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アンカー 1

 東京の冬は寒い。高層ビルの狭間では、ビルに跳ね返されて行き場を失った乾いた風が、その怜悧な刃を震わせながら吹きすさぶ。
 歳を経るごとに、東京の寒さが身に染みるようになってきた。温暖化というのは都市伝説に過ぎないのではないだろうか。
 一陣の鋭い風が体温を奪う。私、御堂孝典は首を竦めた。メトロの地上出口に出た瞬間に受けるいつもの洗礼だ。吐いた白い息は一瞬のうちに風に散らされ霧消する。
 それでも、その足取りは冬の始まりの時期よりも軽かった。いや、軽いというよりは浮ついているという方が正しい表現かもしれない。身体に叩きつけるようなビル風さえも気にならないほどに。
 そしてその理由は分かりすぎる程に分かっていた。自分の心が今や別のところに奪われているからだ。
 佐伯克哉。あの男がああも優しい目をすることを初めて知った。激しい熱を生み出す情熱的なキスをすることも。そして、ベッドの上では一方的に屈辱的な快楽を与えられるだけでなく、互いに分かち合う快楽があるということを柔らかく抱きとめられながら知った。
 その時の彼が自分に向けた欲情に揺らめく眼差しと甘く唆す唇を思い出して、顔が紅潮しそうになり慌ててその思考を振り払った。
 通勤途中で私は一体何を考えているのだろう。自分自身に呆れ果てる。
 とはいえ、佐伯との再会の日以降、気が付けばいつも佐伯のことを思い出している自分がいる。一晩の逢瀬ではあったが、その一瞬一瞬が強く記憶に刻み付けられている。こうも鮮烈な印象を受けるのは、その前にあった出来事を上塗りして覆い隠したいのかもしれない。
 コートのポケットから携帯を取り出して表示を確認する。その画面は静かなままだ。佐伯とは別れ際に携帯番号を交わした。だが、あの日以降連絡は入らない。それがもどかしいが、かといって自分から連絡を取るのもなんだか躊躇われる。
 佐伯克哉、と登録したナンバーを携帯で呼び出して確認する。この11桁の番号の向こうには佐伯がいるのだ。
 突然、携帯が震えた。バイブモードの携帯が着信を伝える。そしてその画面に大きく表示された名前に、心臓が大きく跳ねた。
――佐伯克哉。
 図ったようなタイミングだ。何故こんな時間に、という疑問が湧いたものの、勢いで電話に出てしまい、電話を取るタイミングが早すぎたことを後悔する。電話の向こうで、一瞬息を呑む気配がした。
「…御堂さん?」
「…ああ」
 薄っぺらなスマートフォンから聞こえてくる声は、間違いなく佐伯の声だ。まだ、その声に馴染むことが出来ず、どう反応して良いか心と身体が惑う。
「御堂さん、クリスマスは空いているか?」
「あ、ああ」
――クリスマス?
 突然言われたその単語に頭が真っ白になり、自分のスケジュールを思い出そうにも思考がフリーズしたまま、条件反射的に返事をしてしまう。
「そうか。良かった。なら、俺がそちらに迎えに行く。着いたら連絡を入れる」
「えっ?佐伯?」
 一方的にそう告げて、佐伯は電話を切った。
 ほとんど会話と言う会話を交わさぬまま、そのつながりは途切れた。
 しばし茫然と携帯の画面を眺める。通話終了の文字が点灯し、消えた。
 散らばってしまった思考を掻き集める。このわずかな時間で、クリスマスの約束をあの男としたのだ。
 胸が激しく高鳴るとともに、同じ強さで疑問が膨らんだ。
――私と佐伯は、いつ、どこで、待ち合わせをしたんだ?
 クリスマスは1週間後だ。だが、それは24日を指すのか25日を指すのか分からなかった。そして、そちらに迎えに行く、と言っていたが、そちらとは何処だ?しかも何時に?
