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Pomegranate Memory  再会(1)
(1)

「あんたはこうされるのが好きなんだろう」
「やめろ…っ」
 低い声が耳を舐る。背後から強く抱きすくめられ、スーツの布地を通して克哉の熱が伝わるようだ。
 抵抗しようとした分だけ、回された腕に力を籠められ動きを封じられる。
 有無を言わさぬ克哉の行動に、背筋に氷を差し込まれたような冷気が噴き上がる。恐怖とも怯えともつかない感情を無理やり抑えつつ、御堂は努めて冷静に口を開いた。
「私は、君と話し合いをしたいんだ」
「そんなもの必要ない」
「佐伯っ!」
 ククッ、と克哉の喉が笑って首筋を舐めあげられる。今度こそ、ぞくりとした嫌なものが背筋を走った。
――どうしてこうなった?
 事の始まりは、仕事上の些細な言い争いからだった。
 克哉の独断専行を強めの調子で咎めた。
 だが、それが克哉の気に障ったのだろう。人目のない執務室であったことをいいことに、無言で歩み寄った克哉に肩を掴まれ、体を引き寄せられた。
 反射的に逃げようと体を返すと、そのまま腕を掴まれて強引に抱きすくめられる。
 それでも、顔を背けて抗うと顎を掴まれて無理やり唇を重ねられた。
 唇を硬く閉じて、侵入しようとする克哉の舌を拒絶する。
 克哉の手が御堂の股間に伸びた。スーツの上から揉みこまれ、まだ硬くないそこを高ぶらせようとする。
 克哉は御堂の身体を熟知している。どんなに抗おうとも、克哉の指にかかれば強制的に発情させられる。だが、互いの心が空疎にすれ違ったまま行う一方的な行為は、御堂は微塵たりとも望んでいない。
 抑えきれずに溢れ出た感情が臨界点を超えた。
「私に触るな!」
「……っ!」
 バチンと皮膚と皮膚がぶつかる派手な音が響いた。
 振りほどいた手で、克哉の頬を渾身の力で張ったのだ。その衝撃に克哉がよろめき、拘束が緩む。体を捩って克哉の腕から逃げ出した。
 克哉から距離を取って、向かい合う。千々に乱れた感情と、理性を失いかけた自分自身を落ち着けようと呼吸を整えた。
「冷静な話し合いもできないようでは、これ以上、一緒にいても無駄だ。少しは頭を冷やせ」
「……」
 克哉は顔を背けたまま、無言でずれたメガネのブリッジを押し上げた。伏せたままの眼差しで視線だけを御堂に向ける。
 その横顔を見て言葉を失った。
 苦渋とも悲痛とも思える表情が、克哉の端正な横顔を歪めている。
 途端に克哉が分からなくなる。
 克哉が何か言うことを期待して少しの間待ってみたが、静止したまま口を開こうともしない。長い沈黙が落ちた。
 御堂の口から、力の抜けたような諦念混じりのような息が洩れた。
 どうしても、克哉は御堂と真正面から話し合う気はない様だ。
「帰らせてもらう」
 そう言い捨てて、鞄を掴み御堂は足早にAA(Acquire Association)社のフロアを後にし、自宅へと直行した。
 克哉とAA社を立ち上げてから、帰る頻度は少なくなっていた自宅だ。誰の気配もない、がらんとした暗い部屋に安心感を覚えた。
 ネクタイを乱暴に解き、スーツを脱いで、ささくれだった気持ちをなだめる。
 何もする気が起きず、寝る支度だけしてベッドに仰向けに転がれば、どっと疲労感に襲われる。
 なぜ、克哉はいつもああなのだろう。
 強引な手段を用いてでも自分の主張を通そうとする姿勢は、結局のところ初めて出会った時から何も変わっていないのではないか。
 それでも、克哉を愛しているから傍にいるのだ。
 克哉が自分に行った非情な仕打ちは、克哉と共に歩む、と決めた時点で心の中で決着をつけている。自分は克哉を許した。
 だが、過去に克哉に対して覚えた恐怖や憎悪を忘れたわけではない。克哉への想いで洗い流そうと努力しているのだ。
 それを、克哉は御堂を試すかのように、当時を彷彿とさせるような行為を強いてくる。
 先ほどの克哉の苦しみに満ちた表情を思い出した。
 あれは、御堂に頬を張られたことが原因ではない。克哉は御堂が傷付いたことに傷付いたのだ。
 あんな顔をするくらいなら、御堂と真正面から向き合うべきだ。
 子どもじみた衝動に支配されている自分自身を自覚していないわけではないだろう。
 なぜそんな自滅に向かうような行動をとるのか。克哉の心が読めない。
 こんな風にお互い傷付け合うような関係に未来はあるのだろうか。
 迷いは捨てたはずだったのに、未来への不安が心を暗くする。
 御堂と克哉の関係は、この現状にしか辿りつけなかったのだろうか。
 どこかで違う選択をしていれば、もっと、理想的な関係を築けていたのではないだろうか。
 通り過ぎてしまった過去を考えても仕方ない。そう承知していても、癒すことのできない傷だらけの過去を持て余してしまう。
 大きく息を吐いて、疲労に緩んだ瞼をゆっくりと閉じる。
 不意に、抜け落ちていた記憶の片鱗が意識の奥深くで煌(きらめ)いた。
――ああ、そうだ。私は、もう一人の優しい克哉を知っている。
 眠りに引き込まれる意識の中で、輪郭のあいまいなおぼろげな記憶を手繰り寄せる。
