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 今日は週末で、外は桜が咲き乱れている、らしい。
 御堂はすっかり定位置となったソファから窓の外に目を向けた。といっても高層階の窓から見える景色は空とビルばかりで、分かるのは天気と太陽の位置と空の高さ位だ。
 この部屋に閉じ込められてから季節が一つ過ぎて、次の季節に差し掛かった。
 与えられたテレビと新聞で日付と曜日と外の情報を得ることは出来るが、部屋に籠る自分にとっては実感のない異国の出来事の様だ。
 ただ、曜日は日常に変化をもたらす。休みの日ともなれば一日中克哉がこの部屋にいるからだ。
 そして休日は、克哉は御堂を伴って日の高いうちからベッドでふけっている事が多いが、今日は違った。
 ダイニングテーブルでパソコンと資料を広げて、朝から仕事をこなしている。手元に置かれた灰皿には、こなした仕事量に比例してタバコの吸い殻が積もっていき、部屋を紫煙が薄く覆う。
 この部屋は御堂の部屋、だった。御堂はタバコを吸わない。だが、克哉がタバコを吸うせいで、克哉が不在の時にもタバコの匂いが染みつき、この部屋の現在の主が克哉であることを思い知らされる。
 克哉の仕事の邪魔をしないように、その関心を引かないように、リビングのソファの上で静かに過ごす。こうやって何をすることもなく時間が経つのを、ただただ無関心に、無為に過ごす。この数カ月で身に着けた生き方だ。
 シャツ一枚羽織らされた半裸の状態で、首には鎖で繋がれた首輪。ペットとしての屈辱的な扱いさえ、今では何ら感情を呼び起こさない。
 うつらうつらと微睡みながら過ごしていると、おもむろに克哉が立ち上ってリビングのガラス戸に向かった。その姿を無意識に目だけで追った。
 克哉はベランダをつなぐガラス戸から外をしばし眺めると、思い切ったようにガラス戸を全開にした。
 途端に、外の喧騒と匂いが新鮮な冷たい空気と共に一陣の風となって部屋に吹き込む。
 部屋の濁った暖かい空気がかき混ぜられ、薄まる。
 開いたガラス戸の縁に佇む克哉に目を惹きつけられた。その立ち姿は美しかった。
 ぴんと背筋を伸ばして立つ克哉はこの場の支配者として君臨し、外界の光と風に身を包まれる姿は威厳と風格があった。
 強い風が克哉の髪をくすぐり逆立たせ、差し込む光がその髪を金色に輝かせる。克哉を包んだ風が御堂にたどり着き、目を細めた。
 久しぶりに感じる外の世界と克哉の姿にしばし視線を縫い付けられていると、振り返った克哉と視線が交わった。
「寒いか?」
 克哉の言葉に小さくかぶりを振った。唐突に言葉が口をついて出た。
「ベランダに出たい」
 その一言に克哉の眉が顰められ、表情が険しくなった。音を立ててガラス戸が勢いよく閉められる。
 再び世界が小さく切り取られた。隔絶された澱んだ空間に戻ってしまった。
 どうやらその一言は克哉の機嫌を損ねたようだった。御堂は克哉から目を伏せて身を竦ませた。
 克哉が御堂の元に一直線に歩み寄った。その顎を指で掬われ、無理やり視線を合わせられる。
「ベランダに出て、どうする気だ?」
「…どうもしない。ただ、外の景色を見たかっただけだ」
 詰問するような鋭い眼差しが身を突き刺す。そのままじっと耐えていると克哉が小さく息を吐いた。その厳しい気配がわずかに解れる。
 その手が頭に添えられ、髪を梳きつつ撫でられた。
「テレビがあるだろう」
「…ああ、そうだな」
 がんぜない幼子を言い含めるような優しい声音。何度も頭を撫でられ、伸びた後ろ髪を梳かれる。
 それは飼っている犬の毛並みを確かめるような触り方でもあったが、性的行為に繋がらない接触であり、その感触は嫌いではなかった。
 その指先が項で止まった。克哉が口角を歪める。
「そうか。構ってもらえないから拗ねているのか」