 尽きない問いが渦巻く。
 営業出身とは思えない程、酷いアポイントの取り方ではないだろうか。
 仕事ではあれ程有能なのに、必要最低限のことさえ伝わらないこの電話はなんだったのだろう。
 電話をかけ直そうかと思ったが思いとどまった。24日にしろ25日にしろ予定はない。後、1週間あるのだ。その間に再び連絡が来るだろう。

 だが、それ以降、一切連絡が来なかった。24日になって流石にこのまま放置しておいてよいものかどうか迷った。
 会社の給湯室でコーヒーを注ぎながら、携帯を恨めし気に睨む。たまたま、コーヒーを取りに来た部下に出くわし、急いで携帯をしまった。その男性の部下は私の姿を認めるとにっこりと悪気のない笑みを浮かべた。
「御堂マネージャー、お疲れ様です。そういえば、御堂さんのクリスマスの予定はどうなっているんですか?」
 軽い調子で聞かれて、無意識に眉をひそめた。
「クリスマスとは、24日のことか?それとも25日のことか?」
 そんな返しが来るとは思っていなかったのだろう。えーっ、と部下が眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「…24日ですかね」
「それは、クリスマス・イブではないのか?」
「うーん。それはそうですが。でも、クリスマスって言ったら、24日の夜じゃないですかね。24日の夜にサンタクロースが来ますし」
「サンタクロースが来る日というのがクリスマスの日の定義なのか?」
「なんでそんなに厳しく追及するんですか」
 部下が情けない声を上げた。彼は今、私に安易に話しかけたことを猛烈に後悔しているのだろう。
 とは言え、佐伯に対しての鬱憤を晴らすために、大人気ないことをしたと少し反省した。
 そういう君はどうなんだ?と部下に話を振る。途端に、うれしそうに、今夜、彼女と過ごす予定を語りはじめた。要はこの話を聞いてほしかっただけなのだ。適当に相槌を打って、その場を後にした。
 終業時間。若い部下たちはいつもよりも忙しげに退社しはじめる。心なしか、皆、色めき立っているようだ。
 人目を忍んでデスクの下で携帯を確認する。相変わらず携帯は沈黙を保ったままだ。佐伯の言うクリスマスは今日ではなく明日のことだったのだろうか。
 そもそも、迎えに行くと言っていたが、どこに迎えに来る気なのだろう。佐伯は私の自宅を知らないはずだから、来るとしたらここ、L&B社なのだろうか。だが、あの佐伯のことだ。私の自宅を既に調べ上げている可能性も十分にあった。
 フロアからどんどんと人がいなくなるのを視界の端で眺めながら、溜まっていた仕事を片付けようと資料のファイルを取り出した。
 その時だった。携帯が震えだす。画面に表示されたその名前を見て、一回深呼吸をして心を落ち着かせてから電話に出た。
「佐伯か。なんだ?」
『今、あんたの社のビルの正面玄関前についた。出られるか?』
「今?いきなりだな」
『無理か?』
「…いや、大丈夫だ」
『待っている』
 言いたいことは色々あったが、それを言葉に乗せる前に電話が切れた。
 こうなったら、直接言うしかない。
 急いで退社の準備をしてロビーフロアに向かった。
 佐伯の姿はすぐに見つかった。彼はビルのエントランスの前に立っていた。退社の時間、無数の人間が吐き出され大きなうねりを作り出すなかで、佐伯はただ一人、その流れに逆らって佇み、人が吐き出される正面玄関を見つめていた。
 ただそこに立っているだけで、彼は周りの空気を止める。脇を通り抜ける多くの人が、その瞬間、息を呑み佐伯に視線を縫い留められる。
 長身で端正な顔立ち、営業用の笑顔を封じたその顔は、人形のように整いすぎる一方で、眼鏡の奥の眼差しは不遜な野性味を感じさせる。ただでさえ人目を引く姿形をしている佐伯は、私の姿を視野に納めると、唇に微笑を刷いて軽く片手を上げた。
 そのしなやかな所作につられて、佐伯の周りの人間も私に目を向けた。
 私自身、佐伯の姿に目を奪われその動きを止めてしまったが、周りの視線を感じ、無関係のふりを装った。視線を伏せてさり気ない仕草で佐伯の元に向かった。彼は目立ちすぎる。
 目配せをして、佐伯の脇を通り抜ける。佐伯は、上げていた片手を降ろし、身を翻して私の横に並んで歩き出した。視線を落としたまま口を開く。
「佐伯、今日はクリスマス・イブだ」
「…?」
「君は、私にクリスマスの予定を聞かなかったか?」
「まずかったか?」
「…いや」
 言いたいことが伝わらなさそうで、口をつぐんだ。今となっては大した問題でもない気がする。
 そのまま会話が途切れ二人で歩き続ける。この後、どうするのだろう、と疑問が湧いたころ、佐伯が客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。一緒に乗り込む。
「代官山のレストランに予約を取ってあります」
 そのレストラン名を聞いて驚いた。有名な高級イタリアンレストランだ。都心部のガーデンレストランということもあり、予約を取るのも難しい。