 とても愛おしく切ない感情がどうしようもなく込み上げてきた。
――会いたい。
 無性に克哉に会いたかった。先ほどまで顔を突き合わせていた克哉ではなく、もう一人の克哉に。
 その時、ふわりと果実のような甘い香りが鼻腔を浸した。この香りはなんだったのだろう。その疑問に答えが出る前に、意識は深い泥沼のような眠りに引きずり込まれていった。



 明るい陽射しが壁一面の窓から差し込む。部屋の中に冬の朝の透明な光が満ちる。
 暖かく感じるのは日差しのせいだけでない。確かな、実体を持った熱が体の横にある。
 その熱の在処(ありか)を確かめたくて、意識を引き上げる。瞼をうっすらと震わせた。
「おはようございます」
 傍らから聞こえてきた声の方向に黒目を向けた。そこにはベッドの上で上半身を起こした克哉が御堂を見下ろしていた。均整の取れたしなやかな裸体を、澄んだ朝の陽ざしが輝かせる。
 驚いて跳ね起きた。
「佐伯!いつの間に入ってきたんだっ!」
 御堂の言葉に克哉は目を丸くして、次の瞬間、相好を崩して声を立てて笑い出した。
「珍しいな。御堂さんが寝ぼけるなんて」
「からかっているのか」
 眉間に深く皺を刻み、硬い声で返す。
 克哉は含みのない顔でひとしきり笑うと、鼻先が触れ合う距離まで顔を近づけた。
 レンズを通した克哉の眸が可笑しそうに緩んでいる。
「まあ、昨夜は激しかったですし。仕方ありませんか」
「はあ?」
 御堂の戸惑いを無視したまま、克哉の指先が御堂の首筋から胸元をすうとなぞった。その指が止まったところに視線を落とせば、鮮やかなキスマークが付けられている。その色から見て、確かに昨晩つけられたのだろう。
 克哉も御堂も裸だ。昨夜寝るときはパジャマに着替えたところまでは覚えている。真夜中に侵入した克哉にパジャマを剥がされ、挙句キスマークまでつけられたのだろうか。
「佐伯…っ!」
 怒りが沸き上がる御堂とは裏腹に、克哉は何の悪気もない顔で、部屋の中を見渡した。
「俺の引越しの準備は出来ていますし、今日はドライブでも行きますか」
「引越し?」
 克哉の視線をたどって御堂は部屋の中を見渡し、驚きに言葉を失った。ここは、昨夜帰った御堂の部屋ではない。かつての、御堂が売り払ったはずのマンションだ。
 懐かしいはずの光景が鮮やかに実体をもって目の前に広がっている。
 なぜここにいるのだろう。
 混乱する一方で、完全に覚醒した意識が、すとんと腑に落ちたように状況を理解する。
 意識の奥深いところにしまい込まれていた、もう一つの記憶が生々しく蘇る。同時に、昨夜、AA社で克哉と争った記憶が薄らいだ。
 そうだ。そうだった。
 いつもと同じように、昨夜、恋人の克哉が御堂のマンションに泊まりに来たのだ。
 AA社はまだ稼働していない。だが、御堂も克哉をMGNを退職し、準備の最終段階で起業はもう間もなくだ。そして、明日には克哉がAA社の上のフロアの部屋に引っ越す。
 何を自分は怒っていたのだろう…?
 先ほどまでの怒りがあっという間に霧散する。目の前の克哉に対する愛おしさが胸の内を占めてゆく。
 克哉はそんな御堂の意識の変化に気付かぬまま、上掛けを取り払って背を向けると、ベッドから床に足を下した。肩越しに振り返る。
「引越しの手伝いは要りませんから。暇そうな奴にあたりを付けている」
「本当に、職場の上に引越しする気か」
「俺には分不相応とでも言いたいんですか」
「…いや、ここを使えばいいじゃないか。空いている部屋もある」
 引き留める言葉に克哉はくすりと笑った。
「これから忙しくなるからな。すぐ近くに休める部屋があった方がいいだろう」
 克哉は大きく体を捩じると、御堂の耳元に口を寄せて低い声で囁いた。
「でないと、俺が御堂さんを欲しくなったら、職場で抱くことになりますよ」
「馬鹿なこと言うなっ」
 赤くなって怒る御堂に克哉が喉を短く鳴らした。
 とはいえ、克哉が言ったことは嘘ではないが、建て前だということも分かっていた。MGNでは上司と部下という立場だったが、新しい会社を興せば、克哉が社長で御堂が副社長になる。副社長の部屋に転がり込んでいる状況では、確かに示しがつかないだろう。
 それに、克哉も男だ。御堂の前でいい格好をしたいのだ。その心意気は嫌いでないし、むしろ好ましいものだ。
「朝食にでもしますか」
「……佐伯」
 ベッドから降りようとする克哉の腕を掴んで引き寄せた。
 振り向いた克哉の顔に自ら顔を寄せて、唇を重ねる。
 結ばれている唇を綻(ほころ)ばそうと、その隙間に舌をゆっくりと差し込んだ。瞼を落としながら、克哉の反応を伺うように丁寧に唇の輪郭を辿り、撫でる。
 克哉が御堂の口づけを静かに受け止めていたのはほんの数秒で、わずかに開いた唇が御堂の唇を甘噛みした。克哉の手が後頭部に回されて、押さえられる。啄むように音を立てて、キスを深く噛み合わせていく。克哉の舌が御堂の舌に絡まった。徐々に激しさを増し、貪るようなキスになる。口内を克哉に埋められていく。
 重ね合わすのは唇だけではない。
