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ambivalent -side M_R- はじめに

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも良いという方のみお進みください。

 長編『ambivalent アンビヴァレント』の(14)から(18)の間の御堂を追った小説です。
 具体的には監禁されていた記憶を取り戻してから佐伯と再会するまでの間の話です。
 嗜虐エンドルートですので、Good Endルートの御堂の空白の一年間『Before the Dawn 夜明け前』で描かれた御堂とは違うベクトルで精神的に不安定です。ご留意ください。
途中から本編に合流します。本編が克哉視点なのに対し同場面を御堂視点で見る流れになります。

 御堂視点、といいつつ、御堂の友人医師の四栁視点も混ざってきますのでご了承ください。
 四栁がかなり重要な位置を占めます。
 全8話。

 登場人物: 御堂孝典、四栁、佐伯克哉

 以上のことをご了承いただいた上で、それでも良いよという方、よろしければお付き合い下さい。

ambivalent -side M_R-(1)
(1)

【四柳視点】

 外科医の四柳の元に彼から突然連絡がきたのは、夜、医局で一息ついた時だった。
 手術が伸びてしまい夕回診が遅れ、看護師に文句を言われながら指示を一通り出した。終わって医局に戻ろうとしたときに地震がきて、再度病棟に戻り、術後の患者や病棟を一回りし異常がないことを確認する。そして、やっと自分のデスクに戻ったときに、ちょうど携帯が鳴った。
 御堂孝典……画面に名前がでる。
 おや、と思った。学生時代からの友人で、大学を卒業してからも定期的に会ってはワインを飲み交わす仲だった。ただ、ここ半年位、連絡がつながらず疎遠になりかけていた。噂ではMGNを辞めたという話もあり、仲間の間で話題になっていた。
「もしもし?御堂?久しぶりだな」
『…四柳か?四柳なのか?」
 久しぶりに聞く電話越しの彼の声は安穏ならぬ響きをはらんでいた。
「御堂、どうした?最近連絡とれなくて、みんな心配していたぞ」
『私を助けてほしい』
 耳を疑った。その声は焦りと恐怖を含んでいたが、確かに御堂だった。四柳の知る御堂は、他人に弱みを見せる人間ではない。
「どうした?何があった?」
『…分からない』
 明らかに混乱しているようであった。落ち着けるために、あえてゆったりとした声をかける。
「御堂。落ち着くんだ。今、どこにいる?」
『自宅だと思うが…』
「家にいるんだな?」
『…多分、私の家だと思う』
 その声は不安のせいか震えており、何かに怯えているようでもあった。御堂の自宅の大体の位置は知っていた。この病院からタクシーを使えばすぐ行ける。
 御堂を落ち着かせながら、住所とマンション名、部屋番号を聞き出す。御堂は自宅の住所を淀みなく答える。一時的な混乱なのだろうか。
 白衣を脱いで急いで病院を出、タクシーを捕まえた。状況は全く分からなかったが、御堂が何か問題に巻き込まれていることは分かった。彼は学生時代からの大切な友人だ。放っておくわけにはいかない。
 ほどなく、御堂のマンションに到着した。ロビーフロアから御堂の部屋番号を呼び出す。すぐに御堂がインターフォンに出た。
「僕だ。四柳だ」
『…四柳。助けてくれ』
 声の緊迫した調子は変わってない。何ら状況は改善していないようだ。
「今行くから、開けてくれ」
 ロビーの自動ドアが開く。部屋に向かった。
 部屋のドアの鍵は開いていた。恐る恐る開く。中は明るく、何ら異変はなさそうだった。
「御堂?」
 奥のリビングから微かに声が聞こえた。靴を脱いで上がりこんだ。リビングに向かう。
 リビングに入ると、インターフォンの前で御堂が一人茫然とへたり込んでいた。片手に携帯を握っている。その眼は恐怖に見開かれ顔から血の気が引いていた。
「御堂、どうした?」
 御堂の顔が向けられる。その視線は落ち着かず、焦点が細かく震える。
「…分からない。分からないんだ」
「何があったんだ?」
 御堂は首を振って項垂れる。辺りを見渡した。生活感はあるが、きれいに片付いたリビング。御堂自身の格好も何ら不自然なところはない。御堂の近くに、部屋のカードキーが何故か転がっていた。
 屈みこんで御堂の顔を覗きこんだ。
「御堂、僕が誰だかわかるか?」
「…四柳」
「ここはどこだ?」
「…自宅だと思う」
「今日は何月何日だ?」
 御堂は首を振った。その時、御堂の呼気からアルコールの香りを感じた。この香りはワインだろうか?
 アルコールによる一時的な見当識障害なのだろうか。
 御堂が顔を上げた。震えながら声を出す。
「私は死んだはずなんだ。なぜ、ここにいる?」
「死んだ?君はちゃんと生きている」
「違う……私は死を選んだんだ」
 御堂の呼吸が荒くなる。喘ぎ喘ぎ言葉を続ける。
「でも、気付いたら、ここにいた。…目の前に、あの男がいて」
「落ち着け、御堂」
 御堂が何を言っているのかさっぱりわからなかった。だが、目の前の御堂は荒い呼吸をしながら胸をかきむしる。過呼吸発作の兆候だ。背中をさすりながら声をかける。
「ゆっくり息を吸って……吐いて」
 速く浅くなっている呼吸を落ち着かせる。呼吸が徐々に落ち着いてきたところで、御堂は更に言葉を続けた。
「私は、あの男にこの部屋に監禁されたんだ。…裸にされて、手足を鎖で繋がれて、鞭で打たれて。…酷く責められて」
 身体をぶるぶると震わせて、御堂は信じられないような恐ろしい告白をする。とても嘘を言っているようには思えなかった。
「でも……痕がないんだ」
 両手首を私に差し出した。そこには何の傷跡もない。
 御堂は自分のシャツの襟首に手をかけた。そのままボタンを引き千切る勢いで、シャツをはだけた。御堂の白い肌が覗く。
「御堂っ!?」
「四柳…私の身体に傷はあるか?」
「…ない」
 御堂の声と顔は真剣だった。その迫力に気圧される。
 よろめきながら御堂は立ち上がった。四柳の方を向いて、突然、ベルトのバックルを外し、着用していたスラックスを下着ごと引き下ろした。慌てて目を逸らす。
「御堂っ。やめろ!」
「四柳、教えてくれ!私の身体に嬲られた痕はあるか?痛めつけられた痕はあるか?」
 御堂の言葉に揶揄した響きはなかった。その言動は必死で何か追いつめられている感じがした。御堂の方を見てその視線を受け止める。
「ない。…そんな傷跡はない」
 御堂の身体はきれいだった。もしかしたら古い痕はあるのかもしれないが、少なくとも新しい痣や傷跡はなかった。
 御堂の膝が崩れ、その場にへたり込んだ。両腕で自分自身の肩を抱く。その手が震えている。
「…四柳、私は一体誰なんだ…?」
 想像していた以上に深刻な事態だということは分かった。御堂の肩に自分の爪が食い込んで、血が滲んでいる。思わず、その上から御堂の肩を抱いた。
「…お前は御堂孝典だ。落ち着け。僕と一緒に行こう」
 このまま御堂を放っておくわけにはいかなかった。御堂を立たせ、衣服を直し玄関まで連れて行った。玄関には、御堂のものと思われる靴が置いてある。それを履かせたときに、玄関の脇にハンガーで吊り下げられているジャケットに気付いた。それを取って御堂に羽織らせる。
「貴重品は?持っていくものあるか?」
 先ほど御堂の携帯は回収した。傍に落ちていたカードキーも一緒に拾った。御堂が顔を少し上げた。
「…アタッシュケース」
「どこだ?」
「クローゼット…」
 寝室だろうか。御堂を玄関に置いたまま、見に行く。すぐにそれは見つかった。
 クローゼットの前に鍵の刺さって開いた状態の銀色のアタッシュケースが置いてあった。蓋を閉めて持っていく。
「これか?」
「……」
 御堂はそのアタッシュケースを忌まわしいものを見るかのように、目を背けた。
 肯定しているのか否定しているのか分からなかったが、それを手に持つ。
「僕の病院に行こう」
 御堂を促し、部屋を出た。リビングで回収したカードキーで鍵を閉める。御堂の足取りはおぼつかなかった。
 マンションを出てタクシーを捕まえ、病院の名前を告げた。
 御堂は小さく震えるのみで、何ら言葉を発さなかった。

