わりに御堂に微笑み返し、そして困ったように首を傾げると御堂に両手を出した。その仕草に御堂はハッと気付いたようだった。

 

「そうか、このままでは無理だな」

 

 克哉の言いたいことを汲み取ったようで、御堂はペットボトルとゼリー状飲料のキャップをひねって開けた。克哉の指はずっと曲げることを強要されていたせいで指関節が強ばり、伸ばすことが出来ない。出来ることと言えば、せいぜい大きなものを両手で掴むくらいで、指を使った巧緻な作業はとても無理だ。

 御堂はすべてのキャップを開けると、克哉には目もくれずさっさと自分の身支度を済ませる。そして「仕事に行ってくる」と言い置いて慌ただしく家を出て行った。

 ぱたん、とドアが閉まる音がして、一人、部屋に取り残される。

 しんとした静寂が克哉を取り囲んだ。リビングに満ちる暖かな日差しに目を細める。これほどゆっくり休めたのは久々だった。そう、自分が殺されて以来だ。

 克哉はペットボトルを手に取った。指を伸ばそうとすると痛みが走る。だが、たった一晩でも指は幾分動かせるようになっていた。ぎこちない手つきでペットボトルに口を付ける。先ほどまで冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターは、ひんやりとしておいしかった。乾きを潤すと克哉は部屋を見渡した。二十畳近くあるリビングは広く、しっかりと空調が効かせてあって、熱くもなく寒くもなかった。

 さて、どうしたものか。

 御堂に自分が佐伯克哉であることを伝えなければならない。言葉を封じられている克哉がどうやって御堂にそれを伝えるのか。筆記しようにも、まだペンを握ることさえままならない。

 

 ――それにしても……。

 

 克哉は自分の身体を確認した。Mr.Rに付けられた首輪と拘束はそのままだが、御堂は克哉が逃げ出さないように拘束することもなければ、いたぶることもなかった。それどころか、革のミトンを外し、克哉の手を使えるようにしてくれた。

 犬に貶められた人間を飼うような人物は、大抵、加虐的な性癖の持ち主だ。クラブRよりもひどい目に遭う可能性さえあった。抵抗できない相手に対して絶対的な立場に立てば、理性的な人間でさえ嗜虐心を刺激される。だが、御堂はそんな素振りを見せるどころか、克哉に触れようとさえしない。

 多分、御堂は克哉に対して手酷い扱いが出来ないのだ。なぜなら、その行為は、御堂に思い出させてしまうからだ。かつて自分がどのような仕打ちを受けたのか。御堂の中には、深く刻まれている忌むべき記憶がある。

 

 ――そうだ。手っ取り早い方法があるじゃないか。

 

 克哉は唇の端をつり上げた。

 

 

 

 

 その日、御堂が帰ってきたのは夜九時を回った頃だった。

 

「すまない、遅くなった」

 

 そう言いながら、リビングに入ってきた御堂はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた。すっきりとしたうなじに一筋の乱れもない黒髪に上品なスーツが映える。御堂が纏うスーツはオーダーメイドだと一目で分かる最上の仕立てで、洗練された振る舞いと相まって、御堂を近寄りがたい存在に押し上げている。対する克哉は裸で首輪を巻かれた犬の姿だ。それがそのまま二人の立場の差を表していた。

 御堂は「遅くなった」と言うが、ワーカーホリックを地で行く御堂だ。この時間に仕事を切り上げるためには相応の努力が必要だっただろう。

 仕事帰りの御堂の姿を見て、克哉はふと思い出した。

 そういえば、AA社はどうなったのだろうか。すっかり意識の外に追いやられていたが、克哉はAA社の社長で、克哉不在の今、御堂がAA社を切り盛りしているはずだった。今は御堂が克哉の代わりに社長を名乗っているのだろうか。

 

「今夜はこれで我慢してくれ。君の食事は早めに何とかする」

 

 そう言いながら御堂は、キッチンに向かい手に持っていたコンビニの袋から弁当を取り出した。どうやら、御堂はコンビニで夕食を調達したようだった。

 

「ケイ?」

 

 御堂がリビングへと顔を向ける。

 克哉はじっとソファの上で毛布を被って寝入っている振りをしていた。呼びかけに反応がないことを不審に思った御堂が、ソファへと歩みを寄せる。

 

「どうした? 寝ているのか?」

 

 そう言って、背を向けるケイの顔を覗き込もうと上体を深くかがめた。その瞬間を狙って、克哉は御堂に襲いかかった。御堂のワイシャツの合わせに手を引っかけて強く引く。バランスを崩した身体をソファに倒し、馬乗りになった。手足を十分に使えない分、体重をかけて押さえ込む。

 

「よせっ!」

 

 御堂の目が驚愕に見開かれ、克哉の身体の下で必死にもがく。御堂の顔が恐怖に色を失った。克哉はにやりと悪辣に笑った。

 かつて御堂は、自分の部屋のソファで克哉に陵辱された。その時の出来事を再現すれば、ケイが誰だか分かるだろう。佐伯克哉の記憶は失っていない。当然、克哉との馴れ初めも記憶に刻みつけられているはずだ。

 

 ――さて、どうしようか。

 

 馬乗りになって御堂を見下ろした。犬と飼い主の立場はいともたやすく逆転する。たっぷりと自分が誰だか思い出させてやろう。嗜虐の笑みと共に御堂の服に手をかける。

 だが、克哉の思惑通りにはいかなかった。御堂が叫んだのだ。

 

「ケイ、お仕置きだ(I’ll punish you)!」

 

 耳にしたのは英語のフレーズだった。その瞬間、克哉を電撃の鞭が打ち据えた。

 

「――ッ! ぐぁっあああっ」

 

 身体を大きく跳ねさせてソファから転がり落ちる。筋肉が強ばり、喉を締め付けられたように息が出来なくなった。一体何が起きたのか。訳が分からずに荒い呼吸を繰り返す。

 床の高さの視線に御堂の足先が見えた。ソファから立ち上がった御堂が克哉を冷たく見下ろす。御堂を包む気配が変容していた。

 御堂が口を開く。

 

「君の首輪は意味を持つ言葉に反応して電流を流す。それは、君の言葉だけではない。他の人間が口にする特定のワードにも反応する。Mr.Rに聞いておいて良かった」

 

 ようやく理解した。御堂が口にした「お仕置きだ(I’ll punish you)」が電撃を発動するスイッチになっていたのだ。

 まさかそんな仕掛けがあったとは知らなかった。だが、そんな安全装置があるからこそ、御堂は克哉にある程度の自由を与えていたのかも知れない。それに気付かなかったのは克哉の落ち度だ。そして、取り返しの付かない事態へと自分を追い込んでしまった。凍えた汗が背筋を伝った。

 

「Mr.Rに言われたとおりだな。しっかりと主従関係を教え込まないと、主人に噛みついてくることがあると」

 

 身体を動かせず、ぜいぜいと息を荒らげる克哉の傍らに御堂はかがみ込んだ。御堂は剣呑な光を孕んだ双眸で克哉を見据え、どこまでも冷酷な口調で言う。

 

「残念だ、ケイ。君は愚かな犬のようだな」

 

 言い訳も謝罪の言葉も克哉には封じられていた。

 

 

 

 

 一度自由になった両手はふたたび、後ろ手に手錠で戒められる。床に尻をついた体勢で足は大きく広げられ、金属のバーに足首を固定された。まったく身動きの取れない状態にされ、克哉は呻いた。

 

「ぐ……」

「すっかり萎えてしまっている」

 

 御堂はくたりと萎えた克哉のペニスを指でつまんだ。剥き出しになった股間を遠慮のない手でまさぐられて、鋭く息を呑む。御堂は、吐息で笑うと、ペニスを掴んでいた手を離し、どこからか赤い液体が入ったガラスの薬品瓶を持ってきた。

 

「っ!」

「これは、君の躾に使えと渡された」

 

 それを目にして克哉は青ざめた。

 それは絶対嫌だった。克哉の正気を奪う。

 堪えようにも身体が細かく震え出す。それでどれほどいたぶられたか、身体がしっかりと覚えているのだ。Mr.Rは周到だった。克哉を犬として調教するための様々な道具と情報を御堂に与えていたのだ。特に、御堂が手にする液体は媚薬だった。だが、単なる媚薬ではない。Mr.Rが使っていたそれは、克哉を気が狂うほどの快楽に引きずり込む。

 

 ――やめろ!

 

 声を出すことが出来ないので、必死に首を振る。だが、御堂はかまわず、金属の細い棒を手に取った。尿道ブジーだ。

 

「こうされるのが好きらしいじゃないか」

 

 そう言いながら、克哉の目の前で薬品瓶を傾け、ブジーにとろみのある液体を伝わらせた。

 

「君はこらえ性がないらしいからな。これで栓をしろ、と言われた」

 

 御堂は、す、と目を眇めた。克哉のペニスを掴み、亀頭を指で固定する。押しつぶすようにして尿道口を開かせると、つぷり、とブジーの先端を潜り込ませた。

 

「ぁ、く、あああっ」

 

 涼やかな顔をしながら容赦のない仕打ちを行う御堂に恨みがましい視線を向けたもつかの間、金属の異物が克哉の尿道に深く侵入してくる。

 カッと尿道が熱くなる。その熱は瞬く間に全身に広がり、克哉を内側からあぶり出した。

 

「く……ぁ、よせっ! ……ああああっ!」

 

 拒絶の声を上げた瞬間に電撃に鞭打たれる。目を剥き、身体を強ばらせて痙攣した。御堂があきれたようにため息を吐いた。

 

「懲りない男だな。……だが、これ以上、君が電流で苦しむ姿は見たくない」

 

 優しげな素振りで御堂はギャグボールを取り出すと克哉の口に嵌めた。呼吸用の穴が開いているが、これでは開きっぱなしの口から涎がダダ漏れになるだろう。そう、まるで犬の様に。

 いまだ電撃のダメージから回復できず、ぐったりと伸びた克哉は御堂のなすがままだった。

 御堂はブジーを根元まで埋め込むと、細いベルトを手に取った。それをペニスの根元から先端まで巻き付ける。赤く腫れ上がったペニスをベルトできつく締め付け、射精を封じられる。

 

「あとは、これだ」

 

 最後に御堂はアナルパールを手にした。大小さまざまな玉が連なるアナルパール。それにもたっぷりと媚薬を塗りつける。

 

「ふぁ……んんっ!」

 

 先端の小さな玉が、媚薬のぬめりを借りてぬぷっと克哉の中に潜り込む。アヌスを閉ざそうにも、電撃に痺れて動けない身体はいともたやすくアナルパールの侵入を許した。ひとつ、またひとつとパールが深く入ってくる。パールが柔らかな粘膜に触れた端から、粘膜を熱く燃え立たせた。ひときわ大きな玉がぐぷりと克哉のアヌスにはまり込む。アナルパールを克哉の奥まで収めて、御堂はそのスイッチを入れた。克哉の体内でアナルパールがうごめき出す。

 

「――ッ!! ふぁっ、は、ぁあああ!!」

 

 あまりにもおぞましい感覚が克哉を抉り抜く。ギャグボールで口を塞がれていなかったら絶叫を上げていただろう。

 不自由な身体を仰け反らし、腰を卑猥に跳ねさせながらバイブの刺激から逃れようとする。そのたびに戒められたペニスが弾み、尿道ブジーが中を抉る。

 壮絶な絶頂感に襲われるが、精液をせき止められて終わることが出来ずにのたうつ。

 悪夢のような快楽と苦痛のループから抜け出すことが出来ない。

 助けて欲しいのに御堂は、しばし克哉を眺めた後、すっと立ち上がった。冷淡な口調で言う。

 

「しばらくそうしていろ。自分の立場が分かるまでだ」

 

 自分がどれほど御堂を怒らせたのか思い知る。だが、釈明の言葉も謝罪の言葉も口にすることは出来ない。

 それどころではなかった。

 次々に快楽が弾ける。何度も達しては達しきれず、強制された快楽に貫かれた状態であえぎ続ける。ギャグボールを噛まされた口からは涎が垂れ続けた。

 どれほどの時間が立ったのだろう。永遠にも似た長い時間に感じたが、実際はそれほどでもなかったのかも知れない。ギャグボールの隙間から漏れる悲鳴が掠れ、支えきれない頭が落ちる。反応する体力が尽きたところで、御堂の声が聞こえた。

 

「ケイ?」

 

 朦朧とした意識で声が聞こえた方向に意識を向けた。

 

 ――御堂……。

 

 顎を掬われて涙と涎にぐしゃぐしゃになった顔を上げさせられた。定まらない焦点に視界はぼやけたままだ。

 

「ぅ……」

「反省したか?」

 

 問われる言葉に頷いた。頷くと言っても顎を掴まれていて、頭を動かす気力もなく、かすかに頭を震わせただけだったが、御堂にはそれを克哉の反省の意と受け取ったようだった。

 御堂の手が戒められたペニスに伸ばされる。ペニスに巻き付いた細いベルトが外され、尿道の栓をしていたブジーを引き抜いた。

 

「っ、ん――ッ」

 

 尿道から異物を引きずり出される感覚に悶えうつ。ブジーが抜けると、後を追うようにどろりと精液があふれた。

 ようやく許されるのだ。

 涙に潤んだ眸を御堂に向けた。ぼやけた滲んだ視界に御堂の顔があった。

 克哉を見る御堂と視線が重なった。

 

 ――……?

 

 御堂の顔からは感情が読み取れなかった。無表情ではない。複雑な感情がより合わさった結果、表面から感情がそぎ落とされてしまったように感じた。

 ただ、眦がほんのり赤く染まり、克哉に向けられた瞳孔がいつになく拓いていた。御堂がこくりと唾を飲み込んだ。形の良い喉仏が上下に動く。

 

「っ……」

 

 不意に、御堂の手が克哉の肩に掛かった。強く掴まれて、力任せに身体をひっくり返される。

「ぁ……っ」

 

 床に頬と肩をつけた状態で、腰を高々と掲げる体勢にされた。

 克哉の背後に回り込んだ御堂の手がバイブにかかった。ずるっと引き抜く。粘膜を擦り上げられて、身体をびくんと跳ねさせた。その刺激に反応して、ペニスからとぷんと精液が吐き出される。ほころびきったアヌスは、外気に触れてヒクヒクと粘膜を痙攣させた。

 御堂の大きな手が克哉の腰を鷲掴みにした。そして、バイブの代わりに、熱い脈塊が体内に押し入ってきた。

 

「はぁっ、あああああっ!」

 

 くぐもった悲鳴が漏れる。

 御堂に犯されている、そう理解するまで時間がかかった。御堂は先端を埋め込むと、中の感触を試すように二三度行き来させたあと、一気に奥まで貫いてきた。

 

「ひっ、ぁ、ああっ」

 

 潤みきった粘膜は圧倒的な嵩を持つペニスを拒むことはなかった。御堂は無言で腰を使い始める。御堂の生々しい欲望を体内に感じた。

 全身の血液が沸騰しそうなほど熱くなり、頭の中が焼け爛れる。

 御堂が腰を打ち付けてくる度に、遠のきかけた快楽が呼び戻される。

 媚薬に浸され続けた身体は御堂に犯されることを悦んでいた。精液がとろとろとペニスの先端から流れ続ける。

 御堂はたくましく動き、克哉の中を抉り、深いところを拓いていった。奥を突かれて、意識が遠のきかけるが、抽送の度に現実に引き戻されて御堂に抱かれていることを自覚させられる。

 こんな風に、御堂は俺を抱くのか。

 悦楽で白んだ思考の片隅でぼんやりと思った。奥深いところで感じる御堂の硬さと熱さ。

 やめて欲しいはずなのに、あまりにも苦しくて、気持ちがよくて、自然と足が開き、御堂へと腰を突き出していた。

 

「貴様は犬だ」

 

 荒げた呼吸と共に、嘲る声が降ってくる。

 

「男に犯されて尻尾を振って悦ぶような犬なんだ」

 

 それは克哉に向けられた言葉でありながら、自分自身をそう納得させようと自分に言い聞かせている声にも思えた。

 終わらない愉悦の波にもみくちゃにされる。

 御堂がひときわ強く突き入れ、腰を震わせた。奥深いところに吐き出される精液の感触に感じ入りながら、克哉は意識を手放した。

(2)

 この夜も、御堂孝典は夜遅く家に戻ると、リビングのドアを開けた。リビングの電気はケイのためにずっと付けっぱなしにしてある。

 

「ただいま」

 

 そう声をかけたが、返事はない。ケイの姿はソファの下にあった。毛布を被って丸まるように横になっている。

 

「ケイ、夕食だ。あとで食べなさい」

 

 そう言って、寿司折をセンターテーブルに置いた。包み紙のリボンを外し、簡単に開けられるようにしておく。ケイは、返事はもちろん、毛布から顔さえ出そうとしない。

 朝、リビングのセンターテーブルに置いた食事はいつの間にかなくなっていたので、御堂のいないところで食事は食べているのだろうが、御堂がいる間は気配を消すようにして身動きひとつしない。

 御堂はそんなケイの態度に感慨もなく、スーツのジャケットを脱ぎハンガーにかけた。

 ケイへの仕置きは相当心身に堪えたらしい。ケイはあれから三日間、ほとんど起きて来なかった。ソファの上に登る気力もないようで、ソファの下の床に敷かれたラグの上で毛布にくるまってじっとしている。

 だが、あの仕置きだけが原因ではないことは御堂が一番分かっていた。あの夜から、御堂はケイを抱くようになった。

 抱くと言っても恋人同士が行うような甘い行為ではない。セックスとも言えない、感情を伴わない殺伐としたものだ。

 あの夜、突然、ケイは御堂に襲いかかってきた。とはいえ、ケイは、足を拘束され、手も自由に動かせない。もう少し御堂に冷静さがあれば、もっとマシな対処が出来たはずだ。

 だが、その時の自分は完全に動揺し、逆上した。ソファで襲われたあの瞬間、かつての悪夢が蘇ったのだ。自宅のソファで佐伯克哉に陵辱された、二度と思い出したくない記憶だ。そこからの記憶は曖昧だ。恐怖からの怒りに我を忘れたのだ。

 御堂はケイに紳士的に接しようとした。だが、そんな御堂の気遣いをケイは最悪な形で踏みにじった。飼い主に噛みつこうとする犬は、当然、きつい仕置きをすべきだ。そんな短絡的な思考でMr.Rから渡された躾用の道具を用いて、ケイを徹底的に折檻した。

 結局のところ、御堂はケイを見くびっていたのだ。ケイは犬に貶められたとはいえ、元は人間だ。隙を見て逃げるつもりだったのかも知れないし、自分をこうした恨みを晴らしたかったのかも知れない。御堂はそんなことを気にもかけずに、薄っぺらな憐れみから、ケイのミトンを外して手を自由にし、鎖につなぐこともしなかった。その油断がケイの反乱を誘ったのだろう。

 こうやって落ち着いて振り返ってみれば、御堂にも非があることが分かる。Mr.Rからあれほど念を押されたのにも関わらず、御堂が犬の飼い主としての自覚がなかったから、ケイに付け入る隙を与えたのだ。

 媚薬を使われ玩具でいたぶられたケイは、凄絶な色香を纏っていた。怜悧な相貌は蕩け、猛禽のような鋭い眸は涙で潤み、眦に朱が滲む。性的な嗜好目的で犬として調教された男が発情し、全身から淫蕩な気配を発していた。

 気が付いたら、ケイを床に這わせて背後から犯していた。ケイの粘膜の中に押し入った途端、全身を獰猛な興奮に包んだ。理性はどこかに消え失せて、そこからは本能のままに腰を打ち付けていた。中に突き入れる度にケイが苦しげに呻き、ギャグボールから涎が溢れた。だが、ケイが感じているのは苦痛だけではないことが分かる。ケイのペニスは粘液を涎のように垂らし続け、不自由な四肢をぴんと突っ張らせては絶え間ない絶頂に呑み込まれていた。

 そして、気を失ったケイを前にようやく我に返った。

 目の前に倒れるケイの肌には情交の痕が色濃く残っている。蹂躙された場所から御堂が放った精液が内腿を伝い落ちていた。

 

「……っ」

 

 自分が何をしたのか目の当たりにして、御堂は息苦しさにシャツの胸元を掴んだ。胸には今しがたの興奮の余韻が残っている。

 こんな風に、ふたたび誰かを抱くときが来るとは思っていなかった。

 佐伯克哉に出会って、抱く側から抱かれる側に無理やり変えられた。それでも、愛し愛される行為なら、抱かれる側でも良いと思った。もう二度と誰かを抱くことはないだろう、そう思っていたのに、ケイを前にして、御堂はあっという間に雄としての本能を取り戻していた。

 ひどいことをしたと思う。だが、これを境に、二人の関係は決定的に変わってしまったのだ。

 御堂はソファへと歩みを寄せた。冷ややかな眼差しで毛布を被ったケイを見下ろすと、御堂の気配を察したのか、足下でケイがびくりと動く。寝ているわけではないようだ。息を殺して御堂の動向をうかがっている。御堂はネクタイを緩めると、一言、言った。

 

「ケイ、ソファに上がれ」

 

 御堂の言葉に反応し、毛布がのそりと動いた。ケイが毛布から這い出てくる。くせの強い明るい色の髪は寝乱れていたが、ケイの美しさを損なうものではなかった。ケイを犬に貶める首輪も、足枷も、見る者の嗜虐心を煽るという点ではよく似合っていた。

 ケイはゆっくりとソファへと乗り上がる。気だるそうに見える動きは、御堂を恐れているのか嫌がっているのか、おそらくその両方だろう。ケイはちらりと御堂へと顔を向けたが、視線が合うよりも早く、御堂は顔を逸らした。

 ケイはソファに上がると、何も言われないうちから四つん這いになり、御堂に尻を向けた。ソファの肘おきにしがみつくようにして顔を伏せる。これから何が起きるのか分かっているのだ。

 すらりと伸びた四肢に引き締まった体躯。とても従順とは言えないが、御堂に逆らうことが出来ない犬。

 御堂は床に落ちている毛布を拾い上げるとケイの肩から頭に被せた。これで、ケイの顔を見なくて済む。

 

「足を開くんだ」

 

 御堂の言葉に閉じかけていた膝がそろそろと開く。会陰部を晒すようにして御堂に向けられた尻、その薄い尻の切れ込みに御堂はローションを垂らした。

 

「――ッ」

 

 その冷たさにビクンとケイの身体が強ばった。ローションが尻のあわいを伝い落ちる。御堂はしたたるローションを指に取るとケイのアヌスへと指を伸ばした。反射的に硬く閉ざそうとするアヌスを指でくじく。ローションのぬめりを借りて中へと含ませた。

 

「ぅ……っ」

 

 粘膜の浅い場所をぐるりと指で探るようにかき回した。連日の行為でケイのアヌスは指一本なら容易に受け入れる。あまり時間をかける気はない。御堂は指をもう一本ねじ込み、左右に開くようにして粘膜を抉じ開けた。その指を引き抜くとケイの腰がガクリと落ちた。

 そういえば、Mr.Rから渡された道具の中に尻尾付のアナルプラグがあった。それを使うのも良いかも知れない。手間が省ける。

 そんなことを考えながら、御堂はズボンの前をくつろげる。ベルトのバックルの音に、ケイの身体が強ばるのが分かる。

 御堂はアンダーをずりさげて、自分のペニスを軽く擦り上げた。ペニスはすでに反り返り十分な硬さを持っている。無言でケイの腰を掴み、先端をあてがった。

 怯えて逃げようとする腰をぐっと自分の方に引き戻す。先端に圧がかかった。そのまま自身の腰を押しつけるようにして、ぬぷりと、粘膜の中へめり込ませていく。

 

「ぁ、く――ぅ」

 

 解し方が足りなかったのか、毛布の下から苦痛の呻きが漏れた。それを無視するようにして、御堂は浅いところを何度か行き来して中の感触を確かめると、奥の粘膜を押し広げるようにして腰を進めていった。

 背中に覆い被さるようにして、深々と貫く。ケイの臀部に肉を押しつぶすようにして根元まで収めると今度はぎりぎりまで引き抜く。

 内臓を押し上げられて、ケイの呼吸が浅くなり、跳ね上がった。

 毛布の下のケイの頭が動く。肩越しに御堂を振り返ろうとするかのようだ。御堂はとっさに毛布の上からケイの頭を押さえ込んだ。息苦しさにケイがあえぐ。

 

「あ……くあっ」

「黙っていろ」

 

 それだけ告げて御堂は腰を振り立て始めた。相手のことなど気にかけず、自分の快楽だけを最短距離でたどるかのように、腰を打ち付ける。

 ケイの粘膜がうねり、たたきつける度に御堂を絞るように妖しく波打つ。御堂の激しい動きが辛いようでケイが苦しげに身体を震わせた。頭を押さえ込んでいた手を離した。腰を掴み直し、犯しやすい角度に合わせて自分の絶頂へと意識を向けた。ケイは歯を食いしばっているのか声にならない声を上げても、御堂の命令通り、動かないようにしてひたすら耐えている。

 声を上げるな、顔を見せるな、そして、御堂を見るな。

 これが、御堂がケイに与えた命令だ。

 それだけでは安心できなくて、ケイの頭に毛布を被せ、毎回犯している。そうすれば、ケイの顔を見なくて済むからだ。

 

「っ……」

 

 快楽が弾ける。御堂は低く唸るようにして腰を揺すり上げるとケイの中に放った。びゅくりとペニスがケイの中で跳ね、あらかた出し終えると細かく腰を震わせて、最後の一滴まで絞り出す。そうしてようやく腰を引いた。満足したペニスをずるりと引き抜き、つながりを解く。ケイの身体がソファに落ちる。ケイのペニスは先走りで塗れていたものの、半勃ちのままで達した形跡はない。だがそんなことはどうでもよかった。御堂はケイから目を逸らし、ソファから降りるとバスルームへと向かった。シャワーを浴びるためだ。

 絶頂後の余韻と倦怠感に身体がぼんやりと浮ついている。

 熱めのシャワーを頭から浴び、念入りに汗と快楽の残滓を流した。頭が冴え、胸に満ちる高揚が冷めてくると、罪悪感が顔を覗かせた。

 御堂はケイを犬扱いどころか道具扱いしている。性欲を発散するための道具だ。

 克哉が殺されてから、必死に自分の感情を抑え込んで仕事に没頭する振りをしていた。少しでも気を抜けば、あっという間に押しつぶされてしまいそうで、張り詰めた緊張の糸をたゆませることなく、自分を奮い立たせてきたのだ。そのストレスをケイにぶつけているのだ。

 ケイを自分と同じ人間だと思ってしまうとひどいことが出来なくなる。だから、顔を隠して、声を出せないようにして、手酷く犯している。

 かつて、御堂は克哉に無理やり自由を奪われて陵辱された。

 だが、自分も克哉と同じ立場に立てば、容易に同じような行為に手を染めてしまうのだ。自分がそれでどれほど苦しめられたか分かっているのに。

 あえて気付かないようにしてきた、自分自身の暗く淀んだ部分を見せつけられる。

 それもこれも、ケイが自分を狂わせるのだ。

 ケイは犬の立場に堕とされているが、本来なら支配する側であろう品格を纏っている。生まれながらの奴隷ではないはずだ。何か取り返しの付かない失敗をして、支配する側から支配される側に落ちぶれたのだ。

 だからこそ、そそられる。取り澄ました顔が屈辱にゆがみ、無力感に打ちひしがれる姿を見たくなる。欲望の赴くままに蹂躙し、この男を征服し、汚したくなる。普段なら決して表に出すことが出来ない暗澹とした欲望をこの男にぶつけたくなるのだ。そして、それが許されるのだ。それはこの男が人権などない犬だからだ。

 御堂に逆らうことは許されず、生殺与奪さえも御堂に握られている。それを利用して御堂はケイに無理強いをしている。それを分かっているのに自分を止めることが出来ない。

 先ほどの行為で無惨に蹂躙されたケイの身体を思い起こしそうになり、御堂は顔を手できつく擦った。

 

「最低だな、私は」

 

 呟いた声はシャワーの水音に紛れ、流されていった。

 

 

 

「はあ……」

「お疲れですか、御堂さん?」

 

 夜のAA社、執務室のデスクで無意識に吐いたため息を藤田に咎められた。

 藤田は先日終えたコンサルティングのレポートの内容を確認し、ファイルに片付けている。

 

「いや、やっと一件片付いたと思って、な」

「あと残るのは月天庵だけですよね」

「ああ、これが終われば一段落だ」

 

 御堂はオフィス内を見渡した。退社時間も過ぎて、オフィスに残っているのは藤田と御堂だけだ。だが、社員たちのスペースを見れば、使われていないデスクも目立つ。コンサルティングと平行して少しずつ人員整理も進めているのだ。克哉がいたときは活気に溢れていたオフィスだったが、今は広いばかりで侘しさが際立つ。御堂は藤田に顔を向けた。

 

「……君をわざわざMGNから引き抜いたのに、こんなことになって、すまないな」

「そんなこと言わないでくださいよ」

 

 藤田は曇りのない笑顔で、御堂の謝罪の言葉をさらりと流した。

 

「短い間でしたけど、佐伯さんや御堂さんと一緒に働けて嬉しかったです」

「そうか。私も君と、また仕事が出来て良かったよ」

 

 終わりを意識した言葉に、自然と二人の視線が空席のデスクへと向いた。社長用のデスク、克哉が殺されてからは空席になっている。藤田がぼそりと呟いた。

 

「俺、犯人は絶対にあのクリスタルトラストの澤村だと思うんですけど……」

「……」

 

 御堂は黙ったまま返事をしなかった。

 藤田が口にした犯人とは言わずもがなの克哉を殺した犯人のことや。克哉が殺されて真っ先に疑われたのは澤村紀次だ。重要参考人として事情聴取もされている。御堂も澤村が犯人だと確信していた。何よりも澤村には動機があった。怒りで我を忘れた克哉に、澤村は御堂の目の前で強姦されたのだ。

 だが、澤村にはアリバイがあった。警視庁にいる御堂の大学時代の同期にそれとなく聞いた話では、克哉が殺された時間、澤村は都内のバーで飲んでいて、その姿が店の監視カメラにしっかりと録画されていたらしい。警察はそのアリバイを崩すことが出来ず、澤村は容疑者から外れた。かといって、他に犯人と目される人物も見つからず、事件は迷宮入りしかけていた。

 今回の事件では御堂もまた容疑者として疑われていた。事件直前、御堂と克哉は決裂状態だった。その不仲は周りにも明らかだったのだろう。当初疑われたものの、御堂は退社後マンションに帰る姿がマンションの防犯カメラに録画されていて、また事件が起きた直前くらいに対面で宅配便を受け取っていたこともあり早々に容疑者リストから外れたのだ。

 AA社は代表取締役社長である克哉の手腕によって起業直後から破竹の勢いで業績を上げ続けたコンサルティング会社だった。だから克哉が殺された後、羨望や嫉妬がそのまま跳ね返ったかのような風評被害も受けた。まるで、被害者側に落ち度があると言わんばかりだ。

 御堂はすぐさま社員を集めて今後の方針を話し合った。現在進行中のコンサルティングはクライアントから中止の申し出がない限りは、やり遂げること。新規の依頼の引き受けは中止すること。そして、コンサルティングをすべて片付けたらAA社を整理すること。

 幸い、AA社の経営は順調だったこともあり、利益剰余金でAA社設立時の負債はすべて相殺でき、なおかつ、社員にそれなりの退職金を支払う余裕もあった。

 御堂の言葉に社員は動揺していたが、反対意見はなかった。誰もが、克哉不在でAA社を継続できるとは思わなかったのだ。

 こうして、事業を縮小しつつ、コンサルティングをひとつひとつ丁寧に取り組み、現在残すは月天庵のみになった。月天庵は、克哉が殺害される直前に手がけていた案件で、これがきっかけとなってクリスタルトラストの澤村と対立を招いたのだ。月天庵自体は、克哉が提案した企画や業務改善計画のおかげで業績は大幅に改善していた。しかし、依頼はまだ完結していない。最後に、利便性が悪く手狭な工場の移転を行って終了となる。そのための移転候補地の選定をAA社は任されていた。だがそれも、最終候補地が決定し、月天庵側もその場所を気に入ったため、あとは正式な売買契約を残すのみだ。その契約が済めば、コンサルティングはすべて完了し、AA社も廃業となる。

 沈みかけた場の雰囲気を断ち切るように、御堂はちらりと腕時計に視線を留めて、言った。

 

「藤田、今日はもう帰って良いぞ」

「分かりました。あ、でも御堂さんは?」

「心配しなくて良い。私も書きかけのメールを書いたら帰る」

 

 御堂一人残業するのでは、と気遣う声に御堂は苦笑して言った。藤田は安堵したように笑みを返す。

 

「それなら良かったです。御堂さん、最近はちゃんと家に帰っているようで安心しました」

「何?」

「心配していたんですよ。御堂さん、AA社に住み込む勢いで仕事されていましたから」

 