 克哉の締まった背中に両手をまわして抱き寄せた。抵抗はなく、流れる仕草で肌が触れ合い、そして重みがかかった。ゆっくりと背後に倒され、ベッドに沈む。暖かな陽射しの匂いがする男に覆い被さられる。
 唇と肌を深く重ね合わせて、それでも、更に克哉が欲しくて、背中に回した手に力を込めた。
 粘膜と粘膜を触れ合わせる甘く官能的なキス。求める分だけ返してくれる。互いに抱く愛しい感情を余すところなく伝え合う。
 昨夜の克哉に対して抱いた不安、怯え、怒り。全ての負の感情が溶かされ、洗い流されていく。心のどこかでずっと求めていたのだ。今の自分の腕の中にいる克哉を。
 名残惜しくキスを解いた時には、触れる肌がキスから生じた熱でうっすらと湿り気を帯びていた。
 唇を触れ合わせたまま、聞き取りづらいほどの微かな声で囁いた。
「会いたかった」
「何ですか?」
「いや、なんでもない」
 何か言いたげな克哉の口を自らの唇で封じる。
 お互いの隅々まで知り尽くした身体は、柔らかく重ねるだけでも蕩けるような快楽が生まれる。
 肌の間に生まれた熱を、大きく深く育てるように、唇で吸い合う場所をずらしつつ相手を求めあった。

 結局、二人がベッドから這い出たのは数時間後のことだった。
 すっかり日は高くなり、高い空は青く輝いている。
 明るいダイニングで朝食兼昼食を取りながら、克哉は口を開いた。
「この後、ドライブで遠出でもします?起業したら、二人のオフは中々取れなくなるかもしれませんし」
「そうだな……」
 考え込む御堂をよそに、克哉は食事に使った食器を手早く片付けていく。
 克哉は御堂の部屋の物のある場所を熟知していて、ごく当然のように、御堂の部屋のキッチンに入り、慣れた仕草で冷蔵庫を開ける。その克哉の姿を、視界の端で眺めた。
「っ……!」
 不意に、この部屋に監禁されたときの光景がよみがえった。目の前の克哉の姿が自分の部屋を我が物顔で蹂躙していた克哉の姿に重なった。
 ギュッと心臓を凍えた手で鷲掴みされたような衝撃が走った。皮膚を突き破りそうなくらい心臓が大きく打ち出し、乱れそうになる呼吸を必死に抑える。冷汗がこめかみを伝う。
 克哉が冷蔵庫にバターを入れて扉を閉め、ゆっくりと御堂に振り返った。その顔に浮かんでいるのは嗜虐の笑みではない。御堂の恋人の顔だ。克哉は御堂の顔を見て、怪訝な表情を浮かべた。
「どうしました?」
「いや……」
 開ききった瞳孔と青ざめた顔を克哉に向けていたのだろう。
 大丈夫だ。この世界にそんな事実はない。目の前の克哉はそんなことを行う人物ではない。あれは、悪い夢だったのだ。
 そう自分に言い聞かせて、意識を侵食しかけた悪夢を意識から拭い去った。表情を必死に取り繕う。
 だが、本当にそうなのだろうか。意識の奥深いところに刻み付けられている、膿んだようにじくじくと痛む記憶は、本当に存在しなかったのだろうか。
 御堂を慎重に伺う眼差しを射(さ)してくる克哉に、意識して笑みを形作る。
「佐伯、寄りたいところがあるんだ。付き合ってくれるか」
「もちろん」
 どことも聞かずに克哉は即答し、端正な笑みを御堂に返した。御堂もそれ以上を説明しない。それでも全てを受け止めてくれる心地よさに、緊張がほぐれ、作り物の笑みが本物の笑みに取って代わられる。
 多くを語らなくても通じ合える、この気の置けない関係を築き上げたのは、出会ってから今まで一年以上親密な関係でいた故であろうか。それとも、二人の関係に影を落とすような出来事が存在しないからであろうか。
 暖かな陽射しに包まれるような安堵感と、二人の間を流れるゆったりとした時間。心の中に巣くっていた不安が、淡雪のように消え去っていく。
 こうやって気持ちを交わして、唇を交わして、不安も苦しみも、二人の間の全ての嫌なものを溶かしていくのだろう。
 それはとても理想的な克哉との関係だ。
「それじゃあ、出発しましょうか」
「ああ」
 克哉ににこやかに微笑みを返した。

(2)

 マンションの駐車場から、自分の車を出す。助手席に克哉を乗せて向かった先は、マンションから車で30分ほどの都内のオフィス街だった。目的のビルは記憶通りの場所に記憶通りの姿でそびえ立っていた。
 車を路肩につけて停止させ、車内からビルを見上げた。助手席の克哉も御堂の視線を辿って、そのビルに眼差しを向ける。
「あそこのビルに用事があるんだ。私は先に降りる。車を停めておいてくれ」
「はい?」
 サイドブレーキをかけて、運転席から降りると助手席から降りてきた克哉に鍵を渡した。呆れ顔の克哉を置いて、足早に目当てのオフィスビルの中に入った。
 ビルの内装も記憶通りだ。ロビーフロアに入って、エレベーターホールに掲げられている案内板を確認すれば、4階から7階を占めるフロアに予想通りにその会社の名が記されていた。
 エレベーターに乗ろうとして思いとどまる。流石に、休日は営業はしていないだろうし、それに、行ったところでどうになるわけでもない。
「御堂さん」
 車を置いてきた克哉が、御堂を追いかけてビルに入ってきた。御堂が眺めていた案内板を横から覗き込み、ぼそりと呟く。
「L&B社はこのビルに入っていたのか」
「L&B社を知っているのか?」
 驚いて聞き返す。