 違う、と否定したかったが、こうなると克哉を止めることは出来ない。抵抗はするだけ無駄だ。軽く目を閉じて覚悟を決める。更に小さく切り取った自分だけの世界に籠り、この身体を克哉に明け渡す。
 克哉の指先が項から鎖骨を滑り、シャツの上から胸の突起を摘み、捏ねる。それだけで、疼くような痺れが全身を駆け巡った。思わず漏れ出た甘い吐息に、克哉が喉を鳴らして嗤った。
 片手でシャツの上から乳首を弄りながら、もう片手で御堂の膝を割る。両脚をソファの上に乗せられ、膝を開かされる。その間に克哉が割って入った。
 胸を弄っていた手が離れ、御堂の前に克哉が跪く。そして、顔を伏せ、その熱い口腔に性器を含まれた。
「ああ……っ」
 先端を口蓋でくすぐられて、小孔に舌を差し入れられる。じゅぷじゅぷと濡れて絡みつく音をたてながら、口腔の粘膜全体を使って扱かれる。克哉の巧みな口淫にすぐにペニスは質量を持ち、昂ぶらされた。
 克哉の口淫を受けるのは初めてではない。
 初めてフェラチオをさせられたとき、その口使いの拙さに呆れられ、お手本としてされたのだ。その舌技にあっという間に極めさせられ、克哉の口内に放ってしまった。御堂が放った白濁を克哉は嫌な顔一つせずに飲み込んだ。
 御堂が克哉を満足させる程度のフェラチオを覚えた後は、互いの性器を口淫するプレイもよくさせられた。克哉より先に放ってしまうと、仕置きをされる。といっても、克哉の口淫に堪えることが出来ずに、必ず先に達してしまう。その後の淫らな仕置きの口実のためのプレイに過ぎなかった。
 克哉の舌使いで硬く張りつめた性器が蜜を零す。その蜜を吸われ、更に裏筋を固い舌先でなぞられる。しかし、根元を指でしっかりと戒められ、簡単に達することは許されない。
「う、あ…、駄目、だ……達くっ」
 刺激を緩めようと克哉の頭を両手で押さえる。腰が上がり、背筋が仰け反る。首輪に繋がれた鎖がジャラジャラと音を響かせた。
 快楽で目が潤む。その時、根元の戒めが外された。同時に強く吸われ、舌先で先端を突かれる。
「ぁ……ああぁっ!」
 大きな嬌声を上げて、熱く滾る欲望を克哉の口内に放った。克哉は御堂を上目遣いで見上げ、ニヤリと口角を吊り上げて笑うとそれを喉を鳴らして、全て飲み下す。そして、咥えていた性器を吸い上げ、残滓の一滴まで舌で拭うと、口を離した。
 克哉は立ち上がり、乱れた呼吸で胸を上下する御堂の頭を優しく撫でた。
「仕事がひと段落ついたら、もっとかまってやる」
 その言葉に、身体の芯がぞわりと痺れた。克哉は、ソファの背にかけてあったブランケットを広げて、御堂の下半身を覆うようにかけると、再びダイニングテーブルへ仕事をこなしに戻っていった。


「たまにはビデオ鑑賞でもしましょうか」
 夜遅く、仕事が一息着いたのか、克哉がソファにいる御堂の元にやってきて、声をかけた。ソファの前のDVDプレイヤーを操作する。
 ビデオ鑑賞、と言っても見るのは映画などではない。御堂と克哉の行為を収めたビデオだ。そのビデオを御堂に見せながら、録画していた内容と同じ行為を強いる。そして、今の御堂がより淫らに躾けられている様を比べて愉しむのだ。
「今日は、初めての時のにしますか」
 その言葉に御堂は小さく身を震わせた。その僅かな御堂の反応を克哉は見逃さず、笑みを浮かべた。
 初めての時のビデオ。克哉の一方的で強引な“接待”を収めたそれは克哉が最も好み、御堂が最も苦手とするビデオだ。その中に存在する御堂は、今と違い、全てを持っていた。克哉の所有物としての痕を刻み付けられ、輝く栄光があると信じて疑わなかった未来が崩壊しはじめる瞬間を記録した画。
 首輪の鎖を外される。当時と同様に、両手を拘束され、ソファの上に押し倒されシャツを肌蹴させられた。あの忌まわしい最初の出来事から、このソファは何度二人分の重みと熱を受け止めてきたことだろう。
 少しでも楽な姿勢を取ろうと、身体をずらしたところで脚の間に克哉の身体を入れられて、脚が閉じられなくなった。
