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​リターン

Super Comic City 27で頒布予定の新刊『リターン』のサンプルです。

FD END no.4「好きにしろEND」の補完SSです。

プロローグから第一章の克哉編のところまで公開しております。

『ターン(北村薫著)』の世界観とストーリーをモチーフにしております。

サンプルでは御堂さんがほぼまったく登場しませんし、R18シーンもありませんが、この後ちゃんと登場しますし、R18シーンもしっかりありますのでご安心くださいませ。

―概要―

あの夜、克哉はこの世界からたった独りで取り残された。つながらない携帯電話と共に。

気がつくと執務室のチェアで目が覚めた克哉。見慣れたAA社、見慣れた東京。だが、この世界には克哉以外、誰もいない。そして、どうあがこうとも、定刻が来ると一日前の執務室のチェアにターンしてしまう。だが、150日目の夜、ついに電話がつながった。

プロローグ
(1)

 その夜は妙に月が輝く夜だった。

 克哉は地面に仰向けになって、全身を覆う重い痛みに目を眇めた。見えるのは濁った闇の中に浮かぶ月だ。その光景をなす術なく眺めていた。

 生暖かいべっとりとした液体が服を浸して肌を濡らしていく。溢れ出す血を止めようと傷を押さえようとしたが、そんなことは無駄だとすぐに気が付いた。

 体中、何カ所も刺されている。とても出血を止めることは出来ない。血液と共に、体温も流れ出ているようだ。冷たい地面から冷気が身体の中心へと這いあがってくる。

 脈打ちながら噴き出していた血液は、鼓動が弱まるにつれて、勢いを失っていく。

 心臓が止まれば、出血も止まるのか。

 そんな当たり前のことに気が付いた。

 死は目前に迫っているという突き付けられた事実にも、何の感慨も湧かなかった。

 血液と共に失われていく命と、すり寄る死の気配。

 地面にだらりと伸びた手の先に、自分の携帯電話が転がっていた。真っ暗の液晶画面には、青白い月が映り込んでいるのだろう。

 その携帯電話を手に取りたいと思った。今、コールバックすれば、彼が電話に出るだろう。

 しかし、手足に力が入らず、最早、指一本さえも動かすことが出来ない。

 馬鹿馬鹿しい。

 最期にあの男の声を聞いたところで何か変わるわけでもない。何もかも、無駄だったのだ。

 四肢の感覚が麻痺してきた。同時に、ナイフで刺された痛みも遠のく。強張っていた筋肉が、空気が抜ける風船のようにくたりと弛緩していった。

 あともう少しで死ぬのだろう。そう他人事のように達観しながら命が零れ落ちていくのをただただ待っていると、乾いた足音が克哉に向かって近づいてきた。

 黒目だけ動かすと、ぼやけた視界の中に、月を背負った黒衣の男が現れた。場違いなほどにこやかに笑って、克哉に話しかけてくる。

「好きに……しろ」

 そう言ったつもりだったが、うまく口と舌が動かない。声は掠れて、声帯を微かに震わせただけだった。濁った息を吐けば、口の端から血と唾液が混ざったものがごぷりと溢れた。

 それでも相手には伝わったのだろう。

 嫣然と笑う男の輝くような金の眸が近づいてくる。その男の右目に、どこまでも冷たい炎が揺らめくのを見た気がした。

 くちびるに凍えた重みがかかった。

 克哉の肉体と意識は、どこまでも暗い闇にどぷりと呑み込まれていった。

(2)
リターン(1)

 カタリ。
 手から携帯電話が零れ落ちて、床とぶつかり乾いた音を立てた。
 その音にハッと目を覚ました。
 顔を上げればAA社の執務室で、自分のデスクで椅子に座ったままうたた寝をしていたらしい。
 窓の外は夜の帳が覆い、眼下には東京の街が輝いている。
 執務室は克哉ひとりで、腕時計に視線を置けば、夜の九時過ぎだ。他の人間の気配はない。
 床に落ちた携帯電話を拾い、克哉は自分の首元をぬぐった。じっとりとした汗をかいている。
 嫌な夢を見た。
 恐怖、そして、諦め。色々な感情が入り乱れて、ひどい悪夢から覚めたように身を震わせた。
 夢の内容を反芻しようとして、克哉は干上がった喉をひくりと上下させた。
 夢?
 いいや、あれは、とても夢とは思えない。
 ナイフを切りつけられた時の灼けつく痛み。溢れ出す赤黒い血液。夜の闇をつんざくような笑い声。
 そう、俺は、澤村に襲われた。
 あれは紛れもない現実ではなかったのか。
 手が自然と傷口の部分にいく。乱れのないスーツの上を手がなぞるが、そこは、痛みも何の痕跡もない。シャツにもジャケットにも何の傷もない。
 普通に考えれば、あれは夢だったのだろう。
 しかし、夢と断じるには、異様にリアルだ。スーツの布地を裂くブツリという音も、ナイフの鋭く裂かれる痛みも、今さっきの記憶のように生々しく脳裏に焼き付いている。
「どういう、ことだ?」
 ベルトからシャツを引き出し、自分の肌を直に確認するが、やはりなんの痕跡も存在しない滑らかな肌がそこにある。それもそうだ。何の痛みもないのだ。
 悪夢のような記憶を辿るにつれて、背中にじっとりとした汗が伝い落ちた。
 本当に、夢だったのだろうか。
 だが、夢でないとしたら、ここにいる自分は何なのだろう。
 暗雲のように立ち込める不安に、つい視線を社内に彷徨わせて、ひとりの男の姿を探してしまう。だが、フロアには人の気配はまったくない。
 それもそうだ。夜も遅く、社員はとうに全員退社してしまっている。
 それに、克哉が無意識に探していた男、御堂は、あのことがあって以来、克哉を徹底的に避けている。今日だって定刻通りに退社してしまった。
「馬鹿馬鹿しい……」
 克哉と視線を合わせようともしない御堂の顔を思い出して、克哉は呟いた。
 御堂はいつまで意地を張っているつもりなのだろう。
 あのホテルの部屋で澤村に報復したことが、そんなに気に障ったのだろうか。
 だが、あの男の行ったことを考えれば、あれは当然の報いだ。御堂の代わりに克哉が澤村に復讐してやったのだ。あいつもこれに懲りて二度と克哉たちに手を出したりしないだろう。実際、あれから一週間近くたっているが、クリスタルトラストの妨害はなりを潜めている。月天庵の件は上手くいくだろう。そうなれば、AA社の名声はますます高まるはずだ。
 澤村……。
 今さっきの狂気に満ちた男の顔がありありと思い浮かんだ。
 それにしても、どうにも、嫌な夢だ。
 脳裏にへばりついた澤村の顔を振り払うかのように、首を軽く振って、デスクのパソコンのスリープモードを解除した。
 メールを確認して帰ろう。
 そう思って、メールソフトの受信箱を確認する。そして、すぐにおかしな点に気が付いた。受信箱の一番上に表示されているメールに見覚えがあった。
「おかしい……」
 このメールは、なんてことはないクライアントからの問い合わせメールだ。だが、克哉はこれを早々に返信し、返信済みのボックスに片付けたはずなのだ。
 何よりもおかしいのは……。
「これは、昨日受診したメールのはずだ」
 克哉の元には一日百通近くのメールが来る。それを必要度別に即座に分類し片付け、受信箱にはメールが残らないようにしている。だから、昨日受け取ったメールが受信箱に残っているはずはないのだ。
 最初はメールソフトの故障を考え、ソフトの再起動をしているうちに、パソコン画面の隅に表示されている日時を見て瞳孔を開いた。
「昨日?」
 記憶にある日付より一日前だ。腕時計を確認すれば、文字盤の小さな窓から覗く数字は昨日の日付だ。どうにも信じられず、先ほど拾いあげた携帯電話の画面を光らせた。そこに表示される日時はパソコンや腕時計が示す日時と一致している。
 もうひとつ。克哉が今襟元に締めているエンジの小紋柄のネクタイは昨日着用していたネクタイだ。昨夜帰宅後、克哉はそのネクタイを外してクローゼットに片付けたはずだ。そして、思い返してみれば、昨日のこの時間に克哉は執務室で、まったく同じようにうたた寝から目を覚ました覚えがある。
 克哉の周りにあるものはすべて、今日が『昨日』であると示している。今日が『今日』であると思っているのは克哉ひとりで、こうなると、冷静に考えて克哉の記憶の方が間違っているとしか考えられない。
 だが、克哉の記憶にある昨日から今日までの出来事は、振り返れば振り返るほど生々しい現実で、とても執務室のチェアの上で見たうたた寝の白昼夢だとは思えない。
 いったい何が現実で、何が夢なのか。
「もしかして、俺は死んだのか?」
 そう呟いて、あまりの馬鹿馬鹿しさに小さく笑った。ここが死後の世界だとしても、この身体はリアルで心臓の拍動を感じるし、克哉の身の回りの物も確かに存在している。
 どうも自分は何か混乱している。自身の外側の世界と内側の世界が一致していなくて、酔っているようだ。この微妙なズレをすり合わせる必要があるだろう。
 だが、どうやって?
 自分の周りに意識を向けたその時、不意に違和感を覚えた。
 どうにも静かなのだ。いや、耳をすませば、AA社のビルの空調が稼働している音が聞こえる。だが、聞こえるのは単調な機械音ばかりで、人の気配を感じさせる温かみのある音がしないのだ。まるで、この執務室の時が止まったかのような静謐の底にある。
 誰か、どこかに、人はいないのだろうか。
 克哉は携帯電話を取り出した。御堂に連絡しよう、そう思って、発着信履歴から御堂の名前を選び、発信ボタンを押した。
 だが、発信されることなく、携帯画面はすぐに元の待機画面に戻ってしまった。
 目を瞬かせ、そしてその原因はすぐに突き止めた。
 携帯のアンテナマークが圏外の表示になっている。電波を拾っていないのだ。
 チッと舌打ちしながら、克哉は携帯を再起動させた。
 しかし、結果は同じだった。窓辺に立っても、設定を変えてみても、携帯は電波を拾うことはなかった。
 なんてことはない出来事なのに、曖昧模糊とした不安が湧きあがってくる。
 何かがおかしい。
 どうにも変だ。
 ともかく、誰かの声を聞きたかった。自分が確かに生きていることを、そして、ここに存在していることを誰かに確認して欲しかった。
 それならば、とデスクの固定電話から御堂の携帯電話に発信をした。それでも、呼び出し音は鳴ることはなく、単調な不通音が響くばかりだ。
 携帯電話の電話帳を確認し、この時間に開店しているはずの馴染みのレストランにかけてみた。今度は呼び出し音は鳴るものの、どれほど待っても電話に出る気配はない。
 二十四時間対応しているはずのビルの警備システムに電話してもやはり同じ結果だ。思い余って、緊急通報用の電話番号までかけてみたが、何の応答も得られない。
 どうにも嫌な予感がする。
 焦りが込み上がり、心臓が不穏に絞めつけられる。
「なぜ、誰も電話に出ない?」
 まるで、克哉以外の他の人間が消え失せているようだ。
 そんな不安に襲われて、壁一面を覆う、嵌め殺しの大きな窓に歩みを寄せ、外の景色に視線を向けた。
 生きている人間の気配を渇望して、眼下にある幹線道路のあたりに視線を落とした。だが、道路が見つからず、目標を見失った眸が不安定に彷徨う。もう一度、視界を広げて特徴あるビルを確認し、再度視線を定めた。そして、息を呑んだ。
「――ッ」
 目を凝らせば道路は確かにそこにあった。だが、見つからなかったのは、道路が闇に溶け込んでいたからだ。いつもなら見えるはずの道路を走る無数のヘッドライトの流れが見当たらない。巨大な幹線道路の上を一台も車が走っていないのだ。
 ゾッとして顔を上げた。
 東京の美しい夜景が目の前にある。高層ビルの窓は灯りが灯っている。高層階の窓からは人の姿など確認するのは無理だ。だが、本来なら目に映るはずの光のうつろいも不規則な明滅も何もない。人が息づく生活の気配がない。ただただ単調な光が輝いているだけに過ぎない。
 広がる空を浸食するようにそびえ立つ無数のビルに、誰一人として人間が存在しないということがありうるのだろうか。この巨大都市は無人の廃墟となったのだろうか。
 見慣れた風景であるはずなのに、今や異世界の淵に立っているようで、底知れぬ恐怖を覚えた。
 人工の照明に照らされる明るく広い室内なのに息詰まるような苦しさを覚え、克哉はAA社のフロアを逃げ出すように飛び出した。
 エレベーターホールに出てエレベーターを呼び出すと、機械音が鳴って到着を告げる。機械類は問題なく動いているようだ。エレベーターに乗り込んで、上層階の自分の部屋の階数ボタンを押す。
 部屋に戻ってみたが、当然、無人だ。
 静けさが凝った部屋。それは、以前からの自分の部屋と寸分変わらぬ空間であるはずなのに妙に怖く感じる。
「クソッ!」
 吐き捨てた言葉は部屋の静寂をわずかに乱しただけで、すぐにまた克哉の周りは静けさに沈んだ。
 部屋に戻ってきたのは、とても外に出る気がしなかったからだ。
 このビルの外には得体のしれない闇が広がっているようで、無人の都市を直視してしまえば、今度こそ異世界に取り込まれて戻ってこられないような予感がしたのだ。
 服を脱いでバスルームに入ると、シャワーの栓をひねった。すぐに暖かい湯が出てくる。
 シャワーの温度と水圧を高めて、身体と頭に熱い湯を叩きつける。意識は冴え冴えとしてくるが、心は逆に冷え切っていく。
 この何もかもが悪夢であると信じたい。
 バスルームから出て、キッチンで強い酒を煽ると、そのままベッドルームに直行した。
 こうやって、周囲の世界から目を背けて、何も気が付かないふりをして普段通りの行動をすれば、すべてをなかったことに出来るのではないだろうか。
 だから、これ以上確かめてはいけない。未知であるものを知ろうと思ってはいけない。
 ひとりで寝るには広々としたベッド。何も考えないようにして、上掛けを頭まで被って目を瞑ると、濁った闇が視界を覆う。その闇はあの公園で視た闇とよく似ていて、こちらを密やかに窺っている金の眸がないかと探しているうちに、克哉は深い眠りに引きずり込まれていった。