「ええ。先日の複合型商業施設の企画コンペに応募してきた企業ですよ。まだ、歴史が浅い外資系で、勢いはあるが、大規模な企画の受注実績は乏しい。企画内容は俺が確認しました。内容は悪くなかったが粗削りで。確か、一次選考で落としましたよ。……御堂さんこそ、この社に用事ですか?」
 そうだった。
 その時の御堂の記憶が鮮やかに蘇る。こちらの世界では、MGN社での最後の仕事となった複合型商業施設のコンペは、L&B社ではなくMGN社と取引実績がある大手企業が選ばれ、そこと契約したのだ。
「佐伯、私がL&B社の企画を作っていたら、お前はL&B社の企画を採用していたか」
「何をいきなり…」
「例えばの話だ。知りたいんだ」
「……そうですね。採用していたと思いますよ。御堂さんが作った企画でしょう?名前が伏せられていたとしても、俺は見抜く自信があります」
「内容以前に、私の企画だから君は採用するのか」
 克哉は口の中で「随分と厳しいですね」と呟いて苦笑した。
「いえ、正確には、御堂さんの名前だけじゃ採用しません。もちろん中身は吟味しますよ。ですが、御堂さんの企画ならそのクオリティは保証されている」
 答えになっているような、なっていないような回答だ。だが、この世界では存在しえなかった事実の理由を、どれほど突き詰めても真実は得られない。そもそも、その真実自体が存在しないのだ。
 ふう、とため息をついて、踵を返した。後ろから克哉の声がかかる。
「ところで、このビルに何の用事があるんですか」
「いや、もう済んだ。車は?」
「近くのコインパーキングに停めましたよ」
「それなら、すこし周りを歩こうか」
「は?」
 訝しむ克哉を無視して、ビルから出た。
 周囲を見渡せば、その光景を見知っている気がする。いや、知っているのだ。
 建物の谷間を縫って、乾いた怜悧なビル風が御堂に叩きつけられる。肌の表面の熱を瞬時に奪われて、首をすくめた。
 歩道のある一点に視線が自然と縫いとめられる。あの日、あそこに立っていた克哉を御堂は追いかけた。
 そういえば、あの日もこんな寒さだった。だが、空は重い雲が覆い、そして雪のちらつく日だった。
 その時、ふわりと首元に柔らかな温もりを感じた。無言で近寄った克哉が自分のマフラーを御堂の首にかけなおしたのだ。マフラーを通じて、克哉の熱を渡される。
 車の中に自分のマフラーもコートも置きっぱなしにしてしまったことを思い出した。
 克哉もコートは置いてきていたようで、御堂にマフラーを渡してしまった今、シャツの上にジャケットだけの心許ない服装だ。
「ありがとう」
「一度、車に戻りますか?」
「君は寒いか?」
「いいえ」
「じゃあ、いい」
 そのままずんずんと歩いていくと、克哉が半歩離れて黙ったままついてくる。御堂の好きにさせることに決めたらしい。
 少し歩いて、住宅用のマンションが立ち並ぶ区域に出た。そして、探していた外観からすぐにそのマンションを見つけた。自分の部屋を引き払ってから移り住んだマンションだ。
 自分が住んでいた部屋のあたりを見当をつけて見上げた。高層階のその部屋は、地上からでは中は全く伺えないが、御堂ではない誰かが住んでいるのだろうか。
 だが、確かに存在したのだ。自分のもう一つの記憶にある歴史が。そして、もう一人の克哉が。
 その事実を突きつけられても、心のどこかで自覚していたのだろう。酷い動揺はなく、一歩引いたような冷めた目で理解する。
 並行世界(パラレルワールド)。
 SFの中だけの話だと思っていた。
 自分は同じ時間軸で、二人の克哉と二つの歴史を生きたのだ。そして、今、二つの記憶を持っている。
 少なくとも、昨日まではどちらの世界でも、自分は何も疑問に覚えずにそれぞれの克哉と過ごしていた。
 不思議の国に迷い込んでしまったような、足元が覚束ない感覚に陥る。なぜ、突然、こんなことになったのだろう。いや、前にも同じ経験をしたような気がする。だが、その時の記憶が判然としない。
 御堂の横に並んで同じ建物を見上げる克哉を、ちらりと盗み見た。この存在感は夢ではない。肌の質感も、感じる熱も、聞こえる呼吸の音も、紛れもない現実のものだ。
 視線に気づいたのか、克哉が御堂に顔を向けた。形の良い唇の端に微笑みを乗せる。
「で、次はどうするんです?」
「君の今の部屋を見せてくれないか」
「俺の部屋?明日には引越しするのに?」
「だから今見ておきたいんだ」
「分かりましたよ」
 克哉の案内で車を停めていた駐車場に向かう。
 俺が運転します、と克哉が御堂に手を差し出した。その手に車のキーを渡し、素直に克哉に運転席を譲る。記憶を手繰れば克哉の部屋の住所も御堂は知っていた。その部屋に何度か訪れた記憶もある。
「癖の強い車ですね」
「それは君が国産車しか運転していないからだろう」
 そう言いつつも、克哉は滑らかなハンドルさばきで、入り組んだ細い路地に入って、部屋の近くの時間貸しのパーキングに車を停める。克哉の後に付き従った。何の変哲もないアパートの部屋の前に立つ。
 克哉が扉を開けた。
「どうぞ」
「物が少ないんだな」
「御堂さんの部屋に置いてあるものもありますし。俺の世代の一人暮らしの部屋なんてこんなものですよ」
