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Never Let Me Go はじめに

​ 現在、こちらは更新休止しておりますm(__)m

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも良いという方のみお進みください。

 こちらは、鬼畜眼鏡RのエンディングNo.3「消えたとしても」の補完SSです。
 この有名すぎるエンディング、勝手な推測ですが一番多く補完SSが書かれたのではないでしょうか。
 数多くの名作も誕生しているでしょうし、今更感があると思います。
 ですので、感動巨編…ではなく、管理人の趣味かつご都合主義に走りますのでご了承ください。
 しばらくは御堂とノーマル克哉のターンが続きます。ストーリーの都合上、ノーマル克哉×御堂のR18シーンの描写がありますのでご留意ください。

 ノーマル克哉視点と御堂視点が交互に入ります。
 相変わらず勝手な解釈(という捏造設定)が入ると思いますが、それでも良いと言う方、お付き合いくださいませ。

登場人物(現時点):御堂孝典、佐伯克哉(ノーマル)

Never Let Me Go(1)
(1)

 その変化は静かに、だが着実に進行していった。
 最初に異変を感じたのはいつだったろう、御堂孝典は思い起こした。
 同居を始めてから、朝食を作るときに普段彼が好んで食べるサニーサイドエッグ(目玉焼き)を焼こうとしたら、スクランブルエッグをリクエストされた時だっただろうか。
 それとも、ゴミ箱の中に彼が愛用しているライターとタバコを見つけたときだったろうか。
 いや、ホテルの部屋で澤村と対決した日だったのかもしれない。
 更に記憶をたどれば、あの花見の日から時々様子がおかしかった。
 そして、気付いたときには彼、佐伯克哉はすっかり変わっていたのだ。

 当初は、澤村に拉致された自分を気遣っているものだと思っていた。
 彼はどこから見ても佐伯克哉だった。
 ただ、何か違和感が拭えなかった。
 その振る舞いや仕草も変わらない。ただ、癖が一つ変化した。眼鏡のブリッジを押さえる癖が、少し眉間にしわを寄せながらするようになった。それは、自然な癖と言うより眼鏡に慣れなくて常に位置調整をしている感じだった。
 いつにも増して優しいし、常に自分に対して愛情や労りを見せてくれる。
 ただ、ここまであからさまに、優しい態度で御堂に接してきたことはなかったのではないだろうか。
 表面上はシニカルな態度をし、口では意地悪を言いながら、それとなく気遣いや愛情を見せてきた今までの克哉らしからぬ素振りだ。
 一体何が起きているのだろう。
 御堂は、デスクに向かって書類を確認する克哉を眺めた。
 その視線に気付いたのか、克哉がこちらを振り向く。視線が合うと同時に、優しく微笑まれた。
 一瞬、バツの悪さを感じて目を逸らす。
「藤田」
 克哉が部下の藤田を呼んだ。克哉が手に持っている書類、藤田が書いた再建案、を藤田に返す。
それは、先日請け負った地域展開する弁当屋の再建計画だ。現在請け負っているプロジェクトの中では比較的小規模で、藤田に任されていた。
「この再建プラン、原材料の仕入先の選定案だが…削りすぎだ。小規模のところでもコストダウンにつなげられるところは残せ」
「え、でも、この前、バッサリ切って徹底的に絞れ、って言っていませんでした?」
 藤田が少し不満そうに口をとがらす。藤田は克哉と御堂以外では一番古参の社員で、MGNでも克哉の部下だったこともあり、克哉に対しても言いたいことはそれなりに言うようになった。
「ああ。だが、仕入れ先も長年の信頼関係が成り立っているところもある。この取引が切られて、立ち行かなくなるところもあるだろう。クライアントの再建を第一優先するのは当たり前だが、再建の際に周囲から余計な恨みを買いたくない。特に今回は地元に根付いた企業だ。残せるところはなるべく残してほしい」
「…分かりました。仕入れ先をもう一回洗い直します」
 藤田が首を傾げながら、書類を克哉から受け取ってデスクに戻る。
 信頼関係や恨み、そのような私情は利害に直結しない限りは今までの克哉なら切って捨てるくらい、優先度としては低かった。
 むしろ、そこをフォローしバランスを取るのが御堂の役目だった。
 仕事は今まで通りの切れと冴えを見せているし、機転の速さ、フットワークの軽さも同様だ。
 どこからどう見ても佐伯克哉なのに、なにか本質的なところが変わってしまったような気がした。

「御堂さん。まだ、かかりそうですか?」
 夜、二人きりのオフィスで声をかけられた。他の社員はとうに退社している。
 克哉が御堂の肩越しにモニターを覗き込んでくる。
「ああ、もうすぐ終わるが、先に帰っていてくれ」
「分かりました。夕ご飯作っておきます」
「…君が作るのか?」
「大したものは作れませんけど」
 克哉の料理のレパートリーは簡単な卵料理かトーストを焼く位だったはずだ。大抵は一緒に外食かケータリングかで済ましていた。
 訝しんだ御堂を見て、克哉はくすっと笑い、御堂の頬に軽く口づけをした。
「佐伯。オフィスではやめろと言ったはずだ」
「すいません」
 そう軽く笑って謝ると、克哉が悠々とオフィスを出ていった。

 ふう、と御堂はため息をついた。
 何も確証はない。中身ががらっと変わったわけでもない。だが、確かに何か変わったのだ。
 この変化は自然なものなのだろうか。
 御堂が知る限り、克哉は一度、大きく変化している。
 嗜虐に満ちて御堂を嬲っていた非情な凌辱者だった克哉と、再会後に公私ともにパートナーになった克哉。
 その変化に比べれば、今回の変化は微々たるものにも思える。
 それでも、その時とは変化の質が違うように思われた。
 自分のデスクから立ち上がり、克哉のデスクの前に立った。
 きれいに片付けられたデスクは、今までと変わりがない。
――私は何を探しているのだろう。
 御堂はマホガニーの天板の縁を指でなぞりながら、再びため息をついた。

「ただいま」
 部屋のドアを開けた。かつては克哉の部屋で、今は二人が暮らす部屋。
 澤村の一件以降、一緒に暮らすようになった。恋人と一緒に暮らすという経験は御堂にとって初めてだったが、常に克哉が傍にいるという環境は悪いものではなかった。
「お帰りなさい。お疲れ様」
 部屋の奥から克哉の声が聞こえた。食欲をそそる良い匂いが漂う。
 ダイニングに入ると、食事の支度が整っていた。筑前煮に味噌汁、ご飯も炊いてある。炊飯ジャーはその存在を忘れる位、使用するのは久々だった。
「君は煮物も出来るのか」
 素直に感心した。克哉が嬉しそうに笑う。
「母が良く作ってくれてね。といっても、材料は既に切られてパッケージ化されているのを使ったんだけど」
 くくっと喉を震わせて笑う。それはいつもの克哉の笑い方だった。
 一緒に食卓を囲んだ。
 おいしい、と素直な感想を口にすると、克哉が「味付けは麺つゆですよ」と笑って返す。なごやかな雰囲気が場を支配していた。

 食後、食卓の片づけをする克哉の肩に後ろからそっと手をかけた。克哉が振り向き、御堂の顔を視界に捉え、口元を緩める。
 御堂はそのうなじに手を回して、顔を引き寄せた。吐息を感じる程顔が近付く。
「なあ、佐伯。…君は変わったな」
 御堂は克哉の眼を見つめて言った。慎重に注意深く克哉の表情の変化を探る。
 克哉の瞳孔がわずかに開いたように見えたが、すぐに柔らかい笑みで打ち消される。優しく包み込むような笑顔だ。
「変わった?オレは佐伯克哉ですよ」
 そう言うと柔らかく唇を重ねてきた。その唇を受け止め、口内に舌を迎え入れる。
 舌を絡め、唾液を絡めながらゆっくりと時間をかけてキスを交わした。背中に克哉の手が回される。
 その唇の感触も、キスの仕草も、以前と変わりはない。
 そのまま克哉の甘く溶ける様なキスと抱擁に身を委ねた。

(2)
Never Let Me Go(2)

 その変化は突然起こった。佐伯克哉は記憶をたどった。

 どこを見ても薄いピンクの花が視界を彩る。
 爛漫という言葉はまさにこの光景を指すのだろう。
 遠い昔にこの風景を見たことがある。あれはいつの頃だっただろうか。
――これはオレの原風景なんだ。
 思い出せる限り一番古い記憶。それが一面の桜が咲き誇る風景だった。
 一陣の風と共に大量の桜の花びらが舞い落ちた。風に舞う桜の花が自分の頬をくすぐった。
 はっと我に返って克哉は辺りを見渡した。
 なぜ、オレはここにいるのだろう、と混乱し、歩みを止めた。右手が不自然に自分の左肩に伸びていた。
「どうした?」
 柔らかく響く声が隣から聞こえる。声の方向に振り向いた。
 長身の美しい男が、凛とした佇まいでこちらを見つめていた。
――ああ、そうだ。オレはこの人と桜を見に来ていたんだ。
 直前までの記憶を思い出した。同時に、<俺>から自分に切り替わったことに気付く。
 丁度、自分の肩に舞い落ちた桜の花びらを、手で振り払おうとしたのだった。
 動揺を悟られぬよう、さりげない動作で自分の肩の上に居座る花びらを払い、隣に立つ御堂に微笑みを返す。
「いや、何でもない」
「そうか」
 御堂が穏やかにほほ笑む。
 この後どう振る舞うべきか、戸惑いつつも克哉は言葉を探した。
 その時だった。
「おい!御堂じゃないか!」
 すれ違った男が御堂に声をかけた。克哉はその男に見覚えがあった。昔、御堂に連れて行ってもらったワインバーにいた御堂の友人だ。
「久しぶりだなあ。最近、飲み会に顔を出さないで。付き合い悪いぞ」
「…ああ」
 御堂が克哉を気遣ってか、居心地が悪そうに返事をする。
 その友人は既に酔っぱらっているのか、上機嫌に話を続ける。
「今日、今から飲みに行くんだけど、一緒にどうだ?四栁達も来るぞ。いつものワインバーだ」
「いや、私は…」
「行ってきたらどうです?」
 断わろうとする御堂を遮った。御堂が意外そうな表情で克哉を見る。克哉の反応がよほど不自然だったのだろう。しばし克哉を見る眼が見開かれた。
「しかし……」
「ここしばらく、ご友人の飲み会に参加してなかったんでしょう?オレのことは気にせず、行ってきたらいい」
 そうだそうだ、と友人が囃し立てながら、御堂の肩に親しげに手を回す。
「よし、御堂、決まりだ!あ、そう言えば、君も前に来たことあったよな。君も来るかい?」
「いえ、オレは遠慮します」
 そう言って、克哉は御堂に軽く手をあげて、背を向けた。
「佐伯…!」
 御堂が自分を呼ぶ声が聞こえたが、軽く手を振って返し、振り向かずに歩を進めた。
 内心、タイミングよく現れてくれた御堂の友人に感謝しながら。
――それにしても、何で<俺>と入れ替わった?記憶もしっかり残されているし…。
 <オレ>に戻ったのは一年以上も久しぶりだった。しかも、今までは入れ替わった時は<俺>の記憶は断片的にしか残されていなかった。
 だが、今回は生々しく、さも自分の意思で動いていたかのように記憶が残されている。
 御堂と恋人関係になった記憶も、会社を興した記憶も。
 克哉は近くのベンチに座り込んだ。
 <俺>だった時の記憶を丁寧にたどる。
 入れ替わるときに、誰かの姿をみた記憶がある。あれは誰だったのだろうか…。
 視界の中に次から次へと桜の花びらが舞い、揺らめき、消え去っていく。
 今まで何とも感じなかった桜の花に妙に心がざわついた。なんだろう、この不快感は。
 桜の花に酔ったのだろうか。
 克哉は地面に視線を落とした。足元には多量の花びらが積み重なり、踏みつけられて汚れている。突然、地面が抜け落ちるような錯覚に襲われた。
 そこで意識が途切れた。