 だが、少し嫌な予感がした。
 案の定、ついてみると、クリスマス・イブという事もあり、多くのカップルと家族連れでにぎわっていた。見る限り男二人組という組み合わせはいない。
 佐伯は周囲を気にすることなくスタスタと中に入っていく。名前を告げると、窓際のテーブルに案内された。
 室内の照明が抑えられているのがせめてもの救いだったが、それでも佐伯と私の組み合わせは目立つのか、周囲の視線を感じる。
「なぜ、この店に?」
「嫌でしたか?」
「…いや、そうではない。よくこの店の予約が取れたな、と」
「取引先にここのオーナーがいたんです。頼んだらキャンセルで空いた席を快く回してくれました」
「そうか」
 本当は聞きたいことは別にあった。だが、自分の思考がまとまりそうになく、口を閉じる。
 向かい合ってテーブルにつく。若い佐伯は気にならないのだろうか。クリスマス・イブにいい歳をした男二人で来るには、あまりにも洒落すぎている。
 気恥ずかしさから伏し目がちになる。そんな私を、目の前の佐伯は視線を外すことなくじっと見つめる。
「御堂さんと二人で外食するのは初めてですね」
「…ああ、そうだな」
 メニューを渡されるが、佐伯は手っ取り早くコース料理を二人分頼んだ。
 シャンパンで形ばかりの乾杯をすると、見た目にも味にもこだわった料理が次々と運ばれてきた。
 Antipast(前菜)の冷製カッペリーニ、上に盛られているキャビアを崩しながら会話の糸口を探した。
 だが、私と佐伯の間にはあまりにも色々なことがありすぎて、その割には互いのことを知らなさ過ぎた。
 本来ならば話し合うべき事柄は多くあった。だが、どこから手を付けてよいか分からず、また、安易に触れるには躊躇われる内容ばかりで、口先で当たり障りのない話題を探す。
「そういえば、新会社の準備はどうなっているんだ?」
「着々と進んでいます」
「何か手伝えることがあれば…」
「いえ、大丈夫です」
 あっさり断られて、会話が途切れる。運ばれてきた皿に目を落とした。Antipastの二皿目、オマール海老と雲丹のマリネが花びらの形に盛られている。ワインビネガーが潮の香りを損ねない程度に上品に漂う。
 シルバーが陶磁に触れる音だけが二人の間で響く。この居心地の悪さはなんだろう。
 Primo Piatto、アスパラガスとサルシッチャのタリオリーニ、薄くスライスされた黒トリュフが添えられている。ロングパスタをフォークに絡めとりながら、最後にイタリア料理のコースを食べたのはいつだっただろうかと記憶を辿りつつ、イルミネーションが輝く庭に視線を投げた。
 佐伯も佐伯で食事を口に運ぶ以外、口を開こうとしないので、仕方なく私から新会社についていくつか質問してみた。
 共に会社を興すという割には、その会社の内容をあまりにも知らな過ぎた。佐伯は私の質問に必要最小限のことだけ答え、時として、まだ決まってないのか、隠したい事柄なのか回答を省いた。
 必然的に沈黙が支配する時間が多く占める。その沈黙を縫うように、次の皿が運ばれてきた。
 Secondo Piatto di Pesce、魚料理は魚介のヴァポーレ。蒸された舌平目に軽くナイフをあてると、ほろほろと白身が解れ、濃厚な帆立のムースが味を引き立てる。普段ならばじっくりと味わい、舌鼓をうつところだが、二人の間の無言の空間を心地よく感じる程打ち砕けているわけでもなく、互いに食事のスピードだけが速くなる。このシーズン、ほとんどの客がクリスマスディナーのコースを頼むのであろう、次の料理がすぐに運ばれてくることが唯一の救いだった。
 Secondo Piatto di Carne、肉料理は和牛ロース肉の炭火焼とフォアグラ。ここまで来ると、後はDolceの皿だけだ。繊細な霜降りのロース肉は切り分けると微細な脂滴をのせた透明な肉汁が溢れる。フォアグラも合わせて口に運ぶが、この速さで食事を進めてきた自分にとっては、この皿はいささか胃に重い。視界の端で佐伯を伺うと、若さゆえか、健啖ぶりを発揮して淡々と料理を平らげている。この耐えられない空気の重さと料理の濃厚さに堪えかねて、半分程口に運んだところで、ナイフとフォークを揃えて置いた。
「佐伯」
「何か?」
 向けられた佐伯の視線の強さに身じろいで、軽く目を伏せた。
「いや…、すまない。少し席を外す」
「どうぞ」
 ナフキンを椅子に置いて席を立った。この息苦しさを和らげようと、ゆっくりと遠回りしてレストルームに向かう。
 鏡の前でネクタイのノットに指をかけ、緩める。肺の中の空気を一掃する程の大きなため息をついた。
 食事を始めてから1時間程度しか経過していない。恐ろしく速いスピードで食事を進めている。それなのに、この一分一秒がこんなにも重く感じるのは何故だろう。
 物理学者アルバート・アインシュタインの言葉を思い出す。
“きれいな女性と席を共にすると、1時間が1分のように感じる。でも、熱いストーブの上に1分座ったら1時間のように感じるだろう。これが相対性理論だ”