 克哉の手が股間に伸びた。御堂の性器に手を触れれば、そこは既にこれから起こることへの期待と予感で形を変え始めている。
 克哉が喉を鳴らして嗤った。
「なんだ。もう勃てているのか。これじゃ比べようがないな」
「……っ」
 克哉に戯れに指を絡められるだけで、ペニスはぐんと質量を増した。
「すぐに粗相しないように、手伝ってあげますよ」
 克哉はソファの下に置いていた紙袋に手を伸ばし、中から銀色の金属棒を取り出した。緩やかに湾曲し、先端が丸く膨らみマドラーに似た形のそれは、反対側には金属のリングが取り付けられている。
 克哉はそのリングに指をかけて、御堂の顔の前にその金属棒をぶら下げた。そして用意していたスプレーで消毒をし始める。
「これ、なんだか分かります?」
 御堂は分からず首を振った。だが、嫌な予感が背筋を走り、鼓動が速くなる。
「これで、あなたのここに栓をするんですよ。…ここを弄られるのは初めてか?」
「うっ……ああっ」
 亀頭の先端の小孔を指の腹でなぞられ、その鋭い刺激に腰が跳ねる。克哉は同じ紙袋から取り出したジェルを亀頭に塗した。
「動くと危ないから、動かないでくださいね」
「やっ……!やめっ」
 滅多に口にすることのない拒絶の言葉が口を突いて出る。その拒絶の言葉に克哉は気を良くしたようで、快感を煽るようにジェルでぬらついた性器を片手で擦り上げると、亀頭を指で押し潰し、先端の孔を割り開く。つぷ、と金属の丸い先端がその小さな孔にめり込んだ。
「いっ!!あっ!」
 冷たい異物に敏感な粘膜を嬲られる感触に、悲鳴を上げて逃げを打とうとするが、克哉に身体の中心をしっかりと捕まれていて動くことが出来ない。克哉は金属棒を小刻みに動かしながらより奥へと埋めていった。液体しか通ることのない茎の中心の路を、固い異物が蹂躙しながら遡っていく。
「くぅっ……!うああっ、…やめっ、……抜い、てっ!」
 僅かに棒が進むだけで、むき出しの神経を嬲られるような鋭い痛みが走る。その痛みと恐怖に堪えられず、あられもない悲鳴を上げた。その反応が克哉を煽ったのか、克哉は数センチ入った金属棒を一気に先端の孔の近くまで引いた。
「ひっ――うぅっ」
 その引き摺りだされる感覚は今までに体感したことがない鮮烈さで、身体の芯を電撃が走り、視界が真っ赤に染まる。たまらず腰をくねらせると、克哉が下半身に馬乗りになって身体を押さえつけられた。その未知の感覚が治まるまで打ち震えていると、克哉は再び金属棒を挿入しだした。
「ああっ、うぁっ、…やっ」
 内側を抉りつつ抜き差ししながら、たっぷりと時間をかけて奥まで埋め込まれる。触れられることのない敏感な場所に異物をねじ込まれて、激しい痛みとともにジンジンと痺れるような疼きが突き上げてくる。
 金属棒が奥の一点に到達した時だった。
「―――っ!!」
 今まで感じた違和感をはるかに凌駕する凄烈な刺激が襲った。呼吸が止まり、思考が真っ白になる。先端がどこかに触れ、そこから込み上げるその刺激が濃密な快感であることに、ややあって気が付いた。そして、快楽は濃縮されれば苦痛となることを思い知らされる。
「なんだ、ドライでイったのか」
 克哉が感心したように呟く。
「あ、はっ。ああっ……うぅっ」
「どうですか、前立腺を中から弄られる感触は?…ああ、せっかくだから、外からも感じてみますか」
 克哉はローターを手にして御堂に見せつけるように顔の前に掲げると、ジェルを塗して無造作な手つきで後孔に埋め込んだ。ローターが目的の位置に達した瞬間、押さえる間もなく、唐突に身体が仰け反った。そのままスイッチを入れられる。
「ひっ!――ああっ」
 自分の悲鳴とは思えないような、高く掠れた声を上げた。ローターの振動は弱かったが、抑えようにも、絶え間ない刺激に身体がガクガクと引き攣れる。
「さて、はじめましょうか」
 克哉は御堂の顔から目を離さず、片手でリモコンを操作して、あの時の映像を再生した。
