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汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
(ダンテ『神曲』地獄篇第3歌)

 

 


 その日、その男の所有する王国は新たな王を迎えた。
 誰もが王を称え、王がもたらす享楽に期待した。
 だが、彼の本当の務めはこれからだ。王が王たるべく振る舞えるように、玉座に座する者に仕え、尽くさなくてはいけない。
 王を倦ませてはいけない。王が王として権勢をふるってこそ、この王国は栄えるのだ。
 彼は、貪欲な王に捧げるため、王が興味を持ちそうな贄を集めに地上世界に出向いた。
 王が人として生活していた時に、共に過ごした気の置けない同僚、優しい上司、歓楽街で出会った愛らしい少年、馴染みの店で働く快活な青年。
 彼らは、王の現世での名前を出せば、疑うことなく、時に多少訝しんだとしても、その男に自ら付き従って王国に下った。
 そして、最後の一人を迎えに、その男、Mr. Rはビジネス街の高層ビルへと足を踏み入れた。


 御堂孝典はパソコンをシャットダウンすると、鞄を持って執務室を後にした。
 既に、深夜0時を回っている。オフィスに人影はなく、常夜灯がフロアと廊下を申し訳程度に照らしていた。
 流石にこの時間ともなれば、あの男、佐伯克哉は会社からも御堂の自宅からも退散しているだろう。
 佐伯から受けた仕打ちを思い出して、ぎり、と奥歯を噛んだ。御堂の人生において、まごうことなき一番の汚点だ。
 その記憶自体を消去してしまいたいが、身体と心に刻み付けられた屈辱はちょっとやそっとで消えるものではない。ましてや、あの男はその行為をビデオに撮った挙句、御堂の部屋の鍵を持って行った。
 だが、不幸中の幸いか、あれから佐伯のアクションは何もない。プロトファイバーのプロジェクトも驚くほど順調に進んでいる。このままじっと耐えて報復できる時期を待つしかない。
 エレベーターに向かった御堂は、エレベーターホールで佇む人影を見つけて、ぎょっと足を竦めた。
 エレベーターの前に立つその人影は御堂を目にして、帽子を取って深々と礼をする。それは流れるような優美な仕草で、見惚れるほど様になっている。
 だが、見れば見るほど場違いな人間だ。黒衣に長くうねる金髪が背後の闇に溶け込む。
 とてもMGNの社員とは思えない。
「御堂孝典様、お迎えに上がりました」
「誰だ?」
「私のことは、Mr. Rとお呼びください」
「Mr. R?」
「ええ。御堂様、我が王があなたをご所望です」
「王だと?」
 不信感を露わにする御堂をよそに、そのMr. Rと名乗った男は薄い笑みを湛えた表情を崩さない。
 その薄気味悪さに後退ろうとしたときに、エレベーターの到着音が響いた。
「どうぞ、お乗りになられますか」
 開いた扉を押さえて、男が脇に避けた。エレベーターの中は無人だ。
 一瞬迷って、御堂は足を踏み出した。このエレベーターを使わなければ、階段で降りるしかない。この男は何者なのか。不審さは感じるが、その物腰は柔らかで丁重な振る舞いだ。襲われることはないだろう。
 さっさとロビーフロアまで降りて、それでもついてくるようなら警備員に突き出せばいい。
 そう考えて、男を無視してエレベーターに乗り込むと、ドアが閉まり際に男も素早い身のこなしで乗り込んできた。御堂に背を向け、エレベーターの操作盤の前に立つ。
 一刻も早くロビーフロアに到着しないかと、階数表示を眺める御堂に、男は愉し気に語りかけてくる。
「あなたがいらっしゃれば、我が王も大層喜ばれるでしょう。王はあなたには特に目をかけておられましたから」
 御堂に背を向けながら男がくつくつと喉で嗤う。
「あなたが最後の一人なのです。他の方々はもう迎えに上がりました。王を退屈させるわけにはいきません」
「王とは誰のことだ?」
 無視を決め込んでいたが、耐えきれずに御堂は口を開いた。
 男が御堂の方をゆっくりと振り向いた。男がかける丸眼鏡のレンズが光を鈍く反射した。