 成程、これが相対性理論か。ただし、佐伯は熱いストーブの方だったが。
 一つ咳払いをして覚悟を決める。ネクタイを締め直し、再びテーブルに戻った。
 食べ残した皿は既に片付けられていた。佐伯に、すまない、と小さく呟いて、今となっては息苦しさしか感じないテーブルに着席した。
 そして、最後の皿、Dolceとエスプレッソ。クリスマスだけあって、Dolceは豪華だ。ガラスのスクエアプレートに絵画のように色彩鮮やかに盛られたチョコレートケーキやリコッタチーズのムース。金粉を混ぜた糖蜜がふりかけられている。エスプレッソを手に取りながら、これをどうしたものか、と頭を悩ませた。ただでさえ甘いものは苦手な上に、今の自分の胃にはこれを詰め込むだけの余裕はない。
 フォークを手にする気も起きず、エスプレッソを胃に流し込む。周りの客は楽しげに会話がはずみ、クリスマス特有の華やかな雰囲気を醸し出すなかで、このテーブルだけがモノクロームに沈んでいる。
 お互い同じテーブルに着席し向かい合っていながら、その思考のベクトルはねじれたままだ。決して交わることのない関係。再会し、互いの想いを交わしたと感じたのは気のせいだったのだろうか。
「出ますか」
 欝々と沈んでいく心と空気を、佐伯の一言が遮った。はっと佐伯の顔を見上げる。佐伯と一瞬視線が絡んだがすぐに顔を背けられた。
 一言告げてさっさと席を立つ佐伯を慌てて追いかけた。支払いは私が少し席を外していた間に済ませていたようだ。
 佐伯はコートを受け取り、速足で外に出る。
 そのままこちらを振り向きもせずに、ずんずんと歩いていく。私も受け取ったコートとマフラーを急いで羽織ると、その後ろ姿を追いかけた。
「待て、佐伯」
 佐伯の歩みが止まる。だが、こちらを振り返ろうとはしない。先ほどの態度からして佐伯がひどく苛立っているのが見て取れた。
「なぜ、そんなに怒っているんだ。私が何か君の気に障ったことをしたなら謝る」
「…怒っているのは、あなたの方でしょう」
「私が…?」
「ずっと、俺と視線を合わせようとしない。会った時からずっと気が逸れたままだ」
「――それは…」
 佐伯にそう思われていたことに衝撃を受けた。確かに、佐伯が私を迎えに来てから、今の今まで、正面切って佐伯の顔を見てはいなかった。食事中の佐伯の素っ気ない態度は、私の態度がもたらしたものだったのだろうか。取り繕う言葉を口にする前に、佐伯が口を開く。
「嫌なら嫌だとはっきり言えばいい」
「そうではない!」
 思わず荒げた声に、佐伯が少し驚いてこちらを振り返った。
「…ただ、少し戸惑ったんだ」
「何に?」
 そう訊き返されて返答に詰まった。何に、と問われればその全てだった。佐伯が私に向ける眼差しも、私をエスコートしようとするその態度にも、そして今日、二人で過ごしているという状況にも。
 何と伝えればいいのか、乱れる思考に翻弄される私を、佐伯は鋭い眼差しで射貫いてくる。その眼差しにさらに思考がかき回されるが、何とか言葉をつないだ。
「…君と、私の関係にまだ慣れていないんだ」
 佐伯の眸が大きく見開かれ、穴が開くほど見つめられた。その視線を受け止めきれず、再び目線を伏せた。視界の隅で、佐伯の足がこちらを向くのが見て取れた。
「なんだ、照れているのか」
「はあ?」
 佐伯の言葉に、調子外れな声を出して顔を上げた。佐伯は合点がいったとばかりに、満足そうな笑みを浮かべる。今度は私がまじまじと佐伯を見返す番だった。
 今、私が持て余し翻弄されている佐伯に対する想いは、そんな単純な一言で済ませられる感情だったのだろうか。佐伯の傲慢な勘違いが固定される前に、と咄嗟に否定した。
「違う。そうではない」
「違うのか?」
 ひとまずそう返したものの、どう違うのか、と問われれば上手く返せない。言葉に詰まる。
 だが、他人の感情のひだの隙間に付け込む才能には長けるが、おおよそ共感能力とは無縁のこの男に私の感情を勝手に単純に解釈されるのは癪に障った。
「少し待て。今、適切な言葉を探している」
「…あんたは色々難しく考えすぎなんだ」
 呆れた口調と共に、佐伯は私の手首を掴んだ。そのまま近くに停まっていたタクシーに連れ込まれる。そして、運転手にホテルの名を告げた。そのホテルは忘れもしない、佐伯と再会した日に共に過ごしたホテルだ。
 私の手を握ったままタクシーの窓の外に目を向けたままの佐伯に、呟いた。
「…君は他人の心に疎いところがある」
「他人だけでなく俺自身のも、だな。だから俺はあんたを一度は手放す羽目になった」
 こちらを振り向きもせず、ぞんざいに返すと佐伯は押し黙った。それ以上発言を許さぬ雰囲気に私も口を閉じた。
 彼が私の真意を読み解けないように、私も佐伯の思考に触れることが出来ない。
 初めて出会った時からそうだった。心の伴わないセックスを何度強いられても、その距離が近付くことはなかった。
 だが、たった一言で二人の間の障壁を氷解させることだってできたのだ。
 再び同じ過ちを繰り返したくない。それは佐伯も同じ想いのはずだ。
――そうだろう?佐伯?