※※※


 間接照明に照らされた仄暗い部屋。組み敷いた男の影がシーツの上で幾重にも重なってぼやけた。男の口に突っ込まれたハンカチを通して、くぐもった荒い呼吸が吐き出される。時折呻き声が漏れ、涙に濡れた眸が克哉を見詰める。
 克哉の身体の下にいる男は、端正な顔を苦痛に歪めて、虹彩まで塗りつぶされた黒一色の眸で克哉に訴えかけていた。
 その顔を喜悦に満ちながら見下ろして、男の身体を激しく揺さぶる。その度に無駄のない筋肉が乗った身体が強張り、胸が荒く上下して必死に酸素を取り込もうとしている。
 闇に沈みかけているこの部屋でも、男の白い肌が紅潮しているのが見て取れた。これは、苦痛といびつな快楽のせいだ。
 この男の悲鳴を聞きたいと思った。
 それはきっと甘美な響きで、克哉は酔いしれることが出来るだろう。
 手を伸ばして、男の口から唾液で濡れて重くなったハンカチを引きずり出した。
 男の開ききった口の中で喘ぐ舌が震えて、次に聞こえてくるであろう悲鳴を堪能するために、克哉は耳を澄ました。
 だが、悲鳴は一向に聞こえてこなかった。
 切れ長の双眸が克哉を射る。闇を映しとったかのような黒一色の眸から目が離せなくなる。男はぜえぜえと息を切らしながら、克哉に向かって呼びかけた。
「……、き。やめて、くれ……っ、さ……きっ!」
 男の声が鼓膜に触れたその瞬間、高い場所から突き落とされるような、リアルな感覚に襲われた。
 やめろ。
 俺の名前を呼ぶな。
 俺を呼び戻そうとするな。
「うるさい、黙っていろ」
「ぐ……ぅっ」
 頭の芯を煮えさせる淫靡な熱が冷めきる前に、抜き取ったハンカチを再びその男の口に突っ込んだ。
 男の顔が激しい苦悶に歪む。激しい苦痛に粘膜がうねり、克哉の背筋を快楽が駆け上った。全身の毛が興奮にそそけ立つ。
 脳が煮えたぎるような愉悦の一方で、胸の奥底が絞めつけられるような痛みを覚えた。
 この男は誰だ?
 そう、この男は克哉が求めて焦がれた男。この男を蹂躙し尽くして、壊してしまいたいと、どれほど切望したことか。
 だが、本当にそれでいいのか?
 唐突に這い上がってきた悪寒に身体の芯がざわめいた。
「やめろっ! 俺に話しかけるなっ!!」
 拒絶の声をあげながら、目の前の男にペニスを獰猛に捻じ込んだ。悲鳴混じりの声が漏れて、掴んだ身体がガクガク震えた。
 何も考えたくない。目の前にある快楽に浸っていたい。それ以上のことは求めていない。
 すべてから目を背けて、この男を犯し尽くすことだけを考えていたい。それはきっと気持ちがいいだろう。
 そうだ。余計なことは考えず、永遠にこの時間が続くことを願っていればいいのだ。
 どこからか闇を震わせる声が響いてきた。
『それがあなたの望みであれば……』
 金の眸がひとつ、闇の中に煌いた。
 返答するのも面倒だ。
 もう、何も、考えたくはない。
 だが、闇は形を凝らせて、克哉の返事をずっと待っている。一向に去る気配はない鬱陶しさに、克哉は眉を顰めた。
 お前の好きにしろ。
 そう告げようと、口を開きかけたときだった。

――佐伯。

 不意に聞こえた声が、一筋の確かな流れとなってすうっと混濁した意識をかき分けて、克哉に触れた。すべての動きと思考が止まった。

――起きろ。

 意識が冴えわたり、身体の隅々まで血液が行きわたり活力がみなぎっていくのを感じた。
 そうだ。
 俺はこんな世界を望んだのではない。
 起きよう。
 そう決意した瞬間、克哉にまとわりついていた闇が振り払われた。克哉が組み敷いていた男も砂塵のように霞んで消えていく。
 消えゆく男の青白い顔を茫然と眺めた。
 克哉はその男をよく知っていた。
 胸が、痛い。