 リビングの大きなテレビ画面目一杯に、今の御堂と同じように克哉に組み伏せられた御堂が映る。画面の中の御堂は、克哉に対して驚き、焦り、そして怒りをぶつけ始めた。
 だが、身体の中から炙られる苦痛に、とてもビデオに気を向ける余裕はない。
「佐、伯っ……!あっ、くぅ……いや、だ」
「ビデオの中のあなたがイくまでは我慢してください」
 必死の哀願も冷たい笑みで応えられる。動画は始まったばかりだ。後どれだけ、この刺激に晒されなくてはいけないのだろう。
「あまり感じすぎると苦しいですよ」
 笑みを一層深めながら、克哉は御堂の首筋に顔を埋めた。首筋から鎖骨まで舌を這わされる。その感触に身体が震えそうになるが、少しでも身体を動かすとペニスに刺さった金属棒が揺れて、苛烈な刺激がもたらされる。必死に耐えた。
『今からあんたが感じたことのないような快楽を与えて、支配してやりますよ』
 ビデオの中から克哉の甚振る声が響く。今の自分に言われているように錯覚し、御堂は息を呑んだ。
 克哉の唇が乳首へと滑る。既に痛いほど尖った乳首を啄み、尖らせた舌で突く。
 身体の内外から噴き出る行き場のない快楽が苦痛となって身と心を苛む。精路の中を重く熱い液体が押し上げられてくるが、出口を塞がれその圧力に身体が浮く。代わりに目と口から透明な体液があふれ出した。
「佐…伯っ、いっ……達きたい」
『まだイかないで下さいよ。本番はこれからですから…』
 画面の中の克哉が応える。身体に覆いかぶさる克哉が喉を鳴らした。
「ほら、俺を強請って見せろ」
 こんな状態で克哉に挿れられたらどうなるのだろう。壊れてしまうかもしれない。恐怖に身を強張らせるが、克哉が満足しない限りこの責め苦は終わらない。迷う余地はない。躾けられたとおりに、反射的に口を開く。
「佐伯、挿れてっ…挿れて、くれっ!」
 嗚咽と共に切羽詰まった叫びを上げる。膝が割られ、凶暴な切っ先が双丘の狭間に触れた。
 心の準備をする間もなく、身体を穿たれた。太く硬い肉塊に前立腺が抉られ、震えるローターが身体の深いところへ押し上げられた。心臓が止まるほどの衝撃が身体を切り裂く。
 絶叫が響き渡った。その鼓膜を激しく震わす声を聴いて、自分が叫んだ声だと気付く。
――息が…っ!
 呼吸が出来ない。身を焼き尽くす炎の中に溺れる。その苦しさから逃れようと、手足を闇雲に動かして暴れた。その腕をソファに押し付けられ、覆い被さってきた克哉の重みに身体が動かせない。
 そして、そんな御堂に構わず、克哉が深く緩やかに律動を始めた。
 昏く眩しく、果てのない狭い世界に閉じ込められた。瞼を開けても閉じてもそこは閃光に灼かれた白い視界。荒ぶる海に投げ出された小舟のように、どこにも逃げられない恐怖から自分を見失い、気付いたときには肺を絞らんばかりに叫んでいた。
「助け…っ、助けてくれっ…!許して…っ」
 突如、その身体を大きな腕に強く抱きすくめられた。涙で霞んだ視界を向ければ、目の前に克哉の顔。その口角が上がり、笑みが口元に刷かれる。
「安心しろ。俺が一生お前の傍にいてやる」
 その声音はどこまでも深く優しい。そして、その言葉は呪詛でありながら、追い詰められた心と身体に甘美な毒として、波紋のように響き広がっていく。続く悲鳴を呑み込んだ。
――…佐伯、お前も共に沈むのか。
 御堂を抱くその腕は、引きずり込まれていく熱く爛れた泥沼から掬い上げるためのものではない。重しとなってより深く沈めるための腕だ。
 克哉と共になら、それもいいかもしれない。
 自由にならない手の代わりに両脚を克哉の腰に外れないようにしっかりと絡める。
「イかせてあげますよ」
 聞こえてきた声は過去と現在、どちらの克哉の声だろう。
 その時、唐突に精路を塞いでいた金属棒を引き抜かれた。
「ああ―――っ!」
 その衝撃に掠れた悲鳴を上げながら喘ぐように口をぱくぱくと開閉し、身体を大きく仰け反った。
 身体の中心から爆ぜる。大きく持ち上げられて、叩き落とされるような感覚。