 引越し前の部屋らしく、私物は茶色の段ボールの中に詰められて、空っぽになったいくつかの家具とシングルのパイプベッドがワンルームの部屋に置かれている。
 克哉がつかつかと部屋の中に入り、自分のベッドに腰かけた。暖房のスイッチを入れる。
 促されて、御堂も部屋の中に入り、克哉の横に腰かけた。
「こんな部屋だったのか」
「何度か来た事あったでしょう。まあ、興味はなさそうでしたが」
「そんなことはない」
 もう一つの世界の御堂は、克哉のこの部屋を見る機会はなかった。克哉の私生活を覗く勇気を持つ前に、克哉が引越しをしてしまったのだ。見ておけばよかったと、後から少しだけ後悔したものだ。
「満足しましたか?」
「ああ」
 生返事をしつつ、落ち着きなく部屋の中を見渡す御堂を克哉は忍耐強く見守る。互いへの信頼感があるのだろう。ただ傍にいるだけで心地よい。
 克哉の言う通り、何の変哲もない一人暮らしの男の部屋だ。
 ひとしきり部屋の中を確認すると、克哉に視線を戻した。
「ベッドはこれじゃなくて大きいものに買い替えますから、安心してください」
「こんな安物のスプリングでよく寝られたな。体が痛くなる」
「もうそんな歳ですか」
「佐伯っ!」
 睨み付けると、「冗談ですよ」と克哉がクスクスと肩を揺らして笑い出した。
 悪態でもついてやろうかと眉を潜めてみるが、克哉の笑顔につられて、どうも緊張が緩む。
 そう言えば、こんな無防備な笑みを見せる克哉も珍しい。いや、こちらの世界の克哉はよく笑う。何の翳りもない美しい笑みだ。見る者の気持ちを蕩かす。
 その顔をまじまじと見詰めていると、克哉と視線がぶつかった。
「俺に見惚れたか?」
「自信過剰だな……んっ」
 今度こそきつい一言をお見舞いしてやろうと、開きかけた口を唐突に塞がれた。
 唇に重みを感じる。反射的に逃れようとした後頭部に手をまわされて押さえられる。易々と侵入を許してしまった克哉の舌に自分の舌を舐めあげられる。なまめかしく粘膜同士を触れ合わせれば、腰の奥がずくんと重く痺れ始める。
「佐伯、まだ明るいぞ」
「今更だ」
 レンズ越しの至近距離にある双眸は濡れて輝く。
 克哉の手が器用に御堂の服を脱がしていく。負けじと克哉の服に手をかけて、互いに服を脱がし合う。
 下着をずり降ろされて、双丘の奥に指を潜り込まされた。克哉にすっかりと慣らされた窄まりは、克哉の指に触れられて大きくひくついた。
 両下肢を大きく開かされて、その間に克哉が陣取る。淫猥に動く指に、短い呻きを上げて、首を反った。その首筋を顔を寄せた克哉に、ぬるっと濡れた舌先で辿られる。身体を支えるために、背後のマットに手をつきながらも、身体を侵す甘い痺れに、四肢が細かく引き攣れる。
 中をいじくっていた指が抜かれて、克哉の露わになった欲望がそこに押し当てられた。触れた先端から熱い圧迫感が生じる。
「ああっ!」
 先端が入り込んでくるその苦しさに腰を捩って、ベッドをずり上がろうとする。その身体を克哉に押さえつけられて、えらの張ったところまで捻じ込まれた。克哉が動きを止める。一番太い部分を受け入れさせられて慣らされると、より深いところに繋がりが欲しくなる。粘膜がうごめいて、克哉を食いしめ、奥に引き込もうとする。だが、克哉はそれ以上腰を進めようとしない。
「さ、えき……っ」
 その先を求めて、呼吸が淫らに弾む。乞うように切なげに克哉の名前を呼ぶが、克哉は意地の悪い笑みを浮かべた。
「このアパート、壁が薄いんですよね。ベッドも安物のスプリングで軋みますし。場所を変えますか?」
「馬、鹿…っ」
 こんな中途半端な生殺し状態で、身体は狂おしく克哉を渇望している。眦を朱に染めながら、克哉に懇願の眼差しを向けた。
「やめるなっ……お願い、だから…」
「その顔でそのおねだりは、反則だな。抑えが効かなくなる」
 克哉がゆっくりと腰を使いだす。少しずつ深まる繋がりに大きな声を上げそうになった。手の甲で口を押さえようとして、克哉に手首を掴まれ阻まれる。
「遠慮するな。あんたのいい声、聞かせてやれよ」
「いやだ…っ、あ、くぅっ」
 克哉が軽く腰をゆすれば、堪えきれない快楽に声が漏れる。それをどうにか抑えようと、唇を噛みしめた。
「仕方ないな」
 そう克哉が呟いて、喘ぐ御堂の口に濡れた唇を押し付けた。舌を絡められて、それでも零れる甘い喘ぎを克哉の唇に吸い取られる。
 次第に激しく大きな律動となり、身体の中をかき回される。その度に感電したように身体が小刻みに震えた。ベッドがギシギシと大きく軋み、体内の快楽が奔流となり溢れだす。
「佐伯っ、音、が…。あ、あ、……く、はっ」
 この先に待ち構える深い官能を求める欲望と、隣人に聞こえているかもしれない羞恥に狭間で、ギリギリの縁にしがみついて悶える。
「御堂さん」
 克哉が、御堂の乳首を指で爪弾いて快楽をあおりながら、口を耳元に寄せた。
「実は、このアパート取り壊しが決まっていて、もう、住民は誰もいないんですよ」
「は…?……あ、ふっ」
 大きな動作で、腰を引く。ギリギリのところまでペニスを抜かれて、粘膜を引きずり出される感覚に悶えうつ。
