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​誰も知らない
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眼鏡克哉×御堂のホラーです。

ホラーといっても、作者が怖がりのため、死人は出ません。同じくお化けも出ません(Mr.Rを除く)。

作者はホラーのつもりで書いていますが、怖くなくても許してください……。

はじめに
Pro

その話を、決して聞いてはいけない。

もし聞いてしまったら、決して話してはいけない。

(1)
その話

 僕が都内の廃墟ビルに肝試しに行ったときの話です。

 僕は大学の友だち二人――その友だちを仮に佐藤と鈴木ってしておきますね――の三人で、出るって有名なビルに、飲んで酔った勢いで行ってみたんです。確か、昔殺人事件があったビルだそうで。

 そこは廃墟という名にふさわしいおんぼろの暗いビルで、僕らはスマホのライトを付けながら中を探検していました。特に何か見えるわけでもなく、音が聞こえるわけでもなく。

 いい加減飽きてきたので、そろそろ帰ろうかとしたタイミングでした。突然、後ろを歩いていた佐藤が悲鳴を上げたんです。すぐさま後ろを振り向いたら、佐藤が壁の中に身体を半分引きずり込まれていて、両手を前に突き出して必死に助けを求めていたんですよ。

 僕と鈴木で慌ててその腕を掴んで引っ張ったけれど、それ以上の力で引っ張られて。僕らも力の限界が来て、とうとう手を離してしまいました。すると、佐藤は壁の中にすっぽり消えてしまって……。壁はもう元どおりの普通の壁。鈴木が、壁の向こう側に行ったのでは、と言うので、隣の部屋に急いで入って調べたけど、佐藤の影も形もなく、どこかに隠れるようなスペースもありませんでした。「そうだ、携帯に電話をかけてみよう」と早速かけてみたのだけど不通のアナウンスが流れるだけ。

 最初は佐藤が消えたことが理解できなくて、ただただ呆然としていたのだけど、だんだん怖くなってきて。佐藤のことは心配だったけど、僕たちは急いで廃墟から逃げ出しました。明日の昼間、もう一度探しに来ようと約束をして。

 翌朝になって、二人だけじゃ怖いから他の友だちも誘おうという話になったんです。で、大学内で同じ学科の友だちに声をかけて、佐藤が行方不明になったから一緒に探しに行ってほしい、と伝えたら、友だちはみんな困惑した顔をして言ったんです。「その佐藤って誰だ?」って。

 いや、何を言っているんだ。一緒に講義を受けていた仲間じゃないか。

 たちの悪い冗談を言うなとみんなを問い詰めても、周りは一貫して「佐藤なんて知らない」と言い張ります。ほら、こいつだよ、とスマホの写真を出そうとしたものの佐藤が写っていた写真が見つからず、代わりに携帯に登録していた名前を出そうとしたら、アドレス帳にあるはずの佐藤の名前が見つかりません。昨夜電話をかけたはずなのに、なぜか登録データも履歴も消えてしまっている。

 困った僕たちは教務課に行けば名簿があるからはっきりするはず、と教務課に行きました。ですが、教務課の名簿にも佐藤の名前はまったく載っていません。

 僕たちは混乱したまま一日を終え、廃墟に探しに行く気も失せて、それぞれの家に帰りました。夜になって、やっぱりこのまま有耶無耶にするのは良くないと、僕は鈴木に電話をかけて、これからどうするか相談しようとしたんです。鈴木の携帯はすぐに繋がりました。「佐藤のことだけど……」と切り出したら、鈴木は怪訝な声で『佐藤って誰?』って聞き返したんです。

「お前まで変な冗談言うなよ。昨夜、廃墟に一緒に行っただろう?」

「お前こそ何言っているんだ。廃墟に行ったのは俺とお前の二人だっただろ」

 

 と埒が明きません。鈴木の中では俺と二人で廃墟のビルに行ったことになっていて。まったく佐藤のことを覚えていないんです。

 気が付けば、佐藤のことを覚えているのは僕だけになっていました。どれ程探しても、どこにも佐藤が存在したという証拠はありません。

 こうなると僕の記憶がおかしいのかもしれないと、なんだか分からなくなってしまって。

 僕は夢を見ていたんでしょうか。それとも、佐藤は呪いかなにかで存在ごと消されてしまって、僕も明日には佐藤のことを忘れてしまうのでしょうか。

 もしかしたら、佐藤は僕のイマジナリーフレンド、想像の中だけ存在するという友だちなのかも知れません。

 それでも、僕は佐藤の顔も、口癖も、ちゃんとリアルに覚えているんです。

 せめて、僕が佐藤のことを忘れても誰かに佐藤のことを覚えていてもらいたいとこの話をしました。

 佐藤というのは仮名で、本名は『■■■■』と言います。あと、僕のことも覚えておいてください。

 もしかしたら、次に消えるのは僕なのかも知れないのですから。

(2)
克哉の話 1

「……と言う話。ゾッとするだろう?」

「そうか? そこら辺にありそうな都市伝説じゃないか」

 

 居酒屋のテーブルで佐伯克哉はジョッキの底に溜まったビールを流し込んで空になったジョッキを置いた。近くを通りかかった店員を呼び止めると、目の前の本多憲二に断りを入れることもなく、ビールのお代わりを二杯頼む。

 テーブルにはこの居酒屋の看板料理であるという唐揚げ、それも一般的なプレーンの唐揚げだけではなく、チーズやニンニク、ピリ辛など数多くの種類があって、その中でも本多お勧めのカレー風味とテリタマ風味、そしてイタリアン風味の唐揚げが並べられている。それだけではない、お通しの小鉢を筆頭に枝豆、だし巻き卵と二人分にしては多すぎる量の料理が置かれているが、本多は大柄な体格に似合う健啖ぶりを発揮して旺盛な食欲をみせていた。

 克哉はAA社を経営し、本多はキクチ八課の営業だ。今では職場が異なる二人だが、こうして時折飲みに行くこともある。今夜は克哉と同棲している御堂が出張先に一泊することもあり、本多の誘いに乗ったのだ。

 それにしても、どうして本多が怪談話を披露することになったのだろうか。

 克哉は記憶を辿る。最初はキクチ八課の営業の話題だった。それがいつの間にか先の話になっていたのだ。夏真っ盛りの蒸し暑い夏の夜だから怪談話でもしてみる気になったのかもしれない。ただでさえ本多は体格も性格も暑苦しいのだ。

 本多が語った怪談はノリも頭も軽い若者たちが無謀さ故に禁忌に手を出して痛い目を見るという良くあるパターンのお話で、初めて聞く内容ではあったが興味は引かれないし、もちろん怖さも感じない。むしろ、この話を本多が怖がったとしたら、そちらの方が驚きだ。本多の性格はよく言えば真っ直ぐ、悪く言えば頑固で、自分が実際目にしたもの、経験したものしか信じないきらいがある。それが、ネットに転がっていそうな怪談話を披露するのはどうした心境の変化だろう。

 グビグビと喉を鳴らして美味しそうにビールを呷る本多に、克哉は呆れた口調で言う。

 

「そもそも、その消えてしまったという友人の名前を語り継ぎたいというのがこの話の目的なら、その友人の名前が分からないのは本末転倒だろう」

 

 本多が語った話では、友人の佐藤(仮名)の本当の名前の部分は「本名は俺も知らないんだけど」との本多のひと言で明かされないまま終わっていた。本多はビールでようやく喉が潤ったのか、今度は揚げたての唐揚げ(カレー味)を頬張りながら答える。

 

「確かにな。話が伝わってくる内に消えちゃったんだろうな。だけど、この話の目的ってそれじゃないだろう。昨日まで友人だった友だちの存在が跡形もなく消えてしまうって怖くないか?」

「論理的に考えれば、すべてがその当人の妄想だろうな」

「だから、それが怖いんだよ。周りから見れば妄想でも自分にとっては現実だろう? 自分が見ている世界を自分以外のすべてから否定されるのって恐怖じゃないか」

「分かった分かった。お前でも怖いものがあるんだな」

 

 熱く語りだす本多を適当にいなして、克哉はジャケットの懐からタバコを一本取りだして口に咥えた。

 もう少し雰囲気があれば怖く感じたかも知れないが、明るい居酒屋の喧噪の中で、それも語り手が本多となれば、怖がれという方が無理だ。

 本多は次々と料理に手を伸ばしながら、しばし考え込むように沈黙した。そして、克哉をじっと見て、声を潜めて言う。

 

「でも、何かおかしいんだ」

「おかしい?」

「この話は先週、松浦から聞いたんだよ」

「松浦?」

「ほら、伊勢島デパートの松浦宏明。今日さ、あいつに連絡を取ろうとしたんだ。それなのに、携帯がつながらなくて、職場に連絡しても、そんな社員はいません、て言われたんだぜ。転職とか転勤とかまったく聞いてなかったのに」

「ふうん。まあ、そういうこともあるんじゃないか。宮仕えなら上から急な異動を指示されることもあるだろうし、嫌になって発作的に辞めることもあるだろう」

「だけど、俺とあいつの仲だぜ。連絡のひとつもくれたっていいだろう」

「そんなに仲がいいなら、そのうち連絡が来るさ」

「なあ、克哉。お前のところに松浦から何か連絡来ていたりしないか?」

「俺のところに? なぜ? 俺は松浦なんて奴は知らないが」

 

 訝しげに聞き返すと本多は目を丸くして驚いたように克哉を見詰め返す。

 

「知らないって、忘れたのかよ。大学のとき、バレー部で一緒だったし、キクチのときも伊勢島の担当だったじゃないか」

「そうか? 覚えていないな」

「マジかよ……」

 

 本多は呻くように呟いた。克哉が松浦を知らないと言ったことによほど驚いているようだ。本多はまくし立てるように松浦宏明という人物の特徴や思い出を口にするが、どれも記憶にないし、興味もない。

 

「本多、その話はもういい。まだ、連絡が取れなくなって一日も経ってないんだろう? 明日には連絡が来るかも知れないし、万一、俺に松浦とやらから連絡が来たら、お前にすぐ伝えるさ」

 

 克哉は冷たい口調でその話を打ち切ると、タバコを深く吸い込んだ。

 本多は不満をありありと顔に出したが、それでも、この話題にこだわりすぎて場の雰囲気を白けさせることは避けたかったらしい。不満げな顔をしながらも本多はあっという間に唐揚げを平らげると、次の注文をすべくメニューを広げだした。

 

 

 

 翌日、克哉が朝起きたとき、アルコールはすっかり消え去り、爽やかな目覚めだった。ベッドの隣に御堂の気配を感じないのは物足りないが、それもあと何時間かの辛抱だ。今日、御堂は出張先から戻ってくる。

 シャワーを浴びて、同じビルの下のフロアにあるAA社に出勤する。いつもどおりの光景、いつもどおりの業務だ。

 コンサルティングを生業(なりわい)とするAA社は起業からずっと右肩上がりの業績で、業務量もそれに比例してうなぎ登りに増えている。おかげで、御堂がようやく出張から戻ってきたと思いきや、克哉と二言三言、言葉を交わしただけで、すぐ次の打ち合わせに向かってしまった。それでも、夜は一緒に食事を取る余裕はありそうで、克哉は仕事を早めに切り上げられるよう、頭の中でスケジュールを隙間なく組み立てると猛然とデスクに向かった。

 

 

 

 ようやくふたりが仕事を終えて、帰宅したときには既に窓の外は真っ暗になっていた。克哉と御堂はAA社の上のフロアにある部屋で同棲しており、こういうときは特に、通勤に時間がかからない部屋を選んで良かったと思う。その分、恋人と過ごせる時間が増えるからだ。

 

「佐伯、食事はどうする? 外食続きだったから、私は家で軽いものを食べたい気分だが」

 

 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いてしどけない雰囲気になった御堂が克哉に尋ねる。この時点で克哉は食欲よりも勝るものがあったが、出張帰りの御堂をいたわるだけの心の余裕はあった。御堂のためにコーヒーを淹れつつ、「ああ、そうだな」と頷いて答える。

 

「昨夜は本多と飲んで、唐揚げばかり食べたから、俺も今日はあっさりしたものがいい」

 

 デリバリーなら蕎麦か中華粥あたりが妥当だろうか。さっさと食事を終えて次の段階へ流れてしまいたいのが本音で、御堂さえ良ければこのビルに入っているコンビニで調達してきてもいい。そう考えを巡らせていたところで、リビングのソファに腰をかけた御堂が言った。

 

「本多? 君の友人か?」

 

 御堂の語尾がわずかに高くなり、疑問形で言われた言葉に克哉はかすかな違和感を覚えた。マグに注いだコーヒーをリビングのセンターテーブルに置きながら言う。

 

「本多だ、本多憲二。キクチ八課の」

「ほう。初めて聞くが、君と仲が良かったのか。今度機会があれば紹介してくれ」

 

 今度こそ、克哉の中の違和感ははっきりとした輪郭を持つ。克哉は動きを止めて、御堂をまじまじと見詰めた。

 克哉の視線に気付いた御堂が眉をひそめる。

 

「どうかしたか?」

「御堂、本気で言っているのか?」

「何のことだ?」

「何のことって、本多だ。忘れたとは言わせないぞ」

「忘れたも何も、君が言う本多という人間は知らない」

 

 御堂は首を振ってあっさりと否定する。慎重に表情をうかがうが、そこにはなんの恣意的な色は見えない。本心を言っているようだ。

 

 ――一体どういうことだ?