 次に気付いたときは、克哉のベッドの上だった。
 下半身が熱い。見下ろすと、克哉の腕の中で顔を紅潮させて快楽に喘ぐ御堂がいた。
――まただ。
 慌てて記憶をたどる。今夜、御堂がワインを持ってきて、それを飲んでベッドに入って御堂を抱いていたんだ。
「んっ……佐伯?」
 突如動きを止めた克哉を御堂が薄目を開けて克哉を見上げる。
 焦った顔を見られないように、御堂の首筋に顔を埋めて口づけをした。汗ばんで熱を持った首筋を舐め、痕がつかないぎりぎりの強さで吸い上げる。同時に腰をゆっくり進ませた。
「ふっ……ああっ」
 艶めかしい声が上がる。気付かれなかったようだ。
――どうしたんだよ、<俺>!
 激しく混乱していたが、この状況を御堂に悟られてはまずい。
 御堂を強く抱きしめて、触れ合う肌の感触、自分自身に絡む狭い内腔の熱い粘膜の感触に気持ちを集中させる。
 御堂が脚を克哉に絡め、腰を引き寄せる。同時に、背中に回された手に強く抱きしめられた。
「佐、伯…!もっと、…深く…」
 その声に官能を煽られて、御堂に導かれるまま深く腰をグラインドさせた。
 さざ波のような震える刺激が全身を駆け巡る。
――オレはこの人を愛している。
 御堂の快感も高まるのを感じながら、同時に果てた。

 それ以外にも、オフィス内で御堂と藤田と会話している最中に突然気付いたこともあった。
――<俺>が揺らいでいる。
 そう確信した。それも、原因はあの男、澤村だ。
 <オレ>が生まれる原因となった男だ。
 自分の記憶にはないが、<俺>の記憶をたどって分かった。今や佐伯克哉としての幼少期から今に至るまで、全ての記憶を共有していた。
――しっかりしろよ、<俺>!
 自分を取り戻したと言っても嬉しくはなかった。むしろ戸惑いの方が大きい。
 自身の意思に関係なくバトンを渡されても困る。
「お前は<俺>に満足してたんじゃなかったのか…?」
 <俺>に向かって呟いたが、何の返答もなかった。

 そして、今回。
 <俺>は<オレ>にバトンを渡したまま、消えてしまった。
 きっかけははっきりと覚えている。
 やはり澤村だ。
 澤村に御堂を拉致されたことがきっかけだった。
 その時の<俺>の心情を思い出し、胸が締め付けられる。また、同時に身が千切れる様な激しい感情が蘇る。
 かつて自分が酷く傷付けた御堂を守りたいと思っていた。それは御堂に対する贖罪でもあった。
 <オレ>が気付いたように、<俺>も自分自身が揺らいでいることに気付いていた。そしてその原因にも。だからこそ、御堂に心配をかけないように、害が及ばないように自分から遠ざけていたのだ。
 そして、あの日。澤村に対する身の内から灼ける様な激しい怒り、御堂を守れなかった自分自身に対する深い失望。
 澤村に報復しなかったのは、御堂を悲しませたくなかったからに他ならない。それでもその絶望と憎しみは心の奥底から噴き出し、自身を激しく苛んだ。その灼熱の様な感情は凶暴な奔流となって克哉自身を支配しようとした。
 この衝動に身を委ねたい、この身の内にたぎる感情を爆発させ、澤村に御堂が味わった以上の屈辱と苦しみを味あわせたい。そんな自分自身を必死に抑えた。御堂がそれを望んでいないことを知っていたから。
 その誘惑に身を任せることは、かつての自分自身を復活させることにつながるだろう。その破滅的な衝動は澤村だけでなく、御堂や克哉自身にも向かう。
 <俺>はそのやり場のない激しく渦巻く感情を自分一人で全てを抱え、崩壊しかかった自我と共に、底知れぬ意識の深淵に自ら身を投げたのだ。
 御堂を悲しませないように、<オレ>と佐伯克哉の身体を代わりに残して。
 そしてまた、<俺>は全ての記憶を残していった。その記憶はさも<オレ>が経験したかのような生々しさだった。
 <俺>が何をどう考えて行動していたのかがはっきりと辿れる。
 会社での仕事の記憶も、御堂を深く愛した記憶も。
 幸い、全ての記憶が残されていて、<俺>の思考や行動パターンをトレースすることが出来たので、<オレ>は<俺>として振る舞った。<俺>がいつか帰ってくるのではないかと淡い期待を抱きながら。
 しかし、ちょっとした嗜好の違いや根本的な性格の違いで完璧に<俺>に成り済ませているとは言い難い。
 御堂には徐々に気付かれている感じがする。

「なあ、佐伯。君は変わったな…」
 御堂に目を覗き込まれてそう言われた時は、強い動悸がした。
「変わった?オレは佐伯克哉ですよ」
 動揺を悟られぬよう笑みを取り繕って、唇を重ねる。<俺>がかつて御堂と交わしたキスの感触を思い出し、深くゆっくりと濃いキスを交わし、御堂の身体を抱き寄せた。そのしなやかな身体は抵抗なく克哉の腕の中に引き寄せられる。
「御堂さん、ベッドに行きましょうか」
 御堂のネクタイのノットに指をかけてほどく。そして、御堂に自分のネクタイをほどかれる。
 お互いの服を脱がせつつ、ベッドに倒れこむ。
 <俺>が御堂を抱いた記憶は全て持っている。その方法も分かっている。
 でも、<オレ>は御堂を抱くときが一番緊張する。
 それは<俺>との経験の差か、それとも性格の違いなのだろうか。
 御堂がもたらす快感に流されて、主導権を御堂に握られてしまう。
 求められるがままに愛撫し、挿入し、快楽のポイントを抉り、果てる。
 ベッド上での駆け引きが<俺>ほど上手くないのだ。
 それでも、御堂を愛おしく思う気持ちは引き継いでいるし、御堂を幸せにしたいと思う。
 そのためには、<オレ>では不十分だということも承知している。
――御堂さんと<オレ>置いて、お前はどこに言ったんだよ!
 心の中で叫ぶが、その声はそのまま拡散しはかなく消えて行った。

 <俺>から<オレ>に代わっても、今までと変わらない、いや今まで以上に穏やかな日々が過ぎる。
 しかし、ふとした時に御堂の視線を感じるようになった。その視線は<オレ>を通り越して、<オレ>の中にいる<俺>を探しているようだった。
 その御堂の視線が辛かった。

(3)
Never Let Me Go(3)

 御堂孝典が持つその違和感は、段々と輪郭を持ってはっきりしてきた。
 目の前にいるのは佐伯克哉、それは間違いない。
 しかし、御堂が知っている佐伯克哉とは違う。
 その変化の質は、恋人関係になったときとは違った。
 自分を嬲った佐伯克哉が恋人の佐伯克哉になった時の性格の変化を“加算”、つまり足し算と考えるなら、今回の変化は“減算”、すなわち引き算だ。
 前者の変化は本来の性格に優しさや愛が加わって変化したが、今回は今までの性格からその土台となったものが抜け落ちた印象だった。
 克哉は変わらず優しい。自分に対する愛情と労りを常に感じる。
――それに不満を感じる自分は強欲なのだろうか。
 今日も、目の前にいる佐伯克哉をみつめる。その中に残されたかつての克哉の痕跡を探すように。
――佐伯、君は一体どこに行ってしまったんだ?
 自身が馬鹿げた考えを抱いていることは分かっていた。克哉が全くの別人になったわけではない。
 御堂自身が克哉と出会ったことによって大きく変わったように、克哉も何かしらの出来事をきっかけに変わることは不自然なことではないようにも思える。特に、先日のクリスタルトラストの澤村の件では、今まで目にすることのなかった克哉の一面を見た。
 そもそも御堂自身、克哉について知らないことが多すぎたと思う。
 自分からも無理に詮索をしようとはしなかったし、克哉自身が自分をさらけ出すこともなかった。
 克哉と再会し恋人関係になり、仕事上でもパートナーになったが、本当のパートナーとして自分は克哉の役に立っていたのだろうか、と時折、疑念に捉われる。
 彼はあからさまに御堂に頼ろうとすることはなかったし、独断専行が過ぎるのはいつものことだったから、御堂からもむやみに干渉したりせずに克哉の好きにさせていた。
 会社を立ち上げた時に、いつ来てもいい、と克哉の部屋のカードキーを渡されたが、それはプライベートの克哉を隠さないというわけではなく、決して見せない彼だけの領域を持っていた。
 澤村が現れてから彼の態度は明らかにおかしくなった。それに気づいていても、あえて自分から踏み込むことはしなかった。
 思い切って克哉の部屋まで追いかけていったことはあった。窓辺で一人たたずむ克哉は、存在そのものが揺らいで透けてしまっているように見えた。
 そんな克哉を御堂は後ろからそっと抱きしめた。彼が消えてしまいそうな予感に襲われた。
 だが、素直にその不安を口にした御堂は逆に克哉に気遣われた。
『俺はどこにも行きません』
 その言葉は何を意味していたのだろう。その言葉の裏にはどこかに消えてしまう予感が彼にもあったのではないのだろうか。
 硬い殻の内に閉じこもったまま、最後まで克哉は心の内を御堂に見せることはなかった。
 そして、彼は変わってしまった。
――今の佐伯は別人なのだろうか。……否、佐伯は佐伯だ。
 そう自身に言い聞かすも、御堂はその変化に対処する術を持たなかった。

「プロジェクト一区切り、おめでとう」
「御堂さんこそお疲れ様」
 手がけていた再建計画が一区切りし、前祝という事で部屋で二人で乾杯した。
 この乾杯の前に、プロジェクトの功労者の藤田をはじめ、居酒屋で社員を集めて親睦会を開いていた。そのまま若い社員たちは二次会に流れ込んだが、克哉と御堂は自分たちがいると気を遣うだろう、と資金だけ渡して一足先に遠慮して帰ってきたのだ。
 部屋のワインセラーに保存していたワインから御堂が選び栓を開けた。
 克哉がテイスティングして一口味わう。
「これは…シャトー・ムートン・ロートシルト」
「ご名答」
 ワインラベルは隠していなかったが、もったいぶって答えた克哉に御堂は微笑んだ。
 優しく穏やかな笑みが返される。
「君と藤田の再建案は良く出来ていた。あの人情味あふれる社長の心をしっかり掴んだようだし」
「藤田の綿密なリサーチのおかげです。貴方にも助けてもらった」
「原材料の仕入れ先を切ることなくコストダウン出来たのは良かったな」
 長年の付き合いで言われるがままの仕入れ値で取引していたその弁当屋は、原価率が高くなりその分利益が出せていなかった。社歴の長い企業にありがちな、外部環境の変化に対応できず、昔のビジネスモデルに固執するタイプだ。以前の克哉なら、最初に経営陣に対して、そのビジネスモデルを完膚なきまでに叩きのめすことで、多少乱暴でも意識改革を促していただろう。だが、今回の克哉はその陳腐なビジネスモデルにも一定の理解を示し、そこから収益を得るための方法をプランニングしたのだ。
 そのために、仕入先一つ一つに粘り強く交渉し、コストダウンを了承させたのは克哉と藤田だった。
 コストパフォーマンスが悪い仕入先を一律にばっさり切って、一か所に集中させてコストダウンを図る方法の方が手っ取り早かった。しかし、丁寧に時間をかけて仕入先を説得させた甲斐があり、長年の取引を打ち切るという苦しい判断を回避できた弁当屋の社長に大変感謝されたのだ。
 そしてまた、揚げ物中心だったメニューを大きく見直して、ヘルシー志向のメニューを増やし、カロリー表示までしっかりさせた。一方で、明らかに健康に悪そうな、カロリーが4桁の大台に乗る、大きなとんかつやステーキをどんと中心に添えた対極的なメニューを置いたのも克哉らしいと御堂は思う。
 また、住宅街の店舗の配送サービスを取りやめ、オフィス街の店舗にそのサービスを集中させた。きめ細やかだったが、徹底的に無駄をそぎ落とした。そのプランはメインバンクにも評価され、資金繰りにも目途がついた。その成果は今後しばらくの間は定期的にフォローしていくことになる。
 そのプランの大胆さと緻密さは今までの克哉の戦略と変わりがない。
 だが、目の前の佐伯克哉は、やはり今までの佐伯克哉と違う。
 どんなに大きいプロジェクトに取り組んでも、どこか余裕を見せていたかつての克哉と違い、今の克哉はどんな些細なことでも精一杯取り組む。
 その姿勢は若い社員にも良い影響を与えていると思う。今回の件は、藤田も克哉と共に行動し多くを学んだようで、克哉に対して更なる尊敬の念を抱いている。
 御堂の空いたグラスに、克哉がワインを注ぐ。既に一次会でそれなりに飲んでいたが、どんどんグラスを空ける。
 大分飲んだ後で、このペースで飲むには惜しいワインだったが、御堂はあえてこのワインを選んだ。
「御堂さん、少し飲み過ぎじゃないですか?」
 心配する克哉にグラスを置いて近づいた。克哉の頬に手を添えて、その整った唇に自分の唇を押し付ける。
 克哉の手が腰に回された。熱くなった身体を克哉の身体に寄せ、しなだれかかった。