 何かやましいことを見透かされたかのように、御堂はぎくりと身を強ばらせ、慌てて表情を取り繕った。

 藤田が指摘したとおりだ。

 克哉が殺害されてから、その穴埋めのためにほぼ一日中AA社に籠もって仕事していた。家に帰るのは夜が明ける頃になるのもしばしばで、シャワーと着替えのためだけに帰宅していた。それが、ここ最近はある程度のところで目処を付けて仕事を切り上げ、家に帰るようにしていた。原因は明らかだった。ケイがいるせいだ。

 最近の御堂の変化は藤田でも分かるほどに、あからさまだったのだろうか。

 御堂はパソコン画面を見入る振りをしつつ、さりげなさを装って言った。

 

「……実は、ペットを飼いだしてね」

「へえ、ペットですか!」

「犬だ。諸事情で少しの間預かることになってな」

 

 なるほど、と藤田が頷く。

 

「それなら、帰らないとですね。世話もありますし、寂しがりますものね」

「そうだな……」

 

 曖昧に笑って、御堂は言葉を濁した。

 むしろ、ケイは御堂がいない方が安心できるだろう。だが、手も足も満足に動かせず、言葉も発せないケイは生きていくために御堂に頼らざるを得ない。御堂もまた、ケイの食事をどこで調達しようか、ケイを気にして早めに帰れるよう算段を付けている。大型の獣を飼うとなるとそれなりに気を遣うのだ。

 不意に、苦い思いが胸の中に込み上げてきた。

 御堂を監禁していたときの克哉も、こんな気分だったのではないだろうか。

 当時の記憶がまざまざと蘇りそうになり、御堂は急いで思考を切り替えた。

 藤田が帰った後、御堂も後片付けをしてオフィスを後にした。カードキーでオフィスの戸締まりをして、AA社のビルを出た。

 生ぬるい夜気が御堂を包みこんだ。タクシーを捕まえようと、正面の大通りに視線を滑らせたときだった。

 

「こんばんは」

 

 唐突に背後から声をかけられ、御堂は身構えた。ゆっくりと振り返れば、そこにいるのは黒衣の男、Mr.Rが立っていた。

 公園で出会ったときと同じように、まるでその場に突然現れたかのように気配を感じさせなかった。

 

「お仕事お疲れさまです」

「私の職場まで調べ上げているのか」

 

 不快感を声に滲ませたが、Mr.Rは気分を害した様子はない。ゆったりとした口調で言う。

 

「それはそうと、犬との生活はいかがでしょうか」

「……引き取りにきたのか?」

 

 突然こんなところに現れたのは、御堂の飼い主としての資質に早々に見切りをつけてケイを返せと言いに来たのかも知れない。だが、Mr.Rはくすりと笑って首を振った。

 

「いいえ、三ヶ月経つまでは、約束通りあなたにお預けいたします。もし、不要であるのなら引き取りますが」

「……」

 

 ケイを押しつけられた直後はあれほど困惑し、迷惑に思ったにも関わらず、Mr.Rのケイを引き取るという申し出に、御堂はすぐさま頷くことが出来なかった。

 そんな御堂の反応にMr.Rは満足げに微笑んだ。

 

「犬がいる生活をあなたが楽しんでいただいているのでしたら、預けた甲斐があるというものです」

 

 Mr.Rはいったん言葉を切ると、御堂の顔をじっと見返した。

 

「ただ、ご注意ください。犬は知能が高い動物です。飼い主を欺くことさえある。隙を見せれば立場が逆転するやも知れません」

 

 Mr.Rの言葉にぞっと背筋が寒くなる。そう、御堂はケイに襲われたのだ。

 

「くれぐれも、犬は犬らしく扱うことです。そして、あなたは犬の支配者として振る舞うことです。それこそが飼い主としてふさわしい姿。それでは、また」

 

 一方的に喋りたいことだけ喋って、Mr.Rは御堂に軽く会釈をすると踵を返した。慌てて声を上げた。

 

「待て! どうして私を選んだ? なぜ、『彼』を私に預けた」

 

 御堂に背を向け、都会の薄められた闇に溶け込もうとしていた男は、足を止めた。そして、肩越しに振り返る。男の金の眸が妖しい輝きを増した。

 

「『彼』ではなくて、犬ですよ」

 

 そう御堂に釘を刺して、Mr.Rは微笑んだ。

 

「あなたがあの犬の飼い主として、誰よりも相応しかったからです」

 

 それだけ言うと、御堂が口を開くよりも早く男は身を翻して去って行った。

 

「私が、飼い主としてふさわしい……?」

 

 Mr.Rの言葉を口の中で復唱した。とても自分が飼い主としてふさわしいとは思えない。買いかぶりもいいところだ。

 ケイは足が拘束されているせいで、立ち上がることが出来ないし、服を着ることも困難だ。御堂の家にケイを住まわせてはいるが、監禁しているわけではない。逃げようと思えば逃げられるはずだ。だが、そうしないのを良いことに、御堂はケイを好きに扱っている。

 かつての自分は、人を人と思わない人間だった。自分の立場や容姿を利用して、相手を意のままにもてあそんだことは数え切れない。相手のことなんて考えていなかった。飽きたら捨てた。それで心が痛むこともなかった。だが、それが佐伯克哉と出会ったことによって、自分の価値観、生き方のすべてを覆された。

 そんな自分が今更、誰かに対して、こうもひどい仕打ちが出来るとは思わなかった。

 いや、違う。人格を持つ人間に対して手を上げることが出来ないだけだ。それが、犬相手なら、道具相手なら、自分はどこまでも冷酷になれるということだろう。結局のところ、御堂孝典という人間の本質は変わっていないということだ。

 そして、それは自分だけでなく克哉に対しても言えることだった。再会し恋人関係になった克哉は、御堂を貶めた時の克哉とは違ってみえた。公私のパートナーとして、共に歩んで来たつもりだった。それが、澤村の出現によって克哉はおかしくなった。いや、元に戻ったのかもしれない。

 結局、最後まで佐伯克哉という男を理解することが出来なかった。分かり合う前に克哉は無惨に殺されて逝ってしまった。御堂の中に大きな傷痕を残して。

 

「佐伯……」

 

 もうこの世界に存在しない男の名前を小さく口にすると、胸が切なく痛んだ。

(3)

「ケイ、今日は遅くなる。夕食分まで用意してあるから好きに食べてくれ」

 

 朝、御堂はスーツのジャケットに袖を通しながら、そう克哉に声をかけた。

 克哉は被っていた毛布から顔を出して、御堂へと顔を向けた。視線がぶつかる寸前に御堂の顔が逸らされる。

 御堂は控えめに克哉を無視しつつ、言った。

 

「では、行ってくる」

 

 それだけ言って御堂は鞄を持つとリビングを出て行った。玄関先で物音が立ち、ドアが開き閉まる。そして鍵がかかる音がした。

 御堂が出て行ったことを確認し、克哉はソファから起き上がった。センターテーブルを見れば、克哉用の食事が用意されていた。

 御堂は、克哉の食事を冷凍の宅配フードサービスで済ませている。冷凍とは言え、見た目も味も優れていて、数ある同種のサービスでも値が張るものだと分かる。毎朝、御堂はそれを二食分解凍し、リビングのテーブルに置いていた。スプーンとフォークに、ミネラルウォーターもペットボトルのキャップを開けて添えてある。それが今日は三食分置いてあった。夕食は御堂が何かしらテイクアウトの類(たぐ)いを買ってくることが多かったが、今日は夕食もこれで済ませろということだろう。元々克哉は、朝食はほとんど食べない。一日中室内で過ごす身としては、明らかにオーバーカロリーだ。こんなに要らないと伝えたいが、どうやって伝えれば良いのだろうか。食事をそのまま残せば、さすがに気が付くだろうか。

 そんなことを考えていると、温かい食事から良い匂いが漂ってくる。匂いに釣られて空腹を覚え、ソファから降りようとしたところで、克哉は腰の鈍い痛みに顔をしかめた。

 

「……っ」

 

 昨夜の行為の負荷からまだ回復しきっていない。けだるい熱と鈍い痛みが腰の奥に残っていた。

 あの夜、御堂に襲いかかって失敗し、仕置きがてらに御堂に犯されてから、毎日のように抱かれている。抱かれていると言っても、一方的に身体を使われて、中に排泄されるだけの行為だ。その時に、「ケイ」と命じる御堂の声は冷ややかで感情を滲ませない。まるで克哉を自慰用の性具かなにかとしか思っていないような態度で、実際そのようにしか扱われていなかった。

 先にシャワーを浴びようかと、不自由な両足を持て余しながら克哉はバスルームへと向かった。そこには、洗い立てのバスタオルが克哉の手の届くところに置かれていた。バスルーム内のシャワーヘッドも、立ち上がることの出来ない克哉が使いやすいよう低い位置に固定してある。

 抱かれる時以外は、ずいぶんと丁重に扱われていると感じる。

 それは、克哉を自身にとって都合の良い犬のように扱っていることへの罪悪感から来るものかもしれない。御堂は克哉と直接目を合わせようとしない。その不自然な態度からしてもそうだ。

 このように手酷い扱いをしながらも、冷酷になりきれないところが御堂の甘さだと克哉は冷めた目で見ていた。

 御堂は知らないのだ。ここに来るまでに、克哉がどれほどの目に遭っていたのかを。Mr.Rにされた仕打ちを考えれば、天国と地獄ほどの差がある。

 それに、克哉自身と比べても御堂はよっぽど人道的だ。克哉が御堂を監禁したときは動けないように拘束し、外の情報は一切与えなかった。肉体的にも精神的にも追い詰めるためだ。一方で、今の克哉はどこかにつながれているわけではない。動き回っていいのはリビングとトイレ、そしてバスルームだけ、と言われているが、閉じ込められているわけではないし、逃げようと思えばいつでも逃げられる。

 御堂がケイである克哉に対して手酷く抱いても、拘束して監禁しようとまでしないのは、自分がかつて克哉にされた仕打ちを思い出すからだろう。しかし、それだけではない。御堂にとってケイは執着する相手ではないからだ。

 克哉は逃げるつもりはないが、もし逃げたとしても、御堂は追ってくることはないと断言できた。ケイが逃げ出したら逃げ出したで、厄介者が片付いたくらいにしか思わないだろう。むしろ、罪悪感から逃れられて清々するかもしれない。

 もちろん、克哉はこの部屋から逃げる気はなかった。クラブRに連れ戻されるくらいなら、犬として御堂の慰みものになっている方が断然良い。しかし、克哉にはMr.Rとの賭けがある。期限までに御堂の心を自分に向けなければならない。

 克哉はシャワーを浴びて汗を洗い流し、用意されていたタオルで水滴を拭うとリビングに戻った。置かれていた食事に手を付けつつ、テレビのリモコンを操作して電源を入れた。チャンネルをザッピングする。見たい番組もなかったが、この部屋は静かすぎる。思考の邪魔をしない程度に音量を絞って適当なチャンネルを付けっぱなしにした。

 一日のほとんどの時間、御堂は不在で、克哉一人で過ごしている。そして、御堂がいない時間帯は何もすることがなく退屈なのだ。

 御堂も退屈を紛らわす何かを与えてくれれば良いものを、そこまで気が回らないのか、そもそも、犬にそんなものは不要だと思っているか、克哉に与えられた空間の中では、時間を潰せるものと言えばテレビと、御堂が契約している新聞くらいだ。それでも、現実世界から引き離されていた克哉にとっては外の情報は貴重だった。しかし、この家から一歩も出ることがない克哉にとっては現実味のない情報には違いないが。

 食事を終えて、今日一日どう過ごそうかと考えていたその時だった。

 

「……!?」

 

 唐突にテレビから自分の名前を呼ばれて、克哉はテレビに釘付けになった。

 それは、ニュース番組だった。男性のアナウンサーが克哉の名前を読み上げる。

 

『コンサルティング会社社長殺害事件、事件発生後四ヶ月が経過しています。重要参考人として聴取されていた男性は事件とは無関係であることが判明し、捜査は難航しています』

 ――なんだって?

 

 自分が殺害された殺人事件のニュースを目にするのは新鮮だったが、それ以上に語られる内容に衝撃を受けた。

 ニュースの内容はこうだ。都心の公園で克哉が殺害された事件、事件に関係していると目された人物はアリバイがあり、無関係と断定されたという。その人物は二十代男性と詳細を伏せられていたが、まず間違いなく澤村紀次のことだろう。

 

 ――そんな馬鹿な。

 

 澤村以外犯人はあり得ない。殺された張本人である自分は、犯人が誰だか分かっている。この目で見ているのだ。

 どうやってか澤村はアリバイ工作をしたのだ。

 自分がこんな目に遭っているというのに、その原因を作った張本人がお咎めもなくのうのうと暮らしているのは許しがたい。かといって、死人の立場の克哉にはどうすることも出来ない。殺害された当人が実は生きていて、犯人は澤村だと証言しても、狂人の証言だと一笑に付されるだけだろう。

 だが、御堂はきっと澤村が犯人だと分かっているはずだ。澤村を御堂の目の前で強姦したのだから。澤村は克哉を殺す動機がある。しかし、それを御堂が証言したかどうかは疑わしい。克哉がしたことを証言するなら、御堂と克哉の関係も話さなければならない。体面を気にする御堂が警察に素直に話すとは思えなかった。

 

 ――それにしても、澤村が俺を刺してくるとは誤算だったな。

 

 自分の迂闊さを悔やむ。やり方が生ぬるかったのかも知れない。反抗する気も起きないほど徹底的に蹂躙すべきだったのだ。澤村に復讐したとき、御堂は悲鳴のような声で「やめてくれ」と克哉に懇願していたが、結果、このざまだ。澤村にはきっちりとこのツケを払わせなければならない。そのためには、この囚われの身から解放されるのが先だ。

 

 ――これからどうするか……。

 

 何はともあれ、今の立場から解放されるのが最優先事項だ。

 どうすれば、御堂に愛されることが出来るのだろうか。

 Mr.Rのおかげで、御堂はケイが佐伯克哉だということが分からない。かつて克哉が御堂にしたことを再現すれば思い出すかと思いきや、御堂を逆上させただけだった。

 だが、Mr.Rが御堂にかけた呪いは強力で、どうやっても御堂はケイが佐伯克哉だと理解しない可能性もある。戦略の見直しが必要なのだろうか。

 今みたいに御堂に怯え、傷ついている振りをしていれば、御堂の同情と罪悪感を誘うことは出来るだろう。だが、そこから愛される立場になれるのだろうか。

 そもそも、かつて、克哉がどうして御堂に愛されるようになったのかも分からない。

 御堂のどこをどう触れればどんな反応が得られるか、御堂の身体は熟知しているのに、御堂の思考回路は読めないところが多いのだ。

 御堂と克哉の始まりは忌まわしいものだった。思い返すには痛みが伴う苦い記憶だ。だが、あんなことがあったにも関わらず、それでも御堂は克哉を追いかけてきた。

 御堂に愛されるために手っ取り早いのは、やはり、歴史を繰り返すことだろう。御堂は数多くの相手を抱いたのだろうが、御堂を抱いたのは克哉一人だ。だから、無理やりにでも御堂を抱けば、ケイが佐伯克哉だと分からなくとも御堂を従えることが出来るはずだ。

 御堂が澤村に誘拐された後、御堂は反抗的で克哉を無視し続けていた。だが、そんな態度の御堂を克哉は気にも留めなかった。力尽くで、御堂を服従させれば済むだけのことだからだ。誰が、支配者なのか身体に教え込んでやればいい。そして、御堂の恋人であった克哉はその資格がある。

 しかしそのためには、今、克哉に付けられている拘束と首輪が邪魔だった。先みたいに御堂がその気になれば、一言で克哉に電撃の鞭を打ち据えることができる。だから、今は牙を潜めて大人しくしていた。御堂に従順に従っていれば御堂の油断を誘えるかもしれないと考えているからだ。克哉の手の動きは大分戻ってきているが、御堂の前では極力手を使わないようにしているので、気が付かれてはいないはずだ。

 毎夜、御堂に抱かれるという屈辱を許しているのも、すべてはクラブRから逃れるためだ。

 

 ――それにしても……。

 

 昨夜の御堂の姿を思い出す。こうなる前は御堂を散々抱いたのに、まさか御堂に抱かれることになるとは思わなかった。克哉と出会うまでは、異性同性問わず数多くの相手と関係を持っていた御堂だ。誰かを抱くときは、あんな風に獣欲を剥き出しにした抱き方をするのだろうか。

 肉に食い込むほど強く腰を掴む手、緩急をつけながらも容赦のない腰遣い。背後から打ち付けてくる御堂の身体は、雄としての強靱さと獰猛さを兼ね備えていた。克哉の前では見せなかった御堂の姿だ。

 あまりにも強く揺さぶられて、克哉はソファの背にしがみついた。両膝をソファの座面につき、背もたれに両手をつくようにした体勢を取らされ、背後から御堂に貫かれている。

 

『っ……』

 

 御堂が苦しげに呼吸を荒げた。腰の動きが激しくなり、極みがすぐそこまで来ていることを知った。

 欲望の赴くままに乱暴に腰を打ち付けられる。玩具とは比べものにならないほどの質量と熱が克哉の中をかき回し、強烈な感覚をかき立てた。歯を食いしばり溢れそうになる声を必死にかみ殺す。

 克哉の身体で御堂が快楽を感じているのは確かだった。御堂がどんな顔をしながら克哉を犯しているのか、それを知りたくて肩越しに振り返ろうとした。途端、髪の毛を掴まれた。ソファの背もたれへと顔を強く押しつけられる。その乱暴な所作に呻いた。

 

『ぐ……』

『私を見るな』

 

 御堂の凍てついた声が響く。有無を言わさぬ命令口調だ。それだけでは安心できなかったのか、御堂は傍らにあった自らが脱ぎ捨てたジャケットを掴むと克哉の頭から被せた。こうすることで、克哉の存在を視界から消し去って御堂は達したのだ。

 御堂に一方的に性欲を排泄され、克哉は中途半端に煽られたまま放り出される。

 行為の最中に、御堂がケイに下す命令は簡潔だ。御堂に克哉自ら触れるな、声を出すな、顔を見せるな、そして御堂の顔を見るな。

 何故、御堂がケイに対してそんな仕打ちをするのか、克哉は分かっていた。御堂はケイから心理的な距離を置きたいのだ。快楽を極める瞬間は最も心が無防備になる。その瞬間を分かち合えば、相手に心を許してしまいかねない。その相手に堕ちてしまう可能性さえある。

 いつも御堂が克哉を背後から抱くのは、互いの顔が見えない体勢だからだ。御堂はケイを警戒している。しかしその警戒心を持っていてもなお、御堂はケイに欲情するのだ。それを利用しない手はない。御堂は快楽にとことん弱い男なのだ。克哉が抱けば、すぐに以前のように御堂を抱かれる側の快楽に堕とすことができるだろう。

 その時、ずくり、と身体の深いところが疼いた。

 

 ――くそっ。

 

 克哉は心の内で悪態を吐いた。昨夜の行為を思い返してしまったせいで、満たされなかった欲望がぶり返したのだ。

 解放されなかった重ったるい熱が下腹部でうねる。

 無意識に自身のペニスに指を絡めた。興奮し始めた性器がそこにあった。まだ本調子ではない指は繊細な動きは出来ない。それでも自分のペニスを握り込むようにして根元から先端まで扱き上げた。亀頭のえらを弾き、浮き出した筋をたどる。

 

「……ぁっ」

 

 ぞくぞくとした電流が身体を走った。

 下腹の奥がじんじんと疼いた。そこには、昨夜、御堂を受け入れた余韻が残っている。深いところまで拡げられて、御堂の硬さと熱を感じた。内臓を押し上げられるような苦しさとそれに続く、言葉に形容できない感覚。

 今は何も挿れられていないにも関わらず、空虚さを惜しむように粘膜が切なく収斂(しゅうれん)するのが分かる。

 御堂を抱いたときの記憶を思い浮かべようとするのに、脳裏に生々しく蘇るのは御堂に貫かれた感触だ。

 

「ぅ……っ」

 

 身体がおかしくなっている。まさか、自分が、深いところを抉られて、擦られて、快楽を感じるようになるとは思わなかった。

 御堂はケイを抱きながらも、ケイの快楽を引き出すことなんて考えていない。克哉を極めさせたくないのだ。同じ悦楽を共有したくないがために。そんな無体な抱き方なのに、抱かれる度に克哉はより深い快楽を感じるようになってしまっている。このままでは後ろの刺激だけで達してしまう日も近いだろう。

 一刻も早く自分自身を取り戻さなくてはならない。このままでは、取り返しのつかないところまで堕ちてしまう。必死に気を逸らしながら、ペニスの刺激に意識を集中する。

 

「ぁ、……っあ」

 

 くすぶる熱が弾ける。びゅくん、と手の中でペニスが跳ねて、精液が手をしとどに濡らした。克哉は荒げた息を吐きながら、ぬるつく精液を塗りつけるようにしてペニスを根元から扱き、残滓を絞り出す。

 熱が急激に冷め、気だるい疲労感が残される。

 汚れた下半身に視線を落とした。もう一度シャワーを浴びなければ、とぼんやりと思った。

 

 

 

 

 その日、御堂が帰ってきたのは言葉通り、深夜遅くなってからだった。

 玄関先で大きな音が立ち、眠りに落ちていた克哉は目を覚ました。感覚を研ぎ澄まし、御堂の気配を探るが、御堂がリビングへと向かってくる様子はなかった。

 

「……?」

 

 しばらく待ってみたものの、やはり御堂は玄関先から動く気配はないようだ。それどころか何の音もしなくなり、静まり返っている。さすがに不審に思い、克哉はリビングから這い出ると玄関へと向かった。

 

 ――御堂……!?

 

 玄関に御堂はいた。だが、靴を履いたままの状態で、上がり框(かまち)に身体を仰向けにして倒れていた。

 不自由な足で前のめりになりながら急いで駆け寄る。御堂の肩を揺さぶろうとして気が付いた。御堂から強いアルコール臭が漂っていることに。

 

 ――飲み過ぎか。

 

 肩の力が抜けた。御堂は泥酔しているようで、どうにか家まで辿り着いたものの靴を脱ぐところで力尽きたようだ。

 御堂はアルコールに強い方だ。だが、ここまで前後不覚になるほど飲むのは珍しい。誰かとの付き合いで飲んだのか、それとも、プライベートで飲んだのか。だが、今日の帰りは遅くなる、と克哉に事前に伝えていたことを考えると、夜遅くまで飲むのは予定のうちだったのだろう。

 御堂は克哉が間近で覗き込んでいても気付かぬほどに、深く酩酊していた。硬い床板の上でも寝息を立てる御堂を見て、克哉はふいに閃いた。唇の片端をいびつに吊り上げる。

 

 ――これだと何されても気付かないぞ、御堂?

 

 克哉の前で無防備に寝入る御堂を前にほくそ笑む。これが御堂の脇の甘さだ。自分が絶対的な地位にいるという思い込みが隙を生む。あれくらいのことで克哉が従順になるとでも思ったのだろうか。虎視眈々と御堂の油断を待ち構えていただけなのに。

 

 ――まずは声を奪わないとな。

 

 御堂が声を発すれば最後、克哉を電撃で打ち据えることが出来る。だから口枷をして言葉を封じることは必須だ。そして、拘束をすれば、いくら不利な立場にある克哉でも容易に御堂を制圧することが可能だろう。そして、身体に徹底的に刻みつければいい。あの時のように。

 克哉は御堂のネクタイに手を伸ばし、それを引き抜いた。両手はまだ十分には動かせないが、それでも酔い潰れている御堂を縛り上げるのは容易に思えた。

 ネクタイを片手にそっと御堂の頭に手をかけたその時だった。かすかな声が耳を打った。

 

「佐伯……」

 

 御堂がつぶやいた言葉にぎくりと動きを止めた。慎重に顔をうかがうが、御堂の瞼は落ちたままだ。寝言か譫言(うわごと)の類いだろう。しかし、御堂が自分の名を呼んだことに、静かな興奮が胸を満たした。克哉の前では一切、佐伯克哉のことを口にしなかった御堂だが、その存在を忘れたわけではないのだ。

 克哉は御堂に触れた手を止めたまま、次の言葉を待った。だが、御堂はその一言で黙り込み、ふたたび寝息を立てる。克哉は、御堂の頬を静かになでた。起こさぬように、それでいて、御堂の意識をほんの少しだけ引き戻すように。

 すると、御堂が小さく呻いて首を振った。慌てて手を引っ込める。

 御堂の顔が苦しげに歪んだ。不明瞭な声が漏れる。

 

「私をこれほど苦しめて、君は……満足か……?」

 

 鳥肌が立ち、心の中で何かが爆(は)ぜた。

 それは紛れもなく、独り言だった。答えを期待して問う言葉ではない。決して手の届かぬところにいってしまった相手への、悲痛な想いが朦朧とした意識の中で吐露される。

 

「……私が死ねば、良かったな」

 

 消え入りそうなほどのかすかな声。御堂の閉じられた瞼の端から一粒、水滴がこぼれ落ちる。

 頭を棍棒で殴られたような衝撃を受けた。今何をすべきか分かっているのに、克哉はまったく動けなくなった。どうしようもなく感情が揺さぶられる。

 麻痺した思考が動き出すまで、しばしの時間を必要とした。

 御堂は静かな寝息を立てる。ふたたび深い眠りへと誘われたようだ。

 呆然とその顔を見つめた。御堂の顔からは先程垣間見えた絶望も苦渋も拭われて、穏やかな寝顔に戻っている。

 ケイの前では一切の弱みも苦しみも漏らさなかった御堂だ。しかし、その裏に隠された御堂の心情を克哉はほんの少しでも推し量ろうとはしなかった。

 自分だけが地獄にいるのだと思っていた。だが、違った。御堂もまた、地獄で足掻いているのだ。恋人が惨殺され、その死を悼む暇さえ与えられず、残された会社を経営し必死に生きている。

 御堂が克哉を地獄の底から引きずり出してくれることを期待していた。そうでなくても、自分は御堂を利用して、地獄から這い出るつもりだった。それが当然だと思っていた。自分より酷い目に遭っている者などいないのだから。

 自分は御堂を羨み、嫉妬し、憎んでいたのだと気付かされる。克哉がクラブRに囚われている間、御堂はこの華やかな世界で自由に生き、克哉のものになるはずだった様々な恩恵を享受していたのだと思っていた。

 

 ――俺の、とんだ勘違いだったのか。

 

 御堂もまたもがいているのだ。苦しみと悲しみの狭間で。

 かつての克哉は御堂を苦しめることに愉悦を感じていたはずだ。それなのに、苦しむ御堂を目の当たりにしても、もはや何の悦びも沸いてこなかった。

 それどころか、御堂をどうこうしようという気持ちはすべて消え失せていた。

 先程までのどす黒い感情は霧散し、ただ、途方に暮れるような拠りどころのない心細さが胸を占める。

 こんなはずではなかった。

 そう思う一方で、何故か、この感覚に既視感があった。煤けた記憶の蓋を開けて、自らの過去をたどる。

 そうだ。

 監禁していた御堂が克哉に助けを求めたときだ。克哉はその時、ようやく自分の大きな思い違いに気が付いた。自分は御堂を貶めたかったのではない。克哉は御堂を好きで、御堂に愛されたかったのだ。

 

 ――愛し合う関係か……。

 

 Mr.Rの言葉を思い出した。

 御堂と克哉がふたたび愛し合う関係になることが賭けに勝つ条件だと言った。愛し合うというのは、誰かを愛し、その誰かに愛されるということだ。

 御堂孝典は佐伯克哉を愛していた。それは断言できる。だからこそ、克哉の死に苦しんでいる。

 しかし、問題は、佐伯克哉が御堂孝典を愛していたのかどうかだ。自分のことのはずなのに、自信を持って答えられない。

 澤村に殺される直前、克哉は無理やりにでも御堂を服従させる気だった。そして、つい先ほどまでそう考えていた。それが愛だと当然のように思っていた。だから、御堂が今の克哉を愛すれば賭けに勝てると確信していた。

 だが、それ以前に、自分は御堂を愛しているのか?

 克哉は、Mr.Rが『愛し合う』という意味を知っているのかと訝しんだ。しかし、本当のところ、分かっていないのは自分自身だったのではないか。

 服従と愛は違う。克哉はその答えを見つけたはずだった。だから、欲望のままに蹂躙した御堂を解放したのだ。

 その答えを一体どこに見失ってしまったのか。

 

 ――この眼鏡のせいか?