 恍惚としながら、身体も意識も崩れていく。
 せめて、克哉を道連れに。
 笑みを浮かべたつもりだったが、既に自分の身体はそこになく、ただ意識の残滓だけが漂い、散った。

飼育4 -Point of No Return- (2)

 克哉はソファにぐったりと横たわった身体を見下ろした。
 顔色は死んでいるかのように青白く、生気を感じさせない。よく目を凝らせば、あばらの浮く薄い胸板が微かに上下し、呼吸をしていることをうかがわせる。
 その顔は涙と涎で濡れており、その身体も自身と克哉の精液で塗れていたが、それでも克哉を惹きつけてやまない何かがそこにあった。
 既に御堂の持てるもの全てを暴き奪ったのに、何が残されているのだろう。 
 いくら貶めても、汚しても、変わらない何かをこの人は持っている。
 ピクリとも動かない身体を清め、顔を拭う。
 その顔をよく見れば、微かな笑みが口元に刷かれているように見えた。
 アルカイック・スマイルのような不自然さを感じさせるその口元に目を取られていると、つう、と御堂の眦から新たな水滴が零れ落ちた。
 生理的な涙と感情から溢れる涙は成分が違うと聞く。
 その眦から滴り伝う涙はどちらなのだろう。
 ふと、興味を持って御堂の頬に舌を這わせてペロリと舐めあげた。
 だが、その潮気を感じる液体は、何の感慨も湧き起こさない。御堂を閉じ込めた当初に舐めたその涙は、甘美な味がしたように思えたのだが、何故だろう。変わったのは御堂だろうか、克哉だろうか。
 御堂の睫毛が小さく震え、双眸が薄く開いた。揺らめく焦点で鼻が触れ合う位置にあった克哉の顔を捉える。放心状態なのだろうか。表情を失った顔も身体も何ら反応を示さず、ただ克哉の顔をその闇を湛えた眸の中に映しとる。その瞳孔は暗く静謐だ。
 ふいに、その小さな円形の闇の中に自身が捉えられ融けていく錯覚に陥り、克哉は急いで上体を起こし御堂から顔を離した。その克哉を御堂の覚束ない視線が追う。
「…風呂に入るか?」
 一抹の居心地の悪さを払拭しようと、口にした。克哉が自分で入ろうか、とバスタブにお湯を張っていたのを思い出す。御堂の眸が微かに瞬きをした。
 裸の御堂を抱きかかえ、バスルームに向かった。
 克哉と同じ位の身長なのに、また一段と軽くなったようだ。克哉の腕の中に納まるその身体は、痩せて細く、頼りない。
 湯船にその身体を浸し、姿勢がしっかり取れることを確認すると、首輪を外す。そのまま首輪を持ってバスルームから出た。
 どうやら御堂は湯船に浸かるのが好きなようだった。放っておけば、30分でも1時間でも出てこない。もしかしたら克哉から離れて独りになれる時間として好んでいるのかもしれない。
 しばらく好きにさせておこう、と克哉はリビングに戻った。
 ベランダのガラス戸を開け放つ。部屋の中に清廉な風が吹き込み、滞っていた淫靡な空気と交わり染め変えていく。
 ガラス戸の縁に立ち夜景を見遣る。
――ベランダ位、出してやれば良かったか?
 最近の御堂は克哉と会話を交わすことも滅多になければ、自分から何かを要求することもない。だからこそ、ベランダに出たいと言い出した御堂に慄いた。
 何故、突然そんなことを言いだしたのだろう。
 部屋に閉じ込めて数カ月。ベランダも含めて一切外に出してはいない。本当に他意はなく、外に出てみたかったのかもしれない。だが、克哉は恐れたのだ。御堂がそのまま自分の手元から逃れようとしているのではないかと。ガラス戸を閉めた時に御堂の眼に浮かんだ、わずかな失望といつもの諦めの色を思い出すと、自身の胸が僅かに軋んだ。
 閉じ込めてから日に日に表情が乏しくなってきている御堂だが、今でも時折感情の揺らめきを見せる。今日のように、その心の揺らぎを官能に落とし込んでいけば、いずれは人としての心を失い、快楽のみを求めるセックスドールに成り果てるだろう。だが、それは克哉が求めていたことだったのだろうか。
――俺は御堂をどうしたかったのだろう?