 ベッドの上で克哉に身を任せる。年若い恋人は柔らかく肌をまさぐり、唇を這わせる。
 今の克哉はとことん優しく慈しみさえ感じる。以前のように意地悪くわざと焦らされたりすることもない。激しく抱かれて、無理やり快楽を煽られることもないし、自分の痴態を一つ一つ言葉にされて羞恥に喘がされることもない。
 求めるがままに御堂が好むように快楽を与えてくれる。
 色付いた胸の硬い突起を舌で突かれ転がされる。潤滑剤を絡めた指が後孔をなぞり、そっと差し込まれる。ああ、と思わず切なげな声をあげた。御堂の弱いところを知り尽くしている克哉は、常に自分の反応を見ながら、柔らかく身体を重ねる。
「愛してる」
 その言葉とともに、克哉自身がゆっくりと入ってくる。苦痛を与えぬよう、御堂の身体を慎重に慣らしながら侵入してくるそれに、もどかしさを感じながら、更に深く受け入れようと腰を浮かす。
「佐伯…もっと、…君を感じたい…」
 克哉の身体をしがみつくように強く掻き抱いた。身体の内部に感じる圧迫感をより強く激しく感じようと、自ら腰を蠢かす。
「…くっ」
 克哉の顔が快楽でゆがみ、御堂を見つめる眼差しが揺らめく。それでも自分を抑えながら、御堂の求めるように抽挿を続ける。
 御堂自身に克哉の長い指が絡む。既に張りつめていたそれは、克哉の指の刺激にも容易に反応する。
 先端から溢れる蜜を指に絡め、性器全体にすりつけられ擦りあげられる。
 前と後ろの刺激に喘ぎながら、御堂は首を起こし克哉に顔を近づけた。
「佐、伯…!」
「…御堂」
 キスをせがむ御堂の仕草に、克哉が顔をかぶせ、唇を重ねる。克哉が腰を動かすたびにその振動でキスが外れそうになるのを、舌を絡めてかろうじてつなぐ。
「克哉…」
 滅多に呼ばないその名を口にする。その呼びかけに反応して、躊躇いがちに「孝典…」と耳元で囁き返された。その艶っぽい声に頭の芯と身体の芯に甘く痺れるような刺激が響く。切ない悲鳴が喉から漏れ、御堂は吐精した。
 ペニスを優しく掴む克哉の手に、熱い欲望を吐き出す。少し遅れて、低い呻き声と共に体内に同じ熱さを持つ欲望がうちつけられた。

 御堂はシャワーを浴びてベッドに戻った。
 入れ違いに克哉がシャワーを浴びに行く。
 御堂は寝室を出ていく克哉を目の端で追った。若く精悍な体つき、汗ばんだその肢体からは雄としての魅力が匂い立つようだ。
 その姿を見ながら御堂は小さなため息をついてベッドに入った。
 まだ下半身に先ほどの疼きが熱を持ってくすぶっていた。
 以前の克哉と最大の違いを思い知らされるのは、身体を重ねる時だ。
 今まで、克哉が御堂を抱くときは、犯す側としての本能を余すところなく御堂にぶつけてきた。御堂の男としての本来の性を無理やり蹂躙され屈服させられる。
 元々ノーマルな性的志向だった御堂が、抱かれる側の快楽を引き摺りだされて、喘がされる。
 克哉と恋人関係になった今では、身体も心も克哉がもたらす悦楽に支配されているが、それでも、抱かれるときは一抹の居心地の悪さを感じる。その屈辱や羞恥でさえ、克哉は御堂の快楽として昇華させてみせたのだ。
 だが、今の克哉はどうだろう。御堂の男としての性を恭しく尊重してくれるような抱き方だ。御堂が嫌がる素振りを見せれば、それ以上は無理に強いてこない。今までになく優しい抱き方だ。それはそれで嫌いではないし、むしろ御堂が望んでいたような抱き方だったが、何か遠慮されているようで、もどかしさを感じるのも事実だ。結果、自ら浅ましく克哉を誘って、淫乱な姿を晒してしまう。それでも、克哉は揶揄することもなく御堂を優しく包み込んでくれる。
 セックスだけを考えると、今の克哉はまるで別人のように思えるのだ。
――…私は誰に抱かれていたのだろう。
 先ほど抱き合った克哉に、かつての克哉の姿はなかった。
 アルコールで濁った思考はその答えを導き出してくれない。いや、アルコールを飲んでなくても同じことだ。思考はずっと堂々巡りをしているだけだった。
――もう、こんな迷いは捨てよう。
 今夜で自分の中の迷いを断ち切る。そう決意したはずなのに、なぜこれほど苦しいのだろう。自分の揺らぐ感情を抑えつけるようにきつく目を閉じた。

 ベッドで目を閉じて待っていると、克哉が戻ってきた。御堂を起こさぬよう静かに背中を向けてベッドに入ってくる。
 寝返りを打ち、克哉の背中にそっと寄り添い背後から抱きしめた。克哉の身体がびくり、と震える。
「御堂さん…」
「そのままで」
 振り向こうとする克哉を押しとどめた。克哉に聞こえるか聞こえないか位の小さな声で呟く。
「…今第1級なり、過去第2級なりき…」
「…されどムートンは不変なり」
 御堂が呟いた言葉を克哉がつなげる。ああ、と御堂は頷いた。
――彼は覚えてくれている。共に飲んだワインの味を、その物語を。
「君は、私がいくら変わろうと受け入れてくれたのにな。なのに、私は君のことを…」
 そう言って強く克哉を抱きしめた。
「克哉…。酔っぱらいの戯言だと思って聞き流してくれ」
 声が震えた。克哉の首筋に自分の額をそっと押し伏せた。
「以前の君はどこに行ってしまったんだ。また、私を置いて消えてしまった…」
 『俺はどこにも行きません』そう言ったではないか。その言葉を信じていたのに。
 嗚咽が漏れ、涙が流れる。堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
 一方で、何を馬鹿げたことを言っているんだ、と心の内で自分自身を嘲笑した。
 克哉は身じろぎもせずに御堂の腕の中におさまっている。
「すまない…克哉。君が佐伯克哉だということは分かっているのに。…私が…おかしいんだ」
 涙が止まらない。自分の腕の中には確かに恋人がいて、その温もりを感じるのに、何故こんなにも心が乱れるのだろう。
「私は、酔っぱらっているんだ…。それに、頭が固いからかな。君の変化に戸惑ったんだ…。君は常に私を受け入れてくれるのに。…この酔いが醒めたら、こんな迷いは断つから…。…私は君と共に歩むと決めている」
 抑えようにも身体が嗚咽で震える。
 克哉を抱きしめていた腕にそっと上から手を重ねられた。克哉は何も言わずに御堂が落ち着くまで、そのままの姿勢で静かに待っていてくれる。その優しさに再び涙が流れた。

Never Let Me Go(4)

 自我(エゴ)は、何によって形作られるのだろう。
 それは遺伝子の配列によって指向性が定まるのだろうか。いや違う。全く同じ遺伝子を持つ一卵性双生児だって異なる自我を持っている。
 そう考えると、個々の経験や記憶が自我を形成する素因となるのだろう。
 だとすれば、同じ遺伝子と同じ身体を持ち、そして今や同じ記憶と経験を持つ<オレ>と<俺>の違いは何処から来るのだろうか。
 佐伯克哉は既にその答えを有していた。
 <オレ>と<俺>の決定的な違い。それは簡単だ。向こうが本物で<オレ>は偽物。あの日、舞い散る桜の木の下で生まれた代用品だった。
 その13年後、<俺>が現れてその事実に気付いても、悲しさはなかった。
 その時の感想を問われれば、腑に落ちた、というのが正しい。
 なぜ今まで自分自身に自信が持てず、やることなすこと全て裏目に出ていたのか。そうあることを期待されて生まれた<オレ>だったからだ。
 誰にも迷惑をかけないように、誰にも憎まれないように、誰にも必要とされないように。誰からも関心を持たれない路傍の石であること。それが<オレ>の役目だった。
 <俺>が戻ってくるまでの身代わりだった。そして、その役割を<オレ>はよく果たしたと思う。
 佐伯克哉の自我が<オレ>から<俺>に変わっても、とても自然なことに思えた。本来の自分に身体を返しただけのこと。不満なんてない。
 それでも、今回は勝手が違った。いきなり引き摺りだされた<オレ>は<俺>として振る舞うことが求められた。
 実力とカリスマ性を兼ね備える若い経営者でもあり、公私ともに寄り添う恋人もいる。
 正直荷が重かったが、完璧とはいかなくとも周りから要求されるように自分を殺して<俺>として生きていくことは受け容れられている。
 ただ、恋人である御堂の傍に、当然の様な顔をして佇むのは心苦しかった。
 美しく高潔な彼の<俺>に対する気持ちを踏み躙っている後ろめたさと、そんな御堂に恋人として気持ちを傾けてもらえる胸の高鳴りが共に渦巻く。
 所詮はイミテーション。本物がいなくなったとしても、<オレ>は<俺>になれない。
 それでも、御堂に真実を告白する気にはなれなかった。<俺>は消えていなくなった、そんなことを告げれば御堂は悲しむだろうし、何よりも<俺>はそれを望んでいない。
 一年前、<俺>の衝動のせいで嬲り者にしてしまったこと。過去の因縁である澤村の克哉に対する憎しみに巻き込まれてしまったこと。そして、今回、<俺>が消えてしまったこと。
 これ以上、御堂が苦しむ姿を目にすることは克哉にとって耐え難かった。
 御堂の心が自然に自分から離れてくれればそれでいい。
 そう思う傍ら、一時でも長く御堂の傍にいたいと思う自身の自我(エゴ)も克哉は自覚していた。
 御堂と過ごす日々が苦しく、そして甘かった。


