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リセット ~君の/俺の記憶~

「忘れろ。俺たちの間にあったことも、俺のことも、何もかも……」

無印御堂解放後、御堂が佐伯克哉に関する記憶を全て消去する選択をしたらのIF物語。

始まることなく消し去られた関係は、リセットすることで実を結ぶことが出来るのか。

克哉を忘れてしまった御堂と、御堂を忘れられない克哉との、リセットされてしまった二人の物語。

prologue
prologue

 いかにも応接間といった趣のその部屋は暑くもなく寒くもなく、空調は完璧に管理されていた。そして、騒がしい都会の真ん中に位置するにも関わらず、外界の音は何一つ聞こえなかった。

 落ち着いた深い色合いの絨毯に窓からの陽射しが差し込み、美しい陰影を映し出している。高級な革の一人掛けソファは座り心地が良く、この部屋だけ、流れる時間がゆったりとしているようだ。

 アメリカの精神科の診察室は格式高い部屋で面談すると聞く。それに倣ったものなのだろうか。

 だが、本来ならば快適に過ごせるであろう場所で、御堂は居心地悪そうに視線を落ち着きなく彷徨わせていた。そんな御堂に、マホガニーのデスク越しに相対する男がにこやかに話しかけてきた。

 

「あなたには持て余している記憶がある。だから、ここに来られたのですね」

「ああ」

 

 そうでなければこんなところに来るわけがない、そう反駁したい気持ちを抑えて、御堂は言葉少なに肯定した。

 この馬鹿げた質問の受け答えを律儀に行うことが、ここで行われる治療における必須の手順だとしたらそれを妨げる行為は慎んだ方が良い。

 コーディネーターと名乗ったその男は、御堂の苛立ちに気付かぬふりで、のんびりとした口調で言葉を続けた。ここは特殊な治療を行うクリニックだと聞いていた。だが、目の前にいる男は医師ではなくコーディネーターだという。身にまとうのは医療従事者のような白衣ではなく黒尽くめのスーツだ。

 この男に何を“コーディネート”するのか、と尋ねたところ、あなたの心と記憶の仲を取り持ちます、と人を食ったような返事が返ってきた。胡散臭さ極まりないが、それでも御堂はこの男に縋らざるをえない理由があった。

 男は言葉を続けた。

 

「御堂孝典さん、すでにご存じかとは思いますが、当クリニックは個々の持つ記憶に手を加えることで、その記憶からくる様々な症状を治療いたします」

「そう話を聞いた。どんな記憶でも消すことが出来ると」

「正確に言えば、消すだけではございません。記憶の改変(モディフィケーション)を行うことが出来ます」

「記憶の改変?」

「記憶の改変には種類があります。存在しない記憶を刷り込む挿入(インサート)、ある種の記憶を別のものにすり替える代替(オルタネイト)、そして、特定の記憶を抹消する消去(デリート)。……あなたはどれを希望されますか」

「消去(デリート)を」

「消去(デリート)ですね。承知いたしました」

 

 間髪入れず答えた御堂に、男はにこやかな表情を変えずに返した。

 あっさりと承諾されて、御堂はいささか拍子抜けし黙り込むと、ふたたび尋ねた。

 

「記憶を消したことで生じる不都合について聞きたい」

「不都合? 何をご心配されているのですか?」

「それは……」

 

 どう説明したものか悩み、言い淀んだ。

 記憶を失うことにより、自分というアイデンティティに大きな穴がぽっかりと開くのではないか。そして、その穴の存在を感じるたびに、自分が失った記憶に対する底知れぬ不安に襲われるのではないか。それを気にしているのだ。

 慎重に言葉を選んだ。

 

「記憶を失った、という事実が自分にとっての負担になりはしないのか?」

 

 その記憶を持ち続けること自体が苦痛なのに、この期に及んで、その記憶を失うことにより何か悪いことが生じるのではないかと恐れている。滑稽な不安だが、そう質問する人間は多いようで、男はにっこり笑ってよどみなく答えた。

 

「脳の可塑性(かそせい)、という能力をご存知ですか?」

「可塑性?」

「人間の脳には変化する能力があるということです。不要なものを捨てて、必要なものを得る力がある。あらゆる出来事を覚えていられる人間はおりません。あなたは今まで多くの出来事を忘れてきたはずです。ですが、それを気にされたことはありますか?」

「いいや……」

「多くの出来事は忘れるべくして忘れ去られるのです」

「だが、他の人間と記憶の齟齬が出来るのは困るだろう。過去の辻褄が合わなくなるのは面倒だ」

「記憶とは主観的なもの。他人に取って大切な記憶が、あなたにとって大切であるかどうかは、また別の話です。同じことを経験したとしても、あなたと他人で真逆な意味合いとして記憶されるのも良くある話ではないでしょうか。……とても不確かで脆弱もの、それが記憶です。あなたが消した記憶は、忘れるべくして忘れた記憶として脳は認識します。それに……」

 

 もったいぶった口調で男は続けた。

 

「ご希望があれば、“記憶を消去した”という記憶も消去できます」

「なるほど」

 

 さらには、失った過去については代わりの疑似記憶を植え付けることが出来るという。後は辻褄があうように脳が勝手に修正してくれる。だから、記憶を消したという事実に気が付くことはない。それが嫌ならば、記憶を消したという事実だけ覚えておくことも出来る。

 話を一通り聞き終えて、御堂はソファの背もたれに体重をかけた。

 目を瞑り、大きく息を吸って心を落ち着けた。

 もう十分だ。これ以上、あの男に振り回されるのは。

 解放されてもなお、あの男は御堂の心に根強く巣食っていた。似たような体格、同じような髪色の男を見るたびに、いくら他人だとは頭では理解しても、心臓が不穏に鳴り始め、嫌な汗をかく。特に眼鏡だ。眼鏡をかけた人間の顔を真正面から見ることが出来ない。レンズの向こうの双眸がどこまでも凍てついて御堂を狙っているように思えるのだ。

 夜が来るたびに悪夢に悲鳴をあげて跳ね起きる。MGN社を辞めて、住んでいたマンションを引き払い、あの男の痕跡を全て消したにもかかわらず、平穏な生活などどこにもなかった。生きながらにして埋葬されたような苦痛がずっとついて回る。

 それはそうだ、あの男は御堂の脳内に深く刻み付けられているのだ。脳を切り離すことは出来ない。だからあの男は常に御堂と共にいる。

 常に青ざめた顔でいたのだろう。周りからは事あるごとに心配されたが、すべてを曝け出して相談できる相手もいなかった。

 そんな自分をどうにかしたくて精神科のクリニックをいくつも受診したが、どこも満足のいく治療を行ってはくれなかった。心的外傷後ストレス障害(PTSD)という診断名は付けられたが、御堂が望んでいるものは病名ではない。かつての安寧だ。

 そんな時、たまたま大学時代の友人に会った。街中で唐突に声をかけられたのだ。その彼と再会して驚いた。彼は、就職した会社で相性の悪い上司に苛め抜かれて心身を病み退職したはずだった。元は優秀な人間だったのに、退職して以降、部屋から出ることさえままならず、親が実家に連れて帰ったと聞いていた。そんなどん底にいたはずの彼が、御堂と再会したときには、表情も明るく、かつてのキレと快活さを取り戻していたのだ。

 聞けば、再就職した会社で活躍し、重要なポストについているという。何が彼をこうまで回復させたのか、勇気を振り絞って尋ねてみた。その彼の答えがこのクリニックだったのだ。ここは、どんな記憶でも“処置”してくれるクリニックだと。

 当初は半信半疑で受診したが、説明を受けるうちに信じて縋りたい気持ちになった。御堂自身もまた、かつての栄光を取り戻したかった。何の不安も憂いもなく、先ゆく道が拓けているものと疑わなかったあの頃に。あの男に怯え続ける人生はもう真っ平だ。

 期待と不安で揺れ動く心が定まるまで、そう時間はかからなかった。

 ゆっくりと瞼を押し上げると、黙ったままこちらを見詰めていたコーディネーターの男と視線が重なった。

 治療を受けたい、と希望を述べると、コーディネーターはいくつか注意点をあげた。

 記憶を改ざんするという行為は脳を弄ることにほかならず、一生において三回までしか出来ないこと、まだ開発途中の技術であるため長期的な成績は不明であること、だがそれで問題になった症例はいないということ。

 しかし、一度決心した気持ちは、もう何を聞いても揺らぐことはなかった。

 コーディネーターは御堂の硬い決心を悟ったのだろう。具体的な処置の話へと話題が移った。カルテらしきボードに御堂の希望を聞き取りひとつひとつメモを取っていく。

 

「“記憶を消去した”という記憶はいかがいたしますか?」

「それも消去(デリート)で」

「承知いたしました」

 

 そうして、男は一拍置いて、顔を上げて御堂の顔を覗き見た。

 

「それで、あなたはどの記憶を消去したいのですか?」

 

 答えは当然決まっていた。

 あの出来事を忘れるべくして忘れ去られる記憶にして、自分にとって何ら影響を与えることのない塵芥のような存在に落とし込みたいのだ。

 だが、本当にそれでいいのだろうか。

 かすかな不安が御堂の心に差し込んだ。

 忘れるべくして忘れ去られる記憶、逆に考えれば、忘れることのできない記憶は何かしら意味があるのではないだろうか。何か、大事なことを見落としてはいないだろうか。

 しかし、今の御堂にとってあの経験と冷静に向き合うことは到底無理だった。思い出そうとするだけで心臓が早鐘を打ちだし、喉が絞めつけられ呼吸ができなくなる。

 あの出来事に何の意味もあるはずがない。忌むべき出来事だ。

 じっとりと汗ばんだ手を握りしめて、自分の決意を硬くする。

 御堂は男の顔を正面から見据えた。自分の迷いを振り払うべく一音一音はっきりと告げた。

 

「佐伯克哉に関わるすべてを」

(1)
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「佐伯社長、お電話です」

「つないでくれ」

 

 先ほどの電話を切ってすぐに次の電話がかかってくる。

 部屋の広さの割に人が少ないAA社内は、常に誰かしらが忙しなく動き回っていた。

 

「佐伯さん、L&B社用の資料です!」

 

 プリントアウトしたての分厚い資料を抱えて藤田が執務室に入ってきた。それを「ありがとう」と受け取り、ざっと中をめくって不足がないか確認する。

 

「そろそろ先方との約束の時間です」

「ああ、もう出る。2時間程度の打ち合わせで戻ってくるから、それまでの間頼む」

「承知しました!」

 

 藤田の元気な返事を背に、鞄に資料とノートパソコンを放り込んで足早にAA社を後にした。

 外に出ると、びゅうと冷たい風が吹きつけてくる。空を見上げればビルとビルの合間に色の薄い空が広がっていた。冬の訪れを予感させる空だ。寒さに首をすくめたが、ドアツードアの移動だからコートは着ていなかった。ビルの前に呼んでいたタクシーに乗りこんで、後部座席で資料の内容を再確認する。

 経営コンサルティングを生業とするAA社も、起業してから半年以上経った。事業は順調すぎるほどに順調で、途切れることなく仕事が舞い込んでいる。だが、流石の克哉でもこれ以上引き受けるのは難しいかもしれない。元はたった独りで始めた会社なのだ。

 起業してすぐに人手が足りなくなって、前の会社の部下だった藤田を引き抜いた。今は、藤田と二人で仕事を切り盛りしている状況で、こまごまとした事務仕事は事務員を雇っていたが、それでも早晩業務がパンクしそうな勢いだ。

 

――このままだとまずいな……。

 

 仕事を任せることが出来る人間をもっと雇った方が良いだろう。だが、ぱっと思い当たる心当たりはなかった。歳若い克哉が経営している会社だ。募集を出しても、優秀な人間は集まりにくい。

 何人かと面談してはみたものの、どうしても、心の中である人物と比べてしまい、結局採用することはなかった。そんなことをしても無益だとは分かっているのに、

 即戦力は喉から手が出るほど欲しいが、そんな人材はそう簡単に見つかるものではない。むしろ、藤田のように若手の有望株を育てていく方が手っ取り早いだろう。かといって新卒を一から仕込むのは骨が折れるし、AA社のように克哉の発言力が強すぎると社員は指示待ちになりやすい。若いならなおさら自分の頭で考えなくなる。人材確保はAA社の喫緊の課題だった。

 

――この仕事がひと段落ついたら、リクルーティングに力を入れるか。

 

 スケジュールは分刻みで詰め込まれていたが、まだ働ける余地はあるだろう。趣味という趣味はなく、生計をともにする家族もいない。それに、忙しいことは嫌いではなかった。むしろ自ら激務の中に身を置くようにしていた。そうすれば、余計なことを考えずに済むからだ。

 余計なこと……。

 脳裏にある男の影がちらついた。

 

――御堂。

 

 その男の名を心の中に思い浮かべるだけで、胸がチリチリと痛む。あれからもう二年近く経った。克哉の中の御堂は未だに色褪せることなく存在し続けている。

 

「お客さん、もうすぐ着きますよ」

 

 その声にハッと我に返った。

 あの過去の日々に心が囚われていたようで、いつの間にか資料をめくる指が止まっていた。

 急いで思考を切り替える。

 今日は、新しい取引先であるL&B社とのキックオフミーティングだった。

 L&B社は様々な形態の業種の経営とプランニングを手掛けている新興企業だ。新興企業と言ってもAA社とは比較にならない規模で、その目覚ましい成長ぶりは業界の注目を集めている。

 そのL&B社が傾きかけた国内のアパレル企業を買収し、新たな形態の事業を展開したいという。そのための販売戦略と企画を練るパートナーを探していた。

 AA社もまた起ち上げて一年も経っていないにもかかわらず、奇抜なアイデアと実行力でコンサルティングを次々と成功させていた。それがL&B社の上層部の目に留まり、新たなアパレル事業の経営コンサルティングの打診を受けたのだ。

 アパレル関連事業の依頼は初めてだったが、断るという選択肢はなかった。今まで受けたどの依頼よりもはるかに規模が大きい。それにこの依頼を成功させれば、新たな分野への足掛かりとなるはずだ。

 タクシーが複合ビルのエントランスの正面に止まった。清算をして、L&B社が入っているビルへと足を踏み入れた。このビルの4階から7階までがL&B社のフロアだ。

 エレベータで受付のあるフロアに降りると、受付に向かって社名と名前を名乗った。するとすぐに奥から連絡を受けた社長が出てきて、克哉にまっすぐと向かってくる。大股で歩く四十代のその男性はL&B社の社長だ。先日、克哉はこの社長と正式なコンサルティング契約を交わした。

 

「佐伯さん、お待ちしていました。どうぞよろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 簡単に挨拶を交わすと、社長は人好きのする笑みを浮かべ、克哉を会議室へと案内した。やり手と名高い彼が社長職に就いてから、このL&B社は急成長している。特にここ一、二年の業績の伸びは目を見張るものがあった。この社の野心と経営手腕は克哉が学んでおいて損はないはずだ。隙なくオフィスに目を配りながら社長の後をついていく。

 

「佐伯さん、キックオフミーティングが遅くなってしまってすまない。今回の事業を担当するマネージャーが海外出張に行っていたもので」

 

 話しながらも歩調が緩むことはない。ずんずんとフロアの奥へと進み、会議室のドアに手をかけた。ドアを開けると室内に向かって声をかけた。

 

「失礼する。AA社の佐伯さんだ」

 

 一斉に部屋の中の気配が動き、視線が集まる。楕円に並べられたデスク、そこに座るL&B社の社員たち。その中でスクリーンに一番近い位置の人物が立ち上がった。それに倣って次々と社員が起立した。

 

「さあ、中へどうぞ」

 

 社長が室内へと入り、克哉を案内しようとした。だが、克哉はその場に縫い付けられたように足が動かなかった。ただ一点に視線が固定される。視線の先にはすらりとした長身の人物。ひと目でわかる最上の仕立てのスーツ。きれいに整えられた髪は一筋の乱れもなく、くっきりとした眉とその下にある切れ長な二重、黒一色の眸は意思の強さを感じさせる。品格のある顔つきは手足の長い体格と相まって、異国の血が混ざっているかのようだ。強烈なほどに印象的な男。そして、その男を克哉は良く知っていた。知りすぎるほどに。

 

「佐伯さん?」

 

 社長の声に意識が会議室に引き戻された。社長が「御堂君」と声をかけた。御堂と呼ばれた人物は、決して焦ることのない優美な所作で、克哉に歩みを寄せた。

 

「紹介しよう。彼が今回のプロジェクトの責任者だ。一昨年から我が社のブレインとして働いてもらっている」

「初めまして。今回のプロジェクトのマネージャーを務める御堂です」

 

――初めまして……?

 

 型通りの挨拶とともに無駄のない仕草で切られる名刺。

 あまりに不意打ちの再会に、すべてを忘れてまじまじと正面の顔を見詰めてしまっていた。御堂は眉を微かに顰めた。

 

「何か……?」

「いえ。……初めまして。AA社の佐伯克哉です」

 

 初対面を装う気なのだろうか。だが、克哉が御堂に対して行った凄惨な仕打ちを思い返せばそれも道理だ。

 克哉も即座に営業スマイルで顔を取り繕うと、ジャケットから名刺入れを取り出し、御堂と名刺を交わした。御堂の言動に合わせて、克哉も初めて顔を合わせたかのように挨拶をする。

 名刺を見れば『L&B株式会社 企画部 プロダクトマネージャー 御堂孝典』と書かれていた。MGN社を辞めた後の行方は杳としてしれなかったが、この会社に就職していたのだ。だとしたら、L&B社のここ最近の急激な成長も納得できる。御堂の働きによるものだろう。

 御堂もまた克哉に渡された名刺を食い入るように眺めていた。肩書と名前を確認するかのように読み上げる。

 

「アクワイヤ・アソシエーション社 代表取締役社長 佐伯克哉さん……」

「これからは同じプロジェクトのチームメンバーですから、佐伯、で結構です」

「そうか、ではそう呼ばせてもらう」

 

 御堂は名刺から視線を克哉の顔に戻すと、切れ長な目を意地悪く眇めた。

 

「AA社の社長と聞いたが、どれほどの辣腕かと思いきや、……随分と若いな」

「……」

 

 シニカルな笑みに添えられた台詞に言葉を失した。

 ぶつけられたのは克哉の実力を疑う表情と口調だった。初対面の人間を値踏みするような露骨な態度だ。その挑発的な物言いは、MGN社の執務室で御堂と初めて相対した時の高慢な態度そのままで、御堂と出会ったあの日の執務室の光景が鮮烈に脳内に呼び起された。

 だが……。

 初対面を装うには度が過ぎてはいないだろうか。

 周りの人間は御堂と克哉がかつての上司と部下の関係であったとは、まったく気づいていない。そういう意味では御堂の思惑は成功している。

 しかし、どこか違和感を拭いきれなかった。合わないパズルのピースを無理やり嵌めこもうとしたような居心地の悪さが付いて回る。

 多分、自分は動揺しているのだ。予想だにしていなかった再会に、そして、御堂に見知らぬ人間として扱われたことに。

 克哉は自分が感じる不可解な感情の揺らぎにそう説明を付けると、胸の内を誰にも悟られないように、表情を消し去った。そんな克哉の姿は、御堂に無礼な物言いをされて感情を害していると思われているだろう。だが、それが御堂の意図したところだとしたら、それで問題はない。

 黙りこくった克哉との間に、社長が割って入った。

 

「御堂君、AA社は新進気鋭のコンサルティング会社で、彼の実力は折り紙付きだ。それは君も十分承知しているだろう」

「お言葉ですが社長、AA社はアパレル事業を手掛けた経験はありません」

「それは、あなたも同じでしょう。御堂さん」

「……っ、何故それを?」

 

 克哉の発言に御堂は目を瞠った。

 L&B社が手掛けるアパレル事業はこれが初めてだ。それは既に調べ済みだ。そして、社長の話では一昨年からこのL&B社に雇われている。ということは、MGN社で飲料の開発を手掛け、その次の職場としてL&B社へと移った御堂はアパレル事業の経験はないはずだ。それをそのまま告げても良かったが、克哉が御堂の経歴を知っていることは周りに知られるわけにはいかない。だから別の答えを口にした。

 

「L&B社はアパレル事業を展開した経験はない。そして、あなたがたが出してきた資料の見通しの甘さを見れば、あなた自身アパレル事業の経験がないことが分かります」

 

 今度は御堂が黙り込んだ。一拍置いて、言葉を足した。

 

「あなた方がアパレル事業の経験のない弊社に声をかけたのは、既存のアパレル業界にない発想を期待したからだ。違いますか?」

「その通りだ。……では、君の手腕がどれほどのものか見せてもらおうか」

「御堂君、我々はパートナーだ。対立する立場ではない。それくらいにして始めようではないか」

「そうですね。時間がもったいない。早速始めさせていただきます」

 

 高まる緊張を社長が寸断する。克哉も頷いて、鞄から資料を取り出すと、若手の社員がそれを受け取り参加者一人一人に資料を配った。AA社側からは克哉ひとり。たいしてL&B社のメンバーは十数人。他のメンバーは初っ端から御堂とやり合った克哉に好奇と不安がないまぜになった視線を向けている。

 ふう、と大きく息を吐いて自分を落ち着けた。わずかな時間で色々なことがありすぎた。

 そして、どうひいき目に見ても、この社の社員たちには歓迎されているとは言えないようだ。だが、そんな立場は慣れっこだ。いつものように、意識を仕事に切り替える。すると自然と心が凪いでくる。

 克哉はノートパソコンをプロジェクタースクリーンにつなげて、プレゼンテーションの画面を映し出した。L&B社の参加者を見渡すと、御堂と視線がぶつかった。御堂はまっすぐと克哉に視線を射てきた。それをそのままに受け止めて、口を開いた。

「アクワイヤ・アソシエーションの佐伯です。宜しくお願い致します」

 会場が暗くなり、スクリーンが光り出した。その中で、たった一人の男の視線を痛いほどに感じた。

 

 

 打ち合わせを終えてL&B社のビルを出た時にはすっかり日が暮れていた。この時期、夜が駆け足で訪れている。

 始まりは波乱に満ちたキックオフミーティングは終わってみれば内容は悪くなかった。だが、ミーティングの内容よりも何よりも、心の中はたった一人の男の存在で占められていた。

 

――この会社で働いていたのか。

 

 振り返って先ほどまで居たL&B社のフロアがあるあたりを仰ぎ見た。

 ツクンと胸に針を突き刺されたかのような鋭い痛みが走る。

 御堂はこの新しい会社で新しい人生を歩みだしている。克哉がそれを邪魔する権利は微塵もない。それなのに、それを素直に喜べないのは、御堂に対する割り切れない感情が自分の中でくすぶっているからだ。

 

――俺も未練がましい。

 

 思わぬ御堂との再会で、自分でも驚くほどの未練を抱えていることに気付かされた。一方で御堂は克哉のことは自分の中で片が付いたようで、新天地で新しい人生を切り拓いている。

 これからしばらくの間、御堂と克哉は仕事を通じて顔を合わすことになるだろう。それは自分にとって穏やかならぬ状況になることは安易に予想できた。だが、御堂は克哉との過去など存在しなかったかのように突き放した距離を保っている。

 後は自分だけだ。

 自分が御堂のことなど知らなかったかのように、完璧に振る舞い続ければこの依頼を無事にこなすことが出来るだろう。

 自嘲の笑みを浮かべてL&B社に背を向けて歩き出した時だった。

 

「佐伯!」

 

 突如、背後から声がかかった。

 フロアから急いで追いかけてきたかのように息を乱した御堂が、足早に克哉に向かってくる。

 その姿を見て思わず瞳孔が開くが、驚きを悟られないように平坦な口調で言った。

 

「どうしました? 何か連絡漏れでも?」

「違う。そうではない」

 

 御堂は軽く首を振った。

 それでは、なんだというのだろう。御堂が克哉の顔をじっと覗き込んでくる。期待と不安に表情が乱れそうになるのを抑え込んで次の言葉を待っていると、御堂が口許をわずかに綻ばせた。

 

「今夜、空いているか?」

「はい?」

「君とはこれからビジネスパートナーになる。だから、親睦を深めようではないか」

 

――親睦、だと?

 

 何を言っているのか御堂の意図が分からず怪訝な顔を返すと、御堂は澄ました表情で手帳になにやら書き込んだ。そのページを破って克哉に手渡す。

 

「今夜、ここに来い」

 

 まさかホテルにでも呼びつけるのだろうかと、メモに視線を落とすと、都内の有名な料理店が書かれていた。

 この男は本気で言っているのだろうか。

 どう返すものかと考えあぐねていると、御堂はそんな克哉の態度を別の意味に取ったようだった。

 

「先約があるのか?」

「……いいえ」

「そうか、それなら問題ないな」

 

 それだけ言って踵を返そうとする御堂に反射的に声をかけた。

 

「御堂!」

 

 無意識に名前を呼びつけてしまったが、御堂は足を止めて振り返った。

 

「なんだ?」

「……何が目的だ?」

 

 克哉の詰問に御堂は口角を上げた。そこにあるのは色気を増した蠱惑的な笑みだ。

 

「言っただろう。親睦を深めたいと」

「……」

 

 それだけ言って、今度こそ御堂は克哉に背を向けて、L&B社へと戻っていった。そのまっすぐな背中を呆然と見つめ続けた。

 あんなことがあったのに、自分をこんな風に誘ってくる御堂が不可解だ。

 御堂は克哉に強姦され、脅迫され、監禁され、壊されかけたのだ。そんな相手をこれ程気安く誘うものだろうか。

 いや、と克哉は考え直した。御堂は徹頭徹尾、克哉とは初対面であるように装っていた。これは克哉の警戒心を解くためではないのだろうか。克哉を油断させたその先に御堂の復讐が待ち構えているのかもしれない。もし、そうだとしたら克哉に拒絶する権利はないだろう。それだけの事をしたのだから。

 そう言えば、こんな風に接待しろとメモ帳一枚渡されて御堂に呼び出されたことがあった。

 几帳面な文字に目を留めながら小さく笑った。

 

 

 

 御堂に指定された場所は、大通りから離れたところにひっそりとたたずむ都内の鉄板焼きの名店だった。飾らない木の引き戸を開けて、入り口で名前を告げると個室に案内される。少しして御堂が入ってきた。

 落ち着いた雰囲気のこじんまりした個室、鉄板焼きのカウンターに横ならびに座り、予期せぬ近さに鼓動が自然と速くなる。

 御堂がワインリストから勝手にワインを選んだ。ワイングラスが二脚、用意されてワインが注がれた。

 御堂が軽くグラスを掲げる。

 

「乾杯」

「……乾杯」

 

 克哉も軽くグラスを掲げた。

 御堂は、何に乾杯しているのだろうか。皮肉な運命のめぐりあわせに、だろうか。

 そんなことを考えながらグラスに口をつけた。重厚な香りの割には軽い口当たりのワインで、乾いた口を潤そうと自然とペースが速くなる。

 目の前でシェフが鉄板に油を敷いて、新鮮な野菜や海産物を焼き始めた。このシェフの存在に安堵を覚えた。この狭い個室に二人きりだと息苦しさに平静ではいられないだろう。

 

「ここの肉はとびきりうまいんだ。ああ、遠慮するな。私がご馳走しよう」

 

 そう言う御堂の顔は平然としたままだ。

 黙ったまま箸を手に取った。

 御堂が何を考えているのかまったくわからなかった。

 あれほどひどい仕打ちを行った克哉を詰るのでもなく、毛嫌いするわけでもない。

 水面下に何が潜んでいるのかも分からない空気に耐え切れず、克哉は口を開いた。本題に切り込む。

 

「それで、なぜ俺を誘ったんですか?」

「嫌だったか?」

「あなたは俺のことを嫌いだと思っていましたよ」

 

 嫌いというのは婉曲的な表現で、本当は蛇蝎のごとく嫌悪し、殺したいほど憎んでいたはずだ。

 だが克哉の言葉に御堂は目を丸くして、そして、肩を揺らして笑いだした。その反応にあっけにとられる。

 

「ああ、挨拶の時は悪かった。君があまりにも若かったからな。だが、君のアセスメントは悪くない。むしろ感心した」

 

 事もなげに言う御堂は、ワイングラスを揺らして中のワインの香りを立ちくゆらせるとそれを一息に煽った。

 その御堂の一挙手一投足を慎重に見極めた。

 克哉がこの御堂に対して覚えた違和感は消え去るどころか益々濃さを増している。

 自分は、御堂にとってそんな軽々しい存在ではなかったはずだ。

 次から次へと、香ばしく焼けた食材が目の前の鉄板に供されていく。それを箸で摘みながら御堂は上機嫌にしゃべり続けていた。

 

「君のあの啖呵は良かった。『消費者調査などやっても無駄だ。顧客が気付かない問題を見つけなければイノベーションは生まれない』だったか。部下たちの反論を完全にやりこめたな」

 

 ミーティングの丁々発止を思い出したのだろう。御堂は愉しげに目を細めた。

 L&B社が打ち出した戦略は、消費者調査に重点を置いた事業展開だった。それを克哉が一刀両断したのだ。発案者であろう御堂の部下が気色ばんで克哉に食って掛かってきたが、それを隙のない論理で真っ向から弾き返した。対立が極まり、暗雲立ち込める会議室で仲裁に入ったのは、意外なことに御堂だった。御堂は克哉の案を全面採用したのだ。

 部下の案はすなわち御堂の確認を経た案だ。それをあっさり却下して部外者であった克哉の案を取ったことに内心の驚きが隠せなかった。

 御堂は冷静かつ客観的に分析して、克哉の案の方が優れていると判断したのだ。プライドに固持するかつての御堂なら端から克哉の案を相手にしなかっただろう。私情を差し置いて全体を俯瞰し益不利益を冷徹なまでに判断する姿勢は今までの御堂になかったものだ。

 

「あなたが俺の案を通すとは思いませんでした」

「君の視点は評価に値するし、今の我が社には必要なものだ。……それに」

 

 御堂がちらりと研ぎ澄ました視線を克哉に向けた。しっかりと釘をさすことを忘れない。

 

「君が自由にやれる環境を作ってやる。だから、失敗したときは言い訳を一切許さない」

「俺は失敗しませんから。問題ありません」

「随分と言うじゃないか」

 

 鼻で笑って御堂は程よい焼き目がついた肉厚なホタテを口にした。隣に焼き立ての車エビが添えられる。車エビの殻は鉄板の上で、丸ごとヘラで平らに潰され、焼き立てのエビせんべいになる。目も舌も楽しませる食事だ。克哉も、食事のスピードを御堂に合わせて箸を進めていく。

 シェフが分厚く切られた霜降り肉を焼きだした。おいしそうな匂いが室内に立ち込める。目の前で鮮やかな手さばきで切り分けられる肉の切断面は、美しい赤さが映える。その肉をそれぞれの皿へと取り分けると、シェフが一礼して下がっていった。

 個室にふたりきりで残される。水面下の緊張を悟られないように、黙々と肉を口に運んだ。御堂が言うように、有名産地のA5等級であるその肉は、肉質が繊細でサシが程よいバランスで入り、口の中で肉汁が溢れる旨さだ。

 御堂は機嫌よくボトルのワインをグラスに注ぎたしてはグラスを傾けている。その横顔に温かみのある照明の光が深い陰影を刻んだ。初めて出会った時から何一つ衰えていない。完璧な造形だ。

 御堂の顔に自分の食事を忘れて見惚れていると、克哉の眼差しに気づいたのか御堂が顔を向けた。視線がかち合わさないようにさりげなく瞼を伏せて、食事に夢中になっているふりをする。すると、御堂が克哉のジャケットに手を伸ばした。

 

「佐伯、襟にゴミが付いているぞ」

 

 何気なしにかけられた言葉に釣られてジャケットを脱ごうとしたところで、御堂が「取ってやる」と克哉の襟元をぐっと引き寄せ上体を寄せてきた。取りやすいように身体を近づけ、頭を反対側に傾ける。御堂が頭を寄せた。

 次の瞬間首筋に温かく濡れた感触が触れた。

 御堂が唇を克哉の首筋に這わせてくる。そのままつうと耳元までなぞり、克哉の耳朶を軽く食んだ。

 

「……っ!」

 

 あまりに想定外の出来事に面食らった。反射的に身体を強張らせて立ち上がる。ガタッと椅子が床を転がる大きな音が響き渡った。

 部屋の扉が開き、「大丈夫ですか!?」とスタッフが急いで駆けつけてきたところで我に返った。元の位置に戻された椅子に手をかけて、「すみません」と一言スタッフに告げて、何事もなかったかのように着席する。

 隣の席では御堂が笑いだしそうになるのをどうにか堪えている。スタッフが部屋から出るのを確認して、御堂が口を開いた。

 

「君がこんな初心な反応をするとは思わなかった」

「俺をからかっているのか」

「そんなにムキになるな」

 

 悪びれない様子の御堂に苛立ちが湧く。

 

「あんた、こんなことをしてどういうつもりなんだ」

 

 流石に克哉の憤りが伝わったのだろう。御堂が笑みを引っ込めた。それでもその眼差しには挑発的な光を乗せている。

 

「会ったばかりの君にこんなことをして悪かった。君がどんな反応をするのか見てみたかっただけだ」

「何……?」

 

――会ったばかり?