「緊急入院だ。男性一名。個室を用意してくれ」
 病院に着くなり、夜勤の看護師に連絡した。
「病名は?」
 看護師に聞かれ、言葉に詰まった。病名はなんだ…?御堂の呼気からアルコール臭がしたことを思い出す。
「…急性アルコール中毒だ」
 とても、そんな病態でないのは分かった。身体的に明らかな異常はなさそうだったが、アルコールが抜ければ治る、という訳ではないことは分かった。
 看護師から空いている個室の部屋番号を告げられた。御堂を連れて、個室に入る。
 御堂をベッドに座らせた。大人しくいう事を聞く。
「ここなら大丈夫だ。落ち着くまでここにいればいい」
 御堂の視線は落ち着かない。身体は相変わらず細かく震えている。
 全く状況がつかめないままだった。御堂は何かに怯え、恐怖し、混乱している。
 どうしたものか、と四柳は悩んだ。
「そういえば、今日、酒を飲んだのか?ワインとか?」
「…分からない。覚えていない」
 御堂が首を振る。会話は出来るので、せん妄ではなさそうだ。見当識障害か記憶障害か…。
「なあ、御堂。最後に覚えている記憶ってなんだ?」
 何気なしに聞いた。その瞬間、御堂の身体が強張る。目が大きく見開かれた。声にならない大きな悲鳴が上がる。咄嗟に御堂を押さえた。激しく暴れ出す。
 身体を押さえつけながら、ナースコールのボタンを押した。応答した看護師に声を張り上げて鎮静剤を持ってこさせる。
「ジアゼパム1筒、早く!」
 ただならぬ雰囲気に、看護師が鋭く返事をした。看護師が鎮静薬をシリンジに詰めて、部屋に駆けつける。
「押さえているから、肩に筋注して」
 身体をよじって暴れる御堂を押さえつけながら、シャツをはだけさせ肩を出す。
 看護師がすかさず、酒精綿で肩を拭いて鎮静薬を筋肉注射した。
 がくりと御堂の身体から力が抜けた。ベッドに横たえる。寝たようだ。
 ふぅ、と息を吐いた。全身汗をかいていた。
 看護師が聞いてきた。
「先生、点滴ラインとります?」
 ため息をついて首を振る。
「引きちぎられそうだから、やめておく」
「また暴れたら…?」
「僕を呼んでくれ。今日は院内に泊まるから」
 御堂が寝息を立てているのを確認して、病室を出た。
――御堂、お前は一体どうしたんだ?
 四柳の知っている常に冷静沈着で気位の高い御堂とは似ても似つかぬ状態だった。
 明日になれば多少落ち着いているだろうか。四柳は全く状況がつかめないまま病室を後にした。

(2)
ambivalent -side M_R-(2)

【四柳視点】

 翌朝、四柳は朝早く病棟に顔を出した。看護師に御堂の様子を聞く。幸い、昨夜はあれ以上暴れたりはしなかったようだ。
 御堂がいる個室に顔を出した。既に御堂は起きていて、ベッドの上で上半身を起こしていた。
「おはよう」
 御堂がこちらを見る。表情は昨夜より落ち着いている。
「…四柳か」
「昨夜、入院したこと覚えているか?」
「…ああ。迷惑をかけた。すまない」
 少し安堵した。昨夜より随分しっかりと受け答えが出来ている。
「名前と生年月日を聞いていいか?病院の決まりなんだ」
「…御堂孝典」
 少し気怠そうに名前と生年月日をすらすらと答える。
「ここは?」
「四柳の病院」
「今日の日付は?」
「…分からない」
「曜日は?」
 御堂が首を振った。現状はしっかり把握しているようだが、日付は昨夜から答えられない。記憶障害なのだろうか。
 御堂に今日の日付を教えた。御堂の顔が驚きで強張る。
「本当なのか?……半年前からの記憶がない……」
 記憶障害なのだろうか。
 四栁は御堂のベッドの横の椅子に腰をかけ、優しく声をかける
「なあ、御堂。答えられる範囲でいいんだ。思い出したくないことは思い出さなくていい。何があったのか教えてくれないか」
 御堂は眉間にしわを寄せ、きつく目を閉じた。少しして口を開く。
「…酷いことがあったんだ。それで、死のうと決意した。しかし、手足を拘束されていて死ねなかった。…何とか、拘束を外して死のうと思って、暴れて…そこで記憶が途切れているんだ」
 ふっ、と力ない笑いを浮かべた。
「私は死ねたと思ったんだけどな。何故か、それからの記憶を失って、今ここにいる」
「そうか。辛かったな…」
 それ以上の言葉をかけられなかった。御堂に何が起きたのか。御堂の言葉が本当だとしたら、監禁されて酷い暴行を受けたのだろう。そして記憶を失ったのだろうか。
 御堂に一通り検査をすることを告げた。ああ、と大人しく頷く。
 しかし、昨夜見た御堂の状態はなんだったのだろう。誰もいないきれいに片付いた自宅で、御堂は佇んでいた。御堂自身も身体的には異常はない。誰かに監禁されていた風でもなかった。
 いや、昨夜、御堂が『気付いたらあの男がいて…』とか言っていなかったか。
 四柳は病室を後にして、考え込んだ。

 昼休み、四栁は大学時代の同期の精神科医師に電話連絡を取った。御堂の状態を説明し、相談する。四柳は外科医だ。精神医学的なことは門外漢だった。
『頭の画像検査は?MRIとか問題はあった?』
「CTは撮ったが、特に問題なさそうだ。外傷性ではないよ。MRIは精神的に無理そうだ。採血結果は問題ない」
 MRI検査はおよそ20分以上かかる。狭くうるさい空間で今の御堂がじっと出来るとは思えなかった。
『それで、…虐待を受けた可能性があるんだって?どの種類の?』
「身体的なものだと思う。もしかしたら、精神的、性的なものもあったかもしれない」
 昨夜の状態を思い出す。彼は身体の傷跡を確認しようとして、下着まで脱いでいた。性的な暴行を受けた可能性も否定できなかった。
『体に痕はあった?』
「少なくとも新しい傷跡はなかったし、古い傷も目立つものはない。ただ…体幹や下肢の筋肉、特に大腿部が以前より委縮していた。短時間の歩行は可能だったが」
『…廃用症候群か。歩けるなら軽症かな』
「ああ。どこかに閉じ込められたりして廃用症候群が進行しつつあった可能性はある」
『もしくは、回復過程か』
 うーん、と電話の向こうで考え込む声が聞こえた。
『虐待が本当にあったと仮定しよう。それはおよそ半年前に起きた。そのショックで解離性障害、例えば健忘が起きた』
 解離性、ああ、精神的なストレスによる精神障害か。昔勉強した精神医学の記憶を手繰る。
「なんで虐待のことを覚えていて、この半年間を忘れるんだ」
『虐待の記憶と半年間の記憶は別と考えるんだよ。虐待の記憶はこの半年間には引き継がれなかった。で、虐待の記憶を思い出したときに、半年間分の記憶が消えたんだ』
「どういうことだ?」
『解離性障害というのは、心理的な要因で意識や人格が統一性を失って、記憶や意識の障害を認めることを言う。解離性同一性障害って知っているか?多重人格とかで一時期流行っただろう。あれには特徴があるんだ。人格が交代している間の記憶は引き継がれないことが多い。あれと同じようなものだ。人格が交代したかどうかは分からないが……患者の周囲は特に異常はなかったんだろう?』
「ああ。監禁も虐待もされているようには見えなかった」
『解離性障害を発症する患者には共通点がある。酷い虐待や悲嘆など大きな心的外傷を契機に発症する。自分では解決しがたく耐えがたい状況をコントロールするために、一時的に新たな人格を作ったり記憶や意識を失ったりするんだ。人の心っていうのは我々が思っている以上に強くしなやかだ。耐え切れないストレスが生じたとき、一時的に隔離し封じ込めることは多かれ少なかれよくあるんだよ』
「そうなのか」
 御堂も同じ状態だったのだろうか。
『お前の話だと、その患者は死のう、と決意したんだろう?その時に自分を捨てたんだ。で、その後、どうなったかは想像でしかないが、その記憶を封じ込めて生活していた。廃用症候群が進行過程なのか回復過程なのか分からないが、現在虐待されていた形跡がないのなら、回復過程だったのかもな。まだ残っていることを考えると、動き出したのは、ここ2,3か月のことで、それまでは解離性の混迷状態で、その後、解離性同一性障害が合併して記憶をなくして過ごしていたのかもな。推測に過ぎないけどね。あとは連れてきてくれたら診察するよ』
「今、僕にできることはあるかな?」
『そうだな…。話を聞く限り、その患者はまだ不安定だな。酷い虐待の記憶は時に自傷行為や他傷行為にはしらせる。女性の場合はリストカットになることが多いが、男性の場合は重大な結果につながることがある。気を付けろ』
 どきりとした。そんな可能性があるとは全く考慮していなかった。
 電話口で急いで礼を言い、御堂の病室に走った。部屋の扉を開ける。誰もいなかった。
 窓が少し開いている。ここの病院は安全管理のため、窓が全開しない仕様だった。
 嫌な予感がした。ナースステーションに急ぐ。
「昨夜入院した患者、どこ行った?」
「院内を散歩してくる、って言っていましたよ」
 屋上や非常口には鍵がかかっていて出られない。だとすると、病院から出ようとしたら一階の出入り口しかないだろう。筋力が弱っている御堂は、それ程移動は出来ないはずだ。
 一階の出入り口に向かって走った。一階に降りたところで、中庭に佇む病衣を着た長身の男を見つけた。
 横に立った。御堂がこちらを一瞥する。
「四柳か」
「ここで何していた」
「風にあたりに来ただけだ」
 御堂は淡々という。その言葉や表情からは何の感情も読み取れない。
「体調はどうだ?」
「……どうなんだろうな」
 御堂がふっ、と小さく笑った。
「普段の体調がどんな程度だったのか覚えていない」
「……御堂」
 思い切って口火を切った。
「約束してくれないか?決して自暴自棄になったりしないって、これ以上死のうと思ったりしないって」
 先ほど電話でもらったアドバイスを思い出す。
『その患者は真面目な性格なんだろう?なら、死のうとしない、って約束すればいい。真面目な人間は約束を守るから』
 御堂は視線を四柳から逸らして正面を向いた。
「私は、自分は死んだものと思っていた。だが、気が付いたら半年の月日が経っていて、私の身体から痕はすべて消えていた。あの酷い記憶も夢だったんだろうか」
 そう言う御堂の身体が細かく震えていることに気付いた。決して、夢なんかではなかったのだろう。少なくとも御堂にとっては紛れもない真実だった。
「四柳……。私は死なないよ。少なくともあの男を殺すまでは死ねない」
 御堂の声はぞっとする程静かだった。そしてその眼差しは今までに見たことがないほど冷たい光を湛えていた。
 他傷行為……御堂は、自傷ではなく他傷行為にはしる気なのか?
 あの男、とは御堂を酷い目にあわせた奴のことだろう。
――そんなことはさせない。
「御堂。そんなこと言うな。警察に行こう。僕も付いていくから」
 ははっ、と御堂が乾いた笑い声を出した。びっくりして御堂を見る。
「私の身体に痕が残っていたか?どうやって証明する?…そこまで全て計算済みなんだ。あの男は」
 そう言われて反論できなかった。御堂の思考力や判断力は衰えていない。
「その男が誰だか分かっているのか?」
「……」
 御堂が押し黙った。視線を気まずそうに四柳から逸らす。知っているのだ、その男を。そしてその名を四柳に告げる気はない。
「御堂、やめてくれ。そんなこと君がいうな。お願いだから約束してくれ。自分も他人も傷つけたりしないって。友としてのお願いだ。頼む」
 四柳は泣きそうな顔になって10年来の友に必死に懇願した。目の前の友の苦悩を自分は癒すことは出来ない。だが、道を踏み外すことを止めることは出来るはずだ。
 御堂は再びきつく目を閉じた。その目尻にかすかに涙がにじむ。
四柳は続けた。
「頼むから、約束してくれ。お願いだ。お前の苦しみは僕には分からない。だがお前が苦しんでいることは分かる。力になりたい。だから、そんなこと言わないでくれ」
 最後の方は、涙声になっていた。なぜこの半年の間に気付いてやれなかったのだろう。自分自身の無力さに歯噛みした。
 どれ位の時間が経っただろうか。御堂がゆっくりと目を開き、四柳に視線を向けた。
「…分かった。約束する」
 その言葉に安堵し、四栁の目から思わず涙が溢れた。
「四柳。なぜ君が泣く。患者が見たら動揺するぞ」
 御堂が小さく笑う。
 そうだな、と四柳は無理やり笑顔を作って涙を拭いた。