 

 こめかみに手を当てた。眼鏡のフレームのひんやりとした感触が触れる。この眼鏡をかけることで克哉はこの世界に呼び戻された。一度はこの眼鏡を捨てたのに、ふたたび手元に戻ってきた。そして、この眼鏡をかけることによって、克哉は揺らぎかけた自分を取り戻した。だが、その代償として、自分が手にしていた大切なものを失ってしまっていたのではないか。

 そのひとつが、御堂を愛するという気持ちだ。

 何よりもまず、克哉が御堂を愛さなくてはいけない。そうでなければ、この賭けには勝てない。

 そのためにはどうしたらよいのか。

 御堂を欲する気持ちはこの胸に息づいている。だが、欲望のまま求めるだけでは、頑是ない子どもと変わらない。どうすれば、それを愛に昇華できるのか。

 

 ――出直しだな。

 

 もう一度、考え直さなければならない。自分が何をすべきかを。

 目の前で無防備に寝入る御堂に視線を落とした。御堂は相変わらず眠りこけたまま克哉に気付く気配もない。

 硬い床板の上だ。このままここで寝かせるのは良くないだろう。そう思って、克哉は御堂の肩を揺さぶった。しかし、御堂の反応はない。致し方なく、御堂をどうにかリビングまで引きずろうとしたが、脚が使えない克哉にとって御堂は重く、握力の足りない手では御堂の服をしっかりと掴んで引っ張ることさえ難しかった。

 リビングに一度戻り、自分用に与えられていた毛布をソファから取ってきた。それを御堂にかける。

 硬い床の上にもかかわらず、御堂は規則正しい寝息を刻んでいる。御堂の胸がゆっくりと上下している。

 その傍らで、壁にもたれかかりつつ、克哉は御堂の寝顔を眺めた。

 ふと、思い出した。

 そういえば、こんな風に御堂の寝顔を眺めていたことがあった。

 AA社を立ち上げて間もない頃だった。克哉と御堂はふたりきりの社内で日夜関係なくがむしゃらに働き続けていた。それでも辛くなどなかった。むしろ気分はずっと高揚していた。そして、仕事が終われば、克哉の部屋で御堂を抱いた。

 そんなある夜、静寂に包まれた克哉の部屋で、裸で眠る御堂に上掛けをかけた。御堂はよほど深く寝入っているのかピクリとも動かなかった。その寝顔を克哉は飽きることなく眺めていた。

 あのとき、克哉は満たされていた。何の憂いもなく、世界さえも手に入れられると信じて疑わなかった。なぜなら、何よりも一番求めていたものが傍らにあったからだ。あのときに胸に抱いていた御堂への気持ち、それが愛おしさではなかったか。

 しかし、今はどうだろう。

 自嘲気味に克哉は笑った。

 克哉はすべてを失った。自らの運命は、泡沫のごとく揺らいでいる。たとえ、この地獄から逃れられたとしても、きっともう、元には戻れないだろう、そんな予感が胸に影を差している。

 それでもなお、こうして御堂とふたりでいるのだ。あの夜みたいに。

 今夜もまた静かな夜だった。耳を澄ませば御堂の鼓動さえ聞こえそうなほどに。

 克哉は御堂の寝顔を見つめ続けた。何かを探し求める真剣さで。

 少しずつ、何かが胸の中に満ちていく。

 克哉の心の奥底でかすかな感情がごとりと動いた。

 たゆたう意識が徐々に形をなしてくる。手足の指先まで神経が行き渡り、自分がベッドの上ではなく硬い板の上で寝ていることに気が付いた。

 御堂はぼんやりと目を覚ました。飲み過ぎたせいで頭がガンガンと痛む。昨夜の記憶は途切れ途切れだ。どうやら、家まで辿り着いたものの、玄関で力尽きたらしい。手を動かすと細長い布が触れた。自分のネクタイのようだ。酔っ払って靴を脱ぐ前にネクタイだけは解いたのだろうか。

 廊下で寝たせいで体の節々が悲鳴を上げていた。手をついてどうにか身体を起こすと、身体の上から毛布が滑り落ちた。ケイに与えた毛布だ。その毛布が何故ここにあるのか。理由を求めて周囲を見渡し、ハッと息を呑んだ。

 

「……っ」

 

 目の前にケイがいた。驚きに御堂は身を固くしたが、すぐに緊張を解いた。

 ケイは御堂の傍らで廊下の壁に背中をもたれかかるようにして座り込み、静かな寝息を立てていた。まるで御堂を見守っていたかのような体勢だ。

 御堂のすぐ脇にはミネラルウォーターのペットボトルも置いてあった。水を目にした途端に喉の渇きを覚えた。ペットボトルを掴むとキャップを開けて一息で半分ほど飲み干す。ほんのりと冷たい水が胸の奥を通り胃に落ちる。その感触がたまらなく気持ちいい。

 あっという間に飲み干した。これも、ケイが用意したものなのだろう。

 御堂は起き上がろうとしたところで、視界がぐらぐら揺れて、ふたたびその場にへたり込んだ。

 ひどい二日酔いだった。店を出たところまでは覚えているが、そこで記憶は途切れている。

 こんなに悪酔いするのは久々だった。昨夜の自分の行動を悔やむが、それでも、どうにか自宅まで辿り着いたのだ。それでよしとしよう。

 昨日は克哉の月命日だった。月命日には克哉が殺された公園に行って、缶ビールを一本供える。それが習慣化しつつあった。昨夜も公園に行って、克哉を悼んだ。だが、それだけではなかった。その後にバーをはしごしたのだ。

 きっかけは警視庁の知り合いからの連絡だった。電話では言いづらいとのことで、静かなバーで直接会って話をしたのだ。御堂と同じ東慶大法学部出身で警視庁のエリートコースを歩む彼から佐伯克哉殺害事件の進捗を聞かされた。殺害容疑で拘留されていた澤村紀次が証拠不十分のため不起訴となった。また、事件から四ヶ月経っても、いまだにめぼしい容疑者も挙げられず、捜査本部を縮小するという報告だった。動機も状況証拠も、澤村が犯人だと示していたが、澤村の鉄壁のアリバイを崩せなかったのだ。警視庁の彼も悔しさを声に滲ませていたが、疑わしきは被告人の利益に、それが日本の刑事裁判のあり方だ。このまま澤村を無理矢理起訴したとしても、結果は変わらない。

 努めて冷静にその話を聞いていたつもりだったが、思った以上にその報告は御堂を打ちのめしたらしい。知人と別れて、御堂は別のバーに入り直した。そこで浴びるほど酒を飲んだのだ。その結果がこのざまだ。

 腕時計を見ればまだ早朝だった。だが、いつまでもこの廊下でへたり込んでいるわけにはいかない。

 御堂はどうにか足に力を込めて、廊下の壁に手をつきつつ立ち上がった。そして、隣で眠りこけているケイを見下ろした。

 首輪を付けた裸の男。御堂のところに連れてこられて一ヶ月近くになる。

 ケイの横顔に薄い陽の光があたって陰影を刻んでいた。ケイは眼鏡をかけたまま寝てしまったらしい。明るめの髪色は癖が強いのか無造作に跳ねている。すっと伸びた鼻梁に眼球の丸みを覆う薄い瞼(まぶた)、そして長い睫。こうやって改めて眺めてみても、端正で美しい顔立ちだと思う。

 ケイには一度、襲われた。それ以降は、御堂の方がケイに対して乱暴な扱いをしていた。犬にされた人間とその飼い主のいびつな関係。ふたりの間には取り返しの付かないほどの亀裂が入っていたと思っていたが、ケイはケイなりに御堂に歩み寄ろうとしているのかも知れない。それを拒絶し続けているのは御堂だ。

 ふう、とため息をつき、掠れた声で小さく呟いた。

 

「こんなところで裸で寝たら風邪を引くぞ」

 

 自分のことは棚に上げて、ケイの上に自分にかかっていた毛布をそっと被せた。すると、ケイの身体がもぞり、と動いた。

 慌てて顔を逸らす前に、瞼を押し上げ、顔を上げたケイと視線が重なった。

 ドクンと鼓動が跳ねる。

 レンズ越しの薄い虹彩が御堂の双眸をしっかりと捕らえた。その眼差しに宿す色は怯えでも憎しみでもなく、澄んだ眸で御堂を射てくる。ケイに見据えられる居心地の悪さに、御堂はわざとらしく咳払いをして言った。

 

「……おはよう」

 

 ケイは声を発さず「おはよう」と口だけを動かして返事をする。

 そして、ふたりの間に沈黙が降りる。その気まずさから逃れるように御堂はケイに背を向けた。

 

「シャワーを浴びてくる」

 

 言い訳がましくそう口にすると御堂はよろめきながらバスルームへと向かった。

 

 

 

 熱いシャワーを頭から浴びて、身体にまとわりつくアルコール臭を洗い流す。

 二日酔いによる鈍い頭の痛みは残っているが、思考はクリアになり、気分はだいぶ回復していた。

 バスローブをまとい、髪に残る水滴を拭きながらリビングへと向かうと、何やら声が聞こえてくる。見れば、テレビ画面が光っていた。ケイはすでにリビングのソファ、自分の定位置へと戻っていて、テレビ番組を見ていた。御堂をちらりと見て視線をテレビへと戻す。

 ずいぶんとくつろいだ姿だ。今までは、御堂が居るときは怯えたように毛布を被っていたのだが、あれは演技だったのだろうかとさえ思わせる。どんな心境の変化か分からないが、自然体で振る舞うことにしたらしい。

 そんなケイの態度の変化に戸惑う姿は見せたくないので、御堂もまたごく自然にケイの前を通り、キッチンへと向かった。自分用のコーヒーを淹れながら、ケイへと顔を向ける。

 

「朝食にするか?」

 

 ケイが御堂へと顔を向けた。その視線を真正面から受け止める。ケイは無言のまま首を振った。朝食を食べたくないという意思表示だろう。御堂もまた、アルコールのせいで胃がむかついている。コーヒーだけで朝食を済ませるつもりだった。重ねてケイに問う。

 

「では、飲み物だけでいいか?」

 

 ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出そうかと思いきや、ケイの視線が、先ほど御堂が操作していたコーヒーメーカーへと向けられる。御堂は「ああ……」とケイが言わんとしていることを理解した。

 

「コーヒーが飲みたいのか」

 

 今度こそケイは頷いた。言いたいことが伝わったという満足感か、ケイの薄い唇が淡い笑みを刷く。その笑みのせいで、冷たい印象の顔がぱっと華やいで見えた。劇的な表情の変化に思わず見とれそうになり、御堂は慌てて視線を外し、コーヒーを準備する振りをした。

 マグカップにコーヒーを注ぐと、リビングのセンターテーブルに置いて、自分はすぐさまキッチンへと戻った。御堂はリビングとひと続きのダイニングのテーブルでコーヒーのマグを手に、視界の端でケイを伺った。

 ケイがのそりとソファから降りてセンターテーブルへと四つん這いで向かう。足を戒める拘束のおかげで、ケイは立つことが出来ない。今みたいに四つん這いでしか動けないし、椅子に座ることも不可能だ。コーヒーのマグを両手に持ち、コーヒーをすすり出す。ゆっくりと味わうようにしてケイはコーヒーを飲んでいた。ケイが置かれていた立場を考えれば、久々の、下手したら犬にされてから初めてのコーヒーかもしれない。

 そんなケイを横目で見ながら、昨夜、知人から聞いたことを思い返した。佐伯克哉殺害の犯人、すなわち澤村紀次は不起訴となって野放しにされる。もちろん、澤村が犯人でないという可能性もあるだろう。だが、御堂は確信していた。澤村以外犯人であるはずがない。だから、澤村を逮捕できないのなら、事件はこのまま迷宮入りするだろう。

 一方で、澤村が容疑者として外れたなら、刑事による澤村のマークもまた外れているはずだった。ならば、澤村に会いに行って直接問いただしてみようか。そうとさえ思う。だが、澤村を前にしたら、自分を抑えきれる自信がない。自らもまた、報復の連鎖を引き起こしてしまうのではないだろうか。

 澤村は憎い。だが、その憎しみは純粋に克哉を殺された悲しみから来ているわけでないことも理解していた。自分に対する怒りだ。克哉が澤村を強姦するきっかけを作ってしまった自分の迂闊さ、克哉を止めることが出来なかったという自責の念。そして、御堂が克哉を避け続けた結果、克哉は殺された。その前に一度でも、しっかりと話し合うことが出来ていれば、殺害を未然に防げたかも知れない。

 あの夜のことは今でもありありと覚えている。御堂は朝から変わらず克哉を無視し口も利かず、定時にAA社を出て、この部屋に戻った。だが、夜に唐突に鳥肌が立つような嫌な予感がしたのだ。

 虫の知らせとでも言うのだろうか。すぐに克哉の顔が頭に浮かんだ。克哉に連絡しようとして、何を理由に連絡するのかとためらい、散々逡巡しようやく克哉の携帯に電話をかけたがつながらなかった。あと一歩、遅かったのだ。御堂が電話をかけた時には、克哉は無惨な姿になって殺されていた。

 そんな後悔が積もり積もって、悲痛に胸が張り裂けそうになる。今更、澤村をどうこうしたところで克哉が生き返るわけでもない。それでも澤村に憎しみの矛先を向けてしまう自分がいる。報復は自分を満足させるためだけの行為だと分かっているのに。

 恋人を辱められた克哉は澤村に報復した。結果、澤村はさらなる報復をした。その報復の連鎖は克哉の命を奪うに至った。

 克哉が殺されてから今まで、悪い夢に落ちてしまったかのように現実を遠く感じていた。仕事に没頭し、激務の中に身を置いて感情を麻痺させる。そんなことをして自分をごまかし続ける。感情がすり減ってなくなるその日まで。それは、まるで克哉の監禁から解放された日々と同じだ。

 そんな自分を偽り続ける日々に限界を感じていたのだろう。ケイが犬として預けられたとき、御堂は行き場のない怒りのはけ口として理不尽に犯した。ケイを蹂躙して汚すたびに、心の中に澱のように淀んでわだかまる感情がふっと消え去る錯覚を覚えた。それでも、残された理性が、続く自己嫌悪を引き起こす。結局のところ、乱れた感情の狭間でもがき続けている。こんな葛藤、以前の自分なら、もっとスマートに対処できていたのではないか。

 思惟を巡らせながら、不意に既視感を覚えた。

 

 ――それは私が佐伯に言った言葉だ。

 

 君ならもっとスマートに対処出来るはずだ、澤村の出現で感情を乱す克哉に、御堂はそう言ったのだ。

 

 ――今の私は、あのときの佐伯と同じということか。

 

 自嘲の笑みが漏れた。人に言うのは簡単だ。だが、自分がその立場に置かれたらどうだろう。すべきことは言われなくても分かっている。しかし、それが出来ないのだ。だから余計に苛立つ。

 結果、追い詰められて、暴力的な衝動に身を任せたらどうなるのか。御堂はその顛末を目の当たりにしたではないか。

 御堂は熱いマグを両手に持ち、大きく息を吐いた。

 あまりにも多くのことがありすぎた。しかし、現実を踏みしめる時期がやってきたのだ。

 深い霧が晴れてくるような感覚を覚えた。自分が向かうべき先はいまだに分からない。だがその場その場で自分が正しいと思う道を選択し続けるしかない。その選択の積み重ねが最良の結果を導いてくれると信じて。

 ひとくち、コーヒーを口に含んだ。

 コーヒーは香り高く、その苦みをおいしいと感じた。

 自然とケイへと視線が向いた。すると、ケイもこちらを見ていた。御堂が微笑むと、ケイは驚いたように目を瞠(みは)ったが、すぐに笑みを返した。

 朝の透明な光が部屋に満ちていた。テレビ番組から流れるざわめきが、穏やかな朝を演出していた。

 

 

 

「ケイ、少し出かけてくる。昼には戻る」

 

 コーヒーを飲み終えた御堂は手早く着替えるとそう言って家を出た。もちろんケイの返事はないが、御堂に向けられた顔は、分かった、と告げている。ふたりの関係は昨夜一晩で劇的に変化したかのようだ。だが、御堂はそれだけでは満足していない。ケイが態度を変えたなら、御堂もまた、応える必要がある。

 タクシーでデパートに向かうと御堂はいくつか買い物を済ませた。

 そして、言葉通りに昼前に家に戻り、大きな紙袋を両手にリビングに入ると「ケイ、こちらに」とケイを呼んだ。

 

「?」

 

 訝しむ顔をしながらケイがソファから降りて、御堂の元に来る。御堂はケイの背後に回ると、ケイの足に手を伸ばした。ぎくりと身を強ばらせるケイをよそに、足を戒めるベルトを外してやる。

 

「ッ……?」

 

 ケイが驚く顔をする。御堂は固く留められたベルトをどうにか外すと、反対側のベルトも続けて外した。取り外したベルトを片付けながら何事もなかったかのように言う。

 

「飼い犬に二足歩行を覚えさせようと思ってな」

 

 そう告げた途端、ケイの表情がぱっと明るくなった。あまり感情を見せることはなかったケイだが、足の拘束具が外れるのはよほどうれしいらしい。

 ケイは拘束具が巻き付いていた部位を手でさする。その手を見て気が付いた。指関節の強ばりが解けて、指が伸びている。この分だと手を問題なく使える日は早いだろう。

 だが、足の方はすぐに立てるというわけではなかった。すっかり拘縮した膝の関節は伸ばそうとするだけで激しい痛みを伴うようで、立とうとするケイが悪戦苦闘する様子を見ながら、御堂は買い物袋から包みを出してケイに渡した。

 

「君の下着と服だ。犬に服を着せるのも別に変ではないだろう」

 

 アンダーとスウェットのズボン、Tシャツを渡す。いわゆる部屋着の装いだ。本当はちゃんとした衣服を着せたいが、足を伸ばすことも、ボタンを閉めることも出来ないケイにはまだ難しいだろうと考えたのだ。

 

「あとは、言葉か……」

 

 ケイの首輪に触れた。御堂の指の感触がくすぐったいのかケイが首を竦める。慎重に首輪を観察するが、金属の首輪は見る限り、どこにもつなぎ目はない。

 

「どうやったらこれを外せるんだ?」

 

 ケイに尋ねたがケイは首を傾げるばかりだ。ケイも分からないのだろう。何かしら細工があるのかもしれないが、下手にいじって電流が流れては困る。御堂は深追いせずに指を離した。

 そして、時間をかけて着替えを済ませたケイに、御堂は膝をついて視線の高さを合わせると、柔らかな声で言った。

 

「ケイ、一緒に警察に行こうか。警察なら君を助けてくれるし、その首輪も外せるかもしれない」

 

 これが一番正解なのではないか。警察に行けば、御堂も事情を聞かれるだろうし、もしかしたら何かしらの罪に問われるかも知れない。それでも、このまま期限が来てケイをMr.Rに返したら、ケイは今よりもひどい目に遭う可能性が高いだろう。間違いに気付いたときが、是正するときなのだ。

 だが、ケイは驚愕に目を大きく見開き首をぶんぶんと振った。明らかな拒否だ。

 

「君もあの男のところに戻りたくないだろう?」

 

 そう聞けば、ケイは大きく頷く。

 

「それなら、警察に行って事情を話そう。警視庁に知人がいる。君のことを守るように私から頼んでおく」

 

 力強い語調で説得したつもりだったが、ケイは顔を強ばらせたまま、もう一度首を振った。頑なに拒絶する。

 説得を重ねようかと考えたが、レンズ越しに御堂を見返すケイの視線の強さに、御堂はこれ以上何を言っても無駄だろう、と諦めをつけた。

 ケイにはケイの抜き差しならない事情があるに違いない。そうでなければ、このような犬に身をやつしたりしない。それとも、Mr.Rが属する組織の報復を恐れているのかもしれない。ケイの方が御堂よりあの黒衣の男やその裏にある組織の内情に詳しいのだ。ケイの心配を杞憂だと言って切り捨てることは出来ない。

 御堂はひとつため息を吐くとケイに言った。

 

「分かった。君を警察に引き渡したり、君のことを警察に言ったりはしない」

 

 御堂の言葉にケイが表情を和らげる。御堂は続けた。

 

「代わりに、君用にホテルかマンスリーマンションを用意しようか」

 

 ケイが首を傾げる。御堂はわずかに視線を逸らした。

 

「私と一緒に住むのは気を遣うだろう?」

 

 控えめな表現をしたが、ケイは御堂に陵辱されたと言っても過言ではない扱いを受けたのだ。いくら御堂が態度を改めたからといって御堂の行為がなかったことになるわけではない。

 しかし、ケイはうっすらと笑うと、御堂のズボンへと手を伸ばした。ベルトへと手をかける。驚きに床に尻を突くと、ケイが御堂の脚の間に身を入れてくる。

 

「おい、何をする」

 

 抗議の声を上げたが、ケイは動きをいったん止めて、御堂と視線を合わせた。微笑みを口元に浮かべたまま、人差し指を立てて、御堂に「静かに」というジェスチャーをする。

 御堂が一言、特定の言葉を口にすれば、ケイを電撃で打ち据え、無力化することができる。それを分かってもなお、仕掛けてくるのは、ケイに御堂に対する害意がないからだ。

 ためらう御堂に対して、ケイはまだ器用とは言えない手の動きで御堂のベルトを外した。そして、ズボンのホックを外すと顔を寄せた。ファスナーの金具を歯で噛んで、上目遣いで御堂を見ながら、ジジジ…と音を立てて下ろしていく。その行為が露骨で、御堂は顔をしかめた。

 

「ケイ、そんなことはしなくていい」

 

 もしや、拘束を解いた礼に奉仕でもするつもりなのだろうか。もちろん、そんなことを期待したつもりは毛頭なかった。

 だが、ケイは動きを止めない。御堂のズボンの前をくつろげると、唇で布地の上から御堂の膨らみを辿る。根元から先端まで唇を舌のように這わせて、先端の膨らみを上下の唇で挟む。そして、布の上から濡れた舌が亀頭の丸みをぬちゅりと舐め上げた。

 

「よせっ……」

 

 ケイの動きを止めたくて、頭を掴んだ。それでも、ケイはやめる素振りはない。布越しに舐められるもどかしさに腰をよじると、ようやくケイの指が御堂のアンダーの縁にかかった。ずるっと布地をずり下ろされると芯を持ったペニスが弾み出る。

 

「っ……」

 

 ケイが真っ赤な舌を出した。舌なめずりするかのように、御堂のペニスを根元深くまで咥えると、ぐぷぐぷと音を立てるように頭を振って、口で扱く。口を大きく開けて、エラを舐め回し、エラの張り出しを唇で弾いた。ケイの口の端から透明な涎がしたたり、御堂の下腹を濡らしていく。その様(さま)は、男のソレをしゃぶるのが好きでたまらないかのような淫蕩さだ。

 

「君は……」

 

 御堂は言いかけた言葉を呑み込んだ。あまりにも巧みな口淫だ。まるで、克哉を彷彿とさせるような。

 

 ――……っ!

 

 不意に、恋人だった男が脳裏に浮かび、御堂は身を強ばらせた。ケイの頭を掴んで、無理やり口淫をやめさせる。

 

「もう十分だ」

 

 これ以上煽られたら抑えきれない。限界間近まで張り詰めたものをケイの口から出そうとした。だが、ケイは抵抗して御堂のペニスに舌を絡めてくる。

 酩酊するようなしびれが背筋を走った。まずい、とケイの頭を無理やり引きはがし、ペニスを口から抜いた。抵抗する口が先端を吸い上げ、唇の粘膜が段差に引っかかる。それが最後のダメ押しになった。

 

「く……」

 

 低く呻いた。快楽が弾ける瞬間、御堂はケイから顔を逸らした。同時に、ケイの頭も強く押さえた。熱い口腔から解き放たれたペニスがびくりと跳ねる。重たい粘液が噴き出し、飛沫(しぶき)が散った。

 御堂とケイの乱れた吐息の音が重なり合う。射精の余韻が抜けて、ようやく御堂は視線を戻した。ケイの頭を掴んだままの手をゆっくりと離す。あまりにも力を込めすぎて、手が痺れている。

 ケイがゆっくりと顔を上げた。その顔を目にして、ゴクリと唾を飲む。

 真正面から御堂の精液を浴びた顔、白濁した粘液が、眼鏡のレンズから口元までケイの整った顔を汚していた。だが、ケイは嫌な顔をするどころか恍惚と微笑んで、唇に付いた精液を赤い舌でぺろりと舐め上げる。そればかりか、自らのシャツを捲りあげて、ズボンを下着ごとずり下ろした。

 ケイのペニスは勃ち上がり、御堂への口淫で自らもまた興奮していることを示していた。そして、ケイは自らの指を二本口に咥えると、唾液と精液に塗れた指を自分の股間の奥深くへと伸ばす。

 くちゅり、と濡れた音が御堂から見えないところで鳴った。ケイが切なげに眉根を寄せて、御堂を見る。

 

「っ……」

 

 この上なく淫らな犬が目の前にいた。なおも硬さを持つ御堂のペニスにケイが手を触れた。物干しげな顔を御堂に向ける。露骨に御堂を誘っているのだ。

 欲情を放ったはずの下腹に滾る血が流れ込む。

 しかし、ケイを組み伏せようとする獰猛な衝動が込み上げる一方で、冷静にこの状況を俯瞰する自分がいた。

 これは決して、ケイの本意ではないだろう。わざと御堂を誘惑しているのだ。御堂が何に対して罪悪感を抱えているのか分かっていて、ケイはそれをなかったことにしようとしている。御堂の一方的な陵辱行為ではなく、ケイもまたその行為を望んでいたことにして、二人の過去を塗り替えようとしてくれているのだ。

 だからこそ、御堂にはケイを撥ねつけるという選択肢はなかった。

 御堂は無言で起き上がった。ケイの腕を掴んで背後を向かせる。膝と両手を床に付かせ四つん這いにさせた。

 

「ぁ、――くっ」

 

 ケイを這わせて背後から貫いた。つながりやすいようにケイの腰を抱え込み、陰嚢同士がぶつかり合うくらい深くつながる。潤んだ粘膜を自らの形に拓いていくと、ケイは未だにこの行為の始まりになれないのか、苦しげに息を吐いた。

 ケイのペニスに手を伸ばした。今までにない御堂の行動に、ケイの身体がびくりと強ばる。だが、御堂はケイのペニスを優しく握り込むと、根元から先端まで扱くようにして、ケイの快楽を煽り立てた。リズミカルに扱きながら、ケイへと腰を打ち付け、浅い場所から深い場所までケイの中に自分を刻みつけていく。

 

「ぅ……」

 

 中からも外からも刺激され続けて、耐えきれなくなったケイが低く呻いた。御堂の手の中でケイのペニスが大きく跳ねる。放精された大量の粘液がどっと御堂の手に打ち付けられた。

 同時にケイの中が大きくうねった。御堂のペニスを引き絞る。

 御堂は目を瞑り、自らの快楽に集中した。ひときわ深く中を抉り、ケイの最奥に自らを放つ。

 

「……ぁ」

 

 どろりとした熱いものを注がれる感触にケイが身を震わせた。ケイを掴む手のひらが汗をかく。ケイの力強い鼓動が重ねた肌や粘膜から伝わってきた。

 

 ――佐伯……。

 

 他の男を抱きながら、死んだ恋人を脳裏に浮かべる。

 今、御堂が何をしているのか、克哉が知ったら、御堂の裏切り行為を絶対に許しはしないだろう。

 だが、裏切ったと言えば、克哉の方が先に御堂を裏切ったのだ。御堂の前で澤村を強姦することによって。そんな暴挙をしながらも、克哉は御堂を裏切ったという自覚は皆無だった。

 しかし、御堂はどうだろう。今、この胸の中には克哉に対する後ろめたさが宿っている。無自覚に裏切ることよりも、自覚してもなお裏切る方が罪は重い。

 いくら克哉が死んだとしても、御堂の中ではいまだ克哉の存在は息づいている。重苦しく絡みつく感情と共に。

 ケイに心を明け渡すつもりはない。ケイとの関係を、単なる身体だけの関係に落とし込むつもりだった。だから、ケイと関係を持つ間は、ケイの顔を見ない、自分の顔を見せない。相手に心を許さぬよう、決して超えてはいけない一線を引くことが必要なのだ。子供騙しのようなルールだが、御堂の中では決して譲れないものだった。

 御堂の手の下で熱くなったケイの肌が荒く呼吸を刻んでいた。

 

 

 

 あの男はいつも、予期せぬ時に御堂の前に現れたが、会いたいと思ったときも、それを見計らったかのように御堂の前に現れた。

 夜遅く、AA社のビルを出た御堂に、まるで約束を交わしていたかのように、男はにこやかな声で話しかけてきた。

 

「こんばんは、御堂さん」

 

 御堂は男の姿を確認して目を細めた。Mr.Rだ。場違いな黒衣姿と長い金髪は相変わらずで、この男が現れるときはいつも周りに人気がなく、まるで異世界に紛れ込んでしまったかのような不安な気分にさせられる。

 御堂を見詰める金の眸が輝く。

 

「犬はいかがでしょうか、お困りのことなどございませんでしょうか」

 

 優しげな素振りで話しかけてくるMr.Rに、御堂は足を止めると真正面からその顔を見返した。

 

「Mr.R、お前は言った。三ヶ月後、私が飼い主としてふさわしければこの犬を与えると。それ以外の場合は犬を引き取ると」

「ええ。確かに、そう申しました」

「だが、お前は肝心な情報を私に伝えなかった」

「はて?」

「飼い主としてふさわしいかどうか、どのような判断基準で決定されるのかだ」

 

 御堂の言葉にMr.Rは目を瞬かせ、そして面白いものを見つけたかのように微笑んだ。

 

「それは、私の主観的な判断に基づきます」

「ということはお前の気分次第か」

「そう言ってしまえば身も蓋もないですが、私は公正に判断するつもりですよ」

「公正ね……」

 

 疑わしげな眼差しを返す。だが、Mr.Rの態度は平然としたものだった。

 

「私はあなたと同じ答えを出します。あなたが犬の飼い主としての自覚があるかないか、ご自分の胸に聞いてみればよろしいでしょう」

「……」

 

 御堂を見つめるMr.Rの金の眸がその色を深めた。

 

「御堂孝典さん、私が与えたのは『犬』です。人間ではありません。そのことをお忘れなきよう」

 

 口元に薄い笑みを刷きつつも、言葉は平坦だった。

 御堂は知らずに身体の横に降ろした拳を握りしめていた。この男は御堂のすべてを知っているのではないか。そんな不安に襲われる。御堂はすでにケイを犬扱い出来なくなっている。四つん這いを強制していた足の拘束を外し、服を与えている。すでに、飼い主としての自覚を失いつつあった。

 御堂は内心の動揺を悟られないよう、表情を変えぬまま質問を重ねる。

 

「もうひとつ、聞きたい。私が飼い主としてふさわしくないが、私が犬と共に暮らし続けることを望んだ場合はどうなる」

 

 ふふ……、とMr.Rは微笑んだ。

 

「おや、情が移りましたか?」

 

 揶揄するような口調で言われ、御堂は強い視線を返すと「失礼」とMr.Rは呟いて、言葉を続けた。

 

「あなたが飼い主としてふさわしくないと判断されてもなお、犬を望んだ場合ですね。それは今回のルールから外れる行為です」

 

 そう言い切られて御堂は身を固くした。だが、Mr.Rはにこりと微笑んだ。

 

「ですが、どうしてもと言うならば買い取っていただくことになります」

 

 あくまでもケイは商品として売買される対象らしい。

 

「買い取る? ……いくらだ?」

「あせらずともまだ先の話ですが、そうですね。あの犬にふさわしい対価をお支払いいただくことになるでしょう。それでは……」

 

 そう言って、Mr.Rは軽やかに笑いながら去って行った。

 その後ろ姿が闇に溶け込むのを、御堂は言葉もなく見送った。

(4)

 季節は夏へと移り変わり、日差しは日に日に強さを増している。

 輝くような朝の光に満ちた部屋で克哉はキッチンに立っていた。ほとんど食器の入っていない食器棚を覗いていると、背後から声が聞こえた。

 

「おはよう」

 

 ちょうどコーヒーメーカーから良い香りが漂うタイミングで御堂が起きてくる。

 克哉は軽く笑い返してコーヒーを注いだマグをテーブルに置いた。

 克哉の足は順調に回復し、立つことが可能になった。家の中を歩き回るくらいなら問題ない。

 一日中怠惰に過ごしているのも性に合わないので、御堂が起きてくる前に起きてコーヒーを用意するようにしたのだ。御堂の家の冷蔵庫には生鮮食品はほとんどなく、せめて卵とトーストでもあれば軽い朝食が作れるのだが、克哉も人のことは言えない。三食全部、外食で済ますことがほとんどだった。特に、朝食はコーヒーだけのこともざらだ。

 御堂は克哉に軽く礼を言って、まだ少し眠い目を擦りながら、テーブルに着くとコーヒーを口にした。コーヒーをしっかりと味わうように、切れ長の目を眇める。

 

「君のコーヒーの好みは私と似ているな」

 

 そんなことを言う御堂に克哉は苦笑を隠して微笑んだ。

 好みが似ているのではない。御堂に合わせているのだ。

 克哉もコーヒーだけは自分でよく淹れた。御堂が克哉の部屋に泊まったときは御堂と一緒に飲んだ。だから、御堂のコーヒーの好みもよく知っている。御堂の好みは深煎りのコクのあるコーヒー。御堂は、朝は苦めのコーヒーで目を覚ますのだ。克哉はどちらかというと、浅煎りのコーヒーをがぶがぶ飲む方が好きだ。

 あの日を境に、御堂と克哉の関係は大きく変容した。御堂は克哉を犬ではなく人間として扱うようになった。

 御堂と克哉は相変わらず同居を続け、お互いが望む場合はセックスもする。御堂のセックスの仕方も変わった。一方的に抱くのではなく、克哉の快楽をうまくかみ合わせ官能を引き出してくれる。抱かれる側だが、御堂とのセックスは悪くない。抱く側の人間だったのに、男を咥え込まされて達する自分を詰(なじ)る己も確かにいるが、御堂に抱かれると抗うことができない。

 御堂は相変わらず、セックスの最中に克哉に顔を見せようとはしないし、克哉の顔を見ないですむ体位を好む。それでも、克哉の跳ね上がる息から、汗ばむ肌から、何をどう感じているのか読みとって巧みに快感を暴いていく。その一方で自分が達するときは克哉から顔を背け、目を瞑る。だが、克哉の身体で感じて呼吸を荒げ、たくましく腰を遣う御堂に、克哉もまた興奮するのだ。

 身体だけの関係。今の二人の関係を一言で言い表すならこうだろう。御堂は親切だし、克哉を気遣ってくれるが、御堂はそれ以上深いところに克哉を踏み込ませる気はないようだ。

 結局のところ、ふたりの関係最初に比べれば断然良い方向に向かっているが、克哉が望む方向からは外れている。

 それでも、今の生活も捨てたものではなかった。

 このまま御堂の従順でお利口な飼い犬として暮らしていくのも悪くない。

 しかし、それは期限付きだ。クラブRに連れ戻されないようにするには、御堂と愛し合う関係にならなければならない。

 しかし、考えれば考えるほど『愛し合う』とはどういう状態なのか分からなくなる。

 空の色や雲の形に優劣がないように、愛の在り方は千差万別でそのひとつひとつに優劣はない。それならば、何が愛を定義づけるのだろうか。セックスは愛がなくても出来る。では、愛がなければ出来ないこととは何だろうか。誰もが誰かを自然と愛することが出来るのに、自分はその答えを未だに探し求めている。

 

 

 

「では、行ってくる。今日はそんなに遅くならずに帰れると思う」

 

 折り目正しいスーツ姿で革靴を履く御堂に、克哉は毎朝、玄関で律儀に見送っている。まるで、よくしつけられた犬のようだ。

 相変わらず御堂がいない日中は暇だった。だが、克哉はその時間を有効活用できるだけの能力は取り戻していた。

 この日、克哉は御堂を見送るなり、御堂の書斎に忍び込んだ。決して入ってはいけない、と言われていた場所のひとつだ。

 克哉は書斎のデスクに置かれている据え置き型のパソコンを立ち上げる。すぐにパスワードを要求する画面が出てきた。克哉はなめらかにキーボードを叩いて、英数字を打ち込んだ。御堂の前では多少ぎこちなく振る舞っているが、克哉の指はもうすっかり回復していた。パソコンの画面が切り替わる。どうやらパスワードはあっさり解除できたようだ。

 

 ――職場のパソコンのパスワードと同じにしているとは、不用心だな。

 

 心の中でほくそ笑む。

 御堂が職場のパソコンに設定していたパスワードは知っていた。覗き見たのだ。だからといって御堂のパソコンを勝手に操作したりはしなかったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 パソコンの使用履歴が残らないように、克哉はゲスト利用に切り替えると、ブラウザを開いた。ネット上のサイト、クラウドサーバーに接続する。そこに自分のアカウント名とパスワードを入れると、すぐにアカウント認証されて、克哉のクラウドスペースに保管されたファイルが展開された。確認する限り、克哉が死んだ日から今まで誰もアクセスした形跡はない。

 

 ――よし、残っていたか。

 

 克哉は胸を撫で下ろす。戸籍上、死ねば、故人が使っていた口座は閉鎖され、その口座から利用料を引き落としていたサービスもまた同様に停止される。克哉はこの世界では死んでいる。だから、生前の克哉が利用していたサービスはほとんど使えなくなっているはずだ。しかし、このクラウドスペースは誰にも教えていなかった。ここの利用金額は克哉が秘密裏に持っていた隠し口座から引き落とされている。そして、その口座番号、およびパスワードもこのクラウドスペースに保管されている。

 克哉はそのファイルを開くと、ネット上から隠し口座にアクセスした。そこにはかなりの金額が入っている。こちらもまた、手つかずのまま残っていた。警察の捜査が入ったら見つかるかも知れない、という心配は杞憂だったようだ。それもそうだ。克哉は被害者側なのだ。

 この口座の金は、いわばへそくりだった。帳簿にも乗らない裏金で、克哉以外、誰も存在を知らない。有事の際にでも、と思って準備していたが正解だった。これだけの金があれば、色々できる。

 

 ――まずは、携帯だな。

 

 いい加減、部屋の中で過ごすのも飽きている。外とつながる手段が欲しい。そのためには携帯電話の入手は最優先事項だった。

 携帯電話の契約は簡単だった。オンラインですべてが完結する。身分証は以前スキャンしておいた自動車免許証の画像データを送るだけで事足りた。まさか、契約者が死人であるとは疑いもしないのだろう。携帯の端末は配送にして、御堂の自宅を指定した。慎重に到着日時を指定して、御堂の不在時に直接受け取れるようにする。声を出すことは出来ないが、受け取りのサインを書くことは可能だ。無愛想に思われるくらいで、問題なく受け取れるだろう。携帯の隠し場所は慎重に考えなければならないが、電源を切っておけばソファの隙間で十分だろう。

 こうして克哉は一通りの手続きを終えると、ふと思い立って、AA社のサーバーに接続を試みた。御堂のことだ。メールや書類はパソコン間で常に同期しているだろう。だからこのパソコンをいじれば、御堂が今どんなコンサルを引き受けているのか、また、AA社の現状も知ることができる。それだけではない。ヴァーチャル・プライベート・ネットワーク(VPN)を用いれば、AA社のクラウドサーバーに接続することが出来、機密指定のファイルにもアクセス出来る。

 IDは自分のものを使っても良かったが、あとで利用履歴を調べられたときにまずいことになるかもしれないと、メンテナンス用に使うダミーIDとパスワードを用いる。これだと参照権限しかないが、ファイルをいじる必要もないし十分だ。

 接続は問題なく出来た。それはそうだ。AA社のセキュリティシステムの構築は克哉が深く関わっている。誰にも気付かれずにAA社の内部情報を探るのは造作もないことだった。

 暇つぶしも兼ねて、AA社が現在取りかかっているファイルを参照する。その案件をざっと眺めて、気が付いた。御堂は、克哉が殺害されてから新しいコンサルティングを一切受けていない。

 

 ――AA社をたたむ気なのか?