 

 御堂の言葉が理解できず言葉を失した。今はふたりきりだ。他人の存在を気にする必要などない。

 反応を失った克哉に追い打ちをかけるように御堂が言葉を添えた。

 

「君が男性に興味がないことはよく分かった。このことは忘れてくれ。……これからもビジネスパートナーとしてよろしく、佐伯」

 

――何を、言っている?

 

 その一言にすべての感覚が一瞬にして遠ざかった。食欲をそそる香りも、切断面の鮮やかな赤さを見せる肉も、遠くから聞こえてくる静かなBGMも、なにもかもが異世界の出来事のようだ。静かな混乱に叩き落されながらもあっさりと理解した。

 目の前の御堂は、忘れてしまったのだ。克哉のことを。そして、克哉との間に起きた出来事のすべてを。

 だとすれば今日の出来事がすべて腑に落ちる。御堂にとっては、L&B社の会議室で出会った克哉が、御堂の人生において初めて出会った克哉なのだ。

 信じられない面持ちで御堂をまじまじと見つめた。

 いったい何が起きたのだろうか。

 御堂が纏う圧倒的な華やかさ、そして一切の反論を許さないかのような絶対的な威圧感。それは克哉が知る御堂と何ら変わらない。だが、決定的に何かが変わってしまったのだ。

 胸の奥底の澱みがかき回される。名づけることのできない複雑な感情が噴き出してきて攫われてしまいそうだ。

 そんな感情を見透かされないように、御堂からわずかに視線を逸らして端的に返事をした。

 

「こちらこそ宜しくお願いします。御堂さん」

 

 

 

 

 店から出て、タクシーを呼ぼうとした克哉を、御堂が「大通りに出た方が早い」と言って二人して大通りに向かって歩き出した。

 大通りに向かう途中、御堂が近道だと言って公園の中を突っ切っていく。その背中を追った。木とベンチだけの簡素な公園。シンプルさはオフィスビルに囲まれている立地のためだろうか。昼間はビジネスマンの憩いの場になるのであろうが、夜は人気もないため薄暗い空間に侘しさが際立つ。

 自分の前を歩く、御堂の上質な生地のコートを纏うまっすぐな背中に目を留めた。胸には先ほどの衝撃が突き刺さったままだ。

 決して忘れることが出来ない男。それでも、関係は断ち切ったはずだった。克哉が御堂の前から消え去ることで。

 まさか御堂と再びこの距離で接することが出来るとは思わなかった。

 それなのに、胸には嬉しさよりも何よりも形容できないほどの苦しさが渦を巻く。

 

――自分が望んだとおりになったじゃないか。

 

 御堂を解放したときに、克哉は告げたのだ。すべてを忘れろ、と。克哉との間にあったことも克哉のことも、何もかも、と。

 その願いが叶ったのだ。御堂は、かつての克哉を知らない。克哉との間に何が起きたのかを忘れている。

 だから、御堂は克哉に怯えることも、克哉を憎悪することもなく距離を詰めてくる。未開の地に住む動物が人間の怖さを知らないがため、自ら危険に近付いてくる無防備さで。

 公園の出口の向こうに大通りの喧騒とネオンの輝きが見えてきた。

 御堂は後ろも見ずにまっすぐと歩いていく。光ある世界へと、たった一人で。克哉を置いて。

 訳も分からない衝動が克哉を衝き動かした。

 

「御堂……っ」

「っ!?」

 

 気付けば御堂の腕を咄嗟に掴んでいた。御堂が振り向く前に背後から抱き締める。

 

「おい……っ、何する」

 

 身体を硬くした御堂が身じろぐのを、腕の力を一層強くして抱きしめ続けた。

 

「佐伯?」

「すまない……」

 

 口先では謝っても、御堂を放す気はなかった。慌てる御堂が克哉を振りほどこうともがくが、それを絡ませた腕で押さえ込み、身動きさえままならなくする。

 

「放せ……っ!」

「あと…もう少しだけ」

 

 外気に冷えていた御堂の背中が密着した身体によって、温められてくる。最高級のコートの生地、その肩口に顔を埋めて「御堂……」と微かな声で小さく呟いた。

 抱きしめ続けているといつの間にか御堂は抵抗を止めていた。抵抗しても無駄だと悟ったのか、騒ぐことで人目を引きたくなかったのか。その場に立ち尽くしたまま、克哉に好きにさせている。少しして、頭が冷えてきた。

 

「悪かった……」

 

 自分が何をしていたかようやく気付き、謝罪の言葉と共に克哉は腕の力を緩めた。御堂を解放して引っ込めた腕がだらりと体の横に垂れる。

 

「佐伯……?」

 

 困惑した眼差しが向けられた。うつむき気味に瞼を伏せて、御堂の追及する視線を遮った。

 

「どうかしてました」

 

 数歩、よろめくように後ろに下がり、御堂との距離を取った。なぜこんなみっともない姿を御堂の前に晒しているのか。いたたまれない面持ちになり、「失礼します」と言い訳のように呟いて背を向けた。

 そのまま、この場から足早に立ち去ろうとするのを、「佐伯!」と鋭く呼ぶ御堂の声が引き留めた。動きを止めた克哉に、もう一度落ち着いた声が投げかけられる。

 

「待て、佐伯」

 

 もう一度、呼びかけられてのろのろと振り向いた。まっすぐな眸が自分を真正面に捕らえていた。御堂が口を開きかけてためらい、そして、言った。

 

「私の部屋に寄っていかないか?」

(2)
​(2)

「そんなところに突っ立っていないで中に入ったらどうだ?」

 

 玄関で躊躇った様子でいる克哉に御堂は声をかけた。すると、

 

「俺が入っていいんですか?」

 

 ととぼけた返事が返ってきた。

 

「ここまで来て玄関で立ち話でもする気なのか?」

「……失礼します」

 

 ようやく克哉が革靴を脱ぎだした。それを確認して先にリビングに入るとキッチンに向かい冷蔵庫の扉を開いた。がらんどうの中をざっと見渡して、冷えているミネラルウォーターを取り出した。

 リビングに克哉が入ってくる気配を背中で感じる。物珍しそうに部屋の中を見渡しているようだ。この部屋に人を連れてきたことはなかった。だが、元々持っている物も少なく、食事もほとんど外食で済ませるため、この冷蔵庫の中身と同じく生活感をまるで感じさせない部屋だ。

 振り返らずに声をかけた。

 

「そこのソファに座ってくれ」

「引越したんですね」

「何……?」

 

 想定外の返事に思わず振り返った。克哉と視線が合うと、克哉は慌てて取り繕うように言った。

 

「いや、部屋のものが少ないので、引越ししたばかりのようだと」

「引越したのは一昨年だ」

「へえ」

 

 そこで会話が途切れ、気まずい沈黙が漂った。

 先ほどの公園で突然抱きすくめられて、混乱する御堂を置き去りにしようとした克哉を思わず引き留めた。

 この男は、先の店で御堂から仕掛けたきわどい挑発は頑な拒絶を見せたのに、何事もなかったかのように別れようとする御堂を背後から抱き締めてきた。

 まったくもってこの男が分からない。

 公園での克哉は、L&B社で顔を合わせた時の刃のような切れ味は消え失せて、自分自身の行動に戸惑っているようにさえ思える。

 だが逃げるようにしてその場を去ろうとする克哉に声をかけてみれば、意外にも御堂についてこの部屋までやってきた。

 誰かをこの部屋に呼ぶなんて初めてだった。家具の少ない部屋はがらんと広く侘しささえ感じるが、それでも一人暮らしには不便はなかった。だが、こうやって男一人を呼ぶだけでどこか明るさが増した気がする。

 それは、この男が纏う雰囲気にあるのかもしれない。明るめの癖の強い髪、銀のフレームのレンズの向こうにある双眸は猛禽類のような鋭さを窺わせる。整いすぎた顔つきは表情に乏しくどこか冷淡さが漂うが、一度、口を開けば相対する人間を知蕩かすような華がある。一方で敵に回せば手強い相手であることもひと目で見て取った。

 ちらりと黒目だけで克哉がいるリビングを窺えば、克哉は大人しくソファに座って、部屋のあちこちを物珍しげに観察している。

 あの場の流れで部屋に連れてきたが、何の段取りも考えていなかった。誰かと遊ぶならホテルと決めている。割り切った遊び方しかしたことがない。良く知らない他人をプライベートの空間に踏み込ませるほど、自分は甘くない。

 だが、あの時の克哉はどこか切羽詰まった様子で放っておけなかったのだ。かといって、寒い公園にずっと留まる雰囲気でもなければ、人目のある店に連れていける雰囲気でもなかった。

 思い返せば、今日、初めて会った時から克哉は複雑な色を宿した眼差しを御堂に向けていた。それは自分に対するある種特別な感情だと受け取った。

 異性同性を問わず、御堂はそのような好意を抱かれることはよくあったし、そんな相手の気持ちを利用し弄んだことも数えきれないほどだ。ミーティングの場ではポーカーフェイスを保って容赦をしない男が、自分にだけみせたほんのわずかな感情の乱れ、そこに強く惹かれた。

 長身ですらりとした体格にセンスの良いスーツを羽織る男は、容姿もそれに見合った綺麗な男だ。そして頭もいい。後腐れなく遊ぶ相手としては申し分なかった。

 だから、親睦を深める、という口実で克哉を誘った。誘いやすいように個室のレストランをわざわざ用意したのだ。しかし、そこで見せた克哉の反応は意外なものだった。驚愕とあからさまな拒絶だ。

 自分は克哉という男を読み間違ったのだろうか。

 腑に落ちなかったものの、御堂は諦めてあっさりと身を引いた。これからビジネスパートナーとなる相手と揉めるのは、L&B社の、しいては自分への不利益になりかねない。そこら辺の打算と線引きはきっちりと引いている。

 こうして、自分になびかない相手にさっさと見切りをつけて、明日からは何事もなかったかのように振る舞うはずだったのだが、何故か今、御堂は克哉を部屋に連れてきている。

 

――どうしたものか。

 

 今更御堂から何かをする気も起きない。克哉はワインに酔ったことと御堂が仕掛けた挑発で混乱したのだろう。これ以上気まずくなる前に、さっさと克哉を家に帰した方が良いだろう。

 

「佐伯、水を飲んで酔いを醒ませ。落ち着いたらタクシーを呼ぶ」

 

 ミネラルウォーターのペットボトルをソファに座る克哉に差し出した。克哉がちらっと御堂を見て手を伸ばしてきた。そして、御堂は動けなくなった。

 

「っ……」

 

 克哉はペットボトルでなく御堂の手首を握り締めたのだ。低い声が鼓膜を震わせる。

 

「御堂、なぜ俺を部屋に入れた?」

「何を、言っている?」

 

 御堂をぐいと引き寄せて顔を近づける男の、眼鏡越しの切れ長の眸。そこには猛々しい感情が垣間見えた。心臓が早鐘を打ち出した。

 この男は危険だ、本能が警鐘を鳴らす。

 

「あなたは俺を煽る行動ばかりする」

「離せ……っ、こんなつもりで君を部屋に呼んだのではない」

「じゃあ、どうして俺を近づけた?」

「な……っ」

 

 燃えるような眼差しが絡みついてくる。御堂を詰問し責める口調でありながら、克哉の顔はどこか辛そうだった。鬱積した感情がその表情から垣間見える。

 それは怒りなのか悲しみなのか、それとも別の何かなのか。こんな状況なのに、克哉の感情の源泉がどこにあるのか心惹かれた。それを見極めようとした寸前、くちびるにくちびるがぶつかってきた。

 所詮は男同士だという油断があったのかもしれない。ぐぐっと体重をかけて伸し掛かられて、ソファに組み敷かれる突然の展開に思考が追い付かない。肉感的なくちびるが口を塞ぎ、最初から激しく吸ってきた。

 克哉のフレグランスが鮮明に濃くなって鼻腔を浸す。驚きに、「あっ」と声を出そうと開いたくちびるの隙間から熱く濡れた舌が入り込んできた。

 くちびる同士が作る空間の中で混ざり合った唾液がくちゅりと湿った音を立てた。克哉の唾液は微かなタバコの苦みが滲んでいる。たっぷりと口内を濡らされてはかき回される感覚に呻いて克哉から顔を外そうとしたが、後頭部に回された手がしっかりと髪の毛ごと御堂の頭を掴んで離さない。克哉の広い背中を拳で叩き、胸を突っぱねようにも、若い克哉の身体は無駄のない筋肉で締まっていてびくともしなかった。

 そうしているうちにも、克哉の舌が淫猥に蠢き、御堂の口腔を舐めていく。まるで口の中を犯されるような快感に、頭の中が熱く痺れていった。

 無意識に克哉の唾液をこくりと喉を鳴らして飲み込んでしまっていた。とろりとした唾液が濃いアルコールのように、胸の奥を焼いて落ちていく。生々しい感触に喘いだ。貪るようにくちびるを吸われるうちに口から注ぎこまれた疼きが下腹部に流れ込んでくる。激しいキスに呑み込まれないように胸を上下させて、必死に酸素を取り込んだが、ワインで酩酊した身体は、すぐに抵抗力を奪われた。克哉のキスをただ甘受するだけの状態になって、ようやく、克哉は気が済んだようだった。

 克哉は最後に、軽く下唇を食んで顔を離した。

 乱れた呼吸を整えながら、ぐっしょりと濡れたくちびるを手の甲で拭った。切れ切れの声を出した。

 

「君は、こんなキスをするのか……」

 

 御堂に悪戯をされた時の克哉の反応を初心だとからかったが、このキスは初心な男がするキスではない。遠慮のない情熱をぶつけておきながら相手の快楽を引き出す淫靡なキスだ。

 御堂の言葉に克哉が目を不安定に瞬かせた。長い睫毛が、伏せ目がちな瞼を彩る。掠れた声で呟いた。

 

「……あんたとキスをしたのは初めてだ」

「当り前だ。今日会ったばかりだ」

 

 まっすぐと見上げた眸が克哉と視線がぶつかると、克哉はバツの悪そうな顔をした。その表情は見たことがあった。この短い時間の中ですでに二度目だ。

 まただ。

 また、克哉は後悔している。

 帰り道の公園で、そして、このソファの上で。克哉は自ら衝動的に迫りながら、それを激しく悔いる態度をとる。

 

「帰ります」

 

 そう言ってのろのろと身体を引き離そうとする克哉の脚の間に自分の膝を差し込んだ。克哉の股間に腿を押し付ける。ぎくりと克哉の動きが止まった。

 張りつめた硬さが脚の肉を押し返してくる。その形を感じ取って高慢に微笑んだ。自分と同じ反応をそこに見たからだ。克哉もまた、今のキスで昂っているらしい。克哉が御堂の脚を避けようと身じろぎをした。

 

「御堂、よせ……っ」

「君から仕掛けてきたんだ」

 

 克哉の抗議を無視して、淫猥な動きでゆるゆると脚を前後に動かした。

 ズボンの生地の上から欲情の器官を擦りあげられて、克哉が掠れた吐息を漏らした。目の縁には薄っすらと朱が差している。

 ゾクリと背筋を興奮が駆け上った。

 この男が快楽を極める顔を見たいと思った。怜悧な眼差しが蕩け、薄い唇がしどけなく綻び、悦楽に屈する姿をこの目で見たい。それは自身の絶頂よりもはるかに深い満足を呼び起こす予感がした。

 克哉の眸が微かに揺れた。そこに克哉の迷いを見た。

 だが、御堂の気持ちはすでに固まっていた。

 この男と関係を持つのも悪くない。もともと、そのつもりだったのだ。

 もう一歩、克哉の背中を後押しするために克哉のジャケットの生地を掴んで身体をぐいっと引き寄せ、耳元で囁いた。

 

「私は君としてみたい」

「本気か……?」

「君は、どうだ?」

 

 克哉が喉をこくりと鳴らした。

 したくないわけがないだろう。この男はギリギリのところで踏みとどまっている。あとほんの一押しするだけで、この男の理性は陥落する。

 克哉のこめかみに指を伸ばして産毛を逆立てるようにそっと這わせた。眼鏡のフレームから頬へと滑らせ、濡れそぼった口元へと。いましがたのキスでぬらめく、くちびるを輪郭に沿ってなぞる。抗うことを許さない強さと深さを持たせた声でその名を呼んだ。

 

「……佐伯」

「っ……」

 

 御堂の声に弾かれたように克哉は上体を起こすと、上着を脱ぎ去った。

 その有り様を見てほくそ笑んだ。

 御堂の思惑通り、欲情に打ち負かされたらしい。

 高級な生地のジャケットが床に脱ぎ捨てられる。そして、克哉は自分のえんじ色のネクタイの結び目に指を入れると、衣擦れの音と共にネクタイを抜き去った。それも床に落とすのかと思いきや、そうではなかった。

 ネクタイを自分の左手首に巻き付けると、口と右手を使って器用に結んだ。そして、ネクタイの他方の端を御堂に右手首に結びつけた。克哉の左手と御堂の右手が一本のネクタイで結び合わされる。

 ふたりを結ぶエンジ色のネクタイ。まさか、赤い糸のつもりではないだろう、と訝しながら聞いた。

 

「なんだ、これは?」

「俺への枷だ」

「枷?」

「俺があんたに酷いことをしないように」

 

 枷の意味が分からなかったが、克哉は自制心をこうやって見える形に変えれば、安心して肉欲に溺れることが出来るのかもしれない。

 ワイシャツの襟元をはだけた克哉が、御堂の身体を跨いだまま覆いかぶさってきた。シャツのボタンを外し、相手の服を脱がせ合う。片手がつながれているせいで自由に手が使えないことがもどかしく、それが逆にお互いの興奮と熱を高めていく。もつれあった状態で脚から下着とズボンをまとめて取り払われると、互いに手を繋いでいるせいで脱げなかったシャツのみの姿になった。

 素脚が絡み合い、熱い肌が重なり合う。結ばれた右手を克哉の左手が覆った。骨ばった大きな手がはだけたシャツの下を這い、剥き出しになった重たいペニスが互いの腹を押し合った。硬く大きな骨格、拮抗する力を持つ男が、御堂に対する欲情をあからさまにする。

 男と寝た経験はもちろんあった。男と寝る時は女とは明らかに違う興奮がある。同性だからこそ、どこが気持ちいいのか熟知しているし、同じ体格の男を女のように喘がせるセックスは御堂の征服感と嗜虐心をくすぐる。そして、御堂は誰と寝る時も、ベッドの中では絶対的なリードを握っていた。

 だから、この行為の主導権を持つのは当然自分であるべきだ。そんな矜持に唆されて、圧し掛かる克哉の胸を突いて押し退けようとしたときだった。レンズ越しの濡れた淡い虹彩と視線が重なった。

 凄絶な色気が滲むその眸に見詰められた途端に、電撃のような疼きが身体の中心を貫いた。体躯がビクンと跳ねて、感度がどこまでも研ぎ澄まされていく。

 抗う四肢が痺れて、蛇に睨まれた蛙のように克哉の前に容易に屈してしまう。自分の身体は克哉に抱かれたがっているのだと、直感的に理解した。

 「く……、んんっ」

 

 克哉は御堂の首筋に舌を這わせながら、慣れた手つきで御堂の胸の尖りを弄り、臍のくぼみをくすぐる。​克哉の好きなようにまさぐられて、こんなはずではない、と呆然とするも、克哉の慣れた愛撫に身体は従順に反応し、発情していく。

 直に触れ合う性器が熱くなり、勃起した雄同士が互いを押し合う感触に艶めかしい息が零れた。克哉が腰をゆるく動かした。エラとエラが引っかかり、裏筋がこすれ合う。挿入しているわけでもないのに、しつこく擦り合わされる甘い感覚に御堂は克哉の背中に片手を回して、シャツをぎゅっと掴んだ。脚がきつく絡みつく。しなやかな肌の下にある引き締まった筋肉が波打った。克哉のねっとりとした愛撫は、御堂自身でさえ知らなかった性感帯を信じられないほどの正確さで狙ってくる。

 寄せては返す波が次第に大きくなり、全身を強く引き攣らせた。

 

「く……っ、ああっ」

 

 重ねていた克哉の手を爪を立てる勢いで握りしめる。ペニスの中心を重たい欲情が駆け抜け、派手に爆ぜた。克哉のペニスに御堂の白濁が噴きかけられる。何回かに分けて吐き出した大量の粘液で、触れ合っていた下腹部がぐっしょりと濡れた。

 こんなセックスの真似事でイかされたのは初めてだ。それでも想像以上の苛烈な絶頂で意識が朦朧とする。

 克哉が身体をずらして腰を退いた。視界に入る克哉の性器は御堂の白濁に塗れていたがまだ放っていない。隆々とした硬さと長さを保っている。

 克哉が自分の自由な右手の指を数本、口に含んだ。そうして、唾液でたっぷり濡らして御堂の尻のあわいに滑らせていく。その爪の先が奥の窄まりへと触れた。そこはすでに伝い落ちた先走りと精液でぐっしょりと濡れている。克哉の指は、アヌスの襞を確かめるようにぐるりとひと撫ですると、迷いもなく中へと潜り込んできた。

 

「ぁあ……っ」

 

 拒みたいのに、絶頂の余韻が抜けきらない身体は力が入らず、克哉の指を咥えこんだアヌスは、あろうことか淫らにひくついてさらに奥へと引き込もうとした。克哉がレンズ越しの眸を眇めた。

 

「きついな……、使ってなかったのか?」

「無理だ……、佐伯っ」

 

 指一本の太さにも想像以上の圧迫感があり、克哉に何を聞かれたのかも頭の中に入ってこない。だが、その指が前後に抜き差しをはじめると、奇妙な感覚が沸き起こり、弾けた。奥深いところのいびつな疼きが、快楽だと気付くまでそう時間はかからなかった。

 

「あ……、ん、っ、そこ……っ、や……っ」

 

 身悶えているうちに、指を増やされていた。その指をまとめて引き抜かれると、切ないほどの空虚さが下腹の奥に染み渡る。その感覚に、きつい孔が綻んで開いていることを実感した。身体の奥底に秘められた肉襞が、外気に触れているのだ。

 克哉が御堂の片脚を抱え上げた。脚の奥のしどけなく解けた孔に、濡れそぼる熱い切っ先が押し付けられる。克哉が御堂に視線を向けた。御堂を射抜くような鋭い眸には猛々しい情欲が燃え盛っている。

 

「御堂、挿れるぞ……」

「待て……、あ、ああああっ」

 

 欲情が滲む低い声とともに、アヌスが克哉の形に大きく拓かれていった。御堂の制止を無視して一番太い部分を呑み込ませると、最奥を目指す勢いで、獰猛に腰が差し込まれる。襲い来る痛みに身を硬くして、結ばれている克哉の手に手をしがみつかせた。その途端、克哉の動きが止まった。

 克哉は我に返ったかのように、御堂の顔を覗きこんだ。視線がしっかりと重なり、克哉の瞳孔に御堂の顔が映り込む。呻きながら言った。

 

「もう少し、加減しろ……っ」

「っ……」

 

 涙に潤んだ眸を向けて嗄れた声で諫めると、返事代わりに手が伸びて御堂の髪を撫でた。顔が寄せられて、くちびるが重なり、跳ねあがる呼気を吸いあげられる。

 克哉の形に拓かれていく圧迫感と苦痛で身体が硬直するたびに、くちびるを擦り合わせて意識を逸らされる。御堂の精液のぬめりを利用しながら、圧倒的な質量が慎重に奥へと侵入してきた。たっぷりと時間をかけて陰嚢が押し合うほどまでに結合が深まる。到底無理だと思ったのに、御堂の身体は克哉を根本まで深く咥えこんでいた。

 男を受け容れるようにできてない器官がぎちぎちと克哉の雄を喰い締める。苦しいはずなのに、何故かこの苦痛と快楽が一体となる感覚を知っている気がした。

 克哉が御堂をじっと見下ろした。

 

「動くぞ……」

「ぁ……、っん、は、ああ……っ」

 

 中を探るように慎重に腰を動かして、硬い亀頭が臍の奥をぐりぐりと擦りあげた。途端に目の前が白くスパークした。

 

「あ、ぁ……っ!!」

 

 爪先から脳天まで稲妻が走る。つながったところから身体の奥底に甘く痺れるような感覚がなだれ込んできた。

 男に組み伏せられる屈辱も戸惑いも忘れて、大きく仰け反った。

 激しすぎる感覚に背中で這いずってつながりを解こうとしたが、結ばれた手をソファに押さえつけられて、身体を引き戻され、脚の間に差し込んだ腰を強く打たれる。

 

「さえ……きっ、嫌だ…っ、やめろっ」

「あんたの身体はそうは言ってない」

「嘘…だ」

「見てみろ、御堂」

 

 促されて自分の下腹部を見ると、克哉と自分の身体の狭間に膨張しきって反り返ったペニスがあった。ふたりの視線を受けて、ペニスが脈打ち、ふるりと震えて白濁混じりの雫を垂らす。

 男に組み伏せられて、抱かれて、自分の身体は確かに反応していた。克哉に貫かれることを悦んでいる。唖然とした。

 

「そんな、馬鹿な……」

「御堂、俺を信じろ。俺はあんたの身体の隅々まで知っている。何回でもイかせてやる」

 

 克哉がネクタイで結ばれた御堂の手を握り、自分の口元に持ってくると御堂の手の甲にくちびるを触れさせた。くちびるを滑らせて御堂の人差し指をちろりと舐め上げると、形の良い薄いくちびるに含んだ。指先の敏感な皮膚を尖らせた舌先で舐り、音を立ててしゃぶる。フェラチオをされているような気持ちよさに、頭の中が蕩けていく。

 克哉が御堂の指を口から抜いた。

 

「御堂、いいな?」

 

 朦朧としたまま、気が付いた時には頷いていた。

 強張っていた身体の力がくたりと抜ける。克哉は御堂の手を握り直すと腰を遣いだした。

 

「あ、や……、んあああ、はぁっ」

 

 戦慄くくちびるにくちびるが重なる。そのキスは恋人同士がするような甘い吸い方で、思わず感じ入ってしまう。体内がきゅっとしまり、御堂の中の克哉の形をよりリアルに浮かび上がらせた。

 突き上げるたびに絶頂を迎え、屹立したままの先端から精液を放った。克哉の斟酌のない突き上げに激しく揺さぶられ、振り落とされまいと手と背中に必死にしがみつく。繰り返し達したことで、もう出すものがなくなったあとも、脳が煮え立つようなドライオーガズムの渦に巻き込まれていく。底なしの絶頂へと囚われた。

​ 押し寄せる圧倒的な快楽に溺れて息をすることさえままならない。窒息するような恐怖に触れる克哉の手を渾身の力で掴む。

 

「イきそうだ……」

 

 克哉が甘さを感じさせる低い声を漏らした。御堂の中で克哉の雄が跳ねる。奥底にどくりと重たく熱い種を注がれていく。

 

「ん……、ぅ……」

「御堂……」

 

 どっと注がれた精液が下腹部を重たくする。ふたりの乱れた呼吸を重ねるように、くちびるを克哉に啄まれた。その優しく馴染むキスの感触にくすぐったさに、つい自らもキスを返してしまう。

 まるで恋人同士のような甘ったるいキスをしながら激しい行為の余韻に浸っていた御堂は、体内で膨らんできた違和感に顔を顰めた。

 

「佐伯…? また……、んあっ!」

 

 克哉が身体を動かした瞬間に、粘膜をごりっと抉られる。克哉のペニスはあっという間に元の硬さと熱さを取り戻していた。克哉が口の端を吊り上げた。

 

「まだ足りない」

「も……、無理だ…、ぁっ」

 

 克哉が腰を遣い始めた。いったんは遠のいた快楽がふたたび寄り戻される。

 御堂はすぐに喘ぐことしか出来なくなった。重ねた身体がずらされ、じっとりと汗をかいた手を握り直されて、結合部を軸に身体をうつ伏せに返された。

 

「はあ……っ、ぅああっ!!」

 

 身体の中を派手にかき回されて、捩じられめくられる感触に悲鳴を上げた。つないで手を背中に回され手綱のように取られる。絶え間なく悦楽に貫かれて身体をがくがくと震わせた。苛烈な炎に身体の内側から炙られている感覚に悶え打つ。

 ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てながら、克哉の精液が泡を立てて結合部から零れていく。果てても果てても次の波に攫われる。こんな激しすぎる絶頂は後にも先にも初めての経験だった。克哉の腰の動きに合わせて、自らも腰を揺らめかせてしまう。

 途切れそうになる意識の中で克哉が上体をぐっと屈めて、耳元で問うてくる。

 

「御堂、俺が誰だか分かるか?」

「さえ……」

 

 克哉の名前を呼ぼうとして、喉が震えて言葉が出なくなった。

 さっきまで、何のためらいもなく呼んでいた名前なのに、混沌とした意識の中では、その名前はどこか不吉で忌まわしい響きを有していた。

 背後の克哉が喉を震わせて笑った。それはどこか自嘲の笑みのようで。

 

「俺とあんたはとっくに終わっているのにな……」

 

 白んで消えゆく意識の中で克哉のどこか寂しげな声を聞いた気がした。

 そして、次の日、起きてみれば、克哉は部屋のどこにもいなかった。

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 御堂の部屋を抜け出したのは、陽の光が空に広がりゆく前の時間だった。凍てつくような静けさの中に東京の街が沈んでいる。微かに白みだした空を背に、克哉は御堂のマンションのエントランスをくぐり、足早に立ち去ろうとしていた。

 この時間では、流しのタクシーを捕まえるのは難しいかもしれない。

 それでも一刻も早く御堂の部屋から離れようと大通りに向かって歩いていると、不意に背後から声をかけられた。

 

「佐伯さん、お久しぶりです」

 

 かけられた声に足を止めて振り向けば、全身黒づくめの男がボルサリーノ帽を取って恭しく腰を折る。緩く束ねられた金髪が大気の粒子を乱反射して輝いた。

 克哉はこの男を良く知っていた。

 Mr.Rだ。

 決して喜ばしくはない再会に、克哉は真正面に向き直ると眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

「お前か……。何の用だ?」

「つれない方ですね。良いことがあったのでしょう……。喜びに満ち溢れるあなたの尊顔を拝しに参りました」

「良いこと……?」

「望みが叶ったのではないですか」

 

 奇妙な抑揚をつけながら喋るその男は、克哉に向ける金の眸をうっとりと細めた。

 この男が克哉の前に現れるということは、克哉に何か大きな転機が起きる前兆だ。いや、“それ”はもうすでに起きているのだろう。すぐに、思い当たった。

 詰問する口調で言う。

 

「お前が、御堂の記憶を奪ったのか」

「奪った? とんでもございません。あの方が自ら望まれて記憶を消されたのですよ。あなたに関する記憶をすべて」

「……ッ」

 

 予想はしていたが、改めて告げられた事実は、胸の奥底に投じられた小石のようだった。御堂自ら、克哉の記憶を消した。その事実がじわじわと波紋を広げて心を侵食していく。

 男が艶然と笑いかけてきた。

 

「あなたは願ったのではないですか? あの方の中の自身の過去を消したいと」

「そうだ……」

「それでは、あなたの願い通りになったではないですか。あの方はあなたにまつわるすべてを忘れて、文字通り、あなたとあの方の関係はリセットされたのです」

「……俺は、もう二度と御堂の前に現れるつもりはなかった」

「ですが、あなた方は再び出会った。すべての出来事に原因があり、意味があると考える。これを“運命”と呼べばあなたの気が済むのでは?」

「ふざけるな。こんなものが運命であってたまるか」

 

 揶揄する口調で語る男を、怒気を込めた声で遮った。だが、男はそんな克哉の態度もおかまいなしに、なおも言葉を続けた。

 

「それでは、何のためにリセットを望んだのです? 本当のところ、あなたはやり直したかったのではないですか。今度こそ、あの方の全てを手に入れるために」

「違う」

「本当にそうでしょうか? リセットの先にあるのはリスタート。もう一度、あなたは欲望のままに奪えばよいのです。あなたともあろう方が、欲しいものを我慢する必要はないのです」

「俺が望んだのは御堂の再起だ。俺との関係の再構築ではない」

 

 吐き捨てるように言った。

 

「俺がやったことは許されることではない」

「……誰があなたを罰するというのです?」

 

 静寂を断ち切る静かな言葉にはっと顔を上げた。金の眸が克哉の顔をまっすぐに覗き込んでくる。

 

「あの方は何もかも忘れてしまったのですよ。あなたに与えられた屈辱も苦痛も。それはあなたを許したのと同義では? あなた方の言葉であるでしょう、……確か、そう、“過去を水に流した”のですよ」

「忘れるから許すんじゃない。許すから忘れるんだ。それを取り違えるな」

 

 身体の横に下ろしていた拳をぐっと握りしめた。爪が掌に食い込むほどに。

 そう、克哉は決して許されてなどいないのだ。この男の甘言に騙されてはいけない。

 克哉の言葉に、ふふ、と男は嗤った。

 ビルが織りなす水平線が白く輝きだす。紺色の空との境目に橙色の帯が広がり、次第に周囲のものの輪郭が浮き出し始めた。それなのに、男の周囲はますます闇の濃さを増しているようだ。

 