 最初は単なるゲームだった。御堂を標的として克哉が始めた一方的なゲーム。ゲームメーカーである克哉は、そのゲームを支配し、いつでもそのゲーム盤から降りることが出来た。そして、御堂の全てを手に入れ、ゲームに勝利したはずだ。だが、何故か克哉はまだ未だにゲームの盤上にいて、降りることが出来なくなっている。
 かつて、御堂から大切なものを一つ一つ奪うたび、その身体を汚すたびに、心の奥底から湧き出していた高揚と満足感が今や消え去り、代わりにどろりとした渇きと欲望が心の奥底に澱のように溜まっていく。
――どういうことだ?
 部屋に戻り、ソファに座り込むと、克哉はこめかみを押さえた。
「黄泉戸喫(よもつへぐい)をしたのは俺なのか…?」
 黄泉の国の食べ物、それを口にしたものは、黄泉の国から戻る事が出来なくなる。御堂に無理やり口にさせた。そして、御堂は克哉の下に堕ちてきた。
 だが、その前に黄泉戸喫をしたのは克哉自身だったのではないだろうか。
 最初は貶められればいいと思っていた。気付けば、御堂を手に入れることが目的になっていた。そして、御堂の全てを手に入れた今、自分はどこに向かっているのだろう。
 気付けば御堂共々、死者の国に囚われているのではないだろうか。
 開けっ放しのガラス戸から吹き込む風が、克哉の汗ばんだ肌を撫でその熱を奪っていく。
 その流れる大気に身を任せながら、いつしか思考も奪われていった。


 ぽちゃん。
 天井から湯船に滴った水滴が、音とともに微かなさざ波を立てた。
 柔らかいお湯に抱かれながら御堂はふっと目を開いた。
 いつの間に湯船に浸かっていたのだろう。克哉に運ばれたような記憶がぼんやりと残っているが、自失していたのかはっきりとしない。
 重い身体を手で支えながら、バスタブから出る。バスルームの扉を開いたが、克哉の気配はない。そのまま脱衣所に出た。
 少し待ってみたが、静かなままだ。外された首輪が脱衣所に無造作に置かれていたが、自ら付ける気にはならず、棚からバスローブを取り出して羽織る。帯を締めようとして、鏡に映った自らの身体を目にした。
 筋肉を失いあばらが目立つ痩せた身体。日を浴びていないせいか、不健康な白さが一層際立つ。その一方で、赤く腫れた乳首、そして下腹部の薄い茂みの中には先ほどまで嬲られた器官が力を失い垂れている。こんなみすぼらしい身体を好んで抱くのは克哉位だろう。
 張りつめた性器を堰き止められて、その中を抉られた。
 今までにない強烈な痛みと疼き、そして鮮烈な快楽。そのまま後ろを貫かれ、乳首を責められて。狂うような悦楽と苦痛を同時に味合わされた。
 いや、もう狂っているのだろう。
 新しい命を宿すことのない腹に、精液を数えきれないほど注ぎ込まれた。行き場のない克哉の精液は御堂の身体の奥深くに留まり、その細胞から淫らに身体を造り替えられてしまったような錯覚に陥る。
 全てを奪われて克哉だけを与えられ続けた今、克哉に触れられるだけではなく、その声を耳にし、その眼差しを感じるだけで、この身体はいとも容易く箍が外れ、快楽を求め始める。
 もう、元の自分にも元の生活にも戻れない。
 じっと自分を見つめる視線を感じ、顔を上げれば、鏡の中のもう一人の自分が御堂を見据えていた。その眸に昏い炎を揺らめかせながら。
 冷えゆく胸の中に火の粉が舞って、ちりちりと胸を焦がす。
 どこにも逃げ場はないのだ。克哉がいるこの部屋にしか御堂の生きる場は、ない。

 御堂はバスルームを出た足で、リビングに向かった。ソファで寝入っている克哉の姿を見つける。身動き一つせず、ソファの背に脱力した頭と背を預けている。
 そして、開けっ放しになっているベランダのガラス戸。
 部屋に吹き込む夜の風はまだ冷気を孕んでいる。湯で火照った身体には丁度良い。
 誘われるように部屋からベランダへと素足のまま踏み出した。足底に伝わるひんやりとしたベランダのタイルが気持ちいい。
 一歩踏み出せば、途端に強く吹きすさぶ外気と、下界から響く眠らない街の喧噪に全身を包まれた。空を見上げれば遮るものなく夜空が広がる。
 ベランダとはいえ、部屋の外に出るのは数か月ぶりだ。今の御堂を部屋に繋ぎとめるものは何もない。
 ベランダの手すりに身を乗り出して下を覗き込み、目当てのものを見つけた。
 マンションの共用スペースに植樹された一本の桜。まだ頼りない若木ではあったが、常夜灯で照らされたそれは、ピンクというより白い花を枝いっぱいに誇らしげに咲かせていた。
 はるか高みから見下ろす桜は、手のひらほどの大きさにしか見えなかったが、それでも十分に今の季節を伝えてくれる。
 御堂は目を細めた。
 部屋に閉じ込められている間に、外の世界は春を迎えていたのだ。
 その春の気配を全身に浴び、その姿を瞼に焼き付けようと、更に手すりから身を乗り出した。
 真下から吹き上げる強い風が顔を叩き、濡れた髪を散らす。この春の風は、外へと一歩踏み出した御堂を歓迎し、抱きしめようとしてくれる。その腕の中に飛び込んでもいいかもしれない。きっとあの桜の下まで御堂を運んでくれるだろう。それはひどく魅力的な誘惑に思えた。
 と、目の前を白い物が横切った。
 僅かに桜色を宿した小さなそれは、ふわり、と風に乗せられて、ひらひらと視線を引き寄せる。
――花びら?