 

 御堂への追及をいったん中止し、克哉は考え込む。

 御堂が本多を忘れるはずがない。MGN社で御堂と会うきっかけとなったプロトファイバーの営業受託の売り込みも、本多と共に御堂の執務室に押しかけたのだ。その後も、キクチ八課のメンバーとして本多はミーティングで御堂と毎週顔を合わせていたし、克哉がAA社を起業してからも、本多は時折AA社に訪ねに来ていた。御堂が本多を忘れることは、決してあり得ないはずなのだ。

 出張から戻ってきた御堂の様子は今までと何も変わらない。仕事ぶりもいつもどおりで、記憶に障害があるようにも見えない。その自然な態度からは本多を嫌悪しすぎて本多の存在を徹底的に無視しているわけでもなさそうだ。

 むしろ、本多に何か思い当たることを聞いてみた方が早いのかも知れない。昨夜の本多を思い出す限りは、本多はいつもの調子で御堂のことを言及することは何もなかったが。

 不意に、克哉は頭の中に火花が散った。

 

 ――あのとき、俺はどうして……。

 

 ハッと動きを止めた克哉に御堂が怪訝な顔をする。

 

「どうしたんだ、佐伯」

「いや、何でもない」

 

 すでに克哉の頭の中は、本多のことを忘れている御堂よりも、自身のことで占められていた。自分の分のコーヒーを淹れに行く素振りで、御堂の傍からそっと離れる。

 キッチンで御堂に背を向けるようにして、本多との会話を目まぐるしく思い出す。

 

 ――あのとき、俺は「松浦なんて奴は知らない」と本多に告げた。

 

 どうして知らないなどと言ったのか。

 本多が松浦宏明と口にしたとき、克哉は松浦のことをすっかり忘れていた。それだけではない、忘れたことさえ忘れていた。そして、本多にどれほど松浦のことを聞かされても、克哉は知らないと言い張った。実際、克哉の頭には何も思い浮かばなかったからだ。

 しかし、今ではしっかりと思い出せる。松浦の神経質そうな顔も、どこか突き放す口調も、冷静で計算高いにも関わらず、自分が許せないことに関しては熱しやすい性格も。

 何か変だ。

 何かおかしなことが起こっている。

 冷房が効いた室内。清涼な空気は異様に寒々しく感じ、克哉の肌には鳥肌が立つ。

 ひとまず、何が起きているのか見極めることが大切だ。そして、それが分かるまでは御堂を巻き込んではいけない。

 御堂がリビングから克哉に怪訝な視線を向けているのが分かる。

 克哉は胃にせり上がる何かを必死に呑み込みながら、意識して表情を作り、御堂へと向けた。自然な口調を意識して言う。

 

「蕎麦でも頼もうか」

「そうだな」

 

 御堂はにこりと微笑み返した。

 

 

 

 一晩経って、朝、それとなく御堂に本多のことを聞いてみたが、やはり御堂は知らないと言う。御堂の表情も態度も普段どおりのままだ。

 御堂が本多のことを覚えていない。その事実さえなければいつもと変わらぬ日常だ。スーツに着替え、ネクタイを締めると、一緒にAA社へと出勤する。

 克哉は忙しなく業務をこなす傍ら、一度本多と話をしなければと考える。昨夜、松浦を知らないと言ってしまったことを詫び、御堂が本多のことを忘れてしまっていることを伝え、何が起きているのか二人で対策を練った方が良いだろう。本多がどれほど役に立つかは未知数だが、渦中の人間だ。自分自身さえ気付いてない何か重要な情報を握っている可能性がある。

 克哉は御堂が席を立った隙に、執務室に隣接してあるミーティングルームへと入った。そこで携帯から本多に連絡を淹れようとして目を瞠った。

 

「どういうことだ?」

 

 克哉の携帯、そこに本多の連絡先が見当たらない。

 先日連絡を取り合って飲みに行ったばかりだ。それなのに、通話履歴、そしてメール履歴を漁るがどこにも本多とのやりとりは残っていない。他の連絡先はそのままだというのに、本多のところだけ選択的に消されてしまっているかのようだ。

 冷たい何かが素肌を撫でていくような怖気が込み上げる。

 自分にまとわりつく得体の知れないものを振り払うように、克哉は携帯に登録してある住所録を呼び出し、キクチ八課に電話をかけた。

 本多に直接連絡がつかなくても、キクチ八課経由なら連絡が取れるはずだ。

 電話のコール音が鳴ってすぐ、事務の女性が出た。克哉が名前を名乗ると、『佐伯さん、お久しぶりです』と親しみを感じさせる口調になった。電話に出たのは克哉がキクチ八課にいたときの同僚の女性、神崎だ。

 見知った声にわずかに安堵を感じながら、克哉は言う。

 

「本多に代わってくれるか?」

『本多、ですか?』

「ああ、本多だ。本多憲二」

 

 神崎の声が戸惑う。

 

『八課に本多憲二という社員はおりませんが。他の部署と間違えておられませんか?』

「馬鹿な……」

 

 本多という名前を出されて、困惑する口調は完全に見知らぬ人間に対するそれだ。キクチ八課を辞めた克哉のことを覚えている神崎が、少なくとも一昨日までキクチ八課に所属していた本多のことを忘れるはずがない。

 電話の向こうでは神崎がこの電話をどうしたものかと戸惑っているのが手に取るように分かった。克哉は取り繕うように「片桐課長につないでくれ」と言うと、神崎はホッとした口調で『承知しました』と言った。すぐに電話が切り替わる。

 電話口の向こうから、落ち着いた柔らかな声音が響いた。

 

『佐伯君、お久しぶりですね。どうしましたか』

「片桐さん、お久しぶりです。少しお伺いしたいのですが、本多憲二という社員のこと、覚えていませんか?」

 

 克哉が在籍していたころから片桐はキクチ八課の課長で、本多と片桐は部下と上司としてずっと一緒に働いてきたのだ。祈るような気持ちで聞くが、片桐は『本多憲二さん……ですか』と復唱し、しばしの沈黙を挟んで断言する。

 

『すみません。僕は存じ上げませんね。佐伯くんのお知り合いの方ですか?』

「……ええ、そうです。ありがとうございます」

 

 片桐が嘘を吐くような性格でないことは知っている。それでいて、一緒に働いていた同僚を忘れるような薄情な人間でないことも。片桐が知らないということは、本多はキクチ八課に今も過去も存在していないということなのだ。

 呆然とした状態で克哉はミーティングルームを出る。自分の今日のスケジュールを確認すれば、取引先での打ち合わせが一件あった。

 実際に、自分の目で確かめてみるしかない。

 克哉は取引先との打ち合わせを早々に切り上げると、御堂に少し遅れて戻る旨を連絡した。そして、本多の自宅へと向かう。

 本多は一人暮らしをしていて、その部屋を克哉は何度か訪れたことがあった。だから、迷うことなく本多の家まで辿り着くことができた。だが、本多の部屋の前で克哉は立ち尽くした。

 本多が住んでいるはずの部屋、そこに本多の表札もなく、ドアノブの下の郵便受けはガムテープが貼られている。一見して空き部屋だ。それでも信じられなくて、克哉はインターフォンを押した。扉の向こう側でチャイム音が鳴り響くのが聞こえるが、何の気配も感じない。それでもしつこく押していると、隣の部屋のドアが開いた。ラフな部屋着姿の若い男性が顔を出して、露骨に迷惑そうな顔をして克哉に言う。

 

「そこ、ずっと空き部屋ですよ」

「そうでしたか。大変、失礼いたしました。無断欠勤している弊社の社員の住所がどうやらここのようで。心配して尋ねにきたのですが」

「え、それは大変ですね…」

 

 克哉がその場で作った白々しい嘘に隣人の男性はあっさりと騙されたようで、同情したような視線を克哉に向ける。「ところで」と克哉は続ける。

 

「いつ頃から空き部屋だったか分かりますか?」

「えっと、俺がここに引っ越してからずっとだから、少なくとも一年以上は誰も入居してなかったはずだけど」

「……ありがとうございます」

 

 礼を述べて、克哉はその場から立ち去ると、今度は伊勢島デパートへと連絡をする。松浦宏明を確認するためだ。だが、本多が言っていたとおり、「そのような社員は在籍しておりません」と丁寧に否定されてしまった。

 一体何がどうなっているのか。

 じっとりと嫌な汗をかく。真夏の濃密な陽射しが克哉に降り注ぎ、周囲の蝉はけたたましく鳴いている。いつもと変わらぬ夏の街中、それでも、克哉は薄ら寒さを感じてしまう。

 本多とは一昨日、一緒に居酒屋で飲み食いをしたはずだ。それが、本多に連絡が取れなくなり、本多を知るはずの人物も皆、口を揃えてそんな人間は知らないと言う。そして、本多が存在したはずの場所からはすべて本多の痕跡が消え失せている。

 思い返せば、少なくとも同じ出来事が本多の身にも起きていた。松浦が失踪し、本多が松浦に連絡を取ろうにも職場の人間も、そして松浦を知っているはずの克哉も皆、松浦を知らないと言い張った。

 今まさに自分の身に起きている出来事に克哉は既視感があった。

 そっくりそのままではないか。

 本多が克哉に怪談だと聞かせた話に。

 あの話では友人が消え、友人の存在自体も消えた。誰もその友人を知る者はいなくなった。ただ一人、話の主人公を除いて。

 

 ――今、俺がその話の主人公というわけか。

 

 常識的には考えられない話だ。誰に話したとしても、克哉の話を信じるよりも、克哉の頭を疑われる方が先だろう。

 それでも、克哉はこれを信じるに足る理由があった。

 世の中には理屈で説明できないものが存在することを克哉が誰よりもよく知っているからだ。

 そう、克哉は、本当の怪異を知っている。

 克哉はタクシーを捕まえると、AA社近くの公園へと向かった。

(3)
克哉の話 2

 まだ日は高く、AA社近くにある公園にも眩い陽射しが満ちていた。

 克哉はベンチに腰を下ろす。ビジネス街の真ん中の公園、平日は昼休みの時間以外は閑散としている。特に、こんな夏場であれば尚更だ。時間を潰すならクーラーが効いた喫茶店の中の方が良いにきまっている。

 汗ばむような気温の中、克哉はじっと待つ。昼間であろうと、会おうと思えば会えるはずだった。ただし、相手にその気があればの話だが。

 いつの間にか周囲に満ちる光が曖昧となったことに克哉は気付いた。太陽に雲がかかり、かまびすしく鳴いていた虫の声が消える。周囲から人の気配がなくなり、ついさっきまではなんとも思わなかった公園の風景が異質なものに感じられた。まるで見知らぬところに迷い込んでしまったかのような心細い感覚に襲われる。

 それでもその場から動かず待ち続けると、静寂の中に、自分のものではない足音が聞こえた。規則正しく公園の土を踏みしめる音は段々と克哉に近付き、そして、待ち人が現れた。

 蠱惑的な声が空気を震わせる。

 

「お久しぶりです、佐伯克哉さん」

「Mr.R……」

 

 ゆっくりと顔を上げれば、目の前に長身の男が立っていた。

 真夏の最中であるのに、男は真っ黒なコートを着込んでいた。頭にはボルサリーノ帽、帽子からは緩く三つ編みに編まれた金色の髪が垂れている。その男の名はMr.Rという。克哉にとってひと言では説明できないほど因縁深い相手だ。そして、この男は少なくとも人間ではない。

 Mr.Rは口許には完璧な微笑を浮かべているが、丸眼鏡の奥の金の眸は一切の感情をうかがわせず、無機質な光を宿していた。Mr.Rが口を開く。

 

 

「もうお目にかかることはないかと思っておりましたが」

「お前のことだ。なぜ、俺がお前を呼んだか分かっているのだろう?」

 

 挑発するように言い返せば、Mr.Rは克哉の顔をじっと見詰めた。だが実際は克哉を見ているようで見ていない。克哉から薄皮一枚隔てたところを見通すかのように、金の眸の焦点をぼかして、ひと言呟く。

 

「なるほど……」

 