(3)
ambivalent -side M_R-(3)

【御堂視点】

 御堂孝典の記憶には欠落した部分がある。
 記憶を失う直前の最後の場面は、死を決意し実行したところだった。
 結局、死に損なって、その後の記憶も失った。
 気が付いたら、自宅のソファに座っていた。そして、目の前にはあの男、佐伯がいた。
 咄嗟に佐伯を突き飛ばし逃げようとしたが、意外なことに佐伯はあっさりと引き下がり、部屋の鍵ともう一つの鍵を目の前で捨てて部屋を出て行った。
 その後の混乱の記憶は途切れ途切れだ。
 その時いた部屋は自分の部屋の様だったが、御堂の記憶にある佐伯に監禁されていた時の部屋と様相が違った。自分を監禁し嬲った痕跡はどこにもなかった。そして自分は服を着ていた。ずっと全裸で拘束されていたはずだった。身体のどこにも傷跡はなかった。
 何が起きたのか分からなかった。ついさっきまで監禁され凌辱されていた記憶が、随分遠い過去のように感じた。ここで自分は何をしているのだろう、激しく混乱した。
 佐伯が捨てた銀色の鍵を拾った。クローゼットのアタッシュケースと言っていた。
 言われたところにアタッシュケースはあった。中を開ける。そこには、パソコンや何かの書類、そして自分の携帯があった。
 急いで、携帯の電源を入れ、十年来の医師の友人に連絡をした。彼は急いで駆け付けてくれ、自分を入院させたのだ。驚いたことに、最後の記憶から既に半年が過ぎていた。

 その医師の友人、四柳は御堂の話を聞いて、こう説明してくれた。
 解離性障害かもしれない、と。
 解離性障害は激しいストレスによる精神障害で、その症状は健忘だったり、意識の混迷だったり、多重人格障害だったりするのだそうだ。
 自分は、解離性障害に陥って記憶をなくした可能性があると。そして、その記憶の失っていた半年間は、今の御堂とは逆に嬲られた記憶をなくして過ごしていた可能性があるとのことだった。
 さらに自身の筋力は落ちており、その半年間も決して普通に暮らしていたわけでなく、その間も動きが制限されている状況だった可能性があるそうだ。
 それは、ずっとどこかに閉じ込められていたのか、それとも長く寝たきりの状態であったりしてここ2,3カ月の間に動けるようになったのかもしれない。
 その半年間、どのように自分は過ごしていたのだろう。

 病室で、四柳が持ってきてくれたアタッシュケースを開いた。そこには、以前使っていたノートパソコンや、手帳、財布、身分証などの私物、そしてMGNの退職の辞令を含めた退職関連の書類があった。それによると御堂は自己都合で退職したことになっていた。辞表を書いた覚えはない。佐伯が手を回したのだろうか。

――佐伯克哉。
 その名前を持つ男を思い起こすたびに、嫌悪や恐怖、そして激しい憎しみが感情を支配する。
 自分に残された最後の記憶。
 その時は、いつもよりも意識がはっきりしていた。薄暗い部屋、拘束された手足、痛めつけられた身体、意識さえ混濁して浮き沈みしていることが多かった。そこには何も希望はなかった。意識を完全に失っている間だけがわずかな安らぎだった。だが、それさえもあの男は許さなかった。あの男から逃げるためには最後の手段しかなかった。怖くはなかった。むしろ、この絶望しかない世界で生き続けることの方が怖かった。
 一度死を決意すると、不思議なことに力が湧いた。より意識がはっきりする。自分の顔に自然と笑みが浮かぶのが分かった。
「佐伯……最後にお前を殺せなかったことが心残りだ」
 呟いた言葉はかすれていて既に声にならなかった。
 思い切り、腕と脚に力をいれて、拘束具を引き千切ろうとした。手足の皮膚が破れる。でも痛みはもう感じなかった。拘束具がきつく食い込む。肉が裂けようと骨が折れようとかまわなかった。最後の力を振り絞った。そこで意識が途切れた。

 入院した当初、何度か当時のことを思い出して、過呼吸の発作を起こした。その度に鎮静剤をうたれ、無理やり寝かされた。
 精神科医の診察も受けさせられたが、もうこれ以上、御堂は自分の過去を誰かに話すつもりはなかった。
 黙り続ける御堂にその精神科医はそれ以上、過去を聞くことはなかった。世間話をし、体調を聞かれ、抗不安薬と睡眠薬を処方された。
 体調は心身ともに次第に落ち着いてきた。
 入院中に新しい部屋を手配し、退院後はそちらに住み始めた。
 とても以前の部屋には住めなかった。
 状態が安定してきたこともあり、四柳や精神科医師に勧められて仕事も始めた。MGN時代のつてであっさり決まった。
 失われた半年間、その間の手がかりは全くつかめなかった。


 夜の公園。目の前にあの男が背を向けて、ベンチに座っている。呆れるほど無防備だ。
 忍ばせていたナイフを両手で握る。的がぶれないように、しっかりと脇を締めた。あの男の脇腹を狙って、真後ろから体当たりした。
「くっ…」
 衝撃と共にあの男が呻く。スーツが裂け、皮膚がぶつりと切れる感触。筋肉をやすやすと切り裂き、内臓に深くナイフが突き刺さる。
「なっ……?」
 あの男、佐伯が驚いて振り向く。自分の身体に刺さったナイフをみて、目を見開く。
「何だ…これ、は…?」
 立ち上がろうとした佐伯の足が崩れ、そのまま御堂の足元に倒れる。
 その顔を見下ろした。驚愕と恐怖と怯えが佐伯の顔を支配する。
――そうだ。私は佐伯のこの顔が見たかった。
 気分が高揚し、笑みがこぼれる。
「誰…だ?お前は……いったい…」
 佐伯が呻きながら、御堂の顔を見上げる。
――まだ、分からないのか。愚鈍なやつだ。
 抑えきれない笑いがこみ上げる。
「は…ははっ…。ざまあみろ…。ははっ」
 屈んで佐伯の顔を覗きこむ。愉しくてしょうがない。佐伯が御堂の顔に焦点を合わせ、その顔が屈辱と恐怖で引きつった。
 佐伯の脇腹に刺したナイフをねじりながら、ゆっくりと引き抜く。大きな悲鳴があがり、傷口から血が溢れる。
「佐伯、いい声で啼けるじゃないか」
 全身を興奮が駆け巡る。それは性的な快感によく似ていた。
――そう簡単に殺しはしない。もっと私を愉しませろ。
「次はどうしてほしい?ほら、言ってみろ」
 佐伯は喘ぎながら何かを言おうとし、血が流れ続ける脇腹を手で押さえる。
「何を言っているんだ?…聞こえないな」
 再び佐伯の悲鳴が聞きたくなって、血が滴るナイフを佐伯に向かって振り下ろした。