 街路樹を彩る華やかなイルミネーションに冷めた視線を流す佐伯。窓に映る憮然とした佐伯の顔を一瞥すると、佐伯が視線を向けている外の景色を見遣った。
 深いところでは気持ちは通じたはずなのに、何故か表面では空回りしてしまう。そのことにもどかしさを感じながら。

(2)

 そのまま、会話という会話をしないままホテルにチェックインをした。
 部屋に入るや否や、佐伯にコートとマフラーを脱がされる。私も佐伯のコートに手をかけたが、その手は重かった。前回と同じように、自分の劣情に任せて、身体を重ねてしまうのは簡単だ。だが、本当にそれでいいのだろうか。迷いが生じ、それが自分の行動を鈍くしていた。
 佐伯のコートに手をかけたまま動きが止まった私を見かねたのか、佐伯は自らコートとマフラーを脱いだ。
 ここで何かを言わなければ、このまま流されてしまう。そんな焦りが口を開かせた。
「佐伯…」
「ああ、分かっている」
 続く言葉を探そうとしたところで、佐伯に遮られた。
 私の正面に向かい合う形で立った佐伯は、強い光を湛えた眼差しで顔を覗き込んでくる。その迫力に気圧され、佐伯の言葉に耳を傾けてみようという気になった。
「俺とあんたは今まで分かりあえたことなんてなかった。互いに互いを勝手に解釈してすれ違っていただけだ。だが、今は違う。もっとお互いを知る必要がある」
 その双眸は真摯だ。その言葉は芯を持って私に語りかける。
 そう、ここまではこの男の言う事に異存はない。
 そして、佐伯は危ういほどに顔を近づけ、湿り気を感じる低い声で囁いた。佐伯のフレグランスのラストノートに、ふわり、と鼻腔を浸され、身体の奥の埋み火が揺らめいた。
「だから、俺達のするべきことは分かっているだろう?」
 ここからだ。何を言っているのだ、この男は、となるのは。
 念のため、理解しがたい、という私の理解で齟齬はないか確認してみる。
「するべきこと?」
「ああ」
 いきなり肩を抱き寄せられ、唇を塞がれる。冷たい唇とは裏腹に息苦しさを覚える程の熱をぶつけてくるキスに、思考を奪われそうになり、必死に佐伯の背を叩き、口づけを解くように頼む。
「佐…伯っ!そうじゃない。私は、君ともっと話し合いたいんだ。せっかく、君とこういう関係になったのにっ」
「何もコミュニケーションはバーバルなものだけじゃないだろう」
 ボディトークで十分だと言わんばかりに、佐伯は再び私に唇を押し付ける。
 同時に慣れた仕草で私のジャケットを脱がせ始めた。
 互いの熱を交わすこの行為が嫌いなわけではない。むしろ、再会後に共に過ごした一夜は今までにないほど甘く官能的だった。だが、身体を繋げる行為だけでは伝えきれないことがある、ということを互いに学んだのではなかったのだろうか。
 逃れようとする顎を佐伯に捉えられ、その舌を絡めとられる。その低い声も、身体を弄る手も、挑発的な視線も、私の頭から理性を押し流そうと責め立てる。
「あんたは、身体の方がよっぽど素直だ」
「違っ…」
 言葉では抵抗したものの、身体は既に熱を煽られ、抵抗という抵抗が出来ないままでいた。鮮やかな手際でネクタイを引き抜かれ、ベッドに押し倒される。佐伯の両肩に手をかけるが、押し退けようとする想いと引き寄せようとする想いが拮抗し動けない。こめかみにキスを落としながら、佐伯が耳元で囁く。
「嫌か?」
「嫌ではないが……っ」
 嫌ではないが、物事には優先すべき順序というものがある。
 後半部の言葉は声帯を震わせる前に、耳朶を食まれ舐めあげられた衝撃で消え去った。荒い吐息が鼓膜を震わせる。
 シャツを脱がされながら素肌に佐伯の手が触れるたびに、頭の奥に響くほど鼓動が高鳴り、指先まで身体が燃え上がる。このまま、この欲情の赴くままに身を任せてもいいかもしれない、そう思った時だった。
「御堂さん、愛してますよ」
 突如、腹腔に響くほどの低い美声が耳を撫でた。その言葉を聞くにはあまりにも無防備だった。反射的に身体が竦み、一瞬遅れてその言葉を理解し、眼を瞠いて佐伯の顔を仰ぎ見た。
 その顔は傲岸不遜と言っていいほどの自信に満ちた笑みを浮かべている。
「どうした?」
「…いきなり過ぎるだろう」
「言葉で聞きたい、って言っていたのは誰だ?」
「確かにそう言ったが…」
 心と身体の奥に甘い波紋が広がり、次第に焦がれていく。佐伯はこういう反則技を予告もなしに使うところが憎たらしい。私の気概は既に佐伯のこの一言に削がれていた。耳まで朱に染まった顔を佐伯から背けた。