 そして、Mr.Rは克哉に焦点を定め、笑みを深める。

 

「私はあなたの便利屋ではございませんよ。ただ、少々興味があったもので」

 

 すべてを見通しながらももったいぶる態度に、克哉はかすかな苛立ちを感じながらも、抑えた声音で言った。

 

「教えろ。一体何が起きている。俺の周りで存在ごと消された人間がいる。どう考えてもただ事じゃない。お前が関係しているんじゃないか」

「異なことをおっしゃる。私はまったく関係しておりませんよ」

「これは、何なのだ? お前にはこの正体が分かるのだろう。どうすればいい?」

 

 Mr.Rは涼しい顔を保ったままだ。だが、やはり何かが視えているのだろう。克哉の問いに言葉を吟味する時間をおいて、答える。

 

「……あなたが言うそれは、人から生まれ、人に及ぼすもの。その有り様は『怪異』、その作用は『呪い』とあなたたちは呼んでいる」

「その『怪異』だか『呪い』だか知らないが、お前が知っていることを教えろ」

「私は森羅万象のすべてを把握しているわけではございません。私が分かるのは万物の大きな流れ、その水面(みなも)の下で起きるほんのわずかな動きのみ」

「それでも、俺よりは知っているはずだ」

「そうおっしゃるなら、あなたはそれについて何をご存じなのでしょうか」

 

 質問を質問で返されて怒りが湧くが、この男の人を食ったようなしゃべり方は今に始まったことではない。この男のペースに巻き込まれてはいけないとは思いつつも、克哉は口を開く。

 

「始まりは怪談話だった。廃墟のビルに肝試しに浅はかな若者たちが行ったとかいう、どこにでもあるような話だ。その話は松浦から本多に伝わり、俺に伝わった。そして、俺の周りでは、その怪談話で起きたようなことが実際に起こっている。松浦と本多が失踪し、周りの人間の記憶から彼らが存在したという証拠さえ消えた。そして、俺だけが松浦と本多の記憶を持っている」

「原因はその話であると、あなたは考えたのですね」

「ああ……。この怪談話を知った者は消えるのか? だが、どうして、このタイミングで本多が消えて、俺だけが本多を覚えているのか」

 

 Mr.Rと会話を重ねながら、自分の思考を整理する。

 原因、物事の所以、もしくは、きっかけ。何がトリガーになって克哉はこの怪異に巻き込まれたのか。怪談話に触れること自体が怪異を引き起こすなら、本多は人知れず消えて、克哉の記憶も抹消されていただろう。それなのに、克哉は本多や松浦を覚えていて、そして、まだ消えることなくこの場にいる。

 先に怪異に巻き込まれたのは本多だ。その本多に接触したことだろうか。いや、それだけでは不十分だ。本多に会っている人間は大勢いる。その中で、なぜ自分だけが、本多、そして一度は失っていた松浦の記憶を持っているのか。

 頭の中で何かがピタッとはまる感触があった。

 

「そうか、この怪談話を聞くこと、もしくは、話すことが存在を消す事態を引き起こしている」

 

 この怪談話は、松浦→本多→克哉の順で伝わった。そして、失踪した順も松浦が最初で次は本多だ。この怪談話を耳にした者は存在を消される。それは間違いない。

 しかし、消えるのはその話を聞いた瞬間ではない。何らかの条件があるはずなのだ。そして、それは本多が消えたタイミングを考えればおのずと判明する。

 聞いてしまった怪談話を誰かに話すこと、これが条件になっているのではないか。だから、松浦は本多に話をしたあと消えた。本多だけに記憶を残して。本多もそうだ。克哉に話をしたあと、克哉だけに記憶を残して存在ごと消えた。代わりに克哉の中には消えていたはずの松浦の記憶が蘇った。この怪談話を知ることはこの怪談話によって消された存在の記憶も引き継ぐことになるのはないか。

 克哉の話を黙って聞いてMr.Rが愉しそうに金の眸を眇める。

 

「あなたの推理が正しいか、検証してみますか」

「どうやって」

「その話を他の誰かにしてみれば良いでしょう。私でよろしければ伺いますが」

「……やめておく」

 

 明らかに人間外の存在と思われるMr.Rにこの怪談を話すことが、『誰か』に話すことにカウントされるのかどうか不明だが、話したことで自分が消されてしまっては困る。

 克哉は深くため息を吐きつつ言う。

 

「それで、お前はこれをどうにかできないのか」

「お伝えしたように、それは、人から生まれ、人に及ぼすもの。つまり、人の理解が可能なもの。私たちの関与するところではありません」

「お前は傍観者に徹すると?」

 

 Mr.Rは薄い笑みを湛えたまま答えない。克哉はたたみかける。

 

「放っておくつもりなら、なぜ、俺の前に出てきた。何かしら意図があってお前は現れたはずだ」

「興味がある、だけでは納得がいかないと?」

「ああ。それならわざわざ俺の前に出てくる必要はない」

 

 Mr.Rは、ふふ、と笑みを零し、そして頷く。

 

「実は、それは我々には少々厄介なもののですよ」

「厄介?」

「この世界の因果を乱し、理(ことわり)を歪める。ですから、理の外側からすると目障りなのです」

 

 それはつまりMr.Rはこの世界の理(ことわり)の外側にいる存在だと告白しているようなものだが、それは予想の範囲内なので驚くことはない。

 だが、理を歪めるとはどういうことなのだろうか。考えてすぐに思い当たる。人が『死ぬ』のではなく『消える』ことが問題なのではないか。死ぬのはある意味自然の摂理に沿った変化だが、存在したはずのものが存在しなかったことになるのは因果を乱すことに繋がるのだろう。

 Mr.Rが言う。

 

「佐伯さん、もしその『怪異』を捉えることができるのならば、あとは私が預かりましょう」

「捉える? どうやって」

「『怪異』の正体を捉え『呪い』を解くのですよ」

 

 Mr.Rが金の眸でじっと克哉を見詰める。

 

「少なくとも呪いを解くひとつの方法はお分かりになるでしょう?」

「俺がこの話を誰にも話さず、死ぬことか」

「ええ。ですが、あなた一人が死んでも、この呪いを絶えさせることには繋がらない」

「……ああ。俺は枝分かれした末端のひとつの可能性がある」

「そのとおりです」

 

 この怪談話は一度に複数の人間に語ることも可能なのだ。となれば、どれほどの数の人間がこの話を聞いてしまったのか、そして、誰かに話してしまったのか。行方不明者の数にも入らず消えていく人間がどれほどいるのだろうか。

 克哉は唸るような声で問う。

 

「それなら、どうすればこの呪いを解ける?」

「それを考えるのはあなたですよ、佐伯克哉さん」

 

 この上なく美しい笑みを浮かべて、Mr.Rは冷ややかに話を打ち切ると克哉に告げる。

 

「……それでは、ご健闘をお祈りいたします」

 

 Mr.Rが克哉に背を向ける。その背中に向けて克哉は皮肉めいた口調で言う。

 

「また会いましょう、とは言わないのか?」

「おや、失礼いたしました。また会えるように祈っておりますよ、佐伯さん」

 

 肩越しに振り返り、最後にひとつ微笑みを残すと、Mr.Rは歩き出した。霧に包まれたようにあっという間に姿が見えなくなる。それと同時に、公園内が明るくなり、蝉の声が戻ってくる。

 まるで白昼夢を見ていたかのような心持ちになる。しかし、何もかもが現実なのだ。Mr.Rの存在も、克哉が巻き込まれてしまった怪異の存在も。

 

 

 

 怪異の正体を捉え、呪いを解け、とMr.Rは言ったが、そもそもこの怪異の正体とは何なのか。

 克哉はAA社に戻る前に新しい手帳を一冊購入した。そこに、本多から聞いた怪談の内容を思い出しつつ、なるべく正確に綴る。

 もしこの怪異が、克哉が予想するように、誰かに伝えることがきっかけでその呪いが発動するのだとしたら、電子機器に記録することは危険だと考えたからだ。何かの弾みでネット上に流出すれば、あっという間に全世界に拡散されてしまう。そうなれば手がつけられなくなるだろう。もちろん、人から人へ直接話すことが条件となっている可能性もある。だが、大量失踪を引き起こすようなリスクはなるべくなら負いたくない。

 もしかして、と克哉は自分のスマートフォンでネット検索をしてみるが、克哉が聞いた怪談話と同じような話は見つからなかった。単純に、この話を聞いた人間が誰も書き込まなかったのか、それとも書き込んだ人間が消えると同時に、書き込みも消えてしまったのか。そのどちらかもしくは両方なのだろう。

 克哉は都市伝説とも呼ばれる現代の怪談話にまったく興味はなかったが、コンサルティングという職業上、世間の流行は抑えている。ホラーはいつの時代でも人気がある。話題になった映画や小説、ネット上の話題も克哉の頭の中に入っていたが、それでも、本多から聞いたような話は記憶になかった。

 あまりにも致死率が高いウイルスは感染爆発(パンデミック)を起こしにくいと言う。それと同じだ。自分を広めてくれるキャリアを安易に殺してしまっては伝播することができない。この呪いもそれと同じだと考えられないだろうか。

 この怪異は、この話を知り、他の人間に伝えた者を存在ごと消し去ってしまう。この話を聞いた者が次々に悲惨な死を迎える、という話ならば、より強い恐怖と好奇を伴って一気に拡散しただろう。だが、存在すら消し去られてはこの話の本当の恐ろしさは伝わらない。

 本多のように呪いの存在に気付かぬまま消えてしまった者も多いはずだ。

 

 ――呪いを解けと言われてもな……。

 

 克哉はMr.Rのような常識では理解できない怪異に深く関わっているといっても過言ではないが、別に怪異や呪いの専門家というわけではない。信心の類いは端から持ち合わせていないし、神社だって正月に御堂に連れられて初詣に行ったくらいだ。

 そもそも、この怪異がもたらす呪いはお祓いの類いで何とかなるものなのだろうか。

 関わった者に呪いをもたらすと言えば、一昔前に流行った呪いのビデオのホラー小説を思い出す。呪いのビデオを見てから一週間以内に何かをしないと殺されてしまうという。その呪いよりは、誰かに喋らない限り存在が消えないというのは、まだましだと信じたい。

 AA社に戻った克哉は、仕事をこなしつつ、御堂の目がないところで手帳を見返す。何度も怪談を読み直し、その最後の文章に目を留める。

 この怪談話には存在する理由があり、その目的が解消されれば呪いが解けると考えればどうだろう。

 怪談話の最後はこうだ。

 

――――

 せめて、僕が佐藤のことを忘れても誰かに佐藤のことを覚えていてもらいたいとこの話をしました。

 最初に言ったように、佐藤というのは仮名で、本名は『■■■■』と言います。あと、僕のことも覚えておいてください。

――――

 

 消えた友人『佐藤』のことを覚えていてほしい、そして、『僕』のことを覚えていて欲しい。

 それがこの話を伝える理由だと語られている。『僕』が話し手のことだとしたら、克哉にとっては『本多』でいいだろう。本多のことはちゃんと覚えている。しかし、問題は伝わらなかった佐藤の本名だ。

 この怪異の呪いを解く方法とは、この話の中で最初に消えてしまった友人の名前を解き明かすことなのだろうか。

 

 

 

 

「佐伯、最近顔色があまり良くないぞ。夏バテか?」

「大丈夫ですよ、御堂さん」

「それならいいが」

 

 AA社から帰宅するなり、出張先から直帰していた御堂に心配そうな口ぶりで言われる。頻繁に出張に行っている御堂の方がよほど負担が大きいだろうに、その御堂に気遣われるとは、周りから見てもそんなに明らかなのだろうかと苦笑する。

 本多が消えてから一週間以上経過していた。その間、克哉は克哉なりに色々調査していた。といっても、表立って行えば御堂に見つかって詰問されるのは明らかだから、あくまでも秘密裏にだ。

 だが、消えてしまった友人の本名を探す試みは早くも行き詰まっていた。

 克哉が最初に行ったのは廃墟のビル探しだ。都内で殺人事件があって廃墟となったビル、なおかつ、肝試しのスポットになるようなところ、その場所を探すところから始めたのだが、候補はいくつも挙がったものの、その中に正解があるのかどうかも分からない。例の怪談話の中に情報が少なすぎるのだ。話が伝わるにつれて、伝言ゲームのように固有名詞の類いや他の個人を特定できるような情報も一緒に抜け落ちてしまったのだろう。