 

 実際そうなのだろう。コンサルティング依頼の打診数も激減していた。代表取締役社長が殺されるという陰惨な事件があった後だ。わざわざ渦中のコンサルティング会社に依頼しようとする物好きはいないだろう。だがそれを差し引いても御堂はコンサルティングを制限しているようだった。AA社の社員も人員整理を行っているようで、明らかに事業を縮小しようとしている。克哉不在となった今、AA社を継続させるモチベーションを失ったのかも知れない。

 

「ふぅ……」

 

 小さくため息をついた。胸の奥が鈍く軋む。MGN社を辞める決意をしたところで、再会した御堂を誘い、共に起ち上げて、共同経営者としてやってきた会社だ。克哉が死に、御堂との関係が終焉したいま、AA社も終わらせるというのは当然の帰結なのかもしれない。

 実際、今の克哉に手伝えることは何もないのだ。御堂の決断に異を唱えることも出来ないし、その資格もない。

 胸に沸き起こる寂寥感を感じながら、何気なしに克哉は月天庵のファイルを開いた。元々これが原因で澤村と対立する羽目になったのだ。月天庵は克哉たちが提案した企画や業務改善計画のおかげで業績は大幅に改善していた。だが、依頼はまだ完結していない。最後に、工場の移転という一大事業を行って終了となる。そのための移転候補地の選定をAA社は任されていた。克哉が生きている間は場所の候補地をいくつか挙げるだけで終わっていた。その後、どうなったのだろうか。

 克哉は移転候補地のファイルを開き、確認していく。すでに最終候補地がひとつに絞られ、契約寸前まで行き着いていた。候補地は事前に検討していた土地ではなかったが、話を聞きつけた不動産会社から持ち込まれた物件のようだった。オーナーは売却に好意的で、市場に売りに出す前に好条件で月天庵側に売却してくれるという。御堂の査定でも工場の移転先として理想的な土地でトントン拍子に話は進み、あとは正式な契約を交わすだけだ。克哉はそのままファイルを閉じようとして、違和感を覚えた。

 

 ――何か、おかしい。

 

 あまりにも出来過ぎた話に感じた。御堂が丁寧に確認したのだ。土地自体は物件としては良いものなのだろう。だが、タイミングがあまりにも良すぎる。嫌な予感がした。

 登記情報提供サービスのホームページにアクセスし、その土地の名義を確認する。同時に、土地近くの不動産会社にダミーの名前と身分で土地を探している体で問い合わせのメールを送った。聞きたいことはただひとつ、その土地が売りに出るという情報があるかどうかだ。

 平日の日中だったこともあり、数時間後には返事が来た。売りに出るという話は聞いたことがない、との返事だった。もちろん、オーナーが秘密裏に買い手を探している可能性はあるだろう。だが、地元の不動産会社ならその動向を察知している可能性が高い。それを知らないと言うことは、ひとつの可能性が浮上する。

 克哉は眉をひそめた。表情を厳しくする。確証のない疑いレベルの話だ。だが、克哉の勘は限りなく怪しいと告げている。

 この疑念を御堂に伝えるべきなのかどうか。

 佐伯克哉は死んだ。だから、生ける死人と化した克哉は今更AA社に関わるべきではない。

 そう、割り切ることもできた。

 しかし、このままでは御堂が厄介ごとに巻き込まれるかも知れない。

 しばしの間克哉は逡巡し、そして、御堂に向けて、一通の匿名メールを送った。

 

 

 

「すまない、遅くなって。仕事でちょっとトラブルが起きてな」

 

 その日、御堂は今朝方、克哉に告げた帰宅時間から大幅に遅れて、真夜中に帰ってきた。

 克哉はもちろん起きていた。鍵が解錠される音を聞くなり、玄関まで行って、御堂を迎える。

 仕事上のトラブル、と御堂は曖昧に言ったが、克哉はそれが何か熟知していた。そのトラブルの発端を引き起こしたのは間違いなく克哉が送った一通のメールなのだから。だが、その後の御堂のメールの送受信履歴を確認する限り、御堂は克哉のメールに気付き、最悪の結末が回避されたことも知っている。

 御堂の顔は疲労が滲んでいたが、それを克哉の前で取り繕う程度の余裕はあった。たぶん、メールを送った克哉の判断は正しかったのだろう。

 帰ってきた御堂は手に紙袋を片手に持っていた。すぐに何だか分かった。ワインだ。克哉の視線に気が付いたのか、御堂はその紙袋を見えるように掲げた。

 

「ケイ、ワインは飲むか?」

 

 克哉は頷いた。御堂から紙袋を受け取って中を覗くとやはり赤ワインだ。帰りにどこかで入手してきたようだ。

 

「チーズやつまみも買ってきた。外で飲むと飲み過ぎるからな。家で飲むことにした」

 

 先日の酔い潰れて帰ってきたことを反省するかのごとく、御堂は少し冗談めかして言いながら、スーツのジャケットを脱ぐとキッチンへと向かった。

 克哉も後をついていって、グラスや食器を出すのを手伝う。たいした食器は持っていないのに、ワイングラスだけはしっかりとそろえているのは、いかにも御堂らしい。

 リビングのセンターテーブルにグラスを準備していたら、御堂が言った。

 

「せっかくだ。バルコニーで飲もうか」

 

 御堂のマンションは広いバルコニーが付いていて、そこにテーブルセットが用意されているのは知っていた。

 御堂がベランダに通じる窓を御堂が開ける。以前、そこにMr.Rが立っていたのを思い出して克哉はぎくりとしたが、怪しい人影はなく、開いた窓から湿った夜風が吹き抜けてくる。

 克哉と御堂はテーブルと椅子を軽く拭いて、バルコニーでワインを開けた。

 バルコニーとはいえ久々の外の世界だ。夏の夜風は生暖かかったが、柔らかな感触だった。高層階のベランダはガラス張りで、目の前に東京の夜景が展開される。高層ビルが建ち並ぶ界隈は見晴らしが良いとは言えなかったが、夜になれば無数の光が散らばり、煌めくようなまばゆい夜空が地上に広がっていた。それとは対照的に頭上の空は星も見えず侘しさが漂っている。

 軽く乾杯をして御堂がひと口、ワインを口に含んだ。

 

「第三世界のワインだが、中々いけるな」

 

 そう、感想を口にした。

 第三世界のワイン、すなわちEU諸国以外のアメリカやオーストラリアなどワイン新興国で作られたワインのことだ。御堂が持ってきた赤ワインはニュージーランドのものだったが、軽めの口当たりだが芳醇な香りと味わいでいくらでも飲めた。

 御堂のワインに対する見識の深さは言わずもがなだが、伝統と格式に支配されるフランスワインだけにとどまらず、新しい技術をどんどん取り入れて改革を試みる新興国のワインにまで興味は及んでいるようだ。

 克哉にとっては外の世界同様、数ヶ月ぶりのアルコールだ。速いペースでワイングラスを呷(あお)る克哉を見て御堂が感心したように言う。

 

「君もワインが好きなのか?」

 ――あなたによく付き合わされましたからね。

 

 返事代わりに頷くと、御堂は気を良くしたようで、克哉のグラスにさらにワインを注いだ。代わりに御堂のグラスにもワインを注ごうとしたが、さりげなく手でグラスを防がれる。そういう気遣いは不要と言いたいのだろう。

 御堂は一度部屋に戻るとさらにワインを持って戻ってきた。どうやら、とことん飲む気になったらしい。もちろん、克哉も付き合うつもりだった。

 ほどよく酔いが回ってくる。アルコールに火照る頬を撫でる夜風が気持ちよい。高層階にある御堂の部屋には地上の喧騒は届かず、二人だけの心地よい空間でワインを口にした。

 

 ――それにしても……。

 

 静かだった。普段なら御堂のワインに関する蘊蓄が聞けるのだが、御堂はずっと静かにグラスを傾けている。喋ることが出来ない克哉と御堂のふたりきり。御堂が黙れば、当然、沈黙が支配する。

 御堂は隣に座る克哉の存在を忘れたかのように、グラスを揺らし、そして時折ワインを口に含む。御堂の視線は何にもない暗い空間へと向けられ、その焦点はどこかぼんやりとしていた。

 御堂は一人で酒を飲むときは、こんな風に静寂を纏って酒を味わうのかも知れない。そんな御堂の時間を邪魔するのも躊躇われて、克哉は息を潜めるようにして気配を殺す。

 ゆっくりとした静かな時間が流れる中、唐突に、御堂は呟いた。

 

「恋人がいたんだ」

 

 思いがけず放たれた言葉に息を呑む。憂(うれ)いを帯びた御堂の表情に目を奪われた。御堂の視線はグラスの中で小さく波紋を立てる赤ワインに向けられていた。御堂を見つめていると、形の良い唇が再び動く。

 

「少し前に、死んだ。……殺されたんだ。犯人は捕まっていない」

 

 御堂が口にした言葉はすぐに風に乗って流れさり、寸断された静寂が重みを増して戻ってくる。

 御堂はなにか葛藤するかのように、口を開きかけては沈黙し、そして、ようやく掠れたような声が響いた。

 

「悔やんでいるんだ。ああなる前に、一度でもあいつとちゃんと話し合えば良かったと」

 

 詳細を省いて語られる御堂の言葉は途切れ途切れで、他人からしたら何のことか分からなかっただろう。だが、当事者である克哉は痛いほどに分かった。克哉が殺される寸前、御堂は克哉と対立していた。それを御堂は悔やんでいるのだ。対立と言っても御堂が一方的に克哉を避けていただけで、克哉は克哉で、澤村を抱いたことを御堂が嫉妬しているくらいにしか考えていなかった。御堂が克哉に対して何を怒っているのか、正面切って向き合おうとはしなかった。

 

「私はあいつを助けることが出来なかった。あいつは手の届かないところへ行ってしまった。きっと、私を恨んでいるだろうな」

 

 絞り出された声は、頼りなく揺らいでいた。

 克哉はいたたまれずに、御堂から目を逸らし夜景へと視線を落とした。高層ビルの合間を縫うように幹線道路が走り、車のライトが刻一刻と流れて光の川を形作っている。その無数の光の流れを無言で見つめる。

 胸の中に言いようのない苦しさが込み上げて来た。

 御堂は克哉を愛していた分だけ、哀しんでいる。

 克哉に怒った分だけ、後悔している。

 そして、克哉を失ってしまったせいで、行き場を失った想いを持て余している。

 今頃になって、分かった。

 かつての自分は幸せだったのだ。

 だが、その幸せは、若くして社長となり不自由しない生活を送っていたからでも、すべてを思い通りに支配できていたからでもない。ただひとつ、御堂に愛されていたから、幸せだったのだ。

 そんな単純なことに気付けなかったから、手中にあった幸せを失った。

 克哉は御堂にふたたび視線を向けた。だが、御堂はどこか遠くに心を飛ばしてしまったかのように、視線を伏せ、克哉を視界から消している。

 発することの出来ない声の変わりに克哉は心の中で答える。

 

 ――違う、御堂。

 ――あんたはどうやっても俺を助けることは出来なかった。

 ――俺は、自分が正しいと信じて疑っていなかった。

 ――俺はあんたを恨んでなんかいない。

 ――だから、あんたは何ひとつ悔やむ必要はないんだ。

 

 そう伝えたいのに、克哉はひと言も口にすることは出来なかった。しかし、声に出せたとしても、正直な自分の気持ちを伝えられていたかどうか、怪しかった。いくらでも喋ることが出来たときでさえ、克哉は御堂と向き合って言葉を交わすことを避けていた。自分の心を虚飾で隠し、御堂に踏み込ませはしなかった。

 その時の後悔と祈りを込めて、テーブルに置かれた御堂の手の上に、そっと手を重ねた。

 ハッと御堂が顔を上げて、克哉を見た。その眼差しを真正面から捉える。そして、心の中で告白する。

 

 ――俺はここにいる。

 

 だが、御堂は克哉の手の下で自らの手を強ばらせた。

 恋人関係だったとき、こんな風に手を重ねると、御堂は指を深く絡めてきた。だが、今、御堂の手は克哉の手の下で固まったまま動かない。

 それが、ケイが決して超えられない壁なのだ。

 殺されて数ヶ月経ってもなお、佐伯克哉は御堂の中に深く刻み付けられている。

 そしてまた、克哉はようやく理解した。

 克哉の恋敵は佐伯克哉なのだ。

 これではまるで『人魚姫』そのものではないかと思う。

 人魚姫には恋敵がいた。王子が浜辺で出会った娘だ。その娘に命を助けた手柄を横取りされた挙句、王子まで奪われてしまう。

 Mr.Rも、御堂から佐伯克哉記憶を奪うなら一部と言わず全部奪ってくれれば良かったのに、そうしなかったのは、こうなることを予期していたからだろう。

 こうまでして御堂の中に深く居座る佐伯克哉に嫉妬する。同時に、出来ることなら御堂に自分が佐伯克哉だと分かって欲しいと思う。

 こうまでして自分が佐伯克哉に戻りたいのは何故なのか。それは、佐伯克哉はただ一人、御堂孝典に愛されていた人間だからだ。

 御堂は困ったように笑い、克哉からそっと視線を外して言った。

 

「どうやら、飲み過ぎたようだ」

「……」

 

 それは確かにそうだろう。御堂は克哉につられて速いペースでワインを飲み過ぎたのだ。だから、克哉の前で秘めていた感情を吐露してしまったのだ。

 自分に今できることは何だろうか、そう考えて、克哉は重ねた御堂の手を強く握りしめた。今度こそ、御堂はぎくりと表情が固まる。上体を御堂の方に乗り出した。顔に顔を寄せる。御堂は咄嗟に克哉を避けようとしたが、テーブルの上で手を固定されているせいで動けなかった。それでも克哉から顔を背ける。

 本当は御堂とキスをしたかった。だが、拒否されて、残念に思いながらも御堂の整えられたうなじに唇で触れた。白い肌がアルコールで上気している。浮き上がる筋肉の筋を唇で辿った。くすぐったさに御堂が首を竦めた。そして、あきれたように言う。

 

「君は時々強引だな」

 

 克哉の唇に込めた意図をちゃんとくみ取ってくれたらしい。もう一度克哉の方を向いた御堂の顔には、先ほどまでの沈鬱さは消えていた。沈みかけた場の雰囲気を振り払うかのように、克哉は淫蕩に微笑みかけた。

 

 

 

「は……、くっ」

 

 浮き上がりそうになる身体を、克哉は手すりにしがみついて堪えた。地上を覗き込むような体勢の克哉を御堂が背後から犯す。眼下にははるか遠くに地上があった。

 透明なガラスの手すり、このバルコニーを覗かれでもしたら、御堂と克哉がここで何をしているのかすぐに露見してしまうだろう。そうでなくても、隣の部屋に声が漏れ聞こえてしまうかも知れない。

 御堂が克哉の耳元で囁く。

 

「大きな声を出すなよ。恥ずかしい姿を晒されたくなかったらな」

 ――それを言うならあんたも一緒だろう。

 

 意地悪く言う御堂を睨みつけたいが、背後からグッと突き入れられて漏れそうになる声を、克哉は手の甲で口を塞いで抑えた。

 腰がぴったりと密着する。根元まで挿れられて内壁を深く乱される。

 アルコールのせいか、御堂が克哉の内腔を擦り上げるたび、火傷(やけど)したかのようにズクンと膿んだ熱を持つ。

 

「っ、……ぁ」

 

 短く低く呻く。脚がガクガクして、腰が落ちそうになる。それでも立っていられるのは御堂に穿たれているせいだ。

 突き入れられるたびに、勃ちきった克哉のペニスは先走りを散らす。発情しきった身体は御堂の目に隠しようがない。

 克哉のシャツをたくし上げて、御堂の指先が克哉の胸の尖りを摘まむ。そこが男であっても快楽を生み出す場所であることを克哉は知っている。ぞくぞくとした痺れが御堂が触れたところから波紋のように広がって、悩ましげな声が漏れた。

 

「ふ……、ぅ、んんっ」

「君は相当の好き者だな」

 

 笑い含みの御堂の吐息が克哉の髪にかかった。快楽に荒げた御堂の息は熱を帯びる。

 二人して、したたか酔っ払って劣情に溺れる振りをしている。刹那の快楽に逃げ込んでいるのだ。

 それが分かっているからこそ、互いを煽り、煽られる振りをする。自分自身を錯覚させるほどに。

 それはまるで御堂の悲しみにつけ込んでいるようで、少しだけ気が咎めたが、御堂が克哉を抱くことでほんのわずかでも悲しみから目を逸らすことが出来るなら、それは決して無駄ではないと思った。

 他人の心の内は計りようがなく、御堂の悲しみの深さがどれほどなのか克哉に知る術はない。

 そもそも、克哉が御堂の支えになろうと思うのは傲慢な考えで、御堂は他人の力などまったく必要としてないのかもしれない。それだけの強さを御堂は持っている。克哉に踏みにじられた時だってたった一人で立ち直ったのだ。

 だが、御堂はきっと助けを必要としている。

 克哉にはそうと思い込む自由があった。

 そして、自分のためでなく御堂のためになら頑張れる気がした。

 御堂の動きが速く、強くなる。これ以上なく深くつながり、御堂は低く唸った。

 臍の奥で御堂のペニスが跳ねて、どっと精液がしぶく。

 その熱を感じながら、克哉も御堂の手の中に放った。御堂は手を濡らす克哉の精液を克哉のペニスに擦りつけるようにして扱き、克哉の最後の一滴まで絞り出す。

 

「……っ」

 

 克哉に深々と嵌めたまま、御堂は克哉を抱き込むようにして上体を重ねてきた。

 背中に、御堂の体温と熱を感じる。あまりにも激しい絶頂の余韻に浸っていると、御堂がいくらか乱れの残る声で言った。

 

「ケイ、心配しなくて良い。私は君をあの男に返したりしない」

 

 思わぬ言葉に、我に返って顔を起こした。御堂が言葉を続ける。

 

「私が飼い主として相応しくなければ、三ヶ月後に君を回収する。私が飼い主として相応しければ君はそのまま私のものになる。そうあの男は言ったんだ」

 ――何だって?

 

 御堂は克哉を預かったとだけ言っていた。その詳細を克哉は知らず、言葉通りの意味に捉えていた。

 御堂は自嘲気味に言う。

 

「私は飼い主としては失格だろう。誰がどう見ても」

 

 御堂の指が克哉の汗で濡れた後ろ髪を梳いた。その手つきは優しくて、その指先に何かしらの感情が込められているのではと錯覚してしまいそうになる。

 しかし、克哉の思考は目まぐるしく回転していた。御堂の言葉をひと言も聞き漏らさぬよう、神経を研ぎ澄ます。

 

「Mr.Rに確認した。私が飼い主として失格でも、私が望めば君を譲り受けることが出来る。対価は必要だが」

 

 身体を強ばらせている克哉を安心させるかのように、御堂は力強く言う。

 

「心配しなくていい。いくらであろうと、払う。そうなれば君は自由だ」

 

 克哉の髪を梳いていた御堂の指が克哉の首輪に触れる。御堂が絶頂の余韻に浸る一方で、克哉は凍えた手で心臓を鷲掴みされたような衝撃を受けていた。

 

 ――……そういうことだったのか。

 

 御堂は信じている。対価を払えば、克哉がMr.Rの手から逃れて自由になると。

 克哉はすべてのからくりを見破った。同時に、身体の芯から凍えるような寒気が噴き出す。

 暗いバルコニーで御堂に背を向けているのは幸いだった。そうでなければ、青ざめた顔を見咎められたかも知れない。

 

 ――この賭けのプレイヤーは俺とMr.Rではない。俺と御堂だ。

 

 克哉がMr.Rとの賭けに乗ったように、御堂もまた、本人がそうと気付かぬうちに賭けに乗らされたのだ。ポットの上に置かれたチップは、克哉自身の運命だと当然のごとく考えていた。だが、御堂の運命もまたポットの上に置かれていたのだ。

 Mr.Rは賭けのプレイヤーではなかった。カードを配りゲームを支配するディーラーだ。そして、克哉が競うべき相手は御堂だったのだ。

 御堂と克哉が愛し合うようになったなら、克哉は犬の運命から解放される。すなわち、自由になれる。同時に御堂は飼い主失格の烙印を押される。犬を人間のように愛する飼い主は飼い主のあるべき姿とは言えない。しかし、それでも、御堂はケイを望むだろう。それが愛し合う者の選択だからだ。結果、御堂は対価を支払う羽目になる。

 御堂が支払う対価とはすなわちペナルティだ。御堂は金で解決できると考えているが、それは甘い。ゲームのルールを歪めたことに対するペナルティ、それは途方もなく高くつくだろう。対価を払うとは等価のものを差し出すことだ。犬の対価は、同じ犬だ。次は御堂が犬に堕ちる。

 誰かが勝てば、その分の負けを他の参加者が背負う。それが賭けの厳然たるルールだ。Mr.Rはゲームの外で勝負の行方を愉しんでいるだけなのだ。

 その事実に愕然とした。

 

 ――人魚姫に幸せな結末など存在しない。

 

 Mr.Rはそれを知っていて克哉をけしかけたのだ。

 もし、人魚姫が愛を叶えたとしても、その幸せは儚いものだっただろう。海の中に住む種族と地上で暮らす人間、端から交わることなど許されない関係だった。そうと知らずに王子が人魚姫に愛を誓ったとしたら、神の怒りに触れて、王子が人魚姫の代わりに海の泡(あぶく)になる。

 

 ――御堂にそんな運命を押し付けるわけにはいかない。

 

 心の水面に一滴の雫が落ちて、波紋を広げる。視界を覆う霧が晴れて、何もかもを理解した。

 愛するとは何か。

 それは、相手の幸せを願うことだ。相手のために自らを犠牲にすることを厭わぬほどに。

 人魚姫は王子を愛していた。だから、王子の幸せを願い、自ら海へと飛び込んだ。

 その点では、今の克哉は間違いなく御堂を愛していた。

 だから、迷わず決意した。

 この愛は成就させてはいけない。

 そのためには、決して自分の正体を明かしてはならないのだ。

(5)

 その日、AA社の執務室で御堂は一通のメールを受信したことをパソコン画面の隅に点滅したポップアップで気が付いた。

 メーラーに切り替える。リストの一番上に並んだメール、差出人は英数字をランダムに並べただけのものだ。スパムメールかと削除しようとして思いとどまった。メールの件名が『月天庵の工場の移転候補地について』と御堂が取りかかっている案件そのままだったからだ。

 一体何のメールだろうか。ウイルスチェックはしてあるから大丈夫だろうが、御堂は訝しげにメールを開いて、その文面に息を呑んだ。

『月天庵の工場移転、候補先の土地は地面師詐欺の可能性がある。オーナーの知人確認はしたか?』

 本文は簡潔だった。メールに併記されている土地の地番は、まさしく移転候補地として考えていた土地の地番だった。今日の午後に正式な契約を交わすところで、一体どこから情報が漏れたのか、それ以上にメールが警告している内容が気になった。

 地面師詐欺、不動産のオーナーと偽って土地の売買を持ちかける詐欺だ。今回は工場の移転ということもあり、取引金額は億を超える。不動産会社から紹介された土地のオーナーは運転免許証とパスポートで身分を確認していた。自分たちで土地の登記の書類も取り寄せ、その土地の持ち主だと確認している。問題は、詐欺師がオーナーを詐称し、パスポートと運転免許証を偽造してオーナー本人だと成りすます場合だ。その詐欺を防ぐために、土地近隣の住民や知人に顔写真を確認してもらう。それを知人確認という。

 今回は知人確認を怠ったのだろうか。いいや、したはずだった。確か、不動産会社の社員、土地のオーナー、月天庵の社長とともに現地確認に行ったときだった。その場にたまたま通りかかった男性数人がオーナーに話しかけて談笑していった。聞けば近隣の住民だという。その住民と親しげに話すオーナーの様子に、この土地のオーナー本人であると確信したのだ。だが……。

 

 ――その住人は、たまたま通りかかったのか?

 

 果たして、その住民までも詐欺グループの一員だったらどうだろうか。胸に暗雲が立ちこめる。このまま見過ごしてはいけない気がした。

 

「藤田、緊急だ」

「はい!」

 

 オフィスフロアの藤田に向かって鋭い声を飛ばす。藤田はやりかけの仕事をそのままにすぐに駆けつけてきた。土地に関する書類を取り出して藤田に渡す。

 

「この土地のオーナーの知人確認を直ちに行ってくれ」

 

 藤田は目を丸くする。

 

「知人確認をもう一回ですか?」

「向こうから提出された身分証明書をもって、土地の近隣を回ってくれ。オーナー本人かどうかもう一度、確認するんだ。契約は今日の午後だ。至急で頼む」

「分かりました」

 

 それ以上は四の五を聞かずに、藤田は書類を確認すると即座にAA社を出た。

 それから少しして、藤田から御堂の携帯に連絡があった。電

 

『御堂さん、土地近くの住民に確認しましたが、オーナーはまったくの別人でした』

「そうか、分かった……」

 

 携帯を持つ手が震えた。藤田もまた、ことの重大さに気付いて、声が掠れている。

 御堂は藤田との通話を切ると、すぐさま月天庵に連絡をした。そして、一言告げる。

 

「この取引は中止です。……地面師詐欺でした」

 

 それからが大変だった。警察に連絡して事情を説明し、契約の場に同行してもらった。そこに現れた土地のオーナーと名乗る人物はその場で身分確認が行われ、オーナー本人とは無関係の別人であることが判明し、地面師詐欺の容疑で逮捕されたのだ。

 寸前に気付くことが出来たので被害はなかったが、自分の迂闊さに歯がみする。

 タイミング良く出てきた、条件にぴったりの土地。もっと慎重になるべきだったが、余裕を失っていた自分にはその不自然さを見抜けなかったのだ。

 今朝届いた匿名のメールを目にしなければ、契約を交わしていただろう。結果、月天庵は莫大な金額をかすめ取られ、御堂もまた詐欺の片棒をかつがされるところだった。

 後ほど警察から聞いた話では、詐欺グループに月天庵が土地を探しているという情報のたれ込みがあったという。土地の条件から予算まで詳細に記載された極秘扱いの内部情報で、それを元に詐欺を計画したそうだ。そんな機密情報を盗んでたれ込んだのは誰か。一人の男が頭に浮かぶが、ここからは警察の捜査だ。御堂が出る幕ではない。

 警察の事情聴取も終わり、ようやく長い一日が終わろうとしていた。執務室のデスクで御堂は深くため息を吐いた。

 工場移転地の選定はまた振り出しに戻る。

 予定通りにコンサルティングを完了することが出来るのか気がかりだが、それ以上に気になることがあった。

 詐欺ではないかと御堂に警告したメール、あれは一体、誰が送った者なのだろうか。御堂はそのメールに返信を書いたが、すぐさま、宛先不明でエラーメールが返ってきた。ダミーアドレスから送られてきたのだ。

 送信元不明の一通のメール。その送信者を調べる方法はないだろうか。すぐに、一人の男が頭に浮かんだ。

 五十嵐太一、克哉の紹介で知り合った青年だ。連絡先は聞いてなかったが、アルバイトをしている喫茶店の名前は覚えていた。そこに電話をかけたら本人につながった。すでに夜も更けていて、喫茶店を閉めて後片付けをしていたところだという。事情を話すと、すぐに駆けつけてきてくれた。どうやら暇を持て余しているようだ。

 克哉は、太一がバイトをしている喫茶店近くに住んでいて、知り合ったそうだ。御堂と同じ東慶大の学生だが、御堂と違って不真面目な学生のようで留年を重ねているという。だが、プログラミングを始めとするコンピューター関係の腕は確かだとか。

 ジーンズにTシャツというラフな格好で現れた太一は、自前のノートパソコンをリュックの中に入れていた。御堂のパソコンを操作して、件(くだん)のメールを自分のパソコンに転送するとヘッダーを解析する。そして、その結果をざっと眺めて「ふーん」と呟く。

 

「何か分かったのか?」

 

 太一の後ろから肩越しにパソコン画面を覗き込む御堂に、太一が答える。

 

「送信者を隠したいだけなら、使い捨てのメルアドを使えばいい。だけど、それだけじゃない。このメール、いくつものサーバーを経由して厳重に発信元を隠そうとしているね」

「どういうことだ?」

 

 太一はキーボードを素早く叩きながら、御堂に返事をする。

 

「つまり、送信者が誰だか絶対に教えたくないんだ」

「なぜ、そこまでする?」

「さあね。でも、まあ、オレにかかればこれくらい簡単だよ」

 

 そう言って太一は手慣れたようにいくつかのコマンドをたたき込むと、あっという間に作業を終えた。そして、何やらメモした一枚の紙を御堂に手渡す。そこにはピリオドで区切られた四つの数字が並んでいた。

 

「これが、メールの送信者が使った端末のIPアドレス」

「これだけじゃ分からないぞ」

 

 御堂はそのメモに目を留めて眉をひそめた。

 二桁から三桁の四つの数字。IPアドレスがインターネット上の住所にあたるものだとは理解していたが、この数字からどうやって送信者の身元を割り出すのか、御堂には理解不能だ。

 だが、太一もまた肩をすくめた。

 

「ま、日本国内だと言うことは分かるけど、それ以上の詳しいことを知りたいならプロバイダから情報を開示してもらう必要があるね」

「プロバイダに問い合わせればいいのか?」

 

 太一は首を振った。

 

「問い合わせてもまず無理だよ。個人情報保護案件だから」

「それならどうすれば……」

「裁判所の発信者情報開示命令が必要だね。脅迫とか嫌がらせならいけると思うけど」

「……それは無理だな」

 

 むしろ逆だ。御堂はこのメールに助けられたのだ。

 悪質な嫌がらせならともかく、被害のひとつも受けていないメールの発信元を開示せよ、と裁判所に申し立てるのは難しいだろう。それに、時間もかかる。

 どうやら、ここで諦めるしかないようだ。

 しかし、気持ち悪さは拭えない。このメールの送信者は、AA社の内情を把握していて、御堂がどのようなコンサルを受けているのかも知悉(ちしつ)しているかのような指摘だった。

 このメールのおかげで窮地から逃れられたとしても、社内のセキュリティについては再度しっかりとチェックしておかねばならないだろう。信用問題に関わる。

 ノートパソコンをシャットダウンし、帰り支度をした太一が御堂へと顔を向けた。

 

「でも、どうしてこのメールがそんなに気になるのさ。別に嫌がらせのメールじゃないんでしょ?」

「それは……」

 