「だから、好きなだけ声を出してイっていいですよ」
「いっ……はっ、あ…あああっ!」
 克哉が引いた腰を根元まで深く突き入れた。最奥まで強く抉られ、身体が跳ねた。どっと精液がしぶき、ガクガクと腰が引き攣れる。絶頂による恍惚の波にさらわれて、ぐったりと身体から力が抜けていく。それを克哉の長い腕に支えられた。
「まだですよ、御堂さん」
「か、つや…」
 絶頂後のわななく身体と熟れた粘膜に、克哉は射精間近の特有の動きで自分の極限まで硬く大きくなった器官を刻み付ける。
「愛していますよ、孝典さん」
「私も、君を…」
 愛している、そう続く言葉は自らの喘ぎに掻き消された。深く体内に入り込んでいる克哉の絶頂を、粘膜で直に感じ取る。克哉が吐き出す粘液を恍惚に震えながら受け止めた。


 窓の向こうから強い西日が部屋に差し込んでくる。
 情欲の名残が残る肌を撫でられ、ゆるく開いた唇に口づけを落とされた。
 激しく果てたせいで怠く重い身体を、克哉が労わるように触れてくる。その感触は淫らではなく、安堵を与えるような触れ方だ。それはとても気持ちよく、いつまでも浸(ひた)っていたい幸福感を紡いでいく。
 いい加減起き上がろうと、ベッドに肘をついて身体を小さく立てた。察した克哉に抱き起される。克哉が御堂の後頭部に手を差し込んで、乱れた髪を手櫛で撫でつけていく。
「それで、今日は一体どうしたんです」
 さりげない声音で問われて、頭を克哉の手に預けながら、ぽつりと呟いた。
「長い夢を見ていたんだ」
「夢?」
「……君と出会ってから今までの夢を。夢の中の君は酷い男だった。私は君にいいように嬲られて、そして捨てられて」
 克哉は口を挟むことなく、御堂が語る言葉にじっと耳を傾ける。それを思い出すことはつらいことだ。そして、語ることはもっと苦しい。だが、目の前の克哉に隠し事はしたくない。
 語り終わっておそるおそる克哉を見れば、険しく考え込むような表情が目の前にあった。長い沈黙の後、口を開く。
「俺がもし、本当にそんなことをあなたにしたなら、俺は自分を許せない」
 その言葉がすとんと胸の閊えを取り去った。
――そうか、君は自分を許していないのか。だから、自分を傷つけようとしているのか。
 この世界では、克哉に嬲られたという事実は存在しない。だから真実は分からない。それでも、克哉の言葉はもう一人の克哉の心の深いところを指し示しているように思えた。
「だが、夢で良かった」
 二人の間に降りた嫌な空気を払しょくするように、克哉は努めて明るく口を開いた。
 御堂はそんな克哉を視界の真ん中に置きながら、静かに首を振った。
「違うんだ、佐伯。こちらの世界の方が夢だったんだ」
「……何を言っている?」
 克哉が鋭く息を呑み、その目が大きく見開かれた。
「二つの世界、片方が夢で、他方が現実なんだ。冷静に考えればわかる。もう一つの世界の君がいなければ、私は君のことを愛することはなかった。そうなれば、この世界は存在しない。だから、向こうが現実で、こちらが夢だ」
「信じられない。あんたの言う、もう一人の俺は、本当に俺なのか?」
「ああ、君だ。ただ、君よりも意地悪で、強情で、酷い男で。だが、嫉妬深くて独占欲が強いのは君と変わらない」
 小さく微笑んで付け足した。
「そして、君と違って、時折、苦しそうな顔をする。君であることは間違いないのにな」
「……」
 御堂と克哉の間に起こった出来事が、克哉の在り方を変えた。いや、克哉だけでなくて自分もその在り方を変えた。
 あの過去の出来事は今でも御堂を脅かす。それでも、それを拒絶することは今を否定することになる。
 御堂は、今の自分を受け入れている。過去に戻りたいわけではないのだ。二人でともに未来へ向かって歩みたいのだ。
「君が教えてくれた。佐伯は自分を許していない。そして、その罪と罰から佐伯を解放できるのは私だけなんだ」
 その決断を御堂は既にしていたはずなのに、何故か、再びこの世界に舞い戻ってきている。
「だから、私は向こうに帰らなければいけない」
「御堂?」
 二人の間に数秒間の密度の濃い沈黙が降りた。意を決して、御堂は口を開いた。
「私は、君に別れを告げるためにこの世界に戻ってきたんだ」
 これがきっと答えだ。御堂が今ここにいて、この克哉と邂逅していることに理由があるとしたら。
「別れ?」
「すまない。君との約束を守れない。私は君とともに歩むことは出来ない」
 はっきりと言い切ったその瞬間、世界が大きく震えた。
 目の前にある全ての事象の輪郭がぶれて滲む。
 御堂が存在すべき世界が選択された。対立する事象は同時に存在しえない。全ての確率事象は片方の世界に収束し実在化する。その一方で、他方の世界は概念ごと棄却される。そして、御堂が選んだのはこの世界ではない。
「どうなっている?」
 克哉が驚いて御堂とその周囲に忙しなく視線を移動させる。
 克哉も気付いたのだ。御堂とこの世界が分離することに。克哉の目にはどのように映っているのだろう。御堂の存在が儚く揺らめいているのだろうか。
 そもそも、この世界はなぜ存在するのだろうか?選択されなかったこの世界はどうなる? 