「あなたの行動はあなたが選択するもの。どうぞ、今度こそ悔いのないように。上手く立ち回られますように」

 

 笑みを保って崩さぬ男は、甘美な響きで「それでは失礼いたします」と囁いて、消えゆく夜の闇に溶け込んでいった。

 

――Mr.R

 

 佐伯克哉に眼鏡を渡したことで、克哉の運命の歯車が大きく回された。そして、それは克哉だけに限ったことではなかった。克哉に関わった人物の歯車もまた克哉によって大きく狂わされたのだ。

 ゲームはリセットすることでリスタートすることが出来る。だが、克哉と御堂は違う。御堂を解放した時点で、二度と始まることのない終止符が打たれたのだ。

 つまりそれは、すべてを終わらせるためのリセットだ。リスタートした御堂の世界に克哉は存在してはいけない。だからこそ、もう二度と御堂と御堂の前には現れない。克哉はそう誓った。

 そして、克哉がそう願ったとおり、御堂は自ら克哉にまつわる記憶をすべて捨てた。御堂は克哉がつけた爪痕を跡形もなく消し去った。それは御堂の固い決意に他ならない。克哉と一切関わりたくない、記憶の中でさえも。そう御堂は望んだのだ。

 それは自分がそうしろと言った結果に他ならないのに、その選択をした御堂を目の前にしたら胸が千々に乱れた。

 

――見苦しいな、俺は。

 

 あのマンションで壊れかけた御堂を目にして、御堂が好きだという自分の気持ちに気が付いた。それと同時に、自分がしでかしてしまった罪の重さに戦慄した。逃げるようにしてその場を後にして、御堂のことを忘れようと努めたはずだった。

 あの日から二年近く経ったにも関わらず、御堂との再会で、自分の中の御堂への気持ちが一グラムもすり減ってないことに気付かされた。

 そして、再会した御堂は克哉を忘れていた。御堂は克哉との過去を忘れたことで、今の克哉に興味を持った。かつてMGN社で克哉に接待を要求した時のように。その状況を跳ねのけることが出来なかったのは自身の弱さだ。

 Mr.Rの言う通り、自分は心の奥底で、御堂とやり直すことを望んでいたのだ。

 御堂との新しい関係が手に入るかもしれない。そう感じた瞬間に欲が生じて、御堂の誘惑にあっさりと屈してしまった。

 

――だが、これでいいはずがない。

 

 御堂が望んでいるのは克哉のいない世界だ。そんな御堂の世界に、克哉は素知らぬ振りして近づいた挙句、関係を持ってしまった。

 御堂との行為に繰り返し果てて頭が冷えてくると、どうしようもない悔恨に包まれた。それで、御堂が起きる前に、何も告げずに逃げ出した。それは、あの頃の自分と何も変わっていない。

 

――俺は何も学んでないんだな。

 

 力なく笑って東の空を見上げれば、太陽が顔を覗かせ始めていた。幾多もの眩い筋が空に伸びる。暗闇が追い立てられて、すべての物が鮮やかな色を取り戻しつつある。そんな陽の光に背を向けて、克哉は帰路を急いだ。

 

 

 

 

――どうするか……。

 

 克哉はAA社の自分のデスクで、L&B社へ提出した企画書を前に眉間に深い皺を刻んだ。

 これ以上、御堂に関わってはいけない。そう、決意を新たにするも、一度契約してしまった依頼だ。自分の身勝手な気持ちで破棄すると逆に御堂に迷惑がかかる。

 L&B社のアパレル事業に対して克哉が行った提案は、新しい化学繊維によるスーツの販売だった。デュアテックスという開発されたばかりの化学繊維はポリエステルの一種だったが、生地の触感がソフトなうえ、回復力が高く型崩れやシワに強い。発売されてすぐに、快適な着心地からスポーツ衣料やアウトドア衣料に使われ始めていた。その繊維を使ったスーツを作れば、家庭で洗濯が出来る。それでいて、既存のスーツと同等の値段設定が可能だ。洗濯機で丸洗い可能なスーツ、既存の概念を覆すインパクトを持った克哉の戦略は驚きを持って迎え入れられたし、御堂はその場で克哉の案の採用を即断した。

 動き出してしまったコンサルティングを今更投げ出すことは出来ない。

 それなら、この契約が終わるまでこれ以上の関係を持たないように極力離れているべきだろう。しかし、人手が極端に不足しているAA社で、克哉自ら手掛ける案件だ。離れていることなど、可能であるのかどうか。

 頭を悩ませていると、さっそく電話がかかってきた。

 

「佐伯社長、L&B社の御堂様からお電話です」

 

 事務員から声がかかり、デスクの電話機が鳴り出した。すぐに受話器を取って耳に当てると、聞こえてきたのは、耳に馴染む深みのある声だった。

 

『もしもし?』

「佐伯です」

『おはよう』

「……どうされましたか?」

 

 あえて、何事もなかったふりで尋ねてみたが、御堂が皮肉な口調で言った。

 

『随分と他人行儀な対応だな。昨夜のことを覚えていないわけではないだろう?』

「あれは……忘れてください。酒に飲まれすぎました」

『私を襲っておいて、随分な言い草だな』

「……」

 

 低く潜めた声で指摘されて、言いかけた言葉をぐっと呑み込んだ。ソファの上で身を離そうとした克哉を誘惑したのは御堂だし、互いを貪る忘我の最中、御堂だって自ら克哉を求めて激しい行為を繰り返したのだ。かといって、それを持ち出すのは克哉こそしっかりと自我を持ってその場に臨んでいたことを、自ら証明することに他ならない。

 言葉を詰まらせる克哉の反応に御堂が可笑しそうに喉を鳴らした。

 電話を通して嬲られている気分だ。感情を殺した口調で言った。

 

「そのことを責めるために、この電話を?」

『まさか。君に確認したいことがあって電話をしたんだ。昨日の提案書だが……』

 

 御堂はくすっと微かな笑いを漏らした後、打って変わったビジネス口調になった。そうして、昨日克哉が提出した提案書の疑問点についてひとつひとつ指摘していく。

 急いで、自分のデスクの上に広げていた資料を手元に掻き集めた。御堂が言及する内容を確認していく。

 御堂の指摘はいずれも妥当なもので、その洞察の鋭さには唸らされるほかない。克哉の企画の脆弱な点を正確に突いてくる。昨日提出したばかりの企画書で、昨夜はあんなことがあったものだから、御堂はそれを読み込み検証する時間などなかったはずだ。

 すぐさま回答しながらも御堂の疑義のいくつかはその場で適切な答えを用意できず、後ほど改めて回答すると言わざるを得なかった。

 すると御堂はとんでもない要求を突き付けてきた。

 

『それなら回答は直接私に説明してくれ』

「……メール、もしくは電話では駄目ですか?」

『面と向かって意見を交わしたい。担当の部下も交えてディスカッションする必要がある』

 

 そう言われると断れない。パソコン画面で自分のスケジュールを確認すると今日一日どこにも空きはない。それをそのまま告げて、別の日を提案したが御堂はそれを許さなかった。

 

『それなら、君の今日のスケジュールを全て消化した後でいい』

「それだと夜になるが…」

『ちょうどいい。夕食を食べながら打合せするのはどうだ?』

 

 昨夜の出来事が思い浮かんで即座に断りたくなったが、御堂の部下も一緒なら必要最低限の仕事の話だけでその場を辞すことが出来るだろう。御堂も部下の前ではめったなことは出来ないはずだ。そう考えなおして承諾した。

 電話の向こうで御堂がクスリと笑う。

 

『店と時間をメールで送る』

 

 それだけ告げて電話が切れた。

 不通音がなる受話器を耳に当てたまま、深く息を吐いた。

 距離を置こうにも、今の状況では無理だ。御堂はプロジェクトのリーダーで、自分はその営業戦略を請け負っているコンサルティング会社の身分だ。

 御堂の存在を知らずに契約をしてしまったことが悔やまれる。御堂と再会したときだって、自分が御堂を必死に避ける側の状況になるとは想像だにしなかった。

 あの夜の出来事で、克哉は御堂の興味を引いてしまった。御堂が快楽に対して貪欲であることを良く知っていたのに、自らの浅はかな行動は悔やんでも悔やみきれない。

 最初に会った時は、克哉に怯えて避けようとする御堂を追い詰める愉悦に浸っていたのに、まさか自分が追われる立場になろうとは思いもよらなかった。

 プレジデントチェアに深くもたれかかりながら、克哉は大きなため息を吐いた。

 

 

 

 

 その日の夜、御堂から指定されたのは、新宿の一等地にある外資系ホテルのレストランだった。打ち合わせなのに大袈裟な、と思ったが、その一方で形にこだわる御堂らしい選択だと納得する。

 時間通りにレストランに向かい、御堂の名前を黒服のスタッフに告げると奥の個室に案内された。既に御堂は到着していたようだ。個室に入ったところで克哉は眉を顰めた。テーブルに用意されている席は二人分だ。御堂は涼しい顔をして克哉に挨拶をした。

 

「時間通りだな、佐伯」

「部下と一緒……、と言っていませんでしたか?」

「もう勤務時間外だ。仕事に無理に付き合わせるとパワハラ扱いされるからな」

「それなら、俺は失礼します」

「待て、佐伯、逃げるのか?」

 

 踵を返して出ていこうとする克哉を御堂の鋭い声が射すくめた。ゆっくりと振り返った。

 

「俺が、逃げる……?」

「随分とあからさまな態度ではないか? どうしてそれほどまでに私を避けようとする? もう、知らぬ仲ではないだろう」

「……昨夜のことでしたら申し訳ありません。アルコールのせいで我を忘れていました」

 

 克哉の苦しい釈明を御堂は鼻で笑うと、問うてきた。

 

「誰か操を立てている相手でもいるのか?」

「いいえ、そんな相手はいません」

「それなら、問題ないではないか。それに、私は昨夜のことを騒ぎ立てるつもりはない」

「……」

「座れ、佐伯」

 

 静かで威圧感のある声で命じられて、克哉は渋々御堂の前に座った。

 実のところ、問題は大有りなのだ。御堂はよりによって、一番関係を持ってはいけない相手と関係を持ってしまったのだ。しかし、今更なかったことに出来ない。

 ふたりの前にシャンパンが運ばれてくる。御堂はグラスを軽く掲げると、乾杯した。その眸が意地悪く輝く。

 

「君はアルコールに弱いようだから、今日はアルコールはほどほどにしようか」

「そう願います」

 

 さっさと仕事の話を片付けて帰りたかったが、美しく彩られた前菜の皿が目の前に運ばれてきた。どうやら御堂はフルコース料理を注文したようだった。これではそう簡単に食事を終えることが出来ない。

 そして、アルコールはほどほどにする、と言ったそばから御堂はソムリエとともにワインリストから赤ワインを選びだした。すぐにワイングラスがテーブルに二脚並べられた。

 御堂が優美な仕草でテイスティングをすると、それぞれのグラスに暗赤色の液体が注がれていく。

 暗鬱な気分だったが、御堂が酔う前に仕事の話を、と克哉は鞄から資料を取り出して、電話で指摘された件について話を切り出した。だが、御堂に「無粋だな。後にしろ」と一蹴され、やはり嵌められたのだと目をきつく眇めて非難の眼差しを御堂に向けた。

 そんな克哉の態度も、御堂にとっては愉快なのか、機嫌よく一方的に話しかけてくる。

 二度と昨夜のような過ちは繰り返したくない。事前に牽制しておいた方が良いだろう。

 克哉は不愉快さを前面に出して、御堂に釘を刺した。

 

「御堂さん、こんな風に呼び出されることは俺にとって迷惑です。俺とあなたは単なるビジネス上の関係に過ぎない。昨夜のことならどんな謝罪でもします。だから、弁えていただけませんか」

「ほう……。どんな謝罪でもすると?」

「常識的な範囲でしたら」

「それなら、正直に答えろ」

 

 御堂はワイングラスを持つと、口をつけてくちびるを湿らせた。そうして克哉を真正面から見据えた。

 

「君は何を恐れているんだ?」

 

 直球で問われて、言葉を失った。メインの皿の肉を切り分けようとナイフとフォークを持っていた手が止まる。

 御堂は克哉を見透かす眼差しをぶれることなく克哉にぶつけてきている。御堂に胸の深いところを探られるような居心地の悪さに、視線をわずかに伏せた。

 

「あなたが、傷つくことです」

「君はたいそうな自信家だな。私が君に傷つけられる、だと?」

 

 御堂が高慢に笑い飛ばした。克哉の言葉を冗談としか取り合わない。言葉の節々に克哉を侮る態度が見え隠れする。

 そんな姿を前にして、図らずも胸が熱くなった。

 かつて、克哉に踏みにじられ、壊された御堂が、自身の誇りと尊厳を取り戻している。

 克哉が焦がれてやまなかったエリート然とした完璧な姿だ。

 だとすれば、御堂の選択は正しかったのだろう。そして、それを望んだ過去の自分自身も正しかったのだ。

 それなのに、この胸の苦しさはどこから来るのだろうか。

 御堂がナイフとフォークで切り分けた肉を口に運んだ。ゆっくりと咀嚼して、呑み込む。そうして、口を開いた。

 

「君とのセックスは悪くなかった」

 

 澄ました顔で露骨な表現をする御堂に、克哉は眉を微かに吊り上げた。ここは個室で今は給仕をするスタッフもいない。それでも薄い扉を隔てた向こうには客やスタッフが大勢いる。

 かつて職場でも関係を迫った克哉がTPOを言える義理は何一つないのだが、目の前の御堂は、克哉を前にしてスリルと背徳感を明らかに楽しんでいる。

 御堂がナフキンで口元を押さえて、肉料理のソースを拭った。

 

「私も重苦しい付き合いは好きではない。だから、こうしよう。三カ月後にこの事業が正式にリリースされる。そうすれば、AA社との契約はひと段落が付き、私は次の事業を手掛けることになる。だから、君との関係はそれまでの間だけだ。後腐れがなくていいだろう?」

「つまり、その間だけ俺と体の関係を持つと?」

「君にとっても悪い話ではないはずだ。私を満足させてくれるなら、何かしら君に報酬を払ってもいい」

「報酬?」

「金でもいいが、君は金には困っていなさそうだからな。仕事の便宜を図ってやろう。私の知り合いに君の社を紹介する」

 

 その手慣れた言い方は、過去の相手ともそういう割り切った付き合い方をしてきた口ぶりだ。相手をセックスの対象としか見ない、ドライで冷徹な見方だ。気に入った相手には金やコネをちらつかせ、そしてまた、時に立場を利用して半ば強要同然に自分の思い通りにしてきたのだろう。

 くっ、と喉で小さく笑って、克哉は眼鏡を押し上げた。研ぎ澄ました視線を御堂に突き返した。

 

「金やコネ、あんたはそういう手段で人を従わせてきたんだな。人を動かすには最適だろうが、俺はそんなものには興味がない。俺がそんなものでなびく人間に見えたか?」

「そうか。君に配慮したつもりだったが……」

「配慮だと?」

 

 御堂は全く動ずる気配もなく克哉の眼差しを真正面から受け止めた。

 

「君は私に興味があるのだろう? だから、君が私に近づくことが出来る理由を与えたつもりだ」

「……」

「私も君に興味がある。ちょうどいいではないか」

 

 口元に微笑を保ったまま告げられる言葉に、返す言葉を失った。

 克哉は御堂の会社からコンサルテーションを受ける立場だ。決して御堂の部下ではない。だからといって、御堂は、一度関係を持った相手をそう簡単にあきらめるほど潔さはなかった。御堂は克哉が自分に抱く執着を見透かしている。そして、克哉の気持ちを手の上で好きに転がすことで愉悦を感じている。

 黙り込んだ克哉に御堂は満足げに目を細めた。早々に勝利を確信したのだろう。

 克哉は口を引き結び、瞼を軽く閉じて御堂の視線を遮った。そうして、どうするべきか思考を巡らせる。

 何が最善(ベスト)の選択であるか、現時点では分からない。それならば、より良い方(ベター)の選択をするしかない。より良い方の選択を積み重ねることによって、最善の結果を得ることが出来る。そう信じるしかない。

 克哉は瞼をゆっくりと押し上げ、御堂と視線を重ねた。表面上は御堂に屈したふりをする。

 

「あんたの言う通り、三カ月間、あんたと関係を持つ。だが、この契約が終わるまでの三カ月間だ。それ以降は一切の関係を絶ち、俺のことはすべて忘れること。それが条件だ」

「……私はそれで構わないが、それで君に何のメリットがある?」

「あんたに従うと言っているんだ。それとも、あんたは他人に言うことを聞かせるときに自分にとって理解できる動機がないと信用ならないか?」

「生意気だな、君は」

 

 そうは返しつつも、自分の思い通りに克哉を動かせたことに不満はないようだ。

 サーブされた口直し用のシャーベットを口にし、機嫌よくワインを味わっている。その姿を眺めた。

 御堂は、克哉の言う条件を本当のところ分かってないだろう。単に、関係を清算するくらいにしか思っていない。克哉は文字通り、克哉に関するすべてを忘れてもらうつもりだった。今度こそ、関係を無に帰すのだ。別れを常に念頭に置いていれば、自分は同じ過ちを繰り返したりはしないだろう。互いを壊しかねない二人のつながりを、割り切った肉体関係に落とし込めるはずだ

 克哉は御堂に執着しているが、その逆はない。御堂は目の前に現れた克哉に対して、たまたま興味を持っただけだ。生意気な若手を従わせたいという欲求と、自分の肉体的な欲求が合致した。それは、MGN社で克哉に性的な接待を要求したときと同じだ。

 御堂がすらりとした長い手をテーブルに伸ばした。その指先にホテルのエンブレムが刻印されたカードが挟まれている。このホテルの部屋のカードキーだ。

 御堂が克哉に向けて、くちびるを吊り上げた。

 

「では、早速、今晩相手をしてもらおうか」

 

 

 

 

 高層階のホテルの部屋は、ラグジュアリークラスのホテルにふさわしい設えだった。カーテンが開かれた壁一面の嵌め殺しの窓には、遮るものなく燦然と輝く東京の夜と、品格のある室内が鮮明に映り込んでいる。そして、同時に快楽に喘ぐ裸の男も押し付けられたガラスに鏡のように映しとられていた。

 

「はぁっ、あ……っ、んあっ、ふ……」

 

 両肘をガラスについて苦しげに眉をしならせる御堂の荒い呼吸が、目の前のガラスを曇らせた。

 身にまとったバスローブははだけ、左右に大きく開いて、中の様子はガラス越しに晒されていた。

 きめ細やかな白い肌は発情の彩に染まり、その胸の尖りは赤く色づき、さながら果実の様だ。突き出された腰が揺れるたびに、締まった腹筋が不安定に波打つ。彫刻のような非の打ちようのない肉体。その中心部に、隆々と屹立した性器が色濃く張り詰め、先端から雫を滴らせている。

 そして、背後に突き出した腰、バスローブの裾はまくりあげられて薄い肉のつく尻が剥き出しになっていた。その腰骨を克哉がきつく掴む。双丘の間には克哉の隆起が深々と穿たれていた。

 ホテルの部屋に入り、克哉はシャワーを浴び、バスローブをまとってバスルームから出れば、先にシャワーを浴びた御堂が窓際で夜景を眺めていた。その御堂に、気配を殺して近づき、驚いた御堂をそのまま窓に押し付けて、始まったセックスだ。

 このセックスは男同士の快楽を最短距離で求めあうそれで、克哉の先を急くような乱暴な行為に御堂は拒絶の声を上げたが、すぐにそれは艶めいた喘ぎに取って代わられた。御堂の身体は隅々まで知っている。それに、痛みも恥辱も、快楽に変換されるように躾たのは克哉だ。御堂は克哉の記憶を失ったが、御堂の身体は克哉をよく覚えている。それは昨夜、すぐに気が付いた。

 克哉がぐっと腰を入れて突き上げるたびに、御堂の身体が大きく揺れて、腫れきった先端からぬらめく雫が窓ガラスや床へと散らされた。

 

「佐伯……、く……っ、ああっ!」

 

 つま先が浮き上がるほど、激しく突き上げられて、御堂は背を大きくしならせた。

 窓ガラスに映る御堂の顔に視線が釘付けになった。男に抱かれる屈辱と快楽を堪えるその顔をもっと歪ませてやりたい、そんな暗い衝動が克哉の身体の奥底から噴き上げてきた。

 御堂が窓ガラスに爪を立て、崩れ落ちそうになる体勢を必死に保とうとする。そんな御堂の努力を嘲笑うかのように、猛々しく腰を打ち付けた。

 

「ぁっ、はあっ、よせ……っ」

「あんたがこれを望んだんだろう?」

「違……っ、や……、ぁっ」

 

 切れ切れの声が克哉を諫めようとする。それを無視して御堂の身体を揺さぶった。御堂の眦に水滴が一滴膨らんだ。それが弾けて、御堂の頬を伝い落ちる。

 その涙を見て、ハッと我を取り戻した。顔を上げれば、窓ガラスに映った自分の顔と目が合った。その顔は嗜虐に満ち溢れた凶暴な欲情が揺らめいている。ゾッと背筋に氷を差し込まれたような衝撃が走った。過去の自分の亡霊が目の前に現れていた。

 そんな自分を抑え込もうと、とっさに背後から御堂を抱きしめた。

 滑らかなガラスを掴もうとする御堂の左手に、自分の左手を重ねて指を絡み合わせた。

 

「ぁ……」

「すまない、御堂」

 

 小さく呟いて、左手で御堂の顎を掴んで背後に振り向かせた。そのままくちびるを押し付ける。上半身が捩じれて密着した。舌を差し入れくちびるをきつく吸う。御堂の唾液を混ぜ合わせ、それをこくりと飲み込む。キスを交わすうちに、御堂の体内に変化が起きた。粘膜がうねり、克哉のペニスに絡みつく。与えられるもどかしい快楽が、どんどん嵩を増していく。

 

「ん……っ」

 

 顔を離して、ゆるゆると腰を遣い始めた。さっきまでの奪うだけの行為とは違う、互いに快楽を分かち合い高めあう動きに、御堂の腰も克哉の動きに合わせて揺らめきだした。

 御堂が迫りくる絶頂に身悶える。克哉もまた全身の肌が粟立つほどの恍惚に襲われた。

 呼吸を乱して、目をきつく眇めた。

 

「く……っ」

「あ……中に…、あ、つい……っ」

 

 絶頂の痙攣に包まれながら、御堂がうわ言のように口走った。ぶるりと御堂のペニスが震えて、放った白濁が窓ガラスをまだらに汚していく。ぎゅっと御堂の左手を握りしめながら、克哉もまた御堂の中に最後の一滴まで注ぎ込んでいった。

 

 

 

 その後は、御堂をベッドまで抱えて再び熱を交わし合った。今度は自分を見失わないように、バスローブの腰ひもで互いの手を結って、繋いだ。そうでもしないと、安心して快楽に溺れることが出来ない。

 御堂を前にして、自分の渇きは募るばかりで、このままだと御堂を食らいつくしてしまうかもしれない。だからこそ、枷が必要なのだ。

 その一方で、御堂の快楽と克哉の快楽がうまく噛み合うと、戸惑うほどに感度が跳ねあがり、乗算された快楽が二人を包み込むことを知った。これは今までの一方的なセックスでは得られなかった悦楽だ。

 気を失うように眠りについて、朝早く目を覚ますと、ルームサービスの朝食を二人前頼んだ。

 御堂が手首を擦りながら起きてきて、克哉の正面のテーブルに着く。淹れたてのコーヒーを口にして、眠たげな瞼を押し上げて克哉を見た。

 

「君は、どこかを繋いでないと暴走するんだな。まるで狂犬だ」

「……」

 

 呆れたように御堂が呟く。

 返す言葉が見つからない。視線を逸らし、気まずそうに黙ったままコーヒーを啜ると御堂が微かに笑った。

 

「次は、君用の首輪でも用意するか」

「お好きにどうぞ」

 

 そうは言ってみたが、御堂なら本当にやりかねない。

 

 

 

 

 そのまま自宅とAA社が入るビルに向かうと、自室で手早くネクタイを付け替えて、克哉はAA社に出勤した。二晩連続でこんなことをしていたら疲れがたまる。克哉を受け入れる側の御堂はそれ以上だろう。

 濃いブラックコーヒーをがぶがぶ飲んで無理やり頭を冴えさせると、L&B社に出していたプランを机上に広げて一から検証していく。

 今の自分に出来ることは何だろうか。

 昨夜からそんな疑問がずっと頭を占めていた。

 雨月物語だっただろうか。死してもなお、約束を守るために幽霊となって戻るという話は。

 克哉は御堂の世界から消え去った、いわば死者のような存在だ。それが、偶然にも御堂の世界に一時的に存在することを許されている。だが、それは、生ける死者、ゾンビに過ぎない。

 この出来事に何か原因があるとしたら、自分が残した未練のせいだろう。往生際がどこまでも悪い。

 だが、もし、この邂逅に何かしらの意味があるとしたらなんなのだろう。克哉が御堂の世界にいる三カ月間を自分の選択によって意味があるものに出来るのではないだろうか。

 Mr.Rの言うように、これを運命と呼ぶのなら、これは間違いを犯した責任を取るチャンスなのではないだろうか。御堂から奪ってしまったものを御堂に返すことが出来る機会を与えられたのかもしれない。

 三カ月後には別れが来る。互いに別々の道を歩むからこそ、御堂が今後歩む道を助けうる功績を克哉が作ればいい。

 克哉はデスクの上の資料を全て床に払い落とした。パソコンの電源を入れると、L&B社に提出していたファイルを開き、そして、一度それを白紙にした。

 こんなものは不十分だ。克哉が求めるものには程遠い。

 リセットして、新たに作り直すのだ。今度こそ満足のいくものを。

​(4)

 ぱんっ、と片頬に派手な音が立ち、熱と痛みを感じた。

 闇に溶け込みかけた意識が無理やり引き戻される。

 頬を張られたのだ。身体の節々が痛い。楽な体勢を取ろうとして、手足が動かないことを思い知らされる。拘束されているのだ。

 呻きながら腫れた瞼を押し上げると、照明の眩い白い光がなだれ込んできて視界がハレーションを起こした。その中で照明に反射した銀色の眼鏡のフレームが煌いた。途端に恐怖が蘇り、身体が強張った。視界の真ん中で男がくちびるを歪めた。

 

「意識を飛ばすほど、良かったんですか、御堂さん」

「ぅ……ぁっ、やめ…ろ……っ」

 

 くつくつと喉を鳴らして笑う男が腰を突きこんでくる。敏感な凝りを抉られて、御堂は背をしならせた。放つことを許されず、戒められたままペニスは痛々しく屹立しながら、だらだらとぬめる液体を溢れさせている。

 男が腰を遣うたびに結語部から白濁した粘液がじゅぷじゅぷと泡立ちながら内腿を濡らした。

 

「御堂さんのここ、随分と緩くなってるんじゃないですか? 一日中玩具やら、男を咥えこんでいるからな。とんだ淫乱な穴ですね」

「ぐ……っ」

 

 いたぶる口調に反論する力もなく、涙に濡れた目で睨み付けた。

 男は薄く笑いながら御堂のなけなしの抵抗を受け止めて、片手に乗馬鞭を握った。

 それを目にしただけで反射的に気道が狭まり、ヒッと閊えたような呼吸が漏れた。乗馬鞭がもたらす灼けつく痛みを身体が覚えているのだ。

 凍てついた眼差しが御堂を睥睨する。

 

「泣いて懇願してみるか? それとも鞭に打たれたいか?」

「よせ……っ、お前なんかに……っ」

「御堂さんは素直じゃないなあ。そうやってお仕置きをねだるのか」

「く、あああっ!!」

 

 ヒュンッと空気を切り裂く音と同時に、乳首に鋭い痛みが走った。堪えきれずに悲鳴を零し、眦から涙がこめかみを伝った。ぎゅうっと体内が締まり、体内に埋め込まれた男のペニスの形を生々しく感じ取った。男のレンズ越しの眸が喜悦に細められる。

 

「そんなに物欲しそうな顔をしないでください。いくらでもくれてやりますよ。あんたみたいな物分かりが悪い男には飴と鞭が一番だ」

「や……っ、ああっ! ぐあっ!!」

 

 男は数回重ったるく腰を揺すって中の具合を確かめると、再び鞭を振り下ろした。胸の小さな尖りを正確に狙って打ち据える。その度に男に穿たれた身体が悲鳴とともに跳ねた。

 

「あんたの運命は俺が握っている。せいぜい媚びて命乞いでもするんだな」

 

 愉悦に満ちた呟きが降ってくる。涙で歪んだ景色の中で、狂気が燃える顔がぶれることなく自分を見据えていた。

 恐怖と混乱に頭が冷たく痺れ、堰を切ったように声にならない咆哮を迸らせた。

 

 

 

「うああああっ!!」

 

 御堂は自分の悲鳴に驚いて跳ね起きた。心臓が皮膚を突き破りそうなほど暴れている。

 激しく胸が波打ち、呼吸さえもままならない。額に浮き出た脂汗がつうとこめかみを伝い落ちた。

 咄嗟にベッドサイドテーブルの引き出しを開けて、中から白い紙袋を取り出した。震える手で中身を取り出し、それを握りしめたところで自分を取り戻した。

​ よろよろとベッドから起き上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫で冷やされているミネラルウォーターのボトルを手に取ると直接口をつけた。ひんやりとした感触が口の中から喉、胸の奥へと流れ落ち、意識を冴え冴えとさせた。

 

――私は、何をして……。

 

 悪夢を見た記憶はある。だが、その夢の詳細は瞬く間に色あせて、あっという間に輪郭を溶かして消え失せてしまった。

 自分が持っている白い紙袋と握りしめているその中身に視線を留めた。

 強張った指を一本一本開いていくと、中から銀色のPTPに包まれた錠剤が出てきた。

 どうやら、自分はこれを飲もうとしていたようだ、と自分の無意識の行動に思い当たる。

 しかし、この薬は何なのだろう?

 白い紙袋はどうやら薬袋のようで、そこに自分の名前と、処方された薬の名前、そして服用方法が印刷されている。

『発作時 1錠内服』

 

――発作時?

 

 訝しく思いながら、デスクで充電中のスマートフォンに手を伸ばして薬の名前を検索した。すると、手に持っている錠剤と同じものが映る写真と薬の名前がすぐにヒットした。

 

「精神安定剤?」

 

 なぜ自分がこんなものを持っているのか。全く記憶がない。

 だが、自分がこの薬を今この手に握っているということは、この薬の存在をかつて知っていたからではないか。

 何度も同じ行動を繰り返していたかのように、自分の行動は無意識で躊躇いがなかった。

 しかし、何故?