 その軌跡をたどって振り向くと、その花びらは忙しなく小刻みに左右に回転しながら、部屋の中へと吸い込まれていく。その行きつく先に、ソファの背からはみ出る克哉の頭が見えた。
 はっと我に返り、手すりから離れ、部屋に戻った。
 ソファで寝入る克哉に近付いた。肌蹴たシャツから細身の体躯が覗いている。
 眼鏡のむこうの目の下には疲労が色濃く滲む。克哉は、このまま殺されても気付かないのではないか、と思わせる程深い眠りに陥っていた。
 ここしばらく、ずっと仕事に追われているようだった。自身の睡眠時間を削ってまで、仕事をこなし、御堂の世話を焼き、御堂を抱く。
 御堂は口角をわずかに上げた。
 御堂を抱くのを止めればいいのに、止められないことを知っている。御堂が克哉に抱かれるのを抗えないように、克哉も御堂から離れられない。それが、自身と御堂の身体を蝕むことが分かっていても。
 もう一歩、克哉の元に近付いた。
 わざわざ起こしてやる義理もないだろう。そう思いつつも、ソファの背にかけられていたブランケットを手に取り広げ、冷たい外気から守るように克哉の上半身にかけた。そして、踵を返すと、一人、ベッドルームに向かった。


 真夜中、突如リビングから大きな物音が響き、ベッドの上で御堂は目を覚ました。
 乱れた荒々しい足音、そして、御堂、と自分の名を繰り返し叫ぶ声。
 ベランダを踏み荒らし、ガラス戸を乱暴に閉める音、そして、慌ただしい足音を立てながら、バスルームを確認し廊下をこちらに向かってくる。
 寝室の扉が激しく開け放たれた。部屋の電気のスイッチが音高く押される。その眩しさに顔を上げて扉の方を向いた。
「御堂…」
 克哉が眼を大きく見開き、片手に首輪を持ったまま入り口に立ち尽くしてこちらを見ていた。
「…ここにいたのか」
 大きな吐息とともに独り言のようにぼそりと呟くと、足を踏み鳴らして近寄ってくる。何をされるのかと身を強張らせた。
 上掛けを剥ぎ取られる。バスローブを羽織ったまま寝ていたことを咎められるだろうか、と身を竦ませたのも束の間、克哉は持っていた首輪をその場に捨て御堂に覆いかぶさった。
 身じろぎできないほど強い力で抱きしめられる。
「ベランダに出たのか?」
 小さい声で尋ねられて、ああ、と頷いた。
「…そうか」
 消え入りそうな声が返ってくる。顔を上げれば、レンズの奥の眸が、見たこともないような頼りない眼差しを向けていた。
 ぐっと両腕に力を込められる。流石に息苦しさを覚え、その腕から逃げようと身体を捩るが、その分だけ強く抱きしめられた。更に御堂の足を克哉の足で絡め取られる。二人の間を隔てる衣服の布地を通してもその熱を感じる程、ひたと身体を合わせてきた。
 それは既に抱擁というより、しがみつくといったほうがふさわしいほどの強い力だ。母に捨てられぬよう必死に縋りつく子のように。
 諦めて身体の力を抜き、克哉の好きにさせる。克哉は、御堂を抱き寄せる以上のことはしてこなかった。じっと息をひそめて静かにしていると、次第に規則正しい呼吸音が響き、克哉の身体の力が抜けていく。
 再び寝入ったようだった。
 克哉に気付かれぬように、御堂に絡みついている克哉の腕や足を少しずつ引き剥がしていった。