 それを深く突き詰めれば残酷な答えにたどり着きそうで、胸が引き裂かれそうになる。
 ここは御堂の楽園だ。御堂のために用意された世界なのだ。それなのに、御堂は自らが望み願ったこの世界を捨てる。主を失った世界は存在する意義を失う。
 そして、目が覚めた時には、この世界とこの克哉の全てを忘れて何の疑問も持たずに、御堂はもう一つの世界で生きていくのだ。
 眦に溜まった涙が溢れだしそうになるのを堪える。自分はなんと非情な仕打ちを行っているだろう。この世界の克哉には何の落ち度もないのに。
 克哉が御堂の存在を確かめるように、強い力でぐいと御堂の頭を抱き寄せた。振動でこぼれた涙が克哉の鎖骨を濡らす。まだ二人の世界はかろうじて繋がっている。
「……御堂、俺から逃げられると思っているのか?」
 突如聞こえた低い声に、びくりと身体が慄いた。頭を上げて、自分を見下ろす克哉の顔を目にして、冷水を浴びせかけられたような衝撃が走る。
 その顔は見たことがある顔だった。底光りするような射貫く眸と嗜虐の笑みに、ぞくりと背筋が寒くなる。心臓が早鐘を打ち出す。
 克哉の本質は、やはり克哉なのだ。御堂を凌辱しつくした克哉も、御堂を優しく抱く克哉も、同じ克哉に根差しているのだ。目の前の克哉が秘めていた牙を剥く。
「俺のしつこさはよく知っているだろう?あんたがどこに逃げたって、追いかけて、見つけてみせる。そして捕まえてやるさ」
「佐伯……!」
 回された腕に力が籠る。息苦しいほどの力に、体を強張らせて喘ぐ。
 だが、これは身勝手な自分に対する報いなのだろう。そう納得し受け入れようとしたところで、克哉の顔を見て言葉を失った。
 瞬きもせずに、御堂に真っ直ぐと向けられた眸は薄く濡れている。克哉は唇を歪ませた。
「こんなことなら、あんたのこの怯える顔をもっと見ておけばよかった。残念だった。……失望したか?俺はこんな人間なんだ」
 全ての感情を抑え込んだような掠れた声音は、その裏に苦しみと悲痛さを忍ばせていた。御堂を抱きしめる克哉の腕が小刻みに震えている。
 冷酷な言葉に潜む克哉の心が分からなくなり、次の瞬間、これは克哉から自分への餞別だと気が付いた。
 克哉の聡明さはこのわずかな時間で、理由は理解できなくとも、この別離が不可避であることを自身に悟らせた。
 最後に克哉自身を御堂に憎ませて、この世界への、そしてこの克哉への未練を捨てさせようとしているのだ。
 その克哉の深い愛が心の奥深くまで突き刺さる。
「君はどこまでも優しいんだな」
 嗚咽を呑んで声を震わせれば、克哉は大きく瞬きをして、表情を歪ませた。
 その顔が哀しく笑う。
「いいや、俺は酷い男だ。あんたを泣かせている」
 残された時間は少ない。御堂は克哉の背中に手をまわし、同じだけの力で引き寄せた。
 もうすぐ、この世界は現実ではなくなる。
「克哉、君を愛している」
 全てが意味をなさなくなる前に、それでも、今のこの気持ちを伝えたい。そして、克哉の願いも同じであることは痛いほどに伝わってくる。
「御堂、忘れるな。いつだってあんたの傍にいる。だって、俺はあんたの恋人だからな」
 永遠の別れを前にした恋人が、それでも相手を想い慕う。その言葉をそのまま受け止めた。
 視界がひどく歪んで滲むのは、涙のせいなのか。世界が崩壊しかけているからなのか。
「克哉、どの世界の君も全て私のものだ。私は君の恋人だからな」
 最後の言葉を唇ごと克哉の唇に押し付ける。克哉が微かに笑ってその唇を深く受け止めた。唇を押し潰すだけのキス。そこに全てを籠めて。
 周囲の光景が淡い粒子の集合体となり、揺らめく。腕の中の克哉が霞む。
 そして世界が消散した。
 ただ一人、御堂を残して満ちる光の中に沈んでいく。
「克哉!!」
 叫んだ声は遮るものなくどこまでも広がり、誰に届くことなく消えていった。
 眩い光に包まれる。
 克哉への想いを胸に抱き、そっと瞼を閉じた。


 瞼を貫く眩さにハッと跳ね起きた。
 慌てて周りを見渡す。
 そこは紛れもない昨夜帰ってきた御堂のマンションだ。
 部屋の中は薄暗い。夜明け前の仄かな明るさがカーテンの隙間から降り注いで部屋の中に柔らかい光の筋を引いていた。
「克哉?」