 答えるのをしばし躊躇い、そして、正直に言った。

 

「……似ているんだ。佐伯のメールに」

 

 用件だけの簡潔な内容。だが、すべてを見透かしているかのように致命的なところを突いてくる。

 

「克哉さんの?」

 

 御堂の言葉に太一はハッと目を見開いた。太一も克哉の事件のことは当然ながら知っている。お互い、あえて触れないようにしていた話題だ。太一はしばし沈黙し、無理に作ったような笑顔を御堂に返す。

 

「これは、ちゃんと実体のある端末から送られたメールだ。幽霊はIPアドレスを持たないらしいから、誰か、ちゃんと生きている人間が送ったメールだよ。それは間違いない」

「それはそうだな」

 

 御堂もまた、笑みを作って返した。冷静になるまでもなく、このメールが克哉からである可能性は万に一つもないのだ。死人はメールを書くことが出来ない。

 すぐに駆けつけてくれた太一に謝礼を払おうとしたが、それは堅く断られる。代わりに丁重に礼を言って見送った。

 時間を確認すれば、ずいぶんと遅い時間になっていた。ケイに伝えていた帰る時間を、大幅に過ぎている。

 急いで帰宅しようとして、ワインを買って帰ろう、と思い立った。

 無性に飲みたい気分だった。

 ケイが来て、克哉に囚われていた自分に区切りをつけて一歩踏み出そうとした。だが、そんなときに、謎めいた一通のメールが克哉を呼び起こす。

 たとえ偶然だとしても、何かしら意味のあることではないかと考え込んでしまう。

 今日一日の出来事に酷く疲れていた。だが、思考は熱に浮かれたように落ち着かなかった。

 

 

 

 

「おはよう」

 

 いつもの朝。

 寝室から出てリビングに入ると、コーヒーの良い香りが漂っている。挨拶の声をかけると、ケイがちらりと笑い返して、テーブルの上にコーヒーを準備する。

 その所作をじっと見つめた。

 ここ数日、ケイがどこか変だ。

 御堂に対しては笑みを絶やさないが、ふとした疑問、深く考え込むような素振りを見せる。それもほんの一瞬で、御堂の視線に気が付いた途端、取り繕うような笑みで何事もなかったかのように振る舞う。

 ワインを二人で飲んだ夜に、御堂が克哉のことを告白したのがきっかけだったのだろうか。

 ケイを見捨てるつもりはなく、責任を持ってその身柄を引き取るつもりだと告げた。だが、ケイはそれから時折何かを考え込むように、表情を消してぼんやりとしていることがある。

 Mr.Rに言われた期限はあと一ヶ月を切っていた。当初は、厄介ごとから早く逃れたくて、ケイをMr.Rに返すことしか考えていなかったが、今は違う。一緒に暮らせば情も移る。ふたたび犬として扱われることを分かっていてケイを手放すことは出来ない。そんな御堂の心情の変化を見越して、Mr.Rはケイを預けたのかも知れないとも思う。

 言葉を喋らないケイが何を考えているのか、その心情を推し量るのは難しい。だが、多分、ケイは御堂に引き取られた後のことを心配しているのではないか。ケイにちゃんとした戸籍があるのかどうかも疑わしく、このままでは日本で生きていけるかどうかも怪しい。

 ケイの身元を探すべきだろう。首輪が外れたとしても、帰るところがなければ、ケイは孤独のままだ。いくら御堂がサポートするつもりでも、所詮は他人だ。もし家族やケイの身の上を心配している相手がいるのなら、ケイを引き合わせてやりたいと思う。

 だが、御堂のそんな思惑は中々うまく行かなかった。肝心のケイの協力が得られないのだ。手が動かせるようになったから、紙とペンを渡して会話を試みたが、回復したと思った指はまだ完全ではないようで、早々にペンを放り出された。それならば、とタブレット端末を渡し、ケイの名前や住んでいたところを聞いてみたが、ケイが面倒そうにタブレットを操作して返した回答は『覚えていない』の一点張りだ。年齢も誕生日も家族のことさえ覚えてないという。

 どうして、こんな犬として身をやつしているのか尋ねても『記憶がない』との返事だ。何かしら覚えていることはないのか、と問い詰めても『何も』と投げやりな答えしか返ってこない。唯一反応があった問いは、Mr.Rについての問いで、あの男との関係を聞いた途端、ケイは眼光を鋭くし、『あの男には近づくな』との文字をタブレットに表示させた。それ以上は何を聞いても答えてくれない。さすがにここまでくると、ケイが本当のことを言っているとは思えなかった。意図的に、自分の身元を隠そうとしているのではないかと思えてくる。つまり、御堂はケイに信用されていないのだ。

 こうまで気を遣っているのにそんな態度で返されると腹が立つが、それ以外の点ではケイは献身的だった。御堂の生活リズムや習慣を熟知して、先回りして御堂が過ごしやすいように家事をして、部屋を整えてくれる。それに、御堂が自宅で仕事をしたいときは邪魔をしないよう、大人しくしている。だから同居もうまくいっている。それはまるで賢く従順な犬を飼っているかのようだ。

 だがこのまま期限が来るまで手をこまねいているつもりはない。御堂は御堂のやるべきことをすべきなのだ。ケイの協力が得られないなら、多少の手荒いまねも致し方ないだろう。御堂がケイの情報を得ることは、Mr.Rとの今後の交渉にも有利になるはずだ。

 久しぶりの休日、御堂はゆっくりと起きてシャワーを浴びた。バスローブをまとってリビングに向かい、ソファでくつろぐケイに声をかけた。

 

「ケイ」

 

 低い声で呼ぶと、ソファに座っていたケイが立ち上がり、御堂に歩みを寄せる。

 こうやって正面を向いて立つとケイの身長の高さが分かる。御堂は百八十センチある長身だが、ケイと視線の高さはほとんど変わらない。ケイの無駄な脂肪のない締まった筋肉が乗る身体もシャツの上から透けて見える。

 ケイのつま先から頭のてっぺんまで視線を這わせた。その視線に帯びるある種の熱を感じ取ったのか、ケイが目を眇める。

 

「たまにはこういうのを使ってみようか」

 

 御堂が背後に隠していたものをケイに見せると、ケイの表情がわずかに変化した。だが、異論はないようだ。口元を笑みの形にして同意を示す。

 御堂の寝室へとケイを誘った。ベッドの上に乗せたケイの服を脱がして眼鏡を外すと、アイマスクを付け、手首と足首を拘束具でつなぐ。

 視界を塞がれて怯えるかと思いきや、そんな素振りもない。だが、ここからだ。

 御堂は寝室に準備していた小瓶を取り出した。その蓋を開ける。

 

「これも使わせてもらう」

 

 甘酸っぱい匂いが漂い、ケイは今度こそ身体を硬くし、表情を露骨に歪めた。必死で首を振る。

 Mr.Rに渡された媚薬だ。お仕置きに一度使って、その効力を実感してからはずっと封印していたものだ。

 立てた人差し指でケイの唇に触れる。静かに、の合図だ。

 

「大丈夫だ。使うのはほんの少しだ。薄めて使う。君が気持ちよくなるくらいに」

 

 それでもケイは緊張を解いたりしなかった。よほど、このクスリには嫌な思い出しかないのだろう。

 

「喋るなよ。危険だからな」

 

 ケイの口に布を噛ませた。ケイは抗議するがのごとく喉で低く唸ったが、それを無視して薄めた媚薬を手に取ると、固く閉ざすケイのアヌスに触れた。

 

「――ッ」

 

 びくりとケイの身体が震える。ゆっくりと皺を伸ばすように媚薬を塗り込める。ぬめりを纏った指は簡単にケイの内腔へと入り込む。異物を拒もうと中は締まるが、その抵抗をものともせず、深いところへと指を伸ばした。そして、ぬちゃぬちゃと音を立てて抜き差しを始めた。

 

「ん、ん――ッ」

 

 ケイの唇から言葉にならない音が漏れる。指を何往復かさせては抜いて、媚薬で濡らしてふたたびケイの中に塗り込める。直腸から吸収された媚薬は、薄めていても効果は抜群で、ケイの内腔はみるみるうちに熱く潤み、ケイのペニスは触れてもいないのに硬く勃ちあがって、透明な粘液を頂から溢れさせた。

 そろそろ良いだろう、とケイの中に含ませた指を腹側にくい、と曲げた。内壁の膨らんでいる部分を指で擦り上げる。

 

「ふ、んあああっ!」

 

 ケイが背を反らして声を上げた。そのまま穿たせた指をリズミカルに動かしてその部位を擦り立てると、ケイの粘膜が御堂の指をきゅうっと淫らに吸いついてくる。

 

「ん、ふぁ、んんっ!」

 

 ケイが首をぶんぶん振る。もうやめて欲しいのだろう。筋を浮き立たせて硬く張り詰めたケイのペニスは透明な蜜をしとどに溢れさせ、触れれば一瞬で解き放ってしまいそうだ。

 中に入れていた指を二本に増やし、かき回してやる。ケイの腰が御堂の指から逃れようと激しく揺れ、拘束具の金具がガチャガチャと鳴った。拘束されたケイは御堂から逃れることは出来なかった。

 すっかり綻んだアヌスから指を引き抜き、アナルパールを手に取った。その先端の球をケイのアヌスに押し当てると、今度こそケイの身体が怯えたように強ばった。あの夜のことを思い出したのだろう。安心させるように声をかける。

 

「ケイ、これはお仕置きじゃない。だから、君はいくらでも気持ちよくなっていい」

 

 こんな言葉では安心できないだろうとは思ったが、つぷり、とパールを慎重に呑み込ませる。ケイの身体を傷つけるつもりはない。ケイの身体が易々とそれを受け入れるのを確認すると、スイッチを入れた。パールがうねり、中を激しくかき混ぜながら、強く擦り上げる。

 ケイの胸に唇を這わせた。身体の輪郭を辿るようにして、慎ましやかな胸の尖りに触れる。そこは媚薬の効果か、赤く熟れて凝(しこ)っていた。そこを唇で食み、軽く歯を立て吸い上げる。

 

「はっ、んんんっ!!」

 

 ケイが身体を突っ張らせた。同時にケイのペニスから白濁が噴き出し、自らの下腹へと粘液を散らした。

 

「触ってもいないのに、もう、イったのか」

 

 笑い含みに言いながらも、媚薬の効果に感心する。確かにこんなに敏感になったら身体は辛いだろう。御堂はケイの乳首を舐めながら、ケイのペニスに手を伸ばした。射精したばかりのペニスはビクビクと脈打ち硬さを失っていない。それを根元から扱き、亀頭を指の腹で擦る。

 

「――――ッ」

 

 絶頂後の敏感な身体をいたぶられて、ケイが悶えうつ。アヌスはアナルパールがうごめき続け、御堂に乳首とペニスを責められる。それはもう快楽とは言えないような状態なのだろう。

 ケイのアイマスクを外して顔を見たい衝動に駆られた。そこには発情に目を潤ませて、淫らに表情を蕩けさせる男がいるはずだ。だが、御堂はその欲求をどうにか堪えた。一度、ケイが快楽に溺れる顔を目にしたら自分を抑えられる自信がない。今回の目的は別にある。

 ケイの肌が上気し、しっとりと汗で濡れる。熱っぽい吐息は短く刻まれて、限界が近づいていることが分かった。もういくばくも持たないだろう。

 御堂は責める手を緩めずに、ケイのペニスを扱き立てた。尿道口を指の腹で強く擦り上げて、刺激する。アナルパールが振動音を立ててうねる。

 

「っ、ぁ、ふ、はあああっ!」

 

 ひときわ大きな声が上がり、御堂の手の中でケイのペニスが大きく跳ねた。脈動するペニスから水音とともに大量の飛沫が上がる。びしゃびしゃと御堂の手も自分の身体も濡らしていく。

 

「ケイ、潮を吹いているぞ」

「く……ぅ」

 

 克哉の耳元に口を寄せて囁けば、羞恥からなのかケイは御堂から顔を背ける。

 ペニスを扱けばびゅくりと新たな潮を吹く。最後の一滴まで絞り出すように刺激していると、ケイは潮吹きの絶え間ない絶頂に身体を突っ張らせて硬くした。アイマスクの下ではきっと苦痛と快楽が縒り合わさった、陶然とした顔をしているのだろう。

 御堂は双眸を眇めた。

 一人の男を支配するという歪んだ悦びなのか、ケイに対する愛しさなのか、知らずに御堂は微笑んでいた。

 ケイのペニスから何も出なくなったところで、ケイは二、三度痙攣のように身体を震わせた。そして、緊張が解けてくたりと力が抜けた。

 

「ケイ?」

 

 呼びかけても何の反応もない。どうやら、失神したようだ。

 御堂はアナルパールのスイッチを切って引き抜くと、ケイのアイマスクを外して顔を覗く。ケイの瞼は閉じられて、その眦に涙が滲んでいた。その涙と汗を拭い、ケイの額に張り付いた前髪を指で払ってやる。ケイの意識が覚醒する気配は全くなかった。

 ケイの顔をしげしげと眺めた。

 いつ見ても、怜悧に整った顔だと思う。体型も良いし、モデルと言われても納得しただろう。

 ぐったりとしているケイの拘束を外し、御堂はケイの身体の隅々まで確認した。だが、手術痕もなくきれいなものだ。

 そして、御堂はスマートフォンを取り出すとケイにレンズを向けた。

 

「すまないな。だが、こうでもしないと、君は写真の一枚も撮らせてくれないからな」

 

 乱れたケイの姿は凄絶な色香を放っているが、ケイの痴態を撮りたいわけではない。

 御堂は自分の携帯を手に、ケイの顔を撮影する。角度を変えて何枚か撮影した。出来れば目を開いている顔の方が良かったが、贅沢は言えない。

 御堂も写真を撮られるのは苦手だが、ケイはそれ以上だった。御堂の意図が透けているせいかもしれないが、御堂がスマートフォンを向けた瞬間に顔を背ける。せめて寝顔でも、と考えたが、ケイは御堂の気配を察するのがうまく、御堂が近づくとすぐに目を覚ましてしまう。

 

「そうだ、眼鏡……」

 

 外して枕元に置いていた眼鏡を手に取った。そして気付いた。この眼鏡は度が入っていない。伊達眼鏡のようだ。眼鏡のあるなしで印象は大きく変わる。こうなる前のケイが眼鏡をかけていたのか不明だが、一応、眼鏡を付けた写真を撮っておいてもよいだろう。

 意識のないケイに眼鏡をかけて、正面や角度をつけて写真を撮った。

 この写真を用いて、警察の知り合いに頼んで、失踪人届けが出ている人物の顔写真を照合してもらうつもりだった。御堂は、ケイに気付かれぬよう秘密裏にケイの正体を探るつもりだった。歯の治療痕から身元を割り出す方法もあるらしいが、残念ながら御堂はその方法を知らない。

 御堂は裸で横たわる男を見つめながら呟いた。

 

「君は一体誰なんだ……?」

 

 共に暮らし、セックスもする男。だが、よく考えれば、御堂はこの男のことを何一つ、知らなかった。

(6)

 御堂不在の平日の昼間。仕事のない克哉は特にすべきこともなく、テレビを付けながらリハビリ兼筋トレをするのが日課だ。元々アウトドア派でもないので、外に一歩も出ずに引きこもっていても鬱屈することもない。

 さて今日はどう過ごそうかと考えていると、備え付けのインターフォンが鳴った。御堂不在の間に宅配便などたまに鳴るときがある。宅配便は宅配ボックスがあるし、それ意外の用件は克哉では対応しきれないだろうし、インターフォンを無視しても良かったが、このときばかりは背筋が薄ら寒くなるような嫌な予感がした。

 インターフォンの画面を覗くと、そこにはMr.Rが映り込んでいた。それも、マンション一階のエントランスではなく、玄関ドアの前に立っている。Mr.Rは克哉が見ているのを分かっているかのように、画面越しに微笑んだ。対する克哉は嫌悪に表情を歪めたが、諦めて、玄関を開ける。

 

「こんにちは、佐伯さん」

 

 そう言ってパチンと指を鳴らす。喋ることが許されたようだ。克哉は冷たい視線で見返した。

 

「今日はベランダから入ってこないのか?」

「そちらの方がよろしければ、そちらからでも」

 

 微笑みながら、Mr.Rは、克哉の頭からつま先まで視線を振った。

 

「ずいぶんと犬らしくない格好ですが」

「飼い主の方針でね」

 

 そう嘯くとMr.Rは金の眸を眇めた。

 

「さて、期限まであと一ヶ月を切っておりますが、賭けに勝てそうでしょうか」

「何が、賭けだ。お前のやり方には反吐が出る」

 

 薄い笑みを浮かべながら聞いてくるあたり、克哉の現状を克哉以上に知っているのだろう。きつく睨み付けたが、ふふ……、とMr.Rは笑みをこぼす。

 

「まだ賭けは進行中です。ですが、あなたは賭に勝とうとする意欲をなくしている。そろそろ頃合いでしょうから、あなたに救済策を与えましょう」

「救済策?」

「人魚姫の話、王子の愛を得る見込みがなくなった人魚姫に救済策が与えられたのはご存じでしょうか」

「……ああ」

 

 人魚姫の話は改めて読み直していた。王子との恋が叶いそうにない人魚姫を助けようと、人魚姫の姉たちは魔女と取引をしてナイフを手に入れた。そのナイフで王子を刺して、その血を足に浴びせれば、魚の尾となって人魚に戻れるというのだ。

 

「私も同じ、救済策を用意いたしました」

 

 そう言ってMr.Rはナイフを取り出した。そこら辺で入手できそうな、何の変哲もない折りたたみ式のバタフライナイフ。だが、克哉はそれを見て表情を険しくした。そのナイフは澤村が手にしていたもの、すなわち、克哉の身体に突き立てられたナイフとよく似ていた。Mr.Rのことだ、似ている、のではなく同一の物である可能性も十分以上にあった。

 

「このナイフをお使いください。このナイフで刺した人間の血を浴びれば、あなたを解放しましょう」

 

 どうやら、Mr.Rは徹底的に人魚姫の物語をなぞる気でいるようだ。克哉が大いにあきれて言った。

 

「俺に御堂を刺せと?」

「私は人魚姫の魔女のように、王子を殺せ、などという意地悪は言いません」

 

 Mr.Rは言葉を切って、笑い含みに言った。

 

「別に誰でも良いのですよ」

「誰でも?」

 

 Mr.Rがあまりにも平然として口にした言葉に、驚いて聞き返した。

 

「あなたがそのナイフで刺し殺した人間の人生をそのまま与えましょう。成り代わるのです、その人物に」

「何だと……」

「誰であっても殺したい人間の一人や二人はいるでしょう。それに、誰から見ても殺されて当然という人間もいる。あなたにとって悪い話ではないでしょう?」

 

 Mr.Rは唖然としている克哉の手を取ると、折りたたまれたバタフライナイフを握らせた。Mr.Rの革の手袋、その冷たさにぞっとする。

 

「物語の人魚姫は王子を手に入れられず、姉たちの救済も拒否した。ですが、あなたは愚かではない。物語の別の結末を私に見せてください」

 

 Mr.Rの紅い唇が蠱惑的な言葉を紡ぐ。手に握らされたナイフに視線を留めた。

 このナイフを使えば、克哉は御堂に自分の運命を背負わせることもなく、助かることが出来る。

 

 ――うってつけの人物がいるじゃないか。

 

 克哉をこんな運命に追いやった張本人。償うべき罪から逃れて、のうのうと自由に生きている人物が。

 克哉がふたたび視線を上げたときには、Mr.Rの姿は視界のどこにもなかった。

 Mr.Rとの会話はまるで白昼夢でも見たかのように現実感が薄かった。だが、それでも、手の中にあるナイフがMr.Rが確かにこの場に来たことを示していた。

 克哉はナイフをズボンのポケットにしまうと、部屋に戻った。今では絶好の暇つぶしの居場所になっている御堂の書斎へと向かう。

 それにしても、Mr.Rは、克哉が御堂の部屋で何をして過ごしているのか、その子細を御堂以上に把握しているようだ。だからこそ、こんな救済策を持ちかけてきたのだろう。

 克哉は御堂のパソコンを立ち上げて、パスワードを入力してログインすると、クラウドサーバーに保存したファイルを開く。

 そこには、澤村に関する情報がすべて保存してあった。

 警察の手からまんまと逃れた澤村を、克哉は見過ごしていたわけではなかった。なんと言っても、克哉は時間だけはたっぷりあるのだ。それに、携帯電話も金も手にしている。

 ネット経由で興信所に依頼し、澤村の住所や行動パターン、集められるすべての情報を収集していた。重病で声が出せず興信所に直接赴くことも電話で話すことも出来ない、そう伝えても、金さえ払えば依頼を受けてくれる興信所はいくらでもあった。

 同時に自身が殺された事件についても詳細を収集していた。と言っても、被害者の自分が知っている以上の情報はなかったが、自分の死後の状況は理解した。克哉の死因は失血死だった。そして、十数カ所刺された、見るも無惨な状態であったことから、怨恨の線で捜査が行われたこと。澤村紀次は捜査線上に早々に上がったものの、克哉が殺された事件と同時刻のアリバイがあり、証拠不十分で不起訴になったらしい。

 

 ――警察は何やっているんだ。澤村が犯人だろう。

 

 忌々しく舌打ちをする。殺された被害者がそう言っているのだ。だが、克哉のこの証言を警察に伝えられないのが残念だ。万一、伝えられたとしても証拠能力は皆無だろうが。

 澤村はいまや何のおとがめもなく、自由な生活を満喫していることになる。克哉とは天と地の差だ。日本の司法が裁けないのなら、被害者である自分が裁くしかない。そして、今の克哉にはそれが出来る。

 御堂のパソコンのディスプレイに隠し撮りされた澤村の写真が何百枚と映し出される。

 澤村の姿は自分の記憶から何一つ変わっていない。目が覚めるような青いシャツにマスタードイエローのネクタイ、そして赤いフレームの眼鏡。ホストかと見まがうような派手な服装だ。

 

 ――相変わらず趣味が悪いな、澤村

 

 克哉は唇をいびつに吊り上げた。

 

 

 

 

「ケイ、今日は出張で一泊する。帰ってくるのは明日の夜だ」

 

 朝、御堂は玄関で靴を履きながら、克哉に告げた。

 

「大丈夫だとは思うが、何かあったら私にメールを送ってくれ」

 

 喋ることが出来ない克哉のために、御堂はタブレット端末を用意してくれていた。

 当初はそれで克哉との会話を試みていたが、克哉がまともに会話をする気がないのを知ってか、今では御堂不在時の連絡用にしか使われていない。

 御堂は意外と心配性なのか、克哉に食事のことや何やら色々言い含めてくる。たかだか一泊二日の出張で子どもじゃあるまいし、と思うが、そこは従順に頷いておく。

 御堂の予定はとっくの昔に知っていた。今日、コンサルティングの打ち合わせと視察のために大阪に一泊することも、どのホテルに宿を予約しているかまで把握している。

 にこやかな顔をして御堂を送り出すと、克哉は自らの準備を始めた。

 この時を待っていたのだ。

 事前の準備は完璧だった。それでも念入りに計画を確認し、昼過ぎに御堂の部屋から出た。サイズは合わないが御堂の靴を借りる。

 御堂の部屋の鍵は持っていないため施錠は出来ないが、セキュリティが強化されたマンションだ。泥棒が入ることはないだろう。

 マンションから外に出ると、克哉は胸いっぱいに息を吸い込んだ。街のざわめき、どこからか漂う湿った土の匂い、そのすべてが懐かしく、気分を高揚させる。

 克哉は繁華街に向かって歩きだした。顔は隠していないし、Tシャツにスウェットのズボン、首には金属の首輪、それでいて靴は高級な革靴という明らかにちぐはぐな装いだが道行く人々は克哉に注目することはない。まさか、殺された人間が歩いているとは思わないだろうし、そもそも東京は人間が溢れている分、他人に対して無関心だ。その冷淡さが心地よい。

 克哉は目にした量販店に入ると、服を一式とスニーカー、そしていくつかの必要物品を買った。現金は持っていなかったが、携帯電話に入れた電子マネーで決済する。

 死人でもこんなに自由に買い物が出来るとは驚きだった。この比類なき大都会では無数の人間の営みの中に、克哉のような死人が何人も紛れ込んで暮らしているのかも知れない。そうとさえ思ってしまう。ありとあらゆる生と死を呑み込む、寛容さと冷酷さを併せ持つのがこの東京なのだ。

 克哉は店のトイレに入って着替えた。ジーンズとフード付のパーカーを着込み、Mr.Rから渡されたナイフと携帯をパーカーのポケットに仕舞う。御堂の部屋から着てきた服と借りた靴は購入したバッグに入れ、それをコインロッカーに預けた。そして、目的地へと向かう。

 向かった先は都内の一流ホテルだ。澤村が滞在しているホテルでもある。殺人事件の犯人と目されていた澤村だ。マスメディアにつきまとわれるのを嫌って、自宅から離れてホテル住まいになっていた。

 ホテルのエントランスで澤村が出てくるのをじっと待つ。手持ち無沙汰もあり、無性にたばこを吸いたくなったが、我慢した。御堂は非喫煙者だ。身体にたばこの匂いが付いたらすぐにばれる。

 夜も更けた頃、ようやく澤村がホテルから出てきた。容疑者から外されて気が緩んだのだろう。夜はホテルから出て街中のバーに行くのを日課にしていることまで調べ済みだ。

 距離を取って澤村の後をつける。ホテルから徒歩十五分のバーに入ったのを確認し、ふたたびそこで澤村が出てくるのを待った。

 約二時間後、店から澤村が出てくる。気分良く酔っているようだ。そして、酔いを覚ますがてらホテルまでの帰り道を遠回りして歩いて行く。まさしく、興信所の報告書にあったとおりだ。

 夜の公園に澤村が足を踏み入れた。繁華街の近くにありながら、夜も更けた公園は薄暗く、とても静かだ。克哉はもう隠れようともせずに、澤村から少し離れたところを尾行する。唐突に澤村が足を止めた。そして、振り向く。

 

「マスコミか? いい加減にしないと訴えるぞ」

 

 鋭い口調で澤村が咎めた。散々マスメディアに追い回されたのだろう。言葉の端々に怒りが滲むが、克哉の姿を見て、表情に不審の色が滲んだ。

 それはそうだろう。克哉はジーンズを履いて目深にフードを被って顔を隠している。明らかにマスメディアの人間には見えない。

 澤村が警戒に強ばった声を出した。

 

「誰だ……?」

 

 克哉はニヤリと笑った。そして、被っていたフードを脱いで顔を露わにする。夜の公園を一陣の強い風が吹き抜けて、克哉の髪をそよがした。

 澤村の目が見開かれ、顔が驚愕にゆがむ。

 

「まさか……そんな……佐伯、克哉……?」

 

 返事代わりに唇の端を吊り上げた。

 御堂以外の人間も克哉が判別できない可能性も危惧していたが、澤村の反応を見る限り、心配は杞憂だったようだ。

 澤村がしっかりと確認できるよう、あと数歩のところまで近づいてやった。

 

「嘘だ……」

 

 まじまじと克哉を確認した澤村の唇が戦慄き、譫言(うわごと)のような声が漏れる。

 

「お前は死んだはずだっ!」

 

 克哉は眼鏡を押し上げると、冷たい笑みを保ったままパーカーのポケットからナイフを取り出した。そのナイフを右手でもてあそびながら、左手の親指を立てて、自分の首の前に一本線を引く。首を掻き切るジェスチャーだ。

 

「ひ……っ」

 

 澤村の顔が恐怖に染めあげられた。

 声が出せたら、この男を心底震え上がらせるような気の利いた台詞の一つや二つ言えたのに、残念でならない。

 

「く、くるな……っ」

 

 澤村が克哉に背を向けた。逃げだそうとして足がもつれその場に派手に転ぶ。

 ゆっくりと足音を立てて澤村に近寄ると、その背中を踏みつけた。「ぐぁっ」と、かえるがひしゃげたかのような悲鳴が上がる。

 喉で低く嗤いながら、澤村を踏みつけていた足を上げた。澤村が慌ててもがき這いずっていく。その横っ腹を蹴り上げて仰向けにした。

 

「よせ……っ!」

 

 わめく澤村の上に克哉は馬乗りになった。両足で澤村の両腕を踏みつけて封じる。ぐっと澤村に体重をかけると澤村は悲鳴をあげた。

 

「許し……、許してくれっ! 助けて……っ!」

 

 必死に許しを乞う澤村の無様な姿を楽しみながら、克哉は唇の前に左手の人差し指を立てた。静かに、というジェスチャーだ。同時に右手に握ったナイフを澤村の前にちらつかせる。

 澤村は克哉の意図をしっかりとくみ取ったようで、あげかけた悲鳴を呑み込んだ。食いしばった歯がガチガチと鳴っている。

 さあて、この男をどう料理しようか。

 舌なめずりをしながら、唇の前に立てていた人差し指で澤村の首をなぞった。澤村の額にはいくつもの汗の玉が浮き出ている。首の筋を辿り、頸動脈に触れる。どくどくと脈打つ血管をそっと押した。指先に澤村の鼓動が強くなり、速まっていくのを感じた。克哉はレンズ越しに澤村と視線を合わせ、悪意がしたたる極上の笑みを浮かべた。

 頸動脈に狙いを定め、ナイフを大きく振りかぶる。澤村が「ヒッ」と声にならない悲鳴を上げる。

 尻の下で澤村の身体が恐怖に強直する。その反応を心地よく感じながら、ナイフをひと息に振り下ろした。カツンという硬い感触。ナイフの先端が澤村の首のすぐ脇のアスファルトに突き刺さった。

 ぜえぜえという乱れた呼吸と共に、澤村の胸が荒く上下し、筋肉が弛緩した。刺されていないことに安堵したのだろうか。

 その時、水音と生温かな感触を感じ、克哉は背後を振り返った。力を失ったかのように投げ出された両足。股間部のスーツからアスファルトまで濡れて黒く染まっていた。どうやら失禁したようだ。

 澤村が涙と鼻水にまみれた顔で克哉を見上げた。しゃくり上げる声が響く。

 

「俺が、殺したのに……どうして……」

 

 腹を抱えて笑いたくなるほどのおかしさが沸き起こる。克哉は肩をふるわせて笑いながら、ナイフを引き抜いた。ふたたび澤村の顔が強ばる。澤村の鼻先でそのナイフをひらひら振ると、ナイフを折りたたんだ。そして、克哉はおもむろに立ち上がった。ナイフをパーカーのポケットにしまう。

 澤村が四肢をばたつかせる。この隙に克哉から逃げようとするが、腰が抜けて動けないようだ。

 そんな澤村に冷たい笑みをひとつ残して克哉は背を向けた。

 公園の、奥へと足を向ける。少しして澤村が倒れていた方から耳障りな音が立ち、遠ざかっていった。やっと動けるようになったのだろうか。

 澤村は警察に駆け込むつもりかもしれない。だが、犯人の佐伯克哉は既に死んでいるし、御堂は大阪にいるから鉄壁のアリバイがある。澤村が何を騒ごうと問題ない。

 それにしても殺したはずの克哉に襲われた澤村の狼狽ぶりを思い出すと、愉快でたまらない。鼻歌でも歌いたい気分だ。上機嫌に歩いていると、異質な気配を感じた。闇が濃くなったような錯覚を受ける。

 克哉は立ち止まる。闇から浮き出てきたように、一人の黒衣の男が克哉の目の前に現れる。

 

「なぜ殺さなかったのですか?」

 

 Mr.Rが金の眸で克哉を見据え、指を鳴らした。どこかから克哉の行動を見張っていたのだろう。

 相変わらず、いけ好かない男だ。せっかくの気分が台無しになり、克哉はMr.Rをにらみ返した。

 

「俺の勝手だろう?」

「あなたは人間に戻れたかも知れないのに」

「あいつにはなりたくなかったらな」

 

 克哉は冷淡に返した。澤村に対する殺意がなかったと言えば嘘になる。だが、澤村の姿をいざ前にすると、頭に血が上るどころか、むしろ冷静になった。澤村を殺すことによって、澤村と同じレベルに落ちることに何の魅力も感じなかった。

 克哉はポケットからナイフを取り出した。折りたたまれていたナイフを開き、その刃をMr.Rへと向ける。

 

「そうだな。お前の血を浴びれば、俺はお前になれるのか?」

「試してみますか?」

 

 Mr.Rはナイフを向けられてもなんら動じることはなかった。克哉もふっ、と笑ってナイフの刃を収める。

 

「やめておく。お前になんか興味はない」

「それは残念です」

 

 Mr.Rは表情を変えぬまま口先だけで残念がってみせる。

 

「お前の思い通りにはならない。このナイフは返す」

 

 Mr.Rにナイフを差し出した。だが、Mr.Rはそれを受け取ろうとはしなかった。

 

「期限まではまだあります。あなたの気持ちが変わるかもしれない。だから、それまで、持っていていただいてかまいません」

「必要ない」

 