 かろうじて残された情報が都内の廃墟ビルだ。都内が舞台なら、出てくる大学も都内だろう。その友人は大学生だと分かっている。だが、東京都内だけで大学は137校、学生数は67万人に上る。飲み会のあとに行った、という状況から、大学と繁華街、そして廃墟のビルが近いエリア内にあるのでは、と推測したが、東京はあまりにも何もかもが密集しすぎて絞りきれない。それに、これがいつの話だかも分からないのだ。あの話には時期を特定できる情報はない。携帯電話が普及して以降の話だとは分かるが、それでも二十年前にはすでに携帯電話は一般的だった。せめてこれがLINE通話ならここ十年くらいに絞れるのだがそれにしても幅が広すぎる。

 それ以上に一番根本的な問題は、存在ごと消された友人のフルネームは果たして存在するのかどうか、だ。問題の廃墟のビルに該当の友人のフルネームが書かれた墓標でも立っていれば解決するが、そうは上手くいかないだろうという予感もする。

 アプローチ法を変える必要があるのかもしれない。類似の怪談話を集め、呪いを解くヒントとなるような話がないのか、詳しく調べてみるべきかもしれない。

 今のところ、克哉自身にはなんの変化もない。この怪談話は、誰かに話さない限りは自分には何の影響を及ぼさない、という克哉の推測は正しいのだろう。だからといって、平静でいられるかというとそんなことはなかった。誰かに話したら存在ごと消されてしまう、それは真綿で首をじわじわと締められているかのような恐怖であり、着実に気力を消耗していく。

 克哉はジャケットを脱いで、ネクタイを解くとリビングのソファに腰を下ろした。無意識に、ふう、と胸の中を一掃するようなため息を吐いてしまう。

 御堂が克哉の隣に座る。そして、克哉の顔を間近から覗き込んできた。星のない夜空を連想させる深い眸が克哉の心の奥底を透かし見ようとする。

 

「少し痩せたのではないか」

「そうか? 自覚はないが」

「佐伯、悩みごとがあるなら聞くぞ」

「そうだな。一緒に暮らしている恋人がエロすぎて、常に理性が風前の灯火だというのが悩みだな」

「私は真面目に聞いているんだ」

 

 片眉を吊り上げて表情を厳しくする御堂の顔に、克哉は顔を寄せる。御堂の肩を抱き寄せてキスをしようとしたころで、御堂がふい、と顔を背けた。そして、克哉から顔を背けたまま、深く、静かな声で言う。

 

「君はいつもそうやってごまかそうとする。何もかも一人で抱え込んで」

「……」

「佐伯、そんなに私は信用ならないか。君の悩みは私に話してもどうにもならないことなのかも知れない。それでも君をいくらかは助けることはできると思う」

 

 御堂から伝わってくる真摯な想いに胸が鈍く痛んだ。

 克哉が重大な問題を抱えていることを、御堂は見抜いている。

 御堂が克哉から視線を逸らしたままなのは、御堂の矜持と優しさによるものだろう。御堂は克哉の上っ面だけの言葉を拒み、なおかつ、克哉が決心するまでの時間を待ってくれている。

 だが、こればかりは決して御堂に話せないものだ。御堂までこの呪いに巻き込んでしまう。それでいて、これ以上、御堂に隠しごとをしたくないというのも正直な気持ちだった。克哉は自分のすべてを御堂に預ける、そう御堂に告げたではないか。

 だから、御堂にどう向き合うべきか、克哉が心を決めるのに時間はかからなかった。

 

「御堂」

 

 克哉もまた、誠実さを込めて呼びかける。御堂がゆっくりと克哉に顔を向ける。まっすぐに視線を重ねながら、克哉は伝える。

 

「あんたが言うとおり、俺はちょっとした問題を抱えている。だが、それは、決して他言できないものだ」

「私にもか?」

「ああ」

 

 克哉がそう言い切ると、御堂の表情に失意の色が混ざる。そんな御堂の頬に手を添えて、精一杯の誠実さを込めて言った。

 

「御堂。俺はあなたを誰よりも愛しているし、信頼している。だから、もう少し待って欲しい。すべてを話せるようになるまで」

 

 言葉では収まりきらない気持ちを込めて、瞬きもせずに御堂を見つめ続ける。御堂の双眸はほんの少し揺れて、そして揺るぎない強さで克哉を見返してきた。

 

「……分かった。待とう」

「ありがとう」

 

 言葉が途絶え、ふ、とお互いに表情を緩める。すれ違いばかりの自分たちも少しずつ、前進しているらしい。自分たちの成り立ちは決して褒められたものではないけれど、抱き寄せる身体と伝わってくる愛情は確かなものだ。

 克哉は今度こそ顔を寄せると、唇を重ねた。薄く開いた唇から舌を差し込めば、きつく絡められる。くちゅり、と密着させた唇の間でなまめかしい水音が立つ。角度を変えながらより深く噛み合わせ、御堂をソファに倒し、覆い被さった。

 御堂と身体を重ねた途端に、身体の内側から熱が膨らむ感覚が押し上げてきた。

 忙しなくキスを重ねながら、余裕のない手つきで相手の服を脱がせていく。御堂の露わにされた滑らかな肌に手を這わせた。肌の下の筋肉の輪郭を辿り、指先に引っかかる胸の尖りを摘まむ。御堂が小さく声を上げた。

 愛撫を繰り返しながら、自分の昂ぶりを御堂の腿に押し付ける。その硬さと熱さに御堂が息を呑む。御堂の屹立もすでに張り詰めている。そこを握り込んで上下に扱けばすぐに手のひらがぬるついた。

 

「ふ……ぁっ」

 

 キスの隙間から御堂の吐息が弾む。その声に欲情を煽られて、克哉はいったん身体を離した。

 繋がるために御堂の膝裏を持ち上げて、脚を大きく開かせると、御堂は克哉から顔を背ける。その頬は発情と羞恥に染まっている。

 御堂の横顔を眺めながら、克哉はローションを纏わせた指を窮屈なところに這わせる。最初は固く侵入を拒もうとしていたそこも、あっという間に克哉に手懐けられて素直に克哉の指を呑み込んでいく。

 

「佐伯……もう……っ」

「分かってますよ、俺のが早く欲しいのでしょう?」

 

 堪えきれない声で名前を呼ばれ、克哉は滾った自分のペニスを宛がい、御堂の一点にゆっくりと体重をかけていく。えらの張った一番太いところがぐぷりと嵌まり込むと抵抗が弱まり、生々しい熱と感触が克哉を包み込む。

 貫かれる瞬間の御堂の苦しそうな顔が好きだ。克哉に深いところを擦られることで次第に強張る表情が蕩けていくところも。

 ゆっくりと腰を進めて、結合を深めていく。ようやく根元まで含ませると、ゆるゆると腰を揺すって馴染ませていった。そうやって時間をかけていると、御堂が克哉の肩にしがみつくようにして囁いてきた。

 

「佐伯……早く……」

 

 発情に潤んだ御堂の眸が克哉を見詰め、乞う。御堂に名前を呼ばれた瞬間、甘苦しい衝動が克哉の中で爆発した。克哉は上体を起こし、御堂の脚を抱え直すと獰猛に腰を動かし始めた。

 

「ぁ……、あ、もっと……っ」

「あんたは俺の煽り方が上手いな……」

「違っ、あ、や……」

 

 甘く乱れた喘ぎが御堂の戦慄く唇から漏れる。克哉は唇で御堂の吐息ごと奪い、舌を絡めた。

 御堂の両脚が克哉の腰に絡まり、ぐっと引き寄せられる。これ以上ないくらい深く繋がり、御堂の中が克哉の形に歪められていくのを感じ取る。

 御堂を抱き締め柔らかい肉を容赦なく抉る。ふたりでもっと気持ちよくなるために。

 ふたりの腹に挟まれた御堂の先端からは、白濁混じりの粘液がずっと漏れ続けてふたりの結合部から下腹までぐっしょりと濡らしている。

 

「ん、あ、……は、ああっ」

 

 切っ先が感じるところを擦りあげるのか、突き入れるたびに御堂は身体を細かく痙攣させる。繋がったところからびりびりとした熱い痺れが走る。激しく揺さぶられながら、御堂は嬌声の合間に「克哉、か…つ、や…っ」と克哉の下の名を呼ぶ。

 寄せては返す波が次第に大きくなってくる。そして、途方もなく大きな波になりふたりを攫おうとした。克哉は息を詰めて、ギリギリのところまで引き抜くと、「孝典」と切れ切れの声で名前を呼んだ。涙に濡れた御堂が克哉を見上げる。視線が繋がった瞬間「あいしている」の言葉と共に、一気に根元まで突き入れた。

 

「あ、あああ――っ」

 

 激しく内壁を擦りあげると御堂が壊れたように声を上げる。御堂の最奥まで自身を穿ち、そこに熱い粘液をドッと流し込んだ。御堂の身体が強張り、そして、御堂のペニスからどろりと大量の濃い白濁が溢れた。

 

 

 

 その後、何度も交わり続け、ようやくお互い満足してふたりしてシャワーを浴びる。ベッドにふたりして仰向けに横たわったときにはすでに真夜中だ。

 御堂は疲れ切っているのかすぐに瞼が落ち規則正しい寝息が響いてくる。一方で克哉は昂ぶった気持ちのまま暗い天井を見詰めた。

 今、克哉は幸せだ。

 それは間違いない。

 それなら、このままでもいいのではないか。そんな誘惑が心を掠める。

 克哉がこの怪談をさっぱり忘れて思い出さなければ、そして誰にも話さなければ、克哉が消えることはない。そして、少なくとも克哉にかかる呪いを広めることもない。

 そもそも呪いを絶やすことが可能かどうかも分からない。Mr.Rは、人が作ったものならば、人が理解できるものだと言った。だが、そもそも人類が自分たちが造った何もかもをちゃんとコントロール下に置けているのなら、世界平和はとうに達成できていただろう。

 しかし、ここで克哉が呪いを解くことを諦めてしまったら、本多も松浦も消え去ったままになってしまう。そうと分かっていて放棄するのは寝覚めが悪いのも確かだ。

 それに、何かの弾みで自らこの話を誰かに話してしまうという危険さえある。万一御堂に話をしてしまい、この呪いを押し付けてしまったら後悔してもしきれないだろう(しかし、後悔しようにも、そのときには克哉自体消え去っているだろうが)。どちらにしろ、やはりこの怪異は放ってはおけない。どうにかして克哉が呪いを解く必要がある。だが、どうやって?

 そんなとりとめもないことを考えていると、真横から声がした。

 

「佐伯、寝付けないのか?」

「悪い、起こしてしまったか?」

 

 御堂の方を向けば、御堂はすっかり目を覚まして身体ごと克哉の方に向けている。やはり、克哉のことが気になるのだろう。気遣わしげな表情だ。

 克哉は御堂を安心させるよう、世間話でもするような軽い口調で言う。

 

「御堂、あんたは怪談話とか信じるか?」

「怪談? ああ、怖い話か。当然そんな話は信じないし、ホラー映画はどちらかと言えば苦手だ」

「そうだろうな」

 

 想像どおりの返事に克哉は微笑む。馬鹿にされたと思ったのか、御堂は眉を顰めた。

 

「君は興味あるのか?」

「少しだけ」

「それは知らなかった」

 

 本当は好きでもないし興味もない。できれば関わりたくないのが本音だが、不運にも怪談話に巻き込まれてしまっているのだ。そんな克哉の本音を知ってか知らずか、御堂は「そういえば……」とふと思い出したように言った。

 

「一昨日、展示会イベントで内河に会ったんだ。クライアント企業の付き合いで出たやつだ」

「内河? ああ、大学の同期で外交官だという」

「その内河だ」

 

 たしか、内河は御堂とは大学の同期で、御堂とは定期的に会ってワインを嗜むような仲だったはずだ。この国の最高学府、東慶大学出身の御堂は同期のメンバーは、いずれも政治経済界のエリートばかりだ。

 克哉は内河について、それ以上の追及をしなかったが、御堂はすぐさま克哉に釘を刺すように言う。

 

「言っておくが、イベント会場のレセプションでたまたま会っただけだ。海外企業も出店する国際展示だったからな」

「分かっていますよ。で、その内河がどうかしたのか?」

「内河から面白い話を聞いた。君が興味を持ちそうな話だ」

「俺が……?」

 

 御堂はニヤリと笑うと口を開いた。形の良い唇がゆるやかに言葉を紡ぐ

 

「怪談話だ。大学生が廃墟のビルに肝試しに行った話だ……」

「ッ――」

 

 次の瞬間、頭の中が真っ白になった。御堂は滔々と語り出す。

 止めなくては、と思うのに、声が出ない。御堂は淀みなく語り終える。大学生三人が廃墟のビルに肝試しに行き、そのうちの一人がビルの壁に吸い込まれてしまう。そして、その存在自体も消えてしまう。一字一句、克哉が本多から聞いた話と同じ話だ。

 なぜ御堂が、どうして、まさか。

 頭をぶん殴られたような衝撃に呆然とする。

 

「そんなに怖かったか?」

 