 その夜、克哉はベッドで背中から御堂に抱きしめられた。素肌が触れあう感触にどきりと心臓が跳ねる。
「御堂さん…」
「そのままで」
 御堂の方を振り向こうとしたが、動きを封じるように強く抱きしめられ、押しとどめられた。克哉を抱きしめた手からわずかな震えが伝わる。御堂の感情が昂ぶっているのが伝わった。
「…今第1級なり、過去第2級なりき」
 御堂が静かに小さく呟いた言葉に、克哉は続けた。
「…されどムートンは不変なり」
 その言葉はさっき飲んだワイン、シャトー・ムートン・ロートシルトに刻まれている言葉だ。
 克哉は、御堂がそのワインを出してきた意図を理解した。
 再会後、そのワインを飲みながら御堂は克哉に言ったのだ。自分がいかに変わろうとも自分は自分だ、と。
「君は、私がいくら変わろうと受け入れてくれたのにな。なのに、私は君のことを……。克哉…。酔っぱらいの戯言だと思って聞き流してくれ」
 自分のうなじに御堂の額が当てられる感触があった。
「以前の君はどこに行ってしまったんだ。また、私を置いて消えてしまった…」
 御堂の言葉が震える。その声は嗚咽になった。自分の背中で御堂が泣いていた。
――気付かれている…!
 それは予期していたことだった。御堂は聡いし鋭い。<オレ>がこの人を騙しきれるわけはなかったのだ。
「すまない…克哉。君が佐伯克哉だということは分かっているのに。…私が…おかしいんだ」
 嗚咽が混ざったその言葉は、克哉の心に重く響く。動けなかった。こんな時、<俺>なら強引に御堂の迷いを振り切って平静を装うだろう。だけども、今の克哉は動くことが出来なかった。
「私は、酔っぱらっているんだ…。頭が固いからかな…君の変化に戸惑ったんだ…。君は常に私を受け入れてくれるのに。…この酔いが醒めたら、こんな迷いは断つから…」
――この人はオレに変わったことに気付いていて、それでも佐伯克哉だからという理由でオレを受け容れようとしてくれている。
 息が出来なかった。その御堂の決意が切なくて哀しい。自分に回されている御堂の腕に手を重ねた。御堂の身体が小さく震えた。
 うなじに押し当てられた御堂の額から湿った感触と共に熱が伝わった。
――<俺>。本当にこれでいいのか…?
 自分も御堂を愛している。だが、御堂は<オレ>ではなく<俺>を愛している。それは悲しいが事実だ。それでも今の克哉にとって御堂を幸せにすることが一番の望みだった。
 御堂の嗚咽と震えが治まるまで、そっと待つ。自分にできることは寄り添うことだけだ。
 次第に御堂の嗚咽が治まり、静かになる。抱きしめられた御堂の腕から次第に力が抜けていった。
 克哉は御堂の方を振り向くことは出来なかった。きつく目をつむり、そのまま御堂の身体の温もりに抱かれた。

 身体を動かさないように気を付け、御堂の手を重ねたまま時間が過ぎる。御堂は眠りに落ちたのだろうか。静かな呼吸音が響く。気付けば空が白んできていた。
克哉は深く息を吐いた。
 それにしても、<俺>はどこに行ったのだろうか。
 <俺>と<オレ>は一つの身体に存在しながらも、近くて遠い存在だった。常に傍に気配を感じても同じ時間を共有することはなく直接話し合えるわけではなかった。そして、今はどこにも<俺>の気配を感じない。<俺>の記憶を丹念に辿っても、澤村と対峙したホテルで御堂を抱きしめた時を最後に途切れ、今の自分に引き継がれている。
 Mr. Rに眼鏡を渡されて、初めて眼鏡をかけてからは、眼鏡を外しても常に<俺>の存在を傍に感じた。いつの間にか、眼鏡をかけている時間が長くなって、そして気が付いたときには、<オレ>は…。
 そもそも、<俺>が佐伯克哉として過ごしていた間、<オレ>はどこにいたのだろう。その間を思い返してみても蘇るのは<俺>の記憶ばかり。気付いたら、桜が舞い散る公園に御堂と共にいたのだ。自分自身さえどこにいたのか分からないのに、<俺>がどうなっているのか分かるわけもない。
――あいつは本当に消えてしまったのだろうか。
 Mr. R。その名前を持つ男を思い出した。全ての始まりを作った男。
 彼ならこの状況を何とかできるだろうか。


 翌朝、御堂は何もなかったかのように振る舞った。
 克哉もそれに合わせる。
 御堂は克哉の中にもう一人の克哉を探そうとはしなくなった。
 ただ、克哉を見つめるその眼差しが少し切なくなった。
 


―――――――――――――――
 それは高い崖の上から頭を下にして、どこまでも延々と墜落していく感覚だった。
 佐伯克哉は軽く目を閉じた。周囲からの情報を遮断し、自身の状態に意識を向けしっかり把握するために。
 落ちながら、その肢体が激しい感情の焔で焼かれていく。
 このまま底に打ち付けられて毀れるのが先か、全てを焼き尽くされるのが先か。
――死ぬというのはこういう事か。
 怖くはなかった。薄れようとする意識を必死に繋ぎとめる決意の方が恐怖に勝っていた。
 自分の最期を見届けるまでは安堵は出来ない。元より自分自身に執着はない。周囲に害をもたらすだけでそれを自制できない弱い自我なんて必要ない。
――御堂……。
 自分の恋人を思い浮かべた。心残りがあるとしたら彼のことだけだ。最後に一言謝って、別れを告げたかった。だが、それも<俺>の勝手なエゴだ。後は<オレ>が上手くやってくれるだろう。
 これは最善の選択だ、克哉は自身に言い聞かせた。
 徐々にバラバラに分解されて深いところに落ちゆく感触。自身の最期に相応しい。むしろ、御堂を抱きしめて朽ち果てることが出来るのは、自分には過分なほどだ。自然と笑みさえ浮かんだ。
 その時だった。ふわりと身体が受け止められて落下の速度が緩徐になった。
 訝しんで目を開くと、目の前に見知った男の顔があった。黒衣に包まれた長い金髪を持つ男。克哉を抱きかかえたその男は慈しみの笑みを浮かべ、憐憫の眼差しを克哉に向けている。
 Mr. R。今の克哉にとって最も会いたくない男。避けねばならない人物だ。
「俺に、触るな…っ!」
 それは既に掠れて言葉にならない言葉だった。それでも全力を注ぎこんで拒絶の意思を伝える。
「お可哀想に。あなたほどの素質を持つ方が、こんなに脆い姿になってしまうとは」
 Mr. Rから逃れようと克哉は身を捩って手足を動かそうとするが、既に四肢の感覚がない。
「助けて差し上げましょうか」
「必要ない。消えろ」
 この男の手助けなど一切借りたくはなかった。だからこそ、この男から手渡された眼鏡に全く手を付けなかったのだ。
 落下の感覚が止まり、Mr. Rがどこかに降り立った感触がある。ここはどこなのだろう。肌を包む感覚は粘っこく暖かい。
 しかし、今の克哉にはその場所を確認するために頭を動かすことさえできなかった。身体を地に降ろされる。上半身を支えられ起こされたが、既に首から下の感覚は曖昧だ。
「佐伯克哉さん。もう一人の貴方をあちらに残したのは賢明でした。貴方は私が見込んだ素材。大丈夫です。復活する事は叶うでしょう」
 Mr. Rは克哉の拒否が聞こえていないかのように顔を覗き込み、ふっと笑みを浮かべた。
 その手に、鈍い光を放つ銀のフレームの眼鏡が見えた。その眼鏡がもたらす災厄を想起し、身体が強張る。
「やめろ…っ」
「恐れることはありません。貴方が愛するあの方に再び会いたくはありませんか」
「御堂に…?」
 普段の克哉ならば決して耳を貸さないであろうその男の甘言は、瀕死の克哉にとって抗いがたい誘惑となって唆される。ほんの一瞬、克哉に迷いと隙が生まれた。
「その身の穢れが落ちるまで、しばしの間お休みなさい」
 克哉が無防備になった瞬間、Mr. Rの手によって眼鏡をかけられた。わずかに残された身体の力が抜け、意識が遠のいていく。
 ぐったりとした克哉をMr. Rはそっとその場に横たえた。そこは水面のようだった。さざ波が立ち、身を丸めた克哉の身体を優しく包み込んで沈ませていく。その姿はまるで羊水に抱かれる胎児の様だ。
 この場所は克哉の意識の最も深いところ。ヒトはそこを無意識(イド)の海と呼ぶ。自我(エゴ)が生まれ出ずる母なる海でもある。
 深く沈みゆく克哉をMr. Rは愛おしげに見届ける。
「記憶にないでしょうが、貴方はここで13年かけて精製され成長しました。今の貴方は澱が溜まった状態。不純物を落とせば再び元の貴方に戻れますよ」
 その言葉は既に克哉には届かない。
 克哉に装着した眼鏡は、そのあるべき姿の輪郭を維持しこの海の浸食や分解から守ってくれるだろう。後は、克哉の中に巣食う不純物がこの海で洗い流されるのを待つだけだ。
 今の克哉のベースは13年かけて精製、熟成され羽化した完全な姿。一番厄介な障害は、幸いなことに克哉自身の手によって切り離された。ならば元の純然たる姿に戻るのにさしたる時間はかからないだろう。
――それにしても…。
 自我が不純物で凝り固まる前だったのは幸運だった。
 Mr. Rは静かな水面を見下ろした。完成された自我だったはずの克哉だが、ほんのわずかな揺らぎが、バタフライ・エフェクトのように波及し、美しく純粋な自我を大きく崩した。
――ヒトを高次の次元に引き上げるのは、こうも難しいものなのでしょうか。
 その選択は全て克哉の意思―この克哉ともう一人の克哉―に任されている。Mr. Rが介入できる余地は大きくはない。
 それでもこの世の唯一無二の王として君臨し、その足元に全てをひれ伏せさせることが出来る程の資質を持ちながら、その道を見向きもしないというのは不可解ではある。
 だが、だからこそ、ヒトは面白い。Mr. Rの思い通りに出来るような自我の持ち主ならばそもそも王たる資格は持ちえない。
 そしてチャンスは再び巡ってきた。前回の失敗の原因は分かっている。この世にまたとない類まれな逸材。自身が、じっくりと時間をかけて完成させた素材をこれ位のことで失うのは惜しかった。
――惜しい…とは。この方よりも私の方が、よほど人間らしいのかもしれません。
 Mr. Rは自身の持つ執着心に半ばあきれつつ、片手を軽く挙げた。その手にはいつの間にかもう一つの眼鏡が握られていた。先ほど克哉にかけた眼鏡と全く同じ外観の眼鏡。虚像と実像、先の眼鏡と対をなす。
 この眼鏡をもう一人の佐伯克哉が装着すれば、この海で眠る克哉は完全なる姿で復活が果たされるだろう。
 Mr. Rは10年以上待ったのだ。更にしばしの間待つことなど苦ではない。
「再びお会いしましょう。佐伯克哉さん」
 その黒衣の男はひらりと身を翻し、水面にわずかな波紋を残して消え去った。

(4)
Never Let Me Go(5)