 いつもここで目が覚める。夢だと気づいて、少しの安堵と大きな失望を毎回感じる。
 体調が落ち着いてくると同時に、佐伯を殺す夢を何度も見た。
 一度は死を決意した身だ。そして今は全てを失った身だ。今、自分が生きているのは佐伯に対する復讐の機会を与えられたからではないだろうか。
 刺し違えてもこの憎しみや恨みを晴らしたかった。
 佐伯の居場所は分かっている。ただ、実行することは出来なかった。
 四柳との約束が足枷のように自分を縛っていたのもあるし、何故か、佐伯のことを考えるたびに失われた半年間の記憶が気にかかってしょうがなかった。
 何か大切なことを忘れてしまっている気がした。
 一方で、行き場をなくした憎しみが、常に自分自身を支配している。


 御堂は四柳の診察室に入った。退院後も定期的に診察を受けていた。
 と言っても、外科医の四柳に何か治療を期待するわけではなく、顔を見せて安心させるのが目的だった。
「体調どうだ?」
「ああ。悪くはない。…最近は発作も起こさない」
 四柳は御堂の落ち着いた様子を見て、目を細めてほほ笑みを浮かべた。
――佐伯を殺す夢は今も変わらず見るよ。
 御堂は口に出さずに心の中で呟いた。
 状態が落ち着いているのは、あの時の恐怖や嫌悪を激しい憎しみで抑えているからに他ならなかった。
「四柳、一つ頼みたいことがある」
「なんだ?」
「あのマンションの部屋に入って中を確かめたい。一緒に来てくれないか」
 四柳は表情を曇らせた。
「僕は勧めないな。あの部屋はお前にとってよくない所だろう」
「だからだ。あの部屋を売ろうと思っている。その前に一度、中を確認したい。失われた半年間を取り戻せるかもしれない」
「その記憶だって、お前にとってプラスになるかどうかも分からない」
「そうかもな…」
 そう言って、御堂は微かに笑った。
「でも、私はもう大丈夫だ。もうあれから一年近く経つし、君との約束は守っている。儀式みたいなものだ。一回、中を確認して、さっさとあの部屋を売る」
「…御堂」
 四柳は少しの間考え込んで、重い口を開いた。
「言ってなかったことだが…。お前の元に駆けつけたとき、僕はあの部屋の中に入った」
「ああ」
「お前はあの部屋の中に確かに一人だった。でも、その時、違和感を覚えた」
 そこまで言って、一回息を吐いた。四柳は思い切ったように続ける。
「…僕が見た限り、あの部屋にはもう一人…二人で暮らしていた形跡があった。お前はあの部屋で誰かと住んでいた可能性がある」
 四柳は当時のことを思い起こした。
 確かに部屋には御堂しかいなかった。ただ、玄関にかけられたハンガーは二つ。リビングからみたキッチンにはグラスが二つ並べてあった。そして、アタッシュケースを取りに入った寝室。ベッドには二人分の寝具がセットされていた。
 御堂は誰かと一緒に暮らしていたのだろうか。可能性があるとしたら、一人。御堂は言っていなかったか、意識が戻った時、目の前に“あの男”がいた、と。
「何を言って…」
 御堂は絶句した。四柳の言いたい事に気付いたのだ。
 自分の身体が細かく震えだすことに気付いた。
 佐伯と…一緒に住んでいた?いや、半年間もの間、佐伯に監禁されていたのだろうか。
 動悸がする。呼吸が速く荒くなりそうになるのを何とか抑えた。
「御堂、大丈夫か?」
「大丈夫だ…」
「御堂、部屋の確認だけなら僕が代わりに行くよ。僕は、その失われた記憶はお前にとって害ではないかと危惧している」
「…いや、むしろ確認したい。私が誰かとあの部屋で過ごしていたのか。もしそうなら誰といたのか」
 四柳に任せることは簡単だ。だが、この機会を逃したら、もう二度とその記憶を取り戻す機会は失われるかもしれない。
 たとえそれがどんな記憶であろうとも、失ったままであるのは嫌だった。あの忌まわしい記憶だって、それを上回る憎しみで抑え込めたのだ。
 四柳は御堂の顔を一瞥し、ため息をついて首を振った。御堂の決意を感じ取ったのだろう。
「分かったよ。僕も一緒に行く。でも、何かあったら入院させるから。そのつもりで」
「ありがとう」
 御堂は友の好意に心から感謝した。

ambivalent -side M_R-(4)

 御堂と四栁はかつての御堂の部屋の前に立っていた。
 カードキーを使って、扉を開ける。
 自動換気システムが作動しているせいか部屋の中に湿気はこもってなかったが、ひどく埃っぽかった。
「窓を開けるか」
 部屋の中に入る四柳に御堂も続いた。
 四柳がリビングの窓を開けた。光と風が部屋に差し込み、舞った埃がきらきら輝いた。
 その部屋は時間が止まっていた。
 つい昨日まで誰かが暮らしていたように家具や雑貨が置かれていたが、一面に埃が積もっている。
 リビングに入って辺りを見渡す。この部屋で行われた様々な忌まわしい思い出が頭の中に蘇るが、無理やり意識下に抑える。
「どうだ?」
「分からないな。…全て私の物の様な気がする」
 気が付いたときに見たリビングは、自分の部屋ではないように感じたが、よくよく見ると多少家具の位置は変わっているものの、以前の自分の部屋と変わりがない。
 キッチンや洗面所を確認するが、二人が暮らしていたという明らかな確証は得られなかった。明らかに他人のものと思われるものはなかった。
 一方で、記憶を失っていた期間、自分がここで暮らしていたという実感もなかった。
 寝室に入る。確かにベッドの上に枕は二つあったが、それだけでは何とも判断できなかった。
 クローゼットを開けていく。自分の衣服がハンガーにかけられている。
 最後のクローゼットを開けた時だった。白いワイシャツが数枚かけられていた。ワイシャツにいつも刺繍している自分の名前がない。そして、その横にグレーのスーツのジャケットが一枚かけられていた。
 ジャケットを手に取る。埃が舞うとともに、タバコの微かな香りが漂った。
――この香りは……。
「御堂?…御堂!」
 四栁の声が聞こえる。遠いところから叫んでいるようだった。目の前が暗転した。


 そこは何もない空間だった。暖かくもなく寒くもなく。明るくもなく暗くもなかった。
――そうだ、私はずっとここにいた
 全ての感覚が曖昧なその世界は、厚い膜に包まれた繭の中の様な安心感があった。なんとも言えない懐かしさを感じる。
 ふと、目の前に人影を見つけた。その人物は身体を丸めて眠っている。
「おい、ここで何をしている」
 声をかけた。その人物は目を覚まし御堂を見上げた。その顔は御堂自身だった。
 自分自身がもう一人、そこにいた。
「お前は誰だ?」
『私は御堂孝典。君こそ、ここに戻ってきたのか』
「…私が御堂孝典だ」
 そのもう一人の御堂は微かにほほ笑んだ。
『知っている。君が本体だ』
「なら、お前は誰だ?」
『さっき言っただろう。私も御堂孝典だと。君から生まれたもう一人の自分だ』
「……お前が私のもう一人の人格なのか?」
『そういうことになるかな。私は、自分が仮初の人格だとは知らなかったが』
 もう一人の御堂が立ち上がる。顔にかかった前髪を指で軽く払う。その癖は御堂自身の癖と変わりなかった。目の前の自分自身は、驚きも恐れもなく目を細めて御堂を見つめていた。
 何故か奇妙な感じだった。目の前にいるのは紛れもなく自分自身なのに、自分とは雰囲気が違う。
 御堂は目の前の自分を警戒し、敵意さえ持っていた。
 一方、もう一人の自分は余裕をもった佇まいでこちらを見ている。その眼差しは優しくもある。
 その違いはどこから来るのだろう。もしや、持っている記憶の違いなのだろうか。
 御堂はその眼差しを強く見返した。
「お前は、私の失った記憶を持っているのか?」
 ああ、と目の前の自分が頷く。
『君も私が持っていない記憶を持っていた。私はその記憶がどんなものだか知らずに、その記憶を欲した。その結果、眠っていた君を起こしてしまったんだ』
 もう一人の自分が自嘲気味に笑った。
『知ろうと思わなければ良かったのかな。…でも後悔はしていない』
「私は知りたい。自分が知らない間に何が起きたのか」
『…本当に?君にとっては負担が大きすぎる記憶かもしれないぞ。だからこそ、君が目を覚ましたとき、私はここに閉じ込められた。君は知らない方がいいかもしれない』
 こちらを試してくるかのような物言いに、御堂はもう一人の自分を睨み付けた。
「それは私が判断する。どんなに辛い記憶だって、私の一部だ。勝手に失われるなんて許さない」
 目の前の自分は御堂の挑むような視線を受け止めて優しく笑った。
『私も同じことを願ったんだ。君が目覚めたとき、私が消えなかったのは、君がそれを望んだからだ。……お互いの願いが一致したならもしや……』
 そう言うともう一人の御堂は歩み寄り、御堂の肩を抱いた。一瞬身体が強張ったが、その温もりに身体の力が抜ける。
『なぜ私達が別れたままなのだと思う?持っているものが、あまりにも違いすぎたからだ』
 そう言って、一息つき、御堂の耳元で優しく囁いた。
『……私は幸せだったよ』
 もう一人の自分の背中に自然と手を回した。次の瞬間、その感触はふっと消え去った。
『一緒に戻ろう。ここは君がいるところじゃない。やり残したことがあるだろう?』
 耳元でもう一人の自分の言葉が響いた。
 視界が再び暗転する。だが、すぐに明るくなった。