 話し終えた御堂は、青ざめている克哉の顔を見て、訝しげな顔をする。克哉は動揺を抑えつつ、口を開いた。

 

「御堂、その話を他の誰かに話したか?」

「……いいや。君が初めてだが」

「内河から聞いたと言ったな。その内河は誰から聞いたと言っていた?」

「知らない奴だったな……いや、知っている。田之倉だ。内河は田之倉から聞いたと言っていた」

 

 田之倉、同じく御堂の同期でたしか弁護士をしていたはずだ。

 御堂は眉根を寄せて考え込む表情を見せた。

 

「今、田之倉のことを思い出した。どうして、あのときは忘れていたのだろう……。内河が田之倉の話をしたとき、誰のことだか分からなかったんだ」

 

 それこそ、この怪異の特徴だ。

 誰かに話せば、話し手の存在が消える。だが、克哉は内河も田之倉も、御堂からこの話を聞かされる前から知っていた。なぜなら克哉は今、この怪異に巻き込まれている当事者だからだ。

 そして、御堂も知らぬ間にこの怪異に巻き込まれていた。

 挙げ句、御堂は克哉にこの話をしてしまった。

 この怪異の特徴は、この怪談話を誰かに話してしまえば、話した者の存在が消されてしまう。

 ――しまった……っ。

 克哉の中に焦燥と混乱が恐怖を伴って渦巻いている。

 このままでは御堂の存在が消えてしまう。跡形もなく。ただ、克哉の中に記憶としてだけ残されて。

 しかし、聞かされた側は次にその話を誰かにするまでは、消された人間の記憶を引き継ぎ存在を保つことができる。

 それならば……。

 御堂をこの世界から消さないようにするために、克哉ができる方法はひとつしかなかった。

 克哉はベッドに手をついて起き上がり、眼鏡をかけた。御堂に向き直ると、纏う雰囲気を変えた克哉に御堂は戸惑った視線を返す。その目を見据えて、言う。

 

「御堂、俺の話を聞いてくれ。あんたが聞いたのと同じ話だが最後まで聞いて欲しい」

 

 唖然とする御堂にお構いなしに克哉は続ける。

 

「そして、この話は決して他の誰かには言ってはいけない」

「佐伯、どういうことだ?」

「いいから、聞け。馬鹿な大学生が廃墟のビルに肝試しに行った話だ」

 

 そして、克哉は『その話』を語り出す。

御堂の話 1

 内河に会ったのは一昨日出席した展示会、そのレセプションパーティーだった。日本企業と海外企業の技術展示とビジネス創出を主目的とする展示会は国の後援も得て、大々的に行われていた。

 その展示会にAA社のクライアント企業が出展していたため、御堂も展示会に出向いていたが、外交官である内河もまた、日本の高い技術力を海外にアピールするために来場していた。そして、会場で偶然出会った内河にレセプション後に少し飲もうと誘われたのだ。

 ホテルのバーの薄暗い雰囲気の中で、久々の再会を乾杯し、お互いの近況を報告し合う。共通の友人たちへと話題が及んだとき、内河がふと口にした。

 

「この前、田之倉から不思議な話を聞いてさ」

「田之倉?」

「ああ、弁護士事務所は相変わらず繁盛しているらしいが、変な相談があったらしい」

 

 御堂は内河が口にした田之倉という人物に心当たりはなかった。どうやら弁護士のようだが、御堂の知り合いに田之倉という弁護士はいない。内河は御堂の共通の知り合いだと勘違いしているのかも知れない。だが、それを伝える前に内河は話を進める。

 

「ある男性から妻を探して欲しい、という相談だったらしい。田之倉は自分の所は警察でも探偵事務所でもなく弁護士事務所だから断ろうとしたんだ。しかし、そうじゃない、と言う。その男性は妻が存在したことを証明して欲しいと言ってきたそうだ」

 

 内河の話ではこうだ。

 田之倉が詳しく話を聞いたところによれば、ある日突然その男性の妻が消えた。まるで夜逃げでもしたかのように、妻本人だけでなく妻が生活していた痕跡が一夜にしてすべて消えてしまったらしい。妻が自ら消える予兆も理由もなく、男性は警察に相談しに行って行方不明者届けをだしたそうだ。だが、すぐに警察から連絡があり、「そのような人物は存在しません」と言われたという。男性は驚いて自分の戸籍を確認したが、結婚した形跡はなかった。それでも、自分には確かに妻がいた、それを証明して欲しいと田之倉のところにやってきたという。

 田之倉は話を聞いた時点では、これは弁護士の管轄ではなく医者、それも精神科医に相談するべき話だと思ったそうだ。どう考えても哀れな男性の妄想としか思えない。それでも、興奮する男性が落ち着くように田之倉はじっくりと話を聞いてやり、妻が消えるきっかけやその直前に何か変わったことがないか尋ねた。すると、男性はこう言った。「そういえば、妻から変な話を聞きました。いわゆる怖い話なんですけど」そう前置きをして、語った話が、廃墟に肝試しに行った学生たちの話だという。

 

「その話が結構面白くてさ……」

 

 そう言って、内河はその怖い話の内容を御堂に披露すると言った。

 

「な、似てるだろう? この話はその男性と妻の状況とそっくりだ。一晩にして妻の存在をみんな忘れてしまう。存在さえ消えてしまうって、まさしくこの怖い話そのままじゃないか」

「確かに」

「だが、それだけじゃないんだ」

 

 内河は声を潜めて雰囲気を出しつつ言う。

 

「消えたんだよ」

「消えた?」

「ああ。田之倉はその場で依頼を引き受けるかどうかは保留にして、後日改めて断りの電話をしようとしたんだ。で、次の日、面談記録を確認しようとしたら、記録自体がなくなっていた。田之倉はちゃんと面談記録を作ったはずだった。となれば、男性側からキャンセルの申し出があって事務員が消したのかもしれない。そう思って事務員に聞いてみたが、その面談自体記憶にないという。田之倉と男性二人きりの面談だったとはいえ、事務所に来たのに誰も覚えていないというのはおかしい。だが、田之倉の手元には男性の住所も連絡先も何も残っていないから男性に連絡も取れない。狐につままれたような気になったと言っていたよ」

「気味が悪い話だな」

「ああ、あの真面目一辺倒で几帳面な田之倉が言うんだ。本当の話だぜ、きっと」

 

 先ほどから内河が口にする田之倉という男はやはり御堂の記憶になかったが、それをわざわざ指摘する必要はないだろう。田之倉が御堂の知り合いであってもなくても、この話の価値は変わらない。単なる無駄話だ。

 そうは思っても、単なる作り話が現実を侵食していくような話で、怪談めいたものは一切信じない御堂であっても、どこか不気味な余韻を残す話だった。

 

 

 

 内河から聞いた話はそのまますっかり忘れていた。思い出したのは、克哉が『怪談』と口にしたからだ。現実をシビアに見極めるコンサルティングを行う克哉が怪談話を好むとは意外だった。

 克哉は、ここ最近、何かに悩んでいることを御堂は気付いていた。取引先に行くついでに仕事とは関係ない場所をあちこち訪れているようだったし、見覚えのない手帳を持ち歩いていた。そして何か深く考え込むような、思い詰めたような顔をしているのも目撃した。

 結局、克哉の悩みの内容を知ることはできなかったが、「もう少し待って欲しい」という克哉の言葉は誠実で信じるに足るものだったから、御堂はそれ以上の追及を避けた。

 そんな克哉に気分が紛れればと他愛もなく語ったのが、内河から聞いた怪談だった。

 話はうろ覚えだったが、いざ語り出してみれば、まるで台本を読みながら話しているかのように流ちょうに語ることができた。

 しかし、話を終えてみれば、目の前の克哉は驚愕に引き攣った顔で御堂を見ている。克哉がこんな風に感情を表に出すことは珍しい。克哉は怯懦(きょうだ)な性格ではない。御堂が語った怪談に怯えるとは思えない。

 克哉は血の気を失った顔をしていたが、ややあって衝撃から立ち直ったらしく、ベッドから上体を起こすと眼鏡をかけた。そして、強い光を宿した双眸で御堂を見据えた。

 

「御堂、俺の話を聞いてくれ」

 

 思い詰めた顔で、克哉が話したのは御堂が話したものとまったく同じ怪談話だった。何を話し出すのかと身構えていた御堂は拍子抜けする。

 克哉は話し終わると、「この話を絶対に他の人間に話してはいけない」と真剣な声音で何度も念を押してきた。わけも分からぬまま、克哉の剣幕に押されて約束させられる。

 

「それはさっき私が話した話ではないか」

 

 意味が分からない、と困惑して言う御堂を無視して克哉は続ける。克哉の声は心なしか低く、剣呑さを忍ばせていた。

御堂、よく聞け。これは『怪異』だ。聞いた者に『呪い』をもたらす」

「何を言っているんだ、君は。呪いなんて存在するわけがないだろう」

 

 たかだか怪談話だ。『怪異』や『呪い』などと馬鹿馬鹿しい。

 侮る態度を隠そうともしない御堂に、克哉は目を逸らさぬまま続ける。

 

「御堂、俺はもうすぐ消える。時間がない。だが、俺のことはお前だけが覚えている。今はもうとっくに思い出せるだろう。本多のことも。前に俺が聞いたとき、あんたは知らないと言っていたが」

 

 本多、その名前に反応する。一人の男の顔が頭に浮かぶ。上背があり体格が良い、短髪のいかにも体育会系といったキクチ八課の営業マンだ。克哉の元同僚で克哉とは今でも交友関係がある。

 絶対に忘れるはずがないくらいはっきりと思い出せるのに、以前、克哉に本多のことを聞かれたとき、自分はまったく思い出せなかった。そして克哉に「知らない」と告げたことも覚えている。

 御堂は愕然として、呻くように言う。

 

「本多……覚えている。どうして、私は忘れていたのだ?」

「忘れたことさえ忘れる。これは、そういう呪いなんだ」

 

 混乱した頭で克哉を見返した。

 

「君がもうすぐ消える、とはどういうことだ?」

 

 克哉は黙ってベッドから出ると、すぐさま一冊の手帳を手に戻ってきた。その手帳を御堂に押し付ける。

 

「俺が調べた内容がここにある。これは今からあんたのものだ。これを使って、怪異の正体を捉えて呪いを解け。そして、Mr.Rに会うんだ」

「Mr.R?」

 

 克哉は次から次へと意味を分からないことを口にする。

 御堂の反論を許さぬ勢いでひと息に話し尽くすと、克哉は御堂を抱き寄せた。

 

「佐伯……」

「すまない、あなたにすべてを押し付けてしまって。だが、もう、こうするしかない。あなたが消えるのは耐えられない」

 

 克哉は御堂の背に回した腕の輪を狭くする。息も苦しいほどきつく抱き締められて身じろぎさえままならない。

 これではまるで今生の別れのようではないか。克哉の言葉に理解が追いつかないまま、ただただ呆然としていると、克哉の独り言のような小さな呟きが鼓膜に触れた。

 

「語られた二つの話はまったく同じだ。ということはそもそも、情報は削られていない……」

 

 ハッと何かに気が付いたように克哉は目を見開く。そして、御堂の両肩を強く掴んで正面から見据える。

 

「違う、御堂。簡単なことだ。探すのではなく……」

「君は何を……」

 

 克哉が何かを言いかける。御堂の肩に克哉の指が痛いほど食い込む。その次の瞬間、ふ、と克哉の指の感触が消えた。

 同時に、目の前の克哉が霞み、そしてかき消えた。

 御堂は目を瞬かせる。

 だが、何度目を凝らしても、視界に広がる景色は変わらなかった。仄かな灯りが寝室を照らす。

 そこには誰もいない。

 まるで初めから誰もいなかったかのように。

 

「佐伯……?」

 

 声を出して呼びかける。御堂の声が途切れた瞬間に静寂が室内を満たす。返事も気配も何もない。

 克哉が消えた。目の前から跡形もなく。

 今、一体何が起きたのか、御堂はまるで理解出来ない。

 だが、目にしたことの衝撃に心臓が不穏に乱れ、胸の奥底から悪寒が込み上げた。無意識に小刻みな呼吸を繰り返し、指先が痺れたように震えている。

 ただひとつ確かなことは、それが夢ではなかったという証拠に、御堂の手には克哉から渡された手帳が残っていた。

 

 

 

 あれから一睡もできなかった。

 わけも分からぬまま、御堂は克哉の手帳を何度も読み込み、内容をすべて頭の中にたたき込んだころには空が白んでいた。

 克哉の手帳には克哉らしい几帳面さで、あの話について克哉が知っていること、調べたことのすべてが細大漏らさず書かれていた。

 単なる噂話のように語られた怪談話が実は怪異そのもので、聞いた者に呪いをもたらすについては理解できた。だが理解はできても納得はできなくて、未だに悪い夢を見ているのではないかと思ってしまう。