「あんたは言わないのか?」
 喉を甘く鳴らしながら、からかうように顔を覗き込んでくる。年相応の若さを感じさせるその笑みにつられそうになったが、憮然とした顔を作って返した。
「そうだな。『君が私を満足させてくれたら言ってやってもいい』」
 佐伯はにやりとその笑みを深めた。淡い色の虹彩に欲情を滴らせて、真っ直ぐと見返される。佐伯は首筋に顔を埋めるとペロリと舐めあげた。甘い痺れが身体の芯を伝う。佐伯の手が、身体の輪郭をなぞっていく。
「う……ふっ……」
 胸から脇腹へと這う手に気を取られていると、スラックスを剥ぎ取られる。身に着けていた下着の上から、既に形を顕わにしていた性器の輪郭を指先で辿られた。ペニスが下着の布を押し上げ、先端から滲む先走りが染みを拡げていく。その有り様が卑猥に見えて目を閉じた。
「エロい身体だな」
 その言葉にさえ欲情を煽られる。
 下着の中に手を差し込まれた。直接性器に触れられ、巧みな手淫で最短距離で高められる。ペニスは固く張りつめ、先端からは茎をぐっしょり濡らすほどの先走りが溢れていた。そこに長い指と掌が絡まり、根元から先端まで螺旋を描くように摩られる。時折根元を締め付けられ、先端の小孔を爪弾かれる。勃ちきったペニスの先端から溢れる雫を指で広げられた。そのきわどい指先に呼吸が上擦り、肌が紅潮する。
「俺の方を向いて」
 優しい声音に誘われて顔を向ければ、唇を重ねられる。唇を柔らかく押しつぶされ、舌先を小刻みに舐めあげられた。そのキスに意識を取られた隙に、佐伯の指先はペニスから下の睾丸を優しく揉みこみ、会陰を辿って後ろの窄まりに辿りつく。
「……ぁっ」
 重なり合った唇から声が漏れる。その指先から逃げようと腰を摺り上げるが、押し付けられた唇と重ねられた身体の重みでその動きを封じられた。つぷり、と長い指が身体の裡に沈められる。指が中でうねり、柔らかい壁を押す。それが、腹側のある部分を抉った時、腰が跳ね、身体が仰け反った。唇が外れ、開いた口から詰めていた息が吐き出される。
「はっ……あっ!」
 その隙を狙って、佐伯が私の下着を剥いだ。再びペニスに手を這わせられ、それだけで、身体がびくびくと震える。
「あれから俺を思い出して、一人でした?」
「な……っ」
 突然の意地の悪い質問に、顔が更に紅潮する。口をつぐむと、体内に埋め込んだ指を蠢かされた。
「あっ、…くうっ」
「ここは?自分で弄った?」
「そっちは…触ってないっ」
「ふうん。前は弄ったんだ」
「そんな、こと…聞くなっ」
 佐伯がニッと笑った。含羞に佐伯から顔を思い切り背ける。佐伯との再会後、その感触と熱が忘れられず、毎夜ベッドで一人、身体を火照らせてしまった苦しさと切なさを悟られるのは嫌だった。再び二人で会える日をどれだけ心待ちにしていたことか。一方で、佐伯は同じだけの強さで私のことを求めてくれているのか、とどれ程不安に苛まされたことか。
 その想いを知ってか知らずか、佐伯はそれ以上追及してこなかった。時折熱っぽい眼差しでこちらを見ながら、片手で体内の快楽の凝りを強く撫でつつ、もう片手でペニスを扱く。頭の芯がぐらつき劣情の熱に焼き切れそうになる。
「佐、伯っ…、佐伯っ」
「何だ?」
 その名を呼べば、佐伯の視線が向けられ声で応えられる。それだけで心が昂ぶり、続く言葉が鼻にかかったような甘く掠れた声になった。
「一人でイくのは、嫌…だ」
「そうでしたね」
 佐伯は一旦身体を離すと、無駄のない動きで残りの服を脱ぎ捨てた。張りつめた肌と隙なく締まった躯体が現れ、否応にも視線が絡みついてしまう。あれ程肉体を重ねたにもかかわらず、佐伯の裸身を見たことはほとんどない。その精悍な身体のラインに視線を這わせ軽く仰向くと、こちらをじっと見つめる佐伯の視線と重なった。
「それでは、続きをしましょうか」
 佐伯の手が頭の脇につく。ゆっくりと身体が重なり、マットレスが重みに沈んだ。私と同じく一糸まとわぬ姿で、私と等しい熱量を持つ身体。
 額、目元、頬へとキスを落とされ、くすぐるように鼻先を軽く擦り合わされる。その柔らかな感触に身体の緊張が解されていく。
「御堂、愛している」
 甘い言葉が艶を含んだ低い声で囁かれ、熱い吐息が唇を撫でる。その熱に誘われて口を開いた。
「私も、君のことが、好きだ」
 口にすることが躊躇われる言葉が、するり、と乱れた呼吸の間を縫って出てくる。