 克哉はAcquire Associationでの一日の業務を終えた。マホガニーの天板の大きなデスクも、高機能なプレジデントチェアも自分には不相応で当初は落ちつかなかったが、今ではだいぶ慣れてきた。
 壁一面に展開する大きなガラス窓から外を見ると、既に日が暮れている。このフロアに残っている社員は克哉と御堂だけだ。
 克哉は御堂に声をかけた。
「所用があるので出かけてきます。食事は先に済ませていて下さい」
「どこへ?」
「本多とちょっと約束があって」
 御堂から向けられた視線を安心させるように笑って返す。嘘をついたことに胸がちくりと痛んだ。
 社のビルを出て、公園に向かった。途中のコンビニで缶ビールを二つ購入する。
 初めてMr. Rに会った公園。自分からMr. Rに会いたいと思ったのは初めてだった。
 公園に入った瞬間、街の喧騒があっという間に遠くなる。公園は既に人気がなかった。まばらに配置された街灯が頼りない光を放ち、異世界の入り口のようにも見える。
 花が咲き乱れていた桜の木もすっかり葉が茂り、風と共に葉と枝が揺れひそひそとざわめく。
 人外のモノが潜んでいてもおかしくなさそうな昏さと静けさがあたりを包んでいた。
 夜空を見上げると煌々と月が輝く。その眩しいほどの静かで冷たい光を浴びながら、克哉は眼鏡を外した。
 克哉は御堂も誰も見ていない所では眼鏡を外している。鼻当ての部分もつるの部分もくすぐったく違和感を覚える。首や肩に余計な力が入ってしまい、眼鏡だけはいまだに慣れない。と言っても、一日のほとんどを御堂と過ごしているため、どうしても眼鏡をかけざるを得ない。
 最初の頃は、朝、何度か眼鏡を忘れて部屋を出そうになり、御堂に指摘されて慌てて着用していた。
 よく考えれば、慣れないのは眼鏡というより、<俺>として生きていくことなのかもしれない。
 御堂との同居は失敗だったかもしれない。克哉は少し後悔していた。
 同居自体は<俺>が望んでいたことだ。今更自分から解消は出来ない。
 御堂には何ら不満はない。御堂は元々他人のプライベートに干渉しない性格であり、尚且つ細やかな気遣いをみせてくれる。手の届くところに御堂がいて、実際に自身の腕に抱き寄せることが出来る。今の御堂は<俺>ではなく<オレ>を見てくれる。
 少しずつだが、克哉に対する御堂の態度が変わってきた。それは決して不自然さを感じさせるものではない。今の克哉をよく観察し、その接し方を御堂なりに手探りで調整しようとしてくれている。
 だが、今の自分は御堂にとっては不釣り合いだ、と克哉は痛感している。それでも御堂が自分をみてくれるのは、いつか<オレ>が<俺>に戻る日を心の底では期待しているからだろう。自分が眼鏡を外したとしても、御堂は受け容れてくれるだろうか。
 御堂と共に暮らす傍らで、そんなことばかり考えている自分が嫌になるのだ。
 街灯の下のベンチに克哉は腰をかけた。買ってきた缶ビールを開けて、一口喉に流し込んだ。まだ十分に冷たい。だが、ビールをいくら胃に流し込んでも、酔える気はしなかった。
「Mr. R。いるんでしょう?」
 誰もいない公園の闇に向かって、克哉は声をかけた。その言葉は公園の闇に拡散し、消えて行く。
 突然、克哉の周りの空気が動く気配がした。反射的に背後に目を向ける。だが、そこには誰もいなかった。公園の樹が静かにたたずんで克哉を見守っているだけだ。
――いない?
 半分安堵し、半分がっかりし、再び前を向き直った。その時だった。
「こんばんは。お久しぶりですね」
 歌うような抑揚で艶のある声が、頭上から響いた。
 全身の産毛が総毛立つ。いつの間にかその男は目の前に立っていた。
 見上げた克哉と視線が合い、にっこり微笑まれる。
「…Mr. R」
「ビールは美味しくありませんか?…あなたから会いに来ていただけるとは。佐伯克哉さん」
 黒いロングコートにボルサリーノ、両手には革手袋をはめている。いつどこで会っても同じ格好の全身黒づくめの男。その編み込まれた長い金髪が風に揺らめき、ほつれた髪の毛が生き物のようにうねる。丸眼鏡の奥から金色の虹彩がきらめいて克哉を見詰めている。
 その気配に気圧されながらも、克哉は立ち上がりしっかりと向き合った。
「あなたはいつも浮かない顔をしていらっしゃいます」
「…どうぞ」
 克哉はコンビニの袋からもう一つのビール缶を取り出した。目の前のMr. Rに差し出す。Mr. Rは一瞬目を丸く見開き、にっこりと笑うと克哉からビール缶を受け取った。
「なんと。私にですか。嬉しいですね」
 受け取ったもののMr. Rはビールを開ける気配はない。さも珍しいものを手に入れたかのように、ビールを手の上で転がして一通り眺めると、優美な動作でコートのポケットに仕舞いこんだ。
「お願いがあるんだ。…もう一人の<俺>を戻してほしい」
「おや…」
 Mr. Rはわざとらしく瞠目した。
「何故です?貴方はご自分の人生を取り戻されたではないですか。それも、もう一人の貴方の分までしっかりと自分のものにされた。何がご不満なのでしょう?」
――分かっているくせに!
 克哉は奥歯を強く噛みしめた。
「オレじゃダメなんだ。あいつ、…<俺>がいないと。あなたなら戻せるでしょう、あいつを!」
「さあ、どうでしょう?」
 Mr. Rは目を眇めて克哉を見、おもむろに自分の顔をその長い指で覆いつつ丸眼鏡を押さえた。
「私は、お二人の佐伯克哉さん、どちらも好きですよ。貴方のことも好きです。…しかし、『お願い』は聞けません」
「なぜ?どうして!」
 必死に縋ろうとする克哉を見て、Mr. Rは小さく笑った。
「ですが、取引でしたら、お受けいたしましょう。貴方がその対価を払うなら、貴方ともう一人の貴方がいる場所を入れ替えましょう」
「対価…?」
――その願いに応じた代償を支払えという事か。
 克哉はその意味を理解し、すぐに心を決めた。自分が払えるものは一つしかない。御堂がそれで幸せになるなら迷いはなかった。
「オレならどうなっても、…消えてもいい」
「殊勝な心掛けですね。佐伯さん」
 その男は慇懃な態度をとりつつも、驕慢で艶やかな笑みを浮かべた。
「フフ…。貴方は全く変わっていませんね。そして、それが何を意味するのか分かってらっしゃらない。貴方はいわば佐伯克哉さんの『弱さ』であり『良心』なのに」
 話を続けながら、さも可笑しそうにMr. Rが声をたてて笑い出す。その笑い声は克哉の神経をぞっとする感触で逆なでする。
「対価、というのは等価であることが必要です。消えてもいい、と思っている貴方をいただいても何も嬉しくありません。そうですね、対価として…貴方の大切なものをいただきましょうか」
 大切なもの、と言われて、咄嗟に御堂の顔が浮かんだ。克哉の表情が一瞬で強張る。
 その顔を見て、Mr. Rが薄く笑った。その怜悧な笑顔からどこまでも深い闇がこぼれる。
 身を強張らせる克哉をよそに、Mr. Rは小首を傾げた。
「…それにしても、因果なことだとは思われませんか?」
「因果?」
「ええ。もう一人の貴方は、私の手助けを撥ねつけて、弱くなってしまわれた。その結果、何が起きたのでしょう。…絶望、怒り、憎悪。身を引き裂くような感情に捉われて、自らを封じてしまった。まるで、貴方が生まれた時のように」
「…オレが生まれた時」
 桜の花が降り注ぐ、あの日の出来事を克哉は思い出す。自分の原点。今でははっきりと分かる。あの日、佐伯克哉は<俺>から<オレ>に変わったのだ。
「ええ。そして、再び貴方と私はこの公園で邂逅しています。貴方は今のご自分に満足がいかないのでしょう。変わりたいと思ってらっしゃる。そう、まるで私が貴方に眼鏡を渡したときように」
 Mr.Rは満面の笑みを浮かべた。その笑みはどこか人をひるませる昏さを孕んでいた。
「この一つ一つの符号の一致をあなた方はなんと表現するのでしょう。“歴史は繰り返される”でしょうか。それとも、“運命”とでも呼ぶのでしょうか?…だとすると、私は貴方の願いを聞くのが必然なのでしょうね。そして、貴方が呼び戻したい、もう一人の貴方はどの様な方なのでしょう」
 その歌うような抑揚の声にうっとりとした陶酔の響きが混ざる。その視線は克哉を通り越して、遠いところにいる何かを見つめているようだった。
――まさか…。
 克哉は、背筋に冷たいものがすっと流れ落ちるのを感じる。
 <俺>が消えた時、<俺>は激しい感情に捉われて翻弄されていた。その時に<俺>が一番恐れていたのは、かつての自分自身が蘇ることではなかったか。
 MR. Rは陶然とした視線を克哉に戻した。
「呼び戻しましょうか。もう一人の貴方を。強く、傲慢で、自らの欲望の赴くままに他人を蹂躙し虐げる、素敵で美しい、我が王たる貴方です。それは今まさに、貴方の心の奥、光も届かぬ深淵に封じられたもう一人の貴方の姿」
「…かつての<俺>」
 呻くように口から漏れた克哉の言葉にMr.Rは同意するかのように、微かに目を眇めた。
「私が出来ることはほんのわずか。均衡を変えることくらいです。無から有を作り出すことも、その逆も出来ません。しかも、貴方の意に反して何かをすることは出来ません。あくまでも貴方の自発的な意思が必要なのです。…そして、もう一人の佐伯克哉さんが我が王たる真価を発揮するには、貴方はいささか邪魔な存在なのです」
 Mr. Rの顔は笑っていたが、その眼差しはぞっとする程冷たかった。顔を覆った指の隙間から、克哉を凍てつくような翳りをもって見据えてくる。
 ああ、と思い出したようにMr.Rは言葉をつなげた。
「貴方の大切なものをいただく、と言いましたが、冗談です。…私は貴方にしか興味がありませんし、貴方のものを奪うなんてことはいたしません。『それ』は、貴方ともう一人の佐伯克哉さんのもののままです。ご安心ください」
 克哉を安心させるような柔らかな口調ではあったが、その男が纏う闇が更に深くなったように感じた。
 Mr. Rが克哉に一歩近づいて、その手を取った。反射的に後退ろうとするが、足が竦み動けない。
「これを、どうぞ」
 手のひらに銀色のフレームの眼鏡を握らせる。いつの間に取り出したのだろう。手袋をはめたMr. Rの手は克哉を包む空気よりも冷たく、体温を一切感じない。
 この眼鏡は、桜を見に行った日にMr. Rが<俺>に渡した眼鏡によく似ている。克哉は眼鏡に目を奪われた。
「ええ、そうです。もう一人の貴方が一切使おうとしなかった眼鏡。もう出番はないかと思って回収しましたが、お役に立てる時が来たようです」
 克哉の心の内を読んだかのようにMr. Rが答える。その顔からすっと笑みが消えて真顔になった。克哉の顔を覗き込むように顔を近づけた。
「佐伯克哉さん、先ほどのビールのお礼です。今から言う私の言葉をよく覚えていてください。この眼鏡は、もう一人の貴方の力を強めて、貴方ともう一人の貴方の位置を入れ替えます。ただ、もう一人の貴方がこれを使う場合と違って、貴方がご自身の意思でこの眼鏡を使う場合、眼鏡を外せば元に戻る、という訳にはいきません。よく考えてお使いになってください。…それでは、貴方の望むように」
 そう一言告げると、再びにこりと笑って、その男は身を翻して去っていく。そして、あっと言う間に公園の闇に溶け込んだ。まるで最初から何も存在しなかったように。
 克哉は自分の手を見つめた。
 手の中に取り残された眼鏡のフレームが街灯の光を反射して鈍く光る。
――かつての<俺>。
 かつて眼鏡をかけた自分自身が行った行為を思い出す。ひどく薄っぺらな記憶だったが、もう一人の自分が何をしでかしたのかはっきりと記憶に残っている。
――御堂さんを嬲って、閉じ込めて、全て奪って、壊そうとした。
 もう一人の自分の行ったおぞましい行為を思い出し、身を強張らせ震わせる。
 <俺>もそれが繰り返されるのを恐れて、Mr. Rに頼らず、自分を置いて消えたのだ。
「オレは、そんな<俺>になりたいわけじゃない!」
 手の中の眼鏡をきつく握りしめて、克哉は叫んだ。誰もいない公園の真ん中で。