 つきつめようとしたところで、頭の奥底がズキンと痛んだ。

 これ以上は考えてはいけない。

 本能がそう警告する。

 御堂はその錠剤を元の紙袋に戻すと、ベッドサイドテーブルの引き出しの奥にしまい込んだ。

 余計なことは考えてはいけない、何かを思い出そうとしてはいけない。

 強迫観念のようにそう念じながら、御堂は先ほどの出来事を頭から振り払い、ベッドに戻ると瞼を閉じた。

 すぐに安寧の闇が御堂を優しく包み込んだ。

 

 

                 ◇◇◇◇

 

 

「佐伯、本気か? この前のプランを全面的に見直すだと?」

「ええ。こちらの案に差し替えます」

 

 L&B社で行われている定例ミーティングの場で克哉は屹然とした声でいうと、余裕に満ちた表情で会議テーブルを囲んでいる面々を見渡した。

 本来なら、この会議は実務的なスケジュールの確認を行うだけの内容で終わるはずだった。それなのに、克哉が前置きもなく、戦略方針を一変する新しい提案を出してきたのだ。配られた資料を見て会議に参加しているL&B社のメンバーは全員、言葉通り度肝を抜かれた。

 御堂でさえ、克哉の提案に理解が追い付かず、胡乱な表情を克哉に見せた。

 

「気でも狂ったか、佐伯」

「俺はいたって正気ですし、本気です」

「私は君に自由にさせてやる、と言った。だが、それは横暴を許すという意味ではない」

「横暴? とんでもない。コンサルティングとしての務めを果たすだけです」

「こんなもの、誰も求めていない。悪い冗談だな。検討に値しない」

「検討するのがあなたの仕事でしょう? 早々に職務放棄ですか?」

「口を慎め、佐伯!」

 

 軽い口調で返してくる克哉に、御堂の容赦ない叱責が飛んだ。だが、それに怯む様子は微塵もない。

 こうして会議は開始三分で火蓋が切って落とされた。

 御堂は克哉の提案書をちらりとめくり、まったく興味を示さない素振りでテーブルに放った。ぱさり、と乾いた音を立てて、克哉が作った資料が床へと滑り落ちた。

 克哉が肩を竦めながら、御堂の目の前まで歩みを寄せて屈み、資料を拾うと御堂の前に静かに置いた。そうして、御堂と視線を重ねる。

 

「とりあえず、俺の話を最後まで聞いていただけませんか?」

「……君のそもそもの提案は、ポリエステル、アクリル、ナイロンに続く第四の化学繊維、デュアテックスを前面に出して新たなスーツを作るプランだったはずだ」

「デュアテックスを使ったスーツ、という点では変わっていません」

「機能性の訴求だけでは足りない、というのか」

「ええ」

「君が行った提案だぞ!」

「それだけでは不十分でした。だから差し替えます」

 

 そもそも、デュアテックスを使ったスーツの提案は克哉が発案したものだ。デュアテックスでスーツを作って、家庭で洗濯可能なコスパが良く機能性の高いスーツを売り出すという提案だった。

 デュアテックスが持つ優れた特性を全面的にアピールする販売戦略で、このプランは十分にヒットする、御堂はそう高く評価していた。だが、克哉がそれに上乗せしてきた提案は、想像のはるか上をいくものだった。

 会議の進行どころか今までの前提をすべてひっくり返され、御堂は怒りと苛立ちを露骨に態度に表した。対して、克哉はもの静かで落ち着いていた。御堂たちをはるか高みから見下ろすような悠然とした振る舞いに、御堂は不機嫌に腕を組むと口をつぐんだ。

 組織の中で自分の主張を通すためには、やり方と順序というものがある。その最たるものは事前の根回しだ。克哉は御堂と特別な関係を結んでいる。つまり、事前に御堂に新たな提案について道をつけるように依頼することも出来たのだ。しかし、克哉はそれを一切せず、予告なくこの爆弾を放り込んできたのだ。

 つまり、この男は御堂におもねるつもりは微塵もないということだ。真っ向から御堂に勝負を挑んできている。それならば、御堂もこの勝負を受けて立つしかない。まったくもって可愛げのない男だ。

 御堂はいかめしい顔つきで黙り込んだまま、克哉に猶予を与えた。目線と顎で話を進めるように克哉を促す。

 克哉が立ったまま参加者を見渡して、説得力を持たせた声で語りだした。

 

「弊社の提案は、IT技術を応用して個々の体型をスキャンし、それに合わせたオーダーメイドスーツを提供するサービスです。今までのように人が既成服に合わせるのではない、服が人に合わせることになる」

 

 克哉がスライドを映して説明するところでは、今や爆発的に普及したスマートフォンのカメラ機能を用い、IT技術をフル活用して個々の体型をスキャンするという。そして、そのデータをもとに、フルオーダースーツを作るという。利用者はアプリを用いて、スマートフォンで自分の全身を撮影するだけでいい。数週間後には自分の体にフィットしたオーダーメイドスーツが届く。

 今までにない奇抜なアイデアだということは御堂も認めざるを得ない。しかし、改めて説明を聞いても御堂のファーストインプレッションは否定的なものだった。

 感情任せに怒鳴りつけてもこの男は通用しないだろう。幾分冷静さを取り戻して言った。

 

「佐伯、この提案は良いとは思えない。オーダーメイドスーツは熟練したフィッターに採寸させることで、身体にジャストフィットしたスーツが出来る。いくら自動採寸で手軽に出来たとしても、その計測値でフィットしたスーツが作れるかどうかは別の話だ」

 

 御堂のもっともな反論に、会議の参加者の面々が頷いて同意を示す。克哉はレンズ越しの冷ややかな視線を御堂に向けた。

 

「御堂さん、残念ながら今回の事業はあなたみたいなスーツ通の方を対象としていない。オーダーメイドスーツに手が届かない、レディメイド(既製服)の服しか着たことのない一般人がターゲットだ。だからあなたの判断はあてにならない」

「っ……」

 

 克哉は辛辣な言葉で御堂の意見を弾き返してきた。だが、御堂といえども、克哉の提案をそのまま鵜呑みにすることは出来なかった。

 ただ、克哉の言う通りであれば、御堂はこの商品のターゲット層から外れている。だから、この商品についての的確な判断をくだすことが出来ないのは認めざるをえない。いくら御堂が反駁したところで焼け石に水だろう。

 顔を上げて室内を見渡した。誰も口を開こうとはしない。ためらいが動く顔々の中で、射るような鋭さで自分を見つめる顔があった。克哉だ。

 猜疑に満ちた声で呟いた。

 

「……これが本当に『化ける』というのか?」

「万人受けの商品を狙えばそこそこのヒットはある。だが、顧客が飛びつくのは意外性と新規性だ。今までの概念を覆すこのサービスは、必ず大ヒットする」

 

 立て板に水のごとく語られる克哉の自信に満ちた言葉は、何の手ごたえなく会議室の静けさにかき消されていく。だが、克哉はあきらめる素振りもなかった。参加者を見渡して語り掛ける。

 

「あんた達が求めているのはなんだ? 単なる成功か? いや、違う。単なる成功程度なら、俺がいなくても達成できるだろう」

 

 克哉は一人一人視線を重ねて言葉を継いだ。

 

「あんた達が望んでいるのは、一切の追随を許さない圧倒的な『大成功』だ。アパレル業界の歴史に名を刻むくらいの。だから、AA社に依頼をした。違うか? そして、これは空前絶後のヒットをもたらす……『化ける』商品だ」

 

 克哉の言葉が熱を帯びていった。ひとつひとつの言葉が参加者の胸へと刺さっていく。気付けば、誰も克哉から視線を外せなくなっていた。

 言い切られた言葉に会議室が水を打ったように静まり返った。しかし、先ほどまでの沈黙とは違う。一人一人が克哉の提案を真剣に検討しようとしている。

 御堂もまた、克哉の資料に手を伸ばし、感情を取り去って客観的な視点で克哉の提案を見直した。そして、ややあって口を開いた。この商品がヒットするか否か以前に、現実的で看過できない問題が克哉の提案にあったのだ。

 

「だが、君のこの提案によると、自動採寸システムの導入にかかる初期投資が当初の予算をオーバーしている」

「L&B社はこれだけの金額を支払える体力はあるはずだ」

「追加の予算を出せと言うのか」

「ええ」

 

 決して小さくはない額だ。それにフルオーダーのスーツを作るとなると、スーツを生産する工場の投資も跳ね上がるだろう。トータルで必要な金額はL&B社が捻出できる限界ぎりぎりだ。経営の安定のためには銀行からの融資も必要になるだろう。

 御堂は、先を読む目線とバランス感覚には自信があった。先入観を排して客観的に判断してみても、克哉のこの提案はリスクを伴いすぎる。とても許容できない。

 

「君の提案は面白いのかもしれないが、この予算は到底認められない」

「御堂さん、では、何のためにAA社に依頼したんですか? 大ヒットを目の前にして、あなたはそれをみすみす諦めるのか?」

「これが、大ヒットするという確信があるのか? 私はこんなスーツは欲しくない。君の言っていることは机上の空論にすぎない」

「これは間違いなく大ヒットする」

「その根拠を聞いているんだ! 私はそうは思えない!」

「言ったでしょう。あなたの判断はあてにならないと」

「コンサルタントの分を弁えろ!」

 

 毅然とした顔で克哉を睨み付けた。だが、克哉も負けずとぎらり睨み返してくる。

 互いに一歩も譲らずに、緊迫した空気が室内の温度を下げていく。出席者は呼吸を殺して二人の戦いを見守っている。

 御堂が一度は手に取った資料を目の前のテーブルに叩きつけた。

 

「そんなことを言って、この事業が失敗したらどうする。L&B社が抱え込む負債は相当なものになるぞ! 君はその責任を取れるのか?」

 

 御堂の声は低く抑えられていたが、そこには隠しようもない憤りが含まれていた。

 だが克哉は凛とした声で一言、言った。

 

「責任を取るのは俺の仕事じゃない。あんたの仕事だ、御堂マネージャー」

「……っ」

「だから、あなたの覚悟次第だ」

 克哉の切り返した一言に、言葉を失した。克哉の言葉の正しさに、言い返すことが出来ずに、奥歯を噛みしめて怒りを堪える。そうして、どうにか自分を抑えこんで、口を開いた。

 

「君のこの戦略を採用するとなると、これは我が社の社運をかけた事業になる」

「AA社の命運もかけている」

「君のちっぽけな社と一緒にするな」

 

 克哉が無言のまま御堂にゆっくりと歩みを寄せた。克哉は御堂が叩きつけた提案書を手に取ると御堂の前に差し出した。

 克哉が視線と態度で、御堂にレポートを手に取れと促す。

 御堂はそれを無視した。克哉もまた、御堂の胸の前に差し出した提案書を引っ込めようとはしない。一触即発の緊張が臨界点まで高まっていく。

 その中で微かな声が場の空気を動かした。

 

「……御堂」

 

 小さく囁かれた克哉の言葉は、他の誰でもなく、御堂にだけ伝わった。

 

「御堂、俺のプランを信じろ」

「……」

 

 瞬きもせずに御堂を見詰める男の真剣な眼差し。その眸から目が外せなくなった。

 御堂の胸に不安とも高揚ともつかない雫が一滴落ちた。それが、静かな波紋を広げていく。

 確かに起業間もないAA社はすべてのコンサルティングを成功させてきた。だが、いずれも開発規模の小さい商品だ。今回はAA社が手掛けたことのないアパレル事業、そして、かかる金額は比較にならない。

 最初の克哉の提案でも期待に応えるほどにヒットする。それは御堂から見ても確信を持てた。

 それなのに、わざわざ社運をかけるリスクを取ってまで、この克哉の提案にかけるべきなのかどうか。

 めまぐるしく思考を巡らせた。張りつめた緊張に口の中が乾ききった。

 この会議室にいる全員の視線が針のように自分に突き刺さっている。

 克哉の提案を採用するかどうかは御堂に委ねられている。

 皆、御堂の決断を固唾をのんで待っているのだ。

 指先が細かく震えるのを堪えようとぎゅっと手を握りしめた。未だかつてないリスク抱える判断を迫られている。

 動く金の規模だけなら、同等以上の金が動く企画をいくつもMGN社で担当した。

 だが、MGN社とL&B社はそもそもの地力が違う。これだけの金額を動かして失敗すれば、L&B社は下手すれば潰れる。その責任を自分が負うことが出来るだろうか。

 克哉の真剣そのものの表情は、今この瞬間が勝負所と踏んでいるのだろう。

 瞬きさえも忘れて御堂の判断を迫る、克哉の熱い息遣いが聞こえてくるかのようだ。

 ややあって、御堂は、ふう、と大きな息を吐いた。それはほんの数分の間の沈黙だったが、この部屋にいる面々には途轍もなく長い時間に感じられた。

 

「佐伯、君が言いたいことは分かった」

 

 胸の前に差し出されていた提案書を受け取った。克哉の指先の温もりが紙を通してほんのわずかに触れた。

 

「社長は私が説得する。予算を上乗せさせる」

 

 会議室内が興奮にどよめく。克哉が右手を小さくガッツポーズの形に握った。御堂は緊張を解いて、口元に高慢な微笑みを乗せた。

 

「だから、絶対失敗するなよ。佐伯」

「安心してください。俺は失敗しませんから」

 

 不敵な笑みが御堂に答えた。

 

 

 

 

 会議を解散させて、ふたたび克哉をL&B社の執務室に呼びだしたのは退社時間もとっくに過ぎた夜だった。

 克哉はすぐに顔を出した。その克哉の前に、ひとつ息を吐いて、結果を告げた。

 

「乾坤一擲、賽は投げられた。社長は説得したぞ。予算は獲得したから、後は君の自由にやれ」

「おめでとうございます」

「何がおめでとうだ、始まったばかりだ」

「もう、あなたの成功は約束されたも同然です」

「私の成功? L&B社の成功だろう。それに、これが大ヒットすれば君の社の名声も跳ね上がる」

 

 嘯く克哉の調子のよさに、皮肉めいた口調で返した。

 

「それにしても、コンサルティング会社はいい身分だな。他人の会社の金を使って、自分の実績を築くことが出来るのだからな」

「これはすべて、あんたの功績だ。AA社も俺も表に出るつもりはない」

「なんだと?」

 

 凛然と言い放つ克哉の顔を見返したが、克哉はいたって真面目な顔をしている。決して媚びを売ろうとしているわけではなさそうだ。

 

「……君は変わった男だな。他の人間が欲しがるものを欲しがろうとしない」

「欲しいものはもう、手に入れることを諦めた」

「諦めた?」

「俺が欲しいものは、俺が手にしてはいけないものだ」

 

 謎めいた答えに御堂は首を傾げた。克哉はそれ以上を説明する気はないようで、口をつぐみ、腕時計にちらりと視線を送って帰りたそうな素振りをしている。

 克哉が欲しいものとは何なのだろう。

 この男の前にちらつかせた金もコネも、すべて跳ねのけられた。さらにはコンサルティングの実績も要らないという。

 しかし、その割には、御堂の要求に唯々諾々と従っている。

 そうして得るものは何かあるのだろうか。この男の本心が掴めない。

 いや、と御堂は思い直した。克哉が御堂に従うのは、表面上だけだ。仕事となると、今日みたいに野生じみた獰猛さで歯向かってくる。

 先の会議で克哉の要求を半ば力づくで認めさせられた屈辱を思い出し、意地の悪い気持ちが込み上げてきた。

 

「佐伯、君の無茶苦茶な予算を社長に認めさせるのに、大分骨が折れたぞ」

「お手間をかけさせて申し訳ございません」

 

 口先だけで謝る男に高慢な笑みを浮かべた。

 

「そう思うなら、労わってもらおうか」

「労わる?」

「私に奉仕をしろ、佐伯」

 

 座っていたプレジデントチェアを大きく引いて、椅子の前に空間を作った。

 自分が何を要求しているのか、意味ありげな目線を克哉に向けると克哉はすぐに察したようだった。

 しかし、嫌そうな顔をするかと思いきや、期待に反して克哉は表情を変えずに、眼鏡を押し上げると御堂の前に膝をついた。両脚を大きく広げると、克哉は脚の間に身体を入れ、自分のネクタイの結び目に指を差し込むと、首元を寛げた。

 怜悧な顔をした男がレンズ越しに御堂を見上げてちらっと笑う。克哉は御堂のベルトを緩めてフライのホックを外し、シャツを引き出した。そして、御堂の股間に頭を埋めると、ファスナーの金具を前歯で噛んでじりじりと引き下げていく。現れた下着の布地の上から御堂の欲望を口唇でなぞった。

 微塵の躊躇いのない仕草に、御堂は静かな吐息を漏らした。御堂の性器を下着からくちびるに迎えようとする克哉の前髪を掴んで上を向かせる。淡い虹彩がぬらめいて、眼鏡越しに怪しい光を帯びている。

 

「佐伯、お前の本当の望みはなんだ? 理由もなく私に尽くしているわけではないだろう?」

 

 克哉の表情を慎重に探った。御堂の関心を引こうとおもねる者はたくさんいた。そうでない者は、脅しと懐柔を用いて自分に従わせた。だが、克哉はそのどれでもない。御堂を否定しながらも御堂に仕え、従う素振りを見せながらも時に牙をむく。

 

「あんたはそればかり気にするんだな」

 

 克哉が挑発的に赤い舌をチロリと出して自分の唇を濡らした。それだけで、冷淡に見える男に凄絶な色気が滲む。

 

「この契約が終わった時に、俺のことを忘れてくれればそれでいい。それが俺の望みだ」

「私と別れたいのか?」

「そういう約束だ」

「つまり、“これ”は嫌々やっていると?」

「……」

 

 御堂がやれと命じたのだ。好きでやっているわけではないだろうが、この御堂の問いに克哉は初めて感情の揺らぎを見せた。視線をほんの少し御堂からずらして黙り込む。

 こうやって、肝心なところで克哉は答えをはぐらかそうとする。

 しばらく黙って、克哉に答えるように促したが、克哉は口を引き結んだまま静かに拒絶する。

 克哉の強情さに舌打ちしながら、御堂はあきらめて克哉の頭を離した。上体を屈めて克哉のネクタイに手を伸ばした。ネクタイの先端を指に絡める。

 

「どこか繋いでおかないと、君は暴走するからな」

 

 ネクタイを軽く引いた。克哉の首に巻き付くエンジ色のネクタイはまるで首輪のようで、御堂の前に跪く克哉の姿はさながら御堂の飼い犬だ。

 しかし、そんな屈辱的な扱いにも、克哉は何も動じないようで、御堂の求めに応じて愛撫を再開した。

 克哉は頭をもたげだした御堂のペニスに手を添えて指を絡めた。そうして根元から先端まで刺激を重ねていくと、みるみる大きく育つ。克哉は先端の割れ目に口づけをして、玉になって光っている雫をちゅっと音を立てて吸った。そうして小さな孔に尖らせた舌を差し込んだ。

 

「ぁ……っ」

 

 途端に、焼けつくような鋭い快感が腰の奥に突き刺さった。克哉は男の性器を口に含むことに嫌悪の素振りも見せない。巧みな克哉の口淫に御堂の欲情は制御する間もなく張りつめた。

 じゅぷじゅぷと淫らな音をわざと大きく響かせてくる。抗おうとすると激しくしゃぶられ、もっと強い刺激を求めると焦らされる。竿の下で引き締まっていく陰嚢も片方ずつ口の中に含まれては転がされる。

 奉仕をさせているのは自分なのに、克哉の好きに煽られている。操縦不能の快楽を抑え込もうと克哉の髪を掴む手にギュッと力が入った。熱く濡れた口内にあるペニスに、長い舌がくねって絡みついた。臍につきそうなほどペニスが反り返り、唾液と先走りが混ざった液が草叢を濡らしながら狭間に伝い落ちていく。克哉がその流れを追うように、脚の間に指を伸ばし、蟻の門渡りをぐりぐりとこね回した。重苦しい衝撃が身体の奥底に響き、淫らな熱が弾けて浸透していく。

 

「んあっ!」

 

 喘ぎが漏れるのを抑えようと、拳で口を覆った。

 克哉がペニスの根元を指の輪で戒めながら、口の中に深く含んできた。喉奥の柔らかな粘膜が亀頭に擦れる。相当苦しいだろうに、克哉はその肉塊を更に喉奥まで呑み込んでいく。奥に向かうにつれて狭く締まる喉の隘路でペニスが揉みしだかれた。ぎゅっと喉の粘膜で絞られ熱い舌が巻きついて、圧倒的な熱が昇り詰める。びくん、と御堂のペニスが窮屈な克哉の喉で跳ねて、克哉が苦しげに眉をしならせた。

 

「ふ……っ、んんっ!」

 

 びゅくっと淫らな熱が跳ね、御堂は絶頂に四肢を突っ張らせた。克哉のネクタイをぎゅっと握りしめる。

 克哉の喉仏が上下に動く。何度噴き出しても治まらない精液を克哉は一滴残らず飲み下していった。放精が終わると、克哉はくちびると舌で御堂のペニスをきれいに拭いながら、達した後の鈴口を優しく吸い上げて、残滓の一滴まで全て啜りあげた。

 それだけではない。濡れた御堂の繁みや周囲に垂れたしずくまで克哉は全部きれいに舐めとると、ようやく顔をあげた。手で御堂の衣服の乱れを正して、唾液でてらてらと光る自分の口元を手の甲で拭いながら、静かに身体を離した。まさしく、御堂が要求した通りのひたむきな奉仕に、御堂は息を乱しながら克哉に欲情に濡れた眸を向けた。

 

「君は、男の悦ばせ方をずいぶんと良く知っているな」                         

 

 そのあてつけがましい口調には知らず知らずのうちに、克哉の過去に対する嫉妬が滲んでいた。この克哉の奉仕を受けた他の男の存在、そこに意識が向いてしまう。

 

「今まで、何人に奉仕をしたんだ?」

「あなただけですよ」

「ふん」

 

 さらりと返して克哉はネクタイを締め直し、熱気に曇った眼鏡を外すと、ポケットからハンカチを取り出して曇りをふき取った。そして、眼鏡をかけ直し、御堂に顔を向けた。

 

「ご満足いただけましたか?」

「……そうだな」

 

 放ったにもかかわらず、身体の奥深いところに熱がくすぶっている。

 まだ、足りないのだ。

 身体が克哉を欲している。何度かの逢瀬を重ねて、自分の身体はすっかりと克哉の味を覚えた。この熱は克哉に貫かれることでしか治まりそうにない。

 

「この続きはホテルで」

「承知いたしました」

 

 涼やかな顔で返してくるこの男を憎らしく思う。

 悔しいことにベッドの中でいくら主導権を握ろうとしても、御堂の隅々まで知り尽くしているかのような克哉の愛撫に、御堂の肉体はいとも簡単に暴かれてしまう。

 そしてまた腹立たしいことに、克哉は御堂が要求しない限りは自ら会おうとはしない。それでも、克哉は自分に対して並々ならぬ執着を持っていることは、御堂に対する執拗な行為から透けてみえた。

 この男を虜にし、本当の意味で自分に膝をつかせたい。つまり、これは駆け引きだ。獰猛な野生の肉食獣を手懐けるための。だからこそ、克哉に抱かれる屈辱を許している。

 そこまで考えて、自分がこうまで他人に対して興味を持ったことが意外に思えた。学生時代からセックスの相手は異性同性問わず事欠かなかった。だが、どんなに身体を重ねても他人は他人だ。他人のパーソナルスペースを蹂躙することは遠慮しないが、自分のパーソナルスペースに踏み込もうとする相手には強い拒否感があった。セックスはその場限りの愉しみで、セックスの相手に興味を持つこともなかった。自分が愉しめればそれでいい。相手の人格なんて二の次だ。

 だが、今、自分は克哉に対して興味を持っている。佐伯克哉という人間の虚飾を全て剥ぎ落して、最後に残る本心を曝け出してやりたい。

 御堂は立ち上がってスーツの乱れを整えた。克哉が執務室の扉を開けて、御堂のための道を作る。

 先ほどまでの淫靡な空気を振り払って、お互い何事もなかったかのように執務室を出る。これから、もっと爛れた夜が待っているのだ。

 今夜はただひたすらに溺れるだけのセックスも良いだろう。

 御堂から一歩離れてついてくる男の気配を背中で感じながら、これからどんな風に抱かれるのだろうと想いを巡らせると、腰の奥が熱く痺れた。

(4)
​(5)

 冷たい風がびゅうと窓ガラスに叩き付けられた。高層階のAA社の分厚い窓ガラスを通しても、風の強さが伝わってくる。ここ数日急激に冷え込んで、季節は秋から冬へと移り変わっていた。

 L&B社の事業は実現化に向けて着々と準備が整えられていたが、思わぬ障害に躓いた。

 AIによる自動採寸システムのプログラム、これは大阪のベンチャー企業であるソフト会社が開発したソフトウェアだったが、その契約の段階で先方が契約条件の引き上げを要求してきたのだ。

 一方的に要求された内容に、克哉はすぐさま先方の社の社長に電話連絡を入れた。厳しい口調で質す。

 

「当初のお話と違いますが」

『正式な契約はまだだったはずだ。こちらにもこちらの都合がある』

 

 電話口から聞こえてくるのは感情を映さぬ声だった。足元を見られている。そう直感した。克哉が提案したフルオーダースーツはこのプログラムなしには成り立たない。かといって、先日御堂を説得して予算の大幅な変更を認めさせたのだ。これ以上の追加の予算を出させるわけにはいかない。

 相手の真意を探ろうと冷静な口調で返した。

 

「なぜ、突然の条件変更を?」

『他の社で、このプログラムを譲って欲しいという申し出がありましてね』

「どちらの社ですか?」

『それは言えないな。ともかく、こちらが提示した金額でなければ、他の社と契約します。それでいいですね』

 

 とりつく島もない口調で告げる社長に、直接話す機会を欲しい、と言って無理やりアポイントを取りつけたのが昨日のことだった。

 そして、翌朝一番に大阪に発った。

 克哉と面会した社長は、ベンチャー企業らしく克哉とほとんど変わらない年齢だった。しかし、その態度は冷ややかで、克哉のどんな説得にも態度を硬化させるだけだった。

 交渉は平行線のまま、面会は終了となった。

 この分だと正攻法ではどうにもならないかもしれない。嫌な予感が頭を掠める。

 もしかしたら、ライバル企業が克哉たちL&B社の計画に気付いて横やりを入れようとしている可能性もある。克哉の事業計画の要はこのプログラムだ。このプログラムを掠め取ることでL&B社の企画をとん挫させるつもりなのかもしれない。

 どうあっても、このプログラムは絶対に必要だ。他の社にみすみす渡すわけにはいかない。社長の唐突な心変わりの背景を知るべく、競合する社について急いで調べる必要があるだろう。だが、時間の猶予はない。

 克哉のスケジュールは既に過密状態だったが、この契約を無事に終えるまで大阪から離れることは出来ない。藤田に当座の対応を頼むしかない。

 訪れた社のビルから出て、藤田に連絡を入れようとしたその時、携帯の画面が光って着信を告げた。表示される名前を見れば御堂からの着信だった。すぐに電話に出た。

 

『佐伯、今どこにいる? AA社に連絡を入れたら出張だと言われたが』

「大阪です」

『何をしている?』

「先方のソフト会社とプログラムの契約の手続きを進めています」

『問題でもあったのか?』

 

 勘ぐられないよう平坦な声で返したつもりだったが、御堂は鋭かった。予定外の出張から勘付いたのかもしれない。それでも、余計な心配をかけさせないよう、務めて平静な口調で返した。

 

「いいえ、何も」

『そうか。いつ東京に戻ってくる?』

 

 そう聞かれて答えを躊躇った。今のところ契約をいつ締結できるか見通しが立たない。だが、それをそのまま告げると御堂の追及を受けるであろうことは予想に難くなかった。

 克哉は声を低めた。電話口に口を近づけて挑発する口調で囁いた。

 

「そんなに俺に抱かれたいんですか、御堂さん?」

『……っ! 馬鹿を言うな!!』

 

 すぐさま罵声が返ってきて、自分の声の大きさに慌てた様子で御堂が声の調子を戻した。

 

『佐伯、進捗の報告はまめにしろ。私はこのプロジェクトのリーダーだ。全てを把握する必要がある』

「もちろんです」

『そっちは順調なのか?』

「御心配には及びません」

「そうか、それならいいが」

 

 御堂はこれ見よがしに大きなため息を吐いて、電話を切った。克哉の言葉を端から信用していないのだろう。実際、克哉は御堂に対して隠し事ばかりだから、御堂のそんな態度を責める資格はない。

 だがそれも御堂のためだと割り切っている。御堂に比類なき実績を与えるためには何としても、このプロジェクトを成功させなければならない。

 克哉は気を引き締めなおすと、すぐにそのソフト会社の背後を洗うため各方面に連絡を入れた。そして、大阪のホテルに宿を手配する。スケジュールの再調整が必要だろう。何が何でも、当初の条件でこのプログラムの契約を締結させる必要がある。

 ところが、事態が急展開したのはそれからわずか数時間後のことだった。

 社長から克哉に連絡が入り、先の面会内容に対する丁寧な謝罪とともに、元の条件で契約を進めさせて欲しいと、先ほどとは打って変わった口調の申し出を受けた。

 克哉からはまだ何も仕掛けていなかった。

 この短い時間にいったい何があったのか訝しがりながらも、願ってもない展開だった。克哉は社長がふたたび翻意しないよう早急に赴き、今度こそ正式な契約書を作成した。

 あとは、御堂の決済を仰げば、この契約はひと段落つく。社長の唐突な心変わりの理由が分からないところは後味が悪いが、それはおいおい調べていけばよいだろう。

 契約書を持ってソフト会社のビルを出たら、すっかり日が暮れていた。空を仰げば星のない夜空だ。吐く息が空気を白く染めた。長い夜が待ち構えている。すっかり季節は冬に移り変わっていることを体感する。吹き付ける風の冷たさに首を竦めたが、今日中に東京に戻ることが出来るのは嬉しい誤算だ。

 克哉は携帯を取り出して、ホテルにキャンセルの連絡を入れようとしたところで、ビルの目の前に立っている人物に目が釘付けになった。仕立ての良いコートを纏う長身のまっすぐなシルエット、御堂だ。

 

「御堂さん……?」

 

 何故御堂が大阪にいるのか。目を瞬かせて動きを止めた。御堂が克哉の姿を認めて歩みを寄せ、克哉に向けるすっと目を細めた。

 

「佐伯、事態は把握した。君は私に連絡を怠ったな」

 

 淡々とした口調でじっと克哉を見詰める。「なぜここにいるのか」と聞き返そうとして、ハッと気づいた。

 

「もしかして、あなたが……?」

 

 先ほどの社長の不自然なほどの丁寧な態度。一方的に吊り上げた条件を元に戻し、ライバル社を断って克哉のところに戻ってきた。そして、東京にいた御堂が、ここ大阪にいる。問題のソフト会社のビルの前に立っているのだ。バラバラだったピースがあるべき場所に収まり、克哉はすべてを理解した。

 御堂は克哉に向けて目線で合図をすると、克哉の横に並んで歩きだした。遅れまいと克哉も御堂に歩調を合わせた。御堂の口元から白い息が漏れる。

 

「これが、コネクションの力だ。佐伯」

「……」

「あの社長は東慶大学法学部の出身だ。私の後輩にあたり、わが校の同窓会のメンバーだ」

 

 そう言って、御堂は東慶大同窓会の名前を口にした。それは東慶大学の出身者たちで構成される有名な社交界クラブだ。財界、政界をはじめとする各界の著名人たちが名を連ね、強力な結束力を有すると聞く。克哉の知らないところで何が起きたのか、種明かしがされた。

 御堂は電話口の克哉の様子から異変を敏感に察知し、ソフト会社の社長に連絡を入れた。そこで契約が暗礁に乗り上げていることを知り、すぐさま大阪に向かった。そして、同窓会経由の圧力をかけつつ、一方で社長が渇望していた、大規模受注の取っ掛かりとなる一流企業の幹部を御堂が紹介する約束で、条件を元に戻させ、契約を本来あるべき位置に戻したのだ。つまり、脅しと餌をちらつかせてうまく抱き込んだのだ。

 

「君はコネなど要らないと言ったが、コネクションとはショートカットだ。私には君がどうあがいても出来ないことを出来る力がある」

「……俺に貸しをつくったつもりですか?」

「貸し……? 私はこのプロジェクトを統括している。君と同じチームだ」

 

 御堂が足を止めた。つられて足を止めると御堂が克哉に向き直る。その顔にあるのは克哉への蔑みでもなければ、自身の優位を見せつける高慢さでもない。どこまでも真剣な表情だ。

 

「君が優秀だということは分かっている。それならば、仕事を進めるためには見栄にこだわるな。君がどれほど頑張ろうと、君はたった一人だ。そして万能ではない。君は人を頼ることを覚えるべきだ」

「……」

 

 御堂の言葉、その一言一言が胸をずしりと重くしていく。

 克哉は自分の機転と才覚だけですべてをこなしてきた。自身の判断力や洞察力、そして交渉能力に自信を持っていたし、今回の件だって諦める気はさらさらなかった。だが、御堂は克哉が手間と時間をかけなければ乗り越えられないトラブルを、学閥という一点だけであっさりと解決したのだ。悔しいが、それは克哉にとっては代替不可能なスキルであると認めざるを得ない。

 そしてまた、御堂が味方に付くということはこうも心強いことなのだと思い知らされる。もし、MGN社で御堂と上司と部下という正常な関係を結ぶことが出来たなら、御堂は厳しくも良い上司であっただろう。

 トラブルが解決したという安堵よりも途方もない喪失感に襲われる。

 自分が失ったものの大きさを今更ながらに見せつけられる。

 いや、失ったというのはおかしい。最初から手に入れてなどいなかったのだ。

 今の御堂はかつて克哉が憧れた御堂の姿に限りなく近い。完璧なエリートだ。そして、この輝かしい姿は克哉の記憶をすべて捨て去ることで取り戻した本来の姿だ。

 いわば自分は、克哉の存在しない並行世界に存在する御堂を、束の間、覗き見ているだけに過ぎない。

 だから、御堂が眩しく見えるほどに、残酷な現実を思い知らされる。

 贖罪として御堂に実績を与えようなんて、どれほど思いあがった考えだったのだろう。御堂は自身一人でも、十分以上のものを手に入れることが出来る。

 克哉がしてきたことはただ一点、御堂の足を引っ張っただけだ。

 

――今更、あなたに頼ることなど出来るはずがない。

 

 克哉は御堂から多くのものを奪い去った。そして、御堂は力づくで克哉の呪いを断ち切った。

 それなのに、御堂は目の前の克哉が自分に行った仕打ちを忘れて、自分を頼れと言ってくる。

 胸の奥がぎゅっと絞られたように痛んだ。後悔と無力感で動けないでいると、不意に頬に冷たく濡れた感触を覚えた。空を見上げるといつの間にか雪がちらついていた。

 コートを着ていても、じわじわと寒さが体に沁みこんでくる。

 しかし、御堂は振り出した雪を無視してなおも克哉に言葉を続けた。そんな御堂の顔をまともに見ることが出来ず、克哉はわずかに視線を落とした。

 

「君の最大の弱点は傲慢さだ。君は私に自分を信じろ、と言っただろう。それなら、君も私を信じろ」

 

 克哉を責めるでもなく向けられた真摯な言葉。

 ふたりが佇む歩道には他の人間の姿はなく、高いところから照らされる街灯の頼りない明かりの中で御堂は際立って見えた。

 いつだってそうだった。色彩を欠いた克哉の世界の中で、御堂ただ一人、色鮮やかな美しさを持っていた。自分はそれを切望した。Mr.Rに渡された眼鏡をかけたとき、この世のすべてを手に入れられると感じた。御堂を無理やり自分のものにすれば、自分も同じ色彩を持つことが出来ると思っていた。

 しかし、克哉が求めたものは何もかも、指の隙間から零れ落ちていった。それを追い求めることさえ諦めた。残されたのは空疎な心だけだ。そして今、克哉はすべての色を失い灰色に塗りつぶされた世界に独り佇んでいる。

 反応に乏しい克哉に御堂が苛立ったように声を荒げた。

 

「君は、人の話を聞いているのか!」

 

 のろのろと顔を上げると、そこにある克哉の表情を目にした御堂が続く言葉を呑み込んだ。自分はよっぽど暗い表情をしていたのだろうか。

 ややあって、御堂が声のトーンを落として、聞いてきた。

 

「……君は、何を恐れている?」

「いいえ、何も」

「……」

 

 考えるよりも先に言葉が口を衝いて出た。自分の本心は常に硬い鎧に覆って隠してきた。かつて、桜の木の下で、剥き出しの幼い心をずたずたに傷付けられたあの出来事からずっと。虚飾と打算に満ちた生き方、それが自分のすべてだ。

 いいや、たった一度だけ、自分の本心を吐露したことがあった。それは、あのマンションの部屋で、壊れかけた御堂を前にして本当の気持ちを打ち明けた。だが、自分の正直な告白も悔恨もなにもかも、御堂の中には克哉の残滓の一滴さえも残されてはいない。

 表情を消して素っ気ない口調で言った。

 

「お話はそれだけですか? ……それでは、失礼します」

「待て、佐伯っ!」

 

 踵を返して御堂の前から去ろうとしたところで、腕をぎゅっと掴まれ動けなくなった。

 

「君はまた逃げる気か?」

 

 その言葉に、足が縫い付けられて微動だに出来なくなった。

 強い感情が無意識に込められているのか、腕を掴む御堂の手にぎりっと力が籠った。

 

――また逃げるのか……?