 佐伯は満足げな顔をすると、唇に音を立てて軽い口づけをした。そして、一度上体を起こすと、私の両脚の膝裏を掴み、身体を折り畳むように秘所を顕わにする。濡れた熱い屹立が双丘の間にあてがわれた。身体の力を抜こうと、静かに息を吐いた。それでも、先端が狭い入り口を押し広げて入ってくるときは、どうしようもない圧迫感と質量に呼吸が乱れ、声を抑えることが出来なかった。
「んんっ――、ああっ…!」
「相変わらず、きついな…」
 佐伯が呟く声が聴こえたが、内臓を圧迫するような苦しさを逃そうと浅い呼吸を繰り返し、シーツをきつく掴む。佐伯が動きを止めた。無理やり抉ることはせずに、私が佐伯に慣れるまで待っているようだ。
「背中に手を回して。力を抜いて」
 力が入りすぎて固まっていた指を開き、汗をうっすらと刷いた佐伯の背中に手を回す。張りだした肩甲骨と無駄なく乗った筋肉の狭間に手を這わす。
「動くぞ」
「く…ぅっ、ふっ…」
 軽く腰を揺さぶられただけで、下腹部が灼けるように熱くなる。同時に身体の奥底から快感が揺り起こされて湧き出してくる。
 徐々に強くなる律動を受け止め、佐伯の背に爪を立てる。
 重なり合う荒い息と熱い身体。頭まで突き抜ける弾けそうな快感に狂いそうになる。その一方で、どこまでも深く暖かい安堵に似た感情に身を包まれる。
 揺らいでいた身体の芯が、かちりと噛みあう感触。
 求めていたのはこれだったのかもしれない。
 愛し、愛されるという実感。
 二人の間で生み出される甘やかな快楽を分かち合う。
「さえ…っ、佐、伯っ」
「御堂――」
 深みを増した声に揺り動かされる。後の言葉が続かず、互いの名前を呼び合いながら、果てた。続いて、佐伯の滾る熱を身体の中で受け止めた。
 あともう少し、この熱を腕に抱いていたい。
 そう願いつつも、身体の力が抜け、背中に回した手が意識とともに流れ落ちていった。

「御堂さん」
 少し遠慮がちにかけられた声に意識が引き戻された。薄目を開けて佐伯を見上げた。
「御堂さん、タバコ吸っていいですか?」
 佐伯は火の点いていないタバコを片手に持ち、上半身をベッドのヘッドボードにもたれかかりながら、こちらを見ていた。ベッドサイドの読書灯の絞られた光がその端正な顔の輪郭を仄かに照らす。
「君にそんなこと訊かれたのは初めてだ」
 私の一言に、佐伯が目を瞬き、淡い色の髪を無造作に掻き上げつつ私から視線を外した。
 今まで、佐伯がタバコを吸う許可など求めてきたことはなかった。ごく当然のように、私の部屋の、私の目の前でタバコを咥え、紫煙をくゆらせていた。もちろん、それは今のような関係になる前の、一年前の話だ。
 互いの想いを確認し合い、その距離が縮まったところで、逆に佐伯に遠慮されるような関係になったのだろうか。それとも、互いの気持ちを言葉で確認したいという私の希望を酌んでくれたのかもしれない。
 その佐伯の気遣いに気恥ずかしいような、くすぐったいような感覚を覚え、くすりと笑みが漏れた。
「別に、そこまで吸いたいわけじゃない」
 言い訳口調で呟いて、困ったように首を傾げる佐伯の横顔はいつになく無防備で隙があるように見えた。
 佐伯の髪に手を伸ばし、くしゃ、と撫でつける。その弾力がある髪の感触を指の間に流しながら味わう。
「私に構わず吸いたいときに吸えばいい」
「…そうさせてもらいます」
 佐伯が私の方を振り向き、目を細めた。と、私に覆いかぶさり唇を塞ぐ。
 驚いて綻んだ唇の隙間に舌を差し入れられ、強く吸われる。突然のことに目を開き身体を強張らせると、佐伯が唇を離して悪戯っぽい笑みを浮かべ、私の濡れた唇を長い指でなぞった。
「好きな時に吸ってもいいんでしょう?」
「なっ……。勝手な解釈をするな…っ」
 後の言葉は佐伯の唇に呑み込まれた。
 この男としっかりとコミュニケーションが取れる日はくるのだろうか。一抹の不安を感じたが、そう、私と彼の時間は始まったばかりだ。
 与えられる熱の心地よさに目を閉じ、その口づけを受け容れた。

 翌朝、佐伯に起こされた時には、既にルームサービスの朝食とコーヒーが用意されていた。
 既にシャワーを浴びて身支度を整えた佐伯は、昨夜の情欲の名残を一切感じさせない。ドライな表情と態度でシャワーと食事を促される。
 窓際のテーブルで佐伯と向かい合って朝食をとる。相変わらず会話という会話はなかったが、不思議とその沈黙さえ気にならなくなっていた。
「佐伯、これ」
 忘れる前に、と鞄から包装されたプレゼントを渡す。
 少し驚いた表情を浮かべ、受け取った佐伯は、丁寧に包み紙を剥がして、えんじ色の小紋柄のネクタイを取り出す。今までの佐伯のネクタイと印象をあまり変えないように、尚且つ少し遊び心を入れて選んだネクタイだった。