「ただいま…」
 克哉は意気消沈したまま部屋の扉を開けた。その扉も妙に重く感じる。
「お帰り」
 部屋に戻ると、御堂が静かに微笑んで、出迎えてくれた。
――このままでもいいのかな。
 今の御堂は必死に<オレ>を受け入れようとしてくれている。
 御堂を愛する自分の気持ちは確かだ。
 そんな御堂を危険な目に合わせるわけにはいかない。
――それに、今の状況が辛いからって、<俺>を呼び戻そうとするなんて、以前のオレと全く変わらないじゃないか。<俺>がオレを置いて消えたことを責めることなんて出来ない。今のオレも同じことをしようとしている。
 自分自身の不甲斐なさに歯噛みする。
――でも、オレはお前にもう一度会いたいよ…。
 もう一人の<俺>とは反発しあったが、それでも<オレ>から見る<俺>は眩しかった。
 自分の持たないものを多く持つ<俺>から多くの影響を受けたし、そんなもう一人の自分に惹かれたのも事実だった。
「どうした?何かあったのか?」
 黙りこくって思いを馳せていた克哉の顔を御堂が覗き込む。その眼差しはわずかな変化も見逃すまいと鋭い。
「いえ、何でもありません」
 無理やり笑顔を作った。そんな克哉を御堂はそっと抱きしめた。
「…あまり思い詰めるな。私はいつでも君の傍にいる」
 御堂の温もりに触れ、涙がこぼれそうになるのを必死に抑えた。そのまま御堂の腕に身を任せた。

――他に方法はないのだろうか。
 克哉はベッドの中で一人、考えこんだ。
 Mr. Rから手渡された眼鏡は危険だ。
 昔の<俺>は他人を蹂躙することに一片のためらいもなく、むしろ快感さえ抱いていた。
 今の状況で昔の<俺>が戻ったら、間近にいる御堂はなす術なく、その毒牙にかかるだろう。そして、次こそは本当に壊してしまうかもしれない。
 それを想像することは恐怖だった。
 監禁して拘束していた時の御堂の虚ろな瞳を思い出す。あの時は、辛うじてそこで踏みとどまることが出来た。自分の過ちに気付いたときの驚愕、全身の力が抜ける感覚、御堂に対する本当の想いに気付いたときの衝撃を思い出す。その記憶は非常に鮮明だ。
――待てよ…。
 克哉は自分が持つ<俺>の記憶が二種類あることに気付いた。
 まるで自分が体験し、自身の意思で動いたかのような鮮明な記憶と他人事のような薄っぺらい希薄な記憶。
 自分の2種類の記憶の境目を探す。その記憶の境目ははっきりとしていた。御堂に対する自身の気持ちに気付き、その過ちを悔いて御堂を解放したときから自分の記憶が生々しく鮮明になっている。<俺>の思考と行動が自分自身の意思で行ったかのような感覚だ。
 それ以前の御堂を嬲った記憶はしっかり残されているものの、明らかに他人の意思で行われたのを画像で再生しているかのような希薄さなのに。
――なんだ、これは…?
 どういう事なんだろう。自分の持つ<俺>の記憶をたどる。御堂を解放してから、<オレ>は…。
――そうだ、Mr. Rに会ったんだ。
 Mr.Rは眼鏡を返そうとする克哉にこう言った。
『もう、眼鏡を外そうが、かけ続けていようが、もうあなた自身は変わりません。既にあなたはその本質を取り戻されているのですから』
 その言葉の意味はなんだったのだろう、必死にその真意を探る。
 <俺>はその言葉を、自分自身を取り戻したということだと考えていた。
――自分自身て何だ?
 先ほどのMr. Rの言葉が頭の中に蘇る。
『貴方はいわば佐伯克哉さんの『弱さ』であり『良心』です』
『私は無から有を作り出すことは出来ない』
 Mr. Rはそう言っていなかったか。
 <オレ>は小学校の卒業時に、Mr. Rによって新しく生みだされた存在だと思っていた。
 だが、自分自身が佐伯克哉であることに疑問を思ったことはない。なぜ、自然に佐伯克哉という存在に溶け込めたのだろう。
――もしかして、オレは<俺>から生まれたのか。
 元は<オレ>と<俺>は一つだったのではないだろうか。それが小学生の時の澤村の件をきっかけに二つに解離した。
 そして、<俺>が自分自身を取り戻したと思ったときには、<オレ>は<俺>のところに戻ったのだ。
<俺>は御堂に対する本当の想いに気付いたとき、自分の過ちを悔いて、変わりたい、と心から望んだ。その時、<オレ>は<俺>に受け入れられたのだ。
 だからこそ、眼鏡をかけてもかけなくても<俺>と<オレ>は交代しなくなった。なぜなら、既に一つになっていたから。
 それからは<オレ>は<俺>と共に佐伯克哉として生きていた。だからこそ、記憶がこれほどまでに鮮明で自分自身が経験したことのように生々しく思い起こせるのだ。御堂を愛する気持ちも<俺>から引き継いだのではなく、佐伯克哉の一部としての<オレ>の本来の気持ちだったのだ。
――オレは<俺>だった。
 それは<俺>も気づいていなかったのかもしれない。
 そして、澤村の登場によって、一人だった二人の間に亀裂が入った。そして、片割れの<俺>が失われたのだ。
 そう考えると全てが腑に落ちた。<オレ>は本来の自分自身の弱さや優しさという『良心』の部分が切り離された人格なのだろう。
 Mr. Rは<俺>が王たる真価を発揮するにはオレが邪魔だと言っていた。Mr. Rの望みに反して<オレ>は<俺>を弱めてしまうのだろう。そして、あの花見の日にMr.Rが渡してきた眼鏡は<俺>を強くし、<オレ>を無力化する力を持っていた。
――でも、だとしたら…
 今回の澤村の一件で再び二人に分離し、<俺>が消えたのは、<オレ>の弱さが原因だったのではないだろうか。
 あの時、Mr. Rに渡された眼鏡を使っていたらどうなっただろうか。以前の<俺>の力が強まったはずだ。
 以前の<俺>なら、澤村に好きにさせなかったし、御堂をあんな目に合わせなかったに違いない。<オレ>の弱さが佐伯克哉の足を引っ張った。ただ、佐伯克哉の人格の本体だった<俺>はそれを自分のせいだと捉えた。
 その結論にたどり着いたとき、克哉はその恐ろしさに身震いした。
――オレのせいだ。あいつが消えたのは。
 あの澤村との対決の時、後悔・憎しみ・怒りという激しい感情に流され、佐伯克哉の自我は崩壊しかかった。その感情に身を任すことは、かつての<俺>を甦らせてしまう危険性があった。それを防ぐために全てを道連れに自分自身を封印し消し去った。御堂を傷付けないように、御堂を優しく愛することができる<オレ>という人格だけおいて。
 それは、結局のところ、桜が散っていたあの卒業式の日と同じ選択をしたのだ。ただ守りたい対象は自分から御堂に変わった。
 そして、その結論を下したのは佐伯克哉である<俺>であり<オレ>であった。
――オレの役目は御堂さんを愛し、守る事だ。オレが自分で決めたことなんだ。
 それは、自分自身で行った悲壮な決意だった。自ら二人に袂を分かち、お互い別の宿命を背負った。
 その決意を忘れて、危険を冒してまで<俺>を呼び戻そうとしている。
――オレが御堂さんを守るよ。
 結局のところ、自分の弱さが今の状態を招いたのだ。それは自分の責任だ。そして、その選択はその時に出来た最大限の正しい選択だったのだと信じたい。ならば、自分が佐伯克哉の意思を継ぐしかない。
 克哉は自分の迷いや不安を吹っ切るように拳を握りしめた。

(5)
Never Let Me Go(6)

――私は馬鹿だ。
 御堂は独りごちた。
 傍で見ていて、克哉自身も自分自身の変化に戸惑っていることが見て取れる。
 それを支えるべきなのに、逆に不安に陥れるようなことを言ってしまった。
 今までの克哉とは違う。それを思うと今でも胸が切なく締め付けられるが、克哉を愛おしいと思う気持ちは変わっていない。
 あのワインを飲んだ晩から、克哉は更に何か思い詰めたような顔をするようになった。
 自分のせいだろう。
 そして、克哉が変わったのも、元をただせば自分が原因に違いない。
 桜を見に行った日から、時々その予兆はあった。だが、決定的に変わったのは、あの日のあの時に違いない、と今や確信していた。

 澤村に拉致されたあの日。ホテルの部屋に駆けつけた克哉が澤村に向けた眼差しは恐ろしかった。その声は抑えきれない憎悪がにじみ出ていた。
「俺とお前のことに、この人は関係ないじゃないか」
「なぜ、直接俺にじゃなく、この人に手を出した」
 澤村の胸倉をつかむ克哉の手に力が込められる。
 かつての克哉を彷彿とさせるような冷酷で非情な眼差し。その蒼い眸は暗い憎悪で燃えていた。
 御堂を貶める澤村の言葉に克哉の表情がより硬く、激しい怒りに染まっていくのが見て取れた。
「止めろ、佐伯。そんな奴の挑発に乗るなっ!」
 それは必死の叫びだった。このまま克哉がその身の内から溢れるどす黒い感情に塗りつぶされ、以前の克哉に戻ってしまいそうな予感がした。
 ありったけの力を振り絞って発したその声に反応し、克哉は御堂に目を向けた。御堂と眼があった瞬間、怒りに染まっていた瞳孔が大きく開かれて、そして哀し気に眇められた。
 克哉はその衝動に流されることなく、ギリギリのところで踏みとどまって澤村を退けたのだ。
 澤村が去った後、息苦しいほど強く抱きしめてきた克哉。その震える腕と身体から何か強い感情と葛藤を感じた。それを必死に抑え込んでいるようだった。
 そんな克哉を優しく抱きしめ返した。自分以上に克哉が深く傷付いていることが分かったからだ。克哉の存在を離さぬように。その強張った身体の緊張を和らげるように。
 それでも、御堂の腕の中から克哉の中の何かがするりと抜け出していったのだ。
 両手ですくいとった水が知らぬ内に指の間から漏れ出て、気付けばすっかりその嵩を減らしてしまっていたように。
 どれ位抱き合っていたのだろうか、ふっと克哉の力が抜けて、身体が離された。
 御堂は克哉の顔に視線を向けた。その顔は茫然としており、目の焦点が定まっていなかった。
「佐伯…?」
 その言葉に、彷徨っていた視線が御堂の顔に向けられる。
「御堂さん…?」
 一瞬克哉の目が大きく見開かれた。そのまま辺りを見回す。なぜ、ここにいるのか分からないと戸惑っているようだった。
 だがその動揺もすぐに治まって、御堂に再び視線が向けられた。その眼差しは何故かとても儚く悲しみを湛えているようだった。そして再び克哉に抱きしめられた。
 その時の克哉の身体は小さく細かく震えていた。だが、先ほどとは違う。心の内で泣いているかのような頼りない震えだった。まるで御堂に縋ろうとしているかのように。
 あの後、克哉との同居を申し出たのは御堂の方だった。克哉を放っておくことが出来なかったのだ。あの時の克哉はまるで、うち捨てられた子犬のような小さくか弱い存在に思えてしまったのだ。なぜ、そう見えたのだろう。
 今から思えば、あの時が決定的な変化が起きた瞬間だったのだ。