「御堂…!」
 耳元で四柳の声が響く。
 ゆっくり目を開けた。かつての自分の寝室の中だった。四柳が心配そうに顔を覗きこんでいる。
「…私はどうなった?」
「いきなり倒れたんだ。大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だ」
 床に手を突いて起き上がった。衣服についた埃を払う。
「……なあ、御堂。今日は病院に泊まっていけ。高い個室を用意しておいたから」
 四柳も立ち上がり、スラックスについた埃を払う。
「大丈夫だ。私はなんともない」
 四柳は御堂を見て、目を眇めた。
「…そうは見えない。なんともないなら、なぜ泣いているんだ?」
「泣いて…?」
 自分の頬を触れた。水滴が触れる。気が付けば目から次から次へと涙が溢れていた。視界が涙でかすむ。
――なぜ、私は泣いているのだろう。

(4)
ambivalent -side M_R-(5)

 結局、その日は四柳の強い説得により四柳の病院に入院した。
 自身の失われた記憶は戻ってきた。しかし、その期間は半年間分ではなかった。
 徐々に最初から思い起こす。
 その半年の間、御堂は佐伯と暮らしていた。
 と言っても記憶が残されていたのはわずか2カ月程度。記憶の中の佐伯の話では、意識不明の期間が数か月あったようだ。
 だが、その話もどこまで本当なのか分からない。
 佐伯は御堂に対して大きな嘘をついていた。
 直前までの記憶をなくした御堂に、自分は恋人だったと偽って一緒に暮らしていたのだ。
 そして、当時の御堂はそれを疑うことなく信じていた。
 佐伯と一緒に過ごしていた期間、御堂は監禁も凌辱もされていなかった。
 御堂は佐伯によって、大切に扱われ慈しまれていた。
 その時の佐伯の姿を思い出す。今までの記憶にあった佐伯の姿とは似ても似つかなかった。常に御堂を労り、満足に動けなかった自分に献身的に尽くしていた。
――あれは贖罪だったのか。
 佐伯が時折みせた苦悩の表情は、彼自身の葛藤からくるものだったのだろうか。

 そして共に暮らしている間、恋人だったと偽っていた佐伯は、御堂に愛を告白した。
 御堂はその愛を受け入れ、同じ熱さと激しさで佐伯を求めた。
 佐伯と交わしたキスや囁かれた愛の言葉を思い出す。記憶の中の彼は自分を何度も抱いたが、それは決して強制されたものではなく、むしろ自分から積極的に誘っていた。その行為は、二人で対等に交わした純粋な愛の行為だった。
 わずかな期間であったが、記憶を取り戻す瞬間まで自分たちは恋人同士だった。少なくとも御堂自身はそう思っていた。
 そして、自身が彼に対する憎しみを持たなければ、あれ程深く佐伯を愛することが出来たことに驚いた。
『…さよなら』
 御堂が記憶を取り戻したときに、佐伯はそう一言残して去って行った。あの時、佐伯は何を思っていたのだろう。
 だが、一方で褪せることない憎しみが御堂の中に澱のように滞っていることを自覚した。
 激しい憎悪と真摯な愛、両方の相反する感情が自身の中にあった。それは水と油のように決して交わる事がなく、自身の心の中で同じ強さをもって渦巻いた。
――私は佐伯をどうしたいのだろうか。
 御堂は首を振った。
 そもそも、愛していたと言ってもそれは佐伯の嘘が土台になって生まれたものではないか。
 佐伯の愛も自分を騙していただけではないのだろうか。
 しかし、偽りから生じた愛は偽りに過ぎないのだろうか。
 御堂は、今までのように佐伯を憎めなくなったことに気が付いた。憎めば憎むほど、嫌悪すれば嫌悪する程、御堂の記憶にあるもう一人の佐伯が邪魔をする。
 このアンビヴァレントな二つの感情は御堂自身を引き裂くかのように苦しめた。

 その日の夜、いつも見る夢を見た。だが、いつもと違った。
 背を向けて佇む佐伯の脇腹を思い切り突き刺す。佐伯が驚いて振り向き、御堂の顔を視界に捉えた。その佐伯の顔には恐れも怯えもなかった。佐伯は御堂を見てほほ笑みを浮かべた。
「御堂、好きだ」
 その言葉に驚き、御堂は思わずナイフから手を離し逃げようとした。佐伯はその手をナイフごと掴み、更に深く佐伯自身の身体の中にナイフを抉らせる。その痛みと苦しみに喘ぎながら佐伯は御堂に向かって言葉をかけた。
「すまない…御堂。…すまない」
――なぜ、君が謝る?
 佐伯はナイフから手を離して、震える手で御堂の頬に手を添えた。御堂を見る佐伯の眼差しはどこまでも優しい。
「御堂、愛している」
 佐伯はふっと笑った。そして、頬に添えられた手が、がくりと落ちた。たちまち佐伯の目の焦点が合わなくなり、色を失う。
 そのまま身体が崩れ落ちる。思わずその身体を支えた。
 自分の手に佐伯からあふれ出た大量の温かい血が滴る。
「佐伯っ!私は、君が…君のことが……っ!」
 憎い、と言いたいのか、好きだ、と言いたいのか分からなかった。言葉が出なくて叫ぶ。
 その自分の叫び声で目を覚ました。

 夢だと気づいて、心底安堵した。激しい動悸が持続していた。
 一片の迷いもなく佐伯を憎んでいた時の方が楽だったのではないだろうか。
『やり残したことがあるんだろう?』
 もう一人の自分の言葉を思い出す。
 やり残したこと……。
――私は、佐伯に直接会って確かめなくてはいけない
 自分が佐伯に対して持っている感情は一体どちらなのか。
 そして、自分の記憶の中の二人の佐伯、どちらが本当の佐伯なのか。
 
「御堂、体調どうだ?」
 翌朝、四柳が病室に入ってくる。
「ああ、大丈夫だ」
 大丈夫、という訳ではなかった。引きちぎられるように苦しかった。でも、御堂自身がやるべきことは見えていた。
 四柳は、じっと御堂を見つめる。その視線を逸らすことなく受け止めた。
「…記憶は戻ったのか?」
「……戻ったよ」
 それ以上は語るつもりはなかった。沈黙が流れる。
 少しして、そうか、と四柳は呟いた。
「僕との約束覚えているか?」
「覚えている。今までも守ってきたし、これからも守る」
 しっかりと四柳の目を見据えて答えた。四柳は優しく笑う。
「なら、退院許可を出すよ」
 四柳の友情と気遣いに感謝を込めて、御堂は笑みを返した。


 それから少しして、御堂は職場の応接室で佐伯と向き合った。
 一年前と比べて少し痩せたのだろうか。顔が細くなり、眼光の鋭さが目立つ。
 佐伯を見て、恐怖や嫌悪の記憶がよみがえる。だが、それを凌駕する憎しみが御堂の感情を支配した。同時に、佐伯を愛した思い出も同じだけの重さをもって自分の中で拮抗した。 
 自分の感情を無理やり殺し、佐伯から目を逸らす。
 佐伯はこの会社に御堂がいることを全く知らなかったようだった。御堂の顔をみて、眼鏡の奥の瞳孔が開く。様々な感情が入り混じったような複雑な表情が一瞬見えたが、すぐに元の営業スマイルに戻った。
「初めまして。企画担当者の御堂です。この度は、わが社とご契約いただきありがとうございます」
 自分から口火を切った。その声に何の感情も乗せないように気を付ける。佐伯も同様に挨拶を返した。
「…初めまして。MGNの企画開発部の佐伯です」
 彼の声色はビジネス用のもので、そこには何ら個人的な感情は感じられなかった。
 名刺交換を行う。その際に指が触れそうな距離に近づいた。ごくわずかに佐伯の指が震えていることに気が付いた。
――佐伯、今、お前は何を思っている?
 佐伯と契約について話を詰める社長の横で、御堂は黙ったまま佐伯の書類を持つ手元を見つめた。
 佐伯はグレーのスーツを着ていた。御堂のかつての部屋に残されたスーツのジャケットと同じ色合だ。
 2回目の入院の後、一人で部屋に戻って佐伯のジャケットを回収した。クリーニングに出し、今も御堂の部屋のクローゼットの奥にかけられている。持ってきて突っ返してやればよかったか。御堂は微かに笑みを浮かべた。
 