 カーテンを透かす陽の光が強くなり朝を迎えても、御堂は部屋に独りきりだった。ぬかるみに落ちてしまったような思考状態の頭を振って、バスルームへと向かう。熱いシャワーを浴びて無理やり身体と頭をたたき起こす。

 念のため、部屋をすべて確認するが、克哉の気配はどこにもなかった。玄関に靴もなく、克哉の私物まですべて消えてしまっている。田之倉の話にあったようにまるで夜逃げでもされたかのような状態だ。

 食欲はすっかり消え失せたまま、御堂はスーツに着替えAA社へと向かった。

 AA社のオフィスは御堂の記憶にあるそのままで、社員も昨日までと同じように出勤している。御堂はまっすぐと奥の執務室に向かう。

 そこにはデスクが二つある。御堂と克哉のデスクだ。

 御堂は自分のデスクに座ると藤田を呼んだ。すぐさま藤田が「おはようございます!」と元気の良い挨拶と共に顔を出す。いつもと変わらぬ藤田の明るさに救われたような気持ちになりながら、御堂は何気ない口調で尋ねる。

 

「藤田、佐伯について確認したいのだが」

「佐伯? どちらの佐伯さんですか?」

 

 藤田は小首を傾げて聞き返す。藤田の反応に、胸の中に抑え込んでいた不安が暗雲のように広がり始める。

 

「……佐伯だ、佐伯。佐伯克哉」

「え、佐伯克哉……さん、ですか? クライアントの方ですが?」

「わが社の……AA社の社長だ」

 

 今度こそ藤田はぽかんとした顔で御堂を見返した。

 

「何言っているんですか。社長は御堂さんじゃないですか」

「それなら、あのデスクは何だ?」

 

 克哉のデスクを指して聞くと、藤田は訝しげに答える。

 

「そのうち副社長を迎えるから、って先にデスクだけ用意したと御堂さんが言ってたじゃないですか」

 

 名札も置かれていない、まっさらなデスク。中身も空っぽでそこに座していた人間もいないという。

 

 ――違う。

 

 私が副社長で、佐伯こそAA社の社長だ。

 そう叫び出したかった。

 喉が渇き、呼吸が浅く速くなった。全身から冷や汗が噴き出してくる。

 もしこの現実が前触れもなく突きつけられていれば、御堂は発狂していたかもしれない。それでもどうにか自分を保っていられたのは、克哉が実際に消えるのをこの目で見て、そして克哉の手帳を事前に読んでいたからだ。

 克哉の手帳に書かれていることは事実だ。それを否応なく突きつけられる。

 克哉は存在ごと消された。本多や松浦と同じく。

 この分だと、内河、田之倉も同じようにこの世界から消えてしまっているのだろうか。

 それでも信じられなくて、自分の携帯を確認する。御堂の携帯に克哉の名前はなかった。今までのメールのやりとりも何もかも一切合切消えてしまっている。内河や田之倉の連絡先もまた克哉同様、消えてしまっていた。

 世界がぐにゃりと歪む感覚に襲われる。平衡状態を保っていられず、御堂はプレジデントチェアに腰を落とした。

 

「御堂さん、顔色悪いですけど大丈夫ですか?」

 

 藤田が心配そうに声をかける。

 

「大丈夫だ」

 

 絞り出した声は掠れていた。

 この世界は、御堂が知っている世界なのだろうか。何かが御堂の中で音を立てて崩れ落ちていく。

 

 

 

 AA社の業務は、克哉がいないことを除けば御堂の記憶にあるとおりで、仕事もいつもどおりに忙しかった。

 克哉一人が消えてしまっても、なんら変わりなく周囲は動いている。最初から克哉など存在しなかったかのように。その事実さえ御堂を打ちのめした。

 疲労困憊で部屋に戻り、ドアを開ける。暗い部屋の奥に向かってに恐る恐る呼びかけた。

 

「佐伯?」

 

 耳を澄ましたが、返事はない。

 それでもふとした瞬間に、「おかえり、御堂」と奥から顔を出してくるような気配がある。

 御堂はスーツのジャケットを脱ぎ、リビングへと脚を踏み入れた。

 壁一面の窓から街の光が差し込み、真っ暗な部屋を仄かに照らしている。

 御堂は部屋の電気を点ける気にもならず、御堂はソファに座り込んだ。ネクタイの結び目に指を入れて緩めると、そのままソファの背にしなだれかかる。

 

「君が抱えていた問題はこれだったのか……」

 

 呟く声に当然返事はない。

 克哉が抱えていた問題、それはあまりにも異質で理解を超えたものだった。そして、その特性がゆえ、御堂に決して話すことはできなかった。話せば克哉は消されてしまう。そして、御堂に呪いがかかってしまう。だが、克哉は御堂にその話をした。御堂が呪いによって消されるのを防ぐために。

 

「これを君は、自分一人で解決しようとしていたのか?」

 

 御堂は途方に暮れたように首を振る。どう考えても、常識を超越している話だ。御堂はいまだに頭から信じることができないが、それでも、この部屋に克哉の痕跡はなく、克哉は消えてしまったという状況は受け容れざるをえない。

 身体は疲れ切っているのに、思考だけが冴え冴えとしていた。

 昨日までは克哉は御堂の横にいたのだ。それが、克哉はいなくなり、誰も克哉の存在を覚えていない。まるで、最初からその存在自体が幻であったかのように。

 それでも、克哉は確かに存在したのだ。

 目を瞑ればこうもはっきりと克哉の顔を思い描ける。

 精緻に整った顔と表情を引き締める銀のフレームの眼鏡、常に自信に満ちて仕事では辣腕ぶりを発揮していた。プライベートでは御堂の恋人で、この部屋で同棲していた。

 そう、昨夜までは、克哉は御堂の横にいて深く愛し合っていたのだ。克哉のキスは御堂の官能をすぐさま燃え上がらせ、克哉の指先は御堂が感じるところを巧みにあぶり出した。

 克哉の顔や声、ひとつひとつの仕草を思い出すうちに堪えきれなくなって、御堂はソファの隣、克哉が普段座る場所に突っ伏した。そこに温もりはなく、革のひんやりとした冷たさが伝わってくる。それでも、座面に押し付けた御堂の顔は発火したように熱くなってきた。うっすらと開いた唇から漏れる息も次第に熱を帯びる。

 こんな状況で何をやっているのだ、と自分を戒めようにも、自制できない腰や脚がもぞもぞと動いてしまう。

 

「佐伯……」

 

 呟いた自分の言葉に弾かれたように、御堂はベルトのバックルを外し、前を開いた。アンダーを下ろすと半ば形を持ったペニスを解放する。

 するっとズボンが脱げる。御堂は片脚をソファの上に乗り上げて、自分のペニスを握り込む。そうして、ソファに顔を突っ伏せたまま、自分のペニスを上下に扱きだした。克哉の手の動きを思い出しながら、根元から擦りあげてくびれの部分を締め付ける。亀頭のまるみを撫でてぬるつく小孔を親指の腹で強く擦りあげる。

 

「は、ぅ……」

 

 ペニスはあっという間に大量の蜜を溢れさせて、臍に付そうなほど反り返った。ペニスだけでは満足できなくて、御堂はシャツのボタンをもどかしい手つきで外すと、自分の胸に手を這わせた。胸の尖りをきつく摘まみ、爪を立てて押し潰す。自然と腰が動き、ほどけかけたネクタイが所在なく揺れる。

 下腹の奥底で何かがきゅう、と切なく蠢いた。これだけの刺激では足りないのだ。もっと深いところを硬く太いもので抉って欲しい。自分の中の空虚さを満たして欲しい。

 

「ぁ、あ、佐伯……っ」

 

 呼ぶ声はどこにも届かない。御堂は手の動きを速くする。自分の快楽に集中して、無理やり昂ぶらせる。そして、達する。

 

「ぁ、く、あ、あ――」

 

 ペニスを包み込んだ手の中にどっと粘液が吐き出される。手のひらから溢れたものが、ぽたぽたとソファの座面にしたたり落ちた。

 御堂は荒らげた息を吐きながら、がくりと腰を落とす。

 どうしようもない空しさが込み上げてきて、身体を震わせる。

 いっそ、御堂も克哉のことを忘れてしまえれば良かったのに。そうなれば、こんな苦しい思いはしなかっただろう。

 

「佐伯……、君はどこにいる…?」

 

 絞り出した声は嗚咽に取って代わられた。

(4)
御堂の話 2

 朝、目を覚ましても、隣に克哉の姿はなかった。

 曖昧な輪郭の意識が現実に馴染むまでの間、今までの出来事を頭の中で反芻する。

 目を開けば見慣れた寝室がある。御堂はもう何度目か分からない朝をこの部屋で迎えていた。その朝のほとんどすべては克哉と共に在った。克哉がいない独りきりの朝は数えるほどしかない。だが、これからはずっと独りきりなのだろうか。

 一人で寝るには広いベッドだ。手を伸ばせばひんやりとした冷たいシーツがあり、存在の空白に胸がかきむしられる。

 マットに手をついて起き上がった。部屋の中を見渡せば、どこを見てもよく知っている世界なのに、どこを見ても初めて見るかのようによそよそしかった。

 本当は何もかもが夢だったのではないかとさえ思えてくる。

 克哉との生活は、夢のような幸せ、ではなく、幸せな夢だったのではないか。

 

「君は、酷いな」

 

 御堂は一人、恨み言を呟く。御堂の存在を消させないために、克哉は自ら存在を消し去る選択をした。

 それは分かっているのに、克哉がいない世界に放り出される御堂の苦しみを克哉は想像できなかったのだろうか。

 克哉が御堂を守るための苦渋の選択だということは頭では理解しても、この胸の痛みが癒やされるわけではない。

 

 ――いっそ、私が消えてしまえば良かった。

 

 そうなれば、こんな辛い思いをせずに済んだだろう。

 克哉はいつも勝手だ。御堂のためだと傲慢に決めつけて、御堂を置き去りに一人去っていく。

 これからどうすれば良いのだろうか。

 枕元に手を伸ばすと、手帳が触れる。克哉が残した手帳だ。

 御堂は克哉の手帳を顔の前にかざしながら、自嘲する。

 

 ――あのときはスーツのジャケットで、今回は手帳か。

 

 克哉は、立ち去るときは何かひとつ置き土産を残しておかないと気が済まない性分なのだろうか。

 そんなことを考えながら、手帳に表紙に鼻を寄せた。克哉が身に付けていたフレグランスとタバコの香りが微かに漂ってくる。

 克哉は他の何でもなく、この手帳を御堂に手渡した。『呪いを解け』という言葉と共に。

 御堂は目を瞑り、大きく息を吐く。

 今回は、前回とは違う。

 克哉はふたたび御堂と再会することを切望している。だから、御堂にこの手帳を引き継いだのだ。御堂を信頼し、御堂がこの怪異がもたらす呪いから克哉を解き放ってくれることを信じて。

 そう思い切ると、千々に乱れていた心がすっと凪いでいくのを感じた。同時に、四肢の末端までふつふつと力が漲っていくのが分かる。

 他の誰でもなく、自分がやらなくてはならないのだ。克哉を取り戻すために。

 

 

 

 

 どうすれば克哉を取り戻せるのか。克哉だけではない。本多に松浦、内河に田之倉、自分の記憶で辿れるのはここまでだが、その先を辿れば、無数の人間が周囲から気付かれぬまま存在を消されているのではないか。この怪異はどこまで広がっているのだろうか。御堂が克哉を取り戻すことはすなわち、消し去られたすべての人間を取り戻すことにも繋がるはずだ。

 何度開いたか分からない克哉の手帳を開き、癖のある字を読み直す。この手帳だけが、克哉がこの世界に存在したことを示している。

 克哉の存在がありとあらゆるところから消えてしまったのに、この手帳が御堂の手元に残ったのは奇跡としかいいようがない。多分、克哉は最後の最後にこの手帳を御堂に渡したからだ。その瞬間、手帳は御堂の所有物になった。だから、存在を消されなかったのではないかと思う。

 消えてしまった人物の名前、本多憲二と松浦宏明の名前が記載されているページに、御堂は内河と田之倉の名前を書き足した。

 御堂が抱えているのはあまりにも重い真実だ。存在を消された人間の記憶を、御堂はただ一人持っている。その重さに押し潰されそうになる。

 この怪談話の正体を解き明かす、そんなことが自分にできるのだろうか。

 そもそも、御堂に話す前に克哉は考えの限りを尽くして散々調査していたのだ。それでも解き明かせなかったものが、御堂に解き明かせるのだろうか。

 いっそ、御堂もこの話を誰かに話してしまって、この重責から逃れてしまいたい。そんな誘惑もある。

 だが、そうなれば克哉は取り戻せない。

 諦めるのは簡単だが、御堂は克哉の信頼に応えてやりたい。そして、必ず克哉を取り戻したい。御堂は、諦めは悪い方なのだ。克哉も手を焼くほどに。

 克哉は何かを見落としていないか、どこかに正体を掴む端緒が隠されていないか、しつこく手帳の内容を読み直す。

 克哉はこの怪異の呪いを解くために、最初にいなくなった友人の名前を解き明かすことが必要ではないかと考えていた。だが、その怪談が事実を語っているならば、その友人はもはや存在しないのだ。存在しない者をどうやって探し出すのか。そして、克哉もまた、そこで行き詰まっていた。

 解決法を導くためには、何か思考の転換が必要なのだ。

 克哉が最後に御堂に言いかけた言葉を思い出す。克哉は消える直前に何かに気が付いたようだった。そしてそれを御堂に伝えようとしていた。

 

『二つの話はまったく同じだ。ということはそもそも、情報は削られていない……』

 

 克哉はそう言っていた。それは何を示していたのか。

 御堂はハッと気が付き、手帳の最初のページを開く。そこには、克哉が聞いた怪談話が記載されている。

 

「確かに同じだ……」

 

 御堂が克哉にした話、そして、克哉が御堂にした話、それは細部まで一致していた。普通、伝聞ならば伝言ゲームよろしく内容が大きく改変されてもおかしくないはずだ。それなのに、田之倉、内河経由の話と松浦、本多、克哉経由の話はまったくの同一、それこそ一字一句まで同じだった。これは何を示しているのか。

 自分が克哉に語ったときのことを思い出す。一度しか聞いていないはずなのに、自然と言葉が紡がれた。まるで、誰かに言わされているかのように。

 ゴクリと御堂は唾を呑む。

 

 ――自己複製能……?