 

 振り向けば御堂は瞬き一つせず、克哉をじっと射抜いている。すべてを透かそうとする鋭さで。

 あのときだって、御堂を置いて逃げたのだ。そして、今も自分にとって苦しい現実から逃げようとしている。

 御堂と正面切って向かい合うことから逃げてばかりいる自分がここにいた。

 

――俺は自分を変えたくて、過去の自分を捨てたのではなかったか。

 

 辺りには静けさが満ちていった。

 かつて、自分が眼鏡を手に取った理由は何だったのか。しかし、眼鏡がもたらした結果は自分の求めたものではなかった。

 何度、後悔を積み重ねても、自分を変えることは出来ないのだろうか。

 重苦しい沈黙を御堂の静かな声が遮った。

 

「佐伯……。君は私のことは信じてはくれないのだな」

「御堂……」

「私は君の味方だ。せめてそれだけは覚えておけ」

 

 強さと哀しさを併せ持った言葉に眼を逸らすことさえできず、御堂と真正面から見つめ合う形になった。

 御堂の克哉への想いがまっすぐに伝わってくる。

 心を閉ざそうにも苦しさや悔しさ、そして目の前の男を切望する想いが縒り合わさって、火傷しそうなほどの衝動となって噴き出してきた。

 御堂に身体ごと向き直ると、掴まれた腕ごと御堂を力任せに引き寄せた。咄嗟のことによろめく御堂を抱き留めて、湿った息を吐くくちびるをくちびるで塞ぐ。

 

「んん……っ!」

 

 喉を鳴らして抗議する御堂が胸を押し返そうとするのも何もかも、激しいキスで押さえ込んだ。

 逃げ惑う舌を絡めてきつく吸い上げる。キスを深めるうちに御堂の抵抗は形ばかりのものとなり、身体から余分な力が抜けていった。

 たっぷりとキスを交わして、名残を惜しむかのようにゆっくりとくちびるを離した。ふたりの間で、唾液が銀の糸を引いた。

 酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す御堂が、咎める口調で呟いた。

 

「まったく、君は……こんなところで…」

「場所を移しますか?」

「そういう問題ではない」

 

 怒る気力を削がれて、ぷいと顔を背けて拗ねる御堂を愛おしく感じる。

 御堂の真摯な気持ちに揺り動かされたからこそ、素直に謝罪を口にした。

 

「今回の件は、すみませんでした。……もし次があるなら、その時は甘えます」

「そうしろ」

 

 一度抱き締めてしまえば、腕の中にいる御堂のぬくもりは心地よく、それだけに、この感触を失うときが恐ろしくてたまらなかった。

 頬を赤く染めた御堂が、欲情に濡れた眼差しを克哉に向けた。

 

「私は…君のことをもっと知りたい」

「……俺のことを?」

「ああ」

 

 たとえ、ふたたび記憶の中から克哉のすべてが消え去るとしても。

 せめて、別れが来るまではこの暖かな感触に束の間の安らぎを得ることは、許されるのだろうか。

 ふたりの白い息が混ざり合い、夜の闇に溶け込んでいった。

 結局、その日に東京に帰ることはあきらめて、克哉が予約していたホテルにふたりでチェックインをした。

 昂る熱のまま、部屋に入るなり、濡れて重くなったコートを脱がせてジャケットをその場に落とす。

 もつれあうようにお互いのシャツのボタンを外して、ズボンを脱がせ、裸になったところでベッドに二人して倒れこんだ。

 くちびるを戯れに押し付けながら言った。

 

「今日は、御堂さんをとことん抱き潰したい気持ちなので、泣いて許しを乞うても無駄ですよ」

「君にその気概があるのか?」

 

 そう宣言する克哉に蠱惑の笑みが挑発する。

 本能に任せて御堂を押し倒そうとしたところで、自分に科すべき枷を思い出した。

 

「その前に、手を……」

 

 床に落としたネクタイに手を伸ばしたところで、御堂にその手を掴まれた。

 

「佐伯、これでいいだろう?」

「……御堂?」

 

 御堂の手が絡みつき、片手に柔らかな熱を感じた。握りしめられたのだ。指が一本一方絡まっていく。手をつなぐ形になって克哉は戸惑った。

 

「これは……」

「この手を離さなければいい」

「……どうなっても知らないぞ」

「大丈夫だ。私が君をしっかりとつなぎ止めてやる」

 

 もし、この手が離れたら。自分が暴走してしまったら。そして、御堂を傷付けてしまったら。

 そんな克哉の不安を、ぎゅっと手を握りしめることで受け止めてくれる。

 御堂が眼差しで、自分を信じろ、と克哉を促した。

 恐る恐る、御堂の手を握り返した。

 ふたりをつなぐものの長さがない分身体が密着する。胸が重なり合い、二人分の鼓動が響き合う。湿った掌の暖かさを、自分の掌で直に感じるのはどこかこそばゆい。

 

――これじゃあ、まるで……。

 

 恋人同士みたいではないか。

 御堂と克哉は身体だけの関係のはずだ。それも三カ月限定の。だから深みにはまってはいけない。

 当惑する気持ちの一方で、吐息を感じる距離に自然とくちびるが重なり合った。下腹で硬くなった性器を擦り合わせながら、舌を絡めて互いを求める気持ちを伝えあう。触れ合うほどに肌がしっとりと汗をかく。

 キスを交わしながら、くちびるを下にずらし、顎、首、鎖骨を舐めながら吸って、御堂の胸の尖りに軽く歯を立てた。小さく悲鳴をあげた御堂が身体を捩じって逃げようとするのを、つないだ手を御堂の背後に回して押さえつけた。そして胸を舌で執拗に舐る。乳首はすぐに赤く色づき、硬く勃ちあがった。御堂が拒絶の声を上げる。

 

「そんなとこ……やめろ…っ。私は、男だ……っ」

「でも、感じるでしょう?」

 

 尖らせた舌先で先端を弾くと御堂が「あっ」と艶めいた声を漏らした。

 押し合うペニスの感触がもどかしく、腰を淫猥に擦りつけると、御堂もまた悩ましげに腰を揺らめかす。互いの先端からとろみのある蜜が滴り相手の竿を濡らしていく。

 御堂の耳元にくちびるを寄せて囁いた。

 

「しゃぶりましょうか」

「……」

 黙ったまま、こくんと御堂が頷いた。

 身体をずらして、御堂の股間に頭を埋めようとしたところで、御堂に止められた。訝しんで顔を上げると、耳まで赤く染めた御堂が、「私も舐めたい」と掠れた声で言う。

 ニヤリと笑って、互いの身体をずらしてベッドに横たわり、御堂を自分の顔の上に跨らせた。

 奉仕をさせることはあっても、自ら奉仕することはなかったのだろう。御堂は幾分ぎこちない仕草で、克哉の性器をそっと掴み、ゆっくりと口に含んでいった。大きく勃ちきったペニスを一度に受け入れるのは流石に抵抗があるようで、亀頭の周囲を舐めて、頬をすぼめて浅く出し入れしてくる。それでも、繰り返すうちに抵抗感が薄れたのか、次第に大胆になり、濡れた音を立てながら頭を大きく前後させ始めた。

「御堂……」

 

 くねりながら絡みつく舌、敏感な部位に擦りつけられる柔らかな頬の粘膜、硬い歯の裏。御堂の口の中の甘美な感触に感じ入りながら、克哉も御堂のそこに舌を這わせた。陰嚢やその奥の窄まりまで舌でたっぷり濡らしてから、脈打つペニスを喉の奥まで含み、口の中の粘膜で締め付けつつ、舌で舐めまわししゃぶり尽くす。同時に御堂のアヌスに指を滑らせ、そこを揉みこみつつ、中へと沈めていった。

「んあ……っ、さ…えき……っ」

 克哉に激しく刺激されて、御堂の動きがおろそかになる。その度に克哉も動きを止めてつなげたままの御堂の手を握り返し、仕草で御堂に愛撫の再開を促すと、御堂も負けじと克哉を深く呑み込んでくる。口で感じる欲望に夢中になりながら、ふたりで淫猥な行為に耽った。

 御堂のペニスが限界まで張りつめ、絶頂まであと一歩となったところで刺激を止めた。切なげな声を上げる御堂の腰を上げさせた。

 

「俺のを自分で挿れてみてください」

「っ……!」

 肩越しに振り向く御堂が悔しそうな顔をして克哉を睨み付けた。恥辱を感じながらもねじくれた快楽に流される御堂にそそられる。

 御堂にきつく睨まれながらも身体を動かさないでいると、しびれを切らした御堂が体勢を変えた。片膝をベッドにつき、反対側の足の裏でベッドを踏みしめ克哉の腰の上にまたがり、克哉の硬く屹立したペニスに片手を添えた。

 先ほどからずっと手をつないだままだ。片手の動きを制限されている分、もどかしくなる動きに焦らされながら、御堂がおずおずと腰を沈めてきた。熱く濡れた、馴染んだ感触。潤んだ粘膜に包まれて、克哉のペニスが呑み込まれていく。時間をかけながらも太腿の肉が密着して、克哉を根本まで咥えこんだ。

 

「あ……ああ…っ」

 

 身体の中心を、大きく硬くなった克哉の形に拡げられて、御堂の顔が苦しげに歪む。それでも、深く貫かれた瞬間、ペニスの先端から白い粘液をどぷりと溢れさせていた。

 天井を向いて勃ちあがった先端から粘液が克哉の下腹に糸を引いた。

 

「相変わらず、我慢がきかない身体ですね」

「……ぅっ」

「御堂さんとつながっているところ、丸見えですよ」

「見るな……っ」

 

 御堂の薄い草叢もそこから屹立する性器も、そして太い克哉の雄によって丸く広がった結合部も全てが見えてしまう。

 御堂が眦を朱に染めながら、克哉に屈辱を交えたきつい視線を送る。だが、そこにあるのは憎しみではない。恥辱と快楽が複雑に混じった表情だ。

 克哉が腰を揺すりあげると、ぶるりと震えるペニスから粘液が散らされては、糸を引く。腰を突き上げているうちに、御堂も克哉の動きに合わせて、腰を前後に振りたて始めた。

 行為が激しくなるほどに振りほどかれそうになる手に追いすがり、ただ一本の指だけを絡めてみたり、相手の手にしがみついてみたりと、つなぎ合う手で戯れた。離れそうで、放さない。少しでも気を抜けばあっさりと切れてしまうつながりだからこそ、触れ合う感触を切実に求める。指の間を指の腹でくすぐりあい、まるで指の先まで性感帯になったような恍惚に頭の芯が痺れていった。肉体の快楽に酔いしれながらも、つながる手からそれ以上の至悦が身体の隅々まで滲み広がっていく。

 身体を起こし、御堂の背に手を回した。対面座位の体勢になる。

 下から突き上げると御堂の身体が仰け反り、長く白い首が美しい曲線を描く。喉仏が隆起する男の喉だ。その喉に噛みついた

 御堂の身体の中に自分を沈ませていく感覚は麻薬のようで、意識を恍惚とさせる。

 どこをどう責めれば、どんな反応が得られるか、御堂の身体は御堂以上に隅々まで知っているし、御堂の身体もまた克哉の感触をしっかりと覚えている。

 御堂は未知の快楽をひとつひとつ克哉に教えられて、戸惑いながらも男に抱かれることで得る果てのない絶頂に溺れていった。そして、克哉もまた、自分を求める御堂とともに、快楽を分かち合い絶頂を迎える快感に囚われた。

 これ以上、身体をつなげば、気持ちまでつながってしまう。この交わりは禁忌だ。そう頭では理解しても、相手を貪欲に欲する気持ちに歯止めがかからず、もっと強いつながりを求めてしまう。

 もっと、強く。どこまでも深く。いっそ、奈落の底まで沈んでしまいたい。

 何度目かの絶頂を迎えて、御堂の中に自分を残したまま抱きしめる形でベッドで呼吸を整えていると、ためらいがちに御堂が口を開いた。御堂の伏せがちな瞼を彩る長い睫毛が細かく震える。

 

「佐伯……、この仕事が終わった後に、もし……君が…」

 

 その先の言葉を言わせないように御堂の口をくちびるで塞いだ。

 

「御堂、キスを……」

「……んんっ」

 

 御堂が微かに眉根を寄せたが、克哉の控えめな拒絶を汲み取ったようだった。その眸に失望めいた色が広がっていく。胸の深いところがずくりと痛んだ。その痛みに敢えて意識を向けないようにして、くちびるを離すとことさら軽い調子で言った。

 

「期間限定だからこそ燃えるのでしょう?」

「……そうだな」

 

 冷めかけた快楽に火をつけようとふたたび腰を遣い始める。ぐちゅりと空気を孕んだ淫靡な音が立つ。抽送のピッチを上げていくと、御堂が克哉の手にしがみついた。理性が遠のき、快楽を貪る二匹の獣へと戻る。それでも決して離れることのない手が、ふたりを特別な関係につなぎとめていた。

 つながる手から流れ込んでくる何かが、克哉の気持ちを揺さぶってくる。

 三か月間の期間限定というのは実のところ自分のための免罪符だ。終わりがあると常に念頭に置いているから、御堂と関係を持つことができる。いずれ御堂は自分のすべてを忘れる、そう自分を納得させることで、御堂の深いところまで踏み込むことができるのだ。

 だが、これはもろ刃の剣だ。克哉が御堂との交わりを深めるごとに、御堂もまた克哉の深いところまで侵入してきている。

 御堂は克哉を忘れても、克哉は御堂を忘れることなどできない。一度は諦めたものが手の内にある。それを失う喪失感は最初から手に入れられなかった未練よりも、よっぽど残酷に克哉の心に大きな空白を残していくだろう。こうして御堂に一方的に傷を抉り取られて、塞がらないほどの深い傷を抱えながら生きていくのだ。その生き方は今までよりも、ずっとずっと苦しい。

 それでも、今この瞬間にある仮初の至福を、目を瞑り、耳を塞いでやり過ごすことなどできなかった。

 伝えられない気持ちの代わりに、御堂の手を強く握り返した。

 

 

 

「失礼する。L&Bの御堂だが、佐伯はいるか?」

 

 よく通る声がAA社内に響いた。

 御堂が出先から戻るついでに、AA社に資料を届けに来たのだ。

 ソフト会社とのプログラムのライセンス契約は無事締結され、L&B社のコンサルティングは順調に進行していた。メディアへの発表準備も着々と進められていたそんな時だった。

 事務員が執務室にいる克哉に連絡を入れるとほぼ同時に、御堂に気が付いた藤田が部屋の奥から駆け寄ってきた。

 

「御堂さん、お久しぶりです!」

「……藤田か? どうしてここに?」

 

 はつらつとした声に御堂は驚いて顔を向けた。

 克哉が執務室から応対に出た時には、藤田と御堂は思わぬ再会に会話が弾んでいた。

 藤田を無視して御堂を応接室に案内したが、何故か藤田もついてきた。じゃれつく犬のように喜色満面にあふれ、御堂にむかって話しかけるのを止めようとしない。

 

「ここに転職したんです。佐伯さんに誘われて。御堂さんこそどうしてこちらに?」

「今はL&B社のプロダクトマネージャーをしていてな」

「そうだったんですか! 佐伯さん、そんなこと一言も教えてくれませんでしたよ」

 

 責める目線を藤田に向けられたが、知らぬふりをした。特段隠すつもりもなかったが、あえて教えたりもしなかった。御堂が克哉のことを忘れているなら、同時期に御堂の部下であった藤田を覚えているかどうか自信がなかったのだ。だが、御堂の反応を見る限り、藤田のことはしっかりと覚えているようで、御堂の過去からは『佐伯克哉』に関する記憶だけが切り絵のようにすっぽりと切り抜かれていることを思い知らされる。

 御堂はジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出した。

 藤田も慌ててそれに倣い、御堂と名刺交換をする。かつての上司と行う名刺交換に緊張したのか、名刺を摘まむ指先が震えている。御堂の名刺を受け取った藤田はそこに書かれている肩書を口の中で呟くと、目を輝かせて御堂を見上げた。

 

「それにしても奇遇ですね。御堂さんと佐伯さんが、こうしてまた一緒に仕事をするなんて」

「藤田、佐伯に誘われた、と言ったな。佐伯と知り合いだったのか?」

 

 御堂の言葉に藤田がぽかんと口を開けた。

 

「MGN社にいたときに……ほら、プロトファイバーの時ですよ」

「プロトファイバーの時? 佐伯もそれに関わっていたのか?」

「はい…? ……佐伯さんはキクチ八課の営業だったじゃないですか」

「佐伯が? キクチ八課の?」

「御堂さん、本当に覚えていないんですか?」

 

 どうして御堂がそのことを覚えていないのか、藤田は不可解な表情をつくった。二人の間に割って入った。

 

「藤田、やめろ。御堂さんが困っている」

「え、でも……」

「御堂さんは忙しいんだ。余計なことで時間を取らせるな。お前は仕事に戻れ」

 

 なおも言い募ろうとする藤田を強引に遮り、仕事の話を始めた。藤田が不満げな顔で部屋から退室すると、御堂が訝しげに尋ねてきた。

 

「佐伯、君は私のことを知っていたのか?」

「ええ、まあ。仕事がらみでちょっと」

「そんなこと、君は一言も言わなかったではないか」

「あなたは俺をまったく覚えてなさそうでしたし」

「それは……悪いことをしたな」

 

 御堂がバツの悪い顔をして謝罪を口にした。軽く苦笑して首を振った。

 

「いいえ。あの時の俺は下っ端で、ただの使い走りでしたから」

「……なるほど、だから藤田と面識があったわけか」

 

 克哉の言葉足らずの説明に御堂は勝手に納得したようだった。

 

「だが、君みたいな優秀な人材に気付けなかったのは失態だな」

「買い被りすぎですよ」

「……それにしても、君がキクチ八課にいたとはな」

「御堂さん、わざわざご足労いただきありがとうございました。下まで送ります」

 

 当時のことを色々聞かれないうちに、克哉は資料を届けてもらったお礼を述べると、面談を終わらすべく立ち上がった。御堂と連れ立って応接室から出ると、藤田が話しかけたそうに克哉たちに顔を向けたが、それを視線で牽制してオフィスを出る。そうして、御堂のためにエレベーターを呼んで一緒に乗り込んだ。

 空っぽのエレベーターにふたりきり。エレベーターの扉が閉まるなり、御堂が克哉のネクタイを掴んで顔を引き寄せた。あっと思う間もなく、くちびるのきわどいところに柔らかな感触が触れる。掠めていくくちびるの行く先に顔を向ければ、鼻先の距離で御堂が悪戯っぽく笑っている。

「御堂さん、俺を煽る気ですか?」

「そうだ、と言ったらどうする?」

「後悔しても知りませんよ」

 

 克哉の言葉に御堂は笑みを深めた。身体の横に下ろしていた手に御堂の手が触れた。小指にそっと小指を絡めてくる。じわりと仄かな熱が伝わってきた。

 ゆっくりと息を吐いて自分を落ち着けようとする。

 悪夢は怖くない。

 目が覚めた時に広がる現実に安心することが出来るからだ。むしろ怖いのは幸せな夢だ。現実世界に戻った時に、落差の分だけ失望が待ち受けている。今この瞬間が色鮮やかな分、その後に待ち受ける灰色の世界の絶望は深くなる。だから、決してこの御堂に心許してはいけない。これ以上、自分の領域に踏み込ませてはいけない。夢はいつか必ず覚めるのだ。

 それなのに、理性の制止を振り切って克哉は御堂にキスを返していた。後頭部に手を添えて、濃密な口づけを交わす。

 くちゅりと濡れた音がふたつのくちびるの間で立った。

 余韻に浸る間もなく足元に重力がかかった。電子音が響き、一階に到着したことを知らせる。ドアが開くと同時に身体を離して何事もなかったかのように振る舞う仕草も慣れたものだ。

 

「それでは、また」

「ああ、またな、佐伯」

 素っ気ない挨拶を交わしながら、そっと意味ありげな視線を交わす。それだけで胸が逸りだした。自分がもうどうしようもなく御堂に囚われていることを自覚した。

 御堂が乗り込んだタクシーが過ぎ去って視界から消えていくのを、歩道に立ったまま見つめ続けた。無意識にくちびるを指でなぞっていた。今しがたの熱の名残を追うように。そして、くちびるの上で混じり合った温もりに感じ入った。

 こんなものは錯覚だ。

 それでも、過去の自分の選択次第では、今の二人の関係がもしかしたら現実になり得たのかもしれないのだ。出会いが違っていたら、自分が選択を間違えていなければ。数えきれないほどの後悔が積み重なって、息が詰まり、胸が掻きむしられる。

 どれほどの時間が経っていただろう。歩道に立ち尽くしたままの克哉は背後から自分に向かってくる足音に我を取り戻した。

 気付けば周囲に人影はなく、夜とも昼ともつかない仄暗さが立ち込めている。今まで聞こえていた都市の音は掻き消え、静けさが満ちている。よく似た異世界に迷い込んだかのようだ。

 背後の足音がすぐ背後まで来て止まった。

「こんにちは、佐伯さん」

「……」

 

 かけられた言葉に返事をしない。だが、克哉の影に現れた黒づくめの男は、そんな克哉の態度などお構いなしににこやかに話しかけてきた。

 

「どうやらお困りのようですね」

「困ってなどいない」

 

 突き放す克哉の返答に、Mr.Rと名乗った男は、「ふふ…」と笑った。

 

「私の思い過ごしでしたでしょうか」

「引っ掻きまわしにきたのか?」

「いいえ、とんでもございません。あなたのお役に立てればと」

「役に……?」

「あなた方にとっての最適解を授けましょうか」

「最適解だと?」

 克哉を覗き込む金の眸が妖しい光を増した。

「あなたも記憶を消去すればよろしいのです。あなたの足枷となっている過去を。そうすれば、あの方となんの憂いもなく共に未来を歩めるのでは?」

「俺の記憶を消すだと……?」

「あの方と同じ選択をするのです。不都合な過去は消して、より良い未来を選び取ればいい。これがあなた方にとっての最適解でしょう」

「馬鹿を言うな」

 

 克哉は怒気を孕んだ声を吐き捨てた。この男はさらりと甘い毒の誘惑を囁きかけてくる。

 

「俺が過去を忘れたら、同じ過ちを繰り返すだろう。そんなことは二度とごめんだ」

 

 壊れかけた御堂を目にしたときの戦慄と恐怖。あの瞬間を決して忘れてはならない。

 自分の中に深く刻み付けることで自分を律することが出来るのだ。

 そして、それ以上に、自分の中の御堂を微塵たりとも失いたくなかった。このひとときの甘やかな邂逅も、かつての粘ついた闇の中での相克も何一つ忘れることなどできない。

 

「この仕事が終わったら、俺は御堂と別れる。そして、御堂は俺のことを忘れて、それで終わりだ」

「忘れる? 果たして、忘れられるのでしょうか」

「御堂は俺のことをすっかり忘れていた」

「それは、あの方がそれを望んだからです。無理やり記憶を奪うことなどできません」

「御堂は忘れることを望むさ」

「果たしてあなたの思い通りにいくものでしょうか」

「……」

「残念ですね。あなたは本当の欲望を抑え込んでいる。その先にあなたが求める未来があるのでしょうか」

「黙れ」

 

 突き放す言葉に動じることもなく、Mr.Rは周囲の空気を震わせて笑った。

 そうした次の瞬間、Mr.Rの姿は克哉の前から消えていた。周囲に日常の音が戻り、止まっていた時間が流れ出す。まるで白昼夢を見たかのようだ。

 克哉は頭を振って、停滞していた思考を研ぎ澄ますと、AA社のオフィスへと踵を返した。

 このMr.Rとの遭遇により、はっきりと分かったことがある。

 御堂と克哉は同じ時間と空間に存在しても、決して交じり合ってはいけないのだ。

 後一カ月もたたずに、L&B社の事業がひと段落つく。そうなれば、コンサルタントの克哉は役目を終える。

 この仕事を終えたら、AA社をたたもう。

 そう決意した。

 藤田やほかのスタッフには申し訳ないが、退職金をたっぷり支払うことで納得してもらうしかない。

 そして、今度こそ御堂と決して出会うことのないように、遠いところへ行こう。

 これは御堂のためではなく、ひとえに自分のためだった。

 克哉の視界に御堂が存在する限り、Mr.Rは克哉に誘惑を囁き続けるだろう。

 今はまだその誘惑を跳ねのけられる。だが、克哉のことを忘れてしまった御堂にもう一度出会ったとして、無関心で冷ややかな視線を浴びることに自分が耐えられる自信がないのだ。

 むしろ、幸福な思い出に身を浸しながら生きていく方が、よっぽどいい。その後に続く絶望がどれほど深くなろうとも。

(5)
​(6)

 御堂はちらりと腕時計に視線を送った。思ったよりも順調に仕事が捗り、いつもよりも早い時間にあがれそうだった。

 自宅に仕事を持ち帰らないようにしているので、仕事が溜まっている日は夜遅くまで職場に籠っている。それを苦に感じたことはない。逆に、仕事がない日はどうやって過ごすか考えること自体を面倒に感じるくらいには仕事人間だ。

 しかし、社会人になった当初は仕事だけでなく私生活ももっと充実していたように思う。大学時代の友人と顔を合わせてワインを飲みかわし、仕事関連の勉強だけでなく趣味を極め、感性を磨くための勉強に必死だった。スケジュール帳の空白を恐れるように色々な予定を詰め込んでいた気がする。

 それが、L&B社に転職し、気付けば、仕事だけをひたすらに考え、機械的にこなすようになっていた。だから、自宅には必要最低限の私物しか置いていないし、頭の中は仕事の段取りと自身のタスクのことばかりだ。

 それに不満を感じたことはなかったが、今は時間に余裕が出来れば、別のことを考えている自分がいるし、むしろ時間の余裕を作るように仕事の配分をしていた。

 別のこと……。

 それを思うと、下腹の深いところがずくりと疼き、背筋を甘やかな痺れが這いあがる。

 自分の肌を辿る節ばった指先、くちびるを噛み合うような激しいキス、身体の深いところを探られる形容しがたい感覚。

 その一つ一つが生々しく思い出されて、いつの間にか仕事に集中していた思考が緩んでいた。そんな自分に気が付いて、これではいけないと、気を引き締め直した時だった。

 携帯電話がぶるっと震えた。メールを受信したのだ。すぐさま、メールを確認して、御堂は自分の期待が外れたことを知った。メールの送信者は克哉だ。

 頭の中で思い描いていた予定が打ち消されて、軽い失望を感じながら携帯を鞄の中にしまった。

 克哉は社長で、少ない人数でAA社の業務を回しているのだ。当然、時間が合わないこともあるだろう。特に、ここ最近は御堂のプロジェクトが発表直前の段階となり、克哉は他社や工場との最終調整に駆けずり回っている。だから、『今晩、会わないか?』というメールに、『今日は無理です』という返事が来ても、不満には思ったがそれを態度に出すのはどうにか我慢した。

 仕方なしに、急ぎではない仕事もあらかた片付けて時間をつぶし、L&B社近くのバーを兼ねたカフェに入った。軽い食事とグラスワインを頼む。そうして食事を終えた時には夜の九時を回っていた。今日は大人しく部屋に戻ろうかと、清算のために店員を呼ぼうとして、思い浮かんだのはやはり克哉のことだった。

 まだ仕事をしているのだろうか。AA社を帰りがてらに覗いて、差し入れを持っていってもいいかもしれない。きっとまともな食事もとらずに仕事に打ち込んでいることだろう。

 ワインの酔いに身を任せながらそんなことを考えて、店員を呼び止めると、店で出している総菜のいくつかをテイクアウト用に頼んだ。

 店から出てタクシーを拾うと、AA社のビルへと向かった。AA社のビルが見えてきたところで赤信号に捕まったこともあり、タクシーを清算して降りた。

 AA社のビルまで5分ほど歩かなければならない距離だったが、アルコールで火照った顔を冷やすのにはちょうどいい。

 紙袋に入れられた総菜を片手に複合ビルが立ち並ぶ歩道を歩いていた時だった。どのビルも一、二階の低層階にはレストランやショップが入っていて、こんな時間でもにぎやかだ。その時、周りを見渡した視線が一点に止まった。

 通りに面したレストラン。ガラスを通して見えた店内に、御堂が探していた男がいた。

 明るい髪色にメタルフレームの眼鏡。間違いなく克哉だ。

 だが、窓際のテーブルに陣取る克哉は一人ではなかった。にこやかな顔を向ける先には若い女性がいる。ふたりの表情は弾んでいて、楽しそうに談笑している。

 思わぬ光景にその場に立ち尽くした。急激に酔いが引いていく。御堂の視線の先の二人にテーブルに湯気立つ美味しそうな料理が運ばれてくる。女性が嬉しそうな顔をする。それに対して克哉が何かを言った。女性が顔を綻ばして笑う。

 華やかな雰囲気に会話の内容まで聞こえてきそうだ。いたたまれなくなって御堂は背を向けた。

 足早にその場を立ち去った。視界に入ったごみ箱に、手にしていた総菜を紙袋ごと突っ込んだ。

 居所の分からない苦しさに知らず知らずのうちに胸を掴んでいた。

 どうしたというのだろう。

 克哉とは期間限定の割り切った付き合いのはずだ。身体だけの関係。それ以上のことには関与するつもりもなかった。御堂だって、克哉が邪魔になったらあっさり切り捨てるつもりだったはずだ。

 それなのに。

 今この胸を締め付ける感情は何だというのだろう。

 街の喧騒がひどく遠く感じられた。

 

 

 

 

 翌朝、克哉からメールが入っていた。

 

『昨夜は申し訳ありません。今夜でしたら空いています』

 

 相変わらずの言葉が少ない丁寧な文体のメール。そのメールを無視した。

 むしゃくしゃした行き場のない気持ちが渦巻いている。

 克哉に顔を合わそうものなら辛らつな嫌味の一つでも言ってしまいそうで、冷静さを失っている自分にも腹が立つ。

 克哉が女性とデートしていたくらいでなんだというのだ。

 互いのプライベートには踏み込まない。最初からそういう前提で関係を持っていたのだし、むしろそう持ち掛けたのは御堂だ。

 それが、克哉との関係を重ねるうちに、自分の中の克哉の存在が膨れ上がってきていた。克哉もまた、自分に対して同じような気持ちを抱いているものと、無意識に思い込んでいた。

 もうすぐ克哉とのコンサルティング契約が終了する。業績次第ではAA社との契約更新を行う予定で、現在のAA社の働きは、客観的に見ても十分以上にL&B社に貢献していた。だから当然、契約更新を行う予定で考えていたし、そうなれば、克哉との関係も自然と延長されるものだと考えていた。しかし、克哉からそのことをはっきりと聞いたわけではなかったし、御堂もそれを口にしたわけではなかった。

 自分一人だけ勝手に期待していたようで、裏切られた気持ちになる。

 三カ月間限定の付き合いを提示したのは御堂だ。だが、克哉はそれに同意した瞬間からずっと三カ月後には別れることを主張し続けていた。ベッド上の方便でもその主張を崩したことはなかった。

 

「そういう、ことか……」

 

 理解などしたくなかったのに、自然と理解した。三カ月間という期間の意味。それは、あの女性と新たな関係を結ぶまでの猶予だったのだろう。克哉は結婚してもおかしくない年齢だし、コンサルティングという仕事柄、クライアントの信用を得るなら既婚というステータスは有利に働く。