 打ち合わせを終えて、社を出る佐伯を追いかけた。あれ位で終わらす気はなかった。
 すっかり日は落ちて、辺りは暗くなっていたが佐伯の姿はすぐに見つかった。
 佐伯はビルを出て少し歩いたところで、じっと社のビルを見上げていた。スーツの上からでも、佐伯の身体のラインが以前と比べて細くなったことが分かる。相変わらず乱れた食生活を続けているのだろうか。今の佐伯なら御堂でも勝てる気がした。
 佐伯は何か思いを馳せているようで、御堂が近付いても気づく気配はなかった。
 少しして佐伯が視線を戻し、目の前の御堂の姿を捉えた。驚いたのか、目を見張りわずかに身じろぐ。だが、すぐにいつもの営業スマイルを浮かべた。
「どうしました?なにか、連絡漏れでも?」
 目を眇めて佐伯を一瞥した。
――いつまでその猿芝居を続けるつもりだ。
「佐伯、ついてこい。話がある」
 そう一言告げて、歩き出した。佐伯が背後からついてくる気配がした。
 自分の中に今までの記憶と多くの感情が渦巻く。だが、決意と共に心は徐々に落ち着いてきた。
――いい加減、決着をつけようじゃないか
 それは佐伯と自分との決着であり、自分自身の相反する感情に対する決着だった。
 自身の中で激しく拮抗する二つの感情から一刻も早く逃れたかった。
 だが、佐伯と再会したとき、御堂は気付いてしまった。
 あれ程憎んで殺したいとまで思っていたのに、佐伯を殺すことが出来なくなってしまっている自分に。
――私は佐伯を愛していたし、今も愛している。
 そして、同時に恐れてもいるし、憎んでもいる。
 自分はこの葛藤を乗り越えることが出来るのだろうか。
――佐伯、私はどうすればいい?
 後ろからついてくる佐伯に心の中で呟いた。

(5)
ambivalent -side M_R-(6)

 御堂は社屋ビルの近くの公園に向かった。
 日中は休憩を取るビジネスマンが溢れるが、既に日が暮れたこの時間帯は全く人影がない。
 あの夢の中に出てくる公園のようだった。

 公園の中央まで歩き、佐伯の方を振り返った。佐伯も数歩の距離をとって歩みを止める。
 その顔は月明かりで照らされるが、何ら表情を読み取ることが出来なかった。
 意を決して口を開く。
「…最近、思い出した。記憶を失っていた時のことを」
 佐伯がわずかに息を飲むのが見て取れた。この男の本心がどこにあるのか見極めなくてはならない。あえて、威圧的に話をつなげた。
「楽しかったか?記憶のない私に恋人だと偽ってつけ込んだのは?」
 佐伯の目が見開かれる。だが、すぐに薄い笑いがその顔に浮かんだ。
「…ああ。楽しかったさ。あんたは俺の言うことを、微塵も疑いもせず、何でも信じた」
 その佐伯の顔は、御堂を嬲り続けたときと同じ嘲笑が浮かんでいた。
「あんた、プライベートでは結構甘えるんだな。自分を壊した張本人の男に、すり寄ってくる姿はかわいかったよ」
――この男は…っ!
 御堂自身の中に憎悪が一気に熱を持って感情を支配する。
「貴様っ!!」
 瞬間、気付けば佐伯に詰め寄り、その襟元を両手できつく締め上げていた。佐伯は御堂を見据えたまま、その酷薄な笑みを崩さない
「っ…あんたは…どうだったんだ?あんたも、楽しんだだろう?…それともひどく扱われた方がよかったか?…くっ」
 一度は消えたと思った殺意が御堂の中にふつふつと生まれる。自然と首を締め上げる力が強くなった。佐伯の顔が息苦しさに歪み、赤くなる。佐伯がすっと目を閉じた。それはまるで自分の運命を悟り、覚悟したかのようだった。
 その時、はっと気付いた。
――なぜ、抵抗しない?
 夢の中で自身を自らナイフで深く抉らせた佐伯の姿と重なった。思わず片手を離す。
 急に呼吸が楽になり、佐伯が身体を折って激しくむせる。しかし、そのまま逃げようともせず、抵抗もせず、襟首を掴まれたままの状態で、荒い呼吸をしながら再び顔を上げて御堂に向き直った。
――……この男は死ぬ気だ。
 離した拳を強く握りしめた。この男の真意はどこにあるのだろう。レンズの奥にある双眸がわずかに優しく御堂を見つめた気がした。しかし、すぐ表情が読めなくなる。喘ぎながら佐伯が口を開いた。
「ははっ…俺の事が忘れられなかったのか…んっ」
――私が聞きたいのはそんな言葉ではないっ。
 思わず、襟首を引き寄せて御堂は自分の唇で佐伯の口を塞いだ。勢いよくぶつかった歯列から音が聞こえ、佐伯の唇を切った感触があった。すぐに唇を離す。
 佐伯の目が大きく見開かれるのが分かった。佐伯の目から御堂は視線を外さず、自分の口を手の甲でぬぐう。
 自身の中の激しい感情が抑えられなかった。これは憎しみなのだろうか、愛しさなのだろうか。
「お前と交わしたキスも、お前が囁いた愛の言葉も、全て偽りだったというのか!」
「…!」
 一度自分の気持ちをぶつけてしまうと、もう収まりがつかなかった。
「私はお前を憎んでいるし、殺せるものなら殺したい。だけど、記憶の中にあるもう一人のお前が私を苦しめる。教えてくれ、どちらが本当のお前なんだ」
 この苦しさから解放してほしい。自然と目元が熱くなり、涙がにじむのが分かった。
 佐伯が愕然としてこちらを見ているのが分かった。
 その顔から視線を外すことが出来なかった。佐伯が自分をどう思っているのか、見極めたかった。
「…偽りなんかじゃない」
 絞り出されるような声が聞こえた。それははっきりと耳に届いた。
 次の瞬間、頭と腰に手を回された。強く引き寄せられ、熱い唇を押し当てられる。
 咄嗟に、両手をつっぱって逃れようとするが、佐伯の力は強く意に介されずに口内に舌を差し入れられ、舌を絡められた。
「…ふっ…んっ」
 切れた唇から佐伯の血の味が口内に広がる。かつて佐伯と交わしたキスを思い出し、自然と身体から力が抜けた。
 唇が離された時、既に全身から力が抜けていた。体が崩れ落ちそうになる。その体を佐伯は掴んで引き寄せた。佐伯の胸に顔がうずまる。その温もりは、共に恋人として過ごした時の感触を呼び起こした。
「どうした?」
「…お前の存在は私の心を乱す。苦しくて耐えられない。…私はどうすればいい?」
 自分の気持ちは既に決着がついていた。佐伯のことを愛する気持ちが感情を支配していた。それでも今までとは違う別種の苦しさが感情を支配する。
「俺の元に堕ちてくるか?」
 その声は優しかった。だが、佐伯によって行われた酷い行為を思い出し、力なく首を振った。一方で、もう一度、憎しみの記憶を忘れていた頃の様に佐伯を愛したい気持ちがあった。
「…お前のところに堕ちれば、…少しは楽になれるのか?」
「さあな。でも、俺がお前と一緒にどこまでも堕ちてやる」
 その言い草はかつてのような傲慢さを感じさせた。一方で、自分を真摯に優しく見つめる眼差しに気付いていた。自分はこの男のこういう部分に惹かれたのだろうか。微かに笑みを浮かべた。
「それも悪くないな」
 再び引き寄せされ、そのまま唇を重ねた。今度は抵抗せずそのキスを受け入れた。熱い吐息が口内を満たす。かつての交わしたキスの記憶が蘇る。同じ熱さと激しさで佐伯とキスを交わした。衣服を通してもお互いの身体が熱くなるのを感じた。
 キスが解かれ、佐伯が顔を覗きこむ。その眼差しは有無を言わせず強く熱かった。
「ついてこい。これだけじゃ足りない」
 佐伯は御堂の腕を掴んで歩き出した。抵抗できずにそのまま従った。

(6)
ambivalent -side M_R-(7)