 

 この怪談は、自身と同じものを複製する能力、すなわち自己複製能を有している。だから語られる前の話と、語られた後の話が改変されることなく同じになるのではないか。そうして、語ること、聞くことを通して、次の人間に感染していく。まるでウイルスのようだ。

 たぶんこれは、ひとつひとつの単語やその並びが意味を持っているのではないか。コンピュータープログラミングのように、一見単なる言葉の羅列でもひとたび起動されれば何らかの指示を忠実に実行される。この怪談話自体が言霊のように機能して、聞いた者、話した者に怪異をもたらす。それが意図したものなのか、偶然、このような力を得てしまったのか不明だが。

 この怪談が自己複製能を有しているならば、伝播する途中で消えた友人の名前が消えてしまったというのは不自然だ。むしろ、友人の名前が消えていることが怪談を怪談たらしめている必須条件なのではないか。その友人の名が怪異を止めるブレーキになっていたのだ。それが外れてしまった。だから怪異が暴走している。

 となれば、克哉の友人の名前を探すという選択は正しかったのだ。

 一方で、克哉はこの話の中にある情報のあまりの少なさから、場所や人物の同定ができていなかった。それは、固有名詞といった情報が、話が伝わる内に削られてしまったからなのではと考えていたようだが、それは違う。元からそんな情報はこの話に含まれていなかったと考えるべきだろう。克哉もそれに気付いた。だから『情報は削られていない』と言ったのだ。

 この怪談話は、いなくなった友人の名を教えるつもりは端からないのだ。

 それなら、どうやって友人の名前を探すべきなのか。

 さらに克哉は『探すのではなく……』と何かを言いかけていた。だが、何をすれば良いのか、御堂にはまったく見当がつかなかった。

 

 

 

 克哉がいようといまいと一日は始まり、AA社もまた始業時間を迎える。

 結局、何の手も打てぬまま数日が過ぎてしまった。

 御堂にとっては非日常の中に放り込まれた状態だが、御堂だけが残されてしまった状況である以上、仕事を休むというわけにもいかない。それに、馴染んだ仕事に没頭すると日常が戻ってきたような錯覚がある。だから、AA社の業務は今までどおりにこなしていた。それでも、ふとしたときに感じる、隣に克哉がいないという空しさはどうにも埋められない。

 視界の端に映り込む克哉のデスク、そこに克哉が座っているように思えて、ハッと目を向ければ誰もいない。そんな風に克哉の残像を追いかけてばかりいる。

 途切れてしまった集中力を取り戻そうと御堂はディスプレイに書類を開いたところで、藤田が執務室のドアから顔を覗かせた。

 

「御堂さん、カワグチ飲料から提出された新商品の資料です。今、お時間ありますか?」

「ああ、見せてくれ」

 

 カワグチ飲料というのはAA社のクライアントで、地域密着型の清涼飲料水メーカーだ。地元の名産品を用いての飲料水の企画をAA社に依頼している。町おこしの目玉にも使われる予定で、カワグチ飲料のみならず地元の期待も背負っている。

 飲料水自体はほぼ完成していた。御堂も試飲したが、自信を持って美味しいと言える仕上がりだ。だが、新製品として売り出すにはまだいくつかのステップを踏まなくてはならない。御堂は藤田から渡された資料をめくりながら藤田に確認する。

 

「ネーミングはまだなのか?」

「すみません、候補はいくつかあるのですが、先方の感触がいまいちで」

 

 新商品は未だ商品名が決まっていない。当初は地元の名前を絡めた駄洒落っぽい商品名が仮でついていたが、商品のブランドイメージと合わないため取り下げになったのだ。その後、いくつか案は上がったが、決定打がなく決まらないまま今に至る。

 

「早めにネーミングを決めないと、パッケージデザインにも響くぞ」

 

 藤田も大きく頷く。

 

「商品名が決まらないと、なんというか、その商品の個性を掴めない感じがしますものね」

 

 そのとおりだ。優れたネーミングは消費者とのコミュニケーションとしても役に立つ。商品の特性を伝え、期待感を高める。ネーミングは購買行動に影響する重要な要素なのだ。その一方で、商品名が先に決まってしまうとその名前に引っ張られて開発の方向性が限定されてしまうこともある。だから、開発初期の商品には単なる記号しか付けないようにしている。

 

「一向に決まらないならコピーライターに外注するか?」

「御堂さん、俺、いくつか考えてみたんですけど、どうですかね」

 

 藤田が自信満々な顔で自分が考えた商品名を披露する。形容詞を重ねに重ね、言い終わるまでたっぷり5秒はかかりそうな商品名に、御堂は眉間に深い皺を刻む。

 

「最近のヒット商品の二番煎じのような名前だな」

「駄目ですかね。流行を意識したんですけど」

 

 御堂の芳しくない反応を前に、藤田はあからさまにしょぼくれる。どうやら、相応に自信があったネーミングのようだ。

 

「インパクトある商品名ひとつで売れるものもあれば、中身のクォリティは高いのに商品名がマッチしなくて売れなくなるものもある。二番煎じや凡庸な名前だと思われたら、それだけで商品にとってはマイナスになるからな」

 

 それくらい、名前を付けることは重要なのだ。その物事の本質を規定してしまう。

 そう、重要なのは名前だ。

 そのときだった。頭の中でチリッと火花が散った。点在していた手がかりが、無意味な点と点が結び合い、ひとつの意味のある形を作り出す。カチリと音を立てて御堂の中ですべてが噛み合う。

 

「そうか、分かった」

 

 藤田が驚いたように御堂を見上げた。

 

 

 

 

 呪いを解く方法は分かった。あとは、この怪異をどうやって絶えさせるかだ。それについては、克哉の言葉を信じるしかなかった。

 Mr.Rに会え、と克哉は言っていたが、その人物について御堂はまったく心当たりがなかった。ただ、AA社近くの公園に行けば会えるという曖昧な情報しか克哉から与えられていない。

 AA社の業務が終わり、社内の戸締まりを確認してから御堂は公園へと向かった。

 熱帯夜になるとニュースでは言っていた。その予報のとおり、夜になっても気温は下がりきらず、身体にまとわりつくような湿気と熱気が残っている。不快な夜だ。

 すでに帰宅のピークは過ぎて人通りは少なくなっている。公園となればなおさらだ。

 御堂は公園の真ん中あたりに立ってあたりを見渡した。ビジネス街の真ん中にある公園だが、すっかり静まりかえって近くの道路を行き交う車の音が遠くに聞こえる。ぼんやりとした光を放つ街灯は心許なく、ときおり吹く風が木々をざわめかせて落ち着かない気持ちにさせられた。

 いつまでここにいれば良いのか。どこまで克哉の言葉を信じれば良いのか。そんな焦りを感じ始めたころ、不意に、夜闇がとろりと濃くなったように感じられた。

 御堂は神経質に周囲を警戒する。人気はとうになく、ここで悲鳴を上げても誰にも届かないだろう。いくら治安が良い地域だとしても用心を怠るべきではない。

 

「こんばんは。御堂孝典さん」

 

 そのときだった。唐突に背後から声をかけられて、御堂はびくりと身を強張らせた。恐る恐る振り向けば、黒衣の男が立っている。まったく気配を感じなかったのに、いつの間に現れたのだろうか。

 180センチの御堂を優に超える長身、頭にはボルサリーノ帽、黒い外套から覗く素肌は透き通るように白く、腰まで垂れる長い金髪は輝くような金色だ。そして、髪と同じ金の眸が丸眼鏡の奥から御堂を見詰めている。

 御堂は、こくりと唾を呑み込み口の中を潤すと、ゆっくりと口を開いた。

 

「……Mr.Rというのがあなたか?」

「ええ、そうです」

 

 美しい笑みを添えてMr.Rは答える。

 

「どうして、私の名を知っている?」

「……あなたがここに現れたということは、佐伯さんは呪いに呑まれてしまったのですね。残念なことです」

 

 Mr.Rは御堂の問いに答えずに、そう言った。

 残念、と言う割にはMr.Rの顔には完璧な笑みが張り付いているが、金に輝く瞳には何の感情も見てとれない。それどころか、まるで肉食獣が御堂を食うに足る獲物かどうか検分しているような冷徹さがあった。

 それよりも、Mr.Rが口にした『佐伯』という言葉に反応する。

 

「Mr.R、あなたには佐伯の記憶があるのか」

「ええ」とMr.Rは頷く。

「佐伯さんとは旧い知り合いです」

「旧い知り合い? 失礼だが、あなたのような知り合いがいるとは知らなかった」

「私はあなたのことを良く存じ上げておりますよ」

「……」

 

 Mr.Rの口調はまるでこの状況を愉しんでいるかのように軽やかな響きがあった。

 克哉を知っている自分以外の者と出会えたという喜びはなかった。それよりも、目の前の男に対する本能的な拒絶が先行する。

 Mr.Rと名乗る男の振る舞いや口調はいちいち丁寧で、どこまでも優美だ。だが、その雰囲気は底知れず、普通の人間とは違う異質なものを感じさせる。この男の声が鼓膜を震わせるたびに御堂の背筋が粟立った。目の前に立っているのは得体の知れぬ何かだ。

 できることならこの場から一刻も早く立ち去りたかった。それでも、この怪異に対処できるのはこの男しかいないという克哉の言葉を信じて、かろうじて自分を律する。

 

「あなたならこの怪異を何とかできると佐伯に聞いた」

「そうですね、ただし、あなたがその怪異を捉えることができたのならという条件付きでしたが」

「呪いを解く方法は分かった」

「ほう……?」

 

 探るような眼差しを受け止め、御堂は言葉を続ける。

 

「『牛の首』という怪談を知っているか?」

「はて……」

 

 Mr.Rは首を傾げる。その仕草ひとつとっても計算されつくしたかのような完璧な優雅さがある。

 

「その怪談はとてもおそろしい話で、その話を聞いたが最後、あまりの恐怖に三日以内に死んでしまうという話だ」

「それはまた怖い話ですね」

 

 まったくそう思っていない素振りで、Mr.Rは相づちを打つ。御堂は構わず続けた。

 

「だが、その実態は『存在しない怪談』なのだ。誰もその話の内容を知らない。今までに聞いたことがないほどのおそろしい話、とだけ伝わっている。実在しないことが、この話を恐怖たらしめている真髄なのだ」

 

 小松左京が1965年に同名の小説を書いているが、同様の怪談は以前から存在しており、そもそもの発端は謎に包まれている。『牛の首』のように実在しないものを恐怖めかして語られるのは、現代においてもネット上でよく見かける光景だ。

 

「だから、この怪異の元となる消えた友人の名は最初から存在しないのではないか。『存在しないこと』こそが、この怪異の本質なのではないか」

「なるほど、面白いお話です。あなたは怪異の正体を視た。そして、どうやって呪いを解くのでしょうか」

「まず、私の話を聞いてもらおうか。大学生が廃墟のビルに肝試しに行った話だ」

 