 御堂と克哉は他人同士だ。たまたま、一時の間身体の関係を持っただけの。

 そう割り切ろうにも、平静でいられない。

 感情の乱れが抑えきれないのも相まって、内容に目を通さなくてはいけない資料も、文字の上を目が上滑りしてばかりだ。

 そんな最中、克哉からL&B社に仕事がらみの連絡が入った。

 受話器越しにさえ克哉の声を聞きたくなかったが、渋々電話を取った。

 お互い事務的な口調で淡々と実務的なやりとりを終え、さっさと電話を切ろうとした矢先、克哉が声を潜めた。

 

『御堂さん、昨夜は申し訳ありませんでした。もしよろしければ、今夜はいかがですか?』

「……」

 

 メールの文面と同じ内容を口にする。

 克哉なりに、御堂の返事がなかったことを気にしているのかもしれない。そう考えると、ほんの少しだけ胸のすく気持ちになったが、冷淡な口調で返した。

 

「私などに構っている暇はあるのか?」

『……?』

「君は仕事さえきちんとこなしてくれれば、それでいい。切るぞ」

『御堂さん……?』

 

 電話口で何か克哉の言葉が聞こえたが、無視して受話器を置いた。

 通話が切れた瞬間、自分の大人げない対応に嫌気が差した。

 こんなあてつけがましいことを言うような人間ではなかった。克哉が目の前に現れてから、自分はおかしくなっている。

 克哉に自分のペースを乱されているのだ。

 

――もう、あいつのことは忘れよう。

 

 そう胸の内で呟いても、一度散らばってしまってしまった集中力は元に戻ることもなく、らしくない自分に舌打ちしながら資料の同じ部分に何度も目を通す羽目になった。

 そうして結局、L&B社を退社したのは夜も大分遅くなってからだった。客待ちのタクシーをどこで捕まえようか考えながらビルのエントランスをくぐったところで、明るい髪色の男が真正面に立っているのが目に入った。相手もまた御堂を見つけるとずんずんと速足で近寄ってくる。

 

「……佐伯?」

「随分と遅かったですね」

「ずっとここで待っていたのか?」

 

 驚きに声が掠れる。克哉は斜め上を仰ぎ見た。つられて視線を追うと、L&B社のビルの暗くなったフロアが視界に入った。

 

「さっきまで電気が付いていたので、あなたが仕事していたのかと」

「こんなところで待つくらいなら、私に連絡すればいいだろう」

 

 呆れてそう言ったが、克哉は御堂に視線を戻した。その眼差しの鋭さに怯む。

 

「御堂さん、俺、何か悪いことをしましたか?」

 

 率直に切り込まれて、自分が何に苛立っていたのか思い出した。克哉がこんな時間にこんなところに現れるとは思っていなかったものだから、虚を突かれたのだ。眉を顰めて克哉から顔を背けた。

 

「君は何か悪いことをしたのか?」

「心当たりはありません」

「それなら、それが答えだ」

 

 そう一言返して、克哉を露骨に無視すると歩き出した。克哉は一歩後ろをついてくる。凍えるビル風が吹きつけてきて首を竦めた。克哉がひたりと背後についてくるものだから、タクシーを拾うことさえままならない。

 歩調を速めると、克哉もまたつかず離れずの距離を保って、黙ったまま御堂に張り付いている。

 しばらく無言で歩き続けたが、克哉のしつこさに耐え切れず口を開いた。

 

「昨夜……」

 

 克哉が御堂の言葉を一言も漏らすまいと御堂の横に並んだ。克哉の方をちらりとも見ずに、言葉を続けた。

 

「君は私の誘いを断って、誰と居たんだ?」

 

 無意識に詰問口調になっていた。

 克哉は御堂の言葉に驚いたのか、ハッと息を呑んだ気配がした。

 

「いや、聞くだけ野暮だな。君が三カ月間という期間にこだわっていた理由が分かった。これ以上私と付き合うと、彼女に申し訳が立たないだろう」

「ちょっと、待ってください!」

「別に怒ってなどいない。元々君とはそういう話だったからな。君の個人的な事情に干渉するつもりはない。色々と忙しいのだろう? さっさと帰ったらどうだ?」

 

 怒ってはいないと言いつつ、苛立ちと嫌味が言葉の節々にちりばめられている。

 自分はこんなことを言いたいわけではない。克哉を咎める権利など何一つない。それでも一度口から滑り出した言葉を止めることが出来ない。一息にむしゃくしゃした気持ちを叩きつけると、唖然としている克哉の制止を振り切って、背を向けた。

 すぐに沸き起こってくる自己嫌悪から逃げるように、半ば駆け足の状態で歩きだした。

 

「待て、御堂!!」

 

 ひとり置き去りにされた克哉が御堂に向かって呼び止めた。もちろん、それも無視した。

 もう放っておいて欲しい。こんなみっともない姿、自分でもうんざりする。

 さっさとタクシーを捕まえて家に帰ろうと、大通りの車道に歩みを寄せた時だった。ぐっと二の腕を掴まれた。

 振り返ろうともせずに、その手を払おうとしたが、もう片方の肩も掴まれて、ぐいっと身体を引っ張られた。その強い力に抗えず、克哉と向かい合わせの形になった。

 今更、弁明も謝罪も聞きたくない。拒絶の意を全面に出して克哉から顔を背けたが、克哉は落ち着いた静かな声で告げた。

 

「彼女は、そんなんじゃない。……うちの社の事務員です」

「事務員……?」

 

 思わぬ単語に顔を戻して克哉の顔を真正面から見てしまう。そこにあったのは、真剣な克哉の表情だ。

 

「最近、ずっと残業続きで、昨日は出先まで書類を届けてもらって帰りが遅くなったので、お詫びに食事を誘ったんです。あの後、すぐにタクシーに乗せて家に帰しました」

「何だって……」

「それに、彼女は来月、結婚退職予定です。もちろん、相手は俺ではありません」

 

 そこまで言って、克哉は小さく笑った。

 張りつめていたものが抜け落ちて、身体の力が抜けた。

 胸につかえていたしこりが、自分の一方的な誤解という形で溶け去ってしまうと後に残されたのは居心地の悪さと羞恥の塊で、今更どんな顔をしていいか分からない。

 かといって素直に謝ることも出来ず、視線を不安定に彷徨わせていると、克哉が御堂を掴んでいた手を離した。車道に身を乗り出し、片手をあげる。そうして流しのタクシーを捕まえると御堂を奥に押し込むと、自分もその隣に収まった。

 御堂が口を開くよりも先に、克哉が運転手に住所を告げた。その住所には聞き覚えがあった。AA社の住所だ。訝しんで尋ねた。

 

「どこへ行く?」

「俺の部屋に来ませんか?」

「強引だな」

 

 非難する口調で返したが、それ以上拒むことはしなかった。

 克哉がオフィスの上の住居階に居を構えているという話は聞いていた。だが、克哉の部屋の誘われるのは初めてだったのだ。

 車が発車する。御堂は背もたれに深く体重をかけた。横目で克哉を窺う。

 

「ひとつ、聞いていいか?」

「はい」

「この契約が終わるまでの付き合いに、どんな意味があるんだ?」

「あなたが言い出したことでしょう」

「それはそうだが……」

 

 あの女性が三か月間という期間にこだわる理由ではないのなら、結局何を目的に克哉は期限を守っているのか疑問は残る。

 克哉はその手のドライな付き合い方を自分のポリシーとしているのかもしれない。御堂だってそうだ。同性同士、いくら関係を深めても結婚できるわけでもない。御堂自身も、性欲を発散するだけの手軽な関係を持っても、それ以上の関係を結ぶことは拒否してきた。

 しかし今、自分の中には克哉に対する別種の気持ちが芽生えている。昨晩の件で、自分が克哉に抱くその気持ちを自覚させられた。

 それでも、その想いをそのまま告白するには自分のプライドが許さなかった。

 御堂の内なる葛藤を察したのか克哉がぼそりと言った。

 

「時期が来たら話します」

 

 控えめだが頑なな拒絶がその一言に込められていた。

 御堂は、それ以上を追及することを諦めた。時期が来たら話すと言っているのだ。それを待てばいい。ただ、その流れの主導権を克哉に握られているのは気に食わないが。

 克哉からぷいと顔を逸らすと、シートに身体を預け窓からの景色に視線を流した。

 結局その日は克哉の部屋で夜を明かした。

 

 

 

 

 翌朝、克哉の部屋から出勤する羽目になった御堂は、克哉からネクタイだけ借りるとそれに付け替えて部屋を出、エレベーターでエントランスへと降りた。

 さっさとタクシーを捕まえて、L&B社へと向かおう、そう思ったところで元気な声に呼び止められた。

 

「御堂さん! おはようございます!!」

 

 ぎくりと動きを止める。振り返れば藤田だった。藤田が御堂の元へと駆け寄ってくる。

 

「AA社に何か御用ですか? 佐伯さんはまだ出勤してないと思いますが……」

「いや、要はもう済んだ。朝一で佐伯に渡したい書類があって郵便受けに入れたから大丈夫だ」

 

 咄嗟に吐いた嘘を藤田は疑うことなく、「そうでしたか」と朗らかに微笑む。

 後ろめたさから一刻も早くその場を去ろうとしたところで、ふと思い立って藤田に尋ねた。

 

「そう言えば、藤田は佐伯とMGN時代に面識があったと言ったな。君とはどんな関係だったんだ?」

「そのことなんですが……。御堂さん、本当に佐伯さんのことを覚えていないんですか?」

 

 藤田が黒目がちな眸をぱちくりと瞬いて、御堂の顔を覗き込んでくる。

 

「どういう意味だ?」

「佐伯さん、MGNとの定例ミーティングに毎回参加していましたし。……佐伯さんこそキクチ八課のエースですよ」

 

 定例ミーティングとは御堂たちMGN社とキクチで週一回行っていた、販売状況と戦略を確認する会議だ。重要な会議で、御堂は毎回それに出席していた。

 だが、藤田にそう指摘されても、克哉がそれに出ていたという記憶はまったくない。

 

「そうだったのか? キクチからは片桐課長と、本多君が定例ミーティングに出席していたと記憶しているが」

「佐伯さんも来ていましたって」

 

 藤田がそう強く主張したが、全く思い出せなかった。「それに」と藤田が付け足す。

 

「御堂さんの後任のMGN第一室の部長が佐伯さんです」

「佐伯が? 私の後任……?」

 

 予想だにしなかった事実に息を呑んだ。だが御堂の反応に藤田も同様に驚いていた。

 

「本当に、ご存じなかったんですか?」

「ああ……」

「まあ、御堂さん、あの時は体調崩されていましたし、仕方ありませんよね」

 

 藤田はそう解釈して一人納得したようだった。

 藤田が言う通り、あの頃の自分は体調を崩して出勤が出来なくなり、プロジェクトを途中で放棄せざるをえなかった。そして、その責任を取ってMGNを辞めた。

 ただ、引継ぎはしっかりとしたはずだ。

 しかし、自分は誰に引き継ぎをしたのだろう?

 その時はまだ後任が決まっていなかったのだろうか。上司の大隈に引き継いだのだっただろうか。

 どうにかして思い出そうとするが、その部分の記憶があいまいだ。

 同じプロジェクトの下請けの営業メンバー、自分の後任を張るほどの営業のエースを自身が知らないなどということがあるだろうか。

 克哉は自分のことを以前から知っている風なことを言っていた。

 一方的に知っていただけだ、と言っていたが本当にそうなのだろうか。

 どうにも腑に落ちない点がある。

 御堂は佐伯を知らなかった。

 その事実を藤田は訝しんだ。だが、当の克哉はそれを御堂に問い質そうともしなかった。

 一つの事実に対する二人の反応の相違。この違いはどこからくるものだろうか。

 自分の頭の中に散らばる断片的な情報を組み立てようとした時だった。鈍い痛みが頭の芯を揺さぶった。思わずこめかみを押さえる。

 

「っ……」

「大丈夫ですか?」

「なんでもない、ただの頭痛だ」

 

 心配そうに覗き込んでくる藤田に無理やり作った笑顔を返して、御堂はその場を後にした。客待ちのタクシーに乗り込んでL&B社へと向かう。

 頭痛はいつの間にか治まっていた。

 御堂の日常生活で時折感じる違和感。それは長い小説を読んでいて、ふと目にした一文に積み重ねられてきたストーリーの整合性が取れなくなるような違和感だ。それは自分の頭の中の勘違いなのかもしれないし、現実の文章が間違っているのかもしれない。だが、頭の中に一瞬過るそれを深く考えるようなことはしなかった。

 そのひとつひとつの端緒を掻き集めていけば、何かが見えてくるかもしれない。

 しかし、それに踏み込むことは何らかの災厄を招く。そう思えてならず、『それ』を直視することは躊躇われた。

 だから釈然とはしないものの、藤田の話は頭の片隅に追いやった。

 それでも、御堂の周囲に潜む謎の数々の原因が、自分の身の内から来ているものではないかという疑念を拭い去ることが出来なかった。

 

 

 

 

 L&B社のアパレル事業も正式な発表を直前に控え、どこから漏れ聞いたのか、御堂の元にメディアからの取材の申し込みが殺到していた。克哉とは仕事関係の連絡をこまめに取っていたが、互いに仕事に忙殺されてゆっくりと会う時間もなかった。約束の期限まで後一週間を切る、そんな時だった。出先に向かう街中で唐突に懐かしい声に呼び止められたのは。

 

「おい、御堂!」

「……君か、久しぶりだな」

 

 振り向いてみれば、大学時代の同期の友人だった。

 思わぬ再会に喜んだとはいえ、再会を懐かしむ時間の余裕もなかった。次のアポイントの時間が迫っている。軽く挨拶を交わして立ち去ろうとしたところで、友人は御堂の顔をまじまじと覗き込んできた。そして、にっと笑う。

 

「その調子だと、お前も記憶を処置したんだな」

「記憶の処置?」

「ほら、俺が紹介したクリニックに行ったんだろう?」

「何の話だ……?」

 

 すると、彼は何かに気付いたように表情を変えた。そして、小さく「そうか、消した記憶も消したのか……」と呟いた。

 

「……?」

「いや、何でもない。……そうだ、この後用事があるから時間がないんだ。それじゃあ、またな!」

「おい! ちょっと待て!」

 

 御堂の制止を振り切って、彼は慌てふためく様子で御堂の前から姿を消した。

 もやもやとしたつかみどころのない不安が胸の中で塊を作っていく。

 そういえば、彼とは久しぶりと言いつつ、以前にどこかで会った気がした。その時に彼の姿を見て驚いたことを覚えている。

 何故なら、彼は一度、公の場から姿を消したのだ。仕事に挫折し心を深く傷つけられて引きこもった彼が、鮮やかな復活を遂げていた。それは果たして何がきっかけだっただろうか。確か御堂はその理由を聞いた。

 彼はなんと答えただろうか。

 胸の奥がざわつき、全身の皮膚に鳥肌が立つ。

 その時の彼との会話が映画のワンシーンのように頭の中で再現された。

 そう、彼は、「記憶を消した」と言ってはいなかったか。

 

――記憶を消す……?

 

 そんなことが可能なのだろうか。いや、確かに彼はそう言っていた。

 そして今、御堂を見て「お前も記憶の処置をしたんだな」と言った。

 心臓が早鐘を打ち出す。乱れ打つ脈に、呼吸が自然と浅くなった。

 自分は誑かされているのだろうか。

 いや、そうではない。彼の言葉は御堂の心の奥底にすっと嵌りこんだ。意識の深いところの重たい澱みが巻き上げられる。

 すべてのピースがひとつひとつあるべき位置に収まり、御堂の中にある大きな空白を縁取る輪郭となった。その輪郭でさえ、次の瞬間には喪失感だけ残して儚く消え去ってしまうほどの脆いものだった。

 何もかもが根拠を失い、足場としていた土台はそこにはなく、どこまでも落ちていく。

 愕然として立ち尽くした。

 かつての友人の出現によって御堂は無秩序な混乱の渦に叩き落された。とても平静ではいられない。

 この後の予定を気もそぞろに片付けると、御堂は自分の部屋に直帰した。

 部屋の中を見渡すと、物が少ない自分の部屋はやけに広く、侘しく見えた。

 そこが何故かよそよそしい他人の部屋のように感じる。

 ここの前に御堂が暮らしていたマンション。そこにはもっと洒落た照明やインテリアがセンス良く飾られていたはずだ。何故自分が以前のマンションを引き払い、多くのものを捨ててこの部屋に移り住んだのか、思い返してみても、自分を納得させるだけの理由が見つからない。

​ それどころか、自分がMGNを辞めた当時のことを詳しく思い出して辻褄を合わせようとすればするほど、頭と胸が苦しくなる。まるで本能がそれを忌避しているかのようだ。

 部屋の引き出しという引き出しをひっくり返して、手掛かりを漁る。自分が記憶を失っているのかどうかも定かではない。ただ、身に覚えのない精神安定剤、そして、精神科の受診カードが引き出しの奥からいくつも出てきた。これらはいったい何なのだろう。

 悪い予感めいた不安に胸が不穏に逸りだす。

 そして、家探しを始めて数時間後、クローゼットの奥の棚と壁の隙間から、御堂は見慣れぬ黒封筒を見つけた。あり得ないところに存在する見覚えのない封筒。それは意図的に隠されていることが明らかで、こんなところに隠すのは自分以外あり得ないだろう。そしてこれを誰かの目から隠しているのだとしたら、その誰かとは今の自分ではないだろうか。

 糊付けされている口をもどかしく開き、中に入っていた書類を取り出した。

 

「“記憶改変に関する説明と同意書”……?」

 

 複写式の書類の一枚のようだ。プリントされた文字で、記憶の改変に関する説明書きと、受ける処置の内容が書かれている。右上の日付は一昨年のものだ。そして、一番下の署名欄には自分の筆跡で『御堂孝典』と力強く署名されている。

 しかし、この紙自体に記憶がない。

 

「受ける処置の内容……記憶の消去……?」

 

 この書類に関する記憶がない分、記憶の処置という内容がリアルな存在感を持って、身に迫ってきた。心臓の鼓動が皮膚を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。

 上から順に内容を辿る視点が細かく揺れる。御堂は震える指で文字をなぞりながら、その内容を一行一行確認していった。

 そして、無理やり理解していく。

 どうやら、自分は記憶を消去する処置を受けたということ。それだけでなく、記憶を消去したという記憶も消去したということ。失った記憶の代わりに、それを補完する疑似記憶を植え付けたということ。

 そして、署名の上の欄。そこに書かれた言葉を見て、瞳孔が開ききった。

 なぜ、どうして、という疑問が激しく頭の中で渦巻きだす。

『処置を行う記憶の内容』を問う欄だった。

 そこには、自分の筆跡で一行、はっきりと書かれていた。

 

『佐伯克哉に関するすべて』

 

 震える指先の間から、はらりと紙が滑り落ちていった。

 

 

 

 

 混乱が覚めやらぬまま、その夜、克哉に連絡を取ると、強引に押し掛ける形で克哉の元に訪れた。

 今までにない御堂の切羽詰まった様子に、克哉は御堂を自分の部屋に上げると、リビングのソファへと座らせた。

 

「それで、一体どうしたんですか?」

 

 落ち着いた声で問う克哉に、無言のまま自分が見つけたクリニックの紙を渡した。

 克哉がそれを受け取り一瞥する。その表情を慎重に探ったが、克哉は微かに眉を顰めると、御堂に紙をそのまま返した。

 重苦しい沈黙が支配する。何も口を開こうとしない克哉にしびれを切らして、御堂から口を開いた。

 

「佐伯、これはいったい……?」

「俺に聞かれても困りますよ」

 

 返ってきたのは突き放すようなぞんざいな言葉だった。

 克哉が自分のシャツのポケットからタバコのケースを取り出した。御堂の向かいの一人掛けソファの背にもたれて、鷹揚な仕草でタバコを一本咥えると火を点けた。脚を組んでタバコの煙越しに御堂を見詰める克哉の態度は、もはや今までの克哉とは違って見えた。

 この紙に書かれたことが意味することは、なにか。

 御堂なりに推測はした。克哉と自分はかつて知り合いだった。それは間違いない。だが、自分は克哉の記憶を消したとしたら、二人の仲は、単なる仕事上の関係ではなく、もっと深いところでつながっていたはずだ。

 緊張に干上がる喉に掠れた声が出た。

 

「君と私はかつて恋人同士だったのか?」

「……俺とあんたが恋人同士だと?」

 

 克哉は肩を揺らして嗤った。その顔は今までに見たことのない、悪意が滴り落ちるような底知れぬ闇を感じさせる表情へと塗り替えられていった。

 克哉の凶悪な本性を現したかのような、低く圧倒的な威圧感を持った声をだす。

 

「そんな生易しいものじゃないさ。俺はあんたを強姦して脅迫して監禁して、壊したんだよ」

「まさか、そんな……」

 

 咄嗟に否定しようとした声が震えた。そんなことがあるわけない、そう思いたいのに、御堂を射るように見つめる克哉の眸がどこまでも昏く、それが決して冗談なんかではないことを示していた。

 それでも、克哉の言葉が信じられず、首を振った。

 

「いいや、違う。君はそんな男ではない」

「……試してみるか?」

 

 克哉はほとんど吸ってないタバコをアッシュトレイに押し付けると、ゆるりと立ち上がった。レンズ越しの眸が冷酷に輝く。

 冷や水を浴びせられたかのような痺れが背筋に走った。

 近付いてくる克哉から逃げなくてはいけない。本能が警鐘をけたたましく鳴らす。だが、凍り付いたように動けなかった。克哉が御堂に向けて屈みこみ、伸ばした手で顎を掬い上げた。

 冷酷な眼差しに射抜かれた瞬間、弾かれたように立ち上がった。克哉の手を払い、身体を翻して逃げ出そうとしたところで、ぐいと腕を掴まれ、足を引っかけられてソファに倒れこんだ。それでも、もがきながら起き上がろうとしたところで、克哉が御堂の背に膝を乗せて体重をかけられた。がむしゃらに暴れたが、手首を背後にねじ上げられて、両手を後ろ手にまとめられてしまうと、もうどうにも動けなくなった。

 

「何をするっ、やめないかっ!!」

「思い出さないか? あんたを最初にヤった時もソファの上だった。あんたをワインに混ぜた薬でしびれさせて動けなくしたところで、強姦したんだよ」

「馬鹿な……っ!」

 

 豹変した克哉の言葉に理解が追い付かない。

 克哉が御堂に伸し掛かり、纏うフレグランスがタバコの苦みと混ざって迫ってくる。

 御堂の耳元に息が吹きかけられた。その感触にぞくりと身体を震わせた。克哉の低めた声が鼓膜に流し込まれる。

 

「俺は犯されるあんたの姿をビデオで記録していたんだ。それをネタにあんたを脅した」

「……っ!」

 

 整った形の薄いくちびるが恐ろしい言葉をすらりと吐く。

 咄嗟に背後を蹴りあげようとしたところで、腿の間に克哉が強引に足をねじいれてきた。御堂の動きを完全に抑え込んで、克哉は喉を震わせて笑った。

 逃げ場を探そうと視線を彷徨わせた。高層階の部屋、カーテンが開かれた窓に黒い闇と室内の様子がくっきりと映り込み、窓ガラスに映された自分自身と目が合った。

 自分に伸し掛かかる克哉が顔を寄せる様子は、凶暴な獣が今にも獲物を喰らわんとするかのようだ。

 

「私を脅して何になる……! そんなことで私を脅迫しても無駄だ!」

 

 克哉の話が本当ならそれはもう昔の出来事だ。だが、気圧されていることを悟られないように強い語調で吐き捨てた。克哉が、ほう、と感心したようにうなずいた。

 

「……その通りだ。あんたは想像していた以上に強情だった。身体は陥落しても、俺に屈しようとはしなかった。だから俺は最後の手段に出た」

「最後の手段……?」

「あんたをあんたの部屋に監禁したんだよ。そして、あんたから仕事もポジションも、今まであんたが築き上げてきた何もかも取り上げたんだ」

「何を言って……」

 

 それが事実だとしたら、それはまさしく卑劣な犯罪行為だ。

 押さえつけられた肩越しに首を捩じって振り返れば、克哉のレンズ越しの眸と視線がぶつかった。どこまでも冷ややかで体温を感じさせない表情に背筋が凍えた。この男は偽りなどではなく紛れもない真実を口にしている。直感的に理解した。

 鼓動が乱れて、喉が干上がる。それでも克哉の闇に呑み込まれないよう抗った。

 

「嘘だっ!」

「じゃあ、なんであんたは引っ越したんだ? あんたは覚えてないだろうが、俺は分かる。あんたはあの忌まわしいマンションに住み続けることが出来なかった。MGNを辞めたのも、俺にすべてを奪われてあんたの居場所がなくなったからだ」

「黙れ! 違う!」

 

 克哉が淡々と告げる事実に理性が砕け散った。

 なりふり構わず拒絶する声に克哉は喉を震わせて嗤った。

 御堂をいたぶる愉悦に興奮しているのか、御堂の股間に自分の太腿を擦りつけて淫猥にまさぐりだす。

 

「違う? 違わないさ。それなら、なんで、あんたともあろう男が俺に関する記憶を捨てたんだ?」

「それは……」

 

 それは、自分でも分からなかった。

 自分は決して弱い人間ではない。目の前の困難から逃げ出すような軟弱さとは無縁な人間であると思っていた。

 そんな自分がなぜ、佐伯克哉に関する記憶をすべて消したのか、その決断に至るまでの苦悩は、今の自分が想像するよりもずっと深いものであったはずだ。

 それでも、自分が知る克哉を信じたくて呻く声で言った。

 

「君が言っていることには証拠がない……」

「証拠? あるさ」

 

 笑い含みに呟いた克哉の手が御堂のスラックスのベルトにかかった。あっという間にベルトを外され、下着も一緒くたにされてスラックスを引きずり降ろされる。

 重くなっていた性器がぶるっと弾んで部屋の照明に晒された。

 克哉は御堂の前に手を回すとペニスに指を絡めて、軽く扱いて形を確かめた。その口調が粘ついたものになる。

 

「何をする!!」

「御堂さんは俺に乱暴されても、感じちゃうんですね」

「よせ……っ、触るなっ」

「あんたの身に起きたことの証拠を教えてやるんだ」

「ん――っ、がは……っ」

 

 口の中に克哉の指を数本突っ込まれた。遠慮なく御堂の口の中をかき回して溢れる唾液を掬い取ると、その指を御堂の尻の狭間へと下ろした。

 

「ひあっ、……っ!」

 

 アヌスの表面を爪の先が触れる。たったそれだけで、御堂の身体は大袈裟なほどに反応した。

 克哉を拒もうと力を込めるが、指はぬぷりと中に入ってきた。きつく閉じた瞼から涙が滲んだ。

 節ばった指が中の粘膜を擦りながら前後に抽送される。

 克哉の指の味を覚えこまされているアヌスは、指が引き抜かれると物欲しげにひくついた。克哉が吐息だけで笑うと、今度は指を二本まとめて押し込んできた。

 ぐりっと中の粘膜をねじられて拡げられ、悲鳴を上げる。その指を抜かれて代わりに、熱く滾った克哉の昂りが押し付けられた。息を呑む間もなく無残に挿し貫かれていく。

 

「あ、ああああっ!!」

「あんたは、本当は痛いくらいの方が好きなんだ」

 

 指とは比べ物にならない圧倒的な質量が、まだ硬い穴を限界まで拓いて奥まで侵入していった。

 身体を引き裂かれる恐怖に這いずって逃げようとしたが、後ろ手に縛られた手を掴まれ、強く押し付けられて身動きが取れなくなった。

 ソファに頬を押し付けて、漏れ出そうになる声を口を引き結んで押し殺した。

 克哉が腰を遣いだした。弱いところを的確に抉られ、痛みと圧迫感が混じりあう身体の中心を強烈な痺れが駆け抜けていく。

 

「く、あ、……ああっ!」

「あんたは俺に甚振られると興奮する身体なんだ。そう、俺が仕込んだ」

 

 荒い息を吐きながら克哉は、御堂の腰をきつく掴んで身体の中心を貫き、執拗に中を穿ち続ける。

 粘膜を抉りながらペニスが突き入れられ、また粘膜を捲りあげながらずるっと引き抜かれる。抽送のたびに克哉の大きく張り出した亀頭で粘膜を擦られると、抑えようにも喘ぐ声が漏れ出てしまう。

 意に反して抱かれることなど屈辱でしかないのに、克哉の言葉通り、乱暴に貫かれる自分の身体は発情し、興奮した粘膜が克哉のペニスを締め付けてしまうのが自分でも分かる。

 歪んだ快感は淫蕩さを極め、御堂のペニスは刺激を与えられてもいないのに、今にも破裂しそうなほど硬くなり、欲情の蜜を滴らせていた。

 身体の熱がどんどん煮詰まり、頭の中が白んでいく。

 

「イきたいんだろう、御堂? 俺に『イかせてください』ってねだってみせろ」

「誰が……! ん……っ、く…」

 

 克哉が御堂の首筋の産毛を舐め上げながら御堂を甚振る。

 弱々しく首を振ったが、これ以上の刺激にとても耐えられそうになかった。

 薄く笑う克哉が深く覆い被さってきた。服の布地越しに克哉の熱と体重を押し付けられ、同時に激しく突き入れられた。結合がどこまでも深まり、快楽が臨界点を超えた。

 

「く、ああああっ!」

 

 重たるい熱がペニスの中枢を駆け抜ける。快楽が弾け、思考がフリーズした。欲望を放った下肢がガクガク揺れる。落ちそうになる腰は克哉に奥まで楔を打たれて、腰だけを突き上げて射精する浅ましい姿だ。

 貶められるセックスで得た絶頂は激しかった。出すものが無くなってもペニスはヒクヒクと何かを放ち続けた。途切れることのない絶頂にソファの座面に押し付けた顔はよだれと涙で濡れて、情けない状態になっていたが、快楽に蕩ける顔を克哉から隠せることだけが唯一の救いだった。

 そんな御堂の様子をつぶさに眺めて、克哉が喉で笑う。

 絶頂に引き絞られ、そして弛緩していく御堂の身体をたっぷりと味わい、克哉は自身の欲情を御堂に注ぎ込んだ。克哉を受け止める下腹部が重苦しくなったところで、ようやくつながりを解かれた。

 支えを無くした身体がソファに沈み込む。呼吸を乱しながら克哉は御堂の後ろ手の戒めを解いた。

 顔も下腹部も脚の間も、すべてが自分と克哉の体液で不快に濡れている。

 まだ自分の身に起きたことが理解できずに、縛られていた手首を擦りながら、重たい身体をどうにか起こそうとしたところで、克哉がタオルを持って戻ってきた。

 御堂に向けて無造作にタオルを差し出す。

 

「……帰れ、御堂」

「君という男は……っ!」

 

 その一言に頭が沸騰した。伸ばされた克哉の手を力任せに払いのけると、タオルがはらりと床に落ちた。克哉は表情を変えずに床に落ちたタオルを拾い、御堂の上に放る。

 胸の痛みとともに吐き捨てた。

 

「どうして、こんなことを……っ」

「あんたが、知りたがったんだ」

「君は、今の今まで、私に酷いことをしなかった」

 

 自分が信じた克哉の姿は偽りだったのか。痺れる手指で克哉のシャツを掴んで引き寄せた。ぐしゃりとしわが寄る。まるで縋りつくような姿だったが、克哉は御堂の手首を掴んで、きつく捩じりあげた。痛みに小さく悲鳴をあげて手を離した。

 克哉は冷淡な態度を崩さずに言った。

 

「……それは、あんたが俺のことを一切合切忘れていたからな」

「私をだましたのか」

「だました? とんでもない。俺の方こそびびったんだ。かつてのことを持ち出されてあんたに脅迫されるかもと心配したさ。だが、杞憂だったな。それどころかあんたは俺に近づいてきた。しかも関係を持ちたいとまで言ってきた」

 

 薄く笑う克哉の顔は御堂の知らない誰かのようだった。

 

「正直、あんたは可愛かったよ。あれほど俺のことを忌み嫌っていたあんたが、俺の上で自ら腰を振って善がりまくっているんだものな」

「黙れ……!」

 

 それ以上克哉の言葉を聞いていられなくて、荒げた声で遮った。

 克哉が痛々しいものを見る目つきでレンズ越しの眸を眇めた。

 

「御堂、あんたは自分の記憶を消したんだ。それほどまでにあんたは俺を恐れて、嫌った」

「……」

 

 自分と克哉の間に何があったのか、身をもって教えられた。それでも、灼けつく胸の内から声を絞り出した。

 

「……私は君のことを……」

「一時の気の迷いだ」

 

 克哉が吐き捨てるように御堂の言葉に被せてきた。

 突き放される克哉の言葉に、自分一人踊らされていたようでいたたまれなくなる。

 震える拳をぎゅっと握りしめた。

 