 

(3)
​リターン(2)

「御堂……」

 部屋の中に眩い光が満ちる。自分で呟いた言葉に、そして、瞼から透ける光に克哉は目を覚ました。

 上掛けを剥いでベッドから起き上がった。

 辺りを見渡せばいつも通りの朝、のように思える。部屋の時計を見れば、もうすぐAA社の始業時間だ。

 バスルームに向かって、熱いお湯で自身を叩いて、意識をすっきりとさせる。

 昨夜煽った強い酒は抜けきっているようだ。

 スーツに着替えてAA社のフロアへと向かった。カードキーを通して、ドアのロックを解除して中に入る。

「おはよう」

 声をかけてみたが、返事はない。がらんとした無人の部屋。腕時計を確認するが、始業時間を過ぎている。さすがに全員連絡もなしに休んでいるとは考えにくい。

 どうやら、克哉を取り巻く現実を直視しなくてはいけない時が来たようだ。

 逃げずに現状と向き合う気になったのは、今が明るい日中だという事実も大きいが、朝、御堂に呼ばれた気がしたのだ。

 それは、揺蕩う意識の中で聞いた、本当に微かな声で、単に自分のそうであってほしいという希望が心の声として響いただけなのかもしれないが、弱気に陥った克哉を奮い立たせるには十分だった。

 この世界もちゃんと自転しているのだ。夜が永遠に続くわけではない。今なら本能が恐れる闇は存在しない。

 腕時計を見ると、文字盤の窓の日付は、昨日から一日ちゃんと進んでいる。自分のデスクのパソコンを起ち上げてみれば、やっぱり一日進んでいる。メールボックスも開いてみたが、一番上に表示されているメールは、昨夜確認したものと同じメールで、念のため送受信ボタンを押してみたが、更新されることはない。

 メールの送信者がどこにも存在しないのではないか。

 予感めいた不安が胸に立ち込めていく。

 ひとまず、外に出てみることにした。無人のAA社にとりあえず鍵をかけてエレベーターホールに向かうと、ビルの1階まで降りて外に出た。

 そうして、あたりをゆっくりと見渡して、克哉は息を詰めた。それは、異様な眺めだった。

 うっすらと霞んだ青空に輝く太陽は空高く、明るい陽射しを降り注いでいる。乾いたアスファルトは白っぽい埃の粒子を風に散らして輝いている。視界をいっぱいに埋める高層ビルとその間を縫うまっすぐな広い道路。見慣れた光景は今までに見たことのない光景へと一変していた。

 誰一人と存在せず、何一つとして動くものが視界の中に存在しないのだ。歩道を歩く人間もいなければ、車線を走る車もない。鳥のさえずりも聞こえない。生き物の気配が何一つしない。

「誰も、いないのか?」

 ためしに、ビルの前の歩道から足を踏み出して、片道三車線の道路を中央分離帯まで堂々と横切っていく。普通ならば考えられない自殺行為だ。けたたましいクラクションの嵐が渦巻いてもおかしくない。

 もしかしたら、自分の頭に問題があるだけで、いつもの東京のごとく、車も人も所せましと流れているのかもしれない。次の瞬間、克哉は走っている車に弾き飛ばされるかもしれないのだ。そう考えると足がすくむ。

 だが、克哉は誰に邪魔されることもなく、あっさりと中央分離帯までたどり着いた。そこから道路の先に視線を向ける。標識や信号がまっすぐ見据えた視線の先にあり、普段、運転席から見る光景が目の前に広がっていた。違うのは、走る車が一台もなく、その気配も音も感じないということだ。そうしているうちに、信号が赤に変わった。車がいなくても、電気はしっかりと通じていて、都市としての機能は失っていないようだ。

 克哉は歩道に戻ると近くにある大手チェーンのカフェに入った。自動ドアが克哉を感知して開く。期待していなかったが中はやはり無人だった。ただ、客席のテーブルには飲みかけのマグが置いてあったりして、ついさっきまで多くの人が存在したかのような気配を感じさせる。

「メアリー・セレスト号みたいだな」

 克哉は独り言ちた。

 メアリー・セレスト号とは十九世紀にポルトガル沖で無人のまま漂流していたところを発見された船のことだ。発見時、船内には直前まで人が生活していたような形跡があった。食卓には手付かずの食事やまだ温かいコーヒーが残され、また、火にかけたままの鍋があったという。まるで人だけ忽然と消え失せてしまったというミステリーだ。そう、今、克哉が目にしている現実のように。

 しかし、克哉の場合は、消え失せたのは他の人間たちではなく、克哉ひとりなのだろう、と考えた方が納得がいく。そして、よく似た別の世界に迷い込んでしまったのだ。

 今頃現実世界では、克哉が神隠しに遭ったと騒がれているのだろうか。いや、克哉ひとりいなくなったところで騒がれたりはしない。いつも通りの一日が営まれていることだろう。

 そんなことを考えながら、レジ横に並べられていたサンドウィッチを適当に選ぶと、スタッフ用のスイングドアからカウンターの裏に入った。

 カフェのロゴが描かれているマグを手に取ると保温中のガラス製のコーヒーサーバーからコーヒーを注いだ。試しに一口飲んだら、昨夜からずっと保温されていたのだろう、すっかり酸化して苦くなっている。かといって、代わりのコーヒーを提供してくれる店員はいない。どうしようかと振り向けば、コーヒーマシンが置かれている。これを使えば新鮮な香り高いコーヒーが飲めるだろうということは容易に想像できたが、使い方が分からない。それに試行錯誤してみるほどの気持ちの余裕もない。

 諦めてマグとサンドイッチを手に、誰も使っていなさそうな席を選んで腰を掛けた。そこで、お金を一銭も払っていないことに気づき、払ったとしても受け取る相手がいないから仕方ない、とは思ったが無銭飲食をする後ろめたさから解放されるために千円札をレジに置いた。

 そうしてやっと、泥水のようなコーヒーを啜ってどうにか落ち着く。サンドウィッチの包み紙をはがして、全粒粉ブレッドにたっぷりと挟まれたサーモンとレタスを大きく口を開けてかぶりついた。

「旨いな」

 無意識に呟く。昨夜から何も食べていなかったのだ。どこでどう過ごしていても腹は空く。

 食欲が満たされると、別の心配が出てきた。この調子で誰も存在しないとなると、今後の食事はどうすればいいのだろう。

 店々に残されている食事は徐々に腐り始めるだろう。幸い、電気や水道といったライフラインのインフラ設備は動いているようだが、メンテナンスを行う人間がいない以上、近いうちに不具合が起きるだろう。そうなった場合、どうやって生活すればいいのだろうか。

 そもそも、この世界は一体何なのだろう。克哉以外の人間が存在しない世界。死後の世界にしては随分と物静かだ。そして、何故か、この世界の日付は克哉の記憶から一日巻き戻っている。

「死ぬ前に見える走馬灯の幻影みたいなものか?」

 死に瀕すると過去の記憶が次々と脳裏に過るという話は聞いたことがある。

 だが、あいにくと、克哉はこんな無人の都市で過ごした記憶はないし、幻影にしては、サンドイッチを咀嚼する感覚も、腰を下ろしたソファが克哉の重みに沈む感触もリアルなものだ。克哉の五感は間違いなくこの世界を現実世界と同様に認識している。それでも、この世界が現実だとは信じきれない。

 目の前の問題に真剣に取り組むためには、この現実が確かに存在するということを、、自分自身が信じられなければ無理だ。だから、そのためにあがくことは決して無駄ではない。自身が納得することで、どんな問題だって自分が解決すべき問題として受け入れることが出来るのだ。

「まずは、本当に誰もいないのか確かめてみるか」

 克哉はそう呟いて、食べ終わった食器を片付けると店の外に出た。

 しん、とした静寂に沈んだ都市が無言で克哉を取り囲んでいる。

 その気味悪さに背をそむけて、克哉はAA社のビルの地下駐車場に降りた。

 薄暗い地下駐車場に、自分の車は確かに存在した。アルファロメオのシルバーのブレラ。

 乗り込んでエンジンを入れると、心地よい振動と共にエンジンがかかる。

 ビルの駐車場から車道へと出る。

 他の車が一台も存在しない広い道。アクセルを思い切り踏んだ。

 赤信号も走行車線も無視して、速度をどんどんあげていく。周囲の景色が飛ぶように流れる。

 こんな速さでは歩道に人がいても気付くことなど出来ないだろう。それでも、自分の裡のむしゃくしゃした気持ちとそこはかとない不安を無視するために、ドライブに夢中になるふりをする。

「いつまで目を逸らし続ける気だ、俺は」

 そう自嘲しながら、東京を張り巡らす道路をがむしゃらに走り続ける。カーブでもギリギリまで速度を落とさず、きつめのハンドリングでタイヤが軋むように車体を滑らせる。鬱憤晴らしにはちょうどいい。がら空きの車線を目いっぱい使って、ものすごい速さのコーナリングを堪能する。