 Mr.Rは金の眸を眇める。御堂はかまわず話を始めた。話を始めれば言葉が自然と紡がれる。御堂の口を借りて、別の誰かが喋っているかのように。そして、終わりにさしかかる時に、御堂は息を詰め、意識して言葉を途切れさせる。御堂の口を勝手に借りて現れようとするその話の主導権を取り戻し、自分の言葉で最後を語る。

 

「この怪談でいなくなった友人の名前は――――だ」

 

 御堂がその名を口にした瞬間、夜の公園の生ぬるく澱んだ空気が一瞬で張り詰めた。

 御堂は、本来の話では抜け落ちていた部分に、名前を入れた。念のため、実在する誰かと同じになったりしないように、慎重に調べて珍しい名前を作り上げた。そう、架空の名前だ。

 御堂は話し終えて大きく息を吐いた。話し終えた瞬間にどっしりと重い疲労がのしかかってくる。何かが成し遂げられた実感があった。

 手足が鉛のようで、立っていることさえ辛かったが、対するMr.Rは涼しい顔を保っている。御堂は呼吸を整えて、ふたたび口を開く。

 

「……名前がないのなら、名前を付ければいい」

 

 単純なことだ。人は未知のものに恐怖を覚える。未知とは想像の及ばぬ範囲にあるものだからだ。それならば、未知ではないものにしてしまえばいい。

 

「名前は物事を規定し、人の手に取り扱えるものに固定することができる」

「ほう……」

 

 克哉はおそらくこの単純な事実に気付いた。だがそれを伝える直前に消えてしまった。

 呪い、という言葉とは裏腹に、この怪談話からは怨念めいたものを感じない。恨みを晴らすというよりは、聞いた者を無差別に怪異に巻き込むという自律したプログラミングのようなものだ。それこそウイルスのように、自分自身を複製しながら宿主を次々と乗り換えていく。

 そして今、御堂が名前という最後のパーツを入れ込んだことで、人の手に負えなくなった怪談話を、単なる怪談話に落とし込むことができた。もう、この話は力を持たない。どこにでも転がっている数多の怪談話のひとつになった。

 Mr.Rが金の眸を眇める。

 

「すばらしい」

 

 そう呟いて、Mr.Rは革手袋に包まれた右手をすっと空中へと伸ばした。長い指先が複雑に動き、闇の中で何かをたぐる。次の瞬間、Mr.Rは空中から煌めく糸のようなものを引っ張り出した。Mr.Rはその糸を闇の中からゆっくりとたぐり寄せる。Mr.Rによって引き抜かれたそれは一本の長い金色の糸で、暗い中でも僅かな光を受けてきらきらと輝いていた。

 Mr.Rはその糸を前に恍惚とした笑みを浮かべ、指を離した。ふわり、と空中に投げ出されたそれは、何かしらの意図を持っているかのようにMr.Rへとまとわりつくと、そのままMr.Rの金の長い髪の中へと収まった。そこで御堂はようやく気付く。あの金の糸だとおもったのは、一本の長い髪の毛だったのだ。そして、Mr.Rの一部となった。

 Mr.Rは帽子を取ると御堂に頭を下げて礼をする。帽子の下にあった眩(まばゆ)いほどに輝く髪に目を奪われる。

 

「ありがとうございます。御堂孝典さん。面白いものをみせていただいて」

「これで、すべては元に戻るのか」

「ええ、ここに封じましたから」

 

 Mr.Rは自分の髪に触れた。よく見ればMr.Rの髪は単なる金色ではなく、それ自体が発光しているかのように淡く輝いている。さらに髪の毛一本一本が生きているかのように、風もないのにさわさわと蠢いている。

 もしや、この髪のすべてが、おぞましい怪異のなれの果てなのではないか。この男はこのような無数の怪異を自らの眷属として髪に取り込んでいるのではないか。

 そう思った瞬間、ぞわりと冷たいものが背筋を這い上った。

 この男は我々側の存在ではない。それを本能的に思い知る。人間に擬態した人間以外の存在、それがこの男だ。

 このMr.Rという男こそ、最大の怪異ではないのか。

 御堂は形容しがたい悪寒に襲われる。肌には鳥肌が立ち、指先まで寒気を感じている。

 恐怖が喉元まで込み上げる御堂を前に、Mr.Rは完璧な笑みを深める。

 

「御堂さん、せっかくこうしてお目にかかれたのですから、私とお話でもしていきませんか?」

「話……だと?」

「佐伯克哉さんについて知りたくはないですか? 私とどのような関係なのか、あの方にあなたの知らないどのような秘密があるのか」

 

 蠱惑的な声でMr.Rは囁く。それは図らずも御堂の心を惹きつけた。自分が知らない克哉の秘密。それは一体どのようなものなのか。

 だが、御堂はすんでのところで踏みとどまる。

 御堂を見詰める金の眸は蛇のように狡猾で油断のならない光を宿している。

 御堂は自分の中の怖気を振り払うように鋭い声を出して牽制した。

 

「必要ない。佐伯から聞けば良いだけの話だ」

 

 この男の背後に広がる闇はどこまでも深く、底なしの闇だ。決して引き込まれてはいけない。

 御堂はMr.Rの妖しく光る眼光をにらみ返した。二人の間に緊迫した空気が張り詰める。ややあって、Mr.Rは視線を御堂から外した

 

「そうですか。残念ですね。……それでは、私はこれで」

 

 Mr.Rは相変わらず残念だとは思っていない口ぶりで、御堂に背中を向ける。

 そうして、一歩、足を踏み出したところでMr.Rは肩越しに振り返る。

 

「そうでした、最後に……」

 

 Mr.Rは御堂にひと言告げて、あっという間に闇に溶け込んでいった。その姿が消えた瞬間、空気の密度が元に戻り、息苦しさが消える。

 ほんのりと闇が明るくなった気がして空を見上げれば、夜空に丸みのある月が白く冴え冴えと輝いていた。雲がひとつない夜空なのに、なぜ今の今まで月が見えなかったのだろう。

 むせかえるような熱気が御堂を包む。御堂の周囲は今までどおりの見慣れた公園の姿に戻っていた。

(5)
終わりの話

 清冽な朝の光が御堂の瞼を撫でる。空はよく晴れていて、今日も青く突き抜けた空からは強烈な夏の陽射しが降り注ぐのだろう。御堂はそっと瞼を押し上げると、隣へと手を伸ばした。指先に自分のものではない体温が触れる。克哉だ。

 御堂は克哉を起こさぬようそっと上体を起こして克哉の寝顔を眺めた。

 眼鏡を外した顔は貴重だ。顔の中心をまっすぐに走る高い鼻梁に、すっと流れる凜々しい眉。その下の眼球の丸みを覆う薄い瞼には長い睫が縁取られている。形のよい唇も含めて、すべてのパーツの均整が取れていて、理想的な造作なのだ。あまりに整いすぎて人形めいた冷たささえ感じる顔だが、こうして無防備に寝ているときや、素の笑みを見せたときなどはがらりと顔の印象を変える。

 こうして目にする克哉の寝顔に視線が縫いとめられていると、唐突に克哉の声が耳を打った。

 

「そんなに俺の顔が好きか?」

 

 言葉と共に克哉が瞼を押し上げる。

 

「起きていたのか」

「あなたの視線がくすぐったくて起きたんだ」

 

 克哉は御堂に柔らかな視線を重ねてクスクス笑う。ばつの悪さに、御堂はふい、と顔を背けた。いつもと同じ、克哉と迎える朝。それを実感して鼻の奥がつんと痛くなる。

 ふと思い出したそぶりで御堂は克哉に尋ねた。

 

「そういえば、本多君は元気か? 前に一緒に飲んだのだろう?」

「ああ、相変わらずだったさ」

「そうか」

 

 克哉は寝起きの前髪をかき上げて、ベッドサイドに置いてあった眼鏡をかける。そして、何故朝からそんなことを聞くんだ、と言ったように御堂を見詰める。

 克哉は自分の身に何が起きたのかを忘れている。もちろん、本多から聞かされた怪談話も覚えていない。忘れたことも忘れて、昨日まで今までと変わらぬ日常があり、それがこの朝に繋がっていると思っている。

 あの怪談話はMr.Rに封じられて、最初から存在しなかったことになった。

 ようやく戻ってきたのだ。消されていた人間がすべて。消されていたという事実さえ消されて戻ってきた。最初から何事もなかったかのように。

 もちろん、御堂は克哉の失われた記憶について何があったのかを説明する気はない。あの話に触れることは常に危険を伴う。決して語ってはいけないのだ。

 御堂は克哉の手帳を始末した。あの手帳もまた危険だ。もしかしたら、あの手帳を誰かが読むことで、ふたたびあの怪異が再現される可能性があるからだ。

 あの夜、Mr.Rは最後に御堂にこう伝えた。

 

「あなたはこの怪異を蘇らせることができる唯一の人間です。この怪異を完全にこの世界から消し去れるかどうかは、あなた次第でしょう」

 

 御堂が消えた友人の名前を伏せて、誰かにこの話をすれば、あの怪異を蘇らせることができるだろう。ただし、引き換えに御堂の存在はこの世界から消え去る。たった一人、御堂からその話を聞いた人間の記憶を除いて。

 それは甘美な毒のような誘惑でもある。御堂が克哉にこの話をすれば、御堂は完全に克哉のものになることができるのだから。世界中から自分の存在を消し去って、たった一人、愛する人間の心の中にだけ存在するというのも、悪くない。

 だが、御堂はそんな思いつきを心の奥深くに仕舞い込み、しっかりと蓋をする。

 克哉に余計なことを感づかれる前に起きてシャワーでも浴びよう。そう思って、ベッドから脚を下ろしたところで克哉が御堂の手を掴んだ。

 

「まだ時間があるな」

 

 克哉が時計をちらりと確認し、掴んだ御堂の手を引っ張ってベッドへと押し倒す。ベッドから抜け出ようとしたところで引き戻されて、御堂は慌てた声を上げる。

 

「おい、今日は仕事があるんだぞ」

「なんだか、あなたが足りてない気がする。今日が仕事なら、なおさら、いまのうちに補充しないと。いいだろう、御堂?」

 

 小さく首を傾げて御堂を真正面から覗き込むその仕草は、御堂が断る可能性を万に一つも考えていない。それでいて甘えたような声音でねだってくるものだから、あまりにもあざとい。年下の立場を悪用している。

 

「まったく君は仕方がないな……」

 

 御堂は渋々といった風に呟いて、自由な方の手で克哉の後頭部を掴み引き寄せると、自ら克哉に唇を押し付ける。克哉がキスを返しながらニヤリと笑う。

 

「随分と積極的だな」

「まあな。そんな気分の朝もある」

 

 克哉は覚えていないだろうが、御堂だって同じだ。克哉の存在しない世界に放り込まれて、どれほど飢えていることか。

 身体の位置を入れ替えて上になった克哉が御堂に覆い被さってくる。

 この世界に、ふたりで並んで存在していることに意味がある。

 存在しないということは克哉に触れることができないということだ。克哉の滑らかな肌の手触りも、跳ね上がる熱も、筋肉の重みも、響き合う鼓動も、こうしてふたりがいるから、触れて、感じて、分かち合うことができるのだ。

 幸せな夢を見るよりも、夢のような幸せを実感する方が良い。

 だから御堂の選択は決まっている。

 あの話を妖しげな金髪の男ごと、このまま思い出さないようにして、忘れ去って。そして、忘れたことを忘れれば、最後には、何も忘れなかったことになる。

 そうなれば、もう、誰も知らない。

 

END

(6)
あとがき

 最後までお付き合いいただきありがとうございました。
 夏らしくメガミドのホラーに挑戦してみました。お読みの方は分かると思いますが、Mr.Rが好きなのでMr.Rに花を持たせがちです。
 以前からホラー小説は好きで、ホラーテイストのメガミドを書いてみたいと思っていました。
 最初に書いたのは『セイレーンの唄』(書き下ろし同名オフ本および『SKIP』に再録)ですが、こちらは呪いのCDをテーマにしたものの、どちらかというとミステリー寄りな話でした。
 今度こそホラーを書くぞ、と思い立ったは良いものの、ホラー小説は好きでも実は怖がりで、人が死んだり猟奇的なのは自分では書けないなあ、と(読むのは平気なのですが、映画とか画像で見るのは無理ですね…)。
 それで今回、人が死なないホラーに挑戦してみました。ひたひたとにじり寄ってくる怖さみたいのをもっと出せれば良かったなあ、と後悔は残りますが、また挑戦したいと思います。
 本作に出てくる怪談は『隣之怪 木守り(木原浩勝著、KADOKAWA)』に出てくる話を参考にさせていただきました。
 読んだ感想などひと言でもいただければ喜びます。
 それでは、また。

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