「君は、私のことを、今でも憎んでいるのか?」

「憎んでなんかいないさ。間違えるな。あんたが俺を憎んでいるんだ」

「それなら、君は私のことをどう思っているんだ?」

「どう思っているも何も、俺とあんたはとっくに終わっているんだよ、何もかも。終わったものは始めようもない。あんたの大きな勘違いが分かっただろう? これが答えだ」

 

 怒りの嵐は過ぎ去り、落胆と失望が心を侵食していく。力なく呟いた。

 

「君はかつて私からすべてを奪って、そうして、自分の求めていたものを手に入れたのか?」

「……いいや。あんたは負けなかった。そして、俺は勝てなかった。あんたは多くのものを失ったし、俺は本当に欲しいものを手に入れることができなかった」

 

 その言葉はどこか沈鬱さを含ませていたが、ふう、と克哉は大きな息を吐いた。

 

「この仕事が終わったら俺はもう、あんたには関わらない。それがお互いのためだ」

 

 絶望が染み渡るたっぷりとした沈黙のあと、静かな声で克哉が付け足した。

 

「もう一度、そのクリニックで俺の記憶を消してもらえ。今度こそ、まっさらにすればいい。そうしてあんたは自分の道を歩め。俺はもうあんたの顔は見たくない」

 

 克哉は顔を逸らしたまま、御堂とは目を合わそうともしない。

 渡されたタオルを使って、よろめきながら立ち上がった。最低限の服の乱れだけ直し、玄関へと向かった。

 その間、克哉は一度も振り返ることもなければ、御堂に声をかけることもなかった。

 克哉の部屋のドアを開けて、閉める。

 ばたんという鈍い音とともに、ふたりは分厚い壁に隔たれた。

 

 

 

 

 それからのことはよく覚えていない。自分の心は辛うじて目の前に起きた出来事に耐えていた。しかしそれはまさしく薄氷を踏む感覚で、あともう一撃打ちのめさせることがあったら、正気を失っていたかもしれない。

 過去に騙され、現在に裏切られ、そんな自分に未来など期待できるとは思えなかった。克哉よりも何よりも自分自身の不甲斐なさに激しく絶望した。

 そうなって悟った。過去の自分が記憶を消したのも、自分に深く失望したからなのだ。こんなどん底から自分を取り戻して立ち直るとしたら、方法はひとつしかない。

 手には昨夜見つけた書類があった。書類に書かれていた住所を頼りにそのクリニックに向かった。まったく記憶はないのに、迷わず辿り着くことが出来た。

 受付をして案内された部屋。格式高いファニチャー、落ち着いた風合いの内装。ここに来たことがあるのだろうか。どこか懐かしい。

 ソファの正面に座ったコーディネーターと名乗る黒服の男が御堂ににっこりと話しかけてきた。

 

「お久しぶりです。御堂さん」

 

 その口調に、やはり自分はここで処置を受けたのだと得心する。

 

「それで、今日はどうされました?」

「私の記憶を処置してほしい」

 

 説明を受けなくとも、ここで何が行われるのか知っていた。確かに、御堂はこの場所に来たことがあった。思い出せないのに、強烈な既視感がある。

 男は口元に笑みを乗せながら、静かな口調で尋ねてくる。

 

「今回はどの記憶を処置いたしますか?」

 

 まっすぐと男を見返した。

 

「佐伯克哉に関するすべてを」

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 金曜日の終業時間を過ぎて、AA社はいつにもまして閑散としていた。

 もう、社員は藤田も含めて全員退社している。残っているのは克哉だけだ。

 L&B社の事業が滞りなくスタートしたおかげで、この週末は久々に何の予定もなかった。来週はハッピーマンデーだから明日から三連休となる。社員は皆、久々にゆっくりと羽を伸ばすことができるだろう。

 L&B社のアパレル事業は先日、公式に発表され、メディアからはセンセーショナルな驚きをもって迎えられた。

 大々的に打たれたキャンペーンは予想道理の反響で、あっという間に工場の処理能力を上回る注文が来て納品まで数か月待ちという状況になった。それが新製品を試してみたいという飢餓感を一層煽ったようで、納品までしばらくかかるという案内を送っても、予約は指数関数的に増えていた。致し方なしにオーダー受付をいったん休止にしたが、それにもかかわらず、問い合わせは途切れることがない。ひとまずは想定以上に順調な滑り出しと言えるだろう。

 L&B社の事業はもう、克哉の手から離れても、軌道に乗って育っていくはずだ。克哉が確認するメディアのニュースでは、L&B社の顔として御堂が前面に立っている。御堂のプランナーとしての名声は飛躍的に高まっていた。

 AA社とL&B社の契約はこれでひと段落ついた。

 今回のコンサルティングの報告書を作成し御堂宛に送付したが、L&B社の事務側より受け取りの連絡が来た以外、御堂からは何の連絡もなかった。

 あの夜以来、御堂からは一切の音沙汰がなくなったのだ。仕事に関してはメールを通じて事務的なやりとりをするのみで、それも、御堂本人ではなく専ら御堂直属の部下相手だ。

 克哉は手に取った雑誌のL&B社のアパレル事業に関する特集記事をざっと目を通し、ひと息吐いた。どの記事も非常に好意的にL&B社について特集している。

 読み終えた雑誌をゴミ箱に放った。がさりと乾いた音によって静寂が一瞬破られ、そしてふたたび静けさが降りてくる。

 壁一面の嵌め殺しの窓の外は、まだそう遅い時間ではないのに、すでに夜の帳が降りている。地上から遠いこの階からは垂れこめる雲が間近に見える。冷たく暗い冬の夜だ。

 窓の外に流していた視線を戻して、克哉はパソコンのメールボックスを確認すると、L&B社の社長からメールが届いていた。

 克哉への感謝と契約更新を依頼する長文のメールをざっとスクロールして目を通し、簡潔に謝礼と契約の更新は辞退する旨のメールを送ると肩の力を抜いた。

 克哉は十分すぎるほどに責務を果たした。L&B社に対しても、御堂に対しても。

 胸に去来したのは一大事業を成功に導いたという喜びでも、AA社の名が轟いたという胸の高鳴りでもない。ひとつの恋が終わったという、どこかざらついた感覚で空っぽになった心だけだ。

 いや、終わってなどいない。最初から始まることもなかった恋だ。

 これが恋だと気付いたときには既にピリオドが打たれていた。何もかもが遅すぎた。軌道修正など到底無理で克哉には幕引きの場面しか残されていなかった。

 だが、この物語で不幸だったのは克哉ではなくて御堂だ。克哉の一方的な感情ですべてを奪われて破壊されたのだから。傷ついた自分の気持ちなど、御堂の悲劇と並べてみればあまりにも軽すぎて比較することさえおこがましい。

 AA社のフロアを見渡した。

 デスクや応接セット、必要な設備がすべてそろっている。そして、そのほとんどが新品同様でまだ使われていないものだ。

 だが、これからも使う予定はない。

 AA社の事業は整理するつもりだった。

 新規の依頼はすべて断って、今あるコンサルティングを片付けて、それで、終わりだ。

 幸い社員が少ないこともあって、藤田や他のスタッフに退職金をたっぷりと支払ってもまだ、何もしないでもしばらく暮らしていけるくらいの余裕はある。

 克哉はパソコンを閉じてデスクを片付けると、鞄を持って立ち上がった。

 こうしてみると、何の予定もない週末というのは初めてで、どう過ごしてよいか分からない。自分から仕事を奪うと、後には何も残らない。それくらい、単調な日々を送っていたのだと気付かされる。

 この週末は残務整理をしつつ、部屋の解約の手続きでもしようかと、考えながらAA社のドアをロックしたところで背後から声をかけられた。

 

「佐伯」

 

 予期せぬ声に振り向けば、御堂が厳しい顔をして立っていた。

 手に脱いだコートと鞄を持っている御堂もまた、会社帰りなのだろう。それでも、折り目正しく纏ったスーツにはしわがなく、ネクタイはきっちりと結ばれ、黒髪は一筋の乱れもなく撫でつけられている。

 いつ何時でも決して乱れた状態を見せない。そこに御堂の育ちの良さと品格を感じる。

 御堂の不意打ちの訪問に内心で驚くも、ことさら冷淡な素振りで返した。

 

「何か?」

「話がある。君の部屋に行っていいか?」

「……」

 

 嫌そうな顔をして黙り込んだが、御堂は克哉を無視して勝手知ったように踵を返してエレベーターホールへと歩いていく。克哉の部屋に向かう気らしい。

 渋々その後を追った。

 まったく乗り気ではなかったが、成り行き上、御堂を部屋に招き入れた。

 御堂はリビングには近寄らずダイニングテーブルのチェアに腰をかけた。

 あんなことがあったリビングをあえて避けるその動きに、御堂にとっては先日の出来事がまだ生々しい傷痕を残していることを知った。

 ちくりと心が痛んだが、卑劣で最低な男として振る舞うためには必要な行為だったし、過去の自分だったらそうしていただろう。だが、そんな酷い目に遭っても尚、克哉に近づいてくる御堂の意図が分からない。

 克哉もジャケットを脱ぐとネクタイを緩めてダイニングへと向かった。

 御堂を長居させるつもりはなかったから、何のもてなしもしなかった。

 飲み物も出さずに、わざと粗雑な態度で椅子を引くと御堂の前に座った。アッシュトレイを指で引き寄せる。椅子の背にもたれ、脚を組み、ぞんざいな口調で言った。

 

「それで、俺に何の用ですか?」

「……あのクリニックに行ってきた」

 

 御堂が切り出した言葉に、タバコを取り出そうとした手が止まった。まじまじと御堂を見詰めてしまう。御堂は背筋を正したまま、表情を動かすことはない。決して冗談を言っているわけではないようだ。

 

「俺の記憶を消しに?」

「いいや、君に関するすべての記憶を取り戻しに」

「何……」

 

 御堂の言葉に息を呑んだ。

 目の前の御堂は克哉との過去をすべて思い出したのだろうか。

 その克哉の心の内の疑問は言葉にしなくとも察した様子だった。御堂は首を振って答えた。

 

「まだ、記憶は戻ってない。この錠剤を渡された」

 

 御堂が白い錠剤を取り出した。それを二人の間のテーブルに置いた。

 

「これを飲めば記憶が戻るそうだ」

「こんなもので?」

 

 目を凝らしてみてみるが何の変哲もないどこにでもある白い錠剤にしか見えなった。

 

「このカプセルは『修復(リカバリ)』だ。改変(モディフィケーション)された記憶を元に戻す。この中にはナノカプセルが含まれていて、脳の中で私の記憶を封じているナノカプセルと拮抗し作用を打ち消すそうだ。そして、一度消去した記憶を追体験させることで元に戻す」

「追体験……」

「ビデオを早送り再生させるようなものだだとか。そうして、時系列順に脳に記憶を定着させる。それ以上の詳しい仕組みはよく分からない」

 

 記憶を取り戻す仕組みよりも何よりも、御堂が言った『追体験』という言葉に反応した。

 

「あんた、正気か? あんたがわざわざ消した記憶を、もう一度体験して取り戻すだと?」

「私はいたって正気だし、本気だ」

「何が起きたか、俺が説明してやっただろう。……実演までして。それももう忘れたのか?」

「君の話が本当かどうか、確かめるんだ。自分の頭で」

 

 御堂は自分のこめかみを指さした。

 あんなことまでして御堂を脅して自分から遠ざけたのに、御堂の強情さにはあきれるしかない。克哉は大仰に肩を竦めてみせた。

 

「馬鹿げている。そんなことをして何の益がある? こんな錠剤よりもあんたは頭を冷やすことの方が必要なんじゃないか」

「私はそうは思わない」

 

 皮肉めいた笑みとともに軽口めいた口調で挑発したが、御堂は動じなかった。

 互いの視線が拮抗する。

 カーテンが開け放たれた窓。星の見えない暗い夜を背景にしたガラスに部屋の景色が映り込む。部屋は暖房で暖められているのにもかかわらず、ふたりの間に高まる緊張感に指先がひんやりと凍えてきた。

 部屋に満ちた沈黙を破ったのは御堂の静かな声だった。

 

「君が私から離れたがっているのは知っている。それを分かっていながらも、君のことが気になってどうしようもない。君を名実ともに自分のものにしたくて仕方がない」

 

 一拍、呼吸を置いて、御堂ははっきりと告げた。

 

「私は君のことが好きなのだと思う。そうでなければ、この気持ちは何と呼ぶんだ?」

 

 感情を抑えて語られるその声は克哉の胸にずきりと響いた。

 その眸の静謐さとは裏腹に、普段の御堂からは想像もつかないような激しさを秘めた言葉だった。

 好きと断定しているわけではなく、克哉に問いかけられるその言葉には、御堂の嘘偽りない確かな気持ちが込められていた。

 目の前に克哉が焦がれに焦がれたものを差し出されている。克哉がそれを欲しいと一言いえば、自分のものになるのだ。

 だが、その問いに、克哉は答えることが出来なかった。正確に言えば、答える資格などとうの昔に失っていた。

 御堂が口を引き結んで克哉に目線で返答を促してくる。

 いつもよりも深みを感じさせる眸が、自分を見据えている。闇よりも暗いその深淵を思わず覗き込みたい衝動に駆られたが、御堂もまた克哉の深いところを覗こうとしていることに気がついた。

 克哉は瞼をわずかに伏せて、つながる視線を無理やり断ち切ると、ふうと肺の中の空気を一掃するかのような息を吐いて、自嘲の笑みを浮かべた。

 

「俺の答えはもう告げた。きれいさっぱり終わっているんですよ。あんたと俺は。結論は昔のあんたが出している」

「君が本心からそう言っているとは思えない」

「あんたは俺よりも何よりも、過去の自分を信じるべきなんだ。過去のあんたは俺を捨てた。俺がそうさせた。あんたは俺がいない世界を選んだし、俺もそれを望んでいる。それがすべてだ。もう俺たちの関係は終止符が打たれているんだ、とっくの昔に」

「私が信じているのは今の、この自分だ」

 

 ばん、と御堂が握った拳をテーブルに叩きつけた。平行線のままの話し合いに苛立ちが滾っているようだ。険しい表情を克哉に向けた。

 

「記憶を弄れるのは三回までだ。二回目をここで使う。もし、私が君との記憶を取り戻してなお、気持ちが変わらなければ、君の答えを聞かせろ」

「俺の答えはもう言った」

「いいや、君は自分の本心を隠している」

「随分と自信家だな、あんたは。だが、そんなあんたでさえ俺の記憶を消したんだ。その事実を忘れるな」

 

 内心の動揺を隠しながらも切り返すと、御堂はすべてを見透かそうとする眸を克哉に向けた。

 

「確かに私は過去を捨てた。だが、君だって捨てたのだ。……君が捨てたのは、自分を信じる心だ」

 

 静かでありながら力を持つ声に克哉は鞭打たれたようにハッと顔を上げた。揺るぎのない眼差しが克哉を射抜く。

 御堂を解放したあの夜。

 大きく輝く月を目にして、自分はあの頃と何にも変わっていないことを思い知らされた。

 大切なものを壊さずにはいられない自分を変えたくて、一度は自分自身を捨てたというのに。結局、自分は何ひとつ成長することなく同じ過ちを犯し続けるのだ。

 だから、もう、大切なものは触れないでおこうと決意した。自分がそれを手にすれば、いずれ必ず壊してしまうだろう。

 そう。克哉は自分が一番信じるに足らない存在であることを身に染みて分かっている。

 だから、御堂の問いかけにも正直な気持ちを答えることが出来ない。自分の気持ちは言葉という形にした時点で、自分は自分の言葉を裏切ってしまうだろう。

 御堂は言葉を継いだ。

 

「私は自分の過去を取り戻す。だから、君も取り戻せ。自分を信じることが出来ない人間が、他人を信じることが出来るわけがないのだ」

 

 言葉が出ずに黙りこんだ。その沈黙は克哉の心の動揺を雄弁に語っていた。

 

「君は私を傷付けたくないと言ったな。だが、君が恐れていることは、むしろ自分が傷つくことではないのか?」

「……あんたがそう言うなら、そうなんだろうな」

 

 どこまでも逃げ口上の自分に嫌気が差す。

 御堂と深くかかわることで、自分の気持ちをかき回されている。自分が御堂を突き放そうとするのは、結局のところ、いずれ失う大切なものに対して自ら予防線を張ろうとしているだけなのではないか。

 御堂は今の自分を信じている。だから、過去を取り戻すことで傷を負うことを恐れない。どこまでも強い男だと思う。

 そんな男だからこそ、克哉は惹かれたのだ。そのしたたかなまでの強靭さに、何ものも寄せ付けない孤高の美しさに。

 御堂を突き放したい気持ちと抱き寄せたい気持ち、苦しさと愛おしさとが複雑に縒りあい形を成さない感情へと変化していく。

 ふたりの間に沈黙が戻った。

 過去に何があったのか憶測でしか知りようのない御堂は、決して一歩も引かないだろう。一方で、過去に何があったかのかその目で見ている克哉もまた、一歩も引く気はなかった。

 ふたりの過去は、御堂にとっては不要な過去だ。現在の克哉も含めて抹消すべき出来事だ。だから、克哉が御堂にして欲しいことはただ一つ。過去を取り戻すことではなく、克哉を忘れることだ。

 そうでないと……。

 克哉はゆっくりと口を開いた。自分の心を言葉に託す。

 

「……あんたが記憶を取り戻したら、きっとあんたは俺を殺したいほど憎むさ」

 

 克哉が一番恐れていることはこれだ。

 自分の本当の気持ちに気付いたからこそ、また、御堂と克哉の別の結末の可能性を垣間見てしまったからこそ、かつての憎悪と嫌悪を再び向けられるのは堪えがたいものになるだろう。

 だが御堂は克哉の恐れを意外な方法であっさりと吹き飛ばした。

 

「それならば、私は今度こそ君の記憶を全部消す。それが三回目の処置だ。それならお互い文句はあるまい」

「……本気で言っているのか?」

「さっきから本気だと言っている」

「なるほどな。あんたなりに考えたわけか」

 

 素直に感心した。御堂なりにありとあらゆる可能性を検討したようだ。

 過去の自分に対して、侮ることも過剰な期待もしていない。それはそうだ、御堂が記憶を消す決心をしたほどの出来事だ。取り戻した過去が、今の自分にとっても耐えきれないほどの負担となる可能性は十分にありうる。それでも、最終的にゼロレベルに戻せる方法がある。だからリスクを負う覚悟が出来たのだろう。

 御堂の冷徹さは自分自身に対しても適用されるらしい。半ば諦めの気持ちで聞いた。

 

「それで、いつ、その薬を使う気だ?」

「今、ここで。君の目の前でだ」

 

 もう何があっても驚くことはないと思ったが、御堂の言葉に目を瞠った。息をすることさえ忘れる。

 そんな克哉に対して御堂の態度は堂々としたものだった。

 

「君には最後まで見届ける義務がある」

「あんたが苦しむさまを見ろと?」

「当然だ。君の話では、君はそれを愉しんでいたのだろう?」

「……」

 

 意地の悪い御堂の口調は、克哉を追い詰めて愉しんでいるのではないかとさえ疑念を抱かせる。

 だが、言葉を失する克哉を前に御堂は厳しい表情を緩めた。

 

「正直、記憶を取り戻す過程で自分がどうなるか自信がない。錯乱して自分を傷付けるかもしれないし、そうでなくても、誰かを傷付けるかもしれない。君にそれを止めて欲しいんだ」

「あんたが誰かを傷付けるとしたら、俺だ。俺はあんたに憎まれていたからな。殺されてもおかしくないほどに」

「だから、君に頼むんだ」

「はい?」

 

 思わず御堂に聞き返した。

 

「間違えて他の誰かを傷付けたら申し訳ないが、君だったら自業自得だと自分で納得できる。結局のところ、重要なのは過去に悩むことではなく、自分自身が納得できるかどうかなんだ」

「自業自得ね……」

 

 御堂の考え方はいっそ清々しく、やはりこの人の強さには敵わないと思い知らされる。御堂らしいしなやかな強さだと思う。過去に囚われるくらいなら過去を捨て、そしてまた、失われた過去からの呪縛を取り去るために過去を取り戻そうとしている。過去は所詮過去に過ぎない。過去よりも今を優先しようとしている。

 克哉は火を点けぬままのタバコをアッシュトレイに押し付けて、御堂にニヤリと笑いかけた。

 

「御堂、それを飲めば地獄の門が開くぞ」

「そうかもしれない」

 

 御堂の態度は悠然としたものだった。

 克哉は軽く肩を竦めた。

 

「最後に希望が残るといいが」

「……佐伯、最後に希望が残るのは『地獄の門』ではなくて『パンドラの箱』だ」

 

 生真面目な表情で返された。

『lasciate ogni speranza, voi ch'entrate』(汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ)

 地獄の門に刻まれた言葉だ。

 不穏な予感しかしないが、御堂のこうと決めたら譲らない頑なさは嫌というほど思い知らされている。

 克哉は御堂の頼みを断ることも出来た。

 だが、そうすれば、御堂は克哉の他に誰に頼むこともなく、たった一人で記憶を取り戻そうとするだろう。

 だからこそ、克哉には断るという選択肢はなかった。

 もう、御堂の覚悟はできている。後は自分だけだ。

 ふっ、と笑って緊張を緩めた。

 

「分かりましたよ。せいぜいあなたに殺されないように気を付けます」

「そうだな。私も殺人犯にはなりたくないからな」

 

 御堂がほんの少しだけ素顔を覗かせて笑った。

 

 

 

 

 そうと決まれば準備は早かった。記憶が全て蘇って定着するには二、三日かかるとのことだそうで、突然街中で記憶が戻っても困るので、その間克哉の部屋で過ごすこととした。克哉の部屋の冷蔵庫や棚の中身を確認し、最悪三日間部屋に引きこもるだけの食料品が保存されていることを確認する。万一のことを考えて、包丁などの刃物類は、御堂に見つからないところに隠した。

 そうして一通り準備ができたところで、御堂は抱えていた鞄から取り出したものを克哉の目の前に置いた。

 

「それは?」

「手錠だ」

 

 それは見て分かった。手首を戒める二つの手錠の間には1メートルほどの鎖が付いている。御堂は無意識だろうが、その手錠はかつて克哉が御堂を監禁するときに用いていた手錠と同じ造りだ。克哉は眉を顰めた。

 

「そんなものをどうする気だ?」

「君が私の傍から離れないように、これで君の手と私の手を繋がしてもらう」

「悪趣味だな」

「君ほどではないさ。さあ、手を出せ」

 

 もう克哉は御堂の元から逃げ出す気はなかったし、それを御堂もちゃんと理解していると思ったが、そこはきちんと保険をかけないと気が済まない性分らしい。

 体よく断る理由もなかったので、克哉は大人しく腕時計を外して左手を差しだした。そこにかちりと手錠が嵌る。そうして、御堂が自分の右手首にもう片方の手錠をはめた。

 

「鍵は?」

「この箱に入れる」

 

 御堂が続けて鞄から取り出したのはシンプルな金属製の箱だった。不思議なのは錠がかかる部分に鍵穴がない。それに御堂が手錠の鍵を収納し、蓋を閉めた。ピピっと電子音がして、箱のロックがかかる硬質な金属音がした。

 

「スマートロックだ。三日後に開く設定にしてある。それまでの間はどうあっても開かない」

「随分と厳重なんだな」

「今の君も過去の私も残念ながら信用に足らないからな」

「あなたの準備の良さには感嘆しますよ」

 

 御堂は、克哉が御堂の要求を断るという事態は想定していなかったかのごとく、用意周到に必要物品が準備していた。

 ダイニングテーブルを挟んで、向かい合わせに座る克哉と御堂。克哉の右手と御堂の左手は手錠でつながれている。

 

「では、始めるか」

「……水を用意する」

「佐伯、待て。私も立つ」

 

 立ち上がろうとした克哉に引っ張られて、御堂も慌てて立ち上がった。ふたりの手がつながれている状況は、密着しているならともかく、日常生活を送る上では不便極まりない。お互い、1メートルしか離れられないのだ。

 とはいえ、今更そのことに気付いても鍵はもう取り出せない。

 御堂が錠剤を口の中に放り込んでコップに口をつけて水で流し込む。形の良い喉が上下するのを見守った。

 御堂の話が本当なら、これから克哉と御堂のリセットされたはずの過去が姿を現すのだ。

 慎重に見守る克哉の前で御堂が台所のシンクにグラスを置いた。

 首を傾げながら、克哉に顔を向けた。

 

「別に、なんともないな」

 

 そう言った次の瞬間だった。

 御堂が目を大きく瞬かせた。そして、こめかみに手を伸ばすと頭を押さえだした。立っていられないほどの痛みなのかその場にしゃがみ込む。まるで激しい頭痛に襲われているかのようだ。

 屈みこんで御堂の両肩に手をかけた。

 

「どうした?」

「く……っ」

「御堂!? おい…っ!」

「私に、触るな……っ!!」

 

 御堂に触れていた手は御堂の手によって鋭く払いのけられた。

 

「御堂……」

 

 自分に向けられた視線の強さにこくりと唾を呑み込んだ。

 その眼差しは今までの御堂とは打って変わった激しさだった。いや、むしろ懐かしさを感じた。なぜなら、かつての自分はこの視線を何度も浴びせかけられていたからだ。

 地獄の門が開く。

 その瞬間をまさに、克哉は目の当たりにした。

 御堂の手がキッチンの隅にあったビール瓶を握る。それを一切の躊躇いのない強さで克哉に振り下ろした。咄嗟に顔を背けた。

 後頭部への激しい衝撃とともに瓶の破片が降り注いだ。同時に、意識も砕け散った。

​(8)

 ぬるく暗い水をくぐり抜けていくような感覚に御堂は身震いをした。息苦しく、酸素を求めて呼吸を荒げていたら、両肩を掴まれて揺さぶられた。

 錠剤を内服してすぐに、込み上げてくる吐き気と頭痛に立っていられなくなった。その場にしゃがみこんで必死に耐えようとした。

 意識が濁流に呑み込まれていくような体感に激しいめまいがした。だが、すぐにそれも引いてきた。

 頭に薄靄がかかっているようだ。

 うっすらと目を開けると、揺らぐ視界の中に自分を覗き込む男の顔が見えた。その男の顔に見覚えがあった。

 最初に思い出したのは、痺れた身体と背中に押し付けられる革のソファの感触。そして、身体を異物で拓かれていく苦痛、自分を睥睨する嗜虐に満ちた男の眼差し。目の前の男と同じ顔が脳内で薄く笑った。

 耳元で声が響く。

 

『MGNきってのリートともあろう方が、男の俺に組み敷かれて感じているなんてどんな気持ちですか? イかせてあげますよ。最高に屈辱的な形で』

 

 全力疾走したときのように心臓が乱れ打ちだした。恐怖と怒り、苦痛と快楽に頭が激しく軋む。壊されようとする自分を守らねばと、咄嗟の行動に出た。

 男が自分に伸ばした手を弾かれたように振り払った。男から逃げ出そうとして、手が引っ張られ、手首がつながれていることに気付いた。手錠だ。

 この男が自分を拘束したのだ。

 混乱した頭ではそうとしか考えられなかった。拘束されていない方の左手をやみくもに伸ばせば、指先に硬い感触を振れた。ビール瓶の空き瓶だ。それを握りしめて振り上げ、渾身の力で振り下ろした。

 男の目が大きく見開き、反射的に首をねじって自分に襲い来るビール瓶から顔を庇った。ガシャンとガラスが砕け散る音がする。続いて、男が膝をつき、がくりと崩れていった。その男の意識を失った顔を見て、はっきりと思い出した。

 この男は、佐伯克哉。

 殺したいほど憎い男だ。

 

 

 

 

「ぐ……」

 

 床に転がっていた低く呻いて克哉が意識を取り戻した。ぐらつく頭を振りながら周囲を見渡した。ゆっくりと振られた視線が御堂を視野に入れて、止まった。

 

「御堂……?」

 

 投げかけられた声を露骨に無視した。

 御堂は意識を失った克哉を引きずってリビングまで移動していた。どうにか手錠を外そうと、使える道具がないか探していたが、見覚えのない部屋ではどこに何があるのかもわからず、そしてまた、意識を失った克哉に利き手を繋がれているのは不便極まりなかった。これでは自由に動けない。

 克哉が肘をついて、のたりと上体を起こした。

 頭の傷が痛むのだろう。そこに手をやろうとして、ようやく自分の状況に気が付いたらしい。床に腰をついた状態で、拘束されて不自由になった両手をしげしげと見つめている。

 わずかに意識を失っていた間に、御堂は部屋のコードをまとめていた結束バンドを使って、克哉の両手の親指を重ねて根元で戒めていた。指錠だ。たったこれだけで両手が完全に使えなくなる。

 克哉の視線が両手から外されてふたたび御堂へと向けられた。戒められた両手の親指を顔の高さに掲げながら、御堂に向かって声を発した。

 

「御堂さん、これは何ですか?」

「私に口を利くな」

 

 苛立たし気に舌打ちをすると、友好的な雰囲気が微塵もないことに気付いたのか、克哉もまた声を低めた。

 

「御堂……これを外せ」

「断る」

 

 にべもない態度で拒絶した。憎悪を燃やした目で睨み付けると克哉は気圧されたかのように開きかけた口を閉じた。

 本当はこの男と同じ部屋の空気を一秒たりとも吸いたくはないのだ。

 腹立ち紛れに立ち上がろうとして右手が後ろに引かれた。克哉の手首と自分の手首がつながれていることを思い知らされる。

 力任せに右手を引っ張ると、指錠で両手ごと引っ張られる形になった克哉が前のめりになった。バランスを崩しかけて呻く。

 

「いきなり引っ張るな」

「佐伯、この鍵はどこにある?」

「あなたが、あの箱に仕舞いましたよ」

 

 克哉の目線を向けた先に目を遣ると、ダイニングテーブルに置かれた金属製の箱が見えた。その中にこの手錠の鍵が入っているらしい。

 だが、それを手に取るためにはダイニングまで歩かねばならず、そのためには、御堂の目と鼻の先で、指に食い込む結束バンドをどうにか外そうと格闘している克哉を連れていかなくてはいけない。

 仕方なしに鎖を軽く引いた。御堂のほうに顔を向けた克哉に、顎で、来い、と指示すると、克哉はよろめきながら渋々と立ち上がった。

 御堂に向けて一歩踏み出そうとする克哉をけん制する。

 

「私に一切近付くな」

「無理を言わないでください」

 

 克哉が必要以上に近づかないように視線で威嚇しながらダイニングテーブルに向かい、テーブルの上の箱を手に取って眺めた。克哉は御堂が自分でここに手錠の鍵を封じたと言うが、記憶にない箱だ。鍵穴もなく、どうやって開くかも分からない。

 

「この箱の鍵は?」

「だから、俺は知りません。これはスマートボックスで、三日経たないと開かないと言っていましたよ、……あなたが」

「スマートボックスか」

 

 スマートボックスというものは知っていた。特定の端末を用いて無線通信で鍵の開け閉めをする。いつ開錠するか日時の設定も出来る。となれば、本当に三日経たないと開かないのかもしれない。

 スマートボックスを力任せにダイニングテーブルに叩き付けた。中でちゃりんと鍵がぶつかる音がする。

 

「ふざけるなっ! 私をこんなところに閉じ込めてどうする気だ!」

「混乱して思い出せていないと思いますが、ここは俺の部屋で、ここに押し掛けてきたのはあなたで、手錠で俺をつないだのもあなたで、俺をこうして拘束しているのもあなたです」

「黙れっ!!」

 

 声を荒げると、克哉が押し黙った。身体の横に降ろしていた手をきつく握りしめて、感情の昂りをどうにか堪えようとする。

 克哉は手錠の鎖が許す限り御堂から距離を取っている。克哉もまた御堂を警戒しているようだ。

 務めて感情を抑えようとしたが、この男の顔を見るたびに、激しい憎悪が込み上げてくる。

 克哉が慎重に御堂の表情を探りながら、極力刺激をしないように静かな声で話しかけてきた。

 

「御堂さん、あなたは今過去の記憶を思い出している最中だ。俺はあなたに、あなたを見守るように頼まれた。あなたに危害を与える気はない」

「貴様のことなど信用できるか! 卑怯な手段しか使えない貴様が偉そうに!」

「まあ、そうなるでしょうね」

 

 激昂する御堂を前に、克哉は表情を崩さない。

 自ら冷静にふるまうことで御堂をなだめようとしているのだろう。

 克哉が「落ち着いて聞いてくれ」と御堂の顔色を窺いながら、今に至るまでの状況を簡単に説明した。それを半信半疑で聞き流した。

 どうやら自分は失った記憶を取り戻している最中らしい。

 それは納得できた。

 目の前の出来事がどこか浮ついていて現実感が乏しいように思えるはそのせいだろう。まるで夢を見ているように、御堂の中で過去と現在と未来が混在している。

 そして、それを順序良く並べ直して整合性を取っている過程にいるようだ。

 唾棄すべき相手と手錠で繋がれているというのも、未来の自分がそうしたらしい。だが、何故自分が克哉と共に、過去を取り戻そうとしたのか、今の御堂には皆目見当が付かなかった。試しに克哉に訊いてみても「さあ……」と答えを濁されるばかりだ。