「おや、失礼いたしました。あなたは王が誰だかご存じない?」
「当たり前だ」
「私の世界では王は一人。名前を持つ必要はございません。ですが、こちらの世界におわした時は、こちらのしきたりに倣って名前を持っておりました」
 レンズの奥の眸がすっと細められた。革手袋に包まれた人差し指を立てて、口元に当てる。秘密を打ち明けるかのように囁くようにその名を口にした。
「我が王は、佐伯克哉様です」
「佐伯――だと?」
 心臓を凍えた手で鷲掴みされたような衝撃が走る。接待と称して、自宅に上がりこまれたときの屈辱と恐怖がよみがえる。
 あの男に仲間がいたというのだろうか。
「お前は佐伯の仲間か!」
「仲間だなどと、畏れ多い。私は王に仕える者です」
「冗談も大概にしろ」
「冗談ではございません」
 激高する御堂を前に、男は動じることはない。
 不意に御堂は違和感を覚えた。まだエレベーターはロビーに到着しないのだろうか。もう到着してもいいはずだ。
 階数表示を見ると、ちょうどLBの文字が点滅する。御堂は直ちに降りようとエレベーターのドアの前に立った。
 しかし、エレベーターのドアは開かない。それどころか、更に下へと降りていく。地下1階、地下2階…そして、階数表示の点滅が消えた。
「どうなっているんだ」
「到着まで今しばらくお待ちを」
 慇懃に頭を伏せる男を押し除けて、御堂は操作盤の前に立った。ボタンを押すも、何の反応もない。焦って、次から次へとボタンを押す。非常ボタンも押すが、全く反応しない。
「くそっ!どうなっている!」
 どんどん下降していくエレベーターは止まらない。御堂は取り乱しながら、エレベーターの扉を叩いた。その背後で男が笑みを浮かべたまま御堂を見詰める。
「出せ!ここから出せ!」
 狂ったように叫んで、扉に拳を叩き付ける。狭いエレベーター内で叫ぶ声と叩く振動が反響した。
 しばらくして――御堂はそれがとてつもなく長い時間に感じたが――到着音とともに、エレベーターの扉が開いた。
 待ち切れずに、扉が開いた瞬間に身体を滑り込ませるようにして、御堂は扉の外に駆け出した。
 そして、目の前の光景に息を呑んだ。
 視界が赤く染まっている。
 足元に赤い絨毯、赤い壁、赤い天井のまっすぐな廊下がどこまでも続く。そして、鼻につく淫靡で重い空気。どこからか、甘い果実のような香りが漂う。
 呆然と呟いた。
「ここは、どこだ?」
 断じて、MGNの地下などではない。ここは、御堂の知らない世界だ。
 足を踏み入れてはいけない世界に、足を踏み入れてしまった。本能が警鐘を鳴らす。
 このまま先に進んではいけない。
 後退りながらゆっくりと身体を返した。
 エレベーターに戻ろうと振り向けば、先ほどまで乗っていたエレベーターはそこにはなかった。
 目の前にあった真っ赤な廊下が御堂の背後にどこまでも続いていた。そして、視界の中央に、エレベーターに乗り合わせたあの男が立っている。
 御堂と目が合い、その男は笑みを深めた。
「ようこそ、クラブRへ」
 じりじりと恐怖が沸き上がってくる。
「…クラブRだと?」
「我が王、いや佐伯様とお呼びした方がよろしいでしょうか、佐伯様が治める王国がここなのです」
 男の言う言葉はさっぱり理解できない。だが、理解しようとも思わなかった。
 ここは危険だ。
 一刻も早く逃げなくては。
 御堂は踵を返すと、走り出した。長い毛足の絨毯に革靴が沈む。
「どこに行かれるというのですか。あなたは、ここから出ることは叶いません」
 背後で男の高笑いが響く。
 急かされるように走るが、目の前の真っ赤な廊下は何処までも続く。まるで迷宮に迷い込んだようだ。
 不意に目の前に人影が立ちはだかった。その人物を視界に収めて目を瞠いた。
「久しぶりですね。御堂さん」
 場違いなほどにこやかに笑いかけられるが、その目はどこまでも冷ややかだ。その男の薄い虹彩が御堂を射抜いた瞬間、意識が暗転した。

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