 そんな風に、東京の道をぐるぐると走り抜けていると、陽が翳ってきた。

 結局、他の車とすれ違うことはなかった。フロントガラスから差し込む西日に眩しさを覚え、克哉はアクセルから足を離した。首都高の近くのインターチェンジから下りる。

 日がな一日車に乗っていたが、助手席の空虚さは拭い去ることは出来なかった。

 この世界に誰もいないことが不安なのではない。ただ一人、彼がいないことが克哉をこうも不安にさせるのだ。

「一体、どうなっているんだ」

 目的もなく車を走らせていたが、いつの間にか見覚えのある風景に囲まれていた。AA社の近くまで戻ってきたのだ。

 ここまで来たら、御堂の住むマンションに行ってみてもいいかもしれない。

 もしかしたら、御堂がそこにいるかもしれない。

 そんな仄かな期待を胸に抱いて、克哉は交差点を曲がった。そして、目に飛び込んできた光景に、瞳孔が開ききった。車線に沿って桜の花が咲き乱れている。

 ここは、あの公園だ。

 克哉が澤村に呼び出されて、そして、凶刃に倒れた公園。

 フロントガラスのその向こうに、青白く輝く月が見えた。

 冷たい汗が噴き出る。心臓が乱れ打ち出した。

 ねっとりと絡みついてくる恐怖から逃れようと大きくアクセルを踏み込んだ。

 限界まで加速した車が公園の真横を突っ切っていく。

 視界の端に消えていく公園に、胸を撫でおろそうとした時だった。

 ざあっと一陣の大きな風が吹いて、桜の枝々がざわめいた。桜の名残の花びらが一斉に舞いあがる。それは色を失った夜の闇の中で吹雪のように視界をまだらに白く染めた。

 花吹雪がフロントガラスに吹き付ける。思わずそれを避けようと、大きくハンドルを切った。どすんという衝撃にシートベルトが身体に食い込む。シートベルトに容赦なく胸を締め付けられてくぐもった悲鳴を上げた。同時に何かがひしゃげるような凄まじい音がした。歩道のフェンスに車が突っ込んだのだ。視界が真っ白になり、顔が弾力ある物体にはたかれる。エアバッグが作動したということは一瞬で理解した。

 ほんのコンマ数秒の出来事だった。

 エアバッグが穴の開いた風船のようにしぼんでいく。シートベルトが緩み、衝撃に止まっていた呼吸が荒く再開する。身体を動かそうとして鋭い痛みが胸に走った。肋骨が折れたらしい。

 痛みを感じるということは生きているということだ。

 意識が清明になるにつれて、克哉が受けた怪我はどうやら致命傷ではなさそうだということが分かった。激しい痛みがある以外、出血もなければ心臓も動いている。

 だが、この後、誰が助けに来てくれるというのだろう。ずっとこのままなのだろうか。

 こんな動けない状態で放っておかれるのなら、いっそ死んでしまった方がよっぽど楽だっただろう。

「くそったれ」

 呟いた声は掠れて、自分自身でもうまく聞き取れなかった。

 

 

※※※

 

 

 カタリ。

 手から携帯が零れ落ちて、床とぶつかり乾いた音を立てた。

 その音にハッと目を覚ました。

 強烈な既視感。

 混乱した頭のまま、椅子から飛び上がるように立ち上がった。そうして気が付いた。ここは、AA社の執務室だ。そして、克哉は自分の椅子に座っていた。

 先ほどまでの骨と内臓を軋ませるような痛みが全く消えている。跡形もなく。これは、治ったというよりも、最初から怪我が存在しなかったかのようだ。

 これは二回目だ。一度目は澤村に斬りつけられた痛みが消えた。そして、二度目は交通事故にあった痛みが消えた。

 床に落ちている携帯を拾い上げ、携帯画面を作動させて日時を確認する。

 液晶画面が表示する日時を目にして瞬きを忘れた。

「戻った……?」

 呻くように呟いた。携帯画面に大きく示されている日時は、昨夜、克哉が気付いたときの日時からなんら変わっていない。また昨日の日付だ。

 念のため、パソコンのスリープモードを解除して、画面の隅に表示される日時を見直すが、何度見ても変わらない。そうこうしているうちに、一分進んだ。

 メールボックスを開けば、記憶にある通りのメールがリストの一番上にある。

「またこの日を過ごすのか……?」

 同じ日を繰り返すなんて、まるで悪夢の様だ。

 そう、ここは、悪夢の世界だ。

 そう思ったところで、はたと気付いた。

 ここは、現実世界ではないのだ。自分は澤村に刺されたあの時、確かに死を覚悟したのだ。それなのに、二十四時間前に戻ってしまって、そしてまた、戻ってしまった。

 開ききった瞳孔でゆっくりと周囲を見渡した。記憶と寸分違わぬ執務室。

 振り返って、壁一面を覆う窓から地上を見下ろした。

 やっぱりだ。

 夜の東京。人間の気配がない。走っている車は一台も見当たらない。

 しかし、この光景は二回目なので、さすがに慌てふためくこともない。

 胸の中を一掃するような大きな息を吐いた。

 なぜ、こんな世界にいるのか、原因を考えなくてはならない。

 思い出したくもなかったが、あの夜の公園で起きた出来事をひとつひとつ丁寧に辿っていく。最期に目にした風景。夜の空に輝く、大きな青白い月。いや、それが最後に目にした光景ではない。瀕死の克哉は、ひとりの男と遭ったのだ。その男の名は、Mr.R。

『私なら、あなたをどうにかできなくもないですか……』

 苦悶にのたうち回る克哉を見降ろして、Mr.Rは涼しげな顔でそう言った。

 この男にとっては、克哉が生きようと死のうと大した問題ではないのだろう。それはそうだ。克哉だって、他人の生死には露程にも興味がない。

 好きにしろ。

 確かにそう言った記憶はある。そして、男はどう返事をしただろうか。

 冷淡な笑みを深めてこう言ったのだ。

『では、遠慮なく。私の好きにさせてもらいます』

 そして、これが、その結果なのだろうか。

 誰もいない、AA社のフロア。蛍光灯が作る明るい闇に向かって叫んだ。

「R、出てこい!!」

 そうしてしばらく待ってみたがが、執務室の中で克哉の声が反響するだけで、誰も反応するものはいない。

 Mr.Rは克哉をこんな世界に閉じ込めて、その存在を忘れてしまったのだろうか。それとも、こんな風に克哉が戸惑い、絶望し、気が狂っていく様を愉しげに観察しているのだろうか。

 たった独り、こんな狂った世界に閉じ込められて、身の置き所のない孤独に蝕まれていくようだ。

 たった一人? いや、もう一人いる。

 何故、今のいままで思い出さなかったのだろう。それは、自分がその存在を消し去ろうとしていたからだ。記憶から何からなにまで。

 暗雲のように心を曇らす不安。それを振り払おうと、声に強さを持たせていった。

「オレ、いるんだろう!?」

 そうして、内なる声に耳を澄ますと、ややあって、微かな存在が形をなしたのを感じた。

――お前に呼ばれるなんて。

 その声は、間違いない。もう一人の自分自身である〈オレ〉だ。〈オレ〉の返事を聞いて、克哉は小さく安堵の吐息を漏らした。

「一体、何がどうなっている?」

――さあ。お前が分からないことをオレが分かるわけがないだろう。

「分からないだと?」

――むしろオレに説明して欲しい。一体何が起きているんだよ。

 とぼけたように言われて苛立ちが増すが、渋々、自分が置かれた状況を説明した。

「俺は、夜の公園で澤村にナイフで切りつけられて、気が付いたら一日前に戻っていた。そして、一日を過ごしたはずなのに、また昨日に戻っている。つまり同じ一日を繰り返しているんだ」

 正確には同じ一日を繰り返したのはこれで二回目だが、二度あることは三度あるだろう。三度目の正直を信じられるほど、克哉は楽観的ではない。

「そしてこの世界には誰もいない。俺以外には」

 鳥の声を聞くこともなく、道路には車が一台もないが、駐車場に克哉の車はそのままに停められていた。ということは、多分、この世界に来た瞬間に動いていたものがすべて消えたのだ。命あるものもないものも関係なく。

――なるほどね。

 どこか他人事のように〈オレ〉は言った。

――何時ごろに戻ったのか覚えている?

 そう聞かれて考え込んだ。

 澤村に呼び出されたのは夜の九時だった。いくつか会話を交わして気が緩んだ時に斬りつけられたのだ。

 そしてまた、車で事故に遭ったのは夕方だったと思うが、そのあとずっと車に閉じ込められて、ダッシュボードの時計を最後に確認したときは何時だったのだろうか。

「九時を回っていたと思う」

――今は何時だ?

 そう聞かれて、デスクに置いてある時計に視線を置いた。

「九時、二十分」

――つまり、夜の九時過ぎにターンしたわけだ。そうして丸一日、二十四時間巻き戻っている。

 くるっと時間が巻き戻ることを〈オレ〉はターンと表現した。

 ああ、と言葉少なに頷く。

――きっかけは?