 克哉の変化を感じた時から今まで、克哉を観察していて気付いたことがある。
 確かに、その性格は大きく変化した。そのため分かりにくくなってはいるが、妥協を許さないどこまでも突き詰める姿勢、自分の信じることはそう簡単には曲げない頑固さ、その時々の状況を的確に判断し行動する機転の速さや読みの鋭さなど能力的には変わらない所も多い。細かい点を上げれば、変わったところよりも変わっていない点の方が多いだろう。
 今の克哉が別人のように見えるとしたら、それは性格の変化以上に、克哉自身が揺らいでいるからではないだろうか。
 まるで、蜃気楼に映された姿のように、自分の芯のようなものが定まっていないように感じてしまうのだ。

 あの時、もっと強く克哉を抱きしめていたら、結果は違ったのだろうか。
 いや、それよりももっと前から、克哉としっかり向き合うべきだったのだろう。
 桜を見に行った日から、克哉は御堂を避け始めた。御堂に対する優しい態度を残したまま、自分から御堂を遠ざけようとしていた。
 それに気付いていながらも、克哉の傲慢さとその強さを盲信し、それを言い訳にして克哉の領域に自ら踏み込むことを避けたのだ。
 その結果、克哉は大きな問題を抱えそれを自分一人で片付けようとした。そして、その代償として深く傷付き、自身の何かを失った。
 今でも克哉はそれに苦しんでいる。御堂の前では気丈に振る舞いながらもだ。
 そして、その苦しみを御堂に一切見せようとはしない。それがもどかしかった。
 ふと、克哉がそのまま消えてしまうのではないかと言う不安に、再び駆られた。
――そんなことはさせない。もう、私は君から目を背けたりしない。決して逃げたりはしない。
 二度と同じ轍は踏まない。それは固い決意だった。
 共に暮らしながら、また、仕事をしながらも克哉をさりげなく伺っていた。微かな変化も見逃さないように。
 一見穏やかな日々が流れる。仕事も順調だった。だが、御堂はその静けさが嵐の前の静けさのような嫌な予感がした。


「御堂さん」
 オフィスでデスクに向かって仕事をしていると克哉に声をかけられた。御堂のデスクに寄ってきて、御堂が手に持っている書類を指差した。
「その案件、オレが担当します。御堂さんは担当を外れてください」
「なんだ、いきなり」
 先週から手がけたばかりの新しい案件だった。スパイスなどの輸入食品を主に扱う食品会社で販売経路拡大のためのコンサルトを受けていた。
「特に難しい案件でもない。既に決めていただろう」
 この件を引き受ける前に打ち合わせをして、役割分担は双方納得していたはずだった。
 納得いかない、という表情を克哉に示す。
「色々検討した結果、オレがやります。御堂さんには代わりの仕事をお願いしたい」
「その色々検討した結果とやらを詳しく聞かせてほしい」
 克哉が口を結んだまま眉間にしわを寄せた。御堂を見る眼差しが険しくなる。
 おや、と御堂は訝しんだ。澤村の一件以降、克哉はこの様な不快感を示すあからさまな表情を御堂に向けたことはなければ、二人の間にいさかいが起きたこともない。
 今までの克哉はあまり自分の考えを表に出さず、独断専行が横行していたこともあり御堂と意見が拮抗することも多かった。
 一方で、今の克哉は揉め事を嫌う傾向があり、御堂と意見がぶつかりそうになった時は、自ら一歩引く。それでも御堂が促せば、自身の考えを隠さず言うし、その意見には色々と気付かされることも多い。
 だが、今回はどうだろう。御堂から何かを隠そうとしている意図が見え隠れしている。
「その仕事はどうしてもオレがやりたいんです。それではだめですか」
「子どもじゃあるまいし、話にならない。私が納得する説明をしてくれたまえ」
 克哉の眉間の皺がより深くなる。その顔から、一歩も引く気がないことを見て取る。
 その頑なさを読み解くために御堂は、わざと克哉を煽った。
 二人の間に不穏な空気が流れる。
 お互い声は抑えているが、御堂の近くのデスクに座っている藤田には気付かれたようで、静かに席を外された。
 克哉が目を眇めて、硬い視線を御堂に向けた。口調は荒げていないものの声には不機嫌さがにじみ出ている。その表情と振る舞いは以前の克哉を彷彿とさせるが、どこか不自然さを感じさせる。他人に対してネガティブな感情を向けることにあまり慣れてないような緊張と強張りが見て取れた。
「…社長命令だと言ったら?」
「佐伯、…何を隠している?」
 その一言は克哉の痛いところをついたようだった。
 口がきつく結ばれ、視線が一層厳しくなる。そのまま無言で、御堂が持っていた書類を取り上げ奪っていった。
 取り返そうか、とも思ったが、御堂はそのまま克哉の行動を見守ることにした。克哉のこの行動には何かしら理由があるはずだ。そしてそれを克哉は御堂から隠したがっている。裏に潜むものを慎重に探らなければいけない。
「藤田!」
 克哉が藤田を呼ぶ。給湯室に引っこんでいた藤田が慌てて出てきた。
「あの弁当屋の一件もひとまず片付いたし、この案件をオレとお前で手掛ける。よろしく頼む」
「あ、はい!分かりました!」
 元々は藤田と御堂で担当する案件だった。それでも、先ほどの揉め事を耳にしていたせいか、藤田は疑問を口にすることなく元気に返事をした。

「御堂さん、あの…」
 克哉が取引先との打ち合わせに出かけた後、藤田が御堂の元にやってきて、おずおずと声をかけた。
「何だ?」
「さっきの件ですが…」
 人目をはばかるように、藤田が声を潜める。
「何か知っているのか?」
「多分、佐伯さんが気にされているのは企業調査の結果だと思います」
「企業調査?私も確認したが、何か問題あったか?」
 クライアント企業の調査はコンサルトを受ける際に毎回行っている。もちろん今回も、その結果を確認し、依頼を受けることを決めたのだ。
「クライアント先、ではなくて、グループ企業の方です」
 そう言って、藤田はCMでもよく耳にする食品会社名をあげた。その社の企業調査まで行っていたとは知らなかった。
「なぜ?相互の持ち株はあっても経営は独立していたはずだ」
「あの会社、前に外資系ファンドにTOB(公開買収)を受けて、買収防衛策を講じて防衛成功しましたよね。その件について詳しく調べるように社長から指示があったんです」
 その件はよく覚えていた。ニュースでも度々話題になっていた。その会社はTOBに対する防衛策として新株予約権を発行し、ファンドの持ち株比率を下げて防衛を成功した。その後、その防衛策の是非について裁判まで持ち込まれたが、その防衛策は合憲とされファンドは撤退し、名実ともに防衛成功したはずだ。それも5年以上前の話だった。
「…その買収策にクリスタルトラストが絡んでいたんです。買収に失敗したので、その目的は結局謎のままだったのですが」
「クリスタルトラスト?」
「ええ。もう昔の話ですし、グループ企業なだけで何にも関係ないと思うのですが、佐伯さん、クリスタルトラストの件になると、なんというか……ちょっと神経質になるじゃないですか。この前の妨害の件もありましたし。だから自分でやりたいんだと思います」
 藤田は、澤村と克哉の関係、そして御堂に起きた一件を知らない。それでも、そのクリスタルトラスト関係で、月天庵のプロジェクトが妨害され、また、御堂と克哉が社内で揉めたのは知っている。
 御堂は軽く目を閉じ、こめかみに手をあてた。
 藤田は勘違いをしている。克哉はこの件を自分でやりたいのではない、御堂を外したいのだ。
「…そうだったのか」
「今回のコンサルには何ら影響はないと思うんですが……やっぱり社長の様子が少しおかしいんで、お伝えしておこうかと」
「ありがとう。佐伯と話し合ってみる」
 藤田はほっとした顔でデスクに戻って行った。
 克哉がムキになった理由は分かった。だが、しかし…。
――そんなこと、私は望んでいない。
 克哉に対する怒りが沸々と湧き上がる。その怒りを抑えるように手をきつく握りしめた。

 その日、御堂は先に部屋に戻った。自分の怒りをなだめながら克哉の帰りを待つ。
 玄関のドアの前に人が立つ気配がし、カード―キーが触れる金属音がする。
 御堂は、おもむろに玄関に向かった。

(6)
Never Let Me Go(7)