 返事をする者はいない。
 自らの唇をそっと指で触れてなぞる。そこに先ほどまでの克哉の熱の名残を感じる。
「佐伯……」
 全ての夢がそうであるように、あれほど鮮やかで生々しかった記憶が、一刻一刻と色褪せて意識の表面から拭い去られていく感覚がある。薄らぎ始めた記憶を必死に掴んで脳裏に焼き付けようとするが、それが無理であることも分かっていた。
 無性に克哉に会いたかった。
 携帯で克哉に連絡しようとして、思いとどまった。声だけでは満足できない。直接この目で確認したい。そして触れたい。
 急いで服を着替えて最低限の身だしなみを整えると、部屋を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえもどかしく感じる。
 マンションのエントランスを飛び出してすぐに、建物の陰に佇む人影を目にした。壁に長身の体躯を預けて煙草をふかす、明るい髪色。
……間違いない。足早に近寄る。
「佐伯?」
 克哉は御堂を確認すると、咥えていたタバコを指で摘まんで携帯灰皿にしまい込んだ。ちらりと見えた携帯灰皿の中に、多くの吸い殻がぎゅうぎゅうに押し込められていて、克哉がどれほどの時間ここに一人突っ立っていたのか推察できた。
 克哉は居心地悪そうに御堂から視線を外した。
 無言で克哉に歩み寄った。身体が触れ合うほどの距離で、克哉を真正面に見据える。
 そこにいるのは、確かに克哉だ。御堂が共に歩むと誓った恋人。
「君に、会いたかった」
 克哉が顔を上げる。返事の代わりに、ぐいと身体を抱き寄せられる。肩を抱く克哉の腕に素直に身を任せ、その背中を抱き返した。
 伝えたい事は沢山あったが言葉が見つからずに、その首筋に顔を埋めた。
 東の空が明るく染まりゆく。朝の輝く大気が二人を撫でていく。
「ほら、捕まえた」
「え?」
 不意に耳元で囁かれたその言葉に驚いて顔を上げれば、全てを見透かすような薄い虹彩が御堂を覗き込んでいた。
 その一言がすっと胸の中に一筋の光のように差し込んだ。
――君は、一体……。
 克哉はそれきり何も口にしない。心臓が早鐘を打ち出す。克哉の顔をまじまじと見詰め返し、そこにもう一人の克哉の面差しを探す。
――君は何を知っている?君はどちらの佐伯なんだ?
 そう問い返したい誘惑を押さえつける。どんな答えが返ってきたって、克哉は克哉だ。その本質は変わらない。目の前の克哉と共に歩むのだ。
 二つの世界を経験した御堂がここにいるように、二つの世界を経験した克哉が目の前にいる。その再会を信じたい。
 溢れそうになる涙を堪えて口元に笑みを形作る。
「違うぞ、佐伯。私が君を捕まえたんだ」
 そう訂正を入れれば、克哉が小さく微笑んだ。
「俺は優しくないぞ」
「ああ、君は酷い男だ。傲慢で、嫉妬深くて、強引で、負けず嫌いで、人の話も聞かないし話し合おうともしない……んんっ」
 思いつく限りの悪口雑言を重ねていたら、言葉ごと唇を封じられた。不意打ちのキスに、唇を押し潰され、吸われる。甘い切なさが、重ねた唇から生まれて胸へじわりと染み込む。
 ゆっくりと流れる時間を味わうように、口づけを交わす。
 降り注ぐ日の光が艶やかに強さを増す。全ての物が、金色に染まり本来の色を取り戻していく。夜の闇と共に現実になりえなかった世界が押し流され、拭い去られる。
 御堂の胸に残されていた幻の記憶と確かに存在した気持ちが、跡形もなく消え去っていく。
 代わりに、目の前の克哉に対する愛おしさが、胸の裡を占める。胸の奥底を軋ませるような一抹の切なさが残されていたが、その感情の理由がわからず、蓋をして心の深いところに仕舞い込んだ。
 克哉がキスを解いた。
「いいんですか、そんな俺で」
「ああ、私は君の恋人だからな。多少のことは目を瞑るさ」
「殊勝なことですね」
 御堂のぞんざいな言葉に克哉が笑みを零した。ふっ、と笑い返せば、克哉も肩を揺らして笑い始める。鮮やかな陽射しに包まれながら二人で声を上げて笑う。
 日の光に彩られて屈託なく美しく笑う克哉を、いつかどこかで見た気がした。

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