「それは……、死にかけた俺のところにMr.Rが来た。あいつが、このままだと俺は死ぬ。だが、あいつならどうにかできるって言ったんだ」

――どうにかって?

 ふたたび聞き返してくる〈オレ〉に、お前も知っているだろう、と怒鳴りつけたいのを堪えた。よく考えてみれば、〈オレ〉と〈俺〉は記憶を共有しているわけではない。〈俺〉も〈オレ〉だった時の事をすべて知っているわけではないし、〈オレ〉もまた同様だろう。あの夜、何が起きたのか。そして、〈俺〉とMr.Rの間で交わされた話を〈オレ〉は本当に知らないのかもしれない。

 仕方なしに、死とMr.Rに直面した、あの時の状況を克明に説明していく。

「そういえば確か、『私の世界の中』でなら俺をどうにか出来るとか言っていたな」

――お前はそれで良かったの?

「いいも何も、他に選択肢はなかった」

 と雑に言い捨てたが、そこには苦し紛れの言い訳が含まれていた。

 あの時、克哉は死にたくなかったわけではない。すべてがどうでも良かったのだ。生きることも死ぬことも、何かを考えることが億劫だった。だから、『好きにしろ』とMr.Rに告げた。克哉の返答に、Mr.Rは艶然とした笑みを浮かべてこう言った。『では、遠慮なく』

 その結果、克哉は今、ここにいる。

――つまり、ここはMr.Rの世界の中ということ?

「ということになるな」

 こうやって順を追って辿っていけば、やはりここはMr.Rが創りあげた世界なのだろうということが腑に落ちる。すべての元凶はMr.Rだ。

 ややあって、〈オレ〉はいささか呆れた口調で言った。

――Mr.Rの提案をお前は承諾したのだろう? それなら、文句を付ける筋合いはないんじゃないか?

「馬鹿を言うな。こんな世界は俺が望んだものじゃない!」

 荒げた声に一拍置いて、噴き出したような笑い声が返ってきた。

 克哉の言葉の何が可笑しいのか、〈オレ〉は腹を抱えて笑っている。腹を立てて黙り込むと、ようやく〈オレ〉が口を開いた。

――馬鹿はどっちだよ。

「何?」

――お前が望んだ世界じゃないって、他の人間は自分が望んだ世界に生きているとでも思っているのか?

 向けられたのは皮肉交じりの冷笑だった。辛らつに正論を吐かれて、感情の据わりの悪さに克哉は眼鏡を押し上げた。

「じゃあ、お前は俺に、永遠にここに囚われていろ、と言いたいのか」

 我ながら子供じみた返し方だとは分かっていたが、胸に嵩む昂った感情が、意識するよりも先に口を衝いて出た。

――そんなことは言っていない。

〈オレ〉は笑いを引っ込めて、優しげな表情を浮かべた。まっすぐと見据えられて、静かに告げられる。

――つらいんだろう、この世界が。

 克哉に絡みつく恐怖を、克哉に浸食する不安を、すべてを理解した口調で〈オレ〉が言う。

――お前はすべてをオレに押し付けて、逃げていいんだ。あの時みたいに。後は、オレが引き受けるよ。

 意識にすうっと浸透する声に、心がぐらり、と揺れた。

――かつてのオレがそうだったみたいに、お前も逃げ出して良いんだ。オレがお前に代わるよ。お前は何もかも忘れればいい。

「やめろ!」

 思わず叫んでいた。

「俺は、そんなことのためにお前を呼び出したんじゃない」

――じゃあ、何のために?

「それは……」

――お前はこの世界で生きていけるのか?

「……」

 もどかしく言葉を探した。

 本当は、助けて欲しかった。この世界から救い出して欲しかった。

 だが、すべてを〈オレ〉に押し付けて、自分は目を背け続けていいのだろうか。

 せっかく取り戻した自分自身をこんな風にあっさりと放棄してしまっていいのだろうか。

 割り切れない想いが燻ぶる。

 こんな理不尽で理解不能な世界、真正面から立ち向かうなんて馬鹿馬鹿しい。ちっぽけなプライドなんか捨てて〈オレ〉に頼ってしまえばいい。

 それでも、〈オレ〉に縋りつくことが出来なかったのは、大きな未練があるからだ。涼やかな目許を持つ男の、深みのある声が耳の奥に残っている。もう一度、あの男の声を聞きたい。

 眼鏡のブリッジから指を放して、ネクタイを締め直した。

「俺の力で、この世界から抜け出してやる」

――そうか。

「だから手出し無用だ」

――お前が望むなら、オレはいつだってお前と代わってあげるよ。

「黙れと言っている!」

 と言っても、どうすればいいのかも分からない。そもそも、抜け出せる世界なのかさえ見当がつかない。

 だが、精一杯の虚勢を張った克哉を〈オレ〉は追及することはしなかった。微かに微笑む。

――お前がしたいようにすればいい。

 それは、克哉の決断を許容しているようにも突き放しているようにも聞こえた。黙りこくると、〈オレ〉はもう一言だけ付け足した。

――オレはいつだってお前の傍にいるよ。

 その言葉が、頑なな克哉の心にゆっくりと沁みていった。

 今まで、これほどまでに〈オレ〉の存在を心強く思ったことはなかった。むしろ恥じるべき自分として〈オレ〉を疎んじていたのだ。

『ありがとう』、思わずそう言いかけて、すんでのところで呑み込んだ。伝えられなかった言葉が小さなしこりとなって胸の底に落ちていった。

リターン(3)

 そうして二十四時間後、手から零れ落ちた携帯がカタリと乾いた音を立てるのを聞いて、克哉はハッと意識を取り戻した。

 再び執務室のチェアの上にいた。

 やはり、三度目の正直とはいかなかったらしい。

 今回は前二回のターンの時とは違って、大人しく過ごしていた。

 生死の危機に瀕することさえしなければ、明日を迎えられるのではないかと思ったが、ターンはおかまいなしに来た。

 はあ、とため息を吐いて、自分のデスクを確認した。前回のターンの時にデスクに油性ペンで自分の名前を書いていたのだが、すっかり消えている。ノートパソコンを開いた。メールボックスの中身をすべて完全消去したはずなのに、見慣れたメールがリストの一番上にあった。ジャケットのポケットの中に手を突っ込むとタバコの箱が手に触れる。それを取り出して、中を覗けば、タバコの本数は減っていない。ターンの直前に全部吸いつくしたはずだが、すっかり元に戻っている。

 覚悟はしていたが、ターンが起きるまでの二十四時間に起きた出来事は、ターンした瞬間に何もかもリセットされてしまうらしい。

 だが、今回、周囲をくまなく観察していたせいで、分かったことも多い。ターンの時間は夜の九時十五分。その時間に、くるりと二十四時間巻き戻って、克哉はどこにいようとこの執務室のチェアの上に引き戻されてしまう。

 箱からタバコを一本取り出して、口の端に咥えた。火を点けようとすると声が聞こえた。

――AA社のフロアは禁煙じゃなかったの?

 ふっと笑ってそのまま火を点けた。克哉のタバコに眉を顰める人間はここにはいない。〈オレ〉以外は。優雅に煙を吐き出した。

「この世界では、いくらタバコを吸っても肺を悪くすることはなさそうだな」

――医者いらずだね。

「怪我だって治るしな」

――でも、ターンの時間が来るまでは痛いのも苦しいのもそのままだろう?

「まあな」

〈オレ〉は言葉通り、克哉の傍にいてくれているようで、こんな風に話しかけられたり、何かつぶやくと、たまに返事が返ってくる。

「どうやら、長期戦になりそうだな」

 そんな予感が確信を伴って迫る。

 Mr.Rの気配はどこにもない。いくら呼び掛けても出てくることはない。遊び飽きた玩具を押入れの奥に片付けてしまうように、克哉の存在自体忘れてしまったのかもしれない。

 飽きられた玩具はどんな運命をたどるのだろう。暗鬱な想像しか出来ないが、少なくともMr.Rは死にかけた克哉を見捨てることなくこの世界に連れてきたのだ。だとしたら、この世界から連れ出してくれる可能性もあると信じたい。そして、その出口への鍵がどこかに隠されていることも期待したい。

 窓の外の闇を眺めながら煙を一口吐き出せば、視界が煙の幅だけ白く濁った。

 

 

※※※

 

 

 四回目のターン。五回目のターン。

 いろんなことを試してみたりあがいてみたりしたが、ターンは無情にもやってきた。車を走らせて、どこまでも遠くに行ってみたりもした。高速道路をこれ以上ない速度で走っている途中にターンの時間が来たが、やっぱり次の瞬間、克哉は執務室のチェアの上にいて、地下駐車場に降りればちゃんと克哉の駐車スペースに車が置いてあり、ガソリンも元の量に戻っていた。

 克哉がターンして最初に行うことは数字を書くことだ。目の前のメモ帳に急いで数字を書く。そのメモを破ってポケットに入れて、ことあるごとにその数字を眺めて脳に刻み付ける。