 タクシーに乗せられ、ホテルに連れてかれる傍ら、これでいいのだろうか、と御堂は自問自答した。
 佐伯を愛する気持ちは確かにある。しかし、一方で佐伯が自分に対して行った、非情な仕打ちは忘れたわけではない。そのために一度は死さえ決意し実行したのだ。
 再び同じことが繰り返される可能性はないのだろうか。
 当時の恐怖と苦しさを思い出して、身体が細かく小さく震えた。
 互いに無言のまま、ホテルについた。部屋に入るや否や、佐伯にスーツのジャケットとベストを脱がされた。
 不安と恐れで動けなかった。これから行われる行為はかつて御堂を貶めた行為であり、一方ではお互いの愛を交わした行為だった。
 御堂の震えに気付いたのか、佐伯の手が止まった。
「俺が怖いか?」
 その声に揶揄した響きはなく、苦しさを含んだ声色だった。
 佐伯の顔を一瞥した。その真っ直ぐと自分に向けられていた眼差しは苦悩に満ちていた。その眼は共に過ごした期間、何度も見た眼だった。その眼差しに促され、素直に不安と恐れを吐露する。
「ああ、怖い…。お前は一片のためらいもなく、私の心も身体も徹底的に蹂躙した」
 背中に佐伯の手がそっと回された。その感触にびくっと体が強張る。
「すまなかった」
 短い一言だった。だが、その一言に佐伯の全ての苦悩と後悔が込められているように感じた。その一言であの行為を許せるのだろうか。
 だが、佐伯と共に過ごした期間、佐伯が見せた苦悩はずっとこの一言を言いたかったのだろうということは分かった。
 背中に回された手から優しい温もりが伝わる。次第に自分の恐怖や不安が引いてくるのが分かった。佐伯の顔を見上げた。
「佐伯、君は公園で私を怒らせてどうするつもりだった?」
「…あんたになら殺されてもいいと思った」
――やはり、この男は。
 勝手な言い草に怒りがこみ上げる。危うく四栁との約束を破りそうになったし、佐伯の思惑に乗せられそうになった自分にも腹が立った。
「相変わらず傲慢で自分勝手な男だな」
 そう言って、佐伯のうなじに手を回しため息をついた。それでも、この男を愛しく思う気持ちは偽りではない。
「…私もどうかしている」
 再び口づけを交わした。短いキスを何度も交わす。佐伯が口を開く。
「本当にいいのか?」
 その言葉には決断しきれない不安と戸惑いが感じられた。
「…君はそればかりだな」
 共に過ごした間、初めて身体を重ねた時も同じことを言われたのを思い出す。
 あの時は自分から誘ったのだった。佐伯のネクタイのノットに指をかけてほどく。
 お互いの服を脱がせつつ、その肌の感触を確かめようと、手を這わす。佐伯にうなじを吸われて思わず声をあげた。そのままベッドに押し倒された。
 佐伯が顔を覗き込む。その眼差しは真摯で優しい。
「御堂、好きだ」
 その言葉に心をくすぐられる。一年前に何度も聞いた言葉で、ずっと待ち望んでいた言葉だった。だが、それを悟られぬよう、素知らぬ振りをする。
「いつもより告白のタイミングが早くないか?」
 佐伯がニッと笑った。強く抱きしめられる。はだけたシャツの鎖骨から胸元まで佐伯の唇と舌が這わされた。胸の突起を強く刺激され、喘ぎ声が漏れた。
「う…あっ」
 一年間、禁欲を保っていた身体だったが、佐伯の指や唇にちょっとした刺激に反応し、電撃の様な強烈な感覚をもたらす。一年前に佐伯に抱かれた感触を身体はしっかり覚えていた。
 佐伯に触れられるたびに、抑えきれない喘ぎ声が絶え間なく漏れる。その自分の声に羞恥を感じるが、それ以上に佐伯を欲していた。佐伯の身体に手を回し、強く引き寄せる。
 佐伯の指が御堂のズボンのベルトにかかり、外される。そのままズボンを下着ごと下ろされて完全に脱がされた。佐伯が一旦身体を離し、自身の服も脱ぎ捨てる。
 その裸の姿に思わず目を逸らした。
 再び覆いかぶさってくる。身体をまさぐりながら、既に立ち上がっていたペニスに佐伯は舌を這わして口に含み唇で揉みしだかれる。
「…っぁ、佐、伯…!」
「もう、こんなに感じているのか。相変わらず感じやすいな」
そのいたずらっぽい口調に佐伯を睨み付けた。
「誰っ、の、せいだ…!」
 ふっと笑った佐伯は指を伸ばして後孔を探りあて、その窄まりをなぞった。その感触に体が震えて、思わず息をのむ。
「ここを、他の誰かに触らせたことはあったのか?」
 佐伯がそれを気にしている事に笑みが漏れる。そんな恋人らしい嫉妬のような感情を露わにする佐伯を可笑しくも愛おしい。
「んっ…知りたいか?」
「ああ」
 あえて、意地悪く返答する。佐伯の指がその窄まりに差し込まれた。
「っ…あっ!そうだな…佐伯が、教えてくれたら…教えてもいい」
「なら、直接体に聞くからいい」
 佐伯はにやりと笑って、足の付け根を強く舐め上げてくる。片脚が跳ね上がったのを捉え、ひざ裏を掴み胸の方に折り曲げられた。
 秘められた部位があらわになる。脚の間に体を入れ、脚を大きく開かされる。思わず羞恥に喘いだ。
「…くっ…ぁっ」
 ペニスを優しく掴まれ擦られる。裏筋に指を這わされ、先端を強くいじられる。張りつめたペニスから溢れた粘液が淫猥な音をたてた。
「ああっ!…やめっ…はあっ」
 同時にアヌスをいじられ、快楽の喘ぎ声が漏れ出る。
「俺の背中に手を回して。…挿れるぞ」
 シーツを握りしめていた手を佐伯の背中に回された。
 後孔に熱く硬い屹立があてられる。思わず息を飲んだ。そのままぐっと押し込まれる。
「ぅああっ!」
 一年ぶりのその違和感に悲鳴をあげて体を大きくのけぞった。佐伯の背中に爪を立てる。狭い肉壁を無理やり広げようとする動きに、反射的に腰を引いて逃げようとするが、佐伯はそのまま腰を浅く動かしながら、さらに奥へと進めていく。
「ぅう…あっ。はぁ…」
 呼吸が荒くなる。その熱い肉の塊に神経を集中し、さらに悲鳴が上がりそうになるのを飲み込む。その緊張を感じ取ったのか、佐伯は一旦動きを止めて、うなじに顔を寄せられた。
「御堂、好きだ」
 愛の言葉を吐かれる。そう言いつつも、より深くより強く抉ろうとする腰の動きは止めない。かつて無理やり組み敷かれた苦しみを思い出した。
「…私は…お前が、憎いっ…あぁっ」
 その瞬間、自身の内奥の膨らみを強く抉られた。その強い悦楽に嬌声があがる。
 佐伯は腰を深くグラインドさせ、より深く挿入する。その衝撃と快楽に震える身体を佐伯が優しく抱きかかえられた。お互いの肌が密着し、腰の動きと合わさって官能がより昂ぶる。
「佐、伯…、あぁっ…佐伯っ」
 気付けば佐伯の名前をうわ言のように唱えていた。佐伯が一旦動きを止めて、お互いの視線を合わせた。
「孝典、俺の所に堕ちてこい。…一緒に堕ちよう」
 その眼差しはかつての熱さと激しさを持っていた。
――私は佐伯克哉を愛している。
 自分の揺らぎない気持ちを確信した。その眼差しを同じ強さで見返す。
「克哉…ああ…お前と堕ちる」
「愛している、孝典」
 その言葉に更に快感を揺さぶられた。唇を重ね合わせる。佐伯が大きく激しく腰を動かす。もう限界だった。叫び共にペニスが爆ぜて精液が迸る。同時に身体の中の佐伯のそれもより質量を増して、達したのが分かった。奥深くに熱い精液を放たれる。その激しい快楽に意識が遠のいた。

 身体を優しく拭われる感触に目を覚ました。気を失っていたわずかな間に、佐伯が後始末をしてくれたようだった。佐伯が隣に仰向けに転がった。まだ息が乱れている。
 上半身を起こして、こちらを覗き込んできた。
「御堂」
 佐伯の顔を見上げた。
「お前は俺のことどう思っている?」
「さっき言っただろう」
 この男は存外心配性だ。共に過ごしていた間、常に気を遣われて鬱陶しく思っていたことを思い出す。一瞬笑みが浮かびそうになったが、表情を見られぬよう背を向けた。
 佐伯に対する気持ちはもう揺らがない。だが、佐伯を恐れ憎んでいた気持ちも否定しない。
「君を恐れているし、憎んでいる。…だが、君を愛している」
 背中から佐伯に抱きしめられた。反射的に身じろぐ。汗ばんだ身体だったが不快感よりも愛おしさを覚えた。
 今この瞬間、こうして二人で触れ合えている事に限りない幸せを感じた。