 結局、時間が経ってすべての記憶が戻るのを待つしかないのだろうか。

 ただ、過去の記憶と言っても、今の自分がどこまで取り戻しているのかさえ分からない。思い返すだけでも気分が悪くなるような出来事ばかりで、この男に与えられた屈辱を思うと反吐が出る。そして、そんな記憶があとどれだけ蘇ってくるのかさえ分からない。

 険しい顔をし続ける御堂に、克哉がひとつ提案をしてきた。

 

「やはりこの状態では続行不能だ。……この部屋を出よう。そうすればこの手錠を外す方法がある」

「誰が貴様の甘言などに聞くか」

 

 この男と両手が繋がれている状態を人目にさらすなど真っ平だ。

 克哉とて、手錠を外す方法について確信があるはずないのだ。

 克哉はスマートボックスの開け方を知らず、それを知っているのは御堂だと言うが、今の自分にとって、それは“未来の記憶”だ。何をどう操作すれば開錠することが出来るのか、全く思い出せない。つまり、克哉はただ、御堂優位のこの状況に危機感を覚えて、そこから逃れようとしているだけに過ぎない。

 それに、この男が口にする言葉は何一つ信用できない。外に出た瞬間に何かしらの罠が待ち構えているのかもしれないのだ。

 克哉がゆっくりと一歩、御堂に近づいた。

 その時、ぐらりと視界が歪んだ。頭の芯が揺さぶられるような不快感に顔を顰めた。

 

『あんたはただ、俺にみっともなく犯られるだけの存在に過ぎない』

 

 目の前にかつての光景が広がった。口角を冷たく吊り上げて佐伯が嗤う。その手が自分に向けて伸ばされた。

 

「御堂さん?」

「私に触れるなっ!!」

「よせっ!」

 

 怒りが滾るままに拳を振り上げると克哉の眸に一瞬怯えが走った。不自由な両手を顔の前に持ってきて自信を庇おうとする。

 克哉が自分に怯む仕草を目にして、ハッと気付いた。今までとは立場が逆転している。

 自分こそ克哉に怯えていたのだ。それが、こうして同じ部屋に閉じ込められているにもかかわらず、御堂が場の支配権を握っている。

 目の前の克哉は自分にとっての脅威になり得ない。そう理解すると同時に、腑に落ちた。

 何故、自分が過去の記憶を取り戻す決意をして、それを実行したのか。

 それは過去を克服するためだ。そのための機会を、今、この手に得たのだ。すべての元凶である佐伯克哉をこうして目の前にして。

 だから、容赦することなどないのだ。自分が受けた屈辱をそのまま返してやればいい。

 凍てついた眼差しを克哉に向けた。

 

「暴力と脅迫で私からすべてを奪った貴様が、よくものうのうと私の目の前に現れたものだな」

「御堂……」

「当然、報いを受ける覚悟は出来ているんだろう? 無事にこの部屋を出られると思うなよ、佐伯」

 

 克哉の目が見開かれ、喉がひくりと上下する。

 その姿を見て腹の底から可笑しさが込み上げてきた。

 自分を散々痛めつけた男が、自分を前に恐怖に怯えている。

 その時だった。ジャラ、と鎖が揺れた。次の瞬間、身体が大きな衝撃を受けて傾いだ。

 克哉に体当たりされたのだ。

 バランスを崩した身体の足を払われる。倒れ込んだところに克哉が馬乗りになって体重をかけて御堂の動きを封じた。そして不自由な両手を御堂の首に回した。

 

「何を……っ!」

「悪く思うな、御堂。あんたと俺を守るためだ。今のあんたは危険だ」

「放せっ!」

「あんたをこの部屋から連れ出す」

「させるか……っ!」

 

 克哉の手が御堂の首を圧迫する。御堂を締めて落とそうとしていることに気付いて、咄嗟に手錠で繋がれている右手で、手錠の鎖を掴んで大きく振りかぶった。鎖に引っ張られた克哉がつんのめる。体幹を大きく捩じって克哉を身体の上から振り落とすと、渾身の力で足を蹴り上げた。

 

「ぐあっ!」

 

 足先が鳩尾を捉え、克哉が床の上にもんどりうった。

 ゆっくりと立ち上がり、床に倒れた克哉の腹を踏みつける。その足に体重をかけた。「ぐ……っ」と呻く声が足の裏に響いた。

 克哉の顔が苦痛と屈辱に歪む。その顔に強い既視感があった。そうだ、自分の顔だ。克哉に組み伏せられて恥辱を味合わされた時の自分がそこにいた。

 

『くくっ、いい格好ですね。御堂さん』

 

 頭の中に響く嬲る口調をそのままなぞった。

 

「いい格好だな、佐伯」

「ぅう……っ」

 

 締まった腹筋が苦しげに波打つ。それを喜悦に震えながら、体重をかけて足を沈ませていった。

 苦悶する克哉の表情が嗜虐心を煽り、歪んだ快楽が脳を浸していく。

 そう。

 克哉は御堂を虐げることで、この愉悦を味わっていたのだ。

 ひとりの人間の尊厳も立場もなにもかも虫けらのように扱って、支配する快楽。

 かつて、克哉に虐げられた場面が脳内にフラッシュバックし、ふたたび声が響く

 

『あんたの運命は、俺がすべて握ってるんだ』

「お前の運命は、私がすべて握ってるんだ」

 

 薄い笑みを口元に浮かべた。克哉から見た自分は、さぞ、嗜虐に満ちた表情を浮かべていることだろう。

 

「はは……っ、ざまあみろ、佐伯」

 

 自分の前で這いつくばる克哉を目にして陶酔するほどの愉悦に包まれた。腹を抱えて嗤った。哄笑が闇に包まれた部屋に響き渡った。

 

 

 

 

 日が昇り、また沈む。

 刻一刻と時が経つごとに、御堂と克哉の立場の差はますます開いていった。克哉は両手を使えず、圧倒的に不利な立場にある。

 御堂は手錠の鍵が手に入るまでじっくりと待つことにした。幸い、この部屋には三日間籠れるだけの水も食料もある。

 だが、この部屋のすべてを所有するのは御堂で、それを克哉と仲良く分ける気などさらさらなかった。

 この男は御堂を追いつめて苦しむ様を見て嗤っていたのだ。そして、挙句、御堂の部屋の中に監禁した。

 記憶はそこまで蘇っていた。

 胸の裡には憎しみと怒りが滾っている。

 暗い部屋の中で、拘束されて食事も水も満足に与えられず放置された苦痛がどれほどのものだったか、この男も同じだけ苦しめばいい。

 とはいえ、御堂と克哉が繋がれている以上、克哉が動けなくなったら困るのは御堂だ。手錠の鍵を手に入れるまでは、克哉の気力と体力を慎重に削り取っていくつもりだった。

 克哉は当初みたいに御堂に襲い掛かったりすることはなくなった。御堂をこれ以上刺激するのは得策ではないと考えているのだろうか。しかし、どちらにしろ克哉にとっては消耗戦で、顔には疲労の色が濃くに滲み出ている。

 最低限の食事と水しか与えられず、居場所は常に硬い床の上で、気まぐれな御堂にたたき起こされて満足な睡眠さえもとれない。

 三日目になり、克哉がひどく憔悴していくのを目にしても、何の憐憫の情も湧かなかった。

 この男はそれだけのことをしたのだ。当然の報いだ。

 克哉に嬲られ続けた日々の中、何度この男を脳裏で殺したことだろう。だが、自分は今、この男に復讐する絶好のチャンスを手にしたのだ。

 もうすぐ手錠の鍵が手に入る。そうなれば、この男から解放される。克哉の処遇はそれまでに決めればいい。それまでは自分が傷つけられた分だけ、この男を傷つければいいのだ。

 

「これが欲しいか?」

 

 御堂は克哉の前で冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を半分ほど飲みほした。極度に渇ききった克哉が物欲しげな視線を向ける。

 

「私の前で這いつくばって、お願いですから水をください、と頼むなら、これをやってもいい」

 

 克哉に向ける目を冷酷に眇めた。

 この男は御堂に鞭を振り下ろしながら、同じことを言い放ったのだ。そして克哉に屈することを拒絶した御堂を、克哉は気絶するまで鞭打った。

 克哉がどんな態度に出るのか冷ややかに見守っていると、克哉は御堂の侮蔑の言葉に表情を変えることなく、御堂の前に両膝をついた。そして頭を下げた。

 

「お願いですから、水をください」

 

 克哉はあっさりと懇願の言葉を口にした。

 

「ほら、飲め」

 

 いささか拍子抜けした気持ちで、克哉の前でペットボトルを傾けた。こぽこぽと中の水が零れ落ち、溜まりを作りながら板張りの床に広がっていく。

 克哉は微かに眉を顰めたが、ひとつ息を吐いて顔を床に伏せると、獣のように床の上の水を啜りだした。

 その無様な様を嘲笑った。

 

「お前にプライドはないのか?」

 

 克哉が床から口を離してレンズ越しに御堂を見上げた。水で潤した口を開く。

 

「俺はあんたのプライドをずたずたに踏みにじった。あんたのプライドに比べれば、俺のプライドなんてちっぽけなものだが、それでもよければ、あんたは好きにする権利がある。気が済むまで好きにしろ」

「贖罪か?」

「こういうプレイだと思えば、興奮する」

「口の減らない男だ。こんな程度で許されると思うなよ」

「……」

 

 黙り込んだ克哉が御堂から目を逸らした。

 この男に奪われた矜持や地位、そして平穏な生活、破壊されたそれと同等以上のものを克哉から奪うつもりだった。

 克哉だって御堂に言ったのだ。一度踏みつけられる側の人間になれ、と。そう言い放った克哉こそ、踏みつけられるべきなのだ。

 そして、克哉もそれを覚悟しているのか、御堂に対して文句の一つも付けることなく唯々諾々と従っている。だが、それで御堂の気が鎮まるとでも思っているのだろうか。

 不意に、静寂を破って携帯の着信を知らせる電子音のメロディーが鳴り出した。

 克哉がハッと顔を上げた。

 音を頼りに克哉の鞄から携帯を取り出した。表示を見れば、発信元は藤田だ。

 耳障りな音に着信を切ろうとして思い直した。克哉に向けて携帯の画面を見せた。

 

「佐伯、藤田からだぞ」

「藤田?」

「助けでも求めてみるか?」

 

 この男がどんな行動に出るのか試してみたくなり、通話のボタンを押して、スピーカーモードにすると克哉の前に放った。

 携帯電話から藤田のはつらつとした声が響く。

 

『もしもし、佐伯さんですか? 先日のコンサルティングの件ですが、クライアントが佐伯社長に直接お礼を言いたいって仰っていたのですが……』

「藤田、今は取込み中だ。後でかけ直すから、切ってくれ」

『はい?』

「いいから、切れ!」

 

 克哉は藤田の言葉を無理やり遮るように声を上げた。藤田が慌てた様子で『失礼しました』と謝ると電話を切った。不通音がなる。

 二人の会話を口を挟まずに聞き終えて、克哉の前から携帯を拾い上げると、電源を切って克哉の鞄の中に無造作に放り込んだ。

 この藤田からの着信は、監禁された時にかかってきた大隈からの留守電の内容を鮮明に思い出させた。御堂を監禁して恥辱の限りを尽くしながら、この男は御堂が築き上げてきた業績を何もかも掠め取っていった。

 くちびるを歪めた。

 

「佐伯社長、か」

「……」

「貴様は今、社長なのか。そして私の部下は、今やお前についているという訳か」

「……独立したんだ」

「私から奪った地位では満足できなかったか」

「俺はあんたの地位が欲しかったわけじゃない」

「地位が目的でないのなら、私が単に目障りで憎かったというわけか? だから私の人生を無茶苦茶にしようとした。そういうことか」

「違う!」

 

 荒げた声が御堂を否定する。ここにきて克哉は初めて感情を露わにした。

 

「俺が望んだのはそんなものじゃない」

「ではなんだと言うのだ。卑劣な犯罪行為までして。私を貶めること自体が目的だったのだろう!」

「……あんたは、俺に一切屈しなかった。だから、余計にあんたを従わせたかった。無理やりにでも引きずり落として従わせれば、俺のところに堕ちてくると思ったんだ」

「ふざけるなっ!!」

 

 克哉の勝手な言い分に、憤怒で脳が沸騰した。怒りが滾るままに、克哉の顔を殴りつけていた。利き手を手錠でつながれているため、左の拳を叩きつける。

 克哉は御堂の拳を避けることも出来ずに、頭がぶんと左側に曲がった。衝撃に体を折り曲げながら一歩、後退る。ふたりをつなぐ鎖がピンと張った。

 口の中を切ったのだろう。克哉の唇の端から血液混じりの唾液が滴った。

 

「お前のせいで、私はどれほどの屈辱と恥辱を受けたと思う!」

「……」

「私を踏みにじり、私のすべてを、人間としての尊厳さえも奪い去ったお前が、よくものうのうと!」

 

 どうあっても、この怒りと憎しみは治まらなかった。

 克哉に受けた仕打ちは過去のものであって現在進行形ではない。それは頭では理解している。しかし、過ぎ去った出来事だから許せるかというと、それは大きな間違いだ。改めて振り返ってみても、この男が自分にしたことは、到底許せるものではなかった。

 憎悪に唆されるままに、手首の鎖を強く引いた。前によろめいた克哉の襟を掴むと床に引き倒した。

 克哉に馬乗りになりその首に両手をかけた。じゃらりと手錠の鎖が音を鳴らす。

 御堂を見上げるレンズ越しの眸が、みるみる恐怖に染め上げられていった。

 

「貴様に何の権利があって、私を蹂躙したと言うのだ! 言ってみろ!!」

「ぐ……っ!」

 

 言ってみろ、と言いつつも、克哉の喉仏を潰さんばかりに首に回した指に体重をかけた。克哉の顔が苦痛に歪み、口が酸欠の魚のように大きく開く。反射的に反った首に、さらに指を食い込ませた。

 手首に克哉の指がかかった。冷たい指が震えながら、御堂の手を引き剥がそうとするが、弱り切ったその手は何の抵抗にもならなかった。

 狭まった気道がヒューヒューと荒い音を立てる。克哉の喉の奥から悲鳴ともつかないくぐもった声が漏れた。

 

「ぐぅ、ああ……っ!」

「当然の報いだ」

 

 克哉の顔がうっ血し、そして眸の焦点が薄れていくのを凶悪な興奮に包まれながら眺めた。

 首を絞め続ける御堂の手から、克哉の手が離れた。その手は、揺れ惑いながらも必死に御堂へと伸ばされて、御堂の頬に触れた。体温を失った手が、御堂の頬の輪郭をたどたどしくなぞっていく。

 戦慄く唇が何かの形を作った。言葉を紡ごうとしている。

 今更命乞いでもする気なのだろうか。それくらい聞いてやってもいいだろうと、手の力を緩めた。

 微かな言葉が空気を揺らした。

 

「悪かった……」

「……ッ」

 

 最後の力を振り絞っていた克哉の手が御堂の頬から外れて、床に落ちた。克哉の眸から光が消えて、瞼が力なく閉じられる。

 それはほんのわずかに御堂の鼓膜を震わせただけの一言だった。

 だが、御堂は動けなくなった。

 まるで時間が止まってしまったかのように全ての感覚が遠ざかる。そして、過去のあの日へと急激に引き戻されていく。

 夜の闇の向こう側に見えた、仄かな光が御堂の前に姿を現わそうとしていた。

 

『悪かった……』

 

 克哉の声が二重になって耳の奥に響いた。

 一度も姿を現すことのなかった、失われた記憶が今、蘇ろうとしていた。

 心の奥底で眠っていたあの夜の出来事の記憶が綻び、深い霧の中で輝きだす。

 何かに抱きしめられる感覚。それは硬く長い腕で、自分よりもあたたかな体温にすっぽりと包まれた。鼻腔をタバコの苦みが混ざったフレグランスがくすぐる。

 湿った吐息が耳元にかかった。

 

『俺が見たかったのは、こんなあんたの顔じゃない』

 

 はっと自分の下にある克哉の顔を眺めた。血の気を失った蒼白な顔。

 自分はこんな克哉を望んでいたのだろうか。

 克哉の首にかけていた指がしどけなく解けた。力が入りすぎていた指先が細かく痙攣する。

 

『俺とあんたの間にあったことの全てをリセットするんだ。忘れろ……。俺のことも、なにもかも』

 

 思い出すこともなく忘れ去ってしまっていた過去の出来事が、ひとつひとつ鮮やかに再生されていく。

 

『もっと早く、あんたのことが好きだって、気付けばよかった』

 

 その声は確かに克哉の声だった。

 電撃に打たれたような衝撃に、呼吸をすることさえ忘れた。

 

――そんな……。

 

 残酷なほどの沈黙が部屋を支配していく。

 ぽたりと、克哉の顔に水滴が落ちた。そして、また水滴が克哉の顔を濡らす。次々に落ちていく雫、それが自分の目から溢れたものであると、しばしの間気付くことが出来なかった。

 

「佐伯……っ!!」

 

 覆いかぶさるように克哉の頭を抱えた。ぐったりと力の入らない頭は重く、御堂の手から零れ落ちそうになる。瞼の隙間から見える眸は光を失い、呼吸はいまにも止まってしまいそうな、か細いものだった。人形を抱いているみたいに筋肉の緊張が途絶えている

 

「佐伯、目を覚ませっ! 私は、君をこんな風にしたかったんじゃない!」

 

 今この瞬間までのすべての記憶がつながった。そして、すべてを理解した。

 自分がしでかした結果を目の前にして、恐怖が足元に迫りくる。

 激しい後悔と苦痛。胸が灼けつくほどに痛み、息をすることさえも苦しかった。

 そして、この光景にさえ、見覚えがあった。

 今自分が見ている光景は、あの日克哉が目にした光景だ。

 これは、あの日、壊れかけた自分を目の前にして、呆然と立ち尽くす克哉が感じた衝撃だ。それと同じものを、今この身の内に抱えている。

 追体験したのは自分の過去だけではなかった。克哉の過去も今まさに追体験している。

 堰を切ったように涙が止まらなくなる。いろんな感情が混ざり合って、境目をなくし、激しい波となって衝き上げた。

 克哉の顔を挟み、紫色になったくちびるにくちびるを強く押し付けた。一生懸命空気を押し込み、克哉に酸素を送り込む。ともすれば嗚咽が漏れそうになるのを懸命に殺し、ひたすら克哉をこっちの世界に引き戻そうとした。

 自身の体勢を保てずに、克哉の身体の上に身体を重ねる。シャツの生地一枚を隔てて触れ合う肌はまだ体温を残している。

 

「佐伯……死ぬなっ!」

 

 嗚咽を堪えながら、克哉に呼びかけ続けていると、とくん、と微かな振動が重なり合った胸の下に響いた。

 克哉の瞼が浅く震えてうっすらと開く、克哉のくちびるが震えた。

 

「佐伯……!?」

「もう少し、あんたの泣く姿を見ていたかったが……」

「……っ!」

 

 涙でぶれた視界の中で、克哉がニヤリと笑った。

 克哉が御堂の背に手を伸ばした。自分が確かに生きていることを分からせるように、そしてまた御堂をなだめるように御堂の背をポンポンと軽く叩いた。

 こんな時まで軽口をたたく克哉が憎たらしい。それでも、それ以上に胸に迫る想いに克哉のくちびるにくちびるを押し付けた。

 揺られながら惑いながらも、心を占める一つの感情に衝き動かされるままに、克哉のくちびるを深く塞いだ。薄く開いたくちびるから舌を滑り込ませると、柔らかく搦めとられる。克哉の乾いた口内をたっぷりと舐めて潤すと、ほんのわずかにキスを解いた。

 

「君は、あの時に、私に告白していたんだな」

「だから、俺の答えはもう言った、って言ったでしょう」

「……ずるいぞ」

 

 くくっ、と克哉は喉を鳴らして笑うと、御堂の目の前に両手を掲げた。

 

「御堂さん、いい加減、これを外してくれますか?」

「そうだな。……すまなかった」

 

 克哉の親指を拘束していた結束バンドを外してやると、克哉が指の動きを確かめるように手を握っては開いた。後はふたりの手首を繋ぐ鎖だけだ。それもあと少しで鍵が手に入るだろう。

 みるみるうちに生気を取り戻す克哉を目にして、安堵に胸を撫で下ろした。

 一度捨て去った過去を蘇らせるという無謀な賭け。自分は、ギリギリのところで賭けに勝ったのだ。自分一人では無理だっただろう。克哉がいたからこそ、一度はリセットした過去を取り戻し、そして、乗り越えることができた。

 薄暗い部屋、束の間ふたりで目を見合わせて、笑い合った。決して消え去ることはないと思っていたどす黒い感情はどこかに霧散してしまい、胸の裡を占めるのは、目の前の男に対する愛おしさだけだ。

 身体の下で克哉が身体をもぞもぞと動かした。

 

「御堂さん、もうそろそろ退いてくれませんか? このままだと変な気分になる」

 

 そう言われて気が付いた。克哉の上に圧しかかったままだった。

「すまない」と慌てて身体をずらそうとしたところで、互いの股間がぶつかりあった。そこの思わぬ熱さと硬さを布越しに感じて、ぎくりと動きが止まる。克哉が言い訳めいた口調で付け足した。

 

「あんたと三日間ずっと傍に居たのに、何も手出しできなかったからな」

「まったく君は……。たくましいな」

 

 心底呆れて言いながら、身体を退こうとしたところで、背中に回された克哉の手に引き留められた。ぐいと身体を引き寄せられる。上体を起こした克哉が、御堂の耳元で掠れた声で囁いた。

 

「駄目だ、治まりそうにない」

「君は、……本当に。……仕方ないな」

 

 甘さを感じさせる声を耳に注がれて、息が詰まるほどの痺れが背筋を走った。押し付けられる股間の昂りから克哉の露骨な劣情を感じ取る。促されるままに再びくちびるを重ねると、今度は克哉から挿しこまれた舌で舌をきつく捏ねられる。くちゅくちゅと合わせた口の間で濡れた音が立つほどに、自分の中の欲情が燃え上がった。

 克哉の手が御堂のベルトにかかり、バックルを外した。御堂もまた克哉のシャツのボタンをひとつひとつ外していく。時々手錠の鎖に邪魔されながらも相手の服を脱がし合った。克哉の下着の前を下ろして、張り詰めていたペニスを解放する。

 頭を下げて、克哉の股間に顔を伏せた。一気に喉の奥深くまで克哉のペニスを含んだ。亀頭を喉の粘膜で擦りあげ、浮き立つ脈を舌先でなぞると克哉が感じ入ったような吐息を吐く。その反応が嬉しくて、懸命にしゃぶりながら、自分の下着の間に手を差し入れた。

 御堂のペニスも、布越しでもそうと分かるほどに張りつめていて、それを自身で軽く扱いただけで、とぷりと先走りが溢れだす。たっぷりと指を濡らして、双丘の奥へと滑らせた。ヒクつく自分のアヌスをたっぷりと濡らして、指を含ませる。

 口いっぱいに克哉をほおばりながら、アヌスを解していった。

 克哉がこくりと唾を呑み込んだ。御堂が下着の中で何をしているのか、克哉にまるわかりだろう。その視線に焼かれながら、自分のアヌスを慣らす指を増やしていった。

 克哉の欲望を口内の粘膜で感じるうちに、自分の身体の深いところも疼いている。完全に勃ちきった克哉のペニスをくちびるから引き抜くと、自分のズボンを下着ごと脱ぎ去った。ぶるりと濡れそぼったペニスが弾み出て、克哉の前に晒された。羞恥に顔が赤くなるが、克哉の腰に跨って膝立ちし、克哉のペニスに手を添えた。そうして位置を調整し、ゆっくりと腰を落としていく。

 アヌスに押し付けられた大きな亀頭が、御堂の身体をこじ開けていく。あまりの圧迫感に腰が逃げそうになるのを意志の力で抑えつけて、どうにか張り出したエラまで含んだ。

 

「く……っ、ん…っ」

「御堂、無理をするなっ」

「君こそ…無理をするなよ……ぁ、ああっ」

 

 克哉が快楽を堪えようと眉根をきつく寄せた。その顔を見るだけで、とろけるような快楽の炎が脳を炙る。

 全身の感度が研ぎ澄まされて、感極まった息を吐いた瞬間、自重で腰が落ちてずずっと克哉を根元まで呑み込んだ。

 

「ああああっ!」

「ん……っ」

 

 身体の中心を太い楔で穿たれて動けなくなった。限界まで広げられた狭い内腔は、脈打つ克哉のペニスをきりきりと締め上げている。苦しさと気持ちよさが一体になり頭がくらくらしてきた。

 

「御堂、動けるか?」

「無理……だ」

 

 騎乗位で自分が動くことで、弱った克哉を労わろうとしたが、あまりの圧倒的な体感に動くことさえ出来ない。

 克哉が上半身をしっかりと起こすと、手錠で繋がった御堂の手を握りしめてきた。

 

「じゃあ、俺が動く」

「ふ、あ、あああっ」

 

 軽く腰を揺すられただけで、繋がっているところからあまたの痺れが駆け上がり、身体が戦慄いた。深く受け入れながらも、さらに奥へと引き込むように腰が揺れる。握りしめた克哉の手に右手の指を強く絡ませて、左手を克哉の背に回し、しっかりと身体を引き寄せた。対面坐位の体勢になり、克哉が更に激しく突き上げてきた。

 克哉の右手が御堂のペニスを握りこんだ。長い指が絡みつき、根元から筋を辿り、先端の鈴口を指の腹で強く擦りあげられる。

 

「んあっ、ダメ……、イく……っ」

「何度でもイけばいい」

「嫌だ、君も、一緒に……っ」

 

 嫌々、と首を振ると、克哉が吐息で笑った。

 

「じゃあ、一緒に」

「く……、は、ああっ」

 

 

 強烈な絶頂感を堪えようと、ぎゅっと克哉の手の甲に爪を立てると、克哉がそれ以上の強さで握り返してきた。自然とくちびるが合わさり、舌と唾液を絡ませながら、克哉を淫らに乞う。

 克哉のピッチが小刻みとなり、極みがすぐそこまで差し迫っていることが分かった。

 喘ぐ声が止まらない。夢中になって腰を振り立てた。羞恥も理性も何もかもが吹っ飛んで、ただ目の前の快楽を貪る。激しく擦り合う粘膜に、振りほどかされそうになるつながりを、舌を搦めて手を握り合うことで必死につなぎとめる。

 手と口と体を繋ぎながらする行為に驚くほど胸が震えた。

 切実に求め、求められて、愛を確かめ合う気持ちよさに恍惚となる。

 体内の克哉の雄が大きく跳ねた。

 克哉が低く唸って、やけどしそうなほど熱い粘液を奥深いところに撃ち込んでいく。

 濃厚な精液にどろりと粘膜を濡らされていくのを感じながら御堂もまた解き放った。意識が飛びそうなほどの絶頂感に視界が霞んだ。

 ペニスが震えながら何度も粘液を吐き出す。ふたりの下腹部をしとどに濡らしてもまだ治まりそうになかった。次から次へと押し寄せる果てのない絶頂の波に巻き込まれていった。

 苛烈すぎる絶頂の余韻にめまいを感じながら、ふたりして床に倒れこんだ。

 指一本動かすのもつらい。克哉は御堂以上に疲弊しているだろう。

 それでも自然と微笑んでいた。汗ばんだ肌を重ねながら、自分の手の中にある幸福に浸るように、もう一度キスをした。すると克哉もキスを返してきて、くちびるをついばむようなキスを何度も繰り返した。

 背中に回された手が御堂を優しく抱きしめた。記憶通りの温もりと感触に、自然と涙がこぼれた。御堂が探し求めていた安寧は今、確かにここにあるのだ。

 充足感と幸せに浸っているうちに、遠くでピピピッと電子音が鳴った。続いて、スマートキーの開錠を示す鈍い金属音が響いた。

 ようやく、長い三日間が終わったのだ。

(8)
epilogue

 克哉はAA社が入るビルから出ると空を見上げた。

 雲を青空に溶かしているようなうっすらと霞む空は、柔らかな光を降り注いでくる。アスファルトに囲まれた街中であるにもかかわらず、濡れた土の匂いがどこからか漂ってきた。

 大きく息を吸って胸の中を新鮮な酸素で満たした。陽射しはどこか温かく、春がもうそこまで来ていることを教えてくれる。

 永遠のように長く思えた冬が終わりを告げたのだ。

 束の間、足を止めて春の息吹を全身で感じていると、背後から声をかけられた。

 

「佐伯、行くぞ」

「ええ、御堂さん」

 

 スーツをかちりと纏った長身の男が克哉の横に並び、克哉に切れ長な眸を向けた。御堂だ。

 克哉に向ける眼差しには、憎しみも侮蔑もない。愛おしさと信頼を含んだ温かみのある眼差しだ。

 万物は流転する。永遠に同じであり続ける物は存在しない。

 春の訪れを感じさせるこの時期、克哉、そして克哉の周囲にも変化が起きた。

 AA社に社員がひとり増えた。それも、今まで空席だった副社長を迎えたのだ。

 L&B社の社長は、「君のところのコンサル料がこんなに高いとは思わなかった」とぼやき御堂を引き留めようとしたものの、御堂の決心が変わらないことを知ると、御堂を快く送り出してくれた。その代わりに、L&B社とAA社のコンサルティング契約は、更新されることになった。

 AA社も社員が増えて、止めていた新規の依頼も片端から引き受けるようになった。結局のところ忙しさは変わらない。相変わらず慢性的な人手不足に悩まされているが、それでも頼もしい即戦力を得たことは心強い。

 今もこうして、ふたりして新しいクライアントとの打ち合わせに向かうところだ。

 

「そろそろ桜が咲くな」

 

 淡い色の葉をそよがせる街路樹を目にした何気ない御堂の一言が、克哉の心に小さな影を差した。

 克哉にとって最も憂鬱な時期がやってくる。

 桜を見るとどうしても過去の記憶が顔を覗かせて、癒え切らない傷を疼かせる。

 かつて親友だと思っていた相手に裏切られた。

 こうして振り返ればたった一行で済む話だが、子どもの無垢な心には十分すぎるほどの絶望だった。

 

「佐伯、どうかしたか?」

「いいえ、何も」

 

 感傷に囚われて動きが止まっていたようだ。

 訝しむ御堂に、自然にみえるように繕った作り物の笑みを返した。

 その時、不意に御堂が行ったというクリニックのことを思い出した。

 克哉の心の深いところに巣食う、じくじくと膿み続ける記憶。それを消すことが出来たら、もうこの季節に怯えることはなくなるのだろうか。

 すべてのことを覚えていられる人間はいない。程度の差はあれど色々なことを忘れながらヒトは生きているのだ。

 失うことで得られるものもあれば、失うことで更に失うものもある。

 忘れることに忘れるべき理由があるならば、覚えていることには覚えているべき理由があるはずだ。そう、信じたい。

 御堂が記憶を消したクリニック、聞いた住所を元にその場所に行ってみたが、御堂の言うようなクリニックは影も形もなかった。

 やはり、あの男が関係していたのだろう。

 となれば、あのクリニックは消えたのではない。

 日常の薄闇の中に潜んでいるだけだ。耐えきれないほどの負荷が心を軋ませたとき、ごく自然に自分の前にその扉が現れるのだろう。

 そうして、囁きかけるのだ。「リセットしましょうか?」と。

 しかし、自分はきっとその誘惑を跳ねのけることが出来るだろう。なぜなら、一人ではないからだ。背中を預けることが出来る男が隣に立っている。

 御堂に顔を向けると、凛とした目許の涼やかな眼差しと視線がつながる。自分をまっすぐと見詰める眸。真正面から自分を受け止めてくる気恥ずかしさに、克哉はおや、と何かに気が付いた振りをした。

 

「御堂さん、ゴミが付いていますよ」

「何?」

「ほら、ここの襟の後ろのところ」

 

 それを取る仕草で、御堂の首元に顔を寄せた。克哉が言うゴミを確認しようと注意が逸れた御堂のくちびるのきわどいところにくちびるをそっと掠めさせる。触れ合う一瞬の体温に、御堂が大袈裟な程、びくんと身体を跳ねさせた。

 

「佐伯……っ!」

「いつかの仕返しです」

 不意打ちのキスに頬を赤らめた御堂が声を荒げる。御堂の説教が始まる前に克哉は笑いを堪えながら大通りに出て流しのタクシーを捕まえた。御堂にタクシーに乗れと目線で促す。

 怒るタイミングを逃した御堂が不承不承にタクシーへと歩みを寄せる。

 仏頂面している御堂に微笑みかけると、御堂もまた意味ありげな視線を返してわざと肩をぶつけてきた。

 御堂と過ごすこの一瞬一瞬は忘れたくないし、忘れることは出来ない。その気持ちは何があっても決して変わらない。

 春めいた強い風に吹きつけられながら、克哉も御堂に続いてタクシーに乗り込んだ。

 エンジン音とともに車が発車する。不意に手先に体温を感じた。御堂がさりげない仕草で、シートに置いた克哉の手に指を触れさせてくる。

 克哉もまた、御堂の指に指を絡めた。

 御堂の指の付け根を指先でくすぐると、真横で恋人がくすりと笑った。

 今日もまた、忘れられない一日になるのだろう。

END

epilogue
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