 メモに書く数字は、ターンをした回数だ。いつの間にか、その数字も五十を超えた。克哉の過ごす世界の季節は変わらず春のままで、外に出れば桜の花びらが舞う。

「よりによってこの季節とはな」

 一年のうち、桜の花が咲き乱れるほんの十日ばかりの季節。克哉が最も苦手とする時期だ。外に出れば日本中どこにいってもピンクの花が視界に入り込んでくる。こんなに毎日、目にしていても嫌なものは嫌なのだ。慣れるということもない。

 同じ一日を過ごす中で最もつらいのは、すべてをなかったことにされてしまうことだ。今日一日を生きた証として、何かを形に残そうとしても、ターンしてしまったらすべてが元通りになる。まったくもって不毛な世界だ。

 唯一残るのは記憶だけで、その記憶さえも単調な一日を続けると、何日前に何をしていたのかという時系列があいまいになってしまう。いっそ記憶さえもリセットされてしまえば、こんな不安や焦りとも無縁な日々を過ごせていたかもしれないと皮肉に思う。むしろ、今までも知らずに同じ日を何度も過ごしていた可能性だってある。当の本人はそれに気付かないだけで。

 元の世界に戻りたくても、その端緒を掴むことさえできない。無為に一日が過ぎていく。

 それでも、今まで休みなく働く日々を過ごしていた克哉にとって、何もすることがない一日というのは新鮮だった。だが、好きなことが出来るといっても、突然鳥籠から外に放り出された鳥のように、羽ばたき方さえおぼつかない。

 ぼんやりとAA社の周囲を歩きながら克哉は街路樹を見上げた。春の強い風が吹いて、木の枝がそよぎ、克哉の顔にまだらな緑の影を淡く落とした。何の予定もない一日。時間を気にすることなく、なんてことはない街路樹を見続けたのは、いつぶりだろう。

「……一日は何かを成すには短すぎるが、何も成さないには長すぎる」

――それって、『一日』じゃなくて『人生』だろう?

「今の俺にとって、『一日』も『人生』も大した違いはないさ」

 当初は開き直って、溜め込んでいた本を読もうと毎日読書をしていたが、それもいい加減飽きてしまった。それならば、と、車に乗ってあちらこちらに観光がてら出かけてみた。無人の高速道路をアクセル全開で走り抜けるのは気持ちがいい。丸一日もあれば大抵のところは行けるし、帰りのことは考えなくても良いのだ。勝手に克哉を執務室まで戻してくれる。ターンした直後は夜なので、ひとまずは夜を過ごす必要があるのだが、わざわざ自分の部屋に戻る必要もないことに気が付いて、都内の超高級と言われるホテルに行って、フロントで空いている部屋を探してそこに一泊したりもした。

 ラグジュアリーホテルの部屋は値段に見合うだけの洗練された設えで快適だったが、ホテルの格を決めているのは建物の造りや内装だけではない。ホスピタリティが重要なのだ。スタッフが誰一人として存在しないなら、当然ホスピタリティも存在しない。そうなると一流ホテルと言えども魅力が失せてしまう。

 コーヒーを飲もうと立ち寄るカフェも、スタッフ用のマニュアルを見つけ、試行錯誤の結果コーヒーメーカーの使い方をすっかり覚えた。今では、大抵のドリンクメニューは自分で作れるようになり、飲みたいときにいつでも香り高いコーヒーを飲めるようになった。

 無人の都市、何をやっても元に戻るなら、何をしてもいい。そうは思っても、現実世界なら罪に問われるような破壊行為や窃盗などは行う気にならなかった。無人の店に入っても、利用したサービスに見合う現金をちゃんとカウンターに置いておく。コンビニのATMが二十四時間使えるのは助かった。クレジットカードを利用するにはレジを操作しなくてはならず、その手間を考えると現金で支払った方が手っ取り早い。

 ということで、克哉がやった悪事と言えばせいぜい道路交通法違反くらいで、それも専らスピード違反だ。試しに道路の逆走をやってみたりもしたが、どうにも落ち着かなくてすぐに元の車線に戻ってしまった。

 法律とは多くの人間が社会生活を平穏に営めるように定められた規範であるから、克哉ひとりしか存在しないこの世界では適用されるわけもない。そもそも、取り締まる人間だっていないのだ。

 それでも、自分が露骨な破壊行為をしないのは、この世界を壊したくないからだ。なるべく元の世界のルールに従って無難に一日を過ごせば、一筋の傍流が川の本流の流れに合わさるように、本来の世界に受け入れられるのではないかと、そんな淡い願いを抱いたりもしている。今のところは叶えられる気配はないが。

 その夜は、銀座の一流フレンチのレストランで克哉はシャンパンのグラスを傾けた。一番高いシャンパンを厨房の冷蔵庫から引っ張り出してきて、惜しげもなく開けた。舌の上で微細な泡が弾けて、繊細な味わいの液体が喉を滑り落ちていく。

 車は銀座の大通りに堂々と路駐している。

 無人のレストラン、厨房に入ればちょうど出来上がった皿もあるが、すっかり冷めきっていたので、鍋のソースを温め直して、切り分けられたステーキ肉を自分で焼いた。

 出る時は、これだけ払えば十分だろうという金額をレジに置いていった。レジの中には一万円札が束で重ねられていたが、もちろんそんなものを盗る気はない。ドアをくぐって外に出ると、〈オレ〉が話しかけてきた。

――意外と真面目に暮らしているんだな。もっと暴れるのかと思ってた。

「当り前だ。わざわざ何かを壊しても、俺に対するメリットはないからな」

――だけど、鬱憤は晴れるんじゃない?

「壊しても元に戻るなら、晴らした鬱憤も戻るだろう」

 壊す快感というのは、破壊したものがもう元に戻らないからこそ快感なのだ。いくら壊しても、壊した事実自体が無くなってしまうならやるせなさが積もるだけだ。

「……それに、こんな世界に愛着なんてない。壊すほどの価値もない」

 大事なものだからこそ、無茶苦茶にしてしまいたい、蹂躙しつくしたい。内なる破壊衝動は常に克哉に誘惑を囁き続けている。もっともだというように、〈オレ〉が頷いた。

――お前はこうなる前に色々壊していたからな。

「俺が……?」

 そう問い返しかけて、すぐに一人の男の顔が脳裏に浮かんだ。

――大切なものを壊すのは気持ちよかった?

「……そうだな」

 気持ちよかった。

 人を踏みにじることに罪悪感などなかった。それどころか、自分の内にあるどろどろとした興奮が渦を巻いて脳を沸騰させた。

 克哉に怯えて、恐怖に目を見開き、必死に抵抗する御堂を痛めつけるのは、麻薬のように意識を恍惚とさせた。だが、その悦楽が引くと、必ず訳の分からない苛立ちが克哉を襲った。

 その時の興奮と鬱屈がありありと思いだされて、車に向かっていた足が止まった。

――あの人を、壊したかった?

「……いいや」

――でも、壊そうとした。

「……ああ」

 口調は穏やかだったが、〈オレ〉の言葉は鋭く克哉の胸を抉り、言葉を奪った。その場に縫い付けられたように動けなくなる。

 どうしても自分のものにしたかった。無理やりにでも自分のものにしようとした。だが、御堂を壊しかけて気が付いた。克哉が欲しかったのは、壊れた御堂なんかではない。そして、御堂はたとえ壊されたとしても克哉のものにはならないことに。

 立ち尽くしたままレンズ越しの視線を夜空に投げかけた。

 あの時……。御堂に好きだと告げて、解放した夜の空もこんな満月が輝いていた。あの後悔を経て、自分は何か変わったのだろうか?

――この世界にあの人がいればよかったね。いくら壊しても、ターンすれば元に戻るよ。お前がいくら壊しても失うことを恐れる必要はないんだ。

「そんなことはしない。してたまるか」

 克哉の答えに〈オレ〉が驚いたように目を丸くした。

――お前は享楽のために生きているんだと思ってたよ。

「生憎と、そんな獣みたいな生き方は止めたんだ」

 有無を言わさぬ口調で言ったところで、ふとした迷いが胸に靄のように差し込んだ。こうなる前の自分は御堂を力づくで服従させようとしていた。あの時は自分が正しいと信じて疑わなかった。だが、本当にそれは正しかったのだろうか。

 そんな克哉の逡巡を〈オレ〉の声が中断した。

――それって、オレのおかげ?