「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
 声をかけられ、ぼんやりとした意識が覚醒する。目を開き、光が差し込んで明るい部屋の中を見渡した。
「シャワー浴びたらどうです?」
 佐伯がこちらを優しい眼差しで見つめていた。佐伯は既にシャワーを浴びたようで、裸のままバスタオルで頭を拭いている。目のやり場に困り思わず視線を逸らした。
 昨夜の出来事がしっかりと思い起こされる。自分の痴態を思い出し、羞恥から顔をそむけたままシャワーを浴びに行った。
「朝食、食べませんか」
 シャワーから出たところで佐伯に声をかけられた。いつの間にかルームサービスの朝食が部屋にセットされていた。向かい合って座り、朝食を口にする。共に過ごしていた時にいつもこうして朝食をとっていたことを思い出す。
 お互い無言のまま食事を終えて、身支度を整えていると、何気なく佐伯が話しかけてくる。
「今回の契約の締結を機に、俺はMGNを辞めるつもりだ」
「そうか」
 素っ気なく返事をする。この男の思考回路は理解不能な点が多々ある。一々反応していられない。
「それで、会社を立ち上げる。…御堂、今の会社を辞めて俺の会社に来い」
 さすがに看過できない言葉に、身支度をしていた手を止めて佐伯の方を振り向いた。佐伯は楽しげな顔でこちらを見ている。
「なぜ、私が君の指図を受けなくてはならない」
 自分の言葉に佐伯はさらに嬉しそうに笑みをこぼす。
「お前は俺とともに堕ちるって言っただろう」
「…ああ、言ったな」
 そういえば、言った。あの時、この男と共に生きることを決意したのだ。
「私を失望させるなよ。佐伯克哉」
 その言葉に自信に満ちた笑みを返された。
 佐伯が近付き体を引き寄せられた。お互いに唇を重ねる。そっと佐伯の背中に手を回した。
この男を憎み恐れ、殺意さえ持っていた自分自身の心が今は静まり、感情が愛しさに支配されるのが分かる。あの苦しみがすっかり氷解し満たされた気持ちになっていた。
 佐伯の真摯な眼差しを受け止め、同じ熱さで見返した。
「お前となら、世界でも手に入れられるさ」
 佐伯のその言葉に笑みを浮かべた。お互いの体を寄せ合い、例えようのない甘いキスをしばし交わした。

(7)
Lies and Truth(8)

 その日、四柳が出席した学生時代の友人の集まりに御堂孝典は一人の青年を連れてきた。
 御堂がこの会に出席するのは久しぶりだ。
 およそ一年と少し前、四柳は錯乱した御堂を保護した。
 彼は酷い精神的外傷を抱え、直前の半年間の記憶をなくしていた。その為なのか、彼は四柳が知る以前の御堂とは違った。
 過去に怯えて恐怖する一方で、ぞっとする程の冷たい目をすることがあった。
 それは、自分自身を酷い目にあわせた“あの男”に対する恐怖や憎悪からくるものは容易に推測できた。彼の中に獰猛な獣が住んでいて、御堂自身を内から食い破りかねないような印象だった。
 御堂の苦悩を救う事は出来なかったが、「自分を傷つけない。他人を傷つけない」と御堂と約束を交わすことだけは出来た。
 徐々に御堂は落ち着いてきたように見えた。しかし、かつて彼が暮らしていた部屋に行ってから、再び彼に異変が訪れた。
 半年間の記憶が戻った、彼は言った。その記憶がどのようなものだったか、彼が語ることはなかった。
 ただ、入院させた病室の中で、彼はずっと何か思い詰めたような切なげな顔をして考え込んでいた。
 その時を境に御堂の眼差しが少し変化した。時折みせる冷たい眼差しが苦しそうなものに変わった。何かに酷く苦しみ葛藤しているのは見て取れたが、そんな彼を見守ることしかできない自分自身がもどかしかった。
 だが、それも、しばらくしてなくなった。ある日、診察室を訪れた彼は、表情から立ち振る舞いまで何もかも以前の御堂に戻ったようだった。いや、違う。以前の御堂より、より美しい強さをもって、生まれ変わったようだった。
 彼は乗り越えたのだ。自分の中の非常に大きな問題を何らかの形で片づけたのだ。
『人の心っていうのは、我々が思っている以上に強くしなやかだ』
 同期の精神科医の言葉を思い出す。その通りだと思う。
 たとえ、どんなに辛いことが起きたとしても、人はそれを耐え忍び克服する力を持っている。
 そして、彼は、昔以上の存在感をもってこの場にいる。

 御堂が連れてきた青年は、かつて彼が連れてきたことがあり面識があった。
 その青年は佐伯克哉と言った。年若い彼は、四柳たちに臆することなく場に交じり、場を盛り上げた。その快活さは以前と同様だ。
 彼と御堂は会社を立ち上げ、共同経営者となったそうだ。この二人ならどんな事業でも上手くいくように思えた。

 散会の間際、四柳は佐伯に話しかけられた。
「御堂さんがあなたに随分助けられたと言っていました。御堂さんを支えていただきありがとうございます」
 そう言って彼は頭を下げた。
 なぜ君が礼を言う?と思わず聞き返しかけたが、野暮なことを問うのはやめておいた。彼と御堂が交わす視線と表情にはある種の感情が混じっていることに気が付いていた。二人の間には特別な深い絆があるのだろう。
「当然のことだ。彼は僕の大切な友達だからね。…君こそ、御堂の力になって、彼を助けてあげてくれ」
「ええ。俺の全てをかけて」
 彼は真っ直ぐな視線を四柳に向け、はっきりと迷いのない言葉で言い切った。
 その眼差し強さと表情の揺らぎのなさは、御堂が持つそれと同じ種類のものだった。彼も何か大きな葛藤を乗り越えたのだろうか。そして今、御堂と特別な絆を築いている。
――もしや、君は“あの男”なのか?
 何をばかなことを。
四栁は、一瞬頭の中に浮かんだ淡い疑念をすぐに打ち消した。それに、御堂の中では既に決着がついた問題だ。外野が口を出すことではない。
「何を話しているんだ?」
 御堂が笑みを浮かべてやってきた。
「俺の知らない御堂さんの学生時代を聞き出していたんです」
 そう言って佐伯が笑みを返す。御堂はそれを笑って流した。
「四柳、今日はじっくり話す時間がなかった。また今度な」
「お前が久々に参加したから、他の奴らにお前を取られてしまったよ」
 そう言って、肩をすくめて見せた。
「今度は邪魔が入らないよう3人で飲みに行きましょう」
 口を挟んできた佐伯を御堂が軽く睨み付けた。
「邪魔が入らないよう、と言うなら、佐伯、君も遠慮したまえ」
 二人の視線が一瞬絡み、お互いの顔から笑顔がこぼれた。
 この二人なら上手くやっていけるだろう。
 彼らの前途に幸多からんことを心から願った。

(8)
ambivalent -side M_R- あとがき

『ambivalent –side M_R-』のあとがきです。
 ここまでお付き合いいただいた方、途中お立ち寄りいただいた方ありがとうございます!目いっぱい感謝をこめてお礼申し上げます。
 拍手やコメントをいただいた方も、重ね重ね御礼申し上げます。

 今回は自分の二次小説の更に二次小説にあたるので、最初は書く気も予定も全くなかったのですが、嗜虐エンド系の小説をいくつか書いているうちに、書きたい衝動に駆られて筆を執りました。
 御堂さんを愛してやまない私ですが、私の中では最もダークで激しい感情を持つ御堂さんです。
 本当はもっと短くあっさりと終わらす予定だったのですが、書き始めるとあれもこれも、どうせなら因果応報エンドも絡めたい、と欲張ってしまいました。
 今回は『Before the Dawn』みたいに克哉に再会する直前で終わらすのではなく、もうちょっと書き込もうと(15)の部分は全て書いてみました。そのついでにどんどん書きたくなってしまい(16)以降も書いてしまい…結果、結局本編の半分以上の長さ(『Before the Dawn』以上の長さ)になってしまいました。
 鬼畜眼鏡はひたすらメガミドに愛を注いでいて、無印はかろうじて全キャラをクリアしたのですが、Rは全く手を付けていないキャラもちらほら…。おかげで、メガミドルート以外のキャラやストーリーはうろ覚えだったり知らないのも…。四栁もうろ覚えだったので、ゲーム内と齟齬があったら本当にすみません。。。
 メガミドルートは克哉も御堂も大好きすぎて、どちらのキャラにも同じだけの思い入れがあります。克哉の物語は御堂の物語でもあり、そういう意味ではお互いの視点で話が書けたのは良かったです。

 嗜虐エンドルートの克哉は自身の行為を深く後悔し、尚且つ御堂を深く愛していたことを認識し、その罪から逃げずに向き合っています。
 この克哉と御堂なら、澤村が登場しても眼鏡に惑わされず、逃げず、御堂を愛し信頼することでスマートに処理して、Best End一直線だと信じています。
(ちなみに、こちらの御堂はGood Endルートの御堂と比べて、佐伯の鬼畜度が弱まっている分、気が強めという裏設定があります)

 嗜虐エンドの二人に限りない愛をこめて。

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