 ようやく克哉の腕から抜け出す。まずは煌々と照らされたままの部屋のライトを消そうし、ベッドサイドに置かれた照明のリモコンの方に身体の向きを変えた。その弾みで、ぐらり、と克哉の頭が揺れる。慌てて振り返れば、克哉の頭が枕から落ちていた。かけっぱなしだった眼鏡が耳から外れてずり落ちかけている。それでも克哉は目を覚ますことなく、静かな寝息は乱れることはない。
 はっと息を呑んだ。
 ライトを消すのを忘れ、御堂は隣で眠る男に顔を寄せた。克哉の眼鏡をそっと外し、枕元に置く。
 素の寝顔は端正で、見惚れる程美しく無垢で無防備だ。御堂を監禁し、凌辱の限りを尽くし、全てを奪い去った男とは思えない。
 その背に手を回して、密やかに抱きしめる。
 克哉の眠りを妨げぬよう、小さな声で呟いた。
「佐伯…私たちは相喰む蛇だ」
――ウロボロス・サークル。
 互いの尾を喰む二匹の蛇が作り出す環。
 始まりもなく終わりもない。永遠を象徴すると尊ばれた、古代の意匠であるらしい。
 だが、御堂が初めてその画を目にしたとき、嫌悪感が先だった。
 これが永遠であるはずがない。互いを喰らい尽くそうとする、浅ましさとおぞましさ。相手を先に喰らうか、共に喰らい尽くされ果てるかのどちらかだ。
 そして、また、環を作る二匹の蛇は同等ではない。片方は普通の蛇だが、他方は王冠を戴き、一対の翼と肢をもつ。その姿は日本の龍に似る。
 天を翔ける翼を持ち、世を統べる王冠を有しながら、地を這う蛇に捉われた憐れな蛇。その龍たる蛇に克哉の姿が重なる。そして御堂自身は地を這う蛇だ。龍になる事を夢見た愚かな蛇。
 愚かな蛇は、自らの力を過信し龍になろうと驕ったがため、龍たる蛇に目を付けられた。そのまま喰われて果てる寸前に龍たる蛇の尾に喰らいつき、二匹の蛇は互いを喰らい尽くしながら地の奥深くに転がり落ちていく。
 愚かな蛇に憐れな蛇、相手を解放することも自ら逃れることも出来ずに、呑み込む悦び、呑み込まれる悦びに捉われた。
 このままどこまで堕ちていくのだろう。
 どこで道を踏み外したのだろうか。別の出会い方をすれば、別の運命が待っていたのだろうか。
 数えきれないほど自問自答した問いに、御堂は小さく笑った。
 出会ったこと自体が間違いだったのだ。どこまで時間を巻き戻しても、運命を変えることは出来ない。もう引き返せないのだ。互いを支配し焼き尽くしながら先に進むことしかできない。その業は狂おしくも、なんと甘美であることか。
『一生お前の傍にいる』
 何度も投げかけられた克哉の言葉。当初は単なる脅し文句であったはずなのに、今ではその言葉を信じ身を委ねようとする自分がいる。
 克哉が御堂にその一生を捧げるというのなら、自身も克哉に同じだけのものを捧げよう。
 だが、もし、ウロボロスの蛇の片方が先に喰い尽されたとしたら、永遠を手に入れられるのは喰われた蛇と喰った蛇、一体どちらの蛇なのだろう。
 そして、残された蛇は自由を手に入れることが出来るのだろうか。それとも、そのまま自らの尾を喰みだすのだろうか。
…深く、昏い、闇の淵。そこにあるという永遠を夢見て、共に、捻じれ、爛れ、堕ちていく。
「佐伯、お前の覚悟は出来ているか?…私の覚悟は出来ている」
 僅かな温もりを求めて、御堂は克哉の肌蹴たシャツの隙間、その胸に顔を埋めた。克哉の静かな鼓動に耳を澄まし、誘う眠りに身を任せた。

(2)
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