「お前は俺の良心とでもいいたいのか?」

 どうしてそんな結論になるのか。鼻で笑い飛ばした。だが、〈オレ〉も負けずに言い返してくる。

――少なくとも、お前よりは真っ当な人生を歩んでいたと思うよ。

「面白味もない、負け犬の人生だ」

――じゃあ、今のお前は勝っているの? そもそも何と戦っているのさ。

 自分は何と戦っていたのだろう。そもそも、戦うと言えるほど、真剣に何かに取り組んだことなどあっただろうか。

 Mr.Rと名乗る男に渡された眼鏡をかけた瞬間から、克哉の世界はがらりと様相を変えた。

 何もかもが矮小に見えた。どうしてこんなくだらないことに悩み、時間をかけていたのか、今までの自分であった〈オレ〉の愚かさを笑った。

 すべてが克哉の思い通りにできた。

 人間を動かすのは簡単だ。相手を気分よくおだて、ふと見せた心の隙に付け入り、思うように支配する。

 仕事だって笑ってしまうほど順調だった。どんなプロジェクトも難なく最高の成果を出すことが出来た。何故他の人間がこんな容易いことが出来ないのか当初は不思議にさえ思ったものだ。そして、すぐに思い直した。自分以外の人間は克哉と比べるとはるかに愚鈍な存在なのだ。逆に言えば、自分は他の人間とは違う。特別な存在だったのだ。

 仕事は自尊心を満たす、私利私欲のための手段に過ぎなかった。MGN社で史上最年少で部長職に就き、百億単位の金が動くプロジェクトを遂行し、そのすべてを成功させた。学歴や子会社からの転籍だと克哉を侮っていた奴らを実力で組み伏せ、黙らせ、そして、従わせた。上司に取り入るのも簡単だった。部下に崇拝され、上司に気に入られ、同僚からは嫉妬と羨望と敗北感が混ざった眼差しを向けられた。

 会社勤めの生活は、簡単すぎてつまらないゲームをこなしているようなものだった。そんな日々を過ごしているうちに、命令された仕事をこなすことが苦痛になり、MGN社を退職してAA社を立ち上げたのだ。

 コンサルティング業を選んだのは業界の浮き沈みが激しく、生き馬の目を抜くようなしのぎを削る殺伐とした雰囲気が気に入ったからだ。何のバックアップもないゼロからのスタートで、少しは楽しめるだろうと期待したのだが、いざ始めてみたら拍子抜けの連続だった。何の実績もなく若い克哉の起業に銀行はあっさりと融資を決定し、企業はこぞってAA社に依頼した。

 引き受けたコンサルティングも次々と成功させ、あっという間に業界の耳目を集めるようになった。

 あの眼鏡をかけてからすべてが上手くいくようになった。

 自然と眼鏡のフレームに手が伸びる。冷たい金属の感触、触れた瞬間に弱い電流が指先に走ったような気がした。

「いや、違う……」

 すべてが思い通りに言っていたわけではなかった。唯一どうにもできなかったのが御堂だったのだ。あの男を落とそうと躍起になればなるほど、御堂は頑なに克哉を拒絶した。

 当時の苛立ちと苦みが胸の内に込み上がってきて、克哉は唇を噛みしめた。

 だが、しかし。

 御堂でさえ、結局のところ、克哉の元に自らやってきたのだ。

 クリスタルトラストの妨害もはねのけ、御堂に手を出そうとした澤村も、二度とそんな気を起こさぬように痛めつけた。すべてが上手くいっていたはずなのに、どうして自分はここにいるのだろう。

 自暴自棄になった澤村のせいか?

 いや、あんな小物に影響されるほど自分はやわではないはずだ。自分の生き方の何が間違っていたと言うのだろう。不意に兆した迷いを悟られないよう、〈オレ〉に向かって強い口調で言った。

「……少なくとも今は、このふざけた世界と戦っている」

 とはいえ、勝ち目は見えなかった。

 

 

※※※

 

 

 

 同じ一日がひたすら繰り返される。そんな毎日を意味のあるものにしようと、いろんなことに挑戦したが、夜の九時十五分という定刻が来ると、必ず執務室のチェアの上に引き戻されてしまう。虚しさが胸に大きな穴を開けていった。既にこの世界に来てから百日が経過している。それでいて、何の進展もない。〈オレ〉はいつでも、克哉と代わってくれるという。日照りの砂漠を彷徨う旅人が手が、届くところにある水を我慢しろと言っているようなものだ。その誘惑を拒絶し続けるのは、もう自身の意地みたいになっていたが、たまに負けそうな時もあった。

 壁を渾身の力で殴りつけて、拳を痛めたこともあった。ベッドにもぐりこんだまま一日を何もせずに費やしたこともあった。

 ぬるい水の中でゆっくりと絞め殺されているような気分が常に付きまとう。

 何も考えたくなくて、車を走らせて、自殺の名所と呼ばれる海に面した崖の淵に立ってみたりもした。柵を超えてギリギリのところに立って、見下ろした。海面から吹き上げる強い風が克哉の髪を散らした。空も海も果てがなく、耳元で風が、あそこまで行っておいで、と囁きかけてくる。

「この世界では、俺は王にだってなれるんだろうな」

 霞みがかった空は濃い藍色の海と重なり合って、その境界線はあいまいだ。視界の真ん中で、空が海に、海が空に、溶け込んでいる。あの灰色の一帯は海なのだろうか、空なのだろうか。多分、海でもなく空でもない、どちらにも属さぬ領域なのだろう。そして、克哉もそこに留められている。生きているのか、死んでいるのかさえはっきりとしない。

 崖のはるか下で春の海が荒々しい波を打ち付けて、白い泡を弾かせる。あの波にのまれればひとたまりもなく身体はバラバラにされてしまうのだろう。しかし、ここから一歩踏み出したら、海面に落ちるのではなく遥か高みに舞い上がるのではないだろうか、とさえ思ってしまう。

 いつまでたった独りで過ごさなくてはいけないのか。

 どうしようもない虚無感に打ちのめされる。

 多分、自分は壊れかけてきているのだろう。それでも、〈オレ〉にすべてを明け渡す勇気もなく、こうやって逃げる場所を探し求めている。

「俺は大切なものは壊せても、自分自身を壊すことさえ出来ないんだな」

 克哉は力なく笑って、再び柵の中に戻った。

(4)
リターン(4)

 その日は克哉がここに来てから百五十日目の日だった。現実の世界では夏の暑く長い一日を迎えているのだろう。だが、克哉が過ごす一日は変わらず春の肌寒さが残るままだ。

 克哉は自分の部屋で一晩を過ごし、車で首都高を何周か回ると、何気なしに標識が示すまま湾岸道路に入って川崎へと向かい、アクアラインに入った。

 長い海底トンネルを走り抜けていくと、突如として視界が開け、視界の隅々まで群青の海が広がる。進行方向にそびえたつ海ほたるに車を停めて降り立った。人は誰もいないのに、駐車場には車がいっぱい停まっている。その異様な光景はもう見慣れたもので、海ほたるから離れた駐車スペースに空きを見つけて車を停める。

 海ほたるのカフェでコーヒーを飲み軽食を済ますと、展望台へと上がった。吹き付けてくる風はまだ冷たく空気は湿度を孕んでいて、克哉は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。風に潮の香りが混ざっている。

 空を振り仰げば、霞みかかった青空だった。春霞なのだろう。太陽の光が淡く降り注ぐ。ずっと変わることのない天気だ。東京湾は穏やかで、ところどころに小さな白い波が立っては消えていく。穏やかな春の海。横浜方面を眺めれば、空に冠雪を戴く富士山が空の中に浮かび上がる。

 しかし、人と車でにぎわうこの海ほたるから海を眺める人間はいない。駐車場に多数の車は停められていても、走る車は一台もない。行き交う人間の息遣いを感じることもない。

 この海の対岸には高層ビルが所狭しとそびえ立つ大都市がある。克哉以外誰もいない、廃墟となった都市が滅ぶことを忘れている。自分が暮らしていた東京の姿そのままだ。この都市からどれほど頑張って抜け出そうとしても、克哉は必ず引き戻されてしまう。AA社の執務室に。

 この世界は克哉が知っている世界と似ているようで全く異なっている。世界を支配するルールが異なるのだ。それは呪いのようで、超自然的な力で克哉はこの世界に繋ぎ止められている。

 クリアでもゲームオーバーでもいい。どうすればこの世界から抜け出すことが出来るのか、まったく見当がつかない。

 この呪いを解く方法があるのだろうか。

「どう思う?」

 何度となく問いかけた謎に、〈オレ〉が応えた。

――そもそも、これは呪いなのか?

「呪いでなければなんだ? こんな世界にたった独りで閉じ込められて。同じ一日を繰り返し続けるんだぞ」

 忌々しく吐き捨てた。

――じゃあ、元の世界の方が良かった?

「なんだと……?」

 唐突に投げ返された問いに思考が足踏みした。

 当然、元の世界がいいに決まっている。

――本当に?

〈オレ〉はいつも、取り付く島もない厳しい事実を克哉に突き付けてくる。

 この世界に来る直前、克哉は死にかけたのだ。死にかけた、と過去形で言ってはみたものの、実際のところ『死にかけている』という現在進行形だろう。死はもう克哉の足元まで這ってきていた。元の世界に戻ったところで、あの時点からやり直すなら、克哉を待っているものは、ほぼ間違いなく『死』だ。

 そう考えると、この世界は克哉のために与えられた世界だともいえる。克哉がずっと生きていけるよう、創り出された世界なのだ。

――まさしく、お前だけの世界だな。歳もとらないなら、永遠に若いままだ。

「こんな箱庭みたいな世界で生きていてもな」

――だけど、この世界ではやり直しが出来るよ。

「やり直しは出来ても先には進めない」

 やり直しが出来ると言っても、この二十四時間以内の出来事に限られるし、やり直したとしてもまた振出しに戻るのだ。

 明日がない世界に、やり直しなんて必要あるのだろうか。後悔先に立たず、というのは未来があることを前提とした話だ。

〈オレ〉と話すんじゃなかった、とねじくれた気持ちになりながら、タバコを一本咥えた。吐き出した煙が潮風に乱されて消えていく。

 月の光が海に散り広がるのをぼんやりと眺めながら、タバコをふかし続けた。

 ポケットに入っていた最後の一本のタバコに火を点けた頃には、あたりは日が暮れて、すっかりと暗くなってしまった。自動点灯される人工の光が克哉の周辺に灯りと色を与えてくれる。

 そろそろ帰ろうかと思ったが、戻ったところで誰がいるわけでもない。

 それならここでターンの時を待ってもいいだろう。どうせターンしたらAA社の執務室に戻るのだから。

 そんな克哉に〈オレ〉が話しかけてきた。

――誰に待っていて欲しかった?