 Mr.Rが受け取らないので、ナイフを公園のゴミ箱に投げ捨てた。からん、と乾いた音が立った。克哉はMr.Rに背を向けて歩き出した。

 コインロッカーまで戻るとバッグを取り出し、御堂の部屋を出たときの服装に着替えると、着ていた服は丸めてバッグごとゴミに捨てる。

 そして、御堂のマンションへと帰った。セキュリティが厳重なマンションだ。出るのは簡単でも入るのは難しい。ちょうど帰宅する住人に付いていく形でエントランスをすり抜け、御堂の部屋に戻った。靴底の土を払い、御堂の靴を片づけると、念のため、部屋を点検する。無施錠だったが、侵入者はいなかったようだ。ズボンのポケットに入れていた携帯を取り出そうとして気が付いた。もう一つ、手に触れる硬い感触がある。それを取り出すと、公園のゴミ箱に捨てたはずのバタフライナイフだった。Mr.Rの仕業だろう。克哉は「チッ」と舌打ちしたが、この部屋でナイフを捨てることは出来ない。携帯とナイフ共々、ソファの隙間に隠しておいた。

 念入りにシャワーを浴び、外に出た形跡を洗い流す。飼い主のいないところで悪さをしているなど絶対に気付かれてはならない。御堂の前では、あくまでもお利口で従順な飼い犬でいたいのだ。

 

 

 

 翌日の夜、御堂が予定通りに帰ってきた。玄関の鍵が開く音を聞くなり、克哉は玄関まで行って出迎える。

 

「ケイ、良い子にしていたか?」

「ワン」

 

 冗談めいた御堂の言葉に、克哉もまた犬の鳴き真似で返すと、御堂は堪えきれずに声を出して笑った。

 大阪での打ち合わせは滞りなく済んだようだ。御堂が買ってきた大阪土産の肉まんをソファで頬張りつつ、テレビを見ていると、ニュースの速報が流れた。澤村が警察に出頭し、佐伯克哉殺害を自供したという。

 克哉の隣に座った御堂が食い入るようにしてテレビ画面を凝視する。そしてリモコンを操作してチャンネルを変えたが、どのチャンネルでも同じニュースが流れていた。

 御堂は深々と息を吐いた。

 

「そうか……」

 

 その一言には様々な感情が込められているようだった。そして、克哉へと視線を向けた。めったに感情を見せない男の顔は泣いているようにも笑っているようにも見えた。

 

「今ニュースに流れた被害者の佐伯克哉というのは、私の恋人だったんだ」

 

 どんな顔をしてその言葉を聞けば良いのか分からず、克哉は御堂から視線を逸らした。素知らぬ顔をして身体を横に傾け、御堂の肩に頭を乗せた。御堂が吐息で苦笑して克哉の肩に手を回した。そして、抱き寄せられる。体温が密着し、甘やかな気持ちに満たされる。

 この満ち足りた時間がいつまでも続けば良いと思う。

 タイムリミットは迫っていた。だが、不思議と心は凪いでいた。

(7)

 澤村が佐伯克哉殺害を自供した。

 御堂孝典がそのニュースを知ったのは、大阪出張帰りに自宅で見たテレビからだった。

 まんまと警察の捜査をかいくぐった澤村がなぜ今頃、と思ったが、翌日、御堂の元を刑事が訪ねてきて事情が判明した。ニュースが流れた前の晩、澤村は暴漢に襲われたことがきっかけで警察に駆け込んだそうだ。その暴漢は佐伯克哉そっくりだったそうで、気が動転した澤村は警察で自分の犯罪も洗いざらい喋ってしまったそうだ。

 自供によると、アリバイの決定だとなった監視カメラの映像はディープフェイクで合成されたものだという。ディープフェイクとは、人工知能による人物画像合成の技術で、クリスタルトラストが買収した会社のひとつが得意としていた技術だった。それだけではない。監視カメラを管理していた警備会社が、クリスタルトラストの息がかかったところで、警察に提出するカメラ画像が差し替えられていたのだ。こうして澤村はまんまと警察を欺いていた。

 だが、刑事が御堂のところまでわざわざやってきたのは、それを伝えるためではなかった。澤村が暴漢に襲われた事件を調べるためで、御堂はその夜のアリバイを聞かれた。関係者全員に確認しているとは言っていたが、御堂が襲ったのではないかと疑われているのだろう。

 幸い、その夜は大阪に出張しており、ホテルの宿泊歴もあることから早々に疑いは晴れた。

 それにしても、克哉によく似た暴漢というのが気にかかる。澤村の良心の呵責が見せた幻だったのだろうか。真夜中の公園の出来事だ。相手の顔をはっきりと確認できたわけではないだろう。似た背格好の男をそうと見間違えた可能性が高い。

 

 ――佐伯、ようやく犯人が捕まったぞ。

 

 執務室のデスクで御堂は瞑目し、心の中で呟いた。

 犯人が捕まったからといって、やるせなさと悲しみがすぐさま癒えるわけではないが、ひとつの区切りを迎えたことは間違いない。今でも、克哉を深く想うほどに胸が締め付けられる。だが失われた日々は二度と戻ってこないのだ。胸の痛みを跳ね返し、前を向いて生きていかなければならない。

 一方でケイの身元は分からないままだ。警視庁の知り合い経由でケイの顔写真を渡し、行方不明の届け出が出ている人物と写真照合を行ってもらったが、合致するような行方不明者はいなかったとの連絡が来た。よくよく考えれば、行方不明の届け出を出してくれるような身寄りがいない可能性もある。ケイは相変わらず、自分のことに関しては何の情報も教えてくれないし、御堂一人でケイの身元を探すには手詰まり感がある。

 スマートフォンでケイの写真を開いた。目を閉じている顔は無防備で、起きている時の冷たく鋭い印象と大分違う。眼鏡はかけていたが、やはり、普段の顔の写真があった方が良いだろう。だが、どうやって写真を撮るか……。

 そんなことを執務室のデスクで悩んでいると、真横から唐突に「御堂さん!」と声を賭けられて飛び上がらんばかりに驚いた。藤田が頼んだ資料を持ってきてくれたのだ。慌ててスマートフォンの画面を消したところで藤田が言った。

 

「あれ、その写真……」

「いや……っ」

 

 男の寝顔の写真をデスクで眺めていたなんて、どう釈明をすればいいのか。あわてふためきながら言い訳を考えていると、藤田は小首を傾げるようにして小さく笑った。

 

「佐伯社長の寝顔ですか。そんなのいつ撮影したんですか」

「何がだ?」

「いや、さっきの写真」

「これか?」

 

 何を見間違えたのかと、もう一度スマートフォンの画面を表示させた。そこにはケイの寝顔が写っている。

 

「よく見てみろ、全く違うだろう」

 

 そう言って藤田に見せた。なぜこんな男の寝顔を撮っているのか、問われれば返答に窮するが、もし、藤田がケイを知っていたとしたら思わぬ吉報だ。

 藤田は御堂のスマートフォンの画面を覗き込むと、大きく頷いて言った。

 

「やっぱり、佐伯社長じゃないですか」

「馬鹿を言うな。似ても似つかない」

「え、そうですか? それじゃあ、佐伯社長の兄弟とかですか? よく似ているなあ」

「まったく違う。もう、いいだろう」

 

 ここに写っている人物は誰なのか、どういう関係なのか、藤田に聞かれる前に、御堂は画面を消した。藤田は「おかしいなあ」と首を傾げながらも、御堂に資料を手渡すと自分のデスクに戻っていった。

 

 ――どこをどう見たらそうなるのだ?

 

 御堂もまた首を傾げる。藤田が執務室を出たのを確認し、改めて携帯でケイの寝顔を見る。薄い唇にすっと通った鼻梁、克哉も整った顔立ちだったが、ケイとは全く違う系統の顔だ。

 

「……?」

 

 不意に、違和感が生じた。克哉の顔を脳裏にはっきりと描こうとして、全く思い出せないのだ。

 

 ――馬鹿な。

 

 恋人関係にあった男だ。それも、つい最近まで。そんな男の顔を忘れるはずがない。だが、御堂の頭の中で克哉の顔が曇りガラスに遮られてしまったかのように、はっきりとした像を結ばない。

 克哉の顔を確認しようと考え、克哉の写真をひとつも持っていないことを思い出した。恋人同士とはいえ、良い歳をした男同士だ。お互いの写真を持つなどという気恥ずかしいことはしたことがない。

 克哉から送られたメール、克哉が作成した資料、かつて克哉がここに存在したという証拠はいくらでもあるのに、肝心の克哉自身がどんな人物であったのかは、頼りない記憶の中にしかないのだ。

 

 ――そうだ、雑誌の記事を……。

 

 コンサル会社社長殺害事件として、殺害直後は口さがない雑誌に大きく取り上げられたのだ。その記事に克哉の写真が載っているはずだった。

 もちろん、そんな雑誌を持っているわけもなかったが、御堂はネット上で電子記事を購入する。そして、その記事をディスプレイ画面に展開した。読者の興味を引くような派手な見出し、そして、殺害現場の公園の写真と共に、どこから入手したのか、スーツ姿の克哉のバストアップの写真が白黒であったが鮮明な画像が掲載されている。それをまじまじと見つめ、御堂は息を呑んだ。

 

 ――顔が、分からない。

 

 写真の克哉の切れ長な目も、まっすぐな鼻梁も、酷薄な口元も、ひとつひとつのパーツは分かるのに、顔として認識しようとすると、たちまちあやふやになり誰なのか分からなくなる。

 

「そんな……」

 

 呆然と呟いた。

 どうして、佐伯克哉の顔が分からないのか。

 立っていた足場がもろく崩れ去ってしまいそうな、そこはかとない不安が込み上げてきた。

 

 

 

 

「相貌失認症だな」

 

 白を基調とした明るい診察室。白衣姿の四柳は御堂の話を一通り聞いた後、そう結論づけた。

 克哉の顔が分からない、その事実に気が付いてすぐ、御堂は四柳に連絡をした。四柳は大学時代からの友人で、腕の良い脳外科医だ。切羽詰まった御堂の様子に、四柳はすぐに診察してくれることになり、仕事を早々に切り上げて四柳の病院へと向かったのだ。

 

「相貌失認?」

「ああ。顔が判別できなくなる障害だ。だが、特定の人間だけ分からない、というのは珍しいな。多分、ストレスじゃないか」

「それはストレスで発症するものなのか?」

 

 疑わしげに聞き返す御堂に四柳は苦笑して答える。

 

「相貌失認症自体は先天性のものもあるが、脳の障害で発症することもある。脳の機能の細かいところは未だに分かっていないんだ。他に思い当たる原因がないのならストレスだろう」

「治す方法はないのか?」

「こればかりはな。なに、時間が解決してくれるさ。だからあまり気に病まないことだ」

 

 御堂は深刻な面持ちで相談しているのに、四柳の口調はどこか軽い。御堂は露骨に不満を口にした。

 

「四柳、他人事(ひとごと)だと思って軽く考えていないか」

「じゃあ、聞くが、お前はそれで日常生活に支障が出ているのか」

「いや……」

 

 そう問われれば、何の支障もなかった。もう死んでしまった人間の顔が分からなくなってしまっただけだ。もし克哉が生きていて顔が分からなくなってしまったなら様々な支障が出ていただろうが、もはや克哉は故人だ。藤田をはじめとして他の人間の顔の区別はついている。だから、仕事にも生活にも困らない。今回の藤田との会話がなければ、自分が克哉の顔を分からなくなっていたとは気付かなかっただろう。

 四柳の診断に納得は出来たものの、大事なものを失ってしまったかのような喪失感が胸に大きな穴を開けている。

 病院を出て、スマホを手に取り、もう一度、ケイの写真を出した。どうみても、克哉とは似ても似つかない。だが、肝心の克哉の顔を思い浮かべることができない。藤田が言うように、克哉とケイは似ているのだろうか。

 だが、もし本当に似ているからと言ってそれがケイの素性の手がかりになるわけではない。克哉に兄弟はいないはずだ。他の親戚のことは聞いたことはないが、克哉の親戚であるよりも他人の空似の方が圧倒的に確率が高いだろう。

 

 ――そうだ、声は?

 

 ケイは、言葉を喋ることは出来ないが、意味をなさない声は出すことが出来る。

 だが、ケイの声を思い出してみても、克哉と同じとは思えなかった。それどころか、やはり克哉の声がどうだったのか思い出せない。顔の記憶と一緒に曖昧になってしまったようだ。

 いつから克哉の顔や声を思い出せなくなっていたのか。克哉のことを忘れたことは一時(いっとき)たりともなかった。だが、四柳の言うとおり、克哉が殺されたというショックと自責の念、そして仕事の負荷が御堂から克哉の記憶を奪っていったのかも知れない。事実、克哉への想いに振り回されないよう、激務の中に身を置いていたのは御堂自身だ。

 ようやく澤村が捕まったというのに、もっと深刻な問題に気付いてしまった。

 奈落に落とされたかのような沈鬱な面持ちで、家へと帰る。玄関を開けると、ケイが出てきて出迎えてくれた。

 

「ただいま」

 

 そう言って、まじまじとケイの顔を見つめた。ケイのレンズ越しの視線が深く絡む。ケイの顔ははっきりと認識できる。記憶通りの顔だ。だが、ケイの顔のどこにも克哉の面影を見いだすことは出来なかった。やはり、克哉と似ても似つかない。だが、共通点もあった。眼鏡だ。ケイがかける銀のフレームの眼鏡は克哉が使っていたものとよく似ている。ありふれた形状の眼鏡だ。

 

「?」

 

 薄い虹彩の透けるような眸が見返してきた。普段と違う御堂の様子に気が付いたのか、御堂の心を見透かそうと御堂を深々と覗き込んでくる。

 

「……いや、何でもない」

 

 そう呟いて、うつむき、無理矢理つながった視線を断ち切った。ケイが御堂の服の袂を軽くつまんで引いた。御堂の真意を問いただしたいのだろう。

 ケイを振り切るようにして靴を脱ぎ、部屋に上がれば、ケイはそれ以上追求してこようとはしなかった。ケイが言葉を発さないことにこのときばかりは安堵した。一方通行の会話にもどかしさはあっても、自分の都合で会話を中断することができる。

 普段よりも口数の少ない食事をケイと終えて、御堂は早々に寝室に引きこもった。

 ベッドに腰をかけて、大きく息を吐く。克哉の姿を脳裏に描こうとすればするほど、真っ暗な虚無で塗りつぶされたかのように克哉が分からなくなる。

 スマートフォンに保存した克哉の写真を表示した。雑誌の記事から切り出した画像だ。雑念を振り払って真剣に見つめた。

 身分証の写真だろうか。表情を消して画面越しに御堂を見ているかのような眼差し。口は引き結ばれて、どこか不満げのように見える。そこまで分かるのに、克哉の顔を俯瞰しようとすると、途端に顔の部分だけ黒く抜けたかのように視えなくなった。

 

「くそっ」

 

 御堂は忌々しげに舌打ちした。一体いつからこんな状態になっていたのか。克哉を想いながらも克哉を失っていたことにどうして気付かなかったのか。

 克哉と共にあったときの自分もそうだったのではないか。克哉を見ているつもりでも見えていない。そして、そのことさえも気付けない。そんな自分の愚鈍さに腹が立つ。

 その時だった。寝室の扉が控えめにノックされた。

 ハッと携帯から顔を上げる。ケイだろう。携帯の画面をオフにして、「ああ」と返事をした。

 しばし待ったが扉の向こうでためらう気配がした。入って良いものかどうか迷っているのかも知れない。だから、言った。

 

「入っていいぞ。……どうした?」

 

 ドアが静かに開く。ケイが片手にトレイを持って入ってきた。トレイの上には琥珀色の液体が少量入ったグラスともう一つ、水が用意されている。グラスから漂う香りからするとブランデーのようだ。ということは、一緒に持ってきた水はチェイサーなのだろう。

 ケイは御堂に視線を軽く合わせると、ベッドサイドテーブルにブランデーとチェイサーを置く。ちょうど、飲みたい気分だった。こんな風に、気持ちが高ぶって落ち着かないとき、御堂はブランデーを少量飲むことが習慣になっていた。

 

「ありがとう」

 

 礼を言えば、ケイが小さく笑う。やはり御堂を案じて持ってきてくれたようだ。

 しかし、この習慣をケイの前で見せたことはあっただろうか。ふとした疑問が湧き起こったが、グラスを手に取り、ブランデーを一口、口に含んだ。芳醇な香りとともに強いアルコールが、何もかも呑み込みながら胸を焼いて落ちていく。胸の中にわだかまっていた苦しさがアルコールの熱で隠されて、後には熱に浮かされたような空虚な感覚が残る。

 

「待て、ケイ」

 

 御堂に背を向けて部屋から出て行こうとするケイを呼び止めた。グラスをベッドサイドテーブルに置いて立ち上がる。そして、ケイに言った。

 

「一緒に寝ないか?」

 

 ケイは少し驚いたような顔をした。そんなケイの腰を抱き寄せると、小さく身じろぎをする。だが、抵抗はしなかった。

 灯りを消し、遮光カーテンもしめて、真っ暗な部屋の中で身体を重ねた。

 闇の中で手探りにケイのシャツのボタンを外して服を脱がせる。唇を這わせて、頬から長い首、鎖骨、胸へと輪郭を辿る。ケイの手が御堂の背中に回されシャツを掴んだ。

 性急すぎる動きでケイを求める。膨らみのない胸に、無駄のない筋肉が乗った、硬く、大きな身体。女とは明らかに違う。それでも、御堂はその身体に欲情する。

 

「ん……」

 

 ケイから微かに漏れる艶めいた声。布地越しにも分かるほど、ケイのそれは反応をみせている。下着を脱がせると、顔をケイの中心に寄せて口づけた。先端をわざと音が立つようにしゃぶればケイが身悶えるようにして御堂の頭を押さえてくる。

 溢れる唾液を纏わせた指をぬるりと狭間に這わせる。窮屈なところに指を沈ませながら、道をつけるように指を出し挿れする。

 

「ぁ、ん……ふっ」

 

 堪えるような声が響く。口の中に潮気のある味が広がる。ぐちゅぐちゅと口と指で前と後ろを刺激しながら、あと一歩で達するというところで刺激を止めた。

 

「――ッ」

 

 イく直前で止められて、ケイが息を詰める。ケイの身体を抱くようにして起こし、位置を入れ替えた。そして、仰向けになった御堂の腰をケイに跨がらせる。ケイは躊躇うような仕草を見せたが、何を要求されているのか察したようだった。ケイの腰に手を回すと、ケイは御堂のペニスに手を寄せて、自らの狭間に位置を合わせる。そして、ゆっくりと腰を落とした。

 

「く……、ぅ…」

 

 猛るものに身を開かれていく苦しさに、ケイの腰が少し沈んでは止まる。苦しさから拒もうとするアヌスをなだめるように、御堂はケイのペニスに触れた。濡れそぼるそこを根元から先端まで扱いて快楽を煽ってやる。

 

「……ぁ、…はぁっ、……あああっ!」

 

 どうにか御堂を受け入れようとする腰の位置と角度が一致したようで、突然、自重でケイの腰が深く沈み込んだ。ぐぷり、と、太く、硬いものに身を貫かれてケイは背をしならせるようにして声を上げた。

 

「大丈夫か?」

 

 気遣う声に返事はない。だが、代わりに、そろそろと腰が浮かされる。探るような動きで腰が動かされた。それは次第になめらかな動きになり、御堂のペニスが熱い粘膜で擦り上げられていく。

 カーテンの隙間からほんのわずかに夜の街の暗い光が差し込んでいた。それが御堂にまたがるケイの口元の陰影を際立たせた。ちろり、とケイの舌が上唇をなぞる。それはまるで肉食獣の舌なめずりのようで、食われるような感覚に御堂はぞくりと身を震わせた。ケイの動きは次第に大胆なものになっていく。御堂もその動きに合わせて腰を突き上げた。激しい行為にベッドが軋む。ケイは自分の気持ちよいところを見つけたようで、そこを御堂のペニスで擦りつけた。御堂もまたその場所を狙うようにして抉り込む。暗い部屋の中で荒げた息が重なっては、乱れた。

 互いに与え合い、連動していく快楽。自分の上で腰を振り立てるケイを、もっと欲しくなる。

 ベッドサイドのランプは手の届くところにあった。ほんの少し手を伸ばして、スイッチを入れれば、ケイが快楽に蕩ける顔を目にすることが出来るだろう。上気した頬と悦楽に潤む眸が、壮絶な色香をまとった表情で御堂を求めてくる。

 きっと、一度でもそんなケイを目の当たりにしたら御堂はこの男に堕ちてしまう。自分の深いところを明け渡してしまうことになる。かろうじて残された理性で、どうにかその誘惑を振り切る。

 

「ぅ……っ」

 

 ケイが身体を引きつらせる。御堂の腹に熱い粘液が散った。御堂もまた精を解き放った。

 

 

 

 

 何度も繰り返し交わり、御堂はぐったりとしてベッドに突っ伏した。傍らには御堂同様、汗ばむ肌と荒げた息を吐くケイが横たわっている。

 しばらくして、ようやく呼吸を整えたケイが御堂の腕の下でもぞりと動いた。御堂の腕を押しのけて、起き上がろうとする。

 

「一緒に寝ようと言っただろう?」

 

 ベッドから出ようとするケイを引き留めた。両腕を回して抱き込むように、ケイの身体を引き寄せる。ケイの熱い背中に身体を沿わせた。二人の間の空間を潰すように密着させる。互いの鼓動が響き合った。

 ケイはシャワーを浴びてさっぱりしたいのだろう。居心地悪そうに身体をもぞもぞ動かしていたが、ここで手を離したらケイは定位置のリビングのソファへと行き、御堂の元には戻ってこない。だから腕の輪をずっと狭めたままでいると、しばらくして、ケイは諦めたのか御堂に身を預けてきた。

 自分ではない、他の人間の体温。それが腕の中にある。そして、御堂に身体を任せてくる。体温がふれあい、次第に、緊張が緩んできた。張り詰めていた神経が解け、御堂は目を瞑った。ゆったりとした眠気が襲ってくる。

 腕の中で身体が大きく動いた。ほのかに温かな吐息が顔にかかる。目と鼻の先にケイの顔があるらしい。だが、瞼は重く、もはや目を開くことは出来なかった。不意に、頬に柔らかな重みを感じた。優しげな手つきで頬を撫でてくる。濡れて張り付く御堂の髪を払い、愛おしげに御堂に触れてくる。その手つきに性的なものはなく、安堵と安寧を伝えてくるかのようだ。

 瞼の裏に形をなさない光が浮かんでは消える。そこに克哉の顔が浮かんだ気がしたが、次の瞬間には消え去っていった。そんな幻影を追ううちに、御堂の意識は静かに沈んでいった。

 

 

 

 

 翌朝、起きたときにはケイの姿はベッドの中になかった。

 カーテンの隙間から一筋の光が暗い寝室に白い線を引いていた。ベッドから起き上がり、カーテンを開いた。途端に、朝の輝きに満ちた日差しが部屋に満ちる。そのまばゆさに目を細めた。

 耳を澄ませば、キッチンから音が聞こえてくる。ケイは先に起きて御堂のためにコーヒーを淹れているのだろう。

 そういえば、克哉と夜を共に過ごしたときも、いつも克哉の方が朝は早かった。大抵、前の晩の激しい行為に御堂の方が先に意識を飛ばしてしまうせいで、克哉の寝顔という寝顔をほとんど見た覚えがない。克哉の記憶が戻っても、克哉の寝顔を思い出すことはないだろう。その記憶自体がないのだから。

 克哉はもういない。

 その響きが胸に冷たい痛みを残していく。

 だが、それでも不思議と、今まで感じていた苦しさは薄らいでいた。それどころか、小さいながらも清々(すがすが)しい何かが心の芯のように居座っていた。

 こうやって人は立ち直っていくのかも知れない。過去から未来へと目を向けて、一歩ずつ踏み出していくのだ。

 たぶん、ケイがいるせいだ。ケイとの生活が、知らず知らずのうちに、御堂の心の中に開いた穴を少しずつ埋めてくれている。

 御堂は寝室から出て、シャワーを浴びると、キッチンへと向かった。コーヒーの良い香りが漂ってくる。

 

「おはよう」

 

 声をかけるとケイが振り返って微笑み、御堂の前のテーブルに淹れたてのコーヒーを置いた。

 

「ありがとう」

 

 礼を言う。ケイもまた自分用のコーヒーのマグを持って、御堂の前に座った。

 言葉はなくとも気まずさはなかった。

 自分はケイがいる空間を心地よく感じ始めている。この生活を続けたいと思っている。そして、それよりも何よりも、ケイを守りたいと強く思った。ケイは謎めいた男だ。御堂に懐いている素振りは見せるが、心を完全に開いてくれてはいない。それは、ケイが頑なに自分のことについて話そうとしないところからも明らかだ。まるで警戒心の強い野生の獣のようだ。

 ケイは立派な大人の男で、首輪さえ外れれば御堂の庇護を必要としないのだろう。それでも、Mr.Rの手からケイを完全に引き取るまでは、独りよがりな気持ちでもケイを大事にしたかった。

 朝食代わりのコーヒーを飲んで出勤前の身支度をした御堂は、仕事の資料を取りに書斎に入った。ついでに、書斎のデスクのパソコンを立ち上げながら、昨夜の間に届いていたメールをチェックする。

 鞄に資料を仕舞おうとして、鞄のポケットに入れていたメモに気が付いた。太一から渡されたメモだ。そのメモを手に取った。そこに書かれた四組の数字。このIPアドレスの向こうに、御堂が探し求める人物がいる。その人物は身元を厳重に隠している。何かしら御堂に知られたくない秘密があるのだ。だが、それでも御堂を助けてくれた。一体誰なのか。

 

「これだけの情報ではな……」

 

 小さくため息を吐いた。

 太一によってどうにかこのIPアドレスまで辿り着いた。しかし、そこで手詰まりになっている。どちらにしろ、このIPアドレスから分かるのはその人物が使用した端末までだ。ネットカフェなどの不特定多数が用いるパソコンならそこで手がかりは途切れるだろう。

 それに、御堂はIT関係に詳しいわけではない。ネット上のIPアドレスの解説記事を読んだりはしたが、自力ではどうにかできそうにもなかった。せいぜい出来るようになったのは、自分が使う端末のIPアドレスを表示させることくらいだ。

 職場のパソコンのIPアドレスを確認してみたりしたが、そのIPアドレスとメモのIPアドレスが違うというこが分かったくらいで、それ以上の情報を見いだすことは出来なかった。数字の差異が物理的な距離と相関しているのかも見当が付かない。いい加減、諦めるべきだろう。他の仕事より優先させるべき理由もない。

 メモを片手に、御堂は何気なしに、書斎のパソコンのコマンドプロンプトを呼び出した。覚えたコマンドを打ち込んで、パソコンのIPアドレスを表示させてみる。すぐさま四組の数字が現れた。

 ディスプレイに表示される、数字の羅列。その数字を目にして御堂の瞳孔が開ききった。メモに視線を落とし、そしてまたパソコンのディスプレイに視線を戻す。メモとディスプレイに視線を何度も行き来させ、御堂は呆然と呟いた。

 

「どうして……」

 

 メモに書かれたものと全く同じ四組の数字、それがパソコンのディスプレイに表示されていた。

(8)
10

 週末、御堂が克哉に声をかけてきた。

 

「一緒に外出しないか?」

 

 そんなことを言われたのは初めてだったので驚いて見返すと、御堂はほんの少し克哉から視線を逸らして言った。

 

「君に見せたいところがある」

 

 特に断る理由はなかったので、克哉は頷いた。

 御堂がクローゼットからシャツを選んで持ってきた。襟高のシャツで、克哉の首輪が隠れるように、との配慮だろう。

 玄関には真新しいスニーカーも用意されていた。御堂が目測で選んだサイズのようだが、ジャストフィットとはいかないものの、御堂の靴を履くよりは履き心地が良かった。

 マンションのエントランスを出て、克哉は照りつける日差しに目を細めた。

 夏も終わりが近いとは言え、残暑が残る昼下がり。濃密な光がアスファルトをじりじりと焼いている。快適に空調が効いた室内との温度差にめまいがしそうだ。

 御堂はタクシーを呼んでいた。マンション前に横付けされたタクシーに乗り込むと、ひんやりとした冷房の空気にほっとする。ほとんど室内でしか過ごしてなかったせいか、外の温度差に身体が慣れない。

 どこに連れて行かれるのかと思ったが、タクシーが向かった先は、なじみあるAA社のビルだった。ここにはAA社があるばかりか、その上のフロアには克哉の部屋もある。

 そういえば、自分の部屋はどうなっただろうか。自分ではない誰かが、主(あるじ)が死んだ部屋を片づけたのだろう。何か見られてまずいものがあっただろうか、と考える。思いつくものはいくつかあったが、もう佐伯克哉は死んでいるし、今更だ。

 御堂に続いてエレベーターに乗り込むと、御堂はAA社のオフィスがあるフロアの階のボタンを押した。今日は休みのはずだ。何の用があるのかと訝しむ。御堂は、AA社のドアの鍵をカードキーで解除して、中に入る。そして、振り向いて克哉に言った。

 

「私は、このコンサルティング会社を経営している」

 

 そう言って、御堂はAA社について簡単に紹介した。

 克哉は当然知っている。だが、初めて聞く振りをした。

 オフィスの中は案の定、無人だった。

 御堂は克哉についてくるよう仕草で促し、社員のデスクが並ぶ部屋を突っ切ると、奥にある執務室に入った。

 そこには二つのL字型のデスクが並べられている。どちらも、デスクの上には物ひとつなく、きれいに片づけられていた。片方は御堂で、もう片方は克哉のデスクだった。

 御堂は執務室の壁一面を覆うはめ殺しの窓へと足を寄せた。そして、窓の外へと視線を流す。

 

「良い景色だろう?」

 

 まさか、この部屋からの景色をみせたくてここに連れてきたわけではないだろう。

 だが、そんな疑問を口にすることも出来ず、御堂の横に並んで景色を眺めた。視界にはオフィスビルが立ち並ぶ。そのガラスの窓が太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。ビルの間に東京タワーも見えた。見慣れた景色で、特に感動するほどのものではない。

 傍らに立つ御堂が、外の景色に視線を留めたまま言った。

 

「私はこの社の副社長だ。社長と共同経営していた。……その社長は佐伯克哉といって、私の恋人だった男だ」

「……」

 

 唐突に佐伯克哉の名前を口にした御堂に、思わず顔を向けた。だが、御堂は克哉を気にかけることなく、踵を返すと執務室のキャビネットへと向かった。そこからいくつかファイルを取り出して中身を確認すると「ケイ」と呼んだ。

 

「明日の仕事の準備を軽くしておこうと思ってな」

 

 御堂は棚から取り出したいくつかのファイルを克哉に手渡してくる。

 

「私のデスクにこれを運んでくれ」

 

 そう言って、御堂は自分も同じだけのファイルを抱えて藤田のデスクにファイルを置いた。いまひとつ御堂が何をしにきたのか分からないままに、指示されたように御堂のデスクの上にファイルを積み上げる。どうやら作業はこれだけで終了らしい。御堂が言い訳がましく言った。

 

「人員整理をしていて、事務員も不足しているんだ」

 

 そして、言いにくそうに次の言葉を口にした。

 

「今手がけている仕事が終われば、この会社は廃業するつもりだ」

 

 予想していたとはいえ、御堂の口からはっきりと告げられた言葉に小さく息を呑む。だが、動揺した素振りを見せず、あくまでも興味のない態度で振る舞う。

 

「次はこっちだ」

 

 そう言って、御堂はAA社を後にした。

 エレベーターホールで、御堂は上階のボタンを押した。向かった先は克哉の部屋があるフロアで、克哉の部屋の前に立つ。まだ、部屋を退去してなかったのだろうか。

 

「ここは……」

 

 そう言いかけて、御堂は口をつぐみ、ややあって、言葉を継いだ。

 

「まあ、いい。これが鍵だ。ケイ、開けてみてくれ」

 

 御堂がカードキーを克哉に渡した。

 俺の部屋に何の用だろうか。

 そんなことを考えながら、ドアの鍵を開けようとして御堂が渡された鍵が克哉の部屋ではなくAA社の鍵だということに気が付いた。同じビルの中の部屋だ。住居フロアとビジネスフロアの鍵は同じ形のカードキーだが、色が違う。御堂は鍵を間違えていた。

 AA社の鍵を手に、どうしたものかと迷ったその時だった。

 不意に、じっと自分を見つめる視線を感じた。振り返ると、御堂がさりげない仕草で克哉から視線を外す。

 冷たいものが背筋を流れた。

 御堂は、克哉の一挙手一投足をつぶさに観察している。

 この外出は御堂の気まぐれなどではない。何かしら目的があるのだ。

 克哉の鼓動が早鐘を打ち出す。鍵を握りしめる手のひらに嫌な汗をかいた。

 背後に立つ御堂の視線を痛いほどに感じる。だからこそ、克哉は何の疑いも抱かぬ感じで、AA社の鍵で自らの部屋を開けようとした。当然、ドアは開かない。困惑したような表情をつくり、首を傾げて御堂を振り返った。御堂はそこで初めて気が付いたように言う。