「ネクタイ、ですか」
「ああ、クリスマスプレゼントに」
 佐伯にいつ呼び出されてもいいように、ここ数日ずっと鞄の奥に潜ませていた。
「ありがとうございます。…俺も用意してくれば良かったな」
「いや、気にするな。先日、テーラーに行ったついでに買っただけだ」
 本当は、佐伯へのプレゼントを選びにテーラーに行ったのだ。だが、そうとは正直に言えない辺り、私も十分に言葉が不自由だった。
「せっかくだから、御堂さん、俺にこのネクタイ結んでくれませんか」
「私が?」
 突然のリクエストに驚く。佐伯は私がプレゼントしたネクタイを手に持ちながら立ち上がり、にこやかな笑みを浮かべて私を待っている。
 なぜ、こんな甘えたことを言いだすのか分からなかったが、これが恋人同士というものなのかもしれない。佐伯の目の前に立つとネクタイを受け取り、その首にかける。
「君の結び方はプレーンノットだったか」
「いや、御堂さんと同じ結び方にして下さい」
「私の?」
 佐伯と違い、私はベストを着用しているので、ネクタイの丈が長くならないよう、長さを調節するためにセミ・ウィンザーの結び方をしていた。
 なぜ同じ結び方を求めるのか疑問に思いつつも、セミ・ウィンザーでネクタイを結う。他人のネクタイを結った経験はなく、勝手の違いに戸惑いつつも、左右対称な逆三角形を丁寧に作り、タイの根元のくぼみ、ディンプルが美しく映えるように調整する。
 少し離れてネクタイの全体像を確認し、その出来栄えに満足する。
「これでどうだ?」
「いいですね」
 レンズの奥の眼が嬉しそうに笑った。
 最後に、もう一度ノットの位置を微調整しようと佐伯のネクタイに指をかけたところで、産毛に触れるように頬にそっと指を添えられた。不意に触れられた指先の感触にさざ波のような痺れが頬を伝う。
 視線を上げると、間近で自分を覗き込んでいる蒼い虹彩が濡れて煌めいた。
「あ…」
 言葉を発する前に唇を塞がれる。自分が何を言いかけたのか分からないまま、佐伯の少し冷たく柔らかい唇に封じられる。
「んっ……ふっ、……う」
 佐伯の舌に歯列をなぞられ、歯茎を辿られる。口を軽く開いて、更に奥へと誘った。
 何度キスを交わしても不思議と飽きることはない。自らも積極的に舌を絡めて、その感触に浸っていると、不意に唇を離された。低い声で囁かれる。
「年末は空いているか?」
「あ、ああ」
 突然の質問に、ぼうっとしていた頭が処理しきれず、生返事を返してしまう。だが、流石に今回は同じ轍を踏むことはなかった。
「待て。年末とはいつのことだ?」
 佐伯の眼がにやりと笑い、強く身体を引き寄せられると、耳元に口を寄せて囁かれた。
 結局のところ、頭の中でスケジュール帳を開くまでもなく、イエスの返事を抱き返す仕草で返した。


 クリスマス。始業前のオフィスで若い部下達が楽しげに会話を交わしている。女子社員の声が響く。
「そのネクタイ、プレゼントですか?」
 聴こえてきたその言葉に思わず顔を上げた。その言葉は、私ではなく近くのデスクの部下、昨日給湯室で私に話しかけてきた部下にかけられた言葉だった。
 その部下は嬉しそうに頷いて、胸を張る。女子社員が数名集まってきた。
「やっぱり!新しい柄だからそうかなーって。しかも、彼女にそのネクタイ結んでもらったでしょ」
「え、なんで分かるの?」
「結び方がいつもと違って初々しい感じですし。それにしても、ネクタイを貰うなんてよっぽど愛されていますね!」
「なんで?」
「ネクタイのプレゼントの意味知らないんですか?“あなたに首ったけ”という意味ですよ。早速、見せつけてくれますねー」
 女子社員達の嬌声が上がる。その部下は顔を耳まで真っ赤にしながらネクタイを愛しそうに触れている。
 そして、私も、朝の佐伯の姿を思い浮かべて顔が紅潮した。
 彼の意味ありげな言葉と行動はこれだったのか。
 部下達に顔を見られないように、資料を確認するふりをして顔を伏せた。


 そして、御堂が予想した通り、クリスマスの今日、MGN社では若い佐伯部長には洒落たネクタイをプレゼントし、しかも、結び方が上手い恋人がいるという噂が瞬く間に広がったのである。
 
――Merry X’mas, Katsuya and Takanori !! 

アンカー 2
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