「それは……」

 すぐに一人の男の顔が浮かんだが、それを口にするのは躊躇われた。

 こんなことになる前、克哉は御堂に徹底的に避けられていたのだ。

 御堂がいる元の世界にいたとしても、御堂が克哉を待ってくれているはずがない。

 だが、自分を忌避する御堂の態度だって、克哉は一顧だにしなかった。

 いざとなれば力づくで言うことをきかせれば良いと思っていたのだ。克哉の逡巡を〈オレ〉が言葉にして問いかけてくる。

――それで、自分の思い通りになると思った?

「もちろん……無理だろうな」

 うっすらと心の中にあった答え。漠然としたものを言葉という形にしてみたとき、やはりそうだったという確信に至る。

 こっちの世界に来て、考える時間だけはたっぷりあったのだ。今更だとは思ったが、自分の行動を何度も反芻して、思惟を巡らした。今となっては、自分は浅はかな思考に捕らわれていたことが分かる。

 御堂の自由を奪い蹂躙しつくしたあの時でさえ、御堂は最後まで克哉に屈することはなかったのだ。

 そんなことさえ忘れて、同じ過ちを犯そうとしていた自分に反吐が出る。

 胸の中にニコチンとは違う苦みが沁みわたっていく。

 Mr.Rに渡された眼鏡をかけた瞬間、冷水を浴びたように頭が冴えわたった。すべてが自分の思い通りに出来る、そんな万能感が自身を支配していた。

「この眼鏡のせいだ」

 指で眼鏡を押し上げた。金属の冷たさが指先の熱を掠めとる。

――でも、その眼鏡をかけたのはお前だろう。

「……ああ」

 そうだ。眼鏡をかける、かけないの選択権は常に自分にあった。自分の意志でこの眼鏡をかけたのだ。

 眼鏡のせいなんかではない。自分自身が行った行為の結果は自分自身が負うべきものなのだ。

 だが、この眼鏡をかけなかったら、自分はどうなっていたのか想像がつかない。

「……それでも、俺はこの眼鏡に頼るべきではなかったんだろうな」

――後悔先に立たずだね。

「やり直せる、か」

 この世界ではやり直しが出来ると〈オレ〉は言った。

 もし、やり直しがきくとしたら、どこからやり直せばいいのだろう。どこまで遡れば、自分の満足のいく未来に辿り着けたのだろう。御堂と出会わなければ良かったのだろうか。そうすれば、御堂は克哉に振り回されることもなく、挫折を味わうこともなく、MGN社でがむしゃらに働き、それに見合う出世を手にしていたことだろう。

 だがそうなれば、克哉と共にAA社を起業することはなかったはずだ。

「澤村に報復しなければよかったのか?」

 御堂の目の前で澤村を強姦したのはやりすぎだったのだろうか。あの出来事のせいで、御堂は克哉を無視するようになったし、克哉は澤村に刺されることになった。

「だが、過ぎたことだしな」

 結局のところ、すべて過ぎ去ってしまった遠い過去だ。

 やり直したいことならいくらでもある。それでも今があるのは積み重ねた過去の結果なのだ。そう、過去は変えられない。

 しかし、この繰り返される二十四時間に何かしらの意味があるとしたらどうだろう。Mr.Rが何かしらのチャンスを克哉に残していたとしたら。

 この二十四時間の中で、克哉がやり直せることは何なのだろう。

 現実世界で克哉が過ごした、この二十四時間。自分がどこでどう過ごしていたのか、真正面から向き合うことにした。

 忌まわしいと遠ざけていた記憶の層から、かすかな何かが染み出してくる。それは、棘のように心に刺さって意識野を支配していった。

 そうだ。やり残したことがあるのだ。

 あの時の後悔が、そして、他に選択肢はなかったのだろうか、と懊悩する気持ちが心の底でおもりとなって沈んでいて、その部分の記憶を封印している。

 それは、ターンが起きる直前の出来事だ。

 自分の身体から噴き出す血を浴びながら、地面に崩れ落ちるあの瞬間。

 克哉は御堂に一言、伝えたかった。いや、御堂に何かを伝えたかったのではなくて、御堂の声を最後に聞きたかっただけなのかもしれない。

 倒れた弾みで落ちた携帯電話。そこに御堂からの着信があったのだ。

「あの電話を取っていたら……」

 何か違ったのだろうか。

 ポケットに入れていた携帯電話を取り出した。発信も出来ないし、着信もすることもない、通信機能を失った単なる電子機器だ。ターンした直後、いつも手から零れ落ちるこの携帯電話を拾うところから克哉の一日は始まっている。

 着信履歴を見てみるが、当然、一日前のターンした直前の着信で途切れている。

 克哉ひとりしかいない世界でやり直しなんて出来るはずがない。

 だが、もし、やり直せるとしたら?

「やり直したいことが、あった」

 目の前にいない、誰かに向かって呟いた。

 この二十四時間で紛れもなくやり直したいことがあった。時計を見る。日はすっかりと暮れている。ターンの時間まで一時間も残っていない。

 克哉は身体を翻すと急いで駆け出した。

 エスカレーターを駆け下りて、息を切らせながら自分の車に向かってひたすら走る。

 エンジンをかけると川崎へと戻る車線に出て、アクセルを踏み込んだ。

 車が一台も走っていないことがありがたい。高速道路をこれ以上ない速度で走り抜け、こちらの世界では一度も足を踏み入れる機会のなかった、正確に言えばあえて避けていた公園へと向かった。

 赤信号を無視して、公園横の道路に路駐して車から降りる。一回目のターンの後、克哉はこの公園の横で事故で大けがを負ったのだ。そんな記憶も克哉の足を鈍らせる。怖気を振り払って、克哉は桜が咲き乱れる公園の中に駆け出した。

 黒い水の底に沈んでいるかのように見える夜の公園。アスファルトが街灯と月明かりに照らされてほのかに光る。それは、記憶にとどめているあの夜の公園と寸分違わなかった。

 時計を確認した。九時を回っている。記憶が正しければ、その着信があったのはターンの時間の数分前だ。ということは、あと数分は時間が残されている。

 克哉はポケットから携帯電話を取り出した。

 やり直すならば、在るべき時に在るべき場所へ。パズルのピースのように、すべてが一致しないとやり直すことは無理だろう。

 携帯電話を片手に澤村と対峙したあの場所へと向かう。克哉の足音が静寂を乱していく。

 街灯と街灯の間に潜む仄暗い闇から今にも何かに襲われそうだ。

 突然、一陣の強い風が吹き抜けて、桜の花びらを視界一面に舞い上げた。不意打ちの吹き付けられた花びらに、視界を奪われる。足先が何かに躓いて克哉はよろめいた。

「――ッ」

 掴もうとした手先から携帯電話が転げ落ちていく。アスファルトで覆われた地面の上で一度跳ねて画面が光った。

 輝く液晶が、一度ブラックアウトし再び強い光を放った。

 次の瞬間、携帯が震えて着信音が鳴り出した。画面に大きく『御堂孝典』の名が表示された。

 全身の肌が粟立った。

 あの時、俺はこの電話を取ることが出来なかった。

 だが、今回こそは。

 心臓が皮膚を突き破りそうなほど暴れ出す。下肢に力が入らず地面に膝をついた。

 震える指先を伸ばして携帯を掴み、通話のボタンを押した。その場に仰向けに転がる。携帯電話を耳に押し付けた。

 不自然なほど大きく白い月が空に輝いていた。

 この一瞬が、気が遠くなるほどの時間に感じた。

 通話がつながる。

 電話口の向こうで、相手が大きく息を呑む気配がした。何かをしゃべろうにも、いろんな想いが気道を狭めて、ぜえぜえとした荒い息にしかならない。

 たっぷりとした沈黙の後に、電話の向こうで、恐る恐る、探るような声が聞こえた。その声を耳にして、目の奥が熱くなった。

『もしもし……?』

「御堂か……?」

 その声は自分が発したとは思えないほど、震えて掠れていた。

 そして、耳元に当てた電話から、耳に馴染んだ声が響いた。

『佐伯……?』

 電話の向こうの声も揺らいでいる。

 どれほどの間、この声を焦がれてきたのだろう。次につなぐ言葉が見つからず、ただただ荒い呼吸だけを繰り返した。

 その時、不意に重大な事実が頭を掠めた。

 今、何時だ?

 あっ、と思って声を発しようとした寸前、視界が暗転した。

 そう、ターンの時間だ。

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