 

「ああ、すまない。鍵を間違えていた」

 

 御堂もまたごく自然な仕草で、本物の克哉の部屋の鍵を渡してきた。

 間違いない。

 克哉は確信を深める。

 御堂は、ケイを疑っているのだ。

 この世界の佐伯克哉は死んでいる。それは揺るぎない事実だ。だが、御堂はケイの正体と克哉の関連に疑いを抱いているのではないか。

 だから、こうして、克哉に関係が深い場所に連れてきたのだ。そこでの克哉の反応を確認するために。

 先ほどまでの自分の行動を思い返す。特段、ヘマを踏んだという記憶はない。だが、御堂が何をきっかけに、ケイと克哉の関連に気が付いたのか。それが分からない限りは、ことさら慎重になる必要があるだろう。

 渡された鍵を使ってドアを開けた。御堂に促されて中へと足を踏み入れる。

 リビングは二面採光の明るい日差しが差し込んでいる。

 懐かしさに目を細めた。

 自分が使っていた部屋がそのままに残されていた。二十四時間換気が効いている部屋だ。かび臭さや湿っぽさはなく、定期的な掃除も入れていたのか、ほこりも積もっていないきれいな状態だった。克哉の私物もそのまま置かれている。

 

「ここは、佐伯克哉の部屋だ。佐伯が死んだ後もそのままAA社名義で借り上げている。別に何かに利用しているわけではないのだが」

 

 死んだ克哉の部屋をそのままに残そうとする御堂の気持ちはよく分かった。

 この部屋には御堂と克哉の思い出が詰まっている。

 御堂が感傷を込めた眼差しで部屋を見渡す。

 

「だが、いい加減、この部屋も片づけようと思う。AA社もたたむしな」

「……」

 

 故人になじみがあるものを整理するのは、自分の気持ちを整理することだ。御堂の中で、克哉が死んだという事実を受け入れる準備が出来たのかも知れない。

 それは一抹の寂しさがあったが、悲しさはなかった。いつまでも死人に囚われていてはいけない。御堂は新たな一歩を歩み出そうとしている。克哉が出来ることはそれを後押ししてあげることくらいだろう。

 すでに自分のものではなくなった部屋の真ん中で、克哉は静かに立ち尽くしていた。下手に動くのは危険だった。部屋の造り、物の在処、克哉はこの部屋を知りすぎている。御堂はそんな克哉の様子をしばらく眺めていたが、ふ、と表情を緩めて言った。

 

「今日、君をここに連れてきたのは、私のことを知って欲しかったからだ。私は君に、自分のことを何も教えてなかったからな」

「……」

 

 御堂は持っていた鞄からタブレットを克哉に手渡す。

 

「私は君の正体を知りたい。だが、私が君の素性を一方的に探るのはフェアではない。だから、私について君に教えた。他に私について知りたいことがあれば聞いてくれ」

 

 タブレットを手に、克哉は首を振った。御堂のことはこれ以上ないくらいに知っている。

 

「そうか」

 

 そう言って、御堂は言葉を切り、ひとつ、深い息を吐くと、克哉に顔を向けた。御堂の黒一色の瞳孔の真ん中に克哉を捉える。

 克哉は身体に緊張を走らせた。ここからが御堂の本題なのだ。

 

「君は誰だ?」

 

 問いかけられた言葉に克哉は薄い虹彩で御堂を見返した。その視線を真正面から受け止めながら、御堂はふたたび問う。

 

「君は、一体何者なんだ?」

 

 御堂の言葉はまっすぐに克哉に届いた。その声は、幾重にも重ねられたかのような奥深い響きで、柔らかさを感じさせながらも凜とした芯があった。

 俺は誰なのか。

 克哉もまた、自分に問う。

 自分は何者なのだろうか。虚ろな自分を埋めてくれるその答えをずっと探し続け、見つけては失い、そしてこの場に立っている。

 御堂から渡されたタブレットに書き込んで画面を見せた。

 

『俺も自分が誰だか知りたい』

 

 正直な答えだった。だが、御堂は眉をひそめた。

 

「なにか覚えていることはないのか?」

 

 御堂から何度も繰り返された問いだった。そして問われた数だけ答えたように答える。

 

『なにも』

 

 だんまりを決め込もうとする克哉に御堂は眉をひそめた。それでも、御堂らしい諦めの悪さで、克哉の素性について細かく聞いてくる。だが、何度問われても同じだ。克哉は正直に答える気などない。そして、そんな御堂の様子から、御堂はケイと克哉の関連を疑っても、それをそうと確信するまでの確証は持っていないのだと分かる。仕草や癖が似ていたとかその程度のレベルだろう。論理的思考を常とする御堂が、死んだ人間が目の前に立っているなど、受け入れられるはずがないのだ。

 御堂は克哉に無駄な問いを何度も行い、ようやく、この行為が何の実も結ばないと理解したらしい。大きくため息を吐き、「これが最後だ」と前置きをして、言った。

 

「君に大切な人はいるのか?」

 

 ハッと息を呑んだ。今までにない問いだった。『記憶にない』そうタブレットに書こうとして、ためらった。そう書くことに罪悪感を覚えたのだ。その問いをはぐらかすことが、御堂を否定することにつながってしまうのではないか。

 今、克哉にとって大切な人間は、御堂だと断言できる。だからこそ、それを告げることは出来なかった。かといって、自分の気持ちそのものをなかったことにも出来ない。逡巡し、克哉は答える。タブレットに触れる指に御堂の視線をまとわりつくようだ。

 

『言いたくない』

「そうか」

 

 御堂が、克哉の答えを見てひと言、言った。そして、それ以上克哉を追求しようとはしなかった。克哉からタブレットを受け取って鞄にしまう。

 

「ケイ、帰ろうか。せっかくだから、どこかで食事をしよう」

 

 御堂は何事もなかったかのように、克哉に微笑んで言った。

 その表情の裏で何を考えているのか、最早、読み取ることは出来なかった。

 レストランへと向かうタクシーの後部座席で、わざとらしく御堂にもたれかかった。佐伯克哉なら絶対しないような甘えた仕草だ。御堂は少し驚いた顔をしたが、すぐに顔を綻ばせる。御堂はさりげなさを装って克哉の腰に手を回した。

 それから一切、御堂は克哉の正体を探ろうとはしなくなった。ただ二人で過ごす甘やかな時間だけが流れ続けた。

 

 

 

 

 気が付けば、賭けの期日は明日に迫っていた。

 今日も御堂は仕事に出かけていた。克哉は一日中部屋でぼんやりと過ごし、見納めになる地上の景色を窓から眺めた。いつの間にか日が沈み、夜に包まれた街が輝き出す。

 街の灯りで照らされる外の暗闇よりも部屋の中の方が暗かった。そして、部屋に立ち込める闇と同じだけの静寂が室内を満たしていた。

 暗く静かなこの部屋は、まるで深い海の底のようだ。

 人魚姫が住んでいたという海の底もこのような寂しいところだったのだろうか。

 人魚姫は、デンマークの作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンによって1837年に発表された童話だ。人魚姫が自らの正体を明かすことなく海へと飛び込む、悲劇の結末となったのはアンデルセンの失恋をきっかけとして書かれた話だからだという。

 つまり、完全なる創作の話に過ぎない。それなのに、克哉は夜の暗い海に飛び込んだ人魚姫の姿をありありと思い浮かべることが出来た。人魚姫の身体は波に呑まれ、海の底へと引きずり込まれていっただろう。人間のまま死ぬことを選んだ人魚姫、その肺から押し出された空気が口からごぷりとこぼれる。それが泡となって海面に向けて立ちのぼり、星空の下で弾けて消えていく。人魚姫の祈りを宿しながら。

 

「ケイ、どうした?」

 

 唐突に、背後からかけられた声にハッと意識がこの場に引き戻された。

 振り向けば、暗い部屋の中に仕事帰りの御堂が立っていた。いつの間にか感傷に浸っていたらしい。克哉は御堂が帰ってきたことにも気付かなかった。

 慌てて取り繕うような笑みを返したが、御堂は無言で克哉に歩みを寄せる。

 

「電気も付けずに何をしていたんだ?」

 

 そう聞かれても、適切な答えも、答える術も、克哉は持ち合わせていなかった。返事代わりに窓の外へと顔を向けると、御堂は克哉の行動を勝手に解釈してくれた。

 

「空を見ていたのか」

 

 御堂もまた窓の向こうへと視線を向けた。東京の夜空は星のない寂しい空だ。しかも、箱庭のように狭い。鑑賞する価値もないだろう。

 それでも、言葉もなしに二人して夜空を仰いでいると、不意に背中に手が触れた。肩に温かな重みがかかる。克哉の肩口に御堂が額をこすりつけてきていた。

 

「しばらくこのままでいさせてくれ」

 

 大事なものをそっと触れるような手つき、そういえば、こんな風に御堂に触れられたことがあったことを思い出した。御堂も克哉と同じ気持ちを抱いたのだろう。ぼそりと口にする。

 

「君も、似ているな」

 

 誰に、とは言わなかった。

 

「目を離した瞬間に、ふっと消えてしまいそうだ」

 

 底知れぬ不安を堪えるように、背中に置かれた手が細かく震えていた。

 あの夜も、身体はこうして触れあっていても、心はすれ違ったままだった。そして、克哉はむごたらしく殺された。その時のことを御堂はありありと思い出しているのだろう。

 御堂にかける言葉もなく、また、かける声も持ち合わせていなかった。それに、何を口にしても、その言葉は空虚に上滑りしてしまうだろう。あの夜のように。

 黙ったまま時間だけが過ぎていく。静寂に紛れるようにして御堂が唐突に呟いた。

 

「……ベテルギウス」

 

 突然、何を言い出したのかと目を瞬かせると、御堂は言葉を続けた。

 

「冬の星座、オリオン座の肩にある一等星だ。まもなく爆発するらしい。……まもなくと言っても、ベテルギウスはここから650光年先にある。だから、今見えている星の光は650年前の光だ。もしかしたら、とっくにベテルギウスは爆発して消えているのかもしれない」

 

 顔を上げた御堂は、克哉の肩越しに夜空を見つめていた。高層ビルによっていびつに切り取られ、街の光に照らされた明るい夜空。そこにあるはずの星を見透かすかのように。

 御堂は深く息を吐いた。

 

「見えているものが必ずしも真の姿ではないということだ」

 

 御堂は空に向けていた視線を克哉へと戻した。

 

「ケイ、君の首輪が外れたら、君のことを教えてくれ」

 

 ああ、と頷いた。

 

「そして、一緒にベテルギウスを見よう。星が爆発する前に」

 

 オリオン座は冬を代表する星座とはいえ、冬にしか観察できないわけではない。この夏の時期でも明け方の東の空に見つけることが出来る。だが、御堂の意図するところは違うだろう。ケイと、一緒に冬を迎えようと言っているのだ。御堂らしく遠回しでありながら、まっすぐな告白だと思った。

 克哉は、もう一度、頷いた。

 今なら分かる。

 誰かを好きになることで初めて手にする、かけがえのない気持ちとは何か。

 相手を想う気持ちに際限などはなく、好きだという気持ちは膨らみ続ける。

 この想いを捨てることができなくて、人魚姫は海へと身を投げたのだ。

 そっと振り向き、御堂と身体を向き合わせる。

 御堂の頬に手を添えた。

 顔を近づければ、当然そうなるべきかのように、唇が引き寄せられる。唇が重なり合った直後、御堂の身体がほんの少し強ばった。ケイと御堂の初めてのキスだ。だが、次の瞬間には御堂は目を瞑ると、顔の角度をずらしてキスを深くかみ合わせてきた。互いの口腔をむさぼり合い、くちゅり、と湿った音が部屋に満ちた静寂を乱す。舌を舐め合い、混ぜ合わせた唾液をこくりと呑み込む。口蓋から歯列まで御堂の舌先がなぞれば、その舌を強く吸い上げた。

 この先に言葉は不要だった。

 もつれ合うように御堂の寝室に向かい、せわしなく服を脱がせ合った。ようやく口が離れたかと思いきや、ベッドに膝を付かされた。掲げた腰の狭間、ぬるりとした液体が伝っていく。潤滑剤だ。同時に長い指が克哉の窮屈な穴を探り当てた。

 

「っ、……ぅ」

 

 窮屈な内腔を押し広げられる感覚に呻く。御堂は片手を克哉の窄まりに這わせながら、他方の手で克哉の胸をまさぐってくる。尖りかけた乳首を指の腹で擦られるとそこからじんわりとした熱と疼きが波紋を拡げた。

 神経が高ぶったところで御堂が身体を起こし、克哉の腰を掴んだ。振り向けば御堂の反り返ったものが克哉の狭間へと入り込んでくる。アヌスに丸く張った先端をぐっと押し付けられる。ひっ、と息を吸い込んだ瞬間、ぐぷりと侵入してきた。

 

「ぁ、――ああっ」

 

 御堂は克哉を気遣って、ゆっくりと中を穿ってくる。もう何度も抱かれた身体だが、それでも、身体を拓かれる圧迫感に声が出てしまう。たまらずに逃げようとした腰を御堂に引き戻された。

 

「きついか?」

 

 問う言葉にこくこく頷いた。背後で御堂はほんの少し躊躇い、そして、克哉のペニスに手を伸ばした。

 

「ぅ、ん……っ」

 

 ペニスに御堂の長い指が絡まり、根元から先端まで扱き上げられる。巧みな指使いに下腹に熱がなだれ込み、気が逸れた瞬間、御堂はじりじりと腰を進めてきた。どうやら、退くという選択肢はないらしい。

 優しく、それでいて強引に御堂はつながりを深めていく。

 

「っ、ぁ、……は、ああっ」

「全部、挿入った」

 

 下腹の奥、深いところまで御堂の形に拡げられる。ゆるゆると腰を遣う御堂が感じ入ったように呟いた。

 

「動くぞ」

 

 御堂は猛然と腰を使い始めた。抉られ、擦り上げられる粘膜が焼け爛れるように熱を持つ。同時に、妖しい感覚が克哉の身体を侵食していった。

 御堂が腰を打ち付けるたびに、克哉の先端からこぼれた雫(しずく)がシーツを濡らした。

 

「――く」

 

 無意識にシーツをかき乱していた手に御堂の手が覆い被さる。指一本一本を絡めるようにして、克哉の手をシーツに縫い付けた。

 深く覆い被ってくる御堂の、熱が籠もった吐息が首筋かかる。のしかかる御堂の重みと体温。

 征服されたといっても過言でないほど、組み伏せられて蹂躙されているのに、屈辱よりも快楽が先行してしまうのは、御堂が狂おしいほどに克哉を求めていることが分かるからだ。御堂をくわえ込んだところが切なく疼く。身体の外でも中でも、御堂の熱を溺れるほどに感じてしまう。

 御堂が克哉の耳朶に唇を寄せて囁いた。

 

「……ケイ」

 

 御堂が甘さを帯びた声で克哉を呼んだ。明らかに、克哉に呼びかけていた。聞こえなかったふりをして黙っていると、御堂はもう一度、声を出した。

 

「ケイ、こっちを向いて」

「――ッ」

 

 甘く誘うような声音に、克哉は唇を噛み締めた。

 至近距離には御堂の顔がある。振り向けば、御堂と顔を見合わせることになるだろう。今、御堂の部屋の遮光カーテンは開かれている。夜とはいえ、街の灯りが入り込んだ部屋は、微かな明るさがあった。色は分からなくとも輪郭は分かる、その程度だが、淫らに歪む顔も、淡く開いた唇から漏れる乱れた吐息も、手に取るように分かってしまうだろう。そして、快楽を極める瞬間を分かち合ってしまえば、離れがたくなる。自らに誓った覚悟が揺らいでしまう。

 だから、克哉は振り向くことは出来なかった。顔をクッションに押し付けて、御堂に拒絶を示す。そんな克哉の態度に御堂は小さくため息を吐き、克哉の後ろ髪にキスを落とした。そのまま、うなじの毛を逆立てるように唇を滑らせていく。克哉の首輪、それにさえ御堂は愛おしげにキスをすると、ふたたび腰を打ち付けてくる。

 高みへと、一直線に。

 身体も心もどろどろに溶けきってしまうような、そんなひたむきなで一途な行為に、淫らに溺れていく。

 もし、声が出せたなら、御堂に「好きだ」と告白していただろう。御堂もまた、克哉に自らの気持ちを伝えたがっている。克哉が拒みさえしなければ、二人の気持ちは何の隔たりもなく通じ合っていた。

 ぐっと奥深くに穿たれたものが、どくりと脈打った。注ぎ込まれる熱に、克哉もまた、滾る熱を放った。

 

 

 

 克哉は暗闇の中で目を眇めた。すぐ傍らには御堂が静かな寝息を立てていた。闇の中にほのかに浮かび上がる御堂の横顔。その輪郭を網膜に焼き付ける。

 克哉は、静かにベッドから降りた。物音ひとつ立てぬように細心の注意を払って部屋から出る。

 服を着て、リビングに寄るとソファの裏に隠しておいた携帯電話とナイフを回収し、玄関に向かう。ドアをそっと開いて一歩踏み出した。ドアノブを押さえたままドアを閉める。そしてゆっくりとドアノブから手を離した。

 向かった先は公園だった。克哉が澤村に呼び出された場所であり、Mr.Rと出会った場所でもある。

 自分が殺された場所に立った。血溜まりが出来たはずのアスファルトは、すでに周囲と同化し見分けが付かなくなっている。こうして、事件もそれにまつわる記憶も知らぬ間に風化していくのだろう。

 

「こんばんは」

 

 唐突に背後から声をかけられる。振り向けば、闇を纏ったかのような黒衣の男が長い金髪を揺らめかせながら立っていた。この男が現れるのは分かっていたから、驚きはなかった。

 克哉と向き合うとパチンと指を鳴らす。克哉は慎重に声をだした。

 

「俺は賭けから降りる」

「まだ一日ありますが……。賭けから降りる、それがどういう意味だか分かっておいででしょうか」

「まさか。ちゃんと分かっているさ。賭けを棄権すれば俺の負けだ」

 

 Mr.Rは金の眸を眇めた。

 

「それならば、何故? このままいけば、あなたは解放されて元の生活にもどれたでしょうに」

 

 白々しい言葉を吐くMr.Rを睨み付ける。

 

「お前こそ、俺が何故ここにいるか、分かっているだろう?」

 

 Mr.Rは、口元を笑みの形に歪めたまま答えない。だから、言った。

 

「……俺がお前と御堂との賭けに絶対に必要な存在だからだ」

「……」

 

 闇夜に光る肉食獣の眸、獲物を狙うかのように輝く金の眸を克哉は静かに受け止めた。

 

「期日までに俺がいなくなれば、お前と御堂との賭けは成り立たない。つまり、お前は御堂から何も奪い取ることはできない」

 

 Mr.Rは返事をしなかった。それはすなわち、克哉の言葉の正しさを裏付けていた。

 好きだという気持ちは止めようとして止められるものではない。このままでは、御堂はケイを助けようとしてMr.Rの手に落ちるだろう。だが、賭けの商品である克哉がいなくなれば賭け自体が成立しなくなる。それは同時に克哉の賭けは棄権となり、克哉の運命はMr.Rの手中に落ちる。あの夜のように。

 ややあって、Mr.Rは口を開いた。

 

「あなたは、ふたたび私にすべてを委ねようとしている。後悔していないのですか? 自らの運命を私に委ねたことを」

「そうだな……」

 

 後悔なら数え切れないほどした。自らの運命を呪い、Mr.Rを呪った。そして、自分をこんな運命に追い込んだ澤村を激しく恨んだ。何が間違っていたのか、どの選択が正しかったのか、答えのない問いを何度も繰り返した。

 

「私の元に戻ればどんな運命が待ち構えているか分かっているのでしょう?」

「ああ」

 

 克哉は肯定する。

 きっと、今まで克哉が経験した以上の苦痛と屈辱が待っている。いっそ殺して欲しいと願い、気付かぬ間に壊れて行くのだろう。その末路は、御堂を傷つけ裏切った自分に対する報いとしてこれ以上ないほどに適切に思えた。

 死刑宣告をされたにも関わらず、克哉の心はなんら波立つことはなかった。Mr.Rに告げる。

 

「さあ、好きにしろ」

 

 克哉の決意を前に、Mr.Rは小さく肩をすくめた。

 

「殉教者にでもなったつもりですか? 随分とつまらない人間になったものですね」

「俺は犬だろう? 一体俺に何を求めているんだ」

「あなたが希望と絶望、快楽と苦痛の狭間で苦しむ姿を」

 

 Mr.Rが金の眸に妖しい光を宿した。まるで克哉を捕食せんと舌なめずりしているかのようだ。だが、そんな状況にも克哉は怯むことはなかった。ふん、と鼻で笑い返す。

 

「好きに見ればいいじゃないか。お前は賭けに勝ったんだ」

 

 克哉の言葉に、Mr.Rは表情を消した。平坦な口調で言う。

 

「あなたは希望も絶望も、すべてをこの世界に捨ててこの場にいる。全くもって、面白くない展開です」

 

 そう言って、Mr.Rは言葉を切り、唇をいびつに歪めた。

 

「……もし、私が、あなたが賭けから降りることを拒否したら?」

「なんだと?」

「御堂さんの賭けが終わるまで、あなたも賭けから降りられない。望もうと望むまいと」

 

 Mr.Rは薄い笑みを浮かべた。だが、克哉もまた不敵な笑みで受け止めた。

 

「残念だな。せっかく俺を好きにできるチャンスをやったのに」

「どういうことです?」

 

 Mr.Rは怪訝な顔を克哉に向けた。

 

「お前にその気がないなら、俺が俺を好きにする」

 

 小さく笑って眼鏡のブリッジを押し上げる。

 ポケットからMr.Rに渡されていたナイフを取り出した。ナイフの刃が公園の街灯の光を反射して鈍く光った。

 Mr.Rが金の眸を微かに見開く。

 

「じゃあな、Mr.R。今度は生き返らせるなよ」

 

 克哉は笑った。そして、迷いなく自分の首にそのナイフを突き立てた。ずくり、と鋭い痛みと共に、自らの首に突き刺さる感触が伝わる。力を込めて切り裂いた。ぶつり、と肉と血管が切り裂かれる。

 ぶしゅ、っと勢いよく噴き出る音と共に、血が噴き出した。視界一面、赤く染まる。

 自らの血を顔から浴びた。温かく、ぬめる血液が克哉をしとどに濡らしていく。

 このナイフを突き立てた者の血を浴びれば、その者に成り代わることができる。

 そう、結局、克哉は自分の人生を背負うことしか出来ないのだ。

 佐伯克哉は殺された。そのあるべき姿に戻るのだ。

 人間の生まれ方は誰であってもそう変わらない。だが、死に方は様々だ。結局、生きてきたようにしか死ねない。

 正しい死に方というものが、あるのかどうか分からない。だが、どうひいき目に見ても殺された克哉の死に方はひどいものだっただろう。

 しかし、死ぬはずだった自分が、この世ならざる者と契約して、その死をなかったことにしたのは、さらに許されない行為であるはずだ。

 それでも、本来ならあの公園で一生を終えるはずだった自分が今この場に立っていることを、克哉は後悔をしていない。やり残したことは多いけれど、この三ヶ月の間に、克哉は御堂と共に過ごし、身に余るほどの幸福を享受できたのだ。そして、御堂と過ごした時間が何かしら御堂にとって意味のあるものに出来たのなら、克哉は救われる。

 これは運命に押しつけられた人生ではない。Mr.Rによってかき回された人生だとしても、その一つ一つの選択肢を選びとり、進むべき道を決断したのは克哉だ。

 結局のところ、克哉を絶望させ苦しませたのは、Mr.Rでも、澤村でもない。克哉自身だ。だから、克哉が刃を向けるとしたら、自分自身しかいなかった。

 ナイフを突き立てた首は激烈に痛んだ。だが、それもあと少しの辛抱だ。今度こそ、本当の死が克哉を迎えに来る。今際(いまわ)の際の走馬灯は、御堂の姿であればよいと願うが、それは欲張りすぎだろう。

 身体中の力が抜ける。自分自身の熱い血を全身に浴びながら、がくりと両膝をついたその時だった。

 

「ケイ!」

 

 御堂の悲鳴のような叫びが聞こえた。

 もはや顔を起こすことさえ出来ず、声が聞こえた方に黒目だけを向けた。克哉に向けて全力疾走の勢いで克哉に向かってくる人影があった。

 

 ――……御堂?

 

 声を出したつもりだったが、代わりに口から血液がごぷりと溢れただけだった。

 まさか、願いが通じたのだろうか。だが、御堂本人にこんな姿を見せるつもりはなかった。飼い猫が死ぬ直前に飼い主の前から姿を消すように、御堂がすべての真相を知る前に姿を消せればいいと思っていた。御堂はケイが消えたことをきっと悲しむだろう。だが、真実を知ることよりも知らない方が悲しみは浅いはずだ。御堂なら立ち直ることができる。

 御堂が必死の形相で克哉に駆け寄る。御堂の大きな手が崩れ落ちる克哉を抱き留めた。

 

 ――今回もまた、ちゃんとお別れを言えなかった。すまない、御堂。

 

 口からこぼれた血の泡は、くすんだ夜空の下で弾けて消える。克哉の祈りを宿しながら。その祈りが届けば良いと願う。

 さよなら、御堂孝典。

 さよなら、佐伯克哉だった俺。

 意識が闇に引きずり込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 首が熱を持ってじくじくと痛む。

 自分が刺した傷のところだろうか。

 手で傷を触れようとして、手が酷く重いことに気が付いた。満足に動かすことが出来ず、微かに指を震わせるのが精一杯だ。

 ここが死後の世界だとしたら、ずいぶんと不自由な世界だ。

 そこまで考えて、はたと気付いた。

 

 ――俺は、死んでいない?

 

 痛みを感じるのも、とりとめのない思考に囚われるのも、生きている証(あかし)だ。

 そう気付いた途端に四肢の末端まで神経が行き渡り、みるみるうちに五感が感覚を取り戻していく。

 うっすらと瞼を押し上げると真っ白な天井と明るい照明が視界に飛び込んできた。そのまばゆさに目を細めた。

 どうやらベッドに寝かされているらしい。聞こえてくる電子音や身体に触れるいろいろな器具から考えると、ここは病院なのだろう。

 光に目が慣れてくると、克哉の予想通り、寝かされている場所は、病院の個室のベッドだった。そして、ベッドサイドに座り克哉を覗き込んでいる人物がいることに気が付いた。

 

「気が付いたか?」

 

 ぼやけた視界の焦点が定まってくると、御堂がベッドサイドの椅子に座って、克哉に心配そうな視線を向けていた。

 

 ――御堂……?

 

 なにがどうなっているのか。

 この状況が理解できず、目の前の御堂をじっと見つめていると、御堂が口を開いた。

 

「私が分かるか、佐伯?」

 

 ああ、と頷く。御堂は克哉に向かって、佐伯と呼びかけた。どうやら今の克哉はケイではなくて佐伯克哉らしい。克哉の戸惑う表情を見て、御堂が言葉を継いだ。

 

「君は、澤村に襲われてナイフで切られて、瀕死の状態だったんだ。半年間、生死の境をさまよった」

 

 ――半年間?

 

 御堂の言葉を頭の中で反芻する。

 そうだったのだろうか。

 となると、今まで現実だと思っていた出来事は夢だったのだろうか。

 ゆっくりと右手を動かしてみる。かかる重力も触れるシーツも、克哉の記憶にある現実そのままで、今の自分とこの場所が現実だとしたら克哉は長い夢を見ていたのだろうか。

 克哉は右手を首元に持っていく。首に触れると首輪はなく、代わりに包帯が厳重に巻かれていた。見えないし、直接触れることも出来ないが、ここに傷があることは分かる。それは、自分が刺した傷ではなくて、澤村によって出来た傷なのだろうか。

 だが、どう思い返しても、あれが夢だったとは思えない。

 御堂はどこか不安げな眼差しで克哉を見ている。

 首輪がないなら、声を出せるはずだった。口を開いて、言った。

 

「嘘だ」

 

 確かに声は出た。だが、乾ききった喉から絞り出した声は嗄れて、自分の声には聞こえなかった。そして、御堂も克哉の言葉を聞いて、微かに表情を硬くした。

 

「佐伯。君は死に瀕するほどの重傷だったんだ。だが、九死に一生を得た。良かったではないか」

「俺は死んだはずだ」

 

 どう思い返しても、ケイとして御堂と過ごした時間が幻だったとは思えない。

 だが、何故、佐伯克哉として病院のベッドに横たわっているのか。御堂の言葉は一見、整合性が取れている。それでも、そのまま信じることは出来なかった。

 ベッドの上から御堂を仰いだ。克哉を見返す御堂の双眸が微かに揺らぐ。

 視線がぶつかり合い、その緊張に耐えかねた御堂がわずかに視線を伏せた。

 やはり、御堂は何かを隠している。

 御堂は何かを言いかけて黙り込み、そして、意を決したように口を開いた。

 

「……ああ。君は二度も死んでいる。佐伯克哉として一度、そして、ケイとして一度」

 

 やはり、ケイだった自分は夢ではなかったのだ。

 そして、御堂は、ケイが佐伯克哉だと理解しているようだ。

 どの時点で気付いたのか、どうして気付いたのか、聞きたいことは多々あったが、それよりも何よりも腑に落ちないことがあった。あの公園で、克哉は確かに自分の命を絶ったはずだった。

 

「何故、俺は生きている?」

 

 Mr.Rの好きにさせるつもりはなかった。自分の命は自分だけのものだ。自分の好きなようにする。だから、今度こそ、大切なもののために命を賭したはずだった。それなのに、克哉が生きていると言うことは、克哉の願いは達成されなかったということだ。

 急速に思考が冴え冴えとして、鋭さを取り戻す。克哉が命を保っていると言うことは、代わりの誰かが何かを失ったと言うことだ。言葉もなく御堂を見据えた。重い沈黙がのしかかり、ややあって御堂は口を開いた。

 

「私は、ケイ……君の正体を疑ってはいたが、佐伯だという確信はなかった。佐伯は死んだはずだった。私は君の死体も確認したのだ。しかし、君と佐伯克哉には何かしらつながりがあると思った。それに、君が私のあずかり知らぬところで何かをしているのは気付いていた。だから、君を調べようと思ったのだ。君に与えた靴にはGPSを付けていた」

「それで、俺の後をつけたのか」

 

 御堂は頷く。

 もしかしたら、あの外出も、克哉にGPS付きの靴を与えるための口実だったのかも知れない。

 

「マンションの敷地の外に出たらアラームが来るよう設定していた。その後は、君が知っての通りだ。私は君のGPSを辿りながら、公園まで行き着いた。だが、あと一歩、遅かった」

 

 そこで御堂は表情を苦くした。克哉の死ぬ場面を思い出したのだろう。自身を落ち着けるように深く息を吐いた。

 

「君は何故命を絶とうとしたのか。賭けの期日は明日のはずだった。そこまで待てば君は自由になれたというのに。だが、君が自ら命を絶ったことで、その理由を推測することが出来た。その時、私は君が佐伯克哉だと分かっていたからな。君は、私とMr.Rの約束を反故にさせる気なのだと」

 

 どこでケイが克哉だと気付いたのか、御堂はそれには言及せずに言葉を続けた。

 

「正直に言う。命をかけた君には申し訳ないが、私とMr.Rとの取引は続行された。私が君を望んだのだ」

「何だと……」

「知らなかったとは言え、今まで、君に対して酷い扱いをしたことに弁解の余地はない。謝罪する」

 

 克哉が聞きたいのは御堂の謝罪ではなかった。Mr.Rと御堂の取引とは、すなわち、御堂の運命をかけた取引だ。愕然とする。御堂はひと言、付け加えた。

 

「……対価は払った」

「まさか」

「安心しろ。君が想像したような対価ではない。現に私はここにいる」

 

 御堂は克哉を安心させるようにつとめて穏やかな口調で言った。

 御堂をまじまじと見つめた。確かに、御堂が言うとおり、御堂は今まで通りでなんら変わらないように見えた。それでも、詰め寄る勢いで言った。

 

「じゃあ、何を払った。寿命とかじゃないだろうな」

 

 あの男ならやりかねない。御堂の寿命を克哉に与えたと言われてもだが御堂は微苦笑を浮かべた。

 

「違う。私が支払ったのは記憶だ。それもほんの一部」

「記憶?」

 

 まじまじと御堂を見つめた。そんな克哉を見返す御堂の眼差し、それはどこか遠慮がちで困惑を隠しきれないように見えた。

 ハッと気が付いて言った。

 

「御堂、俺が誰に見える?」

 

 どうやら、克哉の問いは正鵠を射たらしい。御堂は言いにくそうな顔をして言った。

 

「……私には君がケイにしか見えない」

 