 克哉は玄関の扉の鍵をカードキーで開錠した。気分が重く、自然と動作が緩慢になる。
 今日は、外回りから帰ってきた後も御堂とは会話を一切交わさなかった。
 退社時間になると、御堂は克哉に何も言わずにさっさと帰ってしまった。
 一人社に残った克哉は明日の業務の仕込みをしてから会社を後にしたのだが、部屋に向かう足が重い。
――御堂さん、怒っているだろうな。
 ため息をつく。さすがに今日のやり方はスマートではなかった。だが、それ以外の方法は思いつかなかった。
 御堂の思考は実に合理的で論理的だ。理詰めでないと納得しない。
 ただでさえ、以前の<俺>が独断専行すぎるとよく責められていたのだ。きっと今日も怒っているに違いない。
 <俺>と違って<オレ>には元々、御堂に対する苦手意識がある。
 思えば、最初にあの眼鏡に頼ってしまったのも、御堂がきっかけだった。あの形の好い眉を吊り上げつつ切れ長の目で見据えられ、有無を言わせぬ正論でまくし立てられたら何も反論できずに身が竦む。
――こんな時、<俺>だったら…。
 御堂のペースを崩すために軽口を叩いてみたり、多少強引な手を使っても、無理やり押し切ることが出来るだろう。
 それは自身も共に佐伯克哉として行動してきたからそのやり口は分かっている。
 今回はそんな<俺>のやり方を真似てみたものの、怯んでしまったのだ。御堂の非難を込めた眼差しとこちらの本心を突いた一言に。
――やっぱり<俺>の様にはいかないか。頑張っているんだけどな…。
 <俺>として振る舞っても、<俺>の記憶がしっかり残されている分、所々で自分の不甲斐なさを思い知らされる。
 それでも、佐伯克哉として御堂を託されたのだ。自身の弱気をなだめ、克哉は自分を奮い立たせてドアノブを引いた。
「ただいま、戻りました……っ!」
 のろのろとドアを開けて頭をあげたところで、克哉は体が竦んで動けなくなった。
 目の前に御堂が居た。廊下の壁にもたれながら腕を組み克哉を睨んでいる。
 御堂は怒りを表に出すタイプではない。それは克哉も同じだ。だからこそ、今の御堂が相当の怒りを内に秘めていることが手に取るようにわかる。
 克哉に対して真っ直ぐ向けられた怒りから目を逸らして平静を装う。
「どうしたんですか。そんな怖い顔をして」
「佐伯、今日のことで話がある」
 その声は静かだった。だが、心をざわつかせる穏やかならぬ響きがあった。
「担当を変えた件ですか。それなら、もう決まった話です。先方にも連絡しました」
 動揺を抑えて、自然な動作で中に入り、扉を閉め、鍵をかける。克哉の一つ一つの動作に突き刺さる御堂の視線が痛い。
 予想していたとはいえ、今の御堂は本気で怖い。正直、踵を返して逃げ出したい気持ちで一杯だが、佐伯克哉として生きていくからには、逃げることは許されないだろう。
 克哉は気持ちを奮い立たせて心を決めた。平然とした表情を作り、御堂の責める様な視線を受け止めて見返す。
「なぜ担当を変えた?」
「あなたには相応しくない案件だと思ったからです。オレの方が向いている」
「それは、グループ企業のTOBにクリスタルトラストが絡んでいたからか?」
「……藤田からですか」
 藤田の顔が目に浮かぶ。企業調査の報告書を渡されて、クリスタルトラストの名前に気を取られて、藤田にきつく口止めするのを忘れていたのだ。
 だが、藤田からでなくても遅かれ早かれ御堂にはばれただろう。この人は鋭い。
 克哉は諦めてため息をついた。
「…そうです。だからあなたを外した」
「あのTOBは5年以上前に行われて、失敗している。しかもグループ会社の話だ。どう考えても今回の件には関係ないはずだ」
「それでも、あなたには関わらせたくないんです。少しでもあの会社が絡んだ案件は」
 御堂が克哉の元に歩み寄った。間近でしっかりと視線を合わせられる。心の奥底を見透かすような強い眼差しに射すくめられる。
「佐伯、君はやっぱりおかしい。あの澤村という男が現れてから。あの一件は片付いたはずだ。何をそんなに神経質になっている」
 御堂の口から出たその名前に、心臓を凍えた手で鷲掴みにされたような衝撃が走る。
 克哉は思わず声を荒げた。
「あなたに、これ以上辛い思いはさせたくないっ!!」
 動揺し、大きな声を出した自分を恥じたが、克哉は呻くように言葉を続けた。
「関係のないあなたを巻き込んで、あんな目に合わせたのはオレの責任だ。だから、オレは…」
 その声に御堂は一瞬驚いたようだが、克哉の前に居直った。克哉の目を見据えて静かに口を開いた。
「佐伯、君は勘違いをしている。君は私の何だ?私の保護者か?」
 御堂が克哉の両肩を掴んだ。その力は強く、御堂が強い感情を抑えているのが分かった。
「あの件が、私にとって苦痛だったことは否定しない。だが、私は君にその責任を取ってほしいとも、私を庇護してほしいとも思っていない」
「御堂さん……」
「私たちはパートナーで恋人同士だろう?私の願いは君に傍にいてほしい。それだけだ。どんな困難も寄り添い支えあう、それが共に生きる、という意味ではないのか?」
 その声は静かだったが揺らがない芯があった。
「君はどこにも行かない、と言っただろう。私はその言葉だけで十分だ。傍にいてくれれば、どんな苦しみだって耐えられる。君こそあの一件で酷く傷付いているんだろう?私も男だ。君が私を守りたいと思ってくれるように、私も君を守りたい。君の傍にいて、その苦しみを支えたい。そのためなの労苦ならどんなことでも厭わない」
 そう言うと、御堂は克哉を強く抱きしめた。肩に御堂の唇と熱い吐息が触れる。
「何故、君は私を頼ってくれないんだ。私は、そんなに頼りないか?信頼に足る存在ではないのか?…君はたった一人でどこに行こうとしている?」
 克哉は動けなかった。御堂も克哉同様に自身の考えや感情をあまり表に出す方ではない。
あの日、御堂が澤村に拉致された日以来、澤村の一件について二人の間で話題になったことはなく、あえて避けてきた。
 御堂は澤村に傷つけられた自分自身よりも、克哉のことを想っていてくれているのだ。
 そして、御堂の望みはただ一つ。
 御堂の克哉に対する揺らぎのない感情と温もりが伝わる。
 頭を殴られたような衝撃があった。その後、切なく身震いをするような感情が全身を包む。
――オレは御堂さんのことを何も分かっていなかった。
 御堂の本当の望み。それは対等な関係で、ただ傍にいてほしいという事だけだった。
――御堂さんは強い。オレよりも、そして<俺>よりも。
 <俺>はそのことに気付けなかった。だから、御堂にもあの眼鏡にも頼らず、自身で全てを抱え込んだ。そして、同じ過ちを<オレ>も繰り返そうとしている。
 かつて克哉が酷く傷付けた御堂は、恋人でありながらも、克哉にとって常に守らなければいけない存在だった。御堂に頼る、そんな選択肢は存在しなかった。
――なぜ、御堂さんに助けを求めなかったのだろう。
 涙が溢れた。その顔を見られないよう御堂の背に手を回し、同じ強さで抱きしめ返した。
「…オレが間違っていました」
「らしくないな。君が素直に謝るなんて」
 御堂の口調が少し冗談めかしたように軽くなる。
「オレはどこにも行きません」
「ああ。私も君を離す気はない」
 御堂は小さく笑った。
「佐伯、顔を拭け。私にそんな顔見られたくないだろう」
「…そうですね」
 小さく笑い返して、手をもぞもぞと動かし、ポケットからハンカチを出した。
 御堂は克哉の顔を見ないようにして、ずっと抱きしめていてくれている。
――…<俺>!オレ達は間違っていたよ…。御堂さんはお前が消えることなんて望んでいないし、お前が消える必要なんてなかった。
 御堂の体温を感じながら、克哉は決意を固めた。
――オレは<俺>を、自分自身を、取り戻したい。
 それは御堂を愛し、御堂が愛した佐伯克哉でもあった。
 <俺>を失ったのは、<オレ>が弱かったからだ。だが原因となった弱さは佐伯克哉を弱くしたことではない。もう一人の<俺>を佐伯克哉自身から手放してしまった弱さだ。
 あの身を焼き尽くすような激しい感情。あれは本来ならば<オレ>が抑え込むべきだった。<オレ>一人では力不足だったかもしれない。だが、傍には御堂がいたのた。そんな単純なことにオレ達は気付けなかった。
――オレは<俺>を取り戻してみせる。
 克哉は心の中で叫んだ。自分の中のどこかに潜むもう一人の自分に向かって。

 克哉はきつく抱きしめ合った身体をそろそろと離した。御堂とどちらからともなく唇を重ねる。
 初めは唇を触れ合わせてその柔らかい感触を愉しむだけのキス。重ねた唇、触れ合った指先、寄せた身体から疼くような熱が生まれる。唇の隙間から熱く濡れた舌が差し込まれた。克哉は御堂の舌を吸い、絡めた唾液を呑み込む。口づけの角度を変えるたびに、濡れた音が響いた。
 どれくらいの間、キスを交わしていただろう。貪るような激しさに、互いの呼吸が苦しくなって、やっと口を離した。荒い息を吐きながら、一心不乱にキスをしていたことに羞恥を覚え、共に照れた笑みを交わした。
 克哉は御堂の肩に顔を乗せて、頬を摺り寄せた。身体にまわされた御堂の手が、さらに強く克哉を引き寄せる。その耳元に熱を孕んだ吐息をかけながら囁く。
「ねえ、御堂さん」
「なんだ?」
「…したくなりました。今すぐ」
「…ここでは嫌だぞ」
「なら、ベッドで」
「ああ。…君は、相変わらずだな」
 少し呆れたような笑いを含んだ吐息が御堂の口から漏れた。
 

 熱くなった身体と唇を重ね合わせながらベッドにたどり着く。スーツのジャケットはベッドにたどり着く直前で御堂に脱がされたが、ハンガーにかける余裕はなく近くの床に、脱ぎ捨てられたそのままの形で打ち捨てられている。
ベッドの縁に腰を掛けた御堂が克哉の後頭部に掌を添えて引き寄せ、顔を傾けてその唇を押し重ねてくる。より深い口づけを味わおうと克哉も上半身を屈めて自らも唇を押し当ててその隙間から濡れた舌を差し込んだ。夢中でキスを貪っているうちに、しゅっと衣擦れの音とともに御堂にネクタイを取り払われた。
 互いに服を脱がせ合う。はだけたシャツから御堂の締まった体躯とその白い肌が覗く。シャツの中に手を差し入れて、その身体を抱き寄せた。重ねていた唇を一旦離して、互いの鼻先を軽く擦り合わすと、克哉は御堂の首元にキスを落としつつ自身の服を脱ぎ捨てる。御堂の服も脱がせようとしたところで、ふいに御堂が上体を前に倒した。目の前に立っていた克哉の下腹部に顔を落とすと、ためらうことなく克哉の性器を口に含んだ。
「御堂さんっ!」
 いきなりの口淫に身体が強張る。克哉の性器を咥えたまま、御堂は上目遣いでいたずらっぽく笑みを浮かべると、逃げようとした腰を両腕で引き寄せる。濡れた舌と粘膜が絡み、そこから甘い痺れが衝きあがってくる。根元まで咥えられ、そのまま舐めあげられた。その動きを封じようと御堂の頭を押さえるが、気に留める風でもない。昂ぶった性器がそのまま放ってしまわないよう下腹部に力を込める。
「御堂さん…オレも」
 御堂が一旦顔を離して、克哉の腰を強く抱き寄せる。そのまま、克哉はベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。その上に御堂が覆いかぶさり、肘と膝をついて再び克哉の性器を口に含む。
 克哉の目の前にある御堂の腰を手を伸ばして引き寄せる。御堂のスラックスの前をくつろげて、アンダーから質量を持った性器を取り出して同じように唇を這わせ口に含む。茎から先端まで丹念に舌と粘膜で扱くと、口の中のものは素直に蜜を零し出した。互いの口淫による濡れた二つの音が重なり響く。
 克哉は、御堂の締まった双丘に手を伸ばしスラックスごとアンダーを押し下げた。自分の指も一緒に口に含み、唾液を絡める。その指を双丘の奥へと進め、隠された蕾へとたどり着いた。そっと周囲をなぞって指を埋め込む。その刺激に腰が揺らめいた。熱い粘膜がぎゅっと締まり指を喰む。きつく締まるそこをゆっくりと解していく。
「佐、伯…!」
 御堂が性器から口を離して喘ぐ。その唇から性器まで銀糸が引かれる。その姿がとても艶めかしい。
 下腹部が熱くなり、熱がこもった吐息が漏れる。
 挿入しようと身体を起こしたところで、御堂に身体を抑えつけられた。
「御堂さん?」
「私が自分でする」
 そう言うと、御堂は克哉の方を向いて、その身体に跨った。全裸の姿で片膝を立て、その窄まりを自らの指で淫らに拡げる。
 他方の手で克哉の性器を握り固定し、自らの腰をゆっくり落としていく。御堂が目を瞑りながら悩まし気に眉間にしわを寄せた。
 その凄烈な色気に息を呑む。克哉の視線を感じたのか、克哉の方に薄目を開いた。
「そんなに見るな」
 御堂の顔が羞恥に赤く染まる。克哉は目を逸らそうにも、その色気に視線を動かせない。
 下肢を震わせながら、御堂が克哉の上に腰を落としていく。飲みこまれた克哉の性器はきつく締め付けられた。克哉はその刺激に耐えようと唇をきつく噛んだ。
 そろそろと位置を調整し、御堂は克哉の顔の横に手を突いて上半身をかがめた。身体を覆いかぶせ、克哉の額から鼻梁、そして唇にキスを落とす。徐々に御堂の内腔が緩み、甘やかな蠕動がもたらされる。ゆったりとした動きで腰が動かされると同時に身体から頭まで痺れるような快感が巡りはじめた。
 克哉は御堂の首に手を回した。御堂がもたらす快楽に流されないように、そしてそれを悟られないように、乱れそうになる呼吸を整え、余裕を見せるように表情を作る。
「なんだか、御堂さんに抱かれているみたいですね」
 その言葉に御堂が笑みを浮かべた。優しく理知的な笑みだ。
「……っく」
 徐々に腰の動きが大きくなり、御堂の白い肌が紅潮していく。その動きに合わせて、克哉も御堂を抱き寄せつつ腰を突き上げた。
「克哉...っ」
「...孝典さん」
 どこまでも埋め尽くす甘い充足感と溶けるような快楽。互いの視線と唇が暖かく交わる。
――<俺>を取り戻して、この人に<俺>を返さないと。
 その決意が楔のように心をつなぎ留めつつも、その意識は恍惚と崩れていった。

(7)
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