 観念したように、御堂は告白する。

 

「今でも私は君が佐伯克哉だと認識出来ない。別人のようにしか思えない。理屈では分かるのだが、こうして話していても、君が佐伯だとはまったく信じられない」

 

 先ほどから御堂がちらちらと克哉の頭上を視界の端で見ているのが気になっていたが、克哉も同じところに視線を向けて合点がいった。そこには佐伯克哉と書かれたネームプレートがあった。御堂はこうして何度もケイが佐伯克哉であると確認しているのだ。

 

「君が目を覚ました時も正直、半信半疑だったが、試しに佐伯と呼びかけたら、君は答えた。だから、君は佐伯克哉であることは間違いない」

 

 どうやら、御堂は、Mr.Rが担保として預かっていた佐伯克哉を他から識別するための記憶、それをそのまま対価として支払ったようだ。

 

「あの男は言った。君を望む場合は君の価値に相応しい対価を払ってもらうと。君は死にかけていたからな。だから大幅に割り引かれた。だが、それでも君を引き取るという契約はしっかりと履行してもらった。死体と共に過ごすわけにはいかないからな」

「よくそんな言い分が通ったな」

「必死だったのだ。君を取り戻そうと」

 

 半ば呆れて、半ば感心して、言った。

 ずいぶんと強引な取引だ。御堂は悪魔すら欺いたのだろうか。

 あの夜にMr.Rと御堂の間にどんな話し合いがあったのか分からない。だが、御堂は目の前にいて、克哉も確かに生きていた。

 今必要なのは、この幸運を疑うことではなく、この幸運をもたらした御堂に素直に感謝することだろう。

 

「あんたには助けられてばかりだな。……ありがとう」

 

 克哉の言葉に御堂は目を瞬かせた。

 

「そんなに素直に礼を言われると、君が本当に佐伯なのか疑わしくなるな」

 

 本気とも冗談とも付かない口調でそう言われる。

 二人で顔を見合わせた。まだ完全に、とまではいかないが、緊張が緩み二人の間には砕けた空気が漂いつつあった。

 そうだ、と思い出した。

 ひと言、御堂に言っておかなければならないことがあった。

 

「……御堂、十万年先だ」

「何?」

「ベテルギウスの爆発は、最新の研究結果では十万年以上先になるらしい。だから、爆発の心配はしなくていい」

 

 一瞬、虚を突かれたような顔をして、御堂は笑い出した。

 

「君は、まったく……。そういうところは、全然変わらないな」

 

 そして御堂は上体を乗り出すと、克哉の唇に唇を重ねてきた。ついばむようなキスをされる。薄く唇を開くと、すかさず舌が入り込んできた。

 個室とは言え病院内で随分と大胆だとは思ったが、御堂のことだ。しっかりと人払いしているのだろう。だから、遠慮なく御堂の口を塞いだ。二人の唇を重ねて作った空間に水音が立つ。探り合うような口づけはすぐに、相手の呼吸を奪うほどの激しいキスになった。

 長い長いキスをしてようやく互いの唇を解放した。キスだけで乱れた呼吸を整えながら、御堂が言った。

 

「これだ」

「?」

 

 御堂がいたずらっぽく笑う。

 

「ひとつだけ、あの男が回収し忘れた記憶がある」

「何?」

「君とのキスだ。君とキスした瞬間、佐伯のキスを思い出した。Mr.Rは声や顔かたちの記憶は奪っても、キスの記憶を奪うのを忘れていたのだろう。こんな扇情的なキスをするのは君くらいだからな」

「それで気付いたのか」

 

 御堂は小さく頷いて肯定した。あの夜の暗い部屋で御堂と交わしたキス。あのキスが、ケイが克哉だと御堂に悟らせたのだ。となれば、克哉が最初に推測したように、無理矢理にでも御堂を抱けば、御堂はケイの正体に気付いたのかも知れない。

 だが、いつだって、克哉が最短だと思った道はまったくの見当違いで、辿り着くことを諦めたときに自分がゴールに立っていることに気付くのだ。つまり、そういうことなのだろう。

 

「あなたには敵(かな)わないな」

「何がだ」

 

 喉を低く鳴らして笑うと、御堂が怪訝な顔をする。

 間近にある黒く濡れた眸。御堂をまっすぐに見つめて言った。

 

「つまり、あなたを愛してるってことですよ」

「それは私の台詞だ」

 

 すかさず御堂は言い返し、唇が触れあう距離で囁いた。

 

「克哉、愛している」

 

 言葉と共に唇が押し付けられた。

 点滴の管が邪魔だったが、御堂の背中に手を回す。互いの身体を引き寄せて、唇をむさぼり合う。

 記憶にある通りの御堂との口づけ。触れ心地のよい温かな唇は永遠に味わっていたくなる。

 たっぷりとしたキスを交わしながら、ふと思った。

 キスで目を覚ますのは人魚姫とは別のおとぎ話だったはずだ。

 人魚姫は悲劇の物語だったからこそ、多くの人の心を掴み、ずっと読まれてきたのだろう。

 だが、もし人魚姫に別の結末があるとしたら、このような結末だったのかもしれない。

 海に飛び込んだ人魚姫を王子が助け、キスをする。人魚姫は目覚め、一方で王子は人魚姫を思い出す。そして、二人は結ばれる。

 しかし、克哉と御堂の間に起きた物語を『幸福な結末』のひと言で片づけてしまうのは早すぎる。

 なぜなら、二人の物語はこれからもずっと続いていくのだ。

10
エピローグ

 こうして、犬を飼っていた御堂の三ヶ月間は終わりを告げた。

 夏から秋の移り変わりは瞬く間だった。東京の夏の蒸し暑さは嘘のように消え去り、街路樹の葉が色づき始めた。この分だとあっという間に冬になってしまいそうだ。

 あの夜を境に、この世界に存在するあらゆる記録から克哉が死んだという情報が消されていた。だが、克哉が襲われた事実はそのままで、殺人事件の代わりに殺人未遂事件に変わっていた。そのため、澤村紀次も殺人容疑ではなく殺人未遂容疑で逮捕された。逮捕されるまでの経緯は御堂の記憶通りで、佐伯克哉に襲われて出頭したという供述は変わらなかった。だが、佐伯克哉は怪我を負って半年もの間入院し、先日、ようやく退院したことになっている。今となっては澤村が襲われたという出来事の真相は薄々感づいてはいるが、今のところは追い詰められた澤村の妄想で片付けられている。

 克哉はかつて二度、死んだ。一度は殺され、一度は自ら死を選んだ。

 その事実を知っているのは、いまや御堂と克哉だけだ。

 

 

 

 あの夜……。

 御堂はケイの靴にGPSを仕掛けていた。マンションの敷地から出たら携帯にアラートが鳴るよう設定しておいた。だから、ケイが家を出たことにすぐに気が付くことが出来た。そして、GPSを確認しながら、公園まで辿り着いたのだ。

 公園で御堂が目にしたのは、Mr.Rと手に持ったナイフで自らの首を掻き切るケイの姿だった。

 一体何が起きたのか。

 混乱し、ケイの名を叫びながら、駆け寄った。血溜まりの中にためらうことなく膝を付き、ケイをかき抱いた。ぐらりと頭が倒れ、ケイ自ら切りつけた無惨な首の傷があらわになる。ケイの手からバタフライナイフが転がり落ちた。このナイフで、ケイは自らを切りつけたのだ。

 温かな血が御堂の腕をしとどに濡らした。アスファルトに流れる血は、そのまま、ケイの命だった。

 ケイの側にはMr.Rが立っていた。

 Mr.Rはケイが血塗れになって倒れても、表情ひとつ変えることなくその様をじっと眺めていた。

 傷口から溢れる血液が勢いを失っていく。ケイの鼓動が弱まり、止まろうとしていた。誰の目から見ても手遅れだった。今、御堂の腕の中で、ひとつの命が死を迎えようとしている。死とは不可逆的な変化だ。誰であっても死をなかったことには出来ない。それでも、御堂の推測が正しければ、ただ一人、この状況をどうにかできる男がいた。

 御堂は顔を上げて、Mr.Rを見据えた。

 

「ケイを助けてくれ。お前なら出来るはずだ」

 

 Mr.Rは御堂を静かに見つめる。

 

「なぜ、私が助けられると思うのです?」

 

 一人の人間が目の前で自害したにも関わらず、Mr.Rの口調には何の動揺も滲ませていなかった。ただただ冷淡に御堂を見返してくる。

 

「……それは、ケイが佐伯克哉だからだ」

 

 御堂の言葉にMr.Rの金の眸が瞬いた。

 

「佐伯克哉さんは死んだはずでは?」

「その通りだ。だから、佐伯克哉をお前が生き返らせた」

「あなたは、死んだ者を生き返らせることが出来るとお考えで?」

 

 Mr.Rは御堂をまじまじと見つめて、聞き返してくる。

 御堂は、自分でも荒唐無稽なことを口にしている自覚はあった。だが、ここで気圧される訳にはいかなかった。

 なぜ、ケイが佐伯克哉だと分かったのか。

 ケイは決して自分の正体を明かさなかった。しかし、状況証拠を積み重ねることによって導き出された結論は、ケイは克哉だということだった。御堂の書斎のパソコンから送られた匿名メール、御堂の記憶から失われた克哉の姿形、藤田はケイの顔写真を見て克哉だと指摘した。そして、AA社にケイを連れて行ったとき、ケイは迷うことなく御堂のデスクに資料を置いた。名札も置いていなかったのに、どうして同じ形の二つのデスクから御堂のデスクを知り得たのか。

 決定打はケイとのキスだった。ケイと交わしたキスは、記憶にある克哉とのキスそのままだった。だが、目の前にいるのは確かにケイだった。

 見えるものが真実だとは限らない。

 死んだ人間が生き返るはずがない。しかし、その常識に目を瞑れば、ケイにまつわるすべてが説明できるのだ。そして、この絶望的な状況を切り抜ける道が見えてくる。

 御堂は強い眼差しでMr.Rを射た。

 

「死んだ人間を生き返らせることは人間には出来ない。だが、お前には出来るはずだ。一度、佐伯を生き返らせたのだからな」

 

 Mr.Rは御堂の追及には答えなかった。そして、ふと思い出したような口調で言う。

 

「まあ、それはさておき、あなたとの約束において肝心な商品が死んでしまった場合、私は犬を回収するという話でしたね」

 

 Mr.Rは御堂に向けて一歩、歩みを寄せた。御堂は、緊張に身体を硬くした。母親である獣が子どもを外敵から守るように、糸の切れた人形のように身体を弛緩させる克哉を強くかき抱くと、Mr.Rを睨み付ける。

 

「それは、期限が来るまでに死んだときの話だろう」

「はい?」

 

 御堂は視線を腕時計に落とした。すでに十二時を回っている。

 

「もう、約束の期日になっている。だから、お前との取引は続行する」

「ほう……。まあ、それも良いでしょう」

 

 Mr.Rは冷ややかな眼差しを御堂に注ぎつつ、言った。

 

「あなたは、犬の飼い主としてはふさわしくありません。放し飼いをしすぎました」

「そうだろうな。だが、私はケイを望む」

「もはや、死に瀕していますが」

「なんとかしろ。対価は払う」

 

 無茶苦茶な要求をしている自覚はあった。だが、今の御堂は、ケイが佐伯克哉だと信じ抜くことで見えてくる唯一の可能性に、なりふり構わずしがみつくことしかできなかった。

 それに、Mr.Rは先ほどから生き返らせることが出来ない、とはひと言も口にしていないのだ。

 

「御堂さん、私が対価として何を要求するのか分かっておいででしょうか」

 

 いくらであっても支払う、そう言い返しかけて、思いとどまった。Mr.Rの言葉にハッと気が付く。この男は、嘘は吐かないが、重要な情報を常に隠している。Mr.Rは、対価が金だと口にしたことは一度もなかった。

 温かさを留める腕の中の肉体、そこに視線を落とした。だらりとたれた手足、血の気の失せた白い肌。薄く開かれた瞼の狭間に覗く瞳孔には虚無が広がりつつある。何故、このタイミングでケイは死を選択したのか。頭の中に火花が散る。震える声を絞り出した。

 

「……ケイが何故死んだのか、それはこの取引を無効にしたかったからだ。つまり、それだけの対価を要求するつもりだったのだろう」

 

 ケイ、いや、克哉が身をもって教えてくれた。克哉は無謀であっても愚かではない。克哉は、自らの命をかけても惜しくないほどの何かを守ろうとして、死を選んだのだ。御堂に何も知らせずに出て行った克哉の行動を考えれば、克哉が何を守ろうとしていたのか痛いほどに分かる。奥歯を噛みしめながら、唸るように言った。

 

「私は対価を支払う。だから、約束を履行しろ。死体ではない。生きている佐伯克哉を寄越せ」

 

 克哉の命を賭(と)した行為を台無しにしている自覚はあった。それでも、言わずにはいられなかった。

 御堂とMr.Rの間を生ぬるい風が吹き抜け木々をざわめかした。ぬめるような闇が御堂に絡みつき、一刻一刻、克哉を死の淵に引きずり込んでいくかのようだ。背筋を這い上がる怖気をどうにか堪えながら、御堂はMr.Rを揺らがぬ視線で見据え続けた。

 Mr.Rがゆっくりと口を開く。

 

「本来なら、対価はあなたを彼と同じ犬に堕とすことでした」

「っ……」

 

 平然とした顔でMr.Rは言った。

 

「ですが、実のところ、私はあなたに興味はありません。彼はあなたに固執していた。だから、この賭けを思いつきました。しかし、私が望んだ結果は得られなかった。その点ではあなたたちの勝ちといえるでしょう」

「何……?」

 

 Mr.Rは目を閉じた。何かを逡巡しているかのようで、沈黙が漂った。それはほんの短い時間であったが、永遠にも似た重圧を感じさせた。ようやく、Mr.Rは目を開き、御堂と克哉に視線を向けた。瞬きひとつしない金の眸が凍てつく光を湛える。

 

「いいでしょう、御堂孝典さん。取引を履行し、彼をこの世界に戻しましょう。ただし、対価はしっかりいただきます」

 

 Mr.Rの言葉に、御堂はこくりと唾を呑み込んだ。御堂が今相手にしているのは、まさしく悪魔と言っても過言ではない相手。この世ならざるもので、まともに戦っても御堂に万に一つも勝ち目はないのだ。そして、御堂はそんな相手に魂を売り渡そうとしている。

 Mr.Rは、しばらく御堂を見つめていたが、ふ、と小さく笑った。

 

「傷物になりましたからね。その分お安くしましょう」

 

 こうして、御堂とMr.Rの取引は履行されたのだ。

 

 

 

 

 退院した克哉はすぐに職場復帰し、あっけないほどに今までの日常が戻ってきた。

 だが、取引の対価はしっかりと回収されたようで、御堂は、ケイが佐伯克哉だと頭では理解はしても、心から納得は出来ていないのが実のところだ。

 少しでも気を抜くと克哉を「ケイ」と呼びかけてしまい、慌てて「佐伯」と言い換える。

 

「好きに呼んでかまわないですよ、御堂さん」

 

 呼び間違えるたびに申し訳ないと謝るが、克哉は笑ってそう返す。

 その声さえも新鮮で、いくら聞いても聞き慣れることがない。克哉の過去の記憶をいくら思い返しても、克哉の声も顔も曖昧なままだ。

 やはり、自分の中の克哉の顔も声も失ってしまったことを思い知らされる。それでも、藤田をはじめとしたAA社の社員にとっては、克哉は克哉のままのようで、復帰した克哉に、藤田は飛びつく勢いで、

 

「佐伯社長、お帰りなさい!」

 

 と涙を流して喜んでいた。月天庵を始めとした取引先の面々も克哉の復帰を心から祝ってくれた。その様子を自分一人だけぎこちない顔で見守る。

 AA社は通常業務を再開し、ふたたび新規の依頼を引き受けだした。月天庵の工場移転も、別の土地を見つけて無事に契約も締結できた。克哉のコンサルティングの手腕も記憶通りに冴えていて、この分だとAA社の業績はすぐに右肩上がりに戻るだろう。

 すべてが元通りになり、うまく回り始めている。それなのに、御堂一人だけが現実に追いつかず、取り残されてしまったような疎外感を抱えていた。御堂から失われた佐伯克哉の姿形(すがたかたち)の記憶が、心の中に埋められない穴を開けているのだ。

 

 

 

「お先に失礼します!」

「お疲れさま」

 

 快活な挨拶と共に藤田がAA社を退社すると、執務室に克哉と二人きりで取り残された。

 御堂の業務もひと段落付いている。そろそろ仕事を切り上げようかと、メールチェックをしていると、克哉がデスクに歩みを寄せた。

 

「どうぞ」

 

 そう言って克哉はコーヒーを注いだマグを御堂のデスクに置く。礼を言ってコーヒーを口にした。苦みの強い深煎りのコーヒー。御堂が好きな味だ。

 克哉もまた片手にマグを持っていた。自分のデスクに戻らず、御堂のデスクの傍らで窓の外を眺めながらコーヒーを飲んでいる。日が沈む時間は日に日に早くなっている。一面の窓ガラスに夕陽が反射し、そして夜の闇に覆われる街が輝き出す様を克哉は飽きもせずに眺めているようだ。

 視線の端でさりげなく克哉を窺った。克哉はオーダーメイドのスーツをスマートに着こなしている。細身のスーツは克哉の好んだスタイルそのままだが、中のワイシャツは襟高のものに変えていた。シャツの襟からちらりと覗く、長い首に刻まれた直線上の傷痕、それを隠すためだ。その傷痕はまるで、克哉に付けられていた首輪の痕のようにも見えた。かつて犬として扱われていたことを示す、決して癒えることのない印のようだ。そういえば、ケイも御堂の部屋で窓の外の景色をよく眺めていた。その姿が重なる。

 知らず知らずのうちにため息を吐いていたらしい。克哉が御堂へと顔を向けた。

 

「どうした?」

「……飼っていた犬を思い出していたんだ」

「それで感傷に浸っているのか?」

 

 克哉は御堂の心を見透かしたかのように言う。「ああ」と肯定すると、克哉は唇の端で笑った。

 

「俺がいるじゃないか」

「そうだな」

「あんたさえ良ければ、また俺を飼ってくれて構わないが」

 

 克哉は御堂に向かって「ワン」と鳴いてみせた。軽い調子でそんなことを言う克哉を睨み付ける。

 

「馬鹿。私を働かせて、君だけのうのうと過ごすつもりか?」

「あんたのヒモになる生活は楽しかったぞ」

 

 御堂を見つめる克哉の目元がおかしげに綻ぶ。

 そうは言っても、克哉は自分不在のAA社を気にかけていたことを知っている。危うく詐欺に引っかかりそうになった御堂を影ながら助けたのだ。克哉も、表立って動けない自分自身に歯がゆさを感じていただろう。元々、誰かに大人しく飼われるような男ではないのだ。

 

「君から仕事を取り上げたら、ろくなことをしないからな」

 

 ちくりと克哉に釘を刺して、パソコンをシャットダウンした。克哉がこうして御堂と無駄話に興じているということは、克哉も今日の仕事を終えたのだろう。

 克哉もマグを片づけて帰り支度をしつつ、ごく自然な口調で言った。

 

「俺の部屋に寄っていかないか?」

 

 鼓動が跳ねて、動きが止まる。だが、克哉の誘う言葉に素直に頷くことが出来ない。

 退院した克哉は自分の部屋に帰り、御堂はひとり暮らしに戻った。

 あれ以降、克哉とキスは交わしても身体は重ねていない。ケイが克哉だと判明したことで、どう接すれば良いか分からなくなったのだ。

 今でも御堂から見た克哉はずっとケイのままで、佐伯克哉ではない。だが、共に仕事をすればケイは間違いなく克哉だと分かる。仕事に向き合う克哉の横顔は研ぎ澄まされた知性と冷徹さを滲ませる、若く有能な経営者のそれだ。

 

「御堂」

 

 克哉が御堂へと歩みを寄せながら、低音の蠱惑的な響きで名を呼ぶ。チェアから立ち上がり、ぎこちなく克哉の方を振り向けば、レンズ越しの双眸がぶれることなく御堂を見据えている。ゆっくりと、なおかつ、着実に顔が近づく。後頭部に手を回され、唇に温かな重みがかかった。

 薄く唇を開くと濡れた舌が入り込んできた。顔をわずかに傾けて、キスを深く噛み合わせる。克哉のうなじに手を回し、ねじ込まれた舌を吸い上げ、絡み合わせた。目を瞑り、キスに意識を傾ければ、閉じた瞼の向こうに佐伯克哉がいるのが分かる。記憶にあるとおりの激しさと熱っぽいキスをしてくる。神経が昂ぶり、身体の隅々まで疼くような感覚が行き渡る。ようやくキスを解いた時には唇が熱を持っていた。

 克哉がクスリと笑う。

 

「俺とキスはしてくれるんだな」

「……」

 

 御堂の濡れた唇に克哉の指が這い、唾液を拭う。至近距離で克哉が掠れた声で囁いた。

 

「この先はダメか?」

 

 ぎくりと身を強ばらせた。

 

「……それは、もう少し待ってくれ。まだ、気持ちの整理がつかない」

「俺が佐伯克哉だと分からないから?」

「すまない」

 

 克哉の顔をまともに見ることが出来ず、わずかに視線を伏せて謝罪する。克哉は、ふ、と吐息で笑った。

 

「じゃあ、ケイのままでいい」

「はあ?」

 

 思わず視線を上げて克哉の顔をまじまじと見返した。克哉はニッと笑って、御堂に向ける表情を綻ばせた。

 

「俺は別に佐伯克哉であることにこだわっているわけじゃない。俺は、俺だからな」

「君はそうかもしれないが……」

 

 半ば呆れて返した。

 それはそうだろう。克哉自身は自分が誰だか分かっているのだ。何の不安も不満もないはずだ。

 しかし、御堂からしてみれば、死んだはずの恋人が実は生きていて、別人だと思って一緒に暮らしていた男が実は死んだはずの恋人だったのだ。未だに訳が分からないし、そうだったのかと簡単に割り切ることも出来ない。

 

「あなたに愛されるなら、俺はケイだってなんだって良かったんだ」

 

 克哉はスーツのジャケットの前を大きく開き、ネクタイの結び目に指を入れて緩めた。克哉がレンズ越しの双眸を眇める。

 

「俺を抱くことなら出来るだろう?」

「君はそれで良いのか?」

 

 露骨に誘惑してくる克哉の言葉と態度に、コクリと唾を呑み込んだ。

 御堂は無理矢理に近い形で克哉を抱いてしまった。御堂と克哉の関係において、克哉は常に抱く側だった。克哉にとって御堂に抱かれるのは本意ではないだろうし、犬として扱われていたことを思い出させる受け入れがたい行為であるはずだ。

 かといって、今の克哉に抱かれるのには抵抗があった。御堂が抱かれることを許したのは、佐伯克哉ただ一人だ。ケイが克哉であると頭で理解しても、未だに酷い違和感が拭えないのだ。

 そんな御堂の葛藤をすべて見透かして、克哉は蠱惑的に微笑む。

 

「言っただろう? あなたに愛されるのが俺であるなら、自分が誰であってもいいし、どんな立場でもいい」

 

 そう言いながら克哉は御堂のスーツのジャケットに手をかけると、前を大きく開いた。ベストの鋲を外し、ベルトのバックルを外すと、スラックスのファスナーを下ろす。

 克哉の指が御堂の肌をかすめるたびに体温が上昇し、鼓動が早まる。克哉は御堂の服を乱すだけ乱すと、自分のベルトも取り去って、スラックスを下に落とした。克哉の黒のローライズのボクサーパンツ、その前が張っている。

 

「本気か?」

「もちろん」

 

 克哉はこともなげに返事をすると、御堂をプレジデントチェアに座らせた。椅子の左右のアームを上に跳ね上げて収納する。そして、御堂のアンダーのウエストに手をかけると下着の中から御堂の性器をつかみ出した。そこは、克哉同様痛いほどに張り詰めいている。

 

「こんなところで、よせ……っ」

 

 そうは言ったが、御堂の言葉に何の説得力もなかった。今までだって散々、社員のいない執務室でことに及んできたのだ。克哉も動きを止める気配はない。

 克哉の手が御堂のペニスに這い回る。漲る幹を扱かれて、先端の亀頭を撫でられる。ぬるり、とした感触に視線を落とせば、どこから取り出したのか御堂のペニスにローションを塗りつけていた。ぬちゃり、という淫猥で粘った音が立つ。

 猛りきった御堂のペニス、克哉は御堂の目の前でアンダーを脱ぎ去ると、向かい合う体勢で御堂の膝を跨いだ。大きく拓いた自分の脚の狭間に手を差し込んで、御堂の硬くなったペニスを掴む。

 

「おい…っ」

 

 克哉はにやりと御堂に笑いかけると、場所を定めながらゆっくりと腰を下ろしていく。

 

「――っ」

 

 先端に圧がかかった。克哉が息を押し殺しながら、腰を少しずつ沈めていく。ローションの滑りを借りて、先端がぬぷりと中にめり込んだ。

 だが、あまりにもきつい。

 克哉は深くくわえ込もうと腰をずらして苦闘するが、窮屈な内腔は御堂を押し出そうとする。動こうにも動けなくなり、克哉の顔が苦しげに歪んだ。

 

「君はいつも無茶をするな……佐伯」

 

 少し呆れつつも、克哉の名を呼んだ。

 克哉の頬に手を添える。克哉の視線がハッと御堂へと向けられた。

 

「キスを」

 

 首を伸ばして克哉へと顔を寄せる。克哉もまた、硬く強ばっていた上体を伸ばすと、御堂の求めに応じて唇を重ねてきた。

 克哉の唇を開かせ、舌を差し込む。中を探るように口内を舐めると、克哉もまた御堂の舌を吸い上げてきた。

 キスに夢中になるうちに、克哉の身体の力が抜けた。ずぶり、と身体が落ちる。

 

「――ぁ」

 

 克哉の顎を上げて、細切れの声を上げた。自重で沈み込む身体。御堂のペニスが奥へ奥へと克哉の身体を拓いていく。膝に克哉の尻肉が押し付けられた。根元まで御堂を咥え込んだようだ。

 

「大丈夫か?」

「……問題ない」

 

 克哉は浅い呼吸を繰り返しながら、そろそろと腰を上げた。粘膜がめくれ、結合部からさざ波のように疼きが広がっていく。

 克哉がゆるりと腰を動かし出した。ギシギシとプレジデントチェアが軋む。克哉の身体を支えると、腰の動きがより大胆に大きくなっていった。克哉の粘膜に擦り上げられて、絶え間なく襲いかかる悦楽を耐えようと腹筋に力が籠もる一方で、自分を咥え込む淫蕩な身体をむさぼり尽くしたくなる衝動に襲われる。

 克哉の声が降ってきた。

 

「俺を抱くときはそんな顔をするのか」

 

 顔を上げて、克哉と視線を重ねた。克哉の顔もまた、淫蕩に染まっていた。きつく眉根を寄せて快楽を堪える顔は辛そうなのに、この上なく淫らだ。

 お互いの顔を見合わせれば、ぞくぞくとした痺れが全身を駆け巡る。ふたたび克哉が腰を使い始める。御堂もまたそれに合わせて大きく突き上げた。

 克哉の額から汗が散る。つながった視線、一時たりとも克哉の表情から視線が離せなくなる。克哉のペニスは先端からしとどに透明な蜜を溢れさせていた。二人の結合部をぐっしょりと濡らしていく。激しい動きに弾む克哉のペニスを手で握り込んだ。刺激を与えられて、克哉の喉が甘苦しく鳴る。

 二人の動きが小刻みになり、せわしくなる。絶頂はすぐ間近なことを互いに感じ取っていた。そして、ほぼ同時に放った。

 克哉の四肢がつっぱり、そして、弛緩する。ぐったりと御堂に身体を任せてくる克哉を両腕で抱きしめた。

 頭の中が白み、絶頂の余韻に浸る。

 やはり、顔を見合わせながらのセックスは良い。

 心を交わらせることで分かち合う快楽はどこまでも深い。引きずり込まれるほどに。

 肉体の快楽だけでなく、満たされるような幸福感を味わうからだ。

 それが分かっているから、御堂は行為の最中はなるべくケイの顔を見ないようにしていたのだ。

 

 ――ケイ。

 

 心の中で、ケイの名を呼ぶ。

 今、御堂の腕の中にいるのは、ケイなのか、克哉なのか。未だに御堂の心はその答えを出せていない。

 ふと、Mr.Rの言葉を思い出した。

 

『私が何をしようとも、佐伯克哉さんの心からあなたを取り除くことは出来ないのでしょうね』

 

 あの夜の公園で、Mr.Rは言った。

 

『それならいっそ、あなたの中の佐伯克哉さんを私がいただきましょう』

 

 Mr.Rは御堂から克哉の顔かたちと声の記憶を担保として預かっていたことを告げた。そして、その記憶をそのまま対価として貰っていくという。

 その取引に異存はなかった。克哉の命に比べれば、ささやかすぎるほどの対価だ。

 しかし、疑問は残る。Mr.Rはなぜ御堂の要求を呑んだのか。

 Mr.Rは常識を越えた存在だ。御堂とはそもそもの価値観が異なるだろうし、その思考は御堂の想像が及ばぬところにある。それでも、Mr.Rの言動から想像すれば、ひとつの結論が導き出される。多分、Mr.Rは佐伯克哉を愛していたのだろう。それはとても歪んだ愛し方だ。

 それでもMr.Rは死を望む克哉をそのまま消滅させるよりは、御堂と共に生かすことを選んだ。その代償として、御堂の中の佐伯克哉の記憶を奪っていったが。

 Mr.Rは人魚姫の話をなぞっていたと克哉が教えてくれた。

 この人魚姫の物語が本来の物語とは別の結末を迎えたのは、第三の因子である魔女の存在が大きい。人魚姫の声を奪った魔女が、実のところ人魚姫を愛していた。それに尽きるのだろう。

 絶頂の余韻がようやく引いてくると、腕の中でもぞりと克哉が動いた。

 

「続きはベッドの中が良いな」

「続き?」

「久々だからな。まだいけるだろう?」

 

 克哉に視線を向ければ、克哉もまた御堂を見ていた。その顔が傲岸不遜に笑う。

 この行為だけでも十分過ぎるほど激しかった。だが、若い克哉にはまだまだ足りないらしい。そして、御堂もまた、もっと深いつながりを求めていた。

 苦笑いしながら言った。

 

「私の部屋までは、ちょっと遠いな」

「俺の部屋に来るか?」

「ああ、そうする」

 

 御堂の返事に克哉が満足げに喉を短く鳴らした。どうやら御堂の負けのようだ。いつの間にか克哉の部屋に行くことになっている。

 快楽に貪欲なところはかつての克哉そのままだと思う。こうやってケイと克哉の共通点をひとつひとつ探してしまう一方で、自分は難しく考えすぎているのだとも思う。

 ケイだろうが、克哉だろうが関係ない。自分はどちらも愛しているのだ。

 これからゆっくりと愛を育めばいい。

 愛しい男は御堂の目の前にいる。

 

「佐伯」

 

 ひとつ息を吐いて、克哉に言った。

 

「これからは絶対に私から離れようとするなよ」

 

 もう二度と恋人を失うという身が千切れるような想いはしたくない。だからしっかりと念を押しておくと、克哉は淡い虹彩をレンズ越しに御堂に向けた。

 

「もう二度と離れないさ」

「本当だな?」

 

 疑る言葉に克哉は大きく頷いて、ニッと笑った。

 

「俺はあなたの犬だからな」

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あとがき

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 ミドメガの長編を書くのは久しぶりで、連載形式で書いたのは『檻』以来でしょうか。他『Burning Blizzard』などの短編、オフ本『深淵に眠る月』を書いていますが、私が書くミドメガは御堂さんが病み気味で眼鏡が健気な感じのパターンが多いなあ、と思います。今回は、『好きにしろ』エンドの補完の位置づけで、眼鏡は下衆気味、御堂さんはまともという初めてのパターンです。ですが、ちょっと特殊設定で、御堂さんは眼鏡だと気付かずに抱いていますので、果たして純粋なミドメガと言えるのかどうか。

 なお、このお話の前日譚でRメガがあるのですが、こっちは完全に無理矢理系でそのうち書きたいと思っていますw

 ちなみに、好きにしろエンド補完はこれで四作目です。本当に何作書くつもりなのでしょうね、私。

 今作は人魚姫の話をモチーフにしています。今回のお話を思いついたのは、『魔法少女御堂さん』を書いているときで、Mr.Rが御堂さんの声を奪うときに人魚姫の話を口にするシーンがあるのですが、その時にふと人魚姫=眼鏡克哉で話を作ったらどうだろう、と思い立ちました。

 眼鏡、御堂さん、Mr.Rの三角関係は書いていて楽しいです。

 それでは、最後までお付き合いいただきありがとうございました!

 何かしら感想などいただけましたら泣いて喜びます。

 それでは、また。

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